2012年7月24日火曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-(20)



20.旅を終えて
418日に出発、22日夜遅く帰宅した。5日間の総走行距離は1361km、一日平均は300kmを切るのでたいした距離ではないが、最終日和歌山から自宅まで、雨中を580km走ったのはいささか堪えた。翌日、月曜日は水泳の日だったがさすがにパスした。いつも測定している燃費は、満タンベースで128.2リッターだったから、10.6km/lとなり、山岳走行がかなりあったことを考えれば、まずまずの効率といえる。
今回のメインは“吉野の桜”であった。初めて訪れる所だけに期待は大きかった。そして、その期待は天気も含めて見事に叶えられた。桜がその時代からあったのかどうか不明だが、壬申の乱(7世紀後半)、南北朝(14世紀)にも登場する土地、秀吉の花見は史実のようだから、16世紀には今の風景に近かった違いない。奥深い山中だけにその時代を今に味わえる貴重な場所である。
高野山は和歌山在勤時代何度か来ているが、宿坊に泊まったのは新入社員研修以来50年ぶり。団体だったので大きな寺だったことは覚えているが、それ以外記憶が無い。今度比較的こじんまりした寺に泊まり、その独特のサービス(精進料理から早朝の勤行まで)を体験でき、仏都ならではの時間を堪能した。雨の中の散策も風情があり、紀伊半島観光には欠かせぬ観光スポットと言える。
龍神は完全にセンチメンタルジャーニーである。45年前泊まった“上御殿”と和歌山に居てもなかなか行けない半島深奥部を再訪する旅だった。道路は信じられないように改善されていたが“上御殿”も周辺の景色もほとんど昔と変わっていなかった。むしろ一部の小集落など消え失せてしまったのではなかろうか?
私の旅の最大の目的はクルマの運転にある。交通量の少ない山道でのヒルクライムやカーブでのアクセル・ブレーキ操作とハンドル捌きを楽しむ。今回は3ヶ所それを計画した。吉野から高野山への上り、高野山から龍神を経て南部までの道、それに奈良盆地中央部から松阪へ出るルートである。最後の舞台は天候の具合で中止せざるを得なかったが、前二者は予定通り駆け抜けた。最初の高野への上りは初めてのコース、夕闇迫る中、ガソリン残量警告灯を点灯させながらの走行で気持ちに今ひとつゆとりが無く、“楽しむ”程度が減じたのは残念だった。高野から龍神は見違えるように道路が良くなっており、ここは期待通りのドライブが出来た。龍神から南部までも道路状態は昔に比べ改善されているものの、大雨の被害が修復されておらず、意外とタフな運転を強いられる場面もあった。しかし、山岳ドライブではこう言うハップニングも楽しみの内かも知れない。
旅の楽しみの一つに食がある。今回、これは何と言っても宿坊の精進料理に尽きる。珍しいだけでなく味も上等、量も適量。日本旅館の多すぎる種類と量に辟易とすることさえある昨今、宿坊に学ぶべしと言いたくなる。第二は南部の梅干。今でも夕飯時、おかずが少し少ないと嬉々として一粒いただいている。
和歌山を知らない家人を連れて二度目の紀伊半島ドライブ。3年前は伊勢志摩から新宮へ出て、熊野川を遡行して本宮・湯の峯と廻り、熊野古道の一つ中辺路を辿って白浜に至り、和歌山市に出た。今回は吉野・高野・龍神と比較的北を走ったので、残るは半島の東側から西に向かい、吉野付近から南下して十津川(熊野川につながる)を下り、新宮から本州最南端の串本経由で海岸沿いを和歌山に至るルートである(このオプションとして、吉野から大台ケ原を通り熊野へ出るルートも面白そうだ)。この途上は大震災後の豪雨で人口湖が出来るくらい打撃を受けており、いまだ不通個所も多いと聞く。いつの日かチャレンジしたいものである。
日本最大の半島、紀伊半島、海・山・川とも自然の深さはわが国有数。京都・奈良に近く歴史的遺産に事欠かないが、その大きさゆえか開けていない。今やこれが貴重な財産ともいえる。チョッと不便ではあるが是非多くの人に訪ねてもらいたい。このドライブ記が少しでもその参考になれば幸いである。
(歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-完)
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長期にわたるご愛読に感謝いたします。

2012年7月20日金曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-(19)



