2008年12月30日火曜日

今月の本棚-5(12月)

On my book shelf-5

<今月読んだ本>1)日本と中国(王 敏);中公新書
2)鉄道地図の謎から歴史を読む方法(野村正樹);KAWADE夢新書
3)旅する力(沢木耕太郎);新潮社
4)機密指定解除(トーマス・B・アレン);日経ナショナルジオグラフィック
5)<満洲>の歴史(小林幸夫);講談社現代新書



<愚評昧説>
1)日本と中国-相互誤解の構造 もう“中国”はいいよと言いたいくらい中国モノの本が書店に溢れている。経済発展とその歪および国際政治におけるプレーヤー、特にわが国にとって厄介な隣人としての視点が圧倒的に多い。しかしこの本は決して時流におもねる類のものではなく、文化の根底の違い(副題にある、-相互誤解の構造-)を探り、その先に相互理解の道を探そうと言う建設的な内容のものである。
 中国側には日本文化は中国文化の亜流と言う見方が強いこと、日本側には「同文同種」で描く理想、相手を知っているつもり、と言う誤解があることを30年におよぶ日本文化研究から両国文化の違い(独自性)に踏み込んでゆく。
 先ず同文の漢字について、日本が漢字到来以前の言語体系の中で使ってきた言葉を漢字に置き換える苦労、さらには国字(日本製漢字)の考案に踏み込み、日本文化の独自性を説明している。例えば“働”や“躾”は国字でこれなど中国人が見ても理解でき、傑作と言う感想を持つらしい。一方同じ字が違った物・事を示す例として“椿”が挙げられている。日本の椿と中国の椿では花でも品種が違うとのことだ。
 字に関わる文化の違いはさらに文学に及び、もし仮名が発明されていなかったら「源氏物語」や「枕草子」に使われる繊細な表現は出来なかったと、“小さい”ことを表す漢字が“小”あるいは“極小”しかない例で説明する。
 この言語の違いの問題は議論を交わす場になると、気配りを重んじ敬語や丁寧語の多用する日本語は論理的展開に向いていないと感じている日本通の中国人が多い。凶悪犯説得にまで丁寧語で呼びかける日本の警察のやり方は、善悪をハッキリさせる中国や西欧の文化とは決定的に違うことを指摘している。この辺りは日本文化が仏教の影響を強く受けているのに対し中国は歴史的に儒教思想に長く支配されたことから生じているのではないかとしている。
 職場で何か重大な過ちを犯したとき中国なら「懲戒免職」となるような事件でも、日本では「辞職願」を出させ自ら辞める形を採らせ、周辺の人間は事情を知っているものの、公にはその内容が知らされない。このような対処は中国人(ばかりで無く西欧人も)から見れば寛容すぎると受け止められる。
 そして“誤解”の今日的な話題として「謝罪」が挙げられる。“何をわびるのか?” 日本では犯した“罪”そのものでなく、先ず“世間を騒がせたこと”をわびる傾向が強いと指摘する。その後で“罪”そのものは無罪だと主張する偽装事件のような例をしばしば見かけるが、謝罪したから「禊は済んだ」と言う考え方は中国人には通用しない。逆に言えば「原因がハッキリしなければ(その場を繕うだけの)謝罪などしない」と言うのが中国のみならず世界の常識だということである(こんな態度をとれば日本では袋叩きに会うことを筆者はよく承知している)。
 日本の土下座や禊は一回限りでその罪を謝罪したことになるが、中国では、謝罪する際には、何をどう反省したかを論理的に語ることが大事で、その内容を言葉で表現しない限り謝罪とは受け取られない。そしてその内容に一貫性が求められる。
 宮沢賢治の研究家でもある筆者は、日本人の「感性が基本」と言う考え方をよく理解している。その上で、中国人(否日本人以外の人々)の論理性を重視する考え方とどう折り合いを付けていくか? これを“未完の課題”としつつも両国における“日中異文化認識”を深めることがその改善のカギとしている。
 “リーダーの決断と数理”を研究する評者にとって、常日頃感じるのは決断に際しての“論理性の欠如(あるいは軽視)”である。“不満ミニマム”が最適とする考え方は小集団(鎖国した日本を含む)では通用しても、価値観の違う世界(異文化)では受け入れられない。両国の異文化理解を一般の日本人に理解しやすい形でまとめられた本書から学ぶところ大であった。

2)鉄道地図の謎から歴史を読む方法
 筆者の野村さんは親しい友人である。もとはサントリーのサラリーマンだったがミステリー小説で二足草鞋の作家デヴュー。その後早期退職してビジネス書を中心に作家活動をしてきた。長い付き合いの氏が鉄チャン(鉄道マニア)であることを知ったのは意外と最近で、昨年暮れの忘年会で鉄道エッセイ集「嫌なことがあったら鉄道に乗ろう」(日経新聞社刊)を手にしてからである。その際話術の巧みな氏から、鉄道ものの出版にまつわる苦労話を聞かされた。一言で言えばこの世界は“他分野からの参入に排他的”な空気が強いらしい。
 そんなこともあり今回の著書は鉄道をテーマにしながら“歴史”を学ぶところに主眼が置かれた“歴史モノ”だと言うのが本人の弁であった。しかし、マニアまで行かない“鉄道ファン”としては十分鉄道モノとして楽しむことが出来た。
 構成は明治維新後スタートした新橋・横浜間の汽笛一声から今日建設計画を進めている各新幹線までの鉄道にまつわる話題と日本の近・現代史上の出来事を巧みに組み合わせたユニークなもので、確かに歴史を通史として学ぶことにも役に立つ(中学生くらいか?)。ファンとして興味深かったのは地方鉄道や私鉄に関する部分で、会社の成り立ちや路線決定の経緯など初めて知ることも多く、そこそこ好奇心も満たされ、各駅停車の気分転換にもってこいだった。

3)旅する力-深夜特急ノート 副題にある“深夜特急”は筆者をノンフィクション作家として世に知らしめたものとして有名なデリー・ロンドン間を乗合バスで旅する旅行記である。今では多くの若者の旅行バイブルともなっている。評者も1986年5月、この本が出版された時にその第一巻と第二巻を購入している。
 この本で作者は旅に対する考え方、少年時代の旅体験、ノンフィクション作家としての修行時代を紹介し、やがて“深夜特急”の舞台裏を覗かせ、旅が終わったあとの自身の変化と“深夜特急”を書いてゆくプロセスを語っている。中でも第一巻・第二巻の出版(同時出版)が終わり、第三巻が出るまでに6年を要したことについて当時の心境を語るところは、評者も今か今かと待っていただけにこの著書でなるほどと納得させられた。つまりデリーから西南アジアを経てトルコに至るまでは“行けるかどうか分からない”状況に挑戦せざるを得ない状態の中での旅であったのに対し、トルコ以西はどのルートをとるかの問題であって、それまでとは異次元の旅になり一旦筆を下ろしてしまうとなかなか書けなかったということらしい。一般人の旅にたとえれば、自身で計画し実行する旅とパック旅行の違いのようなものかもしれない。前者は書く材料が向こうからやってくるが、後者ではガイドブックと違う、書く価値を持つ材料をどこまで見つけられるか難しいところがある。
 ノンフィクション作家として、筆者は無論旅以外のテーマも沢山書いている。特にスポーツ物や壇一雄なども評価が高いが、私としてはその後に読んだ「バーボン・ストリート」なども含めて紀行文が面白さにおいて郡を抜いているように感じる。それは多分自分の体験に基づいた作品だからであろう。その点で本書は旅への考え方とものを書くこと対する心構えを学ぶ格好の教科書であった。

4)機密指定解除  英米の機密解除文書、冷戦後の旧ソ連文書など軍事・外交に関わる極秘文書を丹念に調べ、50通を選び出し、そこに記載された機密内容と案件のその後の成り行き・結果をまとめたもの。古いものでは米国の独立戦争や南北戦争から、第一次・第二次世界大戦、新しいところではヴェトナム戦争やウォーターゲートスキャンダル、さらには9・11を予測したかに見えるに事例などが取り上げられている。
 スパイ、二重スパイ、暗号解読などその道の専門家が関わる例が多くを占めるが、意外と国家指導者の発した平叙文の手紙などもあり臨場感が味わえる。真珠湾攻撃やヤルタ会談におけるルーズヴェルトの発したものやアインシュタインが原爆開発を予見して大統領に宛てた文書など日本人に身近な話題も多々あり巷間伝えられてきた歴史観をチェックする面白さがある。
 ただ、50の事例に繋がりがあるわけではないので“この一冊から何を学ぶか?”は今ひとつまとまらない(推薦文を書いている外務省のロシア専門官だった佐藤優氏はその道の専門家育成用教材としての価値を書いている)。それに内容からくるのかあるいは翻訳技術からくるのか、日本語の文章として理解しにくいところもある。

5)<満洲>の歴史 生まれ故郷である満洲には特別な思い入れがある。従って個人の記録、写真集、専門調査・研究書のようなものを除く一般図書として“満洲”をタイトルに含む本が出るとつい手を出してしまう。その数は20冊を超える。これらの主題内容は種々雑多だが、概ね満州事変と関東軍、満州国成立と溥儀の復辟、満鉄(調査部だけに焦点を当てたものを含む)、満蒙開拓団、ノモンハン、ソ連侵攻、引揚げなどで、軍事・外交面から書かれたものが多く、意外と農業・工業を掘り下げたものが少ない(専門報告書を除く)。
 本書は大東亜戦争をアジア、特に中国・満洲に重きを置いて研究している学者が、日本人の視点と当時の現地既成勢力の立場の複眼で、この地方(現中国東北部)の通史を満洲成立の前史から消滅までを書いたものである。政治経済、外交、軍事はもとより農業、工業、さらには文化に至るまでカバーしている。
 評者が本書を高く評価するのは、開拓移民による現地での農業推進の実態、特に経済の面から簡潔に分かりやすくまとめていること。日本の戦時経済に先駆けた統制経済計画の理想と現実のギャップをこれも分かりやすくまとめている点である。農業でいえば北海道に似た自然環境の中で大規模農業を目指したものの、農業機械などほとんど揃えられずその土地を熟知した漢人・満人の従来農業を真似ることから脱せなかったことを失敗(人件費の違いから競争出来ない)の要因としている。工業では長期の平和を前提とした計画が日中戦争で滅茶苦茶にされていく。
 私事だが、国策会社、満洲自動車製造に勤務していた父が、生前当時の日本のトラックがフォード製に比べ如何に酷いものだったかをよく語っていたが、その論拠はアメリカから輸入した車を同社でテストしていたことにあることが本書を読んでいて分かった。
 新書版サイズで満洲全体を理解するには最良の書といえる。

2008年12月27日土曜日

篤きイタリア-3

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4.運河が巡る町;ヴェネツィア
 二人の友との楽しい時間はあっという間に過ぎ去った。ヴィチェンツァのホームでシルバーノが「もう自分は日本に出かけることはないだろう。でもいつでもこちらに来てくれることは歓迎だ」とポツリと言った。一瞬お互いの歳を考え胸が詰まった。「有難う。こちらも娘さんたちをいつでも歓迎するよ」 気休めのような答えを返すのがやっとだった。
 今回のイタリア行きを計画した段階から、二人の友と過ごす旅とその後の旅は別の旅であることを重々承知していた。後半はただの観光旅行、パックで旅するのと大きな違いはないと。それでも少しでも受身にならない旅をしたくそれぞれの訪問地に夢を託した。ヴェネツィアは学生時代(高校生だったような気もする)に見た映画「旅情」と「大運河」、フィレンツェには“ルネサンス文化”、ローマはあの“ローマ帝国”である。しかし、ヴェネツィアに関してはシルバーノと会ってから“ヴェネツィア共和国”がもう一つのテーマとしてクローズアップしてきた。一時はアドリア海、エーゲ海そして遥か黒海沿岸まで勢力を持った海洋大国の中心地に何か往時の面影は残っているのか?
 ヴィチェンツァから今回初めてのユーロスターに乗る。しかし時間はたった50分。ほぼ中間点のヴェネト州を代表するパドヴァに停車、本土側最後の停車駅メストレを過ぎると鉄路と高速道路だけが海の上を走る。水の都へのそれらしいアプローチに期待は高まる。十数分の海上走行の後ヴェネツィア唯一の鉄道駅、サンタルチア(光の女神)駅に到着。あの有名な民謡はナポリのもので夜景だが、午後の陽光に輝く海の上を走ってきてもこの名前はうれしい。


<水上バスに乗って>
 ホテルはリアルトホテル。代表的な観光名所、言わばヴェネツィアの銀座四丁目、リアルト橋の袂に在る。タクシーが全く存在しない街でどうホテルへ行くか?計画段階で調べると、水上バスが一般的だがモーターボートのタクシーがあるとなっていた。世界に冠たる観光地、水上バスで何とかなるだろう。それに「旅情」のキャサリン・ヘップバーンが演じるアメリカのOLも英語しか話さなかった。サンタルチア駅前広場の前はあのカナル・グランデ(大運河)、そこには水上バス(ヴァポレット)の船着場があり、切符売り場には各国からの観光客が並んでいる。頻繁に利用する人や長期滞在者には各種の割引切符があるが、ホテルと主要観光地を巡るだけなら徒歩で十分。切符は一回券と決めていた。暗記したとおり「コルサ・センブリーチェ!」と大声で言うと、切符を渡しながら「そちらの船着場だよ」と言うようなことを言って指を差す。航路2がリアルトへ行く船と予め調べておいたので“2”へ行くとやや込み合っている。乗船係が“1”へ行けと隣の乗船場を指示する。「リアルトへ行くんだが」「どちらもリアルトへ行きますよ」 どうやら二つの船着場を使って乗船人員の調整をしているようだ。
 ヴァポレットは真ん中が乗降と立ち席、前後が椅子席になっている。勝手が分からないので乗降口近くの立ち席の手すり寄りに位置をとる。フェローヴィア(サンタルチア駅前の船着場)はカナル・グランデの逆S字(あるいは2)の書き出し点に在りリアルトはその中間点に在る。船着場を出ると直ぐに、さまざまな石造りの建物が連なって水に浮かぶあの光景が現れる。ホテルあり、カジノあり、アパートあり。建物によって運河側が正面あり、裏口あり。一体どうやって作ったんだろう?先ず浮かんだ疑問はこれだった。あとでガイドに聞いたところでは、干潟に木材の杭を沢山打ち込んでその上に建てたと言うのだが、それにしては何世紀もの間よくもったものだ!異様な景観に目を奪われる。大運河にはヴァポレットや水上タクシーばかりではなく雑多な船が行き交い、運河が道路代わりであることがよく分かる。何箇所かの船着場に寄ってリアルト橋をくぐるとリアルトの船着場だ。長いこと大運河に架かる唯一の橋だったことでその周辺は広場になっており、カフェテラスや土産物屋が密集し、観光客が橋も含めてその一帯にわんさと居る。
 ホテルはその名の通り橋の袂で船着場から1分。至極便利は良い。しかし、外壁の色を見て驚いた!窓枠部分が白であとは全部けばけばしいピンクである。日本ではラブホテル以外こんな外装はない。これが本当に四つ星ホテル(日本のガイドブックでは三ツ星)なのか?!と一瞬不安になる。木枠に素通しガラスのドアーを開けて中に入ると雰囲気が外とは全く変わる。こじんまりしたロビーは静かでその前にこれもこじんまりしたフロントがある。外はごった返しているのにロビーで一休みと言うような観光客は全く居ない。ホッとする。チェックインも英語で問題なく済み、ボーイにスーツケースを託し部屋へ案内してもらう。ここでまた不安な気分が再度頭を持ち上げる。ホテルの前面からはそれほど広い感じがしないが、内部はアップアンドダウンのある迷路のようになっている。はたして案内無しでロビーまで辿り着けるだろうか?火事にでもなったら?と。
部屋に入ってさらにびっくり!壁紙は幅の異なる緑と白のストライプに赤い花があしらってある。家具も緑。陽の注ぐ部屋ならともかく、路地に面した窓しかないこの部屋には妙に派手派手しく落ち着かない気分だ。しかし、これはある種の文化の違いかもしれないと思ったりもする。かつてワシントン郊外に住むアメリカ人の家に泊まったことがある。この時泊まった部屋はすでに独立して家を出た娘さんの部屋であった。その内装はやはりこの部屋のようなカラフルな壁紙やパステルカラーの家具に囲まれていた。郷に入れば郷に従おう!

