2011年10月30日日曜日

決断科学ノート-96(大転換TCSプロジェクト-33;TCSをビジネスに-1)

 ACS(高度プロセス制御システム)はIBMの製品である。しかし、エクソンとの共同開発という経緯もあり、商品としての積極販売は始まったばかりであった。日本での営業体制も専ら東燃向けビジネスに主眼を置いて、あたかもプロジェクトチームのように運営されていた。しかし、順調に第一号システムがスタートしたらそれで終わりと言うわけにはいかない。技術部隊がBTX稼動に向けて奮闘している1982年秋、営業戦略の検討が進められ、東燃に対して販売活動への協力打診が行われる。最初のアプローチはTCSプロジェクトリーダーのMTKさんや中央開発チームのTKWさん辺りへの個人的な問いかけだった。
 BTXスタートアップに追われながら、時たま連絡・報告に本社に戻ってきたTKWさんは「次の和歌山プロジェクトは1年後なので、是非外販をやってみたい」と言う。MTKさんは「東燃テクノロジー(エンジニアリング子会社;TTEC)がシステムビジネスに興味を持っている」と告げてくる。MTKさんは上司、TKWさんは部下という関係になるが、TCSの推進に中核的な役割を果たしてきた二人とは明らかに背景が異なる。この問題に対して、今ひとつ積極的になれないのが本音であった。ただ、当時の東燃は著しく新事業開発に注力しており、少しでも人的余裕が出るとそちらへスカウトされるケースが多発していた。特にSEはつぶしが利くとみられ、既に数理や電子専攻者が、私が赴任する前からそちらの方へ異動していた。TTECは新規事業ではなかったが、外に向かうビジネスパワーとして期待されていたので、ここで何かを始めれば当面人材引き抜きの危機を回避できる。こんな事情から私も次第にTCS外販ビジネスに興味を持っていった。
 日本IBMのACSビジネス協業プランも初めはそれほど明確なものではなく、営業活動への協力(客先での事例紹介のような)が主体で、システム導入が決まればその後の顧客導入サポート業務やアプリケーション開発を東燃に任せたい、と言う程度のもだった。このような話をベースに、こちらのビジネスプラン(主に取り組み体制)を検討しているところへ舞い込んできたのが住友化学千葉工場へのACSの売込みである。
 この話はIBMのACS営業担当MTIさんが工場の製造課長と旧知だったことから起こり、商談は東燃抜きでかなりのところまで進んでいたが、全体予算がどうしてもオーバーしてしまい、それを下げる策を考える中から生じてきた。ACSを走らせる汎用中型機、IBM-4300の販売にエクソン・ディスカウントを使わせてもらえないか?と言う問いかけである。IBMとエクソンの間にはグローバルに4300販売に関して数量ディスカウント契約があり、当然東燃はこの対象だった。IBMはその値段なら住友の予算に合うので東燃経由で納める奇策を考えたわけである。TTECを通してこの可否をエクソンに問い合わせると「IBMとの契約量をこなす助けになるからOK」との返事が返ってきた。こちらの目論見とはまるで異なる妙な商売ではあったが、こうしてTCS関連ビジネスがスタートした。
 1983年1月TTECにシステム部を発足させ、部長は情報システム室次長のMTKさん兼務、私を含めメンバーも全て数理システム課兼務で外販ビジネスを本格化することになった。
(次回予定;“TCSをビジネスに”つづく)

2011年10月24日月曜日

決断科学ノート-95(大転換TCSプロジェクト-32;和歌山工場導入-6;BTX以降)