19.雨中を走る
給油したスタンドはゼネラル高野口。ここから旧24号線に並走する自動車専用道路、京奈和自動車道(これも24号線)が始まる。最終目的地を自宅にセットして、あとはナビに案内を任せることにした。吉野へ向かう時散々悩まされたナビも高野以降順調に動いている(進行方向が上向きでなくなったのは、吉野へのルート選択で何度もセットをやり直すうちに、上が“北”を指すようにしてしまったためである。今はそれにも気がつき戻している)。
往きのこの地帯でナビが間違えたように、京奈和道路は貫通していない。五条北ICで再び一般道の24号線につながり北上する。御所(ごせ)・葛城・大和高田・橿原など歴史のある町が点在し、今や大阪のベッドタウンにもなっているこの一帯は、休日のショッピングにでも出かけるのか交通量が多く、各所で渋滞している。何とかそれを抜けて橿原で自動車道に戻り、郡山ICで西名阪に乗り換える。ここから天理までは有料だ。雨は依然続いており、むしろ強くなってきている。ワイパーをハイスピード上げる。
天理からは無料の自動車道、西名阪を走るのだが、この“無料”のせいか雨だというのにクルマが多い。特に休日にも拘らずトラックが目立つ。車高の低いスポーツカーの雨中走行はこういう環境が最も苦手だ。ミッドシップの抜群の安定性に救われるが、緊張の連続。悪いことに無料と古さゆえ道路沿いにSAPAがほとんどない。一旦一般道に下りる方式なのだ(米英のフリーウェイもこの方式が多い)。やっと休めたのは往きにも立寄った亀山PAである。ここで3時のおやつ。もしオリジナルプランで三重の山中から松阪経由のルートを通っていたら、この時間には着いていなかっただろう。
新名神が交わる亀山JCTはかなり渋滞したが、その後は比較的順調で、橋梁が続き、風が心配な伊勢湾岸自動車道も、警報は出ていたが、道路幅が広く取ってあり、危険を感ずることは無かった。豊田JCTで東名と合流。再びトラックが増え、雨も激しくなってくる。
ボツボツ決断しなければならない。往き同様新東名を走るか?オリジナル案の旧東名を行くかである。往きが新なら帰りは旧と考えていたが、新へ踏み込みたい動機はいくつかあった。交通量の少なさと走り易さ。風雨が強まる中での清水以東の海岸・海上道路部分走行への不安。それに、FM放送番組制作会社に勤める次女から今朝届いたメッセージ「新東名に関して、番組で使える情報が欲しい」である。放送担当時間はとっくに過ぎていたが、何か彼女に役立つニュースがあるかもしれない。こんな思いから、再び新東名を走ることに決する。
三ケ日JCTで東北に向かう新道に入るとしばらく登り、距離も多少長いせいか交通量はガクッと減る。トラックはほとんど走っていない。こんな天気、こんな時刻にパトカーがいるとは思えないが、走り易いのでスピードを抑えるのに苦労する。不思議なのは夕闇が迫り、クルマが少ないわりに、PAの混雑を告げる表示が点灯していることだ(これはニュースになるかな?)。雨の休日でも新道路観光が賑わっているのであろうか?
心配事は風雨ばかりではない。実はガソリン残量が気になりだしていた。高野口で満タンにしたが、自宅までは500km近くある。ぎりぎりの走行距離なのだ。この辺りから自宅まで自動車専用道路にはエッソ・モービル・ゼネラルのスタンドは無い。最悪の場合他社製品を少量入れるか?そんな思いで走っている。
足柄SAに着いたのは7時少し前。雨は止んでいた。ここまで来ればもう日常のドライブ圏内。夕食を摂りユックリ時間を過ごす。ガソリンはエコ運転を心がければ何とかなりそうだ。もう夜8時過ぎだというのに、厚木辺りから横浜・町田までは流れてはいるものの、全車線クルマでいっぱいだ。保土ヶ谷BP、横横と乗り継いで、自宅到着は915分。和歌山からの走行距離は580km。長い休憩もあるが13時間かかった。雨中これだけの距離を一日で走ったことはない。それも全く運転の楽しみを味わえずにだ。自らに「お疲れ様でした」というほかに言葉は無かった。

(次回;旅を終えて;最終回)

