2009年5月31日日曜日

今月の本棚-9(5月)

 2ヶ月以上かかって英文のハードカバーをやっと読了した。英語を読み理解することの遅れもあるが、一番難渋したのは目の疲れ(文字や行がずれて二重になる)が酷く、15分ともたない。実はこの現象は現役時代と一昨年の滞英時にも経験している。二度とも専門医の診察を受けたが、初回は眼鏡の不具合(結論は眼鏡以上にPC利用時の画面と目の距離の問題であった;老眼鏡で書物を読む場合、自然に見やすい位置に書物を動かしているが、PCの場合は顔を動かして調整する必要がある)、昨年春は悪いところは無いとの診断だった。今回自分で考察してみて、どうやら目を縦に動かす時(縦書きの和書)と横に動かす時で目の疲労に大きな差があることが分かった。まだまだ洋書調査が必要なので、どうしたらいいのか悩んでいる。

<今月読んだ本(5月)>

1)Dowding(Vincent Orange):Grub Street Publishing
2)すべて僕に任せてください(今野 浩):新潮社
3)機械仕掛けの神(ジェイムス・R・チャイルズ):早川書房
4)「理工系離れ」が経済力を奪う(今野 浩):日本経済新聞出版社
5)オペレーショナル・インテリジェンス(松村 劭):日本経済新聞社
6)「流転の王妃」 の昭和史(愛新覚羅 浩):主婦と生活社


<愚評昧説>
1) Dowding
 ヒュー・ダウディングの伝記である。ではダウディングとは何者か?第二次世界大戦中の英空軍戦闘機軍団長である。大戦を生き延びたドイツ陸軍最高司令官ルントシュッテット元帥は、今次大戦の何処がドイツにとって戦いの潮目だったか?と問われた時「独英航空戦」と答えている(質問者は「スターリングラード」を予測していた)。ダンケルクを辛うじて脱した陸軍はぼろぼろの状態、海軍力は無傷とはいえ、空軍力が打ち負かされればそれも安泰ではなく、英仏海峡は飛行機で一飛び、舟艇や空挺で世界最強のドイツ陸軍が押し寄せてくる。この航空戦は英国にとっても国の興廃をかけた天王山であった。1940年7月から始まり9月にピークを迎え、翌年春まで続くドイツ空軍の攻撃をなんとか退ける。この時期米ソは中立状態、英国は孤軍奮闘でドイツに対抗している。
 この勝利はダウディングの前歴、空軍省の実質的な政策決定機関、航空審議会のメンバー時代から防空科学委員会(ティザード委員会)を支援し、レーダー開発や新型戦闘機開発を含む防空システム(この中にはOR推進に関わる活動が多々ある)構築に傾注してきたことも大いにあずかっている。ダウディングが今日、ワーテルローのウェリントン、トラファルガーのネルソンと比せられる、救国の英雄と言われる所以である。
 しかし、この英雄は英独航空戦の山場を過ぎると次第に空軍省内で疎んじられ、軍団長のポジションから引き下ろそうとする動きが活発化、1940年12月その職を解かれ閑職に追いやられる。1942年7月には退役リストに載せられ、ジョージ六世から元帥(終身現役)推挙の要請が出るものの空軍省はこれを認めず大将で退役する。政府と王室はこれを償うように1943年5月彼に男爵の爵位を与えているが、戦後功のあった将官の多くが元帥に叙せられたものの、一旦退役した彼にその機会は無かった。
 何故彼はかくも冷たい仕打ちを受けたのか?この因を“Stuffy(気難し屋)”とあだ名された彼の人格に求めるものや、フランス危急の時現地へ飛んだチャーチルの懇請にもかかわらず、戦闘機隊の派仏を拒否したこと(事実とはやや異なるが)に対する仕返しなどとする説がある。しかし、この伝記を見るとチャーチルは彼を高く評価しており、軍団長を降りた後も二人で親しく食事などしながら意見を聞いていたようだ。見えてきたことは、いずれ“決断科学ノート”で触れることになると思うが、専守防衛の考え方が英空軍の教義(爆撃制圧第一主義)と相容れないことで空軍省主流派の反感を買い、生真面目な性格とそれに基づく言動が相俟って、戦略・戦術のあらゆる面でいわれない批判を浴びることになってゆく。何処にでもある組織力学の犠牲者の姿がそこに在った。
 ORとの関係でこの伝記を見ると、格別ORがクローズアップされるシーンは無いが科学技術には大変理解のある軍人で、彼なくしてあの効果的な防空システムは無かったのではないかと思わせる。
 退役後は英独航空戦の分析などに関する講演や著述活動(これらの活動にも空軍省はあれこれイチャモンをつける)に力を注いでいるが、やがて宗教的な世界(Theosophy;神智学)に入り、仏教・ユダヤ教・ギリシャ精神を融合した新宗教に取り組むようになっていく。この辺りは日本海海戦で頭脳を絞りつくし霊的な世界に入り込んでゆく、秋山真之(中将で退役)を髣髴させるものがある。
 蛇足だが、ダウディングとわが国との関係をこの伝記で初めて知った。彼は神父で学校経営も行っていたスコットランド人家庭の出身、サンドハーストの陸軍士官学校を卒業(ボーア戦争で短縮卒業)した後、砲兵士官(成績が悪く希望の工兵になれなかった)としてジブラルタル、セイロン、香港などに勤務している。この香港勤務中日露戦争が起こり、休暇を取って日本に来ている。結局観戦は叶わず、箱根の温泉(混浴!)や富士山登山(天候不順で登頂成らず)などを楽しんでいる。

