2009年7月26日日曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(13)

13.走馬灯の40年-2<SSS後の所有車-1> 鶴見に住んで川崎に通う生活、便利な住環境、建設プロジェクトで残業続き、では車が必要なこともほとんど無かった。1971年6月長男が生まれた。それでもさして車無しで不自由は感じなかった。しかし、1973年6月第二子(長女)が生まれる少し前から、住まいも保土ヶ谷と戸塚の間の社宅に移り、一方で大型のショッピングセンターが生活の基盤になりつつあった時代になると、さすがに車無しは著しく行動を制約されることが明らかだった。何を買うか?
 ホンダは1960年代中ごろF1参戦と4輪車生産に乗り出すのだが、当初大衆車は無くS500(のちに600、800とエンジン容量をアップ)と言う二座オープンのスポーツカーだった。当然一部のマニアには評価されたものの、普及は限られたものだった。満を持して1967年軽自動車のN-360を発表し、大ヒットさせる。空冷エンジンを横置きにしたFFで、小さな外形寸法にも関わらず、客室スペースを最大限に確保するコンセプトは、明らかに欧州で人気のあったBMC(オースチンなど英国の乗用車メーカーが合併して出来た会社)・ミニからの借り物である(事実当時のBMCも“模倣”と批判している)が、日本独自の車種であった軽自動車を一歩欧米のファミリーカーに近づけた先駆者と言える。しかし、エンジンが空冷であることはF1がそうであったように、この業界では少数派である。この空冷へのこだわりは、オートバイで成功した御大本田宗一郎によるもので、熱力学的には水冷に明らかに分があった。若い技術者たちは果敢にこれに挑戦、その結果1972年に実現したのが、N-360の後継車、水冷エンジンのホンダ・ライフ(現在同名のブランドがあるが全く別)である。ミニにはない4ドアタイプもあった。1973年連休この車を入手した。私にとって初めての軽自動車、FF(前輪駆動)そして新車である。
 子供二人の四人家族、実家へ出かける際や買い物に欠かせぬ我が家の足として重宝な車だったが、走りを楽しむ類のものではない。長距離ドライブと言っても房総半島や富士五湖辺りが適当なところだった。購入の翌年、第一次石油ショックが起こるが、燃費の良い軽自動車は家計への負担増をミニマムに抑えてくれた。
 ライフに乗って5年、1978年7月に第三子誕生が予定されていた。いくら子供とは言え軽自動車に3人は辛い。次の車は何にするか?この時代、大ヒットしたフォルクスワーゲン・ゴルフの影響で大衆車のFFシフトが始まっていたが、ホンダを除けば決して完成度は高くなかった。ホンダはライフの後あのCVCCエンジンで有名なシビックを発売していた。これは日米市場で好感を持って受け入れられていた。しかし、エンジンはともかく、寸詰まりのツーボックス・ハッチバック・スタイルがどうも気に入らない。そんな時、明らかにアメリカ市場で更なる飛躍を目論むアコードが1977年発売された。シビックよりワイドで流麗なクーペのようなハッチバック、エンジンの容量は1600cc、パワーに不足は無い。すっかりこの車に魅せられ、次女が生まれる少し前ベージュの新車を手に入れた。無論マニュアルである。
 この車で親子5人夏休みにはグランドツーリングを楽しんだ。何度かの箱根行き、外房や伊豆の海、赤倉に在った保養所へ出かけ、ここを拠点に親不知まで日本海に沿って走った旅、八ヶ岳を経て小海線沿いに信州を巡る旅、東北自動車道から磐梯朝日に抜け裏磐梯に泊まり数日を過ごし、帰途は会津若松から鬼怒川を経由して帰浜したこともある。富士山5合目の駐車場に停めて、初登頂したのもこの車だった。
 重心が低く、足回りが硬めに出来ているので、山岳地帯のワインディング・ロードでは安定性がよく、運転を大いに楽しんだ。ただ、軽自動車とはハンドルの重さがまるで違い、腕力が一段と求められたのは、あの時代(大衆車にパワーステアリングは標準装備ではなかった)だから仕方の無いことだが、当時の大型FFの欠陥と言えないことも無い。
 ホンダの目論見通りアメリカで大人気を博し、70年代終わりから80年代初めにかけて、渡米すると東でも西でも至る所で見かけた。ワシントン郊外に住むバークレーの友人もセカンドカーとしてこの車を持っていた(ファーストカーはリンカーン・コンチネンタル)。

 3人の子供の成長と重なる、思い出多きこの車に結局9年乗った。
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2009年7月19日日曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(12)

