2008年10月23日木曜日

滞英記-9

Letter from Lancaster
2007年7月16日

 前報で英国の住宅事情をお伝えしましたが、先週政治の世界でいきなりこれがトップニュースになってきました。ブラウン首相の具体的政策が示されたからです。問題は財源をどうするか?にあるわけですが、彼は「“Super Casino”を再開し、これからの収入を住宅建設予算に当てる」と宣言したのです。“Super”の意味はカジノにホテルや他のレジャー施設が併設されていることから来ていますが、基本的には国営賭博をやると言うことです。実はこの財源システムはブレア政権以前に存在し、ブレアが首相になったとき止めたものです。それを同じ労働党政権下で復活するわけですから保守党は無論、労働党内からも反対が出ており、政権の行方にまで影響しそうな雰囲気です。
 タダで配られるローカル紙のトップ見出しに、“Let’s hope it stops raining”とあるくらい今年の天候は不順のようです。先週も日・月と晴れましたが火曜日から曇天・小雨が続いています。日本の梅雨に比べ寒いのが更に堪えます。こんな中で日曜日(8日)のウィンブルドン男子決勝は晴天の下、フェデラーとナディールの接戦が戦われました。しかし、英国の大衆がこれ以上に沸いたのが同じ日にシルバーストーン・サーキットで行われた英国F-1グランプリです。今年はルイス・ハミルトンと言う英国籍の黒人若手ドライバーが活躍しており、久しぶりに英国人のチャンピョン誕生が期待されているからです。そこで今回は<英国とモータースポーツ>についてご報告します。

<英国とモータースポーツ>
1)欧州におけるモータースポーツ発展と日本
 “戦争と道楽だけは真面目にやる”英国人を具現化した一つにモータースポーツがあります。英国に限らず欧州ではモータースポーツの人気、ステータスは日本と比較になりません。日本の人気は一部の若者のファッションの域を未だに超えていません。また熱狂的なファンも居るには居るのですが“オタク感”が拭えません。
 欧州の人気は、内燃機関、とりわけ自動車発祥の地として長い歴史があることと無縁ではありませんが、それ以上に黎明期における階級社会の存在と国家の関与が今日の隆盛に繋がっていると思います。広大な領地を持つ貴族、産業革命後財を成した産業資本家がこの文明の利器をスポーツに育て上げていったのです。貴族子弟教育の一環として、馬車で大陸大旅行を行い、見聞を広めることが習慣になっていた社会(特に英国)に出現した自動車がこれに代わり、やがてスピードと耐久性を争うモータースポーツに成長していくのです。自動車の名前にGTとつくものがありますね。例えば代表的なものにスカイラインGTがあります。このGTはGrand Touringの略で“大旅行”を意味する馬車時代の名残なのです。この名前を冠したからには、長時間高速クルージングが出来、乗り手に負担をかけないことが求められます。これがスポーツに転じて“スポーツカーレース”と“ラリー”が生まれました。
 スポ-ツカーレース(フォーミュラーカーとは違います)を代表的するものに公道を閉鎖して行うルマン24時間レースがあります。また、ラリー競技を代表するものには、雪の残る時期モナコ・フランスを中心に戦われるモンテカルロラリー、フィンランドの湖水地帯を巡る1000湖ラリー、ギリシャの山岳地帯を駆け抜けるアクロポリスラリーなどがあります。
 国家が深く関与して来るのはナチスの台頭と期を一にします。この少し前から飛行場などを使ってサーキットを作り(このアイディアも英国生まれです)、その中でスピードを競う自動車レースが各地で盛んになってきます。自動車の最大の魅力はスピードにありますから自然な成り行きです。代表的なのがドイツにおけるダイムラーとアウトユニオン(現アウディ)の戦いで、勝者は国家的英雄として崇められるようになります。
 他の国ではドイツのように国家が直接関与してくることは無かったものの、欧州の不安定な国際情勢の中で、優れたドライバーやメーカーを国威発揚の道具として利用する風潮が高まっていきます。大衆とモータースポーツの結びつきが戦争の予兆の中に育まれていったのです。
