2010年12月31日金曜日

決断科学ノート-54(ドイツ軍と数理-3;電撃戦と兵站-2;三つの電撃戦-1;ポーランド侵攻)

 電撃戦(この言葉の由来には諸説あるのだが)の嚆矢といわれるのが、1939年9月1日に始まるドイツによるポーランド侵攻である。しかし、軍事専門家や戦史家による後の分析では、対ポーランド戦は「本格的な電撃戦」ではなかったとする見方が大勢である。両国の戦争準備の格段の差異から、この戦いがほぼ2週間で決したこととドイツの宣伝が巧みであったことでその突進力が過大評価されたきらいがあるのだ。
 確かに装甲部隊と空軍の共同作戦はあったが、装甲部隊が作戦で集中的に使われたわけではなく、各装甲師団は戦術レベルで師団ごとに戦っている。当時の参謀本部の評価も「この戦い方が西方で成功するとは思えない」というものだった。
 しかし、ヒトラーはソ連との密約で定められた分割線まで到達すると、返す刀で西方作戦を行うべきと言い出す。この時ドイツが備蓄する弾薬量はあと2週間分しかなかったし、車両の半数は稼動できぬか、重整備が必要だったにも拘らずである。それは陸軍だけのことではなく、空軍も同じだった。ここには怜悧な戦争経済(兵站を含む)の考えは全く存在しない(一応の資材・物資計画は検討されていたが、ヒトラーが決断に際してそれに拘束された形跡は無い)。彼のこの発言は、ポーランド侵攻もそれまでの恫喝外交の延長、旧ドイツ帝国領の回復(ポーランド回廊など)なので英仏の宣戦布告は無いと読んでいたのが見込み違いだったことよる。それでも現実は覆い難く、西方作戦の開始時期は30回近く延期され、8ヵ月後の翌年5月に始まる。皮肉にもこの遅れにより、ドイツ軍は装備の強化、資材手当て、人材育成が行われ、本格的な電撃戦が可能になったのである。
 さて、ポーランド戦役における兵站の実態はどうだったか。装甲力が加わったとは言え、ドイツ国防軍の計画は用兵も兵站も旧来からの考え方から脱しておらず、国境までの輸送は依然鉄道中心である。そこから先の補給は、理想的には鉄道と自動車輸送(200マイルを境に、それより長距離は鉄道が優れていた)の併用となるのだが、敵味方による鉄道破壊は凄まじくポーランド領内では機能しなかった。また、自動車輸送も当時のドイツのトラック保有数はとてもこれに応えられるものではなく、さらに道路の状態も予想以上に悪かったので、損傷率は50%以上に達している。結局輓馬輸送だけが頼りで、「戦車と車両の軍隊」ではなく「馬匹の軍隊」(ドイツ軍の軍馬総数270万頭;これは第一次世界大戦時の2倍!)というのが実態であったのだ。戦車の進撃速度は時速10kmだが、時速4kmの歩兵・輓馬に引きずられてとても電撃とはいえないペース。それでも馬脚を現さなかったのは、ポーランドの準備不足と侵攻距離の短さ(約200マイル)で、戦いが短期間で決したからである。
 第一次世界大戦は「石炭と鉄鋼の戦い」であったが、第二次世界大戦は(荷馬車で戦ったとは言え)「石油とゴムの戦い」。消耗品であるガソリン・タイヤ・弾薬の輸送量は前大戦の比ではない。使える道路は破壊活動やゲリラなどで限られる。そこを、戦車・自動車化歩兵、徒歩歩兵、輸送用トラック、荷馬車で進撃していく。補給の車両や馬車は再び補給所まで戻っていく。交通は混乱し兵站問題も深刻化していく。数理でこれを最適化することなど、とても思い至らなかったことは容易に想像がつく。
(つづく;三つの電撃戦;西方作戦)
 本年はこれをもってブログ掲載を終わりといたします。一年間のご愛顧に感謝すると伴に、来年もよろしくお願いいたします。
 良いお年をお迎えください!

2010年12月28日火曜日

黒部・飛騨を駆ける-5(高山-1)