12.走馬灯の40年-1<アメリカを走る> 
 1969年5月連休明け、7年余にわたる和歌山工場勤務を解かれ、川崎工場拡張工事のために本社建設部に転勤した(9月には勤務地を川崎工場に移す)。同時にSSSを手放し、しばらく車無しの生活に入った。自動車に対する愛着・興味が失せたわけではなかったが、和歌山でのように日常的に楽しいドライブが出来る環境ではないと推察したからである。実家には駐車場が無かったし、都心では通勤に使うような時代でなくなりつつあった。建設プロジェクトに入れば時間的にも余裕がなくなる。それで特別不自由は感じ無かった。
 それでも長距離ドライブの機会があれば参加した。和歌山の寮仲間の一人、SKDさんが一足先中央研究所(埼玉)に転勤しており、二代目(この型式で日野は乗用車の生産をやめる)のコンテッサ(クーペ)を所有していたので、この年の秋同じ和歌山時代の寮仲間、NKGさんと3人で、研究所を基点に志賀高原→飯山→十日町→沼田→金精峠→日光→秩父を巡る山岳ドライブを楽しんだ。これが独身最後のグランドツーリングである。
 この年晩秋に見合いをし、1970年5月末に結婚した。当時の新婚旅行先は専ら国内、特に南九州がメッカだった。しかし、我々の場合は時間と費用の関係で軽井沢に数日宿泊しレンタカーで浅間、万座、志賀高原を回ることにした。おおよそのルートは前年秋のドライブで承知している道である。この計画は、図らずも結婚披露宴で知らされる爆弾宣言に対処するために絶妙のものであった。それは来賓の一人、本社技術部次長から発せられた「新郎を6月初旬から欧米に海外出張させる」と言うものであった!本人が全く知らない話である。披露宴のあとで直属の上司(課長)も「話は出ていたんたが、未だ固まっていなかったから、まさかここで発表されるとは思わなかったよ」と言うくらい唐突なものだった。近場で短期の旅行計画が幸いして、何とか出発までにパスポート取得が出来た。それに、これも初めての国際運転免許証も。
 6月10日、今では信じられないくらい大勢の人に見送られ、同僚のTKWさんと羽田を発ちNYに向かった。無論二人とも初めての海外である。アラスカのフェアバンクスで給油と入国審査、同日午後遅くケネディ空港に着いた。長期出張していた先輩が車で迎えに来ていてくれていた。マンハッタンへ向かう、複雑に入り組んだ大河のようなハイウェイを走りながら“自動車の国”アメリカを実感した。
 エクソンの研究・技術センター(ERE)はニュージャージーの田舎町に在る。車無しでは仕事にならない。初日(11日)にしたことは、レンタカーを借りることである。借りた車はオールズモビル(GMの一事業部だが今度の倒産で整理される)・カットラス。彼の国ではコンパクト・カーだが日本人の感覚では大型車。取り回しが大変と思ったが、道路整備の格段の良さ(当時)とオートマティックでパワーステアリングが相俟って、日本で運転したことの無かった、アメリカ車の扱いやすさを知った。
 一日EREで会議をした翌日はもう週末(アメリカは当時から土曜日は休み)。宿泊先のNJのモーテルで無為に過ごす手は無い。いきなりワシントンまで一泊旅行に出かけた。片道200マイル強、有料道路やフリーウェイを走って、3時頃には飛び込みで、後にニクソン盗聴事件で有名になるウォーターゲートの、ハワードジョンソン(モーテル・チェーン;現在はジョージタウン大学の施設に改築されている)にチェックイン。翌日アーリントン墓地やスミソニアンの航空宇宙博物館を見て、ボルティモア、フィラデルフィア経由でNJに帰り着いた。若さのなせる業と言える。
 その後一旦フランスに渡り、再びアメリカに戻り、ヒューストン郊外の製油所訪問をした。この時も空港で車を借り、工場訪問後の移動日、ジョンソン宇宙センターを見学して夕方の便でフェニックスへ飛ぶことになっていた。この宇宙センターから空港へ向かう途上、地元の高校生の運転する車と軽微な接触事故を起こした。現場検証の後、白バイに先導され、警察署に出向いて簡易裁判を受け、罰金を払い、やっとの思いでフライトに間に合ったのも、いまでは懐かしい想い出だ。もう時効だから明かしても良いだろう。
 フェニックスではGEのコンピューター工場訪問があったが、この時も車を借りた。工場訪問の翌日は土曜日、早朝モーテルで「これからグランドキャニオンへ行ってくるよ」と宿のオヤジに言うと、「楽しんでおいで!帰りは明日だね?」ときたので、「いや、今夜中には帰るよ」と答えると、「エッ!往復450マイルもあるんだぞ!」と信じられないという表情。
 朝早く出発したので、途中セドナという町のドライブインで朝食を摂っていた。赤茶けた荒野には珍しく、渓流(色は赤!)もあり緑の多い小さな町だった。そこへ白人のオジサンが寄ってきて「日本人か?これからどこへ行くのか?」と聞く。アリゾナの田舎ではまだ日本人は珍しかったのであろう。「Yes!グランドキャニオンへ」と答えると。「我が家に日本人の若者が寄宿している、今日は休日、彼は長い間日本人に会っていない。一緒に連れて行ってくれないか?」と言いながら名刺を差し出す。タイトルに“Builder”とある。どうやら大工さんらしい。この大工さんの息子(米空軍の管制官;この時は除隊して上智大学で勉学中)と件の日本人(航空自衛隊の管制官)が日本で同じ基地に居り、その関係でアメリカ永住権を取得するため、大工さんのところに寄宿していることが分かる。「ウェルカムだ!」と答えると、一旦自宅に戻り、彼を伴ってやってきた。観光の帰途大工さんの家へ寄ると、夕日に映える赤い砂岩の山々が見渡せる豪邸であった。庭はあの赤い渓流につながっている。しばしここで寛いで、真っ暗闇の夜道を何時間も走ると、突然漆黒の中に宝石箱の輝きが現れた。フェニックスである。ダッジ(クライスラーの大衆ブランド車)・チャージャーで見事450マイルを一日で往復した。
 帰国はサンフランシスコ、ハワイ経由で7月3日、独立記念日の前日、ほぼ3週間、初の海外出張はアメリカドライブ旅行とも言えるものだった。
 その後も数えきれないほど渡米し、あちこちで運転した。
 面白い組み合わせのドライブ行は1983年10月バークレーの仲間、デンマーク人、英国人、日本人とイスラエル人(彼だけ運転しなかった)、4人で出かけたヨセミテ日帰り400マイルのドライブである。左ハンドルに慣れたデンマーク人と右ハンドルの国から来た英国人・日本人は交互に運転とナヴィゲータを務めるのだが、日英以外はしばらく息が合わず、ヒヤヒヤしどうしだった。早朝5時に出てろくな昼食も摂らず、夜9時帰還のタフなドライブだった。一昨年渡英した際、英国人の友人と四半世紀ぶりの再会を果たした時、往時を偲んで大笑いしたものである。
 最も長く走ったのも同じ年の11月で、バークレーのビジネススクールを終え、家内を呼んでソルトレークで車を借り(これもダッジ)→ザイアン国立公園→パウエル湖→モニュメントヴァレー→グランドキャニオン→フーバーダム→ラスヴェガスと回った、全行程1200マイルの西部の旅である。長大な長距離トラックと併走するインターステート・ハイウェイ、数十分間大平原の中で対向車も人も見かけない地方道、モニュメントヴァレーでの短時間集中豪雨とインディアン保護区内の学校への緊急退避、ヒッチハイクで主要道路(そこから長距離バスに乗ると言う)へ出る熟年のナヴァホ・インディアン夫婦を乗せたことなど、想い出多き旅だった。ラスヴェガスではナット・キング・コールの娘、ナタリー・コールのショウを楽しんで、このグランドツーリングの仕上げをした。
 この時は最後にハワイで数日過ごし、ここでもレンタカーを借りたが、これが最初で(多分)最後の日本車、トヨタ・コルサは貧相・非力な小型車だった。アメリカにはやはりアメ車が似合う。時代にそぐわず、GMやクライスラーが窮地にあるのは残念だ(フォードの車をアメリカで運転した記憶が無い)。
 こんなアメリカでのドライブを楽しんでいた時思ったことは、リタイアしたらキャンピングカーで大陸横断をしてみたいと言うことだった。しかし、今では見果てぬ夢である。
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2009年7月15日水曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(11)

