2008年7月26日土曜日

滞英記-2

2007年5月27日
(写真はダブルクリックすると拡大します)
 5月21日(月)ホテルからアパートに移りました。場所はランカスター市の東(やや北寄り)端(ポストコード;LA1の東境界)です。大学はLA1の南東境界にあるので一旦市内へ出てそこからバスで大学に行きます。
<新しい住まい>
 私のアパートはいわば新開発地で、リビングがある東側は高い白樺の並木の先に緑の牧地が広がっています。3階建ての2階ですがこの白樺で残念ながら緑野一望とはいきません。
 こんな場所なのでバスもメインが走っておらず近隣住宅地内を循環する小型バスで市内へ出ます。ただこのバスは1時間に一本で時間もあまりあてになりません(5時が最終で、日曜日は無し)。街へ出るときは下りになるので歩いています(25分位)。帰りは辛抱強くバスセンターで待って帰りますが、時々循環方向が逆しか来ないことがあり遠回りして帰らざるを得ないこともあります(その場合料金が違う!;近い方は80ペニー(約200円)、遠い方は1ポンド10ペニー;山手線も回り方で本当は料金が違うんですかね?)。このバスの主な乗客は住宅地に住むお爺さんお婆さんたちで、歩くのがやっとという人も居ます(因みに年寄りはタダのようです)。そして住宅地内では自宅近くで乗り降り可能になっています。