 BTXの順調な更新に続いて、OG-2(重質油脱硫装置)が翌83年、大物のOG-1(統合蒸留・改質装置)84年、稼ぎ頭のFCC(流動接触分解装置)85年と大きなトラブルも無く、92年の動力・発電プラント置換えまで10年にわたりTCSへの切換えは進んでいく。複数在ったSPCコンピューターは一台のIBM-4300で全て賄え、当然ソフトもACS一本だけでこの10年を繋いでいけた。この間、川崎工場(石油化学を含む)も動き出し、期待通りプロジェクト推進と運転環境が第一世代と比べ著しく改善された。
 その大きな理由は、何と言ってもコンソール(操作卓)だけで運転できるシステムを作り上げたところにある。このコンソールによるオペレーションの概念は、本ノート-61(TCS-4)に紹介したように、ハネウェルのダリモンティという技術者が70年代初期、Oil&Gas Journal誌に“将来の計器室”構想を示し、そこで“コックピット(飛行機の操縦席を模した)・オペレーション”と称していたものを実現したものと言っていい。プラントの運転状況を表示するディスプレー(TCS着手時は液晶やプラズマ・ディスプレーが実用化されていなかったのでCRT;電子管)を二段に重ね、手元にはキーボードや専用スウィッチがあるだけのすっきりしたデザインのもので、コンソールの機能に制約が多く計器をびっしり並べた筐体が併設される第一世代とは全く異なる運転環境を作りあげた。
 出発点となるBTX向けコンソールは横河電機の委託を受けた工業デザイナーと和歌山のプロジェクトリーダー、MEDさんの共同作品である。その対象はコンソールに留まらず、部屋の什器備品・彩色・照明などにもおよび、三交替職場と言う過酷な労働条件とは無縁な世界を具現化した。数多くのプロセス工業に製品とサービスを提供してきた横河にとってもこれだけモダンな運転センターは珍しく、それが社内で注目される。これをTVコマーシャルに使えないかと。
 東燃には機密保持などの問題があり、当初は無理と考えられていたが、コンソールは横河の製品でもありプラントやデーターが画面に現れないなら良かろうと言うことになり、広告作りプロジェクトが進められた。説明役には当時売れっ子の漫画家、はらたいら氏の起用が決まり和歌山でヴィデオ撮りが行われ、こういう場所には縁の無かったはら氏が大いに感激したと言う話も伝わってきた。東燃も横河も一般TV視聴者とは縁の無いビジネスをしていることから、それぞれの社内でも期待するところが大きかった。しかし、そのような事業環境はTV・広告業界には無理が効かず、地方局でしか流すことが出来なかったのは残念であった。
 さて、今回で現場におけるTCSの話題を終えることになるが、最後にその効用がプロセスクレジット・省力化以外のところにも広がったことを記しておきたい。それはプラント運転員の士気(意欲)の向上が経済性改善につながったことである。私が入社するはるか以前から業務改善に対する提案制度があった。確か1~6等級位までだったと思うが、なかなか1,2級は出なかった。しかしTCS導入後これが出るようになり、全体の平均等級がアップしたのである。もともと運転員は肌で覚えたプラント特性があり、運転技術に関しては経験の浅いエンジニアの及ばぬ領域があるのだが、TCSの導入によりその経験が身近に得られるデータに裏打ちされ、優れた提案を生むようになったのである。この辺りの使い方は日本ならではの効用と言えよう(実は、ACS販売は日本が突出、外国は全部合わせてもその半分もいかなかった)。TCSはシステム周辺で働く技術者だけでなく、工場運営に欠かせぬ道具へと成熟していくのであった。
(次回予定;TCSをビジネスに)

2011年10月18日火曜日

決断科学ノート-94(大転換TCSプロジェクト-31;和歌山工場導入-5)