11.東からの紀伊半島-2 翌日は朝から晴れていた。良いドライブ日和である。この日のルートはチョッと思案した。リアス式の複雑に曲折する、英虞湾沿いの道を行くか、あるいはこの地の幹線道路である42号線を行くかである。この時代、なかなか地方道の整備状態は分からなかった。また英虞湾沿いには大きな町も無く、もし故障したらどう対処するかも不安だった。遠回りになるが42号線を行くことにした。賢島から一旦北上し、松坂まで戻りそこから42号線に乗るルートである。紀伊半島の西側でも一部在ったものの、東側はアップダウンの激しい山の中をかなり長い距離走る。SSSにとっては本領発揮の舞台だ。概ね舗装をされてはいるものの適度に荒れていて、山岳ドライブを楽しみながら紀伊長島に至る。ここで海岸沿いに来る260号線と合流、ここからは紀勢線とほぼ併走しながら、海岸沿いを尾鷲に達する。難所はここから熊野の間にあった。鉄道は海岸近くを走り続けるが、42号線は山越えになる。山の中腹まで順調に来たが、交通規制が行われていた。すでに何台かの車が止まっている。聞けばこの先の新設道路開削のため発破をかけるので、2時間通行止めとのこと。発破をかけた後の道は、ゆっくり走れる程度には均されているものの、現在ならとても実用になるような状態ではない。何とか熊野を経て新宮に辿り着いた。これで自分のドライブによる42号線が完全につながったことになる(と今度のドライブまで思っていた)。
 当初の予定では新宮近辺で観光する予定だったが、交通止めのロスタイムもあり、熊野川に沿う街道を三度目(最初はバス、二度目はコンテッサでこの年の春)の遡行に移る。前回(43年春)と大きな違いは無いが、さすがに晩秋、紅葉が美しい。夕暮れ迫る頃、狭い谷合に佇む湯の峯温泉に到着、7年前実習の帰途投宿した“あづまや”にチェックインした。どんな部屋に泊まったか、どんな夕食だったか、全く記憶していない。しかし、あの木造りの風呂場にただ一人、どっぷり浸かったことだけは鮮明に憶えている。すっかりこの風呂場が気に入ってしまった。
 翌朝も晴天。この日のルートは初めて走る道である。湯の峯から中辺路を経て田辺に至る311号線。この道はいにしえから続く熊野古道と併走する。道は砂利で固めただけ、大部分は一車線しかない。片側は山、反対側は谷である。宿を出発してしばらくすると、向こうからバスがやってきた。退避場所までこちらがバックして行き交う。見ると国鉄バスだった。どこから来てどこまで行くのだろう?遍路の一つ、中辺路の出発点は紀伊田辺の港だから、多分出発点は紀伊田辺、終点は熊野本宮に違いない。SSSはその道を逆行していく。あのバス以来ほとんど行き交う車は無い。中辺路町はそれでも役場や学校などがあり、ガソリンスタンドまであった。町に入る手前で、明るい秋の西日に映える黄葉した大きな銀杏にハッとさせられた。この銀杏も紀伊半島を思い出すたび目に浮かぶ。しばらく下ると田辺への道になり、そこから42号線を初島に至る道は通い慣れたる道である。

次に紀伊半島を巡るドライブは今年の5月まで無かった。
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2009年7月14日火曜日

