2009年2月28日土曜日

滞英記-17

Letter from Lancaster-17(現地発最終版)
2007年9月16日

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 前報でお知らせしましたように、既にフラットからの退居日を決め、帰国準備を進めています。まだ、3週間以上ありますが電話料金を完納していきたいので、20日で電話使用を停止します。そんなわけで、毎週お送りしてきた本レポートの送付を、本報をもって“現地発最終版”とさせていただきます。最終版は帰国後あらためてお送りする予定にしておりますが、一ヵ月後くらいになります。悪しからずお許しください。
 この報告は、ビジネスの世界を去るに当ってお世話になった方、また渡英に際してご支援・ご助力いただいた方、壮行会をしていただいた方々を中心にお送りしてきました。本来、自分の滞英記録を残すことを主眼に始めたものですので、整理が行き届かなかったり、個人的な興味が先走ったりし、独断や偏見を書き連ねたり、ジャンクメールに近いものを一方的にお送りしてきたこと、深くお詫びいたします。
 ランカスターという、日本社会とは隔絶した地に在って、孤独な時が長かった私にとって、このメールは“生命線そのもの”でした。いただいたメールは300通以上になります。励ましのお言葉、国内情報、滞英生活に関するご助言など、いずれもこちらでの生活を、活力を持って進めていくために欠かせぬ貴重なものばかりでした。深く感謝いたします。
 当初予定していた、正規の研究員としての英国生活は、研究者ビザ取得不可と言う予期せざる出来事で急遽個人研究に変更、背水の陣で乗り込む結果になりました。しかし皆様の温かい励ましとKirby教授の好意もあり、勉強も私生活の方も充実した時間を過ごすことができ、期待以上の成果が上がりました。現段階は、日本では得られない多くの食材を得た段階で、これをどんな料理に如何に仕立てるか?まだまだ課題は山積みで、今後も変わらぬご支援・ご指導を賜らなければならない状態です。どうか、これからもよろしくお願いいたします。

 研究は、“公刊 空軍OR史”の調査をやっと終えました。以下がその概要・成果です。
①とにかく夥しいOR適用が空軍全域(兵種、地域)で行われている(特に、1943年以降)
②OR適用にネガティブな印象を今まで持っていた、爆撃機軍団も広範に利用している。ただ、他の軍団(戦闘機、沿岸防衛)に比べ、戦域が完全に敵国内となるため信頼性の高いデータ・情報が得にくかったので、中核任務(爆撃戦略)への適用が遅れたとしている。
③OR適用のために、前線部隊にORS(OR Section)がそれぞれの参謀部内に設けられるのだが、人材難で要請に応えられない状況が生じている。
④仕事の内容は圧倒的に現場レベルの戦術的なものが多い。つまり、兵器の稼働率、信頼性、精度向上、それにレーダーを中心とする新兵器操作教育などである(適正人材の選別法などを含む)。
⑤最前線部隊の戦術支援では、実戦に同行することも多く、ノルマンジー作戦では上陸後7日目に連合軍司令部付きのORSも大陸に渡り、ドイツ軍の反攻で戦闘に巻き込まれるケースも出ている。
⑥全般にORSからの改善提案は、上層部(空軍省、空軍参謀本部、軍団司令部)と最前線部隊には好意的に受け入れられる傾向があるが、Senior Staff Officers(中堅参謀;軍学校出身者と推察される)層には「アドバイザーが指揮を執るのか?」と批判的な空気もあった。
⑦当時の最上級指揮官たち(空軍参謀長、各軍団長等)のORSに対する、戦後の評価が出ているが、皆ORとORSの貢献を極めて高く評価しており、将来ますます重要性が高まるとしている。
⑧意外だったのは、爆撃軍団長アーサー・ハリスが最大級の賛辞をORSに与えていることである。インターネット普及の初期、英OR学会のホームページに初めてアクセスした時、ORの紹介にチャーチルの言辞が紹介されていた「ORを何故適用しようかと思ったかって?ハリスが反対したからさ」と。今までORの起源を追ってきても、爆撃機軍団は消極的な印象を拭えなかった。その因はハリスにあると思っていたが、②で見るように、適用環境が他軍団と違うことが遅れの原因の一つであることも分かってきた。では何故ハリスは悪役にみられているか?これは多分彼個人のキャラクターと爆撃戦略思想(夜間都市無差別爆撃の積極推進者)から来ているのではないかと思い始めている。
⑨沿岸防衛軍団長も務めたジョン・スレッサー大将の評価は興味深い。ORSを称えた上で、特に科学者が重要な戦略決定の場に不可欠になってきているとしながら、「科学者を司令官と置き換えることは出来ない。“スライドルース(計算尺)”で戦略は作れない。高度な戦略策定能力は“長年の戦略思考習慣と実戦の経験”から生まれる」としている点である。


 昨年出版された本で、著名な経営学者、マッギール大(カナダ)教授、ミンツバーグが書いた「MBAなんか要らない」(邦訳;日経BP)は、既存のMBA教育を痛烈に批判している。それは実務経験の無い学部卒を、ケーススタディーと分析手法で、いきなり管理者に仕立てる点で、種々のデータを使って現状のMBA教育の問題点を指摘している。彼は、高い経営能力は、“経験とそれに培われる感性(経営センス)そして論理・手法”のバランスによって齎されるとしている。
 両者の考えに共通性があることを知りえたのは、この資料研究最大の成果といえる。

 今回のご報告は、当地を去るにあたりこの地で感じた三つの事柄を<滞英雑感>と題してお送りします。

<滞英雑感>
1)遊学
 研究者の身分は、渡英直前突然消えました。無論留学生ではありません。仕事で来ているわけでもありません。旅行者?近いかもしれませんが、ほとんど旅行はしていません。入国に際してもこれで苦労しました。いったい私は何なんだ?深夜、独りきりになり、ぼんやりしているとよくこんな自問を発しています。
 そんなある夜、フッと湧き上がってきた言葉が<遊学>です。既に死語に近い言葉ですが、私たちが高校生ぐらいまでは比較的目にしました。“欧米に遊学す”などと、有名人・政治家の経歴などに記されていたのを記憶しています。子供心に“遊学って何なんだろう?何か格好いいな!”と思ったものです。今ならさしずめ、然したる目的も無く海外を放浪したり、語学留学などと称してダラダラ海外で遊び暮らしたりしているような状態と同じようなものだったのでしょうが、明治・大正(昭和初期でも)では海外へ出かけられる人など限られていたので、こんな言葉が堂々と通用したのでしょう。もっとも、欧米に“追いつくこと”が全国民の願いだったような時代ですから、遊びばかりでなく“仕事・職業”に関わる見聞を広める目的で送り出された人も決して少なくなかったので“学”の重みもそれなりに有ったとも言えます。
 私は此処に、何か役割や具体的成果を課せられて来ているわけではありません。“ORの起源を学ぶ”と説明しても「いいご趣味ですね」という答えが返ってきます(外国人ですらそう言う)。つまり客観的に外から見れば、自分では今までに無く勉強していると思っているのですが、英国に“遊びに来ている”一年寄りにすぎません。<遊学>は今の自分にピッタリの言葉であると思うようになってきました。これから人前で話したり、書き物を出すようなチャンスがあったら、“英国に遊学”と自己紹介してみようかな?などと考えています。
 母方の祖父は、明治の一桁生まれで東京育ち、西銀座に今もある泰明小学校から府立一中(現日比谷高校)を経て慶応に進んでいます。家は築地の商家で、大学卒業直前に親が亡くなり、まとまったお金が遺産として配分されました。長男ではない彼は、それを元手に卒業を待たずアメリカに渡ったのです。もともと新しモノ好きの性格だったようで、慶応時代は野球部に所属し、その時チームのメンバー全員で撮った写真が我が家に残っています。明治の半ば、まだ維新の余波の残る時代、文明開化の日はやっと東の空に昇り始めた時期です。大学をなげうってアメリカ行きを決断させたものは何だったのか?
 母は彼の長子、結婚が遅かった彼は40を前にして初めて子供を持ちました。大層彼女を可愛がり、すっかり自分好みのモガ(モダン・ガール;これも死語ですね)に仕立ててしまいました。認知症になっても、祖父に連れられて行ったレストランや銀ブラの楽しさだけは忘れず、同じ話をいつもしていたものです。母にとって、理想の男性は祖父だったと思います。その思いを彼女は確り私に刷り込んでいったのです。
 私は母にとって長子、祖父にとっては初孫です。彼に可愛がられた記憶が、微かに残っています。母親の影響は絶大です。やがて、私も祖父を理想の男性像と思い始めていました。
彼がアメリカから帰国し、結婚するまでの経緯は、私には断片的にしか分かっていません。日露戦争に中尉として従軍していること、(多分アメリカ暮らしの経験を生かして)貿易商社に勤務していたこと、この時代に結婚したこと、やがて独立して自分の会社を持ったことなどです。
 長じて、祖父のアメリカ行きとそこでの生活を無性に知りたくなりました。母に、何故出かけたのか?何処に行ったのか?何をしていたのか?を何度も問い質しましたが、家庭人としての祖父については嫌と言うほど語る彼女も、彼のアメリカ生活については全く知らず、「遊んでたんじゃないの?」しか返ってきません。
 19世紀末・20歳前半の<遊学>、21世紀初め・70歳代目前の<遊学>、まるで次元は違いますが、此処に居て、祖父の知られざる過去に近づいているような気分がしています。間もなく当地で、3世紀に跨る二人の<遊学>を繋いでくれた母の3回目の命日を迎えます。