                  部屋からの眺め
ウィリアムズパークから湖水地帯を望む

私はこの住宅地を出て、メイン道路に面したウィリアムズパークと言う、ランカスター市内からさらに湾を隔てて湖水地帯の山々(と言っても低い丘ですが)を望む(東端にあり西側が一望できる)小高い丘にある公園前で降り、そこから5分位歩きます。バス停からはやや下りで、東側に広がる牧野(なだらかに東へ高くなっていく)を眺めながら帰ります。このところ当地は天候がよく、遅い午後帰ると西にある太陽がこの野原を鮮やかな緑に染め上げます。
<電話加入>
 今週もっとも手がかかったのは電話加入(電話機、回線はあるが番号をもらう)です。不動産屋からブリティッシュテレコム(BT)へのアクセス方法(自宅から150へ電話するだけで良い)を試みたが、返ってくる返事は「あなたのおかけになった番号は見つかりません。もう一度ご確認の上おかけ直しください」と言う録音が繰り返されるだけ。翌日不動産屋に出向き確認したところ、「0800(フリー);800-150で繋がるからこれでやってみてください」。自宅で試したが結果は同じ。公衆電話から試すと初めに自動応答がありやっと人間と会話できるところまで辿り着くが、銀行口座や何やら問われて上手く話が繋がらない。やむなく翌日午前再び不動産屋に出向き、その場で試してもらうと何と繋がることは繋がるが「こちらは大変ビジーです。申し訳ありませんがしばらくお待ちください。出来るだけ早くいたしますから」と言うメッセージが繰り返されるだけ。さすがに手伝ってくれた若い女性も大変さが分かってくる。結局2時間近くたっても繋がらず、一旦あきらめ午後再訪することにする。3時過ぎに再度トライすると15分ぐらいでつながり不動産屋の助けを借りて何とか注文番号を取得するところまで行く。自宅に電話が無いので不動産屋を連絡窓口にしてもらい、48時間以内に番号を連絡するという返事をもらい帰宅(これが火曜日)。
 2日後、木曜日大学へ出かけた後不動産屋に寄るが答えは来ていないとの返事。翌午後再訪と言うことでこの日も実り無し。
 金曜日午後出かけるも状況変わらず。
 夕食を済ませふと思い立ち(ひょっとして回線は生きているが番号の連絡が無いだけではないか?)、電話をかけてみる。何とフリーダイアルがかかる(時間外であることのテープが回っている)。早速インターネットを繋いでみる。繋がった!予想通り回線は48時以内に活かしてくれたのだ。しかし自分の番号は依然としてわからない!
 土曜日(昨日)予定では番号確認に不動産屋に出かけることになっていたが、電話が通じているのでフリーでBTに繋ぎ(例によってビジーで大分待たされたが)注文番号を言い、番号を教えてくれるよう頼んだところ、住所・氏名など確認があったが不動産屋経由で手続きしたため直ぐに回答できないという。今のところこちらからの電話は通じる(インターネットも)ので当面困ることは無い。しかし、二人の友人と英国人の友人から電話をかけたいとのメールが入っている。何とかならないか?不動産屋を煩わせたくない(本来彼らの仕事でない)。
 来英する際携帯(ドコモ)を海外対応に更新しておいた。これはチョッと料金体系が複雑で英国内で使う場合、こちらがかける場合は滞在国内通話料、先方がかける場合は国際電話料金がかかる。そんな訳でこちらにきてから日本とのメール受送信にしか使わないできた。番号不明の固定電話から携帯にかければ着信記録が残るはずだ!この着信記録が私の電話番号だ!早速試してみた。分かった!今度は携帯から固定にかけてみた。チャンと固定に届いた!一件落着です(いまだにBTからは何も言ってきませんが)。
<ゼミが始まりました>
 24日(木)より研究ゼミ(と言っても当面僕の課題?に対応するためマンツーマン形式)。教授はマネジメントスクール所属、名前はMaurice Kirby(左写真)、64歳、家族は息子(独立)、娘(既婚)、夫人の4人家族。Maurice、Hiroと呼び合うことにしました。
既に来英前から何度か研究対象・計画に関してはメールでやり取りしているので、各種関連資料(と言ってもほとんど彼のペーパーですが)を2度目に会ったときに4種、今回2種くれこれを基にディスカッションしようと言うことになりました。内容は全て軍事ORの歴史(第一次大戦から冷戦まで)に関するもので当方の意向ともよく合っています(私の目的;「軍人(意思決定者)とOR組織間の相互理解環境改善」と言う視点ではやや“歴史”そのもの力点がある)。
