2008年9月30日火曜日

今月の本棚-9月

On my book shelf-3

<今月読んだ本-9月>
1)東京少年(小林信彦);新潮文庫
2)阿片王-満州の夜と霧-(佐野真一);新潮文庫
3)ローマ人の物語 32,33,34-迷走する帝国-(塩野七生);新潮文庫
4)文豪たちの大陸横断鉄道(小島英俊);新潮新書
5)成功の主役は「脇役」だった(嶋田高司);早稲田出版
<愚評昧説>
1)東京少年;第一回に取り上げた、好きな小林信彦物。前回の一連のエッセイが現代時評であったのに対し、今回は疎開をテーマにした自伝小説である。昭和19年の夏休みから20年12月まで、著者が国民学校(今の小学校)の6年生から中学一年生までの社会も自身(肉体も精神も急変する)も特異な時期の体験をベースに綴っている。
 地方には近しい縁者のいない、三代にわたる江戸っ子の、最初の疎開は学童集団疎開で、疎開先は埼玉県飯能からさらにバスでしばらく入った田舎のお寺である。最上級生で、そこそこ出来の良い著者はまとめ役を仰せつかるが、今までとは違う生活環境下でリーダーシップを握るのは荒れた生活を日々体験してきた、貧しく、腕力や悪知恵の利く連中であり、著者は孤立していく。早熟な子なだけに、大人たち(引率教師を含む)の言動を冷ややかに見つめる態度も、更なる孤独をもたらす。東京への帰還を願う思いが募る。それまでの空襲で東京に残ったそれぞれの家族にも異変が生じつつあり、集団疎開解散の日が近づいてくる。運命の3月29日(東京大空襲)、その日が帰る日と決まるが、準備が間に合わず、自宅は消失するものの奇跡的にこの戦火を免れる。
 次の疎開先は、母親の遠縁に当る新潟県高田の農家になるが、今度は家族(両親、弟)疎開である。著者は東京の中学に合格していたが、戦災で学校が閉鎖、地元の高田中学の生徒になっている。先の集団とは違い家族そろっての疎開は家の中にいる限り、一見平穏な毎日だが、学校や町ではよそ者の悲哀を味わうことになる。そして、家庭内でも、実は生活力の無い父親の姿を知ることになり、微妙な年頃だけに父への反感・絶望が、帰郷願望と重なり、鬱々とした毎日を過ごすことになる。
 最後は母親の才覚で、焼けずに残った青山の母の実家に向かう、上野から青山に至る地下鉄の停車駅毎に匂いをかぎながら都会への帰還を実感して終わる。
 疎開・戦災と敗戦・引揚げ(満州)、そして年齢(私はこの年国民学校1年生)の違いはあるものの、この混乱期における生活破壊と望郷の思い、帰還の安堵は共通するものがあり、久々にあの時代の雰囲気に浸かった。
2)阿片王;この本は、水泳仲間のSさんが、満州育ちの私にと貸してくれたものである。“満州物”は随分読んできたが、専ら政治・軍事物であった。政治・軍事が満州の表舞台とすれば、これは当にそれを支える舞台裏と言える。阿片戦略なくして、満州国や南京政府の財政、また関東軍や支那派遣軍の作戦遂行は成立しなかったことをこの本で知った。
 里見甫という男(極東裁判でA級戦犯→無罪放免)と彼が作り上げた阿片シンジケートは、遠くはペルシャまで阿片調達を行い、これを既存(中国暗黒組織)の阿片流通ルートを通じて満州・中国に流し、莫大な利益を得ていた。この利益は傀儡政府・軍部に還元され、大陸における日本の政・戦略を維持するために使われてきたのである。
 彼が他の胡散臭い御用商人達(笹川良一、児玉誉士夫)の存在と異なるのは、私腹を肥やさなかったところにある。本妻に家を残したことを除けば、手にした金も組織の活動が円滑に進むよう使われたようだ。最後に東京で住んでいた家も他人名義のものであるし、晩年生まれた長男のために、彼の死後嘗ての関係者(岸信介を含む)が奉加帳を廻して育英資金を募ったほどである。
 この本の後半は彼を巡る“女”に大半が占められている。本妻を含め多数の女性が登場し、筆者は盛んだった女性関係から、謎の多い“里見像”を明らかにしようと言う意図があったものと思われる。ただ、個人的な感想は“くどい”の一語である。ただ、ここで筆者の意図を勘ぐれば、満州帝国史の主役、皇帝溥儀と里見との関係をなんとでも繋ぐために、梅村(北支から奉天に逃れる途上滞在した旅館の女中頭)と言う女性の存在・役割を明確にしたかったのかもしれない。
 それにしても、ノンフィクションとしてのテーマ、調査、考証などさすが一流のノンフィクション作家の作品、読み応えのあるものであった。
3)ローマ人の物語-迷走する帝国;シリーズ累計600万部の超ベストセラーである。ローマ帝国の誕生から滅亡まで、既にハードカバーは完結している。内容紹介は端折るが、文庫本32~34は在位期間の短い軍人皇帝が続出する紀元3世紀の物語である。何やら頻々と総理大臣が変わるわが国の現在を思わせる。
 ここではこの大作を書いた塩野七生について、私なりの見方を紹介したい。塩野七生の著作に始めて接したのは1994年で、「サイレント・マイノリティ」、「イタリア遺聞」の2冊(文庫本)からである。いずれも評論・随筆で、イタリアについての深い知識・見聞を基に現代社会・政治・文明批評を展開するところに興味を惹かれた。そこでそれに続く小説3部作「レバントの海戦」、「ロードス島攻防記」、「コンスタンチノープル陥落」を読んでみた。率直に言って評論・随筆に比べ期待外れだった。なんと言っても小説としての盛り上がりを欠くのである。ただ、これらの作品を“ノンフィクション的”に読むと、それなりの面白さがある。例えば、船の構造や土木工事などエンジニアリングの面で“そうだったのか!”と言うような細かな説明が丁寧に書かれ、好奇心を満たされることがしばしばあった。そんな訳でその後はこの人の書いたものを長く読んでいなかった。
 ローマ人の物語が始まったとき、書店でパラパラと眺め、これが例のノンフィクション的小説とでも言うようなスタイルだったことから、あの3部作を思い出し、またハードカバーのシリーズ物であることにも抵抗があって購入しなかった。しかし、“すべての道はローマに通ず”の巻が出たとき(2002年2月)、あのエンジニアリング・ノンフィクションをもっと知りたいと購入した。詳細な説明に加えて、それが政治・経済・文化に波及する様が面白く描かれている。題材に対する入念な調査、作家としての年輪があの3部作とはまるで違った作品になっており、あらためて第一巻から読んでみたいと思うようになった。幸い、同じ年の8月に文庫版がスタートそれ以来発売を待ちかねる日々が続いている。
 ローマ人の物語は、著者の登場人物(執政官、皇帝、それを巡る人々)への思い入れが強くそれがこの長編を面白くしている鍵であるのは間違いない。特に、カエサルへの尊敬・思慕は“身も心も”という感じで盛り上がる。それだけに、司馬遼太郎同様、小説の内容イコール歴史と言う誤解を読者に与えかねない危うさが在る。大半の日本人にとってそれまでのローマ史は受験の世界史を出なかっただけに、この著作によるローマ史観がわが国において正史になってくるような気がする。もう一つの面白さは初期の随筆などに見られる、ローマ史・イタリア史から現代日本社会(政治・経済・国際関係など)を見る目が、読書の読み方次第で、ふんだんに出てくるところにある。時間をかけて熟成した材料を鋭い観察力で批判する姿勢が好ましい。
 “迷走する帝国”の巻(文庫本では34巻)で特筆したいのは、最終章の“ローマとキリスト教”を書いたくだりである。何故キリスト教はローマ社会に浸透して行ったか、を先人の研究を交えながら解説し、著者の仮説を(1)偶像崇拝、(2)割礼、(3)帝国の公職と軍務、(4)グレイ・ゾーン、に求めてその普及を説いている。中でも興味深いのが(4)のグレイ・ゾーン説で、ローマが多神教であったことから、戒律の厳しい宗教(ユダヤ教)との違いに着目している点である。同じキリスト教でも白黒を明確にしたがる宗派・指導者の時に迫害が起きていると言うのは納得できるところである。
 あるイタリア通の先輩に「この小説が英語で書かれたらノーベル賞ものですね」と言ったら、「ノーベル賞はどれだけ世のため人のためになるかが決め手だから無理だろう」との返事が返ってきた。私は、川端康成や大江健三郎の作品に比べてその点で遜色は無いと思うが如何なものであろうか。
4)文豪たちの大陸横断鉄道;筆者は元商社マンであるが、鉄チャン(鉄道ファン)でもあり、既に鉄道に関する著書を何冊か出している。本職以外にのめり込む様な趣味を持つのは英国人の好むところだが、私の好みでもある。鉄道と旅行の組み合わせ、それに歴史の味付けとくれば見逃すわけにはいかない。夏目漱石、志賀直哉、里見弴、永井荷風、林芙美子、横光利一、野上弥生子など錚々たる作家が、満鉄、シベリア鉄道、アメリカ大陸横断鉄道、ヨーロッパ各国の鉄道に乗り、車内、車窓、立寄る土地どちを語る様子は、海外旅行が洋行と言われた時代とそれぞれの書き手の人柄を浮かび上がらせ、小説とは違った当時の世相が味わえる。
 中でも面白かったのは、林芙美子のシベリア鉄道を利用したパリ行きと、夫の交換教授プログラムに付いてロンドンに赴いた野上弥生子が欧州旅行中ドイツのポーランド侵攻に遭遇、避難船(当時は日本は中立なので交換船ではない)でニューヨークへ渡り北米大陸を横断する旅である。
 芙美子は満州里まで満鉄で行きそこからシベリア鉄道に乗り換えるのだが、満州里領事にモスクワの広田大使宛の外交文書を託される。ソ連時代の難しい時期にこれを行う芙美子は、自分を当時の人気女優、マレーネ・ディトリッヒ演ずる「間諜X27」に模して、その様子をやや緊張気味に書き残している。シベリア鉄道はモスクワで終わり、その後はパリへ向かう列車に乗り換え、ポーランド国境、ドイツ国境、そしてフランス国境を越える度に、人々の表情や町並みに明るさが増す様を描いているのが、彼女の前向きな生き方にオーバーラップしてくる。
 この時代の日本人は、留学生、外交官、商社マンなどを除けば外国語に通じているとはとても思えない。芙美子はシベリア鉄道の中でロシア人と拙いカタコトで話したことを残している。またベルリンからパリへ向かう列車内で、今の不景気が相手の国の政治にあると独仏の労働者が互いに相手を非難しあっていると書いている。芙美子はドイツ語やフランス語が分かったのだろうか?
 弥生子のニューヨーク第一印象は船から見た林立する摩天楼の夜景である。その美しさに息を呑む。当時の欧州人からは世界一殺風景な都市と蔑視され、それは弥生子にも先入観として刷り込まれるのだが、避難船から見た夜景はそんな予想を一気に吹き払ってしまう。私も何度かニューヨーク郊外から夜のマンハッタンへ近づく機会があったので、その強烈な衝撃はよく理解できる。弥生子のニューヨーク観で印象的なのは、この摩天楼の街が爆撃され、ビルが倒壊していく様を想像して書いているくだりである。これは欧州の戦乱が始まり、大陸旅行中避難船に向かうためボルドー駅に到着した時の、灯火管制で真っ暗闇となった大都会を体験したことから来ている。不夜城のマンハッタンが欧州から来たものには、既に信じがたい存在になっており爆撃が咄嗟に浮かんだのかもしれない。そして、それは60余年後9・11同時多発テロとして現実になったのである。文豪の世界がこうして今日につながった。
 仕方の無いことだが、文豪たちは鉄道そのものや鉄道車両には余り興味を持たないのが少し残念。
5)成功の主役は「脇役」だった-私のアメリカンドリーム-;ビジネスを引退した今、このような本を手にすることもないのだが、著者が義弟の大学(そしてボート部)の先輩であったことから贈られた。著者紹介を見たら、何と生年月日が一緒だった!同じ年の人生には格別の興味が湧く。
 ここで主役とは“才能”のようなものを意味し、脇役とは“習慣や癖”と筆者は定義している。つまりビジネスマン(更には社会人)としての成功は、持って生まれたものより、心掛けて改善する習慣にあると言うことである。この人のバックグラウンドが教育学博士にも拘らず、アメリカでビジネスのチャンスをつかみ、製造業を起業し、長期に優良経営を続け、会社を売却して一線を退き、出身校(テンプル大学)の役員を務め、個人名の奨学金を提供するまでに至るプロセスを、この「脇役」を中心に体験的に綴ったものである。
 アメリカ留学(特にMBA)でチャンスをつかんだ人の成功物語は、往々にして何か“ギラギラ”したものを感じるが、ここではそれが無い。会社売却に際して、仲介したコンサルタントが「会社の社長への依存度が低いほど高く売れる」と言い、実際彼の会社をコングロマリットに高値で斡旋してくれた話は、会社経営に携わった者として、なかなか含蓄のある言葉だと感じ入った。ビル・ゲーツはやっと引退の道が見えたが、スティーブ・ジョブス(アップル・コンピュータ創設者)は一旦退いた社長職に再度戻り、いまだに一線で活躍している。二人とも、あまりにも優れた「主役」が超長期公演しなければならない環境なのだろう。

