2013年8月31日土曜日

今月の本棚-60(2013年8月分)


<今月読んだ本>
1)百年の手紙(梯久美子);岩波書店(新書)
2)統計学が最強の学問である(西内啓);ダイヤモンド社
3)戦争と科学者(トマス・J・クローウェル);原書房
4)日本陸軍終焉の事実(西浦進);日本経済新聞出版社(文庫)
5)蔵書の苦しみ(岡崎武志); 光文社(新書)
6)Blackett’s WarStephen Budiansky);Alfred A. Knopf

<愚評昧説>
1)百年の手紙
チョッと変わった本である。この100年間(と言っても110年前のものもあるが)有名無名の日本人が誰か(天皇・マッカーサーから家族まで)に宛てて送った手紙、あるいは遺書をまとめたものである。手紙の核心と思われることをクローズアップし、それに対する著者の解釈・解説を加えて一つの項目が完結する。全項目数は99100通)におよび、中には前者に対する返信のようなものも含まれたり、二人の手紙を対比するようなものもある。このような書き方になったのは元々新聞に連載したものを一冊の本にまとめたからである。
一冊の本としてまとめるに際し、個人情報であるにもかかわらず、それらが世相を反映し、近現代史を映し出すよう意識的に編集されている。それは著者が、書き残された資料(主に手紙・遺書)をベースに評判になる作品を上梓してきたノンフィクション作家(「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官栗林忠道」大宅壮一ノンフィクション賞など)であるからであろう。
第Ⅰ章は“時代の証言者たち”と題し、足尾鉱毒事件における元代議士田中正造の明治天皇に対する直訴状に始まり、幸徳秋水、小林多喜二、宮本顕治など体制・権力への批判者・反抗者が取り上げられるが、この姿勢は第Ⅱ章“戦争と日本人、第Ⅲ章“愛する者へ”、第Ⅳ章“死者からのメッセージ”と一貫しており、岩波書店の経営哲学と著者の意図がよく一致した出版物と言える。従って私個人は決して購入しない範疇の本であるが、水泳仲間の一人が“チョッと面白い”からと貸してくれたので読むことになった。
体制批判(体制批判そのものが悪いわけではない。ただこの出版社の考え方に同調できないものが多い)を売り物にする岩波の出版物ゆえ「ああまたか!」の感は拭えないが、逆にそれを徹底的に意識して読むと確かに“チョッと面白い”。つまりこれを世相一般や歴史の断面と捉えず(出版社・著者の意図とは真逆)、あくまでも“個人の思い”として見ていくとそれなりに楽しめる。その数が多かったのは第Ⅲ章“愛する者へ”で、ここには数々のラブレターや父子愛に満ちた書簡があり、「この人はこんな人だったのだ」と認識を新たにしたり、身近な岡目八目と結びつくことが一つや二つではなかった。
例えば、鳩山一郎の寺田薫(後の夫人)へのラブレター「二人は長く信じて互いに愛しましょうね」(両者の関係者は結婚に反対)など読んでいると、鳩山由紀夫に至るこの家系の女性関係への甘さがよく理解できたりする。
また、これは別の章だが、吉田茂が終戦直後開戦前の駐米大使だった来栖三郎に送った手紙に、米軍進駐とパージで右往左往する有力者たちを「ザマを見ろ」と痛烈に揶揄するものがあり、さすが吉田茂!と思わず快哉を叫びたくなる。
無名人はとも角、有名人に「そんなところもあったのか!」と知らされたことは収穫であった。

2)統計学が最強の学問である
年初来のロング・ベストセラーである。こんな硬い本がなぜ?と言う疑問とこのところ興味をもっているビッグデータとの関係を知りたくて購入した。3月に求めたものだが、出版後3ヶ月のこの時点で4刷に達している。それから5ヶ月を経ているのだから、さらに刷を重ねているのではなかろうか。
統計学を系統建てて学んだことは無いが、化学工学(この学問は、理論より経験則や実績データに依存するウェートが大きい)が基盤となる職場に長くいたこととビジネスマンとして後半生は数理と深く関わる仕事が多かったこともあり、この分野の本は比較的よく読んできている。その多くは二つの種類に分けられる。一つは統計学の正統な解説行うものであり、もう一つは統計と嘘・デタラメ・作為の関係に警鐘を鳴らすものである。前者はどうしても数式・数理が大きな役割を占めるので、それなりの準備と心構えが必要なのに対して、後者は読み物として軽い気持ちで楽しめるものも多い。ただ、後者の場合著者の背景(統計学の適用分野)によって、読み方に注意を要する。特に社会科学系や心理学の場合は数理的に見ると厳密さに欠ける感じがする(ベースになる設問など)。また、視点は異なるが自然科学系の医薬分野も作為を感じることがある(訴訟などで自分の主張を正当化するために統計データで論ずるようなものもある)。
さて、本書である。内容は統計の初歩的な知識を数式・数理を使わずに説明し、各適用分野(疫学・薬学、計量経済学、心理学、社会調査など;ここでタイトル“最強の学問である”ことの理由付けを行う)における統計データの利用とその問題点を分かり易く説明していく。つまり、前項で述べた二つの視点を兼ね備えた構成が「チョッと読んでみようか」との気を起こさせる。さらにIT利用環境の変化によるビッグデータの話題性に触れていることもあり、ビジネス出版社から出ていることと併せてベストセラーにつながる一因となったのではなかろうか。
この本はあくまでも統計学の啓蒙書であって、これ一冊で統計が駆使できるわけではないことは言うまでも無い。そうは言っても勘どころはキチンと抑えているし、データを採ることの倫理的な問題(特に医薬や心理)などにも触れ、一方で多数の実態から少数をサンプリングする際の信頼性、ランダム化(ランダムにサンプリングする)の限界などの解説も分かり易く、初心者のみならず、“もうチョッと最新統計技術動向やそれらとITの関係を知っておきたい”と言う読者にも充分耐えられる内容である。
例えば、1960年代にほぼ完成したといわれる統計学だが、ランダム化が不適当な分野に威力を発揮するようになる“傾向スコア”などと言う手法(1983年ローゼンバームとルービンにより提案)についての丁寧な説明などその一例といえる。また、パンチカード・システムで統計機械化の初期の時代から関わってきたIBMが、2011年だけでも統計学やビジネス・インテリジェンスに約1兆円をつぎ込んだという話しは、この学問がまだまだこれからのものであることを窺がわせる。
著者は1981年生まれ、東大医学部を卒業後母校の助教をしている若い人である。専門は疫学なので仕事上の必要性からこの分野に精通しているのだが、傍ら統計コンサルタントをしているようで、他分野の事例も現場感があり、統計に関心があるどんな利用者にもそれなりに理解し易いものになっている。