 今回の資料は;1)第二次世界大戦における英空軍でのOR適用、2)冷戦下ワルシャワ軍対NATO軍の戦術核環境を第二世界大戦のドイツ軍西部戦線電撃戦で英仏・独双方に戦術核が存在した場合どのような戦術展開が在ったかを冷戦時の戦術策定に使われたORをベースに置き換えて検討する研究、です。いずれも私にとっては興味深いものですが、マネジメントスクールの教授としてどんな業績になるのか些か心配です。しかし、イギリス人(社会)の特質に、アマチュアリズム尊重や道楽(興味のあること;競走馬、猟犬、バラなどの品種改良?探検などその例)にのめり込む傾向があることは初期のOR適用展開の重要な因子と考える私にとって彼自身が私の研究対象になってきそうです。
 “毎週木曜昼食を挟んで2時半位まで”が私のための時間なので、研究室に11時過ぎ出向くと、「今日は2時半から学生の試験なので直ぐ飯にしよう」、とマネジメントスクールが経営者研修に使うホテル(最初に泊まったホテル)に行く(レストランではなく軽食も採れるバー)。「何か飲むか?」と問われたので、「じゃあコーヒーを」と言うと、「??私はビールにするよ?」、「??(エッ!)、それなら僕も!(喜んで)」。と言うわけで1パイントの黒ビール(ビターと言う;John Smith’s; Guinnessより軽い)で“ゼミ”が始まる。「学校で昼間からアルコールは許されるのかい?」、「アルコールの問題はイギリス社会で大きな問題になってきている。かつてパブは夜しか開かず終了時間も10時位だった。だから自分の学生時代はラストオーダーの時間が迫ると急いで強い酒を飲んだものだ。しかし今では昼日中から午前3時頃まで飲める。由々しき問題だ(が)」、「学内には数箇所パブがありそこでいつでもビールは飲めるんだよ」。
 この後は今回くれたペーパーを中心に真面目な話をする。
・著書完成までの苦労話(8年を要している)。          マネージメント・スクール
・類似著書について(主として私の方から)。
・(私の)国立公文書館保存資料へのアクセスの可能性;第二次世界大戦に関してはほとんどのコピーがMauriceの研究室にあるのでいつでも見せてくれるとのこと。
・“戦術核とOR”は7月プラハで開催の「欧州OR学会」で発表する。また、11月シアトル開催のアメリカOR学会にも参加する。
・今日の試験の課題となる、陸軍OR組織が1950年代に始めたウォーゲーム(兵棋演習)教科書(写し;多分マイクロフィル拡大コピー)の内容。
・ORの始祖とも言える、ブラケットのこと;戦後ノーベル物理学賞(宇宙線研究)をもらう(これは知っていた)。思想的には“極左”で50年代アメリカ入国を拒否された!英国の原爆開発に大反対。これもあって原子力開発・利用に関してあらゆる関連情報から遮断された。ウィルソン労働党政権で返り咲く、など。Blackettについては研究を進める上で最重要調査事項の一つなのでこれからが楽しみ。(この間彼は1パイントを飲み干したが全く顔に出なかった。私はこの後不動産屋に寄る予定があったので25%位で我慢した)
 さて、支払いの段になりました。ビール、サンドウィッチとコーヒー二人分で23ポンド。「割り勘にしよう」と言ったところ、「今回は私が払うから次回頼む」と言うので任せる。しばらくカウンターで何やらやっていたが、席に戻ってきて「クレジットカードがテクニカルプロブレムで上手く処理できない」と言う。再度カウンターでバーテンと話し合っていたが、戻ってきて「ダメだ!Hiro 済まないが半分負担してくれ」と言うのでチップも含めて25ポンドとし10ポンドを私が負担した。帰路マネジメントスクールの建物を通り抜けバス停のある方まで送ってくれるので、「大丈夫だ。バス停は分かっているから」と言ったら、「いや金が無くなってしまった。ATM(現金支払機;振込み機能は無い)で金を下ろさなきゃならないんだ」 つまり彼は25ポンド(約5000円)の現金を持ち合わせていなかったのだ!自動販売機は全く見かけないのに(唯一どこにもあるのは先払い制の駐車券を買う機械;ただしコインだけです)、街の至るところにATMがあり、いろんな人が並んで順番を待っています。彼らは現金が必要になると少しずつ下ろすのです。

