2011年12月31日土曜日

決断科学ノート-106(大転換TCSプロジェクト-43(最終回);“大転換ダイジェスト”)


 TCS(IBMACSAdvanced Control Systemと横河電機製のDCS;分散型コンピュータ・コントロール・システム;CENTUMで構成される東燃プラント・コントロール・システム)は現在でもまだ使われており、エクソングループ内では2015年まで使うと言う(一部は既に第三世代に置き換わっているが)。東燃での検討開始が1970年代後半、最初のシステムが動いたのは1983年、ほぼ30年(今年で28年)の歴史である。コンピュータによる初代プラント制御システムが1968年スタートし、その技術発表会で「ところでこのコンピュータ制御システムの寿命は如何?」と聞かれ「10年から15年」と答え、その通り何とか15年持たせることが出来たのと比べ、この2代目の息の長さには昔日の感がある。                                   
当時のコンピュータで“移行性”に最も優れたIBM汎用機をプラットフォームにしたことと横河のCENTUMシリーズの成功がこの驚異的な長寿を実現したわけである。この28年の間に様々な変化が石油業界、IT業界に起こっており、出発点では予想だにしなかったことが企業にも個人にも次々に生じてきた。今回はそれを列記してこのテーマを終えることにする。
IBM90年代後半にACSの販売を中止した。日本では30セットを超すシステムが導入されたがその他の世界ではトータルでもそれを超すことはなかった。日本での成功モデルを世界に広めるべくIBM本社は日本IBMに学ぶこといろいろ試みたが上手くいかなかった(米国、カナダ、インドネシアなどで開催されたセールス担当者向け講習会に講師として招かれた)。これ以降IBMはプロセス制御の世界からは撤退している。一気に進んだダウンサイジングとオープン化の進展がそれをもたらし、IBMは製造業からサービス業に大変換している。
・横河のCENTUMはその後も改良発展を続け、代表的なDCSの一つになり、そのグローバルビジネスの旗艦としてハネウェル、エマーソンなど錚々たるライバルと世界で熾烈な戦いを展開している。結果、海外売上げが国内を遥かに凌ぐグローバル企業に変貌した。
・東燃の情報システム部門は実戦部隊が子会社、SPIN(システムプラザ)に移り、専ら企画業務を専門にする組織に変わり一気にスリムになった。アウトソーシングのさきがけとなり、それはあらゆるユーザー企業のトレンドとなった。
・やがてSPINは、石油・石油化学のコアービジネスで無いとの理由で、順調に業容を拡大していたにも関わらず、リストラ(事業再編成という真のリストラ)を求められ、横河電機に1998年売却される。IBMがサービス業に転じたように、横河電機もハードヴェンダーからソリューション(顧客の経営問題解決)サービス提供者の道へ舵を切り替える経営戦略採用したからである。
TCS関連ビジネスのように他社(ACSIBM製品)製品をプラットフォームを利用し、それに付加価値をつけるビジネスはソリューション提供者の役割そのものである。 SPINは、ACSのあとMIMI(生産計画・スケジューリングツール;米国のCDS社製)、 PI(リアルタイム・プラント運転データの収集・分析ツール;米国OSI software社製) 、Renaissance(経営統合情報システム;米国のRoss社製)などの総代理店となりプロセス産業界向けシステムインテグレータとして、ユニークな存在となり、海外にもその名を知られるようになった。
TCS導入では、その切っ掛けに関わっただけでプロジェクトの中心メンバーではなかった私も、SPIN設立では推進役の一人としてそのスタート時から移籍し、やがて役員、社長となって情報サービス業に専念することになる。そこでは国内の石油精製・石油化学ばかりでなく、海外を含め広くプロセス工業やIT業界に友人・知人を増やすことになる。
・この石油業と海外経験が、2003年社長職を退き、再び現役として横河本社海外営業顧問になった時生かされ、ロシア、ウクライナを初めハンガリー、イランなど東燃・エクソングループでは体験できない世界を広げてくれた。それも60歳を遥かに過ぎてからである。もし、ITと深く関わる世界に踏み込んでいなければそれも無く、ましてやブログ開設も無かったであろう。その意味でもTCSが今日の私を在らしめていてくれているのだ。

今回をもって2月から(大震災で一時別テーマとなった)続けてきた“大転換TCSプロジェクト”を終了します。長期にわたるご愛読に深謝いたします。
どうか良いお年をお迎えください。
-完-

 本シリーズに関するご意見・ご感想を下記メールIDにいただければ幸いです。
 hmadono@nifty.com

2011年12月24日土曜日

決断科学ノート-105(大転換TCSプロジェクト-42;新会社設立に向けて-3)