 戦後FIA(国際自動車連盟)と言う国際組織が生まれ、レースを統一的に執り行う体制が出来ます(各国、メーカーやモータースポーツ団体の思惑があり常にゴタゴタしていますが)。欧州の戦後復興に合わせるように各種のモータースポーツが盛んになってきます。初めて国家間の壁を越え、共通の基盤で競い合える環境が整います。しかし、その中で再び“国家”が蘇ります。車の色です。イタリアンレッド、フレンチブルー、ジャーマンシルバー(またはホワイト)そしてブリティッシュグリーンです。白丸とその中の黒いナンバー以外はこの色です。その他の国はこれ以外を適当にどうぞ。自動車先進4国の驕りと矜持の表れとも取れますが、実に各国の風土と国民性を表している、見事な色分けです。これが60年代まで続きますが、残念ながら現在は、レースに要する費用が当時と桁違い、スポンサーに頼る割合が高くなりベタベタと広告だらけで醜い姿になっています。
 次第に豊かになっていく欧州人が自家用車を持てるようになるのは50年代初めから、戦後のモータースポーツが新しい形で開花する時期と重なります。戦前上流流社会が開いたモータースポーツ、“あの上流階級の人達が楽しんでいる世界”に自分たちも加われると。
 英国では軍事目的を終わった飛行場が多数あり、ここを舞台に手作りレースが盛んに行われるようになってきます。この手作りは、レースのマネージメントに留まらず、量産車に手を加え、さらには主要部品だけ流用して専用車を作り上げる専門町工場まで出現させます。身近にあるサーキット、わが町のレーシング・ガレージ。ここには我われがキャッチボール、ゴロベース、三角ベース、軟式草野球から野球に馴染んできたのと同じプロセスがあります。各人各様の楽しみ方が自然に身についていくのです。そして一過性で無い人気を作り上げていったのです。
 英国のモータースポーツが上から始まり底辺へ拡大していった歴史をご理解いただけでしょうか?
 階級・国家は別にして、優れた自動車メーカーがありながら、日本のモータースポーツが盛り上がりを欠く最大の課題は、この世界で最も人気と権威があるF1に優れた日本人ドライバーが現れないことです。中島悟、鈴木亜久里、佐藤琢磨らの日本での人気・実力(琢磨は欧州のF2でドライバーズチャンピョンシップをとっているので他の二者とは当地での評価は違う)は抜群でしたが、世界での実績は競技生涯を通じて表彰台は一、二回です(琢磨はまだ現役ですので期待していますが)。この程度のF1ドライバーは世界にはいくらでも居ます。それもエンジンを供給する日本メーカーの辛抱強いサポートがあって実現しましたが、他国の出身者なら強豪チームに何シーズンも残れなかったでしょう。
 一流のF1ドライバーは欧州か南米出身です。奇しくもサッカーと共通する地域になります。モータースポーツの歴史を考えると欧州は分かります。南米も古くはファンジオ(アルゼンチン)、日本でも人気のあったネルソン・ピケ、早世したアイルトン・セナ(ブラジル)などが居ます。
 何故日本から優れたF1ドライバー(ラリードライバー、スポーツカードライバーも大同小異)が生まれないか? 司馬遼太郎が評論に書いていましたが(「この国のかたち」だったように思います)、日本兵は小銃射撃が下手でなかなか的に当てられなかったようです。この原因として、彼は日本人の“あがりやすい性格”をあげていました。特にこの性格は一人で問題に直面した時顕著になると。その反証として、チームで行う砲兵の射撃精度が極めて高かったことに触れています。これは現在の自衛隊にもある程度当てはまるようで、実射訓練が国内で行えないミサイル部隊は、部隊毎アメリカニューメキシコのホワイトザンズ実射場まで出かけて訓練を行っています(アメリカ出張の帰路このような部隊と同じ飛行機に乗り合わせました)。そこでの実績はアメリカ同盟国中最高レベルにあるとのことです。この指摘は一流F1ドライバー不在の理由と深く関わるような気がします。
2)マン島TTレース
 アイルランドとイギリス本島に囲まれて出来たアイリッシュ海のど真ん中に、マン島と言う小さな島(大体南北30km、東西15km)があります。私の住むランカスターとほぼ同緯度にあるので、街から西へ8km位行ったヘイシャムと言う港からフェリーで行くのが本島から最も早いルートです(3時間半)。
