2014年1月31日金曜日

今月の本棚-65(2014年1月分)



<今月読んだ本>
1)ありえない決断(フォーチュン誌編);阪急コミュニケーションズ
2)世界を変えた17の方程式(イアン・スチュアート);ソフトバンク・クリエイティブ
3)蠅の帝国(帚木蓬生);新潮社(文庫)
4)連合国戦勝史観の虚妄(ヘンリー・S・ストークス);祥伝社(新書)
5)太平洋の試練(上・下)(イアン・トール); 文芸春秋社

<愚評昧説>
1)ありえない決断
1985年東燃の子会社システムプラザ(SPIN)が創設され1988年役員になった。この時点で東燃を退職、2003年社長を退くまで会社経営に15年間当たった。親会社が100%株式を保有する完全子会社(1998年まで東燃、その後は横河電機に譲渡)だったが、経営の自由度は高く、株式公開を目指して、プロパー社員を雇い、親会社依存も年々減少させていった(退任まで売上は右肩上がり、利益は変動したものの、一度も赤字にはならなかった)。この間経営理念を定め、経営計画やそれを実現するための戦略・戦術策定に携わったが、率直に言うと計画や戦略は従業員や株主向けの願望・指標で、常時考えていたことは“如何に生き残るか”の戦術・戦闘レベルに尽きた。この生き残りのために数々の決断をしてきたが、会社をドラスチックに変身させるものは何も無かった。環境変化が早く、大化けの可能性もあった情報サービス産業において経営者として飛躍のチャンスを作り出せなかったことに忸怩たる思いが残る。
この本に取り上げられるのはSPINと違い、大部分世界的に名を知られた大企業であり、それらの経営上の転換点がどのようにもたらされたかを経済誌フォーチュンの記者・編集者が18の事例で紹介したものである。意外なことはそれら変革の決断が周到に検討された結果ではなく、“成り行き上仕方なくそうなった” (ありえない決断)ことである。何のことはない、これではSPINの経営とあまり変わらない。これが読後感である。
一時日本で話題になるビジネス書はMBAコースで教えられる経営戦略論や米系経営コンサルタントが書く華々しい成功事例だった(今でもその傾向はあるが、かなり薄まってきているように感じる)。その一つに1980年代ベストセラーとなったトム・ピーターの“エクセレント・カンパニー”がある。IBMHP3Mなどを取り上げエクセレント・カンパニーであることの共通条件などを抽出して「なるほど」と思わせる内容であった。本書“ありえない決断”を読んでいてフッと頭を過ったのがこの“エクセレント・カンパニー”である。前者はエクセレント・カンパニーに共通要件があることを強調し、後者はエクセレント・カンパニーになったのはたまたまそうなっただけであることを具体的に述べていく。一体どっちが正しいのだろう?結果は出ている。著書“エクセレント・カンパニー”の場合、のちにこの中に記載された何社かが倒産し、トム・ピーターが「あれはでっち上げだった」と白状することになる。
取り上げられるのは18社、米企業15社(ボーイング、フォード、ウォールマートなど)とアジアの3社(トヨタ、サムソン・グループ、タタ製鉄)。転換点は製品、人(経営者)、サービス、マーケティング、教育・従業員管理・処遇・リストラなど多種多様。
面白い例を一つ;ノードストローム(百貨店;私もヴァージニア・フェアファックスの店で買い物をしたことがある);「返品はいつでも(使用後でも)、領収書などなしでも可」これが転換点である;シアトルの靴屋から発したが「返品でもめるのが面倒だったから(返品がそうしばしばあるわけではないとの認識から)」と言う理由でこの返品制度を始め(1930年代)、売り上げを伸ばす。行動経済学の視点では返品を認めないことより認める方がその店で購入する意欲が向上する(現中国は通常返品を認めない。これが消費者の購買意欲を減退させていることをこの中で紹介)。
どうも経営の転換点は、良い状況下よりは困難に直面し止むに止まれず選んだ選択肢から生まれるらしい(当然ある種の熟慮は必要だが)。つまり弱者の生き残り策こそ現実に効力を発すると言うのが共通点と言える。SPINの経営は当にこの弱者生き残り施策であった。
基本的には経営書だが、読み物としてもなかなか面白い(例えばタタ経営とゾロアスター教の関係;タタ家はゾロアスター教徒)。