<深い霧とタバコの口臭>
 9日はガイド付の観光を午前と夕方ゴンドラによる運河巡りをMHI社に頼んであった。午前のガイドと会う場所はサンマルコ広場の一角にある土産物屋の前。朝ホテルを出てびっくりしたのは大運河の対岸が霞んで見えるほどの深い霧であった。行き交う船も心なしか速度を緩めている。広場までの道は迷路のようだが昨日明るい内に確かめてあるので少々の霧くらいで道に迷う恐れはない。しかし、この調子では午前の観光の楽しみが殺がれる恐れがある。案の定広場に着くと南側の海に面した辺りは先が全く見えない。そんな霧の中で観光客のグループが少しずつ集団を作っていく。多様な人種、東アジア系もそこここに見られる。
 ガイドが付く観光はミラノ以来である。前回は英語グループに日本人がガイド付きで加わる形式だった。今回も同じ形かあるいは日本人だけのグループにイタリア人と日本人のガイドが付くのではないかと予想し、日本人らしい人達の動きを追っていたがさっぱりそれらしい人が現れない。すると薄紫色のやや厚手のコートをまといメガネをかけた、イタリア人の30代後半と思しき女性が日本語で私の名前を問いかけてきた。これが今日のガイド、シンシアさんである。この地の大学で日本語を学び日本へは数ヶ月の短期留学だったようだが、モレシャンさん風の欧米人独特のイントネーションを除けば、きちんとした会話が出来る。今日のお客は我々二人とのこと。濃い霧はこの時間毎日発生ししばらくすると晴れると言う。有り難い!
観光コースは、サンマルコ寺院→ドゥカーレ宮殿→ヴェネツィアングラスの工房である。それぞれの説明は観光案内書に譲り、個人的な関心事を略記してみたい。
 サンマルコ寺院:ミラノや後に見るフィレンツェのドーモ(中心寺院)、ヴァチカンのサンピエトロ寺院と比べ明らかに東洋風(球面・円弧の多用、装飾が細かいなど)である。イランの古都イスハファンのモスクやイスタンブールのアヤソフィア寺院等との共通性を感じさせる。つまりヴァチカンよりも東ローマ(ビザンチン)帝国側の影響が強かったということだろう。ヴェネツィア共和国の最盛期、その富も技術も東からもたらされたことを示している。
 ドゥカーレ宮殿:元首(ドージェ)の居城であり、行政府であり裁判所であった。古代ギリシャ都市国家は共和制であったがローマに飲み込まれていく。ローマは共和制から出発して帝政になった。その後このヨーロッパ・地中海域で共和制を維持したのはフランス革命以前ではここヴェネツィアしかない。7世紀から18世紀まで、1100年にわたる歴史上最長の共和国である。どんな共和制だったか?トップの元首は有力貴族から選ばれ、終身。貴族の男子は成年に達すれば国会議員になれる。国会議員の中から元老院議員が選ばれる。この元老院の中からさらに10人の委員が選ばれ、ドージェとその補佐官6名を加えた通称十人委員会が最高意思決定機関を構成する。ドージェ以外は2~3年で交代する。これをみると、ローマの元首に当る執政官は終身ではなかったが、共和政時代のローマと似たような形態とも言える。この各々の機能を果たす部屋が何度か火災に会いながらも改修・改築されて残っており、シンシアの説明も丁寧で往時の隆盛を偲ぶことが出来た。
 沢山のグループがそれぞれの言語で説明を受けるので何処も話しが聞き取り難い。その点こちらは少人数、シンシアの口元に耳を近づけて聞くことが出来る。参ったのは強烈なタバコの口臭であった。

<イタリア風?焼き魚> 夕方からはヴェネツィア観光の目玉、ゴンドラでの運河めぐりである。これも予めMHI社を通じて、夕食とセットで手配しておいた。乗船場所はサンマルコ広場の南側に開けるサンマルコ運河の一隅にあった。既に二組4人の日本人が集合場所に来ている。どうやら二組とも新婚さんのようだ。日焼けした中年女性の日本人ガイドが乗船の要領など説明してくれる。一組のゴンドラは特別仕立てで新婚さん一組の他にアコーデオン奏者ともう一人小太りで髭を生やしたオジサンが同乗する。我々4人は次のゴンドラに乗る。ゴンドラ乗り場はサンマルコ運河につながる小運河にあるが、ここを出るとしばらく外海につながり大型船も通るサンマルコ運河に出る。波が高いのでゴンドラは海浜遊歩道沿いに用心しながら次の内陸小運河の一つを目指す。ドゥカーレ宮の裁判所で有罪を言い渡された罪人が牢獄へ送られるとき通る“溜息の橋”が架かる運河がその出発点となる。この“溜息の橋”周辺は現在補修工事中で、広告の絵が描かれた化粧版で覆われておりがっかりさせられる。それでもそこを過ぎるとそれなりの風景になるのだが、今度は一緒に出発した二艘のゴンドラの船頭同士がまるで喧嘩でもしているように大声で何やら怒鳴りあっている。気分を殺がれることおびただしい。ガイドは同乗しないのでさっぱり要領を得ないが終始こんな調子であった。しかし、アコーデオンが奏でられ、髭のオジサンが立ち上がって美声でイタリア民謡を歌いだすと、さすがに静かになった。新婚さんへの特別サービスのおこぼれは我々だけでなく、運河沿いの道を散策する人や橋を渡る人々にも行き渡り、しばしの野外演奏を楽しみ、彼らに感謝し祝福する。
 船着場に戻ると件の日本人ガイドが待っている。ゴンドラ観光が夕刻だったこともあり、今回の現地ツアーで唯一ここだけ食事付きにしたのでレストランまで案内してくれることになっている。これに参加したのは同じゴンドラに乗った新婚さんと我々の二組であった。レストランは船着場から5分くらいの路地にある比較的カジュアルな感じの店で、地元の人も利用しているようである。店に入ると、ガイドが「料理はシーフードの前菜、プライムはリゾット、セコンドは焼いた魚料理、最後はデザートとコーヒーかティーです。飲み物は別料金です」と説明し、ここで案内を終えて去っていった。
 ハーフボトルを頼み、前菜・リゾットと進む。悪くない。自分でアレンジするより手間がかからず良かったなと思う。イタリア風の“焼き魚料理”に期待が膨らむ。やがて供された皿を見て一瞬「これがイタリア料理?」 その皿の上には真ん中に小ぶりのいか、その外側に小さないわしのような魚、これも中サイズの車えび、やや大きな赤いサーモン。いずれも焦げ目はついているがソースの類はかけられていない。いわし風のものを試すとまるでめざしである。他もサーモンがバターかオイルを使っているほかは、塩コショウだけの味付けである。「イタリアまで来て何でこんないい加減な焼き魚を食わなきゃいけないんだ!」私はワインの勢いもあり一応全部平らげたが、家内は途中でギブアップだった。
 思うに、これは決してイタリアあるいはヴェネツィアの料理ではなく、昼夜パスタ料理で過ごした日本人の中にこんな料理を所望する者が居て、日本人向け地元観光業者が指示したものではなかろうか?多分厨房で調理しているシェフ達は「日本人はこんなものが旨いんだろうか?」と思っているに違いない。
 後日フィレンツェのレストランで一夕魚料理を薦められた。ここも日本人観光客が多い町である。「また例の焼き魚か?」と思い遠慮した。隣のテーブルにあとから来たイタリア人カップルの女性がそのお薦め料理を注文した。鯛のような魚を焼いたものにとろみのスープがかかったもので、おいしそうに食していた。

<二つの映画>
 高校生、大学生の頃は映画を観るのが最大の楽しみであった。場末の映画館で二本立ての洋画をよく観たものである。海外へ旅立つ時いつもその時代に見た映画に思いが至る。今度のイタリア行きでは、このヴェネツィアで「旅情」と「大運河」、ローマには「ローマの休日」「終着駅」「自転車泥棒」などが思い起こされた。いずれも1950年代の半ばから後半に観たもので、まだ日本が貧しく、海外へ出ることなど夢のまた夢の時代だった。半世紀経った今と昔の映画の記憶がどこまで残っているか?こんな興味で街を徘徊するのも旅の楽しみの一つである。
 「旅情」は、キャサリーン・ヘップバーン演じるアメリカ人のハイミスが念願の欧州旅行を実現する中で味わう中年の淡い恋物語であるが、アメリカ人向け(監督は英国人の名匠、デヴィット・リーンだが)観光映画という趣もあり、容易にその軌跡を追うことが出来た。ヴァポレットに乗るシーン、サンマルコ広場のオープンカフェ、広場に面する観光客相手の骨董屋、ここのオヤジを演じるのが恋の相方ロッサノ・ブラッツィ、ゴンドラに乗り立ち上がって写真を撮ろうとして運河に落ちるシーン、別れのサンタルチア駅(駅舎はまるで違うが)。映画のシーンと現物が頭の中で一致すると何かホッとする。しかし、こういう“名所を確認すること”に重きを置く観光は果たして健全なのかとも思ったりする。不思議なのは、既にあの時代ハリウッド映画はカラーで撮られているはずなのに、何故か頭に浮かんでくるシーンに色が付いていないことであった。
 「大運河」は、フランス映画だけにアメリカ映画に比べストーリーが複雑でメンタルな要素が深い。若い女性(フランソワーズ・アルヌール)を巡る3人(一人は老人)の男と昔の老人のナチの贋金作りが絡む話で、当時観た時も理解し辛かったので今では筋もよく思い出せない。ただ、複雑に張りめぐらされた運河が、犯罪の実行や捜査に重要な役割を演じていたことで妙に記憶に残っている。現在と全く異なるのは人の数である。あの映画にもサンマルコ広場が出てきたような気がするが、どのシーンも静かで寂しい風景の中を靴音だけが響くような画面だった。例の“焼き魚”の夜、レストランからホテルへの帰り道を間違えどんどん辺鄙な場所に迷い込んでしまった。明かりは見えても人影はほとんど無い。ふとあの映画の中に取り込まれるような感じがした。
 頭に浮かぶ情景は、「旅情」が太陽きらめく“陽の世界”なら、「大運河」は重い雲に覆われた“陰の世界”であった。それでも何故かこちらにはくすんだ色が付いている。映画と現実の違い、50年の歳月、そして自らの老いがこの不可思議な現象を引き起こしているのであろうか?
 この奇妙な思いを今に残してヴェネツィアの旅はおわった。

2008年12月14日日曜日

滞英記-13

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Lettrr from Lancaste-13
2007年8月19日

 8月15日、日本では終戦記念日、こちらではJ-Day(対日戦勝記念日)です。フォークランド戦争25周年の仰々しい報道ぶりから、どんな行事があるのか興味津々でBBCを観ていましたが、一切これに関する報道はありません。区切りが悪いからでしょうか(62年)?このところのニュースは、インド・パキスタン独立60周年、十代の若者のアルコール問題、特に殺人、ヒースロー空港拡張計画に対する環境活動家の実力行使などで大きなニュースはありません。
 日本ではこの時期暑さの最盛期でしょうが、こちらは天気になれば、先ず先ずの日差しがあるものの、気温は上がらず20度前後で、家の中でも肌寒いほどです。これもマクロな環境破壊の兆しなのでしょうか?
 牧草地では干草(Hay)用牧草の刈り取りが真っ最中で、後に撒く肥料の臭いが強烈です。臭い・匂いは文化、英国の田園文化を楽しむためには堪えなければなりません。きれいなところだけつまみ食いしていてはダメなのです。
 今回は、7月23日、24日に掛けて出かけた、イングランド北東部の代表都市、ヨークに関するものを<敵陣、ヨークへ>と題してご報告します。

 研究活動は前回も触れました、Waddingtonと言う生物遺伝学者が、沿岸防衛軍団でOR適用に当った経験をベースに書かれた著書を読んでいます。この本の内容は、課題そのもの、課題解決プロセス、適用手法などを詳しく記述したもので、米国戦時OR活動を紹介した、Morse・Kimballの「Methods of Operation Research」に近い性格のものですが、組織内(空軍省、空軍参謀本部、沿岸防衛軍団、軍団各司令部とORグループ)の問題解決対応(意思決定)が具体的に書かれており、研究目的により合致しています。
 現段階は主として、Uボート哨戒・攻撃に当たる現地部隊の航空機稼働率・任務遂行率向上策についてのOR適用で、特にメンテナンスの問題がその鍵を握ることを突き止め、そこから参謀本部や軍団司令部に提言をする場面です。1940年代初期に“ここまでやっていたのか!”とプラント・メンテナンスの現状と比較し、感嘆しています。それもメンテナンスには素人の生物学者が!