2008年9月28日日曜日

滞英記-8

2007年7月10日

 当地もようやく天気回復です。ウィンブルドン決勝、英国F-1グランプリ(この盛り上がりは日本とは比較になりません)は晴天下で行われました。
先週はBBCのパレスチナ特派員;アラン・ジョンソン氏が4ヶ月ぶりにイスラム過激派(Army of Islam)から開放されたことが一番大きなニュースです。
 ここ数週間を通じたニュースは、テロ関連を除くと、ブラウン政権誕生、水害そして直近は公定歩合の引き上げです(確か、引き上げ後5.7%!円安が進むわけです)。この三つが大きく関わる共通の話題は“住宅問題”です。そこで今回は身近な住宅事情をお知らせします。たった2ヶ月の、それも田舎暮らしですから“英国住宅事情”としてはかなり偏った見方であることはお許しください。一つは私の<身近な住宅事情>、もう一つは<Building New Life >と言うユニークなTV番組についてです。

 研究のほうは先週お知らせのように、Mauriceがプラハで開催の学会に参加のため休講です。彼からはこの研究発表のペーパー:<もしドイツの西方電撃戦時(1940年6月)戦術核が双方(英・仏連合対独)にあったら;英陸軍が東西冷戦時NATO軍対ワルシャワ軍対決を、ORを使い研究した結果を踏まえて>を貰っており、これをテーマに話をしたいと言われています(つまり論文を読んでおけと)。
 このレポートをお送りしている東燃の先輩から、“チャーチルが推薦文を書くような権威ある著者が書いた「Adventure Oil」と言う本に、D-Dayに先立ち英仏海峡にパイプラインの敷設を行い、上陸後速やかにガソリンの補給を行ったと言うくだりがある。機会があったら教授に確かめて欲しい”とのお便りをいただきました。Mauriceもこの話は知らないとのことでしたが、“この本に何か関係することが書いてあるかもしれない”と貸してくれた「Most Secret War」と言う本を読みました。これは題目から想像するような“戦争キワもの”ではなく、オックスフォードで物理を学び軍事面での赤外線利用研究をしていた関係でMI6(Military Intelligence Section6;007で有名なMI5は政治関連諜報・謀略を主にし、6部は純軍事諜報・謀略活動を行う部署)の空軍部科学主査となった、R. V. Jonesと言う人(戦後アバディーン大学教授、Sirの称号を貰う)が、ドイツとの科学戦(特に電波戦)について書いた本です。政治家・軍人が科学者とどう関わり、意思決定をしていくかが、具体的課題(例えば、D-Dayに備えてのドイツレーダー網の調査や無力化策)ごとに書かれ、それらの重要課題検討での戦争指導会議(チャーチル主宰)の雰囲気が生々しく描かれています。加えて、筆者が、チャーチルの友人であり彼が科学アドバイザーとして重用(寵愛?)したリンデマンおよびOR生みの親;ティザートと極めて親しい関係にあり、かつ両者にニュートラルに接している人物であったことを、この本を通じて知ることが出来、“ORの起源に学ぶ”と言う研究テーマに新たな視点を与えてくれました。

<身近な住宅事情>
1)全体的な住環境
 ブラウン内閣は総選挙の洗礼を受けていないため、近く選挙が行われるようです。それに備えて与野党とも国民に向け具体的な政策提案を行っています。その中でも大きな話題は住宅建設です。現在の英国は古い住宅が多く(特に大都市は問題が多いようです)、また移民などが劣悪な環境に住まざるを得ないこと(これがテロや犯罪に繋がると言も見方を含めて)も、多く住宅の更新・新築が強く望まれている背景です。潜在実需は23万戸/年と言われていますが、政府は20万戸を目標に掲げています。これは建設実績16万戸との兼ね合いや予算から来ていると思われます。このような実需ギャップから不動産投資はバブルの様相を呈しており、それが今回の公定歩合引き上げに繋がっています。部分的・一時的ではありますが、水害も建築関連のバブル加速要因になっています。
 金利上昇影響の具体的な例としてBBCが取り上げていたのは、若い夫婦で子供(赤ん坊)一人、昨年購入時ローンを組んだ時は400£弱(現在の為替レートで約10万円)/月の返済が、その後今回を含め2回の利上げで470£位になると嘆いていました。就労事情が厳しいこの国では結構負担になるだろうと推察します(大学出立ての公立学校教員の年収(税込み)は1万£(250万円位)/年と聞いたことがあります)。
 ホテル代の高さのみならず、今やロンドンは世界で一番物価の高い都市と言われていますが、日本が嘗て体験したように不動産価格の上昇は他の物価上昇に直接効いてきますからそれを反映した結果でしょう。
2)ランカスターの町と住宅
 ランカスター市の人口は約4万4千人と言われています。これらの人が全部市街地に住んでいるわけではなく、周辺部を含めた人口です。特に多いのは大学関係者ですが、学生・研究者のかなりは大学構内・周辺部に住んでおり、その辺りは市街地とは様相が異なり個人住宅は見かけません。街とそれに繋がる一帯が住宅問題を語る対象地域になります。
 ランカスターの市街を大雑把に説明すると;
 北側を東から西へLune川が流れています。この川の名前がランカスターと言う名称の基だそうです。この川から3Km位南までが市街の南限になります。このさらに南に大学があります。
 市の中心部はマーケット地区と呼ばれ、川から100m位のところから始まり南へ200m位幅は東西100m位の地域です。この地区は南北に走る国道A6が南行き・北行きがそれぞれ一方通行のためできた川中島の感じです。Lune川があるためA6は市街北側ではしばらく川と並行して東に向かい対岸に渡ります。商業施設は殆どこの川中島の中にあり、バスセンターもここにあります。川中島東側を通るA6(南行き)の直ぐ外に市役所・裁判所・図書館などがあります。また、西側を北行するA6の外には郵便局や電話局などがあります。この商業地域には殆ど住宅地はありません。住んでいる人はここで商売をやっている人くらいでしょう。
 鉄道はA6と並行してそのさらに西側を走っています。駅は商業地区を少し離れた(300m位)北西方向にあり、周辺に商業施設はありません。駅とマーケット地区の間の高台にランカスター城(砦)とランカスター修道院があります。ここが第一のランドマークです。
駅の西側(特に北西側)は工業地帯と呼ばれ、昔は栄えたと所のようですが現在は廃屋や倉庫のような施設があるだけです。再開発は工場ではなくスポーツ施設などになっています。しかし、ここには取り残された工場に隣接して場末感漂う住宅地があります。
歴史的には道路・鉄道と物や人の往来に重要な役目分け合ってきた運河が町の南西から東北に向けて官庁区画の後ろを横切っています。
 町の東側は市街からなだらかな上りになっており、その頂上にウィリアムズパークと言う広い公園があり、その一番高いところにアシュトンメモリアルと言う19世紀に財をなした人が建てた、ドーム状の大きなホールがあります(住居はない。現在は結婚式などに利用)。ここの公園からは市街はもちろん、湖水地帯まで遥かに望めるのでホールは第二のランドマークです。
2)住宅地・住宅
 主たる住宅地は、北が川で遮られているので、商業・官庁区画および鉄道の外側、つまり東西南に広がってあります。西の住宅地区には足を運んでいません。商業地区・官庁区画の外延(特に東側)とLune側沿いには4階建てのアパート(フラット)が数多く見られます。市街の運河沿いにも同じようなフラットがあり、再開発で建設中のものもあります。これらフラットの外観は日本のアパートと大差ありません。違いは石積みを模したプレファブ壁を使っているところです。中庭があってそこに専用駐車場などがあります。このような建物の周辺は教会やオフィスビル(と言っても3階までの石積み)などがあって比較的大きなブロックで区切られています。その先にあるのが英国の個人住宅を代表するタウンハウス(棟割長屋)です。何軒もの形の同じ家が壁を共有して並んでいく。キチンと整地し長方形に並ぶのではなく、地形に合わせて段差を作りながら建てられるので写真でおなじみの特徴のある景観が出現します。共有壁の上には何本の短い煙突が立っています。6本、8本、10本と(二戸分なので偶数となる)。これは昔の暖炉の名残、この数で大体部屋数が分かる。今は(ほとんど)使われていないこれらの煙突は先のほうが欠けてしまっているものもあります。
 諸条件(主に経済的な)によってプロット(庭を含む)、大きさ、外装(内装は入ったことが無いので分からない)は異なるが、概ね一戸(一世帯)の作りは、低い塀と鉄製の門、わずかな前庭を経て玄関に至る、外壁は年代の入った薄茶の石、黒味を帯びた部分もある。玄関を入ると半畳ほどの空間、その先にまたドアーがある。そこを入る(ここからは不動産屋にあった間取りからの想像も含む)と直ぐに客間があり玄関の横に出窓がある。奥はキッチン・ダイニングそれにバスルーム。二階には寝室が幾つか、屋根裏部屋があるケースも。また、半地下の部屋が歩道から覗けるような構造もあります(これは市街地中心部)。一階のキッチン・ダイニングの先はバックヤード(裏庭)でここに洗濯物を干す(あるいはささやかな庭園など)。これが何セットも接してあの光景を作り出すのです。門扉の外は歩道さらに車道となる。バックヤード側も道路になっている地区はかなり街の中心を外れてからで、通常街中ではバックヤードを背中合わせに同じ長屋が続きます。そして道路の前にはズラーッと年季の入った小型車が駐車しています。道路を隔てて同じようなテラスハウスが続くので、車道の有効スペースは小型バスが通るのがやっと(もちろんバスなど通れないところもある)。
 同じようなテラスハウスでも少し観察すると中に住む人間像が見えてきます。先ず場所、工場(跡地)に隣接するようなところから、公園に面した明るい場所や見晴らしのいい場所まで。次は前庭の奥行きです(これはかなり住宅の格、中に住む人の生活を想像するのに重要なファクター)。ここがそこそこあると小庭園など造れるので、国道沿いでも上品な感じがします。三番目は何戸で一棟(?)を構成するかです。最小構成は一棟二戸。しかし二戸とそれ以上では大違い。チョッと見は戸建。車は前庭か自宅内の車庫へ収まり路上駐車が無くなります。三戸、四戸もあるが、圧倒的に多いのが十数戸で一棟を構成するものです。こんな家並みの中を通るバスに乗ると(私の家へはこうゆう所を経由してウィリアムズパークで降る)住民のおじさん(おじいさん)・おばさん(おばあさん)と一緒になる。どう見ても労働者階級の高齢者・引退者と言う風情です。このバスをウィリアムズパークより先まで乗ると(一度逆周りで帰った時に知ったのだが)、比較的新しく出来た住宅地に入ります。景観がまるで違います。望遠レンズで撮ると波打つようなあの独特の風景とは無縁になります。日本の新興住宅地とも違い、道も適度に曲がりくねり、整然としていないところが良い。彼らは日当たりにあまり拘らないから、こんなプロットが可能なのかもしれません。ここは芝生の広い前庭がある二戸一棟の家が多く、車庫や駐車スペースが自宅内にあります。一戸建ても入ってきます。周辺は緑も多く、明るさが違ってきます(ただし自宅内に大きな樹木はありません)。棟割長屋街で降りなかったおばあさんたちの雰囲気もやや知的な感じがしてくる。しかし、家そのものは重厚さを欠きアメリカの郊外住宅地に似た風景になる(外壁の石は貼り付けだと直ぐ分かる。多分その裏はブロックでしょう)。
 伝統的な英国様式(特に本物の石造り)を残し、かつ広さや環境に優れた住宅は無いのか?そんな気持ちで街を徘徊していると、「ありました!」。運河に沿う一帯の商業地区に近いところは、もとは倉庫などあったようですが今はその役割を終え再開発の対象地区。アパート建設が進められています。しかし、商業地区を少し外れて運河に沿う遊歩道を歩いていると、瀟洒なテラスハウスが適度な間隔で現れる所へ出ました。一戸分の幅が先ほどの棟割長屋とはまるで違います。運河側がバックヤードのなるわけですが居住者も運河を眺める生活をエンジョイしたいのでしょう、遊歩道からそれぞれの趣向を凝らした庭を眺めることが出来ます。晴れた日の午後、その庭でアフタヌーンティーや黒ビールを楽しんでいる人々を前に、ゆっくり進んでいくこれまた個性豊かなナローボート(運河を旅する人の細長い舟)。こんな風景は日本では無論、アメリカでも見られませんね。でも更に先に進むと対岸は人工的な護岸が無くなり牧草地がそのまま運河に接してきます。牧草地には羊、運河には白鳥を始め水鳥たちが餌を啄ばんでいます。こちら岸もテラスハウスが途絶え、車道を隔てて牧草地です。対岸の牧草地が終わった所から、よく手入れの行き届いた芝生に花々や植木を配した庭園を持つ素晴らしい家々が現れました。大きな窓から庭園・運河・遊歩道・牧草地を眺めることの出来る豪邸(日本人の感覚で)です。運河に繋がるボートハウスのある家もあります。ナローボートで旅する人もワンショットするほどです。これが街の中心部から歩いて20分位の所です。イギリスで一度目にしたいと思った風景が眼前に現れ感激しました。
 究極の英国住宅(?)は広大な敷地・趣向を凝らした庭・城のような屋敷;カントリーハウス、マナーなどに行き着きます。残念ながらランカスターにはこのような大邸宅はありません。ただ湖水地帯に日本のガイドブックにも紹介されるほど有名なマナーがいくつかあり2ヶ所を訪問しました。パレスと呼ばれるようなマナーとは規模も違うようですが、それでも日本人の感覚では“想像を絶する”と言う表現しか書き様がありません。こんな家にはイギリス人も今や(経済的に)住めない状況になってきています。と言うわけで“住宅事情”対象外です。
3)自宅界隈・自宅
 自宅がある場所は、町の東端やや北より、何度がご紹介しているウィリアムズパークの裏(東側)になります。ウィリアムズパークは市内で一番高いところにあるので大変見晴らしが良く公園の西下はRoyal Lancaster Grammar Schoolと言う男子校があります。そんな訳で比較的古くからの住宅地は公園・学校の周辺まで達しています。
 古くからの周辺部(市街地でないこと)を示す場所が幾つかあります。公園の北側は墓地で、1700年代の墓標などがあります。また、前にもご紹介した広い敷地が塀で囲まれた古色蒼然たる正体不明の病院(建物の感じから昔は修道院ではと推察していますが、英国では修道院から転じた病院をしばしば“Infirmary”と呼ぶのです。しかしここはHospitalです)が墓地の更に東側にあります。正体不明の病院と墓地の間を北に向かう道路があり、分岐点に“ランカスターファーム”と示された道標がありました。ファームは農場です。どんなところか出かけてみました。5分くらい分岐路を進むと“ファームと思しき場所”の前は広い駐車場で、そこにパラパラっと車が止まっています。屋根つきのバス待合所もあります。駐車場の周辺は一見公園のようです。さらにその北側に大きな建物があり高い塀に囲まれています。これが農場?と近づいて行くと、駐車場外縁を小さな窓が4,5個付いた白いトラックが高い塀の、色の違った部分に近づいて行きその前で止まりました。「開けーゴマ!」、やがて色の変わった部分がゆっくり動き出すと警報音が鳴り出しました。分かりました!そこは刑務所なのです!何で“ファーム”なんだ?!
 公園の南東裏側には公園と少し距離を置いてランカスターの家畜取引所(オークションセンター)があります。公園の真東(裏)は緩やかに東へ下っていきます。それほど広くはない雑木林が南北に延び、この部分を底辺(と言っても海抜は市街中心地よりかなり高い)にその先は東に開けた牧草地が何処までも続いています。この雑木林には数頭の小鹿が生息しています。また公園からの傾斜地(ここは公園外で芝生になっている。この芝の傾斜地が我が家の西側まで続いている)には公園の森からピーターラビット(薄茶のウサギ)が出てきて草を食んでいます。私の棲家はこんな環境の中にあります。少し正確に言うと、公園裏から降りてくる傾斜地と雑木林の間、墓地を北端とし家畜取引所を南端とする低地部分を開拓して出来た宅地(一帯はStanden Parkと呼ばれていますが公園ではなく地名)の中です。街外れの寂しい風景がご想像できるでしょうか?
 街の中心部からウィリアムズパークの北端、更に墓地の南端を抜けて真東に向け道路が走っています。この道路を墓地の中間点で右折(南)する小道が我が家へのアクセス道路です。この道にはバンプと呼ばれるこぶ(凸)が道路に設けられ、時速10マイルで走らなければなりません。洒落たアパート(半円形で広場がある)など数棟のフラットと二戸一棟のタウンハウス、一戸建てもあります。道は直線ではなく適度に曲がり、分岐していきます。そして最後の通りが、The Colonnade(コロネード通り)と言う私の住む通りになります(宅地全体の南東端)。ここには南北に二棟の三階建てのフラットが並び、各棟は三つの階段を持ち、その左右に部屋があります。つまり2×3×3×2=36世帯が住むことになります(実際はフルには埋まっていない)。
 私の住まいは南棟の真ん中の階段から入り二階になります。一階の階段入り口にもドアーがありここも鍵がかけられているのでセキュリティーは確りしています。部屋の構成は、二つのベッドルーム(と言っても一部屋は折りたたみ式ソファ-ベッドで、小ぶりの勉強机が置いてあり書斎と言う感じです。メインにはトイレと洗面、シャワーが付いています)が西側に、東側にバスルーム(トイレ、バスタブ、洗面)とリビング・ダイニング・キッチンが一つになった部屋があります。この部屋は東向きで二つの大きなフランス窓(床面まで届く窓)があり、雑木林の緑が目の前に広がっています。雑木林の白樺が高いので、その先に開ける牧草地を展望できないのが残念です。フラットと雑木林の間は専用駐車場と道路ですが道路はフラットの南端に木の柵が設けられ、人馬の往来しか出来ません(ここを乗馬のルートにしている若い女性がいる)。建物は築7年、外装は新興住宅スタンダードの“一見ライムストーン風”プレファブ壁。内装も新建材多用の安普請です。どうも家主(Land・Loadと言う)は全フラットを所有しているのではなく、幾つかの部屋を所有し不動産屋経由で賃貸しているようです(正確にはRoom Loadですね)。私の場合フルファーニッシュ(家具・電気ガス器具・寝具・炊事道具などの生活必需品完備)が条件で探し、ここになりましたが部屋によっては家具等持ち込んでいるところもあります。仲介の不動産屋も複数関わっています。
 交通手段はちょっと問題があります。小型バスが走っていますが平日一時間に一本、バスセンター最終が5時半、日曜はなしです。多くの人は自家用車で動いていますが、車の無い人はタクシーをよく利用しています。中心地まで4ポンド(約1,000円)かかります。そんな訳で、家からセンターへ出る時は例の柵の横から家畜取引所に向かいそこからウィリアムズパークの外縁にそって西門(帰りはここでバスを降りる)までの緩やかな昇りを歩き、そこから坂を下って市街に出ます。ただ、帰りは荷物もあるし、かなり昇り坂が続くので時間を調整してバスで帰ることがほとんどです。この経路は先にご紹介した、住宅地循環で地元の人々の生活に直に触れることの出来る良い機会なのです。
 最後に賃貸料です。ユーティリティ(水道・ガス・電気・電話)は別で月600ポンド(約15万円)強です。フルファーニッシュでなければ、500ポンドと言うところでしょう。B&Bの程度の良い所(四つ星)は一泊70ポンド位とります。一ヶ月2100ポンドにもなるわけですからこの600ポンドは決して高くはありません。冒頭ご紹介した若夫婦が手に入れた家は、内装こそきれいでしたがテラスハウスの中古でした。昨年購入し月400ポンド弱のローン返済と言うのも私の体験から納得できる数字です。

