2013年10月31日木曜日

今月の本棚-62(2013年10月分)


<今月読んだ本>
1)零戦(堀越二郎);角川書店(文庫)
2)ライフワークとしてのまちづくり市民参加型の社会をめざして(中村義);文芸社
3)週末はバンコクでちょっと脱力(下川祐治);朝日新聞出版(文庫)
4)工学部ヒラノ名誉教授の告白(今野浩);青土社
5)ビッグデータの正体(ビクター・マイヤー=ショーンベルがー、ケネス・クキエ); 講談社
6)自動車と私 カール・ベンツ自伝(カール・ベンツ);草思社(文庫)
7)大西洋防壁(広田厚司);光人社(文庫)

<愚評昧説>
1)零戦
スタジオ・ジブリの宮崎監督最終作となった「風立ちぬ」は堀辰雄の同名小説に、零戦の設計者、堀越二郎を重ね合わせた作品と聞く。堀辰雄の方には全く興味がないが、堀越二郎は少年時代の憧れの人だった。
戦争に敗れ、日本人による航空機の設計・製造はもとより運用も禁じられた時代、乗り物好きの私の関心は専ら鉄道に向いていた(自動車も乗用車などは戦前のものを使っていた)が、1951年(中学1年生の秋)サンフランシスコ講和条約が調印されると、やっと日本の空が戻ってきた。当時から書店に立寄るのが習慣になっており、そこで目にしたのが創刊されたばかりの航空雑誌である。“世界の
航空機”、“航空情報”に載る最新鋭の米英の軍用機や軽飛行機の写真に目を奪われた。鉄道技師志望は一転航空機技術者へ変じる。だから著者の名前は早くから知っていた。それが挫折するのは大学受験の失敗に依る。しかし“三つ子の魂は百まで”、飛行機への関心は今に続く。
映画「風立ちぬ」が話題になり始めて“堀越二郎”が主人公と知り、「そういえばあの本があるはずだ」と書架を探したが見つからなかった。本書のオリジナルがカッパ・ブックス(光文社の新書)として1970年に発刊された時に購入し読んでいるからだ。そんなとき本屋でフッとこの本を見かけ購入した。
飛行機は人工物の中で最も美しい物と感じる。中でも戦闘機は抜きん出ている。第二次世界大戦には数々の優れた戦闘機が誕生したが、間違いなく零戦はその一つである。そして美しい!個人的に美しいと感じている当時の軍用機に、ムスタング(戦;米)、スピットファイアー(戦;英)、モスキート(戦、偵、爆;英)などがある。ドイツも数々の名機(メッサーシュミットMe109やフォッケウルフFw190;いずれも戦闘機)を生んだが“美しさ”と言う点では今ひとつ欠ける。零戦以外に共通するのはいずれも液冷エンジンを積んでいることである。空冷ではどうしても頭でっかちなり“無骨”な感じになってしまう。それを克服した数少ない、否唯一の成功作が零戦である。美しい飛行機は性能も良い(ここが他の工業製品と全く異なる)。速度、航続距離、空戦性能が就役時には際立っていた(速度と上昇力だけは一部の陸上機(制約が少ない)にやや劣ったが、艦上機としては出色だった)。その名機がどのようにして誕生したのかを、主任設計者である自ら書き下ろしたのが本書である。
著者には零戦に先立つ作品として96艦戦がある。制式艦上戦闘機として、固定脚ではあるがわが国初めての低翼単葉全金属機で、支那事変で大いに活躍、高い評価を得たものである。特に旋回性能は抜群で、米・ソの支援を得ていた中国空軍を圧倒する。しかし、航続距離が短く、戦線が奥地へ移ると爆撃機の援護が出来ず、被害が拡大する。これを解決すべく昭和12年に海軍から提示されるのが、のちに零戦となる十二試艦戦の要求書である。
「はたして、こんな飛行機が設計できるか」用兵側(特に戦闘機乗り;源田実など)の過酷な要求に堀越は自問し、軍側との会議で「世界を見通しても、このたびの戦闘機に対する目標は、あまりにも高すぎるように思います。要求される性能のうち、どれか一つか二つ引き下げていただけないでしょぅか」と質問する。答は予想通り「引き下げられない」と言うものだった。
ポイントとなるのは重量軽減。エンジンの出力と大きさの制限から、発艦距離(向かい風10mで70m)、航続距離(巡航速度で8時間;2000kmを超す)、速度(500km以上)、空戦(旋回)性能、上昇力などを一気に解決できるのは重量を減らすしかない。本書の核を成す第二章“不可能への挑戦”ではこの問題への、自らの身を削るような努力と創意が語られる。
試験飛行、制式採用、事故と原因究明、生産技術や材料問題、太平洋戦争前半における無敵の活躍、やがて露になる限界、次期艦戦「烈風」開発の苦難。零戦のすべて、堀越二郎の人生のすべてをこの一冊に込めて書かれた本といっていいし、その後に書かれた零戦物もほとんどがこれを敷衍している。
久し振りの再読であった。大筋では記憶と違わなかったが、細部は読み直してあらためて、当時の日本航空技術の開拓者の志し・レベルの高さと限界(人材、エンジン開発、材料、量産技術など)への挑戦に感動を新たにした。若い技術者やそれを目指す人に是非読んでもらいたい本である。

2)ライフワークとしてのまちづくり市民参加型の社会をめざして
専門・仕事以外のことに時間を費やすことに関心が薄い。学生時代は数多ある部活の内、機械工学と密接に関係した自動車工学研究会に所属しただけ。企業人になってからも組合活動には、義務として務めた職場委員だけ、町内会でも当番に当った時だけ役員を引き受ける。自ら積極的にヴォランティア活動をしたことも無いし、これからも多分やることはないだろう。従って本書を読むまで、こう言う世界にはトンと縁がなかった。
著者は現役時代寮生活や工場勤務を一緒にした友人、長期に滞米生活も経験した優れた化学技術者である。もともと多趣味なこともあって、60歳の定年を待たずに早期退職プログラムを選び、高齢化社会や地域社会また環境問題に貢献する活動を行っていることはOB会やフェースブックを通じて知ってはいたが、今回本書を読んで、それが年寄りの暇つぶしではないことを確り教えられた。最初はひとつひとつの活動が独立したものとしてスタートするのだが、どこかでシナジーが起こり、関連を持つようになって、変化する社会(高齢化や過疎化など)に適合する街づくりや人材育成全般を総合的にカバーする専門家になっていく姿を具体的に見せてくれるのだ。
最初に紹介されるのは親族(本人は僧侶ではないが、ここに住まいがある)が営む寺の建て直しである。いまどきのお寺はコンクリート造りも多いが、伝統木造建築の寺を再建することにする。このための調査や寺社大工との交流にはエンジニアとしての下地が充分生かされる。しかし、単に昔の姿を再現するのではなく、自分達の老後や環境も考え、エコやシニアライフも考慮した要求も盛り込むことを忘れない。これが切っ掛けで寺社建築や環境問題、高齢化社会に対する接点が出来ていく。
好きな旅も一見さんの観光客に留まらず、旅行者の目を居住者に転じさせ、それまでの経験や知識を踏まえ、“街づくり”へ発展していく。ここまでくると組織的な活動になりNPOや地方行政も絡んでくる。そこにはまた別の課題も多く、新たな行動規範が求められ、ノウハウが蓄積されていく。
本書の特長は、何と言っても著者の多方面に対する、若い頃から持っている好奇心(唎酒師から司馬遼太郎研究まで)と自身の体験に基づいて具体的に書かれているところにある。老後を如何に過ごすか、成熟・高齢化社会にどう向き合うか、既に後期高齢者目前の私よりは40代、50代の人が読めば、今からの過ごし方が少しは変わり、第2の人生への備えが出来るのではなかろうか。

