2010年10月28日木曜日

決断科学ノート-48(トップの意思決定と情報-8;経営者と情報システム部門-3)

 NKHさんの副社長は社長含みだった。経営システム(経営会議の創設など)は彼のイニシアティヴで大幅に変わっていった。その一つとして、副社長直轄であった情報システム室は情報システム部となり技術担当取締役の主管となった。それまでとは違い担当役員が部屋にやってくるようになったが、何となく役割が軽くなったような気がしないでもなかった。この役員は若手課長時代、LP導入には大活躍しその後も製油部長や工場長を経験した人なのだが、この時にはIT活用に関して、もう往時の情熱を維持してはいなかったからだ。それに対して副社長はこの分野に一方ならず関心が高かった。
 この時期部門の大変革をもたらすいくつかの動きが始まっている。一つは本社の大幅な業務合理化とそれに伴う、情報装備の一新プロジェクト。それと1983年に始めた技術子会社におけるシステム技術の外販をきっかけとした、情報サービス子会社設立の検討である。
 販売を持たない特殊な会社ゆえ、工場の情報化は業界でも先頭を走っていたものの、本社は必ずしもそうではなかった。OAブーム到来の中で、その環境改善要望の声が本社スタッフの中で高まっていた。表計算ソフトを組み込んだ特殊なPC(SORD)やスダンドアローン型のワープロ(TOSWORD)などの導入でお茶を濁していたものの、とても全社的な業務革新につながるものではなかった。本社システムの難しさは、定型的な数値処理中心の工場システムとは違い、文書(それも日本語)を扱うところにあった。当時のIBMはこの日本語処理で著しい遅れがあり、これを国産機に置き換える必要が出てきた。それが実現したのは1983年の晩秋である(このメインフレーム入れ替えプロジェクトについては本ノートで別途報告予定)。
 この新しい機械をベースに本社事務業務改革を支援するプロジェクトとしてTIGER-Ⅱ計画が立ち上がった。これは失敗に終わった経営者情報システム、TIGERの名誉回復(失敗を糊塗する?)を込めて名付けられたものである。今度のシステムは役員が直接使うシステムではなく、役員に情報提供するスタッフ業務に焦点を当てたものになった。結論から言えばこれが正解であった。役員とそれを支えるスタッフ、そのスタッフと一心同体でシステム開発を行う部員の間に、密なコミュニケーションの場が醸成され、使い物になるシステムが出来上がったのである。
 プロジェクトは大掛かりなもので、相当数のシステム開発要員を集め、育成する必要があった。また事務系のSEが始めてIBM以外のコンピューターと本格的に取り組む機会を作った。一方で全工場共通の次世代プロセス・コンピュータ(TCS;Tonen Control System)導入は山を越し、1983年春から外販ビジネスに着手していた。TIGER-Ⅱはまだ開発途上にあったものの、完成後の人材活用を考慮して、事務系を含めた外販ビジネスを新規事業として立ち上げる話が、1984年になると副社長周辺から出てくる。
 1985年7月、大部分の情報システム部員は新会社、システムプラザ(SPIN)に移り、本社機構は情報システム関連業務の全社的企画推進を主体とする、少人数のシステム計画部として生まれ変わることになったのである。軍隊で言えば参謀本部機能を残し、実戦部隊は分社化したということである。この考え方はその後の情報サービス業務のアウトソーシングの流れなどから見て、決して間違ってはいなかったと思う。
 今企業内のIT利用に関して望まれていることは、自社の経営戦略・戦術に精通しかつ急速な進歩と広がり持つIT利用に関する知識を持つCIO(Chief Information Officer;必ずしもITの専門家ではない)、参謀としてそれを支える少数の、広い視野を持ち冷めた目で技術動向を見極められる部員の存在であろう。
 社長の一言から発したTIGER(経営者情報システム)の失敗は、企業経営・経営者・情報技術・情報システム部門に関してその後四半世紀にわたって、私を悩まし続け、叱咤し続けてくれた教科書と言える。
(経営者と情報システム部門:完)

