2014年7月31日木曜日

今月の本棚-71(2014年7月分)


<今月読んだ本>
1) ナチス戦争犯罪人を追え(ガイ・ウォルターズ);白水社
2) 半島の密使(上、下)(アダム・ジョンソン);新潮社(文庫)
3) そうだ、トマトを植えてみよう!(大塚洋一郎);ぎょうせい
4) シグナル&ノイズ(ネイト・シルバー);日経BP
5) 警視庁科学捜査最前線(今井良);新潮社(新書)
6) “サンキュ~ハザード”は世界の愛言葉!?(ピーター・ライオン);(JAF出版)

<愚評昧説>
1)ナチス戦争犯罪人を追え
ナチスによるユダヤ人絶滅を主題とするフィクション、ノンフィクションは随分読んできたし、本欄でも何冊か紹介している。日独の戦争犯罪の根本的違いがここにあると思うからだ。本書の翻訳出版は2012年(購入も同年)、戦後70年近くも経て「いまさら」と思うのだが、「何か新しい発見があるのではないか?」とつい買ってしまう。登場する“狩られる人間”は、マルチン・ボルマン(官房長官)、アイヒマン(絶滅指揮官)、メンゲレ(生体解剖を行ったアウシュヴィッツ収容所の医師)、カルテンブルンナー(国家保安本部長官)など、毎度おなじみのメンバー十数人である。導入部で新たな発見は期待できない感じがしたが、高い本(3800円)でもあるので少し我慢して読み進んでいくうち「これは今までのモノとは違う!」と惹きこまれていった。何が違うか?
それは狩りの“プロセス検証”に力点を置いたところにある。一言でいえば「ドラマティックに書かれた既存の書物が、如何にいい加減なものであるか」を実証するものであり、何故そのような内容になったかを追及するところに本書の核があるのだ。そこにはカネや名誉をわがものとしたい私欲を、正義を求めて戦う騎士のように糊塗する卑しい心根が隠されているのだ。個々の犯罪者を章立てで追いながら、各章に通奏低音のように現れるジーモン・ヴィーゼンタール(解放ユダヤ人)はノーベル平和賞にも何度かノミネートされるほどの有名人だが、その種の代表的人物であったことを細部にわたって明らかにしている。
また、小説の場合事実と異なることに一見問題ないように思えるが、著者が得た材料を真実と思って書き進めれば思わぬところに影響が出てくる。フレデリック・フォ-サイスの「オデッサ・ファイル」がその例である。ナチス親衛隊の犯罪組織に属したメンバーの名簿“オデッサ・ファイル”を巡るサスペンスで、本書によるとヴィーゼンタールに取材した後これが書かれるのだが、フォーサイスはそのファイルが実在する(実際は存在しない)と信じて書き上げ、これがベストセラーとなったため、犯罪者追跡組織が振り回されてしまう。
このような個人的な動機に基づく杜撰な追跡実態とは別に、国家やそれに準ずる組織(連合軍、教会)による戦争犯罪人摘発あるいは逃亡支援にも実はかなり複雑な背景があることを、時代の流れを踏まえながら教えてくれる。例えば、終戦直後このような戦争犯罪人摘発をできる組織は軍しかなかったが、軍も軍人もそれを本来の仕事と捉えなかったこと、冷戦が進むとむしろ犯罪嫌疑者(東欧やロシアの事情に詳しい)を積極的に保護し、反共活動に利用しようとしたこと、西ドイツ政府もそれに同調したこと(積極的に犯罪者狩り出しを行わなかった)などが語られる。また、ナチスドイツが快進撃を続けた時代、好意的中立を採っていたスペインや南米諸国あるいはカソリック教会の一部が、後に陰に陽に犯罪者の逃亡を支援していたことなども、かなり具体的に(個人名やルートまで)調べ上げ、摘発が容易でなかったことを明らかにする。
欧州の近現代史には、このような多様な角度からの歴史検証が行われている。特に英国人が最も熱心なようだ(日本に紹介されるのが英語以外では難しい面もあるようだが)。“歴史認識”はこのような環境とプロセスによって納得できるものになっていくのだろう。著者も1971年生れの英国人。ロンドン大学で歴史を学んだ後他大学院に籍を置きながら作家としてドイツ(軍)をテーマにした作品を発表している。英国は一時期一国でナチスドイツと戦い、最後に勝利した国である。その歴史家が敵国の戦争犯罪を極めて中庸な視点で書いている(大量虐殺されたのが英国人ではなかったとはいえ)。日本の戦争犯罪をこのような目で客観的に描く、外国人研究者・作家が現れてほしいものである(日本人による研究を英語で発信することが先かもしれないが)。
この本の問題点は翻訳にある。一言でいうと「間違いは無いようだが、日本文として拙い!」
例;“それがバルビーの認めたであろうような行動だったのは疑いない。 ” 訳者のみならず編集者の力量を疑わざるを得ない。
このような訳が随所に見られる一方、訳者あとがきで“感動的でスリリングなノンフィクションである”などと結んでいる(翻訳後の文章を自分で読んでみたのだろうか?)。「ほざくな!」と思わず独り言を発した。

