2012年11月30日金曜日

今月の本棚-51(2012年11月分)



<今月読んだ本>
1)満鉄特急「あじあ」の誕生(天野博之);原書房
2)消えたヤルタ密約緊急電(岡部 伸);新潮社(選書)
3)日本型リーダーはなぜ失敗するのか(半藤一利);文芸春秋社(新書)
4)日本農業の正しい絶望法(神門善久);新潮社(新書)
5)山手線に新駅ができる本当の理由(市川宏雄);メディアファクトリー(新書)

<愚評昧説>
1)満鉄特急「あじあ」の誕生
誕生来8年を過ごした満州には特別な思い入れがある。また終戦までの昭和史は満州を基底に動いていたと言っていい。それもあって、“満州”と題する本は棚ひとつでは納まらぬほどある。加えて、鉄道も関心が高い分野だから“満鉄”を取り上げた書物は何冊ももっている。しかし、何故か満鉄の車両を中心に技術的な主題で書かれたものは一つも無い。その種の本が出版されていないわけではないが、読者層が限られ、本屋に並ぶ機会が少なかったのだろう。引退後は自宅に篭もることが多くなり、大きな本屋に出かける頻度が著しく減じたことも、この種の本を目にしなくなった理由の一つである。それもあってAmazonで入手することが多くなった私の購読傾向を分析し、知らせてきたのがこの本である。
戦前満州に在留した子供たちにとって特急「あじあ」は特別な存在であった。スーパーカー時代のフェラーリ、ランボルギーニに匹敵しようか。“乗った”は周辺にいなかったが、“見た”だけで英雄である。絵本に描かれたそれを見るだけでしばし興奮状態だった。私もこの口で、絵本や写真で見た記憶しかない。
日露戦争後ロシアから利権を引き継いだ満鉄(1907年経営開始)の路線は、当初大連-新京(現長春)間。その後ソ連時代(満州国建国後)に新京-ハルビン間(東清鉄道)を買収して、それが本線(連京線・京濱線)となっている。ハルビンから西進し満州里でソ満国境を超えるとシベリア鉄道につながり、モスクワ、ベルリン、パリなど欧州の大都会と結ばれる(実際にはソ連は広軌なので線路はつながらないが)。東京から下関までは標準軌の弾丸列車を走らせ(今の新幹線はほぼこの当時の構想)、朝鮮半島を縦断して満鉄に接続、欧亜連絡の特急列車を走らせ、日本の国際的地位を更に高めたい。これが当時の為政者・鉄道人の夢であった。「あじあ」誕生の背景である。
しかし、ことが“夢”だけで進められるわけではない。政治情勢・経営環境・国際情勢・技術環境、これら全体に影響する軍事情勢、それに特異な自然環境などが複雑に絡む。何とか手をつけられたのはこの「あじあ」だけ。それも大変な難産であったことがこの本で、“技術・技術者”を中心に語られる。とは言っても単純な技術オタク向けでなく、特急を走らせることの経営的背景や人材育成(これはかなり詳しい)にも視点を向け、深みのあるものになっている。
例えば、経営環境に関して、長く満鉄の収入源が著しく貨物に偏り(80%)、それも季節変動(農産物主体)と方向差(大連行きは有載、帰りは空荷)が大きく、また(中国)民族資本による並行線の建設もあり、経営は安定せず、旅客輸送強化に具体的に取組めるようになるには満州事変(19319月)以降であることを、軍の動きなども含めて「あじあ」前史として解説している。
人材育成では“海外留学制度”と“南満工専・旅順工大”の2章を設けているほか、随所にそれに触れており、非常に人材育成に熱心だったことがわかる。有名な流線型蒸気機関車パシナの設計者(機関車主任)、吉野信太郎が言わばこの本の主役になるのだが、彼は内地の生まれながら南満工専(第一期生)から旅順工大に進み、更に米国の鉄道車両会社へ研修派遣されている。他の多くの技術者も満州育ちで、鉄道省(後の国鉄)とはかなり出身母体が異なる(鉄道省は帝国大学、特に東大が中心)ことをこの本で初めて知った。
さて「あじあ」である。通常編成は7両(機関車、手荷物車、三等車2両、食堂車、二等車、展望一等車)で全長170m、乗車定員270名である。随分贅沢な列車であることがこの編成からわかる。最高速度は110km/hを超す区間もあり当時としては世界的なレベルに達している。特徴的なのは流線型をした機関車と半円形をした展望一等車。機関車は現在米大陸を走るディーゼル機関車のようで、力強さとスピード感を併せ持っている。ただ、流線型の蒸気機関車開発は保守の問題などあり苦労している。機関車開発に次いで技術的に挑戦だったのは空調システムである。満州の気候(塵埃を含む)に耐える高速走行には密閉式の客車にする必要があり、空調が不可欠となるのだが、米国で一部運用例があったものの実用化はその著についたばかり、この開発や運用上のトラブルとその解決にもかなりのページを割いている。こんな特別な列車が、戦争が深まる中で時勢に合うはずはなく、1934年に走り出して9年後、1943年にはダイヤから消えることになる。
本書の著者は私よりも4歳上の大連生まれ。父親が墲順炭鉱に関係していたようで、この「あじあ」に乗車体験をしている。現在は満鉄会常任理事で、長いこと出版社で編集に従事していたこともあり、資料や調査が行き届き、構成や文章もきわめて自然で読みやすい。昭和史と技術史の一片を知る良書である。