<Building New Life >
 偶々TVのチャネルを回していたら、港の片隅に打ち捨てられたように係留された古いバージ(平底船)を前に二人の男が話していました。どうも話の内容が、この船を棲家にする計画を検討しているようなのでしばらく観ていると、一人は番組の進行役、もう一人はこの計画を実現しようとしている引退近い電気技師であることが分かってきました。「本当に船を終の棲家にするんですか?」「船で暮らすのが夢だったんだ」要領よく生きることが苦手、と言う感じのおじさんが答えました。『でもこんな酷い状態の船をどやって?』、『予算は?』、『何時までに?』。これが<Building New Life >の共通課題なのです。
 この番組は民放で放映しているもので、住宅建設協会のような組織がスポンサーになっています。この協会の地域支部(4つの国;イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)に応募してそこで候補を選抜、前出のような“自宅建設プロジェクト”をその計画段階から完成まで追いかけるような構成になっています。木曜日の8時から1時間、全工期は1年近くに及ぶプロジェクトを追跡し最終取材は見ている月になることもあります。
 先ず大前提は、新設はダメ。古い、廃屋のようなものを再生することが条件です。また、Do it yourself(家族を含む)が条件になります(一部専門家の手伝いが許されていますがその条件はよくわかりません)。予算、工期もなにやら条件があるようです。期日や資金に関してはよく番組の中で、進行役が質問しています。そして、条件・課題をクリアーし家が完成すると10万ポンド(2500万円)が賞金としてもらえるのです。しかし、今まで観たところ期日に完成できた例はありませんでした。参加者は種々雑多、若い夫婦もいれば、同性二人、子持ちの家族、先週は孫のいるお婆さんでした(このお婆さんが瓦用の平たい石を上げるシーンはハラハラしました)。
 何と言っても凄いのは、スタートする家(元家だった跡)です。家の元々の造りは石、木造はありません。日本人だったら更地にして建てた方が良いと思うくらい酷い家です。屋根は落ち、石やレンガも崩れ落ちた廃屋や冒頭紹介したスクラップとしか思えない船などが対象です。第二にビックリするのは、都会は全く出てきません(先の船はチョッと事情が違い、テームズ川の係留場でしたが)。近隣に全く家が無い野中の一軒家がよく登場します。荒野の廃屋を前に応募者が完成像を語るところから番組は始まります。予算や完成時期もこの時話題になります。
 時期は2月、「5万ポンドかけてクリスマスはこの家で過ごしたい」こんな出だしです。休日、小型のパワーシャベルがトラックで運ばれてきます。さすがにこの機械の操作は専門家がやりますが、これを廃屋の中に入れ、中の瓦礫を片付けるところから作業が始まります。外に運び出した瓦礫を整理し、使える物をより分けるのは家族総動員(と言っても夫婦と子供だけ)。不足の石を購入し、足場を組んで外壁、隔壁や暖炉に石を積んできます。これも家族で役割分担です。石積みが終わると今度は床のセメント打ち、そして外廻りのハイライト、屋根葺き。加工された屋根の骨材(これは材木)が工場から運ばれてきます。これを地上で組み上げ外壁の上に上げ、そこに組み付ける作業はさすがに家族だけでは出来ません。親戚・友人と思しき人達が手伝いに来ます。屋根の骨格を作るだけでその日は終わり。悪天候続きでスケジュールが狂ったり、風や雨で折角途中まで仕上がっていた所が壊れたり、発注した資材が現場合わせで不都合を生じたり、予定がだんだん狂ってきます。進行役が「予定通りに行ってないようだが?」「クリスマスまで未だ未だあるさ」と。しかし、TVを観ているほうも「無理じゃないかな?」と言うような状況。夏休みはキャンピングカーを現場近くに牽引してきて、家族全員合宿で毎日家造り。子供たちは大はしゃぎ。窓枠の取り付け、床張りなど少しずつ形を整えていきます。9月、10月、進んではいるが細かい仕事が増えてくる。まだまだ住める状態ではない。「資金はどうなの?」「実は5万ポンドは使い切り。既に2万ポンドオーバーしているんだ」、と夫婦の表情が暗い。「この先の資金繰りは?」「………」11月、配線・配管工事、バスやトイレの取り付けが始まるが工事資材がそこら中に散らかっている状態。屋根裏など丸見えのまま。クリスマスまでの完成は到底望めないこと必定。「クリスマスをここで過ごすのは無理だね?」「やれるところまでやるさ」クリスマス当日夕方、進行役が暗い中を現場に向かいます。窓に明かりが!中に入ると、一応完成したダイニングで家族が蝋燭の下で楽しげに夕食を食べています。「メリー・クリスマス!他の部屋も見せてくれるかい?」。残念ながら他の部屋は未完成。結局全てが整い家族が引っ越したのは2月でした。外は年代を感じさせる石造り、中は簡素だが落ち着きのある素晴らしい家が完成していました。
 この一年をかけた再生プロセスを1時間にダイジェストして番組にしています。これが(多分)毎週放映されるのですから、似たようなプロジェクトが複数(単純計算で一年50プロジェクト)走っている訳です。廃屋(あるいは廃屋同然の)の再生にこれだけ情熱、労力、資金を傾ける人達がいる(TVに出ない人が10倍や20倍はいるでしょう)ことに、英国人・英国文化の特質を強く感じさせてくれる番組です。それは、①古いものに対する愛着・敬意と②田園・自然との共棲渇望です。産業革命を真っ先に成し遂げた国に、このような生き方を実現しようとする人達が居ることは、ポスト工業化社会の在り方に一石を投ずる、と言うのは穿ち過ぎでしょうか?