3)週末はバンコクでちょっと脱力
私の読書傾向はノンフィクション中心なので、本欄閲覧者で小説好きの友人・知人からは「よくこんな硬い本を読みますね!」などと揶揄(だと私は受け取っている)されることがある。戦争・外交、技術・IT、伝記・時評などが多いことは確かだが、興味がある分野だから、特別読むのにエネルギーを消耗しているわけではない(偶に、最後まで読み通すのに苦痛を感じる本が無いではないが)。とは言っても“気楽な時間を過ごす”のに相応しいジャンルはある。一つは軍事サスペンスやスパイ小説、もうひとつが旅行記である。
下川祐治の旅行本は本欄で、5,6冊既に紹介しているが、この人を知ってから、私にとって“下川祐治でちょっと脱力”と言ったところである。旅先の社会を掘り下げている点では鋭いものがあるのだが、語り口にほんわか・ほのぼの感があり、ホッとする。東南アジア(人)に対する、日本人(時には中国人)から見た“ゆるさ”を容認する姿勢に妙に納得感があるのだ。
今回の舞台は、長年居住し言葉にも不自由しないタイのバンコク。著者の最新書下ろしで、直近の(政治情勢を含めた)バンコク事情を紹介する。私も1984年、2003年、2008年と3回訪れているので親近感のある(そして好きな)町であることから本書を手にした。
タイトルの通り、週末の短い期間をバンコクで過ごす旅を想定して、日本発の飛行機に乗るところから始まり、夜行便帰国前のひと時を過ごす川沿いの食堂(表紙写真)で終わる旅行記の形式になっている。しかし、中身はこれをリアルタイムの時間軸で追うのではなく、数十年前からごく最近の体験までを、週末の行動・出来事に、その都度反映させながら書いていくので、時間的(歴史的)対比を楽しむようになっている。つまり現状に至るプロセスを追うことでバンコク(タイ)社会の変化とその背景を理解できるのだ。
例えば、第二章の「空港から市内へ」はスワンプーム新空港に降り立ち都心までの交通を語るのだが、それ以前のドーンムアン旧空港とどのように違ってきたか(違わないか)。タクシー(正しくぼる)、リムジン(ハイヤー;私は安全性からこれを利用するよう旅行社から進められたが、一見公的機関にでも運営されているように見えたが、実は利権の巣窟で暴利を貪っている)、空港バスなどの裏の仕組みを語り、上手く利用するためにはどうするべきかをおしえてくれる。
この調子で、ホテル(ベトナム戦争時の欧米人向けホテルの現地人化)、食事(道端屋台での夕食)、飲み屋(ライブ音楽を懐かしむ)、観光(大洪水と運河巡り、お寺院で昼寝)とテーマを変えながら、バンコクの週末が進んでいく。写真家が同行したようでスナップ写真(白黒で小さいのが難点だが)も多く、それらを楽しむことも出来る。
最後にバンコク在住者(11人)による短文のバンコク旅行案内が1章設けられているがこれは蛇足(無いほうがいい)である。航空会社のPR誌にあるような半宣伝エッセイのようで、深みが全く感じられず、折角の“下川調”とのアンバランスがはなはだしい。著者本人が望んだのだろうか?(多分編集者の浅知恵だろう。あるいは著者の情報集めの協力者にお礼?まさか!)

4)工学部ヒラノ名誉教授の告白
本欄おなじみの“工学部ヒラノ教授”シリーズ第7弾である。今回のキーワードは、タイトルにあるように“名誉教授”と“告白”である。既刊は現役の助教授、教授時代に材料を求めたものであったのに対して、本書では、ヒラノ教授(と影響力大の孟母)の少年時代、東工大を停年(公務員の定年)退官するときに贈られた“名誉教授”の実態、第三の勤務先中央大学理工学部を20113月末で定年退職した後の過ごし方、そして教授の定年を待つように亡くなった夫人(介護度5)との想い出にかなりの紙数が割かれる。
何度か紹介してきたように教授と私は大学学部卒業年次では1年違い(私は1962年、教授は1963年;私は1年浪人で教授は現役だから小学校就学は2年違うことになる)。しかし、今回あらためて同時代人であることをきわめて具体的に知らされることになった。それは少年時代に読んでいた本と映画が見事にオーバーラップしているからである。小学生のとき読んでいたという講談社の「少年・少女世界名作全集」、中学生時代の映画少年が観た「駅馬車」「荒野の決闘」「珍道中シリーズ」「底抜けシリーズ」などがそれらである。しかし、家庭環境は全く違う。母には内緒でこっそり映画の入場券を渡してくれる映画ファンの父(駅弁大学の数学教授)。我が家とはまるで逆だ。
読書や映画好きは同じでも勉強に関しては大違い。中学に入ると、友人の父親(大新聞の論説主幹)に「これからの時代は英語だ!」と言われ、英語の勉強に邁進する。英文学を教える大学教授に個人指導を受け「君はうちの学生より実力がある」と評価され、「将来は英文学者に」の思いを抱くほど。
しかしそこに立ちはだかるのは「法学部は権力者の手先、経済学部は資本家の手先、文学部は非国民、工学部はタダの職人、大学と呼べるのは理学部(数学科)だけ」が口癖の孟母である。高校で遥かに先を行く天才数学少年に出会ったヒラノ少年はその数学者への道も勝負あったと考え、工学部の応用数学科に進む。
夫人のことはシリーズにはほとんど描かれていないが、確か中学か高校の同級生だったはずである。病名を正確に記憶していないが、始めは身体の一部が麻痺し、やがて車椅子が必要になり、ついに寝たきりの生活、さらに視力も失っていく。介護施設で全て任せることも出来るのかもしれないが、ヒラノ教授は自らも介護施設で同居生活するやり方を選ぶ。まだ中央大学に籍があるとき、それまでの生活パターンを変えて(書棚を含め家具はほとんど持ち込めない。夜中の介護が必須)、仕事と介護を両立させる。「あなたの定年まで生きていたい」それが夫人の最後の願い。しかし、日にち・時間の判断も出来る状態ではなくなってゆく。330日友人と飲んでいると介護施設から緊急連絡。「容態が急変したので戻ってきて欲しい」とのこと。幸い抗生物質の投与で翌朝意識も回復、嬉しくなった教授は「今日は331日、定年退職の日だよ」と口走ってしまう。4349年目の結婚記念日、それを告げると夫人は瞼を少し動かして「分かった」の答えを返してくる。しかし、自宅に戻ると呼び出し電話。駆けつけると心臓マッサーの最中、医師は延命の要否を問うが教授の返事は(妻は、生命の最後の一滴まで使って約束を果たしてくれた)「延命措置はなさらないでください」 いま独居生活を営む名誉教授は週2回のお墓参りを欠かさない。負けず嫌いな国際A級学者はまた心の優しい人でもあるのだ。
 “工学部の語り部”と称して執筆活動に励み、年3冊はエンジニア小説(セミ・フィクション)を世に送り出したいと意欲満々の名誉教授に、同世代・高度成長時代を生きたエンジニアとして、エールを送ると伴に次作に期待するところ大である。