 まだまだ、失敗やビックリを数々体験していますが追い追いご報告します。

2008年7月15日火曜日

今月の本棚-1

「On my book shelf」を始めるにあたって
 ビジネスマンの時代から雑誌や専門書を除いて、年間60冊位本を読んできた。PCを持つようになり講読図書リストは作ってきたものの、読後感のようなものを残してこなかった。このブログ立ち上げを契機に、書物・読書に関わる雑文を記してみることにする。
 ここではこの月読んだ本ばかりでなく、日常生活や個人的な研究(ITと経営、それに関わる軍事システム研究)で最近参照したり興味を持ったものにも触れてみたい。

<今月読んだ本;今回は6月分も含む
1)物情騒然(小林信彦);文春文庫
2)出会いがしらのハッピー・デイズ(小林信彦);文春文庫
3)にっちもさっちも;(小林信彦);文春文庫
4)花と爆弾;(小林信彦);文春文庫
5)「最長片道切符の旅」取材ノート(宮脇俊三);新潮社
6)伝統のプラモ屋(田宮俊作);文春文庫
7)暗流(秋田浩之);日経新聞
8)ブラームスは奥秩父の匂い(齊藤静雄);悠々社
9)大君の通貨(佐藤雅美);文春文庫
<愚評昧説>
1)~4)小林信彦ものは、週刊文春(私は読んでいない)に連載されている時評コラム“人生は五十一から”を一年分一冊にまとめたものである。
 随筆・評論の類は短い稿の中に題材のエキス、筆者の考えがコンパクトに詰まっており、小刻みにしか読書時間が取れない者や気分転換に最適で、昔から私の読書の中で大きな比重を占めてきた。内田百閒(鉄道の旅)、團伊玖磨(音楽、旅、動植物)、山口瞳(サラリーマン、しつけ・行儀)、佐貫亦男(飛行機、道具)、玉村豊男(食べ物、旅)、出久根達郎(古書、下町)、常盤晋平(アメリカ文学)などの他、司馬遼太郎も専ら評論や紀行文に傾倒して読んできた(小説は「坂の上の雲」しか読んでいない)。
 小林信彦に興味を持ったのは、自伝小説「和菓子屋の息子」をたまたま読んだことから始まる(上野界隈で小中高等学校時代を送った私には、似たような友人が何人かいたので)。氏が下町育ちで、その描写は私の交友関係やモノの見方に極めて近いものがあり、親近感を覚えたものである。その後買った「映画を夢みて」で、高校時代観た映画が次々出てくるのにすっかり惹きつけられてしまった。
 私にとって、この時評コラムの面白さは触れたことの無い世界を手短に教えてくれるところにある。古い映画、B級映画、映画監督論、コメディアンとその舞台、その新旧対比や日米対比。森繁久弥や渥美清をすっかり見直してしまった。決め手は“TV時代はもう終わり”であり、これはニュースと天気予報(偶にNHKのドキュメンタリーを観ることはあるが)しか見なくなって10数年になる私に、随分と勇気を与えてくれた。技術的にはともかく、地上ディジタル波でさらにチャンネルが増えるなどますますTV退化が進むだろう。人間使える時間は限られているのだから、考える時間をどれだけ持てるかで中身が変わってくる。視ているだけでは何も残らない。そんなことを、力を入れずに教えてくれるのがこの時評コラムである。
5)「最長片道切符の旅」取材ノートは、鉄道を主題とした多くの作品(ノンフィクションが多いがフィクションもある)を残した宮脇俊三の取材ノートである。故人の遺品の中から見つかったこのノートを忠実に印刷物にしたユニークな書物である。通常の読み物のようにまとまりのある文章で構成されていないところにむしろ臨場感があり、筆者の心のうちを窺がうような面白さがある。
「最長片道切符の旅」は、旧国鉄の全線(連絡船を含む)を対象に、一筆書きの経路を定めそれを走破するもので、当然切符の有効期限がある。従ってそれを実行するには周到な準備が要るが、途上では種々の予期せぬ出来事が起こる。天候異変、健康状態から駅員の無知、下着洗濯の苦労までさまざまな外乱を克服する様子がこのノートから明らかになる。最後にそれが実現された時、読者も一緒に達成感に浸れるのは、「最長片道切符の旅」本文以上のものがある。
6)模型好きが高じてエンジニアになったような私にとって、「田宮模型を作った人々」(2004年文藝春秋社刊)は、模型そのものとは違う模型の世界(模型製作企業経営)を初めて見せてくれたものとして大変印象深いものであった。今回の「伝統のプラモ屋」は、その大幅加筆増補版であり、前半の歴史を語るところはほとんど変わらないものの、後半はこの4年間の変化を盛り込んで、国際化や模型の高度化・精密化を取り上げ、大企業でもここまでは(各国軍事研究機関との交流やF1業界との関係、三次元CADや超精密三次元彫刻機、音響効果)と思われる話が多々紹介され、わが国プラモ業界の力を改めて知らされた。この反作用はコピーの横行である。特に中国は突出しており、40社を超える会社がコピー製品を出しているとか。中国製造業の勃興とコピー問題は至るところで生じているが、実はその影に欧米(特に米国)の悪徳ディーラの存在があることをこの本で知った。田宮の高度な製品を中国のメーカーに運び込み「これとそっくりなものを作ってくれたら、いくらでも引き取る」とやっているらしい。たまたま裁判で勝った時の相手の言い分は「世界一だから真似したんですよ」だったと筆者はあきれている。