2)半島の密使
訳本の出版は昨年6月だから当時から気にはなっていた。しかし、欧米人が書くアジア物はエキゾチズムを強調する荒唐無稽なものが多いので(例えばジェームス・ボンド)避けていたのだが、フッと帯の“ピュリッツァー賞受賞作品(2013年度小説部門)”に目がいき買ってしまった。当然日本語タイトルから想像して、スパイ物と信じてである。
金王朝(主たる時代は金正日)がつづく北朝鮮の孤児院で育った少年(英文タイトル;The Orphan Master's Son;孤児院長の息子)がトンネル兵士として訓練を受け、日本人拉致の実行者として実績を上げ、さらに無線傍受の専門家(高い英語能力が必要)となる辺りまでは、如何にも「彼の国の練達のスパイは、このようなキャリアパスを辿るのか」と思わせる展開で大いに先が楽しみになっていく。ところが全体の1/4位のところから、話は社会小説(北朝鮮と言う閉鎖された全体主義国家)、恋愛小説それもSFもどきのものに変じていく。突然時間と空間が飛んで、 “孤児院長の息子”が鉱山採掘の全権を握る権力者(カ将軍)になり変わり、金正日も一時惹かれたことのあるカの妻と一緒に暮らすことになっていく。この間北朝鮮の市民生活や階層社会の実態(らしきもの)をリアルに描きながら、飛んだ時空を埋める話が、現在と過去を交錯しながら進められていくのである。このプロセスでさらにストーリーを複雑にするのは、後半に入ると“私(尋問官)”が登場して、この時空補完の語り部のような役割を果たしていく。
仕事・職業の選択(指定、制約)、団地での日常生活、情報操作、闇市や食糧事情、家族を含む監視・密告システム、信賞必罰の処遇、鉱山労働収容所の環境、取り調べや拷問の方法、特権階級の暮らしぶり、移動の不自由、平壌と地方の違い、結婚事情、力道山がモデルと思われる挿話、それに拉致の対象と方法など異常な国家の細部をストーリーにふんだんに盛り込み、初めは他人行儀だったなり変わりカ将軍と妻(と子供たち)が愛ゆえに離別するところで物語は終わる。
どうやらピュリッツァー賞はこの特異な小説形式と北朝鮮という外国人に窺い知ることのできない謎の国家をある程度明らかにしたところに与えられたのではないかと推察する。
著者はスタンフォード大学英文学准教授、この作品のために朝鮮系(南北不明)研究者や脱北者の協力を得ている他、自ら北朝鮮を旅行した体験(2007年)も生かされているようだが、「北朝鮮の本当の闇はあまりに残酷すぎて、小説には取り入れなかった。本物の闇は、とても読めたようなものじゃない」と述べたと解説にある。私にとってこの本から得たものは前述の北朝鮮社会の細部情報で、それだけでも「まさか!」「酷いなー」との思いで読み進んだ。そこで「本物はとても読めたものじゃない」と言われると、「一体全体北朝鮮で生きていくと言うことは何なんだ?!」と考え込んでしまう。
監訳に蓮見薫とある。拉致被害者で帰国が叶った蓮見さんである。何と訳者とは高校以来の親友とのこと、監訳者の役割は無論北朝鮮事情である。解説には小説と事実の違いも(明らかなものは)明記されており、その点でも“北朝鮮を理解する書”として価値あるものである。しかし“スパイ物”の面白さは全くなかった。

