2009年4月26日日曜日

決断科学ノート-6(化学企業の経営戦略)

 化学工学会の経営システム研究委員会の創設メンバーとして、おおよそ20年間活動してきた。工学系学会の研究会としてはかなりユニークなもので、社会科学系や人文科学系の研究者も含めて、化学関連企業の経営活動を掘り下げ、将来の化学工学の在るべき姿を探ることや課題解決を目的に発足した研究会である。その時々に経営手法や経営戦略、研究開発マネジメント、人材育成・教育、市場開発、経営情報システム、環境問題、グローバリゼーションなどの視点から化学企業を見つめてきた。
 この間わが国化学企業の事業変化には著しいものがある。研究会スタート時はバブルの絶頂期ではあったものの、その将来を危惧する声が意外に高かった。例えば、当時当該分野を分析した代表的な本に伊丹敬之一ツ橋大学教授の「なぜ世界に立ち遅れたのか-日本の化学産業」(1991年 NTT出版)がある。これについて伊丹先生を研究会にお呼びし議論を闘わせたこともある。ここで業界側からこの分析に真っ向から反論したのは、合成繊維メーカーとしてスタートした化学会社のメンバーであった。批判のポイントは、この分析が石油化学を代表とする少種大量生産の汎用素材メーカーを対象とするもので、何度も不況を乗り越えながら、研究開発による新製品を世に問い、新規市場を独自に開発し、事業と収益構造を変えてきた化学企業の実態を正しく捉えていないというものであった。それから18年、日本の化学産業は生き残ったばかりでなく、売り上げ規模で製造業のトップクラスにまでなってきている。汎用素材は海外シフト、特殊化学製品は電子産業や自動車産業向けに次々と素材や部材を提供し、それぞれの分野で世界における存在感を増している。つまり新規事業戦略や新製品開発戦略に成功しているということである。
 ところで私の関心事は、経営における意思決定と数理の関わりである。果たしてこのような新規事業戦略や新製品開発戦略策定・推進において数理はどのような使われ方をしているのであろうか?研究会あるいは学会のシンポジュウムなどでこれを探ってきた。特にここ数年学会の年会に併設して“先端化学技術プログラム”なるセミナーが、実業界メンバーを積極的に集めるため開催されており、毎回当研究会が主催するセッションは“新規事業戦略や新製品開発戦略”を主題とするので興味深い話題を身近に聞くことが出来る。また、研究会メンバーには合成ゴムメーカーとしてスタートしながら今では電子部材メーカーに変じた会社の研究開発・技術の総帥だったTさんや総合化学メーカーでありながらITに不可欠な記憶装置HDD事業を揺籃期から推進し、後輩たちがそれを世界規模にまで拡大した元役員のKさんなども居り身近な情報に事欠かない。
 このような事例から分かってきたことは、ノーベル賞化学賞につながる研究によくあるように、理詰めで進める研究開発が行き詰ったり、わき道に迷い込んだ時偶然新しい世界が開けるような話が多いことである。今年の上記年会併設プログラムで紹介された、旭化成が基本特許を抑えているリチュウムイオン二次(充放電可)電池の話などこの典型である(因みにここでは白川博士発明の電導プラスティック、ポリアセチレンも重要な役割を担う)。こういう話は別の製造業では先ず無く((トランジスター効果の発見のように全く無いわけではないが)、“化け”学の特徴と言えるのかもしれない。ここから言えることは、実験データの分析などはともかく、ブレークスルー型あるいは突然変異型事業誕生に数理はほとんど関係ないということである。
 しかし4月の研究会で聞いたS社のHDD(ハードディスク)事業展開の話はこの結論を再度見直すことにつながるものであった。それは“ムーアの法則”、“クリステンセンのモデル”に関することである。
 ムーアはインテルの創設者で、半導体事業の成長を観察して、半導体素子の集積度(性能向上)と時間の関係が対数指数的に発展することを経験的に導き出した。この法則は半導体素子だけでなくIT関連の構成素子・部材に適用できるといわれている。そこからこの業界では次世代製品開発の目標値や達成時期を定めて、研究開発や製品開発を進めることが広く行われている。
 もう一つのクリステンセン・モデルは、ハーバード・ビジネススクールのクレイトン・クリステンセン教授が主唱する、イノベーション(特に破壊的イノベーション)論に基づく、技術的な性能向上進行と適用分野の広がりを時間軸で捉えたモデルである。例えば、汎用大型コンピュータがミニコンに、そしてそのミニコンもパソコンに取って代わられたことがしばしばこのモデルの説明に登場する。
 今回の研究会では総合化学会社S社のHDD事業開発の責任者であったNさんの話を聞いたのだが、Nさんはムーアおよびクリステンセンのオリジナル理論の問題点を指摘しつつもそれを独自に修正して、事業推進の将来像を見据える手がかりとしていた。これは明らかに数理に基づく戦略策定であり、先のメンバーの論(試行錯誤の中から偶然生まれる)とは明らかに異なる新規事業・新製品開発アプローチであった。HDDが本来の化学製品とは全く異なり、これらの法則やモデル誕生の母体ともいえるIT産業のそのものであることから“例外的なもの”という見方もあろうが、そこに使われる素材・部材として化学製品が使われるならば、このような法則・モデルの活用の余地が十分あるのではなかろうか。