2)すべて僕に任せてください  畏友今野浩先生(現中央大学理工学部教授、前東工大教授)のエンジニア小説である。副題は-東工大モーレツ天才助教授の悲劇-。理工学部版“白い巨塔”と言ってもいい(本文より引用)。一過性の学生として過ごした大学でも年とともに学会活動など通じて、大学運営のドロドロした部分を垣間見る機会はあった。それぞれの専門分野での派閥や親分子分関係も少しずつ分かってくる。先生の評価も企業人の視点と研究者・教育者仲間の評価に大きな違いがあることもしばしば知らされた。文部省や教務事務官との関係もややこしいらしい。博士号取得に関して謝礼などが授受される新聞記事などを目にすると、聖人君子の見本のように見えた大学教授も一気に俗物に変じてしまう。しかし、知っているようでほとんど知らなかった世界であることをこの本であらためて知らされた。こんな大学の内面を実名(学校、個人)で登場させ、大学の在り方を一考させる、ユニークなアカデミック・サスペンスとも言えるトーンで話が展開していく。
 主人公は「天才くん」と仲間に呼ばれる、ややエキセントリックだが極めて優秀な若い応用数学研究者である。ヒョンなことで筆者の下で2年間期限付きの助手になり、金融工学関連の研究に励むことになる。天才肌である上に一年間で4000時間(一年は8760時間)も勉強すると言うのだから、最先端の金融工学理論をたちまち吸収、この世界の若きスターに躍り出る。海外の権威者にも認められていく。
 話がおかしくなるのは期限の2年も間近になり、当初は助教授で迎えると言う新設大学のポストが講師に格下げされるところから始まる。また海外留学も条件だったがこれも反古にされる。仲介者は東工大出身の副学長、大学設置審議会(つまり文部省)もからめた問題へと発展していく。ここで筆者は彼のために一肌脱ぎ、主人公は東工大に留まり研究活動にまい進し、さらに筑波大学の講師へと転身していく。しかし、若い講師・助教授を待ち構えているのは大学運営に関わるもろもろの雑事だ。人の良い主人公は次々とそれらを背負い込むことになる。自ずと研究活動が鈍っていく。2年半後東工大経営システム工学科の助教授ポストが空き、筆者がそこへ主人公を当てようとすると、レフリーつき論文数が不足であることが分かる。なんとか“準レフリー付き”で体裁を整えこのハードルを乗り切る。この局面では経済学と工学の境界域論文審査(国際的な)のからくりなども紹介される。
 学問の領域は専門分化が進めば進むほど、一方で領域をまたがる学際的な研究が求められる。金融工学が経済学と工学の融合領域であることから、この研究のために筆者や主人公らは「理財工学科」の設立を目論み、取り敢えず期限付きの「理財工学センター」として実を結ぶが、ここに至るまでの学内や文部省との折衝も興味深い話題が紹介される。ビックリさせられたのは、東工大という一流大学の教授でも、本省のノンキャリ係長程度の格付けであることを知らされたことである。確かに行政と言う面で見れば、国際的に一流の研究者でも素人同然であるのは確かだが、何か釈然としない。
 さて、「理財工学センター」と言う水を得た筆者や主人公は世界的な金融工学研究機関を目指して活動を始めたやさき悲劇は起こる。あとは本文をお読みください。
 大学の研究者・教育者にもっと本業に傾注していただくには、日本の大学教育システムをどうしたらいいのか?これが“一考”の課題である。何とかしなくてはならない!

3)機械仕掛けの神
 副題は-ヘリコプター全史-とあり、これがこの本の内容を表している。レオナルド・ダ・ヴィンチのデザインしたネジの原理で空気中を上っていく傘のような機械がある。全日空のマークとして長く使われていたのでご存知の方も居よう。この会社の母体の一つが日本ヘリコプター輸送(略称;日ペリ)だったからである。ヘリコプターのアイディアはそんなに古くからあるのだが、それが実用になるのは遥かに飛行機より遅い。実用的なものが出現するのは第二次世界大戦中である。回転翼の基本原理、操縦のメカニズム、その複雑な機構に利用される材料の開発、いずれをとっても飛行機以上に難題が横たわっていた。
 この開発に情熱を燃やした人々は、これが自動車のように個人用空中輸送用に使われることを念じてその開発に取り組んだ。「道路の渋滞を尻目に、あなたの庭先からオフィスに出かけられますよ」と。残念ながら、狭小な場所から離着陸できる機能と引き換えに、その複雑なメカニズムはほぼ同様の輸送能力の軽飛行機の数倍の価格となり、夢の実現は叶わなかった。
しかし、救急・救難、悪地形への輸送、空挺作戦などこの機械でなくては出来ない用途は多々あり、我々はこの機械から多くの恩恵を受けている。
 この本は“ヘリコプター全史”と銘打つように、この機械(オートジャイロを含む)の開発の歴史、回転翼の原理やメカニズム、操縦方法、製造者・メーカー、用途(特に軍事や救難)、環境問題(主として騒音)などについて、素人に分かりやすく解説したものである。難しい理論は無く、図も多く、よく出来たポピュラー・サイエンス物である。

4)「理工系離れ」が経済力を奪う  小学生の時からエンジニア志望(模型つくりの延長線;最初は鉄道技術者)であったから、理系に進むことが当然と考えていた。一族に技術者は皆無。高校3年次、受験を前にクラス担任から文系(それも人文科学)が適性といわれたが迷うことは無かった(それで受験では苦労したが)。大学に入学した時、何人かのクラスメートが文系から急遽理系に志望を変えて進学していたことを知った。理由は前年の人工衛星“スプートニック”ショックである。彼ら同様、専門課程に進むと必須の力学系(水力学、熱力学、材料力学)では苦労した。やはり進学指導に関するアドバイスは間違ってはいなかった。計測・制御をゼミ・卒論で選んだのは機械工学科本流勝負を避けた結果である。
 折からの高度経済成長期、理工系はわが世の春、就職には苦労しなかった。しかし当時の東燃は一流大学から人材が集まる会社で、先輩たちには凄いエンジニアたちが揃っていた。果たして落伍せずにやっていけるか?幸いしたのは情報技術の勃興・発展である。この利用領域は当に文理融合領域なのである。プラント運転のコンピュータ化を進めるとき、無論緻密なプログラミング技術が求められるが、それ以外にも種々の仕事があった。新しい運転方式の設計(たとえば、異常に対する自動・手動の限界設定)、そのための運転員の選抜・組織作り、マン・マシーン・インターフェースの設計などは、コミュニケーション力、心理学や社会学の範疇を含み、自身では気付いていなかった能力が俄かに湧き出てきた。爾来45年、ある種のITプロジェクト・マネージメントが専門となり、会社の発展にも寄与したと確信するまでになった。本来なら文系に進むべき人間が、理系に進むことによってささやかながら世のためになった例がここにある。
 本書の帯には「国富の4分の3は“彼ら”が稼いできた!」とある。にもかかわらず引用されている「理系白書」によれば大学卒の文系との生涯賃金格差は5千2百万円あると言う。この国は有史来文高理低の社会である。それでも1950年代から80年代は優秀な人材は理系を目指した。それが“ジャパン・アズ・No.1”を実現した。これが今や大崩壊しつつある。1989年東工大卒業生の29.8%、東大機械系3学科の約半数が金融機関(銀行、証券、保険)に就職し、2008年東大工学部理科一類1260名の2年生から58名の経済学部転籍者が出ている。私大の理工系学部は既に縮小期に入り、受験者は激減している。エンジニアが報われない国に何が起こるか?!サムソンの半導体王国は、日本を流出したエンジニアの協力の賜物だと言われている。優れた自動車技術者はやがて中国で活躍することになるだろう(これは評者の見解)。
 何故こんな現象が起こっているのか?先に紹介した「すべて僕に任せてください」の筆者、今野浩氏が、学び、奉職・勤務した東大・東工大・中大での実態を踏まえて、前出の小説とは角度を変えて、理工学教育の危機を掘り下げている。
 氏は何度かこの欄でも紹介してきたように、わが国における金融工学の第一人者、文理融合系の学問・教育の草分けとしてご苦労してきた方である。決してエンジニアが報われないことにひがんでこのような書を著したわけではない。日本と言う国が置かれた(あるいは与えられた)環境は、広い意味での理工学応用((環境や金融などを含む)に依るしか無い。 給料を上げることが解決策ではなく、技術王国を築いた20世紀のエンジニアが、若者に対してエキサイティングだった自らの経験をもっと語るべきだと結んでいる。全く同感である。メールをお送りしているエンジニアそして製造業で苦楽をともにした文系の方々にもお読みいただき、21世紀の日本を支える若者たちを理系に向けよう!