3)戦争と科学者
戦略軍事システム研究(とは言っても関心は専ら飛行機・戦車・潜水艦と数理に限られるのだが)をライフワークと考えているので、この手の本は随分読んできた。今更と言う気もしたが、原書が2010年、訳本は昨年出版された新しいものだったので購入してみることにした。結論から言うと直接戦闘に使われる兵器以外の軍事技術に新しい話しがかなりあり、得るところがあった。
構成は独立した25話から成り、古代・中世の兵器から始まり、飛行機・戦車・潜水艦は無論、原子爆弾やロケット兵器におよぶ。それぞれについて、開発者が何故それを思いついたか、その兵器や技術の革新性はどこにあるか、それは軍隊にどのように受け取られたか、その後の開発者と兵器・技術の行方はどうなったか、を語っていく。
新鮮で興味深かった話題と知識は、戦場保存食としての瓶詰め(フランス人)、ノーベルのダイナマイト(父と末弟は家業の火薬製造中爆死、アルフレッドも重傷を負う。これが基で取り扱い安全な爆薬、ダイナマイトを発明する。これがデュポンを初めとする同業各社に盗用される)、第一次世界大戦における化学兵器(毒ガス;開発者、フリッツ・ハーバーはノーベル化学賞を受賞、戦場での悲惨な状況を全く反省していない)、石井四郎ばかりではなかった生物(疫病)兵器開発(石井部隊の話にはデータの明らかなミスが散見される。どうも欧米の文献から孫引きのようだ)、レーダ開発における秘話(発明者;ワトソン・ワットの戦後;カナダでドライブ中スピード・ガンに引っかかって詠んだ詩など)、ヘリコプター開発の動機(イゴール・シコルスキー;各種救難が目的であり、攻撃ヘリの出現をいたく嘆く)、防弾繊維(防弾チョッキが代表的だが、米軍の戦闘用ヘルメットも現在はこれで作られている。これらによって救われた生命は計り知れない)ケブラーの開発(開発者は女性の合成繊維研究者;ラジアルタイヤ用補強材開発がきっかけになる)などでる。
著者は歴史をテーマにするジャーナリスト。訳がイマイチこなれていない。マニアにとっては面白い本だが、よほどこのような分野に興味がある人以外には薦められない。