2)英国の英語、そして日本人の英語力 「イギリス英語分かりますか?僕はぜんぜんダメでした」アメリカ留学で博士号を取得した学会の先輩Uさんからのメールです。クウィーンズ・イングリッシュが独特(これが正規なわけですが)のイントネーションをもつことは気がついていました。いつかは英国に行く。そんな思いは随分前からあったので、会社で準備してくれる英会話教室で、個人レッスンが可能な時にはいつも“英国人”を頼むようにしてきました(実は、必ずしも希望通りいかず、カナダ人やオーストラリア人になることも多々ありましたが)。その努力(?)の甲斐も無く率直に言って日常会話に苦労しています。
 40の手習いで始めた英会話能力は決して高くなく、“英国以前の問題”がはるかに大きいこともありますが、ときどき“全く分からない”状態にすらなります。こういう状態になる相手のしゃべり方は、よく例に出る、クックニー(ロンドン下町訛り;典型的なのがAを“アイ”と喋ります。マイフェアーレディーで、下町育ちのイライザをレディに仕立てるために、喋り方のレッスンがあります。「The rain in Spain mainly rain in a plain」を何度も繰り返し“a”の発音を直していくところは、ミュージカルの主題歌の一つになっていますね)ではありません。ここではそれは無いような気がします。フランス語の発音とやや近い、鼻音を使うしゃべり方(これがクウィーンズ・イングリッシュの最大の特徴ではないかと思っているのですが)で分からないと言う訳でもありません。分からないのは、アクセントの強弱(特に強)が極端で、しゃべりの流れが断続的に聞こえるような時です。特に女性に多いような気がします。Mauriceとの会話は、いままで他の外国で経験してきた程度の分からなさです。不動産屋の担当者や、ジェフとの会話も特別不自由を感じず何とかやってきました。BBCを観ていている時も大体アメリカ程度の理解ですからこれもそんなに変わりません。ダイアナ妃10回忌でヘンリー王子がスピーチをしましたが、理解し易い英語でした。
 この妙に強弱が極端で、細切れにしたような話し方は何処から来るのかわかりませんが、結構多くの人が喋っているように感じます。電話でこれだと全くお手上げです。
 分からないといえば、我が家のTVにはBBC Walesが入ります。これはウェールズ語で放映されています。全く!100%分かりません。以前出かけたエジンバラで、バスの後部に座っていた若者たちが話していた言葉も全く分かりませんでした。多分スコットランド語でしょう。ランカスターからスコットランドは間近です。西海岸ですからウェールズとも繋がっています。何か関係があるんでしょうか?
 英国の英語は階級によって違うという話もあります。どうもあのやや鼻にかかる発音は本来上流階級の喋る言葉だったようです(サャッチャー女史は商家の出身、話し方を上流階級風に見事に変えたといわれています)。では、ぶつ切りで躓いたような喋り方はどんな階級の言葉なんでしょうか?羊や牛を追い回しているとあんな喋り方になるのかな?などとも思ったりします。

 日本の国際化(他国との関わりの深まり)が語られる時、いつでも“英会話力”が話題になります。ここではあまり国と国のレベルや企業のビジネス関連ではなく、個人レベルに近いところで外国語問題を考えてみたいと思います。
 「ピストルを頭に突きつけられて覚える外国語」と言う表現が、ヨーロッパにあります。「おまえはドイツ人なのか?(ドイツ語)」「???」バーン!これで終わりです。生き残るためには先ず問いに答えられなければなりません。戦乱の絶えなかったヨーロッパでは始終国境も変わります。難民も発生します。生き残るための必要条件は他国語を話せることでした。
 この国に来てインド系の人が多いことは想像以上です。私の隣家もそうです。小学校低学年の男の子が一人、家族の会話は英語です。BBCのキャスターやTVの対談者にも沢山インド系の人が出てきます。大英帝国の支配した時代、そして今でもましな生活をしようと思えば、英語修得が不可欠なのでしょう。
 初の海外出張は1970年6月エクソンのエンジニアリングセンターでした。出張の話が突然出て、出発まで2週間でした。それまで英会話をきちんと学んだことはありません。ニュージャージーのセンターで、打ち合わせが始まりました。会議を主宰していたエンジニアが、途中で「他の外国語を話せるか?」と聞いてきました。「ドイツ語は?フランス語は?」 あまりに酷い英会話能力の欠如に、助け舟を出したつもりだったのです。彼の名前は、アラ・バーザミアン。典型的なアルメニア人のファミリーネームです(ミコヤン、クリコリアン、コーチャン、ハチャトリアンなど、アン、ヤン、チャンなどが末尾につきます)。アルメニア民族の悲劇は今に続いています。トルコのEU加盟問題を巡り、フランスが100年以上前の虐殺問題を蒸し返したのはつい最近です。ペルシャ、トルコそしてロシアに痛めつけられてきた民族です。私と同年代の彼がどのような経緯でアメリカまでたどり着いたかは知りません。数カ国語を操れる背景には、壮絶な民族の歴史があるのです。
 1988年オリンピック直前、初めて韓国を訪れました。韓国最大の石油会社、油公(ユゴン、現SKコーポレーション、現在蔚山石油・石油化学コンプレックスはエクソンのバトンルージュ製油所と一、二を競う規模に達している)の仕事を受注したため、ソウルの本社と蔚山コンプレックスを訪問したのです。
 本社で情報システム担当のA理事(取締役)と何度か打ち合わせ・会議を持ちました。彼はソウル大学工学部応用化学科出身の秀才です。年齢は2,3歳私より下、日本統治、朝鮮戦争、辛い時代を生きてきた人です。二人の会話は英語です。はるかに彼のほうが達者です。彼の部屋で二人だけで話している時、英語の話題になりまし「韓国の人は英語が上手いですね!TVも英語のチャネルがあるし(駐韓米軍向け)、日本は英語に関してとてもかないません」と私が言うと、「MDN(私)さん、私が大学受験のときに使った参考書は日本のものでした。大学でも、英語が主流でしたが、日本語の文献や専門書を使ったものです。韓国語の教科書などほとんどありませんでした」「自国語で高度な教育を受けられる国をうらやましいと思ったものです」「日本人は、英語は不得意かもしれません。しかし、我われが外国語を勉強していた時間、貴方たちは専門分野の勉強を自国語で進めていたのです。我われの遥か先を行っているのはそのお陰ではありませんか?」と。外国語に関する見方を一新された瞬間です。
 幸い日本人は、これらの例ほど民族として外国語ニーズに追い詰められたことはありません。歴史的に観て、日本を際立たせる特徴があります。“難民体験”の少なさ(他民族・国家から見れば“無し”に等しいでしょう)です。アメリカは難民が作り上げた国です。ロシア革命では大量の難民が世界に散っていきました。英国も例外ではありません。ピューリタンは新大陸に逃れていきました。アイルランドの飢饉は本土への大量流民を生じさせています。また、大英帝国の最盛期、ヴィクトリア時代の国内経済二重構造(貧富の差)は凄まじいもので、苦しさを逃れるためアメリカや植民地世界に向けて、着の身着のままで脱出しています。中国のチャイナタウンが世界各地にあるのも、難民の行き着き先です。そしてユダヤ人、ロマ(ジプシー)。近いところでは、ベトナム、旧ユーゴスラビアも難民発生源です。植民地を拡大した英仏両国には、そこから大量の移民(実態は難民)が流れ込んできています。両国ともその扱いに苦慮しています。既にフランスは移民・就労の条件に自国語修得を義務付けています。英国も同様の処置をとることが進められており、BBCでもこれがしばしば取り上げられています。
 教養として外国語を学んできた日本人が、生き残るために必死で外国語を覚えた人達に遅れをとるのは歴史の必然とも言えます。そんな状態に追い込まれなかったことを、僥倖と思うべきかもしれません。
 問題はこれからの世界です。世界経済における日本の大きさ(輸出入)、証券市場における外国人持ち株比率の増加、製造業における現地生産拡大など考えると、従来の“英語は英語屋さんに任せておけ”では済まない環境がいたるところに出現しています。ビジネスの世界だけでなく、国際政治や国際金融も同様です(高度に機密性を求められる国際金融サミットでは、通訳の同席を許さないセッションがある。ここでわが国担当大臣が日銀総裁を通訳代わりにしたというような話を聞いたことがある)。次元の違う“生き残り”のための外国語(英語)ニーズが身近に、確実に迫ってきています。頭に突きつけられたピストルが発射されない英会話力をどう修得していくか?分からないクウィーンズ・イングリッシュに悩みながら考え続けた5ヶ月です。