2)世界を変えた17の方程式
数学史に関する本は何冊か読んでいるがベストは1937年初版のET・ベル(スコットランドから移住した米国人;米国数学者協会会長)の著した「数学をつくった人々」(最新邦訳;2003年刊早川文庫3分冊)につきる。タイトルにあるように、この本は人を中心に書かれているが、有史以来の通史としてはこれに代わるものは今後も出ないだろう。ただ初出の年を見て分かるように、取り上げられる時代が19世紀末期までなのでその後の現代数学が欠落している。
航空機の出現、核物理学・量子力学の進歩、ロケット・衛星による宇宙探査・研究の広がり、電子・情報・通信世界の大変容、医学・生理学における数理の深まり、数値解析の塊ともいえる資源開発、経済活動における金融工学の誕生など20世紀に花開いた身近にある科学技術とその応用を見るとき、そこにおける数学の役割と発展の過程を理解しておくことは現代人必須教養と言えるのではなかろうか(教育審議会委員の某女性作家のように「数学など私の人生には何も役に立たなかった!」と言い放つ人も居るが…)。本書はこの“(世界を変えた)役に立つ”視点でまとめられた一つの数学史である。
取り上げられた方程式は以下の17;( )内は利用例などに関する私の補足
1.ピタゴラスの定理(測量、航海術)、2.対数(計算スピード、精神物理学;ヒトの知覚)、3.微積分(面積・体積、数理物理学)、4.ニュートンの重力法則(宇宙物理学、衛星利用技術;通信・放送・GPS)、5.虚数・複素数(波・熱・電気・磁気の理解)、6.オイラーの多面体公式(位相幾何学、DNA鎖の解析)、7.正規分布(統計データの利用法)、8.波動方程式(波の理解;水・音・光・機械振動・地震、通信技術、音楽理論;和音)、9.フーリエ変換(振動解析、画像処理)、10.ナヴィエ=ストークス方程式(流体力学;航空から血流まで)、11.マクスウェル方程式(電磁力学;ラジオ・TV・コンピュータ・ワイヤレス技術)、12.熱力学第2法則(熱機関、再生エネルギー利用)、13.相対論(核利用、宇宙解析、GPSの精度向上;ニュートン力学では限界)、14.シュレーディンガー方程式(量子力学;ミクロ世界の物理学を大変革;IC素子開発に不可欠)、15.シャノンの情報理論(コンピュータ・通信利用、暗号、DNA研究)16.カオス理論(一見出鱈目に見える現象にも数学的な秩序があると言う理論;気象予報、地震モデル、生態系解析、宇宙探査機の効率的軌道)、17.ブラック・ショールズ方程式(金融工学)
“方程式”を解説する内容なのでどうしても数式が主役になる。この点で数理系に馴染みのない人には一寸取っ付き難い面があることは否めない。出来れば高校の数学程度の予備知識を持っていることが望ましいが、大雑把な意味をつかめれば(著者はそのための努力をしている)数式をきちんと追えずとも、何故こんな世界に数学者が関わるようになり、結論までたどり着いたかを理解できるし、遥か後年数学者自身が予想もしなかった利用分野が展開していくことにその特異な好奇心と世界観の大きさに畏敬の念を感ずるに違いない。
著者は英国学士院(王立協会)会員の数学者、ポピュラーサイエンス書の著者として世界的にも有名な人。専門外の読者の集中力が途切れぬよう意を用いた書き方をしている(数学者の私生活や先陣争いなどを挿入)。翻訳者も理学部出身者だが、文章が良くこなれており“翻訳調”でないので読み易い。一寸歯ごたえはあったが、新年早々良書を読んだ、との読後感である。

3)蠅の帝国
この作家(帚木(ははきぎ)蓬生;このペンネームは姓・名とも源氏物語からきている)のデビュー作ともいえる“ヒットラーの防具”は十数年前に文庫本で読んでいる。それがなかなか面白かったので引き続き“逃亡”も読んだ。中国で残虐行為に関わった憲兵の逃避行を扱ったもので柴田錬三郎賞を受賞している。いずれも私の好きな軍事サスペンス、佐々木譲(ベルリン飛行指令、エトロフ発緊急電、ストックフォルムの密使、ワシントン封印工作)と並んでこの分野では大いに期待した作家たちだったが、帚木は医療分野へ佐々木は警察物に舵を切り替えてしまい、その後は手に取る機会がなかった。そんな著者が久しぶりに軍事物(副題;軍医たちの黙示録)に戻ってきた。それが読んだ動機である。
しかし、中身は前2作とは大違い、ほとんどノンフィクションと言っていいものであった。15人の軍医が関わったその世界の短編を集めた構成になっており、巻末に挙げられた参考資料を見ると医療関係週刊誌“日本医事新報”と“学士鍋”と名付けられた九州大学医学部同窓会誌の掲載記事と思われるものが多数列挙されている。つまり素材は別人(軍医経験者)が書き、それに著者が手を加えてまとめたものと推察される。このような場合、普通は帚木蓬生“編”とすべきものではなかろうか?当然著作権問題など解決済みなのであろうがチョッと違和感をおぼえる。因みに著者は九大医学部出身(それ以前東大文学部を卒業TBSに短期間就職した後医学に転ずる)の精神科医である。
期待した小説としての面白味はなかったものの、ノンフィクションとして“知られざる世界”を知るという点において、一人の軍医が書いた回顧録とは違った“数のエネルギー”で過酷な現場を、臨場感を持って伝える。
登場するのはほとんどが医学校(専門学校、大学)を卒業(繰り上げ卒業が多い)したばかりの若者、手術など見学だけしかしていないのに第一線(必ずしも戦場ばかりではない;軍病院や被災地)に送り出され、医療器具や医薬品に事欠く中でその任に当たり悪戦苦闘する。あるいは戦闘の指揮(これは本来兵科士官・下士官の専権)など許されていないのにそうせざるを得ない環境に置かれる。死体確認は軍医の仕事、これがはっきりしないと戦死としての扱いが出来ない。バラバラになったり、黒焦げになった死体、腐敗で蠅と蛆に覆われた死体を検める。場所も、日本軍占領下の中国・東南アジア、B-29の猛爆にさらされる東京、原爆投下直後の広島、ソ連軍が突如侵攻してきた満州。とても平時の軍医活動から推し量られるような“医師・医療”の世界ではない。
特殊な専門職ゆえ戦後も他国の軍隊に拘束されたり、軍事裁判に被告や証人として駆り出される者も出てくる。栄養失調で弱ったり死んだ捕虜の扱いの責任を問われたりするのだ。
完全な小説(作り話)仕立てでなかっただけに、15人それぞれの主人公の心情がそのまま読者に伝わるところが本書の持ち味であろう。これだけの異常体験をし、生き延びた医師たちのその後を知りたいものである。