2010年10月24日日曜日

遠い国・近い人-12(踊るプロフェッサー-3;ギリシャ)

 二日目が終わると会議も山場を越した感がある。翌日は最終日、主だった発表は昼食前で終わり、あとは学生たちのポスターセッションが中心となる。一日目の公式ディナーと異なり、この夜は会議が開催されたホテルを離れ、郊外のタベルナ(レストラン)へ皆で繰り込むプランになっている。プログラムの終了時間は7時半なので8時出発だ。ヨーロッパ人の感覚では宵の口と言ったところだろう。皆カジュアルに着替えて、バスに乗り込んでゆく。チラッと姿を見かけたジョージは、会議中のスーツ姿とは違い、袖のゆったりした民族衣装のシャツを着ている。
 何台も連なるバスが辿り着いたのは、道路沿いの大きなドライブインといった感じの場所である。周りにはそれ以外何もなく、そこだけが明るい。建物内部は装飾がほとんどなく、円形や四角いテーブルは白い安手のテーブルクロスで覆われているだけで、殺風景な雰囲気である。それでも皆の気分は今夜の楽しみに高揚しているので、やがて室内は熱気に包まれていった。参加者が席に着くとジョージが「今夜はギリシャスタイルのディナーを楽しんでほしい」と挨拶をして、無礼講?のパーティーが始まった。
 テーブルに運び込まれるギリシャワインやビール、数々のシーフードや羊料理。しかし、皆が楽しむのはそれ以上におしゃべりだ。席は特に指定がなく、適当に座ったので私の周辺は学生が多く、隣に座ったのはデンマーク人の女子学生とトルコ人の学者夫妻だった。何を話したのか憶えていないが、若い人達は日本人と話したことはないらしく、好奇心を持ってしきりとこちらに話しかけてくる。
 そんな喧騒の中に、突然音楽が奏でられた。みると、いつの間に来たのか5,6人編成のバンドが会場の一隅に席を占め演奏しているのだ。リズムやメロディーの感じは、有名なギリシャを舞台にした映画「日曜はダメよ」の主題歌に似ている。ブンチャカブンチャカとリズムに切れがあるので皆が手拍子を打ち始める。やがてギリシャ人たちがバンドの前に小さなスペースをつくり輪になって踊りだす。そこへジョージも加わっていった。手をつないだり、チョッとステップを変える程度の簡単なフォークダンスなので、知らなくても何とかなるような踊りであるが、さすがにジョージの踊りは見事で、拍手が沸く。するとジョージが親しい人間に、踊りに加われと声をかける。
 踊りの輪は次第に大きくなり、柱を囲みテーブルを取り込んで広がっていく。いつの間にか同じテーブル仲間に誘われ私のその輪に加わっていた。
 この音楽と踊りで、学会参加者の気持ちが一つになり、その雰囲気をホテルまで持ち帰り、ロビーの一角で、深更まで飲みかつ語る輪があちこちに出来上がった。
 短い滞在ではあったが、ギリシャとギリシャ人に親近感をおぼえるようになったのは、日ごろは理屈っぽい感じがしていたジョージの別の一面が、それをもたらしたことに間違いはない。
 ジョージはその後、一時期MIT教授のまま三菱化学のCTOになり、化成・油化の合併により誕生した会社の技術・研究政策整理・策定に深く関わっていた。現在は終身教授の資格を得ているので依然MIT教授として活躍中である。
(完)
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2010年10月16日土曜日

決断科学ノート-47(トップの意思決定と情報-7;経営者と情報システム部門-2)