 イギリス人のオートバイ好きは、この国に来てドライブするたびに体験しています。高速でも、Bナンバー道路でもよく彼らと行き交います。暴走族のような集団には会ったことはありませんが、グループで楽しんでいる人達も多く見かけます。この自然環境の中で乗るオートバイの醍醐味は格別でしょう。アメリカや日本で人気のあるハーレーディビッドソンは全く見ません。多いのは250cc~450ccクラスの日本製です。私の中学・高校生時代、英国を代表するノートンやトライアンフのデッドコピーとも言えるようなオートバイを作っていた国がここまで成長したのです。
 この島で5月下旬から6月初旬にかけて行われるのが有名な“マン島TT(Tourist Trophy)レース”と呼ばれる、島の公道を使って行われるオートバイレースです。サイドカーを含む各種のクラスがあるので何日もかけて行われます。
 今年は本島からは無論、大陸からも1万台を超すオートバイに乗ったライダーがここにやってきました。人口7万の島に10万位の人が集まったようです。 この時期、毎年めちゃくちゃに飛ばすライダーがあとを絶たないことから、今年はこのランカスター地区で非常警戒が行われ多数のスピード違反者が捕まっています。違反者の最高速度は120マイル/時(ほぼ200km;現在のマン島レースの最高スピードが大体この数字)の猛者で、これは英国人(それも地元)だったとローカル紙が報じていました。公道(高速ですが)を200kmで飛ばす。良いことではありませんが、これも英国人のオートバイ好きを表す一例ですね。
 マン島TTレースは1907年開始という古い歴史を持ち、今年で丁度100年になります。日本で一般的に知られるようになったのは1950年代に入ってからです。それは1959年からホンダがこのレースに参戦するようになったからで、参戦3年目ホンダはここで、1,2,3位(確か125ccクラス)を独占、一躍世界のホンダとして名前を知られるようになったのです。本田宗一郎はこの成功を自社だけに止めず、スズキにも声をかけスズキもこれに挑戦するようになります。そして今やは各クラス日本勢の独占の状態です。この経験を基に本田宗一郎は67年ついにF1に参戦します。翌68年南アで3位、イタリアグランプリで初の優勝をもたらしたドライバーは、英国の二輪ライダーとして活躍したジョン・サーティーズでした。ここマン島は日本がモータースポーツの世界にデビューした記念すべき場所なのです。
3)F1レース
 F1の“F”はフォーミュラ(規則)の意味で、“1”はカテゴリー(種別)1と言うことです。2,3もあります。数字が増えるにつれマイナーになっていきます(新人の登竜門的性格が強くなります)。規則は数年毎に(というより最近は毎年)見直し・修正されます。この最大の目的は技術進歩(安全性を含む)を促すことにありますが、昨今特定のメーカー((コンストラクター;シャーシを作り全体をまとめる)、エンジンメーカーやタイヤメーカー)が勝ち続けることを封じるような傾向が出てきており、メーカーとFIAとの間でトラブルが絶えません。
 ヨーロッパはフォーミュラーレース発祥の地ですから開催場所も多く、英国を始め、仏、独、伊、ベルギー、スペイン、ハンガリー、オーストリアなどで開催されますが、最も人気があるのはモナコグランプリです。これは街なかの公道がサーキット(最高のドライブテクニックを求められる)になることと有名リゾート地故に有閑階級の人々が多数集まり独特の雰囲気が醸し出されるからです。レースを、ヨットバーバーに泊めた豪華なヨットから見物するシーンは、まるで映画“太陽がいっぱい”の世界を髣髴させる光景を作り出します。
 日本では昨年まで鈴鹿で開催されて来ましたが、今年からは再生した富士スピードウェイで行われます。最近はF1の人気が世界中で高まり、開催希望地が目白押しです(今年は17ヶ所)。アジアでも上海が加わりました。