追記;帯の裏に著者の自筆で「擱筆まで死ねない!急性白血病と戦いながらの執筆でした」とある。そう言う本だったのだ。

4)連合国戦勝史観の虚妄
書店で平積みになった本書の表題を見たとき「またホットな時事問題に便乗して・・・」との感を先ず持った。しかし著者名がカタカナで記されているので「?」 早速手に取り著者紹介を探し、それを読んで驚いた。オックスフォード大卒後ファイナンシャルタイムズに入社しその初代東京支局長、その後ザ・タイムズ東京支局長、ニューヨーク・タイムズ東京支局長を歴任、三島由紀夫とも交流があった赫赫たる経歴の英国人ジャーナリストである。
尖閣・竹島、従軍慰安婦、靖国神社参拝などで中国・韓国に“歴史認識”を問われている昨今、彼らの(政権維持用対日)歴史認識に真っ向から対峙するようなこのタイトルは何とも刺激的である。
中韓がこれを声高に主張する背景は、経済力が高まりその力が日本と至るところで拮抗・凌駕し始めたことと深く関係するが、もっと根源的なことは、両国が真に戦勝者と思えないような戦争終結であったこと(中国戦線は膠着状態;引き分け;連合国の一つであったことで勝者になれた、韓国はサンフランシスコ講和条約調印の場への参加も認められていない)と無縁ではないだろう。一方で日本人もあの戦争は米英(特に米国)と真正面で戦い、それに負けたとの認識が強い(敗戦間際ソ連の火事場泥棒的な侵攻にも圧倒されたが)。この勝者・敗者認識ギャップを何とか正したい思いが沸々と社会の根底にあり、加えて序列を重んじる中華思想(序列付け文化を東アジア不安定要因と考える欧米の国際関係学者がいる)がそれに重なって、歴史認識問題を複雑にしている。これは本書の内容ではなく、私の見解である。
本書では無論これらの問題(尖閣・竹島を除く)にもメスを入れ、従軍慰安婦問題など有史以来どこにでもあったこと、今次大戦で朝鮮人慰安婦だけが特別ひどい扱いを受けたのではないことを終戦直後の米軍調査報告などを援用しながら述べている。また南京大量虐殺事件が当時の国民政府のプロパガンダ施策に米人記者がうまく利用され、彼が米国で出版した書物の内容が今に至るもその出所となっていることなどを明らかにしている。
しかし彼がこの本で述べたいことの核心は、そのような直近の中韓が声高に非難を繰り返す個別問題ではなく、あの戦争(米英蘭との戦い;著者は敢えて“大東亜戦争”を使っている)の動機と戦後の日米関係である。動機について言えばあの戦争の大義名分“植民地解放戦争”はまさにその通りで、事実米国(フィリピン)、英国(インド、マレーシア、ビルマ)、フランス(日本と交戦していないが;インドシナ半島)、オランダ(インドネシア)の植民地が結果として(早く)解放されたことを高く評価している(英国では当然不評だが・・・)。極東裁判ではこれらの地域で収奪や残虐行為が行われたと断罪されているが、それまで何世紀にもわったてに宗主国が行ってきたことに比べれば、比較にならぬくらい穏やかなものだったとしている。
次いで問題にするのが現今の我が国の対米依存・追従姿勢である。護憲運動も含め、これでは保護国・植民地同然とバッサリ断じ、懇意だった三島由紀夫が決起した時の動機を詳細に掘り下げながら、あの時の三島の予言が当に今日の日本であることを憂い、「しっかりしろ!日本」と警告する。
そして、これら問題の背景にある我が国ジャーナリズムの偏向と政治家の言動に言及する。連合国戦勝史観を自虐史観に変じた朝日新聞をはじめとするマスメディアの罪(例えば従軍慰安婦;英語では普通Comfort Womanだが一部の日本の新聞が“性奴隷”と言う表現を使ったことで“Sex Slave”と訳されるようになり、印象が著しく悪くなった)、記者クラブ・番記者に慣れた(馴れ合い)政治家の脇の甘さを厳しく指摘。特に外人記者クラブでの対応には万全の準備で臨むべきで、それが出来なければ欠席する方がましと忠告する(例えば直近では橋下知事の慰安婦発言。古くは鳩山一郎、田中角栄などの失言)。とにかくもっと“英語で”であの戦争に関する歴史認識の歪みを正していけ!
率直に言って、著者のすべての主張に賛同(メディア批判は100%賛成)できるわけではないが、日本人が言ったり書いたりすると妙に観念的な論調になりがちなテーマを消化し易く書いており、歴史認識の再確認のための教材として多くの人に一読を奨めたい。
なお、この本は英語で書かれたものを翻訳したものであるが、日本語版しか出版されていない。英語版の出版が望まれる。

追記;あまりにもユニークな外国人による日本論なので、少し著者周辺に関わることを調べてみた。生まれは1938年(私より1年年上)、古い王家(現在の英国王室ではない)につながる家系。1962年に来日、爾来50年余在住。夫人は日本人。息子が一人いて英国の大学を出ており、日・英・中のトリリンガル。この三カ国で仕事をしているようだが、拠点は日本に在りFM放送のコメンテータなどしている。三島由紀夫と最も親しかった外国人記者と言われ、外交評論家の加瀬英明氏との共著もある。こう見てみるとかなり日本人に近い英国人像が浮かんでくる。

