2013年1月30日水曜日

今月の本棚ー53(2013年1月分)



<今月読んだ本>
1)イスラム世界(前嶋信次);河出書房新社(文庫)
2)アメリカが劣化した本当の理由(コリンP.A.ジョーンズ);新潮社(新書)
3)日本の聖域(「選択」編集部);新潮社(文庫)
4)「生きづらい日本人」を捨てる(下川祐治);光文社(新書)
5)ペーターのドイツ鉄道旅行案内(ペーター・エンダーライン);平凡社(新書)
6)PROFAdrian Fort);Jonathan Cape
7)運命の強敵(ジャック・コグリン&ドナルド・A・ディヴィス);早川書房(文庫)

<愚評昧説>
1)イスラム世界
イスラム世界、日本人にはかなり違和感のある世界である。特に同時多発テロ以降はネガティヴイメージが先行する。たまたまこの読後感を書いている時にアルジェリア・ガス・プラントの惨劇、違和感を通り過ぎて嫌悪感に至っている。
ある程度体系的にイスラムを学んだのは、高校2年のときに選択した世界史の授業においてである。しかし、前史とも言えるササン朝ペルシャ(紀元3世紀)からオスマントルコ崩壊の20世紀初頭まで一通り通したとは言え、王朝や領土、戦争と言う歴史教育定番の点と線に重点を置いたもの。社会や文化が掘り下げられることは無く、アラビアンナイト、細密画、建築などを断片的に記憶に留めただけである。これらが最も栄えたのは7,8世紀から15世紀位の間の中世であるから、時代との関わりは全くないまま、ただ受験のための知識として、この世界とつながったに過ぎなかった。日常生活に偶に出てくるのは「目には目、歯には歯」くらい。つまり “身近なものではない”。ここが中国を中心とする東洋史や大航海時代を契機に世界、そして近代日本に影響力を及ぼす西洋史とは大きく異なる点であった。この辺りがその時代の日本人の平均的なイスラム観ではなかっただろうか。
事情が少し変わってくるのは石油会社に就職してからである。とは言っても原油探査や生産をしていたわけではないから、中東の人々と直ぐに関わることはなく、関心は専らイスラエルとアラブの対立とそれに伴う国際政治経済問題(つまり原油価格)に絞られており、イスラム社会・文化に向かうことはなかった。一言で言えば「石油以外は関係なーい」である。
しかしこの石油が縁で、やがてイスラム教徒と交わるようになり、イスラム教国(インドネシア、トルコ、バーレーン、イラン)などを訪れる機会も出来、アメリカではあるが教徒(パキスタン人)の家に泊まる体験まですることになる。そんな折イスタンブールやイランの古都、エスファハーンで見たモスクや美術品に触れ、その美しさにすっかり魅せられてしまった。
これらを総括すれば、「“他宗教に寛容ならば(ここが最大の問題点だが・・・。本書に依れば、ユダヤ教やキリスト教に遅れて発したこともあり、当初は他宗教に迫害されこそすれ自らは平和的な宗教だったようだ)”、世界を共に出来る人々」これが私のイスラム観である。
本書を読む動機は水泳仲間が同じ本を二冊買ってしまったことである。私も最近は偶にやってしまう。自分の好み・興味から外れた本を読むのはこんな切っ掛けからで、これはこれで思わぬ世界を知るチャンスになる。
この本は“世界の歴史”シリーズ全24巻の第8巻目として書かれたもので、カバーする時代は3世紀から15世紀まで、この間にイスラムの最盛期が在ったと見ているからである。現代のイスラム世界の存在感から考えれば、尻切れトンボの感を免れないが、原本(ハードカバー)が出版されたのは1968年なので、仕方の無いことかもしれない。この時代日本にとって石油を除けば、誕生の地、中東への関心はパレスチナ問題(それもスエズ運河航行の安全保障問題として)くらいだったのだから。
全体を通すと、教科書同様政権・王朝の変遷が中心になる。権力掌握・継承(宗教・宗派よりは圧倒的に継承争いが多い)のために骨肉相争う凄まじい戦いと陰謀、死者にまで鞭打つ敗者殲滅の徹底は、東ローマ帝国とペルシャ帝国の二大勢力に挟まれながら、そこから東西に布教と覇権と拡大していくための精神的エネルギーの根源であることも窺われるが、今の残虐非道な行動につながる道筋は読めない。
この世界だけに一冊分の紙面が与えられれば権力者以外にも目を向ける余地がある。その一つが女性である。戦いに明け暮れる男は若くして、あるいは男盛りに戦死や処刑で命を落とすものが多い。そのために残された妻や娘が有力者の第二、第三の正妻として迎えられ、次代の権力者を生み育てていく姿が数多く丁寧に描かれる(マホメット自身は20名を超す)。興味本位で伝えられる一夫多妻ではない、一種の社会共済システムが在ったことを理解させてくれる。この他にも、小説家・詩人・声楽家・建築家・科学者などにも話がおよび、イスラム文化が一世を風靡した時代を活写している点は、教科書を離れた新たなイスラムを教えてくれた。
その究極は、この本を読んでいるうちに、いつのまにかヨーロッパや中国が世界の辺境と見えてきたことである(日本はさらにその辺境)。これは日本の世界史教育が西洋史と東洋史で構成され、両者の辺境に位置付けられたイスラム観とは真逆の見方になる。現代世界で存在感を増すイスラムは、このような世界観にあるのではないかと気付かされた。
歴史書は、書かれた時代の世相を反映すると共に(この視点では本書を高く評価することは出来ないが)、それを超えた普遍的なこともあることを学ばされたことが、本書を読んだ一番の収穫であった(それでも著者が現代のイスラムを実見していたら、かなり異なった内容になったのではないかと感じないわけではないが・・・)。
 著者(19031983)は慶大名誉教授、アラビア語を解し、アラビア語原典から「アラビアンナイト」の日本語訳を初めて行ったオリエント学の泰斗である。

