2010年7月24日土曜日

奥の細道ドライブ紀行-6(角館)

 川沿いの駐車場は、町の北西に位置する。武家屋敷は東側に南北に長く連なり、お土産物屋や食事をする所は概ね南側を東西に延びている。インターネットで調べ、予定した昼食場所は、この観光長方形エリアの更に外、駐車場とは対角線の南東に位置する。小降りの雨の中を、町の土地勘をつかむため、徒歩でそこへ向かった。武家屋敷通りと並行する一筋西側の道を歩いているのだが、平日のこんな天気でも、観光客や遠足の生徒が多い。なかなか人気のあるところなのだ。
 訪ねる所は「むら咲」という秋田郷土料理の店である。街の賑わいとはチョッと離れた場所に在り、地味な店構えで好ましい。中に入ると普通の食堂と変わらない。妙に民芸調でないのが更に良い。先客は、背広を着た土地のサラリーマンと思しき人が座敷に三人だけ。代表的なメニューは、きりたんぽ鍋、比内地鶏焼などだが、これらは今夜乳頭温泉で出る可能性があるし、昼食にはやや重い感がする。そこで「武家飯」というのを試みることにした。これは昔の武家の食事を模したもので、一汁四菜から成り、たんぱく質は鯉の甘露煮だけ、あとはとんぶりや旬菜など地場の野菜の煮物やお浸し、漬物などである。味付けは、甘露煮を除けば全体に淡白で、ご飯の量が抑えられるのは、現代風なのかもしれない。どれほど当時を反映しているのか分からないが、面白い経験だった。値段は1500円である。
 昼食の後は本日のメインエベント、武家屋敷巡りである。ここ角館は秋田藩の支藩(藩主の弟の系統)なので、それほど大きな城下町ではない。町がつくられたのは1620年。武家屋敷のエリア(内町)はほぼ当時のままのプロットで残っている(個々の家は改修されたり、建替えられたりしているが)。
 内町中央を南北に貫く(中央部で僅かにクランク状なるが)、よく景観保全された通りがメインストリートで、鬱蒼とした木立が通りに覆いかぶさるように茂っている。その両側(特に東側)に数軒の武家屋敷が残り、公開されている。それぞれの家には家格があるので、規模は大小だが、敷地の広さがたっぷりあり、町並みに品がある。
 一軒を除き、屋外を巡って見学するのだが、戸・障子は全て開け放たれているので、おおよその部屋の配置や室内の様子をつかむことが出来、往時の武家の生活ぶりを偲ぶことが出来る。“質素”“静謐”“侘び”など言う言葉が相応しい、日々の暮らしであったに違いない。
 城下町の風情を一部に残す町々は、全国いたるところにあるが、概ね都市化の波に洗われ、全体的な雰囲気は映画のセットのような景観である。しかし、幸いここは地方の小都市、商業主義が来る前に規制が加えられたのであろう、その時代を充分味わうことができ、今回の旅の主役は期待通りの役割を果たしてくれた。
 秋田新幹線の開通は、首都圏からこの町への観光を飛躍的に容易にしている。町の発展には極めて望ましいことだが、“都会の喧騒”が無縁であることを願って止まない。
 このあと樺細工工芸館を観て、駐車場近くの土産物屋で、コーヒーと生もろこしで出来た菓子を味わい、3時20分乳頭温泉ヘ向かいエンジンをスタートさせた。
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2010年7月18日日曜日

遠い国・近い人-9(十字路の男-3;トルコ)

