2013年11月28日木曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(16)


14. 骨董の町;ゾルグ
修道院を出る頃には天気は急速に回復し、雲間に青空が見えるようになってくる、プロヴァンスの中でも最も人気のある(英国人やドイツ人は競ってこの地に別荘を持ちたがるようだ)リュベロン地方を巡るのに相応しい天候が期待できそうだ。次の目的地はリル・シュル・ラ・ゾルグ(ゾルグ川の島)と言う町だ。
ゾルグはゴルドから西へ20㎞程度いった所で、名前の由来はゾルグ川の複数の支流がこの町を通っていることに由来する。そしてこのゾルグ川はあのシャンソン“河はよんでいる”の歌詞で有名なデュランス川につながっている。さらにデュランス河はこの地方の大河ローヌ河に合流する。つまりゾルグは水利の街なのだ(何かの紹介資料に“フランスの小ヴェニス”とあった)。川や運河は輸送や農業に欠かせぬばかりではなく、動力源(主に繊維業)としても使われてきた。そこここに役目を終えた水車が、観光用に残されている。
バスが町へ着くころには道も乾き、気温も上がって暑いくらいだ。町の外縁にある鉄道駅近くの広場で降りて“島(長径1㎞、短径500m)”の中心部へ向かう。今日のランチはここで摂ることになっているからだ。
目につくのはアンティーク・ショップの多さである。説明では200店近くあるとのこと、なぜこんな小さな町にこれほど多くの店があるのか知らないが、パリに次ぐ数だという。今日は日曜日なので、骨董市も開かれているとのこと。
町の人たちが買い物に出かけてくるような小さな露店市のすぐ前が、目当てのレストラン。“A Table”とある。英語なのであろうか?(フランス語のAは英語のToだそうです。つまりTo Table;テーブルへどうぞ!の意)家族経営の小さくて感じの良い店。供された料理は、カボチャのスープ、トリ肉をトマトで味付けたもの。リュベロン産のロゼで賞味した。これはあとでの評価になるが、この昼食は今回のツアーで最高の評価を得ることになる。
食後は3時半まで自由行動(2時間くらい)。ほろ酔い気分で、明るい日差しの中を骨董市、運河、水車、街の路地などを巡って歩いた。店や市にある骨董は古い家具や陶磁器などが多いが、中には遊園地の乗り物やモダンアート調のディスプレーなどもある。こんなものが売れるのだろうか?
建物は総じて古い石造りの23階建てで道も石畳、高層建築やモダンな家屋は全くなく、伝統的な生活が色濃く残っている。遥か東にはリュベロン山地が遠望できる。市庁舎も警察署も駅も皆こじんまりして可愛い静かな町並みである。夏休みにはヨーロッパじゅうから大勢の避暑客・観光客が集まるようだが、今日はほとんど見かけない。もうオフシーズンなのだろう。
骨董品には全く興味のない私にとって、街中で過ごす楽しみはさして多くはないが、明るく暖かい(やや暑い)天気の下での散策は、フランスの田舎の良さをしみじみ味わうことができた。もう少し時間があったら運河沿いのカフェテラスでワインでも一杯やりながらぼんやり過ごすのが一番だったろうが、この日はまだアヴィニヨン観光が残っている。
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(次回;アヴィニヨン法王庁)

2013年11月24日日曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(15)



