2011年9月29日木曜日

決断科学ノート-90(大転換TCSプロジェクト-27;和歌山工場導入-1)

 次世代プロセス制御システム、TCS(Tonen Control System)について、システムそのもの(道具)の話が長く続いた。ここからは話題をその利用面に転じていきたい。
 1962年に入社して7年少々和歌山工場に勤務した。当時の東燃にあっては川崎工場が最新鋭であったが石油精製に関しては石油化学への原料供給部門の色彩が強く、精製の主力は依然として和歌山にあった。人材も豊富で錚々たるメンバーが揃っていた。プロジェクト計画が立ち上がると、大小に関わらず「こんどはどんな新しい技術があるんだ?」と部課長に問われたものである。しかしこう問いかけるからと言って、新しい技術ならばすんなり受け入れられるわけではなく、その効用を厳しくチェックされるのが常だった。焼き入れ焼鈍しを繰り返し、何度も叩かれてプロジェクトも人も鍛えられる。そうして実現した一つが初代のSPC(Supervisory Process Control;主に高度なプラント制御で利益を生む)/DDC(Direct Digital Control;比較的単純な制御を専用コンピュータだけで行う)システムである。
 この初代システム導入でプロジェクトエンジニアを務めた者として、外野(川崎工場)に在っても、もう一度チャンスがあればあれもこれもとの思いは多々あった。進歩の早い情報技術 に携わっていればいくらでも“新しい”夢は膨らむものなのだ。しかし、現実は二度の石油危機を経て和歌山工場の歴史の長さと相俟って予想以上に厳しい状態に置かれていた。「今度は何が新しいんだ?!」は道具そのものではなく、専らその使い方を徹底追究する視点に変わってきていたのである。それも工場の若手を鍛えるのではなく、経営者・管理者が自らに問いかける課題としてである。
 どこの製造業でも同じ目的・形態の工場が複数あるとその比較が行われる。工場経営者・管理者の成績表とも言える。Exxonはそれをグロ-バルに行っている。エネルギー利用効率、人員数、保全費、連続運転時間、事故発生件数など比較項目は多岐にわたる。和歌山工場は安全では抜群の成績を長期に続けるなど優れた指標もあったが、省エネルギーや人員数では見劣りがしていた。古い工場ゆえのハンディキャップであることは本社やExxonも理解はしていたが、工場としては少しでもこれを改善したいと願うのは当然である。石油需要が飽和し、全面的な設備更新など考えられない環境下で、この次世代プロコンシステム導入を機に工場経営の改革・改善を期待する空気が一気に高まった。
 ポイントは二つ、プロセスクレジット(省エネルギーや収率アップなど)の更なる追求、人員合理化の徹底である。前者では、第一世代では大型で比較的容易に効率改善につながるプラントのみ行ってきたコンピュータ制御の対象を中小プラントにも広げ、かつ相互につながるプラントの総合的な効率を上げていくこと。後者では、多数散在する計器室を集約し、併せて運転体系を見直して合理化を図ることがその中心的なテーマとなった。しかもこれらを連携させ、さらなる相乗効果をも目論む。目指すのは“古い設備を使っての新しい工場経営”である。
 本来設備償却期限に達した設備の取替え予算は、新設と違いR&R(Repair and Replacement;修繕・取替え)の区分になり経済性はそれほど厳しく問われない。しかし、この和歌山工場の挑戦は単純なR&Rの範疇では片付かず、これを実現するには幾多の困難があったのである。

(次回予定;“和歌山工場導入”つづく)

2011年9月27日火曜日

道東疾走1300km-20;クロージング

 予定通り苫小牧港を7月11日18時45分に出港した“さんふらわあ・ふらの”は、ダイヤよりは若干早く翌12日13時30分大洗港に到着。途中の航海は往き同様穏やかなものだった。水戸大洗ICで北関東自動車道に入り、常磐道→首都高中央環状線→湾岸線と走り約3時間で自宅に帰りついた。

 私のドライブ旅行は、景色や名所巡り、グルメも関心事ではあるが最大の楽しみはクルマの“走り”にある。ただ幹線国道や自動車専用道路の、トラック輸送の流れに身を任せるような走行は単なる移動であって“走り”とはいえない。その点で今回の道東ドライブは本州のそれとは比較にならぬ楽しいものだった。先ず自動車専用道路はトンネルや掘割が極めて少ないので展望が開け快適だ。一般道も集落、交通量、信号が少なく、長い区間をマイペースで走れる。ベストは網走から美幌峠を越え、弟子屈から道道53号線で釧路湿原の西側を行くコース。起伏や曲がりも適度に在り人車一体感を心ゆくまで堪能した。次いで良かったのが日高富川から南富良野までの273号線。ここは“樹海ロード”とも呼ばれ、途中町と言えるのは占冠くらい、ほとんど無人の山中を行く。高くはないが峠越え(金山峠)も在るので、アクセル加減・ハンドル捌きに変化が楽しめた。平坦な道では、短い距離ではあったが、網走から小清水原生花園へのオホーツク海沿いの道も“最果て感”がなんとも言えなかった。

 アメリカの州は愛称を持つ。代表的な一例はニューヨーク州の“エンパイア・ステート(帝国州)”だろう。その南隣、ニュージャージは“ガーデン・ステート(庭園州)”と呼ばれる。有名な庭園があるわけではないが、地域全体が庭園のようなのだ。それに倣えば、道東は差し詰めわが国のガーデン・ステートと言っていい。それは数多く存在する個々の庭園だけでなく、適度に起伏がありながら広々とした景観も楽しめる地形があるからだ。ただチョッと不満は、個人経営の庭園は規模が小さく散在していることで、全体と個のバランスを欠き、“ステート”と称するにはもうひと工夫必要と感じる点である。そんな中で割りと良かったのは十勝ヒルズとパノラマロードで、花々とそれに繋がる遠景の緑や山々の組み合わせが見事だった。
 旅の楽しみの大きな要素に“食”がある。最近、日本旅館を避ける傾向にあるのは、食事が種類・量とも多すぎるところにある(食糧難の時代に育ったので残すことに罪悪感を感ずる)。今回それを避けるために網走・釧路は宿・食を別にした。しかし、海の幸を楽しむための店の選択とオーダーを確り考えなかったので、ここでも“多すぎる”過ちを犯してしまった。奥の細道ドライブの酒田のように、地魚中心の鮨+αくらいで済ますべきであった。それに引きかえ、富良野のフレンチと新得のラム料理はいずれも質・量ともに満足できた。黒部・飛騨ドライブでも高山牛のフレンチが一番だったことを考えると、これからは洋風を中心に旅の計画を立てようかとも思っている。
 宿は全てホテル。リゾート(富良野)、ビジネス(網走、釧路)、ペンション(新得)と泊まったが、いずれもそれぞれの選択要件を満足させてくれた。ベストは値段もあるがフラノ寶亭留。この地を再び訪れる機会があったらやはりここを選ぶだろう。中高年齢向けの洗練された小ホテル(家族連れや若者グループが来ない)はこれからのニッチマーケットに間違いない。
 反省は“走り”と観光のバランスである。このシーズンこの地域に行くことは花や緑が目玉になる。私の好み、“走り”を優先したことによりこのバランスが崩れた。特に二日目の富良野から網走への行程は、計画段階から距離と時間に疑義を感じていたのだが、一応算出データに依ることにした。その結果富良野から美瑛の観光スポットを大幅に端折ることになり、最終日半日、再び駆け足で見て廻ることになった。本来なら富良野に少なくとももう一泊して、ゆっくり花と景観を愛でる時間を作るべきであった。
 全走行距離は1655km、満タンベースのガソリン消費量は142l、燃費は11.65km/lであった。これもまずまずの成績である。