2)消えたヤルタ密約緊急電
昭和2089日朝目覚めると、父が「朝食が済んだら(市内(新京;現長春)に点在する)社宅を廻るが一緒に来るか?」と問う。自動車に乗れる!先ず浮かんだことはそれである。この日ソ連軍が満州に侵攻したので、事務管理職だった父は対応策連絡のためその必要があったのだ。夕刻には現地緊急徴集で、父も含め大人の男はほとんどいなくなってしまった。ヤルタ密約が行動に移された日の個人的な思い出である。爾来“ソ連は不意打ちをする汚い国”が長いこと私の対ソ観だった。
しかし、歴史が少しずつ明らかになるにつれ、ヤルタ会談でルーズヴェルトとスターリンの間で事前にソ連の対日参戦が話し合われ、“ドイツ降伏後3ヶ月”がその時と決したことを知り、連合国間ではその約束を忠実に守った満州侵攻であることがわかった。こうなると終戦工作をソ連に頼った、時の日本政府・軍部がまるで道化のように見えてきて、今に続く日本外交の不甲斐無さとオーバーラップし、卑怯なロシア人より間抜けな日本人(為政者)に腹が立つようになってきた。一般人に比べ桁違いに情報を持っていた彼らが、参戦兆候くらいつかんでいなかったのか、と。
もしその情報がポツダム宣言前に昭和天皇に伝わっていたら、その後の言動から推察して時の首相が「黙殺する」と発言するような状況にはならなかったのではないか。広島・長崎への原爆投下、北方領土の喪失、満州の悲劇、シベリア抑留は無かったのではないか。歴史に「もしも」は禁句だが、ソ連参戦が戦後の日本に与えた影響があまりにも大きく、「あれさえなければ」の思いが募ってならない。
本書は、ソ連ウォッチャーとしてヤルタ密約を察知し、参謀本部にそれを報じた駐スウェーデン武官、小野寺陸軍少将(最終)の言動・足跡を追いながら、当時の日本中枢に在った人々が何故あのような(ソ連仲介)終戦工作に乗り出すようになるのか、小野寺が発した密約緊急電はどこに消えたのか、誰かが握り潰したのか、それは何のために行ったのか、を小野寺の残したテープ談話、防衛省・外務省に残された記録、米国公文書館・英国立公文書館に保存されている資料などを丹念に調査し、仮説と論理を構築し検証して、当時の日本中枢の特異な体質を明らかにしていくものである。
構成は、諜報活動が縦糸とすればそれを利用する意思決定の場が横糸となるのだが、この組み合わせが巧妙で、好きな軍事サスペンスを読むような面白さがある。
縦糸の諜報網は最初の任地がラトヴィアであったことから、いずれも対ソ戦略に意を用いる必要のあるバルト三国、ポーランドを中心に構築される。もともとドイツ語専攻であるがシベリア出兵で彼の地に滞在している時にロシア語も学んでいる。言葉の点でも対ソ活動を行う素養は充分だったようだ。ポーランドはドイツに破れ亡命政権がロンドンにできて連合軍側に加わるが、日米開戦後敵味方になったにもかかわらず、情報網は継続される。この辺は如何にもスパイの世界、相手も枢軸側の情報が欲しいのと、個人的な信頼関係はそのまま維持されるのだ。
こうして得られた情報から独ソ戦開戦の警告を参謀本部に送るが、三国同盟に傾斜している日本はこれに耳を傾けることをしない。肝心のヤルタ密約電は重要な意思決定を行う場に全く現れてこないし、戦後も誰も見たことが無いと一様に答える。どこかで止め置かれたに違いない。
参謀本部、その中でも特別なエリート集団である作戦課(陸大の成績5番以内。ここだけは部屋の前に番兵が立っている)は自ら立てる戦略・計画の条件・シナリオを覆すような情報を嫌う風土が強く、ヤルタ情報を握り潰したのも、当時この課の課員であった瀬島龍三、と言うのが本書の推論である(一度は小野寺にそれを白状するのだが、その後は「何かの間違い」ととぼけて認めない)。当時の国家主義とソ連共産主義とは共通する考え方も多く、優れた参謀将校にソ連に好意的な人がいたことは確かなようだ。
結局、密約電が国家最高意思決定の場に届かなかったのには、この参謀本部作戦課の体質(電報は情報課の扱いだが、先ず作戦課がチェックし、没にできた)が一番問題なのだが、次いで彼が皇道派と見られ(中枢は統制派がおさえていた)、重用されなかったこと(小野寺が小国の駐在武官にまわされる背景でもある)、さらに外務省と陸軍の間の縄張り争いで、駐スウェーデン公使(今なら大使)が“越権行為の小野寺情報を信用するな”と流していたことも遠因のようである。いずれもいわば官僚の内々の争いで、一般国民は酷い目に会ったわけである。
この本を読むと当時の日本陸軍のインテリジェンス活動がなかなか優れたものであることが分る(それに比べ海軍や外務省はお粗末だし、情報を使う側にそれに見合った力量が無いことを痛感させられる)。大量のユダヤ人にビザを発行して、“日本のシンドラー”と言われるようになる、杉原千畝も外交官であると同時に、裏でポーランド情報機関とつながる(ビザ発給は情報提供の見返り)“隠れ情報士官”だった可能性の高いことを明らかにしている。
本筋とは直接関係ないが、現日本共産党書記長の叔父、志位正二少佐(関東軍情報参謀)がシベリア抑留中徹底的な洗脳を受けて、共産党のシンパになり、ラストボロフ(KGB将校)亡命事件の際、警視庁に自首していることなど、いろいろ秘話もあり、450ページを超す大部を興味津々で読むことができた。

3)日本型リーダーはなぜ失敗するのか
手にする大分前から書店に平積みになっていて気になっていた。しかし、如何にも内容が透けて見えるような題に引っかかり直ぐに購入することは無かった。にも拘らず、結局求めることになったのは、頻度は減ったとはいえ都心への電車内で読む本が、買い置きの中に無くなったからである。文庫本や新書はこんな動機で買うことが結構多い。
大出版社(文芸春秋社;編集長→役員)の名編集者にして、日本近代史・昭和史に詳しい作家が、講演内容を題材に口述筆記し、書物としてまとめたものである。講演目的は、多分企業人向けに“リーダーシップ”研修などを行うためのものであろう。太平洋戦争における帝国陸海軍の将軍・提督の言動を材料にそれを語る。
日本人リーダー理想像(特に軍人)は;参謀の熟慮によって出来上がった案を、細事を質すようなことはせず、まして覆すような意見を言わず、その結果起こることの責任は全て負う;海軍は東郷平八郎、陸軍は大山巌を範として形作られたのだと言う。お神輿に乗って祀り上げられるタイプである。結果として、責任を負わない参謀の力がむやみに高まってしまい、諸作戦に失敗した。だから、あなたたちは、スタッフ任せにせず、情報を自らも集め、それを基に徹底的に考え、判断を下し、その考え方を分かり易く皆に説明しなさい、と言うのが著者が伝えたいことのようである。尤もである。
戦場はノモンハン、真珠湾、ミッドウェイ、ガダルカナル、インパール、レイテ沖;指揮官・参謀は辻正信、山本五十六、南雲忠一、牟田口廉也、小沢冶三郎、などが取り上げられ、それぞれの作戦とリーダーの資質が論じられる。皆おなじみの戦闘と顔ぶれである。話も個別にはもう手垢がつくほど語られ、書かれてきたことである。しかし幅広い層への講演としては聴衆の受けは間違いないのであろう。この人の作品は確りした調査・取材に基づくものが多かっただけに、何か“手練れた”感じが漂うのが個人的には残念に思うところである。