3)そうだ、トマトを植えてみよう!
長距離ドライブで走り廻っていて地方活性化の必要性を痛感する。鉄道、道路、各種公共施設を作り、農業興産策や観光振興策を進めても若者は都会を目指し、今や過疎地は村落のみならず市でさえ消滅の危機にある。これを解消しよとするボランティア活動の事例は枚挙にいとまないが、寡聞にして長期的かつ広範にわたる成功例を目にしない。他方、短い期間暮らした英国の地方都市で、英国人が田舎で暮らす生活に憧れる姿を見聞し、学び生かせることがないものかと思案するものの「日本人の風土と精神構造(閉鎖的な村社会で生きてきた長い歴史と都会におけるそこからの開放感のギャップ)に問題があるのではないか」と諦めの境地にすらなる。そんな時友人から贈られたのが本書である。
著者は北海道大学で原子力工学を学んだキャリア官僚(技官)。科学技術庁(現文科省)に奉職し若いころは原子力行政に関わり、その後宇宙開発や海洋開発も担当、海外駐在も経験し、最終的には経済産業省大臣官房審議官(No.2 の省審議官ではなく、課長と局長の中間ポスト;地域経済担当)で停年を待たず、2009年に退官した人である。行政官としての最後の仕事は、農商工連携と六次産業(一次は生産、二次は加工、三次は流通・販売;1236)化ファンドの法案作りと推進策の具体化であったことから、それを率先垂範すべくNPO(農商工連携サポートセンター)を立ち上げ、孤軍奮闘する姿を描いたのが本書の内容である。
通常法律を作ると、それを具体化推進する組織を、国家予算と業界負担金で外郭団体を設立し、そこに官僚を天下りさせるのが常套手段なのだが、時間を惜しみ(下種の勘繰りだが、あまり仲の良くない農林水産省と経済産業省の境界領域であることも影響しているかもしれない)退職金を投じて個人NPOを発足させてしまう。当初の仕事(収入源)は関連法の解説講演や著作、ファンド利用のコンサルタントなどだが、これだけではたかが知れている。やがてファンドを利用した個々のプロジェクトに深く関わっていく。タイトルの“トマト”はその成功例のひとつ。311大震災で塩害にあった農地にトマトを植え甘味の優れた製品を収穫する。小さな一つの成功が次につながり、イチゴ、キャベツ(茎まで美味しい)、白菜、コーヒー(沖縄)、タンカン(柑橘類、奄美大島)、牛乳、カツオ・マグロ加工などのプロジェクトが次々に立ち上がっていく。これらの生産だけなら農林水産省の管轄で閉じてしまいそうだが、それらの加工・流通、さらには都会の一流レストランや市場との提携など工・商との連携が結実していく。ここら辺りは“さすが(出来る)官僚出身者!”を強く印象付けられる。
今ではスタッフを抱えるほどの規模になっているようだが、オフィスは千代田区が零細ベンチャー企業に廉価で提供するスタート時の場所を継続利用して、千代田区と地方を結ぶパイプ役をも担い、地方・都会連携にも貢献している。
つまるところ、地方の活性化は持続する情熱と地道な努力の積み重ねが基本であり、メディアや政治家が好む、話題先行の打ち上げ花火であってはならないことを本書で教えられた。私家本に近いものだが、農業を核にした地方活性化に関心がある方にはお勧めである。
なお、私の友人もITコンサルタントとして同じ建物内にオフィスを構え、日ごろ著者と親しくしており、それで本書が私の手に渡ったことを付記しておく。