 前回“訂正”で述べたように、ヴェンダーセレクション以降の時期・時間を勘違いしているところがあったので、TCSへの最初の更新であるBTXプラントが新システムで動き出すまでの経緯を再整理してみたい。
 ヴェンダーセレクションは1981年年初までには目途がつき、ACS(SPC;高度制御システム;IBM製品)とCENTUM(DCS;分散型デジタル制御システム;横河電機製品)を一体化システムとしてTCS(東燃コントロールシステム)の開発が1981年春から始まる。中央開発チームがERE(エクソンエンジニアリングセンター、米国ニュージャージー)に向かったのは4月である。当初の予定では、米国での開発(教育訓練を含む)作業が終わるのがその年の12月。1982年初めからは作業場所を横河(三鷹)に移し、ACS-CENTUM(工場導入実機システム)の結合テストを行い4月にはそれを終えて、和歌山に持ち込む。あとは年末のスタートアップに向けて、現地でアプリケーション開発を行うことになっていた。しかし、米国での作業は遅れ、結局TKWさんとITSさんは現地で年を越すことになり、国内開発態勢整備のためYNGさん、TJHさんが先に帰国することになった。10月末くらいから年初にかけての中央開発チームの状況は、休日は無論クリスマスも新年も無い過酷なもの、加えてトレーラーハウスという悪作業環境の中で精神的にも追い込まれ、チームは崩壊寸前だったとあとから聞かされた。
 中央チームの全メンバーが国内に揃うのは1982年2月から、それに和歌山のメンバーを加えて、更に日本IBMと横河電機のスタッフも交えて5月まで結合テストとその虫出し・修正が三鷹で続く。5月連休明け(メンバーに連休は無かったが)新システムは和歌山に向け出荷されるが、メンバーも同時に和歌山に移り、現地作業を継続する。アプリケーションエンジニアが加わるとまた新たな問題点が露わになる。結局中央チームが本籍である本社に戻るのはBTX切換えが順調に済んだ1982年末であった。実はこの前年9月私は20年にわたる長い工場勤務ののち初めて本社に異動、形式的(実質的には情報システム室次長でプロジェクトリーダー兼務のMTKさんが管理していた)にはこの中央チームメンバーの上司(情報システム室数理システム課長)になったのだが、彼らとゆっくり顔を合わせるようになったのもBTXスタート後である。
 BTX(ベンゼン・トルエン・キシレン;合成繊維原料や各種溶剤)がトップバッターに選ばれ、それが順調に進んだのにはそれなりの理由があったからだろう。過日中央チームの一員であったYNGさんとあるセミナーで会った際「何故BTXがトップだったんだろう?」と問いかけてみた。答えは「BTXが最終製品を作る仕上げのプラントであること(従って独立性が強く、もしトラブルを起しても他プラントに及ぼす影響が少ない)」それに「初代のコンピュータが導入され、付加的な設備増強や作業が少ないこと」ではないかと言うものであった。納得できる理由である。
 順調なプロジェクト推進の主因は人にあったという気がする。プロセスコンピュータ基盤技術に関して当時全社を通じてトップと言っていいTKWさん、コンピュータから計装まで幅広い知識を有し綿密な切換工事計画を作り上げ実行したMEDさんのプロジェクトエンジニアとしての能力の高さ、和歌山工場のプロセスを熟知し高度制御分野で経験豊富なアプリケーションエンジニアのTKZさん。いずれも30代後半、脂の乗り切った第一人者三人がその任に当たり、あらゆる困難を乗り越え、計画を予定通り実現したのだ。

訂正.:ヴェンダーセレクションを1980年としているのは誤りで、1981年でした。それ以降の派米チームの苦悩も1年近くずれ、和歌山工場への持ち込みは1982年秋、最初のプラント、BTXの切換えは同年12月になります。訂正し、お詫びいたします。

(次回予定;“和歌山工場導入”つづく;BTX運転開始以降)

2011年10月13日木曜日

決断科学ノート-93(大転換TCSプロジェクト-30;和歌山工場導入-4)

 歴史のある和歌山工場のもう一つの弱点は計器室の多さだった(結果として人も多い)。昔はプラントを作るたびにその近くに計器室(兼運転員の待機室)を建ててきた。1960年代半ば以降建設のプラントでは、プラント自身が統合されるので、従来なら複数の計器室になるものが一つになり、係や課も少なくなっていたが、それ以前のものは一直(チーム)数人のオペレータのプラントでも計器室が在ったくらいである。
 TCSプロジェクトが始まった頃には計器室の数は18もあり、工場中に散在していた。グラスルート(更地)で建設するならば、二つ(オンサイト、オフサイト各一)で充分だろう。和歌山工場ではプロジェクト開始時、真剣に18を一つにする案の可否・是非から検討を始めている(工場の中心部あるいは本事務所に全ての運転室を統合する)。さすがにこれは無理で(中心部に充分な用地を確保できない。本事務所の位置は主要プラントから遠すぎる)、四ヶ所に運転センターを設ける案に落ち着いた。名称上(実際には石油化学、動力などのプラントも含む)は、燃料油第1・燃料油第2・潤滑油・オフサイトである。ただ、工事上は一気に四ヶ所に集約することは得策ではなく、一旦既存計器室にTCS用オペレータズ・コンソール(運転操作卓)を設置し、数年後にこれを移設統合する二段階方式が必要なプラントもあって、最終形態になるまでには10年(1982年から92年まで)を要している。
 このような段階方式が可能になるのは、TCSによるプラント運転がコンソールのみで行えるようになったからである。従来のパネルや筐体方式ではその移設が難工事で、経済的にもプロジェクト的(特に時間)にも実質不可能であったろう。コンソールの場合はそれだけを移設すればいいので(ケーブル延長工事はあったが)、容易にどこへでも移動させることが出来るメリットをフルに活用できた。
 この計器室統合に併せて運転・管理方式変更、そして組織改編が当然行われる。小プラントの運転は兼務にし、異常時の応急対応方針を少人数で出来るよう変えるなどして要員減を図るのだ。組織では特に係が大幅に減る。ただ係の日勤者は係長と日勤スタッフ数人で構成されるのでそれほど大掛かりな減員はない。大きく効くのは交替職場の要員を減らせたときである。交替職場は複数のチームで構成される。今は労働時間が短縮されチームの構成が複雑になっているが、昔は4チーム方式だった。Aチームは朝8時から夜8時まで、Bチームは夜8時から朝8時まで、Cチームは翌日の勤務に備えて休養中、Dチームは公休を取っている、と言う具合である。
 もし1チームの仕事を一人分減らすことが出来れば4人の減員が可能になる。ただそれには何人かの仕事量をそれぞれコンマ以下減じ(0.X人分)、それ加算して一人分にしても実現は出来ない。人間は分割・合成できないからだ。仕事の内容を整理し、確実に一人減らせる運転方式を作り出す必要がある。ここが運転要員合理化のポイントなのだ。
 和歌山TCSプロジェクトでは始めてから更新だけで10年かかることになるが、600名強の要員(配員は教育などもあり若干多い)を400人強まで約200名減らしている。“What’s New?”はこうして確実に見えるものになったのである。