 担当役員(副社長)と情報システム部門の日常的なコミュニケーションが薄かったからと言って、役員がコンピュータに無関心であった訳ではない。むしろ関係はそれぞれの立場で、当時のわが国企業人としては極めて深かったと言っていい。切っ掛けは、資本・技術提携していたExxon・Mobilからのグループ内利用情報や米国出張・留学で間近に見知った活用事例である。
 初代の情報システム部門(機械計算室)主管役員は副社長のMTYさん。TIGER(経営者情報システム)はこの人のあだ名に由来する。本人がコンピュータと直接関わることは無かったが、このポジションに着く前に、コンピュータ施策に関し難しい決断を行っている。それはグループ初のプロセスコンピュータ導入に関するものである。
 昭和41年、当時プラント運転制御用コンピュータはグループのいずれの工場にも導入されていなかった。丁度和歌山工場大規模拡張工事OG-1プロジェクトと石油化学の中心装置第二スチームクラッカーの建設が終わり、両工場は次のステップとしてそれら新設プラントでコンピュータ最適化制御計画を立ち上げていた。和歌山ではナフサ改質装置(HF)、石油化学ではナフサ分解装置(SC)がその対象だった。
 グループ初のコンピュータ・コントロールを二つ併走するにはあまりにもリスクが多い。一つに絞りそれを成功させてから次に移る、というのが経営陣や本社部長の基本的な考えであった。どちらにするか?和歌山を代表する実務計画推進者はOG-1のプロセス主任設計技師格のOHBさん、石油化学はこれもプロセスエンジニアからSEに転じたISDさん。入社は1年違い。二人とも典型的な闘将タイプで、話し合いで簡単に片付く状況ではなかった。そこでこの問題をSE委員会に諮ることになった。この組織は、それまで主としてSE施策(機械計算室が行う汎用機運用管理を除く)に関する調査・研究、教育・啓蒙を主務としており、それほどややこしい経営問題を取り扱っていなかった。委員長は東燃技術担当取締役(機械・材料が一応専門だが新技術を勉強しておらず、先輩エンジニアから陰でバカにされていた)、石油化学の技術担当が副委員長、本社・各工場の技術部長が委員で、本社技術部計装技術課が事務局を務めていた。議論は紛糾、非力な委員長の下で決着がつくはずもなく、石油化学の副社長も務め、東燃副社長になっても非常勤として残っていたMTYさんに最終決定を委ねることになったのである。結果はSC計画優先であった。今でもこれは正しい決断だったと思う(HFの最適化制御は経済効果も含めると成功例が少ない)。
 OHBさんはこれが理由で退社し、のちに自ら起こした情報サービス会社を店頭市場に上場させている。コンピュータ利用を巡る大事件として、和歌山工場勤務時代の忘れ難い出来事である。
 このSE委員会はその後間もなく解散。汎用機からプロコンまで全てをカバーする電算機情報システム委員会がそれを継ぐように昭和44年5月に発足し、MTYさんが初代委員長となっている。
 二人目の担当副社長は、製造畑出身のTIさん。本格的にコンピュータに関心を持ったのは昭和34年米国で開かれた、スタンダードヴァキューム(SVOC)主催のOperations Evaluation & Planning Courseに参加してからのようだ。しばらくすると本社製造部内にLP研究グループが発足し、やがてそれが数理計画課に発展していく。TIさん自身はLPモデルを構築したわけではないが、LP利用には極めて積極的で、自分の納得できる答えが出るまで何度も条件を変えて最適計算を行わせ、それをもって取引先との交渉に当たったという。
 コンピュータ利用に関する考え方も一本筋が通っており「先ず上の、大きい問題解決にコンピュータを利用し漸次下に下ろしていく」ことを主張していた。工場に居る時分はこの考え方に強く抵抗を感じたものであるが、“考え方があること”には瞠目した。
 三人目の副社長は、企画・経理・財務畑を長く担当したNKHさんである。それまでの二人が実務を通じてコンピュータに関わってきたのとは異なる背景を持つ。世代も遥かに若く、昭和30年代半ばにバーバード大経済学部大学院修士課程で学んだNKHさんは、経営をシステムとして捉えその中でコンピュータの役割が重要性を増してくるとの信念を早くから持っていた。従って情報システム部門が狭義の技術偏重になっていることに不満もあったようである。ただ、副社長になるまで管轄下になかったので、そのような声が直接我々に伝わることはほとんどなかった。
 また、早くから新事業の一環として、情報サービス部門の分社化に関心を持っており、SPIN誕生は彼がいなければ実現していなかったであろう。
 以上見てきたように、三者ともコンピュータ(のちのIT)に深く関わってきた背景を擁しているのだが、それでも情報システム部門間との意思疎通が上手く行っていたとは言い難い。ITとは経営者にとって何か特殊なものなのだろうか?何が特殊なのであろうか?部門の側に何か問題があるのだろうか?のちの時代に話題になってくるSISやCIO(Chief Information Officer )などと合わせて、そんな疑問が拭い去れず、“OR起源研究”への思いが募っていく。
(つづく)