2009年4月19日日曜日

決断科学ノート-5(マクナマラの戦争)

 ロバート・マクナマラ、1961年~1968年の米国国防長官、ケネディ政権下ヴェトナム戦争推進の主役である。彼の最大の武器は数理分析。危機に瀕したフォード再建時の仲間たちと推進した数理に基づく緻密で大胆な革新施策は、彼らを“神童(Whiz Kids)”と呼ぶことになるほど目覚しいものであった。この時の活躍がケネディ政権チームの目に留まり、フォード社長就任5週間目に国防長官への登用となった。
 マクナマラはバークレーで経済学を学んだ後ハーバードでMBAを取得、統計解析の専門家としてビジネススクールにそのまま残ることになる。1941年、当時の陸軍航空軍(戦後空軍になる)は既にORを実戦に応用することを英国から学んでおり、その普及のためにハーバードとの間に教育訓練プログラムをスタートさせる。この辺のアプローチは明らかに英国と違うところで、英国のOR普及が人のネットワーク中心であったの対し米国は組織的に取り組む点はさすがに大量生産のお国柄である。この活動の中でマクナマラの力量が認められ航空軍にスカウトされ、作戦立案のスタッフとして次第に重要な役割を担うことになっていく。彼の判断基準は常に“費用対効果”にあるのだが、必ずしも初期の段階では伝統的な軍人達の考えに合致するものではなかった。例えば対日反攻航空作戦用の機材として、航空軍トップは欧州戦で大量運用してきた実績を持つB-17 の転用を第一案として考えていたが、マクナマラは実用テスト段階にあるB-29 の実用化を急ぐよう主張して認めさせている。これは航続距離と爆弾搭載量(B-17 ;2.8トンで3200Km、B-29 ;4.5トンで5200Km)に着目した選択であった。またこれと併せて、日本の都市特にそれを構成する建造物に対する効果を数理的に分析し焼夷弾の大量投下を薦めている。
 このような戦争中の経験を生かすべく、退役後(陸軍中佐)は経営コンサルタント会社に就職、数理による経営分析で注目され、フォード建直しに辣腕を振るうことになる。このフォードへの就職は戦後間もない1946年のことであるから、先端軍事技術の一部であったORの民間転用が如何に早かったか驚かされる。当に数理的な経営科学の嚆矢と言える。彼を初めとする数理分析専門家は戦後同じように民間に散っていくことになるが、戦時中この分野の研究活動成果を十分認識させられた空軍は、人材をプールし研究活動を継続できるよう、ランド研究所を設立することになる。