4)日本陸軍終焉の事実
8月にはこの種の本が決まって出版されてきたが、さすがに戦後70年近く経ると種も尽きた感がある。そんな中で珍しい題名(終焉の事実)に目を惹かれた。その題名から何となく終戦工作秘話という感じを持ったが、実際は全く異なり、著者の陸大卒業後(昭和5年)から終戦に至る、身辺で体験・見聞きした陸軍中枢部に関する個人的な回想録であった。
昭和陸海軍については随分読んできたはずであるが、大佐と言う高位の軍人ながら著者西浦進の名前は全く記憶に無い。おそらく大部分の本欄閲覧者も同じであろう。その理由は、成績抜群で幼年学校・陸士・陸大と進みながら、参謀本部勤務も部隊指揮官としての実戦参加もない、きわめて特異な経歴だからである。それでは何をしていたのか?昭和6年来(それ以前の原隊は京都第22野砲連隊;砲兵大尉)専ら陸軍省軍務局の“官僚”として軍政面の仕事(政策立案、編成、軍備、予算;つまり戦争を実施するための人・物・金)に携わっていたのである。軍人なら誰でも、作戦を立案したり実戦部隊を指揮したい(この系統は軍令と言う)。本人もこれを切望するが、図抜けた能吏ゆえにそれが叶わず、やっと現地に出るのは昭和19年から終戦までの支那派遣軍参謀としての短い期間に過ぎない。
戦略を練るわけでもなく、華々しく戦場で活躍したこともない軍人の書いたものが書物になることは珍しく、本書の原典「越し方の山々」と言う昭和227月に脱稿したもの(ごく少部数タイプ印刷された)がガリ版刷りで37部刷られるのが昭和35年、単行本として原書房から出版されたのは昭和55年(1980年)のことである(著者は1970年病没)。オリジナルの内容が昭和史における重要な証言となることが専門家に知られてきたことによる。著者も前書きで述べているように「誰も何も書かなければ、表面に出た歴史だけが語られ残されるようになる。その前に体験した事実・思いを書いておこう」と言う動機が、勇ましい戦記や言い訳と自慢話を書き連ねた回顧録と異なる評価を得ていったのである。
誰か有名作家が書いていたのだが(司馬遼太郎の「この国のかたち」だったろうか?)、「軍の独走を抑える手段はあった。それは国家予算である」と記されていたのが微かに記憶に残る。読んだとき「なるほど」と思ったものである。しかし、この本を読んでいると、軍令関係(議会・政府から直接制約を受けない)からの要求に四苦八苦する軍政担当部門(特に軍務局軍事課;著者はこの課の生え抜き、二度軍事課長を務めている)の姿が浮き彫りされる。予算に限っても、まるで財務省の主計官が担当省庁と折衝を行うのと何ら変わらない。加えて、これは本書の中で著者特記しているが、陸軍省(軍政)と参謀本部系統(軍令)組織の間の役割分担・権限が錯綜しており、議会や政府(大蔵省)にも立ち入る限界があることがよくわかる。また、ここに軍政プロパー官僚の存在が不可欠となる理由もある。
予算のほかにも、官舎の建設から外地への家族同道の是非、戦いの拡大による下級将校の減耗対策(予備士官学校の創設)、はては軍用犬の主管部門調整(結局馬政課に落ち着くが、犬は各隊でおのおの飼われるようになっていくので兵務課、犬の用途は通信もあるので防備課がその主管を主張する。いずれの課も兵務局に属するのだが局内でまとまらない)まで、細々したお役所仕事に追われる姿を通して、知られざる帝国陸軍官僚機構が語られる。
しかし、本書の執筆の目的はこのような官僚機構の欠点を論うことではなく、重要な軍事施策情報が集中する軍務局(特に軍事課)に在って、歴史的な出来事(満州事変、支那事変、大東亜戦争など)における軍の動きを後世に伝えることにあるので、著者が仕えた高級軍人たちの言動を明らかにし、諸策がいかに決まっていったかに主眼がおかれる。永田鉄山(課長・局長)、山下奉文(課長)、東条英機(次官、大臣)、板垣征四郎(大臣)、阿南惟幾(次官)、梅津美治郎(次官)など表舞台で主役を務めた錚々たる上司たちが、もともとどんな人物で“その時”とった行動はどのようなものだったか、とった行動はどのように解釈され一般社会に伝えられたか、これが本書の肝と言える。
例えば東条英機である。昭和13年板垣陸相の次官として東条英機が赴任、軍事課予算班長の著者とのつながりが生ずる。この時期の東条を著者は勉強家であることは評価しつつも「最も優秀な大尉参謀」のような感じ、「何だか板につかないところが多かった」としている。しかし、昭和158月近衛内閣の陸相として返り咲くと、著者は大臣秘書官として身近に仕えることになる。大臣第一声「諸官公私に亘る一切の言動は本職の意図外に出るを許さじ」は下克上の風潮に対する警告で、爾後陣頭指揮は他の追随を許さぬほど断固としたものだったとしている。それに比べ師団長や局長クラスが不勉強で、下僚の上げてきたものをノーチェックで認めるようなだらしなさを糾弾する。首相になってからの東条評価も総じて高いが、陸相を兼務したことに対しては“過剰な責任感”と批判している。
日・英米開戦については、「本当に当時の考えとして、戦争が主でなくして、陸軍としても真の腹は日米交渉の妥結を望んでいた」「対英米戦を辞せずといいながら、当時陸海軍共本当に対英米戦の覚悟はなかった。政府諸公も同様であった。国家として不明確な決意の下、一歩一歩戦争に入っていったのであった」としている。きわめて日本的な意思決定である。
終章において、「大東亜戦争は、その性質から売られた戦争であったので・・・」「又売られた戦争でも、どうして和平に努力しなかったか、非難はいろいろあるだろう」「・・・総ては宿命だったと見るのは私の自己弁護だろうか」と結んでいる。終戦直後の職業軍人の偽らざる心情であろう。あれだけの大事に責任の所在は不明のままである。典型的な日本の組織リーダー像がここにある。
著者はこの回想録執筆後、開戦時の参謀本部作戦課長だった同期(陸士・陸大)の服部卓四郎(ノモンハン事件時の関東軍参謀、辻参謀と伴に拡大策を進言。戦後はGHQの指示で「大東亜戦争全史(俗に服部戦史)」をまとめる)と史実研究所を設立、その後昭和29年(1954年)防衛庁嘱託となり戦史研究機関設立準備に従事、翌年陸上自衛隊幹部学校戦史室(後の防衛研修所戦史室)初代戦史室長を務めている。
序文、解題、解説などが旧軍・自衛隊関係者から寄せられている。それを見ると、オリジナルの「越し方の山々」は一切資料がない環境下で書かれたという。50歳目前の年齢でこれだけのものを残せたと言うことに驚かされた。