<敵陣、ヨークへ>
 ヨーク訪問は渡英前から考えていました。他の都市にはない幾つかの見ものがあるからです。先ず城郭、次いで上階に行くほど道路にせり出す異形家屋、そのままの姿が保存されているギルドホールなどがそれです。
 第一に英都ロンドン、次いでスコットランドの首都エジンバラ、ジェフの住むブリストル、とランカスターを離れて幾つかの都会を訪ねた後は是非ヨークに行ってみたい。
 ヨークの位置はほぼランカスターと同緯度、真東に当ります。残念ながら両都市を直結する鉄道路線はありません。鉄道を使うと四角形の三辺を廻るような具合になります。そこでレンタカーで出かけることにしました。車で出かける場合、ルートと宿泊をどうするかが一番問題です。Mナンバーの高速道路は鉄道と同じようにかなり遠回りになります。しかし、途中の休憩やガソリン補給は問題ありません。ただ、今回は片道150マイル弱なのでAの幹線道路(二桁)を使えば何とかなると読み、一般道路で行くことにしました。次はホテルをどうするかです。エジンバラ旅行でご紹介したように、古い都市の中心部に在るホテルは駐車場が問題です。特に今回のように城郭都市となるとさらに条件が悪くなると予想されます。ガイドブック、トーマスクックのホテルガイド(契約ホテルのみ)などを調べると、パーキング付きは何処も鉄道駅から1マイル以上あります。しかし、よく説明を見てみると、駅からの距離が全く記載されておらずただ“Adjacent(隣接した)”とあり、庭園のような景色の中に車が止まっている写真が目に付きました。ランドマークや駅からの距離を記載していない場合、普通は都市周辺の郊外ですが、これはそうでもなさそうです。そこでトーマスクックへ出かけ確認したところ、確かに駅の隣なのです!「車が駐車している写真があるが、長時間大丈夫ですかね?」 直ぐ電話でホテルに確認してくれ「大丈夫だそうです。ただし一日10ポンド加算されます。予約は不要で、着いたときフロントでその旨話せばいいそうです」 直ちに予約したのは言うまでもありません。因みに、ランカスター周辺での長期駐車料金は一日5~7ポンドですから、ヨークのような大都市で駅隣接となれば極めてリーズナブルな値段です。
 当日は晴れ。気持ちの良いドライブが出来そうな天気です。本来ならば19日(土)に受け取ることになっていたホテルのバウチャー(利用券)も借り出す予定レンタカーも、あの洪水トラブルで、この日の朝受け取りになりましたが、比較的近くへ出かける気安さもありそのことは全く気になりませんでした。気になるのはあの“市民税督促状”だけです。
 レンタカー屋(Avis)は中心街の北辺を通るA683沿いにあるので、今日のドライブには好都合です。ヨークへのルートはこの道を東北東に向かい、イングランド北部を西北から東南に横切る幹線道路A65へ出てそこをしばらく南東に走り、東西に横断するA59を東に向かえばヨークに達します。このA65からA59の道路は、ヨークシャー・デイルズ国立公園内を通るので、A65と並行して走っている観光鉄道として人気のあるセトル・カーライル線と交わったり、見慣れた牧草地帯を離れ一帯に鍾乳洞が数多く点在する、石灰岩がむき出す丘陵地帯を走ったりするドライブを楽しむことが出来ます。今回は立寄りませんが、この観光鉄道には19世紀に出来た、荒涼とした大地を貫く長大な石造りのリブルヘッド陸橋があり、その辺は我が家から片道1時間位のドライブ圏です。
 A59は西側からヨーク中心部に達しており、南北に走る鉄道を陸橋で横切り、線路に沿って北へしばらく走ると駅へ出ます。この駅の北側に、駅舎と隣接して建っている石造りの建物が今夜の宿舎“The Royal York Hotel”です。通りを隔てた向かいには城壁が続いています。道路から左折するホテルへの道は遮断機がありそこから中はホテルの敷地です。広い庭園があり、緑と花々が見事です。あの写真の通り、庭園の周辺が専用駐車場になっているのです。“こんな立派なホテルだったんだ!”これが第一印象です。気楽な一泊旅行を考えていたので、カジュアルの着たきりすずめです。チョッと気後れがしました。石段を数段上がって中へ入ると天井が高く、床には絨毯。駅に隣接しているにも拘らず、人の出入りも殆どない静かなロビー、上階へ通じる幅広い階段にも絨毯が敷かれています。古き良き時代の、映画に出てくるような雰囲気です。そのロビーに半円形に突き出したフロントでバウチャーを示すと、チェックインの時間(2時)にはかなり早い到着にも関わらず全て準備が出来ており、「お部屋はファーストフロアーです。お荷物お持ちしましょうか?」とキーを渡してくれました。「いや荷物は自分で運びます。(でもファーストフロアー?いくら身なりがこんなだからと言って一階はないだろう!;よく英国でやる間違えを、一瞬雰囲気に飲まれてしてしまいました。皆さんご承知のようにこれは2階のことですね)」
 部屋は残念ながら庭園側ではありませんでした。これは身なりではなく、料金の一番安い部屋を頼んだのでそうなったのでしょう。室内は外見と同じで、中々今どきの新しいホテルにはない天井の高い、広さも十分、静かな部屋で、バスルームの広さなど通常の3倍くらいスペースがあります。今まで私が英国で泊まったホテルの中で一番素晴らしいホテルと言っていいでしょう。値段も他の四つ星ホテルと変わりません。このホテルは日本の観光ガイドブックに出ていませんが、場所・つくり・サービス・値段いずれの面からもお勧めです。


2)城郭都市 城郭都市、それは日本には存在しない、しかし大陸には至るところに存在する都市です。そして英国にもこのような都市があります。確かに日本にも城郭はありますが、それは“城を守る”ためのものです。町全体を、市民を守るものではありません。この違いは、多分我われが同民族としか争わずにやってこられたからだと思います。異民族による、皆殺しの恐怖に無縁だった民族と言うのは世界でもそんなに存在しないでしょう。我われの安全保障感は、このような稀有な歴史によって出来上がっているのです。万里の長城は巨大土木工事ではなく、異民族支配の恐怖感を集積・具現化したものと言っていいでしょう。
 「The history of York is the history of England」は、ヨークを紹介するガイドブックにしばしば引用される、ジョージ6世の言葉です。ローマから始まり、ヴァイキング(ノルマン、ディーン)、サクソンの侵入をうけ、混血・同化していった歴史、スコットランドとの戦い、スペイン王位継承問題に発するフランスを舞台とする100年戦争、それと跨るランカスター家とヨーク家同族相争うばら戦争(30年戦争)、オランダから乗り込んできたウィリアムズ公。ヨークはこれら全てと深く関わってきた都市であることを、この言葉が物語っています。英国の城郭都市はここ以外にもありましたが、現在も町を囲む形で残っているのはこことチェスターくらいでしょう。カーライルは城砦(城郭の主として角の部分;Citadel)だけは立派なものが残っていますが、壁の部分はありません。戦いの歴史を刻んだ壁を歩いて、その城郭から来し方を偲んでみたい。これがヨーク訪問の大きな動機のひとつです。
 トロイの馬を引き合いに出すまでも無く、城郭都市の防衛力は相当なものです。オスマントルコが東ローマ帝国の首都、コンスタンチノープル(現イスタンブール)を陥すのにどれだけエネルギーを使ったか、攻城槌、大砲、地下道これだけで一つの小説が書けるほどです(塩野七生:コンスタンチノープル陥落)。近代ではナチスドイツ軍は、その眼前に迫りながら、ついにレニングラード(現サンクトペテルブルク)を陥とせませんでした。城郭が市民を守ったのです。
 壁の内と外には隔絶した別世界があります。微かな記憶は、出生地満州の新京(現長春)で母に連れられて行った“城内”です。日本人が造った新京は高粱畑を切り開いて出来た近代都市でしたが、城内はそれ以前からの中国人の町です。灰色の石(レンガ?)を積み上げた城門や城壁があり、中国語が飛び交う喧騒で猥雑で活気のある別世界でした。
 城郭と関連して内と外を分ける言葉に“ブルジョワ”があります。欧州大陸の都市によくある、ブール、ブルク、ブルジュなどの付く都市は“城郭都市”を表わしています。そして城郭内に住む人をフランス語でブルジョワと言うのです。城内に住めない農民や貧しい人々が起し“ブルジョワを倒せ”と叫んだのがフランス革命です。
 ヨークの城郭はかなり残ってはいるものの、主要な道路はこの城郭で遮断されることも無く、一見内外は一体化した町のように見えます。北東の切れ目から城郭の一角に取り付きその上を反時計方向に歩いてみることにしました。城だけを囲む城壁は何ヶ所かで歩いていますが、町全体は初めてです。通常城だけを囲むものは、通路幅がかなりあり外に向かった壁は凹型を連ねた形状で、隙間から矢を放ち、石を落とすようになっています。内側にも胸の高さくらいの壁があり所々に内部に下りる階段があります。しかしこのヨークでは外側は同じ形態ですが、通路幅は狭く、内側には本来壁や柵はありません。この上を歩く人の安全を考え鉄製の柵が後世(それもかなり最近)設けられているだけです。場所によっては行き交う場合、どちらかが立ち止まる必要があるくらいです。幅が広い所では今でも内側の柵が無い所もあります。一朝有事の際あまり機動的な防御策を講じられない感じがします。壁の要所には城砦があるので、守りもここを中心に行われるのかもしれません。城門(Barと言います)の部分には階段があり一旦地上に降りる必要のあるところや、上にも通路のあるものなどがあります。高さは概ね10m位、周辺は緑地になっていますがややV字を成している所もあり、堀が在ったのではないかと推察します。町なかをウーズ川とフォス川が流れていることから、これらを利用できたのではないでしょうか?現在は3ヶ所で壁が途切れていますが全長は4.5kmあります。
 ほぼ◇型の城郭を東北辺の真ん中辺りから取り付き北西に向かい、北の角から南西に歩いて西の角を曲がり南西辺の途中までを、二度に分けて歩いてみました。およそ全体の半分くらいでしょう。内と外の違いは一見はっきりしませんが、よく見ると分かってきます。外側には近代的な建物の多いこと、家並みが整然としている一帯が散見されること、また地上を歩くと外は建物のつくりがヴィクトリアン・ジョージアン以降の形式で、城内に多数見られた、一階は石積み二階以上木組みのような建物が無いことなどです。ただ、古いものが城外に全く無かったわけではなく、古い教会の廃墟が壁のすぐ外側に在るところをみると、かなり古い時代から壁の外にも人々の暮らしがあったことが予想されます。敵が攻めてきた時は城内に逃げ込んだに違いありません。西角(ランカスター方向)の城砦に立ったのは夕方でした。この城壁の上をジョギングしている人がいます。600年前リチャード2世(ヨーク家)に反旗を翻したランカスター軍の襲来を告げる伝令も、彼のように城壁を駆け抜けたのでしょうか?

1)ヨーク観光
 “敵陣”を語る前にザーッとヨーク観光をしましょう。チェックインしたのが12時過ぎ、ランカスターからは3時間弱です。これから5時過ぎまでの時間、昼食を含めて徒歩で主要な観光スポットは廻れます。ただし、博物館の類は入れていません。
 城壁をくぐり城内を貫くウーズ川の畔にイタリアンがあったので、そこでピッツァとビールで昼食。真っ先に出かけたのは上階に行くほど軒がせり出した建物が並ぶ、シャンブル通りです。第一印象は、写真で見るより家も通りも小振りだなと感じたことです。せり出し方もそれほど頭でっかちではなく、正直期待外れでした。一方で、工学的に見てこの位が妥当なところと納得もしました。途中に一軒改築中の建物があり、足場が組んであるのも、あの独特の景観を殺しています。通りの両側は土産物屋でこれには元々関心がありません。早々と通り過ぎて終わりです。
 次いで、ギルドホール(マーチャント・アドベンチャー・ホール)へ行きました。ここのギルドホール訪問のきっかけは、7月上旬、ランカスターから列車で1時間北に行った国境の町、カーライルのギルドホール訪問にあります。その際、説明員がホールを支える木組み構造を説明しながら、「ヨークのギルドホールはここの何倍もあり、見事なものです。この木組み構造と同じですが規模が違います。是非ご覧になることをお勧めします」と教えてくれたからです。実際出かけてみると、まるで大きさが違います。一階は言わばホールを支える部分と言ってよく、二階がホールとそれを囲むように幾つかの小部屋(理事長室など)から構成されています。ホールの広さは25m×15m位あります。このホール内には柱はなく、床は分厚い黒光りする木製です。これを一階で支えているのがカーライルと同じ構造の木製の柱です。ホール床を構成するスパンの長い分厚い板を支えるために、これも分厚い角材を、丁度傘の柄と骨の関係で骨が上部で東西南北に張り出しています。板や角材が交差する部分に丁寧な嵌め合い加工が施され600年も上の床、否、建物全体を支えてきたのです。一階部分も決して単なる床下ではなく、チャペルや貧民の施療施設が設けられ、その跡が保存されています。二階ホールはやや水平を欠いていますが、現在でも結婚式などに使われるそうです。
 カーライルとの共通点は、一階部分は石造り、二階から上は木と塗り壁から出来ています。石造りの多い英国の建造物ですが、この形式は時として集中的に特定の町・地域に見られます。木組み構造が表へ出て、塗り壁とコントラストをつくり、独特の模様を建物に与えるところに人気があります。実はシャンブル通りの頭でっかちも、この構造で出来上がっています。
 カーライルと大きな違いがあるのは建物の大きさばかりでなく、部屋の構造と用途です。カーライルには広いホールは無く、職種別(鍛冶屋、織物屋、皮なめし屋、肉屋、洋服屋など)に専用の部屋があり、その大きさは区々で、会議を行う時だけパーティションで区切るような職種もあります。これに対してヨークは、大ホール以外は理事たちの部屋や会議室だけで、職種別の部屋はありません。そこでこの点を説明員に質してみました。答えは明快で「ここはマーチャント(商人)・ギルドのためのものです。他の職人たちは別にそれぞれ集会場を持っていました」と言うことです。答えは明快でしたが、私にはむしろギルドが分からなくなってきました。中学の社会科や高校の世界史でギルドについて学んだ時、ギルドは職種組合で自分たちの職権を守るために活動したこと、またギルドが町や市の政治・行政に大きな影響力を持っていたこと等を教えられました(ロンドンのギルドホールでは現在でも市議会が開かれる)。しかし、ヨークのギルドホールを見ると(現物ばかりでなく、活動の歴史)、商人ギルドが市政を牛耳っていた様子が窺がえます。カーライルのような職人ギルドとの関係はどうなっていたのか?もしこの時代に生きていたら、多分職人ギルドの一員になっていたのでないかと想像する私にとって、何か釈然としない、課題の残る(ギルドは奥が深そうだ! OR研究のために目を通した文献の中に、戦闘機乗りと科学者の間に“Guild to Guildの戦いがあった”などと言う表現もある。面白い!もっと調べてみたい!)ギルドホール訪問でした。
 次いでイギリス最大のゴシック建築、250年の歳月をかけ1472年に完成したと言われるヨーク・ミンスター教会へ出かけました。とにかくその壮大さに圧倒されます。また、そこにある素晴らしいステンドグラスに目を奪われます。しかし、数多教会を見てきた後では仏(?)の顔も三度まで、特別関心を引くものはありませんでした。あとは観光ガイドブックに譲ります。