5)オペレーショナル・インテリジェンス 副題は-意思決定のための作戦情報理論-とあるのだが、“理論”はやや大げさな感じがする。筆者は自衛隊を陸将で退官した軍事情報の専門家のようだが、この本はよくある軍事に材料を求めて企業経営者・管理者の啓蒙に供しようとする意図で書かれている。それに加えて、その他の一般人に現在のわが国安全保障体制の問題点を専門家の立場から訴えようとする面もあり、“理論”としての体系が今ひとつきっちりしていない。
 経営者・管理者の決断と数理をライフワークとする評者として、この“理論”に惹かれて購入したがその点では期待はずれだった。しかし、筆者が現役時代体験(北朝鮮、インド・パキスタンなど)した多くの事例は、さすがに臨場感があり、情報収集・処理の要諦をよく抑えていることに感心させられた。

6)「流転の王妃」 の昭和史 昭和32年12月愛新覚羅慧生の無理心中が報じられた時、母が「あの赤ちゃんだわ!溥傑さんがよく抱いて散歩させていた」と叫んだ。溥傑さんとは満州国皇帝(清朝最後の皇帝:ラストエンペラー)の弟である。慧生と言うのはその長女、つまり皇帝の姪である。彼女は私より約8ヶ月早い昭和13年4月生まれである。12年に結婚した両親は当時満州国の首都新京に住んでいた。どうやらその住まいは皇弟溥傑のお屋敷に近かったらしい。
 この本はその溥傑に嫁いだ、嵯峨侯爵家令嬢、浩の書いた自身を巡る昭和史である。水泳仲間のYさんが満州育ちの私のために貸してくれたものである。読後感は「良い本を読んだなー」とYさんに感謝している(こういう本を自分で買うことは無い)。
 理由はいくつかある。先ず、典型的な政略結婚(本人はもとより嵯峨家の人々も全く関知しないところで話が進められた)であったにもかかわらず、二人の間に深い愛情が育まれ、暖かい家庭が築かれ、それが終生変わらなかったこと。溥儀・溥傑を始めとする清朝の流れを汲む一族に暖かく迎えられ、敗戦の混乱の中でもその関係が保たれたこと。満州国皇帝と天皇家の間には相互に信頼関係があったこと。これを壊し日本の属国のように扱う(溥傑氏は皇弟として扱われず上尉;大尉として扱われる。運転手付き自家用車も禁じようとするが、張総理が何とか関東軍を説得する)のは専ら官僚、特に関東軍であったこと。それもあって彼女らの住まいは一般人と余り変わらない場所、つくりだったようである(だから両親が垣間見ることもあったわけである)。また、戦後の混乱する満州での逃避行は我々民間人に劣らず酷いものだったことに共感さえ覚えた。溥傑氏がソ連抑留を終わり北京へ帰ると浩さんも東京からそこへ移り、二人仲睦かしく老後を過ごすようになる。唯一残念なことは慧生の死で、これについても丁寧に当時の様子が描かれている。
 満州国の歴史についてはずいぶん書籍を集めているが、こんな身近に感じる本は無かった。また、これからの東アジアの国々との付き合い方に手本になるような生き方・考え方を学んだ。

2009年5月28日木曜日

決断科学ノート-9(数理専門家の実務経験)

 石油会社にLP(線形計画法)が導入されたのは1950年代後半、東燃の場合はエクソン(当時はエッソ)経由である。エクソンのエンジニアリングセンターには数理の専門家が居たものの東燃には皆無で、石油会社におけるエンジニアの主流は化学系統(化学工学や応用化学)であったから、導入作業もこの分野の人が当たった。これらの人々は既にプラントの設計・建設や工場での生産管理に十分な経験を積んでいたから、LP適用に関する利用分野知見に問題は無かった。学ばなければならなかったのは最新技術のコンピューター技術であった。
 1960年代中頃になると数理手法適用が広がり始め、コンピューターは益々高度化してくる。こうなると専門分化が進み、数理工学や経営工学(総称して以後情報技術と呼ぶ)出身の専門家が数理技術や情報技術を扱い、それを応用する設計や生産管理の専門家は利用者に徹するようになって行く。それぞれの分野の効率は改善するものの、両者をつなぐ部分に隙間が生じてくる。特に、情報システムの構築・保守を中心的に扱うことになる情報技術者の適用業務理解度・経験度不足を問題視する声が高くなる。情報技術者に言わせれば、進歩が急な技術を追いかけるだけでも大変なのに、利用部門の実務を深く学べというのは余りにも負荷が重い。ユーザーの側も少しは最新技術を理解し、それに合った新しい業務処理体系を作るべきだと主張する。本来両者はもっと建設的に相手の環境を理解して協力し合うべきなのになかなか上手くいかない。こんな関係は現在でもよく見られる。環境を打破する一つのやり方は “トップダウン”である。しかし、現場の当事者同士が納得しない“トップダウン”は失敗の基である。
 ではORの起源でこのような関係はどうなっていたのだろうか?先ずOR発祥母体のティザード委員会(5人)を見てみよう。委員長、ヘンリー・ティザードはオックスフォード卒業(化学)後ベルリン大学で研究員を終え欧州に滞在中第一次大戦が勃発、直ちに帰国して砲兵隊に入隊した後、空軍実験航空隊に転じて士官となり、ここで操縦術を学んでいる。つまり実戦経験は無いもののれっきとした軍務経験を持っている。次いで“ORの父”ブラケットはポーツマスの海軍兵学校出の職業軍人としてスタートしている。シュットランド沖海戦、フォークランド沖海戦に海軍少尉(砲術)として実戦体験をし、後に海軍からケンブリッジに派遣され、その後研究者(物理学)に転じている。この経歴から軍務を最もよく理解したOR専門家の一人といえる。また、この委員会のメンバーで既にノーベル生理学賞を受賞していたA.V.ヒルも第一次世界大戦で対空射撃実験部隊の士官として従軍し、その精度改善に貢献している。この他に二人のメンバー(ウィンペリス、ロウ)がこの委員会に属しているが、二人はともに空軍省の技術高級官僚でいわば事務方といっていい。つまりメンバーの中核を成す三人はいずれも軍務の経験があり、これがその後の防空諸政策(ORを含む)推進に大きな力になっていることは関連文献の中にも述べられている。
 ただこのような実務経験が必要条件か?と問われれば、それ以上に大切なのは意思決定者を納得させることのできる成果と信頼される人間性がより重要になってくるであろう。この好例は、国家保安省の依頼で爆撃効果分析を行ったOEMU(Oxford Extra-Mural Unit:大学内の戦争協力団体)のザッカーマンの経歴を辿ることで明らかになる。
 ザッカーマンは南ア生まれのユダヤ人で、現地のカレッジで優秀な成績を修めたことでオックスフォードへの奨学金を得て動物学・解剖学を学び、バーミンガム大学教授になる。ここまでの経歴では全く軍とは関わっていない。しかしやがて第二次大戦勃発後、オックスフォード時代の仲間の呼びかけで、爆撃効果分析(Bombing Census)の研究に関わっていく。この依頼主は軍ではないものの、そのレポートは各所で評判になり、チャーチルの科学顧問リンダーマン(後のチャウェル卿)に認められ、戦争会議(War Office)で報告などするようになる。やがてはマウントバッテンやテッダー(英空軍大将;連合軍司令部でアイゼンハワーに次ぐNo.2)などの司令官の下で知恵袋の役割を果たすことになる。彼の場合は、もともとの人柄やバーミンガム大教授に就くまでの苦労(なかなかいいポストが見つからず中国での就職なども取り沙汰されている。また結婚に際してもユダヤ人ゆえの苦労がある)が周辺への気配りを万全にさせ、強硬な意見を吐いても反対者に耳を傾けさせるようなところがあったようだ(特にノルマンジー上陸作戦の空陸共同作戦)。戦後はサーの称号ももらい、大学・学界でも高い評価を得て幸せな晩年を送っている(「Solly Zukerman-A Scientist out of Ordinary-」by Jon Peyton)。
 ザッカーマン同様、米国におけるOR普及のキーパーソンであった、モース(MIT;物理学)とキンボール(コロンビア大;化学)もこの仕事で海軍に加わるまで軍歴は無い。米国の場合は英国と異なり、ORがトップ(大統領)を通じて英国からもたらされたこともあり、最初からトップダウンで組織的に取り組まれたところに特色がある。強いて言えば英国におけるザッカーマンのケースと類似している。この二人の人格については現時点でほとんど調査していないが、彼らの著書「Methods of Operations Research」を見ると、ORマンが“現場を知ること・理解すること”の重要性を強く訴えていることから、軍人との良好な信頼関係構築のための気配りが十分うかがえる。
 そして最も重要な点は、英米両国においては、個々人の軍歴であれトップダウンであれ、背広(民間人)と制服(軍人)が対等の立場で議論し合い、ベストな対応策を考えようとする組織文化が存在したことである。これは第二次世界大戦中の日本、ドイツ、ソ連の軍事組織には見られない特色といえる。
 IT適用業務の理解・経験、そのための人材育成プロセス、新しい技術に対するトップの理解と支持、率直に意見を交わせる組織文化、はエクセレント・カンパニーの必要条件でもある。