5)蔵書の苦しみ
自分の最期を考えて心配なことの一つに本の始末がある。それほどの読書家・蔵書家ではないし、転勤、引越し、実家の解体処分などでかなりの本を廃棄しているので、現在自宅にあるのは3千冊弱であろう。それでも6畳の書斎の壁2.25間(1.50.75)を占める床から天井までの書棚に、一部は二重に本が詰まれ、収納余地はほとんど無くなっている。単行本・新書・文庫本は年間2030冊はゴミ出しするのだが、新規購入との差し引き4050冊が溜まっていく。この家を作る時書斎の床は特別に補強してもらっているが、真下の一階リビングの天井クロスに走るヘアークラック(小さな裂け目)が何に起因するか心配な毎日でもある。
多読家の友人の中には図書館で借りる、古本屋に(二束三文で)引き取ってもらう、あるいは電子化などの解決策を取っている者もいるが、図書館を利用したのは高校生まで。その理由は、どうしても読んでいると書き込みや赤線を引くこと、あるいは付箋をはることが止められないからで(だからこそ本欄も書ける)、古本屋もこれでは引き取ってくれない(無論死んだ後でも)。電子本への転換(自炊)は手間を考えただけでも、全くやる気は起きない。
というわけで“蔵書の苦しみ”は切実なわが身の苦しみでもある。同病相哀れむ、何か良いアイディアでも見つからないか。そんな思いで本書を手にした。
書き出しはいきなり底抜け事件。木造アパートの二階に住む男が溜め込んだ雑誌!で床をぶち抜き、一階に落ちた話である。下に住む老人は音で異常を察知し近くの警察に相談に行っていて難を逃れたという。このような床抜き例として、エッセイストの串田孫一、作家の井上ひさしなどが紹介される。これでチョッと安心したのは、井上の本の数は13万冊だったと言うことである。34千冊もかなりの蔵書家と言いながら、この程度は本書の対象外である。
著者はジャーナリスト・書評家その書斎(地下室)の写真も凄い。足の踏み場もなく、書き物の参考にするための購入済みの書籍を探すが見つからず、あらためて買い直すほど混乱している。その蔵書を捨てるか売るかして整理するのだが、「欲しいものは皆持っていけ!」策が売り方・買い方(古本屋)双方にとって最適解だという。さすがに古本屋もびっくりの話である。これと関連して古書売買の裏話などもあり、面白い話もいろいろ出てくる。故人の書籍処分を依頼された古本屋が整理を終わり「しめて8千円です。よろしいですか?」と言ったところ、未亡人が「あらそうですか、ちょっと待ってください。財布を取ってきますので」と応えたと言うのだ。処分代と勘違いしたわけである。
凄い話は、日本文学者・文芸評論家・関西大学名誉教授谷澤永一の蔵書である。小学生の時に古本屋に出入りを始め、旧制中学生時には大阪の有名古書店でもいっぱし名の通った存在だったらしい。何度か転居した後終の棲となるのは川西市花屋敷。先ず一階と二階にそれぞれ10坪の書庫を作る。これでは直ぐ足りなくなり更に40坪の書庫を増築するが、なお書籍は増え続けこれに10坪を付け足し、蒐書60年におよぶ蔵書13万余冊がやっと収まる。そして19951月あの阪神淡路大震災がこの一帯を襲う。家は比較的新しかったので、家屋の損傷は免れるものの書庫の中は見るも無残な状態となる。大工他の人手を入れて何とか書庫そのものは修復したものの、蔵書を元通りに収めることは不可能と判断、「蔵書の縮小」を決意する。東日本大震災の後、東京でも古書の出物が一気に増えたという。
この他にも、戦災や火事で蔵書を一気に失った人(永井荷風、堀田善衛など)の話、蔵書のためにそれを中心に家を新築した人の話、電子書籍化(自炊)の話、一人古書市開催など、蔵書との同棲・別れ話が延々と続く。解かる!解かる!死ぬまで別れられないことが。残された家族の皆さん、後始末はよろしく!