 チャンピョンシップはこれらのレース成績を年間集計しトップに与えられます。それには2種類あり、一つがドライバーチャンピョンシップ、もうひとつがコンストラクターチャンピョンシップです。
 このレポートでお伝えしたいのは、この両チャンピョンシップで英国が、如何に実績があり、それが現在どのような状況にあるかと言うことと、フォーミュラーカーレース全体のマネージメントで英国人が果たしている役割についてです。
F1ドライバー
 1950年にスタートしたF1レースで最初に世界的(学生だった我われ世代が知っている)に名の知れた英国のF1ドライバーは、スターリング・モスです。彼は年度チャンピョンにはなっていないのですが、レースでの優勝は15回前後あります。英国人が彼を愛するのは、F1に関する限り英国車(コンストラクターが英国)しか乗らなかったからです。当時も強かったフェラーリに誘われても移籍をしませんでした。もし移っていたら何度か年度チャンピョンになれたと言われています。 その強さを表す逸話として有名なのが、当時英国各地でスピード違反を取り締まる警察官が、違反者に向かい「モスにでもなったつもりか!?」と問いかけていたと言う話です。英国人のユーモア感覚が良く表されていると思います。彼はその後“Sir”の称号を与えられ、現在でもF1報道に解説者として登場しています。
 60年代前半から中期かけて二人の英雄が出現します。この時代は私の和歌山工場勤務時代で、発刊間もない“Auto Sport”と言う雑誌を定期購読しており、よく目にした二人です。その一人はグラハム・ヒルと言います。若い人には1996年の年度チャンピョンでもあるデーモン・ヒルの父親といえば親近感が湧くのではないでしょうか(親子二代は彼らしかいません)。グラハム・ヒルの凄さは、F1で最も人気度の高いモナコグランプリに5度優勝していること、F1以外のビッグレース:ルマン24時間(スポーツカー)とアメリカ最大の自動車レースインディ500にも優勝していることです。この三大レース全てを制覇したドライバーは後にも先にも彼以外いません。無論F1の年間チャンピョンにもなっています。口髭を蓄えた上品な顔と静かな性格は英国紳士そのものです(実際はメカニックから叩き上げた苦労人ですが)。BRM(British Racing Motor)のエースドライバーでしたが、後年ロータスに移っています。しかし、ここでは次に取り上げるジム・クラークが既にエースドライバーの位置を占めており、彼が活躍する場が殆どありませんでした(シーズン中のジムの事故死で転がり込んだ年度チャンピョンが最後)。引退後自ら操縦する軽飛行機で墜落死しています。
 グラハム・ヒルよりわずかに遅れてF1界に登場したジム・クラークは、名将コーリン・チャップマン率いるロータスチームのエースドライバーで60年代後半まで他を寄せ付けない強さを発揮しました。クールな天才ドライバーで優勝回数25回、年間チャンピョンを2回とっています。スコットランド出身から、嘗ての特急列車に擬えて“フライングスコッツマン”と称されました。富士スピードウェイが出来た時来日し、コースを走るといわれていましたが、山高帽を被りロールスロイスの後席に座り一周しただけでした。
 これは今でも“何故?”と思うのですが、1968年F2(F1のトップレーサーが)のレース中に事故死しています。今年の英国グランプリでは若手のルイス・ハミルトンに期待が集まっていますが、この際解説者が引き合いに出すのは専らジム・クラークです。
 この二人に伍してこの時代活躍したユニークなレーサーにジョン・サーティーズがいます。先にご紹介したようにホンダにF1初勝利をもたらした男です。“ユニーク”の理由は、ホンダに参加する前はフェラーリで年度チャンピョンを取りその後もそこで活躍していたトップレーサーが、手弁当(つまり金蔓を自ら募って)でホンダに売り込んできたことです。初めて売り込んできた時、レース総監督の中村氏が「うちは貧乏でとても貴方のような高名のドライバーを雇う余裕はない」と断ったところ、「いや、金のことは自分で何とかするから心配しなくていい」と。ホンダの歴史を語るときよく出てくる話です。