 頑張れタミヤ!模型武器輸出は世界ダントツだ!
7)「暗流」は、副題-米中日外交三国志-が示すように、9・11とそれに続く戦争で国際社会における主導権に陰りが見えるアメリカ、著しい経済発展で発言力は増すものの、一党独裁の矛盾も噴出する中国、この二大強国に挟まれて地政学的な存在感を問い直され始めた日本を、両国に特派員(日経新聞)として滞在したジャーナリストが三国(特に米中二国)の外交をクールな目で分析し、日本のとるべき道(選択肢は限られ、覇権国家として正三角形にはなれない。それを基にした四つの選択肢)を示したものである。その四つとは;①日米同盟堅持、対中戦略でも日米協調、②日中接近を加速、協商関係も志向、③防衛力の格段な増強、自力防衛を志向、④非武装中立を宣言、「鎖国体制」に回帰?である。大多数の日本人は①を最も好ましい選択肢と考えるのではなかろうか?私も出来ることならこれを選びたい。しかし、いまアメリカは急速に白人中心・プロテスタント中心から変化しつつある。アメリカ自身が嘗てのアメリカでなくなるとき、①を日本が切に望んでも、片思いに終わる恐れがある。日本にとっての中国問題は実は“アメリカ問題(アメリカの変化を予測し、それに対する戦略を作り上げて置く)”ではないかと最近痛切に感じている。
8)「ブラームスは奥秩父の匂い」は、題名から推察できるように、クラシック音楽(特に作曲家)と山との対比・融合を行った、ユニークな随筆集である。ブラームスは、ベートーヴェンやシューベルトと違い初心者がいきなり楽しめるものでなく、ある程度ポピュラーなものに親しんだ後その味が分かると言う。奥秩父も決して、名山・高山ではないが山の経験を積んだ者にとって、その静かな幽玄の世界は格別の味わいがあるようだ。
 登山もクラシック音楽も私の趣味には無い。この本を手にすることになったのは、筆者の齊藤静雄君が贈ってくれたからである。彼とは小学校6年生の時の同級生で、中学・高校も同じ学校で学んだが彼は医科大に進み、もともとそれほど親しい友ではなかったので、その後は長く音信不沙汰だった。私の知る彼は、この本の一章“僕の革命-ショパン「革命」とマチガ沢登攀”に書かれているように「小中学校時代の僕は、いわゆる蒲柳の質というのか、青白い顔をしたひょろっとした子供で、・・・・」の表現通りの目立たない少年だった。それが1999年(60~61歳)長く休止状態だったクラス会で彼と再会したとき、まるで別人のような逞しい姿に変じていた。大学入学後から始めた登山が、この「革命」を成し遂げたのである。大学登山部、単独行、そしてアメリカ大学病院時代のロッキー、ヨーロッパアルプス、驚くほどの行動力とタフネスだ。
 もともとクラシック音楽の鑑賞は好きだったようだが、寡黙な彼からそんな話を聞いたことはなかった。鑑賞ばかりでなく、この「革命」をピアノで弾くのである!40歳代でマイホームを持つと念願のグランドピアノを購入。2002年にはマタニティ・ハウス(彼は産婦人科医)に本格的な演奏会用のホールを併設してしまった!そしてここでプロの音楽家による定期演奏会を開催しているのである。
 素晴らしい自分史。産婦人科に御用の方は茨城県戸頭医院へ。
9)「大君の通貨」は小林信彦ものを文春文庫のところで探している時、その副題“幕末「円ドル」戦争”に惹かれて購入した。本屋を訪れる楽しみは、このように普段あまり関心のない書物に衝動的に惹きつけられ、未知の世界に引き込まれるところにある。本文の主人公は後の英国公使オールコックと米国公使ハリスであるが、この通貨戦争の隠れた主人公は、この二人から遠ざけられる外国奉行、水野忠徳(ただのり)と言ってもいい。ポイントは銀貨の等量交換(当時のアジアはメキシコ銀貨が国際通貨として流通)と金銀交換比率(日本以外は16対1、日本では5対1)、それに兌換の可否である。
 当時のわが国の銀貨は一分銀と二朱銀である。純度を加味した重量が、同じメキシコ銀貨と等量交換するのが道理と諸外国は主張する。しかし水野は、外国銀貨はただの銀地金と同じで、幕府刻印のわが国貨幣は国内でその3倍の値打ちがあると主張。これが混乱の引き金となり、折角通商条約が発効したのに通商が上手く進まなくなっていく。商人の突き上げを受けた外交官が条約違反を声高に訴え、無能な幕府高級官僚;老中(金銭問題や外国人との交わりは下僚の仕事と心得る)を恫喝し、果ては水野を閑職に追いやってしまう。その間に外国との交流前に決めた金銀交換率に気がついた外国人(商人出身のハリス自身を含む)が小判漁りをして大量の小判が国外流失する。
 ハイライトは、オールコックが本国に送っていた報告書と彼が一時帰国する際、水野の影響を受けたと思しき外国奉行が本国政府に託した、“銀等量交換比率を以前のように三対一に戻して欲しい”と言う文書が英大蔵省専門家の目に触れる。彼は、当時の幕府の貨幣政策が今日の(非兌換)紙幣に相当する考え方で、これによって幕府は巨利を得て財政の健全化を行っていることを喝破する。「日本には優れた財政家がいる」という彼の説明を、医師出身のオールコックは始め理解出来ない。やがて全容を知ったオールコックは既に校正済みの著書「大君の都」の終章に、こっそり通貨問題の言い訳を付け加える。
 徳川幕府瓦解の主因は志士が活躍する尊皇攘夷ではなく、この通貨政策の失敗による財政破綻であったというのが著者の意図である。あの時代にこんな人が居たんだ!司馬遼太郎には全く書けない世界である。