情報システム子会社、システムプラザ(後に東燃システムプラザ;略称SPIN)の設立準備とその後の変遷については、本ノートの別テーマとしていずれ詳しく連載していく予定である。ここではSPIN誕生とTCSTonen Control System;高度プロセス制御システム;IBMのACSと横河電機のCENTUMから成る)の関わりに留めて書いていきたい。             
 新会社設立には種々の問題があるが、先ず「どんな会社にするか?」を描かなければならない。一方に今までやってきた東燃グループ内の各種サービス(事務系システムの開発運用を含む)がある。他方にTTEC(東燃テクノロジー)で始めたTCS関連外販ビジネスがある。それぞれを従来通りにやるのならば新会社設立の意義はほとんどない(役員や管理職ポストを見かけ上増やすことくらい。わが国企業の多くにこの形態の子会社;受け皿会社が無数に在った)。こんな会社は作りたくない。新規事業として外へ伸ばしたい。経営層も情報システムのメンバーもここは同じ思いであった。モデルとなるのはやはりTCSビジネスだった。
TCSビジネスの特色をまとめると;本業に密着する適用分野で経験・知識が最大限に発揮できる;基幹システム(IBMACS)の高い競争力とそのシステムに対する深い理解;それによって他社(特に規模の大きなIT会社)に対して対等以上に戦える;従ってきわめて割りの良い収益率になる。
成長著しい分野であるにも拘らず、情報サービス業におけるシステム開発(特にプログラミング)は“汗かき仕事(英語でもSweat Shopと言う)”の圧倒的に多い業種。しかし、このTCSビジネスモデルは、それとは一味違うサービスを提供できる。つまりIBMへの販売活動支援・通信パッケージの販売・顧客へのシステム設計・開発ノウハウ提供など、より付加価値の高い仕事をすることにより、一人当たりの売上げや利益を高いレベルに維持できるのである。問題はこのモデルをTCS以外の分野(特に事務系統)に拡大できるかどうかである。市場規模が大きく量的に伸びているのは何と言っても工場外のシステムであるからだ(さらには金融・流通など製造業以外の分野)。
数多ある競争者に打ち勝ち、発注者の仕事の原点(計画検討)に近いところから受注するためには、それなりの工夫が要る。強みは何と言ってもユーザー知見。業種・業務それにプラットフォームとなるコンピュータの絞込みが鍵と読んだ。石油・石油化学がコア、次いで化学産業、その外側に広義のプロセス工業(鉄鋼・紙・セメントなど)を置き、業務は工場や生産設備を対象とし(プラント運転、生産管理、設備管理、品質管理、原価管理など)、組立て加工業さらには非製造業は余ほど条件が良くなければ取り扱わない。対象コンピュータはグループで使われているIBM・富士通の汎用機に限定、既に始まっていたダウンサイジングやネットワーキングへの取り組みも、この両社の汎用機周辺に留まるようにした。またプロセス工業の会計・税務処理は物性値(流量・温度・圧力など)を金額に変えてゆく独特の処理を伴うので、技術分野に限らず事務分野でも差別化因子となるのでここを重点的に売り込んでいくことにした。
このような新事業計画が固まったのは1985年新春。経営会議等で何度もダメ押しをし、修正しながら、やっと設立にたどり着いたのは6月。710日新会社「システムプラザ株式会社(SPIN)」が発足した。
(次回予定;“大転換”ダイジェスト)

2011年12月19日月曜日

決断科学ノート-104(大転換TCSプロジェクト-41;新会社設立に向けて-2)