 二日目の観光は前日が中心部だったこともあり、主に周辺部を周ることになっていた。ボスポラス海峡の最峡部(約700m)に在る要塞、ルメリ・ヒサールは、1453年のオスマントルコによるコンスタンチノープル攻略の要となったところで、必見の歴史的な場所。ここからは海峡を跨ぐ釣橋も間近に見えるという。また、途上にあるドルマバフチェ宮殿も欠かせない。何度も外敵侵入を阻んできた町を囲む城塞、ローマ時代の水道なども見所だ。ツアーの最後は市中に戻って、二つのバザール(グラン、エジプト)を訪問する。昼食はルメリ・ヒサール近くのレストランでシーフードが用意されている。
 ブルハンさんは出発前のブリーフィングで、今日の予定を説明してくれてから、「何か希望はありませんか?」と聞いてきた。「時間に余裕があれば、イスタンブール郊外の市民が住んでいる所を見てみたいんだが…」と言うと、一瞬怪訝な表情をしてから「それでは昼食までの時間、海峡を更に北に進み、黒海が見える所まで行きましょう。その辺には漁村もあります。昼食後は要塞近くの第二ボスポラス大橋を渡り、対岸のアナトリア(小アジア)へ出て、歌で世界的に知られた、ウシュクダルの町を通り、夏宮を見て、市中に直結する第一大橋を通って町へ戻ることにします」とこちらの希望を入れてくれた。
 早朝のドルマバフチェ宮殿は清清しい雰囲気の中に在った。19世紀に出来た比較的新しい宮殿だが、この国の近代化に欠かせない場所である。ここでその推進の中心人物であったケマル・パシャ(ケマル・アタチュルク)が生涯を終えた場所なのだ。小学生が団体で見学に来ており、私に「コンニチハ」と語りかけてくれた。親日的な国なのである。
 オスマントルコの歴史から見れば、暮明ともいえる時代に建てられたのだが、豪華絢爛を極めた建物の内外に圧倒される。金銀がふんだんに使われているのも然ることながら、大ホールの絨緞は一枚物、多数の織姫たちが長時間かけて織り上げたもので、現代では製作不能だと言う。昔日の彼の国の栄華を充分実感できる素晴らしい宮殿であった。
 次に訪れたのはルメリ・ヒサール要塞。海峡の向かいのアナドゥル・ヒサール要塞と連携して、海峡を通るジェノバ海軍の艦船を攻撃し、黒海沿岸のローマ植民地との往来を絶ち、コンスタンチノープル陥落に重要な役目を果たした所である。今は、直ぐ近くを長大な釣橋が架かり、その下を大型タンカーや軍艦が行き来している。海峡側に傾斜した、眺望のいい周辺の土地は高級住宅地や別荘地となっている。豪壮な邸宅を見る限りはるかに我々より豊かだ。
 私の意を汲んで車は更に北上する。後方に第二大橋が見える辺りまではレストランなども在ったが、やがて道の舗装が粗くなり、家々の造りも低層でレンガ造りの粗末なものに変わってくる。30分くらい走った所で急に広々した海原に達した。黒海である。零細な漁村で子供たちが舟の上で遊んでいた。嬉しいことに表情は明るい。
 昼食後、第二大橋を渡ってアジア側に入る。こちら側も海峡を望む土地は一等地で、立派な家々がゆったりした敷地に建っている。しかし内陸に進むに従って、急速に道路の両側に未完成とも思えるバラックが増え、埃っぽい感じがしてくる。ブルハンさんはここでイスタンブールの都市問題について語り始めた。「ここに在る建物は全て不法に建てられたものです。住民は国の東に住んでいた零細農民たちで、地方では食べていけないためイスタンブールにやってきたのです。しかし海峡の西側は広い空き地がないため、ここで流れが押し止められているのです」「不法ゆえ水道・電気も無く、不衛生で危険な場所になっています」「これが、イスタンブールが抱える最大の社会問題です」
 このあと第一大橋直下、海峡に面する夏宮とも呼ばれるベイレルベイ宮殿を見学した。ドルマバフチェ宮殿に比べれば至って小規模だが、様式は同じで、庭園が素晴らしかった。大帝国であった往時の豊かさと現代の貧しさが並存する姿は、この国が国際社会で苦悶する様子を象徴しているとも言える。
 ホテルに戻りツアーの精算をした。この人のお陰で短い滞在を目一杯楽しんだとの思いから、幾ばくかのチップをドルで渡そうとしたが、どうしても受け取らなかった(あとでよく考えてみると、個人ガイド費の中に含まれていたのではないかと思う)。「代わりにひとつお願いがあります。北星堂(だったと思うが)と言う出版社から発刊されているローマ字版の英和・和英辞書があります。それを贈っていただければ大変嬉しいのですが…」 帰国してそれを探し、送り届けた。(トルコ完)
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2010年7月13日火曜日