4)シグナル&ノイズ
ここのところ(と言ってももう10年近くになるが)“ビッグデータ”の話題が絶えない。数理がこんなに社会的に注目される時代は無かったから、目が離せない。本欄でも関係図書の紹介を続けてきている。先月は“マネーボール”、今月は本書である。汗牛充棟・玉石混交の中で、米国でもベストセラーになった注目すべき一冊であるばかりか、著者が開発した、野球選手評価システム“PECOTA”はマネーボールにも登場したので、今月本書を取り上げてみた。
シグナル(信号)とノイズ(雑音)は古くから通信工学で使われてきた用語である。TV画面のちらつきや影(ゴースト)、ラジオ・電話の雑音はアナログ時代には周辺に日常的に存在し、これを如何に除去するかは工学的に大きなテーマだった。ディジタル技術が通信や放送の基盤に変わってから耳や目に触れるノイズは著しく減じ、通常存在しないかのように見えるが、実は姿を変えているにすぎない。例えば、ウィルスやハッキング、なりすましなどの人為的なものや、測定器の計測誤差など、一見気づき難いノイズが満ち溢れているのだ。また、利用者が意図的あるいは無意識(例えば、メディアで話題になるとそれを反映して数字が変化する;ここで取り上げられているのは自閉症の発症数)にデータ収集・処理の際取り込んでしまう“バイアス(思い込み、偏見)”もノイズの一種と言える。
ビッグデータ利用の拡大につれ、それがモノの考え方や意思決定方法を根本的に変えるとの声が高まっている(ITジャーナリスト、ITサービス会社、ビッグデータ利用のコンサルタントなどに比較的多い)。その変革のポイントは;1)例外なく“すべて”のデータを扱う、2)量さえあれば精度は問題でない、3)因果関係でなく相関関係が重要になる、と要約される(本欄-62201310月)“ビッグデータの正体”)。このようなビッグデータ利用に関する考え方は正しいのだろうか?本書はこんな風潮に対する、専門家(統計分析実務家)としての考察を、多くの具体例を挙げながら掘り下げ、安易なビッグデータ利用に警鐘を鳴らすものである。
事例は、金融商品の格付け、経済予測、選挙、スポーツ(野球、バスケット・ボール)、ゲーム・ギャンブル(チェス、ポーカー)、気象予測・天気予報、地震予知、伝染病、地球環境からテロにまで及ぶ広範なもので、そのメカニズム・理論、そこで使われるデータ・情報、予測を狂わせる因子(事前に予知できる関連情報を含む)、人間の行動・心理などの面から詳しく解説し、適用上の問題点(予測失敗)はどこにあったか、どこまでビッグデータの利用が可能か、その際どのような点に留意する必要があるかを分からせてくれる。
例えばサブプライム・ローン関連商品の格付けについては、データ以前に本来の商品価値を桁違いに上回るレバレッジの影響が完全に見落とされていた(これもある種のノイズ)こと、前例のない商品であったにも拘らず、(相関度の低い)既存金融商品の格付け手法を安易に流用したことなどを、未曾有の金融危機につながる要因としている。また、日本人に身近な話題として東日本大震災と福島原発事故を取り上げ、気象予測に対して地震予知理論の発展が遅々として進んでいないことを述べるとともに、それでも百年単位では想定外の震度が予測でき、原発建設に対してそれが配慮されなかった点を問題視する論調になっている。
これらの例に見るように、同次元のデータの中のノイズだけを問題にするのではなく、理論的な詰め、関連情報とのクロスチェック、データの精度や信頼性を含めたビッグデータ利用に注意を喚起し、一点予測ではなく確率(天気予報の降水確率のような)を考慮した予測値を使うよう提言している(このためポーカーを例にとった“ベイズ確率論(注)の説明にかなりの紙数が割かれる)。つまり、巷間言われているビッグデータ活用のポイント、1)~3)を正面から否定し、人間の知識・経験とIT利用のバランスを重視しているところに本書の特色があり、それが楽観的なビッグデータ活用ブームの中で、話題を呼んだのであろう。
著者を野球以上に有名にしたのが選挙の予想である、2008年大統領選挙では50州中49州で、2012年には全州で勝者を当てている。それもあり彼が主宰するブログ“Five Thirty Eight538;これは上院議員と下院議員の総数)”は大人気で、ニューヨークタイムズに利用権を貸与、最近はそれがスポーツ番組に強いESPNの手に渡っている。また、ネット上で戦うオンライン・ポーカーもプロ級で一時期そこを収入源にしていたこともあるようだ。シカゴ大学経済学部、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスで学びコンサルタント会社に入るが、仕事に馴染めず専ら趣味と実益の統計分析に時間を費やしてきた人生が色濃く内容に反映されているところも読みどころである。IT利用の最前線を知る(特に企業経営へのビッグデータ利用)ためには良書だが500頁を超す大冊ゆえ内容をきちんと理解し、最後まで読むにはそれなりの気構えが必要となる(ポーカーに例を採ったベイズ確率論解説の章は、ゲームや賭け事に全く関心のない私にとっては興味をそぎ、大事なところではあるが飛ばし読みした)。