 国防長官に転じたマクナマラは、軍人出身の大統領、アイゼンハワーにさえ批判された産軍複合体の改革に手をつける。先ず、予算編成を“費用対効果”で評価・選択する手法を大々的に適用する。これがPPBS(Planning Programming Budgeting System)と呼ばれ、その後政府機関や企業で利用されることになる数理的な予算編成方式である。しかしフォードの再建には役立ったこの方法も、政府の諸政策に適用するには種々問題を生じ(例えば、効果として企業では“利益”だけに着目することも可能だが、政策課題は案件によって一つの評価基準に絞りきれない。評価基準は絞り込めても、データの準備と解析に時間がかかり過ぎ意思決定のタイミングに間に合わない)、彼の退任後1970年には廃止されてしまう。また、兵器調達合理化のため陸海空軍で共同利用できる兵器の開発・調達を進めるが、目的用途の違うものを一つにするため、返って中途半端で高価なものが出来上がり、実戦での利用が著しく阻害される例が生じてくる。代表的なのはF-111戦闘爆撃機で、これは当初空軍のプロジェクトであったものを、海軍の艦隊防空戦闘機計画を一本化したものだが、機体が空母運用できぬほど大型化してしまう。ただこれらの失敗例は主として反改革派(産業界や政界)からのもので、国防予算の膨張を押さえ込んだと言う評価もあり(例えば、B-52の後継機B-70の開発中止や軍事基地の削減)、一概にマクナマラと分析手法の問題だとすることに異論はある。
 問題はヴェトナム戦争の作戦計画推進と数理に関することである。巷間ヴェトナム戦争はマクナマラの戦争と言われるほど彼の存在は切り離せないし、そのための軍事費は確実に増加している。この費用増加の裏づけは、戦場から収集した膨大なデータを基にしており、このデータ収集のためだけにベトコンの侵入路と思われる場所に無線発信機を散布することまで行ったと言われている。増派する兵種、その規模、使用兵器、個々の作戦計画など全ての軍事活動を出来る限り数量化して決めていくやり方は、次第に現場とペンタゴンの距離を隔てることになっていく。それを補うかのようにマクナマラは頻繁にヴェトナムを訪れるが、事態は一向に改善しない。厭戦気分が溢れる中で1967年11月末国防長官を辞任することになる。
 1995年出版された彼の自叙伝“In Respect (振り返ってみて)– The Tragedy and Lessons of Vietnam -”の中で「1960年代の米国指導者達は、過大に共産主義を恐れあまりこの戦争がヴェトナム人のナショナリズムに基づく戦いであることを見抜けなかった」ことが失敗の根源だったと総括している。
 海空の戦いは機械力の戦いと言えるが、陸戦は民族・歴史・宗教・社会が複雑に絡む戦いであり、そこに数理適用の限界がある。この反省はそれを表す言葉ともとれる。
 彼の辞任は“北爆の停止と南ヴェトナムでの戦闘停止”をジョンソン大統領に拒否されたことにあるし、それ以前から戦力増強に消極的だったことも併せると、個人的にはこの戦争の実態をきちんと理解していたふしがある。ただ、あまりに怜悧な考え方が周辺を巻き込む“空気”の醸成に向かなかったと言える。
 「知に働けば角が立つ」意思決定者として心すべき警句である(個人的には「情に棹差せば流される」や「意地を通せば窮屈だ」よりはましだと思うが)。