 バージ改造ハウスのその後
 充分広さがある平底船だけに立派な家が出来ました。小さな庭園まで付いています。緑あふれるテームズの上流を行く我が家に大満足です。しかし、実はこの少し前から彼等(夫婦)には別の悩みがあるのです。係留場所です。テームズ川沿いのレジャー用係留所はどこも受け入れてくれません。現在の係留場所はロンドン港の作業船の溜り場です。これからどうなることやら?良い係留場所が見つかるよう願うばかりです。

以上

2008年9月20日土曜日

滞英記-7

2007年7月2日

 このところ天候不順で6月20日過ぎからまるで梅雨です。日本との違いは、ジメジメしないが肌寒いこと、一日のうちに曇り、雨、そしてつかの間の晴れがあることです。イングランド北東部(ヨークシャ)とウェールズでは洪水の被害が深刻です。なかなか水がはけないのです。また、爆弾テロが多発しており政府はアラートレベルを最高の“Critical”に上げています。このため空港への交通規制(特に自動車)、空港内でのチェックが厳しくなっており、時間が予想外にかかっています。機内持ち込みは1個に限られます。お土産もこの数に入るようです。当地へおいでの方は充分この辺の事情にご注意ください。これらのニュースは日本でも報道されているようですが、今回は当地の<ニュース事情>を二つのテーマでご報告します。一つは<BBCのTVニュース>、二つ目は<ブラウン首相誕生>に関するものです。
 大学は年度の切り替わりの夏休みで学部の学生がいなくなり、閑散としています。しかし私の個人ゼミは、今週だけMauriceがプラハで開催されるヨーロッパOR会議に出席・発表のため休講ですが、その後は予定通り週一回のペースで進めることになっています。直近の研究は私の方から提案し“チャーチルとその科学アドバイザー”について調べています。<ブラウン首相誕生>の後半はそれも意識して整理したものです。

<BBCのTVニュース>
 当地へ来てから世の移り変わりを知るのはTVだけです。新聞は取っていません。日本のニュースはロンドン中継の短波を聞いていますが時間帯が限られるのとノイズが酷く、短い時間に限られます。もう一つはインターネットで日本の新聞の見出しを閲覧する程度です。中身を丁寧に見ないのは私のインターネットアクセス環境が良くないためです〔電話回線でアクセス、niftyの安いアクセスポイントや定額制が上手く使えない〕。TVは映像があるため言葉が不自由でも何とか状況が理解できます。ニュースは専らこれに頼ることになります。私のTV環境はアパ-ト備え付けの受像機(名前(MATSUI)も聞いたことの無い比較的小振りのもの)で、受信料(1年分前払い)だけで観ることが出来るチャネルに限られます。プロフットボールなどはSKYチャネルと言う有料テレビを契約しないと観ることが出来ません(BBCがやったのはイングランド対ブラジル戦;公式の国際試合のみです)。無料チャネルはBBC系が三つと民放系が二つの計5チャンネルです。民放系ではニュースはほとんど無きに等しい状態です。偶にチャンネルを切り替えている時面白そうな映画やノンフィクションに行き当たった時しか見ません。    BBCは1がメイン(報道、特集、ドラマなど)、2は音楽・クイズ・教育など、3は何故かコマーシャルなどが入るドラマ・音楽・映画などです。そんな訳で主に見るのはBBC Oneと言うことになります。ドラマは日本でも全く関心が無く観てもいませんから当地でも観ません。結果、観るのはニュースと特集ということになります。

 特集は、例えば昨晩は“Concert for Diana”と名付けられたライブで、死去10年を記念して、彼女(彼女の人気は未だに圧倒的)が力を入れていた小児病患者慈善活動を支援する音楽番組(フットボール場に6万の観客が集まり、ウィリアム、ハリーの二人の王子も出席し、著名な芸能人(葬儀の際にも演奏したエルトン・ジョンがトリを務めていました)が多数出演するもの)でした。特集番組は、ニュースで何度も予告されるので、新聞を取っていなくても予定が組めて助かります。と言うような状況で完全にBBCに取り込まれた生活をしています。そして出発点はニュースと言うことになります。
 BBCのニュースは、朝は7時から始まるもの(これは特集や地方ニュース;此処はNorth Westも含み8時半頃まで続く)と夜の10時からのものを専ら観ています。昼も家にいる時は正午のニュースも観ます。夜のニュースは日本と違いあまり長くやりません(地方ニュース、天気予報を含め30分位です)。朝のニュースはキャスターが男女2名この他、スポーツ(状況により競技場;今はウィンブルドンから中継、スタジオでやることもある)、天気予報(外から中継)、経済(前日の市況解説)専任が適宜加わります。また、新聞各紙の1ページ目を紹介する時間がありこれには輪番制(?)で新聞社の人間が参加しています。夜は原則1名のアナウンサーが担当します(テロなどあるとメインが外へ出るケースもある)。
 世界各地でTVニュースを観てきて構成に大きな違いは感じませんが、ここでBBCを観ているとNHKの1CHが大変よく似ていることが分かります。公共放送と言う共通性から来るものもあるでしょうが、NHKがBBCをウォッチしフォロ-しているのが実情ではないでしょうか?違いはニュース番組に“色”を感じることです。BBCはニュースや番組紹介でエンジをバックに使い、テロップなどのバックにはオレンジを使います。スタジオの家具・背景などもこの組み合わせで調和をとっています。開始を告げる音楽(音?)もディジタル感覚で報道の中身以外にも、日本には無い斬新な感触を体験しています。
 さて、報道の中身です。当然ですが国内ニュースが中心です。CNNは別にして、他国の放送ではもう少し国際ニュースが多いのではないかと思うくらい、BBCでは世界の動きが良くわかりません。国際関係で出てくるのは、イラク、アフガニスタンそれにパレスチナ、大分落ちてEUです。アメリカで何が起きているのかさえ前三国に関わる問題以外分かりません。その三国関連にしても兵士の犠牲者や自国に関連するテロが中心です。日本など先ず報道されることはありません。BBCの宣伝の中に、如何に各地に特派員を送り世界各地の情報を集め・届けているか手短にアナウンスする時があります。ここには北京・ソウルは出てきても東京は出てきません。天皇訪英は非公式なものでしたから仕方が無いかもしれませんが、全く報道されませんでした。日本が報道されたのは、任天堂かソニーのTVゲームソフトが英国の著名な(多分ウェストミンスター)寺院を舞台にしているのが怪しからんと言うもの(ダヴィンチコードもこれで苦労したようです)、若い女性のイギリス人英語教師殺害犯が未だ捕まっていないと言うもの、それに環境問題対応でプリウスが紹介された程度です。
 それではこちらに来てからの英国のトップニュース・重大ニュースを思い出すままに書き出して見たいと思います。日本での報道状況はどうだったでしょうか?
・5月初め当地に着いたときのトップニュースは4歳の幼女がスペインのリゾート地で行方不明になった事件です。未だに彼女は発見されていません。彼女発見・救済のための草の根運動が各地で起こり現在も継続しています。住居を探すため不動産屋を訪れている時若い女性がその子の写真をオフィスに張って欲しいと依頼に来ていました。
・ブレアからブラウンへの政権交代は、先ずブレアの功罪(主に罪)を取り上げ、特に誤った情報を基にイラク参戦したことへの批判がいろいろな形で流されていました。こんな中で出てきたのがハリーのイラク派兵です。ハリーって?ダイアナ妃の次男;ハリー王子です。彼は近衛連隊の戦車兵です。この連隊の一大隊(彼はここに所属)がイラクに派兵されることになったのです。彼はイラク行きを切望しました。イスラム過激派は“必ず仕留めてやる”と声明を出します。政府・陸軍はなかなか決断できません。結局“あまりにも危険”と取り止めなります。今度は派兵される(された)家族が黙っていません。“うちの息子は死んでもいいのか?”と。昨晩のダイアナ追悼コンサートで、ハリー王子は派兵された同僚たちに、「同行できず残念だ!済まない(apologize)!」とメッセージを送っていました。
・6月初め(正確な日は知りません)にはエリザベス女王の誕生日を祝います。と言っても生まれた日ではなく、戴冠した日を“新しい国王が誕生した日”として祝うのです。この少し前から騒がしくなるのは叙勲です。年初とこの誕生日の2回叙勲が行われます。誰がどんな称号・勲章を貰うか?特にMBE(Member of British Empire)はスポーツ選手や芸能人、作家など身近な人々が対象になるので話題を呼びます。今年はフットボール選手のベッカム、退任するブレア、それに「悪魔の聖書(だったでしょうか?)」(この本はイスラム過激派を批判する本で、日本でこの翻訳を手がけていた筑波大学の助教授が殺害され、未だ犯人は挙がっていません)の著者;ラシディが上がり、特にこのラシディ(パキスタン系のイギリス人)氏が選ばれたことに議論が集中しました。今回のロンドン・グラスゴー爆弾テロはこの叙勲に対する過激派の報復行動と言う説もあります。
・6月前半を通じてBBCが宣伝に最も力を入れていた特集番組は「フォークランド戦勝25周年記念」です。式典は17日(日)に行われましたが、この日に向けて関連情報が毎日のように放送されていました。式典当日も午前中から三々五々式典会場付近の公園に集まってくる退役軍人たちにインタビューしたり、当時の戦闘模様を流したり番組を盛り上げていきます。式典は3時からスタート。この日は午後からロンドンは晴れ。バッキンガム宮殿正面に向かう大通りの終点に位置する広場(兵営の中?)で公式の式典;チャールス皇太子(軍装)、ブレア首相、開戦時の首相サッチャー女史などお歴々が参列、軍楽隊の演奏で幕が切られ、三軍の代表が戦士を称え、戦死者を悼み、遺族代表と合唱団が追悼歌を捧げる。これが終わると参戦した兵士(主に退役兵)が皇太子以下の居並ぶ前を分列行進する。ここでの式典が終わると、首脳陣は車で退場しバッキンガム宮殿前のビクトリア女王像があるロータリーの中に設けられた閲兵台に先回り、今度はリラックスした感じで兵士たちの到来を待ち受け、再び閲兵する。分列行進の道筋には大勢の人達が歓呼の声を兵士たちに送る。誇らしげな老兵たち。空にはヘリコプターを先駆けに、輸送機、戦闘機、爆撃機、そして曲技飛行隊が三色の帯を引いていく。何やら指差しながら見上げるお歴々。水兵に混じってヨーク公爵(海軍の軍装)も行進に加わる。チャールス皇太子がそれに何かチャチャを入れ緊張が解ける。ロータリーを半周した兵士たちは解散場所に向かってくだけた調子で歩いていく。「これからどうするんですか?」とアナウンサー、「もちろん皆で飲むのさ!」。ここまで完全中継で5時まで。
 “戦争と道楽だけは真面目にやるイギリス人”を、確りTV検証させてもらいました。イギリスを良く知る友人が、出発に当たり「J-Day(8月15日;対日戦勝記念日)は表に出るなよ!」と忠告してくれました。厳守します。
・6月後半で大きなニュースはEU憲法を巡る国内の動向です(サミットはほとんどニュースとして印象に残らなかった)。昨年?フランスで否決されこの批准は先送りになることを願う人達がこの地には多いようです。英国が特に強く拘っているのは外交と治安維持策の独自性です。ここからはかなり私の独断と偏見になりますが、EUと英国の関係を考察してみます。
 外交に関しては二つあると思います。一つは嘗ての大英帝国を構成した国家との特別な関係を少しでも維持したい。EUの括りの中で既得権を削がれたくないということです。もう一つはアメリカとの関係です。EUの中枢をなす独仏、とりわけフランスはアメリカの力に対抗出来る欧州を目指しています。しかし、イギリスは欧州の中で歴史的にアメリカとの関係がとりわけ深い国です。これをEU側に取り込み対米交渉力を高めたいとする考えに警戒心を持っているのです。アメリカとの関係こそEUにおけるイギリスの切り札と考える人達が多数派のような気がします。
 治安維持に関しても大英帝国の遺産を感じます。インド・パキスタン・アフガニスタン、中東(ここには植民地はなかったがイラン・イラク・ヨルダンは勢力圏)、アフリカ(多数)、西インド諸島、マレーシア・シンガポール・香港。どこかで政変や紛争が起こる度に自国難民としてこれらの国からこの小さな国に人が逃れてきます。そして貧しい白人の仕事を着実に奪っているのです。特にこの地へ来てインド・パキスタン系の人達の存在を強く感じます。私が利用したガソリンスタンドは高速を除いて全てインド系の人の経営でした。ロンドンで泊まったInnの経営はインド系の家族で、下働き(キッチンや部屋の掃除)は白人のおばさんたちでした。Mauriceも小売業はパキスタン系の進出が急だと言っていました。イギリス人より(そしてインド人より)商才が長けているそうです。モスレムに関しても種々雑多でかつ過激派が勢力を持つ地域が旧植民地・勢力圏に多く存在します。テロ対応策も一筋縄ではいきません。犯罪者が増え、刑務者は満杯で、そのために保釈を早めざるを得ないことが大きなニュースになっています。未然に防いだ爆発物事件3件は全て監視カメラの働きに因るものです。街の至るところにカメラが設置されています。ランカスターでも中心部に数箇所設置されています。英国政府これによる犯罪防止を強力に推進しようとしています。そして国民もこれを支持しています。皆さんは英国の作家H. G. ウェルズが1920年代に書いた「1984年」と言う小説をご存知ですか?あの時代の忍び寄る共産主義・全体主義の恐怖をテーマにした小説です。“ビッグブラザー”が全て監視している社会です。その監視システムは鏡でした。そして今、そのイギリスでカメラによる監視社会が実現しているわけです。これの是非を問う番組もありました。そこでは“ビッグブラザー”と言う言葉が頻繁出てきていました。ヨーロッパ人(大陸人)はプライバシーを大切にします。EU憲法は理想社会を想定して作られているようで、イギリスのやり方に疑問を投げかける向きが多いようです(監視カメラ以外の対策も含め)。これがイギリスのEU憲法批准に逡巡する(基本的には修正で大筋同意していますが)理由です。
・6月後半は政権交代関連が主題です。しかし本当の主役は雨です。英国の天気は、“一日の内に四季がある”とか“一日の内に曇り・晴れ・雨がある”と言われます。天気予報も平気でこんな予報を出します。だから、英国紳士はステッキ代わりを兼ねて蝙蝠傘を持つとか?5月にこちらへきたときも天気が優れず雨勝ちでしたが、その雨は一時的にパラパラと来る“シャワー”でした。ところが最近降るのは“ヘヴィー・レイン”です。と言っても日本の雨に比べれば、量も時間もたいしたことはありません。何故あんなに冠水・浸水する家が多いのだろう?そして一旦水が出るとなかなか引かないのです。TVで聞いていると歴史的なことのようです。Mauriceの話では、異常潮位でランカスターの一部が冠水したことはあるが(私も湖水地帯の海に近いマナー(大邸宅)でここまで水が来たと刻んだ石をみました)、川や排水路の氾濫は知らないとのことでした。こちらの家を(特にタウンハウスと称する棟割長屋)を見ていると、結構半地下の部屋の窓が歩道から見下ろせます。また、被害のニュースで地下のエール(ビール)貯蔵庫(これが一般的な貯蔵方法)に水が入り、コンタミネーション(混ざってしまう)を起こした、と報じていました。つまり、排水路の処理能力がシャワーベースでできている所へ、レイン(それもヘヴィな)が降って溢れたというわけです。その意味で“歴史的異常気象”なのです。そしてルーマニアやギリシャで起こっている異常旱魃との関係を取り沙汰しています。全く素人の邪推ですが、イギリスを代表する(と言うかほとんどイギリス全土)緑の牧草地帯には木が生えていません。排水路らしきものもありません。あるのは石垣だけです。ここへ少し普段とは違う量(歴史的に多目)の雨が降ると保水力が極めて低いので一気に平地に達し、街が洪水になってしまう可能性も考えられます。イギリス的風景がその元凶だ、と言う説はどうでしょう?