 長い飛騨トンネルを抜けても、それが判らぬほどの夜の帳の中にあった。さらに次々とトンネルが続くので、闇の中に見えるのは道路と時々現れる標識だけだ。20分くらい走ると高山清見道路への分岐点、飛騨清見ICに到達、ここで東海北陸道に別れを告げる。分岐すると直ぐに小鳥(おどり)トンネル(4.4km)に入り、その後もいくつかのトンネルを通過して終点の高山ICで名古屋と富山を結ぶ国道41号線に出る。ここはもう高山の市街なので、長い闇からやっと開放される。さらに飛騨と信州を結ぶ幹線道路、158号線に入る。交通量が多い。実は今夜の宿は出来たのが新しく、古いマップではピンポイントで場所を特定できない。一応「付近まで案内します」でここまでやってきたので、道路標識とカーナビに神経を集中して進路を選んでいく。高山線の跨線橋の上からホテルのネオンサインが見えた時にはホッとした。到着は5時45分、ほぼ計画通りだ。
 高山の宿探しのキーは夕食だった。今までのドライブ行で旅館の夕食付きが二晩続くとその量や内容に辟易することが多かった。前夜は宇奈月で典型的な観光旅館料理、ここではそれは避けて、駅周辺のビジネスホテルに泊まり、夕食は外のレストランで名物の飛騨牛を食すことを目論んだ。それで見つけたのが「飛騨花里の湯;高山桜庵(おうあん)」である。設備を調べた時、部屋にはシャワーしかなく、風呂は大浴場があるとあった。さらに部屋は畳敷きで、ベッドも高さの低い和風と書いてある。妙な感じもしたが、値段が手ごろで場所も駅に近いのでここに決めたわけである。
 車を駐車場に停め、ホテルに入ると、このホテルのホームページに書かれた妙な造りが理解できた。ここはビジネスホテル型観光ホテルなのである。フロントではリュックを背負った若い外国人が数人交渉中だった。聞いていると「部屋の作りは日本式か?」などとやっている。よく見るとロビーは絨緞だが、その先に上がり框がありそこで靴を脱いで、館内に入るようになっており、框から先は畳敷(とは言っても正方形のビニール畳だが)になっている。彼等は納得してここに泊まることにしたようだ。風呂屋の下駄箱を大きくしたような所へ靴を仕舞い、エレベーターに載ると、そこも畳敷きである!
 食事はフロントで予約してもらい、フランス料理の「ル・ミディ」という店で摂ることにした。ホテルから歩いて約10分、客席は15,6人程度の、いかにもフランスの地方都市にありそうな雰囲気の店であった。7時頃着くと客は一組しか居なかった。会話を聞いているとどうやら土地の人らしい。これは好ましいことである。
 メニューは飛騨牛以外に、シーフード料理などもあるのだが、ここへ来た観光客としてはやはりビーフステーキであろう。ウェートレスが進めてくれたのはそのセットメニュー、食材は全て地のものだという(翌日の朝市で、シェフが買い物をしているのを見た)。前菜、スープ、デザート付きで5000円/人は高くない。サーロインを赤ワインで堪能した。しばらくするとやはり地元の人と思しき、若いカップルが二組ほどやってきた。土地の人々が気軽に来られるところに、何かヨーロッパ風な感じがした。
 ほろ酔い気分でホテルに帰ると、大浴場へ出かけてみた。7階建ての最上階にある浴室には露天風呂もあり、そこからは高山の街が一望できる。和洋折衷の妙なホテルと思ったが、これからはこんなスタイルが受けるのかもしれない。
(次回;高山-2)
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2010年12月21日火曜日

黒部・飛騨を駆ける-4(五箇山・白川郷)

 宇奈月駅前の駐車場を出たのは丁度1時。北陸自動車道の黒部ICに入る前に、事前調査では無かったモービルのSSが在ったので給油した。自宅からの距離は410.5km、給油量は37L、11km/Lは起伏の激しい糸魚川街道を走ったわりには悪くない数字である。
 黒部ICで自動車道に入ることは予定通りだ。この日の午後はここから二ヶ所の合掌造りの村落を観て、6時には高山のホテルにチェックインすることにしているので、時間が勝負。41年前はブルーバードSSSで神通川沿いの国道46号線を北上、帰途は砺波から五箇山に至る国道156号線をとって山深い地方道ドライブを満喫したが、今回は運転を楽しむことは二の次にしなければならない。
 北陸自動車道を走るのは今回が初めてである。富山平野の中は道も平坦、交通量も少なく、追い越し車線はほとんど空いており、すこぶる走りやすい。その反面、景観は全く刺激が無く、専ら先を急ぐ気分にしかならない。注意すべきは速度違反の取締りだけだ。約1時間で礪波JCTに到着、東海北陸自動車道へ分岐する。ここからはセンターラインにオレンジのポールが打ち込まれた対抗二車線になる。運悪く前を走っているのはバス、しばらく追従運転が続き苛々してくる。これを登坂車線でかわすと、やっとマイペースで走れるようになる。最近の道路は、いずこも嘗ての山道を一気にトンネルで抜ける味気ないものに置き換わっているが、ここもその例に漏れない。城端トンネル・袴腰トンネル(両方で約9km)を越えると直ぐに五箇山ICがあらわれた。少し156号線を富山のほうに戻り、合掌造りのある菅沼集落広場駐車場に停めたのは2時半であった。江戸時代まで加賀前田藩の最奥部、流刑地でもあった隠れ里である。
 広場駐車場は高い所にあり、木々の間から下方に合掌造りの家々が見える。何とそこへ下りるエレベーターまであるではないか!それは避けて国道からつながる山道を歩いて降りる。山間の曲がりくねった狭い平地にある数十戸の集落だが、広場駐車場から下りた周辺だけは純然たる住居に観光向けに何か商いをしている家屋が混在している(ここ以外は廃屋もありほとんど観光客は来ないようだ)。ただ、白川郷と違いアクセス道路は156号線のみ、富山からも岐阜からも遠いので、観光客で混雑するようなことは無く、比較的集落全体に昔の風情がそのまま残されている。
 ここで最も興味深かったのは、塩硝(火薬の原料;、人間の糞尿を草木とともに醗酵させて硝石を得る技術;硝石が存しないわが国ではこの方法しか原料はなかった)作りの道具や工程を知ったことである。幕府の目が届かない秘境の地で長い時間をかけて作られた塩硝は農作物に代わる年貢として、前田藩の財政を潤してきたのだ。
 菅沼集落を出たのは4時少し前、再び東海北陸道へ戻り15kmも走ると白川郷に至る。この間もほとんどトンネルだ。4時10分頃に白川郷の駐車場に着いた。駐車場に入る際「ここは5時に閉まりますがいいですか?」と問われた。もう観光客は帰る時間帯に入っているようだ。急いで周らなければならないが五箇山に比べ、駐車場も集落も桁違いに広い。多数のバスツアーが引きあげ時、西欧人・アジア人も多いし、立派な観光案内所もある。平日のこんな時間でも、これだけ観光客が集まっているところを見ると、ここは観光産業が成功しているに違いない。
 平地の真ん中を庄川が流れており、駐車場から集落まで橋を渡ってしばらく歩く。夕闇が迫りつつあり、とにかく早足に有名な茅葺屋根の本堂がある明善寺とその周辺の合掌造りを観て歩く。五箇山に比べると集落も個々の合掌造りも何か活気と生活臭を感じる。本来なら集落北端の萩町城跡展望台からみる眺めが売り物なのだが、残念ながらその時間は無かった。広い駐車場に残る車は10台程度。ヘッドライトを点灯してそこを離れたのは5時。白川郷ICに戻ると待ち構えていたのは、わが国第3位(1位;関越、2位首都高山手)、世界12位の自動車用トンネル、飛騨トンネル(10.7km)だった。
(次回;高山)
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2010年12月16日木曜日