6)Blackett’s War
20075月から10月まで約半年、英ランカスター大学経営学部カービー教授の下でOROperational Research;応用数学の一分野)の歴史研究を行った。出発点となる教授の著書「Operational Research in War and Peace」の見開きにある写真は1964年に撮影された皺だらけのブラケットである。さらにAcknowledgementsの後に10枚のOR関係者の写真が続くが、その第一葉はパイプをくわえた若き日のブラケットである。また、リーディング・アサイメントで与えられたいずれの書物・文献にもどこかにその名があった。“ORの父”がこの人の一尊称である。
1897年生。海軍兵学校卒業と同時に第一次世界大戦勃発。士官候補生として巡洋艦に乗り組みフォークランド沖海戦に参加している。戦後の1919年ケンブリッジ大学に派遣され、当時英物理学界の巨峰、ラザフォードの下で学んだことがその後の人生を決めることになる。1933年(ナチス政権誕生)ロンドン大へ、さら1937年(ORと言う言葉が生れる)マンチェスター大に移る。ここから1945年(終戦)までが本書の主部。1948年ノーベル物理学賞受賞。1965The Royal Society(英学士院)院長就任。1969年男爵位。1974年没。
私のOR歴史研究のポイントは、手法そのものではなく、“どのようにして意思決定者(政治家、軍人)が数理でその決断を行うようになっていったか”を探ることにある。つまり、科学者・技術者と政治家・軍人という、数理に関してはかなりギャップのある人間間の相互理解醸成が如何になされたかを調べ、これを一般化することに主眼を置いている。そのためにはORと関係した人々の自伝(回顧録)・伝記・従事した仕事(作戦)を深耕することが第一歩となる。本欄でも各種チャーチルに関する書物、リンデマン(チャーチルの科学技術顧問;本欄-53)、ティザード(空軍省科学技術顧問;本欄-18)、ダウディング(バトル・オブ・ブリテン時の戦闘機軍団長;本欄-9)およびブラケット(本欄-1220098月)の伝記類を紹介してきている。
ただ肝心のブラケットに関する伝記は英学士院が発行した100ページ程度の簡単なもので、“ブラケット・サーカス”と呼ばれた実戦部隊OR普及活動の詳細を知るまでに至らなかった。それもあり時々“Blackett”や“OR”をキーワードにしてAmazonGoogleで出物がないかどうかチェックしていた。それにかかったのが本書である。
ブラケットのOR適用の場は大別して3分野になる。初めはバトル・オブ・ブリテンを頂点とする空軍の戦闘機による迎撃防空システム、次いで陸軍の対空射撃(高射砲)システム、それに海軍の対Uボート作戦である。時間的にもこの順番になるし、本書の展開もこれに従う。前二者(空軍、陸軍)の部分はほとんど今まで得ている情報とダブルことが多く、関心は専ら別の部分に向いてしまった。それは、“Sailor, Scientist and Socialist”と称された彼の“Socialist”に関する点である。現場で実践的な指導をしてくれる彼を軍人たちは大いに頼りにするのだが、科学者不戦同盟の同調者であることから、チャーチル(とリンデマン)には疎まれる。この非戦活動に関わりながら、一方で戦士として活躍する一見矛盾した行動の本質は今まで読んだものでは明解ではなかったが、この本でその主張の核心が「民間人を戦争に巻き込むな(殺すな)!」であることが分かり、納得もした。
サブタイトルが“Uボート戦争を科学で勝ち抜いた男”とあるように、この本の真髄は第3の分野、対潜作戦におけるORの適用とブラケットの貢献を紹介するところにある。1940年フランス降伏と伴にロリアンを始め大西洋に直接出られるUボート基地ができると輸送船の被害は急激に増加する。首相チャーチルは対潜作戦強化を指示、ブラケットも対潜作戦を主務とする海軍に顧問として招かれ、軍団ごと海軍に移管された空軍沿岸防空軍団(対潜部隊)を含めたOR適用を委ねられる。
護送船団の組み方、対潜パトロールのルート、航空爆雷の深度設定や投下方法、対潜哨戒機の稼働率向上など数々の戦術改善を提案し実施していく。これら個々のOR適用例は、戦後間もなく、ブラッケッとの下で実戦適用の統括者だったワディングトンの著書で紹介され、滞英研究中その本で知ってはいたが、本書ではこれらを進める際のブラケットとチャーチルや軍首脳(特に空軍)とのやり取りに焦点が当てられ、この点でワディングトンにはないより高位の意思決定場面を提供してくれた。最もORの恩恵を期待される沿岸防空軍団長のシュレッサーでさえ、ブラケットの強引なやり方を“計算尺戦略”と言って腐すシーンは、この有名な言葉が人口に膾炙されているのとは異なるトーンだったこということを明らかにする(若干皮肉っぽいが、ポジティブなイメージ語られことが多い)。つまりOR適用にはそれなりに抵抗があったのだ。
この本の内容で既読の書物で見かけていないところは、米国の対潜作戦とORに関する部分である。OR適用は最高重要機密事項として米側に伝えられ、米国参戦後米海軍でも一部に熱心な推進者現われるものの(米国OR活動の祖、モースは英国を訪れブラケットにも会っている)、作戦部長のキングはそれほど乗り気ではない、また部隊編成もそれに適するようには出来ておらず、一時米東海岸はUボートの草刈場と化す。これが変化するのは、陸軍が本格的に欧州大陸へ侵攻する動きが始まってからである。英国からの警告で大量兵員輸送時のUボート攻撃に危機を感じたルーズヴェルトが、大西洋の対潜作戦を最優先するよう命じたことからOR利用が一気に進んでいく。この部分で、米軍における軍指導者とOR推進者の関係を知る貴重な情報を得られたことは予想外の収穫であった(キングの伝記ではORを高く評価している言葉がある)。
終章は戦後のブラッケトの挙動に関するものだがORとはスパッと縁を切って、政治的な言動が目に付く。そんな中で米物理学会が彼の歴史をたどるプロジェクトのためにインタヴューすることになる。その際彼はきっぱりテープ取りもノートを取ることも拒否する。そのときの台詞は「Why should I tell about my personal life?」であった。確りした伝記が存在しないのはここにあるのだ。
因みに著者は米国のジャーナリスト・戦史家で米国のORにかなり紙数割いているのは、この本が米国で売られることからきているのであろう。米国籍ながら英国風に“OperationalOperationsではなく)”としているところに、(勝手な邪推だが)著者の人柄(先輩に敬意を表する)が偲ばれ、好感がもてた。
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以上

2013年8月27日火曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-24


19.新名神を通る
中国道に合流すると車の流れは東名・名神同様トラック街道になる。3車線とも流れてはいいものの、前後左右ともびっしりつながっている。特に吹田JCTで名神に入ると集中工事が行われており、間隔が詰まってくる。運転の楽しみは全く味わえない。それは当初からの予想通りで、事故などで渋滞がないことを願うばかりである。
名神自動車道はわが国初の都市間長距離自動車道路、西宮・小牧間全通は1965年(昭和40年)7月である。和歌山工場に勤務する同年、初めて自分のクルマを持った。日野コンテッサSの中古車である。年末年始の帰省に、出来て半年のこの道を高槻から小牧まで走った。爾来何度か利用しているが、自分で運転して通ることは和歌山を離れた1969年以来やっておらず、今回は44年ぶり。記憶に残るのは天王山トンネル前後くらい、あとは大都市を抜ける幹線自動車道と何も変わらない。
ルート検討時唯一拘ったのは新名神を利用することであった。この道は2008年草津JCT(名神)・亀山JCT(東名阪)が全通した、幹線自動車道としてはかなり新しいものである。昨年春の吉野行きでは第一案としてナビはこの道をとることを推奨してきたが、結局通いなれた東名阪にしたこともあり、今回の帰路ではここを通るよう設定した。昼食も時間が適当ならこの間のSAを利用したいと思っていた。
名神の混雑は草津まで続いたが、新名神に入ると急に空いてきた。ここまでの道路沿線は都市の連続だったが、一気に山がちになっていく。カーブや上り下りも新しい道だけに走りやすい。最大の注意点は未知の所ゆえ覆面パトカーや速度取締り機の存在であるが、他所ではよくみかける警告も無い。信楽、伊賀・甲賀ななど焼物や忍者で知られた地名が現れるのも気分が和む。
鈴鹿連峰を望む土山SA到着は丁度午後1時、三日間続いた麺類はやめ揚げたてのカレーパンと牛乳の昼食にした。このサービスエリヤは他とは少し違っており、土産・食事・トイレなどの施設は上下線共通で、駐車場だけが分けられている。城崎からここまで約350km、自宅までの半分以上を走ったことになる。たっぷり休憩をとり2時に出発した。
この先は東名阪の亀山ICまで30km足らず、あとは東名阪・伊勢湾岸道路を経て豊田JCTで東名に入り、三ケ日JCTで走り易い新東名に進まず(旧)東名を行く。これは給油地点をゼネラルのSSがある富士川SAにしているためである。あとで考えてみれば新東名を新清水JCTまで行き、そこから東名と交わる清水JCTに出ることも可能だったが、計画検討時そこまで思いが及ばなかった。むしろこのルートではいつも混雑でユックリ出来ない浜名湖SAで休む案に惹かれていたのだ。
そのSA到着は3時半、期待通り平日のこの時間帯は駐車場も施設も公園も空いており、地産の夏みかんを仕入れることも出来た。西日を背に受けながらひたすら東に進み、富士川SA到着は1720分。ここまでの走行距離は510km、給油量は38Lだったから渋滞が無ければ自宅まで無給油で走れる可能性は大だった。
夕闇の迫る道をさらに東へ走る。日中とは違い交通量は減ってきているが、暗い道は目に堪える。夕食は当初足柄SAを予定していたが、思いのほか順調に流れるので海老名SAで摂ることに変更。毎日続いた和食と麺類は避けて新装なったばかりの中華レストランを選んだ。自宅到着は8時丁度、今日の距離は640kmであった。
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(次回:総括)