4)日本農業の正しい絶望法
生物(動物・植物)の勉強は中学で終わった。高校での理科は化学、物理しか選択しなかった。従ってその後もこの分野(医学を含む)への関心は総じて低い。だから農業へ目が向くのは大体政治経済問題(例えばTPP)が関わるときに限られる。この本の購入動機も前書同様携行に適した本が無くなり、“絶望法”と言う題名の一部に惹かれて衝動買いした。読んでみて、確かに日本農業が“絶望的”状態にあることがあらためてわかった(随分誤認識していたことも多い)。
著者は中堅の農政学者。当然政治面から日本農業を論ずる部分は多いのだが、一つだけ今までの農政ものと際立って異なるのは“耕作技能”に深く触れている点である。つまり、良質な(美味、高栄養価、低環境負荷、高生産性)農産物を作ることのできる環境と人が急速に失われてきていることへの警告の書なのである。まえがきで「もう遅すぎるかもしれない」と語り、最終章は“日本農業への遺言”で終わる。
反収13俵・食味値95点と言う稲作名人が最近相次いで亡くなった。反収10俵で多収・食味値85点で高品質と評価される世界でこれは神業に近い。このような好成績をあげるには、不断の自然現象の観察・分析、土作り、堆肥作り、水の管理などもろもろに気を配ることが不可欠なのだ。しかし、今やこれら名人を引き継ぐ環境(単に人だけの問題ではなく)は年々厳しくなってきている。これは稲作ばかりでなく野菜栽培も同じで、耕作技能低下によって確実に栄養価が低下している。一つの例はホウレン草に含まれるヴィタミンCの含有量、ここ20年で半減しているのだという。
一方で営農環境を改善すると称する政策が種々進められるのだが、実効を伴わず“ハリボテ農業”が横行している。ハリボテ農業とは“名ばかり有機農産物(堆肥作りや施肥がずさんで味や栄養価が低い)”、“ファッション農業(インターネット販売や顔写真つき)”や“地産地消を謳う直販所”など話題先行農業のことだ。直販所など所によっては“ゴミ捨て場”に等しいものもあると断じる。
何故こうなってしまうか?ひとつは“川上問題”つまり農政とそれに基づく自治体や地域、個別農家の行動。もうひとつは“川下問題”つまり消費者の農産物に対する評価(特に賞味力)にあるとし、これをさらに深く課題ごとに分析・解説し、早急に適切な対策をとらぬと日本農業の将来は無いと訴える。
農業の付加価値(GDP)は3兆円、補助金は4.5兆円、農業を止めてしまうほうがGDPは上がるのだ!それでいいのだろうか?“絶望法”と言いながら著者は何とか多くの人にこの問いを否定できる改善策を考えるよう願っているに違いない。その証拠は、この人の研究が政治・行政面ばかりでなく、全国規模で農家を訪ねながら現場にじっくり入り込んだ調査に基づいていることから窺うことができる。
奥付を見ると920日発行、11106刷となっている。短期間に増刷されていることは、私のように普段農業などに関心の薄い者も読んでいると言うことだろう。嬉しいことである。

5)山手線に新駅ができる本当の理由
京浜急行の沿線に住んで30年を超す。品川がターミナル駅となるだが、この間の品川駅周辺の変化は著しいものがある。特に港南口の開発は大規模で、その景観を一変させ、オフィスセンターとして見違えるように変貌した。それに新幹線が停まるようになり、羽田空港拡張・国際化もあって益々活気を帯びてきている。そこへ本年1月、山手線品川-田町間に新駅ができるとの記事が出た。これはその計画を明らかにすると伴に、都市工学者としての著者の提言(夢・期待)をまとめたものである。
年初にこの計画が明らかにされたときは、山手線・京浜東北線が東側に移動し、東海道線・横須賀線と接近・並走させ、品川-田町間に新駅が設けられると言うものだったが、本書によると計画の全容や背景が詳しく理解できる。ここに書かれていることは種々の関係者のそれぞれの計画や希望を全て調整した最終結果ではないが、かなり野心的な都市改造計画になる可能性がある。
先ずJR東日本が実施・計画しているのは;
①東京-上野間に東北縦貫線を開通させる(既に工事中)
②高崎線・宇都宮線・常磐線を東京駅まで延長して東海道線との相互乗り入れを行う
③この縦貫線を利用することにより品川車両基地を廃止し、田端・尾久基地に集約する
④山手線・京浜東北線を東に移動する
⑤ここで空いた車両基地用地と山手線・京浜東北線部分を再開発する

このJR東日本の計画に加えて、国・東京都・JR東海など以下のようなことを目論んでいる;
⑥この地区を国際特区に指定して各種事業を行い易くする(羽田の国際空港化との相乗効果など)
⑦東西を結ぶ道路整備する(環状4号線の伸延)
⑧品川にリニアー新幹線のターミナル駅を設置する
⑨現在成田と羽田を結ぶ都営浅草線の新線を丸の内経由で開通させ、成田-東京(丸の内)-品川-羽田を結ぶ、空港直結運転を可能にし、大幅な時間短縮を図る

さらに著者が、期待するのは品川駅東部にある倉庫地帯を再開発で、ウォーターフロントとして新しい街づくり行うこと提唱している。
確かにこのアイディアは、港南口が変貌したとはいえ、依然オフィス街と“交通の要衝”としての変化までで、新宿、渋谷などに匹敵する“ダウンタウン(繁華街)”としての機能・魅力を欠いているのが実情であることから、是非実現してもらいたいものである。
ただ新駅ができるのは2020年、新しい街づくりが完成するのがそれから10年(2030年)とすると、生きていてももう一人で出かけることはできない可能性は高い。軽い本だが“歳と夢”の関係を現実の問題として、不意に突きつけられた本だった。
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2012年11月27日火曜日