蛇足;“告白”は著者の考えとは異なるようである。しかし本のタイトルと帯は、著者ではなく編集者が決めるのだそうだ。

5)ビッグデータの正体
“意思決定と数理”を一応ライフワークと考えているので、昨今“ビッグデータ”を取り上げる書物から目が離せない。今年に入ってから「ビッグデータの覇者」「統計学が最強の学問である」を読み、本欄で紹介したのもそれゆえである。流行り物は玉石混合だが、幸いこの2冊は人にも薦められる本だった。そして今回の「ビッグデータの正体」も前2者を凌ぐ面白いものであった。
「覇者」はグーグル、アマゾン、フェースブックなどこれを使って商売をする企業に焦点を当てた“経営物”、「統計学」は文字通りビッグデータ利用の一分野統計学の解説を行うもので“技術物”と言える。それに対して本書はビッグデータの社会的インパクトあるいはそれによる思考プロセスの変化を取り上げた“社会・思想物”と言っていいだろう。
原題は“Big Data”ずばりそのものである。しかし、それに“正体”を加えたことで印象は随分異なってくるし、読んでみて「なるほど。うまいタイトルだ!」と編集者のセンスに感心した(本のタイトルと帯は、先に書いたように著者ではなく編集者が決める。原題には小さな文字で内容を示すやや長い副題があるが“正体”とはほど遠い)。
その“正体”は影の部分あるいは留意点を示すばかりでなく、ビッグデータと密接に関わってきたそれ以前の言葉、データマイニング(大量のデータの中から役立つ情報を発見・抽出する)やビジネスインテリジェンス(大量のデータをビジネスに役立つ情報に変える)と同じ次元で論ずるものではないことを暗示している(これらはビッグデータの枝葉に過ぎない)。
では“正体”とは何か?先ず“ビッグ”の量と質の違い;量的には一企業や行政機関などが抱えるデータとは桁違いの量、質的には本来の目的と関係の無い情報や精度が劣るものを包含する。その例として書き出しは、インフルエンザの発症と流行を保健衛生機関よりもグーグルの検索情報がはるかに早く発見・予告した話から始まる。類似の例はアマゾンが専門家に委ねていた書評を、一般読者の投稿に切替たことの背景・効用としても示される。この“正体”は“量は質を凌駕する”と言うことである。
もう一つの“正体”、そして個人的に最も衝撃を受けたことは、物事の考え方や意思決定の仕方が、因果関係重視(仮設主導型)から相関関係重視(データ主導型)に変わっていくと言う主張である。今までの学問は仮説を立てては試行錯誤の繰り返しで進歩してきたと言えるが、それはスモールデータしか集められなかったからで、これからは違うと言うのである。世の中が求めているのは「理由」ではなく「答え」であり、ビッグデータを利用した相関関係分析により「答え」が出るスピードが速くなる可能性が高まってきているとの見方をとる。これは一見乱暴な主張に見えるが、プリンストン大学カーネマン教授(心理学・行動経済学;ノーベル経済学賞受賞者)の「二つの思考法」を援用して、仮説主導型を論理的思考法、データ主導型を直感的思考法と置き換え、その補足を行っている。この主張に全面的に賛同するわけではないが(特に、仮説不要やデータ主導=直感思考)、ビッグデータの本質を考える上で、斬新は視点を与えてくれた。
著者、ショーンベルガーはハバード大学行政大学院で教鞭をとった後オックスフォード大学に転じインターネット・ガヴァナンス(規制)を講じる教授、ビッグデータの世界的権威の一人。クキエは英エコノミスト誌のデータ・エディタ。

蛇足;ビッグデータに関して読んだ3冊に共通して取り上げられた本かある。映画にもなった貧乏球団(オークランド・アスレティックス)経営がテーマの「マネー・ボール」がそれである。ビッグデータの入門はそこから始めるのがいいのかもしれない。