2013年8月17日土曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-23


18.丹波篠山路を経て
517日(金)、三日かけて走った往路を一日で帰る日だ。旅館を出てから自宅まで、距離はおよそ640km、走行時間にして約8時間半。今までのドライブ行で最長の距離と時間だ。立ち寄り地点決定の第一因子はSSである。帰路は自動車道を最大限に利用するのでE/M/GSSはきわめて限定的、結局最後の給油ポイントは東名の富士川SA上りのゼネラルになる。ここから自宅まで約100kmだからそれ以前の行程は540km、この距離を無給油で走るには自動車道に入る前に一度満タンにしておく必要がある。幸い北近畿豊岡自動車道が始まる和田ICの近くにエッソのSSが在る。城崎からは50km足らず。ここにナビのゴールを設定して850分西村屋を出発した。
城崎温泉駅までは昨日来た道を戻り、そこから円山川に沿って南下する県道3号線(リバーザイドライン)を走る。晴天の朝この地方の中心地、豊岡に向かう道はそれほど混雑もしておらず、丹後山地を東に臨みながら豊岡盆地を快走する。豊岡市内も川沿いの道は町の東端を抜けていくので、兵庫県中央部を南北に結ぶ幹線道路ながら、クルマの流れはスムーズだ。自宅出発時異常音を時々発していたのも、二日目以降治まっている(この時点で原因は依然不明だが)。
和歌山在住7年の間に山陽道・山陰道を利用して近畿・中国は随分走っている。縦断も、和歌山を出て京都経由福井へ、さらに鳥取から岡山へ、四国を巡った後山口から島根(出雲)経由広島へなど、道路事情の良くない40数年前何度か連休を利用したグランド・ツーリングを楽しんだ。また、本籍のある兵庫県西部も姫路・龍野(“赤とんぼ”の歌誕生の地)を二度訪れている。関東を中心に生活してきた者としては、比較的この地方のイメージ・土地勘はある方と自認しているが、これから走る一帯はスポッと抜け落ちているのだ。何と言っても観光の目玉が何も無いことがその理由だ。「丹波篠山、山家の猿が・・・」のデカンショ節でその名を知られるくらいではわざわざ出かけてみようと言う気にはならない。だからこそ今回は、自動車道を駆け抜けるだけとはいえ、「どんな所だろう」との興味がわく。
県道3号線はやがて国道312号線に変わり、円山川を挟んで東側には県道2号線が並走するようになるとナビはその道を選んでくる。やがて国道9号線(山陰道)と交わることを避けるためだろうか。この指示は大変良かった。山と川に挟まれて並木の植わる空いた道はまるで外国の道を走っているような気分にさせてくれる。やがて“やぶ(養父)”と言う道の駅に到着。この先土産物を入手できる所は高速のSAしかない。ここで黒豆を食材にした煎餅を求める。さらにこの地方道を進んで和田SSに到着。満タンにしてナビを“自宅”にセットする。
和田ICは加古川方面から山陽道・中国道を結んで北上する播但連絡道と北近畿豊岡自動車道(国道483号線)との連結点(JCT)でもあるが、有料区間は遠阪トンネル(300円)だけだ。道はそれほど高くない山間を東に京都府との県境に向かって適度なワインディングとアップアンドダウンが連続する、通行量も少ない楽しい道だ。周りの景観は、低い山と田んぼが混在する、本籍のある龍野付近とよく似ている。県境の付近で南へ向きを変え舞鶴若狭道路(有料)と春日JCT(丹波市・篠山市)で交わりさらに南下する。この辺りの風景は山陽新幹線の車窓と似ており、低木で覆われた小山が連続する。“山家の猿”から描く山奥のイメージは全くない。吉川JCTで中国道に入るともう神戸市内、三田、西宮、宝塚などなじみの名前が道路標識に表われてくる。あとは流れに乗って走るだけである。
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(次回:新名神を通る)