2009年5月17日日曜日

決断科学ノート-8(戦果・成果の測定・評価)

 数理を意思決定に利用する場合、その基本は信頼でき納得できる数字である。企業経営の結果(つまり成果)は損益計算書・貸借対照表に集約される。素早い経営判断を求められる昨今の経営環境下では、これら経営指標の算出が、嘗ては半年単位であったものが最近は四半期になり、内部では月次で行われ次の期や更に先の計画を決めていく。このため数字に関して細かく算定基準が定められ、経営情報システムも充実して経営実態が外からでも分かるようになってきているが、それでもトップマネージメントと現場の齟齬は生じている。粉飾決算などは論外としても、在庫や仕掛状況がタイムリーに、正しく報告されておらず(報告されているのに意思決定者が問題点に気がつかないということもあるが)、次の手の判断を誤ることなどしばしば見られる事例である。
 正確な数字無しに憶測や希望を交えて誇大な成果を喧伝することを“大本営発表”などと揶揄することとがあるが、軍事作戦によくある戦果の過大評価はわが国固有のものではない。バトル・オブ・ブリテン中の数字ではドイツ空軍戦闘機パイロット申告の英空軍機撃墜数は当時の英軍機全数を上回っているようなことも生じているし、英軍内での損害機数ですら戦闘機軍団(損害多)と空軍省(損害少)とで大きな差が出ている。
 ORに関係する英軍のドイツ機撃墜数分析に、海岸と内陸の対空砲による差が顕著に出て問題になったケースがある。海岸砲の撃墜割合が内陸のほぼ3倍に達していることに疑問を持ったORチームがこれを分析したところ、内陸では民間監視部隊や陸軍も協力して撃墜数を地上で確認する“物的証拠”ベースであるのに対して、海上での確認は対空砲部隊の“状況証拠”ベースの申告に基づいていることが明らかになり、海上での撃墜数を一定割合で減ずる処置を取っている。
 艦船の被害分析はそれ以上に難しい。第一次世界大戦までの海戦は両軍が目視できる範囲で戦闘が行われたため、戦況把握は比較的容易だった。しかし第二次世界大戦では艦上機が攻撃の主力となり双方の主力は数百キロ離れている。その戦果は搭乗員や偵察任務の潜水艦による確認しか出来ない。戦闘状況や天候などによって、艦種、被害の程度はその時々によって実態と大きな差が出る。確実な撃沈はともかく、大破や中破などという表現は相当主観的になる。果たしてこの作戦(戦術)で良かったのか?次の攻撃はどうすべきか?曖昧な評価は作戦検討用モデルの精度を低下させその効用が失われていく。1951年に出版された、キンボール(MIT教授)とモース(コロンビア大教授)が今次大戦中の米軍のOR適用を紹介した「Methods of Operations Research」の第8章“Organizational and Procedural Problems”にこのような問題にどう対処したかが記載されている。かいつまんで言うと、ORグループをモデル維持・運用管理する中央チームと実戦部隊と行動を共にして戦果(あるいは被害)を定量化する前線チームで構成し、両チーム間での密なコミュニケーションと要員ローテーションを行うのである。これによって戦闘員からの報告を適正な形に整えて、OR適用をより実戦を反映したものにしていったのである。上層部の一部には戦争遂行に必要な知識人を戦場に出すことに反対する意見もあったが、これによってORグループの評価は高まりスタッフの地位が確立していったとしている。
 更に難しいのが空爆の評価である。OR活動はその歴史を辿る時、英国の防空システムにおけるレーダー開発に端を発して、ブラッケット等の活躍を先ず取り上げ、そこから各種展開を述べるのが常道である。それ故ブラケットは“ORの父”と称せられるようになった。しかし、滞英研究の最初の研究材料として、ブラケットとは全く関係の無いところで戦争における数理活用に関わっていた、ソーリー・ザッカーマンと言う人の伝記を与えられた。
 ザッカーマンは南ア生まれの動物学者・解剖学者で、オックスフォードで学んだ後バーミンガム大学で教授を務めていた時(第二次世界大戦直前)、科学者の戦時動員体制に組み込まれ、国家保安省の求めに応じて“爆撃効果測定”の仕事に携わるようになる。1940年から始まったドイツ空軍の英本土爆撃100事例以上の被害状況を綿密に分析し、“標準損害率”や“地区別(都市、軍事施設などで分類)損害度”を算出して住民の避難計画や防空施設建設に役立てるようにしていったのである。この分析の裏づけには彼が本来の研究に飼育していた大量のサルも実験材料として使われている。
 これらの研究がやがて「The Field Study of Air Raid Casualties(空爆損害事例研究)」としてまとめられ、政府のトップや軍統帥部に回示され、高い評価を受けるとともに大いなる論争を呼ぶことになる。それは攻勢に転じた連合軍の爆撃戦略の根幹に関わる、都市爆撃か軍事・兵站拠点への爆撃かと言う資源(爆撃機)配分問題の決定因子としてクローズアップされたことによる。
 爆撃機軍団は無論、空軍省の主流そしてチャーチルの科学顧問を務めるリンダーマン(オックスフォードの物理学者で都市爆撃効果を算出)は爆撃制圧論(空爆だけでドイツを屈服させる)に凝り固まっており、チャーチルもこれが復讐心に駆り立てられる大衆の支持を惹きつける格好の材料と考えている。これに対してザッカーマンは、都市戦略爆撃は一見派手だが意外と実害が少なく味方の被害が大きいことを数字で示し、リンダーマンの数字が過大と反論するともに、軍事(飛行場など)・兵站(橋や鉄道の要衝;操車場など)拠点への攻撃が敵戦力低下に効果的であることを突きつけることになる。この論争はやがてティザード委員会の知るところとなり、ティザードやブラケットもザッカーマンを支持する意見を述べる。二つのORの流れがここで交わる。理はザッカーマンにある。二つの数字の間で苦悶するチャーチル。
 高度に政治的な要因で都市戦略爆撃が実行されるが、戦後の戦略爆撃調査分析はザッカーマンの主張が正しいことを証明する。ドイツの兵器生産は増加している一方爆撃機搭乗員の戦傷・戦死率は三軍の中で最大であった。
 現状をより正確に反映した数字こそ数理活用向上そして課題改善のカギとなる。そのためには数理の専門家がもっと現場と密着する必要がある。

