2009年2月19日木曜日

篤きイタリア-6

7.イタリア見聞録(補足)
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 14日、今日も天気がいい。予定通り10時に黒いベンツのワゴン車が迎えに来た。横河ロシアのモスクワにあるのと同じだ。スペースがタップリで快適な車だ。市内からアウトストラーダ(高速道路)を約40分、車はローマ・フィウミチーノ空港に着いた。  英語を話せる若い運転手も最後は「アルベデルチ(さよなら)!」とイタリア語で。アリタリアの国際線チェックインカウンターの担当者は日本人。デュティーフリーのお店も英語で無論OK。お土産にミラノ産チョコレートを購入、これは大変好評だった。倒産が何度も噂されるアリタリア航空、ラウンジを利用したらトイレの便座が一箇所壊れたまま利用に供されていた。
 AZ‐784(機体B-777)は定刻の14時40分成田に向かって離陸した。「楽しい想い出を沢山ありがとう!アリベデルチ!」
 帰路のルートは往きとは違い、概ねシルクロードに沿って飛ぶ、13世紀マルコ・ポーロが4年をかけた道のりを12時間足らずで飛んだ。機内サービスは良くも悪くもイタリアン、人懐っこく親切だが、おしゃべりに夢中でサービス手順や安全チェックなどはいい加減。成田までイタリア気分を味わった。

<手作り旅行>
 今度の旅行は現地旅行社利用を除いて、全て自分で手配し行動した。このやり方はこの年の春のタイ・カンボジャ旅行からである。行動の自由度という点で、パック旅行とは比較にならぬ柔軟性がある反面、“柔軟性”がもたらす手間やリスクを自分で背負うことになる。
 また、トータルの費用で若干高めになるような気がする。これはグループ行動による一人当たり単価の低減、継続的に大規模調達が可能な大手旅行社への提供価格などの違いによるものだろう。インターネットが普及した現在、その土地に慣れていたり、言葉に不自由無い人は直に予約をすることも容易になってきており、今回のケースに比べ安く出来る可能性がある。しかし、現地旅行社から見積りを取った段階で、イタリア国鉄やホテルのホームページ(HP)にアクセスして値段をチェックしたが、見積りと大きな差は無かった。鉄道はともかく、ホテルに関してはHPでは見えない実勢価格があるようだ。後日このことを旅慣れた友人に話したところ、HPではチェックまでに留め、予約は電話で交渉するとHP提示価格より一段と安い実勢価格で利用できると聞かされた。それでも費用の面でのパック旅行との比較は、大量・継続利用との差になるので多少の割高は止むを得ないのではなかろうか?
 現地旅行社の利用に関しては、日本人特化の会社にするか現地の旅行社にするかという選択がある。今回は実質初めての欧州(英国を除く)個人旅行ということもあり、日本人特化のマックス・ハーヴェスト・インターナショナル社(MHI)を使った。この会社を知ったのはインターネット検索(始めは“イタリア旅行”)からである。いくつかの角度(会社のHP、イタリア旅行者のブログ記事など)からこの会社を調べここに決した。ここに至るまで、前出の友人Mやイタリア人の夫人を持つ以前の会社の同僚などに、今回の旅全般にわたる相談相手(企業、個人)の有無を問い合わせたが、「現地の案内・通訳のアルバイト程度なら紹介できるが…」と言うものだった。
 イタリア人の友人に頼むという案も考えなかったわけではない。しかし、地元の宿泊くらいならともかく(実際、訪伊を知らせると二人とも自宅へ泊まれ、ホテルがいいなら予約すると言ってきた)、旅行全体を丸投げするわけにはいかない。自分で計画全体の主導権を持ちつつ現地での調整役が欲しい。
 こう言う経緯で決めたMHI社だが、実は休日現地入りもあり、一度も事務の方とは直接お目にかかっていない。全てインターネット(日伊間)か携帯電話(現地)のコンタクトである。これでノートラブル。サービスには満足出来た。