<ブラウン首相誕生>
1)ブラウン首相とスコットランド
 ブラウン首相はスコットランド出身。父親は牧師。エジンバラ大学(と言ったと思う)で歴史学を学びPhDも得た知識人。労働党員となり党内で要務をこなし、次第に力をつけてきた。先ずスコットランド国会議員(最後は首相)となり、ブレア政権で英国内閣の閣僚となった(最後は財務大臣)。
 スコットランドは連合王国の中でも独自の地位を維持している(ウェールズ、北アイルランドは基本的にイングランドと同じ行政・統治システム)。教育・社会保障など独自のシステムを持つし(さすがに外交・軍事は中央のシステムに組み込まれているが)、紙幣もスコットランド銀行券を発行している(エジンバラ旅行中実際手にした)。しかし、税収に関してはスコットランドからの税収だけでは賄えず、中央政府に大きく依存している。スコットランド労働党は中央の労働党とは些か異なる性格を持っている。すなわち、“愛国(独立志向)色” が強い。そして40年近く議会を牛耳っている。ブラウンの問題点はこの“スコットランド労働党出身”にある。(このことで思い当たるのは、ロンドンで議事堂付近を観光中重要人物(今から思えばブラウン)が議事堂から出てくるため交通規制が行われていた。その出口正面の歩道にイングランド国旗(白地に赤十字)の付いた横断幕を張ってメガフォンで何やら叫んでいる連中がいた)
 バッキンガム宮殿から戻ったブラウンが、官邸前で行ったスピーチは力強く感動的だったが、特に印象に残ったのは(と言うより、よく理解できたのは)「私はこの地(here)で生まれ、この地で育ち、この地で教育を受けた!だから・・・・・」と言う件である。一国の首相となったのだから“スコットランド人と見てくれるな!”と言う切実な思いを吐露したのかもしれない。
 この話をMauriceに話した時、即座に「いやぁ!彼はスコットランド人だ!」との答えが返り、スコットランド政界の異常やサッカーゲーム(対イングランド戦)の狂気を話してくれた。アイリッシュ(アイランド、アイランド人)を語るとき、そこには何か“思いやり・同情”などを感じさせる雰囲気があるが(彼らがイングランド人より厳しい環境に適合できる例として、競馬の騎手にアイルランド人が多いことを、アスコット競馬を話題にした時話してくれた)、スコットランドに関してそれは無い。「ブラウンは“チェンジ”を掲げて大部分の閣僚を若手から登用する。彼らは経験が無いので苦労することになりそうだ!」と冷たく言い切ったのもこのことと関係するような気がする(いままでの付き合いから、彼は“労働党支持者”と踏んでいるが、このときばかりは“保守党なのかな?”とさえ思った)。因みに、詳しい生い立ちは聞いていないが、Mauriceはイングランド北東部出身、ニューキャッスル大学で学んでいる。北西部の古都カーライルから北東部のニューキャッスルを結ぶ線上にハドリアヌス防壁がありそこが2000年前のローマ帝国の北限、そしてその少し北にスコットランドとの“国境”がある。
2)首相のアドバイザー
 首相が決まると真っ先に話題になるのが閣僚、そして首相のアドバイザーである。今回の政権誕生経過を見て、初閣議参加者(つまり閣僚)の数の多さにビックリした。おそらく50人位いるのではないだろうか?若手や女性が目立つ。先のレポートでも紹介し、戦時中OR発展史に重要な役割を果たした内務省も初の女性大臣が任命された。外務大臣も若い。日本同様キャリア官僚(Civil Servant;採用・登用過程は大分異なるようだが)は力がありそうなので、未経験ゆえに国策推進に齟齬が出る恐れは無いだろう(むしろ、独自色を直ぐ打ち出せるかどうか?)。これら閣僚には個人的(と言っても官費あるいは党費)なアドバイザーが数人付くので、これらと相談しながら議会対策や政策が検討・決定・推進されていく。日本の閣僚にも秘書官や秘書が付くが、こちらのアドバイザーの場合現役官僚がこの役目を務めることは無く、有識者や党員が主体になるようである。
 さて、首相のアドバイザーである。今回もSir(サー)の付く人、女性、他に一人計3人のアドバイザーがTVで紹介されていた。3人が同格なのか?誰かが首席補佐官的役割を果たすのか?はTVで観ている限り私には理解できなかった。Mauriceによれば、彼らの影響力は相当なもので、首相がアドバイザーに操られる場面も過去にはあったようである。また、逆にアドバイザーが適切な助言をしなかったとして詰め腹を切らさたことがブレアの時に起こっている。アメリカの大統領補佐官(特に首席補佐官、国家安全保障担当補佐官)は表面によく出てくるが、こちらでアドバイザーがTVの前でブリーフィングするような光景を観たことは無いので、知恵袋・黒子的な存在なのであろう。
 チャーチルの個人科学アドバイザー;リンデマンは、戦時内閣組閣時チャーチルの強い押しで貴族(Load;卿)に任ぜられ貴族院議員として内閣(Paymaster General;主計担当大臣)に入り、絶大な権力を握った例もある(OR推進派と対立)。

以上

2008年9月15日月曜日

滞英記-6(2)

<OR:新しい科学としてのその思想・規範> (原報告は前報6(1)と同時に2007年6月27日発信)
 “経営判断にもっと数理を!”を最終ゴールとする研究のために此処に来ています。その手がかり探査を“ORの起源”に据えているので戦史の研究をやっているとお感じの方も多いようです(もちろん私も戦史研究が好きですし、Mauriceも同じですのでそのような方向に行きがちですが)。この主題のために戦史を離れてMauriceが用意してくれた資料が三つあります。
1)‘A festering sore’:the issue of professionalism in the history of the Operational Research Society
2)The intellectual journey of Russell Ackoff: from OR apostle to OR apostate
3)Operations research trajectories : The Anglo-American experience from the 1940s to the 1990s
がそれらです。

 新しい学問が興るとき、それが独自の学問として存立しうるのか?独自性は何か?は根本思想・原理に関わる問題です。ここをクリアー出来ないと既存の学問体系の中に取り込まれてしまいます。私自身の体験で言えば、化学工学会の経営システム特別研究会の立ち上げとその後の存続、それに経営情報学会の統合(これは一会員として見てきただけですが)の二つがあります。
 化学工学会経営システム特別研究会は、工学研究の学会にその前提となる化学企業経営の視点を取り込み既存の工学研究を別の角度から検証し、新たな研究課題を発掘・研究していくことを目指して、当時(20年前)の少壮企業経営者と企業から大学の経営科学研究に転じた大学人中心に興された研究会です。工学系研究者・技術者の学会に社会科学の研究者も加わり、経営戦略・研究開発マネジメント・経営情報システム・環境経営・リスクマネージメントなど“独自”の視点から化学工業・化学工学を捉えてきました。
 経営情報学会の統合問題は、1980年代後半“戦略的経営情報システム(Strategic Information Systems; SIS)”がブームを呼んだ時期、相次いで設立された経営工学系研究者中心とした日本経営情報学会と経済・経営系研究者中心の経営情報研究学会がその後、一本化に向かいそれぞれの存立基盤のすり合わせに苦労しながら、やがて現在の経営情報学会(JASMIN)を誕生させるまでの紆余曲折です。
 両ケースとも社会科学(主として経済・経営学)と自然科学(主として工学)というジャンルの全く異なるものが、協力して独自の学問領域を生み出そうとするところに、思想・原理・規範に関する種々の問題が噴出してきました。そしてこのような問題を議論し合うことにより、研究活動とその成果がしっかりしたものになってきたのです。

 ORの起源時、当然ORが学問として存在していたわけではありません。当時の関係者に与えられた課題は、「強力なドイツ空軍の本土攻撃にどのように対抗するか?」、「ドイツ空軍の爆撃から如何に国民を守るか?」という切実な命題でした。化学者、物理学者、電子工学者、結晶学者、動物学者などが軍事専門家とは異なる角度から、科学的にこのような問題に取り組むプロセスで数理(主として統計学)利用のアイディアと成果が出、やがてORとして結実していくのです。それらの成果を“要素”としてみれば、物理学、電子工学、解剖学、統計学など既存の学問に帰結します。何も独自性は見出せません。違いは、これらを一つの“システム”として捉え、命題に対する対応策の全体効率を飛躍的向上したところにあります。“システム工学”出現のはるか以前、この考え方は一つの独自の科学領域としてぼんやりした姿を見せ始めます。
 戦争中に英国から発したORはアメリカに伝えられ、大戦中に独自の発展を遂げていきます。この段階はあくまでも軍事作戦策定手法の一つで、学問としての認識は利用者自身ありません。戦後イギリスでは戦時中の代表的なOR推進者の多くは本来の科学分野に戻っていきますが、一部は政府の政策立案や公共性の高い企業(石炭・鉄鋼・電量など)でOR手法を広めていきます。この時のメンバーが中心なり、1948年に“ORクラブ”が発足します。これが1953年OR学会(ORS)に転じていくのです。
 以上のような種々の背景を踏まえ、三つの論文の概要をそれに関する私見を含めてご紹介します。

1)‘A festering sore’:the issue of professionalism in the history of the Operational Research Society
 これはORの専門家に“資格付け”を行うことに関する議論の変遷を記したものです。学問としての認知・位置づけが出来る前から戦前の流れを汲むOR専門家が戦後これを広め、彼らが育てた人材も成長してくる中でORの独自専門性を社会に広く認知させる必要があると、ORSのシニアーメンバーの一部が言い出したことに端を発します。この背景に“ORクラブ”が英国社会独特の“クラブ”の性格を持ち、かなり閉鎖的な形で運営されそれがORSの執行部に引き継がれた経緯も影響しているようです。
 一方でこの公的認知によって仕事の“独占化”、“標準化”や“市場支配”につながる恐れがあるという社会批判なども出てきます。ORSが与えるのか?学会は非営利機関ではないか!とORS内での議論も活発化していきます。このような議論は1953年頃から1966年まで形を変えては論じられてきました。
 1967年ORSの中で妥協が図られ、以下のようなカテゴリーAとカテゴリーBの専門家認定基準が示されます。
・カテゴリーA
Qualification:

 ・An honors degree in a relevant subject
 ・Formal training in OR (full or part-time)
 ・Acceptable alternatives(またはこれに代わるもの)
Experience:
 ・Four years’ continuous full-time OR work, including 2 years’ project leadership
・カテゴリーB
 People who were not practitioners but had made a major contribution to the subject, either in academic terms to through managerial or other support


 しかし、その後も、対象者、登録制度(単なる資格付与で無く、専門家としてのビジネスチャンスを与える)の是非、政府機関の仕事への関与などが断続的に議論されます。1973年、当時の検討委員会は理事会にProfessional registerの必要性を答申、1974年‘Fellow of Operational Research(FOR)’としてDepartment of Trade and Industry(DTI)に承認されることになります。FORの資格要件は、目を通した範囲では明示されていませんが“A” grade membership criteriaと書かれています。本件に関する理解がすっきりしないのは、会長が変わると検討方針が変わり、その対として会長になるための政治的な言動が背景にあるようなところが随所にみられます。また、体制批判派の左翼メンバー(当時の少壮学者の主流)の言動とこの会長人事、更には専門家認定が微妙に絡んでいるようです。
 資格付与やその公的認定にこれほどこだわるのは、欧州での専門家がギルド的歴史を背負っているからだろうか?それとも技法の高度化がもたらすやむを得ぬ対応策なのだろうか?ORの起源が、専門分野に拘泥しない科学者の問題に対する自由な発想にあったことを考えると、この問題(専門性高度化と直面する課題解決へのアプローチ)の難しさを改めて認識させられました。そして、これは次の論文につながります。