2009年5月12日火曜日

決断科学ノート-7(決断者と数理)

 OR学会誌に「ORを築いた人々」という連載がある。わが国のOR発展に貢献した先輩達の物語である。関係者(主にお弟子さん)が書くので、些か出来すぎ・気の使い過ぎがチョット鼻につくが、今回(Vol.54 No.5 連載第17回)は興味深い発言が紹介されていた。東芝のOR普及に功のあった原野さんと言う方で、現在91歳、今年の春の年会にも出席されるような元気な方である。
 わが国にORが紹介された黎明期、最新の経営科学的手法ゆえに、適当な教育資料も無く、専ら米国の書物や文献に頼る日々だったが、そんな環境下で気付いたことは「OR担当は、数学的分析はしているが、参謀であり決定をしているわけではない」「分析はするが、決定はしてはいけない」と言うことである。その理由は「決定因子には、ORの分析には含まれていない要因があるので、意思決定者はそれを考慮した総合的な判断を要求されている」つまり「ORのベースは数学であり数学的判断をするが、(最終判断には)社会学も人間のことも、こころとか、心理とか、そんないろんなことが要る」からだと言う。さすが長く実務の世界でご苦労された方の含蓄のある発言だと思う。
 連載のこの部分を読んだ時、はたと思い浮かんだことが二つある。一つはカナダの経営学者H.ミンツバーグがその著書「MBAが会社を滅ぼす(原題;Managers Not MBAs)」の中で、実務経験の無い若い学生に方法論を伝授していきなり経営者に仕立てようとする、マネージメント・スクールの教育システム批判である。“マネジャーに必要なのは方法論以上に、経験やそれによって培われた感性だ”と何度も強調していること。もう一つは一昨年の滞英研究の際読んだ、戦後発刊された英空軍OR公史「The Origins and Development of Operational Research in the Royal Air Force」の最終章で、その時の空軍参謀長ジョン・スレッサー(大戦中は沿岸防衛軍団長)が寄せたOR Section(ORS)の活動を讃える言葉の中に現れる「ORは戦時のみならず平時においても、近代空軍に欠かせぬ基盤である」としつつも「計算尺(slide rule)戦略が実務を通じて醸成される戦略思考に代わるものではない」というくだりである。
 この三者に共通することは、指導者・管理者の決断は論理(数理)・経験・感性・人間関係など諸要素のバランスの中で下すべきだということであろう。
 もう一つ原野さんとシュレッサーの発言に共通することに、意思決定者(指揮官)とそのスタッフ(参謀)という視点がある。軍事組織においてはその役割分担は明確に定義されており、決断者は指揮官、その方策を検討・提示するのが参謀である。旧日本軍(特に陸軍)ではこの役割分担が曖昧で、参謀が指揮官のような役割を演じたり(ノモンハン、ガダルカナル)、逆に指揮官が実質的に作戦策定も行い参謀は副官のような地位に甘んじなければならないようなケースも生じている(インパール)。民間企業は軍事組織ほどこの点が明確でないので、なおさらことに臨んでのそれぞれの役割や責任が不明確になりがちである(形式的には判子で決まるが)。
 実はこの問題は英国でORが普及していく段階でもしばしば問題になっている。OR活動の起源ともいえるレーダー開発と防空システムの構築時、それに関わる防空科学委員会のメンバーは、ティザード、ブラケット、ワトソン・ワットなど高名な科学者達で、委員会は空軍省直轄だった。レーダーが最新技術ということもあり、その実用化に実戦部隊はこれら科学者達に全面的に指導を受けざるを得ない立場にあった。レーダーの信頼性を含む技術的課題と戦闘機軍団のかかえる戦略・戦術課題を科学者と軍人が情報を共有し、協力しながら解決していった。最後の断は軍人が下すものの、そこに上下関係は無かった。科学者が巡回して来ることによって確実にシステムの信頼性・精度は改善されていった。第一線は何処でも彼らの訪問を大歓迎したのである。
 この成功が種々の軍種、兵種に伝わり、方々からお声がかかるようになる。ORグループ(あるいはセクション;ORS)と呼ばれる組織が、陸軍の対空射撃部隊、海軍の船団護衛部隊や対潜哨戒部隊とこれに協力する空軍の沿岸防衛軍団、戦略爆撃を主務とする爆撃機軍団、海外派遣軍(地中海・中東軍や東南アジア軍)などに設けられていく。それは組織の最高レベルに止まらず、下位の組織にも波及する。当然要員は社会的地位や名のある者ばかりでなくなり、若い研究者や技術者が多数を占めざるを得なくなる。どんな資格・地位で処遇するか?どんな情報まで与えるか?ORが直接関わらない作戦会議に参加させるか?これらは司令官・指揮官の考え一つで変わっていき、その結果ORの貢献度や評価が変わってくるのである。
 滞英研究中触れた著書の一つに「The Effect of Science on the Second World War」があり、その一章(第6章)に“Birth of a New Science : Operational Research”がある。この中で当時爆撃機軍団ORSの若手メンバー、後に米国に渡り理論物理学・宇宙物理学で名を成すフリーマン・ダイソンが往時を振り返り「当時の爆撃機軍団ではORSの平服組は軍団長の意に副うように答えを出すことが原則だった。この組織はあまりに作戦の基本に挑戦する決断力を欠いていた。(中略)軍団長は人間的には愛すべき人だったし、責任感も強かったが、前科学的軍人であった」と語っている。軍団長は後に元帥に叙せられるアーサー・ハリスである。ORの活用に関しては前出の空軍公史でも爆撃機軍団は他軍団に比較して“不十分だった”とされているが(ハリスはこの公史の中でORに最大の賛辞を与えている!)、その理由は戦略爆撃が敵地内の作戦であるためデータ・情報(事前・事後)の量・精度に制約が多いことを上げている。爆撃機軍団ORSメンバーの中にタイソンと同様の不満を語る記述が他の著書や文献にも散見されが、特に目に付くのが“軍事情報開示の制約”である。作戦課題の背景となる情報が十分伝わらず、苛立つ姿がそこにある。この軍団長とORSの関係こそOR適用限界の主因ではなかろうか。
 OR担当者は確かにスタッフで最終決断者ではない。しかし、決断課題の背景や関連情報を共有化する環境が、その効力を最大限に発揮する場を作り上げてゆくことになる。わが国企業組織にこのような環境を如何に醸成できるか?これが私の研究課題である。