(注)ベイズ確率論;純然たる数値処理だけでは扱えない不確実性のある事象に“主観を含めて”算出する確率。主観と言っても取扱者の独断的な意思ではなく、賭け金や株価のように、場の参加者の意思があるところでバランスする数値。一般に工学・医学・農学など自然科学系の統計処理は実験によるランダムサンプリングでノイズ除去できるが、社会科学系(経済予測や選挙予測など;当然企業経営の予測はこの範疇)や人文科学系(心理学など)では影響因子すべてを網羅できないので、このような手法が有効と言われている。
シルバーは確信犯的ベイズ確率論主義者(ベイジアン)であり、経済予測が当たらないことを取り上げ、いっそのこと全員の数値を平均化する(場の参加者のバランス点)方がましだと本書の中で述べている。
フィッシャーが確立した近代統計理論はランダム化を基本としており“頻度主義”と呼ばれ統計学の主流理論、これに批判的な本書は、それ故に話題性があるともいえる。
なお、フィッシャーもベイズも英国人。フィッシャーが遥かに後輩である。蛇足だが、コイントスによる表裏の確率は頻度主義もベイズ主義も同じである。

5)警視庁科学捜査最前線
3)“トマト”のところでも触れたように2007年半年ほど英国の小都市(ランカスター市)で暮らした。町の中心部に市場や商店街がありよく出かけたが、監視カメラが至るところにあるのに違和感を持った。まるでこの国の作家、ジョージ・オーウェルの小説“1984年”に登場する“ビッグブラザー”がそこに居るような気分を味わったものである。しかし、これが犯罪防止や捜査に寄与する割合は高いようで、英国で一層の普及が進んでいるのは無論、日本でも最近はあちこちで見かけるようになった。靴をすり減らして刑事が聞き込み調査をする捜査はいまだ健在だが、科学の力がそれを支援するケースが着実に伸びてきている。本書はその実態を広範に、分かり易く紹介する“警察科学入門”書である。
金融機関、駅、コンビニエンスストア、エレヴェータ内などに設けられた防犯カメラ、その画像解析技術、自動車のナンバーを記録するNシステム、最新指紋照合システム、DNA鑑定、PCウィルス追跡、電話逆探知、警官用特殊携帯電話、モンタージュ写真と似顔絵、微量残留物の化学分析、そしてビッグデータの利用など科学捜査の最新技術を分かり易く解説するとともに、それらが活躍した(あるいは失敗した)事件を具体的に追い、どんな組織・人がどのような技術・手法を使い、どのような形で犯人逮捕・犯罪解明に結びついていったかを、臨場感をもって伝えてくれる。そこには犯罪小説・サスペンス小説とつながる面白味さえ感じることが出来る。
本書に登場する組織は警視庁刑事部の“捜査支援分析センター”、科学捜査研究所、鑑識課、ハイテック犯罪対策総合センター、と警視庁管内が中心だが、全国レベルでも類似組織が適宜存在し、それらの間に連絡網が張られていて、迅速な捜査が可能になってきていることが窺え、国レベルの警察の科学力が想像以上に高いことを教えてくれる。反面、サイバー犯罪は技術進歩に併せて手口が高度化し捜査が難しくなって、これで万全と言うレベルにはないこと、またベテラン捜査員(職人)の大量退官の時期を迎え、科学と人の組み合わせに問題が生ずる恐れが出てきていることなどを述べ、更なる新技術・手法の出現と人材育成に期待をかける。
技術者の視点で読むと「ちょっと軽いな~」と感じるが、警察組織や階級、キャリアパス、職務権限を理解しながら、科学が如何に捜査に役立てられるかを総合的にとらえられる点は大いに評価できる。
著者はNHK記者を経て民放TV局に転じ、警視庁記者キャップも務めた、警察ジャーナリズムの専門家。