2)The intellectual journey of Russell Ackoff: from OR apostle to OR apostate
 Russell Ackoff(アメリカ人だが英国とも密接に関係)は戦後初期(60年代まで)のOR研究者・実務者(特に途上国の経済政策)として著名な人です。ORの、学問としての体系・思想作りに積極的に発言してきました。しかし、70年代に入りORの現状に失望し始め、現状打破の提言を活発に行うようになってきます。その核心をなす部分は、“ORをもっと社会的・政治的問題解決に使えるようにしていかなければいけない”(別の表現では“戦術的な課題だけでなく、もっと戦略的課題”)。複雑な社会問題は単純な(解が一つの)手法では扱えない、と言う主張です(同調者の一部には、第二次世界大戦では国家的課題をORで解決してきたのに今はそれが出来ていない、と言う批判もあります)。そのために過度に数理に依存する傾向を高めてきたORの理論的裏づけを改める必要を、強く求めるようになってきます。“高度な数理に依存するORは取り組める問題を解が得られるものに限定する”と数理依存派(OR学の中枢;Modeling Approach;ハードサイエンス)を批判していきます。
 これに同調する動きは、大西洋を挟む米英両国で活発になり、Churchman(Systems Thinking)やCheckland (Soft System Approach)などその後ソフトサイエンス(一言で言えば“コミュニケーションで問題解決を図る”)の学問体系を作り上げていく実力者がAckoffの陣営に加わってきます。また、実務家・企業人にもこれを支持する動きが出てきます。必ずしもこれらの人々と同じ時期・次元では無いものの、“高度な数理依存のOR批判”は他にもあり、ORの始祖とも言えるブラケットもその一人でした。この動きは英国では80年代まで、アメリカでは90年代まで続きました。
 以上のような動き(特に、Ackoff)に注目し、MauriceはOR史家として2003年米英両国の学会の思想・規範闘争も含めまとめたのが本論分です(Journal of the Operational Research Society Vol.54、No.11)。私が指導を受けている木嶋先生は、約20年前ランカスター大でSSAについてChecklandの下で研究されるとともにAckoffとも親しく、日本を代表するソフトサイエンス派と言っていいでしょう。先生のご指導をお願いに大学へお邪魔し、研究の趣旨をお話したとき、「企業における戦術的課題解決への数理応用は充分いきわたっているのではないか?」と質されたのはこのような経緯を踏まえたことだったのです。これに対する私の答えは、「確かに、戦術(日常業務処理)レベルではおっしゃる通りですが、経営トップ・上級管理者がその意思決定に際して(最新の数理理論ではなく、ごくありふれた数理(例えば、データ・マイニングや簡単な最適化)を“使ってみよう”とする姿勢が充分でないと感じています。そんな環境改善のヒントを“ORの起源”に求めたい」と言うことでご了解いただいた経緯があります。また、Checklandは知っていましたが不勉強でAckoffは知りませんでした。この時先生がお話になった逸話が印象に残っています。Ackoffが、待ちが多い(と感じる)エレベータの運行問題解決を求められた時、「ロビーの壁に大きな鏡を貼りなさい」と答えたとか。問題の本質(イライラ感解消)に迫る見事な解決案ですね。

3)Operations research trajectories : The Anglo-American experience from the 1940s to the 1990s
 これは英国に発したORが戦後の英国と米国でどのように展開(特に民生部門の)していったかを、歴史的に整理したレポートです。利用状況の変化のみならず、ORの在り方をめぐる両国の学会を中心とした、思想・規範闘争の歴史も記述されています。その点では、Ackoffに関する前論文と重複する部分もあります。
 構成は5章からなり、第1章は第二次世界大戦中の活動の紹介で著書「Operational Research in War and Peace」と重複。違いは、ドイツやロシア、そして日本に言及(意思決定構造の違い;意思決定者と科学者の関係;ヒトラーは占星術師に頼った)しているところや、前著では触れられていない陸軍におけるOR関連活動(活動場所・部隊が海外中心のため積極利用が図られなかった;高級将校の無関心)を解説しているところにあります。戦時中の効果的な利用とその戦後へのつなぎを意識してまとめている。
 第2章は戦後早期に行われた、英政府関連のOR利用活動とアメリカの動きを解説している。一言で言うと“英国はスロースターターだ”。ここではAckoffがそれに対して素早く反応し、アメリカにおける利用促進に貢献しているとしている。しかし、やっと非軍事部門で利用が始まりながら、キャリア官僚(Civil Servant)の抵抗や“(計画主導に対する)全体主義批判”が起こり、英国での非軍事部門利用展開に急ブレーキがかかる。ごく限られた公共部門;石炭・鉄鋼・電力での適用に集中。ここに優れた専門家が結集する結果になる。その代表者は、Charles Goodeveである。彼が中心になって急速な利用展開が再び始まるが、民間企業での利用は小規模なものに留まる。
 第3章は60年代の利用展開で、この時代英企業経営そのものが米国型経営に変わると供に厳しい競争にさらされる。アメリカ企業はこの時期になると、LPや統計を経営に駆使した新科学経営を推進し、OR利用展開が一気に広がる。この最大の因子は、マネージメントスクールの伝統があり、ORを正規の学問としてカリキュラムに組み込むことが早かったことにある。これに反してイギリスでは、ORを学問として位置づけるのに時間がかかった(初めてこれを教育体系の中に組み込んだのはランカスター大学(1964年設立だとMauriceは言っていた)。また、職業資格としての権威付けにも論争が起こっている(前出)。それを象徴する例として、両国を代表する二人のOR始祖、ブラケットモースの話をここにあげている。ブラッケ;一旦学問(物理学)の世界に帰り62年のウィルソン政権までORと関わらなかった。これに反し、モース;本来は化学者だがその世界を捨ててOR普及に邁進した(出来た)。
 第4章は前論文で紹介した、ORの思想・規範闘争に関する英米の経緯で、ほぼ前論文の内容と同じである。この時期(70年~90年)を“The Crisis of OR”と呼んでいる。ブラケット、モースとも“ORの高度数学化”を批判している(ブラケット;a narrowing in outlook of many operations workers)。その結果、いまやORは戦術問題に留まり、経営上の位置づけを低くしてしまていると。
 第5章はこの研究のまとめである。特に、第4章を意識してまとめられている。思想・規範闘争の根底に、当時の学者の左翼思想があり権威を認めたくない若者の批判精神と相俟って、過度にハードサイエンスを批判する風潮がはびこった面があることは否めない。

 最後にハードサイエンス批判に対する個人的な考えを述べておきます。
●社会的・政治的問題では、確かに“ゴールが一つで無く”数理だけで納得感のある答えは出ない(ソフトサイエンスの必要性)。
●最近は企業経営も社会的責任などが大きな重みを持ち、その点では上記に近い環境が増えている。
●数理が対象問題を制約する(解ける問題だけを扱う)のは確かだが、これは“数理そのものの”が悪いわけではない。
●ソフト論争が起こった当時(60~80年代)に比べITの発達は著しく、経済的にも適用環境は大幅に改善されている(ハードばかりでなく、データ・マイニングや表計算ソフトの機能などを含む)。
●むしろ問題は、OR専門家が問題の本質を理解しているか?理解する場を与えられているか?にある。
●また、本質が掴めたらそれに合ったより分かりやすく簡単な解法が無いかを考え、提言する習慣が必要である(自分の専門技術や最新技術に拘泥しない)。
●もう一つ、経営者・上級管理者が日常的に経営課題に対する仮説(論理・手順・数理に基づく)を作り出し、それ検証する習慣を身に付けているか?がある。経営における数理利用に関しては経営学的素養が欠かせない。

以上

2008年9月9日火曜日

滞英記-6(1)

2007年6月27日

 このアパートに居を構えて既に1ヶ月余、少し“住民”らしい気分になってきました。
 6月は英国で一番良い季節と、多くの英国人また滞英経験のある日本人も言います。確かにアスコット競馬(先週)、ウィンブルドンテニス(今週)などがこの月に集中するのもそれを象徴する催事でしょう。しかし、先報でもお知らせしたように依然として短時間の局地的集中豪雨が続き、死者まで出ています。アスコット競馬の最終日(先週金曜日は“Lady’s Dayと呼ばれる)は一時土砂降りで、あの“マイフェアレディ”のイライザ(ここで上流社会にお目見えする)のようにめかし込んだ淑女達がずぶぬれになっていました。そんな中レンタカーを借りたこともありこのところあちこち走り回っています。23日(土)から25日(月)はスコットランドの首都、エジンバラまで出かけてきました。この間、研究のほうも戦史中心のORからやや離れ、英ORの学問としての変遷(戦時のORとその後のORの関係)を追うことをしています。
 今回のレポートはエジンバラ訪問を中心にした自動車旅行のあれこれ(今回6-(1)として)と研究活動の概略(次回6-(2)として)をお伝えします。後者はこのレポートをお送りしている方の半数以上が技術者・研究者であることを踏まえて書いています。ご興味の無い方には無用のものであることお許しください。
 このレポートの仕上げをBBCのBrown -Brea Handover(権限移譲)と言う番組を見ながらしていました。昼はBrea最後の議会、ライブで保守党党首(かなり若い)との代表質問から始まり1時間ほど他の議員の質問にも答えていました。さすが民主議会発祥の地、そのやり取りは迫力がありかつ自然体で、皆自分の言葉で議論の応酬をしていました。時には議場を爆笑させるような場面もあります。皆くだけた感じで国家の重大事(外交問題、教育問題など)を話し合っているのです。政治が一般国民と密着するする姿に感動すらしました。
 今回の訪英目的は“リーダーの決断”を探ることに在ります。今日の議会中継を観られたことは大きな収穫でした。ブレアが官邸(ダウニン街10番地)の前で家族共々メディアに挨拶し、夫人と二人バッキンガム宮殿に向かい、そこから立ち去るところ、次期首相のブラウンが大蔵省を夫人と去りバッキンガム宮殿向かうところ、宮殿内の滞在時間はブレアの15分程度に対して40分位あり、中継のアナウンサーも時間が延びていることに驚いていました。ブラウンが宮殿から出てくると着いたときとは車が変わっています。着いた時はローバー、去る時はジャグァーの大型車です。つまり首相の公用車になっているのです。エリザベス女王に謁見し、首相になったと言うことです。これが全てライブで中継されたのです。官邸に戻ったブラウンの玄関前の決意表明も、充分考えこの日に備え準備したものでしょうが、何も見ず力強い自分の言葉で語っていました。わが国のリーダーとは全く異なる印象でした。
 昨日までブレアの業績に厳しい見方をしていたBBC(官邸前に居並ぶ報道陣も)も今日は温かく彼とその家族を見送る雰囲気が観ている者に伝わってきました。このメディアの姿勢も政治を身近なものに感じさせてくれました。

<イギリスでの自動車旅行>
1)ホテルと駐車場
 自動車で大都会を巡る宿泊旅行をする場合、一番気がかりは駐車場です。アメリカはこの点で全く問題ありませんし、日本でも都心の一流ホテルは地下駐車場が完備しています。ところが、エジンバラでは中堅クラス(三ツ星)は無論、上級(四つ星)ホテルでも駐車場がありません。トーマスクックの代理店で調べると、駐車場完備は近くて1マイル(1.6km)から1.5マイル離れています(この表示はかなりいい加減で実態はそれより遠い)。それでも3軒しかありませんでした。その内の比較的近そうなところを当たってもらい “ウェバリー駅”(中央駅)まで1マイルと言うホテルを予約しました。トーマスクックは世界的に有名な旅行会社ですが、意外と情報装備が遅れている感じで前回のロンドン行きもそうでしたが、地図で明確なホテルの在り場所を即座に示すことが出来ません。住所、電話、それに通りの名前で説明する文字による道案内だけです。この説明は地元の地図がないと全く用をなしません。ところがここランカスターではエジンバラの地図は入手できません。A4版の英国全体の道路地図にはエジンバラ市内図が全域と中心部の二つが載っていますが、通りの名前は大きなものだけです。結局ホテルの在り場所を大よそつかむことが出来たのは、ウェブでホテルのHPを探しそこから大体の位置とホテル近くの道を調べることでなんとかしました(ただしハードコピーが出来ないので手で描き写す)。分かったことはそこが港湾地区であることで、王室専用ヨット「ブリタニア」の他あまり目ぼしい見所や商用施設が無いようだと言うことです(実際は再開発地区で、大規模ショッピングセンター、新設アパートが古い港湾施設や場末感漂う居住地区それに工事現場が混在するところで、規模は違いますが“エジンバラ版みなとみらい”と言ったところでしょうか?)。
 都市の駐車場に関しては、公共の短時間駐車場は有料ですが先ず何とかなります。しかし、長時間駐車はいろいろ規制があり(住民優先など)、都心のホテルに泊まった場合どんな方策があるのか未だに良くわかりません。旅慣れたイギリス人であれば、郊外のホテルかB&Bに泊まり、このような公共の駐車場を利用するのかもしれません。私も初日、まず市内に入って、苦労しましたがエジンバラ城の駐車場に停めました。しかし、後でご説明しますが歴史のある町(つまり、道が自動車通行用に出来ていない)の運転は神経を使い後のことも考える(これからホテルまで無事着けるかな?)と観光もいまいち楽しめません(おまけに当日は雨)。案の定、ホテルに着くまでも道に自信の無い局面を何度か体験しましたが“港湾”はドン詰まりですから“行ける所まで行く”の精神でやっとの思いでホテルに着きました。
 チェックインの時「ディナーはどうしますか?席があまり無いのですが?」と聞かれましたが、“港なら何かあるはず”と予約をせず、一休みして 「ブリタニア」が係留されている、“オーシャン・ターミナル”と称する近くのショッピングセンターとエンターテイメント施設から成るコンプレックスに出かけて見ました。多数の(特に若者)地元の人達が土曜の夕刻を楽しんでいました。そしてありました!中華が!
2)観 光
 翌日は観光を楽しむ日と予定してきました。ただ、昨日の市中走行の苦渋と朝の天気(雨)で自分の車で回るのは気乗りがしません。1マイルなら歩くか?と思い、聞いてみると「中心地まで30分」とのこと、雨の中これは無理。何か良い方法は無いかと問うと、「運河の先の橋の所にバス停がある。そこから22番のバスでプリンセス通り(銀座通り)へ出てそれから歩けば良い。値段は片道1ポンド」とのこと。このアドバイスに従ったのは三つの点で正解でした。ⅰ)どこの観光スポットへも容易に徒歩で行けた。ⅱ)行き帰りともこの路線を利用することで、ホテルから市中を抜ける帰路の道筋(車線の取り方まで)をつかめた。ⅲ)往復料金2ポンドは何箇所かの駐車場利用料金よりはるかに安い。
 エジンバラ城は前日観ていましたので、その他の名所・旧跡(宮殿、カールトンヒル;市内を一望する丘)、聖ジャイルズ大聖堂、旧市街、美術館、そして高級デパート;Jennersのスコッチウィスキー売り場(Our whisky shop with over 400 different whiskies!と誇る))を徒歩で廻りました。幸い雨も途中で止みまずまずの観光ができました。
 最も印象的だったのは、ホリールード宮殿の見学です。スコットランドとイングランド(そしてフランスも巻き込む)の歴史に名高いメアリー女王の居城。現在では夏になるとエリザベス女王が滞在します(ビクトリア女王や現女王の祖母に当たるエリザベス王妃もここが大のお気に入りだったようです)。その内部を時期(王族方が滞在しない時)によって公開しているのです。要人接見の間、叙勲などを行う大広間、ダイニングルーム、園遊会を行う庭園など現在使われている部分も見せてもらいました。日本語説明オーディオもありました。日本の皇室・宮内庁がこんなサービスをする時代は来るんでしょうかね?
 この晩は、港湾地区再開発の対象で、景観だけ残した倉庫改築のレストランでシーフードキャセロール(Casserole;蓋つき鍋の蒸料理;一番近い感じは(うどん無し)鍋焼きうどん)と白ワインを楽しみました。日曜日に開く店が少ないのかイギリス人客でいっぱいでした。ここまで日本人進出は無いようですが何故か店長?は帰り際に「どうも有難うございました」と日本語で送り出してくれました。「日本語しゃべれるんだね!」「いや知っているのはこれだけです。“ありがとう”」
 市中の由緒あるホテルに泊まると言う当初計画は駐車場問題であきらめざるを得ませんでしたが、結果は良い旅が出来ました。