決断科学ノート-53(ドイツ軍と数理-2;電撃戦と兵站-1)

 英米で戦略・戦術に次いで数理が使われたのは兵站(調達・輸送・集配)の分野である。どのような資材を、どの程度の量、どのような手段で、どのようなルートで運ぶか?最前線とこの兵站線が切れ目なくつながってはじめて作戦(戦略・戦術)が実現される。
 科学戦のはしりといえる第一次世界大戦に登場した新兵器、戦車は塹壕を無力化する点で画期的な兵器だった。この運用方法は当初歩兵の支援兵器と考えられていたが、英国のフラーやリデル・ハートはこれだけを集団運用する専門部隊を作り、高速度で敵陣深く侵入する戦術を提唱した。しかし、彼等の母国でこの考えが容れられることはなかった。それに注目したのは、大陸軍国であるドイツとソ連であった。敗戦国ドイツでは自動車輸送部隊に居たグーデリアン(歩兵)がフラー等の考えに触発され、装甲車両による新兵種を模索することになる。やがて彼の考えは装甲師団さらに装甲軍として発展していく。この装甲軍と急降下爆撃機の協調は従来にない三次元作戦を可能にし、防御側を大混乱に陥れ、圧倒的な勝利を短期間で獲得するようになる。のちに電撃戦(フリッツクリーク)と呼ばれることになるのがそれである。
 今次欧州大戦で大規模な電撃戦が行われたのは、1939年9月開戦時のポーランド侵攻、翌1940年5月の西方作戦(フランスの戦い)それに1941年6月に始まる独ソ戦。この三つが代表的なものといえる。電撃戦はそれまでの作戦とはスピードが違う。その兵站システムもそれに応じたものが必要となる。ここで数理的な検討が行われた痕跡はあるだろうか?
 装甲部隊の主役は戦車であるが、その他の支援車両;偵察用装輪装甲車、対空機関砲搭載ハーフトラック(半装軌車)、支援戦闘工兵・歩兵輸送ハーフトラック、食料・燃料・弾薬・修理部品を運ぶ貨物トラック、通信車、野戦救急車、炊事車など多種多様の車両で構成されている。これらの内一般道路を長距離自走できない戦車や半装軌車は作戦発起点近くまで鉄道で運ばれ、そこで自走組と部隊集結が行われて作戦活動に入る。ここには各種補給品の集積基地も作られる。戦闘に入ると敵の抵抗力が強い場合は侵攻速度が遅くなり、距離は捗らないので燃料は少なくて済むが、弾薬の消費は高くなる。抵抗が弱く、長躯進出する場合は逆になる。こんな単純化した例にも、交通手段(鉄道・道路)の組合せ問題、補給物資の積み合わせ問題など種々の数理的課題が存在する。
 ドイツ軍の場合、作戦“発起時”の資材計画・輸送計画は、作戦計画の兵棋演習の中で行われているのだが、 “作戦”(兵器の量と質を基本にする戦闘)に優先度が置かれ兵站は付け足しの感が否めない。つまり作戦を作りそれに従って必要資材の種類・量をはじき、次いで輸送手段を決めるという手順になる。逆に言えば、多様な輸送手段の可用性をベースに作戦を組み立てるようなスタディが行われた形跡がない(普墺・普仏戦争では鉄道を作戦の中枢に据えているのに)。
 陸上の作戦の場合、兵站組織の中にも問題があった。陸軍総司令部(OKH)の輸送局長と戦域内自動車輸送に責任を持つ兵站総監がその役割を分けていたのである。前者は鉄道および国内運河輸送を、後者は各戦域内輸送とそこで戦う組織(軍、軍団、師団等)が必要とする資材をまとめ、これを出発点まで運ぶ任を負っていた。つまり補給パイプの両端と中央部が別々に管理されていた。さらに悪いことに、このパイプの中央部を握る輸送局長の権限は空軍や海軍には及ばないので、空輸や海上輸送を効果的に使うことは全く出来なかった。
 このような制約の下で、それぞれが最善の努力をし、何とか部分最適化を図っていたのがドイツ軍兵站の実態であった。そんな訳で作戦開始時の数量計画策定はともかく、その他の面で数理が活用される場はなかったのである。
(次回:電撃戦と兵站-2;三つの電撃戦)