5)太平洋の試練
アルフレッド・マハン(18401914)と言う米海軍大佐が著わした古典的な海軍戦略論「海上権力史論;The Influence of Sea Power upon History 1660~1783」(1890年刊)と言う名著がある。それはフランス語、ドイツ語、スペイン語、ロシア語そして日本語にも訳され、彼は“かつて筆を執った中でもっとも影響力を持つシーパワーの学者”と称賛された。日本海海戦の立役者の一人秋山真之も米国留学前にこの書物に触れており、留学すると(1896年)直ぐに表敬訪問しその謦咳に触れている(2回)。その戦略の骨子は主力艦“戦艦”の“統合”運用と“攻勢”である。日本海海戦はその戦略論の模範的な適用例と言える。マハンはこの結果を「世界を大いに仰天させた事件」と書き残している。
このマハンの考え方は長く信奉され、第一次世界大戦終結後も変わらず、米国も含めどこの国も主力艦が“空母”に変わりつつあることに気が付く者は限られていた。そして1941127日(日本時間8日)米太平洋艦隊に属する8隻から成る戦艦艦隊は壊滅し、日本の戦艦は戦闘にも加わらず温存されている。マハンの教義からすればこれで勝負の決着はついたことになる。しかし、無傷で残ったものに3隻の米空母(サラトガ、レキシントン、エンタープライズ)もあった(のちにヨークタウン、ホーネット、ワスプが加わる)。次代の海戦の主役、空母は双方に残り、やがて珊瑚海(世界初の空母対空母の戦い)次いでミッドウェイで激突する。
本書は題目の“試練”が示すように、ウォールストリート・ジャーナル書評見出し言うところの「我々が負け犬だった時」の日米海軍、特に機動部隊の揺籃期、真珠湾奇襲の成功、米国空母による反撃作戦(ドゥリットルによる日本爆撃など)、ミッドウェイでそれが逆転するまでの動きを追った海戦史である。太平洋の海戦についてはモリソンを始め多くの戦史家、作家、ジャーナリスト、軍人によって書き尽くされた感があるが、執筆時期や視点を変えて分析するとまだまだ新鮮な見方が出来る好例と言える内容であった。
一つは海軍組織文化といえる面である。両軍ともマハンの伝統を受け継いだ“大艦巨砲主義”が主流であったにもかかわらず、日本は6隻の正式空母からなる機動部隊で奇襲に成功する。しかし、これで“戦艦主力”の考え方が変わったわけではないし、航空兵科出身者が枢要な地位を占めたわけでもない。一方、米国側はこの攻撃から多くを学び、規定の年齢を超えてから操縦士資格を取り空母の艦長も務めた経験を持つキング合衆国艦隊司令長官兼作戦部長が率先して艦隊を母艦兵力中心へと一気に傾斜させる。この辺りの組織の持つ柔軟性の違いを、国内政治、上位指揮官の個性や経歴まで踏み込んで明らかにしていく(日本人では山本五十六に関してかなり詳しく調べている)。
もう一つは正面戦闘力の不備を補う情報戦に関する視点である。これは日本海軍の暗号“パープル”解読の話ではなく、傍受した雑多な通信から大変な努力を重ねて作戦計画を類推していく物語。今話題の“ビッグデータ”活用にも匹敵する作業をIBMパンチカード・システム程度の機械で行い、ミッドウェイ攻撃日を64日とピタリと当てる。著者は“情報戦”を勝敗決定因子の一つと見ており、この部分はかなり紙数を使って詳細に当時を再現、今までのミッドウェイ物に見かけなかった話題に満ちており、大いに興味を惹かれた。
いささか不満なのは日本に関する情報は英訳されたものに限られるのであろう、南京事件やドゥーリットル爆撃後中国に不時着した搭乗員捜索における中国民間人虐殺など、事実確認に疑義に残る情報をそのまま援用したと思われるものが散見されることである。歴史認識を糺す英語による発信が重要であることをここでも(“連合国戦勝史観の虚妄”同様)痛感させられた。
上・下巻合わせて700頁を超す大冊、価格も2冊で3200円。参考文献情報が充実しており(引用発言まで丁寧にリストアップ)、個人的には資料的価値を高く評価するが、戦史に特別関心を持つ読者以外は図書館で借りる方がいいだろう。
著者は1989大学を卒業(歴史学)したのちハーバード大学ケネディ行政大学院で修士号を得た海軍史家、処女作の「6隻のフリゲート艦」(米海軍誕生)で数々の賞(モリソン賞を含む)を獲得している。本書は2作目で、太平洋戦争について、マリアナ海戦までの作品、終戦までの最終編と続くようである。
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2014年1月29日水曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(28)