決断科学ノート-125(メインフレームを替える-19;IBM・STI参加-4)



STIに参加してIBMの力の巨大さを知らされるのだが、日本の経済力、中でも製造業、その中でも電子工業が隆盛を究めている時代とあって、不思議と工場設備や研究内容に“参った”と言う感じは持たなかった。むしろ“間もなく技術的にはキャッチアップできるのではないか”といのが全体的な印象であった(経営的には遥か先を走っているが)。その一方で、この旅で問題意識を触発され、その後に影響があったことは“経営とコンピュータ(IT)”の関わりに関する彼我の取組み方の違いである。
東燃はExxonMobilの資本が入り、Exxonとは技術提携をしていることもあり、投資案件に関する経済性検討については早くから数理的なチェック(DCEリターン法;将来わたる支出・収入バランスで採否を決める)を採用していたが、それでもIT関係の評価は難しかった。プラント運転に直結する部分はともかく、経営の上層に行くに従って、想定を超える(数理で扱い難い)経営要素があまりに多くかつ大きな意味を持つからである。経済データ以上に経営の考え方がその採否・効用を左右するのだ。
このことは自身の体験を通じて痛感していた。最初に取組んだ、プラントを直接コンピュータで運転制御するシステム(DDCDirect Digital Control)や最適化制御(SPCSupervisory Process Control)では省エネルギー・品質改善・省力化など効果を具体的に算出し、納得感があったが、次に取組んだ工場生産管理システムになると、需要や価格の変動をどう想定するかによって数字は大きく変わってくるし、波及効果の評価も考えなくてはならない。さらにこの年(1982年)の前半スタートさせた経営者向け情報システムは、社内人件費を除けば投資金額が少なかったので、“鶴の一声”で作り上げたものの、どう評価していいか皆目分らなかった。率直に言って“経営者とそれを支える上位管理職”のITリテラシーの啓蒙(関心を高めること)を如何に進めるかが最大の課題となってきていた。
STIの訪問先では見学ばかりではなく、その事業所と直結するテーマで経営との関わりが語られ、特にポケプシーの研修センターでは三日間のスケジュールの内二日間は“経営とIT”をテーマにした講義が45名の社内講師によって進められた。そこで使われる教材はハーバード・ビジネス・レヴューなどのきわめて実務に近い学際的な研究報告で、それまで国内で目にしていた、技術解説書や安直なハウツー物とは一味違う内容に“目から鱗”の感があった。
こう言う話の中で今でも鮮明に思い出すのは、サンホセ事業所(大型記憶装置の開発・製造)で女性事業所長(?)から聞かされた話である。一言で言うと今でいう“メガ(巨大)データ”利用の話である。経営データを大量に収集・蓄積し、これを高速で分類・分析して、経営を効果的に進めるという内容は、技術面よりは圧倒的に経営的視点からなされ、当時数理システム課長という立場から、これに類する活動にSASStatistical Analysis System)と呼ばれる統計分析システムを導入したばかりということもあって、「こう言う手順・内容でコンピュータ利用の効用を説明していかなければならない」と教えられた次第である。黒い瞳と黒髪に真っ赤なスーツを纏った、グラマラスなラテン系美人の印象的な姿と伴にこの旅の今に残る思い出である。
“やはりIBMは奥が深い”。これがSTIの総括と言っていいだろう。この旅に出かけたこと、その印象を出張報告として語ったこと、は富士通にも伝わっており、ますます“IBMシンパ”ととられていたようだ。

(次回;富士通のパワー・ストラクチャー分析)

2012年11月26日月曜日

逆賊三藩山岳ドライブ (14)



-磐梯・吾妻・奥只見を走る-

12.酷道352号線-2
この道は山肌を削って作られているので、いたるところ崩落防止のセメント吹きつけが施されている。湖畔のルートは高所を走るが、高低差もあまりないので、遥か先に灰色のギザギザが見える。これから走る道なのだ。時々それが左側を並行することがある。奥只見湖(人工湖)は谷間を雪の結晶のように枝分かれして形作られているので、これから迂回する道筋がそんなとんでもない方向に見えたりするのだ。高低差800mから1000mの間を起伏しながら新潟・福島の県境に沿って進む道は最後に1500m近くまで上って尾瀬口の方に下っていく。
途中平が岳(2141m)への登山口付近はやや広い平地となっており、駐車スペースや
トイレも在るので小休止。周辺の紅葉を写真に収めたのだが、天気は既に晴天に変わり、光のコントラストが強すぎるのか、実際よりの白茶けた感じになってしまった。ここを出ると再び上りになるのだが、今来た道ほどの厳しさは無い。しばらく進むと尾瀬への分岐路が現れ、それは沼山峠の下まで行っているようだ。どうやらここから会津方面には路線バスも走っているようで、道幅も大体1.5車線はあるし、待避場所も広く、数も多い。路肩に駐車して山の色模様を楽しむ余裕も出てくる。
この352号線は252号線の帰路として偶々選んだだけで、山岳ドライブの楽しみはともかく、紅葉については全く期待していなかった。しかし“瓢箪から駒”で、樹海全体が高いところにあるため、見事に種々の落葉樹が葉の色を変化させており、心ゆくまで秋の自然を味わうことが出来た。
気になるのはガソリンだが、思ったほど減っておらず、南会津から日光へ抜ける道には、ブランドを問わなければ、いくつかSSが在るので何とかなりそうだ。
檜枝岐村(ひのえまた)に入ると道はセンターラインの引かれた2車線となるが、今度は雪囲いが増えてくる。新潟県側は、銀山平から先は11月半を過ぎると交通止めになるのでその必要はないが、会津側は冬でも車が入ってくるのだろう。冬の尾瀬ヶ原歩きのためか?それともこの道筋に在る鄙びた温泉湯治客のためか?
会津若松方面に向かって、桧枝岐川に沿って北東に走る道は国道401号線(会津若松と群馬県沼田を結ぶ古くからの街道;自動車道としては尾瀬の部分で分断されている)ともなるので村役場や郵便局が現れ、はっきりと生活圏に入ってきたことがわかる。ここら辺りまで下るとまだ山の木々は緑のままだ。
352号線はさらに北上する401号線と内川で分れ、今度は東南東に向きを変える。時刻はもう12時。日光街道(国道121号線)と交わる手前に在る道の駅“番屋”で一休み。天ぷらそばの昼食を摂った。他の道の駅に比べ規模が小さくみやげ物などほとんど無かったが、地元産のリンゴを少々求めた。
ここを出てしばらく行くと121号線と合体し、352号線も北へ向きを変える。道は生活道路に変わっているが人家も希で交通量は少ないので、運転は楽だ。塩原口でアドヴェンチャー・ドライブと紅葉を楽しんだ352号線に別れを告げ、日塩紅葉ラインへの道をとった。
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(次回;日塩ラインと龍王峡)