13. 石造り重畳、ゴルド
929日、南仏旅行も三日目、今日は日曜日だ。「フランスは何と言っても田舎ですよ」と何人もの人から聞いた。その田舎はプロヴァンス地方を意味する。アルル、アヴィニヨンあるいはエクス・アン・プロヴァンスなどが観光の拠点となる大きな町だ。空港ホテルを840分に出発、ゴールはアヴィニヨンだが、その前に、ゴルド、ゾルグなど特色のある見どころに寄ることになっている。
この地方の今日の天気予報は時々雨を報じていたが、出発の時点では晴れ間もあり、まずまずの天候が期待できそうな朝だった。ホテルを出るとすぐに北上する自動車道A7に乗り、最初の目的地、ゴルドを目指す。西側には塩水湖(ヨーロッパ最大)が広がり、その先の丘には石油タンクが沢山見える。エクソンのリファイナリー(フォス製油所)の一つがこの地方にあることは知っているが、それはさらに西の湿原地帯の中と聞いているから別の石油会社のものであろう。
道の両側はときどき石灰岩が露出しているやせた土地、オリーブなどの灌木や、ブドウ畑が続く。走る道は明るいがはるか先の北の空には黒雲が広がっている。出発20分くらいすると、運転手がワイパーを稼働させる。やがてシャワーが断続的に発したかと思うと土砂降りの雨になり、稲妻さえ光るような悪天候に急変した。バスは自動車道を降り、東に向かう一般道を進む。ブドウ畑、ラベンダー畑やさくらんぼう、桃などの果樹園が広がり、防風林のプラタナスの並木が延びる道は、明るい太陽が輝いていたらさぞ心和む景色を見せてくれただろう。
やがて道は上りになり、幅も狭くなってくる。とても大型バスがすれ違うことはできない。ところどころに待避所があり、時々車窓から見える山肌には随所に白い岩が露わになっている。添乗員(今日はガイドはいない)のOSNさんがバスの運転手に何か話すと、少し先の開けたところでバスを止めた。そこは展望台だが、大型車は止められないので、往来の少ないことを見越してしばし停車することにしてくれたのだ。見ると前方の雨に煙る山中に石造りの家が幾重にも重なり頂上に至る異様な光景が現れる。ゴルドの町だ。
慌ただしく写真撮影などして直ぐにバスに戻り、さらに山頂を目指して上っていくと町の広場に達する。到着時刻は⒑時。これから50分ほどここを見て廻るのだが、雨は依然かなり激しく降っており、皆とりあえずインフォメーションセンター(観光案内所)に駆け込んで、善後策を検討する。
ゴルドは一番高いところに小さな古城(16世紀)がある町で、いまではこの石積みで出来上がった景観がこの地方を代表する観光スポットとして人気を集めている。天気が良ければ石畳の道を巡り、小さな美術館やお土産物屋をひやかして50分くらいは直ぐ過ぎるだろうが、この天気ではそうもいかない。ツアー・メンバーは三々五々トイレと最小限の町巡りをして、早々にインフォメーションセンター引き揚げてきた。
次に向かったのは直下の谷にあるセナンク修道院、12世紀創建のものだ。周辺はラベンダー畑で、シーズン(7月上旬)には大変美しく、観光ポスターにもなっているが、すでにシーズン・オフ、外から写真を撮って次の訪問地、ゾルグへ向かった。
幸い雨は止み、青空が見えてきた。
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(次回;骨董の街、ゾルグ)

2013年11月20日水曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る--(14)