2013年8月13日火曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-22


17.西村屋本館-2
計画検討時は2月、3月。この辺はカニのシーズンの終わりに近づいているが、プランにあるのは当にカニ料理のオンパレード。「美味少量」の写真にもそれが写っている。「やはり日本海は寒いときに限る!」の感を強くした。4月以降は「季節の会席料理」とはあるものの、具体的な内容は分からぬまま、それなりの海の幸を期待して、このプランに決めた。
部屋へ案内してくれた若い(高校生のアルバイト?)仲居さんは、食事について、夕食時間、その際の飲み物、翌日の朝食の選択(和・洋)について丁寧に説明・確認していった。朝食は案内にあった“焼きたてアツアツの地物一夜干しカレイなど日本旅館の朝食をお部屋にてお楽しみください”に期待して和食とした。
一風呂浴びて部屋で休んでいると6時過ぎいよいよこの地のメインイベント、夕食が始まる。給仕してくれるのはこれも若い仲居さん(先ほどよりはやや年長)だが、こちらはプロの風格ができつつある。前2ヶ所(郡上八幡、虹岳島)はおばさんがパートでやっていた感じだったが、ここは若い人をキチンと育てているようだ。最近の日本旅館では珍しい。
食前酒は冷たい緑茶のワイン割り。風呂上りの喉と天橋立の抑え気味だった昼食の胃袋を元気付ける。本来はこれに続いて日本酒で料理を味わうのがピッタリなのだろうが、生憎私はビール党それも生があれば先ずそれをググーッとやりたい。蛍烏賊の味噌和え、若鮎塩焼き、小振りの鱚(キス)寿司などきれいに並んだ前菜に申し訳ないような気分で、専ら喉越しの楽しみを味わう。椀物は玉子豆腐と穴子焼きが具になるこれも淡白で上品な味わい。炊き合せは今日の朝市で調達した地の野菜。昨晩の虹岳島と違い、絶妙のタイミングで運ばれてくる。
シーズンであればこの後はカニであろう。しかし5月は鮑(あわび)であった。洋風にグリルされたそれはビールに良く合い、カニよりもこちらの方がよかったのではないかとの感を抱かせる。いつもならここら辺りでビールのお代わりになるのだが、食後の外湯巡りを考えて今夜はペースを落としている。箸休みで少量の紅ガニがあった。主役の松葉ガニとは似ても似つかないが「カニを食した」と言う安心感が去来した。休みの後も魚である。鰆(サワラ)の巻き焼き、筍と貝柱の田楽焼き、それに地魚の丸干し。全体に量が抑え目なのでまだ腹八分目と言ったところである。
最後の山場は但馬牛ロースのしゃぶしゃぶ。ご飯や香の物、赤出しと伴に味わい、シャーベットと果物で終わる。私にとっては「美味適量」 大満足であった。料理そのものも第一級だが、何と言ってもスケジューリングが素晴らしい。遅からず早からず、熱からず冷たからず。味と“適量感”はこのタイミングのよさと無関係ではない。料理を中心とした接客サービスの奥義を熟知して、それを供することが出来る経営はさすがである。
8時前に全て食事は終わり、外湯巡りを兼ねて街歩きに出る。フロントはYシャツ姿ではあるが専任の警備担当者に代わっていた。彼が翌朝まで勤務するようである。これは伝統を売り物にする旅館では初めて体験することであった。歴史を誇る老舗旅館でも経営形態は時代に合うよう変えてきているのである(だからこそ生き残れる)。因みに今回泊まった3軒で旅行Webページ(楽天、じゃらん、JTB等)からそのまま入り、予約できたのはここだけであった。
実は3軒のうち値段はここが一番高かったし、城崎温泉でも高い順のトップにあった(その一番安い部屋に泊まった)。しかし、料金を含む総合的な満足度から言って“断トツに良かった”のがここである。再びこの地方を訪れる機会があったら、是非またここに泊まりたい。6年のグランド・ツーリングを通じて、こんな感を抱かせてくれたのは志摩観光ホテルとここだけである。
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(次回:丹波篠山を通る帰路)

2013年8月8日木曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-21


17.西村屋本館
宿泊先の選定基準については今までにも縷々紹介してきたが。城崎温泉と決めた時点でホテルは考えなかった。実はここにもホテルがないわけではないし、西村屋はホテルも別な所で経営している。しかし温泉街からは距離もあり街歩きも外湯も楽しむことは出来ない。
先ず観光協会のHPで全体をレビュー。現在約80軒の旅館があるのだが、大正年間の北但馬地震で町は全壊したとある。従って老舗と言っても建物はそれ以降となる。楽天やじゃらんのページに移って“おすすめ順”などで56軒に候補を絞込み、それらのHPで設備や提供プランを調べ、さらに口コミを参照してここに決めた。決め手の一つは安政年間創業、もう一つは「美味少量(量控えめ)」プランである。“食べ残すことは罪悪”と教えられてきた(そしてひもじい思いをしてきた)世代には、重要なサービスである。
冠木門と玄関の間にクルマ23台のスペースがある。しかしどう見ても玄関へのアプローチ、とても駐車場とは考えられない。門前にクルマを停めて降りかけたところへ番頭さんがやってきて「中へ入れてください」と言うので玄関前に移動させると、「今日は車庫が空いておりますのでそちらにお預かりします」とのこと。荷物を降ろすとクルマは表の通りへ消え去った。
若い仲居さんの案内で玄関を入ると、正面は広くて磨き上げられた板敷きのロビー・ラウンジ、その先の大きなガラス壁越しに見事な庭が見える、左側にフロント、右側には土産物コーナーがある。それぞれに担当者(女性)が一人づつ、この地では部屋数の多い(34室)旅館だが、人の気配はそれだけ、上品で、落ち着いて、静かな雰囲気に「どうやら選択は間違っていなかった」の感を持つ。
案内された部屋は1階で、踏み込みの間があり、あとは広縁付きの8畳。広縁は先ほど玄関から見た庭に面している。壁や柱・天井、全ての造りが伝統的な純和風(除くトイレ・洗面)、新建材など一切使われておらず、時代を経た日本家屋の趣がよく残っている。それでいて老舗にありがちなかび臭さなど全くなく、清潔感も申し分ない。周辺は木立の茂る小山。
我々の泊まった部屋は一間だが二間構成もあるし、自室に露天風呂がある部屋もいくつかある。また2階には中庭を見下ろす特別室もある。チョッと変わった部屋としては展示室があり、土地の文化的作品(焼き物など)、この旅館の歴史を語る数々の品々や写真などが展示してある。地震の前と後の本館の違いなどもここで確かめることが出来る。私が「オヤッ!」と思ったのは、ここの当主の一人がわが国民間航空の歴史と深く関わっていることを知ったことである。民間航空の黎明は、一つは速報性を求める新聞社の新兵器、もう一つは観光や定期飛行への利用である。この後者の利用、丹後半島から若狭湾方面の観光飛行・エアータクシー、それに関西と東京を結ぶ定期航空路開拓に、川西航空(現新明和工業;辛坊氏救出に活躍した海上自衛隊のUS2開発・製作者)に協力して当っていたことである(いずれも事業としては失敗しているが)。
部屋へ入ると、若い仲居さんが館内・室内設備や外湯の利用方法などを説明してくれ、夕食時間や飲み物の確認、明日の朝食の注文をとってくれる。何と言っても先ず温泉だ!
大浴場はロビーの土産物コーナーの先に二つあり、時間帯によって男女が切り替わるのはどこも同じである。早速出かけてみると誰もいない。この時間の男湯は四角い総檜の浴槽、大浴場といても45人の規模で、こじんまりしている分落ち着く。小さな中庭があり、そこに露天風呂もある。どちらも貸切りで、ここまで全て二重丸。あとの食事も楽しみだ。
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(次回:西村屋;つづく)