2012年11月24日土曜日

逆賊三藩山岳ドライブ (13)



-磐梯・吾妻・奥只見を走る-

11.酷道352号線
この道は新潟県柏崎を基点にし、栃木県河内郡上三川町(宇都宮)を終点とする330kmの山岳道路だが、銀山平から先50km位集落が全く無いのだから、本来どう言う経緯で出来た道なのか不明である。全線が開通したのは1972年なので尾瀬観光辺りが動機なのかも知れない。しかし、ガイドブックには夏シーズンに予約制小型路線バスが走るよう書いてあるものの、ダイヤなど記載されていないので、どのように利用できるのかも分からない。通常11月半ばからは閉鎖される、厳しい走行条件を覚悟して走らなければならない。まして、昨年7月の豪雨で銀山平から尾瀬口の間は道路が寸断され、復旧に1年以上要しているほどだから、天候次第では途中で引き返すことも考えておく必要がある。その場合は小出まで引き返し、関越道で戻ろう。この道を選んだときの危機回避プランである。
昨日は夕闇も迫っていたので並行する電源開発用の壁面・天井は素掘りのままの黒又トンネルを走ったので、難所の一つといわれる枝折峠はバイパスした。そんなわけで本格的な走行はこの朝からである。幸い空に雲が残るものの、快方に向かいつつある。草原を出立した時後ろを走っていた地元の軽自動車はトンネル方面へ向かって分かれていったので、いよいよ単独行になった。トンネルとの分岐路を1kmも進まぬうちに道幅は115車線程度に狭まり、上り勾配の路面も荒れてくる。左側に奥只見湖が見え始めてもいいのだが、高い雑草や木々に遮られてよく見えない。それ以上にカーブの連続でとても脇見を出来るような状態ではなく、ガードレールなど防護柵は無いところも多いから一瞬たりとも気が抜けない。道路には側溝など無論無く、山から流れてくる水は“洗い越し”と呼ばれる、道路を横断する緩いU字溝を通って谷へと落ちていく。今まで他の酷道では見たことも無い、お握りを二つ並べたような道路標識がそれを予告する(写真右上)。外国の住宅地内道路に在るバンプ(盛り上がり部)のように、そこはユックリ走らないと、激しい突き上げを食らうことになる。こんな“洗い越し”が次々と現れる。
それでも小回りが効き、スピードに緩急が付けやすいスポーツカーは俊敏に走る。やがて前を行く空荷の中型ダンプカーに追いつくと、退避地帯で先を譲ってくれる。後で出会ったコンクリート・ミキサー車も中型だった。とてもフルサイズのトラックで動けるような道ではないからだ。
こんな車たちと会うのは、一応全通したとはいえ、まだまだ道路修復工事が続けられているからなのだ。場所によっては大勢の作業員と建設機械が入っている所もあり、そこでは交通整理も行われているが、大方の工事現場は信号機による片側交互交通になっている。平日、遊び車でそんなところを通ると、何か後ろめたい気分に襲われるのは、工場勤務が長かったせいであろうか。
高度は銀山平の800mから県境に向かって次第に高くなり、それにつれて紅葉が美しくなってくる。幾重にも蛇行する道は、曲がり部分では道幅に少し余裕があるので、車を停めて山の色模様にしばし見惚れる。県境に沿って走る樹海ラインの紅葉はまだまだつづく。
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(次回;酷道352号線;つづく)

2012年11月22日木曜日

決断科学ノート-124(メインフレームを替える-18;IBM・STI参加-3)



この研修ツアーに参加するに際して、個人的な課題をいくつか用意することにした。第一はこの秋和歌山工場で稼動開始するTCSTonen Control System)の中核を成す、IBM/Exxon共同開発のACSAdvanced Control System;アプリケーション・ソフトウェア・パッケージの一つ)の更なる研究開発状況。第二は計算機械から言語処理システムへの進展の動き(特に日本語処理)、それにIBM汎用機(MF)を支える個別技術(例えば半導体や演算装置など)の動向である。
第一のACSに関しては、訪問先や研修参加メンバー構成(プロコン分野の経験者はほとんど居ない)からあまり期待できないことは予想できたが、結果は全くその通りであった。プラント運転・制御システムなど、いくらMFの上で動くものとはいえ、極めて特殊な世界で、ACSと言う言葉さえ、航空会社向けの“Air line Control System”と取り違えられるくらいだった(多分JALからの参加者があったからだろう)。このことを含めて、IBMが製造現場のシステムについては、総じて弱く、唯一組立加工業のフロアーレベル操業情報をMFに吸い上げるための特殊な通信システム(SCADASupervisory Control And Data Acquisition)の研究開発情報を、ラーレー事業所で得られたくらいであった。因みに、既にここで作られた製品を導入しているマツダからの参加者、OKDさんはVIP扱いで、昼食も事業所幹部が数人同席するくらいだった。
第二の言語処理問題は主に基礎研究に関わるもので、ワトソン研究所でいくつかの話を聞くことが出来た。一つは現在使われているインターネット利用の概念に近い研究。当時社内で閉じた、電話回線を使った電子メールがやっと実用化された時代だけに、どんな言語もどこからでも授受出来るシステムの概念は新鮮なものだった。もう一つは音声入力処理に関する研究で、前者に比べるとより基礎研究の領域の話で、IBM研究活動の高さ・広さを知ることにはなったが、直ぐに実用化されるようなものでないことも確認する結果になった。こちらの関心はもっと現実に近い、例えば富士通がO/Sレベルで作り上げた日本語処理システム、JEFのようなものを期待したのだが、製品開発に近いそのような研究はここでは行われていなかった。“日本語処理研究はどこで扱われているのだろう?”この疑問は解の無いまま終わることになる。
MFとその周辺の個別技術についてはいくつかの印象的な場面や話に直面することが出来た。
ICは既に実用段階にありことさら珍しい技術・製品ではなかったが、それは汎用製品であり、自社製品向けのカストマイズドICの世界はどこもなかなか手の内を見せないものである。しかし、イーストフィッシュキルはこの種のICを作る工場だったから、大規模な設備で自家用ICを作る、その底力は“さすが!”の感を深くした(最も見せてくれたのは、“工場見学コース”に過ぎないのだが)。
二つ目はポケプシーのMF製造工場である。ここでは組み立て中のMFを間近で見ることが出来、作業員に質問することさえ許された。特に、目を引いたのは、最も高性能の水冷式演算装置の生産が多かったことである。「まるで化学プラントだね!」とコメントすると「水もIBM特製だよ」と答えが返ってきた。国産のMFに水冷式が無かったこともあり、これは次期システム検討の大きな問題意識になっていく。この他にも大量の企業情報を高速で処理する大型記憶装置に関する知見をサンノゼ事業所で得ることができたが、これは次回もう少し詳しく紹介する。