2012年7月15日日曜日

歴史街道行く-吉野・高野・龍神を走る-(18)-



18.根来寺・粉河寺
422日(日曜日)、いよいよこのドライブ行も最終日になった。前日からの予報通り、朝から雨が降っている。前線が通過した九州・中国は激しい豪雨に見舞われたところもある。安全第一で、前日から考えていた、雨ルートで帰浜することに決する。
和歌山と関東を結ぶ道は何度も行き来している。中でも紀ノ川沿いを走り、五条から天理に出て東名阪で亀山を経由し、東海道に乗るケースが多かった。今回の往路もほぼこれに近い。せめて帰りだけでも今まで走ったことの無い道を選びたい。オリジナル・コースはこのような思いで検討した。
それは、五条から天理に向かう途中で、橿原・桜井方面に折れ、国道165号線(初瀬街道)を近鉄大阪線に沿って東進、榛原(はいばら)で南東に向かう369号線に乗り換え、さらに松阪に向かう368号線(伊勢本街道)、166号線(和歌山街道)とつなぎ、松阪牛を遅めの昼食で食し、そこから伊勢自動車道、伊勢湾岸道路を辿る道筋だった。言わば少し北寄りの紀伊半島横断ルートである。鉄道は通らず、町らしい町も無い。秘境ドライブを大いに楽しめそうだった。しかし、午後の雨が激しくなると、後半のルートで何が起こるか分からない。
直帰最短時間ルートは、和歌山から阪和自動車道に乗ってしまえばほとんど自動車道だけで我が家まで帰れる、3年前にも通った自動車道接続ルートだ。この時は8時頃出発して3時には着いてしまった。これでは面白くないので、紀ノ川沿い、奈良盆地の観光スポットを状況に応じて何ヶ所か寄る案を考えておいた。それらを訪れてから、東名阪に入ることにする。これがオプションの雨ルートだ。
最初の訪問地は根来寺(ねごろじ)。半世紀前初めて関西(和歌山)で生活するようになり、ある休日ここを訪れた。荒地の中(周辺はほとんど未整地・未舗装)に忽然と現れた巨大な山門は、私の関西観、そして日本史観を一変させた。「こんな辺鄙な所に、こんな凄い山門がある!」 雑賀(さいが)衆・根来衆の秀吉への反抗と制圧の歴史を知るのはしばらく後だが、東京中心主義が改められた瞬間である。
24号線は和歌山市東端で川を渡り、北岸を東へ進んでいく。やがて昔からこの辺りの中心である、岩出町に入り、街中で左折、泉佐野方面(北)へ向かう道を少し行くと根来寺付近に達するはずである。分け入った道の素晴らしさに驚いた。分離帯付きの片道2車線である。案内に従い右折して未舗装(これは50年前と同じ)水浸しの駐車場に車を止めた。しかし、あの山門が無い!国宝大塔の入口にある受付で聞くと、やってきた道は新道で、もう一筋南側の道が大門の横を通っているのだという。
根来寺がこの地で本格的に真言宗の新義教学(つまり分派)を始めるのは保延6年(1140年)、爾来興隆を極め、多くの学僧を集め、それが僧兵にもなって一大勢力を成したことから、秀吉の根来攻め(1585年)となり、2000を越す塔堂の内、大塔・大師堂以外は焼滅、大門も含めて残る建物は江戸時代に復興したものである。
大塔のあと、ご本尊が祀られる光明殿を拝観、雨に濡れる美しい庭園(国定名勝)を鑑賞、次いで想い出深い大門を訪れた。周辺はきれいに整備され、昔日の面影を残すのは大門本体だけだった。
次いで広域農道伝いに向かったのは粉河寺。ここは高野山に近いが天台宗の寺である。創建は宝亀元年(770年)だから根来寺より古い。この寺の由来を描いた「粉河寺縁起絵巻」は国宝として京都国立博物館に収められているし、枕草子にも記されているという。ただ、根来寺同様、秀吉に攻められ焼失、江戸時代に再建されたので本堂・大門・中門ともに重要文化財に留まる。ここも石と植木が階層を成す、あまり他に例を見ない庭園が売り物の一つである。
雨が弱まる気配は全く無い。24号線に戻り、酷くなる前に東名阪に入りたい。昼食は道路沿いのガストで済ませ、チョッと早い気はしたが隣接するゼネラルで給油した。天候と時間から考えて、このあとの観光(橿原神宮など)は中止する。
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(次回;雨中を走る)

2012年7月11日水曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-(17)



