2009年3月28日土曜日

決断科学ノート-2

決断科学ノート-2
組織における決断

 文系にするか理系にするか?就職はどこにするか?彼女(あるいは彼)と結婚するか?今日のランチは何にするか?個人にとって“決断”は不断にあるし、人生そのものと言える。ただ結婚は合意が必要だが、あとはほとんど自分で決めて責任も自ら負うことになるので、自らの判断基準で決められる(親の意見や世間体など外部因子が無いわけではないが)。
 これに対して組織内での決断は、その組織の存在意義、組織構成員の考え方や関連組織との折り合いなど影響因子が複雑に絡み合い、問題の解決案がすんなりまとまることは珍しい。これを少しでも合理的に行うために、法律や条例、服務規程、職務分掌などが定められるが、これらはいわばルールであってその枠を超えてはいけないと言うだけのもので、これで最適な解答が出るわけではない。ここで“最適”という言葉を使ったが、問題によってこの“最適”の定義が簡単に定められないことも組織が抱える問題解決を難しくする。国政や地方自治のように異なる利害関係者間で問題解決を図る場合、多くのメンバーが“納得できること(納得感)”が最適となるが、経営や軍事では“利益”や“勝利”の可能性が大きな判断基準になる。納得感の場合は時間をかけて三方一両損のような妥協案で解決をみるプロセスを採ることが多いが、経営や軍事ではこのような方式では、本来の目的を達成できない。そこで役職を設けて地位に応じた職権をもってことを決することになる。ある意味民主的でない意思決定構造だが、刻々変化する環境下でタイムリーな決断を必要とする組織目的から合理的な方式と言える。
 わが国企業経営の特色に会議の多いことがある。自分自身の体験でも、しょっちゅう会議をしていた。欧米企業に比べて会議室の数も多い(逆に個室は著しく少ない)。会議の内容は説明会や報告会のような比較的議論の少ないものもあるが、案件について主管部門が解決案を提示しこれを議論する場が多かった。ただ案件について侃々諤々と意見をたたかわすと言うよりは、組織構成員や関連組織の“合意形成”の場としての役割が極めて高かった。しかも担当者ベースであらかじめ解決案に関する摺り合わせがおおよそ出来ているのである。私は二つの一部上場会社で働いたが、業種も企業文化もかなり異なる会社なのに、会議の性格はそれほど変わっていなかった。このことから言えるのは、わが国企業の経営では“合意形成(構成員・組織間)”がきわめて重要だということである。そして強いリーダーシップを発揮する者に比べ“不満ミニマム”型管理職が意外と人気があるのである。ここではしばしば論理的な論拠以上に全体の空気を読む感性が重要な役割を果たす。落とし所を探りあいながらゴールを模索する、国家レベルから企業経営までわが国の方針決定・意思決定が遅いことに定評(?)があるのが頷ける。タイミングを失して全てを失うリスクがある反面、一旦ことを決すれば全員参加で大きな力を発揮する利点もある。成長期にはタイミングを失する機会が比較的少なく、この利点が大いに生かされたと言っていい。
 一方で欧米(あるいはこの影響力の強い東南アジアや中東など)はレポートラインがはっきりしており、権限と責任の枠内で与えられた仕事をきちんと処理できるかどうかが問われる。ここでは上司はある意味生殺与奪の力を持っていて、その人の納得感を得られるアウトプットを作り出すことが最も重要である。決断をする者にとって“合意形成”より自らの考え(仮説)を論理的に裏付ける“シナリオとデータ”が求められるのである。早く“結果(評価)”を出すためには優れた方式と言えるが、リーダー(決断者)のミスが組織全体に致命傷を負わせる危険もある。
 和洋の経営組織における意思決定の違いを、少しそれぞれの特色を強調して描くと以上のようになるが、現実は日本でも案件の承認ルートは決まっているし、下から順に判子を押していくのは欧米のサインをしていくやり方と形式的には違わない。一方欧米においても関係者による会議やちょっとした打ち合わせでことを決めていくことは稀ではない。違いは、決断者が何を基準に決断を下すか?そして下した決断を説明しきれるか?にある。「皆で決めたじゃないか」では失敗した際その体験を次に生かせない無責任な“一億総懺悔”だけになる。
 決断者に最も必要なことは、下した決断を自ら確信(妄信ではない)できることである(たとえ結果としてそれが誤りであったとしても)。これによって組織はその方向に向かって強く動き出す。自ら確信するためには、“一人で(専門家かから意見を聞くことはあるが)”問題を徹底的に考え、仮説(これはこうなるのではないかという因果関係)を作ることが欠かせない。そしてこの仮説作り・検証に、数理・情報技術の活用が極めて重要な役割を果たす。経験・慣例、それに基づく感性(と言うより直感)、場の雰囲気やパワーストラクチャーを慮った決断(?)からの革新がリーダーに強く求められる時代が来ていると“確信する”。
 とは言っても経験や感性は重要である。実務経験の無いビジネススクールの卒業生が経営の中枢にいきなり登用され失敗するケースは枚挙にいとまが無い。決断に際して、経験・感性と数理・情報のバランスを如何にとるかが“決断科学”の取り組むべき命題である。

2009年3月20日金曜日

決断科学ノート-1

決断科学ノート-1
“決断科学工房”の由来
 ビジネスを離れてからのライフワークとして考えていたことは、趣味(道楽?)の軍事システム研究から得た知見を、経営における情報技術(IT)利用の普及(特に、意思決定における数理技術利用)に役立てる情報発信を行うことだった。一人で気ままにやることなので、会社設立のような考えは無かったがそれでもなにか名前が欲しかった。組織に長く属していると、こんな気持ちになるものである。
 “工房”に惹かれたのは、化学工学分野のシステム研究で若いころ知り合った、東大のN先生のご自宅に後年お邪魔したとき、表札に“研究工房:シンセシス”とあるのを見たときである。同先生の下で学びJGCに勤務、退職後JABEE(Japan Accreditation Board for Engineering Education; 日本技術者教育認定機構;工学部の格付け機関)関連のコンサルタントをしているTさんの名刺にも“工房”がつけられていた。一人でコツコツやる非営利作業に相応しい字(特に“房”)と響きが良い。商人よりは職人に近いところが好きだ。
 このブログを見ている友人から「最近よく決断と言う文字を目にします。これも今の混沌とした社会のせいでしょうか?先見の明がありましたね」と言うメールをいただいた。確かによく目にする。しかし私は現在を見越してこれをつけたわけではない。
 1988年渡米した際、Exxonにおける数理技術(特にLP;線形計画法)の泰斗だったトム・ ベーカーに6年ぶりに再会した。83年にExxonを早期退社した彼は、ECCS(Exxon Computer ,Communication & Systems)の仲間を中心に生産管理ソフトウェアの会社を立ち上げていた。創設者であり彼の名声がビジネスを支えているにもかかわらず、自室の机の上には社長(CEO、President)ではなく“Research(研究)”という名札が置かれていた。はにかみながら「経営は苦手でね」と言ってそれを指差す。そんな彼の会社の名前はChesapeake Decision Sciences。“Decision Sciences”始めて目にする英語である。数理技術の世界で“Decision Making(意思決定)”はよく使われる言葉である。何事にも一ひねりする彼らしい会社名に強く印象付けられた。“決断科学”か!それもSciencesと複数になっていると。しかしそのとき私が発した質問は「ニュージャージに在って、何故“チェサピーク”(チェサピークは大西洋がヴァージニア州南部でワシントンDCに切り込むように北上する湾の名前;シーフードで有名)なんだ?」 答えは「海が好きな俺は(彼は何度もヨットの艇長として大西洋を横断している)Exxonを離れたらチェサピーク湾を臨む地に事務所と住居を構えるつもりだった。そこでこんな名前を登記したんだ。しかしリンダ(夫人)がここを離れるのに猛反対でね。所在地とは関係ない名前で会社を運営することになったんだよ」 Exxonグループの会議やセミナーではいつも厳しい彼の、普段は見せない気弱な一面を垣間見た。決断しても実行できないことが身近にあることがおかしかった。数理科学(論理)では一流でも心理学(情緒)や社会学(慣習)と言う決断要素を軽視した結果の失態で、これは組織の決断でも往々見られることである(もちろん論理軽視と言うその逆も)。最後に会ったのは1998年春、この時二人はそれぞれ重大な決断をしていた。このことについてはいずれこのノートで紹介する予定である。
 決断科学工房は、こうして尊敬する二人の知人・友人からヒントを得て名付けたものである。“研究”を入れるかどうかしばし迷ったが、暇つぶしに近い所為ゆえ止めることにした。
 渡英する少し前、OR学会の新年会で当時会長だったK先生(LPシンプレックス解法の考案者、ジョージ・ダンチックの愛弟子)に名刺をお渡ししたところ「決断科学か!これは使えそうだな!」と言ってお墨付きをいただいた。