3)古典的学習法-万年筆を使う-(ランカスターから、退職慰労会兼英国行き壮行会を開いていただいた横河電機有志各位へ、感謝を込めて)
 年度末も押し迫った3月末のある宵、三鷹の飲み屋で横河電機有志による退職慰労・渡英壮行会をしていただきました。システムプラザが東燃から横河に株式譲渡される際、その最高責任者だったUさん、和歌山工場時代からの仕事仲間、Tさん始め多彩で多数の方に参加していただきました。その時、退職記念としていただいたのが、これからお話しする万年筆です。
 会の発起人の一人で仕事仲間のKさんから「今度の会で退職記念品を贈りたいと思うんですが、何が良いか考えておいてください。出来ればあちらで使える物がいいですね」と嬉しいお話をいただきました。小型電気炊飯器、ディジタルカメラ、携帯用GPSなどいろいろ考えましたが、“長く愛着を持って使う”と言う点で、いまひとつピッタリきません。勉強に行くのだから、文房具で何か適当な物は無いだろうか?ふと思いついたのが万年筆です。
 PCの普及ですっかり書くことをしなくなりました。書く機会があっても、ボ-ルペンかシャープペンシルで間にあいます。しかし、万年筆には骨董的な、言わばクラシックカーのような風格があります。最後に所有した万年筆は60年代後半に、個人海外旅行の魁をした友人に頼んで買ってきてもらったペリカンです。香港で購入したこのペリカンは、果たして本物だったのかどうか?手に馴染まず何処かへ消えてしました。欧米はサイン社会です。万年筆でレポートを書くようなことは無いだろうが、クレジットカードのレシートにサインする時、やおら万年筆を取り出して漢字の名前を書いたら、チョッと話が弾むかもしれない。こんな動機から記念品としてお願いすることになりました。これを告げた時のKさんの顔に一瞬“エッ(今どき)?”と言うような表情が浮かびましたが、快くうけていただきました。
 会も宴たけなわ、記念品贈呈になりました。 Kさんから手渡されたのは、金色のパーカーでした。「これで小切手に沢山サインをしてください」「パーカーを選んだのは、英国製だからです」
 出発前に皮製ケースを買い求め、そこにこの万年筆を中心にし、左右にダイセルさんからいただいた名前入りのセルロイド製のボールペン(黒芯)と大昔シリコンバレーのHP訪問時にいただいた金色のクロスのボールペン(赤芯)を収めて、この地にやってきました。
 最初に泊まったマンチェスターのホテル、レンタカーの事前支払い、ランカスターへ来てからの二つのホテル、いずれもカードの支払いはピンナンバー(暗証番号)入力方式でサインのチャンスがありません。最大の山場は、フラットの契約です。信用問題でややごたついたこともあり、不動産屋で6ヶ月前払いと言う条件を飲み、「それじゃトラベラーチェックで2000ポンド(約50万円)、後はクレジットカードでどうかな?」さすがに交渉相手が目を剥きました。「結構です」、「お宅の取引銀行が近くにあるなら、一緒に行ってチェックにサインしてその場で払い込もう」、「願っても無いことです(Good idea!)」連れだって銀行に行きました。窓口で彼が事情を話すと、銀行員がサッとボールペンを差し出し「これでサインしてください」咄嗟のことで出番を失いました。
 Mauriceとの出会いで沢山の文献コピーが手渡されました。これは貰っていいものです。書き込みや、下線を引くのも自由です。やがて、参考書を貸してくれるようになりました。興味深い情報に満ち溢れています。出来ればコピーを撮りたいところです。正式な身分が無い私には、学校のコピー機が使えません。量が少なければMauriceに頼むことも可能かもしれません。しかし、半端な量ではありません。甘えるわけにはいきません。読むのがほとんど自宅と言うのも何かと不便です。結局解決策はノートをとるほかありません。
 古典的学習がこうして始まりました。読んでは書き、書いては読み、コメントを書き加える。英語の筆記をこんなにやったのはいつが最後だったろうか?果たしてあっただろうか?それにしても、万年筆というのは何と滑らかに字を書ける道具なんだろう!筆記体で文章を書写し続ける楽しさが、孤独な夜を忘れさせてくれます。英語の習い初め、中学生のときあんなに辛かった英語の書き取りが嘘のようです。書くという行為が極めて奥の深い学習法であることを、この年になって初めて気がつきました。単語のスペリングは無論、一語一語書くのではなく、ある長さのセンテンスを覚えこと、冠詞、単数・複数、前置詞、完了形の使い方などの文法、文章の構成、読むだけの勉強では何気なくやり過ごしてきたことが、確りチェック出来るのです。
書き綴った量は、5本入りカートリッジ4箱、既に5箱目に移っています。パーカーを選んでいただいたのは、当に先見の明です。街で一番の文房具屋にあるカートリッジはパーカーだけです。お陰で心置きなく書き捲くれます。唯一の心配は、“こんなに使い込むと芯が傷んでしまうのではないか?”と言うことです。しかし、いまのところ、“名刀”の切れ味は些かも鈍っていません。
 一区切りついた時、やや右に傾いて、下部を罫線にそろえてつながる自分の筆跡を見ていて、“親父が生きていたらなんて言うだろうな?”とあの辛かった中学生時代を思い出しました。
 私が中学生になったのは昭和26年(1951年)、まだ戦争の爪跡がいたるところに残る時代です。発足後間もない新制の中学は自前の校舎が無く、それまで小学校の一部を利用していましたが、我われの年度から、戦災で焼け落ち使用出来なかった別の小学校を一部復旧し独立しました。不足していたのは校舎などのハードウェアばかりでなく、新規に出来た中学(旧制中学は高校になった)のため、教育カリキュラム・教材などのソフトウェアも未整備でした。中でも最大の問題は教員です。小学校は養成機関として古くから師範学校がありました。高校(旧制中学)は高等師範や一般大学の教職課程を終えた有資格者の先生が来ていました。しかし、新制中学は“新制”ゆえに正規の教員養成機関が無く“取り敢えず食べるために”ここへ流れ込んでくるような人もいる混乱状態でした。特に酷かったのが英語教育で、つい数年前まで“敵性言語”として高等教育機関でさえ教えていなかったので、全くの人材不足です。私が入学した中学では、しばらく英語の授業は無く、やがて体操の先生が応急で教え始めるような状態でした。今では信じられないでしょうが、各学校の英語教育のレベルが違い過ぎるため、我われの高校入試時、東京都の公立高校入試共通試験;アチ-ブメントテストに“英語は無かった”のです。
 父は東京外語(仏語)の出身です。当時進駐軍(26年から駐留軍)の基地不動産管理を行う業務を、調達庁と言う役所(現防衛施設庁)で担当していました。英語を、生きるために必要とする現場の近くにいたわけです。英語の必要性の高まり、英語教育の惨状、自分の専門、「よーし、ここはわしが面倒をみてやらねば」の思いで始まったのが私の“英語事始”です。
父の考えは、他の教科は小学校の延長、まずまずの成績をおさめてきたから自分でやらせておいて良いだろう。しかし、英語は中学から始まる。それは将来にわたりきわめて重要な教科だ。初めが肝心!こんなところだったでしょう。書き取りをよくやらされました。「間違えだらけだ!」「こんな汚い書き方じゃダメだ!」時々ビンタが飛んできました。結果は、受験に無かったこともあり、全くの英語嫌い。それが未だにボディブローとして効いています。
 父は1月の寒い日、一人で逝きました。91歳でした。TVの前のコタツの上にはフランス語講座のテキスト、裏紙をメモ用紙にしたものが沢山重ねられ、そこには達筆な筆記体で単語や短い文章が書かれています。罫線も無いのに、横一直線にきれいに揃っているそれを見ていて、拙い書き取りを添削してくれた日々が蘇ってきました。あのビンタの痛さとともに。
私の書いたノートを見て、「少しましな英語を書くようになったな。まあ、万年筆が良いからな」こんな声が聞こえてきそうです。

 -横河電機の皆さん、素晴らしい贈り物を、有難うございました-

 本報をもって、17回(+号外)にわたった、「私報 滞英記(現地版)」を終わります。多くの温かい励ましに深謝いたします。

 枯れ葉散る夕暮れのランカスターより

2009年2月19日木曜日

篤きイタリア-6

7.イタリア見聞録(補足)
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 14日、今日も天気がいい。予定通り10時に黒いベンツのワゴン車が迎えに来た。横河ロシアのモスクワにあるのと同じだ。スペースがタップリで快適な車だ。市内からアウトストラーダ(高速道路)を約40分、車はローマ・フィウミチーノ空港に着いた。  英語を話せる若い運転手も最後は「アルベデルチ(さよなら)!」とイタリア語で。アリタリアの国際線チェックインカウンターの担当者は日本人。デュティーフリーのお店も英語で無論OK。お土産にミラノ産チョコレートを購入、これは大変好評だった。倒産が何度も噂されるアリタリア航空、ラウンジを利用したらトイレの便座が一箇所壊れたまま利用に供されていた。
 AZ‐784(機体B-777)は定刻の14時40分成田に向かって離陸した。「楽しい想い出を沢山ありがとう!アリベデルチ!」
 帰路のルートは往きとは違い、概ねシルクロードに沿って飛ぶ、13世紀マルコ・ポーロが4年をかけた道のりを12時間足らずで飛んだ。機内サービスは良くも悪くもイタリアン、人懐っこく親切だが、おしゃべりに夢中でサービス手順や安全チェックなどはいい加減。成田までイタリア気分を味わった。

<手作り旅行>
 今度の旅行は現地旅行社利用を除いて、全て自分で手配し行動した。このやり方はこの年の春のタイ・カンボジャ旅行からである。行動の自由度という点で、パック旅行とは比較にならぬ柔軟性がある反面、“柔軟性”がもたらす手間やリスクを自分で背負うことになる。
 また、トータルの費用で若干高めになるような気がする。これはグループ行動による一人当たり単価の低減、継続的に大規模調達が可能な大手旅行社への提供価格などの違いによるものだろう。インターネットが普及した現在、その土地に慣れていたり、言葉に不自由無い人は直に予約をすることも容易になってきており、今回のケースに比べ安く出来る可能性がある。しかし、現地旅行社から見積りを取った段階で、イタリア国鉄やホテルのホームページ(HP)にアクセスして値段をチェックしたが、見積りと大きな差は無かった。鉄道はともかく、ホテルに関してはHPでは見えない実勢価格があるようだ。後日このことを旅慣れた友人に話したところ、HPではチェックまでに留め、予約は電話で交渉するとHP提示価格より一段と安い実勢価格で利用できると聞かされた。それでも費用の面でのパック旅行との比較は、大量・継続利用との差になるので多少の割高は止むを得ないのではなかろうか?
 現地旅行社の利用に関しては、日本人特化の会社にするか現地の旅行社にするかという選択がある。今回は実質初めての欧州(英国を除く)個人旅行ということもあり、日本人特化のマックス・ハーヴェスト・インターナショナル社(MHI)を使った。この会社を知ったのはインターネット検索(始めは“イタリア旅行”)からである。いくつかの角度(会社のHP、イタリア旅行者のブログ記事など)からこの会社を調べここに決した。ここに至るまで、前出の友人Mやイタリア人の夫人を持つ以前の会社の同僚などに、今回の旅全般にわたる相談相手(企業、個人)の有無を問い合わせたが、「現地の案内・通訳のアルバイト程度なら紹介できるが…」と言うものだった。
 イタリア人の友人に頼むという案も考えなかったわけではない。しかし、地元の宿泊くらいならともかく(実際、訪伊を知らせると二人とも自宅へ泊まれ、ホテルがいいなら予約すると言ってきた)、旅行全体を丸投げするわけにはいかない。自分で計画全体の主導権を持ちつつ現地での調整役が欲しい。
 こう言う経緯で決めたMHI社だが、実は休日現地入りもあり、一度も事務の方とは直接お目にかかっていない。全てインターネット(日伊間)か携帯電話(現地)のコンタクトである。これでノートラブル。サービスには満足出来た。
 個人旅行は細々したことを自分で決めなければいけない。これが楽しみでもあり煩わしさでもある。航空券はHISのHPで予め調査し、営業所へ出向いて最終決定した。日にちとルートがぴったりのものは入手できず、一日滞在を延ばして確保した。友人を訪ねることが観光以上に重要であるこの旅では、先ず彼等の在所とスケジュールを確認し、行動計画を決めなければならない。メールで彼等と会う日を決め、次いで彼等の住所からグーグルマップとアースでそこから近い宿泊候補地を決める。その次は移動経路やおおよその出発・到着時間、列車の種類・等級・運賃をイタリア国鉄のHPなどを参考に見当をつけていく。空港とホテル間のアクセス方法、観光日時、希望観光内容、ホテルの場所・等級・種類、最寄り駅とホテルの交通手段(これもグーグルアースで見当をつける)、これらをMHI社の担当者とメールでやり取りしながら決めていく。細目が固まってくるといよいよ費用の支払いだ。支払い方法は?期日は?為替レートは?関連書類(乗車券やホテルのバウチャーなど)の受取方法は?そして最後に緊急連絡方法の確認。英語で出来ないことも無いが、やはり日本語で出来るのは有り難い。
 現地へ着いてみると、計画とは違うことが間々生じる。今回では第一回で報告した、マウロ宅訪問がその良い例だ。彼の都合が変わり、到着翌日彼の家に行き泊まるはめになった。あまりきっちり計画を作ると、こんな時対応不能になる。この時はMHI社の担当者が携帯で的確な情報を与えてくれて急場を凌ぐことが出来た。
 個人旅行で面倒なのは夕食である。昼食は観光レストランで軽くでもいいが、ディナーは一晩くらいきちんとしたものが食べたい。事前にガイドブックやインターネットでよく調査していけばある程度意に適うかも知れないが、その日の調子(体調、食欲)もあるので、“その都度コンシュルジュに相談して”と周到な準備を怠ったのが裏目に出た。ヨーロッパの個人旅行者向けホテルにはフロントはだいたい一人、結構忙しそうなのでパスしてしまい、行き当たりばったり、今ひとつこれぞと思うレストランに行き当たらなかった。その点で友人たちと一緒のディナーは地元の食堂くらいのレストランでも、それなりに楽しめた。
 今度の個人旅行で当初一番気になっていたのが、言葉の問題である。初回の報告に書いたように38年前のフランスは、観光旅行ではなかったものの、英語が通じず往生した。イタリアはどうなのか?もし英語だけである程度いける見通しが立てば、これからの欧州個人旅行の楽しみが期待できる。テストケースとしての挑戦だった。MHI社との調整でもこの点を留意して手配を頼んだ。結論から言えば、“観光に関する限り”全く問題は無かった。英語しか喋れない観光客の何と多いことか!観光が重要な産業であることEUの成立・成熟が大きく影響しているように思う。
 セキュリティも個人旅行は隙が生じやすい。親友Mの体験談(鉄道車両に乗り込む際、かなりの段差がある。スーツケースを持ち上げるのを手伝ってくれる親切な人がいた。席に着いて、首から提げた小型カバンがバンド部分を残して本体部分は鋭利な刃物で見事に切り取られ、失われていたのに始めて気がついた。グループによる犯行である)とそれへの対応策(金属製のカナビラでカバン本体をベルトに繋いでおく)などを参考に対策を講ずる(重要な書類をコピーして分散保持するなど)とともに、ガイドブックのトラブル事例紹介に何度も目を通し、頭に叩き込んだ。
 ローマの地下鉄で、乗り込んだ時つり革に摑まれなかった。テルミニ駅停車直前急なブレーキでよろけた。長髪髭もじゃの若者が腕を支えてくれた。降りるときに彼にお礼を言ったところ、怖い顔で「スリに気をつけろ!」と注意された。余ほどボンヤリした観光客に見えたに違いない。彼は善人であった。
 暑からず寒からず、天候に恵まれたこと(それ故体調も良好)もセキュリティ面で見えない効果があったように思う。紛失物は貰い物のクロスのボールペン一本である。