(次回;IBMSTI参加;つづく)

2012年11月20日火曜日

逆賊三藩山岳ドライブ (12)



-磐梯・吾妻・奥只見を走る-

10.銀山平
銀山平はその名前から想像がつくように、江戸時代銀山が在った所である。“平”はこの地が2000m級の山々に囲まれながら盆地だったところから来ている。銀山は江戸末期に閉山されたし、盆地も奥只見湖(人工湖)の下に沈んだが、その名は今に残されている。ただ、良くしたもので、現在ロッジ村の在るところは、V字型に切れ込んだ谷間の中段(海抜800m)に在りながら、かなり広々した平地で、“平”に相応しい場所であった。
ここを宿泊場所に決めたのは、メインエヴェントの252号線を走ったあとどこに泊まるかを考えていた時、“奥只見”“樹海ライン”“尾瀬”などが目に入り、秘境イメージがいや増し、さらに湯之谷温泉郷と呼ばれる一帯があることを見つけたことに始まる。温泉場はどこでもよかったのだが、小出から一番奥に位置する銀山平から調べると、いきなりこのロッジ村が出てきた。前日宿泊予定の白布温泉が伝統的な温泉旅館だったこともあり「これはチョッと趣向が変わり、面白そうだな」と思い、最初に出てきた“奥只見山荘”から詳しくチェックすると、何と“素泊まりも可能”である。「山小屋か?」すると「雑魚寝かな?それなら止めよう」などと想像しながら施設やサービス内容を見ていくと、どうやら普通の旅館と大差ないことが分ってきた。他の宿泊施設も大同小異なので、ここを第一候補としてノミネートしておく。
直ぐに予約しなかった理由は、352号線を調べてみると、9月初めの時点では、ここ銀山平から県境にかけて昨年の集中豪雨で252号線同様、崩壊した道路の復旧工事が完了しておらず、10月開通予定だが日にちまで明示されていなかったからである。9月中旬山荘に電話すると「紅葉の頃には開通すると言っているんですが、正確な日にちはこちらでも分りません。9月下旬にもう一度お問い合わせください」との返事。101日に確認の電話を入れると「今日開通式やりました」で決まった。
夕暮れ草原の中の山荘に近づくと、周辺にログハウスが数棟あるが、本館は代わり映えしない大きな2階建て。「山荘の雰囲気じゃないなー」これが第一印象である。しかし中へ入ると玄関広間(ロビー)は吹き抜けで、左側には囲炉裏もあってそれなりの趣きだ。清潔な感じは“山小屋”とは程遠く、好ましい。客室は全て二階にあり、部屋は新建材多用が些か気になるものの、完全に旅館と同じ造りで落ち着くことが出来る。
泊り客は年配者や女性の小グループが多いようだが、これは本館宿泊者。若い人はログハウスに素泊まりして自炊、風呂だけ利用する人もいるようだ。
これは後で知ることになるのだが、この地は渓流釣りや付近に散在する小さな湖で養殖された鱒や岩魚の釣りの名所らしい。大きな岩魚の魚拓が沢山あったが、これらは人工孵化による大物らしい。客は登山やキャンプもあるが、意外と釣り客が多いのだ。
一風呂浴びて一階の大広間で食事が始まる。この料理が大変よかった。食材は、山菜・淡水魚とその燻製・豚(翌朝食の生ハムなど)などだが基本的に地元・自家製がほとんど。生ビールの後、滅多に飲まない日本酒はこの地酒(八海山も近いし、それもあったが別のもの)を注文してしまう。最後のご飯は無論魚沼産のコシヒカリである。給仕してくれるのはおばあさんと若奥さん、おじいちゃんは子守で、若主人と専門の板前が調理をやっているようだ。この家族によるサービスも心が篭もっており、大いに満足した。
翌朝は雲が早く走り、青空も垣間見える天気。出発前に草原を散策したが、何軒かの山荘がある割には人を見かけることがなかった。どこから来て、どこへ行ってしまったのだろ?早朝から秋の静けさを感じさせる所だった。
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(次回;酷道352号線)

2012年11月18日日曜日

逆賊三藩山岳ドライブ (11)