2)アメリカが劣化した本当の理由
国際社会の多極化と指導力の低下、終わらない戦争、過度なポピュリズムで動く政治、不法移民の増加、格差の拡大、銃乱射事件、どんな局面を見ても、かつては憧れの地であったアメリカが、その魅力を失いつつあるのは確かである。
とは言っても依然として国際社会における存在感・影響力は他の国とは比べものにならない。だからこそ米国批判はジャーナリズムの格好の材料となるので、その種の本は巷間に溢れているし、読んできた。そんな中から本書を取り上げることになったきっかけは“本当の理由”と言うタイトルと著者が米国人法学者(同志社大学大学院教授、弁護士でもある)であることによる(ジャーナリストでないこと、特に日本人の;身近な事例に基づく微視的なものが多く、衰退要因を市場依存経済システムに落とし込む傾向が強い)。
本書のテーマは、「アメリカ=民主主義」というのは虚像であることを検証することにある。そして結論は、合衆国憲法がそもそも民主国家を作るためというよりも、一種の条約機構を再構築するために制定されものであり、2世紀以上もったのは、それが理念と理想に満ちたものだったからだが、さすがに老化・劣化が進み、時代に会わなくなってきているのだとしている。つまり、法体系・統治システムにこそ劣化の“本当の理由”があるとする。これは浅学の私にとって目から鱗の新鮮な見方であった。
話は独立戦争前史から始まる。独立を勝ち取った13州は前史ゆえに、決してそこから“一つの国を作る”と言う考えに一気に進んだわけではなく、出来るだけそれぞれの実情に合った自治を望んでいた。つまり現在のEUと同じ状況である。欧州議会が強い統治力を持たないのと同様に、連邦政府の決められることをミニマムに抑えこむことが憲法の根底にあるのだ。不可解な大統領選挙代理人の選出方法(オールオアナッシング方式)、同性結婚が認められる州の存在、銃の保有(当初は国軍は無く民兵)など今日的話題も、もとをただせばこの憲法によるのだ。
州には独自の憲法があり、これに基づく州法が作られるので、時代と伴に連邦法と州法の齟齬が目立つようになっていく。しかし、この隙間を上手く利用することで、連邦政府(大統領府)の権限を拡大する手段がある。それは「各州間の通商を規制する権限(通商規制権)」で、これを拡大解釈すればいいのだ。そしてこの適否を決められるのは連邦最高裁判所(日本の最高裁とは異なり、連邦法と絡まない一般の民事・刑事事件は扱わない)だけなので、ここの権力が極めて高いものになる。政治介入を避けるため(厳密には、欠員補充の任命・承認は政府や議会が行うので、政治が絡むが)の終身制(非行なき限り)を採るものの、政府同様連邦の権限強化に向かう傾向にあるため、結果として民主的でない政策が実施されることになるのだ。
法律や裁判の話はとかく堅いものになりがちだが、歴史や直近の話題を踏まえて、これを理解させようとする工夫が凝らされている点が、本書を読みやすいものにしている。例えば、2000年の大統領選挙におけるブッシュとゴアの接戦である。獲得選挙代理人は限りなく同数の中で、フロリダ州の票のカウントがなかなか固まらなかったことが遅延の理由としてあげられた。しかし、何日もかかるなどちょっと信じ難い。実は、犯罪者の選挙権が各州で異なり、服役後は認められるところと認められない州がある。また、この前科者が他州へ移った時の扱いも違い、ブッシュ候補の兄が州知事を務めるフロリダ州で、他州から転入してきた前科者の選挙権を不当に剥奪したことが事態を混乱させたのだという。犯罪者は貧しい者や黒人が多く、民主党支持の傾向がある。結局、最高裁が最終決定をすると言う前代未聞の方式で共和党候補のブッシュに決まったのである。この他にも、直接選挙が行われない理由(制定時における過度な直接民主主義への警戒心)、選挙人の総数(上下両院議員数(535)+3(ワシントンDC分))と一票の格差問題、最高裁が違憲審査をする権限が、憲法に明文化されていないにもかかわらず、それが慣習化したこと、などを取り上げながらアメリカ民主主義の矛盾を明らかにしていく。
結びは、世界の現役国家憲法のうち一番古いといわれるアメリカ憲法は自慢できるようなものではなく、ここから学ぶものは少ないとしている。
表層的な国際関係(戦争を含む)、経済、社会事象からこの国を見つめることが多かっただけに、この法体系・統治システムの歴史的変遷とその帰結としての現在に視点をおいた見方に、“アメリカってそう言う国だったんだ”と認識を新たにさせられた。

3)日本の聖域
「選択」と言う社会時評中心の月刊誌がある。会員制で年間定期購読のみ。書店やキオスクでは売られていない。発行部数は3万部、日本における各界指導者の数をこのくらいと想定したかららしい。東燃本社時代部・室に一冊位の割合で配布・回覧されていたから上場会社の部長辺りを対象にしていたのであろう。独自のテーマ・切り口が新聞やビジネス誌とは異なる情報を与えてくれ、中身の濃い雑誌との印象を持っていた。“日本の聖域(サンクチュアリ)”は創刊(1975年)以来続いているその雑誌の連載である。一月一対象、わが国の組織(政治、行政、各種団体、業界、学界など)の知られざる実態を暴き、改善の動機を与えようと言うものである。
今回取り上げられているのは、およそ2000年から2007年までの26件である。数が多いので全ての内容を論評することは出来ないので、目次と副題コピーを列記することでそれに代えたい。

第一部       欲望が生み出す闇
・入国管理局 知られざる光と影
・諮問機関委員会 「肩書コレクター」の玩具
・生保「総代会」 こんな「お手盛り」がなぜ許されているのか
・「人工透析ビジネス」の内幕 患者は病院で作られている
・パチンコ業界 警察利権としての30兆円産業
・原子力安全・保安院 経産省はなぜ分離独立を認めないのか
・厚労省の犯罪「ドラッグラグ」 助かる病人を殺している
・創価学会エリート官僚 「池田御輿」をかつぐ高学歴集団
・児童相談所 「父親による虐待(性的;本欄筆者注)」が問題化しないのはなぜか
第二部 とがめる者なき無為無策
・日本最大の機関投資家「農林中金」 サブプライムの汚染どこまで
・学生のいない学校「国連大学」 外務省の裏金作りの道具に
・国営「穀潰し」独立行政法人 これぞ「改革偽装」の典型
・都立松沢病院 荒廃する「精神科の総本山」
・東京高等裁判所 検察べったりの「官僚司法の砦」
・国立大学「法人化」の内幕 「東大+α」以外はなくてもよい
・二千七百万匹「ペット市場」の実態 毎年30万匹が「処分」されている
・日本銀行 問われる「経営の健全性」
・無きに等しい「検屍制度」 見逃される殺人事件
第三部 国民への背信は続く
・厚労省「医系技官」 医療荒廃の罪深き元凶
・瀕死の「国立がんセンター」 厚労官僚が「倒産の危機」に追い込む
・食品安全委員会 役立たず「農水省の植民地」
・日本相撲協会 何から何までカネカネカネ
・企業監査役 海外投資家から不信の目
NHK 指導者不在のメディア帝国
・交通安全協会 「警察一家」の極めつけの利権
・精神鑑定の世界 これでも日本は法治国家か