2010年10月9日土曜日

決断科学ノート-46(トップの意思決定と情報-6;経営者と情報システム部門-1)

 TIGER(経営者向け情報システム)プロジェクトに関わるようになって、経営者と経営情報や情報技術について学び、試行錯誤する中で、もう一つ問題意識を持たされたのが、経営者と情報システム部門の関係である。
 工場のシステム部門は計測・制御・情報を技術部の下のシステム技術課で扱っていた。技術部長は概ねプロセス技術(化学工学)出身者が務めるので、人事や予算はともかく、日常業務はシステム技術課長が工場トップ(工場長、各部長)と直に話し合うことが多かった。担当者も同席して工場長室で打ち合わせや説明会を持つこともしばしばあったし、所轄官公庁や報道機関の来場に同席させられることもあり、他の技術部門と異なる存在と感じるようなことも無かった(むしろ近かった)。
 しかし、工場勤務20年を経て初めて本社に着てみると、どうも本社機能の中で異質な位置付けにあるように感じてならなかった。他の部署はよく担当役員が部長席辺りに出かけてきて雑談などしたり、チョッとした打ち合わせなど行っている。また部課長が役員室を気軽に訪れている。それに対して情報システム室へ担当役員(副社長)がやってくることは全く無かったし、役員室を訪れるのは稟議書の決裁印をもらうときくらいであった。
 副社長は一人しか居らず、そのポジションはかなり特殊なものである(置かれないこともある)。情報システム室が発足した当時は和歌山工場勤務で、この部門とほとんど関わりが無い仕事だったので、何故副社長直轄組織となったかは知らなかったが、後年ここへ赴任したとき聞かされた話しは、「事務系・技術系を問わず、経営の中枢を担う重要な部門だから」と言うものだった。しかし、実態はどちらかが握ると問題が生ずる恐れがあるのでここに落着いたのではなかろうか?
 私が入社した頃は、まだ情報システム室は存在せず、コンピュータに関係のある組織は、経理部機械計算課、製造部数理計画課それにプラント運転・制御関係では技術部計装技術課があり、その他プラント設計関係で技術部製油技術課や機械技術課に若干のスタッフがいた。それがIBM大型汎用機360導入と利用分野の広がりを契機に、1969年先ず機械計算課と数理計画課をまとめて機械計算室が発足、その後1974年計装技術課の一部機能を移して情報システム室になっていく。管理職や中堅スタッフは元の組織の育成計画で育ち、キャリアパスを歩んで行くのでそれへの帰属意識も強い。さらに60年代半ばから技術進歩著しいこの分野に、先輩達よりはるかに新しい知識と意欲を持った、数理工学、経営工学などを学んだ新人たちが加わってきていた。既存の担当役員制では、よほど力のある人でないと治まらないのである。
 こういう組織進化の背景はあらゆる面で組織運営を難しくしていく。人事管理(評価・育成)は四本(経理・製造・技術・IT専門)建て、組織理念(伝統ある組織では不要だが)は玉虫色のスローガン、組織戦略・戦術もなかなか整理しきれない(例えば優先度付けが紛糾する)。これでは他の組織からつけ込まれるのは必定である。役員もそんな社内の空気を薄々感じ取っていたに違いない。内部の人間はこのフラストレーションを“最新技術”に向けていく。“経営の中枢を握る重要な機能”と期待されながら、さらに役員・上級管理職、ユーザー部門との乖離が拡大する。
 この状態は業界・学会の集まりや、後年の情報ビジネスを通じて、わが国企業では程度の差こそあれ同じような状態であることを知った。如何にこれを正すかが同職種の仲間の共通の悩みであったのだ。
(つづく)