-磐梯・吾妻・奥只見を走る-

9.只見川に沿って
今回のドライブ行は“只見線に沿う252号線を走ってみたい”ことがメインテーマである。いよいよその252号線に向かうのだ。喜多方のラーメン屋を出発する前にセットしたのは、会津若松から一本になっていた国道49号線(越後街道)と252号線(沼田街道)分かれる会津坂下(ばんげ)に在るゼネラルのSSである。これ以降は当分E/M/Gのガソリンスタンドは無いので、ここで満タンにして、次はほとんどSSの無い352号線の取っ掛かりに在るシェルを予定している。
ラーメン屋を出る再度459号線を旧米沢街道に戻り、市の中心部を南下して、喜多方駅をかすめて、県道21号で会津坂下へ向かう。地形は平坦、市街地を離れると畑の中をしばらく行く。面白味の無い道だが、交通量が少ないのがいい。やがて国道49/252号線に突き当たり、4車線の道を少し西へ進むとスタンドが見つかった。満タンでも17.35Lと僅かだが、これからの山岳路ドライブへの安心感が違う。
ここからさらに数キロ西行、49号と分かれて左折し252号に入る。道は片道一車線ずつになるが、思ったより高低差は無く、道路に沿って小集落が続き、秘境イメージには遠く、チョッと拍子抜けだ。しかし、前を中型トラックが走っているだけで交通量はめっきり少なくなり、ときどき只見線と並行するが列車を見かけることも無い。それどころか人の気配さえほとんど感じることがないので、その点では過疎地であることを痛感させられる。沼沢湖手前でトラックと別れるとあとは単独行。その先の会津川口にはやや街の雰囲気があったものの、そこから先は何も無い。道はいたるところで昨年夏の集中豪雨からの復旧工事で、時限信号や交通整理人による片側通行になり、地上高の低い車では腹を擦るのではないかとハラハラさせられる。それに加えて雪囲いの暗い洞門、只見川に接する断崖が続く。標高がそれほど高くは無いので紅葉もまだ“色づき始め”。曇天下ではその僅かな色模様もさっぱり冴えない。
そんな走行を続けて只見ダム横の展示館に着いたのは3時。受付には若い女性が一人だけ。見学者は我々以外誰もいない。発電所も見学できると言うがそれほど時間の余裕はないので、田子倉発電所ダム下の発送電設備越しにダムの写真を撮り、宿泊地・銀山平を目指す。ダム下から道は急な上りになり六十里越と言う福島と新潟を分ける峠に達する。この辺りの走りでようやく期待していた山岳路ドライブになるが、辺りは3時というのに暗くなり始めているので、ひたすら小出に向けて走る。
小出周辺に達すると道が錯綜、交通量も一段と多くなる。田子倉を出た時、次の目的地を湯之谷温泉郷入口のシェルSSにセットしており、それを頼りにようやく352号線に出ることが出来た。ここから再び山道を小一時間走らなくてはならない。何とか明るい内にチェックインしたい。シェルのスタンドは直ぐに見つかったが、明かりが消えて、何と休業中!幸い燃料計の指示はまだ半分にも達していない。明日の難所を越えてスタンドの在る所まで走れそうだ。次のセットを奥只見山荘にして走り出すと、ナビの案内は352号線を外れて、妙な方向に誘導する。直ぐに解ったが、それは352号に並行して走る奥只見シルバーラインであった。この道は奥只見ダム・発電所開発のために作られた道路で冬期でも建設車両が走れるよう、そのほとんどをトンネルを穿って作られている。どうやら今ではこちらが銀山平へのメインルートになっているようなのだ。道路はダム建設完了後有料であったが今は新潟県のものになり、無料開放されている。ただ路面の保守が大変なのか、結構荒れている。そこを大型観光バス(奥只見湖観光)や352号線復旧工事のダンプが走るので、暗く狭いそして長いトンネル内走行は極度に神経を使う。
そんな走りを10kmほど続けるとトンネル内に信号があり左側へ抜け出る分岐点に達する(直進すると奥只見ダムに達する)。ここが銀山平へのトンネル出口なのだ。薄暗くなった道は352号線につながっており、そこから少し戻るとナビは352号を離れて、高い雑草が生い茂る草原に導いていく。建物も明かりも見えない。何か間違いではないのか?そんな気持ちになった時、ログハウスが一つ二つと見えてきた。奥只見山荘はそのロッジ村の中に在った。到着は5時。今日の走行距離はおよそ240kmであった。
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(次回;銀山平)

2012年11月16日金曜日

決断科学ノートー123(メインフレームを替える-17;IBM・STI参加ー2)




この時私はECCSExxon Computer ,Communication & Systems)との打ち合わせでメンバーに先行し919日に日本を発ち29日までニュージャージーに滞在。そこに導入されていたIBMMF互換機、アムダールの互換性調査などに当り29日にシカゴに移動、101日(金)オヘア空港で皆と合流した。今回は、個々のトピックスは次回以降に譲り、大まかな研修ツアー・ルートを辿ってみたい。
オヘア空港は乗換えだけでバッファローに向かう。明日は土曜日。先ずナイアガラ観光である。実はこのような観光プログラムが週末あるいは夜は組まれ、堅苦しい勉強ばかりではないのだ。過半は海外出張が初めての人達なのでこう言う配慮は極めて効果的だ。折しもカナダは紅葉真っ盛り。美しい景色は当に夢の国へ来た感じだろう。次いでニューヨーク・マンハッタンに移り、その夜は希望者はミュージカル見学である。このあたりはJTBの添乗員が現地支店のメンバーと準備してくれる。至れり尽くせりサービスだ。
4日(月曜)から研修開始。先ず訪れたのはマンハッタンにオフィスを構えるA/FEAsia and Far East)本部。ここで歓迎を受け、その後の研修についてあらためて説明を受ける。翌5日は市の北部、ヨークタウンハイツにあるワトソン研究所(基礎研究)を訪れ、ノーベル賞の江崎博士を交えた昼食会が催される。6日はこれも州北部イーストフィッシュキルに在る自家用半導体工場の見学。帰路にはロックフェラー家所縁の地などに寄る。7日は近郊、ホワイトプレーンズに在るIBMUSAを訪れ、主に社内システム(特にネットワーク)の説明などを受ける。これも帰路に彼方の丘の上(アーモンク)に在るIBM本社を遠望する。夕方ニューアークからノースカロライナ州ラーレイへ向かい、8日はリサーチ・トライアングルに在る通信システム開発製造拠点を訪問。夕方当地を発ってワシントンへ。週末は博物館・美術館やアーリントン墓地などの観光に費やす。
日曜日の夕方ワシントンからラ・ガーディアに飛び、そこから専用バスで、これもニューヨーク市北東部にある、IBM発祥の地ともいえるポケプシーに向かう。ここには教育センター(ホームステッド)と汎用機組立工場が在るのだ。天城のホームステッドに比べると古い(第一号)こともあり設備などは天城の方が快適なくらいだが、ほぼ同じような雰囲気だ。異なるのは運営方式がオリジナルのままで、教育の場ゆえ“アルコール類禁止”であることだ(とは言っても抜け道はあり、個人でこっそり持ち込み、自室で飲むのは許されているようだ。我々も引率者(日本IBM)、MTAさんの手引きでショッピングセンターにバスで乗りつけ、おもいおもいの酒類を購入した。バスに戻るとMTAさんが「見えないように新聞紙などで包むよう」アドヴァイスしてくれた)。
ここでの研修は他と違い、工場見学 もあるものの“見学とそれに付帯した解説・説明”講義は僅かで、専ら“経営とIT”に関する講義が中心、それがみっちり三日間ある。それも皆IBMの社員によってである。製品売込みばかりでないこんなプログラム構成は、当時のわが国コンピューター・メーカーには無いもので(学者やコンサルタントを講師で呼ぶものはあったが)、この辺りに彼我の差を感じたメンバーが多かった。
ここから中西部ミネアポリスに移動。15日はミネソタ州ロチェスターに在るオフィス・コンピュータS/3Xシリーズ(この時はS/38、のちにAS-400 に発展していく)の工場を訪れ、汎用機とは全く異なるアーキテクチャーの考え方や将来構想を学ぶ。主力ではないだけに、却って社内異分子としてのプライドを持っており、独自文化を頼もしく思ったほどである。
この週末はバクチ公認の町、リノ(ネバダ州)に降り立ち、そこから西部劇を髣髴させるバージニアンシティ、カーソンシティなどをバスで巡りレイク・タホ湖畔の、カジノ付きホテルに宿泊、翌日はシエラネバダ山脈を越えてカリフォルニア州都、サクラメントの鉄道博物館などを見学。夜はサンホセ泊となった。
シリコーンヴァレーにはいくつかのIBM施設が在る。サンホセ工場は大型記憶装置の開発・製造を行っているし、ここに教育センターも併設さている。また、当時新設のサンタテレサ研究所はソフト開発、特にプログラミング技術の最先端研究所だった。当然これら見学し、開発・研究テーマについての話を聞く機会も設けられていた(それぞれ1日)。また、サンフランシスコ郡(County)の情報システムについて郡役所(市内)で、IBMユーザーの声を聞くことも出来た(半日研修、半日市内観光)。最後の研修はロスアンジェルスの銀行訪問。これは金融関係参加者のために用意されたプログラム(半日研修、半日市内観光)。そして週末はディズニーランド。最後にホノルルで2泊して帰国した。
“よく学び・よく遊ぶ”を地で行く研修だった。当然皆確りIBMシンパとして洗脳されたことは言うまでも無い。