この文庫本の出来る過程は、連載記事(2000年~2007年頃)→単行本(2010年発刊)→文庫本(201211月)となる。従ってオリジナルと現状には長い遅れがある。その点を著者(雑誌記者・編集者)、出版元も理解しており、それぞれのテーマについて現時点でのフォローアップを行っている。この文庫本の価値はそこに在る。タイトルの“聖域”には“サンクチュアリ”と振り仮名を振っているが、実態は“アンタッチャブル”、多くの問題がその後改善された様子はなく、むしろ肥大し続けているという。
最近のマスメディア(特に新聞・TV)には大いに不満で;つまらぬことを針小棒大に騒ぎ立て、どこも同じ論調で特色が無い、飽きっぽく一つの問題を徹底的に攻めない(思想的に読者を洗脳する意図がある時は別だが;例えばA紙の原発連載記事)、健全な批判精神を失っているように感じる。その点で本書(および「選択」)が創刊時の理念、ジャーナリズムの本来の姿(健全なる批判)、を継続していることに高い評価を与えたい。

4)「生きづらい日本人」を捨てる
日本のネガティヴイメージを連想させるタイトルであるが、昨年から関心を持ち始めた旅行作家、下川祐治の最新作であることで購入した。今まで読んできたこの人の作品は全て乗り物に関するものだったが、それらを通して感じたことは、乗り物以上に人と社会を見る目、描写するところに特色があり、それも文化の違いをことさら大仰にクローズアップするのではなく、普段の生活を好意的に見つめていることである。
これはこの人の人生歴から来ているようで、大学では学生運動に熱中、新聞社勤めのサラリーマン生活を辞めてから、家族も一緒にタイを拠点に東南アジアで数年暮らしており、中国にも数え切れないほど出かけていることに依るに違いない。日本人でありながら、現地の人の視座で日本を見ることが出来、しかも嫌味なく(日本も、現地も)それを語れるところに若いファンがつくのだろう(数ヶ月前、このブログを見た30歳代の国際ビジネスマンに「(お歳のわりに)下川祐治 よく読まれていますね」と尊敬?の眼差しをもって語りかけられた)。
この本では、その東南アジア(沖縄、上海もあるが)で暮らす9人の日本人の生活が、その動機から将来までを含めて紹介される。共通するのは、日本あるいは海外でもそれなりにまともな仕事・生活をしてきた人々であるが、競争社会での神経戦に疲れ果て、異郷に安らぎを覚えている人達の話である。ほとんどの人が30歳半ば過ぎ、一人を除き配偶者や子供はいない。現地での経済的な生活レベルは平均的に中の下くらいと読める。
舞台は、沖縄、上海、シュムリアップ(カンボジャ)、チェンマイ(タイ)2件、ビエンチャン(ラオス)、バンコク(タイ)2件、ホーチミン(ヴェトナム)。
単なる現実逃避ではないのか?本当に日々満足しているのか?経済的に問題はないのか?将来に不安はないのか?普通の日本在住者が感じる素朴な疑問を代弁するように著者が、責めるわけでもなく、日本に対する不満を誘導するわけでもなく、自然体で問いかけていく。著者の立ち居地が同じ所にあるからだろう、答える側も自然体で、歯を食いしばるような雰囲気がまるでないことに、読んでいる側もホッとする。自分ではとても出来ないが、こんな生き方があることは理解できるし、“捨てる”も一応ポジティヴに受け取ることが出来た。
しかし、日々の生活描写の中に、現地の人同士の、生きんがための緊迫したシーンも散見されることから、この“ホッと感”も異邦人ゆえと考えられなくもない。経済発展が進み、これらの人々が時間を経て現地に同化すればするほどこの“ホッと感”も萎えていくのではなかろうか?病(高血圧)を患い、所持金も使い果たした高齢者ホームレス(チェンマイ)の話を最後に持ってきたことは、帯に書かれた<楽><好き><ほどほど>とは異なる暮らしのあることを、読者に伝えようとしているのかもしれない。「一時的に神経は休まっても、別の苦労がありますよ」との余韻を残す一冊だった。

5)ペーターのドイツ鉄道旅行案内
長いこと介護問題があり海外に出かけていない。それも昨年で区切りがついた。ボツボツ何処かへ出かけて見たい。そんな気分の今日この頃である。再開はフランスかドイツ辺りが良い。ドイツは機械技術の国、一応機械工学を専攻した者としては是非その一端に触れる旅にしたい。ならばクルマか鉄道ということになる(出来れば、科学博物館や第二次大戦の戦跡も訪れ、兵器も見たい)。クルマは初めて訪れる国で、いきなり運転する自信はない。東西南北縦横に走り、日本と比肩する正確無比な運行を誇る鉄道なら旅程が大きく狂わされることもなかろう。まだ行くと決めたわけではないが、先ずドイツ鉄道旅行の取っ掛かりにと思い、本書を手にした。
実は“ドイツへ行くなら鉄道”との思いが発したのは約30年前に遡る。それまでも興味深いエッセイを出し、日本エッセイスト賞も受賞した、航空学者佐貫亦男の「ドイツ道具の旅」シリーズ(3巻)を読んだ時からである。この人は戦前東大航空学科を出て日本楽器(ヤマハ)に就職(プロペラ設計)、戦時中はドイツに派遣されており、当時最先端のドイツ航空技術と英米による爆撃を、身をもって体験した経歴を持つ。戦後は気象庁測器課長、東大教授、日大教授などに務め、その間多くの航空物(それに趣味の山登りに関する)エッセイをモノにしている。第一線を退いた1980年代からは、若き日過ごしたドイツの一人旅を始め、その移動手段は主に鉄道だった。テーマが“道具”だから話は鉄道だけはないのだが、それでも鉄道に関することがかなり出てくる。機関車や客車、椅子・ドアー(その取っ手も)などのハードウェアから、時刻表や乗り継ぎの便宜、キオスクにある品物のようなソフトウェアまで、独特の観察眼で見た結果を、達者な筆さばきで書き上げたエッセイは、「こんな旅をいつかしてみたいな」と思わせるものだった。シリーズ最終号は「終わりに近く」と副題が付く。癌を患いながらも旅を続ける哀感が漂う一方、ベルリンの壁が取り壊され、それまで不自由だった東部を巡る機会を得た喜びにも溢れ、ドイツ旅行への関心がいや増した。
「ペーターの鉄道旅行案内」を手にしたとき、先ず浮かんだのはこの「ドイツ道具の旅」だった。あの本にあったように、駅前の旅籠に投宿して、そこを拠点に小旅行をする、こんな旅が出来るだろうか?
第一話「ロマンティック・ラインを行く列車の旅」を読み進むうち「出来そうだな」との感を強く持てるようになっていく。ライン河中流の町、マインツかコブレンツ(ここには古城を利用した連合軍高級将校用の特別捕虜収容所が在ったのではないか?)に宿を取り、左岸を走るICE(特急列車)と右岸を走るRB(ローカル)でひと回りする。両都市の間には有名な古城もかなりあるからICRBだけ利用して途中下車もいいし、古城ホテルに泊まるのも悪くない。
ロケット兵器開発の拠点となったバルト海に面するペーネミュンデはどうだろう?ちゃんとハンザ同盟都市をつなぐ路線の紹介がある。泊まるのはハンブルクかリューベック、ロストフもある。
乗り換えの注意事項も懇切丁寧だ。ヒトラーが作戦を練ったベルヒスガーデンの山荘(鷲の巣;現在はレストラン)へ行くにはどうするか?ミュンヘンからEC(急行)でザルツブルクに向かう路線に乗り、途中フライラッシングでRBに乗換えればいい。
東進する連合軍が最も懸念したのはライン河渡河、何故か唯一破壊を免れたレマーゲン鉄橋へはどう行けばいいか?
出来れば西方電撃戦でドイツ装甲軍が進撃したルートを辿れないか(アルデンヌの森近くを通るベルギーへの路線があることが判る;ただしここで紹介されるのは国際急行列車だけなので、ローカル線での行き方は調査要)。
夢の旅は限りなく膨らんでいく。ドイツ語は1年間教養で学んだだけ。すっかり忘れているが、どうやら英語で何とかなりそうだ。いつ出かけられるか定かではないが、とりあえずトーマスクックの時刻表を買って机上計画検討を始めよう。そんな気持ちにさせてくれた。
著者はハンブルク大学文学部日本学科で学び、早大に一年留学後国立教育政策研究所でさらに漢字研究などに従事した日本通。現在はバーデン・ヴェルテンベルク州(州都シュットトガルト;だからシュヴァルツヴァル(黒い森)の案内は特に詳細)観光局ディレクター、自身かなりの鉄チャンと推察する。