20.パリ-4
102日(水)薄曇り。ツアーの現地プログラムは本日の朝食で終わり、夕方まで自由行動で7時過ぎホテルから準備された専用バスで空港に向かう。我々はさらに2泊するので、朝食の場で見かけたメンバーや添乗員のOSNさんにお別れの挨拶をする。こちらはこれからがパリ観光本番である。今日は午前中のヴェルサイユ宮殿訪問と夜のキャバレー“ムーランルージュ”でのショー見物。その間午後はエッフェル塔にも上る予定にしている。
ヴェルサイユ行はマイバスのオフィスを8時半に出発となっているので、早目に朝食をとる必要がある。レストランでツアー・メンバーであることを告げたが、受け付けは怪訝な顔をして「あなたの部屋番号は登録されていない。有料になるがいいか?」言う。「(延泊がらみの行き違いと思い)OK」と答えて食事をしていると、後から来たメンバーも何やらトラブッている。「取り敢えず有料でOKと言えば食べられますよ」と助言。案の定帰り際に「サインは必要か?」と問うと「フロントの手違いでした」の返事で1件落着。
早朝のサン・ラザール地下鉄駅は通勤客が激しく動き回っている。東京と変わらぬ光景だ。車内の状況も同じで、スリに気を遣う。オペラからマイバスへの道もサラリーマン・OLが足早に歩いている。朝から遊びの身分が申し訳ない。
マイバス・オフィス前からは市内半日ツアーや遠いモン・サン・ミッシェル(砂嘴の先の古城)行など沢山のツアー・バスが出発するので行先別にまとめられる。ヴェルサイユ宮殿観光に向かう客は30人弱おり二人のガイドが付くことになっている。二人(男女)とも日本人である。
オフィスを出ると(実際の出発は9時少し前)、ヴェルサイユ宮殿はパリ西方15㎞位の所に在るので、バスはシャンゼリゼ大通りを北西方向に進む。凱旋門広場の大ロータリーは朝のラッシュで大渋滞、通り抜けるまでの運転ぶりは一興であった。しばらくそのまま西に進み環状道路に入り反時計回りに走る。右側には鬱蒼としたブローニューの森が広がるのだが、ここも大混雑だ。少し流れが良くなるのは環状線を出てA13と言う西へ向かう自動車専用道に出てからだ。セーヌの右岸に沿う道からの地形は河から南斜面になっており、高級住宅地として人気のあるところらしい。やがてバスはA13を降り南へ向かう一般道に入るともうそこは宮殿に近い市街地になり、少し進むとバスの降車場になる。ここから直接宮殿は見えないので、あの広大な宮殿が間近にあるとはとても思えない。しかし、通りを抜けて宮殿広場に達すると、黄金に輝く門扉や屋根が目の前に現れ、その大きさと煌びやかさに圧倒される。聞けばこの宮殿は2007年まで大がかりな修復工事が行われており、金ピか塗装はその一端なのだそうだ。
43年前のパリ観光ではとてもここまで出かけてくる時間はなかった。今回のパリの目玉の第一がここを訪れることであった。何を観たいのか?無論ルイ14世が50年かけて作り上げた世界最大の宮殿そのものに惹かれたことも大きいが、現代史のターニングポイントとなった第一次世界大戦終結の条約調印(この条約の不備が第二次世界大戦を惹起したと言える)が行われた“鏡の間”で往時を偲んでみたかったのである。
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(次回;パリ;ヴェルサイユ;つづく)

2014年1月25日土曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(27)


20.パリ-3
シャンゼリゼ大通りのカフェテラスでサンドウィッチとコーヒーで遅い昼食を摂りながら、目は自然と通りを走るクルマにいく。これはどこに居ても同じだ。そして「オッ!」と思わず発する。なんとプリウスのタクシーが走ってきたのだ!花のパリでトヨタのハイブリッドにお目にかかるとは思ってもいなかった。
フランスへ来てどこを走っていても、どこに居ても日本車が気になっていた。ルノーとの関係か日産車が比較的多いが、トヨタ、ホンダを合わせてもルノーやプジョー、それにドイツ車に比べるとその数は少なく、むしろ韓国車の現代や起亜の方が目立つくらいだった。無論今までプリウスは一度も見ていない。しかし、通りを眺めているとその数に驚かされる。“フランス人は合理的”とはよく言われていることだが、確かに渋滞の多いここパリの中心地では燃費の良さが商売に影響するのだろう。自分で日本式HV車(電気自動車)を持つ気はないが、ちょっとうれしい気分になる。
やっと腹を落ち着けると、再び大通りを南へ進む。ブランドショップや43年前訪れたキャバレー“リド”などを眺めながらコンコルド(和合)広場に出る。ここのランドマークはナポレオンがエジプトから持ち帰った(奪った)オベリスク、それを背景に記念撮影する種々の人種の観光客でにぎわっている。元々は18世紀にルイ15世広場として造れたがフランス革命後革命広場となり断頭台が設置され、さらにのち現在の名前になった。遥か先にはもうルーヴルの一角も見えている。凱旋門からここまで地下鉄の駅は4つある。途中で食事休憩したとはいえ一寸くたびれたので近くの公園のベンチで一休み。
コンコルドも地下鉄が3本交差する大きな駅だ。今度は8号線に乗って二駅目のオペラに向かう(本当はピラミッド駅が一番近いが、乗り換える必要がある)。マイバス社(JTB系)の営業所はピラミッド通りに在るので、駅で降りると目の前のオペラ座とは反対側にオペラ大通りを歩く。カフェ、ブティック、土産物屋、携帯電話店、パン屋・菓子屋、銀行などのオフィス、この通りはシャンゼリゼほど広くはないが、それでも賑やかさはそれに劣らない。
パリの町は凱旋門の大ロータリーを中心に放射状に道が出来ている。各道路にはまた少し小規模はロータリーが在って、そこからさらに放射状の道が分かれるので、格子状の感覚で歩いているととんでもない所に行ってしまい、自分の現在地さえ分からなくなる。それでも何とか無事マイバス営業所にたどり着けた。日本人観光客が集まるのでレストランなどは日本語の看板を掲げているところもある。
これから何度か利用する現地ツアーの集合場所を確認して、あとはオペラ座を経由して徒歩でホテルまで帰った。だいぶオペラ座とホテルを中心に土地勘が出来上がってきた(と思った)。今夜のディナーはオペラ座に近い日本語メニューもあるというカフェレストランにしよう。さすがに歩き疲れ、ホテルの自室でしばし休憩。
夕食に出たのは7時半過ぎ、オペラ座までは迷うはずはなかった。しかし、ショートカットと思った道は例の放射状道路、一旦暗い通りに入り込むと、あとはどこにいるのか分からない。焦って近くの明るい通りに出るとさらに分からなくなる。やむを得ずカフェレストランで英語の分かるギャルソンの居る所で何とか生ビールと夕食にありついた。帰りはサン・ラザール駅を目指して何度か通行人やカフェでその駅名を連呼しながら10時過ぎ帰り着いた。緊張のパリ第一夜はこうして終わった。
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(次回;パリ;つづく)