3)ばら戦争
 ランカスター、いやランカシャー地方に居ると至るところで赤いばらのマークを目にします。“Lancashire”と筆記体で書かれた文字の後に赤いばらが一輪描かれています。ランカシャーの公的あるいは公共的な建物や場所(主として看板の類)、車などに描かれているので自然と目に入るのです。
 Mauriceにヨーク行きを告げると、ニヤッとして「ランカスター家の奴が赤いばらを一輪ちぎってヨーク家の奴に投げつけた。するとヨークは白いばらを手折りランカスターに投げ返した。こうして始まったのが、ばら戦争だと言われている(無論冗談だけどね、と言う風に)」 Mauriceはヨークシャー出身ですが、この地に長いせいかランカスターへの思い入れが強いように感じます。こんな話もしていました「両軍和解が成って、ランカスターの教会に代表者が集まり祭事を行うことになり、そこにヨークの僧正(Bishop)が参加していた。祭事の最中天候が急変、激しい雷雨になり雷が僧正を直撃した。無論即死さ。あれは天罰だったとランカスターでは言うんだよ」と嬉しそうに語っていました。紅白対抗は日本にもある。しばし源平盛衰記を掻い摘んで説明したが、何処まで通じたことやら分かりません。
 源平合戦とばら戦争の違いは、源平が頼朝・義仲・義経間の争いが有ったとはいえ、平家と源氏と言う家系を異にする氏族間の闘争であったのに対し、ばら戦争は同族相食む戦いだったことです。きっかけは、イングランド王リチャード2世がフランスとの100年戦争を戦っている時、日頃うるさい叔父のランカスター公が亡くなり、その嫡子(つまり従兄弟)の領地を取り上げようとしたことから始まります。これから二転、三転、この間フランスとの戦いも入ってきます。30年戦争と言うのはこれからしばらくして、ヘンリー6世(ランカスター家)とヨーク公リチャードが戦端を開く1455年のセント・オールバーンズ(ロンドン北西郊外)の戦いから、1485年のランカスター派のヘンリー・テューダ(ヘンリー7世)が天下をとり、チューダ王朝を開くまでを言いますが、とにかく骨肉相争い血みどろの戦いが続いた時代で、シェークスピアはこれを基に「リチャード3世」を書いています。
 そんな訳で、“俄かランカスター派”の私としては、ヨーク訪問は敵陣初見参と言うことになります。行ってみて分かったことは“格が違う!”と言うことです。人口は4万4千対18万で約4倍ですが、町の賑わいや建物の風情にはそれ以上の格差を感じます。教会や鉄道は比較になりません。むろんホテル・観光名所もです。残念ながらヨークの圧勝です。ロンドン、エジンバラやブリストルのような大都会よりも落ち着き、“ここなら一人で長く暮らしても良いな”と思わせる町でした。この寝返りは正真正銘のランカスター派、Mauriceには内緒です。

5)国立鉄道博物館 長らく万世橋に在った交通博物館は閉鎖されましたが、元国鉄大宮工場跡に建設中の“鉄道”博物館が、いよいよ今秋10月開館します。京都の梅小路機関車館同様、ターンテーブル(転車台)を中に何台もの機関車が並ぶようです。今から楽しみです。
 子供は誰でも乗り物が好きです。小学生時代は鉄道技師が夢でした。父方も母方も全く理系がいない家系ですが、母方の遠縁に鉄道省(後の運輸省+国鉄)の技師が居たようで(その人は早世し、話が出ている時には既に故人だった)、母や叔父・叔母が、別世界の人間を語るように、その人の現役時代の話をしてくれたのが大きな理由のような気がします。もう一つは、終戦直後の乗り物で、唯一まともなものは鉄道しかありませんでした。飛行機は製造も運用も全面禁止。自動車は木炭で動かすバスやタクシーくらいで、アメリカ軍の軍用トラック(子供達は“十輪車”と呼んでいた;前輪が2、後輪は2軸でそれぞれダブルタイヤなので8)の前では情けないくらい非力でした。そんな中で、戦争の影響で排煙板の一部が木製のものまでありましたが、ダイナミックな蒸気機関車に、敗戦のどん底状態から我われの未来を切り開いてくれる力強い救世主を見たのです。鉄道技師になろう!
 小学校5年の時、豊かな友人がOゲージ(線路幅:32mm、3線レール;本物の電車のように架線から電気を取れないので)の模型を買ってもらいました。電気機関車を、0~20ボルトの変圧器を切り替えて動かすこの模型に心を奪われました。自分の模型が欲しい!電気機関車は金属製でとても高価で買えません。むろん自作など無理です。
 “鉄道模型趣味”と言う雑誌があります。ある時、そこに当時の標準電車モハ63型の手作り記事を見つけました。床と屋根は木の板で、側面はボール紙で作ります。金属部品(モーター、台車、パンタグラフ、連結器)は出来合いのものを購入せざるを得ません。本を買い、図面を引き、板を削って床や屋根を作り、ボール紙をかみそりで切り分け、小遣いを貯めて金属部品を買い、当時デヴューし立ての湘南電車カラー(オレンジとグリーン)に塗って完成させたのは6年生の夏休みでした。それを友人宅のレールの上で走らせたときの感動は今でも忘れられません。休み明け、この話が受け持ちの先生に伝わり、学校にその電車を持ってくるように言われました。都美術館で開かれた、東京都夏休み作品展に学校代表として出品されたことは、小学校時代の誇らしい思い出です。交通博物館通いはこの時代から始まったのです。
 中学時代に講和条約が諸国と結ばれ、日本の空が帰ってきました。鉄道技師の夢は航空技師に変わります。大学入学までこの志は変わりません。大学に入ると取り敢えずまた模型復帰です。ただし今度は飛行機のソリッドモデル(木製で50分の1の細密模型)です。当時関東地区で最もレベルの高かった、東京ソリッドモデルクラブのメンバーになりました。このクラブの月例会は交通博物館の会議室で行われ、お互いの作品を持ち寄って講評を行います。メンバーは中学生、板前、造船工学の教授まで種々雑多で、落語の小金馬師匠もメンバーでした(彼は当時まだ珍しかった外国製のプラモデルが中心でした)。博物館の何周年目かの区切りに、我われのクラブでソリッドモデルによる“日本航空発達史”をやることになり“白戸35型”と言う複葉機を出品したのも、この博物館に関わる懐かしい思い出です。
 秋霜五十余年、この博物館が発展的に閉館され、新しい“鉄道”博物館として鉄道技術のメッカとも言える大宮工場跡に建設されると聞いた時、この敷地の選定の他にもう一つ快哉を叫びたかったのは“交通”でなく“鉄道”とした点です。私もこの種の博物館が好きで、機会があれば仕事の合間に訪れてきました。しかし、あれもこれもはどうも好きになれません。その代表的なのが“科学博物館”です。基礎・応用、物理・化学・生物・地学・考古学、なんでも在りは何も印象に残りません。技術の体系や発展を理解するには、焦点を絞ることが鍵です。敗戦という大きなハンディキャップを負い、目ぼしい展示物のない日本で“航空博物館”をつくっても遊園地と大差ありません。ワシントン・ダレス空港に隣接して(と言っても空港からは徒歩ではとてもいけません)新設された航空博物館は大型格納庫2棟にコンコルドを含む実機が何十機も系統的に展示されています。こうなれば別です。自動車博物館は日本に限らず、“収集館”で体系的な理解はできません。船はドン柄が大きく、数も限られます。しばらく人気があってもやがて氷川丸の運命です。
 日本の鉄道技術は英国から多くを学び、独自の発展を遂げ、世界のトップランナーの位置にあります。系統的に理解できる現物も数多く残っています。また、鉄道はもっとも身近に感じるダイナミックな道具です。数多く・多種のファンが居るのも、鉄道に比肩するものは無いでしょう。模型あり、実物あり、乗車体験あり、時刻表あり、全線乗りつぶしあり、運転経験あり、収集あり、写真あり、何でもありです。
 世界最大の鉄道博物館(The World’s Largest Railway Museum)に行ってみたい。実は、これがヨーク訪問の最大の動機だったのです。

 さて、ヨークにある国立鉄道博物館(National Railway Museum:NRM)です。通常英国ではこの種の博物館は王立(Royal)が多いのですが、ここはNationalです。理由はわかりませんが、何か新しさ、意気込みを感じます。“我等が鉄道”と。場所がロンドンでないのも気に入りました。ヨークは古くから、北部イングランドにおける鉄道の要衝で、最盛期はここを中心に網の目のように路線が走っていました。現在はかなり整理されていますが、依然として東北部の要であることは変わりません。博物館の位置はヨーク駅の西側、私が泊まったホテルと駅を挟んで反対側になります。駅から歩いて5分、便利な場所に在ります。80年の歴史がありますが、当初はLondon & North Eastern Railwayの、引退した機関車の保存から始まりその時は別の場所にありました。1970年代に現在の場所に移り、1990年に大幅な拡張をしています。現在の博物館はレールが実用線と繋がっており、そこへ一部の機関車を引き出し、走らせることも出来ます。入口はモダンなガラス作りの最新部分にあり、嬉しいことに入口上の各国語で書かれた“Welcome”の中に“ようこそ”とひらがなの表記があります。日本の“鉄ちゃん(鉄道ファン)”が数多くやってきていることを物語っています。入場料は無料ですが、寄付や維持会員を募っています。
 館内は大別して四ヶ所になります。グレートホール、ステーションホール、ワークスそして屋外です。屋外は遊園地的なもの(特別な日に、ロケット号などを走らせることもあるようですが通常は遊園地です)ですから私の関心外です。
 先ず、グレートホールへ。いきなり世界初の蒸気機関車、スチーブンソンの“ロケット号”と世界最速蒸気機関車記録を持つ“マラード号”です。ロケット号はレプリカですが、動かすことが出来ます。マラード号は本物で、1938年(まだ私が生まれる前)時速126マイル(202km)を出した流線型の機関車です。ライトブルーに塗られた車体に蒸気機関車のイメ-ジはありません。そしてこの2台のスターの左側に、何と開業時の新幹線“ひかり”の先頭車両がありました!晴やかな場所です。この博物館の基本コンセプト(勝手な想像ですが)は“英国の蒸気機関車が世界を変えた”です。蒸気機関車こそ近代文明の原点、古き物を尊ぶ英国人の国民性をこの博物館も確り受け継いでいます。そこに“電車”が置かれているのです。もちろん鉄道博物館ですから電気機関車やディーゼル機関車も展示されています。しかし、これだけ目立つ所には置かれていません。主要な展示物には専任の説明員が居て、適当な人数が集まると説明をしてくれます(個人の質問も大歓迎、質問を待ち構えている感じです)。新幹線にはその専任者も居ます。中まで入れる車両が少ない中で(機関車が多いので必然的にそうなる)、“ひかり”はその点でも人気があるようです。公式ガイドブックの“グレートホール”のページは、見開きを“ひかり”が占め、若い女性がそれを見上げています。教え子がここまで成長したのか!
 奥へ移動すると、蒸気機関車の実物カットモデル(内部が分かるように一部をカットする)がありました。炭水車の石炭・水から始まりやがて蒸気が生成され、それがシリンダーに導かれ、動輪を動かすまでをナンバリングして解説しています。父親が幼い子供にそれを説明しています。非常に上手く出来ているので子供も納得顔です。別の機関車は下へ潜り込む通路があり、普段見えない下側の構造を知ることが出来ます。
 更に奥へ進むと、ターンテーブル(転車台;蒸気機関車の頭の向きを変える装置。時間によって実際に動かされる)があり、これを囲んで迫力のある機関車が多数顔をこちらに向けています。その迫って来るような感じは大人でも圧倒されます。お互い邪魔にならぬよう、おじさん達が気を配りながらシャッターを押しています。
 グレートホールだけで3,40両の車両(主として機関車、それも蒸気)が展示されています。丁寧に説明を読みながら、場合によって説明員(グレートホールだけで6,7人居る)に更に詳しく説明を求めれば、ここだけで最低半日は必要でしょう。
先を急いで、第2会場のワークスに行きます。“ワークス”とは工場のことです。これは今まで他の乗り物博物館を含めて見た事もない、ユニークで素晴らしい展示場です。何とあの“フライング・スコッツマン(空飛ぶスコットランド人;F-1ドライバーのジム・クラークもこう呼ばれましたが、本家はこちらの機関車です)”の解体整備を行っている場面を、回廊から見下ろすのです。バラバラになった機関車を見る機会など先ずありません。クレーンや工作機械が動き、一部の作業は実際に行われます。大人も子供もありません。皆“職人のそばにアホ三人”の体です。私もその中の一人になりました。
 ワークスは巨大な倉庫に繋がっています。車両部品、信号機や転轍機、保線工具、車両や船舶の模型、鉄道員の各種制服、そのボタンや記章、雑然といろいろな物が置かれています。見せるための工夫は欠くものの、倉庫らしさがそれなりに臨場感を与えてくれます。“3百万個のコレクション”の大部分はここにあるに相違ありません。
 最後はステーションホールです。ホームが三つあり、真ん中のホームは一段と広く造られています、その他にも引き込み線があります。そこに数量編成の客車が停まっています。これをホームから見学するのです。むろんただの客車ではありません。引込み線を除けば、全て王室専用車です。実際に使われたものが展示されているのです。ヴィクトリア女王、ジョージ6世などの専用車です。窓越しに見るだけですが、鉄道移動中の過ごし方が垣間見られなかなか面白い企画と感心しました。
真ん中の広いホームはカフェテリア形式のレストランです。ここでスープとロールパンの軽食を摂ったのが1時近くです。10時の開館と同時に入館しましたから3時間の見学です。本来なら一日かけても良い場所ですが、翌日はあの“市民税督促状”でしたから、後ろ髪を引かれる思いで帰路につきました。