TTECでのTCSビジネスも順調のようだ。一度情報システム室の分社化を検討してみてくれ」こんな指示がNKH常務から室長のMTKさんにあったのは84年の創立記念日(75日)少し前だった。
実は“情報システム室分社化”はこれが初めてではない。昭和40年代後半(1970年代前半)にも話題になったことがある。当時川崎工場に勤務しており「本社は一体全体何を考えているんだ!?外に打って出る力なんか無いではないか!」と反対の意思表示をしたことがある。この話は当時の副社長(TIさん;情報システム室は副社長が主管)が何かの折に軽い気持ちで呟いたことに発していたようだ(関係者が誘導したのではないかと思っているが真相は不明)。
確かにこの時期、大企業(主として金融関係)の情報システム部門分社化がブームだった頃である(後に“第一次分社化ブーム”と呼ばれるようになる。そしてこの80年代中期が第二次)。コンピユータの技術進歩は社内に今まで存在しなかった大規模な専門家集団を抱えるようになってきており、仕事の内容も処遇も本業と同じようには出来ない環境になってきたことがその動機であった。これなら社内向けに仕事をしていても分社化をする理由がある。石油会社でも販売をやっているところはクレジットカード処理など金融業に近いシステムを抱え、それなりの分社化メリットが考えられる(実際石油関係で最も早い分社化は当時の日本鉱業(後のジャパン・エナジー)で、1972年にセントラル・コンピュータ・システムを立ち上げている)。しかし、石油精製・石油化学専業の東燃グループでは本社におけるシステム関係者の数は5060名で、外部の仕事に割ける余裕はほとんど無く、処遇を別建てにするニーズも切実な問題では無かった。
さらにもっと大きな問題は、他の情報サービス会社と如何に差別化するかと言う点(規模では勝負にならないので質で)に甘さを痛感した。分社化推進論者の考え方は“数理技術(特に線形計画法、LPによる最適化や統計処理)”を売りものにする構想だったが、これほど売り込みの難しいものはない(汗の量;システム開発・運用にかかる労働量;労賃ではなく、技法適用によって経営改善した効果を評価してもらう)。
究極の問題点は別会社化した場合の収支である。情報システム室は早い機会から(形式的な)独立採算制をとってきていた。これは自社システムを導入する前に外部の計算センターを利用していたことから来ていたのであろう。そこでは確実に計算料金の支払いが発生していたからだ。自前のコンピュータを持ってからもこの付け替え制度は生きており、利用部門は経費予算を計上して、利用料金(コンピュータ・リース料金、電力などのユーティリティ費用、人件費、スペース費用などベースに算出)を情報システム室に払うのである。基本的な料金体系は、利益を出すことが目的ではなかったが、赤字にはならないように設定される。分社化後もこのシステムを生かすことが前提で考えていた。これでは“会社ごっこ”にすぎない(ユーザー部門が利用時間を、経費節減のために落としたらたちまち赤字である)。
幸か不幸か副社長の関心は一過性のものであった。数々の分社化問題点指摘に推進論者が構想をさらに詰めることはなかった。
しかし、新事業開発に情熱を傾けるNKH常務、TCSの完成で社内大型プロジェクトが山を越し、戦力に余裕が出来て、外部サービス展開を始めたことなど、今回は当時とはあらゆる面で状況は変わっていた。84年後半、分社化スタディーは情報システム部門ののみならず全社的な経営課題として検討が始まるのである。
(次回予定;“新会社設立に向けて”つづく)

2011年12月13日火曜日

決断科学ノート-103(大転換TCSプロジェクト-40;新会社設立に向けて-1)



本事例紹介を単に“TCSプロジェクト”とせず、大仰に“大転換”としたのにはそれなりに含みがあった。それはこのプロジェクトを経験したことにより、情報システム部門も私個人もその後が大きく変わったからである。例えて言えば、それまで銃砲で戦っていたのがミサイル主体になり、やがて宇宙に飛び出すロケットに発展していったようなものである。TCSは当にミサイルへの転換に相当したのである。
TCSの第一号プロジェクトであるBTX(和歌山の石油化学プラント)が稼動したのが1982年秋、翌年からこのシステムの外販ビジネスを始めたこととはここ数回の連載で紹介した。話は前回(石川賞)、前々回(RCAミーティング)と前後するのだが、実はこの時期もう一つの大プロジェクトが走っていた。それはグループ全体の利用に供する汎用コンピュータ、IBM370の更新計画である(この更新計画については独立テーマとしていずれ本ノートに取り上げる予定)。
東燃の情報システム部門と汎用機利用の歴史を振り返るとIBMとの関係が如何に深いかが分かる。嚆矢となるのは昭和31年(1956年)に導入されたIBM420統計会計機(パンチカードシステム)であり、この時経理部にIBM課(一企業名を組織名称にするのは適当でないとの意見で改名されるのは1961年、5年間も続いた!)が発足している。その後生産計画や設備計画に使われるLP(線形計画法)、プラント設計・解析の技術プログラムが導入されるが、これらのオリジナルはERE(エクソン技術センター)の技術を基としているので、全てIBMの大型汎用機を利用する(自社にはなくEREIBMの計算センターを利用)ことになる。事務系も技術系もIBM一色である。IBMは当該分野の断突のトップランナー、導入されたシステムも420以降、14013603703031と続き、70年代まで変える理由など存在しなかった。
しかし、80年代に入るとオフィスオートメーションのニーズが高まり(特に本社で)、日本語処理機能が不可欠になってくる。次第に力をつけてきていた日本メーカーはこの点では遥かにIBMをリードするところに来ていたのだ。基幹ソフト(O/S)は既存のIBMアプリケーションが走るよう互換性も備えてくる(あまりの互換性の良さはIBM、さらには米国政府の不興を買い、有名な“おとり捜査”で三菱電機と日立がFBIに挙げられる)。極秘の国産機(日立、富士通)を含む比較検討(各種テストを含む)が1982年後半から始まり、1983年年央には次期システムはFACOMM380に決定、11月に導入され翌年3月に切換えが完了する。
この切換えプロジェクトの中核になったのは事務系システム開発と汎用機運用を担当してきた機械計算課である。営業の無い会社では裏方で自らの力を外に示す機会の少ない部門であったが、この切換えを大過なく終えた(東燃の決算期末は12月)ことで、社内外(特に富士通)の高い評価を得ることになる。
また我々自身もTCS開発・導入におけるエクソングループ・IBMを通じての国際的な力量の確信、その外販ビジネスの順調な立ち上がり、それに代表的な汎用機メーカー2社との交流による情報技術を巡る知識・情報の客観的評価によって、主導的メーカーとの協業に向けて関心が高まっていった。
IBM課発足に深くかかわり、新事業開発に情熱を傾けていたNKHさん(当時常務)が情報システム部門分社化に心動かされたのはこんな当時の状況が強く影響したに違いない。