決断科学ノート-13(政治家の決断)

 “決断科学”の由来は、このノートを始めるに際して紹介した。“Decision Science”の日本語訳である。通常“意思決定科学”と訳されることが多いが、リーダー(政治家、軍人、経営者など)の意思決定には冷徹な判断を伴い、断固実施する強さが必要なので、あえて“決断”とした。自分でも吃驚しているのだが、最近はメディアでこの字を目にしない日は無い。特に昨年の麻生政権誕生以降、異常に多い。しかし、わが国の国政を見る限りそれは“決断”ではなく、専ら“合意形成”である。結果、このための探り合いに時間をとられて、とうとう衆議院解散は当初の予定より1年近く経ってしまった。賞味期限の切れた“お待たせ解散”の結果は如何に?
 軍事や経営に比べ、政治の決断は“合意形成”の度合いが高い。これこそ政治そのものだと言っても良い。また、軍事はともかく、経営でもわが国では全般的に決断の前提としての“合意形成”が重要で“根回し”が欠かせない。“合意形成”重視の国民性の上に乗る、政治と言う“合意形成”の場のリーダーの、容易ならざる立場に同情すら感じてしまう。
 小泉政治の人気も誹謗も、このわが国伝統の合意形成ベースの意思決定に逆らい、個人としての人気に基盤を置いて、一人(無論ブレーンはいるが)で事を断じて行ったところに在ったと言っていい。小泉内閣の最盛時、ある自民党長老政治家が「日本の総理は大統領ではない」とあの独断専行ともいえる政治姿勢に苦言を呈していたが、反対者には刺客を送ってまで潰していく独特の政治スタイルは、政策の是非はともかく、リーダーとして頼もしくさえ感じた。これが大方の国民の思いだったのではなかろうか?彼にそれが出来たのは、一匹狼・奇人変人と言われながら、地方代議員を含む選挙で大勝したことによる。   ここには旧来の長老や派閥による政治力学が効かなかった。

 経験(年功)は貴重な意思決定の因子である反面、変化に対する抵抗が強い。長期間政治家でいることは既得権を守る側に回る。その既得権も支援者や派閥絡みのもので、リーダーの一存では如何ともし難い。既得権で自縄自縛になっているのが今日の有力政治家の姿である。当然見せたくないものがあり、意思決定のプロセスを外から分かり難いものにしていく。数理の出番など全く期待できない(官僚の既得権保持・拡大のために審議会などでは巧みに数字が引用される。また、ゲーム理論やそれを発展させたドラマ理論などは、交渉のテクニックとして存在するが国政の場でどの程度利用されているのか不明)。
 しかし、最近の地方選挙を見ていると、驚くほど政治経験の浅い若者が首長などに選ばれている。今度の都議選でも民主党は素人だらけ、同党の落選議員は比較的ベテランである。この若者たちは、おそらく政策決定にしがらみは少なく、そのプロセスの透明度を上げても醜いものが出てくることはなかろう。合意形成に選挙民の参加感がより高まり、サイレント・マイノリティの一票が生きてくる選択と感じているのではなかろうか。
 ただ、要注意は半ばプロフェッショナル化した政治NPO・NGOが彼ら(彼女ら)を取り巻いており、新たな権益獲得を虎視眈々と狙っている。この点の監視を怠らないことが肝要である。下手をすると今の自・公連立のように“少数決(公明党の意見)”で政治が振り回されることになる。これでは新しい政治を期待した選択も旧に復してしまう。

2009年7月13日月曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(10)

10.東からの紀伊半島-1 SSSを入手して間もなく、昭和43年11月23日、名古屋で末妹の結婚式があった。我々の家族は関東住まいだったが、連れ合いとなる男性は名古屋の出身であったためこうなった。SSSロング・ドライブの最初の機会である。22日通いなれた、紀ノ川沿いの道で五条経由天理に出て、そこから名阪自動車道で亀山→四日市を経て、夕刻名古屋のホテルにチェックイン、ここで一族と合流し、家族水入らずの夕食を楽しんだ。
 23日の結婚式は夕方からだった。プロ野球もシーズンオフ。中日ドラゴンスの新宅と言うキャッチャーの結婚式も同じ所で行われ、当時監督だった水原茂氏をロビーで間近に見たのが、つい先日だったような気がする。式場が隣接する二組の結婚式は、こちらも知事などに列席いただいたが、野球選手の方が随分賑やかだった。新郎新婦は式が終わると神戸へと発った。
 翌朝両親らと朝食を摂った後、紀伊半島を東から回るドライブに出発した。宿泊先は既に予約してあり、志摩に一泊、湯の峯に一泊である。一般的なルートなら、亀山まで来た道を戻り、伊勢志摩へ出て、あとは42号線を半島の外縁に沿って走り、新宮から熊野川を遡ることになる。しかし、これでは42号線の東側以外あまり楽しみが無いような気がした。特に前半志摩までが面白くない。そこで国道1号線を一旦東に走り、豊橋で渥美半島へ出るコースを設定した。豊橋からは259号線で半島の先端、伊良湖岬に至り、そこからフェリーで鳥羽に渡るルートである。渥美半島を東から伊良湖岬に向かう道は二本あり、三河湾沿いが259号、太平洋岸が42号である(これが42号であることは今回の旅で知った)。豊橋から入るには259号線のほうが近かったのでこれを選んだ。半島自身が平坦で、先に大きな町も無いのでほとんど印象に残らないドライブだった。このルートの期待している見所はフェリーの航路、やや伊良湖側の中間点に在る“神島”、三島由紀夫の「潮騒」の舞台である。今から丁度48年前、昭和36年に公開された映画では、若い漁師を久保明、若い海女を青山京子が演じていた(この原作は何度も映画化されており、その後浜田光男・吉永小百合、三浦友和・山口百恵などが同じ役を演じている)。健康な半裸体。あの瑞々しく初々しい恋の舞台はどんなところなのだろう?フェリーのアナウンスで知らされ、穏やかな伊勢湾の緑の島をぼんやり眺めながら、29歳の無粋な一人旅に寂しさを堪えるばかりであった。
 鳥羽からは一度伊勢に出て、それから志摩半島・賢島に向かった。今日の宿はあの“志摩観光ホテル”である。当時からわが国を代表するリゾートホテルとして有名であったこのホテルに泊まることが、この時のドライブ行の目的の一つだった。山崎豊子の「華麗なる一族」の冒頭シーン、神戸の銀行家が妻妾同席の新年を祝う場面はこのホテルがモデルだ。それまでに都内の一流ホテルで会食したことはあったが、これだけ格式のあるホテルに宿泊するのは初めての経験である。丁重なお迎えを受けて、かなり緊張したチェックインであった。
 英虞湾の先端に位置するこのホテルに着いたのは、未だ夕暮れまでには時間のある午後だった。部屋は西に面しており、落日が複雑に入り組んだ晩秋の入り江に映えて、美しい情景を作り出していた。
 夕食は、名物の鮑のステーキにした。白ワインと食したそれは忘れ難いものとなった。「必ずもう一度来よう」 それにしても、こんな素晴らしい時間ほど、独り身の無聊がひとしお強く感じることはなかった。