 春に大震災で高野山から紀伊半島深奥部へのドライブ計画を中止、結果このドライブ行が実現した。船旅も含め大遠征だったが、“走り”と言う点で今までこんな楽しいドライブは無かった。来月には二番目の孫が誕生予定だから秋のドライブは諦めざるを得ない。今年はこのドライブ一つで終わるが、“走り”に関しては最も充実した一年となるだろう。
(完)

   ー 長期にわたり連載をご愛読いただき有難うございました ー

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2011年9月24日土曜日

道東疾走1300km-19;パッチワークの路

 パノラマロードは花人街道(237号線)の東側の農道をぬっている。次の訪問先、パッチワークの路はそれとは反対に花人の西側を走る。位置関係は後者が北になるので富良野からさらに遠くなる。パノラマロードの見所を訪ねた後、美馬牛駅付近を経由して237号線に戻り、しばらく北上して北西に向かう間道に入り目的地を目指す。前を走るレンタカーはヒュンダイ(韓国)製だ。
 ここも一本の路があるわけではなく、TVコマーシャルでいっとき話題になった“ケンとメリーの木(自動車;スカイライン)やマイルドセブンの丘(タバコ)などいろいろな“名所”に立ち寄りながら廻るのだが、パノラマロード同様地方道・農道をあちこち徘徊しなければならない。あとのスケジュールもあるのでそれほど時間に余裕があるわけではないので、その一帯で一番高いところにあると思われる“北西の丘展望公園”を目指すことにした。そこからならパッチワーク状に色彩が変わる畑地・牧地が一望できるのではないかと期待した。
 国道を離れて10分も走らぬ内に、丘の上に白いピラミッド状のモニュメントのようなものが見えてきた(写真上右)。やがて着いた丘の上には広い駐車場があり、七割くらい埋まっている。人気スポットなのだ。ピラミッドと見たのは展望台で、ここからの視界は360度開けている。全体的な景色は、先ほど訪れた三愛の丘からと同様、丸みを帯びた畑地が幾重にも続き、遥か先の山脈の麓へと繋がっていく。しかし、東は花人街道が走っているので結構建物が多く、それが南北に延びているので、今ひとつインパクトが弱い。一方西の方は意外と山が近く開放感を欠く(写真上左)。一言で言うと、雲が出てきたせいもあるが、パノラマロードを見た後では感動を覚えるような場所ではなかった。
 やはりこれはネーミングの由来通り路を走り、色彩の違いを楽しむところなのだろう。この時期ならば、緑の中に黄色(ひまわり)や白(じゃがいもの花)が整然と区切られ、あたかもパッチワークのような景観を作り出しているはずだ。しかし、展望台からはそれほど明確な色違いは見えなかった(写真右)。場所が適当でなかったのか?はたまたシーズンが悪かったのだろうか?最後の観光スポットとして満たされぬ思いが残る場所だった。
 12時少し前この地を離れ、あとは到着時走った道(237号線南行き)を戻り、占冠の道の駅で昼食を摂り、日高富川から日高自動車道経由で苫小牧港着は4時過ぎ、5時乗船開始だから丁度いい時間である。乗船する“さんふらわー・ふらの”は既に接岸していた。
 この日の走行距離は今回のドライブ行で最も長く325km、5日間の道内総走行距離は1280kmであった。

(次回予定;クロージング;最終回)
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2011年9月22日木曜日

決断科学ノート-89(大転換TCSプロジェクト-26;派米チームの苦闘-4)

 国内初導入のACSを確り理解してくる。派米チームのSE全員に課せられた使命である。何か不都合があったときには、自社で診断・処置(少なくとも応急的な)を出来ることが求められるレベルである。なにしろ日本IBMですらOSKさん一人しかSEは居らず、彼も東燃メンバーと一緒に教育訓練を受けている状態なのだから、しばらくの間は自前の対応能力が不可欠なのだ。
 ACSはそれまでのプロセス・コンピュータ(プロコン)とは違い、世界の大型汎用コンピュータの事実上の標準機、IBM370系(360→370(当時)→3090、中型機;4300)の上で動くシステムだ。汎用機の歴史は長く、応用範囲も広い。プロコンとは全く違う、バッチ処理(個々のアプリケーションを一づつ順番に処理する)で大量・複雑な計算処理を行う。それに対してプロコンは、実時間で起こる状況に即した情報処理を行えなくてはいけない(順不同のリアルタイム処理)。基本的な性格が違うのだ。何故そんなものを使うのか?詳しい説明は省くが、汎用機はマーケットが桁違いに大きいので技術開発の進歩が早く、かつ継続性に優れている(古いソフトがいつまでも使える)。また利用状況に応じたサイズの選択や拡張性の幅が広い。
 この利点をリアルタイムの世界で享受しようと最初に考えたのはNASAである。そのためにはバッチ処理をベースとする汎用機基本ソフト(O/S;VM、MVSなど数種類あり、目的・容量によって使い分ける)とリアルタイムで動く適用業務をつなぐソフト、リアルタイムO/S(いずれの汎用機O/Sとも連動する)が必要になる。ここで開発されたのがSRTOS(Special Real Time O/Sの略か?)と呼ばれる特殊なO/Sである。つまりアプリケーションは、ACS・SRTOS・汎用機O/Sと三階層の基盤の上で動くのだ。派米チームメンバーは第一世代の専用機のリアルタイムO/Sには通じていても、汎用機のO/Sを扱った経験は無い。技術者としての苦労がそこにも在った。
 IBMのACS専門部隊はNASAとの関係もあってかヒーストンに活動拠点があった。石油業との関係でも最適の場所だ。ACSがIBMとExxonの共同開発となったのも、この地の利も関係しているかもしれない。派米チームとACS部隊との交流が始まり、現地からのレポートに専門家同志の信頼関係醸成の雰囲気が伝わってくる。しかし、ニュージャージとヒューストンでは距離がある。“何かあったら、いつでも”と言うわけには行かない。そこに現れた助っ人がIBM NJオフィス(EREも顧客の一つ)のMauro Castelpietra(マウロ)である。
 マウロはイタリア人、イタリアIBMに入社後その高いプログラミング能力を認められ米国に派遣、いつからACSに関わるようになったかは不明だが、この時は既にACSのスーパープログラマーとしてExxonの関連業務に深く関わっていた。TKWさん、YNGさん、ITSさんから聞かされたところでは、「ACSのみならず、三階層のソフトが完全に頭に入っている」と言うことであった。当にACSのレオナルド・ダ・ヴィンチである。和歌山にACSが導入されると来日の機会も増え、多くの日本人SEが彼の高い能力に魅入られるようになる。
 このIBM専門家との交流を裏で支えてくれたのがMichael Bareau(マイク)というERE担当営業である。彼は英国人、これも母国から米国に移り何とマンハッタンに居を構え、NJに毎日出勤していた。東燃にACSが導入され、それが国内他社にも採用されるようになると、日本での成功例を世界にPRする仕掛けを考えてくれたのも彼である。
 このような交流は一方的に東燃が学ぶばかりではなく、彼らにこちらの技術力・プロジェクト実行力の高さを認識させる機会にもなった。のちにTCSを外部ビジネスに出来たのも、この時の派米チームの努力のお陰である。