6)自動車と私-カール・ベンツ自伝-
自動車の生みの親(彼のクルマは1886年頃に動いた。自称自動車発明者はドイツを含めあちこちに居るが…)が乞われてやっと書いた自伝である。192480歳誕生祝の場面で終わるが、内容は唯の回顧談ではなく臨場感がある。
初版がドイツで発刊されたのは1925年、初の邦訳は何と2005年、80年後である。戦前はドイツ語からの翻訳本(特に工学分野では)が沢山あったが戦後は英語ばかり、それでこんなに時間がかかってしまったのだろうか? もっと早くわが国で紹介されてよい本である。
先ず生い立ちから自動車開発を思い立つまでの話;家は代々の鍛冶屋で村の有力者(村長)。父は鍛冶から当時普及し始めた蒸気機関車の機関士に転じる。しかし、30代半ば雨中の脱線事故救援活動がもとで肺炎になり他界。その後母の希望(法律家)で大学進学を目指してギムナジウムに入るが、エンジニア希望断ちがたく高等工業(のちの工科大学)に転校。このころから鉄道とは異なる、道路を走る乗り物の構想が芽生えてくる。卒業後徒弟制度の下働きを数年したあと、機械設計士になり、さらに定置式ガス・エンジン(ポンプなどの動力源)製作事業を起す。この時代に入ると“自動車”がかなり具体的イメージになるが、株主の賛同が得られない。着手するのは結婚し事業も順調に発展して、ある程度まとまった財産が出来てからである。ここまでが言わば導入部。
次が自動車開発のもろもろのアイディア・技術的内容の紹介。紙数を割き丁寧に解説する;
定置式のガス・エンジンと違って、車載のガソリン・エンジンとなるとガソリンを気化するものが必要だ。現代でも少し前まで存在したキャブレターという気化装置を考案することになる。また内燃機関は熱が中に閉じ込められ、冷やさないと金属は膨張するから焼き付いてしまう。シリンダーを水で冷やすジャケットや熱を持った水の温度を下げるラジエータが不可欠だ。また、ガソリン・エンジンは電気火花で点火するが、タイミングをとるのが難しい。これも原理的に解決している。
4輪自動車は2輪バイクと違い方向転換が難しい。外側は内側より早く進まないと上手く曲がれない。差動歯車の利用を思いつく。エンジンを駆動軸に直結してはエンストしてしまう。また停止中でもエンジンを止めるわけにはいかない。クラッチが必要なことに気がつく。操舵方法も馬車の延長線ではない(馬車は一番前に動力源+操舵機能(馬)があるので車輪は固定でいいが、自動車は後輪駆動になるので前輪に複雑な操舵装置が必要になる。彼の発案した最初の自動車は前一輪の三輪車)。
これら数々の難題解決の説明には、特許申請時(つまりほとんどが19世紀)の図面がふんだんに使われ、その努力が具体的によく理解できるようになっている。
3のテーマは、これを社会に受け入れてもらうための苦労である;法規として存在するのは鉄道に関するものくらい。これを適用されてはたまらない。所管や警察の判断はまちまちで、国によっても大きく違う(フランスは比較的寛容だが、英国(赤旗を持って前を走り、人々に危険を知らせる赤旗法)そして母国ドイツ(極端なスピード制限)は融通がきかない)。啓蒙活動、懐柔策に苦慮・奔走する姿はそれまで存在しない社会システム開拓者を活写する。
最後は誰が自動車の発明者がと言うこと;蒸気自動車は彼のクルマより早く出現しているし、ガソリン機関でも同国人のダイムラーやオーストリア人のマルクスなどがそれぞれ名乗りを上げている。しかし、ダイムラーの最初のものは2輪車だったし、のちの4輪も馬車の車体にガソリン・エンジンを載せたものにすぎない。マルクスのものは動かなかったと本人が認めている。また、ヘンリー・フォードは量産システムを確立したのは確かだが、自分が発明者のような言動をしている。このあたりの事情をベンツは非難ではなくやんわり揶揄しながら、自分が発明者であることを主張している。この自伝はこのことのために書かれたのかもしれない。
それにしても、90年前の技術的説明の数々から、如何に現代の車が彼の発明に負っているかを知らされた。

7)大西洋防壁
“ナヴァロンの要塞”と言う戦争名画がある(原作アリスティア・マクリーン。主演グレゴリー・ペック)。TVでしばしば放映されているから、ご存知の方も多いだろう。エーゲ海の狭い水域しか航行できない海路を、孤立した部隊救援の船団が進まなければならない。しかしナヴァロン島の断崖絶壁に穿たれたナチスドイツの巨砲基地がその通過を許さない。空からの空爆は不可能、海から攻めてもこの巨砲に返り討ちになるだけ。少人数の特殊コマンドがそこに潜入し、爆破する。こんなストーリーである。とにかくこの巨砲とその稼動機械システムが凄い。「本当にこんな基地が在ったのだろうか?」 映画を観終わってもいつまでもこの疑問が残った。この本を読んで、「ネタがここにあったのでないか」の感を強くした。
大西洋防壁(アトランティック・ヴァル)とは、ドイツが西方電撃戦に勝利したあと、ノルウェーからデンマーク、オランダ、ベルギーそして英仏海峡を経てスペイン国境まで5000kmを超える海岸部に、連合軍の大陸反攻に備えて築いた、現代版万里の長城とも言える、沿岸砲台の鎖である。万里の長城のように隙間無く連続したものは無論無理で、敵の侵攻確度が高いと思われるところ(英仏海峡部)、重要海軍基地(主にUボート)や主要な港湾は密度高く、そうでないところはかなりの距離を置いて砲台や歩兵・砲兵陣地が設置された。
当初の動機は残る敵、英国への上陸作戦支援にあり、英仏海峡から敵艦船を排除することにあったが、バトル・オブ・ブリテンの失敗で制空権奪取が適わず上陸作戦は断念。その後は専ら防衛の性格を持つようになっていく。
使われた兵器(主に大砲)は戦艦の主砲や第一次大戦時の長距離砲を近代化したもの、列車砲、戦利品(特にフランス)など多種多様、射程は海峡を横断して英国本土に届くものもあった。また水際で叩くためには戦車の砲塔を陣地に固定設置したものもある。3040センチ砲の陣地は天井厚が鉄筋入りで4メートルもあり、大型爆弾や艦砲の砲爆撃にも耐えられる強固なものである。使われた資材は、概算でコンクリート2700万立方メートル(6210万トン;因みにフランスのマジノ線は1200万トン)、鉄鋼は140万トンと算出されている。
本書では、これらの砲台・陣地のプロット、建設組織(特殊建設部隊;トート機関;これについてはかなり詳しく書かれている)、運用組織(大型長距離砲は海軍、近接戦闘陣地は陸軍、対空防衛は空軍)、戦闘組織(約60万人;東部戦線へ精鋭を大量に割かれたため、ノルマンジー上陸作戦時には二線級の老兵が主になっていた)、各種砲台・陣地の仕様(サイズや部屋の構造)、装備された兵器(特に大型砲は詳しく解説。一連の砲台の弱味は、接近戦に有効な要塞砲(強力な短射程・大量発射の砲)の開発・配備が本格的に行われていなかったことを上げている)。反攻軍との戦闘状況(破壊状況)などがかなり詳細に書かれ、写真や図も多くその実態がよく理解できる。おそらくわが国で初めてその全容が紹介されたと言っていい(素になっているのは、トート機関の副総監(総監のトート博士は戦時中墜落死しているので実質的トップ)が軍事訴追免除を交換に米陸軍戦史部のために書いた報告書)。
最後に当時のドイツ軍、連合軍の将軍や軍事評論家にこの防壁の意義を論評させているが、軍学者のリデル・ハートを含む多くが、「ほとんど実効が無く、資源・兵器を東部に振り向けていれば、戦況はかなり変わったものになった」としている。
簡単には撤去できない巨大なコンクリートの塊は今でも欧州西部海岸線の随所に残されている(さすがに砲はないが)。はるか数千年ののち、近代の万里の長城はどのように受け取られるのだろうか?