訂正.:ヴェンダーセレクションを1980年としているのは誤りで、1981年でした。それ以降の派米チームの苦悩も1年近くずれ、和歌山工場への持ち込みは1982年秋、最初のプラント、BTXの切換えは同年12月になります。訂正し、お詫びいたします。

(次回予定;“和歌山工場導入”つづく;BTX運転開始とそれ以降)

2011年10月9日日曜日

決断科学ノート-92(大転換TCSプロジェクト-29;和歌山工場導入-3)

 この次世代プロコン導入の機会にプラント運転管理体系の近代化を進めたい。和歌山工場の願いを実現するためには、新設や最新工場の更新とは異なる付加的投資に費用がかかる。これをどう回収するかが最大の課題である。プラント操業(顧客サービス向上のような周辺関連業務を除く)に限定すれば、それはプロセスクレジットと省力化(人員削減)の二点に絞られる。省力化についてはのちの“計器室統合”で説明するので、ここではプロセスクレジット(Process Credit)について、和歌山工場を主体に解説を試みたい。
 後年石油精製・石油化学業界の人たちとビジネスで付き合うようになり、この言葉を使うと意外と通じないことが分かった。どうやらExxon技術用語のようなのだ。プロセスは一般的には過程・工程、工場では生産工程と言うことになるだろう。これを実現するための装置がプラントである。クレジットは評判や信用(クレジット・カードのように)が訳としてはよく使われるが、会計用語として“貸し方に記入する”“払い戻す”というのがあり、この辺が出典ではないかと考える。つまり投資に対するリターンと言うことになる。“生産工程から得られる経済的リターン”がプロセスクレジットの意味と言っていい。
 同じ原料(原油)・プラントで生産活動を行っているのに使用エネルギーが少なくて済む。あるいはより付加価値の高い製品を多く生産できる。運転の仕方によって、プラントの稼働率向上や触媒の活性度低下が延長出来るのもこの範疇に入る。
 石油精製や石油化学では蒸留や分解が主な生産工程を構成する。そこに使われる熱は膨大な量に上がるが、一方で処理されたものを保存するためには常温まで温度を下げる必要がある。加熱と冷却を繰り返す間に熱が無駄に消費される。このようなことを避けるためには、複数の装置を一つにまとめ熱の有効利用を図ることが望ましいが、比較的小さな装置を、時間をかけて建設してきた和歌山では、この面でも川崎の大規模統合プラント群とは差がついてしまう。一つの装置に留まらない前後の装置を含めた運転・制御体系の改善が必要になるのだ。
 このようにプロセスクレジットの材料はプラントを構成する一つ一つの機器制御から複数のプラントに跨る複雑な運転システムまでいたるところに存在する。次世代プロコン導入を契機に計測・制御システムを増強して、それまで手がつけられなかったプラント運転制御方式を開発運用して、工場全体の生産性を改善する。これが利用面からの“What’s New?”に対する回答であり、これこそ新システムが生み出す直接的・具体的利益なのである。
 これだけは他社から出来合いのものを買ってくるわけにはいかない(現在ではこのようなサービスをビジネスにする企業もあるが、それでも自社での開発運用体制は不可欠である)。長い時間をかけデーターを収集分析し、プロセスの特性を数理モデル化し、それに適した制御方式を開発する。次世代システムが決まる前から、限られた環境下(プラントによっては手で集めたデータ)で経済性推算のための努力が重ねられ、システム更新後直ちに実用に入れるようアプリケーションを開発していく。そのまま実用に供することの出来るものは少なく、運転環境に合わせてモデル改定やチューニングが必要になる。
 この仕事を担当するのはアプリケーションエンジニア(AE)と呼ばれる人たちで、化学工学と制御工学、二つの領域のバックグラウンドが必要である。しかし、なかなかこの二つを備えた人材を新人で採用するのは難しく、どちらか一つを専攻した者の中から育てていくしかないのが当時の状況であった。和歌山プロジェクトでは、入社以来和歌山工場勤務で、FCC(重質油分解装置)の複雑な最適化制御システム実用化などに実績のある制御専攻のTKZさん、第一世代SPC実績(これが更新のための投資リターンとしてカウントされる)作りを加速するために川崎から異動した、化工で制御を学んだMURさん(二つを学んだ数少ない専門家)の二人が活躍することになる。彼らは当時この分野のエース級であり、この更新プロジェクトにかける全社的な期待を担っての登用であった。