後日談;
 マウロはIBM退職後イタリアにもどったが、ACSユーザーのために今でも自宅をベースにコンサルタントを続けている。2008年10月彼の家を訪ね一宿二飯の恩義に預かった(本ブログ、篤きイタリア-1(カテゴリー;海外、イタリア)参照)。
 マイクはIBM退職後OSI Software社(日本の総代理店は数年前までSPIN)の営業などを行っていたが、本年5月28日大腸がんで亡くなった(74歳)

P.S.;派米チームの活動については直接関係する立場にはなかった。従って同チームに関わる話題は、派米メンバーが送ってくれた公私信(手紙)や中間で訪米し現地での課題整理・慰労に当たったMTKさんらの話しに基づいています。年月も経ち、記憶が定かでないこともあって、不正確な点(特に、時期・人名・所属・役職)が多々生ずる恐れがあります。本ブログの読者でこれに気付いた方は下記メールアドレスに修正情報をいただければ幸いです。逐次記事の中でそれを正して行きたいと考えていますので、よろしくご協力をお願いいたします。

メール送付先;hmadono@nifty.com
(次回予定;和歌山工場導入)

2011年9月20日火曜日

道東疾走1300km-18;パノラマロード

 いよいよ道内最終日(7月11日)。夕刻5時頃には苫小牧港に着いていなければならない。計画段階では、この日は特に観光スポットを決めていなかった。この辺りの山岳ルートを走り、かつての炭鉱の町夕張に寄って、道央自動車道で苫小牧に至る道などを一応想定していた。しかし、今回のドライブでファーム富田を除けば、期待はずれだった花人(はなびと)街道がどうしても気がかりになっていた。8日網走のホテルに着き、忘れ物の件でフラノ寶亭留と電話でやり取りした時、新得と富良野が極めて近いことに気付かされた。「一層のこともう一度富良野へ行くか?」 これに草花を愛でるのが目的でこのドライブ行に同道した家人が賛成しない訳がない。こうしてパノラマロードとパッチワークの丘を足早に(本来ならそれぞれに一日要する)廻る案が決まった。
 当日早朝の新得は晴天だったが、出発する頃(8時半)には大分雲が多くなっていた。ルートは38号線を北に向かえば南富良野で花人街道(237号線)に合流する。少し先には十勝連峰の山々が横たわり、重連の蒸気機関車が雪原を進む雄姿で有名だった狩勝峠が控えている。山に近づくにつれ雲は厚く低くなり霧に変じていった。ヘッドライトを点灯して慎重に進む。残念ながら峠越えは濃霧の中、標識が辛うじて読める程度である。幸い霧は平地に下ると晴れていた。
 7日に給油したモービルのSSに再び寄り、見どころとルートを確認するが「あそこは言葉では説明しにくいなー」と地図をくれそれで説明してくれる。此処からはパノラマロードが先になり、美馬牛(びばうし)の駅が当面の目標だと言う。花人街道から分け入ってたどり着いた駅舎はまるで納屋のように小さい(写真上右)
 その駅前の地図看板で、SSお薦めの三愛の丘と四季彩の丘を確認。先ず三愛の丘を目指す。道は緩やかな丘陵地帯をぬう農道でいたる所で分岐、ナビ無しではとても走れない。しかし高みに上るに従いだんだん風景が開けていき、展望台からは東西北の三方に、波打つような畑地がどこまでも続く、雄大な景色が一望できる。期待していた“北海道”がそこに在った(写真上左)
 次に訪れたのは四季彩の丘。此処への移動も複雑に走る農道の中だ。確かに「言葉では説明できない」に納得だ。広い花畑が傾斜地に広がるのが売りの有料庭園。遥かに望む緑の丘と色とりどりの花々のコントラストが美しい(写真下二葉)。海外からの観光客も多いようで、中国語や韓国語が飛び交っている。広い園内を、トラクターが牽引する客車に載り見学するツアーも人気があるようだ。ただ、8日見学したファーム富田に比べると景観は優れているが、何か落ち着かない。商売臭が強すぎるのだ。入り口辺りの密集を如何に避けるかがこういう施設の雰囲気を分ける鍵と感じた(ファーム富田も商業施設はあるが、いくつかに別れ、入場無料のため、出入り口とも重ならない)。
 パノラマロードは他にも見所が多々あるのだが、スケジュールの関係で端折らざるを得なかった。時間があれば、どこかに車を止めて、ゆっくり歩いて廻るのが正解なのだろう。

(次回予定;パッチワークの丘)
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2011年9月17日土曜日