2010年12月8日水曜日

黒部・飛騨を駆ける-3(宇奈月温泉・黒部渓谷)

 実は宇奈月温泉・黒部渓谷はこれで3回目になる。1989年、北陸電力本社で経営情報システム関係の研究会があった時が初回、2回目はその数年後黒部市のYKKで講演をした後である。いずれも夕刻着いて宴会、翌朝トロッコに乗って欅平まで往復した。それから20年近く経っているが、チョッと寂し気な街の佇まいはそれほど変わっていなかった。“寂し気”と表現したが“衰退した”と言う意味ではない。温泉地につきものの享楽的な雰囲気が無いのだ。良いことなのである。その主因は、観光客の目的が温泉以上にトロッコにあるからなのだと思う。皆長閑なトロッコの旅の背後に在る、壮絶な血と涙と汗にまみれた物語を想像しながらここに居るからに違いない。
 この日の宿泊先は「延楽」という、今回の旅で唯一の日本旅館である。とは言っても高層のコンクリート建て、黒部渓谷に面して並ぶ他のホテルと違いは無い。インターネットで種々の条件を入れて当たっているうちに、偶々宿泊プランの食事が「これなら良いかな?(年寄りにとって、種類・量が多過ぎないと感じた)」と思い決めた所である。部屋は和室で広さは充分、渓谷に面しているので景色も申し分ない。案内された時、渓の向かいの木々が一部紅葉してように見えたので「ここはもう紅葉が始まっているんですね?」と言ったところ、仲居さんが「いえ、今年の夏はこちらも猛暑で、害虫が大発生しそれで枯れた木が多いのです」とのこと。しかし、聞かなかったことにすれば、暮れなずむ中枯葉も紅葉も大差ないので悪い景観ではない。川原には大きな石がごろごろしている。その上を何かが動き回っている。よく見るとそれは猿だった。
 大浴場は同じように渓谷に面している。薄暮の山々を見ながら浸かっていると長丁場のドライブ疲れが次第に癒されていった。露天風呂は階が違うのでチョッと面倒だ。翌早朝出かけることにしよう。
 夕食はインターネットで調べた時、二つの選択肢があった。一つは当地の名物「白えびづくし」もう一つは「地場の食材を使った会席料理」である。白えびに惹かれるものがあったが、残念ながら甲穀類の殻にアレルギーのある私には選ぶわけにはいかない。富山湾の魚介類と富山牛の会席を堪能した。この料理にも僅かだが白えび料理(吸い物)があり、恐る恐る賞味してみたが、幸い何も起こらなかった。
 翌朝天気は曇り。9時発のトロッコに乗った。大正13年(1924年)黒部川の電源開発用に着手、昭和12年(1937年)欅平まで開通したものだ(20.1km)。この列車は団体客が多いと聞いていたので、席が取れるかどうか心配だったが何とかなった。昔の記憶でどちら側かが渓谷、反対が側は山肌なので席の選択が観光の楽しみを決めることは頭にあったが、正確には覚えていない。大勢の人の流れの中で進行方向右側に席を占めることになった。当たりだった。オレンジ色のミニ電気機関車に牽かれた、遊園地の乗り物と大差ない感じの車両の席は一列4人掛け、外気に晒されながら、断崖に張り付いて進むスリリングな小旅行が始まった。トンネルや洞門がいたるところにある。手を延ばせば壁に触れることが出来るほど近い。最初に現れるダムは出し平ダム、この水を利用する発電所は遥か下流にある。次に対岸に見えてくるのは黒部第2発電所。山は紅葉しているように見えるが一部は例の害虫による被害らしい。ふと下を見ると川原を整備する超大型ダンプやパワーシャベルが見える。どうやってここまで運び込んだのだろう。こんなことが気になりだした頃、渓谷はさらに狭く急傾斜になっていく。間もなく終点の欅平だ。
 欅平はその名の通り比較的平なので、さらに奥地の黒三・黒四開発の基地だった所だ。そこへつながるトロッコもあるのだがこれは一般開放されていない。さして広くない駅前広場(というよりテラス)は観光客でいっぱい。丁度きのこ祭りが行われており、無料できのこ汁が振舞われ、1時間を超える吹きさらしで冷え切った身体を温めてくれる。
 幸い晴れてきたので近くの奥鐘橋まで散策し、11時04分発の列車で戻った。帰りは追加料金360円を払い特別車両(窓ガラスがあり、車内は暖房されている)に乗り、うつらうつらしながら12時02分宇奈月駅到着。駅の食堂でうどんと富山名物鱒の押し寿司のセットを食した。
(次回;五箇山・白川郷)
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2010年12月5日日曜日