12.マルセイユのレストランとホテル
6時半だがまだ明るい。コの字型の旧港を囲む形で沢山のレストランやカフェが並び、この時間流行ってはいるが飲み物を摂っている人が多い。しかし日本人だからだろうか、ディナーの時間としておかしくはない。「今夜の夕食場所はこの近くです。予約は7時なのでチョッと市庁舎の辺りを散歩してそれからレストランにご案内します」 添乗員のOSNさんについてコの字の上を先(西)に向かって歩く。市庁舎は市役所とは異なり、ホールなどがある建物で、Hotelと書かれている。小規模な公会堂と言ったところ。近くには博物館などもあるが、格別の展示物があるわけではなさそうだ。要するにマルセイユという町はあまり文化を感じさせるところではなさそうである。フッと住んでいる横浜を思い浮かべた。文明開化以降の記念物はそれなりに在るものの、歴史が浅く、売りは専ら異国情緒。
7時少し前、コの字の角あたりまで戻り予約よりは早いがレストランに到着。外から見ると、テラス席・室内席(1階・2階)とかなり広いが、カフェは営んでおらず客はまだ全くいない。オーナーが出てきてOSNさんと話をして、我々をテーブルに案内してくれる。港に面したテラス席できわめてカジュアルな感じだ。
店の名は〝AU SANGLIER”(いのしし)、猪亭と言ったところか。メインは猪を食材としたジビエ料理でも楽しめるのかと思ったが、その家畜化した末裔の豚だと言う。肉料理だから赤が順当なところだが、自由行動で歩き廻ったこともあり、久しぶりにビールが飲みたくなった。生は無いというのでフランスの壜ビール、クローネンブルグを注文し2本でポーク料理を賞味した。料理の味は特に印象に残るほどではなかったが、我々が入ったあとは地元の人・観光客千客万来で店は大賑わい。日本人は皆無で、前日のニースとは大違い。街・人・料理が渾然一体となり旅の食事として理想的な雰囲気がなんとも嬉しい。
8時過ぎ夕食を終え、美しくライトアップされた市庁舎前からバスに乗る。市内のホテルはどこも満室、今夜の宿は約20㎞西にある、マルセイユ・プロヴァンス空港近くにある。夜の自動車専用道路は真っ暗、アルコールと疲れで寝入ってしまう。気が付くと暗闇の中で運転手と外にいる人が何やら話し合っている。どうやらホテルの敷地内らしいが、駐車している車で、大型のバスが玄関の車寄せに近づけないので騒いでいたようだ。
プルマン・マルセイユ・プロヴァンス・ホテルは空港ホテルと聞いていたが、飛行機の発着の音がしないばかりか、昼間のように滑走路や付帯設備を照らす明かりすら見えない。チェックイン時フロントが二人いるだけで、ロビーに客は誰もいない。静かで作りも新しく、内部はアメリカの高級モーテルのような感じのホテルであった。鍵をもらって部屋に入るとびっくりした!ツインではなくダブルの部屋だったのだ。早速フロントに出かけてその旨伝えると、手違いを詫びて直ぐ別の部屋を用意してくれた。部屋は清潔で広く、むろん床がベコベコしたりしない。風呂に入りこの夜も爆睡した。
翌朝朝食に降りるときエレヴェータで東アジア人の婦人と一緒になった。英語で「どちらから?」と聞いたら「台湾からです」との答え。彼らも少人数グループで、食堂でも静かに食事をしていた。
ニースと比べると、マルセイユはレストラン、ホテルともはるかに良かった。
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(次回;石造り重畳のゴルド)

2013年11月17日日曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(13)


11.マルセイユ観光-3
バスの帰着場所は旧港の少し裏手、3時少し前に到着。長時間停車できないような混雑した通りだ。降りて向かったのは1967年ショッピングセンター建設の際見つかった、ギリシャ・ローマ時代の遺構である。説明では紀元前6世紀頃からこの地の建設が始まったとのこと。発掘跡の一部はそのまま残され、観光客が立ち入れるようになっている。そこから5分も歩くとコの字型旧港の縦棒部分を占める広場に出る。ここでガイド付きツアーは終わる。
これから6時半の夕食までは自由行動。遺構に付属する歴史博物館訪問、ショッピングセンターや折から開かれている露店市での買い物、ブランド店が並ぶ一角の散歩、カフェでの休憩あるいは旧港ない巡回する水上バス利用など各グループ思い思いの時間を過ごし、620分広場の一角にあるキリン像の所に集まることで解散。
我々が最初に向かったのは広場から少し東に入った、市が開かれている通り。ここには屋台ばかりでなくプロヴァンス地方の名物を扱う土産物店もある。小さな店だが、ワイン、オリ-ブ油、石鹸からアクセサリー、郷土人形、絵葉書まで各種のお土産品が揃っている。どんなものがいくらくらいか調べるには適当な場所であった。店には悪いがそれを確かめてから露店を見て廻る。店は果物、飲み物やアイスクリームなど扱うところもあるが圧倒的に持ち帰れるものが多い。特に多いのが石鹸とタオルだ。昨日エズの帰りに寄った香水・石鹸・肌用オイルの工場で見たような商品が売られている。タオルは円形で、中心をフックに掛けるようにできた手洗い用のものが面白い。3枚、5枚と量が増えると値引き率も高くなっていく、観光客の購買意欲を誘う巧みな値付けになっている。値段の差は始めよくわからなかったが、どうもデザインと生地の厚みによるらしい。あまり嵩張らないことにも魅力がある。早速5枚セットを購入。
次に向かったのはフランスでプランタンと並んで有名なデパート、ギャラリー・ラファイエット。チョッと市の場所から離れているが、添乗員がフランス語で書かれた地図のコピーを配ってくれていたので、ウィンドウショッピングを楽しみながら出かけてみた。ここは、パリ(後で訪れることになる)や日本の大都会のデパートに比べると規模は小さく、観光客よりは地元の若者が多く、あまりローカル色のあるものは無かったので早々に引き上げる。
バスで観光に出かけるとき、旧港の広場で何か催し物が行われており、バンドが演奏していたのが気になっていた。行ってみると〝カタルーニャ何とか“でスペイン・カタルーニャ地方のお祭りをここで演じているらしい。肩を組んだ56人の大人の上に少年から小さな子供まで立って5段にもなって組み上げる人間ピラミッド、ロック演奏、仮装行列などしばし楽しんだ。このあと休憩しようとカフェに向かう途上、妙な大道芸に人が吸い寄せられている。友人のFBで見たものだ!二人の大人が座る姿勢で、それぞれ片手で支えた一本の棒で上下につながっているのだ!どうなっているのだろう?周辺などを廻って仕掛けを見つけようとするが、まるでわからない。観客に見習い私も1ユーロ・コインを空き缶に入れて写真を撮らせてもらった(後日仕掛けは分かった)。
まだ集合時間までには1時間もある。のども乾いたし、トイレ休憩もしたい。初めて二人だけでカフェに入った。一般に中と外、中でもテーブルかカウンターで、同じものでも値段が違うという(外が高く、カウンターが一番安い)。夕方で少し冷えてきていたので中のテーブル席を所望。幸い英語のメニューはあったが、ウェイター、ウェイトレスは英語がほとんどダメ。責任者らしいおばさんが来てやっとメニューの確認、注文ができた。しかし、値段の違いを確かめるところまではいけなかった。