2014年1月19日日曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(26)


20.パリ-2
コンコルド・オペラ・パリ、これがホテルの名前である。“コンコルド”ホテル・チェーンの一つであること、オペラ座が近いことを表わしている。しかし、43年前にはこんな名称ではなかった。OSNさんに尋ねると「何度か名前は変わっていますからね」の返事でオリジナルに行き着くことはできなかった。
前回は深夜にチェックインし、翌朝9時過ぎには列車に乗るため早々に出立したので周辺の情景は全く記憶にないが、ロビーに入ると直ぐにあの時の印象が蘇った。何と言っても吹き抜けの広々とした空間と古典的なインテリアが素晴らしい。いかにもヨーロッパの雰囲気にツアーの仲間も感激している。実は予約段階で延泊交渉をしているとき、サン・ラザール駅前のホテルと聞かされ「もしや?」と思いつつも“駅前ホテル”であることから今一つ落ち着かない環境を懸念する気持ちがどこかにあった。チェックインした時、夜⒑時を過ぎているのにやたらロビーに人が集まり大型のカラーTVを観ながら時々歓声を上げている。「うるさいなー。いったい何なんだ?」これが当時の第一印象である(あとで分かることだが1970年のサッカー・ワールドカップであった;日本人にもアメリカ人にもサッカーなど一部の人の興味しか惹かない時代である)。今回はあの時の喧騒な“駅前ホテル”感はどこにもなく、好印象の第一歩である。
ツアーのプログラムはここに一泊し翌日の深夜便で帰国するので、正味1日半程度の観光しかできない。しかも、明日のチェックアウト時間までスケジュールは各自フリーだから何をするか、どこへ行くかも自分で決めなければならない。TGVの車中からOSNさんはその相談で大忙しだった。嘗て2泊した経験からもこれではパリ名所のほんの一部しか訪れることはできない(郊外に在るヴェルサイユ宮殿は無論、ルーヴルさえ入場時間終了で入れず)。それもあって我々は2泊延泊にして、ここに3泊するスケジュールを組んだ。
特定のツアーはJTBの子会社、マイバス社が欧州いたる所で提供しているので、ヴェルサイユ、ルーヴルそれにムーラン・ルージュはそれを利用することとし予約を入れてある。あとは地下鉄と自分の足で廻るよう計画しておいた。
この日の午後の予定は、凱旋門(エトワール広場)、シャンゼリゼ大通り、コンコルド広場、オペラ座界隈(マイバス社確認など)なので、チェックインを済ますと直ちに地下鉄駅に向かい有人窓口(インフォメーションを兼ねる)で「アン・カルネ」と言って10枚一組の回数券を購入する。13.3ユーロなので一枚1.7ユーロの切符に比べると2割安い上、今回の見どころ(4日間、ツアーは除く)は総て“ゾーン1”内に在るので、地下鉄14路線、バス・トラム(近郊電車)を使ってこの回数券1枚でどこへでも行ける。
サン・ラザールの地下鉄駅は3121314号線が交差する複雑な駅だが、目指す路線を見つけるのは至極簡単(地下鉄利用については別途報告する)。今回は3号線で二駅目のヴェリエ(Vellers)に出てそこで6号線に乗り換え、4つ目がシャルル・ドゴール・エトワール、つまり凱旋門広場である。“Champs Eiysees”の案内に従って地上に出るとそこは巨大な凱旋門を見上げる、シャンゼリゼ大通りの一角だった。遅れに遅れた昼食はファーストフードのサンドウィッチ屋に入り、表のテラス席で行き交う人々とクルマを眺めながら腹に収めた。これが典型的な世界のお上りさんスタイルなのだ。43年前は(少数で、田舎者のようで)気恥ずかしい気分だったが、今や人種・言語・身なりは種々雑多、パリはお上りさんに占領されていると言ってもいい。気楽に行けそうだ。
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(次回;パリ;つづく)

2014年1月14日火曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(25)