2009年7月8日水曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(9)

9.本格派二代目
 昭和43年から44年にかけては和歌山工場拡張の最盛期(第二製油所の建設計画があり大規模な埋め立てが行われていたが、石油ショック到来でその計画も中断。爾来和歌山工場ではこの時の規模を上回るプラント建設は行われていない)、しかもコンピューターが続々と導入された。責任ある立場を与えられ、充実した毎日であった。ベースアップ、長時間残業それに頻繁な出張。経済的に、独り者には十分な生活だった。尤もこの頃には同期入社の大部分が結婚しており、それへの備えも必要だったのだが・・・。
 東燃(と言うよりわが国製油所)初の実用DDCシステムを間接脱硫装置群に導入、スタートアップを無事終えた10月、念願だった本格的スポーツカー;ダットサン・ブルーバードSSS(スーパー・スポーツ・セダン;スリーエス)に乗り換えた。コンテッサは購入来大きなトラブルも起こさず、健気に長距離ドライブをこなしてきたが何せ非力だった。昭和41年製のSSSは、中古車だったがエンジンは1600cc(90馬力)、コンテッサの倍の能力である。このグラマラスな高性能車にすっかり魅了されてしまった。
 日産は41年8月プリンスと合併し、サーキットはスカイライン2000GTとフェアレディに、ラリーはこのSSSにと言う使い分けをしていた。当に三桁の国道向けの車と言えた。
 日産のラリーの歴史は古い。工学部機械科の学生が中心に活動していた、学生自動車工学研究会(通称;学自研)と言う組織が在ったことは前に触れた。各校の学自研は学連を構成し、大学3年の時その委員をやっていた。その2年前、つまり1958年ダットサンがオーストラリアで開催されたサザンクロス・ラリーで優勝し、当時大きな話題になった。学連委員が集まった一夕、日産の社員で東大学自研OB、このラリーでドライバーを務めた大谷さんと言う方の話を聞いたことがある。一流大学出のエンジニアがレーシングドライバーになるなど当時は考えられない時代だったから、“運転もエンジニアリングの内”との話に大変感銘を受けた。その時の車はダットサン210である。
 石原裕次郎主演の映画「栄光の5000キロ」は、当時世界の三大ラリーの一つサファリ・ラリーが舞台である(その他はモンテカルロラリーとRACラリー;英国ラリー)。ここで1966年(昭和41年)ダットサン410がクラス優勝している。私が43年に手に入れたブルーバードSSSはこの410なのだ!デザインはあのイタリアの名匠ピニンファリーナ、今までの日本車には無いシックな佇まいだった。無論レース仕様車は各部に手を加えてあり、市販品とは全く違うが外見は同じである。気分だけはラリードライバーである。自動車を持つ喜びの一つがこの“気分”に浸ることなのだ。
 この車では、次回紹介する紀伊半島ドライブ以外にも、難路・酷路に苦楽を供にしている。43年末の帰省では、富士で東名を下りて富士五湖から道志みち(山中湖から津久井湖に抜ける;当時はほとんど未舗装)をわざわざ走り、八王子に出て松戸まで帰った。
 昭和44年3月、統合潤滑油装置の稼動後、有り余る休暇を消化するために、白馬でのスキーを兼ねて高山→松本→白馬→糸魚川→能登半島→金沢→白川郷→岐阜のコースで一人旅のグランドツーリングを計画した。高山から松本へ至る北アルプス越えの道は、連休前で安房峠の除雪が出来ておらず、急遽コースを変更して、神通川沿いに富山を経由糸魚川から大糸線に沿う糸魚川街道で白馬に至ろうとした。しかし根知で雪に阻まれ、根知駅にこの車を託して、白馬へは大糸線で行きスキーを楽しみ、その後残りの予定コースを走破した。この時は酷い道ばかり走ったので、能登半島の能都町でショックアブゾーバーをやられてしまい、修理・交換を余儀なくされた。
 最後の大旅行は、本社転勤を前に連休実施した、四国・山陽・山陰ドライブである。そのルートは、和歌山から徳島にフェリーで渡り、吉野川を遡行し、大歩危・小歩危を通って高知市に至る。ここから海岸伝いを走る56号線をしばらく行って足摺岬に達する321号線に別れ、土佐清水→宿毛まできたところで、またしてもショックアブゾーバーがおかしくなり交換。宿毛で56号線に戻って宇和島→大洲→松山に達した。三桁の道はほとんど未舗装の上アップダウンが凄くカーブだらけだった。松山からフェリーで柳井に渡り、秋芳洞→萩→出雲を経て中国山地を縦断して尾道→福山へ出る。ここから再度フェリーで四国・多度津に渡って高松→徳島に至りフェリーで和歌山に戻った。室戸岬方面を除けばほぼ四国の外周は回ったことになる。この時は職場の同僚と二人旅であったが、運転は全コース一人だった。