2009年4月12日日曜日

決断科学ノート-4(北朝鮮ミサイル騒動)

北朝鮮ミサイル騒動

 何故あんなに大騒ぎになるんだろう!?北朝鮮のミサイル発射に関する私見である。特にメディアと政治家が酷かった。国際条約違反に対する警告声明で十分である。実害なんかあるはずないのだから。あれでは北朝鮮の思うツボ、もうひとつ彼らに切り札を与えてしまった。この中で“ミサイル航跡探知”誤報事件が起きた。犯人探しが今でも防衛省内で行われているのだろうか?
 実は“ORの起源”はこれと同じような状況下で始まった。古代・中世はともかく、近世英国は島国ゆえ長いこと本格的な他国の侵略を受けてこなかった。ナポレオンもスペイン無敵艦隊も海が封じた。陸軍は植民地治安軍に過ぎない実力だが、大英帝国を維持する海軍は第一次大戦後も世界の海を制圧するほどの規模を誇った。しかし、この大戦に出現した航空兵力は当初は補助的なものであったが、着々と技術発展をとげ渡洋爆撃の可能性を示すことになる。制空権こそ戦争を制するものだとの考えが浸透し、大戦中のロンドン爆撃は僅かな被害しか無かったものの、その体験はトラウマと成り空襲の恐怖に国防政策は翻弄されていく。大戦後の英国は「このような大戦争は二度と起こらない(起こって欲しくない)」ことを前提に10年間の国防費縮小政策(1932年まで続く)を採る(第一次大戦は落ち目の大英帝国経済に致命傷を与えた)。この間英国空軍の創設者ともいえるトレンチャードは戦略爆撃論を展開し、その思想は各国の空軍独立論者の手本として崇められるほどであった。しかし、これはあくまでも考え方の段階で留まり、実際の空軍力整備が進められたわけでは無く、軍用機や防空システムの開発に見るべきものはない。一方で軍事用航空機全廃論なども現れる。
 このような状況に抜本的な国防政策の見直しを迫ることになるのが1933年1月のナチスドイツの誕生とその後の復権・拡大政策である。あの酷いヴェルサイユ条約のくびきの中から国力を回復したナチスは、空襲恐怖につけ込むように、空軍力を実力以上に喧伝する。リンドバーグのような専門家さえもすっかり魅了してしまうほどナチスの宣伝は巧妙だった。
 英国の防空政策を如何にすべきか?がこれ以降朝野で喧しく論じられることになる。その中で1938年設置されたのが空軍省防空科学研究委員会である。これこそOR発祥の組織である。委員長はインペリアルカレッジの物理学教授ヘンリー・ティザード、その下にはレーダーの発明者ワトソン・ワット、“ORの父”と称せられることになるケンブリッジ大学教授で物理学者、戦後ノーベル物理学賞をとるブラッケトなど錚々たるメンバーが名を連ねる。
 まず敵機を如何に早期に発見するか?光、音、熱(赤外線)、電波の利用が検討される。ここから生み出されたのがレーダーである。こんな一流の科学者が揃っても初期の段階では殺人光線の可能性などを大真面目で研究したりしている。それくらい空からの恐怖が大きかったとも言える。
 レーダーの原理は分かっても実用化への道のりは果てしない。雑音と正規の信号が識別できない。これは今回の航空自衛隊の高性能レーダーにおける“航跡探知”誤報も同じである。信号と分かっても敵か味方か分からない。大型機か小型機かが分からない。方角が分かっても高度が分からない。この識別精度を上げるためにOR手法が必要の中から生まれてくる。課題はレーダーの改善ばかりではない。敵は何処を攻撃する可能性が大か。どこの基地から何機の戦闘機を発進させるか。誘導経路をどうするか。情報ネットワークをどうするか。ソフト面でのORが活躍する。空軍ばかりではなく陸からの対空砲火の精度改善にも大きな貢献をする。
 研究段階から実用段階まで予算を確保するには政治家の力が必要になるが、防諜のためにはあまり手の内を見せられない。味方をも欺く対策は不信を呼ぶ。空軍省内にはトレンチャードの薫陶を得た攻撃優先論者たちが防御システムへの予算増額を妨害する。こんな混沌を何とか切り抜けて作り上げた防空システムが、1940年初夏から始まったバトル・オブ・ブリテン(英独航空戦)に間に合い国運をかけた戦いに勝利することになる。
 戦後首相を務めることになるハロルド・マクミランは往時を振り返り「1938年当時の空襲に対する恐怖は、現代における核への恐怖と同じものであった」と回顧している。その視点から見れば今回の北朝鮮ミサイル恐慌現象に頷けるところもある。それならば騒ぎ立てるばかりではなく、英国の為政者が科学技術の叡知を動員して見事な防空システムを築きあげた点をもっと学ぶべきであろう。