奥の細道ドライブ紀行-5(角館へ)

 5月13日、朝起きると昨夜の雨は上がっていない。今日も雨中走行になりそうだ。朝食にロビーへ降りると、結構人の動きがある。昨日チェックインした時はフロントも手持ち無沙汰、駐車場もどこでもとめられる状態だった。夜は飲み屋(魚民)になっていた所が食堂で、そこも混雑している。駅近くのビジネスホテルからだろう、ほとんどはビジネスマンだ。ここ酒田は、観光よりは産業なのだとあらためて知らされる。
 8時半にチェックアウト。カーナビで角館観光情報センターを目標に“有料道路”を外してルートチェックする。海岸沿いの国道7号線を北上、本荘で内陸に向かう105号線に入り、大曲を経て角館街道を走るルートを選んでくる。これで良いのだ。角館までの予定走行距離は約170km、計画段階で示された所要時間は5時間弱。距離に比べると時間がかかり過ぎる気がしたが、今回のカーナビでは約4時間となり納得。
 酒田市街を出ると雨も小降りになり、間欠ワイパーで充分になる。7号線の海側に厚みのある防砂林が続き、そこから陸側には広々した水田が広がっている。畦の間隔が長く生産性が高そうだ。本間家の歴史的遺産が、今につながっていることが見てとれる。
 秋田との県境に近い吹浦(ふくら)は、東側を走るバイパスでかわすのだがその後のカーナビの動きがおかしい。本線と合流して一本に戻るはずが、二本の並行路が残ったまま、実際には曇天の暗い海が見えているのに、その山側を走っているように表示し、やがて動かなくなってしまった。仕方が無いので一旦車を停めて目的地を再設定して、正常に戻した。いまもってこの時の誤動作の原因はわかっていない。
 羽後本荘から内陸に向かう国道105号線に入る。秋田県中央部を東西に横切る道だから、交通量も人家も少ない山道を想像していたが、小集落や町が断続的に現れる。高低も少なく、関東平野の準幹線道路を走るのと大きな違いはない。チョッと期待外れだ。
 最初の休憩は大内の道の駅でとった。ここは観光客も立寄ることも想定し、トイレや休憩施設の建屋もあるものの、客は全くいなかった。賑わっているのは、地元の人が利用する食品市場や集会場の方なのだ。駅と言うよりコミュニティ・センターと言ったところである。雨も止んで明るくなり、時間の余裕もあったので、周辺を歩いてみると、何と道の駅の裏に鉄道の駅が在った!羽越本線の羽後岩谷(うごいわや)駅である。今や道路の駅のほうが遥かに存在感がある。これも時代の流れなのだ。
 大曲(大仙市)まで来ると中小都市の感を呈してきて、景観が安っぽくゴチャゴチャしてくる。観光地を走るという気分は全くしないし、地方都市らしい特色も無い。ただ何となく活気があるのが救いだ。ここを過ぎると105号線が<角館街道>と呼ばれるようになり、道にもやや落ち着きが戻る。ゴールも間近だ。やがて道がカーナビ上で鉄道と並走するようになると間もなく、踏切を渡ってUターンする感じで駅横の駐車場が見つかった。目指す観光情報センターはその駐車場に隣接して在った。
 この案内所で聞くと、武家屋敷は街中なのでここからはまだかなり距離のあること、長時間駐車場はさらにその先の檜木内(ひのきない)川沿いに市営駐車場が在ることを教えてくれ、良く出来た観光案内図に、観光スポットと駐車場への道筋を書き込んでくれた。 駐車場への到着時間は12時少し前、自宅から酒田経由でここまでの距離は703kmだった。再び雨が降り始めていた。(写真はダブルクリックすると拡大します

2010年7月9日金曜日

遠い国・近い人-8(十字路の男-2;トルコ)