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(次回;マルセイユのレストランとホテル)

2013年11月14日木曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡るー(12)


11.マルセイユ観光-2
マルセイユの人口は約80万人。パリ、リヨンに次いで3番目の大都会だ。しかし、前二者には歴史的なモニュメントも多々あるが、この町には何があるのだろう?4年前の渡仏計画でここを選ばなかったのはそれが見つけられなかったからだ。ツアーの説明資料にもブイヤベーズを食すること以外特別なことは記されていない。景観についても同じことで、絶景があるわけではない。どこへ連れて行ってくれるのだろう。
レストランから歩いて直ぐの観光バス溜まりで乗車すると。路面電車の通る道を抜けて、やがて港湾地帯に出る。マルセイユ港は地中海を代表する港町、最も賑やかで人々が集まる所がコの字型に開削された“旧港”と呼ばれる一帯だ(地図の中央。この地図は右が北)。市庁舎を含む大きな建物や商店・カフェ・レストランが埠頭を囲んでいる。名前から推察できるように、海外につながる新港はそこからかなり南西に離れた所にあり、ここからは窺がえない。嘗ては大型船が横付けになったと思われる旧港は今では小型船の係留施設や付近の島へのフェリー発着場になっている。バスはこの旧港に沿ってコの字の縦棒(南北に通る;上が北)から下の横棒(東西に通る;右が西)方向に走り、湾口部に至る。ここは繁華街より少し高くなっており、第一次世界大戦を記念するモニュメントのある小公園から旧港・新港全体が見渡せる。遥か先の新港には大型のクルーズ船が2隻入港しているのが遠望でき、海からの観光ではここが重要拠点であること分かる。振り返ると巨大な石灰岩の上に石積みの家が軒を連ねて海を見下ろしている。日本の家とは基礎の造りがまるで異なることがよく分かる(このような岩盤むき出し様式はコート・ダ・ジュール、内陸のプロヴァンスでもよく見かけた)。
バスはやがて港湾部を離れて南側の丘に上り、ノートルダム・ド・ラ・ガルド教会下の駐車場に停まる。尖塔の上にはキリストを抱いた金色のマリア像。ただこの教会の歴史的にそれほど古いものではなく(内部様式は19世紀のものとのこと)、船乗りの守り神としてマルセイユの人達に愛されてきた所ゆえ、景観と併せて名所になっているらしい。
聖堂を囲むテラスから四囲の展望が開け眺めは素晴らしい。ここから市街地を見ると高層建築がほとんど無く、町の広がりもそれほど広くないことが分かる。
実はこの建物を一巡している時、あちらこちらに銃弾の痕のようなものを見かけたので、件のガイドにそれを確かめてみた。何と第2次世界大戦末期(19448月)米軍機の機銃掃射で穿たれたものだと言う。ナチスに恭順していた仏ヴィシー政権も、連合軍のノルマンディ上陸以降瓦解し始め、ナチス・ドイツ軍が湾口を守るためここに立て篭もっていたことが米軍の攻撃を受けた理由である。
この教会からはもう一つ面白いものを見ることが出来た。アレクサンドル・デュマの小説「巌窟王」で主人公モンテクリスト伯が無実の罪(王政復古陰謀)で十数年閉じ込められることになったシャトー・デ・イフ(イフ島)である(写真中央の小島)。無論この話はフィクションであるが、政治犯やペスト患者がこの小さな岩島に閉じ込められたのは確かで。今は旧港から観光船が出ている。
バスで出かけた観光スポットはここだけ。旧港に戻ると自由行動になった。やはりたいした見所はないのだ。それでも町には面白いものが無いわけではなかった。