17.長保寺・紀三井寺
当初予定の日の岬・煙樹ヶ浜周辺には昼食を摂る適当な所も無く、時間も12時前だったので、42号線に戻り街道沿いで立寄ることにした。この辺りから和歌山までは自転車で、バイクで、そしてクルマでよく走った一帯である。未舗装の道路が年々整備されていく過程もつぶさに見てきた。しかも3年前にも同じルートを辿っている。格別観光スポットは無いのだが、昔を思い出させるものが次々と現れ、懐かしさは一入だ。由良の峠から遥か下方に見た海上自衛隊の潜水艦、広川では生まれて初めての蛍狩り、醤油で有名な湯浅は地方行政の中心地、駐車違反で簡易裁判を受けた苦い想い出も蘇る。ここでドライブイン形の中華レストランに入り、中華丼を食す。
道が有田川に沿うようになるともうホームストレッチ、みかん狩りや鮎とりに出かけた紀伊宮原を過ぎれば、7年間暮らした有田市の中心、箕島だ。ここは古い市街地を避けるバイパスが出来て、川の南側が様変わりしている。西に向かう道は北に向きを変え、川を渡ると旧道に戻る。寮に向かう分岐路が懐かしいが、とうに取り壊され小学校に変じているので立寄る意味も無い。初島一帯はクラブ・体育館など会社施設が未だにかなり残っているものの、ほとんど使われておらず。社宅や新寮は更地に戻っている。寂しい限りだ。道は上りになり鰈川トンネルに向かう。この辺りの景色は、みかん畑が続く50年前とほとんど変わらない。トンネルを抜けると下津。その中心部で右折して少し東進すると間もなく長保寺前の駐車場に着いた。
長保寺の創建は長保2年(西暦1000年)だから清少納言、紫式部の時代である。従って、大門(修理中)、本堂、多宝塔は鎌倉時代に再建されたのものだが国宝に指定されている。寛文6年(1666)初代紀州藩主徳川頼宣により菩提寺に定められ、廃藩まで15代の藩主および夫人の一部の霊が祀られている。ただし幕府将軍となった、吉宗(第5代藩主)と家茂(第13代藩主)の墓はここには無く、江戸に廟所がある。
鬱蒼とした木々に覆われた山の斜面に点在する墓は配置・様式・大きさも様々で、統一感は無いが、広さだけはさすがに一般庶民とは違う。とても全部を見て歩くわけには行かず、受付で説明のあった順路に従い、初代や15代など数ヶ所を訪れたが、それだけでも小一時間かかってしまった。出口に指定された廟門を出ると、白壁に沿って花々が咲き誇っていたが、その色の鮮やかさが、山中の苔むす墓々と強烈なコントラストを成し、この寺を印象付けてくれた。
熊野街道へ戻り加茂郷、海南へと進むに従い、交通量も増え、海南からは片道2車線になる。万葉にも詠われた和歌の浦はすっかり寂れてしまったもの、沿線は工業団地や住宅地としては、昔に比べ遥かに発展している。南から和歌山市内入るところで東側に進むと紀三井寺がある。
この寺は宝亀元年(西暦770年)唐僧為光上人によって開かれ、爾来多くの天皇の行幸や紀州藩主の来山があり、名水(三つの井戸が寺の名前の起源)と桜の名所でもある。小高い山の中腹に在るので、下の駐車場にクルマを停め、石段を登るのだが、これは結構堪える。境内から和歌の浦方面をみると、昔に比べ建物が密集してきているのがよくわかる。地方でも都市への集中が進んでいるのだ。
ここからホテルまでは街中走行、4時過ぎホテルに付いた。今日の走行距離は207km。夕食は駅の東側にある息子のマンションを訪れ、見晴らしの良い部屋でワインとパエリヤをご馳走になった。
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(次回;根来寺・粉河寺)

2012年7月6日金曜日

歴史街道を行くー吉野・高野・龍神を走る-(16)