 この“決断科学ノート”は、本来このブログの中核として開陳したいと思っている「ORの起源に学ぶ経営とIT」そのものではなく、そのための調査研究、私が見聞したり関わった会社経営・管理における決断、あるいは日常目にする政治や経済における決断に関する話題を、エッセイあるいは評論風に書いていくことを目的に立ち上げた。いままでの旅行記や書評とは違いかなり硬い内容になるが、時間のあるときにお読みいただき、コメントをいただければ幸いである。

2009年3月17日火曜日

滞英記-18(最終編)

Letter from Lancaster-18(最終編)
2007年11月21日

 10月11日、5ヶ月と3日にわたる滞英生活を滞りなく終え帰国しました。本来の渡英目的である“OR歴史研究”に期待以上の成果を上げることができた上、一度も体調不良・事故(国際免許証一時紛失や大水による計画変更などを除き)なども無く過ごせました。これもこのレポート読者諸氏の温かい励ましがあっての賜物と感謝する次第です。
 1970年の初めての海外出張(アメリカ、フランス)以来、業務・観光で訪れた国の数は23カ国になります。そして英国は24番目の国になりました。回数、滞在期間ともアメリカが圧倒的に多く、通算2年近くになるでしょう。友人も一番多く、彼らの自宅にも何回も宿泊していますし、家族ぐるみの付き合いを続けています。次いで回数が多いのが韓国です。距離的に国内とさほど違いが無いこともあり、滞在日数はトータル2,3ヶ月ですが先方からの訪問も多く、友人としての親密度は一番高いかもしれません。次女が韓国の大学に留学する際はよろこんで身元保証人になってくれた家族もあります。この両国は単なる好奇心や憧憬対象の外国ではではなく、日常生活が繋がった外国と言えます。そして今回それに英国が加わりました。
 帰国出立の朝は快晴。珍しくホテルのロビーで日本人の団体に会いました。若い女性が多く、聞けば千葉県松戸市(私の少年時代過ごした町)にある聖徳女子大の研修旅行とか。これから湖水地帯を経由してエジンバラへ向かうとのことでした。初めての英国旅行に皆興奮気味でした。ランカスターでも紅葉が始まっていましたから、北へ向かう旅はさぞ素晴らしいものになったでしょう。
 9時15分発の短い4両編成マンチェスター空港行き列車は定刻通り発車。やがてランカスター大学の学寮が見え、はじめて来た時と同じように、なだらかな起伏の中に美しい緑が広がっています。「(また来るよー)」と心の中で叫んでいました。歳のせいで感傷的になりやすく涙が出そうでした。しかし緑の美しさは同じでも、来た時と去る時のそれは明らかに違います。緑の足元をこの5ヶ月確り見てしまったからです。そこには家畜の糞が至る所にあり、ハイキングのフットパス(歩道)はぬかるみ、軽装では歩けないほどです。観光で訪れる英国は遠目に見た美しい緑の田園風景、生活してみた英国は緑の足元とも言えます。日常の買い物、休みの過ごし方、犯罪、教育、医療、年金、環境問題、地方や国の政治などを見るにつけ、「彼らも毎日必死で生きているんだなー」との思いを深くした次第です。
 私の滞英生活の結論;研究生活は素晴らしかった。自然環境はや日常生活は穏やかで静かだ。しかし決してうらやむような国ではない。むしろ限りなく我々に近い生活観の国だ、と言うところです。このレポートの結ぶため、二つの主題:一つは日常生活と密着する「政治と政党」、もう一つは研究活動と関わる「Mauriceのこと」を取り上げることとしました。

1.政治課題と二大政党
1)英国の政党 皆さんもご承知のように英国を代表する政党は労働党と保守党の二大政党です。古はホイッグ党(議会派)とトーリー党(王党派)が存在し、議会民主政治のさきがけを成してきた国ですが、王権を巡る争いの中で次第にホイッグ党の存在があいまいになり、それと前後する社会主義の台頭でトーリーの中に埋没し現在のような労働党と保守党の対立構造が出来上がっていったのです。従って保守党は”Conservative Party”と表現されるだけでなく、メディアでは”Tory”もよく使われます。実は労働党側もイデオロギー重視で左傾化が激しかった時代にこれを嫌った分派活動があり、ここから第三の政党“民主党”が生まれています。この民主党は国政では保革接近時以外ほとんど力がありませんが、地方選挙では強く、最近環境問題を中心に存在感が出てきている“緑の党”とともに中央とは異なる政界模様を作り上げています。
 本レポートの現地最終版(17)をお送りした後、民主党、労働党そして保守党の党大会が隔週で開かれました。さらに10月9日(離英前日)労働党内閣のChancellor(副首相格で予算方針策定者)によるPre-Budget Plan(予算3年計画)の下院への説明がありました。これらをTVで視、新聞を読み(この時だけ買った)、Mauriceと話すことによって、英国がどんな問題を抱えそれらにどう取り組もうとしているかが見えてきます。
 政党大会の報道は日本に比べはるかに大衆化しています。BBCでは大会前日(いずれも日曜日)から大きく取り上げ、党首や実力者へのインタビューが行われますし、新聞は支持政党(ほとんどの新聞はどちらを支持するか旗幟鮮明)を盛り上げる記事がいっぱいです。特にBBCの日曜時事特番“Andrew Marr Show”(午前9時~10時)は党首を出演させ、有名ジャーナリストのMarr氏が舌鋒鋭く迫る興味深い番組で、建前ばかりで一向に議論がかみ合わないNHKの日曜討論とは大違いです。
これらの党大会や報道を見ていて感じることは、力点の置き方は違うものの、両党の政治課題に対する取り組み姿勢に大きな違いを感じないことです。労働党と言っても、わが国の嘗ての社会党や共産党のように教条的でただ与党の政策に反対することだけが存在意義のような政党ではなく、「これなら国政を任せても良いかな」と思わせる柔軟性・現実性を持っています。欧州社会主義政党共通の成熟した姿勢を感じ、羨ましくさえ思いえました。
 それでは身近な政治課題に対する両党の取り組みを、私が理解した範囲で解説してみたいと思います。