20.パリ
最初のパリは19706月、初めての海外出張の折、ニュージャージーのExxonエンジンニアリングに1週間滞在した後フランスExxonのポート・ジェロームにある石油化学工場を訪ねる旅だった。NYケネディ空港のパンナム専用ターミナルからB-707に乗りオルリー空港に深夜到着した(当時まだド・ゴール空港は開港していなかった)。市内のエアー・ターミナルまでは空港バスだったが、暗く人気の少ない場所に在る、柱と屋根だけの殺風景な建物の前で降ろされた。バスの同乗者は三々五々家族の車やタクシーで去っていき、同行の米国人が何とか残り一台になったタクシーにホテル行を交渉するのだが、全く英語が通じない。その時の心細い思いは今に残る。行先は、サン・ラザール駅前のホテル、今度のツアーで泊まるホテルもそこに在るのだ!もしや?
今回は陸路で昼間、ツアー仲間が一緒だし、その後数えきれないほど海外を訪れている上に、ガイドも足もある。あの時堪能できなかったパリを、大いに楽しみたい。こんな高揚感に満ちたパリ入りである。しかし、リヨン駅は期待とは違い、国際列車も発着する大陸の大きなターミナルが持つ独特の雰囲気を味わうにはいささか貧相な造りであった。「これでもTGV開通に合わせて綺麗になったんですが、在来線は依然お粗末なままです」 これが添乗員OSNさんの駅舎に関するコメントだった。
パリの市街部はほぼ円形、中心を“への字”を成してセ-ヌ河が東から西に流れており(への字の書き出し点の先で大きく北東に蛇行する)、頂上付近にコンコルド広場やルーヴル美術館などが点在する。長距離列車の発着駅は、他のヨーロッパの主要都市同様、路線が向かう方面によって分かれており、リヨン駅は中心部の南東に位置し、サン・ラザール駅は北西に在る。従って我々は円を右下から左上へ移動するわけだが、東京の都心ようにそれらの駅を結ぶ環状線(山手線)や貫通線(中央線)は無いので、もし鉄道で向かうとなると、地下鉄利用になる(これはモスクワやロンドンも同じ)、大きな荷物を持った、勝手の分からない外国人にはとても無理だ。ホテルのチェックイン時間には早過ぎる時刻でもあるので、専用バスで市内観光(下車なし)をしながらのプログラムが組まれている。これは団体観光ツアーとしては助かるのだが、昼食時間がどこにも配慮されておらず、空腹を抱えたままのパリ第一歩となった。
リヨン駅はセーヌの右岸に在るのでしばらくそのまま北西に向かう。ノートルダム寺院の手前で左岸にわたりそれを眺めながら進むと左側は学生街カルチェラタン。実はパリでは是非訪れてみたいところがあった(私以上に家内が)。戦前から英語圏(主として、英米加)の作家・文学者(ヘミングウェイ、ヘンリーミラーなど)がたむろした「シェイクスピア・カンパニー書店」である。この書店を舞台にした本を読んでいたので機会があればと思っていた(「今月の本棚-2420108月)」で紹介)。TGVの車内でOSNさんに在処をきいたが知らないようだった。そのOSNさんが、私を見て盛んに左手前方を指し出した。見ると緑地帯を挟んで「Shakespeare & Company」の看板があるではないか!これで空腹の不満も少し治まる。
バスはルーヴルを対岸に見て進み、その先で再び右岸に戻る。大渋滞の河沿いの道を横切り、左右(ルーブルやコンコルド広場)の名所案内を聴きながらしばし直進し左折すると、オペラ座を正面に見る大通りに出る。ロータリー状のその前を回ると、ラファイエット、プランタンなど有名百貨店が並ぶ通りで左折、2300m進むと右手にクラシカルなビルが見えてくる。OSNさんが「あそこが今夜宿泊のホテルです」と説明。微かな予感通り、やはり43年前、初めての夜を過ごしたそのホテルだった。
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(次回;パリ;つづく)

2014年1月8日水曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(24)



19. TGVに乗る-2
10時14分発の列車は定刻通りに到着した。列車番号6112、編成は8両で我々の車両は7号車、座席番号は51だが、前後どちらから乗車するのがいいのか分からない。後ろの方はスーツケースを持ったアメリカ人団体客が集まっていたので前方乗車口から乗り込んだ。それが正解だった。デッキから数段下りて1階車室に入って席を探す中の方に進む内、中央部に壁がありそこから先には移動できない!席はその手前に二人ずつテーブルを挟んで向かい合わせのつくりだ。しかし部分的に二人で進行方向を向いたものもある。
それにしてもこの壁は何のためにあるのだろう?通行客が居ないのは落ち着くが、何かトラブルがあったら逃げ場がない。低位置のため外の景色が今一つなこともあり、終始気になって仕方がなかった。先ず考えたことは、車体の補強;しかしもっと負荷がかかる旅客機さえこんな壁は無い。次に浮かんだのは、欧州の鉄道システムは駅の改札システムがないことだ(自分で日時刻印器に切符を通すだけ;前号の切符の写真の左端に小さな字で縦に刻印)。切符なしで列車に乗ることは誰にも可能だ。そのために車内改札があるのだが、上下両方に通路があるとそれをかわすことがし易い。これを防止するための壁ではないか?答えはいまだ出ていないのだが、それに違いないと思っている(ご存知の方は教えてください)。
座席51番は進行方向右側、北上する路線だから東側になる。10時過ぎでは太陽はそちらの方から差し込んでくる。窓ガラスの汚れがやけに目立ち、下階の展望の悪さと相まって、折角の田園疾走の快感が著しく削がれる。「空席があれば移動可」に期待したが、車内偵察に出かけた添乗員のOSNが「全然空席は在りません」と戻ってくる。
予定のパリ到着は1時ころになる。今朝の朝食まででツアーの食事は終わりなので、その後については、車内食かパリに着いてからの遅い昼食、あるいは駅でパンなどを求めるなど、参加者各自で摂ることになっていた。そして大方のメンバー(静岡から参加の母子はパリでの自由時間を少しでも活用しようとパンを用意)は車内食(ビュッフェあるいは売店)を想定して、11時を過ぎると動き出す人も出てきた。しかし「大変な行列・混雑」とあきらめて帰ってくる。これは大きな誤算だった。パリまでお預けだ。
この地中海線はパリ・リヨン駅近くを除けば専用新線である。ゆったり流れルローヌ河沿いを走ったあともフランス中央部の平原を行く。従ってトンネルもない。日本の新幹線に比べ、この点では建設もし易いし、高速運転を持続できる。時々車内でポーッと言うような音声が流れ、速度が300/hを超したことを知らせる(編成の長さと運行速度の関係を知りたいものである:8両編成なら新幹線ももっと速く走れるだろう)。その割には振動も少なく乗り心地は極めて快適だ。2等の座席配置も通路を挟んで22だから、23の我が国新幹線に比べ座席の広さに余裕がある。トイレは上下階に各々あるのも使いやすい。しかし、車両・車内の清潔さと言う点では、圧倒的に日本の方がきれいだ。また、座席を進行方向に変えられる機構などは旅の楽しさ味わう点で新幹線に丸印。
決定的に違うのは沿線の広告がパリ市内を除けば皆無だったことである。これは英国の鉄道沿線でも同じであった(英国の場合は在来線なので駅周辺や大都会周辺はごちゃごちゃしていたが)。山がちの狭い国土を走る我が国とは事情は異なるだろうが、これだけは欧州に学ぶべきと痛感した(2020年オリンピックまでに、田園・山岳地帯の大型広告を無くそう!)。
12時頃から晴れていた空に薄靄がかかり始め、パリに近づくと曇りに変じていた。リヨン駅到着は定刻通りの1時直前。正確さにおいて彼我ともに遜色なかった。車外に出ると秋の寒さに思わずブルッとした。迎えのガイド(日本人中年女性)はコート姿だった。
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(次回;パリ)