6)“サンキュ~ハザード”は世界の愛言葉!?
自動車文化比較に関する本である。タイトルは、我々が車線変更の際しばしば行う、譲ってくれた後続車に送る、ハザードランプの点滅挨拶のことである。実際私もやるし、これを送られると悪い気はしない。しかし、これは日本だけの特殊な使い方なのだ。最後の!?マークはそれを意味する。一体これは何の合図だ?どんな異常(ハザード)が起きているのか?そうか!“ありがとう”なんだ!!外国人が初めてあの合図を見たときの驚きである。
著者は53歳のオーストラリア人、大学時代日本語を専攻し交換留学生(慶大)から始まり通算滞日26年で日本語ペラペラのモータージャーナリスト。この分野で欧米(豪を含む)と日本をつなぐ存在として業界では有名な人物である。私も何度も自動車雑誌で名前や記事を目にしているが、その内容は専らクルマの技術評価に重点が置かれ、特に他のジャーナリストとの差異を感じていなかった(強いて言えば、比較的日本車に好意的な外国人との印象はあるが)。JAFの月間広報誌に本書が紹介されているのをみて「なんだこのタイトルは!?」と思い購入した。
内容は自動車に関するもろもろの日本・欧米比較である。“ハザードランプ”をもう少し続けてみよう。先ず欧米ではハザードランプは滅多に使わない(“犯罪”でも起こらない限り)。高速道路の路肩に止めるときでも、よくてウィンカーの点灯、何も合図を送らないことが多い。一方、欧米では車線変更の際、ウィンカーで意思表示すれば大体譲ってくれる。それよりも車間距離を日本に比べたっぷりとっているので変更しやすい。日本人の走り方は車間が狭く、まるで煽っているように思える。ウィンカーで意思表示してもなかなか空けてくれない。「なるほど」 サンキュ~ハザードはその内先端技術を使って(^◇^)マークに変わるのかな?
例えば、クルマのコマーシャル、日本のものはクルマに限らず子供や若者が大声で叫んでいるものが多い。クルマは大人が買い・乗るのだからもっと大人向けを意識するべきだ。トヨタ・ポルテのTVコマーシャルを見たスウェーデン人が「何故カモメ頭が飛んでいるのだ?」と著者に聞く。どうもハトらしいがそれにしても確かに意味不明である。それに比べマツダのコマーシャル“Be a Driver”は運転の楽しみがストレートに誰にも(外国人にも)伝わる。日本ではマイナーなマツダが欧州で存在感があるのは、この辺りのセンスの違いからきているような気がすると。「わかるわかる」 しかし欧米のコマーシャルには“大人”を意識するあまり、かなりきわどいものもあるようだ。
話が時々脱線するのも楽しい。日本車の英語名がどうもしっくりこない。一時著者が乗っていたダイハツ・ネイキッド;ダイハツは“簡素なクルマ”の意で命名したようだがネイティヴの人たちはNakedと聞くと先ず“裸”を連想する。「“裸”に乗っています」は恥ずかしくって言えないよね!からポカリスウェット(ポカリさんの汗)に飛んで「汗を飲むわけには行かないでしょう」となったり、タクシーの自動ドアーに驚いた話が、自動洗浄トイレ礼賛の話に転じていったりする。
この他にも、救急車の運転が慎重過ぎること(死んじゃうじゃないか!)、チャイルドシートの利用が甘いこと(子供を甘やかすな!)などなど、軽い話題のわりに納得感のある比較文化論を楽しんだ。
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2014年7月26日土曜日