16.南部(みなべ)から日の岬へ
421日(土)、天気は朝から薄日がさし、まずまずと言ったところである。上御殿前の駐車場を女将さんと仲居さんに送られて出発したのは9時少し過ぎた時刻。今日の最終目的地は和歌山駅に隣接する、ホテルグランヴィア和歌山だ。距離は140km程度、5時間はかからない。しかし、ルート決定までにはいささか時間がかかった。後半走る道はよく知った国道42号線(熊野街道)、3年前の紀伊半島ドライブでも走っているからだ。
私は和歌山工場勤務時代何度も訪れているが、家人が初めての観光スポットを選び出すと、紀伊半島西端となる日の岬、紀州徳川家の菩提寺、長保(ちょうほう)寺、8世紀に唐僧が開き、桜の名所でもある紀三井寺(きみいでら)などが候補地として浮かんできた。いずれも熊野街道から近いので立ち寄りに格別時間を要する所ではない。これで後半部分は決まった。
前半、龍神から海岸線を走る熊野街道までは過疎地帯を走る山岳道路。ここは今回の旅で運転を楽しむための山場と期待している。御坊へ出る道が二本、南部へ向かう道が一本。いずれを選択するか?一番北ルートは県道26号線、和歌山を代表す三本の川(紀ノ川・有田川・日高川;いずれも有吉佐和子が小説に書き残している)の一つである日高川沿いに進む。真ん中を走るのは、紀伊半島中央部を三重・奈良・和歌山と横断している国道425号線。最近の地図で見ると、龍神以西は国道としてよく整備されているように見える。残る一本は南部へ出る国道424号線である。この道は多分42年前逆に走っているはずだ。日高川に沿う道は、ゴルフ場が在ったり、前回訪れた道成寺を通っていくので、かなり開けた様子、面白味という点で先ず落ちた。南部ルートは一旦南へ下り、レの字型に北上するので遠回りになり、第一候補にはならなかった。しかし、出発数日前「今回のお土産をどうするか?」を考えている時、“南高(なんこう)梅”のことが気になりだした。前回はみかんを食材にした菓子と湯浅の醤油、いずれも和歌山ならではのものだ。「今回は南部の梅干!」(“南高”;南部高校農業科が開発した、南部高田地区の梅を使っている、の二説がある) これで424号線に決まった。
龍神を出る時目的地を道の駅、“みなべ梅振興館”にセットした。Webで“梅干の製造・販売所”を調べたら、みなべ観光協会のHP40数軒が列挙された表が出てきた(商品紹介へ展開できる)。あまりの量に何処で何を買うべきか見当もつかない。口コミなどを基に選択肢が多そうなここにしたのだ。
424号線は想像以上に厳しい道だった。道幅は狭く路面も荒れている。加えて春先の大雨で応急工事が施されているような所が諸処にある。迂回指示に従うと、その先の急斜面が抉り取られ、茶色の山肌を見せている。小川を渡る橋は仮設、一方通行で路面高の低い車は腹を擦りそうだ。起伏とワインディングを楽しむ運転どころではなかった。“梅干”を考えなければ第一候補の425号線を行くべきだったかもしれない。
梅振興館は期待通り、加工方法、パックサイズ、味付けなどいろいろな梅干が揃っていた(安い訳あり商品もある)。ほとんど試食可能で、吟味して選べるのが良い。自宅用にはやや甘口の訳ありを、年配者が多い友人達には伝統的な味付けのものを購入した。
梅振興館から阪和自動車道のみなべICに近い。そこから御坊南ICまで行き、42号線を少し走り、海岸線を防砂・防風林に沿ってしばらく行くと、岬へ向かって長く延びる煙樹が浜に出る。この浜は砂利で出来ており、潮の満ち干が奏でる独特の音で知られる。夏はキャンプで賑わうこの一帯もまだ静かで、その響きを久し振りに味わうことが出来た。昼食を計画していた岬はさらにこの先、突端の丘には昔は無かった国民宿舎やカラオケ施設が在ったが、観光客は全く居らず、明るい日の下に寂寞感だけが漂っていた。
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(次回;長保寺・紀三井寺)

2012年7月1日日曜日

今月の本棚-46(2012年6月分)



<今月読んだ本>
1)汽車旅12ヶ月(宮脇俊三);河出書房新社(文庫)
2)競争戦略としてのグローバルルール(藤井敏彦);東洋経済新報社
3)鉄道会社はややこしい(所澤秀樹);光文社(新書)
4)工学部ヒラノ教授の事件ファイル(今野浩);新潮社
5)失われた鉄道を求めて(宮脇俊三);文芸春秋社(文庫)