<乗り物あれこれ>
 旅の楽しみの一つに乗り物がある。飛行機、鉄道、自動車、船、何でも大好き。乗るも良し、見るも良しである。
 先ず飛行機。国際線の飛行機はどの航空会社も使用する機種が限られていて、あまり代わり映えがしない。違いは専らサービスと言うことになるが、これもヨーロッパ、アメリカ、日本の大手は実質大きな差は無い。空港で見かける飛行機にもハッとするようなものは無かった(ミラノ・マルペンサ空港は規模が小さく、駐機している飛行機の数が極めて少ない)。空の旅の興奮度は、ロシア国内便に使用される機種や一部の東南アジア、中東の国際線に乗ったときのサービスに敵わない。
 今回の旅で飛行機に関する話題は、アリタリア航空の倒産と空港ストである。まだ計画も具体化していなかった年初から、アリタリア航空の経営危機が伝えられ、一旦エールフランスによる救済案が固まっていた。しかし、国政選挙でベルルスコーニが勝利すると、この案を白紙に戻し、イタリア資本で再建する方向になった。その再建案ががたつき出したのは9月の半ば、アリタリアはいつ倒産してもおかしくない状態に追い込まれたのである。もうスケジュールはほぼ固まっている。運行出来なくなったらどうしよう?インターネットで情報収集をしている過程で、今度は空港を含む交通ストが10月19日頃予定されていることを知った。倒産にストが合わさったりしたら大変なことになる。HISに問い合わせると「往きは共同運行の主体がJALだから大丈夫でしょう」と言う。単独運行の帰りはどうなるんだ?!緊急連絡先はHISの横浜支店、現地の駆け込み寺は同社のローマ支店を確認して、10月4日運を天に任せて成田を飛び発った。その後この倒産騒動の話を聞かない。どうなっているのだろう?
 次は鉄道である。今回利用した鉄道は、イタリア国鉄とミラノ、ローマの地下鉄である。ミラノでは路面電車(トラム)の路線も多く、ホテルの前の通りも路面電車が走っていたが、ここで過ごす時間が短かったこともあり利用していない。チョッと残念である。
 地下鉄は便利で安く(一回券;1ユーロ)、システム(改札・プラットフォーム・乗り換え・車両の色分けなど)もほぼ日本の地下鉄と変わらず、違和感無く利用できる。チョッと戸惑うのは切符の自動販売機で、文字は当然イタリア語で表記されている。一度ローマで利用したが、前の人のやり方をよく観察して何とか購入できた。通常はキオスクで求められるのでそこを専ら利用して、ついでに路線や行き先によって異なる改札口の確認などもした。車両内部は日本の地下鉄の方が明るく、清潔で座席の造りなども上等である。
 ミラノは4路線、ローマは2路線しかないので、これも利用しやすい理由の一つかもしれない。
 国内移動は全て国鉄。利用した列車は幹線のインターシティかユーロスターなのでローカル線や近郊電車などは体験していない。インターシティ(IC)は電気機関車が客車を牽引するタイプで、二等車は中央通路の四人掛けのボックスシート、一等車は片側通路の六人掛けのコンパートメントである。二等車内部は概ねJRのボックス席と変わりない。コンパートメントは日本には無いので(一部のグリーン車や寝台車を除く)、クラシカルな雰囲気でいかにも外国旅行をしている気分になる。座席シートは布製で応接セットのソファーのようで座り心地が良く、インテリアも落ち着く。通路側がガラスなので閉塞感はないが、そこに居る乗客だけの世界になるので、組み合わせ次第で世界が変わる可能性がある。今回の体験はミラノからヴィチェンツァ間だけだったが、皆静かな人たちでイタリア人同士でも一度も会話が無かった。アジア人の我々が居たからだろうか?
 これに比べるとユーロスターは近代的・機能的ですっきりしているが、わが国新幹線同様味気ない。二等車はIC同様両側4人掛けボックスシート、一等車は通路を挟んで片側は4人掛けのボックス、もう一方は向かい合わせの二人掛けである。座席は固定で進行方向に向くようにはなっていない。内装は一等も二等もプラスティックが多用されており安っぽい感じがする。一等に関する限り、はるかに新幹線の方が重厚である。
 ユーロスターには車両の一端に荷物スペースがあるが、団体客が乗るととても収容しきれない。ヴェネツィア~フィレンツェ間では座席上の網棚を利用せざるを得なかった。
 運行の定時性には若干問題があった。ミラノからヴィチェンツァへのICは出発が大幅に遅れたし、いずれの始発駅でも数分は遅れていた。これは日本では考えられないことだが、他の国では当たり前と思うべきなのかもしれない。ドイツは日本同様正確だという人もいるが、ドイツ鉄道旅行記など読むとローカル列車は結構問題があるように書いているものもある。
 今回乗車時間の関係で食堂車を利用しなかったが、メニューを持ったサービス員が予約の注文を取って時間が来るとお客は食堂車へ出かける。古き良きヨーロッパの伝統が残っている。こう言うサービスは新幹線には無い。逆にワゴン車での車内販売は来なかった。
 車掌、食堂車サービス員は無論英語OK。車内アナウンスも英語がある。国をまたがって運行される列車のサービスはこうなくてはならない。38年前のフランスはどう変わっているのだろうか?
 最も身近な乗り物は自動車である。私の趣味はドライブ。今度の旅の目的の一つは、マウロのフェラーリを見ること、そしてそれらに乗せてもらうこと。名車揃いのイタリアの自動車史も興味深い。垣間見た現代イタリア自動車事情を紹介する。
 アウトストラーダ(高速道路)を走ったのはミラノ空港から市内のホテルまでとローマのホテルから空港まで二回しかない。プレーシア、マネルビオ近郊をマウロの車で、ヴェチェンツァとサンドリーゴ近郊をシルバーノの車でドライブ。ミラノとローマで半日観光バスに乗ったのと、フィレンツェでは駅とホテルの往復、ローマでは駅からホテルまで片道タクシーに乗っている。いずれも走ったのは一般道。これが今回の自動車利用の全てだ。あとはヴェネツィアを除く街中での観察である。
 1970年代のスーパーカー・ブーム。近所のスーパーで客寄せの催し物に展示されていたのは、赤いフェラーリ、白のランボルギーニ・カウンタック、レース仕様のポルシェ。幼い息子共々興奮状態だった。ポルシェはともかくあとは今もイタリアを代表する名車である。戦後のF-1はホンダを含む幾多のメーカーがマニュファクチャラーズ・チャンピョンシップを手にしているが、圧倒的に多いのはフェラーリだ。
 先に紹介したミッレミリア(1000マイル)レースやタルガ・フローリオ(シシリー島を舞台にしたスポーツカーレース)など歴史に残るレースの数々と名車達、フェラーリ以外にもアルファロメオ、ランチァ、マセラッティそしてフィアットがこれらのレースで活躍してきた。自動車レースに熱い血を滾らせるイタリア人の自動車生活は如何に?
 実は、上記の自動車メーカーはランボルギーニを除けば(ランボルギーニはドイツのアウディが握る)、今は全てフィアットの傘下にある(アルファロメオは一時GMが大株主となるが、現在はフィアットがそれを引き取っている)。つまりイタリアの自動車会社は実質フィアット社一社といって良い。最近のフィアットは、スーパーカーから大衆車まで、生産や技術面では合理化を図りつつ各社の個性を生かして、異なる客層のニーズに上手く応えているように見える。ただヨーロッパの大衆車(小型車)市場は競争が厳しく、新型のフィアット500(チンクエチェント;先代は500ccだったが今のものは1200cc)が好評な割には収益面で必ずしも磐石ではないようだ。
 これは街で見かける車の生産国や車種から窺がうことが出来る。この分野のフィアット車は500の他に、パンダ、プントなどがあり、無論数から言えばマジョリティである。しかし、ここにはフォルクスワーゲンのゴルフ、ポロやフランスのプジョー200系(206、207、208)や300系、それにトヨタのヴィッツ(欧州名ヤリス)、ホンダのフィット(同ジャズ)などシェアー10%に達する日本車、などの外国車の存在が目立つ。少し上のクラスになるとアルファが頑張っているが、ドイツのアウディ、BMWがそれを上回り、フランスのシトローエンを合わせた外国車のほうが多くなる。ただこのクラスは絶対数が少ない。
 高級車のフェラーリ、マセラッティ、ランチァ(小型車のイプシロンは除く)は一度も一般道や街中では見かけなかったし、時たま見るのはベンツのセダンくらいであった。そのベンツの大型車(E、Sクラス)もわが国ほど多くは無い。
 車種はハッチバックの小型車が主流なのは英国と変わらない。次いで比較的多いと感じたのはいわゆるステーションワゴン。いずれも生活との密着感が強い。日本で主流のミニバンは営業用を除けばほとんど見かけなし、四駆のSUVも多くない。ミニバンは日本独特の、SUVは日米に特化したマーケットなのだろう。
 日本で見かけるイタリア車は赤が圧倒的に多い。F1が広告だらけでなかった時代にはその国を表すナショナルカラーがあった。イタリアは赤である。太陽の光が燦燦と注ぐ国に相応しい。しかし、現実にはそれほどこの国が赤の車で埋め尽くされているわけではない。クリーム・黄色、シルバー、ベージュなどわりと地味な色が多い。意外であった。
 あの“ローマの休日”の主役、スクーターはさすがに多い(特にローマ)。一昨年滞在した英国では、ツーリングのバイクは多かったものの、スクーターはほとんど見かけなかったのに、ここイタリアではそれが逆転している。通勤時間帯は特に多く、女性の乗り手も結構いる。
 イタリアのドライバーは飛ばすので危険というような話を聞いたことがあるが、特にそれを感じなかった。確かに、短い距離だがアウトストラーダを空港送迎の車で走った時、皆飛ばしてはいたが、日本に比べトラックが我がもの顔という状況ではないので快適な走りだった。一般道ではラウンドアバウト(ロータリー)が多いが、ここでもマナーは格別問題無く、無論交通事故を目撃することも無かった。イタリア人に対する先入観(おっちょこちょい)がそんな風評を呼んでいるのだろう。
 というような訳で、意外とイタリア人の自動車生活は、英国同様質実な感じを持った。高速道路や国境を越えるグランドツーリングでは別の情景にめぐり合えるかも知れないが、これが旧い町の石畳を生活の場とする、ヨーロッパ共通の自動車文化なのだ。
 ヴェネツィアは水の都。ここでは無しの生活は考えられない。水上バスのヴァポレット、トラック代わりの運搬船、モーターボートのタクシーそしてゴンドラ。我々の乗ったゴンドラは専ら観光用だが、生活のための渡し舟、トラゲットと言うのがある。利用する機会は無かったが、運河を跨る橋に限りがあるので居住者には欠かせぬ交通手段になっている。
 住民にとって、最も身近な交通機関は路線バスに違いない。これを使いこなせれば行動範囲は倍増し、疲れは半減する。しかし、現地語を理解出来ない、短期滞在の旅行者には難物である。これはイタリアに限ったことではないが。