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(次回;マルセイユ観光;つづく)

2013年11月9日土曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡るー(11)


11.マルセイユ観光
マルセイユ観光の始めは先ず昼食から。場所は定かではないが、大きな交差点の近くでバスを降りて片道一車線程度の道に至るとそこにはカフェ、レストランや個人商店が軒を連ねている。案内されたレストランは日本の都会のように入口が小さなドアーで内部はあまり窺えないようなスタイルではなく、両開きのドアーをいっぱいに広げている。迎えてくれたおばさんも普段着。いかにも大衆食堂という作りだ。表に面した外壁には“Brasserie Les Allees Restaurant”とある。このあと随所でこの“Brasserie”を見かけることになるので意味を質してみると、比較的カジュアルなレストランのことらしい。しかし、それに近いものに“Bistro”もあるのでその違いは必ずしも明確ではなかった(帰国後調べると、Brasserieは“白い”メニューやナプキンがあることに語源があると書いてあった。Bistroにはそれが無いらしい)。Alleeは(これも後で知る)“遊歩道がある公園”の意、確かに前の道はプロムナード風であった。“レストラン庭園亭”である。
店には地元の人と思しき客も居て、観光客相手専用のレストランではないことが分かり、取りあえずホッとする。グループと言っても添乗員を入れて10人、6人と4人に分けてテーブルが用意されていた。しかし、奥にも部屋があり、大勢の場合はそこを使うらしい(あとで中国人の団体が案内されてきた)。
メインディッシュはブイヤベーズ。本場のそれに皆の期待が高まるのを見透かしたように、添乗員のOSNさんが「日本のブイヤベーズとは違いますから」と念を押す。皆「?」と言う表情。前菜はシュリンプカクテル、冷えた白ワインとパンとの組み合わせはなかなか良い。お昼時でもあり、店は直ぐに満席、断わられる客も出てくる。客の入りから見て、流行っているのだろう。昨日と違い日本人だけ隔離された感がないのも嬉しい。
10人分のブイヤベーズを用意するには些か時間もかかる。少し待たされてからいよいよそれが出てきた。「エッ こんなにいっぱい?!」一人ひとりに配られた大きなスープ皿に具がいっぱい。ムール貝・エビ・白身の魚が溢れるほど入っている。スープそのものはシンプルな薄塩仕立て。「ブイヤベーズはもともと漁師の食べていたもの。海から上がり獲ってきたものをあれこれ鍋にぶち込み浜でたべる。マルセイユのブイヤベーズは言わばそのオリジナルを今に伝えるものです」OSNさんの説明に一同「納得」であった。都会のレストランでは高級シーフード料理の一つも元はそんなものだったのだ。そう言えば日本の漁村でもそんな料理?を漁師が食べているのをTVで観たことがある。
食事がデザートに移った頃、金髪の中年女性がOSNさんに話しかけ、二人はしばし席を離れる。戻ってくるとOSNさんが、彼女が今日午後のガイドであると紹介してくれる。前回書いたように、この日はマルセイユで大掛かりな催し物があり、日本語を話せるガイドは全て通訳として動員され、払底しまったのだとのこと。この人はもともと英仏通訳。日本人観光客が多かった時代(1990年代)日本語学習を始めたが、その後急速に日本人ブームが去り、結局日本語をモノには出来なかったのだが、“日本語と関わったことのある人”として今回リリーフ役を観光社から依頼されたらしい。案内はOSNさんとは英語で行い、OSNさんが日本語で我々に説明する形になるとのこと。チョッと手抜きの感無きにしも非ずだが、そのときまでにこの地に強いOSNさんのベテラン添乗員振りを確り見てきたこともあり、不満を訴えるほどのことではなかった。
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(次回;マルセイユ観光;つづく)