2)身近な政治課題
①国際関係・外交

 以前お伝えしたように国際関係・外交はあまり頻繁にニュースになりませんが、アフガン・イラク、パレスチナ、EU統合は比較的頻繁に取り上げられます。
 先ずアフガン・イラク問題ですが、アフガンは国連での同意、EUとしての積極参加もあり参戦の意義まで遡って議論することは少なく、個々の作戦やアメリカとの協調の是非が問題になるくらいで、両党の主張に大きな差異を感じません。むしろ、歴史的な背景(ロシアの南下政策を止めるため、インド支配の一環として取り組んだアフガン制圧が上手くいかなかったこと)、さらに陸軍大国ソ連の介入さえ頓挫したことを踏まえ、厭戦気分が広がり、戦死者への同情が高まっていることが政府にとって一番気がかりなことでしょう。そのため、ブラウン首相はこの国への軍事介入の目的である、テロ撲滅に対する強気の姿勢を崩してはいません。
 しかしイラクはアフガンと異なり、ブッシュ・ブレア交友が基になって踏み切ったとの見方が強く、現役の陸軍幹部からさえ誤判断批判続出です。ここでの泥沼からの脱出はある意味で労働党に対して踏み絵になっています。アメリカとの共同歩調か国内世論かの選択です。そんな状況下、保守党大会の最終日、この日は党首キャメロンが総括演説をする日ですが、ブラウンはバスラに飛び兵士を慰問するとともに“来年3月には現在の派兵規模(5000人)を半減する”と発表しました。党大会の仕上げをぶち壊す(メディアの話題をさらわれる)、見え見えの人気取り政策に保守党が怒り狂ったのは当然です。湾岸戦争当時の首相メジャー(保守党)がTV出演し、軍事政策に対する労働党の定見の無さを痛烈に批判していました。この問題はイラク問題の解決策が依然見えないだけに、今後の大きな政争の材料として残りそうです。
 EU統合は、経済的な面(通貨を除く)や域内行動の面では概ね英国でも評価されています。問題は政治統合です。欧州憲法、欧州内閣と元首、統一外交政策などがその具体的懸案事項です。
 この問題に対する労働党と保守党の違いは、どちらかと言えば労働党は積極的、保守党は消極的と言えます。しかし労働党支持者の中にも英国が独自路線(特に、外交とセキュリティ政策)をとることを支持する向きも多く、国民投票(Referendum)をやれば反対票が賛成票を上回るのではないかと推察します。特にEU憲法制定には反対意見が強いようです。フランスがこれにノンを出してから、ドイツは何とか英国の賛同を引き出そうとブラウン首相に積極的に働きかけています。私の滞在中ブラウンは“覚書つき”で通すか、また国民投票をやるか、明確にはしていませんでしたが何とかまとめたい意向のようでした。
 滞英中外交や国際関係で日本が登場するシーンはほとんど無く、日本関係の映像がBBCに現れたのは、中越地震(特に原子力発電所)とビルマ(英国では依然ミャンマーでなくビルマ、ヤンゴンではなくラングーンを使用)における日本人ジャーナリスト射殺くらいでした。一部のインテリは、新聞を通じてアフガン支援の海上補給が参議院選挙の結果国際問題になってきたことを知ってはいますが、これもTVでは全く紹介されていません。無論総理大臣の名前など誰も知らないと言ってもいいでしょう。
帰国してから、英国の政治情勢が一般のTVや新聞でどの程度報道されるかチェックしていますが、ほとんど眼にしません。日英双方とも互いにほとんど相手に無関心なことに変わりはありません。
②医 療 医療と教育に関しては、もっと早い機会に本報告で行いたいと考えていましたが、部外者にはその姿がなかなか分からないため今回まで延び延びになっていました(現時点でもよく分からないことだらけです)。しかし、政治的に極めて大きな課題ですので理解する範囲で解説を試みます。
 優れた英国の福祉政策を代表する言葉に“ゆりかごから墓場まで”があります。その中核を成すのが医療と年金で、医療費は原則タダ行われることになっています。しかし、垣間見た実態は問題だらけであることが分かってきました。肥大化したNHS(National Health Service)と称する医療サービス機構(医師、医療技術者(看護師を含む)、救急隊員、医療事務担当など40万人を超す)とそれに要する費用、サービス内容などがしばしば政治ニュースで取り上げられる他、特定の病気(例えば乳がん)に対する国としての取り組みなども党大会で論じられたりします。システムは立派だが実際のサービスが伴わないと言うのが現状なのです。
 政治問題としての医療を論ずる前に、ここの医療システムについて簡単に述べてみたいと思います。
外国人を含め英国で医療サービスを受けるためには、先ずその地区の担当医(General Practitioner;GP)に登録する必要があります。担当医のいる所は病院ではなく診療所と言っていいでしょう。簡単な診断・治療・処方(比較的手に入れやすい薬をくれる程度)を行い、これで治癒すれば良いのですが“GP”の言葉が示すとおり専門医ではないので、少しややこしい病気だと対応できません。次のステップはこのGPが適当な病院を紹介してくれます。病院を訪れると直ぐに診断・処方に入れることは稀で、診断・処方の“日取り”を決めてくれるだけです。一週間ほど先になることなど当たり前です。「この間に大変なことになるかもしれない(死ぬかもしれない)!」こんな恐怖に慄きながら幸運を祈るしかないのです。無論急患は救急車で病院に直行ですが、日本同様受け入れ拒否も生じています。このような事態が生ずる原因は専門医や施設の不足にあるようですが、“差別(人種)”もあるようです。
 医療荒廃の主因を、保守党(特にサッチャー政権)の医療関連予算圧縮・民営化促進に求める声をよく耳にします。例えばそれ以前(20年以上前)、GPの年収は10万ポンド(現在の為替レートで約2300万円)だったそうです。これは今の英国でもかなりの高額所得者です。サッチャー首相はこのNHS関連予算の大幅削減の中でGPの年収カットを実施しています。結果高い技術を持つ医師達が多数、医師免許が相互に通用するアメリカへ出稼ぎに行ってしまいました(これが現在まで続いている)。また、医療現場という3K職場から英国人(ここでは英国籍の白人)が去り、旧植民地からの安い労働力でここをカバーしなければならない状態になっています。保守党はこのNHS機構の再構築を始めとした医療態勢の改革(当然予算圧縮を伴う)を標榜していますし、労働党も党大会まではかなり厳しい見方しているように感じていました。しかし、保守党大会後ブラウンとキャメロンの支持率が急接近した影響か、10月9日のPre-Budget(3年間予算)では医療関連予算が大幅に増加し、メディアは「今回の予算の最大の勝者は医療」とまで伝えています。果たして、安心して医療サービスが受けられる良き時代が再び来るのかどうか?福祉先進国家の真価が問われるところにきています。
③教 育 この問題も、週報の中でご報告したいと思っていたテーマです。しかし、教育システム、特に中・高(これが一貫制になっている)がよく分からず逡巡してきました(今でもよく理解できていません)。先ず、パブリックスクール(呼称とは違い、私立の有名校;イートンなど)とグラマースクール(公立校)の教育体系や大学進学時の扱いの違い、またこのグラマースクールに“Comprehensive(包括的)”と“Hybrid(混合的)”があること、グラマースクールでは生徒により卒業必要年限に違いのあることなどの実情がよくわかっていないのです(ご存知の方は是非ご一報ください)。そこでこのレポートでは話題になっていることと政治課題について記述することにします。
・小学生の学力(国語・算数)低下:改善傾向にあるのだがEU諸国で最も低い。これを学校の選択と評価により差別化し、良い学校には支援を厚くしようというのが保守党(このような政策はもともとサッチャー政権で生まれた)。これに真っ向から反対するのではなく、全体の底上げ(教職員の増加や処遇改善)をしようというのが労働党です。
・大学入学者の増加:労働党は既に40%を超える同年代大学進学率(’60年代には6%台)をさらに上げるための経済支援策を直近の党大会で打ち出しています。これ対して保守党は質的向上こそ優先すべきで、優秀な大学に予算配分を厚くする政策を掲げています。また労働党はオックス・ブリッジへのグラマースクールからの入学率アップにも熱心で、保守党これに批判的です。
・英語(国語)教育の充実:移民、旧植民地からの移住者対策。これは両党とも重要課題と考えており際立った違いはありません。
・いじめ問題:特に東欧からの英語を話せない移民の子弟がいじめに遭う傾向にある。犯罪対策の一部としてもクローズアップされています。学校でのいじめ問題は決して日本だけの現象ではありません。
④犯罪・テロ対策
・少年犯罪
(被害者、加害者双方)の多発について既に何度かご報告していますが、大きな社会問題の一つです。これに銃器・飲酒・麻薬とエスニック問題が絡んで複雑な様相を呈してきています。
家庭内暴力(父親の子供や妻に対するケースが多い)もしばしばTVで報道されます。傷だらけの女性がそのまま画面に現れるので視るに耐えないほどです。
強盗事件も増加傾向にあります。嘗ての英国の強盗事件は、犯罪小説の格好の題材になるような見事なものもありましたが、最近多発する事件は、窃盗の居直りや一人暮らしの老人襲うもの、日本でよくあるコンビニ強盗の類が多く、弱いものを粗暴な手段で痛めつけ僅かな金を奪うようなものが増えています。