 この連休明け、7年にわたる長い和歌山生活に別れを告げるとともに、この車を同期のIWZ君に譲った。
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2009年7月5日日曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(8)

8.貴婦人と巡った紀伊半島-2
 大台ケ原へ出かけたのは昭和42年の秋である。寮の仲間と語らっているうちに話がまとまり急遽日帰りで出かけることになった。途中までのルート(初島→和歌山→24号線→橿原)は走ったことがあったが、そこから先は未知である。早朝出発、24号線から169号線に入り吉野を過ぎる、そこから大台ケ原ドライブウェイ(ただの山道)を延々と走り、木々に囲まれた平坦地をならしただけの駐車場に着いたのは1時過ぎである。前夜寮のおばさんに作ってもらったおにぎりの昼食もそこそこに、ところどころ風倒木で迂回するような険しいハイキングルートを歩き、幾重もの山並みの遥か先に熊野灘を見晴かす断崖、大蛇嵓(だいじゃぐら)まで辿り着いたのは2時を回っていた。寮に帰り着いたのは深夜、この時ほど紀伊半島の“深さ”を感じたことはなかった。
 この大台ケ原は、現在自然保護のため厳しい入山規制が敷かれている(平日30人、休日50人)が当時特別な制限は無かったように思う。
 この年のもう一つの思い出は、鈴鹿サーキットへ“鈴鹿1000キロ”を観戦に出かけたことだ。当時最も長距離を走るエキサイティングなレースである。和歌山→五条→天理と24号を走り25号線に入って亀山に向かう。この25号線はもうこの時自動車専用道路になっていた(現在の名阪自動車道)。
 ルマン式スタート(ドライバーがコースの反対側からパドック前に並べられた自車に向かって走り、エンジンをかけてスタートする)、甲高い排気音を発しながら疾走する、ポルシェ・カレラ、トヨタS2000、スカイライン2000GTBなどのレーシングカーを初めて目にしたのも此処である。本格的なカーレースの迫力に酔いしれた一日だった。
 熊野街道・十津川街道を走破したのは、昭和43年春の職場(建設部設計2課)レクリエーションの時である。秋のスタートアップを控えてプラント建設真っ盛り、特に実質的には日本初といっていいDDC(Direct Digital Control;コンピューターで直接プラント操作機器を制御する)を採用し、このシステム導入の担当者として多忙な毎日を過ごしていた。ビジネスマンとして、エンジニアとして、当に竹の一節とも言える年であった。
 この時のレクリエーションは、モータリゼーションもかなり進み車がベース。ルートは、初島をスタートして、42号線を串本まで下り潮岬で一休み、宿泊目的地は海中露天風呂で有名な紀伊勝浦の「浦島」である。天気もよく全線舗装で快適なグループ走行を楽しんだ。翌朝は来た道を戻るグループと新宮から熊野川を逆行、熊野本宮を詣でて十津川村を経由して五条から紀ノ川沿いに和歌山へ向かうグループに分かれた。
 新宮から本宮手前までは昭和36年の夏休み学友MNとバスで旅した道である。7年前未舗装だったところも経済成長のお陰で良い道に変じている。本宮参りはこの時が初めて。有名な割には極めて質素で、いかにも古さ(崇神天皇;紀元前29年)を偲ばせている(無論こんな紀元前のものとは思っていなかったが、実は今回出かけて知ったのだが、この神社は明治22年までは熊野川の中洲に在ったものが、大水(明治以降の森林乱伐が因らしい)で流され、それ以降ここに再建されたことを知った。)。この権現のお使いは日本サッカー協会のマークになっている八咫烏(やたがらす)である。
 ここからしばらくは舗装されていたが、十津川村の前後かなりの範囲は橋を除けばほとんど未舗装、いかにも貧しい山奥の佇まいが続く。都落ちした公家・武人が再起を期して身を隠すには格好の場所とも言える。維新に一足早すぎた攘夷派「天誅組」が逃げ込んだのもこの地である。

 三桁の国道を走る楽しみを存分に教えてくれた、この貴婦人とのお付き合いもその年の秋終わる。

2009年7月3日金曜日

今月の本棚-10(6月)