6)PROF
これは“今月読んだ本”ではなく“今月(やっと;3年がかりで)読み終わった本”である。“決断科学(暇つぶし?)研究”のためにノートを取りながら読んでいたことが時間を要した理由の一つだが、後半(第二次世界大戦後)、“研究”対象と関わりの無い部分があり、途中で放っておいたことが大きい。
PROFProfessorの略。チャーチルがオックスフォード大学物理学研究所長であるフレデリック・リンデマンこう呼んだことから彼の愛称(尊称)となった。そしてこの本はそのリンデマンの伝記である。
この男がどう言う人物かを紹介する前に、何故こんな本を読むことになったかを述べておきたい。“決断科学研究”の対象はリーダーの意思決定における数理(広く捉えれば科学)の役割を探ることにある。その中核を成す学問はOROperations Research;応用数理科学の一分野)であり、この発展史を調べるために2007年英国ランカスター大学のカービー教授の下で半年学んだ。その時調査資料として与えられた書物・文献類にしばしば登場するのがこのリンデマンであった。どの資料もOR推進に貢献した、ティザード(本欄-18)、ブラケット(本欄-12)などと対立、あまり評判が良くなかった。曰く“典型的な宮廷官吏”“虎の威を借る狐”“数字の捏造者”などなど。しかし、一方であのチャーチルの個人科学顧問として1920年代から身近に仕え、チャーチルが戦後一端下野し再度返り咲くと再び顧問として迎えられる。単なる狡賢い人間ならば、チャーチルほどの人物がそれを見抜けないはずはない。「一度ORから離れた視点で書かれたものを読む必要がある」これがその動機である。
Frederick Lindemann、英国人とは思えない姓名、おまけに姓の最後はnnで終わる。ドイツ系ユダヤ人(manでなくmann)と思われて当然である(本人はユダヤ人であることを否定し、反ユダヤ的言動もあるが、それを疑う声も本書に出てくる)。ルーツは父アルフレッドの時代に英国に移り住んだドイツ人、専門学校・大学(ベルリン大学)教育はドイツで受けている。英国籍になるのは第一次大戦勃発時。帰国すると空軍に志願、研究所のテストパイロットとして非凡な才能と勇気を示し、それがチャーチルの耳に入る。
戦前ベルリン大学に留学していたティザードと親しくなり、彼の引きで戦後オックスフォード大学クラレンドン物理学研究所に職を得る。この時代テニスを通じてチャーチル夫人と親しくなり、チャーチルとの交流が始まる。
第一次世界大戦は科学戦の始まり。その時海軍大臣も務めたチャーチルはその力をはっきり認識し、戦後の政治活動において、リンデマンの科学知識に次第に頼るようになっていく。当時の空軍力は現在の核にも匹敵する戦略力、空軍政策に関し政敵攻撃・政策提言を科学的にすすめることが政治家の欠かせぬ素養になっていくなかで(大戦間要職に就いていないチャーチルは何とか自分を目立つようにしたい)、チャーチルとリンデマンは親密度を増していく。
空軍省防空委員会を取り仕切る、かつては親友だったティザードとの対立も、空軍戦略の違いから来ている。チャーチルは、空軍省が力を入れる防空(守り)優先が我慢なら無い。防空委員会に何とか影響力を及ぼしたい。そこでリンデマンの登場である。政治力を駆使してリンデマンを強引に委員会メンバーにするところから、防空委員会メンバーの反感を買うことになる。
チャーチルがチェンバレン内閣の海相、そして首相へと権力把握が進むに連れ、単に航空・科学ばかりでなく経済政策にもリンデマンを活用するようになる。リンデマンもその期待に応え(海軍省)統計局を立ち上げ、戦時経済の指針を次から次へと打ち出していく。遂にはPay Master(出納長)と言う閣僚ポストを得て、戦争内閣(限定された閣僚で構成)の一員となり、科学顧問の枠を超えて、戦争遂行に大きな影響力を及ぼしていく。チャーチルは彼の労に報いるため(と言うが貴族院議員にして正規の閣僚に取り立てるためとも言われる)男爵に任じ、以後チャウェル卿となる(さらに戦後子爵)。
独善的な口調、生涯独身(何度かプロポーズするが失敗)、酒もタバコもやらず、趣味はテニス、クロスワード・パズルとチェス、(チャーチルを除いて)親しい友も居らず、いつも山高帽にダークスーツの三つ揃え、終の棲家は大学の教員宿舎。修験者のように自己にも他人にも厳しい男の姿が伝記から浮かび上がる。
軍事作戦の現場に直接関わる科学者・技術者からは批判が多いものの、要素技術・特定兵器開発などを専らとする科学者(例えば、レーダー開発者のワトソン・ワット)からは比較的支持されていることから、決して権力志向の陰湿な人間ではなかったことをこの本で知ることが出来たのは収穫だった。
この本を読んでいる間、偶々大震災があり、その時の理系首相の狼狽振りから、戦時同様科学技術が国内政治や国際関係に影響を及ぼすこの時代、国策決定者を支える科学顧問に関心が移り、チャーチル周辺の科学者・技術者の役割を更に調べ、各国政治指導者のそれと比較してみようかとも思っている。