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2013年10月29日火曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡るー(8)


8.エズ村と香水
コート・ダジュールに面する陸地は石灰岩の岩山がつづく。この地で大人口を養う農業を営むのは難しい。交通が発達しリゾートとして繁栄する以前は、果実と海産物を採取するくらいの生活しか考えられない。そんな土地に“鷲の巣”と呼ばれる小さな村落が高い岩山の上に築かれている。その一つエズ村(土地の人はエザと呼ぶらしい)がモナコからニースに戻る途中に在る。どうもローマ史と深く関わるようで、頭の部分が涙滴のように丸い十字架(エジプト十字架)の教会があることから、北アフリカ(カルタゴ)との関係が深かったようである。10世紀にはイタリアのサヴォイア家の領地となり、プロヴァンスに拠るフランス勢の支配に備えて要塞化されそれが今日まで残っている。敵の侵入を防ぐため海からは見えないよう、山で隠れるように家々が造られているので長い歴史を残すことになったらしい。
4時前にモナコを発ったバスは途中から山道に分け入りつづら折れして断崖を登り、エズ村下の駐車場に止まる。村はこの辺りから始まりさらに上へとのびているが、あとは自分の足で登るしかない。80歳の老人を含め半数はここで待つという。石壁に挟まれた狭い石畳を少しずつ上っていく、左右には土産物屋や飲食店が続く。驚くことにこんな所にもホテルが在る(それもミシュラン二星のレストランがある)。家が途絶えるとあとは手摺を頼りに岩とサボテンのような植物が生える急な階段を登っていく。この辺りはエズ熱帯庭園、頂上は小さな城址だ。さすがに見晴らしはいいが、一体こんな城を落として何が得られるのだろう。
快晴の日にはコルシカ島が遠望できると言う展望台から下を見ると、山肌をぬうヘアピン続きの道路が走っている。モンテカルロ・ラリーを扱った「栄光の5000km」のロケはあんな所でやったのではなかろうか?歴史とは関係が無いところについ思いがいってしまう。
もう時刻は5時前、最後の訪問地はラベンダーを始めとするこの地方特産の花々で作られる香水や石鹸作りの会社「フラゴナール」だ。駐車場には“熊猫旅行社”と漢字で書かれたバスも止まっている。中国からの観光客が先に入っているようだ。昔からの石鹸製造機械や香水の調合方法の説明を受けると、あとに控えるのは直売フロアー。自社製品ばかりでなくブティックも併設されており、雑多な人種の女性客は老いも若きも目の色が変わってくる。全く関心が無いので駐車場に早々と退散。そこに何故か赤いフェラーリが一台。側の看板には英語で何ユーロか払うと付近を運転手付きでドライブさせてくれると書いてある。男性が連れを待つ間の商売なのだ!
あたりが仄暗くなってきた。あとはホテルに向かってまっしぐら、5時半にホテルにチェックイン。こうして長い長いコート・ダジュール観光の一日はディナーを残して終わった。
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(次回;ニースのホテルとレストラン)

2013年10月27日日曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡るー(7)


7.モナコ観光
海岸道路を12時半過ぎに発って、50km弱先の観光地モナコに向かう。午後からはよく晴れて、海はやっとコート・ダジュール(紺碧海岸)に変じてくる。出発点は海抜が数メートルだが東に進むに従って、高さを増していく。道は断崖を削って走っており、曲がりくねり眼下に美しい入り江が何度も現れ、地中海クルーズを行う大型の豪華客船が停泊している。乗船客は上陸して近くの観光スポットを巡っているのかもしれない。
この道はおそらくローマ時代からイベリア半島と結ぶために使われていたものが、時代に合わせて整備されてきたのだろう。現代の土木機械で一気に開削されたものと違い、場所によっては岩がバスの屋根に接するくらい張り出しているところもある。1969年日産車の活躍(モンテカルロ・ラリーでクラス優勝する)をモデルにして作られた石原裕次郎主演映画「栄光の5000キロ」では海岸線に沿う道で激しい練習を繰り返すシーンがあった。今通っている所は幹線道路なのでもっと山側の交通量の少ない道なのかも知れないが、雰囲気に大きな違いは無い。
40分位するとフランスからモナコに入ったことを知らせる道路標識があらわれる。イタリア側は何かチェックポイントがあるようだが、外交・軍事をフランスに委ねていることもあり、こちら側からは何も無い。広さは皇居の2倍程度、人口は35千人。それでも国連に加盟している立派な独立国だ。
この標識から道はややアップ・ダウンして、バスは小さな岬を廻って市役所や海洋博物館下の地下駐車場に止まる。ここからエレベータで地上に出、モナコ大聖堂から王宮前広場へと徒歩で観光するのだ。大聖堂の見ものは何と言っても王妃グレース・ケリーの墓である(結婚式もここであげた)。彼女はフランスからの帰路(我々の走ってきた海沿いの道ではなく、山越えのルートだった)、自らハンドルを握るクルマ(レンジ・ローバーだったと記憶する)の運転を誤り、崖から転落死したと言われているが、どうやらその前に脳梗塞を起していたらしい。
王宮前では衛兵の交代を見た。アーリントンやクレムリンの無名戦士の墓とは違い、ごく簡素なものだった。この広場で交代式を待っていると、大きなしゃもじに番号を書いたものを掲げて幾組みも団体がやってきた。大型客船でこの付近を巡っている人達とのこと。1グループ2030人、番号は30を超していたから大変な数だと思ったが、添乗員は「多い船は3千人くらい乗っている」とのこと。一体どう管理するのだろう。9人のグループは混乱を恐れ早々に広場を退散、バスへ戻ることにする。途上の展望台からは眼下にモナコ港が広がり、大小さまざまのクルーザーやヨットがきびすを接して停泊している。おそらく世界のマリーナでも、船の数はともかく(米国にはもっと規模の大きいものがあるだろう)、合計金額では断トツの高さではなかろうか。
バスは坂を下り先ほど上から見たモナコ港に沿う道に出る。ガイドが「ここがF1レースのスタートとゴールです」と言う。見ると路上進行方向にコの字が2列、互い違いに描かれている。スタート・ポジションだ。さらに進むと例のトンネル内コースへとつながっていく。一旦外に出てからバスは別の地下駐車場に入っていった。
ここから階段を昇って、本日のモナコ観光のハイライト、グラン・カジノ見物に出かける。写真撮影禁止だし(預けなければならない)、バッテリーの調子が悪いこともあり、カメラは携帯せず。カジノはラスヴェガス、リノ(いずれも米国)、アデレード(豪州)などで見ているが、遊ぶゲームはそれらと差はない。見所は建物そのもので、さすがにヨーロッパの歴史を感じさせるクラッシクな雰囲気だ。本来紳士淑女がそこで丁々発止とやっていれば絵になるが、どうやらそういう方々はプライベートな部屋が用意されているらしく、パブリックの方は皆おのぼりさんの観光客。
カジノ前の駐車場にはフェラーリが78台、ベントレーが2台(1台はクラシックカー)、ランボルギーニ、ロールス・ロイス、ジャガー、ポルシェ各1台。5人に一人は億万長者に納得。賭ける金額もおのぼりさんとは桁違いだろう。
最後にガイドに案内してもらったのは、モナコ・グランプリ最大の見せ場、ローズコーナーと呼ばれるヘアピンカーブ、何と下り坂である。ドライバーの心境や如何?来年からのTV観戦は明らかに身近なものになるだろう。大満足のモナコ観光であった。
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(次回;エズ観光)