 白ばらのヨークは、源氏の白と好一対です。義経号、弁慶号、静号は、嘗ての交通博物館のシンボルでした。多分これらは新しい博物館でも中心的存在になるでしょう。西のヨーク、東の大宮といきたいところです。
 新しい鉄道博物館も、ターンテーブルが設けられ、それを囲む形で車両が展示されるようです。大宮工場の在ったところですから実用線への接続も可能なはずですし、工場を再現するにも最適の場所です。何も真似をする必要はありませんが、単なる展示場ではない、子供から専門家まで楽しめる、日本を代表する博物館になり、海外からも見学者が多数訪れ、日本の鉄道技術とその高度な利用状況を知ってもらえる場所になるよう願っています。

 ヨークを訪れて良かった!敵陣は笛陣となりました。

後日談
 ヨークから帰り、Mauriceの部屋を訪れると、「ヨークはどうだった?」「いろいろ面白い所があったが鉄道博物館が一番だね。あのマラード号の実物には感激した」「(壁に飾った古いポスター(額入り)を指差しながら)この機関車はマラードと同じ物さ。あの博物館で買ったんだ」「鉄道も好きなんだね!」 彼は経済史が専門ですが、一時期英国の鉄道経営史を研究しており、著書も書いていました。マニアではなく本物でした。恐れ入りました。

以上

2008年12月6日土曜日

滞英記ー12

Letter from Lancaster-12
2007年8月11日

 当地もやっと明るい日差しと気温が、夏らしさを感じさせるようになってきました。機会が無かった半そでのポロシャツを着て本報告を書いています。現在の最大のニュースは口蹄疫です。人口が6千万人に対し、羊2千3百万頭、牛1千万頭、豚5百万頭、主食が肉の国ですから大変なことです。それも動物保健衛生研究所が発生源と言うことで政府も対応に大わらわです。ブラウン首相は就任以来、テロ、洪水そして本件と対応に休まる間もありません。英国人の評価は、知識人とほとんど交わる機会が無い私に今ひとつ分かりまりませんが、TVで観る限り、先頭に立ち問題に取組んでいるように見受けられます。派閥のお神輿に乗っているだけの、日本のトップとは大違いの印象です。このリーダシップもあるのかスーパーの食肉売り場はそれ以前と何ら変わりません。
 本レポートは時々お断りしているように、自分の滞英記録を兼ね、何とか単なる週報でなく“英国”を理解するテーマを選びながら書いています。その点では、“旅”はいくらでも材料を提供してくれます。しかし、研究テーマは<ORの起源>、<指導者の意思決定>、更に<この二つの関係>にあるので、単なる紀行文にならぬよう心がけています。
 今回はこのところ続いた旅の報告から離れ、異変続きの旅から自宅に帰着し開いた郵便受けから話を始めます。<市民税督促状来たる>です。これと関連して、この国における社会人としての<身分と信用、そして仲間>の2編で今回の報告をまとめました。

 研究の方は、先週Mauriceから薦められ、彼が大学図書館から借り出してくれた「O.R. in World War 2-Operational Research against the U-boat-」と言う本を読み始めました。当時沿岸防衛軍団(Coastal Command)でブラッケットと伴に対Uボート作戦へのOR適用に従事した、Waddingtonと言う生物遺伝学者(CBE;Commander of British Empire;Knightに次ぐ勲爵士)がまとめたものです。オリジナルは終戦直後に書かれましたが、冷戦で出版を禁じられ、1973年ようやく日の目を見たものです。今まで目を通してきた本に比べ、数式なども多くそれが機密に関わることは確かでしょう。相当歯ごたえがありそうですが、書き出しから引き込まれています。防空システム(主役は戦闘機軍団)から始め、その実績を踏まえた横展開の第一段階がこの対Uボート作戦です。私の研究もここから第2段階に入ります。

<市民税督促状来たる>
 歴史的洪水の中を一日遅れでやっと戻った夕方、家に入る前にフラット入口に在る郵便受けを見てみました。ジャンクメールが投入口まで溢れています。その中に茶封筒が混ざっていました。“やっと何か来たな”と思い部屋に落ち着くと直ぐ開いてみました。それは予想に反し、市役所からの市民税督促状でした。
 “やっと”の背景は以下のようなことです。5月に不動産屋と契約した際、担当の女性が「契約が出来たので、直ぐ入居通知を電力会社、ガス会社とCity Councilに送っておきます」と言うので「支払い方法はどうなりますか?(この時はCity Council(市役所)よりは電力・ガス代が頭にあった)」と聞くと、「四半期ごとに支払うことになります」との返事がありました。3月末、6月末、9月末、12月末と言うことです(水道代も同じですがこの時はその話は出ませんでした。また電話代は一ヶ月単位です)。“やっと来たか”と待っていたのはこれらの支払い請求書と市民税の“納税領収書”でした。
1)市民税
 6月初め市役所から封書が来ました。6月から来年3月までの市民税(州を含む地方税)の支払い税額通知です。税額は各月と総額が示されています。裏には支払い方法が各種記載されていますが、銀行振り込みを勧めており、その部分だけは少し詳細な説明があります。月額納税額は121ポンドです。短期滞在者でもごみの収集を始め、見えないサービス(道路のメンテナンスのような)でお世話になっているわけですから税金を払うことは納得です。
 二つの点で疑義があったので、タウンホールへ出かけました(行政機関としての市役所は;City Council、建物としての市役所は;タウンホール)。二つの疑義とは、第一は;ビザ無し入国なので滞在は6ヶ月限度、10月中旬に帰国するため何月分まで納めなければならないかと言う点、第二は;短期滞在者扱いで銀行口座が開けないのでどのような支払い方法が適当か、です。
 タウンホールは以前ご説明した、川中島型市街中心の直ぐ外側、東側にあり実用に供されている建物では市内で一番重厚な雰囲気を持ったものです(これ以外にはお城と修道院がありますが)。ファサード(正面玄関)は英国人の好きなパルテノン風、階段を上がった入り口左右には戦闘斧が一対に立てかけられています。これは9時に出され、3時に終われます。諸事務の受付はこの時間までです。
 日本での経験から、入口に受付があり、そこで指示され税務課のような所へ行くことを予想しましましたが、玄関ホールに入ると左側にカウンターがありその中に数人の黒いスーツを着た女性がいました。ホールの右側にはコの字型に椅子が並べてあり真ん中にテーブルが置かれています。順番待ちや書類照合などに使われているようです。よく見るとカウンターは単なる受付ではなく、頻繁に相談者が来ると思しき用件の対応場所でもあるのです。“Council Tax”は確りここにありました。比較的空いており、直ぐに中年の女性が対応してくれました。来訪の趣旨、身分などを説明し、第一の疑義について質したところ、即座に「分かりました。では9月分の支払いまでしてください。それが納税されたら再度ここへ来てください」と明快に答えてくれました。第二の点については、郵便局で支払う方法、インターネットで支払う方法を簡単に教えてくれました。インターネットの市役所ホームページ(HP)は支払い請求の書類に記載されており、そこへアクセスし、納税者番号とクレジットカード番号を入力するだけでよいとのことでした。「簡単ですよ!」「9月分まで纏めて払ってもいいですか?」「もちろんです」と言うような按配で市役所訪問を終えました。
 数日後(6月初旬)HPにアクセスすると、簡単に納税のページまで達しました。そこへ税額(初めてなので一括は止めて、6月分のみ)を入れ、クレジットカード番号を入れて先に進むと“Accept”と出てきたので、この画面をコピーしてMSワードに貼り付けました。これはプリンターを持っていないため、何かあったときの証拠として保存したわけです。これで完了。実際の支払期限は7月1日ですが早々と納税したわけです。
 7月中旬からこの納税に対する何らかの通知が、電子メールか郵便で来るはず、と待っていたところへ来たのが督促状だったわけです。「何だ?これは!」
 督促状には、「貴殿は未だに6月分の市民税121ポンドを納税していない。ついては7月28日までに納税すること。もし納税せず、さらに一週間が過ぎると、年額相当を一括払うことになるのでご承知おきを。もし、一括納入が不能の場合…。本件に不服のある場合は…」とあります。再度「何だ?これは!」です。
 ブリストルから帰ったのが21日(土)、22日は日曜日。23日(月)から24日(火)にかけヨークへの旅行を入れてあったので、出かけられるのは25日(水)しかありません。

当日朝直ぐにタウンホールへ出かけました。残された日にちは僅かです。玄関入口に立てかけられた戦闘斧が、今にもガツンと頭の上へ振り下ろされるような、悲壮な気分です。朝一番なので黒いスーツの女性職員たちはPCを立ち上げるなど準備に追われています。それでも間もなく市民サービスが始まり、私よりも先に来ていた2,3人が相談に入りましたが簡単に済み、10分もしない内に私の番が来ました。今回は若い女性です。「おはようございます。ご用件は?」「実はこれが届いたもんで」と督促状を示すと、ニッコリしながら(あなたもこの件で来たのね?)と言う感じで対応してくれました。「HPにアクセスし、6月上旬に払ったつもりですが、初めてなので何か不都合があったかも知れません。そちらのコンピューターに何か残っていないでしょうか?」「(画面をチェックしながら)何も記録はありませんね」「こちらは証拠を残しておいたんです。納税の最後の画面を。ここでPCを立ち上げさせてもらってもいいですか?ハードコピーのシステムが無いもんで」「どうぞ」 カウンターは水平で無くこちらに向けて傾斜しており、傾斜面には案内などが書かれています。他の荷物を持っているとPCの操作も覚束ない。彼女が他の荷物を預かってくれる。やっと画面が出たのでPCを渡すと「ウォ!」とビックリ。無理も無い。画面はHPの最終ページをコピーし、これをMSワードに貼り付け、そこに日本語で私がいろいろコメントを書き込んだものだったからである。「すみません。納税画面のほかに私がコメントを書いたものです。このHPの画面をみてください」「アーァ これね!あなたこの後4桁のコード入れましたか?」「エッ!?何ですかその4桁のコード?」「暗証番号よ。こちらから通知するの。それを入れて納税が完了するのよ」 “ガツーン”戦闘斧が振り下ろされた瞬間です。「(チョッと嘲笑気味に)簡単だから家に帰って直ぐやってみて」「いや これから郵便局へ行って払ってきます。郵便局での支払いはどうすればいいんですか?指定の用紙か何か必要ですか?」「何にも要らないわ。最初にお届けした納税請求通知書があるでしょう(持参していたのでそれを見せる)?このバーコードのところを“ピッ”とやるだけ。簡単よ!グッドラック!バイバイ!」 
2か月分(7月分も合せて払うため)の現金をATMで引出し、郵便局で現金と通知書を出すと“ピッ!”。1000ポンドを超える追徴税、戦闘斧の一撃を辛うじてかわした一瞬です。
2)英国の個人税 不動産に関わる税や相続税のように、私には関係ない税金は別にして、この市民税を始め所得税や消費税はどうなっているのでしょうか?当初の渡英計画では、1年滞在のビザを取得し本格的にこちらで市民生活を送ることになるので、一通り税金に関する情報収集をしました。当地へ来てからも折を見てこの問題を聞いてみたりしています。正確な実態把握が出来ているわけではありませんが、大よそ理解していることを整理してみます(このメールをお送りしている方には、英国在住経験者もいらっしゃいますので、間違えがありましたらご指摘ください)。
①市民税(住民税)
 私の税額はどう決まったんだろう?適正なのだろうか?日本では住民税は所得の確定申告に基づいて算出され、5月の終わり頃通知が来ます。このルールだと、私の場合英国では所得が無いので算出ベースがありません。色々調べてみると、どうやらここの住民税の算出基準は、居住地域によって決まるようです。日本の固定資産税の算出法と類似しています。
 額については、自分でもここに住んでそれなりの見返りを期待するならこれくらいは仕方が無いのかな?と思っています。しかし、その見返りについては十分それを享受できていないのではないか?とも思っています。たとえば市内を走るバスのみならず、鉄道もシニア割引(市内のバスは高齢者は無料)あるようで、その資格取得がよく分からないため、一般の料金を払ってこれらを利用しています。これはブリストルを訪ねた際、ジェフから「一つ言うのを忘れていたことがある。鉄道は往復買ってしまったか?シニア割引が適用できるはずだったんだ」と言う具合です。市内バスの方はどうやら一定期間以上居住している人に与えられる証明書のようなものが必要で、皆さんそれを提示し、乗車券を発券してもらっています。Mauriceに始めて会った時「昨秋65歳になったのでバスの無料パスを持っているんだ」と嬉しそうに語っていました。バス会社はこの発券に基づいて、しかるべき収入を得ているのでしょう。
 具体的税額(月額約3万円)について最近Mauriceに話したところ、「リーズナブルだ」と言っていました。
②消費税(付加価値税;VAT)
 17.5%です!とんでもなく高いです!ただし、食料品は無税です!VAT導入時には、食料品の他に、燃料代、電気料金、子供の衣服も無税(VAT適用外)だったそうですが、電気料金は環境問題対応から8%、17.5%と引き上げられ、現在は他の物と変わりません。燃料代はガソリンに関する限りVATはありません。しかし1リッター約1ポンド(250円!ただしこれは為替レートのマジックで、生活感覚に基づけば180円位の感覚です。それでもガソリン代はかなり高いですが)もするところから、日本のガソリン税に相当するものが高い割合を占めていると考えられます。二重課税をしないと言うことでしょう。子供の衣服は無税のままのようです。
 “ゆりかごから墓場まで”福祉政策に優れた国だからこんなにVATが高いのかと思うと、これは英国だけが突出しているわけではなく、欧州の主要国家は概ねこのようなレベルにあるようです。
③所得税 VATでお金の流れの出口を確り抑えて税金を取る。日本の入口主義(所得ベース)とは全く逆に見えます。それでは英国では所得税はあるんでしょうか?もちろんあります。低所得の非課税限界がどれくらいか分かりせんが、40%と23%(多分)の2段階です。この境界値も掴んでいません。
 このようなシンプルな2段階方式になったのはサッチャー政権からで、それ以前は日本同様累進的にもっと多くの区分に分かれていたようです。サッチャー首相は、経済の活性化の鍵を富裕層の消費・投資意欲にあると考え、税金の“フラット化”を掛け声に2段階にしたそうです。制定当初は40%と25%でしたが、25%側は何度かの修正で現在は23%のようです。支出側(経費)をどこまで認めているのかも全く不明ですが、この税率は決して低いものではありません。
 よく調べてみると、この所得税と言うのはわが国で、いわゆる所得税の他に厚生年金、失業保険、健康保険を含むものであることが分かりました。また、通常の勤労者は概ね40%が適用されているようで大変な負担である推察できます。