訂正:ヴェンダーセレクションを1980年としているのは誤りで、1981年でした。それ以降の派米チームの苦悩も1年近くずれ、和歌山工場への持ち込みは1982年秋、最初のプラント、BTXの切換えは同年12月になります。訂正し、お詫びいたします。
(次回予定;“和歌山工場導入”つづく)

2011年10月6日木曜日

決断科学ノート-91(大転換TCSプロジェクト-28;和歌山工場導入-2)

 次世代導入に対する問い、「次は何が新しいんだ!?」 その第一の着眼点はプロセスクレジット(省エネルギーや収率アップなど)の更なる追求にあった。大型プラントの新規制御適用を一層進めると伴に、コンピュータ制御の対象を中小プラントにも広げ、かつ相互につながるプラントの総合的な運転効率を上げていくことにある。加えて次世代プロコンの上位に在る工場生産管理用コンピュータへの情報を増やし、経営指標(原単位や品質ロス;過剰品質によるロスなど)向上にも活用できる環境を整えることが期待された。この根本をなすのが計装(計器や信号の伝送系)システムの更新・増強である。
 古い工場・プラントの全面的コンピュータ化には、超えなければならないいくつかのハードルがある。先ず、計測点を増やすこと;古いプラントでは温度計、圧力計、流量計など基本的な計測のためのセンサーが最新のものに比べて著しく少ない。きめ細かい管理・制御を行うためにはこれらを増強しなければならない。次いで、それらの測定結果を計器室で把握できるよう遠隔化を図ること;古いプラントでは運転員が巡回時現場でデータをチェックしそこでアクションを行う現場型計器が多いが、これではタイムリーに情報処理が出来ない。そのために信号を遠隔伝送する仕組みを整える必要がある。三番目はその伝送方式を電子化すること;古いプラントでは、遠隔化はされていても、電子部品や機器の信頼性、価格、安全上の問題から長く空気式計器・配管による計測・信号伝送が採用されてきたが、このままではコンピュータに繋がらない。電子式機器に置き換えたり、変換器を付けたり、電線ケーブルを用いた伝送方式に全面的に置き換えたりすることになる。第四に古い工場は現場工事に制約が多い;段階的新増設で入り組んだプラント配置、輻輳する地中・空中を走る配管や配線、工事には余計な費用・時間がかかる。当然それだけ投資額が増える。R&R(修理・置換え)予算で済まない理由はこのような点にある。プロジェクト推進のためにはそれに合った創意工夫が必要だ。
 先ず予算面では、比較的更新費用がかからず、利益の出しやすいプラントが改善効果の劣るプラントをカバーするよう資材の調達や工事の仕方を考える。のちに取り上げる計器室統合の組み合わせや、それによる運転方式の改革で、小規模プラントの運転を大規模プラント運転要員で行える体制を作り出す、などがその代表例である。
 予算の次は更新工事である。次世代システムへの置換えの節目になるのは定期点検修理(NSD;Normal Shut Down)の時期である。1970年代中頃までは主要プラントの高圧ガス保安法に基づく連続運転期間は1年であったが、その後2年に延長された。それだけ大掛かりな工事を行うタイミングは減り、反対に工事量は増える。生産性を考えれば工事期間を無闇に延長できない。場合によっては一回前(2年前)のNSDで事前工事をしておく必要さえ生じる。従って、工事のスケジューリング、段取りには綿密な計画と実行が要求される。
 長期にわたる工場全体の更新計画は、このNSDを何度か経ながら実行されるので、それに関わる、予算・要員・時間・資材調達・工事のマネージメントは新設プラント建設に比べ倍する知恵と汗が求められるのだ。和歌山でこの役割を担ったのはMED(A)さんと言う優れたプロジェクトエンジニアである。計器室やオペレーターズ・コンソール(プラント運転操作卓)の設計に優れた美的センスを発揮する傍ら、この複雑な更新プロジェクトを計画通り完成させたことは「お見事!」と言うほかない。
(次回予定;“和歌山工場導入”つづく)