 個人旅行は細々したことを自分で決めなければいけない。これが楽しみでもあり煩わしさでもある。航空券はHISのHPで予め調査し、営業所へ出向いて最終決定した。日にちとルートがぴったりのものは入手できず、一日滞在を延ばして確保した。友人を訪ねることが観光以上に重要であるこの旅では、先ず彼等の在所とスケジュールを確認し、行動計画を決めなければならない。メールで彼等と会う日を決め、次いで彼等の住所からグーグルマップとアースでそこから近い宿泊候補地を決める。その次は移動経路やおおよその出発・到着時間、列車の種類・等級・運賃をイタリア国鉄のHPなどを参考に見当をつけていく。空港とホテル間のアクセス方法、観光日時、希望観光内容、ホテルの場所・等級・種類、最寄り駅とホテルの交通手段(これもグーグルアースで見当をつける)、これらをMHI社の担当者とメールでやり取りしながら決めていく。細目が固まってくるといよいよ費用の支払いだ。支払い方法は?期日は?為替レートは?関連書類(乗車券やホテルのバウチャーなど)の受取方法は?そして最後に緊急連絡方法の確認。英語で出来ないことも無いが、やはり日本語で出来るのは有り難い。
 現地へ着いてみると、計画とは違うことが間々生じる。今回では第一回で報告した、マウロ宅訪問がその良い例だ。彼の都合が変わり、到着翌日彼の家に行き泊まるはめになった。あまりきっちり計画を作ると、こんな時対応不能になる。この時はMHI社の担当者が携帯で的確な情報を与えてくれて急場を凌ぐことが出来た。
 個人旅行で面倒なのは夕食である。昼食は観光レストランで軽くでもいいが、ディナーは一晩くらいきちんとしたものが食べたい。事前にガイドブックやインターネットでよく調査していけばある程度意に適うかも知れないが、その日の調子(体調、食欲)もあるので、“その都度コンシュルジュに相談して”と周到な準備を怠ったのが裏目に出た。ヨーロッパの個人旅行者向けホテルにはフロントはだいたい一人、結構忙しそうなのでパスしてしまい、行き当たりばったり、今ひとつこれぞと思うレストランに行き当たらなかった。その点で友人たちと一緒のディナーは地元の食堂くらいのレストランでも、それなりに楽しめた。
 今度の個人旅行で当初一番気になっていたのが、言葉の問題である。初回の報告に書いたように38年前のフランスは、観光旅行ではなかったものの、英語が通じず往生した。イタリアはどうなのか?もし英語だけである程度いける見通しが立てば、これからの欧州個人旅行の楽しみが期待できる。テストケースとしての挑戦だった。MHI社との調整でもこの点を留意して手配を頼んだ。結論から言えば、“観光に関する限り”全く問題は無かった。英語しか喋れない観光客の何と多いことか!観光が重要な産業であることEUの成立・成熟が大きく影響しているように思う。
 セキュリティも個人旅行は隙が生じやすい。親友Mの体験談(鉄道車両に乗り込む際、かなりの段差がある。スーツケースを持ち上げるのを手伝ってくれる親切な人がいた。席に着いて、首から提げた小型カバンがバンド部分を残して本体部分は鋭利な刃物で見事に切り取られ、失われていたのに始めて気がついた。グループによる犯行である)とそれへの対応策(金属製のカナビラでカバン本体をベルトに繋いでおく)などを参考に対策を講ずる(重要な書類をコピーして分散保持するなど)とともに、ガイドブックのトラブル事例紹介に何度も目を通し、頭に叩き込んだ。
 ローマの地下鉄で、乗り込んだ時つり革に摑まれなかった。テルミニ駅停車直前急なブレーキでよろけた。長髪髭もじゃの若者が腕を支えてくれた。降りるときに彼にお礼を言ったところ、怖い顔で「スリに気をつけろ!」と注意された。余ほどボンヤリした観光客に見えたに違いない。彼は善人であった。