今月の本棚-27(2010年11月)

<今月読んだ本(11月)>1)国家の命運(藪中三十二);新潮社(新書)
2)高射砲(佐山二郎);光人社(文庫)
3)The German Generals Talk(B.H.Liddell Hart);Quill
4)街場のメディア論(内田樹);光文社(新書)
5)数覚とは何か?(スタニスラ・ドゥアンヌ);早川書房
6)乱気流(上、下)(ジャイルズ・フォーディン);新潮社(文庫)

<愚評昧説>
1)国家の命運
 著者は前外務事務次官。阪大3年生のとき力試しで受けた専門官試験に合格、入省後しばらくその職位で活躍、あらためて外交官試験を受け直しキャリア外交官に転じた、少し変わった経歴を持つ人。そのせいか目線がわれわれ一般人と変わらぬ感じがする。一言で言えば「こういう人が国のため頑張っているのなら、我々も強力にバックアップしなければ」と言う気になる。
 “国家の命運”を決める外交交渉に、交渉官として、政治家や他省庁トップと伴に臨み、その内実を前向きに、解かりやすく、自らの考え方を開陳しながら語っていく。
 取り上げられているのは、1980年代末期に始まる日米構想協議から、北朝鮮拉致問題、国際標準(通信関係)、外国人受け入れ、サミットの舞台裏(筆者は小泉首相の個人シェルパ;トップの意向を代行する事前準備要員)、日中ガス田交渉、直近の尖閣諸島問題(この時は既に退職しているが)まで、当に国運を賭けた様々な外交上の重要案件だ。
 例えば、現在の超借金財政が始まったのは、日米構造協議により「今後10年で430兆円の財政出動をする(理論的シナリオは“前川レポート”」と約束させられたことから始まったという話は、軍事的戦争に敗れる以上の国家的損失をもたらすことになってしまったのだ。
 これを読んでいると“わが国の外交が内政問題だ”と言うことがよく分かるし、それ故に“論理的なオフェンス(攻撃)”に弱く(利害関係者の調整が難しく、大胆な問題提起や対案を出せず、小出しにしながら妥協に向かおうとする)、グローバルな経済戦争下でその地位が低下していくことに痛烈な危機感を感じる。
 この人は民主党政権が誕生し、閣議前の事務次官会議廃止が決まったとき異を唱えている(これは本書には無いが)。外交・通商交渉は多くの省庁に利害がまたがることから、その調整に苦労した経験が言わしめたことは想像に難くない。そして案の定、国際関係・安全保障は滅茶苦茶である。有能な官僚を使いこなしてこそ、国政の健全な運営が出来、熾烈な国際間競争に勝ち残れるのではないか。

2)高射砲
 B29による空襲を体験した人たちから「戦闘機が舞い上がるのだがなかなか高空に達することが出来ない」「高射砲を撃つのだがまるで中らなかった」などと言う話を聞かされたり、本でそんな表現を見たりしてきた。迎撃に向かう戦闘機に関しては、性能テスト時の限界高度が10,000m近くあったようだが、与圧も過給器も無いので実用的には5,000m強と言ったところであろう。しかし、高射砲に関しては、英国爆撃軍団のドイツ本土爆撃における被害状況(三軍で最大)などから、防空力としてもっと活躍できたのではないかと疑問を持っていた。
 この本は旧陸軍の火砲(大砲)シリーズの一環として書かれたもので、通常の大砲を大きな仰角で据付け、それを航空機撃墜用に転用した初期のものから、終戦末期試作された2基の15センチ砲までを詳細に報告する日本高射砲発達史である。基本的に火砲としては陸上戦闘用のものと変わらぬが(ドイツの有名な88m砲は高射砲のみならず対戦車砲としても強力な武器だった)、高空を高速で飛行する小さな物体を打ち落とすと言う点で、一段の工夫が要る。
 高射砲による航空機撃墜は、砲弾を命中させるのではなく、その進路に弾片をバラ撒くことで致命傷を与える。このためには弾薬量がカギとなるが、多いと有効半径は広がるが初速が遅くなるので高度に問題が出てくる。沢山の弾丸を連続して発射するのは有効だが、砲の寿命を短くする。最も難しいのは照準である。ここにはレーダーと照準コンピュータが不可欠だったのだ。
 開戦前から問題点を認識していた陸軍は各種の新型砲を試作していたが、結局中国戦線で押収したクルップ砲を模した99式8センチ砲が都市防空の主力であった。この砲の有効射高は10400mでB29の通常爆撃高度(7~8000m)をカバーしているが、終戦までの生産量が500門程度、レーダー照準は未完成のままでは、しょせん蟷螂の斧に過ぎなかった。