道東疾走1300km-17;ヨークシャーファーム

 最後の道東はどこに泊まるか?最終日のスケジュール、フェリーの出発時間(17時乗船)を勘案しながらいろいろ考えた。帯広、日高地方、襟裳岬などが候補に上がったが、観光スポット、食事、道路事情、時間などどれもぴったりこない。帯広周辺を当たっているとき、ガイドブックでフッと目にしたのがヨークシャーファームである。“子羊料理のレストランでペンション併設”とある。場所は新得だから、帯広に泊まって夕食だけとはいかないが、此処なら翌日の選択肢がいくつも選べる。Webで調べるとホームページ(HP)があり、当地出身者でサラリーマンの経験もある人が、郷里に帰り“英国の農場B&B”風を目指して始めた所と分かった。コッツウォルズで泊まった歴史のある旅籠(羊亭)を思い出した。口コミの評判もいい。とりあえず予約した。ディナーにラム料理を指定したことは言うまでもない。
 予約の仕方がチョッと変わっていた。インターネットで予約すると折り返しOKの返事が来たのだが、支払いはクレジットカードはダメで銀行カードか現金で支払い。予約金を指定期日までに指定銀行・信用金庫へ払い込むようになっている。チョッと不便に思い、HPを操作していると、英語で書いた予約ページが現れ、ここではクレジットカードがOKなのである(英語のスペルに誤りがあるのも手作り感覚でご愛嬌)。確認のために電話してみると「あれは外国からの予約に応えるためのものです。国内の方は振込みでお願いします」とのことだった。
 場所は新得の町(駅)の少し北、国道38号線に面しているが、母屋までは少し距離があるので車の往来が気になることはない(写真右上)。敷地へのドライブウェイは砂利道だ。一階はレンガ調、二階は白壁、屋根の色は灰色の建物が緑の中に佇んでいる(写真左)。裏は広大な羊牧場が遥か先の森まで続いている。外見は確かに英国を髣髴させる。中へ入って「ちょっと違うな」と思ったのは内部の壁や仕切りに、コンクリートブロックがそのまま使われていたことである。英国ならばここは石積みだ。
 一階はロビー、食堂や調理室などコモンスペース。客室は全て二階にある。部屋にはユニットバス、空調、TVも完備して快適でプライヴァシーを保てるようになっている。これなら外国人にも充分通用する。
 夕食は7時から、名物のラムステーキをメインとするフルコースだ(とは言っても、あとはパン、スープ、スモークサーモン付きのサラダ、デザート、コーヒーだが)。このステーキ目当ての、食事だけのお客さんも居るようだ。外国人を交えたグループ、土地の人と思しき家族連れでレストランはほぼ満席になっている。
 ステーキは量と言い味と言い申し分なかった。給仕をしている娘さん(多分オーナーの次女;HPによればこの人が跡を継ぐようだ)に「期待通りだったなー」と言ったところ「アー、良かった!」といかにも嬉しそうな笑顔で応えてくれた。家族経営の良さが伝わる瞬間が、こう言う所へ泊まる楽しみの一つである。
 翌朝部屋が東向きだったので、明るい陽光で早く目が覚めた。朝食前に農機具小屋で長靴に履き替え、露に濡れる牧場を散歩した。羊たちは毛を刈られ丸裸。まるでヤギのようだ(写真右)。牧場の外延を西欧人の女性がジョギングしている。母屋近くの木からおばあさん(多分オーナーのお母さん)がブルベリーのようなものを摘んでいる。聞くと“ハスカップ”とのこと。聞いたことも無い果物?だ(あとで調べると、アイヌ語で“ハシカプ”)。これをジャムにして朝食に供するのだと言う。数々の手作りサービスに感謝。

P.S.7月8日網走へ発つ朝、フラノ寶亭留に下着の着替えを風呂敷包みに入れたまま、部屋に忘れてきた。網走のホテルから電話し、ヨークシャーファームへの転送を頼んだ。チェックインのとき無事回収できた。回送料は950円也。

(次回予定;パノラマ・ロード)
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2011年9月15日木曜日

決断科学ノート-88(大転換TCSプロジェクト-25;派米チームの苦闘-3)

 日本初のACSの導入、それとCENTUMとの結合を5月中に完成させると言うミッションの他にも派米チームを煩わせる仕事があった。最初のシステムの適用先は和歌山の石油化学プラント、BTX(ベンゼン・トルエン・キシレン)製造装置になるが、ここへの設置とその後の運用・メンテナンスは、中央サポートチーム(派米チームとメンバーと重なる)の他に、これらプラントや既存(第一世代)システムをよく知るメンバーが日常的に当たることになっていた。その保守要員の教育訓練を、スケジュールの関係で、EREで行うことになった。派米チームは自ら新技術を学びながら一体化システムを開発し、さらに彼らのサポートもしなければならないのだ。
 この計画がいつどのように決まったのか記憶が定かではない。しかし、5月帰国後実機の結合テストを横河(三鷹)で行い、それを和歌山に移して現場設置・繋ぎこみとテスト。それが済むとアプリケーション・エンジニアによる個々のアプリケーションの新規システム組み込み・既存システムの移設(ロジックは同じでも書き換えが必要)、プラント運転員の操作訓練を終え、9月には新システムでスタートアップしなければならない。また日本IBMすらACS専門家養成のため、要員を派米していたくらいだから、国内での教育コースなど開ける状況に無かった。トレーニングはこの時期に米国で行うしかなかったと言える。
 メンバーとして選ばれたのは、当時SPCの面倒を見ていたMYHさん、計装でDDC保守を担当していたKTAさん、工場生産管理システム開発に従事してIBM汎用機に詳しいYSKさんの三人である。これらの人たちは、もともとプラントの運転員や計器の保守員として採用され、適性を認められコンピュータ関係の職種に転じた経緯を持つ。従って、コンピュータ言語については詳しいものの、日常的に英語に触れる機会はほとんど無い環境で過ごしてきた。突然長期(確か二ヶ月くらい)米国出張を命じられ大いに戸惑ったに違いない。
 教育はIBMのACS専門家によって行われる。言葉は当然英語である。内容によっては先発の派米チームや日本IBMの担当者も同じクラスに参加して講義を受ける。つまり中身もきわめて高度なものである。少々の英語に関する知識・経験があったとしても容易に理解できるものではなく、その苦しみは想像に難くない。多分それは教える方にもあったのではなかろうか?やがてこの和歌山チームは“Wait(Stopだったかもしれない)”と言う看板を用意し、分からなくなるとこれを掲げて講義を止めて、先発メンバーの力を借りながら、その不明を質したという。
 こうした場面での負担は主に、TKWさんとYNGさんの二人にかかってくる。この時期の滞米メンバーの中で、英語力が抜きん出ていたからである(無論専門分野でも優れているが)。TKWさんは高校時代一時AFS(アメリカン・フィールド・サービス;高校生版フルブライト留学)に応募することも考えたほどだし、YNGさんはこれに先立ちプロセス・エンジニアとしてEREに長期派遣(確か2年)されている。
 この苦労はトレーニングに限らず、当然日常生活にも及んでいる。買い物、食事、偶の息抜き。送られてくる手紙の端々に、精神的に張り詰めている状態が伝わってきた。現地ではもっとピリピリしていたに違いない。
 これは後日談になるが、TCSを主力製品・サービスとする新規事業を立ち上げ、展開する中で、先発派米チーム、和歌山チームの面々が大活躍することになる。この時の苦しい局面を耐え、突破できた体験がそれに生かされていると確信させられた。

P.S.;派米チームの活動については直接関係する立場にはなかった。従って同チームに関わる話題は、派米メンバーが送ってくれた公私信(手紙)や中間で訪米し現地での課題整理・慰労に当たったMTKさんらの話しに基づいています。年月も経ち、記憶が定かでないこともあって、不正確な点(特に、時期・人名・所属・役職)が多々生ずる恐れがあります。本ブログの読者でこれに気付いた方は下記メールアドレスに修正情報をいただければ幸いです。逐次記事の中でそれを正して行きたいと考えていますので、よろしくご協力をお願いいたします。

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(次回予定;“派米チームの苦闘”つづく)