7)運命の強敵
本欄-50201210月「不屈の弾道」)で紹介した著者(コグリン;元米海兵隊トップランクのスナイパー;ヒストリー・チャネルの「特集:史上最高のスナイパーたち」シリーズに何度か登場、ディヴィス;ノンフィクション作家)の第二作目の作品である。
冷戦構造が崩壊してから、軍事サスペンスの舞台は専ら中東に移り、対する相手もテロ集団になってきている。乾いた世界の狙撃は変化に乏しく、テロ相手では、国家(CIA)対国家(KGB)のような複雑な組織構造から来る多様な人材プロットもままならず、今ひとつのめり込めないところがある。
それを補うために、銃器の飛躍的な機能向上(暗視装置、GPS、レーザー照準、射撃制御コンピュータなど)で読者を惹きつけようとする。このためには軍事技術の専門家とストーリーテラーの組み合わせが必要になる。本書が共著になっている背景はこんなところにあり、軍事サスペンスの売れっ子、トム・クランシーも最近はこのスタイルで多くの作品を出している。
二作目を読んでみようと思ったのは、前回の作品で、定番である銃器の詳細な機能紹介の他に、狙撃手の射撃前後の精神状態の描写に、「これは本物のスナイパーでなければ書けない」と思わせるところがあったからだ。
獲物を仕留めた後、主人公カイルがしばし物陰で身体を震わせ、気分を落ち着かせるシーンがある。スコープで拡大された標的の死の瞬間(肉体に穿たれた小孔が拡大し、内臓物が破壊され、体外に飛び散る;相手の正常な状態をじっくり観察したあと、死に至る表情の変化もはっきり見てとれる)を見るのは、距離のあるところから銃弾を打ち込み敵が倒れるのを目の片隅に捉えながら、戦いを続けるのとはまるで違った心理的インパクトを射手に与えるのだ(上記ヒストリー・チャネルでの発言「人間を仕留めたら、すべては変わります」)。だから主人公のあだ名は“シェイク(震え)”である。
前回の舞台はシリア。ここでの相手は米国の極右政治・経済グループだった。その戦いで主人公、カイル(シェイク)は死んだことになっている。全ての個人記録が抹消された上で、大統領直轄に近い、小規模な特殊部隊(彼のミッションを支援する)か編成され、巨悪に挑む。
今回の舞台はイランである。対する相手は少年時代オサマ・ビン・ラディンに密命(いかなるイスラムの戒律を犯してもいいから、英国社会で優れた人材になれ)を受け、過激組織の一員になるアラブ系英国人。少年はやがて傑出した英海兵隊の狙撃手になる。もう一つの姿は、暗殺者“ジューバ”。
イランが開発中の大量破壊兵器(化学兵器)のフォーミュラ(化学式)を巡って、シェイクとジューバが対決する。イランで、ロンドンで、パリで、アメリカで。そしてスナイパー同士の一騎打ちが・・・。
シリーズ物は分野に拘わらず回数を重ねるに従い、マンネリ感が強まる。それを少しでも避けようとすると、舞台仕掛けが荒唐無稽になっていく。これで緊張感が欠けていき、人気を失っていく。スパイ物の、イアン・フレミング(ジェームス・ボンド)しかり、トム・クランシー(ライアン)しかり。スナイパー物では、本欄でも何度か紹介したスティーヴン・ハンター(スワーガ親子)もその轍を踏む。海戦物で、一時英国で人気の高かった、ダグラス・リーマン、フィリップ・マカチャン(キャメロン)も同様だ。その点では、コナン・ドイル(シャーロック・ホームズ)や一連のジョン・ル・カレ作品はその弊に陥らず、古典として残ることになる(ル・カレは現役で、何と昨年、あの岩波から最新作(訳本)が出版された!)。作家としての力量の差は歴然としている。はたして“シェイク物”はどうなるか?
                                     以上

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2013年1月27日日曜日

決断科学ノート-135(メインフレームを替える-29;教室に届いた電報)




1960年代以前入社の企業人にとって海外の大学に行くことはほとんど不可能な時代だった。唯一のチャンスはフルブライト留学制度を利用するものだが、合格率は優秀者が応募する中で200人に一人位と言われていた。私の知る範囲では東燃グループで一人しか知らない。企業がポツリポツリと米国のビジネススクールへ社員を派遣しだすのは60年代の後半からである。70年代半ば同期入社のFJMさんがスタンフォード大のMBAに行くことになるが、これが東燃グループ企業派遣の第一号である。彼の場合は正規の長期コースで、これは要職の地位にある者が出かけるには業務に支障も出ることもあり、継続されることはしばらくなかった。代わって毎年1ヶ月強から3ヶ月くらいの企業向けコースへ2,3人の古参課長クラスが派遣されるようになる。派遣先は当初、コーネル大、ピッツバーグ大、スタンフォード大だったが1982年からカリフォルニア大バークレー校が加わっていた。私が参加したのもこのプログラムである。
選考基準が厳密に定められていたわけではないが、前後の派遣者を見ると部長資格を得た者の中から、人事が候補者を選んでいたようである。この年の初めこの資格を得ていた私に話があったのは2月頃だったように記憶する。当時はまだ次長だったMTKさんから「人事から話があったからOKしておいたよ」と告げられた。TTECシステム部での外販ビジネスの立ち上げ、昨年秋から本格化し始めた次期MFシステム検討、と重要業務案件が続く中で「果たして出かけられるだろうか?」と自身半信半疑だった。不安は的中。NKH常務に次期MF導入の稟議書承認はもらえぬまま、MTKさんに背中を押され、中途半端な気分でバークレーに向かった。
参加した企業上級管理職向けコースの副題は“米国企業を如何にRevitalize(再活性化)するか”と名付けられていた。今年の参加者は20名(米国人13、外国人7;サウジ2、イスラエル、英国、デンマーク、豪州、日本)。日本人は私だけである。MBAといえば企業経営事例を素に授業を進めるのが標準だが、ここのコースは少し変わっており、種々の角度(国際関係・安全保障、政治、行政、科学、文化、金融財政など)からの講義とディスカッションが中心。この時代は、何度も言うように「Japan as No.1」(この本も教材の一つだった)の時代。やたらと日本が取り上げられ、その都度コメントを求められるのだが、正規に英会話を学んだのは4月から8月までの僅か4ヶ月、それも週3コマ程度だったから、何を聞かれているのかさえ定かではない。クラスメートの助けを借りながら、何とか授業を凌ぐ毎日だった。
様子が変わったのはコース日程の半ば頃である。日本の産業政策研究の第一人者で、「MITI and the Japanese MiracleThe Growth of Industrial Policy 19251975」(邦訳 通産省と日本の奇跡)の著者、チャーマーズ・ジョンソン教授の授業だった。生徒の一人であるIBMからの参加者が「日本における第5世代コンピュータ開発・研究について教えてください」と質問した。教授は「彼にやってもらう方が良いだろう」と私を指差した。止むを得ず、白板を使って、第5世代コンピュータに関わる役所・業界・学界の関係を図示しながら解説した。終わると教授は「これ以上の説明は無いよ」とコメントしてくれ、クラスメートの拍手喝采を浴びることになる。
こんな日々の中で、休み時間に、コース担当の黒人女性秘書、Bettyが「ウェスタンユニオン(電信・電報会社)からHiro(私)に電報が来てるわよ」と黄色地の紙を渡してくれた。それはMTKさんから私に宛てられた電報で、「次期MF稟議書の最終決裁がおりた。心配せずに確り勉強に励んでくれ」(英文)と言う内容だった。電話とファックスが一般的な遠隔地間コミュニケーション手段だった時代、電報はかなり珍しくなってきていた。「何があったんだ!?」とクラスメートの何人かが寄ってきた。その中には前出のIBMの男もいた。紙をサッと畳んで「コース終了後の米国旅行に関することだよ」とごまかした。
「それにしてもどうやってNKHさんの承認を取り付けたのだろう?」