 何故彼はホンダにこれほど惚れ込んだのか?実は彼は4輪レーサーになる以前は2輪で世界チャンピョンまで取った実力者です。ホンダの2輪での実力をよく知っていた彼はホンダのF1参加に期するところがあったようです。そして68年のイタリアグランプリでそれを実現したのです。英国人はホンダ、特に本田宗一郎のことをよく知っています。彼のような真の自動車好き、道楽が嵩じてたまたまビジネスになるような生き方は英国人の心をくすぐるようです。一人で4輪と2輪の年度世界チャンピョンをとったレーサーは彼を置いて他にはいません。そして今もこの業界で辛口の評論を続けています(F1に参戦している「スーパー亜久里チームのナンバー2ドライバー(日本人)はF1ドライバーの技量ではない」などと)。
 ジム・クラークの後を継いだのがジャッキー・スチュワートです。60年代後半から70年代全般にかけて活躍したドライバーで、F1での優勝回数が27回もあり1987年までこの記録は破られませんでした(破ったのはフランスのアラン・プロスト)。年度チャンピョンにも3度なっています。 彼もその後 “Sir”の称号をもらい、今年のグランプリでコメンテータとして、BBCのニュースに出ていました(BBCはF1放映権が無いのでニュースに登場しただけ)。
 ジャッキーのあとしばらく突出したドライバーが出ませんでしたが、80年代後半からナイジェル・マンセルがロータス、フェラーリ、ウィリアムズに乗り活躍し始めます。31回の優勝、1992年には年度チャンピョンになっています。
 これだけの実績がある英国ですがデイモン・ヒル(1996年)以降はピケ、セナ(伯)、プロスト(仏)、シューマッハ(独)など非英国人ドライバーが年度チャンピョンを制しており、英国人には臥薪嘗胆の10年だったでしょう。そこへ彗星のごとく現れたのがルイス・ハミルトンなのです。シーズン初めから表彰台の常連となり、カナダ、アメリカで連続優勝、直前のフランスグランプリでも3位入賞の実績を引き下げての英国グランプリです。故郷で是非錦を!ウィンブルドンどころじゃない!と国中が沸いたのも無理からぬことです。予選も一位(ポールポジション)。決勝当日への期待が、嫌が上にも高まります。TVでしか結果を知ることの出来ない私ももちろん優勝を願っていました。夜のTVで3位だったことを知り残念でなりませんでした。しかし今回も入賞、これで9戦全部表彰台(優勝2回、2位4回、3位3回)です。 知的な風貌、落ち着いた語り口、安定した走り、限られたチャンスを生かす勝負勘。彼がマクラーレン・メルセデスのナンバー2ドライバーだけに(ナンバー1の引き立て役を負わされるので種々ハンデがある;例えば、有力ライバルの進路を合法的に押さえ込み、ナンバー1が走り易い状況を作る。因みにナンバー1はここ2年連続年度チャンピョンのアロンソ(スペイン)です)その活躍に多くの英国人は天才ドライバー、ジム・クラークの再来を夢見るのでしょう。若手だけにこれからが楽しみです。
F1コンストラクター
 コンストラクターと言うのはレーシングカーを作り上げ、レース現場をマネージする会社です。現在ホンダ、トヨタは完全子会社のレース専門会社を英国に作り、ここからF1に出場しています(最近トヨタは後述のウィリアムズと組んでいますが)。フェラーリは量産車を作っているものの、会社全体の規模が小さくレース部門と一体化した会社とみて良いでしょう。
 F1のフォーミュレーション(規定は)は自動車本体や走行に関することだけでなく、コンストラクターに関しても種々の規定があり、年々厳しくなっています。これに関してはF1マネージメントのところで少し詳しく述べることにします。
 コンストラクターの起源は先にご紹介した、草レースを支えてきた専門町工場です。量産車の修理などを手がけながら、自らレースで走ったり、スピードマニアの頼みに応じて、エンジンのパワーアップや、足回りの強化、車体の一部を改造したりするうちにやがて大レースに欠かせぬ存在感のある企業が出てきます。これを追うように、レース好きが嵩じて大会社をスピンオフしたエンジニアや、レース活動を引退した有名レーサーもここの世界に入ってきます。バックグランドはまちまちですが、共通する特徴は、独立心が旺盛なことです。“大会社何するものぞ!”