2009年5月5日火曜日

今月の本棚-8(3月、4月)

 On my bookshelf-8
 ここのところOR起源調査のため原書に取り組んでいるので読書が進まない。2ヶ月で読んだ本は以下の5冊である(これ以外に同一筆者(日本人)によるミステリー(と称する)を2編読んでいるが、自分で購入した本ではないし、評を残すほどのものではないので割愛する。
<今月読んだ本(3、4月合併)>
1)ヴェルサイユ条約(牧野雅彦):中央公論新社(新書)
2)砂漠の狐を狩れ(スティーヴン・プレスフィールド):新潮社(文庫)
3)ダブリナーズ(ジェイムス・ジョイス):新潮社(文庫)
4)モスクワ攻防1941(ロドリック・ブレースウェート):白水社
5)ポール・フレールの世界:カーグラフィック(別冊)

<愚評昧説>
1)ヴェルサイユ条約
 2月の本欄でご紹介した「ワイマル共和国」同様、ORの起源と深く関わるナチス政権誕生の背景理解のために読んだ本である。1月末出版でたまたま目にしたこともあり購入した。前書が主としてドイツ国内の政治情勢が主題だったのに対しこの本は第一次世界大戦参戦国の国内事情(特に終戦処理を巡るウィルソン大統領と他国のリーダーたち)とドイツ側で講和に深く関わった政治学者マックス・ウェバーの言動に主眼が置かれている。
 あの戦争でドイツが課せられることになる過酷な条約締結の裏側は、ドイツ為政者に関する点ではほぼ前書の内容通りである。1918年3月~7月の西部戦線における大攻勢の失敗、厭戦気分の横溢、ブルガリアの降伏後急に講和を求めだす軍首脳。一方にウィルソンの講和提案があり、ボルシェビキ革命で戦線を離脱し単独講和を結んだソヴィエト政権と交わした講和条件(主として領土のみ)も睨みながら落としどころを探ることになる。ここには講和はあっても降伏は無い。ウィルソン提案とドイツの思惑はスタート時点では歩み寄りが可能なように見えた。このような背景から、講和を求めるドイツ政府の第一声は“全交戦国”に対してではなく単独にアメリカに対して行われる(10月3日)。これに対するアメリカ側の回答が10月8日に出されるが、独米双方の考え方の違いやウィルソン案に対するヨーロッパ連合国(仏英)の不同意などがあり、休戦条約が交わされるのは11月11日までかかってしまう。またアメリカ中間選挙での民主党の敗北はウィルソンの権力基盤を奪い、それ以降の条約交渉を複雑にしていく。ヴェルサイユ条約の発効は、最初のドイツの投げかけから1年3ヶ月後の1920年1月10日である。何故こんなに時間がかかったのか?これが本書の内容である。
 先ず“戦争責任”と“皇帝退位論”が初期の交渉段階で大きな問題となる。あの戦争の動機に他国を征服する意図は無かった。同盟の鎖の中で参戦することになってしまったと言う思いはドイツに強い。実はウィルソンもそれに近い考えであった。また専制君主ではなく立憲制を布いていた国で皇帝の責任をどこまで問えるのかも議論のあるところであった(それ以前の、プロシャにおけるビスマルク首相の力を見てもそれは否定できない)。戦争の敗戦国として、他国に対する覇権や一部領土の喪失、戦場復元の支払いはやむを得ないとしても、まさか一方的に責任を負わされ、想像を絶する賠償金を支払うことになるとはドイツばかりではなく連合国側にも当初は予想していない。何故それが誰もが予期せぬ方向に向かっていくか?
 それまでの戦争が君主の戦争であったのに対し、この戦争は国民国家の総力戦であった。君主や騎士階級が戦争の主役で無いだけに、戦後処理に国民感情は無視できない。少なくともウィルソンは穏やかな和平案を提示したし、英国のロイド・ジョージも当初は強硬案に批判的であったという。しかし主戦場となり膨大な戦死者を出したフランスのクレマンソーはドイツ解体に近い条約締結にこだわった。そうこうするうちに仏に劣らず大勢の戦死傷者出したことやUボート封鎖戦略で苦しんだ英国民の声が次第に高まり、ロイド・ジョージが変心することになる。ついにはウィルソンもこの二人の主張を受け入れざるを得なくなる。
マックス・ウェバーこの条約締結に至る種々の局面で、公式・非公式に“専門家(政治学者)”として発言しており、戦争責任や皇帝退位論ではドイツの主張に近いところにあった。これらの主張の中で変わらないのは「政治的決定は常に少数の者の冷静な頭脳によって行われるべき」と言うことである。これは英国側で賠償問題に関与した経済学者ケインズも言っていることで、衆愚化する現代の政治環境にも当てはまることであろう。その意味でナチスと言う狂気の集団はドイツ大衆のみならず、連合国大衆の意思の結果とも言える。
 「民主的な世界が理想社会なのか?」がこの本の読後感である。