2013年10月24日木曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡るー(6)


6.ニース観光
空港には現地ガイド(日本人中年女性)と50人位乗れそうな大型バスが待っていた。これに添乗員とガイドをいれて11人だから、おもいおもいの席に座れる。出発は9時半頃。無論こんな時間にホテルへチェックインは出来ないから、市内観光に向かう。とは言っても美術館なども開場は10時だから、先ずはホテルやカジノが並ぶ海岸プロムナード(プロムナード・デザングレ;イギリス人の遊歩道)をユックリ走り、この世界的リゾート地の触りから案内が始まる。人口は50万人、フランスでは5番目に多い町、ホテルの数はパリに次いで2番目だと言う。そのホテル群は海岸に面して延々と続くが高さが揃い、看板も抑制されて美しい。海岸だけ見れば熱海や伊東も決して見劣りしないが、この辺りの統一性が日本とは違う(これは今回の旅で、随所で痛感させられた)。
海岸通を中ほどまで行くと、バスは市の中心部からセレブ達の別荘が点在する山側に進路を変える。市街の公園広場には巨大な、四角い顔面を持つ石の彫刻が現れる。それを過ぎると住宅地に入り道は狭く、運転手の腕の見せ所となる(思わず「上手い!」と言いたくなる)。辿り着いた先は国立シャガール美術館。ニースにはここで没したマティス美術館などもあるが、おそらく“国立”ゆえにここが選ばれたのだろう。この美術館が出来たのは1970年代初め、懇意だった文化相のアンドレ・マルローが国に寄贈された作品を展示するため、シャガール永住の地となったここに設立を決めたのだと言う。いままで写真などで知ってはいたが本物を見たのは初めて。チョッと児童画のような絵やステンドグラス、壁画を楽しんだ。美術館の向かい側は高級住宅地、最近大型バスの進入・駐車禁止の動きがあるらしい。このような話を他でも聞いたが、住民の立場に立てば分かる気がする。
次いでバスは市街中心部に戻り、しばらくはバスを離れ、昼食時間まで徒歩で繁華街を巡る。高級ランド店が軒を連ねる通りや、観光客で賑わうカフェなどがある十字路。やっと町がそしてフランスが身近に感じられる。自転車でパトロールする警官がまるでツール・ド・フランスの選手のようないでたちで、「さすがフランス!」とその粋な姿?に感心する。
昼食はこの繁華街の路地を入った所にある、小さなそしてカジュアルなレストラン“La Casita”で鶏料理だった。互いの家族が紹介しあい、赤ワインやロゼで楽しむ。初めてのフランスでのきちんとした食事。まずまずと言えた。
食後は海岸通へ出て、集合時間と場所を決めて、自由行動。美術館を出てから空は晴天に変わっているので、プライベート・ビーチではまだ泳いだり、日光浴をしている人も居る。海岸はワイキキや沖縄のような砂浜ではなく、小石である。チョッと和歌山御坊の煙樹が浜に似ているが、あれほど粒は大きくなく、波も穏やかなので音はしない。そここで本格的な装束で走るサイクリストを見かける。今週の週末はここでトライアスロン・レスーが行われるとのこと。モナコ・グランプリ同様、華やかな雰囲気の中でのレースは一味違ったものになるだろう。
ニース“観光”はディナーを除けばこれで終わり。本来は何日(何週間)か逗留して分かるリゾートの楽しみは残念ながら分からずじまいだった。
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(次回;モナコ観光)

2013年10月22日火曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡るー(5)


5.ニースへ
926日(木)2210AF0277便はパリ・シャルル・ドゴール空港(CDG)に向け離陸した。こんなに遅い出発はチョッと記憶にない。機種はB777300、アエロ・フロートやJALでは何度か乗ったことのある飛行機だ。座席数は303CDG到着が現地時間の午前350分にもかかわらず席はほとんど埋まっている。乗り継ぎで欧州各地へ飛ぶ人が多いのだろうか。
今回初めてプレミアム・エコノミー・クラスを選んでみた。4年前のイタリア行きのときは無かったクラスである。ビジネスが232の配列に対して242(因みに、エコノミーは343)となるので幅が少し狭くなるが、私の体ではビジネスとさほど変わらない感じだ。前後の間隔は詰まっているが、リクライニング時前のシートが後ろへ倒れ込む方式ではないので、圧迫感はない。この機体の場合位置は丁度主翼の上で、28席あり、ビジネス、エコノミーとはカーテンで仕切られ、専用のトイレがあるのも評価できる。
遅い出発にもかかわらず夕食が用意されており、給仕されたのは23時頃、選択肢は和洋2種あり洋を選んだが(食器類は本物を使い一応ビジネス並みだが、内容はエコノミーに近い)、こんな時間はあまり食べないで飲んで寝るに限ると、シャンパン、赤ワイン、コニャックと飲み続けたら(これは全て無料)、期待通り本を読んでいるうちに寝付いていた。目が覚めたのは日本時間の5時半頃だったから、いつもの睡眠時間とそれほど差はない。
CDGの到着は350分、離陸が20分遅れたが到着は予定通りだ。時差が7時間あるので正味飛行時間は12時間、まだ夜は明けていない。さすがにこんな時間の到着便は限られており、我々が入国審査を受けた時、開いている窓口は一つしかなかった(機外へ出たところで、初めてのメンバー顔合わせがあり、入国窓口へ最後に到着)。ツアーなので何ひとつ問われず、パスポートを見せるだけで通過した。荷物はニース受け取りなので、携行カバンのみ。国際線ターミナルから延々歩いて国内ターミナルへ移動。当然ながらこんな時間に飛ぶ国内便はないから、セキュリティも閉まっている。1時間くらいしてようやくオープン、しかし、ニース行きいは725分発だから、店も開いておらず、ガラーンとした搭乗ゲート前の待合スペースで3時間近く時間を潰すしかない。6時半頃になると吹き抜けの下の階にあるカフェがオープンし、コーヒーのにおいが漂ってくる。こちらはCDG到着1時間前に卵料理とパンの朝食を済ませており、今度の便でも機内で朝食が用意されるので、上から眺めていると、ほとんどの人が飲み物とパン(クロワッサンなど)だけのコンチネンタル・スタイル。アメリカのように卵やベーコンなどを摂る人は見かけない。
7時過ぎやっとAF7700ニース行きに搭乗。今度の機種はエアバスのA32033165人乗り。他国のグループツアーも何組か見かけるし、ビジネス客も多く満席だ。離陸は滑走路が混雑しているのか25分遅れ。飛び立ってしばらくすると機内食の朝食が配られる(当に“配る”という感じ。回収も袋に投げ込む)。ジュース、コーヒーそれに冷たいクロワッサン。典型的なコンチネンタルであった。
機は豊かな農業地帯の上をひたすら南下する。青い空に飛行機雲が幾条ものびている。やがて雪を頂いたような山が見えてきた。このシーズンにもう雪か!フランスアルプス?しかしそれほど高い山ではない。あとで分かったことだがこれは山頂にむき出しななった石灰岩だった。フランス南部の地質が圧倒的に石灰質であることは、コート・ダジュール、プロヴァンスを陸上移動中随所で見かける岩山で教えられることになる。
ニースに近づくにつれ雲が広がり下はほとんど見えなくなる。着陸の警告が発せられると機は雲中飛行になり、抜けたと思ったら下は海、残念ながら、海は空を映し鈍色、あの地中海ブルーではなかった。9時丁度にニース空港にタッチダウン。タキシングする機から駐機場を見ると小型自家用ジェット機がやけに多い。世界の富豪が集まるこの地ならではの光景だ。スーツケースをピックアップした後、ポーターがツアー全員の分を一括して大型台車で運んでいく。通関のチェックは全く無かった(チェックポイントも無い)。このシステムならEUに何でも持ち込めてしまう。何ともあっけないフランス入国であった(入国手続きはCDGで済んでいるが)。
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(次回;ニース観光)