 町工場からスタートして、世界を制したもっとも古いところはジョン・クーパーが起したクーパー社で1959年F1のコンストラクターチャンピョンになっています。翌60年も連続してチャンピョン。彼の名を不動のものにしました。 現在のF1はエンジン搭載位置がドライバーの直ぐ後ろ、後輪の前(上)にあります。この搭載法はミッドシップと呼ばれます。それ以前はレーサーのエンジンはドライバーの前に置かれ後輪を駆動する方式でした。ミッドシップは重心が車体全体の中央に来ることでハンドル操作の安定性が増します。高速で曲がりくねったサーキットを走るには最適な搭載法なのです。ジョン・クーパーは近代F1の生みの親ともいえます。
 これに目をつけたのがMINIを開発したオースチン社の技術者、イシゴニスでクーパーの協力を得て、スポーツ仕様のMINIクーパーを開発、この車はモンテカルロラリーで3回優勝し、BMW傘下で開発されたニューMINIにもクーパー仕様(更に、“ジョン・クーパー”仕様もある)があり今日までその名を留めています。
 エンジニア出身の代表は、ロータス社を設立したコーリン・チャップマンです。クーパーの後はロータスの時代と言って良いでしょう。ドライバーの項で紹介した天才ジム・クラーク、エンジンはコベントリー・クライマックス社開発(と言っても一から自社開発は弱小メーカーには無理ですから量産品に大掛かりに手を加える)のクライマックス・エンジンで60年代をリードしました。年度コンストラクターチャンピョンシップを7回も取っています。F1の技術を生かして生産されたスポーツカー;ロータス・エリート、ロータス・ヨーロッパ、組み立てキットとして販売されたロータス・セブンも人気をはくし、順風満帆と思われた矢先、ジム・クラークの事故死、チャップマンの急逝(1982年、40代後半だったと思います)で急速に力を失っていきます。
 ドライバー出身で最初に頭角を現したのは、ジャック・ブラバム(オーストラリア人)です。クーパーのドライバーとしてF1に参戦、自身3回年度チャンピョンになった彼は現役ドライバーを兼ねながらブラバム・レプコ社(英国拠点)を立ち上げF1に参戦、2回年度コンストラクターに輝きました。彼もSirの称号を得ています。
 80年代ホンダを連戦連勝させ、ホンダの撤退後はルノーを同じようにF1で常勝させたのはウィリアムズ社です。ドライバー(と言っても草レースの)兼メカニックだったフランク・ウィリアムズが設立した町工場がここまで成長したわけです。 年度コンストラクターチャンピョン獲得は9回で、フェラーリの14回に次ぐ歴代2位の記録です。長年のF1での功績を称えられ、ナイトの称号を与えられています。
 ドライバー出身者設立で現在フェラーリと激しく争っているのがマクラーレン社(英国拠点)です。設立者のブルース・マクラーレンはニュージランド出身のスポーツカードライバーとして60年代に活躍した人です。引退後レーシングカー(F1だけでなくスポーツカーも)のコンストラクターとなり、フォード、ホンダと組んで何度か年度チャンピョンを取り、現在はメルセデスと組んでいます。 通算年度チャンピョン獲得数は8回で、勢いがあるだけにウィリアムズを抜くのは時間の問題でしょう。そして、我がルイス・ハミルトンはこのチームに属しているのです。
 この他にも、英国を拠点にする(してきた)コンストラクターは、BRM、ローラ、ジョーダン、BAR(ホンダが買収)、ティレル(BARが買収)、アロウズ、レッドブルなどがあり、事実上フェラーリを除けば全て英国籍と言ってもいいくらいです。
 嘗てのコンストラクターは車体・足回りの製作とエンジンのチューニングが主たる役割でしたが、現在は車体の設計・製作は無論、タイヤや潤滑油の選択、各種電子制御装置の仕様決定などの技術的課題を全て執り行う他、レースの戦略、戦術(タイヤ交換や燃料補給などのタイミング)を計画実行する責務を負い、更にスポンサー獲得のようなマーケティング活動も行う、高度なマネージメント機能を求められるようになってきています。個別の技術的あるいは経済的課題は自動車会社の社員で出来ても、全体を管理することはそれなりの経験と知識が必要です。その人材と組織はここ英国に集中しているのです。