2011年10月2日日曜日

今月の本棚-37(2011年9月分)

<今月読んだ本>
1)レーニンの墓(上、下)(ディヴィッド・レムニック);白水社
2)電車の運転(宇田賢吉);中央公論新社(新書)
3)決断できない日本(ケビン・メア);文藝春秋社(新書)
4)ローマ人の物語(41、42、43、ガイドブック)(塩野七生);新潮社(文庫)
5)祖国なき男(ジェフリー・ハウスホールド);創元社(文庫)

<愚評昧説>
1)レーニンの墓
 1966年以来続いたブレジネフ政権は1982年彼の死によって終わる。その後の3年間、二人の老人、アンドロポフとチェルネンコがトップの座に着くが相次いで死亡、1985年3月若いゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任する。エネルギッシュな風貌に、その後のロシアを予想するものは無かった。しかし、ブレジネフ末期から始まっていた計画経済の行き詰まりや東欧の民主化を求める行動が、ソ連社会に変革を求める力として蠢きはじめていたのだ。聡明なゴルバチョフがそれに気付かぬ筈はなかった。当初はそのガス抜きと言ってもいいペレストロイカ(民主化)が当事者も予想できぬようなスピードで展開し、ついに1991年12月のゴルバチョフの退任でソヴィエト連邦は崩壊する。
 著者はワシントンポストの記者。1988年1月モスクワ支局勤務となる。夫人もニューヨークタイムズで働いていたが同時に転勤。ペレストロイカに合わせて進められていたグラスノスチ(情報公開)にも助けられてソ連社会の変容を追い求めていく。
 その手法は文書を追うよりはインタビューに重点が置かれ、種々の制約(特にKGBの監視・干渉)の中であらゆる階層の人々と会い、現実に何が起こっているのかを、個人の体験や歴史を含めて探っていく。上はゴルバチョフやその右腕ヤコブレフ、エリツィン、守旧派のリガチョフ、反体制派闘士であったサハロフの夫人などから、下は差別を受け続けてきた辺境の少数民族やストライキを行っている炭鉱夫、集団農場に背を向け村八分になりながら個人農場を立ち上げる農夫、はたまた頑迷なスターリン主義者にも及ぶ。地理的にもそれまで外国人の立ち入りが不可能だった、収容所列島中の禁断地帯、マガダン地区(沿海州北部)や樺太まで出かけている。これらを通じながら、鉄の統制が次第に崩れていく現場と背景を明らかにしていくのである。
 上下巻それぞれ400頁を超す大冊で、上巻はソ連以前を含めたロシア統治の根源的要素(猜疑心、上からの抑圧体質、人種差別、官僚腐敗など)から、フルシチョフのスターリン批判、それに対するブレジネフの巻き返し、ペレストロイカの実態まで広い範囲をカバーし、下巻は専ら1991年8月に起こった守旧派によるクーデターに至る背景からそれが失敗に終わるまでの経緯に割かれている。したがって上下巻が継続しつつ、独立の読み物としても読める。こうなった背景は、著者のモスクワ勤務が1991年8月までで、帰国したNYの空港でクーデター勃発を知らされ、モスクワにとんぼ返りして取材に当たったことによるものと思われる。
 上下巻を通して、著者が掘り下げているのは、共産主義とは関係なく、ロシアの統治システム(するシステム、されるシステム)の歴史的特徴である。そこから見えてくるのは自由・民主を求める一方に、“強いリーダー”に指導されることを好む国民性・民族性である。これが三権分立型の民主主義が育たず、行政(官僚)主導で立法や司法がそれに従う統治システムを作り上げているのではないかと言うことである。本書出版の後で出現するプーチン政権とそれへの人気は、当にこの予見の正しさを証明したとも言える。
 著者とその夫人の祖先は共にユダヤ系ロシア人で、ロシア革命前後に米国に移住している。一族の中にスターリンの粛清やそれ以前のポグロム(ユダヤ人集団迫害)の被害者もいるようだ。単なる一党独裁政権崩壊に留まらない、ロシア社会の変容を綿密に調査分析出来ているのは、そのような出自が深く影響しているに違いない。
 1994年のピュリッツァー賞受賞作品。日本語版出版が何故こんなに遅れたのであろうか?チョッと残念な気がする(上巻と重複する内容の単行本が既に出版されていたからであろうか?)。