 出口だけでなく入口も確り抑える。これが英国の個人税制です。これで福祉国家が支えられているのです。この傾向はここ英国に留まらず、欧州先進各国に共通するもので、たくさん税金をとって“国家が個人の面倒をみる”社会を、理想と考える人達が多く存在し、しばしば社会主義を標榜する政党が政権の座につくわけです。現に英国の労働党は幅広く・根強い支持層に支えられ何度も国家運営の責務を担ってきました。英国人一人当たりのGDPが日本を超えるほど経済が活況を呈しているのは一人サッチャー女史の功績だけとも考えられません。ブレア労働党政権もこれに寄与しています。“主義だけ”が先行する日本の社会主義政党とは全く違う、地に足が着いた独自の政治理念がそれを可能にしているのです。“税金で賄えないならスーパーカジノご開帳だ!” これがブラウン労働党新政策です。自民党も民主党ももっと“税金の根本を問う”政策論争をして欲しいものです。そしてマスコミは、これを分かり易く国民に伝えてください。

<身分と信用、そして仲間> 初めてパスポートをもらった時(1970年)、葵の御紋の入った印籠でももった気分でした。“これさえあれば諸国漫遊自由自在だ”と。考えてみるまでも無いことですが、あれはただ“日本人”であることを証明しているだけで、それ以上のものではありません。“日本人だから良い人だ”とか“日本人だから信用できる”とはならないわけです。入出国管理やホテルなどではそれなりに身分を示す機能を持っていますが、外国社会で生活する上では殆ど効力はありません。随分昔のことですが、アメリカ滞在中の先輩が何かの折り「Identification(身分照明)は?」と問われたので、パスポートを見せたところそれではダメで「他のものはないか?」と再度問われたので、「これでどうですか?」と所属していたアメリカ化学工学会の会員証を見せたところ、「これで良いのよ」と言われ事なきを得たと言う話を聞いたことがあります。
 こちらへ来て一番痛切に感じていることは、自分(の身分)を相手(企業・人)に信用してもらうことです。企業に所属していた時はそれが信用になります。しかし自由人になり外国で生活しようとすると、自由であることが一番信用を欠くことなのです。自由がもっとも不自由と言う皮肉な自家撞着になってしまうのです。
 長期滞在可のビザ(例えば研究者ビザ)があれば、少なくとも日本のパスポートとは桁違いの信用が得られます。そして大学の客員研究員になっていたら、更に数等高い信用力になるでしょう。ひょっとするとそこらの英国人以上の信用力かもしれません。
 企業の一員と言うような信用力を含めて、公的・半公的な身分による信用の他に唯一ある他の信用力は“この国に銀行口座を持っている”ことです。しかし、開設のためには公的・半公的身分の証明が求められます。堂々巡りです。
 現金は信用には繋がりません(しかし、短期の問題解決には役立ちます。ただ、足下を見られるので“不平等条約”を飲まざるを得ません)。犯罪者と間違われるかもしれません。銀行口座開設審査が厳しくなった背景は、テロや麻薬ビジネス関連のカネの流れを絶つためだともいわれています。
 クレジットカードも限りなく現金に近い性格です。郵便局で税金を払う際、試しに「クレジットカードで払えますか?」と訪ねると、「クレジットカードは受け付けません。デビット・カード(銀行のキャッシュカード)はOKです」と返事が返ってきました。これも銀行口座がないと持てません。
 そんな訳で未だに、私には銀行口座はありません。曲がりなりにもここで生活出来ているのは、幸運に恵まれたとしか思えません。先ず、Maurice Kirby教授の紹介状が不動産屋では効力を発揮してくれました。電話加入では不動産屋の助けで何とかそれが実現しました。いずれも交渉初期に必ず“銀行口座はありますか?”と聞いてきました。このプロセスを辿ると、結局Mauriceの私に対する“信用”がその出発点になります。
 ビザがあり、銀行口座を持ち、税金を納めていても、この社会で生き抜いていくことの要件が揃ったわけではありません。“仲間”として認められる必要があります。
 ある会社の広報誌に対談者として呼ばれた人々を中心にしたサークルがあります。10年近く前、このサークルの勉強会が開催され、そこに講師として招かれた方の話です。当時大手商社の役員で、英国駐在中ご苦労された経験を題材に講演されました。この方のご専門は希金属(rare metal)取引で、日本人で初めてロンドン希金属取引市場正会員の資格を取得され、勇躍この修羅場に乗り込みました。しかし、ここでの取引を期待通りに行うためには、公開されている市場情報だけでは充分でなく、市場外で直接ビジネスとは関係なく仲間内で交わされる、何気ない話の中にこそ重要な情報が潜んでいることに気づきました。仲間として認められ、胸襟を開いた付き合いをしてもらうためにどうしたらいいか?考え抜いた末辿りついた結論は“シャーロックホームズの研究”です。もともと好きだったこともあり、やがて英国シャーロキアン協会の幹部もビックリするような研究成果を次々とあげ、それが取引所関係者に伝わっていきました。公的な資格だけではとても得られないような情報が、これによってもたらされ、やっと全うなメンバーとして活躍できるようになったと言うことです。
 “戦争と道楽だけは真面目にやる英国人” 本職を超えたところ・異なる分野に“のめり込むものを持つこと”は英国知識人の好む生き方です。ORもそのようなプロセスを経てモノになったと言っても過言ではありません。(因みに、彼の車で出かけたカントリーサイドのレストランで彼が打ち明けてくれた、次の研究テーマは“ウォーゲーム(兵棋演習)の歴史”だそうです。これがどう本業の経済史と関係してくるのか現時点では想像できません)
 “OR歴史研究”に対する関心が、Mauriceによって仲間として認めてもらえた主因ではあることに間違いありません。お互いに、ORそのものが専門ではありません。しかし、二人とも、私の好きな論語の一説(雍也7)「これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」の境地にあるのです。
 異なる分野で生きてきた人間が、共通する関心事で時空を越えた同志となり、その中で信用が生ずるのです。法制度や組織に依存する信用に比べ、遥かに高いレベルの個人対個人の信頼関係こそ“葵のご紋章”と言えます。


以上

2008年12月3日水曜日

篤きイタリア-2

3.篤き北部同盟の闘士
<ヴェネツィア行きインターシティ・プラス> ミラノ観光は実質10月4日午前の半日。見たい所、探訪したい所を多々残して6日午前ホテルをチェックアウト。ラッシュアワーを過ぎていたので、地下鉄で中央駅に向かう。前回のブレーシア行きで勝手が分かっているのでスムーズに移動と思いきや、最後の地下鉄改札出口から鉄道駅へのエスカレータが点検中。さほど大きくないスーツケースでも、年寄りには結構堪える。親切を装うスリ等に注意しながら駅中央ホールへ向かう。

 30分も早く着いたので表示板にはまだ当該の列車は見当たらない。発車時間は11時5分、ヴィチェンツァ到着は13時18分。乗車券はMHI社に事前手配してすでに入手済み。昼食をどうするか?到着後の行動に自由度を残すため駅構内のバールでピツァかサンドウィッチと飲み物を購入して、車中で食することにする。初めてのバールでの買い物である。ショーケースの中を物色し欲しい商品名を手早くメモ用紙に書く。飲み物をクーラーから取ってそれとメモ用紙をレジで示す。メモを指し示しながら指を二本立てる。サンドウィッチを二つ欲しいという意味である。英語で料金を言ってくれる!領収書を持ってショーケースに居るおばさんに渡す。何やら質問される!ポカーンとしていると電子レンジを指差すので、首を横に振る。商品を取り出すとまた質問らしきものが来る。再びポカーンとしていると、レジ袋を手に取る。今度は首を縦に振る。イタリア語が全く分からなくても欲しいものがチャンと手に入った。
 やがて表示板に列車の番線が示される。構内のそこここにある改札機で改札する。乗車券には車両と座席番号が印字してある。問題は車両番号である。同じ駅を発車するものでもそれが統一されていない。1号車が先頭の場合もあれば、最後尾の場合もある。さらに行き先が複数の列車を一編成にしている場合もある(ブレーシア行きの場合は最初の停車駅だからこの恐れはなかった)。
 大勢の乗客が駅職員を取り囲んで確認している。番線が直前に変わったと言うような話も経験者から聞かされているので、私もその囲みの中に入る。駅員(後でわかるが実は当該列車の車掌だった)に切符を示すと、「この列車です。この車両です」と最後尾の車両を指差しながら英語で答えてくれる。早速乗り込む。ブレーシア行きは着替え・洗面だけの手提げかばん、今回はスーツケース。ホームとデッキの高さの差が辛い。これは最後まで付きまとう鉄道旅行の難所である(こんな所を悪人はチャンスと狙っている)。
 実は国内旅行は全て一等車とした。この理由は、第一は料金が普通車と比べそれほど高くないこと、第二にセキュリティ確保のためである。
 今度の列車も特急だがユーロスターではなくインターシティ。電気機関車で牽引するタイプである。従って客席はコンパートメント形式。6人用コンパートメントには先客が二人すでに席を占めている。進行方向の窓側に座るのは中年の女性、通路側に座っていて我々が来て中央席に移ったのは中年の男性。二人とも旅行者というよりビジネスに出かける雰囲気だ。コンパートメント形式の列車が初めての家内はチョッとびっくりした表情になる。“ボンジョルノ”男性が声をかけてくれ気分が和む。
 38年前のフランス、その後カナダとロシアで何度かこの形式の列車に乗ったことがある。それらはカーテンが有ったり、ドアー全体が木製だったりで、通路と遮断され、密室に閉じ込められる感じだった。しかし今回は、前後の仕切り壁こそ木製で見通せないものの、通路側は仕切りもドアーも透明ガラスで作られ閉塞感が無く明るい。開放車両に慣れた日本人にはこの方が落ち着く。6人部屋に4人。今日の旅は2時間少々、ユッタリした気分で過ごせそうだ。
 発車時間が来る。しかし列車は動かない。通路越しに見えるデッキではまだ人の出入りが続いている。他の客は悠然としている。「(ハハーン これがイタリアンスタイルなんだな)」 10分、15分依然動かない。25分位して「メカニカルトラブルで遅れています」と英語で車内放送がある。結局出発は約30分遅れになってしまう。シルバーノが駅で待っていることが気にかかるが、不思議とイライラ感も不快感も起こってこない。明るい風土と好天のせいだろうか?ブレーシアから先は初体験だが前回と変わらぬ長閑な車窓風景が続く。
 出発前から通路で携帯電話をかけていたサングラスを掛けた若い男が、検札の車掌と何か話している。やがて我々のコンパートメントに入ってきた。
 車掌が前のほうに移動するとしばらくして、辺りを窺がうように黒人が前のコンパートメントを開けては中の乗客に話しかけ、何かパンフレットのようなものを渡している。我々のところへ来た時ちらっと見ると封筒状のものを一緒に渡す。どうやらアフリカ人で、ユニセフもどき(インチキ)の寄付を募っているらしい。当然違法行為で車掌を気にして挙動が落ち着かない。ヴェローナのひと駅手前の湖畔駅にはこんな連中が何人もいた。遥かに望見できる美しいガルダ湖と違法移民、イタリアの明と暗を同時に見ることになった。
 ヴェネト州に入って最初の大きな駅はヴェローナ、ここで合い客は皆下車する。大学生であろう若い女性とおばさんが入れ替りで乗り込んでくる。窓際に座った女子学生が教科書のようなものを開いている。注意してみていると、かなり高等な物理学と思しき数式がやたらと出てくる。恐れ入りました。
 やがて列車はシルバーノの待つヴィチェンツァ駅に20分遅れで到着した。