2008年7月12日土曜日

滞英記-1

「滞英記」公開に当って
 1962年来45年間にわたり、石油・石油化学の計測・制御・情報(広義のIT)分野に携わってきた私は、2007年3月をもってビジネスマン生活を終えた。長くこの分野に関わってきて常にフラストレートしていたことは、経営の意思決定の場においてITに基づく決断が今ひとつ思うように展開できないことであった。このような環境を少しでも改善したいと言う思いは40歳代の後半からあり、そのためにいつの日か第二次世界大戦で英国を中心に重要な軍事作戦意思決定に大きな役割を果たした、オペレーションズ・リサーチ(OR)の歴史を辿ることにより、そのヒントが得られるのではないかと考えるようになった。
 具体的準備活動として文献調査を開始したのは1990年代の初めからであるが、本格的に動き出したのは2005年に英ランカスター大学経営学部教授のモーリス・カービー教授の著書「Operational Research in War and Peace」に行き当たってからである。当時のOR学会会長今野浩先生のご紹介で東工大大学院社会理工学研究科木嶋研究室の研究生となり、ランカスター大学から正規の客員研究員資格を得たのが2007年初め。しかし、現役の大学職員でないことを理由に、渡英直前英国大使館から研究者ビザを発給してもらえず、止むを得ずカービー教授の個人研究生として渡英することになった。本報告は、もともと彼の地での暮らし振りを、日常生活を中心に自分の生活記録として残すことを第一目的にし、親しい友人達に近況報告を兼ねて週報(19報)としてお送りしてきたものである。


(写真はダブルクリックすると拡大します)

Letter from Lancaster-12007年5月19日

 5月8日に成田を発ちヒースローで入国(ここの手続きで最初のトラブル)。乗り継ぎの国内便でマンチェスターへ(1泊)。
<入国トラブル>
 出発前に一部の方にはご報告のように、客員研究員としての“Academic Visitor Visa”が取れなかったので観光ビザ(ビザ無しビザ)で入国した。入国審査官(女性)から「ようこそ!何日滞在?」と聞かれたので、「観光と個人的な研究で6ヶ月滞在したい(周辺ヨーロッパ諸国も行くつもりで;状況によって一時帰国も)」と答えたところ、態度急変!根掘り歯掘り聞かれ、学ぶ予定の著書まで調べ、子供の所在(英国に居ないことの確認)、挙句は所持金まで聞かれ(適当に大金所持を言ったら目を剥いたが確認は無かった!)、最後に帰国航空券を見せOKをくれたものの、「出たり入ったりはダメよ」で何とか入国。 その後国内便でマンチェスターに行き、いかにも英国風なホテルで最初の夜を過ごしました。
 翌日ここからレンタカーでランカスターに行き、10日師事する先生(Kirby教授)に会い今後の研究計画(事前にこちらの計画案を送ってあったのでその確認に近い)を話し合い、毎週木曜日に勉強会を行うこととなりました。先生は64歳、相当の軍事オタクで、初対面で見せてくれた資料は英陸軍の1946年に始まったOR利用に関する議事録(コピー)であった。
 直前に発生したビザの問題で学校での正式身分が取得できぬため、諸事自分で処理しなければならなくなりました。それでも先生は学内のゲストハウスに入る可能性を当たってくれたのですが、資格は問題ないものの夏休みを控え各種セミナー・研究会が目白押し(湖水地帯をひかえこの種の活動に大変人気がある)で今からでは部屋が取れないことが分かりました。そんな訳で、到着来部屋探しに明け暮れる日々です。最初のホテルは1日延泊出来たもののその後は満室、止むを得ずホテルを変えて不動産屋を当たることに大半のエネルギーを使いました。不動産屋への紹介状など先生には個人的に大変お世話になっています。(市内を貫通する運河と教会)
 フルファーニッシュ(家具・生活用品完備)、短期在住予定、外国人で年金生活者は結構ハンディキャップで、当初は捗々しくない感じでしたが紹介状と最後の切り札(横河で英国事務所開設にご苦労されたNさんのアドバイス;デポジットを含む6か月分全額先払い!)でやっと昨日(18日)契約が成立しました。環境の良い(むしろ少し静か過ぎる)築7年のアパート(二つの寝室;と言っても一室は書斎でソファーベッド、リビング・ダイニング・キッチンが一室になったもの)に月曜から移ります。
 契約時に電気・水道・ガスは生きたものの、TVライセンス(NHKの受信料に相当)取得手続き(これは一応済んだ;不動産屋は郵便局と言ったがそこではなくニューススタンド;町の新聞屋だった)や電話番号取得(ブリティッシュテレコム;BT)など不動産屋のやってくれないことも多々ありまだまだ雑事に追われそうです。 (中央玄関入って2階左が我が家)
 加えてインターネット接続(電話回線経由)に下記のような問題を生じホテルを出るとしばらく皆さんとメール交換が出来なくなる可能性があります。
<インターネット接続トラブル>
 最初のホテルでアダプター(英式は6線式、日米式は4線式)を用いてニフティの英国接続ポイントにアクセスしたが全くレスポンスが無い。ここへのアクセスは日本から国際電話を通じてテストをし、接続(完全ではないが)を確認しておいた