2)電車の運転
 本欄-32(4月分)で紹介した「定刻発車」の“運転士版”とも言えるものである。前者が巨大システム(経営、駅設備など)を対象にしたものであるのに対して、本書は専ら広い意味(車両設計や保線などを含む)での“運転”に特化したところに違いがある。著者は旧国鉄時代から主に中国地方の電車・電気機関車を運転してきたOBである(蒸気機関車の免許も持つ)。鉄ちゃんや技術者、科学ジャーナリストによる鉄道物は数多く出版されているが、運転士の書いたものはきわめて珍しい。ロングセラーたる所以だろう。
 漫然と電車の運転を眺めていると自動車より簡単な気がする。前後左右に併走する車両もないしハンドル操作も不要だ。しかし読んでいくうちにこれが大変難しいことが分かってくる。電車の型式と編成、天候、混み具合、電力事情(ラッシュ時と非ラッシュ時)、駅間距離、停車時間さらにはエネルギーの経済性など全てを配慮しないと効率的で安全な定刻運転が出来ない。そこには高度な職人技が必要なのだ。中でも難しいのがブレーキング、停車指定位置にピタッと止められるようになるには相当な経験と技量を求められる。
 上記以外にも運転士が知っておかなければならないことは沢山ある。走行するレールの種類、路床状態(枕木を含む)、変電所配置、多種の信号の意味、キロポスト(距離表示)、勾配、曲率と線路の傾きなどなど。
 以上のようなことを、前駅を発車し次駅で停止するまでを例に、関連技術情報や運転士の心理状況の解説を交えながら語ってゆく。
 福知山線事故後に出版された本だが、そのことには全く触れていない。まだ、裁判の最終結果が出ていなっからであろうか?しかしこの本を読むと、チョッとした不注意が大事故につながることもよく理解できる。
 電車の運転が高度技術であることをあらためて認識させられた。説明用写真が多用されているが、新書ゆえに小さくて判然としないのが惜しい。

3)決断できない日本
 沖縄の米軍基地問題は、今や日米間最大の政治的宿痾となっている。そんな中で「沖縄はゆすりの名人」と発言したと報じられ、更迭された、米国務省元日本部長(沖縄総領事も務めたことがある)が書いた弁明の書である。とは言ってもあのことだけを取り上げているわけではない。日本人を妻とし日本語を良くして、最近の国務省では珍しい存在になりつつある日本スペシャリストとしての、日米外交最前線の現状報告と日本人への助言・警告の書と言える。「日本の安全保障、日米同盟にとって沖縄の米軍基地が不可決であることを、日本の政治家・政府はきちんと国民・沖縄県民に説明せよ!(逃げるな!誤魔化すな!)」これが本書の要旨である。もっともだと思う。
 “ゆすりの名人”が記事になるいきさつは、アメリカン大学(ワシントンDC)の学生が沖縄訪問に先立って国務省にレクチャーを求めてきたことに発する。実はこれらの学生は反軍事基地を唱える教授に指導されており、さらにその裏には沖縄の米軍基地反対活動を行っている在米日本人女性弁護士がコーチ役についている。さらにこの弁護士が共同通信の記者に通じていることによって、あの記事として発信されたのだ(学生たちは沖縄訪問時“No Base”と書かれた横断幕をキャンプ・シュワブの金網フェンス張り付ける)。国務省も本人もこの仕掛けに全く気がついていない。その点では脇が甘いとの謗りは免れないが「完全に嵌められた」と言っていい。
 国務省内での外部の人間との接触にはPC、録音機の類は持込を許されていない。従ってもとネタは学生がブリーフィングを受けた後記憶を基に起したものらしい。著者が話したのは“master of manipulation”(操作の名人)である。これを“ゆすり”と訳しては受験では減点であろう。明らかに意図的な“超訳”である。最近のわが国メディアの憂うべき状態は多くの人が語るところであるが、ここまで堕落しては何をかいわんやである。新聞が売れなくなり、TVを見る人が減ずる傾向は一般人の健全な良識の証かもしれない。
 この“操作”発言の基となる日本政府や地方自治体(警察など)の情けない言動(反体制派やメディアにおもねる)の数々が、基地問題を中心に語られるが、日本人として恥ずかしくなるばかりである。この本が超ベストセラーになることで日米関係が改善することを切に願う。