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(次回;捨て身の稟議書承認)

2013年1月22日火曜日

決断科学ノート-134(メインフレームを替える-28;稟議書提出前後)




次期システム検討の詰めに際して、創立記念日NKH常務の部屋で起した私の不始末(機密保持不履行)はこの件を前へ進めるに当って、いろいろな不都合を生ぜさせることになる。MTKさんと伴にお詫びに伺うため秘書室にアレンジを頼むが、その時間がくると“ダメ”が入る。こんなことが9月末まで続く。
前にも書いたように、この年(1983年)は、年初から情報システム室にとって例年とは異なることが次々と派生する年だった。
先ず1月にTTEC(東燃テクノロジー;エンジニアリング会社)にシステム部が発足、TCSIBMACSと横河電機・CENTUMを中核とするプラント運転制御システム)をIBMと一緒に販売することを始めた。その波及ビジネスとして連休明け頃から出光石油化学向けに生産管理システムのコンサルテーションを始めており、この準備・推進に私自身かなり時間をとられていた。
また4月からTCSプロジェクト推進のキーパーソンで、汎用機技術にも詳しいTKWさんが慶応ビジネススクールに1年間通うことになり、ほとんど不在に近い状態になった。
同じく4月それまで室次長だったMTKさんが室長となり、TTECの部長職を私に引き継ぐことになった。
その私に、今度は海外ビジネススクールでの研修話が持ち上がってくる。場合によると7月早々出発のケースも考えられたが、これは最初の候補校(スタンフォード大)から「日本人枠は既に満杯」との返事が来て、9月中旬からコース開講のカリフォルニア大学バークレー校に行くことに変わる。
加えて、本社事務業務改革プロジェクト(Tiger-Ⅱ)が、これも連休明けから本格化し、次期システムは決まらぬまま、分析・設計業務がスタートし、機械計算課のメンバーを中心にシステム開発グループが発足、課長のMYIさんは実質的にこのリーダーを兼務することになる。
この様に情報システム室の主だった管理職の周辺に大きな環境変化が起こる中での次期システム選択である。特に私の米国行きは極めて微妙な時期になる。富士通はR380の販売が好調で、受注生産ではなくしばらく先行見込み生産をするので、9月中に正式発注があれば年内納入が可能との見通しを提案してきている。MTKさん、MYIさん、それに私とも、稟議書採否はともかく(不可の場合は、Tiger-Ⅱに不都合なところもあるがIBM継続)私の出発前に決裁が行われることを必須と考えていた。
そんなわけで、NKHさんに対する謝罪・釈明の機会が与えられぬまま、8月に入ると富士通に絞った稟議書の作成にかかった。予算はリース物件切替継続になるのでほとんど問題は無い。業務革新のため端末は大幅に増えるが、省力効果で充分それは補える。MF切替の難易度・時間も事前の試行でスムーズに出来る見通しが立っている。先端技術研究開発でも決して見劣りしない。日本語処理と日本型経営環境での実績ではIBMより遥かに優れている。稟議書の骨子はこんなもので、9月初旬には完成し、承認を求める手続きを開始した。起案から最終承認至るラインは、数理システム課長・機械計算課長→室長→副社長→社長。合議は経理部門(予算)、購買部門(調達)、技術部門(主要ユーザー)、人事部門(業務革新プロジェクト)、製造部門(主要ユーザー)等であるが、ユーザー部門や合議関係者の受け取り方も好意的なもので、部長レベルまでは難なく承認印を押してくれた。後は役員を残すのみとなったが鍵を握るNKHさんは会ってもくれない。
9月末「まあ、気にせず行ってこいよ」とのMTKさんの一言に、後ろ髪を引かれつつバークレーに出発した。

(次回;教室に届いた電報)

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2013年1月17日木曜日

決断科学ノート-133(メインフレームを替える-27;創立記念式典の後で)