2010年10月1日金曜日

今月の本棚-25(2010年9月)

<今月読んだ本(9月)>1)外務省革新官僚(戸部良一);中央公論新社(新書)
2)外交官が見た「中国人の対日観」(道上尚史);文藝春秋社(新書)
3)「BC級裁判」を読む(井上亮、半藤利一ほか);日本経済新聞出版社
4)ツーリスト(上、下)(オレン・スタンハウアー);早川書房(文庫)
5)ローマ人の物語(38,39,40)(塩野七生);新潮社(文庫)
6)マンチュリアン・リポート(浅田次郎);講談社

<愚評昧説>
1)外務省革新官僚
 昭和史の中にあらわれる“革新官僚”とは、日中戦争(支那事変)の全面化にともなう国家経済を、強い行政の力で統制しようとする一部官僚(代表的な人物は岸信介)のことである。従って所属する省庁は、産業・資源政策と深く関わる商工省、逓信省、農林省、企画院などがそれらである。そんな理解だったので、この本のタイトルを見たときの第一印象は「エッ!外務省?」という驚きと疑問であった。
 読んでみると、時代と出現の背景は完全に重なる(満洲事変→支那事変→大東亜戦争)のだが、前出の革新官僚と連携したものではなく、三国同盟締結時の駐イタリア大使、白鳥敏夫とその周辺に在った、外務省独自の活動グループであることがわかった。因みに白鳥は岸同様、極東裁判ではA級戦犯として裁かれ(終身禁固)、巣鴨に服役中癌で死亡している。
 第一次世界大戦後名目的には大国の一角(国際連盟の常任理事国)を占めるようになった日本は、さらなる国力強化を目指し、軍事力で中国大陸への勢力拡大を図っていくのだが、そこには当然既得権者、欧米列強との軋轢を生ずる。「維新後手本としてきたな欧米流の外交手法では所詮彼等に勝てない!」「独自の外交理念を作り上げよう!」こんな思いが若手・中堅外務官僚の中に湧いてくる(実際は人事・キャリアパスに対する不満もあるのだが)。
 彼等は“混乱する中国政治情勢の安定化”“アジア植民地の解放”、のちの大東亜共栄圏構想に通ずる外交を目指す。これを支えるものとして武士道や神道からアイデアを借りた「外交指導原理綱領」を纏め上げ、“皇道外交”なるものを提唱するようになる。
 伝統的な欧米協調外交推進の中心人物、幣原喜重郎の愛弟子でもあった白鳥は当初はこのような動きからは距離を置いていたのだがやがて転向、激しい言論活動で“ファシスト”と呼ばれるようになっていく(駐イタリア大使前)。何故彼はそうなったか?満州事変、国際連盟脱退、三国同盟、日ソ中立条約など戦前・戦中におけるこれらわが国の帰趨を決した重要な国際関係における彼の言動を追いながら、その疑問を問い詰めていくのが本書のメインストーリーである。
 彼は1940年駐イタリア大使を最後に依願退職するが、彼を外務次官・外相候補として強力に押し出した若手革新官僚は戦後見事に変身、外務次官や駐米大使へと栄達を窮めていく。変り身の早さこそ、わが国外交官の生き残り手段なのであろうか。