 暑からず寒からず、天候に恵まれたこと(それ故体調も良好)もセキュリティ面で見えない効果があったように思う。紛失物は貰い物のクロスのボールペン一本である。

<乗り物あれこれ>
 旅の楽しみの一つに乗り物がある。飛行機、鉄道、自動車、船、何でも大好き。乗るも良し、見るも良しである。
 先ず飛行機。国際線の飛行機はどの航空会社も使用する機種が限られていて、あまり代わり映えがしない。違いは専らサービスと言うことになるが、これもヨーロッパ、アメリカ、日本の大手は実質大きな差は無い。空港で見かける飛行機にもハッとするようなものは無かった(ミラノ・マルペンサ空港は規模が小さく、駐機している飛行機の数が極めて少ない)。空の旅の興奮度は、ロシア国内便に使用される機種や一部の東南アジア、中東の国際線に乗ったときのサービスに敵わない。
 今回の旅で飛行機に関する話題は、アリタリア航空の倒産と空港ストである。まだ計画も具体化していなかった年初から、アリタリア航空の経営危機が伝えられ、一旦エールフランスによる救済案が固まっていた。しかし、国政選挙でベルルスコーニが勝利すると、この案を白紙に戻し、イタリア資本で再建する方向になった。その再建案ががたつき出したのは9月の半ば、アリタリアはいつ倒産してもおかしくない状態に追い込まれたのである。もうスケジュールはほぼ固まっている。運行出来なくなったらどうしよう?インターネットで情報収集をしている過程で、今度は空港を含む交通ストが10月19日頃予定されていることを知った。倒産にストが合わさったりしたら大変なことになる。HISに問い合わせると「往きは共同運行の主体がJALだから大丈夫でしょう」と言う。単独運行の帰りはどうなるんだ?!緊急連絡先はHISの横浜支店、現地の駆け込み寺は同社のローマ支店を確認して、10月4日運を天に任せて成田を飛び発った。その後この倒産騒動の話を聞かない。どうなっているのだろう?
 次は鉄道である。今回利用した鉄道は、イタリア国鉄とミラノ、ローマの地下鉄である。ミラノでは路面電車(トラム)の路線も多く、ホテルの前の通りも路面電車が走っていたが、ここで過ごす時間が短かったこともあり利用していない。チョッと残念である。
 地下鉄は便利で安く(一回券;1ユーロ)、システム(改札・プラットフォーム・乗り換え・車両の色分けなど)もほぼ日本の地下鉄と変わらず、違和感無く利用できる。チョッと戸惑うのは切符の自動販売機で、文字は当然イタリア語で表記されている。一度ローマで利用したが、前の人のやり方をよく観察して何とか購入できた。通常はキオスクで求められるのでそこを専ら利用して、ついでに路線や行き先によって異なる改札口の確認などもした。車両内部は日本の地下鉄の方が明るく、清潔で座席の造りなども上等である。
 ミラノは4路線、ローマは2路線しかないので、これも利用しやすい理由の一つかもしれない。
 国内移動は全て国鉄。利用した列車は幹線のインターシティかユーロスターなのでローカル線や近郊電車などは体験していない。インターシティ(IC)は電気機関車が客車を牽引するタイプで、二等車は中央通路の四人掛けのボックスシート、一等車は片側通路の六人掛けのコンパートメントである。二等車内部は概ねJRのボックス席と変わりない。コンパートメントは日本には無いので(一部のグリーン車や寝台車を除く)、クラシカルな雰囲気でいかにも外国旅行をしている気分になる。座席シートは布製で応接セットのソファーのようで座り心地が良く、インテリアも落ち着く。通路側がガラスなので閉塞感はないが、そこに居る乗客だけの世界になるので、組み合わせ次第で世界が変わる可能性がある。今回の体験はミラノからヴィチェンツァ間だけだったが、皆静かな人たちでイタリア人同士でも一度も会話が無かった。アジア人の我々が居たからだろうか?