(前回1023日帰国としましたが、26日の誤りでした。お詫びし訂正いたします)

(次回;IBMSTI参加;つづく)

2012年11月14日水曜日

逆賊三藩山岳ドライブ (10)



-磐梯・吾妻・奥只見を走る-

8.喜多方
道の駅“裏磐梯”を出発する頃には雨は上がっており、道路も乾き始めていた。桧原湖畔から喜多方へ向かう国道459号線は幹線道路ではないので交通量は少ない。しかし、観光地を結ぶ路線だからか、道路の整備状況は良好で走り易い。取上峠までは上り、そこからはなだらかな下りで、適度にワインディングして運転を楽しめるなかなか良いコースだ。やがて目の前に広々と開けた会津盆地の田園地帯が見えてくる。如何にもここが豊かな稲作に適した土地であることを感じさせる風景である。
市内南北に走る幹線道路国道121号線を横切り、それと並行する、おそらく古くからの米沢街道と思われる道に出る。どうやらここら辺が喜多方の中心らしい。街中をナビの案内でしばらく進むと、広い駐車場のあるコミュニティセンターのような所で案内を終えた。
喜多方の蔵が注目されるようになったのは、地元の写真家の作品がNHKの目に留まりそれがTV放映された昭和30年代以降のようだ。ガイドブックには市内に2千の蔵があると書かれているが、時間の制約のある中で、どこを見たらいいのかさっぱり判らない。しかし、そこは良くしたもので、歴史的に価値のあるものを一ヶ所に移設し観光の便に供するようにしたのが“蔵の里”である。由緒ある蔵7棟、民家2棟が集められ、ガイドまでついて説明してくれる。もともとは市のサービス部門の一部だったようだが、今は第三セクター方式で運営されている。
米蔵・味噌醸造蔵・商品蔵・酒造蔵それに座敷蔵などと言うのもある。つまり蔵と呼ばれているが、それは単なる物を仕舞う倉庫ばかりではなく、生活の場としても使われる、防災対策(火災・盗難)を施した建物なのである。ガイドが蔵の数は4千というので、「ガイドブックには2千と書いてあるが・・・」と質したところ「それは古い数字です。その後町村合併で4千になったのです」とのこと。喜多方市の総人口は約5万人、住居として使われている“蔵”が多いに違いない。
これらの蔵以外にも2棟の大きな民家がここで見られるが、それらは郷頭、肝煎など地方有力者の住居で往時の富と力の大きさを今に伝えるものであった。“蔵の里”の向かい側にはレンガ作りの小規模は市美術館もあり、コンパクトな観光地区としてよく整備されている。
さて、11時半。この時間なら喜多方ラーメンを食べずにこの町を去るわけには行かない。どこがいいのか判らないので、手持ちのガイドブックに書いてある“老麺まるや”へ出かけることにしてナビに案内を委ねる。場所は裏磐梯から走ってきた国道459級号線が121号線と交差する少し手前なので来た道を戻ることになる。ナビの案内で難なく店にたどり着いたが駐車場が無い(ガイドブックで“有”を確認)。しばらく迷ったが、近くの神社の中にそれが在った。店内は田舎の駅前食堂風、椅子席と畳席がある。さすがに昼時、ほとんど埋まっていたが、幸い大テーブルに席を取ることが出来た。店の中にはごちゃごちゃとお土産品なども置いてあり「観光客の方に大人気」と書かれたTシャツなどもある。一瞬「これは失敗かな?」と思ったが、地元のサラリーマンらしき客もいるので、一安心。メニューはセットもあるが、周りを見回すとどうやらチャーシュー麺が多いので、我々もそれを注文する。塩味のそれは、結論から言うと“大成功!”。値段も750円だからリーズナブルである。
当初の訪問計画にはなかった喜多方だが、ここへ立寄ったのは正解だった。
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(次回;只見川に沿って)