(次回予定;“新会社設立に向けて”つづく)

2011年12月8日木曜日

決断科学ノート-102(大転換TCSプロジェクト-39;石川賞受賞)



 前回の予告では今回から「新会社設立に向けて」としていたが、その前にこれと深く関わるTCS(東燃高度プロセス制御・運転システム)の“石川賞受賞”について書いておきたい。                                      
 東燃は戦後再興にあたりスタンダードヴァキューム(後のエクソン、モービル)と提携したこともあって、技術力には高い評価を得ていた。しかし、それは全般的な世評としてであり、個々の技術が具体的に取り上げられ、話題になることは少なかった。これは技術提携上の制約もあり、競争力の根源を外に向けてPRすべきものではない、と言う企業風土からきていたように思う。学会活動なども個人ベースはともかく、全体として“お付き合い”としての姿勢が強く、とかく批判があった。そんな歴史の中で唯一の例外がこの“石川賞受賞”である(社史を辿っても、個人の褒章・叙勲を除けばこのような受賞は見当たらない)。                                   
石川賞と言うのは、戦前からの財界人で、初代日本科学技術連盟(日科技連;有名なデミング賞もここが与える賞;源流は戦前の大日本技術会につながる)会長であった石川一郎氏(自身も応用化学専攻の技術者;経団連初代会長)を顕彰するために昭和45年(1970年)に設けられた賞。その対象は「企業の近代化、製品やサービスの品質向上に寄与する新しい手法やシステムの開発」にある。第一回は当時世界最新鋭製鉄所であった新日鉄の「君津製鉄所情報処理システム」に与えられ、その後も錚々たる技術先進企業が名を連ねている。それまでの歴史の中で石油・石油化学に関する受賞者は僅かに1973年度昭和電工の「エチレンプラントの最適化制御」だけであり、石油精製業界では初の受賞だから大変名誉なことであった。受賞のタイトルは「製油所の総合運転管理システム」だが中身はTCSそのものであった。
本件の事務局機能を務めていたのだが、どうも応募に至る経緯は今ひとつはっきりしない。しかし、選考過程でしばしば委員の一人であった東工大教授のOSM先生に何人かヒアリングを受けていたから、話の出所はOSM先生と昵懇だった、プロジェクトリーダーのMTKさん辺りではなかろうか。候補の一つに選ばれると書式に則った書類の提出を求められる。当然これには技術部門のチェックが入るのだが、何故か従来のものに比べ苦労した記憶が無い。一番大きな理由は、この時期の新規事業への関心の高まりがあり、既にTTEC(東燃テクノロジー)でTCS外販ビジネスが立ち上がっていたことにあるだろう。それに加えて、記述内容がシステム寄りで、プロセス技術や運転技術に関する部分を出来るだけ一般化し、一気に効果へもっていったことが判断を容易にしたのではないかと思っている。その分、私も含めてOSM先生の質問はこの利用部分に集中していた。
どの程度競争者があり、当落の割合がどうだったか、その内容は不明だが、その年の受賞者は東京ガスの「地下埋蔵物(つまりガス配管)マッピング(地図作り)システム」と日立製作所の「生産変動即応生産管理システム」、それにTCSの三件だった。
表彰式は産経ホールで行われ、MTY社長、NKH副社長も出席された(他社は代理出席で、このことが後でチョッと問題になったが・・・)。これは50年史に写真入で残っている。
技術情報を開示する際必ず問われるのは「それは会社にどんな利益をもたらすのか?」と言うことである。もし外部ビジネスを行っていなかったなら、多分石川賞応募は無かったであろう。一方で石川賞受賞が無かったら、外部ビジネスに幾許かのマイナス影響が生じていた違いない。そのくらいこの受賞は新事業展開にはエポックメーキングな出来事であった。