F1ビジネス・マネージメント
 個々のチーム(厳密にはコンストラクターとは違いますが、コンストラクターがチームの大半のメンバーを提供するのでほぼ同一です)が出来ただけではレースは出来ません。参加チームを一つの規定・ルールの下で競わせる環境を作る必要があります。レース予算・場所・スケジュールの決定、個々のレース実施計画策定・実施、レース全体のスポンサー(最大の金蔓はTV)開拓など、F1運営全体のマネージメントを手がける組織が必要です。
 システムプラザがブリヂストン全工場(国内)のタイヤ生産スケジューリングシステムを納めていた関係で、2001年生産管掌だった常務が私の自動車好きを知って日本グランプリに招待してくださいました。正面スタンドの向かい、各チームのパドックの上がスポンサーの招待席になっています。会食時にトップドライバー、シューマッハが挨拶に来たほどの特等席です。ここに達するブース共通回廊は外人がセキュリティチェックを行い、ブースで供される料理は全て外人のコックにより供されていました。ここまで含めて全てF1運営組織が執り行うのです。
 世界的なモータースポーツ(F1以外も含め)のマネージメントはFIAの統率下で実施されます。しかし実態は各競技(フォーミュラー、ラリー、スポーツカー、2輪など)のために出来上がっている競技運営組織が個別に作る計画を事後承認するに等しい時代が長いこと続いてきました。その結果、マネージメントが上手く行っているときには盛んになり、メーカー間の政治的主導権争いなどが起こるとレースがつまらなくなるなど、安定的成長を図るためのFIAの指導力を問われる事態がしばしば生じてきたのです。
 このFIAと各競技運営組織間のごたごたは当然F1業界にもおよんできます(特に独立系コンストラクターとメーカー系コンストラクターの対立)。そこに登場するのが、バーニー・エクレストンとマックス・モズレー、二人の英国人です。バーニーは叩き上げの実業家で、種々の事業で財を成し、道楽としてF1の予選に参加するような自動車好きですが、このごたつき始めたF1運営の世界に独立系の組織団体を足場に乗り込み、やがて運営組織の実権を握りFIAと激しく対立するようになっていきます。結局和解に持ち込みF1運営の主導権を握ります。この和解を有利に導いたのがバーニーのアドバイザー、マックスなのです。マックスはバーニーと違い、オックスフォードの名門、クライストチャーチカレッジ卒の弁護士です。バーニーが金と権力みえみえの行動をとる、ある意味でわかり易い男であるのに対して、マックスは表面に出ることも少なくレース関係者もゴタゴタがあるとバーニーと話し合ってきました(今でもこれは変わらない;来年のUSグランプリが開催されないことが決まったようですが、ここにもバーニーの名前しか出てきません)。しかし、ゴタゴタが深刻になるにつれ(常に問題になるのは、大自動車メーカーが単独でコントストラクターになることへの種々の制約です)どうやら真の権力者はマックス・モズレー(彼は決して“マックス”と呼ばせないようです)であることが見え隠れしてきます。そしてその姿がはっきりした時、彼はFIAの会長になっていたのです(現在も)。いまやF1だけでなく全てのモータースポーツか彼の下で差配されるようになり、気に入らない団体はFIAと離れて独自のレースを開催するようになりますが、メジャーな位置を失い、存亡の危機に陥っていくのです。独自のモータースポーツを育んできたアメリカだけは彼の軍門に下らず、わが道を行くので来年のUSグランプリが開催されなくなったのでしょう。
 マックス・モズレーとは何者か?何を企んでいるのか?彼の父、オズワルド・モズレーは、貴族の出で陸軍士官学校卒、22歳で保守党国会議員、その後労働党に鞍替えし大臣まで務めました。全体主義(ヒットラー、ムッソリーニそしてスターリン)が欧州に蔓延してきた時期、イギリス・ファシスト連合を創設、“全体主義には全体主義で!”と英国を全体主義国家にすべく政治活動を行い、ナチスドイツとの連帯を訴えかなりの支持を得ていたようです。ヒトラーは彼の存在に期待し、対英戦を避けることに腐心したとも言われています。当然第二次世界大戦が始まると、オズワルドは逮捕されますが、戦後自由を回復、1980年まで生存しています。1940年生まれのマックスが激変する父親の生き方をどう見ていたか、興味は尽きません。父が叶えられなかった、優れた者が権力を一手に握り、良かれと信ずることを独断で実行する。これこそ世のため人のためだと。国家とモータースポーツ、大きな違いがありますがマックス・モズレーはこれを実現したのです。独裁者になったのです。