2014年1月3日金曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(23)



19. TGVに乗る
101日(火)南仏・プロヴァンスの旅を終え、最終目的地パリへ向かう日だ。天気は好天で青い空ときらめく緑が美しい。
旅で最も関心があるのが乗り物。今回の目玉はフランス国鉄の誇る新幹線高速鉄道、TGVTrain a Grande Vetessel;超高速列車)である。これに乗るのはツアーを選ぶ際の必要条件。できれば1等車に乗りたかったが、これが叶うのはANAしかなく、それはパリ延泊が認められなかった。
路線はマルセイユおよびニームとパリ・リヨン駅を結ぶ地中海線でアヴィニョンが分岐・連結点となる(とは言っても市の西方で、長いスパンの三角形線路;品川・大崎・大井町のように;で結ばれるのでTGVアヴィニョン駅で線路が分かれるわけではない)。パリのリヨン駅を除けばすべてTGV専用路線上を走るので300㎞を超す高速運転が可能である。途中の大都市としてリヨンがあるが、我々の列車はここには停車せず、アヴィニョンを出るとパリまでノンストップ、800㎞弱の距離を2時間40分で走破する。
TGVも日本の新幹線同様路線・駅は新設が多くTGVアヴィニョン駅も市街南方遥かデュランス川の近くの田園地帯の中に設けられており、在来線との接続は無い。市街とはシャトルバスによって15分くらいで結ばれているが、我々には専用バスが用意されていた。
列車の発車時刻は⒑時14分、それなのにホテル出発は8時半、バス乗り場まではゆっくり歩いても10分程度、駅に9時前には着いていた。広い駐車場・バス・タクシー発着場はがらーんとしている。専用バスはここで荷物と我々を降ろして直ぐに去ったが、駅へ荷物を運んでくれるポーターは早すぎる到着でまだ来ていない。仕方なく添乗員のOSNさんは荷物番人として残る。
駅舎はガラスづくりの超モダン建造物。関西空港と同じデザイナーの設計。全体の感じがよく似ている。線路は高架になっているので下の部分にカフェ、キオスク、切符売場などがあり、両サイドは吹き抜けの広い回廊になっている。明るく清潔な感じが良い。ホームの階は2階になりガラス壁で隔てられた待合スペースと面一になっており、自動ドアーで行き来できる。その床は板木を張り合わせて作られているので船の甲板のようだ。案内表示はほとんどフランス語、アナウンスもフランス語。これは43年年前の印象と変わらない。
出発時間までかなりあるので、待合コーナーに居を構え、時々発着・通過(通過線が別にあり、停車線との間には木製のフェンスが在る)する列車を眺めたり、写真を撮って過ごす。こんなに頻繁に運行しているのであればもっと早い列車を利用すればいいのにと思ったが、どれもパリ行きではないことをあとで知った(一本は国際列車でベルギーのブラッセル行)。
出発時間が近づくにつれ、駅構内、待合コーナーも賑わってくる。大きなスーツケースを持った外国人団体客もそちこちにかたまって。短い時間で乗り降りするには混乱も起きそうだ。幸い我々の荷物は専用スペース(添乗員の説明では、先頭・最後尾車両の流線型部分の荷物室とのことだったがそんなスペースは無いように思う。どこに?)に収納とのことで、自分で運ぶ必要がないのは助かる。
出発少し前OSNさんが切符をトランプのように持って各グループの代表がひくようにと促し、それに加ええ「今回は皆さん2階建て車両の1階部分です。でも空いていれば2階に代わって結構です」と言う。とは言うもののホームの混みようを見て嫌な予感がした。


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(次回;TGVに乗る;つづく)