蛇足:現在日科技連のHPを見ても“石川賞”は出てこない。代わりに“QC石川馨賞”が出てくる。これは先の生産システムとは異なり名前の通りQCに関する賞である。この石川馨は石川一郎の長男である。

(次回予定;新会社設立に向けて)

2011年12月3日土曜日

今月の本棚-39(20011年11月分)


<今月読んだ本>
                              
1)ねじれの国、日本(堀井憲一郎);新潮社(新書)
2)評伝 ジョージ・ケナン(ジョン・ルカーチ);法政大学出版局
3)スティーブ・ジョブズ(上、下)(ウォルター・アイザックソン);講談社
4)パンドラ抹殺文書(マイケル・バ=ゾウハー);早川書房(文庫)
5)オックスフォード古書修行(中島俊郎);NTT出版


 コメントのコンロトロールが不調のため、メールでいただいたコメントを末尾に添付しています。

<愚評昧説>
1)ねじれの国、日本
“ねじれ”と言っても衆参議院や中央政府と地方自治体間のねじれではない。日本と他国との関係においてである。日本そして日本人は自らこうであり、こうありたいと思う姿と、他国に向かって日本とはこういう国だ、と言う点にねじれがあると言う論である。このねじれを、建国記念日制定や天皇家の歴史的存在意義あるいは神道の体系化などの過程を通して、極めて素朴な視点から問い質してゆく、ユニークな日本論・国際関係論である。
建国記念日を決めたのは無論明治政府だが、それまではその概念すら無かった(神武天皇即位と言う神話はあったが、その日にちは特定されていなかった;日本書紀に“辛酉年正月春”と記されているだけ)。それで問題なく日本は長くやってこられた。しかし、明治になり外国に向けて国と言う体裁を整えるためにそれが必要と考え、神話上の即位年の11日を建国の日とし、西洋暦に換算して211日と定めたのである。革命や戦争の勝利によって国体が確立したのではないので、どうしてもこの日にちに馴染めないまま今日に至っている。
天皇を外国人は“王あるいは皇帝”と同等と見ようとするが(訳すとそううなるので)、日本人には違和感がある。そのポイントは政治権力の有無にある。明治憲法下では形式的に最終決定者として天皇の権限が明らかになっているが(この悪しき利用例が統帥権の軍による乱用)、自ら権力を行使しようとしたことは無かった。つまり位階を与える権限は持つものの、政治権力は持ったことが無かったのである。従って新憲法下で国家・国民の“象徴”と明記されるが、有史以来象徴(一つにまとめる・まとまると言う点で重要な役割を果たしてきた;この“まとまり”が周辺国には羨ましくもあり脅威でもあるのだ)であったのだから敢えてそう記す必要もないのに、外国(憲法発布時は戦勝国)を意識して現在の条文が出来上がった。
いずれの例も、もし外国の存在が無ければ(在ったとしても関係が希薄であれば)、日本古来のやり方や表現で自然に存在しえたものが、外国を意識することにより無理矢理作り上げられ、納得できないまま一人歩きし、やがてはこれに自縄自縛になっているのが現在の日本だと言うのが著者の見方である。
四界海に囲まれ外敵の侵入も無く、気候温暖で住み易い環境は「仲間内の総意で何となくことが決するスタイルがとても安心できる」(覇を競わない)社会を作り、あまり政治的人材が育たない環境を醸成し、外交下手もここから来ているとの見立てである(この論はしばしば見られるが、対内外向け言動の“ねじれ”と捉えるところに独自性がある)。この国民感情を人に例えれば「私のことはかまわないで!でも無視もしないでね!」と言うような人間で、あまり周りの人から歓迎される性向ではない。確かになるほどと思わせる論評である。
ではこれからのグローバル競争激化一途の世界、日本はどうあるべきか?この点は“経済ばかりに重きを置く社会に問題あり”とする著者の考えに基づいて展開されるので(ある種の鎖国政策など)、違和感を覚える読者も多いのではなかろうか。
著者はフリーライター(週刊文春などへの寄稿者)で、落語や漫画に造詣が深く、堅い内容を面白おかしく、漫談ように語っていくので気楽に読め、将来について悲観的にならない点が良い。