 これに比べるとユーロスターは近代的・機能的ですっきりしているが、わが国新幹線同様味気ない。二等車はIC同様両側4人掛けボックスシート、一等車は通路を挟んで片側は4人掛けのボックス、もう一方は向かい合わせの二人掛けである。座席は固定で進行方向に向くようにはなっていない。内装は一等も二等もプラスティックが多用されており安っぽい感じがする。一等に関する限り、はるかに新幹線の方が重厚である。
 ユーロスターには車両の一端に荷物スペースがあるが、団体客が乗るととても収容しきれない。ヴェネツィア~フィレンツェ間では座席上の網棚を利用せざるを得なかった。
 運行の定時性には若干問題があった。ミラノからヴィチェンツァへのICは出発が大幅に遅れたし、いずれの始発駅でも数分は遅れていた。これは日本では考えられないことだが、他の国では当たり前と思うべきなのかもしれない。ドイツは日本同様正確だという人もいるが、ドイツ鉄道旅行記など読むとローカル列車は結構問題があるように書いているものもある。
 今回乗車時間の関係で食堂車を利用しなかったが、メニューを持ったサービス員が予約の注文を取って時間が来るとお客は食堂車へ出かける。古き良きヨーロッパの伝統が残っている。こう言うサービスは新幹線には無い。逆にワゴン車での車内販売は来なかった。
 車掌、食堂車サービス員は無論英語OK。車内アナウンスも英語がある。国をまたがって運行される列車のサービスはこうなくてはならない。38年前のフランスはどう変わっているのだろうか?
 最も身近な乗り物は自動車である。私の趣味はドライブ。今度の旅の目的の一つは、マウロのフェラーリを見ること、そしてそれらに乗せてもらうこと。名車揃いのイタリアの自動車史も興味深い。垣間見た現代イタリア自動車事情を紹介する。
 アウトストラーダ(高速道路)を走ったのはミラノ空港から市内のホテルまでとローマのホテルから空港まで二回しかない。プレーシア、マネルビオ近郊をマウロの車で、ヴェチェンツァとサンドリーゴ近郊をシルバーノの車でドライブ。ミラノとローマで半日観光バスに乗ったのと、フィレンツェでは駅とホテルの往復、ローマでは駅からホテルまで片道タクシーに乗っている。いずれも走ったのは一般道。これが今回の自動車利用の全てだ。あとはヴェネツィアを除く街中での観察である。
 1970年代のスーパーカー・ブーム。近所のスーパーで客寄せの催し物に展示されていたのは、赤いフェラーリ、白のランボルギーニ・カウンタック、レース仕様のポルシェ。幼い息子共々興奮状態だった。ポルシェはともかくあとは今もイタリアを代表する名車である。戦後のF-1はホンダを含む幾多のメーカーがマニュファクチャラーズ・チャンピョンシップを手にしているが、圧倒的に多いのはフェラーリだ。
 先に紹介したミッレミリア(1000マイル)レースやタルガ・フローリオ(シシリー島を舞台にしたスポーツカーレース)など歴史に残るレースの数々と名車達、フェラーリ以外にもアルファロメオ、ランチァ、マセラッティそしてフィアットがこれらのレースで活躍してきた。自動車レースに熱い血を滾らせるイタリア人の自動車生活は如何に?