 初日の観光は市内観光が中心。先ず訪れたのはブルーモスク。ここは観光スポットであると伴に教徒の日常の礼拝の場でもある。靴を脱いで内部に入ると、そこかしこで人々がひざまずいてお祈りをしている。女性は皆ヒジャブと呼ばれるスカーフで頭部を覆っている。ブルハンさんによると、身分や性別により祈りの場所が決められているとのこと。このモスクの歴史、構造など丁寧に説明してくれる。初めてのイスラム国家への旅の緊張が彼のお陰で次第に解けていくのがわかる。
 その後は、東ローマ帝国時代の教会をオスマントルコ治下モスクに大改築した、アヤソフィア(写真)、厳重に守られた宝剣を盗む映画「トプカピ」で有名になったトプカプ宮殿を観て、太古来勇者が行き交ったボスポラス海峡を望む宮殿テラスで昼食となった。 
 半日の付き合いで、少し癖のある日本語にも慣れ、美味しいトルコ産白ワインの軽い酔いもあって(彼は宗教上の理由で飲んでいないが)、お互いの家族や仕事に話が及んでいった。それによると、彼は30過ぎだがまだ独身。これはインフレが激しく、生活基盤の安定しない、今のトルコの都市生活者では珍しいことではないとのこと。イスタンブール大学で機械工学を学んだが、良い仕事は無く、一応友人と空調設備工事の会社を経営しているが、これだけでは食べていけず、この地で日本語を学び、ガイドの仕事で稼いでいるのだと言う。「何と言っても、ドルはインフレヘッジになりますからね」と。このツアーの契約は全てドルの現金払い、どうやら彼もそのおこぼれに与れるらしい。
 私も嘗て機械工学を学び、石油企業に入って長くエンジニアとしてやってきたことを話すと、「日本の技術は素晴らしい!出来れば日本企業で働きたい。私の日本語で働けるだろうか?」と聞いてくる。「日本語は問題ないが、この地に日本企業の工場があるのかい?」と問うと、「トヨタの進出が決まっており、既に工場建設が始まっています」との答え。まだ何か言いたそうだったが、ランチタイムはここで終わった。
 午後は、あの「ハーレム」、007「ロシアより愛をこめて」で有名になった地下宮殿(巨大貯水槽)、アガサ・クリスティの定宿「ペラ・パラス」(ボーイに館内を案内してもらった;クリスティやグレダ・ガルボのよく利用した部屋には銘板が貼り付けてあった;このホテルは近く取り壊されることが決まっていた)、数々の映画・小説に登場するオリエント急行のターミナル駅、アレキサンダー大王の棺(本物?)の納まる考古学博物館などを見学。夜はこじんまりしたレストランシアター(写真)で民族舞踊などを楽しんだ。何と言っても圧巻は、エジプト人のベリーダンスだった。
 どこでもブルハンさんは、遠来の友人に対するように丁寧に日本語で説明したりアドバイスしてくれたので、観光ガイドを雇ったという感じがしなかった。
 初日のスケジュール全てが終わり、ホテルのロービーで別れるとき、遠慮しがちに、「日本企業に就職したいのは本気です。トヨタに知り合いの人はいませんか?」と聞いてくる。大学を出てから必死で、学んだことを生かせる、職探しをしているのだろう。全く知人がいないわけではないが、それほど親しくもないし、情報技術の専門家である。「残念ながらトヨタにはいないなー」と返事をせざるを得なかった。「いいんです。チョッとお尋ねしただけです。ありがとうございます」とさびしげな笑顔で礼を言うと去っていった。(つづく)
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2010年7月4日日曜日

今月の本棚-22(2010年6月)

<今月読んだ本(6月)>1)日本人へ リーダー篇(塩野七生);文芸春秋社(新書)
2)エニグマ奇襲指令(マイケル。バー=ゾウハー);早川書房(文庫)
3)グーグル秘録(ケン・オーレッタ);文芸春秋社
4)傭兵チーム、極北の地へ(上、下)(ジェイムス・スティール);早川書房(文庫)