2)評伝 ジョージ・ケナン
ジョージ・ケナンは、冷戦構造下の「封じ込め」政策の提唱者である米国の職業外交官。その帰結であるソ連の崩壊を見届け、近年の米国外交を論評しながら101歳の天寿を全うし、2005年に亡くなった。本書はその考え方の生み出される背景とそこに至る彼の言動を綴ったものである。原題は「George KennanA Study of Character」、訳者は文中でこの“Character”をしばしば“性格”と訳しているが、これでは誤解を生じやすい(人格形成に触れる部分はあるが)。邦題で“評伝”としているのは適切である。
著者のルカーチは歴史学者で近代ヨーロッパの外交史・戦史に詳しく、作家としても優れ著作を多数出版している(「ヒトラー対チャーチル」「Five Days in London, May 1940;ドイツの西方電撃戦とチャーチルの登場が主題」は既読)。共産化するハンガリーを逃れて米国に移住した人であるから「封じ込め」政策とも無縁ではない。ケナンとルカーチは生前交流があり、その点でも最適な人が書いた作品と言える。
ケナン家の出自はスコットランド系、祖父は弁護士、父親は比較税制の専門家、1904年ミルウォーキーで誕生するが直ぐに母が亡くなる。父は後妻をもらうがこの継母とは折り合いが悪く、孤独を好む自立心の強い子供として育っていく。
米国には今でも“外務省”は無く国務省がその役割を担っている。その国務省に外交局が創設されるのは1924年、プリンストンを1925年に卒業したケナンは職業外交官一期生試験に合格する。遅れて国際社会に参加したわが国でさえ19世紀末には外務省があり、高等文官制度に外交官が含まれていることから、この“一期生”には驚かされた。
父の仕事の関係で少年時代ドイツに滞在しことがあり、ドイツ語に関心が高く、優れていた。最初の任地はジュネーヴであったがやがてハンブルク副領事に転ずる。この時若い外交官の研修制度を利用してベルリン大学でロシア研究(ロシア語習得を含む)に励んだこと(革命以降のソ連と米国との間に正式の国交も無く簡単に入れなかった;実地研修は旧ロシア領だったラトヴィア、エストニアで行っている)が、その後の運命を決めることになる。この研究を通じて、ソ連の本質は共産主義から来るものではなく、“伝統的なロシアの特質(外部世界に対する猜疑心と恐怖感)”から来ていると喝破している。
1933年米ソが国交を結ぶとモスクワ駐在となる。その後4年間滞在するが、折しも1934年からあの大粛清が始まり、彼の分析が正しかったことを裏付けていく(反体制者の流刑・処刑はそれまでの歴史で連綿と続いていた)。この時代自らのロシア体験と米国側のロシア観(ほとんど無知に近い)も含め、ケナンは米ソ関係の先行きが暗いと予想するようになっていく。そんな彼の周辺で第二次世界大戦への足音が高まり、ミュンヘン会談時はプラハ駐在、ポーランド侵攻時はベルリン駐在と、歴史的事件の現場にいつも在った。そして1944年再びモスクワ駐在となり、ハリマン大使の右腕となり影響力を及ぼしていく(ソ連の野心を見透しその危険を訴える)。
やがて終戦、1946年モスクワから米国の対ソ政策転換を促す長文の電報をワシントンに送る。これがチャーチルの「鉄のカーテン」演説、トルーマン・ドクトリン、マーシャル・プランへとつながり、さらに彼のX論文「ソヴィエトの行動の根源」としてまとめられ、「封じ込め」政策に結実していく。
1952年ついに駐ソ大使に任命される。米ソ関係が最悪の時期である。極端に制約されたモスクワ生活のいらいらをロンドン出張時メディアに語り、これがソ連の不興を買い、本国召還の憂き目に会う。公的身分としてはこれが頂点で、その後ケネディ政権下で駐ユーゴスラヴィア大使を務める期間を除き、学究の徒として専ら講演や著作に費やす日々となる。筆を置いたのは100歳の時で、残された膨大な著作(日記を含む)は、後世の伝記作家を大いに悩ますことになるだろうと本書の著者が心配するほどである。
ケナンの外交観には米国伝統の孤立主義(保守主義)の色が濃いように見える。特に軍事行動を海外で行うことに懐疑的である。参戦に逸るルーズヴェルトの考え方に批判的であったし、「封じ込め」政策も軍事的なものでなく政治的な面を重視すべきと主張している。従って米国のNATO参加にも反対であった。一方で自身情報収集・分析には熱心で、その延長線で諜報活動には関心が高かった。CIAの誕生には一役買うことになるが、後のCIAが軍事工作機関に転じて行ったことには失望している。
軍事対決を避ける主張は、マッカーシズムが吹き荒れた時期には共産主義同調者と見られるところもあった。アイゼンハワーですらマッカーシー批判できなかった時代、それに敢然と立ち向かい、その異常性を説いたように、事象の本質に迫る調査・分析力を基に大勢におもねず自説を開陳する、気骨のある気質が超一級の外交官を作り上げたに違いない。この本を読んで現在のアメリカ外交が浅薄に見えて仕方が無い。