2011年9月13日火曜日

道東疾走1300km-16;六花の森・紫竹ガーデン・十勝千年の森

六花の森
 北海道を走っていると、空間・時間感覚が北米大陸をドライブした時に近くなる。地図上で見た目標は直ぐ近くに感じるのだが、意外と時間がかかるのだ。特にここ十勝平野ではその感を強くした。十勝ヒルズを出たのは11時過ぎ、平らで似たような道道・農道を、ただカーナビを頼りに走るのだが、なかなか目的の六花の森に着かない。距離が35kmだから30分強と思っていたのが1時間半近くかかった。途中で一時有名になった幸福駅の前を通った。もう鉄道は走っていない。
 六花の森は、北海道を代表する数々の銘菓を製造販売する六花亭の工場に隣接した森林と庭園から成る公園。広々した芝生の丘には巨大なロダンの“考える人”があり(写真上、庭園内にはいくつかのログハウスの休憩所や展示館があって、花模様の包装紙を描いた画家などの作品が展示されている。園内には小川が流れ、深い森に吸い込まれていく(写真左)。花畑には、はまなし(はまなす)の花が今を盛りと咲いている。この庭園は花を見せると言うよりは、企業のメセナとして運営されているようで、観光臭が抑えられているのが良い(売店を兼ねた受付のおみやげのお菓子の種類もごく限られていた)。レストランがあれば昼食としたかったが、そんな訳で食事は次の紫竹(しちく)ガーデンまで我慢となった。出発時間は1時半になっていた。


紫竹ガーデン
 旅行計画段階から予定していた紫竹ガーデンは、再び碁盤目状の農道の中を走って30分。付近の道路には観光バスが2台駐車し観光客が乗り降りしていた。入口近くに砂利を敷いた小さな駐車スペースが在ったのでそこへ止めたが、少し離れた別のところ大駐車場があるようだ。入場すると直ぐ右に売店とレストランが併設された建物があるのでそこで遅い昼食を摂る。
 この庭園は“ガーデン街道”の始祖とも言えるもので、紫竹さんと言うお金持ちの未亡人が理想の庭園を作るために、牧場(1万8千坪)を買い取り開いたものだ。創設者自身は元々一園芸愛好家に過ぎなかったが、趣味が嵩じて花の栽培や庭園作りに傾倒、NHKの趣味の番組にも登場、テキストなども書いてこの世界の有名人になる。今では株式会社形式で経営され、その社長でもある。広大な庭園は22のゾーンに分けられ、約2500種の花々が季節ごとの美しさを見せてくれるとガイドブックに紹介されている。
 と、ここまでは出発前に得た知識である。確かに広い。いろいろな花が咲いている。一見自然との調和も図られているように見える(写真上)。しかし、グランドデザインが何か人工的な雰囲気で雑な感じがする(アマチュアの限界?)。らせん状の草花をサポートする道具がやけに目立つ。白いテーブルや椅子、あずまや(写真左)、長方形の芝生状の広場など、どうも今ひとつしっくりこないのだ。広いせいもあるが細部のメンテナンスも充分とはいえない。もしかするともう高齢で現場に足繁く出向いて指示していないのではないか?そんな思いがふと頭を過ぎった。やや期待外れと言っていい。


十勝千年の森
 本日の最終訪問地、十勝千年の森はそれまでの三ヶ所(帯広の南西)とは少し離れ日高山脈の麓に在る(帯広の遥か北西)。ここを選んだのは今日の最終目的地、新得に近いからである。紫竹ガーデンからもカーナビにお任せ、始めはそれまで同様の農道(その中には広域農道と言う一級国道並みの道もある)。しばらくすると北へ向かう緩やかな上りの地方道を進む。時々一車線ぎりぎりで草が覆いかぶさるような道まで走らされる。所要時間は約1時間。3時半に広くよく整備され、緑の多い駐車広場に到着した。西日がきつく、明るい。まるでアメリカの公園へ来たような気分だ(写真上右)
 ここは十勝毎日新聞社という地方コンツェルンが経営しており、駐車場の角にあるお土産物屋を兼ねたビジターセンターの大きさからして、今までの庭園とは規模が違う。公園の広さはガイドブック・案内パンフレットにも載っていないが、多分意味が無いからであろう。トレッキングやセグウェイ(アメリカで発明された、立って乗る電動二輪車)のコースまである。おすすめ順路は約3時間。とてもこんなに時間は使えない。ビジターセンターから料金所まで続く森を抜ける遊歩道を歩く(この間は無料)。料金所で「どちらから?」と聞かれたので「横浜から」と答えると「今日は道外からのお客様が多いです。有難いことです」と謝意を表された。有料エリヤの入り口に近い庭園(これも英国人設計のイングリッシュガーデン)を一巡して(写真上左)、ビジターセンターに戻り、ここで濃厚なミルクで作ったソフトクリームを堪能して本日の観光を終えることにした。
 駐車場から今朝走ってきた国道38号線(十勝国道)まで出て、北へ約40分、今日のゴール、ヨークシャーファームに着いた。夕日の中、どこからか羊の鳴き声が聞こえてきた。
 本日の走行距離228km。

(次回予定;ヨークシャーファーム)
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2011年9月10日土曜日

道東疾走1300km-15;森と庭園の国へ

 計画検討当初から、この日(7月10日)の予定ははっきりしていなかった。前日の釧路湿原で過ごす時間が読めなかったのと、帯広を中心とする十勝平野の見所が、紫竹ガーデン以外絞りきれなかったからである。もし前日湿原で充分時間が取れなければ、翌日午前を費やしてもいいようにしておいた。宿泊先もはじめは帯広駅付近を考えたが、魅力に乏しい。せめて美味しいものでもと思ったが、名物“豚丼”の写真は見るだけで食欲を殺ぐ。そんな中で見つけたのが、帯広と富良野の中間にある新得(しんとく)のラム料理を売りものにする農場ペンションだった。こうしてこの日のゴールだけは予め決まっていた。
 当日は朝から好天、湿原は前日堪能できたので、フルに帯広・十勝観光に使える。朝食前に手持ちのガイドブックで、急遽プランを検討。分かってきたのは紫竹ガーデン以外にもこの地方に多くの庭園や森林公園があることだった。何と、ここから富良野、旭川に至る“北海道ガーデン街道”の七つの名物庭園のうち五つがルート上にあるのだ(他の二つは既に訪れた富良野の“風のガーデン”、これを作った旭川の“上野ファーム”)。これらの庭園・公園を巡ることにこの日を費やすことにした。
 事前調査では釧路から紫竹ガーデンまで約150km、5時間弱かかることになっている。しかし道内を走った実績から、おそらく4時間くらいで達することができると読んだ。一ヶ所で見学に1時間かかるとして5時間。そこから新得までが60km弱、これもNAVITIMEの予想では2時間だが1時間半で行けるだろう。それでもトータル10時間半。8時半に出ても到着は夕方7時になる。予約した夕食時間は7時なので何かあるとチョッときつい。そこで訪問個所を4ヶ所に絞ることにした。落としたのは植木を中心とする真鍋庭園。訪れるのは東から西へ、十勝ヒルズ→六花の森→紫竹ガーデン→十勝千年の森である。
 釧路からの道路は富良野を経て道央の滝川まで通じている国道38号線、先では7日・8日に走った花人街道(237号線)とも重なる道だ。出発は9時になったが、日曜の朝で空いている。ここから帯広までは海岸沿い・平野部を進むので高低差は極めて緩い。根室本線と併走するので時々集落が現れ、速度制限が変わる。生活のための車(主に軽自動車)とも行き交うので、昨日のように唯我独走と言うわけにはいかない。幕別で国道を離れ、地方道を南西にしばらく進むと、広々とした農地につながる緩やかな小丘陵が見えてくる。その頂一帯が十勝ヒルズであった。