<愚評昧説>
1)日本人へ リーダー篇  著者が文藝春秋(月刊)に連載している社会時評を単行本にしたもの。連載時期が2003年6月号~06年9月号なので話題がやや古いものの、その比較対象をローマ史に置き、リーダー(主として政治家)の在るべき姿を論じているので、決して時期を失している感じはしない。
 いまやわが国は衰退の著についている。こんな時こそ優れたリーダーが望まれるのだが、それが叶わない。何故なのか?どうすべきなのか?上の人材に問題があるのか?それを支え育てる基盤に問題があるのか?ローマ史のみならず、大英帝国やパックス・アメリカーナも援用しつつ、題材を変え、角度を変えてこれを論じていく。
 “決断科学工房”は、経営リーダーの意思決定環境とプロセスを分析し、より論理的(数理的)な要素に重きが置かれる意思決定の方策を模索しているのだが、政治・経営に関わらず、リーダーに関する共通課題が多々あることがわかってきた。残りの時間は少なく、前途遼遠である。
 この本を読んでいる時、鳩山首相が辞任した。OR(数理)出身宰相として個人的に期待していたが、ものの見事に裏切られた。あれだけ首相として資質の無い人が選ばれてしまうのは、本人以上に国民の政治意識・リーダー選択に問題があるように思えてならない。

2)エニグマ奇襲指令 エニグマはギリシャ語で“謎”。第二次世界大戦中ナチス・ドイツが保有した暗号機である。操作部はタイプライター形式だが、複雑な歯車の組合せを変えることに依り、暗号の解読は不能と言われていた。
 V-1ロケット攻撃そして実戦化間近いV-2の脅威を取り除くには、その作戦発動の暗号傍受と解読が不可欠と考えた英陸軍情報部(M-6)は、エニグマ奪取の作戦を計画する。起用されたのは親子二代にわたる知能犯罪者(殺人・傷害を行わない)の息子。成功の暁には罪を免ずる条件で、彼をフランスに潜入させ、駐仏ドイツ軍のエニグマを一台、それと気付かれずに盗み出すのだ。これを嗅ぎ付け阻止するために、本国からパリに派遣されるドイツ情報部の大佐。さらにゲシュタポが絡む。
 これだけで仕掛けが終わらないのがゾウハーである。ヒトラー暗殺計画をたくらむグループには国防軍情報長官、カナリス提督も含まれており、この計画にもエニグマが必要なのだ。さらにM-6 の中にドイツに通じる二重スパイがいるようだ。この複雑な仕組みを、ゾウハーは読者を混乱させることも無く、舞台の中にどっぷり浸らせてくれる。そして、例によって最後の最後にどんでん返しである。しかもこのどんでん返しで、エニグマ奪取の実話との違いをも解決してしまう。
 超一流の軍事スリラー作家の見事な作品だ!