3)スティーブ・ジョブズ
(全く関係ないが)105日、二人目の孫が生まれた。この日にスティーブ・ジョブズが死んだ。長く情報技術・サービスに携わった者の一人として、また初期のマックユーザーとして(私有PCの初めの2台;初代はジョブズが製品開発に関わったもの、二代目は彼がアップルを追放された後の製品、ソフトはともかくハードの“美しさ(洗練された無駄の無さ)”は雲泥の差)、彼の死は特別なものだった(ビル・ゲーツを除けば、現存するいかなる政治家・科学者・経済人が死んでも、このときほど頭を駆け巡ることが多いことは無いだろう)。この本(日本語版)の発行日は1024日(世界同時発売)。その死を待っていたような、タイミングにえげつない商魂を強く感じ鼻白んだ。ほとぼりが冷めたころ、評価を見定めてから買うかどうか決めよう。そう思っていたところへ本欄の閲覧者から本書を是非取り上げて欲しいとのメールをいただいた。いずれ買うことになるだろうとの思いもあったので、取り寄せた。
とにかく厚い(上下2巻で900ページ弱)。誕生秘話(ある種の捨て子)からその死まで56年間を数々のエピソードでつないでいく。下巻の帯に“公式伝記”とあるのはジョブズ自身が著者にそれを依頼したことにある。最初は2004年、この時は著者が「まだ早い」とことわっている。二度目は2009年、その死を予測してのことである。著者は元ジャーナリスト、一時期CNNCEOなども務め、後に伝記作家に転じ「ベンジャミン・フランクリン」「アインシュタイン」などの作品がある。ジョブズの依頼もこれら前作の名声が切っ掛けとなっている。
材料は何と言ってもジョブズ自身の語りが多いが、その家族(妻と息子一人、娘二人)、生まれたばかりの彼を養子に出す未婚の母(中西部育ちの典型的なアメリカ人家庭出身、父親はシリアからの留学生、後に二人は正式に結婚し、離婚する)とその後に生まれた妹、認知問題でもめる最初の子供(娘)とその母親(この人も未婚;ジョブズは自身がされたことを繰り返す結果になる)、養父母(学歴は低かったが、堅実で信義に厚い人たち;父親の機械いじりに子供のジョブズが惹かれ、その後の彼の生き方に繋がっていく)の周辺など身近なところから始まり、学生時代・放浪時代(インドでの瞑想修行や共同体での生活;ここでりんご栽培をしたことが社名につながる)の仲間、事業を進める過程で出会う数々の仕事仲間や競争者(当然ビル・ゲーツも出てくる;製品開発者として高い評価をしているが、電子回路も理解できずプログラムも書けないジョブズを一段低く見ていた)から大統領(オバマ大統領に「今のままでは二期目はありませんよ」などと語ったようだ)まで多岐に及び、聴き取りは膨大な量になる。ジョブズは自分に都合の良くない人々にも積極的に会うよう勧め、紹介の労をとたりして協力しているので、取材源の中立性は保たれている。
読後感をまとめると「面白かった。しかし山場(複数期待した)が無かった」と言うところである。特に関心があったのは、自ら作ったアップルを追われ、再び復帰してiMac iPod iPhone iPadと次々にヒット商品を送り出し、時価評価額世界一の会社に再生するジョブズのそれ以前との違いにあった。印象として「結局ジョブズは何も変わらなかった」との思いが残るだけだった(そんなはずはないと思うのだが)。評伝と伝記の違いがあるので単純に対比できないが、ケナンが“その依ってきたる所以”を絞り込んで読者に示してくれたあとだけにやや不満が残った。
考えるに、これは発売のタイミングにあったのではなかろうか?ふんだんにある材料を充分煮詰める段階を踏まず、「今が売り時!」と素のままで出してしまった。そんな気がしてならない。保存したくなるようなものではないので、直ぐに大量の古本がマーケットにあらわれるだろう。それから読んでも遅くない。

4)パンドラ抹殺文書
本欄でも何冊か紹介したサスペンス作家、バー=ゾウハー(ブルガリア生まれのユダヤ人、ナチスに追われイスラエルに移住)の作品である。オリジナルの出版は1980年、まだ冷戦たけなわの時代である。テーマは米(CIA)ソ(KGB)対立。
KGB上層部に潜り込ませたCIAの二重スパイが発覚しそうになる。その鍵は英ロ間で交わされた古い外交文書にある。保存場所はロンドン公立記録保管所。KBGの工作員がその閲覧を求めるが、司書の手違いで若い英人学徒とそのフランス人の恋人の手に渡る。一方CIAもこの文書の回収にかかる。三すくみの古文書争奪合戦が英国、ソ連、米国、フランスを舞台に、殺人事件なども絡めて展開する。結末も見えたと思う終盤、突然のどんでん返し。お見事!と言うしかなかった。バー=ゾウハー面目躍如の一品である。