 実は、上記の自動車メーカーはランボルギーニを除けば(ランボルギーニはドイツのアウディが握る)、今は全てフィアットの傘下にある(アルファロメオは一時GMが大株主となるが、現在はフィアットがそれを引き取っている)。つまりイタリアの自動車会社は実質フィアット社一社といって良い。最近のフィアットは、スーパーカーから大衆車まで、生産や技術面では合理化を図りつつ各社の個性を生かして、異なる客層のニーズに上手く応えているように見える。ただヨーロッパの大衆車(小型車)市場は競争が厳しく、新型のフィアット500(チンクエチェント;先代は500ccだったが今のものは1200cc)が好評な割には収益面で必ずしも磐石ではないようだ。
 これは街で見かける車の生産国や車種から窺がうことが出来る。この分野のフィアット車は500の他に、パンダ、プントなどがあり、無論数から言えばマジョリティである。しかし、ここにはフォルクスワーゲンのゴルフ、ポロやフランスのプジョー200系(206、207、208)や300系、それにトヨタのヴィッツ(欧州名ヤリス)、ホンダのフィット(同ジャズ)などシェアー10%に達する日本車、などの外国車の存在が目立つ。少し上のクラスになるとアルファが頑張っているが、ドイツのアウディ、BMWがそれを上回り、フランスのシトローエンを合わせた外国車のほうが多くなる。ただこのクラスは絶対数が少ない。
 高級車のフェラーリ、マセラッティ、ランチァ(小型車のイプシロンは除く)は一度も一般道や街中では見かけなかったし、時たま見るのはベンツのセダンくらいであった。そのベンツの大型車(E、Sクラス)もわが国ほど多くは無い。
 車種はハッチバックの小型車が主流なのは英国と変わらない。次いで比較的多いと感じたのはいわゆるステーションワゴン。いずれも生活との密着感が強い。日本で主流のミニバンは営業用を除けばほとんど見かけなし、四駆のSUVも多くない。ミニバンは日本独特の、SUVは日米に特化したマーケットなのだろう。
 日本で見かけるイタリア車は赤が圧倒的に多い。F1が広告だらけでなかった時代にはその国を表すナショナルカラーがあった。イタリアは赤である。太陽の光が燦燦と注ぐ国に相応しい。しかし、現実にはそれほどこの国が赤の車で埋め尽くされているわけではない。クリーム・黄色、シルバー、ベージュなどわりと地味な色が多い。意外であった。
 あの“ローマの休日”の主役、スクーターはさすがに多い(特にローマ)。一昨年滞在した英国では、ツーリングのバイクは多かったものの、スクーターはほとんど見かけなかったのに、ここイタリアではそれが逆転している。通勤時間帯は特に多く、女性の乗り手も結構いる。
 イタリアのドライバーは飛ばすので危険というような話を聞いたことがあるが、特にそれを感じなかった。確かに、短い距離だがアウトストラーダを空港送迎の車で走った時、皆飛ばしてはいたが、日本に比べトラックが我がもの顔という状況ではないので快適な走りだった。一般道ではラウンドアバウト(ロータリー)が多いが、ここでもマナーは格別問題無く、無論交通事故を目撃することも無かった。イタリア人に対する先入観(おっちょこちょい)がそんな風評を呼んでいるのだろう。
 というような訳で、意外とイタリア人の自動車生活は、英国同様質実な感じを持った。高速道路や国境を越えるグランドツーリングでは別の情景にめぐり合えるかも知れないが、これが旧い町の石畳を生活の場とする、ヨーロッパ共通の自動車文化なのだ。
 ヴェネツィアは水の都。ここでは無しの生活は考えられない。水上バスのヴァポレット、トラック代わりの運搬船、モーターボートのタクシーそしてゴンドラ。我々の乗ったゴンドラは専ら観光用だが、生活のための渡し舟、トラゲットと言うのがある。利用する機会は無かったが、運河を跨る橋に限りがあるので居住者には欠かせぬ交通手段になっている。
 住民にとって、最も身近な交通機関は路線バスに違いない。これを使いこなせれば行動範囲は倍増し、疲れは半減する。しかし、現地語を理解出来ない、短期滞在の旅行者には難物である。これはイタリアに限ったことではないが。