<今月読んだ本(6月)>
1)ナチが愛した二重スパイ(ベン・マッキンタイアー);白水社
2)数学者のアタマの中(D.ルエール);岩波書店
3)ワルキューレ(スティ・ダレヤー);原書房
4)エトロフ発緊急電(佐々木譲);新潮社
5)ストックホルムの密使(上、下)(佐々木譲);新潮社

<愚評昧説>
1)ナチが愛した二重スパイ  “事実は小説より奇なり”と言う言葉があるが、この本は当にその通りのストーリーが展開するノンフィクションである。筆者は(ロンドン)タイムズのベテラン記者(ワシントン支局長、パリ支局長などを経てノンフィクションライターへ)。最近公開された政府公文書などを基に書かれたものである。
 主人公、チャップマンは金庫破りなどを生業とする生来の犯罪者。ノルマンディー半島に近接する、英領チャネル諸島のジャージー島で追い詰められ、逮捕・収監される。やがてこの島がドイツのフランス侵攻でナチスの支配下に入り、チャップマンはスパイを志願することで、監獄から逃れることを策す。当初は相手にされない話が実現するのは、ドイツの諜報組織が英国にスパイ網を全く作り上げておらず、英軍事情報を渇望していたことによる。信じがたいことだが、英国側(MI-5)も同じでドイツの要部に迫る効果的な情報収集組織を持たぬまま大戦に入っている。
 ドイツ国防軍諜報部(カナリス機関;アプヴェーア)にリクルートされるまでの厳しい査問、スパイとしての訓練を通して、彼のケースオフィサー(管理者)、シュテファン・グラウフマン(グレーニング)との間に生ずる友情・信頼関係。1942年12月16日夜、密命を帯びたチャップマンは、偵察機から英国に落下傘降下する。彼の本意は二重スパイとなることを条件に犯罪者としての履歴を消してもらうことにある。降下後直ちに英諜報機関に連絡を要請するが、田舎の警察は「世迷言を言わず、早く家に帰れ」とまるで相手にしてくれない。それでも何とかMI-5への道がつながり、ここでも厳しい査問を受ける。
 子を成した女性との再会、飛行機工場の偽装爆破、ポルトガルを経てのフランス再潜入、ゲシュタポによる取調べ、ノールウェーでのグレーニングとの再会と新たな訓練、レジスタンスに繋がる新たな愛人、再度の英国潜入、と息をもつがせぬ展開は一流のスパイフィクション顔負けである(ジョン・ル・カレも賛辞を寄せている)。
 チャップマンが、この戦争で英国にもたらした情報は、かけがえの無いものが多い。戦後まで無事生き延びた彼は、この活動を基に得た金で一時は羽振りの良い暮らしをするが、養老院のようなところで最後を迎える。
 二重スパイなどと言う役割は、誰にでも演じられるようなものではない。貧しい労働者階級に生まれ、犯罪者になっていくが、ここでも仲間よりは一段優れ、巧みに逮捕・拘留を免れている。機転の利く頭の良さ、ある種の商才(スパイをビジネスとしてしまう)、人に愛される人柄(人に対する好き嫌いがはっきりしているが)、フランス語やドイツ語をものにできる語学の才能、女性をひきつける容姿などがこれを可能にしたと言える。
 OR歴史研究の視点から、当時のドイツがどのような英軍事情報を求めていたかを知ることが出来た点で貴重な資料である。

2)数学者のアタマの中
 私の卒論の指導教授は、機械工学の出身であったが工学博士ではなく理学博士(数学)であることが自慢であった。2年の時の担当必須科目、工業数学は最も難解な科目で、良い成績で単位を取得するなど論外、追試を受けるより可でも良いから一発で取れ!これが先輩からのアドヴァイスであった。純粋数学→応用数学→工学と言う流れからすれば、また彼の専攻が制御工学と言う進歩・変化の早い(機械式から電子式へ、アナログからデジタルへの転換期であった)分野であったこともあり、真っ当なことを必須科目として教えていたのであろうが、当時の学生の大半は何故こんな数学を!?の感が強かった。この本を読んで、彼が教えていたn次元に広がる集合論や写像の概念が、当時(そして今でも発展する)の現代純粋数学の先端にあったことを、今になって知った。
 星霜50年、数理を企業経営に適用する仕事に携わり、応用数学とは近いところで過ごしてきたが、現代純粋数学とは無縁だった。岩波が出すにしては些か面白い題名に引かれて購入した。
 この本を読むと最先端の純粋数学が、一方で細分化された微小部分に向かい、他方にその細分化を統合する体系作りに向かっていることや、それぞれの細部があるとき見方を変えると同じことになることなどがわかってくる。ばらばらのように見える世界が壮大な一つの宇宙を形作るには、それなりの発想と世界観(哲学)が必要だし、それを他者に分からせるには工夫がいる。また、それ故数学の理論に寿命がある。そんなことを筆者の身近なところ(例えば数理物理学の研究者など)や有名人の逸話(ニュートンやアインシュタインに自閉症の気味があったなど)から説いていく。
 最先端ゆえに、理解できる人も少なく、果たしてゴールにたどり着けるかどうか分からないこの学問に何故人は取り憑かれ、何を遣り甲斐として取り組むのか?それは問題が解けたときの解の形の美しさと、名誉にあると言う。だから筆者はコンピューターを使って力ずくで解く手法を評価しないが、それでも検証などへの利用価値はそれなりに認めている。
 歴史的に見れば、このような、当時は個人的な好奇心に動かされた純粋数学者の研究が、やがて応用科学に役立ってきた例は枚挙に暇が無い。恩師もそんな思いで、我々にあの難解な数学の講義をしていたのであろう。
 普段敬遠しがちな分野に、最後まで興味を持って読み続けることが出来、久々に新知識を得たと言う満足感に浸れた。