5)オックスフォード古書修行
最近は日本の大学でもサバティカル(Sabbatical)休暇を取れるところが多くなってきている。これはある一定期間(著者の場合は10年)務めると1年間の研究休暇を取得できる制度で、欧米では早くから行われていた。いわばリフレッシュ休暇なので、研究対象は日常の研究・授業で行っていることからややわき道に入った分野(場合によって飛び地)が望ましいとされている。著者は英米文学の専門家、今回二度目となるこの休暇で選んだテーマは“古書探訪”である。それも古書を調べるのではなく、古書を探し求める行為を研究(?)することにした。古本屋を巡り掘り出し物を漁る、オークションに参加するなどがその主な活動である。場所はオックスフォード。ここのカレッジに所属しながらそれを行うのだ。本好きには堪らぬ世界であることは容易に想像がつく。
本業が英文学であるから、当然その分野で価値のある書籍を探すには古書店巡りは欠かせない。どこの店にはどんな作品があるか?値付けはどのようにおこなわれているか?値決めの駆け引きは?これら全てが研究課題ともいえる。
オークションへの参加は当に戦場に赴く風である。オークション方式、参加資格(基本的に誰でも参加できる)、事前の下見と応札計画、オークショナーとの間合いのとりかたや競合応札者との戦い。こうして見ると学ぶことは多い。
対象となるのは、堅い本ばかりではなく19世紀の婦人雑誌(これを持ち帰って学生と実際に服を仕立ててみたりする。当時の体型が分かる)や古い湖水地帯の写真付ガイドブックだったり(かの地に住んだワーズワースの詩をあしらったもの)、自転車の発達史だったりする(国内の雑誌社からの執筆依頼)。
これらの話を、個々の話題に研究内容、英国文化や日常生活を交えながらエッセイとして読ませ、かつ全体として英国滞在記にまとめ上げている。知的な世界を気楽に味わえた読後感が心地よい。

コラム「読後感の後感」
先月の「CIA秘録」から今月最後の「オックスフォード古書修行」まで、読後感を書きなら、ときどき考え方が集中できなくなることがあった。他の本の内容が突然紛れ込んできてしまうのだ。“ケナン”を書いていると“CIA”が気になったり、また“ねじれの国”の一部が飛び込んできてしまう。CIAの設立にケナンが関わったことや、米ソ対立の構図がオーバーラップし、日本の外交下手が米国のそれと共通因子(孤立主義と鎖国政策)でつながったりする。
“ジョブズ”の伝記と“ケナン”の評伝ではそのまとめ方の違いが気になって仕方が無かった(本来の狙いが違うので当然なのだが)。内容の濃さなど嫌でも比較してしまう。
“パンドラ”は読み始めるときから“CIA”を読んだ後ではどうしても影響は受けると覚悟していたが、その通りだった。“CIA”では、現実には相手組織の上層部へ二重スパイを送り込む悲願は達成できなかったとしているが“パンドラ”ではその人物が重要な役回りを果たす。
その“パンドラ”と“古書修行”も意外なところで関係してくる。事件の発端となる公立記録保管所(Public Record Office)は当に古文書庫である。現在のオックスフォード大学図書館は、一般利用者用(メイン)、学部生用(ラドクリフ)、研究者用(ニュー)の三棟から構成されるが、その巨大な共通書庫は地下にあり、迷路のようになって各棟につながっている。読者が求める本は司書(ライブラリアン)によってこの地下書庫から供されるのである。これを知ったとき、直前に読んだ“パンドラ”で司書が間違いを犯す場面が直ぐに浮かんできた。これで先月からの本は全て赤い糸で繋がったのである。
そこでフッと思ったことは、「順序が違っていたら読後感も違うのではないか?」との疑問である。しかし、これを試すことは出来ない。もう一つは、孤立主義と鎖国政策をキーにして「日・米外交の共通性」と言うような研究が出来るのではないかと言う考えである。学者のユニークな発想はヒョッとしてこんな一見関係の無い書物を数多く読むうちに突然生ずるのではないかとも思ったりした。
今月は新たな読書の楽しみ発見の月となった。やはり“読書の秋”ですね。
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<閲覧者コメント>

ねじれの国日本・・・
此の手の本というか、大多数の日本論は、日本は外的の脅威がなく、のんびり穏やかにやってきた、おだやかDNAの国と決めつけていますが、そういった国が250年の実質的な非武装中立の鎖国をやめて約20年後に中国、約40年後にロシア、約80年後に米英を相手に戦うといった
事実を、これで説明できるでしょうか・・・。
また、1970年代後半からの欧米諸国を相手に回したすさまじい海外マーケット侵攻・・・。
どうも、日本人なる存在をなめているような気が・・・。