<愚評昧説>
1)汽車旅12ヶ月
軍事と並んで乗り物をテーマとする本は最も好きなジャンルだ。しかしながら全般的な傾向として、最近この分野で面白いものにお目にかかる機会が減じているような気がする。特に題材や文章、話しの展開に深み(文学的、社会的)のあるものが見当たらない。一つの理由として、交通機関の高速化と大衆化があるのではなかろうか?つまり乗り物から“旅の楽しみ(特に意外性)”が失われてきているからだ。
内田百閒と並ぶ優れた鉄道作家、宮脇修三の本は文庫本だけでも20冊近く読んでいる。全てがアマゾン経由で求めたものではないが、こちらの好みをよく分析しており、売り込み情報が送られてきた。まだ読んでいないものが何冊かあったので発注した内の一冊である。
単行本が出たのは1978年。この年宮脇は長年勤めた中央公論社(編集者、役員)を退職(51歳)。代表作ともいえる「時刻表2万キロ」を世に出し、次いでこれも名著として今も人気のある「最長片道切符の旅」が発表された年でもある。そしてこの“12ヶ月”が3作目、つまりあぶらののった時期に書かれたエッセイである。
12ヶ月”は1月から12月までの意である。しかし、一見季節感を伴う題目ながら、俳句ではないから、いつも自然に関わる季題があるわけではない。例えば1月は年末年始の混雑と平時とは違うダイヤ編成を取り上げる。狙い目は臨時列車であること、そこには普段夜行にしか使われない寝台車が座席車となって運用されたりしていることなど、サラリーマン時代、この超混雑期未乗車区間を乗り潰すため、止むを得ず旅行する苦労話が披瀝される(元旦の夜行で出かけ4日に帰ってくるケースが多かったようだ)。2月は“松葉ガニ”を主題にするが、話しは如何に1月下旬から2月上旬が鉄道の閑散期であるかと言うことを取り上げる。結びの12月は京都を取り上げ、修学旅行や団体旅行のないこの月が最も京都らしい姿を見せると賛美し、漬物の美味さを愛で、だから12月は京都に出かけることが多いのだと。思わず「で鉄道は?」と問いたくなる。それを見透かしたように話は12月に珍しく九州を訪れる機会があり、ローカル線で会った二人の老人の話に転ずる。ひとりは豊肥本線の立野駅(スイッチバック駅)で、大声で列車編成を確認する(「一号車普通車!」)お爺さん。もう一人は日豊本線で会ったお婆さん。停車駅毎に腕時計を見ながら到着・発車時刻をメモしている。「何故?」との思いで話しかけるが、耳が遠い老婆は遠くを見つめるばかりである。
自然も人もよく観察された、唯の鉄チャン物ではない、こんな本が書ける作家と環境が再び現れることはあるのだろうか?

2)競争戦略としてのグローバルルール
50年前、就職して6ヶ月の研修期間を終え最初の職場に配属になると「来年度の国家計量士試験を受ける準備をするように」と申し渡された。二日間の筆記試験にパスすると第二次試験は面接である。度量衡制度がメートル法に統一される直前、試験官の発した質問は「メートル法適用除外分野は如何に?」と言うものだった。「航空機および武器に関する分野です。ここではヤード・ポンド法が認めらます」と答えると、「何故か?」と畳み込んできた。「敗戦でわが国が大きく遅れている分野だからです」との答えに、試験官は「そうですか」と発してこの問答は終わった。幸い試験には合格したが、正解は「事実上の世界標準ですから」だったらしい。
やがて仕事は情報技術分野に転じ、プロトコール(手順)や信号が重きを置くことになると、古くはIBM、近くはマイクロソフトと言う一企業の方式がこの世界を制し“デファクト・スタンダード”なる言葉が人口に膾炙されるようになる。航空機・武器同様、強者・勝者の定めに従わざるを得ないのだ。アルファベットと数字しか扱えない世界でどれだけ“言語情報処理”にハンディキャップを負ってきたことか。
物も情報もサービスも、そして公害さえ国境をこえる時代、各種のルール作りに遅れをとると、最新技術・ビジネスモデルも競争に参加さえ出来なくなる。国連やISOのような国際機関で、各種業界で、NGOでその主導権争いにしのぎを削る戦いが行われている。バブルが弾ける前まで、ものづくりでは断突のトップランナーであったわが国が、相対的に力を低下させているのは、この点に問題無しとは言えない。
著者は経済産業省のキャリア官僚だが、比較的若いときから通商問題の交渉官としての道を歩み、日米経済摩擦時の米国駐在やブラッセルのジェトロに出向し、ルールを巡る国際交渉に精通した専門職としての経験を積んできた人である。その経験を基に書かれた、数々の事例から、わが国と他国の政・官・民における国際ルール策定・運用に関する特質が分かり易く解説される。
国際ルール作りの最も重要な点が“理念”であること。ルール作りで主導権を握るには交渉項目(アジェンダ)設定に先行すること(土俵を作ってしまう。そのためにも理念が重要)。ルールは金科玉条、守るものではなく、(理念先行ゆえに)状況に応じて変えていくものとの認識を持つこと。主張は一企業でせず、政府や学会、NGOなどオールジャパンで並行して進めること。そして、ルールは与えられるものではなく、自ら作るという考えに立つべきと論ずる。
このようなルールによる標準化(デジュール・スタンダード;Jure;掟)は今やデファクト・スタンダードよりビジネスの場で重要性を増しており、技術開発と並行してここへ力を注がないと、画期的な技術も一瞬にして水疱に帰す恐れがあることを教えてくれる。
また、これらのルール作りが、国際交渉の歴史が長く経験豊富な欧州主導で行われるケースが多く、これに新興国の勢いや思惑が絡んで複雑な様相を呈していることも、最前線で戦ってきた人の書いたものだけに、説得力をもって伝わってくる。
職人国家日本の転機を考える上で、現役ビジネスマン、エンジニアには是非読んでもらいたい本である。