3)ワルキューレ -ヒトラー暗殺の二日間-  敗勢続く1944年7月19日から20日にわたって行われたヒトラー暗殺計画実施とその時の軍部・政府の混乱を描いた、事実を基にしたフィクションである。題名の“ワルキューレ”は暗殺完了後の行動計画の秘匿名。
 期間は二日間。主人公は二人、ヒトラーと暗殺計画の実行犯、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐。舞台は東プロシャの市街地から隔絶した森林に在った総統大本営、ヴォルフスシャンツェ(狼の砦)とドイツ国防軍国内軍総司令部の在ったベルリン・ベンドラー街の二ヶ所。本書の構成は二部構成。小説と言うよりは演劇の脚本仕立てのようである。
 第一部は、ヒトラーの際立ったリーダーシップに惹かれていた国防軍の軍人たちが、戦いの進展とともにナチスとヒトラーに幻滅し、やがてクーデター計画のネットワークが出来上がっていく様子を、クラウスの心のうちを覗いながら描いていく。“何としても彼を暗殺しなければならない!それを実行するのは自分しかいない!と決意するプロセスである。対比する形で、幼い時代からヒトラーの歪んだ考え方が形成され過程を、ウィーン、第一次大戦の戦場、ミュンヘン、ベルクホーフ山荘での思い出を辿り、現在の苦境が国防軍の不甲斐なさにあると妄信し、難局を救えるのは自分しかいないが、どうこれを解決すべきなのか、出口の見えない問題に眠れぬ夜を送る孤独な独裁者の姿をあぶりだす。
 第二部は第一部に比べると極めて即物的である。暗殺計画実施の朝からのクラウスの行動、「爆殺成れり」というクラウスの一報と総統大本営からの「総統は無事」の報が錯綜するベルリンにおける、関係者の行動を描いている。態度を決めかねる者、次の段階に猛進する者、状況変化を見て寝返る者、リーダーたちの醜い保身争いが始まり、クーデター派は追い込まれていく。
 クラウスほか3人の首謀者は、当初同志のようなそぶりを見せた国内軍司令官によって銃殺され、ヒトラーはこの奇跡(軽傷であった)を敗勢挽回の好機と捉える。
 シュタウフェンベルク大佐によるヒトラー暗殺は史実で、今までに書籍や映画(目下上映中のではなく)でも知っていたが、ベルリンを中心に繰り広げられたワルキューレ行動計画がこれほど大規模で、一時首都を震撼させるような出来事であったことは、この本によって初めて知った。またフィクションではあるが、登場人物の人柄に今までと異なるイメージも多々あり、その点でも新鮮であった。
 些細なことではあるが、翻訳にやや不満が残る。原著はデンマーク語で書かれ、翻訳者もデンマーク語の専門家(4名、いずれも女性)が当たっているが、この時代の歴史や軍事にあまり精通していないようだ。例えばソ連・赤軍のトハチェフスキー元帥を“ツチャツェフスキー”、自走砲(戦車と似ているが、砲塔が回転しない)を自動推進式大砲と訳したり、また大砲を“門”でなく“発”と表現しているところなど興醒めである。この他にもヒトラーの言葉遣いが妙に丁寧だったりするのも読んでいて気にかかる。原書房は軍事関係の得意な出版社、その点では訳者よりも編集者がこれらの誤りに気付かなければいけない。出版社の質の問題ともいえる。

4)エトロフ発緊急電
5)ストックホルムの密使(上、下)

 同一筆者によるシリーズ物で、第一作「ベルリン飛行指令」と併せて三部作になる。作者の佐々木譲は目下「警官」物で売れっ子だが、この三部作がそれまでの代表作といえる。第一作の「ベルリン飛行指令」を読んだとき、第二次世界大戦を、日本人をテーマに描いた軍事冒険小説でこれだけ面白い小説を書ける人はいないと思った。期待通り、二作目の「エトロフ発緊急電」では山本周五郎賞を受賞している。
 「ベルリン飛行指令」は日本が参戦前、英独航空戦で航続距離の短い独戦闘機の欠陥を改善する手本として、ドイツがゼロ戦の派遣を依頼してくる。長躯日本からドイツまで、英国の支配地を避けて、2機のゼロ戦を輸送する話。
 そして第二作「エトロフ発緊急電」は脛に傷持つ日系米人が米国諜報機関にリクルートされ、真珠湾攻撃準備中の海軍情報を基にその集結予定地、エトロフ島単冠(ヒトカップ)湾に潜入し、「機動部隊抜錨」を無電連絡する。このエトロフ行きを追う憲兵との追跡劇が推理小説仕掛けで面白い。
 第三作「ストックホルムの密使」は、中立国スウェーデン駐在海軍武官とパリ在住の不良日本人が主役となる終戦工作秘話で、ヤルタ会談やポツダム会談の中味をいち早くつかんだ武官が暗号電を送るのだが、官僚機構の中で握りつぶされる気配を感じ、この在外不良日本人に飛脚を依頼し、ロシア・満州を経て東京まで帰り着く冒険談である。
 いずれの作品も時代考証や軍事技術に精通した筆者ならではの作品であった。最近は警官物のヒットで、第二次世界大戦から離れてしまったのが残念である。