2013年11月7日木曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡るー(10)


10.マルセイユへ
フランスの二日目、928日(土)の朝は薄曇りだった。今日の行程は、午前中はバスでマルセイユまでの移動。昼食を摂ったのち、夕食まではマルセイユ市内観光。ディナーを済ませあとは当初の予定とは異なり、市内には泊まらず、西に向かいマルセイユ・プロヴァンス空港の近くのホテルに泊まるとのこと。どうやら何か大きな催しがあり、ホテルどころか日本語を話すガイドも確保できなかったらしい。
4年前この地方の旅行を計画した時、マルセイユに立寄る考えは全く無かった。それほど観る所も無いし、治安も良くないと聞いていたからだ。漠然とした印象はジーン・ハックマン主演で数々のアカデミー賞に輝いた映画「フレンチ・コネクション」(NYの刑事が麻薬組織を追ってマルセイユで大活躍)に影響された“犯罪港湾都市”である。しかし、ツアーのパンフレットにそこへいくことが記されているのをみて、ふと過ぎったのは戦前(明治・大正)欧州(特にフランス)へ渡った日本人はここから上陸した人が多かったことである。無論往時とは街の佇まいは変わっているだろうが、それでも地形全体は昔のままの筈だし、港湾や歴史的な建造物も残っている。一世紀前の日本人に戻ってみようと、気持ちを切り替えてみた。
ニースからマルセイユまでは220km位あり、高速道路を使っても3時間はかかるとのこと。本当は海岸沿いの下の道(カンヌとサン・ラファエルを結ぶ、コルニッシュ・ド・レステル;レステル断崖道路など有名な観光道路がある)を走って欲しかったが、ニースの町を出るとバスはA8と呼ばれる山側の自動車専用道路(有料)に入った。片道3車線で土曜日の朝だが結構クルマは多い。添乗員の説明だと、フランス人はケチだからなかなか有料道路利用が進まなかったが、政府があれこれ利用促進策(若い美女を料金所に配置とか)を講じ、やっと現在のような状態になったのだそうだ。
周辺は背の低い潅木が生える丘陵地帯、適度にワインディングしているので走り易そうだ。制限速度も、乗用車は130km/h、バスは100km/h、米国、英国よりも速く走れる。欧州人のクルマ好きと関係しているのだろうか?自動車専用道路の感じはどこの国も大差はない。時々インターチェンジやジャンクションが現れ、サービス・エリア(SA)がある。SAの機能は日本と同じで、食事・土産・トイレ・情報サービスなどを提供するが、日本のSAに比べると規模はそれほど大きくない。スーパー・マーケットのような東名海老名のSAをフランス人が見たら何と思うだろう。行程中ほどのSAでトイレ休憩したあと景観が少し変わってきた。ブドウ畑が左右に広がってくる。この辺はもう収穫は終わっているようだ。
少し家や集落が現れるとバスはA8を離れ、A52に乗り換え方向を南に転じる。家々の屋根はオレンジ色の瓦、壁は白いテラコッタで統一された風景が美しい。沿線に旅行施設・観光スポットを示す看板は時折見るものの、商業宣伝のそれは全く見かけないのも良い。さすが世界一の観光国だ。
やがて道は市内へつながる片道2車線のA501に変わり、家も密集して都会に近づいたことが分かるが、何か規制でもあるのだろうか、高層建築は市の中心地に入るまで全く見かけなかった。ダウンタウンに入ると添乗員がしきりと、以前(陸路では10年近く前、クルーズの添乗では5年前が最新)彼女が見た荒れた姿が著しく改善されたことを説明してくれる。「この通りはほとんどシャッター通りで、明るい時でも普通の人は近寄らない所でした」と。今はそんな所に大勢人が出て、土曜日の昼時を楽しんでいた。バスから見下ろすと明らかにイスラムと分かる人達(特に女性は被り物で分かり易い)や肌の黒い人も多く、フランス窓を持つ古いビルなども現れ、ここが国際港湾都市であることを示している。
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(次回;マルセイユ観光)