テロに関しては、滞英中ほぼ同じ時期にグラスゴー空港とロンドン中心部で発生(ロンドンは未遂)しました。国際問題でアメリカと同一歩調をとることに対する反抗、旧植民地からの移民の欲求不満、北アイルランド問題など、この国独特のテロ発生要因を抱えていることがテロ対策を複雑なものにしています。
実はEUの統合推進に関して、このテロ対策を含む安全保障政策を一本化することに反対する勢力があり(どちらかと言うと保守党系)、統一推進派(主として労働党、中でもブラウン首相の周辺)との対立がEU問題の度にクローズアップされます。いずれのテロ潜在要因も国防・外交と深く関わるだけに単なる犯罪対策とは異なる、国策絡みの政治課題としての対応が必要になってくるのです。
 以上述べた犯罪・テロに対する対処療法は、警察力の強化と言うことになります。労働党大会ではブラウン党首がこれを具体的に提言していました。保守党も目先は変わりません。しかし、犯罪の病根はもっと深いところにあることは自明です。例えば、少年犯罪の増加は“彼らが将来に希望を持てなくなっている”ことにあります。“何故希望が持てないか?”“それをどう改善すれば良いか?”。経済が大きな役割を担うことは間違いありません。しかし20年近く経済成長を続けてきた国、欧州主要国で失業率が一番低い国で問題が起こっているのです。“格差(保守党の自由化・民営化政策)と既得権(労働党が支えてきた労働慣行、福祉政策)に問題あり”が私の見立てです。根本的な少年犯罪防止策は簡単には見つかりません。
⑤環境問題 既報で、英国の環境問題への取り組みが今ひとつ盛り上がりを欠くようなことを述べました。しかし、政治の季節になって少なくとも両党ともこれを大きな政治課題として取り組もうとしていることを知りました。今年英国を襲った記録的な大雨がそれを加速させたのではないかと推察します。二酸化炭素増加による地球温暖化が異常気象を生じさせ、結果としてあの大雨による洪水が各地で大きな被害をもたらした、と言う論法がかなり説得力を持つようになったのです。“CO2増加の元凶は飛行機だ!”と言う訳で税金をここにかけることは労働党、保守党とも同じです。誰が払うかだけが違うのです。労働党は航空会社。保守党は利用者。しかし航空会社は多分そのツケを利用者に廻すはずだから結局同じになるはずです。この辺は労働党がずるい立ち振る舞いをシャーシャーとするのです。
 環境対策には、別に既に環境税(詳細不明)が適用されていますが、保守党は企業の活力を殺ぐのでこの削減を謳っています。
 日常的な環境問題はリサイクルがもっとも関心が高く、両党(特に地方の)ともこれには同じように力を入れています。
⑥財源と税・選挙民に心地よいスローガンを掲げるのは、どこの国の政党も同じです。労働党大会は冒頭ブラウン党首(首相)の施政方針(マニフェスト)から始まりました。先にご紹介した乳がん対策も含め、あれもこれも直面している社会問題への解決決意表明でした。部外者である私でさえ、「オイオイ素晴らしい決意表明だが、どうやって解決するんだい?お金はどうするんだい?」と質したいほどでした。案の定、翌日のメディア(中立系・保守系の)も保守党もこれを糾す論調で溢れていました。実は、労働党大会に対する最大の関心事は、新任のブラウン首相がいつ総選挙をやるのか(早くやるべし)でしたが、これは完全に無視されてしまいました。この反動もありメディアはブラウン批判を強め、マニフェストの実現策を示すよう声高にこれを求めるようになりました。
・続いて翌週開かれた保守党大会は、当にこの批判に答える形で展開します。党首の施政方針は最終日に行われ、党首キャメロンは財源・税制を核に据えて労働党のマニフェストを批判すると伴に、保守党独自の施策実現を訴えました。法人税を他国(ここでは日本も出てくる)が低減方向にある中当然下げるべきであること、相続税を下げること(これはバブルで不動産価格が上がっていることから目玉)、超富裕税の新設、環境対策に空港税を設けること、足りない財源は肥大化した政府現業や一部福祉政策の見直し(特に医療、教育;言葉では明言しないが首切り、差別化を伴う)でバランスさせることなどを打ち出しました。キャメロンの良さは、若いリーダーによくある、細部を論理的に説明するところにあります(これは時として欠点でもある;放送メディアのように時間が限られると尻切れトンボになる)。施策の中には問題になるところも多々あるが、具体的だったことが評価され、直後の世論調査ではブラウン労働党と五分五分のところまで人気を回復しました。この週の金曜日、ブラウンは総選挙実施を早期には行わないことを明言します。
・次の週(私が帰国する週)、10月9日冒頭ご紹介した、労働党内閣のChancellor(副首相格で予算方針策定者)によるPre-Budget Plan(予算3年計画)の下院への説明がありました。なんと!保守党の財政案;富裕税新設(特に外国籍の超富裕層)、相続税低減(課税対象閾値を30万ポンドから60万ポンに上げる;不動産バブルで効果大)、空港税新設をちゃっかり取り込んでいたのです!議場は野次で大騒ぎになりました。深夜番組で紹介される翌日の新聞第一ページは、どこも大きな字体の“Magpie”と言う言葉が目に付きます(翌日搭乗したBAでもらったTimesにもこれが使われており、お土産に持ち帰りました)。保守党系の新聞にはこれ以外に、“Stolen(盗まれた)”、“Thief(盗賊)”等の単語が至る所に見られます。
 Magpieとは、矢を射る的の真ん中の黒い円の次にある二番目の円形部分のことです。つまり、真ん中が保守党の政策、次が労働党の政策で、この政策は保守党の考えを丸ごと取り込んだで二番煎じと言うことです。抜けぬけと人気挽回の保守党の政策を盗み取る労働党に、わが国の教条的な社会主義政党のイメージは全く重なりません。実は、好景気を持続する英国の経済政策は、基本的にはサッチャー政権時に行って来たことを労働党が若干修正した程度のものなのです。この位のことを平気でできるようにならなければ、政権政党にはなれないでしょう。欧州の社会主義政党がしばしば政権を取れるのも、同じような行動パターンを持つからに違いありません。
 財源に関するトピックスをさらにご紹介すると、大盤振る舞いの労働党予算案では当然先の税制手直し程度では賄えません。どうするか?借金をするのです。ChancellorはBorrow(借りる)と言う表現をしたので、これが国債(Bond)かどうかは分かりません。しかし、労働党よお前もか?!の念を禁じ得ません。金融業に歴史のある英国だからこんな発想になるのでしょうか?!そう言えば、ブラウン首相誕生の折、スーパーカジノでお金を集める案が本人の口から出て、労働党の一部も保守党も唖然とさせられました。保守党が行っていたものを、ブレア労働党が止めたいきさつがあるのに、同じ労働党の新党首が復活するというのです。わが国民主党に、この位のしたたかさ、厚かましさを持った政党になってもらいたいと願うのは私だけでしょうか?
⑦政治家と総選挙政党の特色は党大会を中心にかなり勉強する機会が有りました。しかし、二つの政党の政策に、重なるグレーゾーンがかなり広い中での選挙戦はどうなるのか?残念なが滞英中に体験することは出来ませんでした。断片的に聞いた選挙絡みの話題を列記することで、その実態を垣間見たいと思います。
党内の派閥:ある種の派閥(グループ)はあるようです。ただこれはわが国の派閥のように人間のしがらみで出来上がっているものとは違うようです。政治信条の違いからルーズな結合状態にあるので、個々の政策によっては別行動が当然あります。民主党はそのような状態からスタートし労働党から分離したとのことです(一部は保守党からも参加)。
議員への道:下院に関する限り、わが国の地盤世襲議員のような形は無いようです。若手はほとんど党の下部組織で活動し、それを認められて候補者に選ばれ総選挙で勝って議員になっています。キャメロンはその典型です。
ブラウンのケース;牧師の子、大学院の研究者(歴史)、スコットランド労働党員、スコットランド議会の議員(閣僚も経験)、次いで下院議員と上ってきています。
選挙区での選挙戦:いわゆる小選挙区制で、政策に大きな違いが無いこともあり、かなりえげつない“個人攻撃”が展開されるとのことです。女性関係、飲酒癖、経歴詐称、資産内容(借金を含む)などの暴露合戦でとても紳士の国の選挙イメージでは無さそうです。
・メディアの言動:メディア、特に新聞(一般紙、タプロイドともに)は政党色が強く、選挙時の反対党への攻撃は、とても良識の府とは言えない凄まじい報道になるとのことです。こんな新聞メディアの中で比較的良心的(中庸)なのは、タイムズ、ガーディアン、デイリーテレグラフなどと言われています。タプロイドは総じてセンセーショナルな記事が売り物で、知識人からは胡散臭いものと思われています(しかし、よく売れている!)。
組織:労働党の場合、当然労働組合の支持が影響してきますが、産業構造の変化や民営化推進で組織力は低下しており、ブレアはこれを頼りにしない(つまりサッチャー政策の換骨奪胎)ことで新しい支持層を開拓しました。その意味で労働組合(特に政府系)は両党から距離を置かれるような状況になってきています。滞英中、刑務官(実は民営化されていた)と郵便現業員(集配・仕分け)の待遇改善ストがありましたが、労働党政権は実に冷たくゼロ回答でした。一般の人もほとんど支持していません。
 ただ先に“医療”のところでご紹介したNHS(労働組合ではありませんが)に対して労働党は大変気を遣っているし、予算も増やす方向にあります。それはNHSそのものの組織力に対する気配りではなく、医療サービスを受ける人たちの不安解消とそれによる票獲得が狙いと言えます。