3)イギリスの道路
 当たり前のことですが、自動車旅行は道路と密接に関わります。自動車旅行が楽しいかどうかは道路事情に大きく左右されます。以前ご紹介したようにイギリスの道路はM(自動車専用道路;一桁と二桁がある。一桁のほうが幹線としての機能が高い)、A(一般道;わが国の一級国道に相当;一桁から三桁まである)、B(地方道全般;数字は4桁)がある。これ以外に市中・街中(場合により村の中)にXXXストリート(St)、YYYロード(Rd)などと名付けられた道があります。街なかではA、BにこのStやRd名が重なる所があって例えば、私の住むランカスターの幹線道路A6(北方向)は市中で200メータくらいの間をサウスロード→キングズストリート→チャイナストリートと3回も小刻みに名前が変わっていきます。Mの道路は基本的に日本、アメリカの高速道路と同じで自動車専用道路です。地形的な違い(こちらで既に900マイル(1500km)位走っていいますがトンネルを通ったことがありません!)はあるものの、走ることに関して特別な注意も要りません。違いは、私が今まで走ったMは全て(一部工事などあるところ除き)片道3車線でトラックは最右翼の追い越し車線を使えないことくらいです(これは東名トッラク街道と大違いです)。高速道路の制限速度は70マイル(112km)/時。私にとっては心地よいスピードですので通常は一番左車線をこのスピードで走っています。ただ、トラックや牽引式のキャンピングカーにはこの制限ではきつい(特に上り坂)車もあり、それらを追い抜くために真ん中の車線を走ることもしばしばです。車の密度もまるで違います。土曜でもランカスターより南の方から来る車は大体湖水地帯で消えていきます。それから更に北へ向かっているとほとんど周りに気を遣わず走れます。 サービスエリアも整備されており休憩、トイレ、給油、地図の入手などは大体ここで済ませます。海老名や足柄のような巨大サービスエリアは無いしショッピングセンターもどきでもありません。日本に無いB&B(Bed and Breakfast;朝食付きの小ホテル)まであります。標識も極めて分かりやすく外国人である私でも特に困ることはありませんでした。宣伝用の看板類は一切禁止です。時々緊張するのはスピード監視カメラの標識だけです。“目的地に向かい走る”と言うことに関しては理想的な道路と言えます。一番安全な道路ともいえます。しかし、“走りの楽しみ”はほとんど味わえません。何処の大都市(少なくともマンチェスター、エジンバラ)では都市の外周を走る環状高速道路がありここまででMは終わります(あるいはバイパスで避けます)。街中まで入り込むMはありません。したがって市中の高架高速などありません。ロンドンでも高架の道路は見かけませんでした(橋の近辺や特殊な地形のところではありますが)。あれは、アメリカ、日本、そして発展途上国(特にアジア)だけではないでしょうか?
 次はAです。Aは旧道タイプ(市内通過型)と新道タイプ(高速類似・延長型)に分けられるます(私の勝手な分類ですが)。自動車の歴史は高々100年強、道路は集落の発生とともにあったわけですから、両者の折り合いは車が道に合わせる方が自然でしょう。しかし、こうすると文明の利器の利点が著しく制約されます。さて、英国の旧い町と自動車交通です。Aは幹線道路ですから旧来の街道が変じたものです。町を通る主要道だけに車の流れは絶えません。また街なかで用がある車が流れ込んできます。もし狭い街中に信号機を多数設置してこれを捌こうとすると動きが取れなくなる恐れがあります。そこで考え出したのが“ランナアバウト”と言うロータリー方式の道路交差方です。大原則は“右側(にいる車)優先”です。自分がここへ入る時右側に車がいればそれが優先で、これをやり過ごすしてからロータリーに入ります。自分が左へ出たければ右側優先でこちらに優先権が生じ行きたい方向へ出て行きます(実際はそれなりにウィンカー操作に要領が要りますが最悪の場合一回りして出たいところへ出ればいいのです)。この相互自主判断で信号機の硬直性を巧みに避けているのです。これは馬車の時代を経た知恵でしょう。また、交通量の多寡もこれが上手く行くかどうかに大きく影響します(ロンドンでラッシュ時のランナバウトをタクシーで経験しましたが相当な技量と度胸がいると感じました)。

 A道路の都市内・都市周辺はこのランナバウトが多く、これで道路と車の折り合いをつけていると言っていいでしょう。更に進む(?)と、街の中心部全体をロータリーの芯にしてしまうのです。ランカスターの場合A6と言う幹線道路が街を南北に貫いていますが、北行きと南行きを街の中心部で東西に分け(つまりそれぞれ一方通行になる)、それを結ぶSt.やRd.に細かい規制(方向や車種など)をかけて抜け道を封じています。こうすることで廻り道にはなりますが、幹線道路の流れをスムーズにし、生活にも困らない環境を作っています。また、市中では速度規制もきめ細かく、厳しくカメラで監視しています(街中は30マイル)。
 高速と直接繋がるA道路や市街地を抜けたA道路は大体片側一車線、歩道はありません。歩いている人もいません。制限速度は60マイル(96km)ですが高速類似型と言えます。
 牧草地帯を走るA道路は地形のままに作られておりアップアンドダウンなどジェットコースターに乗ったような気分です。道の湾曲も適度にあり、よほどの幹線でない限り、前後も充分開いています。路面の状態もよく、監視カメラもありません。“走り”を楽しむ最適の道です。しかし、問題が幾つかあります。先ず走行する車が少ないので、休憩所やガソリンスタンドが町までありません。従って、A、Bを長時間走る場合は、M最後のサービスエリアで準備をするか、途中の町で一休みすることを計画の中に入れ、確実に実行していくことが肝要です。また、ほとんど脇道も無く、道路の両側は石積みか生垣が道路際に迫っていいます。そんな時後ろにこちら以上の“走り屋”が来ると大変です。英国人は意外と飛ばし屋なんです(紳士の本性はそんなものかもしれませんね)。対向車がない直線道路ならさっさと追い抜いていきますが、なかなかそんな場所は在りません。どうしても後ろに意識がいって、ドライブを楽しむ余裕など全く失せてしまいます。無論こちらのペースで悠々と走って悪いわけではないのですが、逆の場合イライラする自分の性分を相手に置換して疲れてしまします。
 “B道路こそイギリスドライブを楽しむ最高の道”とあるドライブガイドに書かれていました。大筋で私もその意見に賛成です。ドライブ計画を立てる時、何処にその可能性があるか?を必ず検討します。B道路はある地点と他の地点をつなぐためと言うより、そこに住む人が生活のために必要な道が主要道路につ繋がったものと言っていいでしょう。これは田舎ばかりではなく都市でも同じです。A道路以上に交通量は少なく、従ってこんなところでガス欠など絶対に起こせません。昼食時間がこの道路に当たらないようします(今回ではありませんが、一度失敗をしました。地図には在るインフォメーションも閉鎖されていました)。どんなAに繋がっているかにもよりますが、路面や路肩の仕上げ・メンテナンスは明らかにAとは差があります。偶に出会う車も農業用トラクターや作業用の小型トッラクなどが混ざり、わざわざ運転を楽しみに入ってくる車はありません(観光地のB道路は別ですが)。マイペースを存分に楽しめます。
 今回のドライブ行では、帰路にイングランド北辺の古都;カーライルから東に入り“ハドリアヌス防壁(ローマが2000年前に築いた防壁と砦の遺構)”見学を入れました。ここへ至る道がBでした。ただここはかなり有名な観光スポットでA道路と並行した道路だったのでいまいち走りを楽しめませんでした。<嵐が丘>で“標識に従い”迷い込んだ道(これで正解だったのですが)のほうが今から思えばよほどB感覚の道路でした。
 いずれB道路中心の旅をしてみようと2007年版のB&Bガイドを購入しました。これには住所・電話・メールIDはあるもの、地図は地域毎の全体図しかなく個々のB&Bは道案内を言葉で説明したものしかありません。取り掛かりがBXXXXの最寄りのランドマーク、そこからは番号の無い名前だけの道をいくことになります。ところが地方の道の名前を克明に記した地図(Street A-Zが代表的)はその地方に行かないと入手できません。自動車の旅は最後まで出たとこ勝負感が付き纏います。その究極が、大都市内の道路です。今回でもエジンバラ郊外で環状道路と交差するまで順調に来ましたが街に入ると道は急変、道幅が広くなったのはいいが、分岐や合流する道が出現、車線が増えそれに方向指示が描かれるようになってくるとだんだん方向感覚が怪しくなってきます。通りの名前で確認しようにも雨もあってなかなか見つけられない。一度混雑する流れの中で何とか車を停め、場所・方向を確認してエジンバラ城下の駐車場に車を入れたときはヘトヘトで城の見学も直ぐには出来ないほどでした。次の苦難は城からホテルへの道です。岩山に建つ城の下は新市街(碁盤の目状に出来ている;つまり方向感覚がつかみ易い)、それを東西に貫くプリンセス大通りがホテルへの道に繋がることを確認し、車に戻って再度地図で確認。無事プリンセス通りに出ました。良かった!と思った途端、目前の標識はバス・タクシーのみ直進可、その他は左折!仕方なく左折。ここから後は勘を頼りに港湾地区へ向かいました。
 高速や国道の道路標識の分かりやすさが、市街地では全く享受出来ません。むしろ日本のほうが良いくらいです(事前に車線の選択が分かる標識が充実している)。先にランカスターの街中でいろいろな規制があることをお話しましたが、これで車の流れがスムーズになっていることも確かです。英国の何処の大都市もこの状態(細かな規制がある)は同じです。ロンドンのタクシー運転手の試験は、あらゆる道の規制を覚え(そのために自転車で走り回る)、かつその規制の中で最良のルート(多分料金が最も安くなる)を選ぶことが出来るかどうかを問われるようです。ただロンドンはこの規制もスムーズな流れを実現できなくなるほどで、外部からの車に税金を課すことで全体規制に乗り出しています。
 私の感覚ではランカスターからエジンバラ外環道路までの疲れ(ほとんど疲れなかった。というより楽しかった)とそれ以降の市中走行による疲れは後者のほうがはるかに大きく、大都市へのドライブは外周部で終えるような計画が良いと実感しました。

2008年9月2日火曜日

今月の本棚-2

<今月読んだ本-8月>
1)偽善エコロジー(武田邦彦);幻冬舎新書
2)21世紀のOR(今野浩);日科技連
3)役に立つ一次式(今野浩)日本評論社
4)危うい超大国-中国-(スーザン・シャーク);NHK出版
5)兵隊たちの陸軍史(伊藤桂一);新潮文庫
6)海外旅行が変わるホテルの常識(奥谷啓介);ダイヤモンド社
7)知られざるイタリアへ(ロバート・ハリス);東京書籍
8)アメリカ大統領の挑戦(本間長世);NTT出版
9)世界を不幸にするアメリカの戦争経済(ジョセフ・E・スティングリッツ);徳間書店
<愚評昧説>
1)偽善エコロジー;環境問題は、石油・化学関連で働いてきたので、一般の人々より現場に近い所に居た。化学工学会の経営システム委員会でもひところ研究テーマとして重点的に取り組んだ。経済発展と環境改善をバランスさせる難しさを具体的に、身近に感じてきた。しかし表層的なメディア、これに拙速に対応する行政にその実質効果に疑問を感ずる局面が多々あった。
 この本は、ゴミの分別収集(苦労して分別したゴミの行き先は?)、生ゴミの堆肥化(危険物の植物を通した循環)、古紙のリサイクル、割り箸と森林保全、家電リサイクルの実態など身の回りの環境問題を取り上げ、専門家(資源材料工学)の立場から分かりやすく、問題点を掘り下げ、それらが真の環境改善に繋がっていないことを指摘している。更には環境規制を利用して不当な利益(税金や課徴金)を得ているもの存在を匂わせている。当に“偽善”である。
 アル・ゴア前アメリカ副大統領の出演で有名な「不都合な真実」が、10万年台の変化をさも間近に起こるかのような印象を与えるとイギリスで教育問題の裁判沙汰になり、判決として、上映前に先生が「この映画には誤りがある。危険を煽りすぎていると言うこと」が条件になったとのこと。これなど社会的地位の高い人だけに、悪意は無くとも“大いなる偽善”でと言って良い。
 この本は既にベストセラーとなっており、その数字や論拠に疑義を挟む意見も出ているが、浅薄なエコロジーブームに一石を投じた勇気を評価したい。