3)鉄道会社はややこしい
好きな鉄道物だが、読んでみてかなり特殊な本であることが分かった。一言で言えば“相互乗り入れ解明本”とでも言えばいいのだろう。古くは明治期における官鉄と民鉄(長距離・地方)の相互乗り入れがあるが、これは後に漸次官営化され、やがて国鉄と変じていくので、それほど問題が顕在化してこなかったようだ。しかし、高度成長期、都市集中化によるターミナル駅の混雑緩和策として地下鉄を中心に相互乗り入れが始まると、技術・設備・車両・運転・運賃など多岐にわたる鉄道会社経営に、一社では解決できぬ課題が現れてくる。利便性の陰に、鉄道会社の涙ぐましい努力があるのだ。そしてその経験は国鉄分割・民営化へと続いていく。
話しの書き出しは、青森県内を走る青い森鉄道(国鉄民営化後の第三セクター)の東青森駅に置かれたゴミ箱から始まる。何故かそこには“JR貨物(八戸臨海)”と書かれているのだ。「臨海線でも貨物駅でもないのに何故?」 このからくりが実に複雑なのだ(一種の業務委託)。
次いで地下鉄(営団;現メトロ)日比谷線と都営浅草線の生い立ちからその運用に移る。日比谷線は、東武-メトロ-東急(東横)の三社が、浅草線は京成-都営-京急三社が相互に乗り入れているのだが、浅草線の方はやがて京成線が芝山鉄道、北総鉄道ともつながって5社相乗りとなる。このような運営体系で、どんな問題が生じてくるか、どう対処したか、これが本書の内容である(首都圏に留まらず、関西圏では、名古屋圏では、地方では、分割後のJRでは、と広がっていく)。
ゲージの統一(何と京成<1372mm>は標準軌<1435mm>とやや異なるゲージを使っていたが、営業運転を行いながら約2ヶ月かけて全線標準軌に改めた!)、車両の長さやドアーの数・位置、車両利用の平準化(他社線内の走行距離を均等にする;そのために京成の車両が京急の路線内を何度も往復したりする)、信号・ATSシステムの併備(二つのシステムを持つ)などなど。日頃利用している京急につながる浅草線だけに、「エッ!」「なるほど」「そうだったのか」の連続であった。
こんな話しが満載の本だから、よほど鉄道に対する関心・好奇心が強くないと、最後まで読み通す気力が続かない。個人的には面白かったが、完全にマニア向けで一般の方にはお薦めできない。