2.Mauriceのこと
 いままで何度もわが師、Maurice W. Kirby教授をレポートに登場させましたが、主として研究中心でした。最終レポートとして、英国で最も親しく付き合った友人そして典型的な中産階級知識人として、彼をあらためてご紹介したいと思います。
 生まれはイングランド中東部ダーリントン(Darlington;1821年初めての商用鉄道がこの町とストックトンを結んで開通した)、英国国教徒、今年11月で64歳。家族はバーバラ夫人(多分57歳)との間に一女一男。父親はクリーブランド橋梁(オーストラリア、シドニーのハーバーブリッジなどを作った当時は大手の橋梁会社)の資材調達担当で教区教会の役員。それもあり日曜日は、朝のミサ、昼の日曜学校、夕方のミサと教会漬けで“Death Day”だったとか。夕方のミサが終わるのを待ちかねて家に飛んで帰り、TVの子供番組を視ることだけが日曜日の楽しみだった少年時代。
 地元のグラマースクール(公立中高一貫校)を出て、イングランド北東部(スコットランドとの国境)の町にあるニューキャッスル大学でBA(経済学)、郷里に近いシェフィールド大学でPhD(英国経済史)を取得しています。どうやらその際博士論文作成をバーバラに伝ってもらったようで、博士号取得直後Maurice27歳、バーバラ20歳の時に結婚したそうです。
 最初の任地はスコットランドのスターリング(Stirling)大学。ここで講師(Lecturer)、准教授(Reader)を務め、その時代書き上げた(1979年出版)「The Decline of British Economic Power Since 1870」で注目され、より知名度の高い大学への転職を可能にしました。この著書の言わんとするところは、“英国病は、巷間言われている1960年代に始まったのではなく、大英帝国絶頂期;ヴィクトリア時代に既に始まっている”と言うもので、この分野の専門家にかなりのインパクトを与えたようです。
スターリング大学は、彼個人にとっては飛躍の機会を掴んだ記念すべき大学でしたが、在職中サッチャー政権が誕生し、大学予算が大幅に圧縮される事態になり、結果として図らずも同僚との激しい生き残りゲームが展開されることになるのです。ここで彼は先の著書もありゲームの勝者となりますが、それが心の痛みにもなりそれが未だに拭いきれないと言っています。心根の優しい男なのです。その後(確か)ノッティング大学を経てランカスター大学に教授として迎えられたのです。
 若い頃は学部や大学院でかなりのコマ数をこなしていたようですが、さすがに定年を来年(65歳が定年)にひかえ、授業は大学院中心の限られたものになってきているとのことです。彼がいま指導している博士課程の院生は2名でそれほど手がかかっているように見えません。一方で古株の教授として管理業務は多くなっており、カレッジ(学寮)のプリンシパル(学寮長)の他にマネージメントスクールと大学の委員を十数務めています。また経済史ではその知名度もあり、8大学の博士課程の審査員をしています。若い時はともかく、今は授業の準備などあまり必要が無いので家では仕事をせず、研究活動は大学に限っており、そのために夏休みでもほとんど大学に来ていました。
 彼の講座、(英国)経済史、は定年後なくなり、計量経済史に変わることが決まっています。この方が時流にあっているようですが経済をマクロな視点で見るためには本当に良いんだろうか?とその効用を疑問視しています。定年後の予定も既に大学との間で話し合われており、無給で残り(研究場所を提供され)共同で“プロジェクト”をやると言っていました。多分大学史(あるいはマネージメント・スクール史)をまとめるのではないかと思います。
 所得税が高いこと(40%)、年金が厚いことで、定年後は税金がかからないこともあり、実質収入にほとんど変化なさそうです。他の優遇処置を考慮すると経済的なゆとりはやや増えるようなことを言っていました。この辺はさすがに福祉国家ですね。こんなうらやましい環境ですから「定年後も是非大学に訪ねて来てくれ」と言えるのでしょう。
政治的な話題が好きで、よく英国の政治を語ってくれましたが、特定の党の党員ではありません。話の内容から、労働党贔屓ですが、何でも国に要求し、既得権を離そうとしない、組織依存の旧来の労働党にはかなり批判的で、経済効率の視点から、経済政策に関しては保守党の政策(例えば民営化推進)にも理解を示しています。しかし、これによって格差が拡大したのは確かで、行き過ぎ是正が必要との考えです。アーノルド・トインビーの孫娘に有名な社会学者がいます。彼女は貧民街に潜り込みその生活実態を体験・調査し、如何にサッチャー政策が貧しい人たちに犠牲を強いるようになったか、それがどれほど悲惨な状態かをレポートしています。Mauriceは彼女のことを「自分の考えに近い人だ」と言っていました。
 アフガン政策なども歴史的視点で捉え、「大英帝国もあそこでは苦労したし(ヴィクトリア朝時代ロシアの南下政策の緩衝地帯としてアフガニスタンを抑えようとした)、あの最強の陸軍国ソ連も制圧に失敗した。時間がかかること必定。それでも日本の海軍(海上自衛隊のこと)はアフガン大義名分でアメリカに付き合うのかね?」などと、民主党が喜びそうな質問をぶつけてきます。イラクへの軍事介入に関する労働党の施策(ブラウン首相は、バスラからの撤退は治安が回復したからで、軍事的勝利とも言えると宣言をしていますが、保守党はとても勝利などと言える状態ではないと反論しています)にも批判的で、ここでは保守党に近い見解を示しています。
 経済・景気についてはお得意の分野だけに、一言質問すると滔々と解説してくれます。20年近く持続している英国の好景気(経済成長)はサッチャー政権時代既にその兆候が現れており、労働党はその手入れをして実りを刈り取っているだけ、と言う見方を肯定しています。ただ民営化の行き過ぎは明らかに在り、社会インフラを支える人たち(教育、医療、警察など現業公務員・公社員)が経済成長の恩恵を受けられず、昔に比べて相対的にも絶対的にも貧しくなってきていることには保守党の政策に批判的な立場をとっています。
 製造業でエンジニアとして働いてきた私の経験、日本人のもの作りへのこだわりなどから、英国の製造業を見ると“惨憺たる状態”に思えます(既報の“自動車産業”で私の見方をご紹介しました)。しかし、彼に言わせれば“製造業が振るわないことと、経済が振るわないこととは別”と言うことになります。長期的視点で経済を見る学者の目は、“第四の波”の著者、アルビン・トフラー同様、ポスト(脱)工業化社会到来は歴史的必然とクールに現状を見ているようです。“EUの中でこれだけ持続的成長をしている国は無い”“失業率も一番低い”“金融業は今降ってわいたものではない。17世紀から英国の得意な産業だ”“製造業がダメと言っても、時代の先端を行く航空宇宙産業、医薬・バイオではトップランナーだ”、工業後進国;ドイツ、アメリカ、日本そしてBRICSに18世紀来新技術・新市場を開拓してはそれを奪われ、克服し今日に至った英国の経験と矜持を痛感させられた経済問答の一場面です。
 しかし、製造業の重要性は彼も解かっているのです。それは、製造業に比べサービス業(金融業もこの範疇)では所得分配の偏りが大きいことです。一部の成功者の所得と大多数(並以下、パートなど)の所得が極端に開きます。平均してしまうとこれが見えなくなります。彼は、成長の中で格差の拡大が続いているとの見方をしています。富の再配分を如何にすべきか?この答えは彼も持ち合わせていないようです(労働党の“超富裕者税”はこれを意識したものでしょうが、実効があるとは思えません)。