<建築世界遺産の町:ヴィチェンツァ>
 ミラノのような大都市の中央駅は終端型で到着列車は頭から突っ込んで、出る時は後ろが先頭になる。ホームへのアクセス通路そして駅舎本体は列車が出入りする反対側にある。ヴィチェンツァの駅は日本の鉄道駅同様通過型である。イタリアの駅には改札機能が無い(乗車の時は自分で印字機械に打刻させる)ので、通過型駅で駅舎に直結したホームに着くと構外へ出るのに複数の出口がある。最後尾で降りると、直ぐ近くの駐車場へは駅の中央まで行く必要がないので、降りた人は三々五々散っていく。中央ホールらしき所まで歩いている人は少ない。
 シルバーノは何処だ?ホールもあまり混雑していない。出迎え人も居ない。線路を跨ぐホームとの出入り口は別の所にあるので、そこへ行ってみる。やはり居ない!駅舎の外へ出てみる。駅前の広場はブレーシアより広々している。そこにもシルバーノは居ない!お互い携帯の番号は知っている。電話を掛け始めた時、何かに憑かれたように前を横切った男が居た。雰囲気でシルバーノだと直感した。「シルバーノ!」声をかけるが気が付かない。「シルバーノ!」と更に大声で叫びながらあと追う。やっと気が付く。「オォー!何処に居たんだ?」「ホールに居たんだが・・・・」「俺はホームを探していたんだ」 これが12年ぶりの再会である。
 駅横に停めた車は古いオペルのセダン。色はベージュだが汚れが目立つ。ドアーが大きく凹んでいる。擦り傷もいたる所にある。スーツケースを積み込むために開けたトランクの中には、いろんなものが散乱している。小事にこだわらない彼の大らかさの表われなのだろう。
 「先ずホテルに行ってチェックイン。一休みしなくていいかな?昼食は?」「昼食は車内で摂った。休息は必要ない」「OK!それではチェックインしたらロビーでこれからの予定を調整しよう」
 ホテル(Hotel Boscolo de la Vill)は微妙な位置にある。歩くにはチョッと遠いがタクシーでは近すぎる。MHI社はそれでもタクシー利用を勧めてくれたが、彼の出迎えで問題は解決した。「ホテルはなかなかいいホテルだ。しかし、ホテル周辺はあまり環境がよくない。出歩く時は注意するように」 ホテルへの道すがらこんな忠告をしてくれる。
 ホテルの正面はメインストリートに面しておらずわき道を入った所にある。一見東南アジアのホテルへアプローチしていく感じである(わき道の舗装や隣接する建物などがお粗末)。車寄せも無い。しかし、造りは彼が言うように悪くは無い。ロビーも広いしエレベーターも早い。部屋もアメリカンスタイルのチェーンホテル風で広さも十分。反面ヨーロッパの味わいは希薄だ。
 ロビーで先ずしたことはプレゼントの交換。彼が用意してくれたものは、ヴィチェンツァとサンドリーゴの地図、ヴィチェンツァ周辺の観光ガイドブック(イタリア語!)それにヴェネツィア共和国の旗である。「古い共和国の象徴なんだ」この旗こそ彼の心情と日常活動を伝える象徴でもあるのだろう。
 「今日は、これからヴィチェンツァの町を案内し、次いでバッサーノ・デル・グラッパへそこから自分の住む町、サンドリーゴに戻り夕食にしよう。それからここのホテルに送るよ」「その後、この近くである政治集会に出る。州知事も来るんだが良かったら一緒に参加しないか?」「ウゥン?政治集会?皆英語を話すのかい?」「誰も英語は話さない」 これだけは勘弁してもらう。
 「明日は北の山を中心とする案と南の平野を観光する案がある。どちらがいいかな?」 これはブレーシアで平原のドライブを楽しんだこともあり、“山”を希望する。「明後日は列車の出発時間まで、ヴィチェンツァの郊外を観光し昼食を摂ってから見送るよ」 こうして彼は三日間のフルアテンドで我々のヴィチェンツァ滞在計画をまとめてくれた。
 ヴィチェンツァの町はもともと城郭都市である。町の北に小高い丘があり古くは修道院だった教会がある。ここから市街の全貌が望める。城郭内は旧市街、建物は低層で屋根瓦はオレンジ色。その外は新市街でビルなどはこの部分にある。ここから旧市街へ戻り、嘗てはヴェネツィアとも繋がっていた運河脇の今はツーリストセンターになっている城郭前の駐車場に車を停め、旧市街を徒歩で観光する。
 ルネサンス期にバッラーディオとその弟子たちによって建てられた主要な歴史的建造物は、今はアンドレア・バッラーディオ大通りと呼ばれる通りにある。華麗なファサード、洒落た窓、小奇麗な中庭を持つ16~17世紀の屋敷は、今ではオフィスやアパートに内部を変えて現在でも使われている。無論それ以前の記念碑的な建物もその中に混じっている。ガイドブックに依ればこの町の建築がやがてヨーロッパの町々の建物・佇まいに大きな影響を与えたとある。残念ながら時間の制約で十分堪能するところまでいかなかったが、ルネサンス建築の雰囲気を味わえただけでもここを訪れた甲斐があった。

<グラッパの町:バッサーノ> 3時少し前ヴィチェンツァの町を離れ、我々はいよいよシルバーノのホームタウン、サンドリーゴ方面に向かう。次の観光スポットはバッサーノ・デル・グラッパ。サンドリーゴより先である。方向は北東、遥かに山並みが見える。途中古い教会二ヵ所で車を停める。一つは現役だが、もう一つは個人の家の庭にあり納屋のような使われ方をしているらしい。片流れ様式の屋根が古さを示すのだという。
 サンドリーゴの町はバイパスする。左(西)側に山城が見え、万里の長城のように山の尾根伝いに城壁がうねっている。「あれは明日観光する」 マロスティカの町だ。
 あのアルコール度の高いリキュール、グラッパの名前のつくバッサーノ・デル・グラッパの町に着いたのは4時少し前だったろうか。今まで訪れた町々と同様ここも城壁に囲まれた町であったことを随所に残している。違うのはどの町より山が間近に迫り、町自身かなり高い所にあることだ。車を停めて案内を始めたシルバーノは直ぐ傍の建物を指差して「ここは病院で、俺はここで生まれたんだ」と言う。ヴェネズエラに渡る前彼の家族はこの辺に住んでいたらしい。
 近くの谷を見下ろす石造りの展望テラスに向かう途中、バールの前で偶然友人たちと会う。どうやら幼馴染というよりは政治活動の同志らしい。どう紹介されたのか分からないが皆握手を求めてくる。
 展望テラスの下はU字谷、谷底にも町があり小さな家々が遠望できる。その遥か先は山が幾重にも重なっている。「下に見える町の向こう側は、かつてはオーストリア領だった。普墺戦争でオーストリアが敗れた後、向こうに見える山頂までイタリア領として回復した」「第一次世界大戦でさらに勝利して、今の国境はあの山の遥か北方まで延びたんだ。ヴェネツィア共和国時代の失地を回復したわけさ」 この地の政治団体で活動する彼のエネルギーの根源はこんな歴史を経た土地に生を受けた生い立ちと無縁では無かろう。
 夕闇迫る城内の広場を案内しながら「今年春にはここの広場で違法移民たちと肉弾戦をやったよ」 こんなヨーロッパの古い田舎町にも肌の色・宗教・文化の違う民族がヒタヒタと浸透してきている。それらを阻止する城壁はない。

<サンドリーゴのピッツァ屋:ヴェッキア・ナポリ>
 サンドリーゴの町に帰り着いた時には日はとっぷり暮れていた。「お腹は空いたかな?」 この日のランチは列車内で食べたサンドウィッチのみ。この誘いを待っていた。「少し早いがディナーにするかな」 確かにまだ6時少し過ぎだ。
 来る時はバイパスしたサンドリーゴのメインストリートに入る。教会と広場があり、その周辺には商店がある。その中のパスタ屋に向かいながら「ここはなかなか美味いピッツァを食べさせるんだ。しょっちゅう来ている店なんだよ」 店は“Vecchia Napoli(古いナポリ)”と言うバール兼ピッツェリアだった。確かに少し早いらしく、お客は誰もいず、オヤジが赤い火がチロチロ見える大きな窯の前で作業をしているだけだった。シルバーノが調理場に向かい何やら話をしている。我々のことを説明している雰囲気だ。その内おかみさんが出てくる。家族経営らしい。
 メニューを見ると、英語が併記してある。こんなところでも英語があるのに感心していると「この辺はローマよりもミュンヘンの方が遥かに近い。ビジネスもそちらの方が活発なんだ」と言う。EUの共通語は英語と言うことらしい。
 彼は壁に張られた当店推薦の“Baccala”と言うのを注文、我々は無難なマルガリータとサラミを頼む。そしてシルバーノが赤ワインを勧める。彼も同じものを頼んでいる。これからホテルまで小一時間ドライブをするのにである。どうもイタリアでは適量のワインは問題ないのかもしれない。昼抜きに近い状態もあろうが、ここのピッツァは味付け、焼き加減そしてサイズとも絶品であった。
 密度の濃いシルバーノゆかりの地半日観光は、言わば田舎に住む蕎麦通の友人贔屓の店で“ざる”を食するように終わった。
 翌晩のディナーも同じ店で摂った。昨日シルバーノが頼んだ“Baccala”を頼んでみた。食べると何やら魚の味がする。でも何の魚か分からない。シルバーノに聞いて分かったことはどうやら“干ダラ”らしい。これはこの辺で作るのではなくノールウェーからの輸入品で、随分昔から当地の名物料理になっているとのことであった。

<イタリア産業革命発祥の地:スキオ> 翌7日の出発は9時。ロビーに下りるとすでにシルバーノが待っている。昨晩は我々をホテルに送った後政治集会のはず。献身的なホスト振りに感謝の気持ちでいっぱいだ。
 今日の予定を話してくれる。先ず、サンドリーゴ経由でヴィチェンツァ北西の山岳地帯の町スキオに行く。次いで一旦サンドリーゴに戻りここで昼食。昼食後昨日の午後バッサーノ・デル・グラッパに行く途中垣間見た山城のあるマロスティカの町を訪れる。ここからはこの一帯の地理・歴史に詳しい彼の友人が参加し、昨日見残したグラッパの見所を含め案内してくれる。最後はサンドリーゴに戻り、シルバーノの自宅でしばし休んだ後例の“古いナポリ”でディナー。今日も盛り沢山の観光メニュー。幸い晴天つづき。楽しい一日になりそうだ。
 サンドリーゴの町へは10時頃着く。街道筋の工業団地のカフェ兼バール兼レストランで小休止。スキオへ向かう前に工業団地を案内してくれ、その中のある工場で車を止め「自宅にファックスが無いので、ここのものを使わせてもらっているんだ。チョッと中を案内しよう」と言う。イタリアで工場を見学するとは思わなかったがエンジニアの血が騒ぐ!
 そこはかなり大きい印刷・製本工場だった。どうやら彼の政治団体が発行する機関紙(彼は編集長のような役割)やパンフレットをここに頼んでいるらしい。事務所でいろいろな人を紹介され、お茶まで付き合うことになった。日本の同種の工場を見学したことがないので比較は難しいが、製本工程には日本製の機械もある整理整頓のよく行き届いた工場だった。
 スキオの町はサンドリーゴの北西1時間弱の所にある。鉄道駅近くの駐車場に車を止め町へ向かう。緑が多く清潔な感じの町だ。さらに北の方には険しい山並が遠望される。聞けばこの町はイタリア産業革命発祥の地とのこと。この山がちの地形は水力発電に適し、それを動力に繊維工業が発達したのだと言う。嘗ての工場はオフィスや展示館(シルバーノはこれを見せるつもりでいたのだが、現在改修中だった)などに転じているようだが、確かにそれらしき形状の建物が散見され、古いイタリアの中規模産業都市の佇まいを今に残している。なじまないのはスカーフを被ったアジア系の女性たちの町行く姿である(シルバーノによればインドネシア人)。
 スキオの町を徒歩で一巡した後、車でさらに北へ向かう。シルバーノは昨日の計画検討時「山岳地帯に行きたい」と言う私の願いを律儀に果たそうとしているのだ。道は高速道路では無くトレントを経てスイス、オーストリアへ繋がる旧街道、スキオの町も市街周辺部の道は旧道そのままなので信号で片側交互交通もある。やがて人家がまばらになると道の勾配も増しカーブが多くなる。しかしオンボロオペルは健気に頑張っている。この車はマニュアル車、シルバーノは車そのものには全く興味が無いようだが、運転技術はなかなかのもので、頻繁なシフトワークがエンジンの力を目いっぱい引き出しているのだ。
 「第一次世界大戦時オーストリア軍はここまで攻め込んだんだ」「この洞穴はオーストリア軍の武器弾薬庫」 器用にハンドルを操りながらシルバーノが説明してくれる。あのヘミングウェイの「武器よさらば」の世界はここだったのだろうか?この辺はオーストリア・ハンガリー帝国が版図を広げていた時代はオーストリア領、彼の曽祖父はオーストリア国籍で陸軍の士官だった。普墺戦争でイタリアは失地回復、彼の祖父は第一次世界大戦に応召、イタリア兵として戦死したとのこと。この地の複雑な民族模様が彼の政治活動につながっているのは間違いない。
 こんな会話をしていると、突然眼前に峨々たる岩山が現れる。そんな筈は無いと思いながらも「アルプスか!?」と問うと「いやいやただの岩山。アルプスはズーッと先さ」「もう少し上って引き返す。写真が撮りたかったら言ってくれ」」 もっとヒルクライムを楽しみたかったが、帰路のダウンヒルでブレーキがフェードして利かなくなるのではないか?と気になる。方向転換できるスペースのあるところでUターン。
 案の定下りは怖かった。マニュアル車ゆえ頻繁にシフトダウンしてエンジンブレーキを利かせているものの、結構フートブレーキも使っている。古い車なのでディスクブレーキかどうか分からない。ドラムブレーキだったらどうしよう!? 「チョッとこの辺で写真を撮りたい」小さな村が見えたとき口実を設けて停車してもらう。本音は少しでもブレーキを冷やしたかったからだ。手洗い、写真撮影、付近の散策にできるだけ時間をとるようにしたが気休め程度の休憩だった。出発前に前輪を覗いてみたらディスクが見えてひと安心。
 サンドリーゴ出発時に立寄ったバール兼レストランに戻ったのは1時頃。店内はいまだ昼食客で混んでおりテーブルは満席。そこここにシルバーノの知り合いが居り彼は挨拶に余念が無い。やがてテーブルが空いておばさんが注文をとりに来る。今日のお薦めは“牛のホワイトソース煮”だという。「飲み物は?」とシルバーノが聞くので、ワインを飲みたかったが車での観光、午後は彼の友人にも会うので炭酸入りのミネラルウォータを頼む。しかし彼はここでも赤ワインをオーダーしたのである。街道筋のレストラン、道に面した駐車広場や工業団地へのわき道にはたくさん車が駐車している。ほとんどここのお客に違いない。あちこちのテーブルで結構ワインをやっている。どうもイタリアでは飲酒運転の基準が日本とは異なるようだ。料理は薄味で肉は柔らかく美味しかったが、肉料理に赤ワインがあればもっと良かったのに!