 しかし、2番目のホテル(ホリデイイン)で壁のジャックは英式だが電話機側が日米式ジャックなのでこれを用いたところうまく接続が出来た。このケーブルがあればイギリス国内でどこでもアクセスできるので、マネジャーに譲ってもらうことを交渉した。その際彼は、電話関係設備は全てBTのものなので即答できないが、どこかに予備が無いかどうか当たってみることを約してくれた。 しかし、昨日これがホテルとしては入手不能と答えてきた(ただ、このようなPC周辺機器を扱っている店2件を紹介してくれた)。
 そこで再度インターネット接続を日本から持参したアダプターで試みたが状況は変わらない。よく調べてみると、英式は6溝、日米式は4溝である。ホテルで使われているモジュラージャックはこの6線全部に配線がされている。この内のいずれか4線を選んで日米式と繋がるようになっている。日本から持参したアダプターは英式部に6本の溝があり中4線に配線がある。どうやら英国の活線は中4線では無い可能性が高い(日本のアダプター製作会社はこれを良く調べたのだろうか?)。この地で適当なモジュラーケーブルを求める必要がある。
 それでも土日があったり、不動産屋も物件案内が立て込んでいたりで結構時間はあります。最初の土曜日はランカスターの海岸リゾート地帯、モアカム(ここにもキャンパスがある)に出かけたり、日曜日には湖水地帯の中心地、ウィンドミアに出かけピータラビットやワーズワースの世界を日帰りで垣間見てきました。ここでまたトラブルです!ホテルに帰り所持品をテーブルに並べたところ、国際運転免許証が無い!どこを探しても無い!どうやらドライブ途中で落としたらしい! (ワーズワース終の棲家)
<中小都市>
 ランカスターは人口約4万5千、今は大学が最大の産業(?)、モアカムを含めると各部学生6千名の他院生、職員など関係者総数は約1万5千人に達するようです。そんな訳で中心地も至ってこじんまり、治安も良く人々も総じて穏やかで親切です。
 免許証紛失の翌日、不動産屋を訪ねた後ランカスター警察署に寄って見ました。訪ねるとオフィスは無人、何か銀行のカウンター(窓口にいろいろなクレジットカードのマークが張ってある)のようなものが在るだけです。何度か声をかけたらやっと人が出てきたので、「ここは警察署でしょうか?」、と問うと「そうです」との答え。そこで件の免許証紛失を話したところ、「本署には何も届いていませんが、ウィンダミア署にあるかもしれませんね」、 「そこの電話番号を教えていただけませんか?」、「しばらくお待ちください」受付窓口からは見えない事務所で電話している声が聞こえる。しばらくして担当警官があらわれ、「あなたのお名前は?」「XXXXです」、「ちょっと待ってください」(再度事務所に消える)。ニコニコしながら現れて、「ウィンダミア警察署に届いています!」。翌日車を飛ばしてウィンドミアへ。警察署はまるで西部劇の保安官事務所、パスポートを見せると直ぐ免許証を渡してくれました。聞くと、この町は湖水地帯観光の中心地であるため、毎日多くの日本人が訪れており定宿も決まっているようです(四星)。拾った人がこのホテルに届け、該当者がいないのでホテルから警察に届けられたとのことでした。JALパックさん、JTBさん有難うです。
 組織に属さず・ツアーでもなく外国を旅するのは初めてですが、失敗を重ねながら何とかスタートしました。次回はインターネットの課題が解決次第近況をご報告いたします。
ではまた!

ランカスターにて