4)工学部ヒラノ教授の事件ファイル
昨年1月に出版された「工学部ヒラノ教授」(本欄-3120113月分で紹介)の続編である。前作が、大学行政や大学管理に関する暗部・恥部を皮肉とユーモア(多分にブラック)を交えて抉り出したものであったのに対し、今回は“事件ファイル”が意味を持つ。つまり自らも関わった大学・大学教官の“犯罪”を扱ったものである。前作が表ならば今回は裏の内実と言っていい。
カラ出張、経歴詐称、文科省規定違反、色仕掛けによる単位略取、違法コピー、セクハラ・アカハラ(アカデミック・ハラスメント)、研究費不正流用、論文盗作・データ捏造、そしてキャンパス殺人事件まである。大学を巡る不祥事として、これらの話題はメディアでも大々的に報じられたものもあるが、ここで書かれているのは著者が関わったり、自ら犯した“犯罪”で、ほとんどバレもせず、何ら処分を受けずに済んだ話である(よかった、よかった!時効だから書けた?)。
例えば、経歴詐称は筑波大学助教授時代、米国のパデュー大学から客員“教授”として招聘される、大学当局も“教授”ならとOKを出すのだが、出発を控えて先方から“准教授”と言ってくる。直近の論文数が足りなかったのだ。大学に正直に話せば騒動になること必定。頬かむりして出かけてしまう。
パデューでの教え子の一人はグラマラスナな美人、奨学金維持のため成績の嵩上げを求めて研究室にやってくる。簡単にOKしないヒラノ教授に、ドアーをロックして彼女が迫ってくる。据え膳食うか?同じような話しがもう一話あることから、この時代先生はモテモテだったのだ。
こんな話しを前作同様、皮肉とブラックユーモアをまぶしなら料理していくのだから、楽しくないはずはない。
終わりの二話は少しトーンが変わってくる。殺人事件は中央大学理工学部の電子工学の教授が卒論指導した卒業生に刺殺される話である。ヒラノ教授は筑波大・東工大と勤務した後中央大学(経営工学)に招かれる。経営工学と電子工学では日常付き合いは無いのだが、偶々健康診断の際会話をする機会を持つ。そしてあの悲劇が起こったのだ。学生指導の難しさがここでは語られる。
最後の話は原発についてである。ヒラノ教授は大学修士課程終了後電力中央研究所に就職、与えられた仕事は「原子力発電の経済評価」、今回の原発事故を踏まえ、エンジニアの心構え、原子力行政の在り方について自説を開陳して「事件ファイル」は終わる。
前作もそうだったが、「ここまで書いてしまっていいのか!?」とたびたび思うほど、内情暴露がきわめて具体的である。そこには単なる憂さ晴らしではなく、オープンにすることにより広く知られ、外からの声も加えて大学を改善したいという意欲が強く感じられる。是非多くの人に読まれ、大学が変革するよう期待したい。

5)失われた鉄道を求めて
1)で紹介した「汽車旅12ヶ月」と一緒に注文した本である。こちらの方の単行本出版は1989年だから10年以上後になる。これだけの時間が経過すれば廃線はかなり進んでいることになるが、此処に登場するのは全て県営・村営・私鉄で旧国鉄は無い。著者の作品がほとんど旧国鉄を舞台にすることから、大変珍しい作品である(この他にバスを扱ったものが一つある)。
1980年代以降国鉄民営化の影響もあり、地方では廃線が相次いだ。これを取り上げるノンフィクションは多くの人によって書かれ、著者がこの分野の開拓者ではないのだが、やはりテーマ、文体、背景や歴史、情景描写で他の追随を許さない。確り文学になっていると言うことである。廃線巡りブームが始まるのはこの本の出版後との説もある。
第一話は沖縄県営鉄道。この島に鉄道が敷かれていたことすら知る人はほとんど居ない。那覇を基点に数本の鉄道が走っていたのだ。最初は馬車鉄道だったようだが、その後蒸気機関車やガソリンカーも導入されている。他の土地の廃線は車との競争に敗れ、経済的に立ち行かなくなるケースが多いのだが、ここでは米軍の砲撃とその後の戦闘、占領で消えていったのだ。
長く続いた占領もあり当時の地図は古地図屋にも無い。鉄道マニアの裁判官が現地調査と聞き取りで集めた情報を頼りに、鉄道敷設の遺構を捜し求めて、島内を東奔西走する。この間に鉄道稼動時の様子を古老などから聞いて、往時の姿を類推していく。「あの駅は女学校の最寄駅でいつも華やいでいた」という話が“ひめゆり部隊”の話につながっていく。
沖縄に限らず、廃線探しのキーポイントは渡河にある。どこかに橋桁や基部が残るものなのだ。また、道路に変じているところが多いのだが、カーブや勾配が自動車道と比べ緩やかなのもその特徴を浮き立たせることになる。
こんな調子で、耶馬溪鉄道(九州)、歌登村営軌道(北海道)、草軽電鉄(長野・群馬)、出雲鉄道(島根)、サイパン・テニアン砂糖鉄道、日本硫黄沼尻鉄道(福島)が取り上げられる。
廃線と言うと、何か暗くうらぶれた印象がつきまとうが、この人の手になると、哀感はあるものの、どこか消えていったものへの愛しさとユーモアが感じられるのが良い。
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