(2)砂漠の狐を狩れ
 原題は“Killing Rommel(ロンメルを屠れ)”である。あの北アフリカ戦線で戦った“砂漠の鬼将軍、神出鬼没の前線指揮から“砂漠の狐”とあだ名されたロンメルを巡る戦争サスペンスである。もともと植民地治安軍の性格が強かった英陸軍は、この猛勇果敢な司令官に指揮された独アフリカ装甲軍に押し捲られる。アレクサンドリアそしてカイロに迫る“狐”に対してゲリラ戦法で挑んだのが英国陸軍の特殊長距離砂漠挺身隊、隊員たちは“砂漠の鼠”と呼ばれた。史実である。アメリカ製のTV番組が流行った一時期人気のあった「ラットパトロール」はこれをモデルにしたものだし、この小説もこの“鼠”達が主役である。
 陣頭指揮、最前線で戦うロンメルは幾度も危機的な状況に置かれるが、いつも奇跡的にそれらの難から逃れる。また激しい戦闘後の一時的な停戦で戦場の死者や負傷者の回収に当たる姿勢は、敵方からもその騎士道精神を賞賛される。チャーチルでさえそれを讃える談を発するので、いつの間にか英軍兵士の間に“不死身神話”が語られるようになる。「これではいけない!奴を殺せ!」これが一匹の鼠である主人公に下される命令である。
 この小説の面白さは史実を丹念に調べたその戦闘行動シーンにあることは確かだが、それ以上に興味を惹かれたのは、主人公の生い立ち(両親を早く亡くした没落上流階級、アイルランド系)やその階級の使命感を随所に織り込んでいる点である。パブリックスクール(ウインチェスター校)からオックスフォードに進んだ同窓のエリート達が率先して最前線に赴く中で、先輩後輩の間で何気なく交わされるような会話にも知的な好奇心がくすぐられる局面があったりする。そして一瞬それが戦争サスペンスであることを忘れさせるほどである。少し長くなるが、その一例を、パブリックスクールから大学を通じてのユダヤ人先輩(アフリカ戦線で再会する)が、大学時代に彼の人生の迷いをからかうシーンで語る言葉で紹介してみたい。「ユダヤ人の絶望は貧困から生じるもので、大金で癒すことが出来る。アイルランド人の絶望はちがう。なにものもアイルランド人の絶望をやわらげることはできない。アイルランド人の不満は、自分の境遇が原因ではない。それなら努力や幸運ですばらしいものにできるかもしれない。そうではなく、存在の理不尽さそのものに原因があるんだ。死さ!善意にあふれる造物主が何故われわれに生命を与えながら、その生命に期限をつけることができたのだろう?アイルランド人の絶望に治療法は無い!(中略)だからアイルランド人は名高い酔っ払いで、すばらしい詩人なんだ。(後略)」
 筆者は、元英領たったトリニダード・トバコ共和国出身、アメリカで大学教育を終え、さまざまな職を経て作家に転じた人である。解説によれば、史実を丁寧に追う歴史小説を得意とするようで、本書が戦争サスペンスとしては初めてとのことではあるが、登場人物、砂漠の自然、部隊編成、兵器、著名な戦闘シーンなど少し専門知識のある者にも調査・考証がしっかりしていることがわかる。構成・展開も飽きさせず一気に読み続けたくなる秀作であった。
 この本のもう一つの優れた点は訳者の力である。単に訳がうまいだけでなく、翻訳のための下準備がよく行き届いている。その一例は、この特殊部隊の隊員にニュージーランド人が多く居た背景説明(解説)で知った。それは当時の本国人に比べ、豪州人、ニュージーランド人は単独行動に強く、自動車運転ができる者の割合が高かったことにあるが、豪政府は個人として英軍に加わることを原則禁止していたが、ニュージーランドはその制約が無かったこととしている。ほかにも些細なことかもしれないが独軍の機甲部隊を“装甲”、英軍のそれは“機甲”と使い分けていることなども“さすが!”と感じた。
 次作が待たれる。

(3)ダブリナーズ
 20世紀を代表するアイルランド人作家、ジェームス・ジョイスの処女作(短編集)である。今までの日本語訳タイトルでは「ダブリン子」や「ダブリン市民」となっていた。本格的な文学者の本などまず読まない者が何故こんな本を読むことになったか?広告で目にした最新の文庫本だったことも大きいが、何と言ってもアイルランド人・アイルランド民族に対する特別な関心がこれを読ませたといっていい。英国でも米国でも長く二流市民の座におかれ、差別されてきた民族である。特にイギリス統治下(17世紀から1938年まで)では不在地主の貴族たちに過酷な年貢を課せられ生きることすら容易ではなかった。カソリックゆえに食い詰めて渡ったアメリカでも苦労してきた。JFケネディが大統領になったときは“初のカトリック教徒”と現オバマ大統領同様の衝撃を社会に与えた。第二次世界大戦では中立を宣言していたがナチスドイツを心情的に支持する者が多かったという。個人的に関心を持ったきっかけは1983年バークレーMBAコースに参加した際、英国からの参加者に「Englandか来たんですね?」と切り出したところ、不快気に「I’m from UK.United Kingdom!」と応えられたところから始まる。彼はアイリッシュの末裔(何代か前に英国籍になっているが)だったのである。このように鬱屈したアイルランド人気質はまた優れた文学者・作家を輩出している。ジョイスの他に、オスカー・ワイルド、イェイツ(ノ)、ベケット(ノ)、バーナード・ショウ(ノ)、古いところではガリバー旅行記を書いたスィフトなどがそれらである(ノ:ノーベル文学賞)。
 こんなこともあって、一度アイルランドに行ってみたいという気持ちを待ち続けていた(現在も)。2007年渡英した際、当初の計画では滞在中に出かけることを目論んでいたが、ヴィザのトラブルもあり行けず仕舞いに終わった。そこで目にしたのがこの本である。「せめて本の上でアイルランド訪問をしよう」と求めた。
 「ダブリナーズ」が出版されたのは1914年、およそ一世紀前ということになる。当時(それ以前)ジョイスがダブリンで体験したと思われる出来事を材料に15編の短編をまとめたものである。市民生活を宗教、独立運動、恋愛、子供と学校、仕事と職場など焦点を変えながら描いていく。無論観光案内ではないし、全編を貫くテーマがあるわけでもない。共通するのは何か重苦しいく暗い雰囲気である。多分当時のアイルランド人・ダブリン市民の気分はこんなものだったのだろう。彼の人生がヨーロッパ大陸を転々とするところからもこの国・この土地に対する愛憎半ばする思いであったと想像できる。読んで楽しい作品ではなかったが、アイルランドを理解する一助にはなったような気がする。
 ジョイスの作品は言葉遊びやパロディが多いので、翻訳は大変苦労が多いようである。この本の訳者、柳瀬尚紀氏は単なる翻訳者ではなく、ジョイス研究家である。いわばシェクスピア研究家の坪内逍遥が訳したハムレットと同じである。翻訳にはこの原作者の言葉遊びをさらに訳者が一ひねりする場面があり、これに気がつくかどうかがこの本を面白く読めるかどうかのカギでもある(評者はほとんど読後に解説で知った)。翻訳モノの奥の深さを知らされた次第である。