3)The German Generals Talk  英国の著名な軍事学者・戦史家である、リデル・ハートが終戦直後、収監されたドイツ国防軍の将官たちに行ったインタビューをまとめたものである。三つのパートに別れ、第一章はヴェルサイユ条約後の国防軍首脳に焦点を当てた新国防軍の変遷、第二章はヒトラーの登場と装甲軍の誕生、第三章は国家の命運を決した有名な戦い、という構成になっている。
 対象者は、ルントシュテット元帥、クライスト元帥、マントイフェル装甲軍大将、トーマ装甲軍大将、ブルーメントリット大将など20名近い軍集団・軍司令官・参謀長クラス。
 西方電撃戦(ダンケルクでの進撃停止など)、英上陸作戦(中止)、独ソ戦(モスクワ戦線、スターリングラード攻防戦、カフカス侵攻作戦など)、北アフリカ戦線、ノルマンジー上陸作戦、バルジ作戦など戦局に決定的な影響があった作戦について聴き取り調査し、ドイツ軍内の作戦決定過程、戦局転換の要因、ヒトラー介入程度・影響、連合国側の司令官や兵士・兵器の評価など多面的な分析を行い、往時のドイツ軍の動きを探っていく。
 ドイツ軍将官たちの作戦評価は「もう少し自由度(一時退却)があったら、あれほどの敗北は無かった(特に独ソ戦)」「戦線があまりにも拡大し、防御が薄くなり、敵につけ込まれた」「補給が(特に弾薬・燃料)が続いていれば・・・(独ソ戦、北アフリカ)」などの発言が随所に見られるが、リデル・ハートは結論として「ドイツ軍人は軍事技術そのものだけでなく、周辺(政治や経済)に関する知識・配慮が欠けていた。しかし、もしそのような兵士だったならば、あの強靭な軍は無かったかもしれない」としている。
 この本の初版発行は1947年。執筆や出版に要する時間を考えると、書き上げたのは1946年と推察される。裁きの前に、自己弁護や責任回避無きにしも非ずだろうが、戦争遂行の内情が今でも生々しく伝わってくる。その後に書かれた戦史やノンフィクションでも、同じような場面を数多く見かけることから、このインタビューが持つ意義は大きい。現在、同種の調査を同じ時期アメリカ軍が行いまとめた「運命の決断」を読んでいるので、それとの対比もいずれ報告したい。

4)街場のメディア論
 著者は元々ユダヤ文化研究者だが、種々の文化・社会評論で目下売れっ子である。ブログへのアクセス数は何と一日1万5千件に達する!その内田先生が書いた“街場”シリーズ最新版(4冊目;本欄でも「街場のアメリカ論」を紹介している)である。無論ベストセラーにもランキングされているのでお読みになった方もいるだろう。
 この街場シリーズは、著者が大学(神戸女学院)で行っている人気講座を書籍化したもので、今回のものは2007年度の講義が基になっている。既に3年を経ているのだが、鋭い先見性で陳腐さを全く感じさせない。
 主題は“マスメディア(新聞・TV・出版・広告)の衰退”であり、これらの業界へ進みたいと思う学生が講義の対象者である。従って導入部は 「どういう心構えで就職すべきか」から入っていく。その答えは「自分に合った仕事など始めから存在しない。仕事を通じて自分の存在が認められる役割・場所を見つけ出すのだ!」としている。その通りである。
 次いで各メディアの問題点を探っていく。衰退の最大の要因として取り上げられる“ネット社会の到来”は無関係ではないが、むしろそれぞれのメディア内部にその病根があるとしている。例えばTV業界の場合、仕掛け(人・物)が大きくなり費用がかかるとともに、小回りが利かなくなってきていることに主因があるとしている。それに比べればラジオのフットワークは比べものにならぬほど軽いので、むしろ社会の変化に強いとみている。
 もっと大きな問題は、ジャーナリストの力が落ち“命がけで仕事をしている”という感じがしないことだと、取材活動などを例に説明していく。確かに紋切り方の質問で、まとめ方もステレオタイプの記事が雑誌でも新聞でも溢れているし、署名記事も少ない。名前が出ればいい加減な仕事(自社・自分の考えを、如何にも世の中一般の声であるかのように変えてしまう)は出来ないはずである。
 責任回避はさらに進み、医療ミスなどの報道に見る、問題の本質を誤らせる「正義」の暴走(この報道による世論形成はむしろ病院・医師の診療・処置回避に向かうことになる)や少数の特殊なクレーマーへの支持など、間違えとわかれば直ちに正すべきところだが、その気配も無く、病はいまや重度の状態に陥っているとしている。その通りである。
 この他今話題の電子出版と著作権問題なども取り上げ、読者が居るのにそれに応えられない出版界の現状を明らかにし、総じてミドルメディア(ブログのような個人メディアとマスメディアの中間的存在)に幽かな将来性を期待している。果たしてどうなるのであろうか?