 以上は主として表の顔と言って良いでしょう。子供の時代はさて置き、最近の彼の私生活を覗いてみましょう。
先ず家族です。バーバラ夫人は二十歳と言う若さでMauriceと結婚しています。10年間子供が出来ませんでしたが、10年目に娘が生まれその後息子を産んでいます。家事、特に料理が苦手でそれで人を自宅に招待するのが嫌なのだ、と初対面のディナーの時率直に話してくれました。サバサバした気持ちの良いおばさんです。子育てが終わって(息子が7月大学を卒業)彼女が今力を入れているのは保護司(?)の仕事です。少年犯罪者の裁判の際の親代わり(シングルマザーが多く、なかなか警察や裁判所に出頭出来ないので)などを務めるケースが多いようです。
 娘は結婚し現在はドミニカにいます。どんな仕事なのかは不明です。ドミニカの砂浜で撮った水着姿の写真が研究室にありますがなかなかの美人です。息子は今年7月ランカスター大学を卒業しました。専攻はバイオメディカルですが、ご他聞にもれず卒業即失業者です。パートで教会の副牧師をしながら将来計画模索中です。Mauriceに「大学院に進ませるんじゃないのか?」と質したところ、「彼には十分すぎるくらい教育投資したさ」と返事が返ってきました。私のバークレーの友人、ジェフの息子も学部卒業後は失業保険とアルバイトで学費を稼ぎマネージメントスク-ルに入学、今年7月に卒業し本格的な職探しに入るところでした。どうやら大学院は自分で費用を賄うのが英国流のようです。この息子の趣味はマウンテンバイクですが、湖水地帯を控えこの辺では大変人気のある遊びです。このマウンテンバイクを買い与えたのが最後の出費だったようです。「とっても高いって、バーバラがこぼしていたよ」
 若い頃のMauriceの趣味はスカッシュ(六面が閉じた部屋で、二人が壁に向かって球を打ち返すテニスのような球技)だったようですが、いまは歳でとても出来ないそうです。ゴルフは私同様やりません!スポーツカー(BMW Z3)でのドライブが息抜き・気分転換のようです。湖水地帯がホームグランドと言う素晴らしい環境下でこの趣味は羨ましい限りです。この車で南フランス辺りまで出かけることもあったようで「南仏の田舎は素晴らしい(英国の田舎よりも遥かに)」と言っていました。
 海外旅行は、トーマスクック旅行社生みの国だけに、英国でも人気の高いレジャーですが、Kirby夫妻はそれほど海外には出ていないようです。主に学会参加が数少ない機会のようで、この時は必ず夫婦で出かけるそうです。今年は7月初めプラハで開かれた欧州OR学会、11月にシアトルで開かれたアメリカOR学会に参加しています(両方とも発表あり)。今年の学会参加をみると、ほとんど寄り道の観光はなく開催地近くで一泊位余計に泊まる程度です。アジアへは香港に来たことがあるだけで、残念ながら日本は未体験です。何か良い機会があり来日したら、国内の面倒くらいはみてあげたいと思っています。
 服装はいつも紺、黒などダークカラーが基調。偶にスーツでネクタイもありますが、通常はジャケット、替えズボン(ジーンズが多い)に黒シャツや濃紺のTシャツです。決してブランド品など身につけませんが、銀色の目立つ指輪を左手の薬指と中指にしています。

 公私両面からMauriceをご紹介しましたが、彼が真面目な先生で、慎ましく暮らしている姿がご理解いただけたと思います。多分これが英国中産階級知識人の最大公約像ではないでしょうか?日本での生活、日本人の生き方に比べ落ち着きを感じさせます。私には、日本人の同クラスの方がややギンギラ(Glitter)しているように感じます。もっともアスコット競馬に集まってくるような成金は、見るからにGlitteringで上流階級気取りが喜劇的でもあります。しかし、どうも彼等自身それは分かっていて敢えてやっているようなところがあるのがご愛嬌ともいえます。昔は、割合の少なかった中産階級が、本気で上流階級気取りでその世界に姿かたちだけ真似て入り込んだつもりでいました。それに対する上流階級・労働者階級双方からの軽蔑の言葉が“That’s Middle Class!”です。ブランド品を身に付け、海外の観光地で高級ホテルに宿泊する日本人を冷ややかに見ている英国人が居ることを、彼のプラハのお土産話(夏の東欧は日本人だらけ)から学び、身の丈に合った生き方を心がけたいと思った次第です。

3.新たな読者 この第18号をもって私の“滞英記”を終えます。改めて、冗長な雑文に最後までお付き合いいただいたことに深く感謝いたします。この滞英記をここまで続けてこられたのは、毎度皆様から励ましを戴いたことが最大のドライビングフォースです。しかし、もう一つ皆さんに伏せてあった動機があります。初孫の誕生です。2月、長女の懐妊を知りました。5月、“無事に元気な子を産んで欲しい!”そう言って英国へ旅立ちました。6月、It(それ)がHe(彼)であるとの便りを受け取りました。私と彼の関係は、母方の祖父と初孫ということになります。それは私と母方の祖父と同じ関係になります。第17報をお読みの方はご承知のように、その祖父は明治初期にアメリカに渡っています。しかし、物心ついた私が祖父の彼の地での足跡に興味を持ち、それを手繰ろうとしましたが全く手がかりはありませんでした。残念至極です。
 孫は私の帰国を待つように、帰国翌週生まれました。彼が私の人生に関心を持つかどうかは全く不明です。自分の親子関係から推察しても、多分持たない方が可能性としては高いでしょう。しかし、“もし持ってくれたら”の思いがここまで書き続けるエネルギーを燃やしてくれたのです。
 彼の健やかな成長を願いつつ筆を置くことにします。


皆さん!有難うございました!