<観光立国>
 観光立国といえば先ずスイスが浮かぶ。統計に依れば最も海外からの観光客の多いのはフランスである。しかしこれらの国と国境を接するイタリアも負けてはいない。兎に角驚くほどの数の観光客である。特定の観光名所に大勢の観光客が集まるのは、北京郊外の万里の長城からスペースシャトル打ち上げのケープ・カナベラルまで諸所体験しているが、どの街にも外国人 観光客が溢れている所は、ここイタリアが初めてである。
 普通の観光客(冒険や特異な異文化体験を求めるものではない)が集まってくる必要条件;安全(スリ・かっぱらいはいるが)・清潔(ナポリのゴミは酷いというが)・利便さ(交通機関はややルーズなところもあるが)・民度の高さ(南北格差はあるが)・取引の公正さ(“ヴェニスの商人”はイタリア人も揶揄するが)・過ごしやすい気候(南部の夏は厳しいようだが)、が備わっている。それに加えて、ローマ帝国の遺跡、ルネサンス美術そしてカソリックの総本山ヴァチカン、世界から人を惹きつける材料に事欠かない。しかしこれら歴史を残す“点”以外に“現代のイタリア”がこれらと相俟ってその魅力を増しているのではなかろうか?女性にとってのファッション、自動車に代表される工業デザイン、美味しい食べ物、オペラを始めとする音楽、ファンを熱狂させるサッカーなどが“イタリアへ行こう!”とそれぞれの観光客の背中を押したに違いない。
 もう一つ、これは私の偏見かもしれないが、この国は中世(東ローマ帝国)まで続いた世界帝国であるとともにルネサンスは西洋文明の起源であるのに、何故かそれを外に向かって声高に主張し、過去の栄光を現代イタリアに引き戻すような言動をしないところに、気安さを感じさせるような気がする。嫌味の無い国、これはフランスや中国とはまるで違う気風ではなかろうか?ハッタリの無い、気遣いしなくて済む適度なホスピタリティがこの国の観光立国を支えているといえる。

<文化財と戦争>
 この国を旅していて不意に第二次世界大戦の世界に引き込まれた。
 最初は、ミラノ観光でダヴィンチの「最後の晩餐」で有名な、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会を訪れた時見た、第二次世界大戦における米軍によるミラノ爆撃である。「最後の晩餐」そのものは教会の本体ではなく、嘗て修道院の食堂であったところに描かれている。ナポレオンの時代には厩として使われ絵もかなり傷んだようだ。しかし、1943年の爆撃で教会本体は瓦礫の山、痛みはしたものの、絵の在る所は直撃を免れた。別の展示室にその時の写真が展示されており、危機一髪であったことがわかる。
 これで済まなかったのはパッラーディオ設計のバッサーノ・デル・グラッパのヴェッキオ橋(屋根付の橋;ポンテ・コペルト)である。これも米軍の爆撃で破壊され現存するものは、1948年に掛け直されたものである。
 橋の被害はこれに留まらない。フィレンツェでは最古の橋、ヴェッキオ橋(現存のものは1345年建造)は何とか残ったものの、アルノ川にかかる他の橋は退却するドイツ軍に皆爆破されている。
 これ以外にもローマ守備のためその南方に引かれた独軍の防衛ライン、グスタフ・ライン上にある、モンテ・カッシーノの山頂にあった旧い修道院が、ここにドイツ軍は立て籠もっていなかったのだが、米軍の激しい爆撃で破壊されている。
 三国同盟の一カ国、ファッシズム誕生の国ではあるが、イタリア自身はほとんど国内で連合軍と戦っていない。この国での本格戦闘は独・米英戦と言っていい。とんだとばっちりである。地上戦闘の激しい所では双方とも文化財を保護する配慮などしていられなかたのであろう。京都が戦災を受けなかったことを奇貨としたい。

<不法移民> 訪れたどこの町も外国人観光客で溢れかえっていた。しかし、観光客と思えない外国人も目についた。マネルビオのような長閑な田舎町にもモスレムがジワーッと浸透しているらしい。グラッパやスキオのような北イタリアの静かな町に肌の浅黒い人たちを至る所で見かけた。アフリカ系と見られる黒人は大きな都市で行商やレストランのボーイなどをしている。中国人も多いようだ(ヴェネツィアに近いパドヴァと言う町が流入拠点と後で知った)。東欧がEUに入ったことで、そこからの流民も増えているらしい。
 一昨年英国に滞在した時も、移民問題は大きなニュースにしばしばなっていた。英国の場合は、インド系、西インド諸島などの旧植民地とEUに加盟した東欧からの移民が多いようだ。フランスは北アフリカ、ドイツはトルコや旧ユーゴスラビア、オランダはインドネシア、と西欧の豊かな国はいずこも移民問題に悩んでいる。
 それぞれの国のネイティヴ(白人でキリスト教徒)の人たちと話すと「外国人が来ること自体はOKだが、その国の文化を受容せず、独自の社会を作ることは断固反対!」と言うのが大勢である。イスラムが嫌悪され、日本人が比較的抵抗無く受け入れられるのは、この原則に従っているからといえる。
 イタリアには他国からの移民問題に加えて、国内の南北問題がある。ローマを含む南部は、北アフリカやバルカンと共通する気候風土や文化が根強いのに対し、北部は緑と水が豊かでローマ帝国崩壊後はハプスブルグ家の影響下に長く在った。近世以降は工業が豊かさと同意義を持ち、南の遅れは甚だしい。それにイタリアには小国分立の長い歴史があり、地方毎の独自性をいまだに残している。北の富が南に吸い取られ、妙な使われ方(南部地方政治におけるマフィアの暗躍)をしていることに北の人々は不満を募らせる。「南なんかイタリアじゃない!」と。
 外国からの観光客で溢れかえる町々に、こんな悩み・混乱が内在しているのである。

<後日談>
 この報告は友人・知人方々の他に今回の旅でお世話になったMHI社の担当者の方(女性)にもブログアップをお知らせしている。それも含めて、今まで書いてきたことに関するコメントの一部をご紹介して、この旅行記を終えたい。
1)ヴェネツィアの目刺し ヴェネツィアで、ツアーに組み込まれていたディナーで魚料理を賞味したが、その貧相なことを縷々書き連ねたことに対して以下のようなコメントをいただいた。
・イタリアの魚料理はフランス料理とは異なりソースの類は使わず、素で焼いたものに、オリーブオイル、塩・胡椒、レモンで味付け(自分で)するだけ。従って供ぜられた魚の塩焼き料理は典型的なイタリア料理であって、日本人スペッシャルではない。
・私たちでもVENEZIAでは、知らないレストランに行くと魚の貧弱さにはがっかりします。両親が来たときも、いつものレストランに行こうとしたんですが、疲れて歩けないとのことで、適当なところに入りましたが、やはりこーんな薄い魚を見たのは初めて、という代物でした。ですが、相手はヴェニスの商人ですから、相手にしても無駄です・・・実は魚は、ミラノが一番新鮮なんですよ。魚市場がありますので・・・料金もVENEZIAよりやや安く、失敗なく召し上がれます。
2)食べ損ねたフィレンツェのTボーンステーキ
・フィレンツェのステーキにしても、ピッツァなどがあるレストランでは後回しにされ
てしまいますね。専門店にいらっしゃるべきでした・・・
 結局、ビステッカ・フィオレンティーノは、お召し上がりになれなかったのですね。
残念です・・・
 私は、あれが食べたくてフィレンツェに帰るようなものですから・・・(友達が住ん
でいますので行きやすい)
3)食は南にあり・北イタリアは歴史的にオーストリア、ドイツの影響が強い。従ってあまり料理も美味しいものではない!パスタ一つとっても、断然南ですよ!
4)素晴らしきイタリア
・イタリアは、まだ日本に紹介されていない美しい自然の宝庫が各地にございます。北は、チロル地方の山々、南はナポリ、イスキア島(温泉)、シチリア島など。ぜひ、またいらしてくださいね。

 と言うようなわけで、二人のイタリア人の友に大歓迎されたこともあり、すっかりイタリアの虜になってしまいました。これほど楽しい旅を他の国で味わうことは期待出来ないのではないかと、これからの海外旅行を按ずる今日この頃です。

 長いこと、冗長な旅行記をご愛読いただいたことに深く感謝いたします。

2009年2月4日水曜日

今月の本棚-1月

On my book shelf-6

<今月読んだ本>
1)見抜く力(平井伯昌);幻冬舎
2)知られざるインテリジェンスの世界(吉田一彦):PHP研究所
3)ランド-世界を支配した研究所-(アレックス・アベラ);文藝春秋社
4)不幸を選択したアメリカ(日高義樹);PHP研究所