<ミニ万里の長城:マロスティカ> サンドリーゴからマロスティカまではひとっ走り。ここで彼の友人と会い町を案内してもらうことになっている。平地の城壁が山へ立ち上がる西側の折曲がり部分の外側に駐車場がある。ここに車を停めて。西側の城門を通って広場を横切り、南門の外に出る。バス停広場にインフォメーションがある。ここが待ち合わせ場所だ。
 やがてブルーメタリックのミニバンがやってくる。チェコのシュコダ製だ。降り立った男は西欧人としても大柄でがっしりしている。英語は話さないのでシルバーノの通訳で会話が始まる。名前はフランチェスコ、この町の生まれ育ち。今は会計士をしながら郷土史家のような活動もしているらしい。また、ここが大切だが、シルバーノの政治活動の仲間でもある。
 この町のランドマークは二つの城である。つまり上の城(山城)と下の城(平城)である。城そのもの、広場、記念碑などが主な見所で秘宝などが展示してあるわけではない。早速南門周辺から徒歩観光を始める。
 この周辺は古くヴェローナに起こったスカーラ家の領地で、この城郭都市は14世紀から建設が始まったものである。北辺の城壁は山の尾根伝いにあり、北門は山の中腹にある。あとの東西・南門は平地にあり、東西門を結ぶ通りは自動車も通行(一方通行)する町のメインストリートになっている。下の城(カステッロ・インフォリオーレ)は城郭で囲まれたエリアの中心部にある。この城の南側、南門に至る広場は明るい茶色とベージュの大理石で千鳥模様に作られ、まるで大きなチェス盤のようだ。そうこの町を有名にしているもう一つの名物、それは隔年この盤の上で行われる人間チェス(イタリア語でスカッキ)なのである。起源は1454年、二人の騎士が一人の王女をめぐって戦ったという歴史がある。今年は開催年で9月にその催しが開かれたとか。
 平城の裏を東西に通るメインストリートの北側は古い居住区、教会があり、さらに山の中腹には元修道院だった大きな建物がある。居住区内を通る石畳の道の一部はローマ時代のもので、道路の中央部がなだらかに盛り上がって左右の排水溝に雨水が流れるようになっており、道路中央は色の違う石を用いて分離帯を示している。こんなことをフランチェスコが丁寧に説明してくれる。
 居住区を東に向かい、東門を出て城壁の外側に沿って北に向かい東壁が途切れた所で北壁に沿って西に向かう。もう舗装は無い。道は山の尾根に沿って急な上りになる。城壁も山の勾配に合わせて波打つようになる。北門があった所には門ばかりではなくオフィスのような機能を果たす建物などが残っているが今は改修されて人家になっていた。
 ここからは浅い谷を隔てて遥か北方の山々が見える。西日に明るいその谷間を指差しながら、フランチェスコが「この谷間にはローマ時代の街道が通じており、往時は軍団がここを通ってドナウ川に達していたんだ」と語る。ローマ帝国滅亡につながるゴート族の侵入は、その逆に北東方面からこの町を通過したに違いない。シルバーノ、フランチェスコ共に北部同盟シンパ・ヴェネツィア共和国回顧派である。ローマを中心とする南部イタリアへの共感はない。彼らはひょっとするとローマ人ではなく、ゴート族の末裔かも知れないと思ったりもする。
 東門近くのカフェで小休止。シルバーノはビールを飲む。車を運転するフランチェスコは紅茶、私はコーヒー。歩き回った後のビールが旨そうだ!
 南門の駐車場に戻り、今度はフランチェスコの車で山城(カステッロ・スーペリオーレ)観光だ。ミニバンは中も外もきれいで新車のようだ。急峻なつづら折れの道を小気味よく登っていく。この車は座高位置が高く助手席は最高の眺めを堪能できる。城壁の上は、嘗ては歩けたが今は崩壊箇所が多く補修工事がおこなわれている。城門は一台ぎりぎりの幅しかない。上の“城”は城というより砦と言ったほうが良い。現在ではレストランになっている。その前に車を駐車し、さらに階段を上り、仮補修した城壁の最上部に登る。真下には平城とチェス盤、城壁外につながる新市街地が展望できる。アパートやオフィスビルが見えるが高層建築は幸い4階までで止まっているという。この季節、この時間、遠方は霞んでいるがシーズンによってはヴェネツィアやヴェローナまで遠望できるそうだ。北方を見ると北門跡からの眺めがさらに遠くまで見通せる。高地を押さえることが戦いの帰趨を決めた時代、この城は当に“カステッロ・スーペリオーレ(優位の城)”であったに違いない。

<ボッサーノ・デル・グラッパ再訪>
 これでフランチェスコの案内は終わりかと思っていると、車はシルバーノが停めた駐車場に寄らずヴィチェンツァ~サンドリーゴ~グラッパを結ぶ街道に出る。シルバーノが後ろから「グラッパ周辺には、昨日自分が案内できなかった見所がまだまだ在るので、詳しいフランチェスコが案内してくれる」と言う。
 最初に訪れたのは、グラッパの手前にあるヴィラである。ヴィラと言うのは日本ではリゾートマンションの名前などによく見かけるが、本物は貴族や富豪の豪邸である。英国ではマナーと言うのがこれにあたると言っていい。そのヴィラはこの地方の水運を担ってきたブレンタ川を背にした土地にあり、デザイン・建築はバッラーディオ自身ではなく弟子たちの作品、パルテノン風の円柱が一際目立つ建物だった。敷地の中を街道が走っているので、当時の広い庭は見る影も無いが、正面の本館と左右の別館(使用人居住区各種作業場や厩などがあった)はその時のままで保存されている(建物だけで家具什器の類は無い)。裏はブレンタ川まで続き、ヴェネツィアへも行くことが出来る船着場が在ったとのこと。
 このあとグラッパ郊外の傾斜地に建つものや掘割のあるヴィラを案内してもらった。いずれも個人所有で現在も使われており、敷地内に入ることは出来ず、当に垣間見ることしか出来なかったが、その佇まいは隆盛期のヴェネツィアの富を窺がわせるものであった。
 次に訪れたのはグラッパ市内に架かるヴェッキオ橋(コベルト橋)である。この橋はバッラーディオの設計で屋根が付いているところが特色である(と言ってもこのタイプの橋はイタリアではあちこちにある。またヴェッキオという言葉は“古い”と言う意味でフィレンツェにも同じ名前の橋がある)。実はこの橋は第二次世界大戦でアメリカ軍の爆撃で破壊され、現在のものは戦後復元されたものだと言う。こんな話を聞くとき、三国同盟の仲間としてアメリカへの恨みを共有するような気分になるのは私の世代が最後かもしれない。
 この橋の袂にはこの地方のリキュール、グラッパの販売所とそれに関する小さな博物館(?)がある。博物館の方はもう閉館していたが、販売所の周りでは観光客や若者が小型のグラス(ウィスキーのシングル用グラスのような)に注がれた無色透明の液体をちびりちびりやっている。私も飲んでみたいと思ったが、二人が全くその気を示さないので我慢することにした。結局この酒を飲んだのは、帰りのアリタリア航空の機内だった。本来ブランデーに近いはずだが(厳密にはブランデーはワインを蒸留するのに対しグラッパはワインの搾りかすを蒸留する)、味はスッキリして上等なウォッカに近い感じがした。30~60度と言うアルコール純度から来る共通性だろうか?
 マロスティカの駐車場に戻り、フランチェスコに別れと感謝を告げサンドリーゴへの道をとる。直ぐにシルバーノにフランチェスコのファミリーネームを聞くと「チョッと難しい名前なんだ。スカナガッタと言うんだ」「スカナガッタ?おぼえやすい!決して忘れないよ!(“好かなかった”どころか大好きだ)」

<シルバーノ家訪問>
 本日のハイライトはシルバーノ家訪問である。家族が皆遠隔地にいて(奥さんはコロンビアへ里帰り、長女はトリエステ、次女はトレントの大学に在学)、男一人のところへお邪魔するのは本意ではなかったが、普通のイタリア人の生活の場を見てみたいと言う好奇心には勝てなかった。今朝行動計画を聞かされ、彼の自宅立ち寄りが含まれていることを知った時「ヤッタ!」と言う気分だった。
 グラッパからマロスティカを経てヴィチェンツァを結ぶ街道の中間点にあるサンドリーゴは、これら三都市とは違い、古い町ではあるが城郭都市ではない。平坦な土地はいくつもの道路と運河が入り込み、付近は農地や工業団地である。歴史的にはどうやら市場町らしい。パスタ屋のある中心部は石造りの古い建物が並んでいるが、周辺部は低層のコンクリート製個人住宅(2階建て)やアパート(2階から4階建て)が多い。建物の色が黄色っぽく塗られ屋根がオレンジ色であること敷地にゆとりがあることを除けば日本の郊外都市の景観に似ている。
 彼の自宅もこんな様式の4階建てアパートの4階の一区画であった。ガラス扉が一階階段ホールにあり、ここから入って階段を上る。エレベーターは無い。玄関を入って左側は広いリビング・ダイニング、玄関の先はキッチンだがここは玄関からは見えず、ダイニング側とつながっている。キッチンとダイニングの間に石造りの小さなカウンターがあり、少人数の食事はここで摂れる。ダイニングには伸縮自在(訪問時は4人用にセット)のダイニングテーブルがあり、ここでお茶をいただいた。一部屋になったリビング側にはソファーとテーブル、壁には化粧棚や大型TVが置かれている。バスルームと寝室はこの広いリビング・ダイニングのさらに奥になる。バスルームを使わせてもらい、夫婦の寝室を見せてもらった。大きなダブルベッドの頭の部分は壁に接しており、その壁に何枚かの大きなヨーロッパの地図が張られている。歴史的な民族と土着宗教の変遷を示しているとのことだった。これ以外に二人の娘さんたちの部屋があるはずだがそれは見ていない。もし我々が彼の申し出を受けてここに泊まることになっていれば、それらの部屋が使われたのだろう。
 キッチンからベランダに出られる。ここの広さは日本のアパートに比べやや幅があり、丸テーブルや屋外用の椅子が置かれている。陽気のいい日はここで食事も可能だ。ただ造りが華奢で地震でもあると崩落してしまいそうだ。「この辺では地震は無いのかい?」「先ず無いね。何百年か前バルカン半島で強い地震がありトリエステでモニュメントの土台がずれたくらいかな?」 ヴェスヴィオス火山の噴火によるポンペイ最後の日を印象付けられた日本人にとって、予期せぬ答えが返ってきた。
 こんなやり取りをダイニングテーブルでお茶(わざわざ緑茶を用意してくれた)を飲みながら語らっていると、彼の携帯電話に呼び出しがかかった。しばらく何やら話していると「急な用事が出来た2,30分で片付くから、二人で気楽に過ごしていてくれ。戻ったら食事に行こう」 何とも大らかな性格である。初めて訪問した外国人を置いたまま彼は出かけてしまった。
 帰って来た彼の一声は「我々の政治活動に大変うれしいニュースが得られた」だった。それが何を意味するのかはいまだに不明である。
 もし彼の家を訪ねる機会があったら、これだけはと言う願いがあった。12年前訪日の際彼が大変な読書家で2000冊を超える書籍を持っていることを聞かされた。彼の博識とマルチリンガルそして精力的な政治活動(文筆活動)はこの読書量からもたらされると推察している。その知的活動の根源である勉強部屋(書斎?)を見てみたい。これがその願いである。留守にするために戸締りを始めたシルバーノに「君の書斎は何処にあるんだ?見せてくれないか?」と頼んでみた。「OK。外へ出るとき案内するよ」意外な返事が返ってきた。このアパートには地下に収納用の小部屋やガレージのような空間があり、彼はこの二つを別に借り(?)ているのである。収納用小部屋にはPCが置かれドアー側以外の3面は書棚。廊下を挟んで反対側のガレージ側にも書棚がありこの2ヶ所のスペースに約2000冊の本と資料などがビッシリ詰め込まれていた(ガレージには自転車や何やらも置かれている)。今まで目にしたことも無いユニークな書斎。目的は達せられた。
 二晩目のディナーも同じパスタ屋である。前述のようにこの日は“Baccala”のピッツァにした。飲み物はマロスティカのカフェでシルバーノがビールを旨そうに飲むのを見て“今夜はビールだ”と決めていた。
 前日のように今日も当地の人のディナーにはやや早いのか、入った時は店内に客は居らずメニューには無いサラダなどの話をしていると、おかみさんがOKしてくれる(出てきたものはミニトマトやレタスなどの生野菜だけで、ドレッシングは無くビネガー、塩、胡椒で適当に自分で味付けをする)。
 やがて客が入りだすと、一組の熟年カップルを見てシルバーノが声をかけ席を立った。戻ってきた彼は「弟夫婦なんだ」と言いながら紹介してくれる。当地で医院を開業しているのだと言う。シルバーノが同席を勧めたが合流する仲間がいるらしく別の席に着いた。ホームタウンでの最後の晩餐はこうして終わった。

<ラ・ロトンダ> 10月8日、今日はヴィチェンツァを発ちヴェネツィアへ移動する日だ。同じヴェネト州の中、路線も乗換え無しの直結、所要時間は50分。出発時間は14時20分なので十分ヴィチェンツァ観光の時間がある。
 この日もシルバーノは9時にホテルに来てくれた。チェックアウトを済ませ、この日の予定を聞くと「これからヴィチェンツァ周辺の見所を訪ね、お昼に駅隣接の駐車場に車を停めて旧市街でランチを摂り、発車少し前に駅へ戻る」とのこと。周辺の見所として、ロトンダというバッラーディオの造ったヴィラとチッタデーラという町の名が出た。今日のメニューもお任せコースである。
 ロトンダは16世紀バッラーディオがアルメリコ侯爵の為に作ったヴィラで、ヴィチェンツァの町の西方の小高い丘の上にある。下を走る国道からもよく見えるし、庭園から見下ろす景観も素晴らしい。建物は4面いずれにもギリシャ式円柱で構成されたファサードがあり屋根はドーム状である。円柱の縦の線、梁の三角形、屋根の円形のバランスが見事だ。ゲーテもここを訪れ、あの“イタリア紀行”の中にこの建物を絶賛した一文があるという。
 朝9時にホテルを出てここへ直行したので10時の開館には早すぎた。それまでの時間を潰すためさらに西方に進み国道を離れて北西に向かうと周辺はなだらかに起伏する農地になる。オリ-ブが沢山実をつけている。展望のきく広場に車を停めしばしこの田園風景を愛でる。「これが典型的なヴェネト州の農村風景さ」シルバーノが誇りと慈しみを込めてポツリと語った。
 10時過ぎロトンダに戻り見学をする。今日は曇りで外からの撮影にはイマイチの環境だ。一階は中央部にホール、四隅に部屋があり一部は当時の面影を残している(他は各種資料の展示・説明に使われている)。内部の作り、装飾もギリシャ風である。重苦しいあるいはおどろおどろしたそれ以前のキリスト教美術と明らかに異なる。これがルネサンスなのだろう。
 ここで11時過ぎまで過ごしてしまったのでチッタデーラ見学はパスすることにした。あとでこのチッタデーラを調べてみると、城郭都市の形態が比較的そのままの姿で保存された町らしい。特に城郭都市の防衛拠点となる塔状の砦が十数残っているのが歴史的に希少価値のようだ。英語のCitadelは城郭都市の砦を意味する。この町の名前Cittadellaはその語源に違いない。チョッと残念な気がする。
 車を駅横の駐車場に停め、旧市街のオープンレストランでパスタランチを取る。彼のこれからの運転が気になるが、ここはワイン無しでは済まされない。乾杯!そして三日間の素晴らしい時間をありがとう!
 駅のホームまで送ってくれ、スーツケースをヴェネツィア行きユーロスターに積み込むことまでやってくれた。紫外線よけのガラス窓は外から内部が見えない。顔を窓に押し付けて彼に手を振る。気が付いた彼が微笑みながら手を振り替えした。
 「君の好意を決して忘れないよ!」