(4)モスクワ攻防1941  モスクワのシェレメチェボ国際空港(中心部から北西に約35km)から市内に向かう道は、やがてモスクワとレニングラード(現サンクトペテルブルク)を結ぶレニングラード街道に合流する。ここからさらに市内に近づくとこの街道とモスクワ大環状道路が交差する。この交差点の少し手前に戦車防杭を模した巨大なコンクリート製のモニュメントが在る。さらに行くと今では大型ショッピングセンターなどが出来ており、周辺には団地が現れ、市街へとつながっていく。2003年初めてロシアへ出張した時目にした忘れ難い光景である。第二次世界大戦時ドイツ軍はここまでモスクワに迫ったのである。
 独ソ戦の激戦地として先ず浮かぶのは、戦いの転換点となったスターリングラード(現ヴォルゴグラード)、篭城戦のレニングラード、大戦車戦で有名なクルスクなどであろう。意外と首都モスクワの戦いが映画などでクローズアップされる機会は無かった。事実終戦直後の「英雄都市」顕彰にもあずかっていない(1965年顕彰)。何故か?
 1941年6月22日ドイツのソ連侵攻作戦“バルバロッサ”は発動された。ここに至るまでソ連指導部にはその予兆を告げる情報が溢れていたにもかかわらず、スターリンは頑としてそれを信じようとしなかった。この年の5月それまでモロトフに委ねていた人民委員会議長(首相)の地位を自ら引き受け、党・国家両者の最高ポストに就いたスターリンのこの考えに、反論できる者は皆無だった。不意打ちを食らったソ連軍は、北・中央・南のいずれの戦線でも壊走する。モスクワを目指すのはフォン・ポックが指揮する中央軍集団;装甲師団9、自動車化師団6を含む50個師団は7月10日までにはベラルーシ全土を占領、モスクワに通じる要衝スモレンスク(モスクワから400Km)を攻略している。モスクワではレーニンの遺体疎開が密かに進められる。しかしスモレンスクはナポレオンもてこずった16世紀構築の強力な城壁に守られており、完全制圧に2ヶ月を要することになる。これはドイツ参謀本部の予想をはるかに超えもので、後のモスクワ攻防戦に効いてくる。それでもモスクワまで護衛戦闘機をつけることが可能になったドイツ空軍は昼夜にわたる都市爆撃を敢行する。
 スモレンスクの掃討、南部軍集団との戦線調整、整備・補給に2ヶ月を要した後、フォン・ポック司令官は9月16日モスクワ占領作戦を発する。タイフーン作戦である。三個装甲集団、78個師団、総計200万に近い兵力がモジャーイスク街道(この途上には古戦場ボロジノもあり、市内ではモスクワの銀座通りともいえるアルバート通りにつながる)、キエフ街道、ワルシャワ街道それにレニングラード街道からモスクワを目指して進撃、10月中旬ボロジノを落とす。もうモスクワは眼前である。初雪は10月8日、1812年より早かった。
 ウクライナと西ロシアの産炭地は既にドイツに押さえられ、発電所にも危機が迫る。空爆で破壊された窓からは寒風が容赦なく吹き込んでくる。
 これ以降4月までモスクワは耐えに耐えて危機を脱する。
 当初の大敗北の分析(赤軍とその指導者の経歴を含む)、侵攻直後のスターリンの自信喪失(開戦から2週間スターリンは茫然自失状態であったようだ。それ隠すためモスクワを英雄都市としなかったのではないかと筆者は推察している)とそらからの回復、東方からの予備軍の移送、民兵師団創設、非情な軍令、一般市民生活、工場の疎開、首都機能移動、空襲と防空施策、食料・燃料事情、両軍の戦術・戦闘などを聞き取りあるいは資料調査でまとめた臨場感溢れるノンフィクションである。やや難点と思われるのは、国家レベルの視点と個人からの聞取りとの結びつきに煩雑(話題の内容ばかりでなく、時間的な前後関係も含めて)なところがあり、読み物としての流れがスムーズでないことがあげられる。
 筆者は、ケンブリッジでロシア語とフランス語を専攻した英国の外交官であり、冷戦中は一等書記官としてモスクワに駐在し商務を担当、冷戦後88年から92年にかけて駐ソ大使を勤めた人である。それだけに調査研究はしっかりしたもので(引用参考資料の解説部分が相当量ある)このテーマの文献として後世に残るものであると確信する。また翻訳者もスラブ語専攻で旧在日ソ連大使館に勤務した経験を持つ人、年齢的にも大戦勃発時大学を卒業しているので当時の国際環境を正確に理解している様子が、訳注や訳者あとがきからうかがえる。
 “決断科学研究”の事例集としてもこの本にめぐり会えてよかった。

(5)ポール・フレールの世界 ポール・フレールは1917年生まれのベルギー人で、国際的(英・仏・蘭・西・独・伊語を流暢にはなし、読み書きできる)に著名なモータージャーナリストである。戦前ベルギーの大学を卒業その後南仏やベルギーで自動車関連の仕事についていたようだ。戦後はF1やルマンでレーサーとして活躍しながらジャーナリズムの世界に入っていく。F1ではベルギーグランプリ2位が最高だが、ルマンでは1960年フェラーリで優勝している。レース活動から引退したのが1963年、爾来モータージャーナリズムに専念し昨年2月逝去した。享年90歳。この本は「ジェントルマン・ドライバー、セレブレーテッド・ジャーナリスト」と賞賛されてきた、彼の未発表原稿を中心に構成された追悼集である。
 幼い時代の自動車に関する思い出、戦後初期に参戦したF1の世界、ポルシェやフェラーリとの関わり、優勝を含むルマン24時間レース、台頭する日本車、友人や夫人の回顧談などから構成されており、“近代ヨーロッパ文化の一翼を担ってきた自動車”を十二分に楽しむことが出来た。そこには“技術と経済”から見つめる自動車と全く異なる世界が存在する。
 彼の終の車(複数台所有)の一台に、軽量化のために空調やオーディオを外したホンダCR-Xがあり、日常的に好んで使っていた(何と!距離計は14万キロを超えている)という話は日本人として嬉しいことである。
志しがある会社で、志しがある人が開発した車は、志のある乗り手にはよく分かるという好例といえる。今や売れる車の生産に狂奔するわが国メーカーにそれはほとんど期待できない(志しが有る乗り手が少ないこと、志のある乗り手が育つ環境醸成(行政)が出来ていないことも問題だが)。