<愚評昧説>
1)見抜く力 スポーツものの書籍を読むことほとんど無い。この本もたまたま昼食時のワイドショーで紹介されなかったら、買うことも無かったろう。筆者はあの北島に連続金メダルを取らせたコーチである。北島とは彼が中学生の時から指導に当っているし、連続銅メダルの中村礼子も指導してきた。その指導内容を静かに、分かりやすく体系的に語るところが好ましい。
 日本のスポーツ指導者は、概ね自らが一流選手だったか、闘将もどきで“根性”を鍛えるタイプが持て囃される。古くは女子バレーの大松監督、近くは(大嫌いな)星野がそのいい例である。スポーツ科学や心理学などを確り学び、それを自分のものとして咀嚼し、個々の選手の特性を踏まえて指導するような専門家が少ない。この平井コーチはその稀有のタイプの指導者である。
 自身の水泳選手歴は、スウィミング・スクールに属し中高一貫の進学校では飛びぬけた力があったものの、強豪選手ひしめく大学では主力選手になれず、先輩に資質を見込まれマネージャーに転じている。
 大学運動部のマネージャー役というのは、金勘定とスケジュール調整役くらいにしか考えていなかったが、一番重要な仕事は、個々の有力選手(上級生を含む)の練習メニュー(長期・短期)を作り、それを実行させることにあることを本書から学んだ。一人ひとりの身体特性と人間性を冷徹に分析し、それに合ったアドバイスをすることがカギになる。ヒエラルキーの厳しい運動部で上級生を“根性”で従わせることなど不可能である。20歳前後の青年にとってこれがどれだけ大変なことであろうか。ここで体得したコーチング技術と水泳に対する情熱が、就職に際して保険会社の内定を辞退させ、スウィミング・スクール指導者への道を選ばせる。
 北島の、そして中村の性格はどうなのか?泳ぎに対する身体の特質は?ライバルたちの泳ぎ方は?中学生の時とアテネでメダルを取った後とは当然違う。これらを全て掌握・分析して日常の指導に当たり、本番レースの細かい戦術を与える。“頑張れ”と言う一言を言うか言わないかにまで気配りする。
 この手のサクセス・ストーリーは、しばしば管理や経営の参考にすべく編集し、売れ行きを伸ばそうとする下心が見え見えというものが多い。筆者まですっかりその気になって書く下司なものが嫌と言うほど出版されてきた。しかし、本書にはそのような嫌味がまるでない。それは筆者が、信念があり意志も強いが謙虚に学ぶ姿勢を、どんな局面でも堅持していることによるものだろう。これこそどんな世界でもリーダが具備しなければならない資質である。
 経営への言及を批判しながら、矛盾するような話だが、入社4年目地方の工場で大規模なプロジェクトが終わり、メンバーの大部分が本社や他工場へ去って行った。工場に残される不満を、本人も栄転する課長にぶつけた。その時の一言「エンジニアには考えるエンジニアと作るエンジニアがあるんだ。君は作るエンジニアに適している。出来たばかりのプラントはまだまだ問題山積みだ。残って完全なものに仕上げてくれ!」 聞き方によっては「頭の悪いやつは汗をかけ」ともなるが、私の資質を“見抜いた”殺し文句であった。この一言がその後入社来20年にわたる工場勤務を支える原動力となった。
 未熟な若き日を久々に思い起させてくれた、爽やかな読後感を有難う!

2)知られざるインテリジェンスの世界  情報というと、①IT絡み、②政治・経済それに③外交・軍事・治安の三分野が主題となる。この本はその最後の分野、外交・軍事・治安に関するものである。この分野はわが国では、旧陸海軍人(もうほとんど生存していない)、自衛隊関係者、警察OB、元外交官などに限られる。大学人が書いていても大体がその筋のOBである。そんな中で生粋の大学人(神戸大学名誉教授)が学問として、興味深い事例を引用しながら“情報学”をまとめるがごとく書いたのが本書である。
 評者の仕事歴は広義の情報システム(計測・制御・IT)であるが、意思決定に関わる情報・データは圧倒的に“技術(テクノロジー)”の外に存在することを知らされてきた。“発展するITと外なる決定情報を融合するシステムは出来るか?如何に作り上げるか?“が未完のライフワークと言っていい。この観点から“情報”と名のつく本は随分読んできたが、90年代後期この人が書いた「情報で世界を操った男」(CIAの前身、OSSを作ったドノバン)を読んで、そのクール(この種の本はどうしても扇情的なトーンになり勝ち)な書きっぷりに惹かれファンになった。爾来「暗号戦争」「騙し合いの戦争史」などを読んだが、この「知られざるインテリジェンスの世界」はそれらを基にした情報学の集大成とも言える。
 先ず体系的な構成で、情報の定義やその信憑性検証、情報活動の基本、各種の情報収集法、その分析、分析結果からの予兆読み取り、最後にこれに基づく判断、を説明していく。材料は第二次世界大戦が多いものの、冷戦下の英国スパイ(007も出てくる)や中東戦争、江戸幕府の長崎(オランダ)経由欧州情報、更にはスパイ衛星にもおよぶ。また、それぞれの引用文献も明示してあり、中身に信頼が置ける。
 最後まで出来の良い軍事サスペンス小説を読むような気分を味わえる。企業経営分野でもこのような“面白い”コンテンツの“情報学”著書が出てきて欲しい(サプライチェーン絡みの業務プロセス改善を扱った“ザ・ゴール”のような本がベストセラーになったが、小説としては全く盛り上がりの無いものであった)。

3)ランド-世界を支配した研究所-
 ランドとは、R(Research;研究) and D(Development;開発)からきている。この研究所の存在を知ったのは多分1964年頃だったと思う。当時工場で京大の指導による(化学)プロセス・システムズ・エンジニアリングの勉強会があり、そこでダイナミック・プログラミング(動的最適化法;DP)の話を聞いた。その始祖、リチャード・ベルマンがランド研究所に居る時発案したものだと言うようなことだった。
 ランド研究所が一般の日本人に知られるようになるのは60年代後半の未来学ブーム到来からであろう。日本の飛躍を声高に語る(“21世紀は日本の世紀”などと持ち上げた)この分野の有名人、ハーマン・カーン紹介の中にしばしば登場した。
 この研究所の出発点は、第二次世界大戦直後における陸軍航空軍(当時は空軍として独立していなかったが実態は独立軍に近かった)の科学者センターにある。戦時中兵器開発や作戦策定にトップクラスの科学者を動員したアメリカでも、戦後は急速に軍務を離れる者が続出する。これに危機感を持った航空軍が一流の学者を引きとめ、集めるために設立したのがこの研究所である。そのような経緯から当初は兵器開発や作戦策定への数学・物理学の適用が中心であったがやがて社会科学、特に経済学や政治学の分野にも対象範囲を広げ、軍(始めは空軍だがやがて陸軍も)や合衆国政府のシンクタンクに変じていく。設立来60年におよぶ歴史の中で、冷戦下の核戦略、スプートニック・ショックへの対応、ヴェトナム戦争戦略、インターネット構想、冷戦の終焉そしてイラク戦争まで、アメリカの主要な国家戦略に如何にこの研究所が深く関わってきたかを“人を中心に”丹念に追っていく。
 この本の第一部第一章のタイトルは「東京大空襲から始まった」であり、“東京を如何にB-29 によって効果的に破壊するか”を、OR(応用数学)を用いて検討したことが、この研究所設立の背景に在ったとしており、“決断と数理”の関係を研究する評者にとって、いきなり核心に踏み込む構成になっている。その後の展開も、線形計画法(LP)、前述のDPさらには交渉プロセスの手法として広く適用されるゲーム理論などの数理手法が政戦略の実際問題に適用され、普及してゆく様を多々紹介してくれる。この数値至上主義ともいえる研究所の特質は、研究員あるいはアドバイザーとしてこの研究所に籍を置いた27人ものノーベル賞受賞者が、一人を除き(キッシンジャー元国務長官;平和賞)他は経済学賞、物理学賞、化学賞と数理系に著しく偏していることにも窺がえる。
 一方でこの数値至上主義は、マクナマラが国防長官としてその任に当たったヴェトナム戦争では人間心理や民族感情を顧慮しない作戦を多発させ、その敗因をつくりやがては反戦運動を目論む研究員によって極秘資料が流出し、あの「ペンタゴン・ぺ-パー」事件を引き起こすことになる。
 歴代のメンバーには、コンピュータの生みの親;フォン・ノイマン、線形計画法のシンプレックス解法を考案したジョージ・ダンチックや経済学者として有名なポール・サミュエルソンなど多士済々である。大統領・国務長官・国防長官など国のトップの意思決定に関わるテーマの研究に携わるだけに政府の重要ポストにつく研究員も続出し、本書のサブタイトルが“世界を制する研究所”となっていることにも納得できる。そしてこのランド人脈ともいえる国家政策決定マフィアの要所々々がユダヤ系アメリカ人で抑えられていることを知り改めてユダヤ人の凄さを認識させられた。また前国務長官のコンドリーザ・ライスは学生時代インターシップ(夏季研修生)でこの研究所で学ぶが、“あまりの上方志向で研究者に向かない”と判定され採用されなかったと言う逸話も簡単に紹介されている。
 優れた個人が活躍し、権力者に決断の合理的論拠を提供し続けたこの研究所も他のシンクタンク同様、個人から集団への転換途上にあり、突出した力を失いつつあるのが現状らしい。差別化を図るため、国外にも拠点を設け、外国政府を顧客とする活動も進んでいるという。こうなるとランド対ランドも有り得るわけで、一体ランドの将来はどうなるのであろうか?そして世界は?
 最後に、この本の筆者は新聞ベースのジャーナリストで、取材は全面的にランドの協力を得たものの、出来栄え(内容)はその意に副わなかったようで、訳者が問い合わせしたところ極めて冷たい扱いを受けたようである。それだけ本質的な問題点を突いているともいえる。また、最近読んだ訳本として極めて良質なものである。これは訳者が英語力に優れるばかりで無く、完全に内容を理解するまで追加調査を重ねた結果であろう。
 いい本にめぐり合えた。

4)不幸を選択したアメリカ
 オバマ本が書店に溢れている。概ね好意的なものが多い。演説上手なので演説集も人気があるようだ。そんな中で、この本はタイトルが示すようにオバマ批判本の第一号ではなかろうか?ある種の“キワモノ”意識はあったが、“不幸” に惹かれて購入した。
 筆者はNHK元アメリカ総局長であり、現役時代はニュースや特集番組でよく見かけた。退職後12チャンネル(?)で“日高レポート”と銘打って日米関係を軸にした特集番組をやっているのは新聞広告で見かけたが、今まで番組も関連著書も読んだことはない。経歴書を見ると退職後もアメリカの大学・シンクタンクと深く関わっており、取材源は豊富なようである。それに基づく内容だけにある程度真実味があるが、政治的スタンスがはっきり共和党支持であり、この点でフィルターがかかっていると強く感じる。欧米のジャーナリズム(個人も組織も)はこの点旗幟鮮明なので悪いことではないし、読む側がむしろこれを踏まえて消化する必要がある。
 実は評者も共和党贔屓である。これは親しいアメリカ人の影響と自分なりの日米関係観察からきている。大会社幹部やWASPは概ね共和党、労働者階級やマイノリティは民主党支持と言われる。偶々選挙シーズンに会ったりするとタクシーの運転手やホテルのボーイなどからもどちらを支持するのか質問されたり議論を吹きかけられることがある。これらの人々は民主党支持が多く、かつ日本人が共和党贔屓であることを知っていて、皮肉っぽく問いかけられたりもする。こう言うときは面倒を避けるため「確かに共和党ファンは多いが、ケネディの人気は今でも高いんだよ」とかわしてきた。
 2000年の大統領選の日マンハッタンに居た。翌日も結果は出ない。この日元エクソンのIT専門職(夫)・管理職(妻)で熱烈な民主党支持のユダヤ人夫妻に夕食に招待された。「どっちを応援しているんだい?」「日本人は共和党支持者が多いけどね」と曖昧に答えた。「ブッシュのアホが大統領になったらえらいことになるぜ!」 昨年5月の連休中この夫婦が来日し我が家にやってきた。丁度ヒラリーとオバマの戦いが始まった時である。「ヒラリーとオバマ、どっちを支持する?」「日本人は共和党支持者が多いからね」明言は避けたが無論先方は分かっている。「あの時(2000年)のこと覚えているか?酷い世界になっただろう!」
 それでも共和党を支持するのは、戦争で不況脱出を図ったルーズヴェルトやクリントン政権時代のグローバリゼーションに見るように、外に厳しいアメリカになるのはいつも民主党だからだ。ケネディも演説ばかり立派な理想主義者だったし、ジョンソンは大盤振る舞いで今に膨らむ財政赤字の元凶である。大衆迎合主義の傾向が強い民主党にどうしても組みすることは出来ない。それにオバマが見習おうとするリンカーンは共和党員であった。
 繰り返すが筆者は共和党シンパである。オバマの問題点が民主党の内情と併せて具体的に列挙される。そのフィルターを勘案しても、理想主義演説が先行し、確たる政治哲学が見えてこず、法律家としても議員としてもほとんど実績の無いことに不安を懸念する筆者の主張は共感できる。それはやがて演説上手で何も実績を残さず悲惨な最後で歴史に残ったケネディの運命と重なってくるのは筆者ばかりではあるまい。
 願わくはそのようなことが無いように!