2013年10月20日日曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡るー(4)


4.グループ・ツアーの仕組みと参加者

グループ・ツアー経験者には言わずもがなだが、初めての方にはそれなりに、これからのこの種の旅行に考慮すべきこともありそうなので、このツアーの仕組みを少し整理してみる。
各社訪問観光地の内容は大同小異だが、先ずプログラムの実現は、催行人数が集まるかどうかにかかっている。ただその人数には幅があり二人から15名まであった。また、人数がその数に達しなくても必ず行われるものもある。当初選んだKNTのものは6名催行となっていた。これなら中止になることはないだろう。
今回の場合、後で分かったことだが、最少催行人数の10名では旅行社の利益は僅少、確実に儲かるのは15,6名からとのこと。しかし9名ならやりくりで何とかなるらしく。次年度の航空会社やホテルとの交渉のためにも実施しておきたかったようだ。
次は日程だが、南仏・プロヴァンス・パリを廻るプログラムはだいたい8日~9日(土日の出発・帰着は航空料金が高くなるので平日だけで済ませるように旅程が組まれる。今回のコースは;成田→シャルル・ドゴール(機中泊)→ニース(泊)→マルセイユ(泊)→アヴィニヨン(2泊)→パリ(1泊+2延泊)→成田(機中泊))。このコースではパリは最終泊地となり長いものでも2泊(今回の阪神フレンド・ツアーは一泊)。43年前の僅かな体験から、これでパリを堪能するにはスケジュールがチョッとタイトだ。そこで延泊を考えるのだが、これがコース選定の制約になる。下手をすると同じホテルに泊まれず、延泊だけ他のホテルになる可能性がある。これでは移動のために少なくとも半日犠牲にしなければならなくなってしまう。今回、結果として同一ホテルに泊まれたものの間際まで微妙だった。
催行可否、延泊に次ぐ問題は座席のクラスである。基本的にこの種のツアーはエコノミー・クラスが基準である。しかし、パリまでは12時間の飛行、老体には堪える。ビジネスクラスは一人30万円位アップするので、これは懐に堪える。そこで利用者の評判を聞いて往復10万円加算のプレミアム・エコノミーを初めて試してみることにした(内容については連載の中で紹介する)。ところがこの数は少なく(今回乗ってみて分かったが28席。人気があり満席だった)、催行の可否が決まる前に確保するのが難しいのだ。これもギリギリ滑り込みセーフ。
最後の問題はオプショナル・ツアーにあった。パリは基本的に自由行動でプログラムの中にはグループ観光はない。そのためパリ到着日の午後と、翌日いっぱい(深夜便のため、ホテルを発つのは19時)を使ういくつかのツアーが選べるようになっている。ただし催行人員は10名。参加者9名では実施できない。延泊を決めた時から自分で現地の観光会社に直に申し込むことを考えていたので、こちらとしては問題なかったが、他の人達はチョッと困ったようだ。中にはパリ到着日2時過ぎから添乗員に行き方を教わり、一緒に駅まで同行してもらい、ヴェルサイユまで飛んでいった家族もいた。
こんなツアーに参加したのは4家族9名(夫婦2組、親娘1組、老夫婦+娘;娘さん2人を除けば皆年金生活者)、親娘は静岡から、あとは東京と横浜(我々)からの参加である。成田のツアー・カウンターで添乗員と会うと、「皆さんとの顔合わせはシャルル・ドゴール空港のボーディング・ブリッジを出たところで」と言う具合で、この時点では誰がグループかは不明であった。あとで分かるのだがこの内二組は阪神フレンドツアーを何度か利用したことのあるリピータだった。
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(次回;ニースへ)

2013年10月17日木曜日

フランス紀行ー 南仏・プロヴァンス・パリを巡るー(3)