次期システムとして富士通MFが具体化するに連れて、OPXプロジェクトメンバーの頭に共通して在った大きな問題は「多分あの人は反対だろう」と言うことである。
“あの人”とは当時最年少役員で経理・財務と新規事業開発を担当していたNKH常務である。東大の経済を卒業後ハーバードの経済学部大学院に学んだ彼は、コンピュータの専門家ではなかったが、彼の地で早くにその将来性に開眼しており、東燃への最初のコンピュータシステム(IBM1401)導入でも主導的な役割を果たした人と聞かされていた。
また、日本IBMはわが国を代表する官・学・民の論客を集め“天城会議”なる知的エリートによる広範な社会・経済・国際・科学・文化など問題を論ずる場を設けていたが、そのメンバーの一人でもあったし、日本IBMのアドバイザリー・ボードも務め、SIN社長とは極めて近い関係にあった。
そんな背景と、情報システム室の母体の一つ機械計算課は当初経理部に設置されたこともあって、その課長は歴代彼の息がかかった経理畑出身者が務めていた。つまり主管ではないものの、情報システム部門の動きに大きな影響力のある人だったのである。
加えて会長、社長、副社長は全てNKHさんの父親に仕えた戦前派、成熟した石油業の現状打破を図る新規事業開発に熱心な彼は、これらのトップ層とは微妙な関係にあり、特に副社長主管の情報システム室の施策には一家言あった。
75日は東燃の創立記念日、前日の4日は本社講堂で式典があり、簡単なパーティが行われる。OPXの検討内容は関連する本社ユーザー部門の部課長にもある程度情報が伝わっていることもあり、ここで私はNKHさんにその概要を話して、反応を確かめることを試みた。最初はこの年の初めにスタートしたTTECシステム部のビジネス(IBMのプラント運転・制御システム;ACS販売協業)の話から入り、次いで次期システムとして富士通のMFに話題がおよぶと「そのことで話したいことがある。MYI(機械計算課長)君とTKW(コンピュータ技術専門家)君も一緒に、パーティが終わったら部屋に来てくれ」との返事。本来は室長であるMTKさんに同道してもらうべきと思ったが、自分より年上の部長を飛ばして、ヒアリングすることはしばしばあるので、MTKさんに了解を得て部屋へ3人で伺った。
一通り次期システム検討の現状説明を聞いた後、案の定「止めておけ」との返事。NKHさんはその理由として、コンピュータビジネスにおけるIBMの強さがとても国産勢の及ぶものでないことを縷々説明されたが、こちらもSTIIBM研修旅行)や現在進めている国産各社の日本語処理技術や先端技術研究などでそれに対抗してみた。
簡単に引き下がらない我々に止めを刺す必要を感じたのか、「君たち、情報システム部門の分社化の話を聞いているか?」と突然話題が変わった。3人とも一瞬黙り込んだ。実は皆MTKさんからそれを聞いていたのだが、これはNKHさんがMTKさんだけに話し「他言無用」と言われていたことだった。しかし、そうは言われても「一人よりは内々の仲間で、知恵を集めて」と考えたMTKさんは我々に打ち明けていてくれていたのだ。NKHさんがこれを持ち出したのは、分社化の協力をIBMに求めている(あるいは先方から持ちかけられた)と読んだ私は、ここで引き下がると富士通の目は無いと思い、「聞いています。しかし、富士通との協業も考えられます」とやってしまった。MTKさんはNKHさんの命令を、私はMTKに釘を刺されていたことを破った瞬間である。取り返しのつかないミスである。特にMTKさんにかけた迷惑は今でも悔やんで余りある。

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(次回;稟議書提出前後)

2013年1月12日土曜日

決断科学ノート-132(メインフレームを替える-26;FACOMへの決断)




今当時の手帳で19836月を振り返ると、月の後半は頻繁に富士通との会合が開催されていることが記されている。日立・富士通の国産二社はいずれも真摯にこちらの求に応えてくれていたことは確かなのだが、いくつかの理由でOPXプロジェクトチームの関心は富士通に傾きつつあったのだ。
先ず、国産機では実績ナンバーワンであること、それも国内実績ではIBMを追い越す勢いであること、特に石油や化学での実績が高かったこと。OSと一体化されJEFと言う日本語処理システムが、本社事務合理化により適していること。日立に比べIBMからの切替を短時間でできること。これまで採用はないものの、いくつかの先行プロジェクトで交流があったこと。一方で、日立には主力銀行(富士銀行:現みずほ銀行)を核とする財界グループ(芙蓉)を伴にするメンバーではあったが、米国におけるオトリ捜査事件によるマイナスイメージが未だ払拭しきれていないことも、プロジェクトメンバーから積極的支持を得られない理由の一つだった。
メンバーは二つの課(数理システム課;技術系アプリケーションおよびコンピュータ・通信技術、機械計算課;事務系アプリケーションおよび本社事務合理化プロジェクト)から出ていたが、アプリケーションを単なる計算領域から文書処理を含む総合的な情報領域に広げることを期待される機械計算課メンバーに国産機、特に富士通を推す声が強かった。これに対して私を含め数理システム課に属する者は、それほど国産メーカーに傾斜していなかったが、“ジャパン・アズ・No.1”が喧伝される時代、その技術力がついに世界の巨人IBMを捉えつつあるところに惹かれていた。私自身はこのようなメンバー全体の意向も勘案して「国産機を入れてみようか」と言う気持ちになってきおり、そのことを情報システム室長であるMTKさんに告げると、「わざわざ連隊旗を変えることなどない。IBMのままでで良いと言ってたじゃないか!」とやや気色ばんだ様子で返事が返ってきた。グループ全体の情報システム責任者としては、当然簡単に受け入れられることではなかった。
しかし、私がMF入れ替えに関して発言したのは2年前。今回の次期システム検討プロジェクト、OPXが動き出してからは適宜報告も行い、時にはMTKさんを含めて議論をする機会もあったので、この発言は国産採用否定と言うよりも、私の考え方の変化に対する驚きと、こちらに覚悟の程を確かめるものだったに違いない。と言うのもIBMMFを使うプラント運転・制御システム(ACSAdvanced Control System)を強力に推し、この年の初めから東燃テクノロジー(TTEC;エンジニアリング会社)でそのセールスをIBMと一緒になって行っていたことから、前言と併せて周囲からはメンバーの中で最も親IBM派と見られていたからである。
確かにその点では私は心変わりしていた。2年前、まだ本社事務部門合理化計画など存在しない時、日本語処理がそれほど重要とも思っていなかったが、本社転勤後経営者向けシステム(Tiger-Ⅰ)に取組んで、その必要性を痛感したこと、それに和歌山工場には工場管理用とTCSTonen Control System)用として更に一台、計2台のIBMMFが入っており、近く川崎地区(石油精製・石油化学・関係会社)をカバーする、大規模なTCSMFの採用も決まっていたので、全てをIBMにしてしまうより、目的(本社合理化)に適った互換機導入は、IBMを牽制する上でむしろ望ましいのではないか、と考え始めていたのである。
こちらの意思を確認したのち、他のメンバーも富士通導入に賛成だったのでMTKさんはそれ以上この問題を蒸し返すことはなく、情報システム室内の次期システムに対する考え方は決まった。
しかし主管部門が意思統一して決めたからと言って、“連隊旗”取替えがそのままスムーズに進むとは誰も思っていないのも確かであった。

(次回;創立記念式典の後で)

2013年1月7日月曜日

決断科学ノート-131(メインフレームを替える-25;本格化する次期システム検討-2)