2009年2月1日日曜日

滞英記-16

Letter from Lancaster-16
2007年9月10日

 7日から大変センセーショナルな報道が始まっています。この地に到着時ニュースを独占していたのは、マドレーヌと言う4歳の幼女が、ポルトガルの避暑地(英国村のような所)で行方不明になったことでした。国中がこの事件に関心をもち、ランカスターの街中でも写真を配るボランティアがいたほどです。ベッカムもTVで協力を呼びかけていました。それが、6日ポルトガル警察が母親を“Suspect(被疑者)”として取調べ(非拘束)を始めたというのです。容疑は“意図せぬ事故死に関与”だそうです。TVで涙ながらに娘を語る彼女の姿が、皆の同情をひと際ひきつけただけに、“なに!?”と言う感じです。
 大学はまだ始まってはいませんが、大分学生が出てきています。留学生が多く、最大のエスニックグループは中国人だそうです。そんな中で、先週のゼミの帰り、大学内のバス停で日本人母子に会いました。子供が突然日本語で話し始めたので分かったのです。サバティカル(大学教員の研究休暇)で来ている家族のようで、4月から市内に住んでいるそうです。少し話をしたかったのですが、来たのが二階バス、私は一階に席を占めましたが、子供は当然二階、残念ながらお母さんとの会話もバス停で終わってしまいました。
 残すところ一ヶ月、ボツボツですが引き揚げ準備にかかっています。不動産屋とチェックアウトの日時を決め、やり方の確認をし、市役所にも出向いて最後の税金の確認、転出届用紙の入手、など始めています。借りた部屋は割と良い物件のようで、早くも次の希望者が下見に来ました。直ぐに次が見つかると、先払いの家賃が幾ばくか帰ってくるとのことです。ユーティリティーの締めは個人でと言われていましたが、チェックアウトの当日不動産屋がメーターを確認し、精算はデポジットの中でやってくれることが分かり、銀行口座の無い私はホッとしました。ただ、電話は依然個人ベースなので、少し早めに(多分9月20日頃)こちらからかけるのは、メールを含めストップする予定です(固定料金は11月まで先払いしてあるので、10月初めに来る請求書で全て精算が済むように)。
 英国出発は、チェックアウト二日後マンチェスターからなので、二晩ホテルで過ごす予定でいましたが、Mauriceが「お金を使うことは無い!うちに泊まれ。ベッドルームが四つもあるから(ただバスルームは一つだけどね)」と言ってくれています。バーバラ夫人に話す前の好意ですから思案中です。
 先週お送りした<世相点描>に関連して、英国の環境問題対応についてご質問がありました。実は、チェックアウトとごみ処理と言う身近な問題もありますので、今回はこの国の環境問題を<英国、環境先進国?>と題してお送りします。

 研究の方は、「Britain’s SHIELD(英国の盾)」を読み終えました。内容は、瀬戸際で英国が持ち堪えた、1940年5月から始まり10月に勝敗が決した、独空軍と英空軍(戦闘機軍団)の戦いを、レーダー開発を中心に、防空対策を“システム”として捉え、これ(システムしての完成)へのORの貢献を掘り下げたものです。チャーチルの一言「これほど少数の人々に、これほど多数の人間がお陰をこうむったことが、歴史上有っただろうか?」と戦闘機パイロットを称えたことから、真の勝利の貢献者“防空システム”の正しい評価が陰に隠れてしまったことを糺す初めての書と言えるものです。
 この書物からの収穫は、①防空システム完成に至るORの役割、②防空システム開発・構築を、信念を持って推進した、空軍省防空委員会(ティザード委員会)を主宰したティザードの考え・行動、③軍の側でこれを支え、戦いに勝利した戦闘機軍団長、ダウディングの人となり(最大の貢献者が、大事な意思決定の場で如何に判断を下したか、最後に左遷に等しい処遇を受けた背景・理由など)、を体系的に理解できたことです。
 先週もチョッとご紹介した次の資料は、空軍省(後に国防省に統合)のORに関する公刊史「The Origins and Development of Operational Research in Royal Air Force」(Mauriceが研究のためにフォトコピーした)です。今までの資料と違い、かなり味気ないものです。しかし軍の組織や軍人の地位・役割が明解なこと、データ・情報の信頼性が高いこと、軍側から科学者を見るという視点、他の軍(陸海軍のOR)との関係など、今までのものにないユニークなものです。そこで従来頭から読んで整理したものを、少しやり方を変えようと思っています。例えば、特定(公史に残る)の人間に着目しその人物がどの局面に現れるか(試しに、“ORの父”と言われるブラッケットをこのやり方で整理してみると、OR適用の嚆矢となる“バトル・オブ・ブリテン(英独航空戦)の具体的なOR活動に全く出てこないことが分かりました。そこでMauriceに「ブラケットは防空システム開発・運用には表立って活躍していないね?」と問うと、「その通りだ」との答えが返ってきました。これによりブラケットのOR活動を、どこからスタートすべきかが整理できます。もう一つは、作戦策定・推進の責任者(軍人)とその科学アドバイザーとの関係を整理することです。特に、個々の“職務と人間関係”が如何様だったかが見えてくれば、“ORと意思決定の関係”が“非数理的”なものと“数理的”ものの組み合わせパターンとして整理できるのではないかと思っています。第三は、前項と関係しますが、官僚機構の中の処遇(階級や職権)に焦点を当て、建前上如何なる扱いを受け、それが意思決定にどう影響したかを考察したいと考えています。
 さらに次の資料が来ています。「The Effect of Science on the Second World War;Guy Hartcup著」です。第二次世界大戦時陸軍に所属した歴史学者の書いたものです。10章から構成される中にORに一章が割かれ、“New Science”として書かれている他、戦時における科学者の組織上の位置づけなどの章があり、かなり私の研究に新たな情報を与えてくれそうです。ユニークなのは“医薬”に関する章で、これにより負傷兵の回復・戦場復帰が如何に高まったかを記述しています。戦争をこういう角度から見ることの重要性は、実はバトル・オブ・ブリテンにもあるのです。英仏海峡で撃墜されたパイロットを救済するシステムまで備えて戦った英国は、士気の面でも、効率の面でもドイツを圧倒できたわけです。
 それにしても次から次に面白い資料が出てきます。意思決定の結果がはっきり出る“戦争と科学の関係”を多くの人が研究し、それを著していることにびっくりします。ここへ出かけてきたのは大正解でした。“戦争と道楽だけは真剣にやる英国人”に感謝です。

<英国、環境先進国?>
 “ロンドンの霧”は映画や歌でお馴染みです。推理小説の舞台にも欠かせません。しかし、これは英国特有の風物を作り出し、メリーポピンズでは重要な仕掛けになる、あのチムニー(煙突)から排出される暖炉からの煙と冬の天候が作り出した、いわば排気ガス公害だったのです。とにかくこの小都市ランカスターでも、ものすごい数のチムニーです。今は全てが使われているわけではありませんが、全盛期はあそこから石炭(田舎では薪ですが)を燃やした煙が、色はともかく(英国の石炭は良質で、無煙炭が多かった)、CO・CO2を煤塵も一緒にモクモクと冷えて湿った大気の中に排出した結果、スモッグ(Smoke+Fog)が発生したわけです。
 家庭だけではありません。産業革命(基本的には動力革命)はこの地から発しましたが、動力の基は蒸気、蒸気を作り出すエネルギーはやはり石炭です。今とは絶対量が違うものの、都市も工場地帯も大気はドロドロに汚染されていたのです。
排出ガスから汚染物質をとり出す技術の無かった当時、唯一の解決策は緑を確保することです。都市に集中する人口が無秩序にスプロールするロンドンで、遠大な緑化計画が始まったのは1938年成立のロンドン・グリーンベルト法以降ですが、その努力が実り環状高速M25の外側に見事な緑地帯が広がっています。
 日本が高度成長期にある時(’60年代)、TV番組で、都心から見渡す限りつづく低層住宅の写真を見て、英国人の都市問題専門家が「Terrible(酷い)!」と叫び、その後にロンドンのグリーンベルトが出てくるシーンを観たことがあります。私も“Terrible”に納得しました。
 このように、英国は環境保全に異常な熱意で取組む国、との思いを抱いてここへ出かけてきました。“家を借りる際、これで苦労しないと良いがな”と。

 今年の“Summer Flooding(洪水)”は私自身も、コッツウォルズで体験しましたが、記録的なものでした。今でも多くの人がトレーラー・ハウス暮らしです。また、あの口蹄疫も、今週明らかにされたところでは、動物伝染病研究機関か隣接する動物向け医薬(ワクチン)研究所の排水施設からリークしたウィルスが、大水で拡散した結果と報じられています。
 この洪水は何処に原因があるのか?多くの専門家が“地球温暖化説”を開陳しています。東南欧の猛暑、特にギリシャの山火事、も“地球温暖化説”と関連付けて話題になっていました。
 ロンドン・ヒースロー空港は欧州でも一、二を争う多忙な空港です。発着便の遅れは常態化しており、私も当地到着時、乗継便が離陸出来ずマンチェスター入りが大幅に遅れました。BAA(British Airport Authority)は滑走路の新設を発表していますが、当然反対運動が起こっています。その中で最も過激なのが“地球温暖化防止”派で、空港の一部を占拠し、家まで作ってしまっています。
 ただ、メディアでの環境関連報道は決して多いとは言えませんし、特集のような番組にもお目にかかっていません(犯罪が多い)。大体、上に書いたような大きな事件との関連として出てきているように感じます。
 政府の取り組みも、メディアで観る限り熱心に取組んでいるようには思えません(大きな政治課題として“Green Tax(環境税)”の問題があるのですが良く理解できていません)。
 製造業が弱いことが幸いして、他の国ほど深刻ではないのかな?と皮肉な見方までしてしまいます。