<観光立国>
 観光立国といえば先ずスイスが浮かぶ。統計に依れば最も海外からの観光客の多いのはフランスである。しかしこれらの国と国境を接するイタリアも負けてはいない。兎に角驚くほどの数の観光客である。特定の観光名所に大勢の観光客が集まるのは、北京郊外の万里の長城からスペースシャトル打ち上げのケープ・カナベラルまで諸所体験しているが、どの街にも外国人 観光客が溢れている所は、ここイタリアが初めてである。
 普通の観光客(冒険や特異な異文化体験を求めるものではない)が集まってくる必要条件;安全(スリ・かっぱらいはいるが)・清潔(ナポリのゴミは酷いというが)・利便さ(交通機関はややルーズなところもあるが)・民度の高さ(南北格差はあるが)・取引の公正さ(“ヴェニスの商人”はイタリア人も揶揄するが)・過ごしやすい気候(南部の夏は厳しいようだが)、が備わっている。それに加えて、ローマ帝国の遺跡、ルネサンス美術そしてカソリックの総本山ヴァチカン、世界から人を惹きつける材料に事欠かない。しかしこれら歴史を残す“点”以外に“現代のイタリア”がこれらと相俟ってその魅力を増しているのではなかろうか?女性にとってのファッション、自動車に代表される工業デザイン、美味しい食べ物、オペラを始めとする音楽、ファンを熱狂させるサッカーなどが“イタリアへ行こう!”とそれぞれの観光客の背中を押したに違いない。
 もう一つ、これは私の偏見かもしれないが、この国は中世(東ローマ帝国)まで続いた世界帝国であるとともにルネサンスは西洋文明の起源であるのに、何故かそれを外に向かって声高に主張し、過去の栄光を現代イタリアに引き戻すような言動をしないところに、気安さを感じさせるような気がする。嫌味の無い国、これはフランスや中国とはまるで違う気風ではなかろうか?ハッタリの無い、気遣いしなくて済む適度なホスピタリティがこの国の観光立国を支えているといえる。

<文化財と戦争>
 この国を旅していて不意に第二次世界大戦の世界に引き込まれた。
 最初は、ミラノ観光でダヴィンチの「最後の晩餐」で有名な、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会を訪れた時見た、第二次世界大戦における米軍によるミラノ爆撃である。「最後の晩餐」そのものは教会の本体ではなく、嘗て修道院の食堂であったところに描かれている。ナポレオンの時代には厩として使われ絵もかなり傷んだようだ。しかし、1943年の爆撃で教会本体は瓦礫の山、痛みはしたものの、絵の在る所は直撃を免れた。別の展示室にその時の写真が展示されており、危機一髪であったことがわかる。
 これで済まなかったのはパッラーディオ設計のバッサーノ・デル・グラッパのヴェッキオ橋(屋根付の橋;ポンテ・コペルト)である。これも米軍の爆撃で破壊され現存するものは、1948年に掛け直されたものである。
 橋の被害はこれに留まらない。フィレンツェでは最古の橋、ヴェッキオ橋(現存のものは1345年建造)は何とか残ったものの、アルノ川にかかる他の橋は退却するドイツ軍に皆爆破されている。
 これ以外にもローマ守備のためその南方に引かれた独軍の防衛ライン、グスタフ・ライン上にある、モンテ・カッシーノの山頂にあった旧い修道院が、ここにドイツ軍は立て籠もっていなかったのだが、米軍の激しい爆撃で破壊されている。
 三国同盟の一カ国、ファッシズム誕生の国ではあるが、イタリア自身はほとんど国内で連合軍と戦っていない。この国での本格戦闘は独・米英戦と言っていい。とんだとばっちりである。地上戦闘の激しい所では双方とも文化財を保護する配慮などしていられなかたのであろう。京都が戦災を受けなかったことを奇貨としたい。

<不法移民> 訪れたどこの町も外国人観光客で溢れかえっていた。しかし、観光客と思えない外国人も目についた。マネルビオのような長閑な田舎町にもモスレムがジワーッと浸透しているらしい。グラッパやスキオのような北イタリアの静かな町に肌の浅黒い人たちを至る所で見かけた。アフリカ系と見られる黒人は大きな都市で行商やレストランのボーイなどをしている。中国人も多いようだ(ヴェネツィアに近いパドヴァと言う町が流入拠点と後で知った)。東欧がEUに入ったことで、そこからの流民も増えているらしい。