私報 滞英記 終わり

2009年3月8日日曜日

今月の本棚-2月

On my bookshelf-7

<今月読んだ本(2月)>
1)すばらしい数学者たち(矢野健太郎):新潮社(文庫)
2)知って驚く飛行機の話(飯山幸伸):光人社(文庫)
3)鉄の棺(齋藤寛):光人社(文庫)
4)ワイマル共和国(林健太郎):中央公論新社(新書)
5)Uボート決死の航海(P・ブレント):扶桑社(文庫)
6)島秀雄の世界旅行-1936~1937-:(島隆監修):技術評論社

<愚評昧説>
1)すばらしい数学者たち

 筆者はわれわれの高校生の時代ちょっと知られた数学者で、相対性原理の数学的基礎付けに重要な役割を果たした、微分幾何学の世界的な研究者である。実はこの人は高校の先輩で、一度母校で講演をしたとき話を聞いたことがある。話の内容はまったく記憶していないが、楽しい語り口が印象に残っている。
 数学あるいは算数と聞いただけで、「何であんなものがすきなんだ!?」と嫌悪感を露にする人、「結構なご趣味ですね」と言いながら皮肉っぽい表情を示す人。ほかの教科と違い数学には、何か特殊な学問のような見方がついて回る。経験的に、これは日本人だけでなく欧米人にも見られる。
 断っておくが、私は数学が得意ではなかった。成績に一番むらがあった教科である。ただ解けたときの(あるいは“理解出来た”と確信したときの)気分はほかの学問にはない爽快感が在ったのは確かである。またここで好き嫌いを論ずる数学は決して最先端や歴史的に難解な数学ではなく精々、大学受験程度のものである。
 筆者もしばしばこういう局面に会ったのであろう。この本はそのような人たちにも何とか数学に関心を持ってもらおうとの意図で書かれたものである。その手法は、数学の解法や定理そのものを解説するのではなく、それらを作り上げていった数学者の生涯や逸話を語ることによって、興味を持たせようという試みである。
 高度の専門領域をこのようなアプローチで理解させようとして書かれた書物は、それほどユニークなものではない。例えば、数学の分野では、1930年代に発刊され、いまだに世界的なロングセラーを続けるアメリカの数学者E・T・ベルの「数学をつくった人びと」がある(ハヤカワ文庫全3冊)がある。この本は、当時の現代数学へのつながりを考え、デカルト(17世紀前半)からスタートし、30数名の数学者を一人ひとりかなりの紙数を割いて紹介していく、いわば近代数学者史とも言えるものである。
 これに対して書評に取り上げた本は、アルキメデスやピタゴラスに始まり、中世、近代にわたる著名な数学者の業績と私生活やそれにまつわる小話を交えながら平易に紹介してゆく。無論数式や図形も出てくるが、記述方法や紙面の割付が要領よく行われているので取っ付きやすい。例の、ピタゴラスの直角三角形の各辺を一辺とする正方形の面積の証明など、「こんな方法もあったんだ!」この歳になって教えられることもあった。
 ただ、ベルの本もこの本にしても、紹介される数学者の多くが奇人・変人なのは変わらない。やはり天才的な数学者とは常人とかなりかけ離れた存在との印象はぬぐえない。筆者の講演が人当たりのいい洒脱な感じだっただけに妙な読後感を味わうことになった(筆者ははたしてどの程度の大数学者だったのだろうか?)。

2))知って驚く飛行機の話
 中学生・高校生のときは航空エンジニアを目指していた。夢破れてそれは実現しなかったが、飛行機ファンであることはその後も続いる。大学生のときは1/50木製ソリッドモデル、家庭を持ってからは1/72プラモデル。書斎のガラス棚の中には30機を越すわが空軍が納められている。そのほとんどは第二次世界大戦機である。“航空ファン”、“航空情報”、“航空ジャーナル”などの月刊誌も一時期定期購読していた。
 フィクション・ノンフィクション、戦記・技術開発・航空事故(整備・管制を含む)・冒険飛行・航空会社経営・伝記・年鑑、和・洋、おそらく200冊は超えるであろう飛行機ものの本が書棚に積まれている。古い時代(黎明期、第一次、第二次世界大戦)のものは書き尽くされ感があるし、新機種は技術進歩の反作用で価格が高騰して稀にしか誕生しない。そんな訳で、最近は面白いものがほとんど出てこない(特にノンフィクション)。それでも“飛行機”とタイトルがあるとつい手にとってしまう。この本もこの“つい”手にして暇つぶしに(ほとんど暇なので暇の間の気分転換というところか?)と購入したものである。
 この本は雑誌か何かに連載した記事をひとつにまとめたものであろうか?あれこれのテーマが一貫性なく並べられている(だからこんな妙なタイトルになったのだろう)。また話の内容も大体どこかに書いてあるもので、一心不乱に読む本ではないし、そんな気分になることもない。そのため“気分転換にちょっと”には向いている。
 少し面白かったのは第二次世界大戦時の、ジェットエンジンとジェット機に関するところで、英・独・米にイタリア、それにわずかだが日本におけるこれらの開発と実用化(これは独・英のみ)の経緯が二章にまとめられている。これも個別にはほとんど既知のことだが、並べて比較するとその国のお国柄が出て「なるほどそうだったのか!」とささやかな好奇心が満たされた。

3))鉄の棺 オリジナルは、巻頭に“印象”と言う紹介文が幸田文によって与えられ、昭和28年(1953年)に出版されて、3度も映画化されている(日活、新東宝;まったく知らなかった)。筆者は慶大医学部を卒業後若い軍医として潜水艦に乗り組み、レイテ沖海戦、アドミラルティ泊地への人間魚雷「回天」急襲作戦に参加している。これはそのときの体験を綴ったものである。乗り組んだ伊56潜水艦は、筆者が退艦したのち、沖縄特攻で撃沈されている。
 潜水艦に関する本は飛行機に次いで多い。ドイツ潜水艦隊を戦略軍に仕上げ、ヒトラー亡き後その後継者になるカール・デーニッツの回顧録(英語版)を始め、独・英・米・日のフィクション・ノンフィクション、和・洋50冊は超えている。ハンター・キラー(陸上基地や護衛空母から発した航空機で潜水艦を狩り出し沈める)ものも含めれば100冊くらいになるのではなかろうか。
 兵器と人間を扱う書き物でこれほど息詰まる感じを体験できるものはない。それは映画も同じである。クラーク・ゲーブルとバート・ランカスターが艦長と副長を演じた豊後水道を舞台にする「深く静かに潜航せよ」、ロバート・ミッチャムの駆逐艦長・クルト・ユールゲンスの潜水艦長が虚々実々の戦いを演じた「眼下の敵」、新しいところではショーン・コネリーがソ連原潜の艦長を演じる「レッド・オクトーバーを追え」などがある。“コーン”と響く音響探知機の発信音、近づく護衛艦のスクリュー音、爆雷攻撃の凄まじい爆発音と船殻の軋み音、暗い密室空間で耐える無言の乗組員、常人には全くうかがい知れない世界がそこにある。
 さて本書である。作戦に従事する潜水艦に軍医が乗り組むのは欧米では例がない。これは日本と基本的に用兵思想が違い、日本の潜水艦が大型で乗組員が多いことから来ているのであろう。ほかのノンフィクションはいずれも指揮官や乗組み戦闘員が書いたものである。その点で、本書は非戦闘員で極限状態の人間を冷静に観察できる医師によって書かれたところに最大の特色があるし、貴重なものである。特に初陣のレイテ沖海戦では敵駆逐艦に追い詰められ、爆雷をかわしながら深度100メートルで50時間を超える潜航を余儀なくされ、艦内温度が上昇する中(最高50度)炭酸ガスの増加で動けなくなる乗組員が続出する。汗腺が疲れ切って発汗さえできなくなる。通常の当直交代は3時間間隔だが30分にまで縮めるが交代でベッドまで戻る体力もなくなり、その場で倒れ込む。ここまでくると体内に寄生していた回虫まで口から嘔吐とともに逃げ出してくる。
 危機を脱して浮上した艦内に流れ込む新鮮な空気は、読むものにも、今までの苦悩を洗い流すように心地よく感じられる。
 本書の構成は前編・後編の二部構成になっており、レイテが第一部、第二部はアドミラルティ諸島のアメリカ海軍泊地への回天特攻の話だが、ここでも駆潜艇や駆逐艦に追い詰められ同様の苦悩を味わうが、前回との大きな違いは特攻隊員4名の搭乗で回天出撃直前に青酸カリを手渡す命を受けていることである。発射すれば生きて帰れぬ者に何故こんなことまでするのだ?!帰投後の潜水艦乗組軍医科士官研究会の席で、やり切れぬ思いを「用兵者においては潜水艦の使用方法を根本から考え直すこと」を訴える。その直後残留が決まっていた艦からの転属命令が出る。筆者は生き残り、仲間の多くは深海の“鉄の棺”に今も眠る。
 この本を今日まで知らなかったのは大いなる不覚である。
 同名のタイトルを持つUボート艦長の本があり、こちらのほうが有名であるが、訳本が出たのが1974年だから本書のほうがはるかに古いことを付記しておく。