2)と3)は畏友元東工大教授(現中央大学教授)今野浩先生の著書である。二冊の本の材料は自身が体験したOR(特に線形計画法;多項連立一次方程式で検討対象を表記し、最適化を図る)の発展史であるが、前者が“自分史”的な視点で書かれているのに対し、後者は線形計画法(特に整数計画法)の理論的発展と利用面での消長を小説タッチで書いたユニークなエンジニア小説(筆者の命名)である。専門家が通史として読むなら前者、一般の読者が読むなら後者と言うことになろうか。
 数学が苦手だという人は多い。受験のための数学はやむを得ず勉強したが、それが終われば用無し、それからは忘れる一方。あげくは「数学なんて役に立たない」となる。工学部にしても在学中はともかく、卒業すれば設計や解析の為の数理は公式化されたものを、経験を交えて使いこなすことが中心になる。純粋数学は無論、実社会への橋渡しをする応用数学も専門研究者の世界に留め置かれてきた。これが20世紀前半までの数学利用状況である。
 しかし、コンピュータの出現は数学を実社会で活用する環境を急速に変えてきた。各種のOR技法が軍事やビジネスを対象に開発され、実用に供されるようになってくる。中でも線形計画法のアルゴリズム(解法)として単体法(シンプレックス法)が考案されると爆発的にその応用範囲が広がっていく。コンピュータの電子技術的な進歩と問題解決のより効率的なアルゴリズム開発は、それまで不可能(時間がかかり過ぎるケースも含めて)と思われていた問題解決を可能にしてきている。ただ、この道は決して平坦なものではないし、まだまだ挑戦すべき課題は多い。
 筆者の今野先生は単体法発案者のスタンフォード大学教授ジョージ・ダンチックの弟子であり、ここで博士号を取得、その後筑波大学、東京工業大学、中央大学で応用数学の研究と教育に携わり、特にわが国における金融工学の草分けとして“役に立つ”数学を実践された方である。その40余年にわたる活動が、新たなアルゴリズムの開発とその限界、さらなるブレークスルー、ノーベル経済学賞巡る暗闘、世界を動かすユダヤ数学マフィアとの関わりなどを交え、科学サスペンス小説として見事にまとめられている。“数学嫌い”の方々にも一読をお薦めする。


4)危うい超大国-中国-;巷間に溢れる“中国脅威論”の一つである。しかし、他の本と一味違うのは、筆者がキッシンジャー密使訪中後、初の留学生に選ばれ本格的に彼の地で学び、その後国務省に入り、クリントン政権では国務次官補代理として対中政策を統括し、多くの重要外交交渉に従事した点である。
 彼女が“危うい”と見ているのは、共産党一党独裁体制におけるトップのリーダーシップ(特に外交における)にある。毛・周時代は二人の圧倒的なカリスマ性で、彼らが決めた国策が云々されることは全く無かった。鄧少平も幾度も挫折しながら突出した力を持っていた。しかし、彼の開放政策は多様なマスメディアの出現を許し、一方で後継者(江沢民、胡錦涛)は彼のようなカリスマ性を持っておらず、メディアをバックにする政敵の批判をかわすことに汲々としなければならないのが実情なのである。そのためにはナショナリズムの高揚は保身材料になる。
 またメディアも経営的な面からセンセーショナルな話題を好んで取り上げるようになってきており、経済成長による自信と相まってナショナリズムを煽ることが販売部数の増加に繋がっている。この対象が、米国、台湾、そして日本である。
 米国に対しては覇権国家に対する新興超大国としての挑戦、台湾に対しては独立分離への牽制、そして日本に対しては中日戦争を勝利に導いたのが共産党であることを再認識させる格好の対象として、リーダーの危機に対して発動される特異的な外交行動になっていると筆者はみている。
 共産党が中国史から汲み取った教訓は、体制に不満を抱えたさまざまな社会集団を一つにまとめる思想は、ナショナリズムであるということだ。だから支配が危機的になれば何が起こるかわからない。“(中央指導部の)弱い中国”は危機を招くと結論付け、これを防ぐためにはどうすべきか?筆者はこのための施策を最終章で、中国と米国指導部・識者向けにまとめている。
 では日本は如何にすべきか?反日教育が教育現場だけでなく、体験者の口づたえに今も連綿として語られているだけに、この国との付き合いが我々にとって超長期国家戦略であることは間違いない。今の政治・行政・言論にこのような課題に取り組み、国民に理解させる意気込みが全く見えてこないことを憂うる。出でよ!日本のスーザン・シャーク。
5)「兵隊たちの陸軍史」;直木賞作家(1961年度;蛍の河)、伊藤桂一の帝国陸軍雑史である。もともと本書は大宅壮一監修の現代史「ドキュメント=近代の顔」シリーズの第一巻として書かれたものである。このシリーズを開始するに当り大宅は「第一巻は戦争、戦争ならば著者は伊藤だろう」と著者を指名したとのことである。
 私は伊藤が旧陸軍を主体とした戦記文学者、それも兵隊の視座で書いていることは知っていたが、著作は読んだことはなかった。中国戦線の陸軍の戦いは殆ど最新兵器と無縁だし、誕生の地、満州とも関係が無いことが興味を呼ばなかった。この本を手に取ったのは8月6日、戦争モノが書店にいっとき集中する時期である。徴兵令の解説から始まる本書を眺めていると、続く初年兵教育、兵営の生活、戦闘行動の実際など、知らないことばかりである。大宅が現代史の一環として戦争を語るのに伊藤を選んだ狙いと慧眼にただただ恐れ入った。戦争を理解するのに、こう言う見方が有ったのだし必要だったのだと軍事オタクの目を覚まさせてくれた。
 兵隊(氏は何度も召集をうけ、最後は上海郊外で伍長として兵役を終える)の立場から書かれた貴重な“旧陸軍辞典”である。
6)「海外旅行が変わるホテルの常識」;ニューヨーク・プラザホテルのアジア担当営業部長のアメリカ高級ホテル利用ガイド。評略。
7)イタリア人の友人が二人いる。二人に会ったのはアメリカ。そして二人とも日本を訪れている。毎年クリスマスカードには「イタリアへ出かけて来いよ!」と記されている。ボツボツこれを実現したいな。「知られざるイタリアへ」を購入したのはそんな動機からである。書店の旅行関連の書架に平積みになっている本書を手に取ると、内容は自動車旅行記の形になっている。これは一番好きな旅の本である(次に好きなのが鉄道)。買うときにチョッと気になったのは、筆者が外人名なのに、訳者が記されていなかったことである。あとで分ったことは筆者、ロバート・ハリスは嘗て有名なラジオ番組“百万人の英語”の担当者J.B.ハリスの息子、日本で生まれ、教育を受けた人であった。現在は紀行作家兼ラジオのナビゲーターをしている。
 旅は8年前訪れたことのあるシシリー島の小村から始まる。その時の知人達との再会。当時の思い出とオーバーラップさせながら、風景、料理、酒、祭りなどを話題にして話は進んでいくが、最大の関心事は“人”である。時には映画“ゴッドファーザー(シチリアマフィア)”との関わりを交えながらの人物描写は、土地どちのイタリア人像を浮かび上がらせ、イタリアへの関心がいや増していく。
 レンタカー、アルファ・ロメオ147はシシリーを離れるとナポリやローマのような大都会を避け、高速道路の利用を最低限に抑え、今回の最終目的地トスカーナ(フィレンツェやシエナが在る中部イタリア)へ向かう。地方の何気ない町で泊まり、人と出会い、会話をし、それを自身の人生の糧にしていく。ただの観光案内で終わらないところにこの旅行記の特色がある。
 筆者(同行のカメラマンも)はイタリア語を喋れないが、この旅をそれほど苦労せず続けている点は、イタリア行きを目論む私にとって勇気付けともなった。
8)「アメリカ大統領の挑戦」;筆者は東大名誉教授でアメリカ史(思想史、政治史)の研究者である。この本は先行出版されている「正義のリーダーシップ」;ジョージ・ワシントン等、「共和国アメリカの誕生」;リンカーン等と合わせて3部作となり、アメリカ史に大きな足跡を残した偉大な大統領たちを中心に、今日に至るアメリカが語られる。
 今回取り上げられた主役は、ウィルソン、ローズヴェルト、トルーマンの三人である。それ以降では比較的ジョンソンが好意的に取り上げられているが、巷間知名度の高いケネディはほとんど出てこない。そしで底流にあるのはブッシュ(ジュニア)がとんでもなく場違いな大統領で、この難しい時期に何故あのような人物をトップに戴くことになったかを、近代アメリカの社会環境変化を解説しながら語っている。筆者の状況認識は「アメリカ史最大の皮肉は、アメリカがかつてなく強大になった時に、国民はこれまでまずなかった程に不安を感じていることであろう」と言うことである。
 ここに至るプロセスとして、アメリカ人にとって“平等(民主主義)の是非”、“自由とは?”、帝国(土着のアメリカ人から土地を奪うことを含めて)主義”、“進化論の影響”、“外交”を歴史的にフォローし、やがて大統領がポピュリズムに侵されていく姿を浮き彫りにしていく。
 ウィルソンは、米国開闢以来始めてイニシアティヴをとる外交戦略(国際連盟)の推進者、ローズヴェルトはニューディール政策(それまで忌避されてきた政府主導の経済改革)の推進と第二次世界大戦の巨頭の一人、そしてトルーマンは大戦後の冷戦の断固たる実行者、アメリカだけでなく世界の指導者としてのリーダーシップ発揮した大統領として取り上げられている。大統領への助走期間、初期の評価、やがて傑出した力を発揮する(ウィルソンの場合は挫折する)個人としての資質や人間関係、行動がカッチリ描かれている。
 この3人に続いて紙数が割かれているのはジョンソンとレーガンで、ジョンソンはケネディ人気の陰に隠れながら議会を含む利害関係者間の調整の能力、レーガンは“最高の大統領役者”と揶揄されながら、冷戦終結と経済活性化、に実効を挙げた点を評価している。
 大学生時代40代の大統領、ケネディの誕生に強烈なインパクトを受けた私としては、彼が一顧だにされないことに複雑な思いだが、政治家としての後世の評価は“ポピュリズムよりは実績”という見方が正しいのであろう。いったい小泉純一郎とは何者だったのであろうか?20年後、30年後の評価を待ちたい(特異なリーダーシップは強く感じたが、景気回復は彼の成果だったのだろうか?)。
9)「世界を不幸にするアメリカの戦争経済」;これは読み物と言うより“論文”である(実際論文を読み物として書き直したと筆者もあとがきしている)。従って時間潰しに気軽に読む類の本ではない。しかし、私にとっては面白い本であった。
 骨子は、ブッシュがイラク・アフガン戦争(殆どはイラク戦争)で“3兆ドルをどぶに捨てた(戦死者や退役軍人に払う将来コストを含む。他の参戦国(日本を含む)を合わせれば少なく見積もってもこの倍;6兆ドルはかかると推定)”ことを各種のデータ(主として政府の会計データ)から証明することにある。これをノーベル経済学賞受賞の経済学者と商務省の元首席補佐官が行うのだから説得力がある。一体全体何処でこんなに金がかかるのか?どうやって賄うのか(“出来る”と筆者は明言しているが方法は示されていない)?どうしてこんな金額に達することがチェックを経ずにまかり通るのか(最初の予算は17億ドル)?そしてもしこの3兆ドルが他のことに使えれば、何が出来たか(出来るか)?が何度も(くどいほど)数字の確認(如何にひかえめか)を行いながら論述されている。
 これらの論証過程で、最高意思決定機関(大統領府、議会、国防・国務省など)の意識的欺瞞あるいは制度的欠陥が明らかになり、あの民主的で情報公開の手本であるアメリカでもこんなことが起こるのか!?と驚かされる。また、戦争のコストとして戦死者や退役軍人への各種補償(年金を含む)が膨大な額にあがること、負傷者(精神的なものを含む)の認定制度の欠陥(処理能力を超える申請で悲惨な状態にあること)、戦争の民営化(請負兵)の実態、災害対応に余力の無い州兵の影響(カトリーナ台風のような)などが、どう3兆ドルと関わるかを知らされた。
 終章は“アメリカの過ちから学ぶ”として18の改革案を提示している。その前文には「アメリカはいつかふたたび戦争に参画する。だから・・・・・」となっている。特異な国家の特異な論文である。紛争・戦争に目を塞ぎがちのわが国でもこんなことを学者や官僚が自由に語れるような環境が出来ることを望む。「給油法の経済」を待ちながら。