 一昨年英国に滞在した時も、移民問題は大きなニュースにしばしばなっていた。英国の場合は、インド系、西インド諸島などの旧植民地とEUに加盟した東欧からの移民が多いようだ。フランスは北アフリカ、ドイツはトルコや旧ユーゴスラビア、オランダはインドネシア、と西欧の豊かな国はいずこも移民問題に悩んでいる。
 それぞれの国のネイティヴ(白人でキリスト教徒)の人たちと話すと「外国人が来ること自体はOKだが、その国の文化を受容せず、独自の社会を作ることは断固反対!」と言うのが大勢である。イスラムが嫌悪され、日本人が比較的抵抗無く受け入れられるのは、この原則に従っているからといえる。
 イタリアには他国からの移民問題に加えて、国内の南北問題がある。ローマを含む南部は、北アフリカやバルカンと共通する気候風土や文化が根強いのに対し、北部は緑と水が豊かでローマ帝国崩壊後はハプスブルグ家の影響下に長く在った。近世以降は工業が豊かさと同意義を持ち、南の遅れは甚だしい。それにイタリアには小国分立の長い歴史があり、地方毎の独自性をいまだに残している。北の富が南に吸い取られ、妙な使われ方(南部地方政治におけるマフィアの暗躍)をしていることに北の人々は不満を募らせる。「南なんかイタリアじゃない!」と。
 外国からの観光客で溢れかえる町々に、こんな悩み・混乱が内在しているのである。

<後日談>
 この報告は友人・知人方々の他に今回の旅でお世話になったMHI社の担当者の方(女性)にもブログアップをお知らせしている。それも含めて、今まで書いてきたことに関するコメントの一部をご紹介して、この旅行記を終えたい。
1)ヴェネツィアの目刺し ヴェネツィアで、ツアーに組み込まれていたディナーで魚料理を賞味したが、その貧相なことを縷々書き連ねたことに対して以下のようなコメントをいただいた。
・イタリアの魚料理はフランス料理とは異なりソースの類は使わず、素で焼いたものに、オリーブオイル、塩・胡椒、レモンで味付け(自分で)するだけ。従って供ぜられた魚の塩焼き料理は典型的なイタリア料理であって、日本人スペッシャルではない。
・私たちでもVENEZIAでは、知らないレストランに行くと魚の貧弱さにはがっかりします。両親が来たときも、いつものレストランに行こうとしたんですが、疲れて歩けないとのことで、適当なところに入りましたが、やはりこーんな薄い魚を見たのは初めて、という代物でした。ですが、相手はヴェニスの商人ですから、相手にしても無駄です・・・実は魚は、ミラノが一番新鮮なんですよ。魚市場がありますので・・・料金もVENEZIAよりやや安く、失敗なく召し上がれます。
2)食べ損ねたフィレンツェのTボーンステーキ
・フィレンツェのステーキにしても、ピッツァなどがあるレストランでは後回しにされ
てしまいますね。専門店にいらっしゃるべきでした・・・
 結局、ビステッカ・フィオレンティーノは、お召し上がりになれなかったのですね。
残念です・・・
 私は、あれが食べたくてフィレンツェに帰るようなものですから・・・(友達が住ん
でいますので行きやすい)
3)食は南にあり・北イタリアは歴史的にオーストリア、ドイツの影響が強い。従ってあまり料理も美味しいものではない!パスタ一つとっても、断然南ですよ!
4)素晴らしきイタリア
・イタリアは、まだ日本に紹介されていない美しい自然の宝庫が各地にございます。北は、チロル地方の山々、南はナポリ、イスキア島(温泉)、シチリア島など。ぜひ、またいらしてくださいね。

 と言うようなわけで、二人のイタリア人の友に大歓迎されたこともあり、すっかりイタリアの虜になってしまいました。これほど楽しい旅を他の国で味わうことは期待出来ないのではないかと、これからの海外旅行を按ずる今日この頃です。

 長いこと、冗長な旅行記をご愛読いただいたことに深く感謝いたします。

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