5)数覚とは何か?  数に関する脳科学・神経科学の本である。動物に数の概念はあるか?赤ん坊どのくらいから数を意識し始めるか?それは脳のどこで認知されるのか?どのように?数に関する感覚が育まれていくか?著者はこんなことを研究している、もともとは数学者で認知科学・神経科学に転じた学者(フランス人)である。
 チンパンジーのみならず鳥さえも数を認知すること、人間は4ヶ月くらいからそれを認知し始める。ただし成人のそれとは違い、1,2,3それ以上は“沢山”という世界であるらしい。
この数の認知度は文字や発音の仕方とも密接に関係している。アラビア数字もローマ数字も漢字も3までは1・2・3、Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ、一・二・三とそこに物が在る状態そのものを表しているが4以降はそれが変わってくる。ローマ数字ではⅣ(4)は5(Ⅴ)引く1(Ⅰ)である。また発音では東アジアの発音は10進法で発音にきっちり規則性がある(10の次じゅう・いち;十と一、)であるのに対して英語ではイレブンとまるで規則性が無い(フランス語のカウント方式はもっと複雑)。さらに加減算を行う時ローマ数字では非常に表記が難しくなる(事実上出来ない)。こんな話を初歩的な数の認知から始め、優れた数学者の数の捉え方は常人と違うのだろうか?というような話題に踏み込み、天才たちの脳の構造の違いを骨相学の視点から分析した歴史やその誤りを指摘したりしていく。
 脳の中ではどの部分で如何に数が感知され演算処理が行われるのかを、脳に外傷を受けた患者たちの診断や症例からそのメカニズムを推論する。そしてこの“数覚”は右脳・左脳のバランスより成り(つまりかなりアナログ的)、成長過程にある脳は可塑性(柔らかく形を変える;スポンジではない)を持つので、抽象的な公理などを沢山ぶつけるより、始めは数に関するパズルや謎解きのような、好奇心を刺激する数遊びから入るのが良いのではないかと語る。
 残念ながら、硬くなってしまった脳を柔らかくする方法は書かれていないが、分かりやすい記述で、普段関心の薄い分野に興味を湧き起こしてくれたことに感謝したい。翻訳も特殊な分野だが良くこなれていて読みやすい。

6)乱気流  帯に「将兵300万、艦船6千 全軍の運命が予報士に託された」とあったので、「オッ!ノルマンジー上陸作戦だな」と思って購入した。確かにそうなのだが“直木賞と思って買ったら芥川賞だった”というのが率直な感想である。
 しかし、面白くないのかと問われれば「読み物としてはあまり面白くないが、新たな知識を得られたという点では満足だった」と答えたい。
 主人公はケンブリッジで物理を学んだ気象庁の若い予報士、そのバックグランドを長官に見込まれ密命を受ける。いまは地方で隠遁生活を送る、天気予報の画期的な手法を考案した、第一次世界大戦時の良心的兵役拒否者からそのメカニズムを探り出し、Dデイ(上陸作戦結構日)を決定する情報を軍首脳に提供することだった。話しの四分の三は主人公と隠遁者、その年若い妻との交流に関することで、この部分それぞれの心の内を語っていくので軍事サスペンスの緊迫感はほとんどないが、秘密を聞き出すためのアプローチとしては重要な意味を持つ。やがて少しずつ相手の心が開けてくるのだが、正確な内容をつかむ前に、主人公の過失で隠遁者が急死する。万事休す!と思いきや、実はその妻が詳細な内容を知っていたのだ。ギリギリのタイミングでDデイ前後の気象予測が可能になる。
 この隠遁者のモデルは実在の人物である。リチャードソンといい彼が考え出したリチャードソン・ナンバーは近代天気予報の先駆けで、現在の予報システムにもつながっている。ただ膨大な観測データから大気の乱流状態を計算し、気圧の変化を推定するので、レーダーやコンピュータ無しでは実用に大きな制約があった。初めにこの数値を計算した時には6時間の予想に2ヶ月かかったと言われている。この小説の中でも「6万人のコンピュータ(計算者)を大ホールに集め、前後左右の計算者がその計算値を相互に渡して予測する。計算が遅れているところはランプが点灯し、指揮者が督促する」という隠遁者の構想が出てくる。当に現在の並列処理スーパーコンピュータの人力版である。
 この本では、この英国式数値理論型予報に対して、米国は歴史的に蓄積した大量の気象データを解析する統計方式とっており、それらと競い合う場面も出てくる。さらに、米軍は上陸(一部は空挺)軍に二個大隊の気象観測部隊を同行させている(英国はそんな組織は無く、主人公はこの空挺グループに加えてもらう)。また、ドイツ軍の気象観測と予報についても触れており、軍事と数理に関して思わぬ収穫があった。
 1920年代そんなアイデアが発表され、それが現在につながっていることは、OR起源の防空システムの歴史と重なり、私にとってこの本を特別なものにしてくれた。
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2010年12月1日水曜日