2013年8月3日土曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-20


16.城崎温泉
計画立案のところでも述べたように、最終宿泊地はなかなか決まらなかった。この辺り一帯は温泉が多く、関東からは滅多に出かけられないところだけに、惹かれる観光地も多々ある。鳥取砂丘(鳥取温泉)、余部鉄橋(香住温泉)、夢千代日記の湯村温泉などがそれらである。ただ帰路(一日の行程)も考えると鳥取・余部は遠すぎる。湯村は“夢千代”以外は何も無さそうだ。歴史もあり知名度も高い、無難な城崎に泊まることにした。いくつかの候補を調べていて気がついたことに、どの旅館も比較的規模が小さい(概ね20室以下)ことで、これなら静かだろうとの読みもあった。
城崎温泉は丹波山地を発する円山川が日本海に注ぐ河口近くにある。少し南には兵庫県の北の中心地豊岡が在り、地番は豊岡市になる。山陰本線が、南から北に向かって流れる円山川に沿って走り、城崎温泉駅を過ぎると向きを西に変え直ぐにトンネルに入っていく。古くからの温泉街も、このトンネルに消えた鉄道と並行する湯の里通りと呼ばれる県道9号に沿う形で出来ている。山間ゆえに平地はわずかで、環境保全の規制でもあるのか傾斜地に聳え立つホテルもなく、緑に囲まれた閑静な場所である。
久美浜湾を過ぎた後県道9号を走って円山川を渡り、線路沿いに道なりに進めばやがて湯の里通りとなり旅館の前に辿り着いたはずであるが、どうも小さな町では最後のところでナビと相性が悪くなる(こちらが指示を間違え易い地形でもあるのだが)。細い道をショートカットする形で、外湯の代表“御所の湯”の前に出る。お蔭で温泉街の裏(大谿川(おたにがわ)と言う小渓流に小料理屋などが並ぶ)を明るい内に垣間見るチャンスがあった。
西村屋については次回詳しく報告するが、湯の里通りが西向きから北へ曲がる少し手前に在り、冠木門(屋根付き門)がある純日本風な造りで、後ろは山である。駅からは徒歩20分、チョッと遠く、鉄道利用だとタクシーになるのだろう。その分繁華街からは離れ、期待通り静かな雰囲気だった。
城崎温泉の歴史は古く、嘗ての温泉地がいずれも湯治場だったように、ここも平安時代から明治中期までは外湯が中心の湯治場であった。他の有名温泉地と違うのは、今でもここの名物は七ヶ所の外湯巡りにある。旅館に宿泊すればタダで利用できるが、一回600円、一日1000円である。夕食後通りを散策するついでに、適当な所へ寄ってみることにしたが、一番大きくて立派な“御所の湯”は木曜日が定休日とのこと。8世紀、近くの温泉寺開祖が祈願して湯が湧き出たが16世紀頃熱湯に変じる。それを鎮めるため曼荼羅供養を行ったところから名付けられた“まんだら湯”をトライしてみた。基本的には銭湯と同じ形式だが、寺院造りが特徴だ。それぞれ異なった願掛け・効用があるらしい。まんだら湯は、商売繁盛・五穀豊穣・一生一願の湯だそうである。
内湯が普及してくるのは「城崎にて」を書いた志賀直哉が滞在した頃(大正時代;1910年代)からで、彼が宿泊した三木屋もこの通りに在った。山に囲まれた静けさ・木造の街・日本海の魚・人情を愛でての逗留だったらしい。そんな平和で静かな所も、戦争中は町全体が軍人病院に転じていたそうである。
8時過ぎ湯の里通りを駅の方向へ歩いてみた。土産物屋が数軒開いていたほか、スナック、すし屋などが営業していたが、通りにほとんど人影も車の往来もなかった。歓楽色のまるでない、それでいて鄙びているわけでも無い、何か品のあるこの地を最後の宿泊地に選んだことは大成功だった。
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(次回:西村屋)