2)外交官が見た「中国人の対日観」 尖閣諸島問題が発生する前に読んだ本である。読んだ直後の中国感と現時点では随分違ってしまった。とは言ってもそれは国と国との関係であって、人と人の関係は別だ。
 この本は、2007年から9年まで中国公使(広報・文化担当)を務めた人の、いわば草の根外交(無論公的なものが多いのだが、比較的日常レベル・若い人レベルの交流)に基づく中国人の対日観の実態を紹介したものである。
 一言でまとめると、最近の活発な経済活動と行動の自由化で、若い世代が日本の実情を自ら知る機会が多くなり、対日感情は著しく改善されてきている、と言うことである。それも当初はポップカルチャーのようなところに目が向いているのが、だんだん社会の内面を見るようになってきており、長所短所とも深いところで評価できるようになってきているようだ。例えば、先進国で海外移住希望者が最も少ない日本を“良い国”と評価することなどにその例が見られる。一方で、内向きでそこそこの生活で満足する覇気の無さを、社会の衰退と危惧する声もある。具体的には勉強時間や海外留学志望を比較するといまや雲泥の差である。
 筆者は韓国の大学でも学び、彼の地での大使館勤務経験もある。そこから日中韓の文化比較も行いながら中国人の対日観を見つめる場面も登場し、新鮮な比較論によってあらためて中国と外交官を見直す機会を与えてくれた。

3)「BC級裁判」を読む
 市ヶ谷で行われた極東裁判が戦争遂行を行った国家指導者を裁く裁判であったのに対し、BC級裁判とは戦場での個々の戦争犯罪行為を、個人の責任に帰して裁いたものである。A級戦犯として処刑されたのは7名だが、BC級では984名が死刑判決を受けた(のちに減刑された人も居るが、大多数は処刑)。最も早かったのはフィリピン防衛戦の司令官、山下奉文大将で1945年10月に裁判が始まり、翌46年2月に絞死刑になっている。これはA級戦犯の死刑執行よりも早い。“熱いうちに早く決着をつける”BC級裁判の代表例と言っていい。
 本書は2009年9月から9月にかけて日経新聞朝刊に連載されたものを基にし、“戦場に架ける橋”で有名な泰麺鉄道捕虜虐待、シンガポール華僑集団虐殺、南京虐殺、B29搭乗員処刑など代表事例を類似事例毎に分類して章立て、各章毎に連載の取りまとめ役(井上)と半藤利一、秦郁彦、保阪正康と言う昭和史・戦史専門家が検証・議論する形式でまとめられている。連載の基となった資料は、法務省が保管し、その存在が長く秘匿され、2002年から徐々に公開され始めた膨大な裁判関連文書である。
 これを読んでBC級裁判の難しさ、納得感の無さの根源が;日本が俘虜に関するジュネーブ条約を正式批准しておらず、「準用する」との回答にとどめたことで、将官を含めて兵士はほとんど内容を知らなかったこと;それを裁くに際して対象者を、命令者にするか執行者かが連合国側にもはっきりしなかったこと、がある。
 また、裁判が現地で行われ、ある種の復讐劇であったことから拙速に行われ、事実確認がいい加減だったり、組織的な責任回避策を見抜けなかったりする例も多く、読んでいて辛くなる事件も決して少なくない。例えば、語学が出来、通訳を務めたゆえに現地の人や捕虜に名前を覚えられ、あたかも彼が命令者のように受け取られ処刑された例などは、その下級将校が実際にはそのいずれでもないだけに、やりきれない思いがする。
 戦場の異常心理が引き起こす戦争犯罪は、常識では考えられないような残酷なものが多々見受けられるが、それがその国の歴史や思想(例えば“生きて虜囚の辱めを受けず”;これ自身本来の意味とは異なるらしい)、文化に根ざす面も強く、この本はある意味当時の日本・日本人を知る材料を提供しているともいえる。