4)ローマ人の物語-ローマ世界の終焉-(41、42、43、ガイドブック)
 単行本で15巻、文庫本では43冊。今回の3冊でいよいよ最終回である。紀元前753年(伝説)に発した(西)ローマ帝国は紀元476年終焉を迎える。東ローマ帝国はその後1453年まで続くが、その首都はコンスタンチノープル、そこは“ローマ”ではない。
 それまでも西ゴート、東ゴート(両者ともゲルマン系)の侵入は相次いでいたが、ローマの領土を侵しては略奪を繰り返すのが蛮族の行動パターンだった(隣接する土地を奪い領地とすることもあったが)。しかし、帝政末期の蛮族侵入は自らの意思ではなく、アジア系のフン族に追われての帝国侵入で、彼らも帰るところがなかった。これにより帝国内の各地に蛮族が居座ることになる。これが歴史に言う“ゲルマン民族大移動”の実態なのだ。
 ローマ軍兵士の特権(市民権取得や退職後の土地付与など)が意味を持たなくなると、尚武の気風も失せ、帝国を守るのは蛮族出身の将軍・兵士に代わっていく。そして彼らの独立王国の下地が作られていくのである。フランク族はガリア(今のフランス)を、ヴァンダル族は北アフリカを、スヴェビ族はイベリア半島を、アングロ・サクソン族はブリテン島(今のイギリス)を支配域としていく。最後に残るイタリア半島は蛮族出身の皇帝に委ねられるが、彼も土地争いの中で殺される。激しい権力闘争の結果ではなく、歳を重ねた生き物が知力・精神力・体力を失いやがて死を迎えるような帝国の終わり方であった。
 帝国晩年(最後の20年)の皇帝は9人も代わっている。それでもわが国の首相より在位期間は長い。願わくはローマの歴史に倣わぬことを!

 ガイドブックはふんだんに写真を使った著書の超ダイジェスト版、イタリア(旧ローマ帝国)旅行の時にあれば大いに役に立つ。最後にこの長編をまとめるに当たっての著者の考え方や旅、資料、時間の使い方などが対談で語られ、労作完成までの背景を垣間見ることが出来る。これも価値ある情報だ。

5)祖国なき男
 第二次世界大戦時に舞台を設定した戦争サスペンスだが、組織的戦闘シーンは出てこない。スパイ物に近いがスパイ小説でもない。一人の男が巨悪(ナチス)と戦う冒険小説の一種である。
 この作品には前作「追われる男」があり(私は読んでいない)、これはその続編ともいえるのだが、前作が英国で発表されたのは1939年、本書(原書)発行は1982年と40年以上の間隔があり、独立した作品として読んでも違和感はない。それにしても長い休憩期間である。
 主人公は英国名家出身の男、母がオーストリア人だったことからオーストリア人の恋人(併合反対組織につながる)を持つ。しかし、この女性がナチスの拷問で惨殺されたことから反ナチス活動を一人で始め、ナチス国家保安部(SD)に追われ身となるが辛くも本国に帰還する(ここまでは前作を踏まえたプロローグ)。
 復讐のため、ニカラグア人に化けて再度ドイツに潜入。やがて第二次世界大戦が勃発し、主人公は兵役につくため中立国スウェーデン経由で帰国を目論む。しかし、この地の英領事館はスパイ嫌疑で帰国を拒否。スウェーデンは入国前地、ドイツ占領下のデンマークに送り帰す。ここから「祖国なき男」となった主人公の逃避行が始まる。ポーランド、スロバキア、親独政権のハンガリー・ルーマニア、中立国トルコ、ドイツ占領軍が犇めくギリシャ、反独パルチザンが活発なユーゴスラビアへ。ついにアルバニアでイタリア軍に捕まりアドリア海を渡ってイタリア送りとなる。しかし、その船が機雷に触れ沈没、英駆逐艦に救助されパレスチナへ、英陸軍の取調べは厳しくスパイ容疑のままエジプトへ送られる。本国送還の船がケニアの港に入るとまた逃げる。
 それぞれの国での国際関係、政治・軍事情勢、支援組織、地理・気候などがこの逃避行によく配慮され、あたかもその時代そこに居るような気分で読み進んでいった。この手の小説はやはり英国が一番だ!
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