2013年11月3日日曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡るー(9)


9.ニースのホテルとレストラン
ツアーの良さを体験したのは、成田で預けたスーツケースをニース空港のターンテーブルでチョッと指差しただけで、ホテルの自室で受け取るまで触らなくて済んだことである。しかしその直後ポーターが去ったあと「一体これはどうなっているんだ?!」と声を上げてしまった。木目調の床がベコベコなのだ。合板に木目を施し、それらしく見せるのは、いまや自宅を含めてどこでも目にするが、これほどの安普請はまずお目にかかれない。旅行パンフレットには「いずれのホテルもスーペリアクラス以上」とあったはずである。公的な言葉ではないようだが、今まであちこち旅をして、普通より上(5点評価では4点位)のイメージを持っていた。部屋へ入り床を歩くまではそれなりの雰囲気だった。
泊まったホテルは残念ながら海岸に面してはいなかったが、海岸から二筋くらい中に入り、正面には広場(公園?)が在り、周辺も整った建物ばかりで環境は申し分なかった。名前はNHホテル、あとで聞くとスペイン資本でヨーロッパを中心に展開しているチェーン店の一つとのこと。建物は近代建築(海岸通の伝統的な造りよりは軽い感じ)、フロントもロビーも清潔で広々していたので「ツアーならこの程度でマアマアかな」との第一印象。部屋も床を除けばマズマズだったのだが・・・。
5時半頃にホテルに着き、6時には夕食のためにロビー集合なので荷解きと洗面くらいの時間しかない。ロビーに降りると直ぐに添乗員に事情を話し、部屋を変えてくれるよう求めた。返事を聞いて驚いた。「そうですか。前回もそんなことがありました」と。彼女が直ぐにフロントに掛け合ってくれていると、グループで最高年齢、80歳のおじいさんとその奥さんが話を耳にしたようで、「私達の部屋も同じでしたよ」とのこと。そこへ戻ってきた添乗員が「申し訳ありませんでした。お部屋はダブルならご用意できるそうですが、ツインは空きが無いそうです」とのこと。そして「あちこちの部屋でその問題が出ており、今年の冬全館改装にかかるそうです」と言う。別の部屋に変わっても程度が違うくらいだろう。部屋は変更しないことにした。旅の最後にホテルやレストランのランク付けがあったので、このホテルを“最悪”の評価にした。
ディナーを摂るレストランは徒歩で行ける所にあった。チョッと路地を入る感じが好奇心と期待感を掻き立てる。店の名は「La Mets Provence」(意味は“プロヴァンス料理”らしい)。店に入ると直ぐに「オヤッ?」と思った。一階の席には全く客が居ない(これは良くないサインだ)。「時間が早いせいだろうか?」 案内されたのは2階、何と4,5個の丸テーブル(8,9人座れる)が埋まり、全て日本人である!既に食事中の彼らが「また日本人か!」と言う目でこちらを見つめている。
家族・個人旅行でも現地ツアー・プログラムに組み込まれ、何度か他の日本人グループと一緒にされたことがある。少人数でも団体である以上、店の方も一般の客と一緒は困るのだろうが、これほど日本人ばかり集まっては海外旅行の楽しみが半減してしまう。
メインは子牛肉の料理だったが、旅行パンフレットの“ニース風サラダをお楽しみください”はレタスやトマトの上に缶詰のツナをのせたもの。ほとんど皆が「エッ!」と言う表情。「うちで食べてるのと同じ」と言った人もいた。肉料理と赤ワインはともかく、フランス第一夜のディナーは見事に期待を裏切ってくれた。個人旅行をしていて適当なレストランを探すのも大変だし、当たり外れもあるが、その方が“旅らしさ”を味わえる点でましである。
昨日成田を経ってから機内で5時間くらい寝ただけの長い一日でヘトヘト。9時前に部屋に戻り、明日の早い出発に備え荷物の整理をし、風呂を出るとベッドに直行、幸い床のベコベコなど全く気にならず爆睡した。
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(次回;マルセイユへ)