3)グーグル秘録  この5年くらい、何か分からない言葉に遭遇したり、少し深く調べモノをしたい時には、専ら“グーグル検索”を利用している。調査対象によっては日本語だけでなく、英語の情報も簡単に収集できる。今や百科事典の類は不要である。最近は検索だけでなく“グーグル・ドキュメント”と名付けられたワープロ機能を使って、ブログ原稿を書くことも始めている。何処に在るのか分からないサーバーに文書が保管され、バックアップの必要も無く、どんな場所からもそれ等の文書にアクセスでききて便利だ。個人ベースのクラウド・コンピューティングである。また、孫が来ると、ユーチューブにアクセスして、TV番組や投稿動画の中から童謡をクリックして楽しんだりしている。これらはすべて無料である。
 最近、株式時価総額がマイクロソフトを抜いたことや中国の検閲をきらって撤退したことが世界的に大きなニュースにもなった。
 マスメディア(広告・宣伝、TV、新聞、出版)への影響は甚大で、広告収入や発行部数の激減が経営を揺るがせ、著作権問題や独占禁止法絡みの係争事件があとを絶たない。それでも電子出版や携帯電話への進出など、グーグルの勢いは止まらない。新聞王マードックも、嘗てのITの覇者マイクロソフトも、防戦一方である。グーグルの真の狙いは何か?
 この会社は、二人のスタンフォード大学院生、ラリー・ペイジ、サーゲイ(セルゲイ)・プリン(二人とも1973年生れ)によって1998年立ち上げられた、典型的なガレージ企業である。ラリーはユダヤ系アメリカ人、サーゲイは両親と伴に冷戦後移民してきたユダヤ系ロシア人である。二人が出会うのは学部教育(ラリーはミシガン大、サーゲイはメリーランド大)を終えて、スタンフォードのコンピュータ・サイエンス学科に進んだときである。少年時代からコンピュータオタクであった二人は意気投合、協力して今日につながる、“人工知能技術”を用いた検索エンジンの研究を行っていく(ビジネスを始めてもしばらくの間はスタンフォード大学のコンピュータネットワークを利用)。すでにヤフーを始め検索サイトは存在していたが、彼等の技法は桁違いに早く、使い勝手も良かったので、一気にシェアーを伸ばしていく。
 急成長するベンチャー企業の弱点は経営にある。そこに登場するのが2001年からCEOを務めることになるエリック・シュミット(1955年生れ)である。彼はバークレーでコンピュータ・サイエンスを学び、サンマイクロなどを経て、当時はネットワーク・ソフト企業、ノベルのCEOだった。年上で社会経験も豊富な経営者、かつIT技術者のバックグランドのあるシュミットの入社は、“オタクのディズニーランド”をユニークな大企業に変えていく。
 それにしても、“優れたエンジニア”にとって夢のような会社だ。全米の俊英が競って集まり、自己実現と業績拡大が一体となって進んでいく姿は、エンジニアを大事にしないわが国では望むべくも無い。
 筆者は雑誌「ニューヨーカー」のベテラン記者、2006年からこのプロジェクトに取り組み、グーグルではトップを含む150人の社員にインタビュー、ライバルや関連企業のトップからも取材して本書を纏め上げている。ITの進歩の中で「ディジタル革命の震源地である会社、その台頭ぶりが“新たな”メディアの“古い”メディアを破壊する様を浮き彫りにするような会社。それを通じて、メディアの行く末を多少なりとも示したい」と言う意図が充分伝わってくる労作である。

4)傭兵チーム、極北の地へ
 グレアム・グリーン(第三の男)、イアン・フレミング(007シリーズ)、ジョン・ル・カレ(寒い国から帰ってきたスパイ)、アリスティア・マクリーン(女王陛下のユリシーズ)、ジャック・ヒギンス(鷲は舞い降りた)ケン・フォレット(針の眼)、フレデリック・フォーサイス(ジャッカルの日)。英国は伝統的に軍事サスペンス・冒険小説に優れた作家を輩出してきた。しかし、ここのところこれら大家に匹敵する若手が現れない。しかし、ヒョッとすると本書の著者、ジェイムス・スティールはこの伝統を継ぐ大物になるかもしれない。
 舞台は近未来のロシア。プーチン・メドヴェージェフ政権後、嘗てのソヴィエト再現を目論み、独裁的権力を着々と固める新大統領は、西欧へのエネルギー供給、特に天然ガスを絞ることにより、パワーゲームのイニシアティヴをとろうとする。英国は著しいエネルギー不足を来たし、5時からの電力供給は止めざるを得ない状況に陥る。解決は政変による新しいリーダーの出現しか期待できない。それに適う人物は、極北のシベリアにある強制収容所に収監されている。アフリカやバルカンの紛争で活躍した一騎当千のメンバーで、傭兵チームが構成され、救出・奪取作戦が厳寒の12月実施される(原題は;December)。その作戦は成否にかかわらず、表面上国家は全く関与しないことになっている。上巻はこの救出活動、下巻は救出後モスクワにおけるクーデターの進捗が中心となる。次第に劣勢となる民主派、ここでも最後の予期せぬ出来事で逆転する。
 この小説の面白さは、ロシアを巡る史実を敷衍しているところにある。強制収容所はスターリン時代、エネルギー供給はウクライナへの政治的圧力、クーデター場面はゴルバチョフからエリツィンへの政変などがそれに当たる。著者がオックスフォードで歴史学を専攻し、その後高校でそれを教授していたことが確り反映し、説得力のあるストーリ展開を実現しているのだ。
 個人的には2003年来何度もロシアを訪れ、モスクワ(よく知った通りや建物;例えばKGB本部などが出てくる)のみならず真冬の極寒の地も体験しているので、身体でもこの小説を楽しむことが出来た。これは始めての経験である。
 この傭兵チームでシリーズ物を期待したい。