4)ワイマル共和国
 初版は1963年、古い本である。しかし2008月に41刷が出ているほどのロングセラーである。筆者は西洋史特にドイツ史に詳しい歴史学者、後の東大総長である。副題は“ヒトラーを出現させたもの”となっている。この副題こそ評者がこの本を必要とした理由である。ライフワークの“OR歴史研究”のカギは英国のナチス空軍に対する恐怖にある。ナチス台頭の背景を理解しておくことが欠かせない。
 第一次世界大戦というのは開戦も終戦も何かすっきりしない。確かに開戦はセルビア人によるオーストリア皇太子射殺に端を発したことは間違いないのだが、同盟の連鎖と最後通牒・宣戦の布告などの流れと、休戦後のドイツ一国に対する“戦争責任”追及は「何故ドイツだけにこんな過酷な?」の疑念を残したまま、その後のワイマール(評書のタイトルは“ワイマル”だが、ワイマールの方が一般的なので以下これを使う)共和国誕生で高校の世界史は終わる。次に現れるのは“ナチスの台頭”である。
 ナチスの台頭については多くの書物があるのだが、評者が今まで目にしたものは“ナチス”あるいは“ヒトラー”に重点が置かれ過ぎ、当時のドイツ社会(あのハイパーインフレだけは印象に残るが)や政治情勢がいまひとつはっきりしない。民主的な新憲法、ワイマール憲法が何故機能しなかったのか?何故頻々と総選挙が行われたのか?帝政廃止からヒトラーが全権を握るまでドイツ政界はどう動いていったのか?この間国防軍はどうなっていったのか?
 これらの疑念にわかり易く答えてくれたのが本書である。ロシア革命の影響と左翼政党・労兵協議会、これに対する保守派・(防共)義勇軍、中間勢力たる社会民主主義標榜の政党、の主導権争い・多数派工作。これにプロシャ中心と反プロシャ(特にバイエルン)勢力の地域間闘争、ウィルソン講和条件と連合国間の利害衝突(ウィルソンの“公平な講和”構想・理念の崩壊→過酷な賠償)、ワイマール憲法における大統領権限(皇帝に近い権限の付与→ヒトラーの権力へ)、賠償不履行によるフランスのルール占領とそれに対するナショナリズムの高まり、国防軍長官となったゼークトの新生国防軍(政党との中立を名目に、政府の全く力が及ばない独立的な国防軍を作る)、そして最後のとどめは世界恐慌である。反共と強い国家の再生を願う大衆は、巧みなナチスの教宣活動に雷同してゆく。
 筆者は歴史を書くことの難しさを「史実の正否よりももっとむずかしいのはその解釈である」と言い、「現代に近く、身近な問題が提出されているところでは、どうしても叙述に史観が結びつきやすい」「私も自身の立場によってこの本を書いたので、事実を述べながらその間に私の意見を積極的に述べることを辞さなかった」としている。左翼史観の強かった時代に書かれた本にこれを批判する考えを随所に開陳し、自分の信念で書き上げたこの本を高く評価する。

5)Uボート決死の航海 またまた潜水艦ものである。今度は戦後の西ドイツ海軍の潜水艦乗りが書いたフィクションである。ノンフィクションではUボート乗りの戦記が多いが、この分野でドイツ語小説の日本語訳は珍しい。その点ではある程度価値があるものの、それだけが価値とも言える。
 原題はJagd vor Afrika(アフリカの戦い)。北大西洋が主戦場だった護送船団とUボートの戦いをアフリカ沖に持ってきたところにほかの護送船団ものとの違いがある。筆力・構想力の違いか訳の問題か、一流の英国海洋作家(ダグラス・リーマン、アリスティア・マクリーン、セシル・フォスターなど)と比べると臨場感、緊迫感を欠く三流作品といっていい。技術的な点で何か面白い発見でもあればと思ったがそれもなかった。帯には「Uボート冒険小説の決定版」とある。これを“羊頭狗肉”と言う。
 ドイツ人の戦記はノンフィクションに限る!戦士民族の息吹が伝わってくる。

6)島秀雄の世界旅行-1936~1937-
 島秀雄とは新幹線操業開始時の国鉄技師長である。1925年に東大機械工学科を出て鉄道省に入省したキャリア技官、技術系同期入省者には不可解で悲惨な死を遂げる、後の下山国鉄総裁がいる。
 小学生のときは鉄道技師が夢だった。 “国鉄技師長”という言葉を知ったのも小学校時代である(技術者の総帥らしい)。それは総理大臣や総裁よりももっと高みにある特別なポストのように思えた。もし島秀雄が国鉄技師長でなかったならば、この人の名前を覚えていたかどうか。新聞の書評欄でこのタイトルを見たとき「アッ!あの人だ」と直ぐに思いついた。書評の内容など関係なくアマゾンに直ちに発注した。
 当時のキャリア官僚が現在に比べはるかに社会のエリートであり、日本の近代化実現を担う人材として期待されていたか。この本は余すところなくそれを伝える。それはこの本が2年にわたる在外研究員として特別な教育・研究機関に派遣されるわけではなく、自分の興味のあるところを遊びも含めて、2年間にわたり十分な資金を与えられ視察する旅を基に生まれたからである。
 ナチスの絶頂期、日本が大陸の戦争を拡大していくこの時期、30台半ばのエリートたちが二陣に分かれてこの研修旅行に送り出される。技術者ばかりではない。下山の後を継ぐことになる加賀山のような事務系もである。ヨーロッパ航路の一等船客として諸所の観光めぐりをしながらマルセーユに上陸。当面の逗留根拠地、ベルリンに滞在して鉄道、自動車の調査をしつつ、オリンピックやパリ遊覧などもしている。北欧、英国、イタリアまで足を伸ばして鉄道・交通事情の調査に励む。その後、南アフリカ連邦(これは狭軌鉄道のライバル)、南米、北米を回り、現地で購入した(これは父親からの私金)フォードで北米大陸横断までやってのける。文字通り世界一周の旅である。
 この間愛用のライカで撮った2300枚のショットから選ばれた、セピア色に変じた写真がこの本の主役である。全体の構成と個々の章立ての解説は専門のジャーナリストに依るが、それに資料を提供し監修したのは子息の島隆氏でこの人も父の後を次いで国鉄技師として活躍した経歴を持つ(台湾新幹線プロジェクトの技術顧問)。
 また解説文にしばしば登場する秀雄の父、島安次郎も東大大学院出の鉄道技師で、短い期間だが満鉄総裁の地位に就いている。当に鉄道一家である。この安次郎は狭軌を標準軌に改める活動にまい進するが政争に破れ一敗地にまみえる。その父親の夢を新幹線で実現する過程がこの本のもうひとつのストーリーとなっている。
 ユニークで出色の技術読み物である。(戦前計画された標準軌の弾丸列車)