 大きな門柱の先に広い駐車場があるが車は一台もいない。高い生垣の先が庭園のようなのでそこまで行ってみると、生垣の裏に小駐車場があり十台位駐車している。“Welcome to 十勝ヒルズ”(写真上)。到着は11時過ぎだった。

 十勝ヒルズは個人が経営する観光庭園。この丘の上から北西方面が開けており、そこにお花畑や庭園が広がる(写真中)。遥か先には帯広の町、更にその先に十勝連峰の山並みが望める。庭園全体は幾区画かの小庭園に整理されており、季節によって約1000種の草花が楽しめるようになっている。しかし、基本は自然と景観とのマッチングを重視するイングリッシュガーデンの系統で、整然と区切られたお花畑然としていないところが好ましい(写真下)。結論を先に言ってしまえば、四つの庭園・公園の中で最も自分の好みに合っていた。

(次回予定;六花の森・紫竹ガーデン・十勝千年の森)
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2011年9月8日木曜日

決断科学ノート-87(大転換TCSプロジェクト-24;派米チームの苦闘-2)

 派米チームの仕事は、次世代プロセス・コントロール・システムを構成する二つのシステム、ACS(IBM製品のSPCシステム;Supervisory Process Control)とCENTUM(横河製品のプラントに直結するDCSシステム;Distributed Control System)を統合したシステムとして動くようにすること、新システムのアプリケーション基盤を細部まで理解し、場合によって第一世代で使われてきた各種の約束事を次世代でも動くようにACSの標準ソフトに手を加えることなどであった。
 SPCとDDCを一体化することは第一世代でも行われていたが、その一体化機能はかなり制約が多く、日進月歩するより高度なコンピュータ利用のためには多くの改良が必要だった(第一世代ではDCS(分散型)ではなく、DDCと呼ばれる集中型のディジタル制御システムを使用)。その要は二つのシステム間の通信機能である。
 これは、SPCとDCSと言う言語の違う二人の人間の間のコミュニケーションを取り持つようなものだが、第一世代が辞書を用いる初級通訳なら、第二世代は人の顔色まで読みながら行う同時通訳ほどの違いがある(速さ、情報の種類・量、状況変化への対応など)。それ故に二つのコンピュータの内部の仕組み・動きを完全に理解していなければならない(通訳なら単語(とその使い分け)・文法・発音など)。これだけでも大変な学習を要するのに、さらにアプリケーションの内容を確り理解していないと実用にならない(専門用語の分からない通訳では困る)。
 この機能はどちらかのコンピュータ(SPCまたはDCS)に全て任すことも理論的には可能だが、こうするとその機能を引き受ける方は、本来の標準機能処理に影響を受けるので望ましいやり方ではない(第一世代ではそうせざるを得なかったが)。幸い、IBMは当時の世の流れ(ミニコンピュータの普及)に合わせて、シリ-ズ1(S/1)と言うミニコンを発売していた。これを二つのシステムの間に挟み、同時通訳の役割を負わせることにした。これで二つのコンピュータは標準機能で動き、通信のための特殊な機能はS/1が受け持ち、全体が効率よく動けるようになる。
 S/1上の通信ソフトはACS(汎用機の上で動く)の手足となる部分はIBMが、CENTUMとのインタフェース部分は横河がプログラム開発を行ったが、一体化システムとしての全体開発責任は東燃にあった。またこの時期、同じようにS/1を介在してACSとDCSを繋ぐ二つのプロジェクト;カナダのサーニア製油所向け(ハネウェル製DCS)、ヴェネズエラのラゴベン製油所向け(フォックスボロー製DCS)がEREで進められていたので、三つグループの設備利用の調整も仕事に加わることになる(それぞれが競い合い、派米チームから“ACSオリンピック”と伝えてきた)。従って海外での自社向け環境整備とプロジェクト・マネージメントを併せて行わなければならない担当者、特にチーム・リーダー、TKWさんの苦労は並大抵のものではなかったようだ。
 3月頃だったと思うが、滅多に弱音をはかないTKWさんから「なかなか思うようにことが進みません。まるで孤軍奮闘の駆逐艦長のようです」と言う私信をもらった時、「随分追い詰められているな!」と痛感し、プロジェクトリーダーのMTKさんに報告したくらいである(因みに、TKWさんの父上は駆逐艦電(いなづま)艦長、1944年5月セレベス海で米潜水艦ボーン・フィッシュの雷撃で沈没、戦死されている)。
(次回予定;“派米チームの苦闘”つづく)

P.S.;派米チームの活動については直接関係する立場にはなかった。従って同チームに関わる話題は、派米メンバーが送ってくれた公私信(手紙)や中間で訪米し現地での課題整理・慰労に当たったMTKさんらの話しに基づいています。年月も経ち、記憶が定かでないこともあって、不正確な点(特に、時期・人名・所属・役職)が多々生ずる恐れがあります。本ブログの読者でこれに気付いた方は下記メールアドレスに修正情報をいただければ幸いです。逐次記事の中でそれを正して行きたいと考えていますので、よろしくご協力をお願いいたします。
メール送付先;hmadono@nifty.com

2011年9月6日火曜日

道東疾走1300km-14;釧路雑感

 日差しの強い湿原展望台から市内までは緩い下り坂、ホテル・パコ釧路に着いたのは4時過ぎだった。このホテルもWebで見つけた。地方都市の場合の条件は“繁華街・駐車場・価格・新しさ(あるいはリノヴェーションしたばかり)”で探す。むろんセキュリティ、部屋の清潔度も口コミでチェックする。幸い“当たり”で、はやっているらしく本館に繋がる新館もある。我々の部屋はその新館7階。フロントからはチョッと遠いが、静かなのが良い。宿泊者は若い人(スポーツマン・ウーマン)が多い。何かこの地方のスポーツ大会が始まっているらしい。
 夕食までには未だたっぷり時間があるので、近くのコンビニへ行き、ビール二缶と冷たいお茶を買う。部屋へ戻りシャワーを浴び、一缶飲んで軽く寝る。目が覚めたら6時前だった。まだ日は高いので、ホテル近辺をブラブラ歩いてみる。ホテルは釧路川沿いにあり、川岸はよく整備された遊歩道が川上・川下に続いている。川下は太平洋に続く港湾になっており軍艦(多分外国籍)が停泊している。こんな最果(と感じる)の地でも、国際色が感じられ、雰囲気が明るい(こう言う町が少なくなってきている)。