3.グループ・ツアー検討
グループ・ツアー参加が初めてと言っても、旅行社提供のツアー・プログラムを全く利用した経験がないわけではない。またグループで研修旅行に出かけたこともある。出発から帰着まで添乗員が付いて催される観光ツアーは初めてと言うことである。
子供たちを連れて家族でマレーシア・シンガポールや香港旅行に出かけた時。また家内とバリ島やニュージーランドを巡った時。旅行社はみなある種のパック旅行で旅程を整えてくれた。ただ出発も帰国も家族単位、現地でガイドが送り迎えをしてくれたり、観光案内をしてくれるスタイルだった。時にはオプショナル・ツアー(現地の定番観光スポットを廻る小旅行)で他の日本人と一緒になることはあっても、“グループ”と言う感じではなかった。
研修目的のグループ・ツアーには2度ほど参加している。一つはIBMユーザーの管理職クラスに彼らの力を開陳する“洗脳”コース。20人強の顧客企業参加者に、JTBの担当者一名と日本IBMの社員で逐次通訳が出来る人が3人、それに研修生メンバーを兼ねて雑務を行うIBM社員一人が同行した。これで3週間米国IBM施設やユーザーを廻った。もう一つは化学工学会の経営システム研究会が米国化学工学会年会に参加し、同種の研究会と共同分科会を持つものだった。
これらは初対面であっても国内事前合宿があったり、メンバーのバックグラウンド(業種あるいは職種)が共通なので、直ぐに気心が知れ、仲間意識が出来上がった。その点では種々雑多な参加者から成る、一般のグループ観光ツアーとは旅の性格が全く異なる。
当初は先に書いた家族旅行型ツアーの可能性を当ってみたが、結局フルコース(出発から帰着まで)の現地参加版になり、費用はむしろ高くなってしまう。無理な注文を聞いて、それなりの解決策を提案してくれる融通の効くエージェントも無い(2009年までは横河電機の子会社、横河ツーリストが便宜を図ってくれたが、その後社外サービスは行わなくなった)。
そこで今回は、JTBJALANA、近畿日本ツーリスト(KNT)、クラブツーリズムなどの商品をWebで調べ、先の要望に近い案を拾い出した。その結果、TGVの利用、連泊(途中で)、延泊などの希望に副うものとしてKNT案が最有力となり(一番好ましいのはANAだったが延泊不可だった)、近くの営業所へ詳細を詰に行った。しかし、こちらの希望時期(9月下旬出発)に当るものだけ何故かパリでの延泊が認められないことが分かった。代案として薦めてくれたのが阪神航空のフレンドツアーである。これならアヴィニヨンで連泊、パリの延泊もOKとのこと。問題はその時点(7月下旬)での申し込み人数がたった2名、我々二人を加えても4名に過ぎない。最少催行人数10人に届くかどうかかなり怪しい。延泊や座席のアップグレード(プレミアム・エコノミー)の交渉などは催行が確定しないと始められないと言う。8月下旬やっと人数が8名に達したので実施が決まったとの連絡があった(最終的には9名)。参加費を支払いにKNTの営業所へ出かけると、搭乗機やホテルの詳細情報をくれた。その資料を見て「オヤッ?」と思った。パリのホテルの所在地がサン・ラザール駅に近く、小さな写真はクラッシクな佇まい。どうも43年前深夜にチェックインしたホテルに似ているのだ。名前はコンコルド・オペラ・パリ、そんな名前のホテルではなかったはずだ。ホテル周辺を調べると、名前のようにオペラ座が近く、有名百貨店のプランタンやギャラリー・ラファイエットは直ぐ側だ。あの時にはそんなことに全く気付かなかった。しかし、半世紀近い昔が急に近づいてきた。
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(次回;グループ・ツアーの仕組みと参加者)

2013年10月15日火曜日

フランス紀行 ー南仏・プロヴァンス・パリを巡るー(2)


2.どこへ行くか?
フランスは見所が多い。どこへ行くか?は何をしたいか?と同義と言える。景観、歴史、芸術、グルメ、ファッション、乗り物などなど。2009年もここからスタートしてルートが決まったが、基本的に観光の関心事は変わっていない。上記全てが集まっているパリは欠かせないが、私の必要条件には、乗り物、フランスの新幹線、TGVが欠かせない。前回の計画では、プロヴァンス地方のエクス・プロヴァンスからパリまで乗ることになっている。この路線は完全に新幹線専用線なので速度が最も速くなる。
プロヴァンス観光をセットしたのは、二人の外国人と何人かの日本人のアドヴァイスによる。英国で師事したOR歴史研究の第一人者、ランカスター大学カービー教授の趣味は2座のオープンカーで長距離ドライブすること。そのBMW Z3に乗せてもらった時、いかにフランスの田舎をこのクルマで走ることが素晴らしいかを語っていた。もう一人はエクソン時代に知り合ったアメリカ人でその後も家族ぐるみの付き合いが続く夫婦。二人でフランスツアーに参加、プロヴァンス地方では希望者が一部の区間自転車で移動し、彼らもこれに参加した。その時の高揚した気分を2010年来宅した際、散々聞かされた。さらに今回の計画を詰いている段階で、フランスに長く駐在した商社員の先輩から「フランスへ行くならプロヴァンスへ」とのアドヴァイスがあった。ツアーでこの地を巡った人達にも概ね評価が高い。これでプロヴァンスが決まった。
この地方には単に田園風景が広がるばかりでなく、ローマ時代からの遺跡も数々残っているし、中世の城塞都市も多い。またゴッホを始めとする画家たちの足跡も随所にある。
個人的な希望はもう一つあった。モナコとその周辺である。最近のF1レースは経済力伸張著しい、中国や中東でも開催されるようになったが、最も華やかなのは市街地をサーキットにしてしまうモナコ・グランプリである。「あの下り坂にあるヘアピンカーブはどんな具合なのだろう?トンネルはどんな感じなのだろう?」 是非間近で見てみたい。
またラリーの世界ではモンテカルロをゴールにするモンテカルロ・ラリーがやはり数あるレースの中では頂点と言える。このレースは、1969年石原裕次郎主演の「栄光の5000キロ」の舞台ともなり、コート・ダジュールに沿う断崖に刻まれた海岸道路を疾走するシーンが記憶に残る。観光バスでもいいからそこを走ってみたい。
最後のパリは、43年前一日で足早に観て廻った市内のランドマークを再度ゆっくり訪れるほか、閉館時間が迫り入ることの出来なかったルーブル美術館見学と郊外にあるヴェルサイユ宮殿訪問、それに有名なムーランルージュのナイトショウも見たい。こうして凡その見所が決まった。
2009年の計画では、ニースに3泊、エクス・プロヴァンスに3泊、パリに4泊と連泊ベースの余裕のある予定を組んだ。これは完全な個人旅行をベースにしたためである。今回再度ここから計画検討をスタートさせたが、同じようなルートを廻るプランが旅行各社から沢山提案されている。ニース2泊、プロヴァンス2泊くらいで充分同じコースを観て廻れる上に、費用も大幅に個人で出かけるより安くなる。今まで個人旅行に拘ってきたのは、“友人を訪ねる”とか“マイレージを使う”あるいは“仕事の帰途”と言うような事情があったからで、今回はそんな制約も無い。ツアーの中でオプショナル・ツアーを選択したり延泊を加味すれば、ほぼ所期の目的も達せられそうだ。そこで(実質)初めてのグループ・ツアーを調べることにした。
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(次回;グループ・ツアー検討)