 マックス・モズレーは悪しき権力者か?大自動車会社のモータースポーツ関係者は概ね“Yes”です。大体会ってさえもらえない。フォーミュレーション(参加規程)はメーカーに厳しくなるばかり。お金はむしられる、と。しかし、私は少し違った見方をしています。無論F1マネージメントの情報は限られているのでこの面では偏った見方をしている可能性大です。ただ、“ORの起源”を学ぶために英国人の考え方や行動について自分なりに調べてきました。そして気がついたことに、知識人に関しては“アマチュアリズム”の存在があります。専門外のことに飛び込むことに躊躇しない、あるいは受け入れる。趣味・好奇心で始めた個人的努力(見かえりを期待しない)を温かく見守る、風土が存在します。また、労働者階級にはギルドの精神を受け継ぐ“職業仲間の結束”があります。大メーカーの力ずく(金と技術)での参入は、特定企業の抜け駆けを許し、趣味・道楽・冒険の楽しみを著しく損なう恐れがあります。これは結果的にモータースポーツの衰退に繋がります。フォーミュレーション改定の動きに、主要要素(エンジンやタイヤなど)を一社に絞るような傾向があります(そのため数年前USグランプリでミシュラン勢がレースをボイコットしブリヂストンだけの競技になりました)。これは、機械と人間のバランスを保ったところでレースをやりたいとの考えに基づきます。作る者、走る者、見る者が身近に楽しめ、わくわくする(モータースポーツの原点)ようなレ-スにしよう。それにはガレージ・コンストラクターを潰してはならない。大メ-カーは部品だけ供給してくれ。これがマックス・モズレーの願い、実現したいと思っていることではないでしょうか?もしそれが動機の独裁者ならば、私は支持します。

 先に<英国自動車事情>で英国の自動車産業の惨憺たる現状をご報告しました。しかしモータースポーツ、特に2輪とF1は英国がその主役の座を占め運営に欠かせぬ存在であることをご理解いただけたことと思います。ポスト工業化社会が話題になって既に30年余を経ています。ハードからソフトへ、そしてサービスへシフトすると未来学者が予測していました。英国の自動車産業の動きを見ると確実にこの方向に向かっています。否!古くは繊維産業をリードしていた英国に大繊維会社はありません。しかし、バーバーリーやアクアスキュータム、ダンヒルは世界の高級ブランドでする。また、海洋国として造船業に秀でた面影は全くありません。しかし海上(のみならず)損害保険はロイズに収斂します。見事にサービス社会を先取りしています。

 製造業いのち!の我が日本はどうなるのか?

 実はこれを今回のレポートの結びにする予定でした。 しかし、夜中に目が覚め“モズレーの企み”をあれこれ考えている時、「あれ-っ、ひょっとして彼は相撲ファンではないのかな?それに違いない!ロンドン場所は人気もあるし」と。つまり、モズレーが実現しようとしているF1マネージメント体制は、「日本相撲協会」と極めて近いシステムと気づいたのです。力士はドライバー、F3、F2、F1と上っていくのは序の口から幕内までのプロセス、力士は部屋(チーム)に所属する、部屋(コントストラクター)は年寄株で制限される、行司も床山も部屋に所属する、警備も元力士、お茶屋(ケータリング)も相撲協会の内、6回の本場所はサーキット、巡業や相撲グッズ販売も協会のビジネス、ライブのTVはNHK独占など。バーニーは審判部長、モズレーは理事長と言うことになりますね。相撲人気が今ひとつの状況を考えると“モズレーの考えで良いのか?”、それとも“先進的”なマネージメントシステムもあるし、外人力士も増えたからぼつぼつ世界場所を考えたらいいかな?。また寝れぬ種が増えました。

以上