決断科学ノート-52(ドイツ軍と数理-1;数理か占星術か)

 師事したランカスター大学カービー教授によれば、英米で軍事作戦の策定・実施に威力を発揮したOR(オペレーションズ・リサーチ;応用数学の一種)のような数理利用は、日・独・ソにはその形跡が無いと言う。そして、その最大の原因は権力とその意思決定構造(つまり独裁)にあのではなかと推察している。その上で「英米はORで戦い、ヒトラーは占星術で作戦を決した」と著書で揶揄している。彼の研究(英国のOR史と戦後の米国との適用比較)は、英米以外も取り上げ深く調査するものではなかったので、このような整理がされたのも頷ける(わが国の意思決定構造がヒトラーやスターリン治下の独ソと異なることは説明したが)。
 先の大戦における日本のOR利用に関しては、元防大教授の飯田耕司先生がまとめておられるが、これはいずれ別途本ノートで取り上げたい(戦略物資調達・配分から戦争の趨勢を予測)。ソ連については、横河在籍時代頻繁にロシアに出かけていた頃、セールスエンジニアにモスクワ大学工学部(原子力)出身のスタッフがおり、夫人も同大学の応用数学修士課程まで在籍したというので、「戦時のソ連におけるOR利用に関して、何か手がかりになるものは無いか聞いて欲しい」と頼んだが、期待するような答えは得られなかった。
 19世紀のドイツは世界で最も科学・技術の進んだ国であった。優れた数学者もそれ以前から多く輩出している。プロシャを中核とする大ドイツ帝国誕生のきっかけとなる普墺戦争・普仏戦争では鉄道が重要な役割を果たし、そこでの列車ダイヤ編成が速やかな兵力集中を可能にして戦争に勝利している。これなど、ある種の数理応用と言っていい。第一次世界大戦でも、航空機・潜水艦・戦車・通信など、後に戦略兵器に発展する近代兵器開発・利用で第一級のレベルにあった。その科学戦・総力戦に破れ、厳しい制約の下に留め置かれた国防軍は、再興を更なる科学・技術利用に求め、それを縦横に駆使できるプロフェッショナル思考を強めていく(英国のアマチュアリズム尊重と対照的)。スペイン市民戦争はその実験場となり、ナチスの巧みな宣伝もあって空軍力は世界を震撼させる。
 しかし、科学・技術戦への取り組みに関し、後の問題の芽が見え隠れもする。高性能にこだわるあまり、生産性や保守性が等閑にされるような点。また、戦術や戦略が兵器の後追いになったり、陸軍中心思想から脱却できなかったようなところにもみられる。ここから数より質、ソフトよりハード、そして遠くよりは近く(時間的にも距離的にも)と言う特質が浮かび上がってくる(例外として、潜水艦隊とロケット兵器があるのだが)。これらをナチス支配体制と結び付けて整理してしまうのは判りやすいが、果たしてそれでいいのだろうか?別のファクターがあるのではないか?これが私のドイツ軍と数理応用に関する基本的な疑問点である。
 兵器開発は工学が基になる、その理論体系は数理によって構築される。従ってこの面でのドイツの力は当に最先端にあったといえる(戦後の米ソ軍事技術がどれだけ彼等の研究開発に依存したことか!)。ハードとの関わりが少ない分野でも、暗号技術や気象観測などでは数理応用に連合国側に遜色ない。大規模作戦研究では兵棋演習(戦争しミューレーション)を、当然数理を用いて行っている。資材・兵器需給計画然りである。にも関わらず日常の作戦策定・実施ではOR的発想が全く見当たらない。何故か?
 ぼんやり見えてきたのは、“システム思考(あるいは統合的思考)が希薄なこと”である(狭い範囲のシステム思考はあり、課題とシステムがマッチした時には見事に成功する:西方電撃戦、独ソ戦の初期;いずれも陸軍内の装甲軍、あるいは初期の潜水艦戦争;海軍の中でも独立した艦隊:大きなシステムで捉えられないのは日本も同じ:この点では英米と差がある)。専門分野を跨ぐ人材交流、組織間(各軍、軍民)協力、異なる兵器体系の協調運用などに制約があり、柔軟な組合せから新たな発想が生まれる機会が少ないことである。言い換えれば部分最適化に留まる傾向が強いのである。これはもしかすると、権力構造に加えて、国民性・民族性(それぞれの専門分野への強いこだわり;例えば、マイスター制度)なのではないかという気もしてくる。
(次回予定;電撃戦と兵站)