 川沿いを橋の下をくぐって港に向かって歩くと、遊歩道に繋がる大きなビルディングがある。デザインがモダンアート調だ。 “釧路フィッシャーマンズ・ウァーフ”だった。サンフランシスコとは比べようも無いが、土地の物産を商う土産物屋もあり、観光客には楽しく過ごせる。好みの海産物を自分で選んで作る“勝手丼”なども昼食時は賑わうようで、これはガイドブックではお薦めである。そしてそのビルの遊歩道に隣接した場所には、夏だけオープンする仮設の炉辺焼きの店が並び、老若男女で混雑している(写真上)。ほとんどは土地の人のようだ。生活も文化も経済も地場に密着している。こうゆう町が沢山出来れば、地方も住みやすくなるだろう。
 フィッシャーマンズ・ウァーフで買ったお土産(十勝ワインなど)がチョッと荷物になるので、一旦ホテルに戻り、夕食を摂りに本格的な炉辺焼き屋へ向かう。釧路は炉辺焼き発祥の地で、有名な店が何件かある(元祖は“炉はた”、50年以上の歴史あり)。向かったのはガイドブックお薦めの“炉ばた煉瓦”である。夕闇が迫る頃店に着くと、待ち行列が出来ている(店内に待合室があって、クーラーも効いているから待つのは苦痛ではない)。どんどん客が来るから後の人は待合室に入れないくらいになる。はやっているのだ。20分ぐらいしたら、お呼びがかかった。炉端はいくつもありそれぞれグループで囲んでいる。若いお兄ちゃんが案内してくれると、おばちゃんが注文をとりに来る。ガイドブックのお薦めは①新ちゃんセット②北海セット、いずれも前菜から焼き物(数種類;今回①のメインはホッケ、②はカレイ)、最後のご飯まで揃っている。面倒がないからそれにした(写真左上)横着したのが失敗だった。

 先ず、魚は大きいが冷凍干物。あとはとにかく全て量で勝負。値段は手ごろだが、料理は途中で満腹になってしまうくらい多い。やはり店員に相談しながら選ぶべきだったと反省する。帰るころには空席も在ったたし、待合室は空だった。多分二回転しかしていない。今日は土曜日の夜だが、いつもこんなものなのだろうか。
 ホテル周辺の繁華街を、祭り太鼓の一団を載せたトラックがゆっくり流していたが、それほど人は多くなかった(写真右)地方都市の夜は早い。

 ホテル・パコ釧路には最上階に大浴場がある(最近のビジネスホテルにはこのスタイルが多くなってきている)。そこで風呂を浴びて(風呂場のクリーニングを行う若い女性の従業員がTシャツと短パン姿で男湯に出入りするのには驚かされた)、残りの缶ビールを飲んだ。暑い一日が終わった。明日も天気は良さそうだ。
 本日の走行距離、201km。
(次回予定;森と庭園の国へ)
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2011年9月1日木曜日

今月の本棚-36(2011年8月分)

<今月読んだ本>
1)8月16日の夜会(蓮見圭一);新潮社(文庫)
2)戦略外交原論(兼原信克);日本経済新聞出版社
3)英雄たちの朝(ジョー・ウォルトン);創元社(文庫)
4)ワシントンハイツ(秋尾沙戸子);新潮社(文庫)
5)三陸海岸大津波(吉村昭);文藝春秋社(文庫)

<愚評昧説>
1)8月16日の夜会
 20年くらい前まで、終戦記念日が近づくとあの戦争に関する映画や本がどっと出るのが常だった。しかし、最近は映画・TVは無論本もめっきり少なくなった。そんな中で目にしたのが本書である。
 軍事・戦争物は好みのジャンルだが、主たる興味は近代兵器とその運用システムにある(特に飛行機、戦車、潜水艦、機動部隊)。その点で旧日本陸軍は最も遠いところにあり、もう一つの関心分野、満洲関連を除けばほとんど読まない。著者の名前も知らなかった。戦争物が極端に少なくなったこの頃だから、偶々手にとってみた本である。
 舞台は沖縄である。しかし、あの凄惨な本島の戦いではない。否、数人の米兵との対決、撃ち合いはあるものの、これは戦闘を主題にした話でもない。本島中央西に延びる本部半島から指呼の間に浮かぶ伊江島と言う小島での、島民と敗残兵たちの物語である。しかし、「あの戦争にこんなことがあったのか!」と言う新鮮な発見と、今に及ぶ沖縄戦の奥の深さ(反軍事基地感情)を知ることが出来たのは、思わぬ収穫であった。
 主人公が二人で時代も違う二重構成の小説である。一人はこの島に身分を偽り、青年学校の教師として赴任していた中野学校卒業の下級士官。もう一人はその士官と交流のあった、現地召集された沖縄出身の兵士の孫。祖父の死でこの孫と元教師(士官)が出会い、遺灰を沖縄の海に流しに出かけることを契機に、当時の島の様子が語られる。
 教えるべき若者のいない島へやってきた若い教師を、誰もが胡散臭い目で見つめる。やがて本島の戦いに敗れた重砲隊の敗残兵(指揮官は陸士出の大尉)や不時着した海軍のパイロット(下士官)なども加わり、島民との共同生活が始まる。本島が落ち、付近の島も米軍に占領されると、両者の間に疑心暗鬼が広がり、少年までがスパイと疑われ殺される。この少年は奄美大島から奴隷として買われてきたため、島民から余所者として蔑まれ、苛められている。しかし、買主にとっては大枚を叩いた大切な財産、殺してしまっては元も子もない。引き金を引くのは軍人だ。
 この他にも不時着した米軍パイロットや占領された隣の島(伊是名島)から除隊を前に遊びにやってきた米兵が殺害されるのだが、軍人は島民をたくみに煽り彼らに実行させる。こうすることにより、島民の口封じが出来るからなのだ。この島に平和が戻るのは9月20日(旧暦8月15日)であった。職業軍人に対する島民・現地招集兵の恨みは消えない。
 参考文献に名も知らぬ出版社(晩聲社)からの本が二冊(島の風景、虐殺の島)挙げられている。多分ストーリーの骨子はこれを基にしているのであろう。結婚相手を戦争で失い何度も結婚させられる女性、少年奴隷(奄美大島から買われて来るこのような少年は、戦前沖縄に大勢居たようだ)の話、実質的な島の支配者だった大尉は晩年中米の大使になっていることなど、皆事実に近いことだと考えられる。一つだけ信じられないのは、当時の米軍がヘリコプターを使っていることである(実用実験段階にあったが、沖縄戦で利用されたという記録は見たことがない)。