既存アプリケーション・システムの国産機への乗り換えについては、DBも含めてそれほど危惧する問題が無いことが分ってくると、次期システム検討(オペレーションXOPX)は一段と活発化してくる。6月に入ると、関係者の考え方にはっきり変化が見られ、国産機採用の可能性が真剣に議論されるようになってきたのだ。
既存システムの移行性、価格がクリアーでき、日本語処理にはむしろ国産機が優れている。次の懸案事項はIBMの最新技術をキャッチアップできるのか?さらにその先を走る技術はあるのか?そのための研究開発体制はどうなっているのか?世界に広がるIBMユーザーの利用情報に代わる、ユーザー知見はあるのか?前回列挙した調査項目の③(国産次期機種見通し)④(部品を含む先端技術研究開発動向)⑤(利用知見)に関わる相当突っ込んだ考察が求められる。③④はプロジェクトチームの主に数理システム課メンバー、⑤に関しては本社合理化推進を中心になって進める機械計算課、の関心事であり責任領域でもあった。
それぞれの課題に問題はあった。③④に関しては簡単に開示できる情報ではないこと、⑤に関しては、全世界と日本の違いがある上に、国内だけでもIBMユーザーはコンピュータ利用により先進的でその数も多かった。③④に関しては、二社(富士通・日立)併走調査は止め、より積極的な姿勢を見せるところを先行させ、それとIBMを比較することにした。⑤に関しては、対象を国内ユーザー知見に絞ると伴にOA分野は先ず自社(富士通・日立)システムを見せてもらい、社内情報システム部門・ユーザー部門とさらなる情報交換の機会を設けてもらうことにした。
順序が逆になるが、先ず⑤の調査状況とその考察を紹介しよう。富士通は蒲田にあったシステム・ラボラトリー(シスラボ)に見学・説明・議論の場を設定し、ユーザー推進部門(管理本部だったと思う)の責任者も出席して、社内OA推進に関して、問題点を含め率直な情報提供をしてくれた。日立の対応も丁寧なものだった。大森のデモルームで最新のOAアプリケーションのデモを行ってくれたが、それは実用システムではなく、デモ専用システムだった。機械計算課メンバーの評価は、遥かに本社合理化計画に近い知見を得られた富士通に高かったし、IBMが日本語PC5550で目論む日本語対応アプリケーションより優れていると断じた(6月に何台かの5550を借用しテスト使用)。
③④に関してより熱心に情報開示を提案してくれたのも富士通であった。前年のIBMSTI研修旅行参加もあり、私の関心事は専らこの分野にあった。それまで国産メーカーの先端研究開発に触れる機会はほとんど無かったので、漠然と持っていた先入観は“圧倒的に日立が上”である。特に中央研究所は民間会社の研究所として断トツのステータスを自他伴に認めるところであったから、そのスタッフに一度IBM観を聞いてみたいところであった。しかし、前年のスパイ事件の影響か、そのような提案は全く無かった。それに反し、富士通は中原の研究所(基礎)および沼津の研究所(製品開発)の見学および研究者とのディスカッションの場を設けてくれた。
いくつかの懸案事項がここでかなりはっきりしてくる。例えばIBMが力を入れているIC高密度化対応の水冷システムである。富士通はこれを強制空冷で行うシステム(素子のケーシングにエアフィンが付いている!)を既に開発済みで、そのテスト現場を沼津で間近に見ることができた。騒音レベルは高いものの実用に問題はなさそうだった。また、中原の研究所ではシリコンに代わるガリウム砒素(GaAs)素子の試作品を見せられた。GaAsはシリコンに比べ消費電力が少なく、応答性が速いので将来を期待されている素子だった(絶縁性ではシリコンに劣り、結局コンピュータ用素子としては主流になれなかったが、現在主に高速通信、発光ダイオード、半導体レーザーに使われている)。さらに、日本語の音声認識研究の一端も紹介されたが、STIで訪れたワトソン研究所(基礎)と同じ研究が“日本語”を対象に行われていることに感銘をうけた。
技術的視点で国産機の将来に不安なし。国内OA利用では一日の長あり。それにIBMユーザー情報はTCSIBMMFが採用されており、従来と変わらぬサービス提供が期待できる。これがOPXメンバーの結論であった。

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(次回;FACOMへの決断)

2013年1月3日木曜日

決断科学ノートー130(メインフレームを替える-24;本格化する次期システム検討)



  明けましておめでとうございます。本年初の記事をブログアップいたします。変わらぬご愛顧をおねがいいたします。

室長交代の前後から次期システム検討が本格化する。4月上旬にはIBM5550の発表を受けて、日本語システム対応策を説明。これを節目にIBM、富士通、日立を対象にしたこの次期システム検討プロジェクトを“オペレーションXO/X)”と名付けることが決まる。
いままでその時々で話題になり、それなりに情報収集をしていた国産機の検討も体系立てて調査するようになっていく。ポイントは①既存アプリケーションソフトの互換性と移行性(IBMから国産機への)、②データベース(DB)の移設方法とアプリケーションとの親和性、③国産汎用機の次期システム展望、④それと密接に関係する部品や周辺システム研究開発状況、⑤特に国産メーカーについては、事務作業改善(OA推進;自社内、顧客)の実態(この知見を本社事務合理化の参考にする)、⑤その他;価格や他社における切替実績とそのスケジュール、などであった。
①に関しては、技術分野(各種技術計算や生産管理ツール、LP)のアプリケーションがエクソン・プログラム・ベースなので互換性はERE(エクソン・エンジニアリング・センター;ニュージャージー)で既にアムダールのシステムで問題なく稼動していることからそれほど心配することは無かった。しかし、事務系統のアプリケーションは全て日本のビジネス慣行に合わせた東燃オリジナルのシステムゆえに互換性は未知だったし、本社事務合理化はほとんどこの分野が中心となるので、綿密なチェックが必要だった。また②のDBについては、IBMIMSと呼ばれるシステムを使っていたが、ここは日立・富士通とも類似(リレーショナルDB)ではあるものの、完全に同一のものではなかったから、先ずIMS→国産機用DB(例えば、富士通ならRDB)への移行、次いでRDBと互換機上で動く各アプリケーションとの親和性をテストしなければならない。現代の通信技術環境ならは一ヶ所に在るデータを共有したり伝送・コピーすることも簡単に可能だが、当時仕様の違うテープやディスクを介しての変換は容易なことではなかった。それでも5月の連休明けには、互換性の質問状に対する回答も得て、テスト仕様が固まり、日立は秦野工場で、富士通は中原(だったと思う)工場で互換運用テストが始まった。
案ずるより生むが易し。IBM互換機ビジネスでシェアーを拡大してきた両社のMFシステムは、移行性に関しては大きな問題も無く動くことが確認できた。オトリ捜査で挙げられるのもなるほどと妙な形で納得させられる。あとは価格と所要切替時間である。価格に関しては当然ながら両社ともIBMよりは安かったし、国産2社間の差はそれほど大きくなかった。明らかに差が出たのはIBMからの切替に要する時間である。日立は一ヶ月の並行ラン(少しずつ移管する)を求めてきたのに対し、富士通はDBの事前コピーを済ませておけば、土日二日で切替可能と答えてきた。当時の電算機室は竹橋のパレスサイドビル内にあり、東燃本社がここに移ってきてからシステム増強が続いて、MFシステムを二つも併設するスペースや電源等の余裕がなかった。これは日立にとってかなりのハンディキャップになった。これに対して富士通は一気に置き換えた事例をいくつも経験しており、万全の自信をもって切替スケジュールを提案してきた。


(次回;本格化する次期システム検討;つづく)