2009年4月5日日曜日

決断科学ノート-3

決断科学ノート-3
ビジネススクールにて

 1983年会社の研修制度のひとつであったビジネススクールの短期コースに参加した。派遣先はカリフォルニア大学バークレー校(本校)である。このコースはアメリカ企業の中間管理職向けのもので、約2ヶ月間経営者に必要な知識を一通り教え込むことを目的としていた。この年のテーマは「アメリカ企業を如何に再生(Revitalize)するか?」であり、特に日本の勢いが強かった時だけに、唯一の日本人生徒であった私は何かにつけ注目され、その後の人生に転機をもたらすことになる2ヶ月であった(滞英記-10(1)に関連情報)。
 ビジネススクールのカルキュラムといえば事例研究(ケースメソッド)が有名だが、この短期コースではそれは数例で、それよりも国際政治からエネルギー問題、産業政策(特に日本の)など幅広いテーマの講義とそれに関するディスカッションを中心に構成されていた。“再生”に真に必要なことは小手先の戦術論だけではないと言うことであろう。
 1951年度ノーベル化学賞受賞者のグレン・シーボーグ教授(106番目の元素は彼を讃えて“シーボギウム”と名付けられた)、のちにクリントン政権下で“日本異質論”を展開することになるチャーマーズ・ジョンソン教授(日本の通商産業政策研究に関する世界的権威)、当時の中曽根首相とも親しく東アジアの政治に詳しいロバート・スカラピーノ教授(この人は1941年ドナルド・キーン等と戦争遂行のため日本語を本格的に学んでいる)などアメリカの知性を代表する錚々たる教授陣と少人数(全部で20人)の学生が、文字通り膝を交えて行われた授業は、緊張の連続であるとともに、アメリカのビジネススクール教育の底力を痛感させられる毎日であった。
 そんな中で、ある時教室に8ミリ(ヴィデオだったかもしれない)映写機が用意され、英国の製鉄会社(公社だったかもしれない)の経営会議を延々と映し出し、これについてディスカッションする授業が行われた。学部卒業者向けの長期コースにも使われる、どちらかと言うと“方法論”の授業である。
 ここで取り上げられた経営会議は決して模擬ではなく、実際の会議を初めから終わりまで撮影し、授業に関係ない部分をカットして編集したもので、会議の議題は電気炉の投資案件を決するものだった。映写時間は40分くらいであっただろうか。カメラは冒頭の議長役の開会挨拶(?)から担当者の説明、これに対する議論を、最終決定に至るプロセスを休憩時間の参加者の行動を含めて追っていき、それを観たあと意思決定が如何に行われるかを、分析・学習するものであった。見せるために作られた作品ではないので、あまりストリーに抑揚も無く、率直に言って当時の英語力(特に聴き取り)では、案件が電気炉の採否であること、そしてそれが採用されることになった結論以外にはほとんど理解できなかった。つまり会議参加者の発言内容を理解できぬまま終わったと言うことである。
 しかし、本当の授業はここから始まるのである。教官(比較的若い)はこれを観たあと、「内容に何か質問はあるか?」と切り出し、圧倒的に多い事務系の学生から電気炉や製鉄業についての質問がいくつか続く。それらを片付けると「このフィルムを観て気のついたことを話せ」と学生に発言を促す。「経済評価で議論の対立があったが、確かに説明が理解しにくかった」「Aは他の人の意見をきちんと聞かず自分の主張を繰り返していた」などと同級生が話し始める。教官がそれに対して「経済評価説明のどこが理解しにくかったか?」などと切り込んでくる。クラスの過半のメンバーが発言し終わると、私の顔を見つめる視線が気になってくる。「(お前も何か言えよ)」と言う合図だ。「(議事内容がほとんど解らないのに何を喋ったらいいんだろう?)」。
 実務を通しての経験と勘を基に、意を決して喋ることにした。「正直言って、議事の内容はよく理解できなかったが、BとCの関係について気になることがあった。私の理解ではBは明らかにCよりも地位が上である。しかるにBは自分の発言に対するCの反応をしきりに気にしていたし、他者の発言時にもCを見ていることが多かった。また休憩時間にもBが熱心にCに語りかけていた」「ほかの人間もCに注目している傾向があった」「公式の組織上のリーダーはBかもしれないが、実質的な力関係はCが上ではないか?会議全体のキーパーソンはCではないかと思う」と専ら映像から理解したところを述べてみた。「いいところに気がついた!組織の意思決定ではパワーストラクチャーの把握が大切だ」 それからはこのパワーストラクチャーに関する講義が中心の授業になっていった。
 “トップダウン”があたかも定石のように言われる欧米の意思決定でも、“場(必ずしも会議の場だけではない)”の空気を汲み取りすっきりと決断できることが理想的である。パワーストラクチャーの分析把握を正確に行い、リーダーがこれに基づいて自らの考えを実現するシナリオを用意して、意思決定の場に臨むことの重要性をここで改めて体系的に学んだ。シナリオの中身が単なる“根回し”でないことは言うまでもない。冷徹な論理を、要路に在るキーパーソン向けにどう料理できるかが問われるのである。