4)ツーリスト
 第二次世界大戦は半世紀以上前に終わり、冷戦構造も壊れた。スパイミステリーの舞台は政治テロや、経済犯罪に移ってきているが、対峙する組織が非対称形のため、今ひとつスケールが小さく、面白味や緊迫感を欠く。グレアム・グリーン(第三の男)、レン・デイトン(ベルリンの葬送)、ジョン・ル・カレ(寒い国から帰ってきたスパイ)今いずこ、と言う時代がここ10数年続き「もうこの分野は消えるのか?」と思っていたところに登場したよく出来たスパイ小説である。
 登場する組織はCIAと国家安全保障省、それにKGBのOBや英国のM6とフランス情報部が絡む。冷戦の終結でCIAの予算は絞られ、一方で911同時多発テロ後設立された国家安全保障省が弱り目のCIAの縄張りに切り込んでくる。そんな時“ツーリスト”と呼ばれる一匹狼のCIA工作員達の周辺で不可解な事件が散発的に起こる。互いにその存在を知らされていないツーリストの一人が、テロ事件の殺し屋を追う過程でそれが一連の繋がりを持つのではないかと疑い、単独捜査を始める。事件の解明を望まない組織は彼に刺客を放つ。
 舞台はスロベニアに発し、ヴェニス、テネシー、パリ、ニューヨーク、ベルリン、ジュネーブさらにニュージャージへ頻々と転じる。背景にある国際政治問題はスーダンの石油。主人公を翻弄する胡散臭い中国人やロシア人の脇役。そして長官からツーリストに至るCIA組織の複雑な構造。加えて謎に包まれた主人公の少年時代。これだけ縦横に錯綜した仕掛けを、読者を混乱させること無く最後まで文中に引き込む力量は、ワシントンポストや雑誌タイムの高い評価通りである。

5)ローマ人の物語(38,39,40)
 何度かこの欄で紹介した長編。時代は紀元4世紀、もうローマ帝国の滅亡も近い。今回の3巻の副題は“キリストの勝利”。いよいよ司教(当時はまだ皇教ではない)が皇帝より上位の存在となるまでの話である。世襲を確かなものにするためには「神によって任じられた」とする必要があったのだ。

6)マンチュリアン・リポート
 日本人流行作家のハードカバーなどここ数十年買ったことは無いし、浅田次郎の作品も読んだことは無い。今回は“マンチュリアン(満洲)”に惹かれて衝動買いした。主題は“張作霖爆殺事件”である。事件そのものは多くの出版物が既刊されており、特に目新しいものは無い。しかし、これは小説なので、北京をおさえながら「何故彼は皇帝を名乗らなかったか?」「何故(危険が待ちうける)奉天に帰ろうと思ったのか?」を解き明かすミステリー仕立てにしたところに、従来の出版物とは異なる特色がある。
 主人公は二人(?)。一人は天皇を都合のいいように利用している陸軍上層部を批判した文書配布の罪で服役中の下級将校。もう一人は、擬人化された張作霖の乗る列車を牽引する蒸気機関車。下級将校の文書に共感をおぼえた天皇が、彼に爆殺事件の真相究明を特命し、彼の地から天皇宛に送られてくるのが“マンチュリアン・レポート”である。ミステリーとは言っても、核心は張作霖の心の内を探ることなので、いくら周辺の事実を積み上げても推論の域を脱しないので、その点では本格的ミステリーの緊迫感は無い。
 むしろ個人的に面白かったのは第二の主人公、機関車の語りである。実はこの機関車は清朝末期の実力者、西太后に李鴻章が贈ったお召し列車の機関車なのである。英国製のこの機関車とそれに引かれる御料車の話は乗り物ファンの興味を惹かずにはおかない。この列車の試運転は製作地のスウィンドン(コッツウォルズに近い)からロンドンのパディントン駅に向けて行われ、パディントン駅では鉄道ファンのアルバート皇太子も見学に訪れたと言う。その際、御料車内部の見学を所望されたが、製作者は丁重にお断りをしたようだ。その理由はヴィクトリア女王の御料車とは比べものにならない豪華な仕立てだったからである。手すりや窓枠は真鍮ではなく金箔、絨緞は羊毛ではなく絹、ランプカバーは薄く削がれた水晶、テーブルや棚は大理石では無く一枚板の翡翠だったというのだ。
 この列車は西太后が先祖の墓参りに奉天に行く時(1908年)一度使われただけで、長く北京駅近郊の車庫の中に保存され、次のお努めが四半世紀後の爆殺事件の時なのだ。満洲を語る書物ではこの爆殺事件は欠かせないので何度も目にしているが、あの列車がそんな由緒あるものと教えてくれた本は無かった。結局私にとってこの本の価値はこの点に尽きる。
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