 さて、それでは身近なところはどうでしょうか?
1)自動車
 自動車の数は、ほぼ一家に一台。タウンハウスが並ぶ街は、道路の両側にびっしり車が並んでいます。みなよく車に乗ります。スーパーではお婆さんが一人で買い物に来ているのを見かけますが、大体車を自分で運転しています。休みの日には、車で出かけるのを楽しみにしている人も多く、いろいろな装備(特に、自転車やキャンピング)を着けて走っています。高速道路もトラック走行規制があるので走り易く、都市の中心部(平日)と観光地の駐車場周辺(休日)を除けば渋滞など殆どありませんから、ドライブを趣味にする環境が整っています。人口は日本の半分ですが、自動車数×走行距離は同じかそれ以上でしょう。
車の種類に、日本および欧州大陸と著しい違いが、それぞれ一点づつあります。
①日本との違い 小型ハッチバック車が圧倒的に多いこと。殆どの家庭が持つ車は、日本ではマーチ、ヴィッツ、フィットに相当する車です。ルノー・クリオ、プジョー207、ボックスホール・アストラ、フォード・フェスタ、VWポロなどが好まれ、エンジンの排気量は1000ccから1400cc程度です。日本では圧倒的にミニバンが多く、エンジン排気量も2リッターを超すものが多くなってきています。この点では英国の方が、環境に優しい自動車の持ち方・使い方をしていると言えます。
 それにしても、ミニバンの異常な普及とエンジン大型化は、自動車先進地域の欧州から見た場合、かなり異形(奇形)な自動車文化と感じます。
②欧州大陸との違い 欧州大陸に出かける機会の少なかった私に、決定的なことは言えませんが、自動車雑誌からの知識や一昨年暮のオランダ、ハンガリー出張での経験に基づけば、小型車の普及に関しては英国と大陸に違いはなさそうです(ドイツは少しドンガラもエンジンも大きい気がしますが)。しかし、全く違うのが、ディーゼル乗用車の少なさです。タクシーを除けばほとんど走っていません。だからと言ってハイブリッドエンジン(BBCで一度プリウスの紹介が短時間ありましたが)や電気自動車に関心が集まっているわけでもありません。

 世界の大きな流れの一つ、小型ディーゼルに何故英国人は関心が薄いのか?は大いに気になるところです。“楽しい走り”は、実用エンジンに関する限り未だガソリンエンジンに分があります。楽しみを取るか、環境を取るか? どうも前者にウェートがかかり、“あまり環境問題に関心が高くは無いのではないか?”と感じているのです。
 英国がイニシアティブを持つF1は依然ガソリンエンジンですが、フランスで開催されるルマン24時間レースはディーゼルに有利なレギュレーション。今年はアウディ(ドイツ)がディーゼルで圧勝しています。「奴らがディーゼルなら、こっちはいつまでもガソリンだ!」頑迷な英国人の声が聞こえてきます。
 でも、ガソリン代がおよそ日本の2倍ですからその面で、当然消費に歯止めはかかっているはずです。
注:ディーゼルが何故環境に優しいか;乱暴な言い方ですが、燃料利用効率がガソリンより良いからです。技術(特に電子制御とコモンレールといわれる混合気圧縮技術)進歩で騒音・振動も著しく改善されています。

2)水道料金と環境問題
 自宅の光熱費すら知らない私ですから、ここでのそれを絶対的な基準で比較することなど出来ません。また水、電気、ガスを同一尺度で比較することは不可能です。そこで、今まで支払ってきた光熱費を相対的に比較し、そこから環境問題に触れてみたいと思います。
 光熱費の支払いは固定部分と使用量比例部分から成ることは請求書からみてとれます。全体に使用量比例部分が大きな割合を占めます(電話は固定部分が大きい)。水代は下水処理を含みます。請求は基本的に四半期ベース(3月末、6月末、9月末、12月末で締め、翌月初めに請求)です。ただ、ガス代は私の手違いで6月末の請求が来ず、8月末と言う中途半端な時期に請求書を受け取っています。
 期間を均して請求金額を単純に比較すると、水:電気:ガス=6:3:1くらいになります。
先ずガスですが、炊事と風呂が主体です。洗濯物の一部を乾かすためや寒さが堪らず短時間生かすことがあります。電気は照明が主で、洗濯機週二回、電子レンジを毎日、掃除機週一回、電気オーブンは月一回くらいです。水は、風呂(バスタブ)に毎晩入っています(多分これは英国人と大きく違うところでしょう)。シャワーが別のバスルームにありますが使いません。他に洗面、トイレ、炊事、洗濯で使います。水代が一日約2ポンド(500円)もかかっています。基準が無いので分からないのですが、これはかなりかかっていると感じています。
 水利用が種々制約をうけていることと料金が高いことは、ガイドブックや滞在記で目にし、実感もしています。特に、ホースによる洗車と庭の水撒きです。どうやらこれは禁止されているようです。先日フラットに、“自動車クリーニング屋”が来ていました。バンに一切の仕掛けを積み、水を外に流さず車をきれいにしていくのです。家庭からの水質汚染と省水資源はこのような制約で、かなりコントロール出来ていると推察します。
 この国には大きな川は流れていません。緑野には木がほとんどありません。牧草地の下は石灰岩です(だから簡単に石材が取り出せる)。つまり表層を除くと、土地にほとんど保水力が無いのです。雨は年間を通じれば先ず先ず降るのですが、牧草地に絶え間なく水撒きをしているような調子で、ドカッと貯めておけるような降り方をしません(貯水地はありますが)。逆に“水に流す”と言う環境が無いとも言えます。そんな訳で、水質汚染に関する環境問題は今度の洪水まで表に出てこなかったようです(炭鉱に関する問題はあったようですが)。大水対策(排水が悪く、汚染が酷かった)はこれから始まる課題です。
 “水と安全はタダ” (日本人とユダヤ人;イダヤ・ペンダサン著)と思い、面倒なことを“水に流す”日本人とは根本的に“水思想”が異なるのはここだけでなく、大河が多くの国を貫く大陸でも共通で、水が資源化する時代、請求書を眺めながら、日本の自宅での、水の浪費を大いに反省しています。

3)ごみ収集とリサイクル
 フラットを借りるとき、一番気になったのはごみの収集です。日本でも最近は分別収集が細かく決められる方向にありますが、その先駆者はドイツです。TVなどで紹介される、分別収集とリサイクリングをみると“よくここまでやるなー”と感心します。  英国も欧州だから同じレベルにあるのだろう。だとするとルールをしっかり理解しておかないといけないが、誰がどのように説明してくれるのだろう?これが最大の心配事でした。下見の際、不動産屋の案内者(おばさん)に「ごみを捨てるのは何処で、どのようにすればいいのかな?」と問うと、「? ごみ?」「あぁ そこのごみ用のビン(ゴミ箱)に何でも一緒に捨てればいいのよ」、とフラットの外れに設けられたごみ箱コーナーに案内してくれました。そこには大きな緑色のゴミ箱(私の背の高さでは底が見えない)が3個置かれ、その中に黒い袋(これは市指定の一般家庭用)やスーパーの買い物用ポリエチレン袋に入ったごみが沢山放り込んでありました。帰りに別の棟のゴミ置き場を見ると、何と!ソファーがごみ箱に入らず、外に置かれています。退居者が捨てていったもののようです(これはさすがに後で問題が出たようで、自治会(?)から警告が出ていました)。
 週に1回(水曜日)、大型のゴミ収集車がやってきて、ごみ置き場近くに後部から接近すると作業員(運転者を含め3人)が、ビン(下部に4つのキャスターが付いており、ごみ置き場から道路へ引き出せる)を車の後部に運びます。それを特殊なクレーンで吊り上げ、逆さまにすると中身が収集車の中にドサッと取り込まれます。空になったビンを元に戻して終わりです。全部で3分位でしょうか。アッという間です。この後の処理は分かりませんが、TVなどで観ていると、野原の広大なゴミ捨て場に、袋に入ったまま捨てられ、ブルドーザーで土を被せていました。
 これは我が家のごみ処理の現状ですが、既にランカスターでも分別収集が始まっています。7月末このフラットの住民宛にその計画書が回ってきました(ただこの計画書はタウンハウスを含む個人住宅向けで、集合住宅に住む我われにはそのまま適用できないと思います)。それによると各家庭にキャスターの付いたグレーの比較的大きなビンを配り、その中にリサイクルごみを入れる、三種類の蓋つきの小型ボックスを入れておく、というものです。小型の三種類は多分、プラスチック、金属、壜用でしょう。そしてグレーの本体にその他のごみを入れることになると思います。これ以外に庭のごみを処理する緑色のビン(グレーと同サイズ)を配るから、希望者は申告するようにとなっています。これらの容器は8月中旬から配られ、分別開始は9月17日からとなっています。そして、近所の個人住宅には既にこのビンが配られます(我が家の周辺のほとんどの個人住宅は、グレーと緑の二つ)。この大きさのビンをフラット各世帯に配ると、自宅内に納められる大きさでは無いので前の道が大変なことになります。何か別の容器が用意されるのではないかと推察します。しかし現時点では何も配られていないので、出来ればチェックアウトが終わってから始めて欲しいと願っています。
 この配布文書によると、リサイクル率は2002年度の6%から現時点で25%に達し、“Huge Success(大成功)だ”と言っています。よく買い物をする、Sainsbury’sと言うスーパーでくれる買い物袋には“This bag is made from 33% recycle material”と印刷してありますし(軽い罪悪感とともに、これにごみを入れ “みんな一緒”にビンに投げ込んでいます)、たまごのパックも紙のリサイクルです。
 田舎の中小都市ということもあるのでしょうが、繁華街を歩いていて道路に目立つごみが捨ててあるのを見かけません。ゴミ箱は何種類かあり、上記の分別基準に従っているようです(ただ、“その他”のゴミ箱に分別すべき物などが見え隠れしていますが)。食べ物の残し方もアメリカほど酷くありません。アメリカの事情を知っている人は、皆あの乱雑な残飯の話をします。食べる物は不味くても、後始末はきちんとしています。アングロサクソンと一括りにされることに抵抗もあるようです。私も、生活感覚は我われと意外に近い感じがしています。

 このレポートを、ラグビー・ワールドカップ;オーストラリア:日本戦を観ながら書いています。初めて、こんなに長く日本人をTVで観られ感激です。残念ながら勝負は一方的です(91-3!)。体格が違いすぎます。大人と子供の戦いです。しかし、体の小さいことはあらゆる資源の節約に繋がるはずです。環境問題が厳しくなればなるほど、我われに有利な世界が出現する可能性を期待しましょう。
以上