2)戦略外交原論
 少し仰々しいタイトル(特に、“原論”)に惹かれて購入した。期待外れであった。先ず“原論”と言うからには客観的でなければならない。また、それを支える確固とした哲学が必要である。著者もそれは気が付いているとみえ、いろいろな歴史的事例を援用しつつその客観性と考え方の一般化を引き出そうとしているが、牽強付会で自説に落とし込もうとする姿勢が見え見えだ。自ら理想と考える外交官像、それによるあるべき外交と言うのが本書の実態といえる。相応しいのは“日本外交私論(あるいは試論)”あたりであろう。
 本書は著者(現役上級外交官;現駐韓国公使(多分筆頭))が非常勤講師を務める大学法学部で行った講義録である。構成は3部(Ⅰ.国益とは何か、Ⅱ.国際情勢を戦略的に読む、Ⅲ.国益を実現するための課題)から成る。第Ⅱ部、第Ⅲ部は学部学生にわが国を取り巻く国際情勢とそれへの取り組みを解説するという観点からはよくまとまっていると思うが、問題は第Ⅰ部である。ここでは、人間社会はどう構成されていったか、国家の発生はどのように進んだか、価値観とはいかなるものか、国益とは何か、外交官とは何か、国益を守るため外交交渉にどのような姿勢で臨むべきかなどが語られるのだが、この理論構築に四書五経(特に孟子;性善説)、仏典、葉隠れなどの武士道物や松蔭に関する書物、またルソーなどの西欧啓蒙思想などが多数引用され、その根本に人間・人間社会の善・良心が据えられ論理が展開されていく。この部分がどうも“個人的な理想主義”の匂い紛々、付け焼刃の感を免れない。
 それもあり著者とこの著作に関するつぶやき(ツィター)を調べてみると、古典引用の間違い(原典の意味解釈から年代の齟齬まで)が中国研究家や歴史研究者と思しき人たちから多数寄せられている。これは実務家が学問・研究の世界(抽象化)に入るときの典型的なミスマッチの例といえる。学部学生対象とは言え、迷惑な話ではなかろうか。


3)英雄たちの朝
 1940年5月10日に開始された西方電撃戦の勢いは凄まじく、二週間後の5月24日には英仏連合軍をダンケルクに追い詰める。ドイツ装甲部隊の指揮官たちは一気にそれを包囲殲滅しようと欲するが、ヒトラーは何故か停止を命じる。これには諸説あるが、真の理由は不明のままである。一説には英国との和平交渉の余地を残すためだったとも言われている。この小説はこの説を受けて、ドイツと単独講和を結んだその後の英国政界を巡る政治ミステリーである。
 6月の本欄(-34)で紹介した「遥かなる未踏峰」の解説記事の中で、“ジョンブル魂を強く思い起こさせる”秀作のひとつとして載っていたので読んでみることになった。結論を言えば、こちらが想像したストーリーとは全く違うものだった。ボタンを掛け違ったのは、この小説は戦争・軍事ミステリーでは全く無く、殺人事件の謎解きと言う伝統的な探偵小説だったことである。確かに、政治力を持つ上流階級に食らいついて執拗に真相を究明するミドルクラスの警部補は“ジョンブル魂”の権化と言ってよく、解説が間違っていたわけではなく、こちらが迂闊だっただけである。
 ただ、殺人物ミステリーとしては、背景となる英国上流階級・政界の話がくどく、ロジックの組み立てが甘くなってしまい緊迫感を欠く。これが2010年度「週刊文春」ミステリーベスト10の2位とは、私には信じられないことである。著者(カナダ人、女性)は本書を含むファージング(英語の題名;保守党右派の貴族の館の所在地)3部作で売り出すのだが、元々は幻想小説が専門だったようで、本格派の推理小説家ではないことも、この物足りなさに関係しているような気がする。
 英国社会のホモや反ユダヤが舞台回しの重要な鍵になるが、これは英国社会の実態を現しているのかもしれない。古き英国貴族階級の世界を垣間見る面白さだけが何とか興味を持続させてくれたが、ひとに薦めるような本ではない。


4)ワシントンハイツ
 少年時代(1950年代;小学校6年生から高校生まで)何度か明治神宮の横にあったワシントンハイツ(今の代々木体育館、NHK、代々木公園)を外から垣間見たことがある。ハリウッド映画のアメリカがそこに在った。貧しい日本とは別世界である。
 この本が単行本で出たとき(2009年7月)から気になっていた。しかし、ハードカバーの本は保存場所や価格の点で、最近はほとんど買わないことにしているので見送った。幸い比較的早く文庫版が出たので購入したが、予想した内容とは全く異なるものだった(悪かったわけではない)。
 こちらが勝手に期待し予想したのは、あの時代におけるワシントンハイツの中と外の圧倒的な生活ギャップである。まだ戦争の残滓がいたるところに残る都心で、中ではどんな人がどんな生活を営んでいたのか、中から見た外はどのように見えたか。周辺の日本人は中をどう見ていたのか。こんなことが興味の中心だった。無論本書でも、断片的にあるいは枕としてこのような内容も紹介されるのだが、それは団子の串のようなもので、団子はワシントンハイツそのものではなかったのである。
 団子は、東京爆撃、降伏文書調印、戦争裁判、パージ、夜の女、食糧援助、平和憲法制定、警察予備隊の誕生、安保騒動など、敗戦から占領、やがて主権回復までのプロセスなのである。個々のトピックは著者独自の調査によるものもあるものの、既に多くの人々によって書かれてきたことが多く、特に新鮮味を感じることは無かった。副題の“GHQが東京に刻んだ戦後”こそタイトルに相応しいと言える。
 あとがきを読んで初めて、著者がこの本で訴えたいことは、今日の日本がここに書かれた占領政策の延長線に在り、依然としてアメリカの属国のような状態にあることを、日本人に広く知らしめ、真の独立国に脱皮することを促していることが分かった。それは貴重な意見ではあるのだが、本文を読む限りそれが切々と伝わらないのは、読者の読みが浅いのか、はたまた著者の表現力が空回りしているのか、難しいところである。
 著者は1957年生まれ、その年代以降の人にとってはこうしてまとめてある戦後史とその現在が、日米関係を理解するのに手ごろなのかもしれないが、私にとってはハードカバーを買わなかったことは正解であった。


5)三陸海岸大津波
 3月11日のあの時間、私は自室で本欄でも紹介した「定刻発車」を読んでいた。いつに無い大きな揺れに、東西両壁面の書棚から何冊か本が降ってきた。しばらくすると停電。復旧したのは深夜。TVに繰り返し映し出される大津波に驚かされた。しばらくするとこの本が書店に平積みされ、ベストセラーに登場してきた。単行本(題名は“海の壁”)が出版されたのは、今から40年前、1971年である。文庫本も初めは新潮社からでて、今は文藝春秋社に移っている。超ロングセラーと言っていい。
 著者は私の好きな作家の一人である。とは言っても読んでいるのは専ら「戦艦武蔵」を始めとする戦争物で、この本は読んでもいないし知りもしなかった。読んでみて薄い冊子ながらその奥の深さと、訴求力にあらためて感服した。
 取り上げられているのは明治29年(これが今回のケースに一番近い)、昭和8年、そして昭和35年のチリ地震による三つの津波である。帯に<吉村記録文学の傑作>とあるように、これは小説ではない。と言って詳細な調査を重ねたノンフィクションとも違う。内容は三つの津波のデーターブックとも言えるが、それを生存者の話、古文書、子供たちの作文などを交えて、更に気象学者や地震学者などから理論的裏づけをとって、読み物として纏め上げている。津波の高さ一つとってもその定義が簡単でなく、一見信じがたい数字が無視できないことなどがよく解る。
 文系人間の資質が最高に生かされた自然科学読み物として、科学・技術を一般人に語り理解させる手本と言っていい。

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