みちのく山岳ドライブ-12


-八幡平・十和田・奥入瀬・八甲田・白神山地・鳥海を駆け抜ける-

8.弘前
“青森県を自分のクルマで周る”これが今回のドライブ行のメインテーマである。観光地はともかく、どの都市に焦点を当てるか?はそれなりにしばし思案した。青森・弘前・八戸、それぞれ特色がある。政治経済そして交通から考えれば青森、文化的視点では弘前、産業都市としては八戸といったところだろうか。八戸は後の行程からも対象外だが、青森と弘前は少し悩んだ。弘前は一度訪れたことがあるからだ。それもベストシーズンともいえる桜の季節にである。しかし、文化(の一部)には抗しがたい魅力がある。明治期を髣髴させるいくつかの建造物それに弘前城。夕刻でもこれらを外から鑑賞し、往時を偲ぶことが出来る。
ベストウェスタンホテルは、元々モーテルに発する米国のホテルチェーン。ホリデーインやデイズインなど同様に大衆向けホテルである。米国でドライブするときには結構利用したものだが、現役時代日本で見かけることはなかったから、泊まる機会はなかった。大都市の宿泊はビジネスホテルにして宿・食別を基本にしているので、弘前でホテルを当たったところ、ここが“高級ホテル”と紹介されていたのにはチョッと驚いたが、一方で懐かしい気がして決めた。場所は駅の横と言っていいくらい近い。先に書いたように、弘前は一度桜のシーズン、むつ小川原の備蓄基地に勤務していた友人に弘前城とねぷた会館に案内してもらったが、全く土地勘は残っていない。調査の段階で駅と繁華街が離れていることは分かったが、地図を見て駅周辺の方がクルマの取り廻しが楽な感じがした。これもここに決めた理由の一つである。
ホテルへのアプローチをナビに任せたところチョッと妙なルートを採らされたが、駐車場前にピタリと着いた。駅前ホテルゆえコモンスペースはフロントを含め機能的だが狭い。ビルが新しいこともあり、全体に清潔感はあるが“高級ホテル”は“弘前一の”と条件を付ける必要があるようだ。ツインの部屋は駅前広場を見下ろす7階に在り、広さはまずまずと言ったとこ。遥かに岩木山が望めるのが良い。驚いたことにこの部屋も八幡平ハイツ同様、部屋とバスルームの間は素通しガラスで、ブラインドを下ろして見えなくする方式である。どうやらこれが最近の流行らしい。
明日市内観光する時間はないので、まだ明るさが残る夕方、夕食までの間に弘前城とその周辺だけ見ておくことにして、直ぐ部屋を出た。フロントで夕食場所として郷土料理とエンターテイメント(津軽三味線)を楽しめるところを問うたところ「杏」と言う店を紹介してくれ初回開演の7時を予約してもらう。ついでにお土産物を扱う所も聞いたが、既に5時を過ぎているので付近では駅ビル(これはモダンで大きい)しかないと言う。早速出かけてみたが、リンゴをベースにした菓子類と地酒それに海産物加工品位で今一つこれはと言うものは見つけられなかった。
次の目的地は弘前城、ここは5時過ぎでも散策できるとのことだったので、しばらくそちらの方向に歩き出し、途中で道を確かめるために通行中の婦人に声をかけたところ「歩いていらっしゃるんですか?」と怪訝な顔をされる。「歩けは30分近くかかります。それに少し上りになりますよ」との助言。早速駅前に戻りタクシーで東門に向かうことにする。確かに徒歩では無理な距離だった。
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(次回;弘前;つづく)

2014年7月22日火曜日

みちのく山岳ドライブ-11


-八幡平・十和田・奥入瀬・八甲田・白神山地・鳥海を駆け抜ける-

7.八甲田山(2
田代平から県道40号線を反時計方向にさらに5km位進むと左からくる道路とぶつかり、そこには土産物屋と食堂を併設した建物があって、前が広場になっている。止まっているのは八戸ナンバーの乗用車一台だけ。食事も買い物も必要なかったが、“遭難碑”確認のため先客の近くにクルマを止めて店に向かうと、中年男女の連れ合いが店から出てきて乗り込む前に、こちらのナンバーを見て「横浜からですか!」と声をかけてきた。語調に関西訛りがあるところから、どうやらレンタカーで観光しているらしい。丁度いい機会なので「この辺に雪中行軍の遭難碑が在ると聞いているのですが、ご存知ですか?」と尋ねると、「ここを200mくらい上がったところですよ。立派な銅像ですからすぐわかります」と店の後方の丘を指し示す。彼等が発った後広場の一角にある案内図(前回写真掲載)で場所と道を確認してそちらに向かった。間もなくゆるい傾斜地を均した中に「雪中行軍遭難の地」と書かれた大きな標識版が現れる。ここら一帯が小説のクライマックスとなる“馬立場”なのだが、長閑な初夏の午後の日差しの中ではとてもその惨状など想像できない。低い灌木の中に作られた遊歩道をさらに登っていくと銅像を中心に整えられた小公園に辿り着く。台座を含めると像の高さは5m位あり、想像していた“遭難碑”とはまるで違って確かに“立派”なものだった。
地形的にはそこから北下方に連隊所在地青森市が在り、それをはるかに見下ろすように像が立っている。後ろは八甲田の峰々、なかなか考えられ配置だが、陽は南にあるので写真を撮るには逆行になってしまうのが惜しい。銅像のモデルは数少ない生存者の一人、後藤房之助伍長、救助されたとき仮死状態だが半分雪に埋もれながら起立していたという。当時の陸軍大臣寺内正毅中将が建立に際し寄せた言葉は漢文なので正しく読むことは不可だが、文字からその壮絶さが伝わってくる。この中に後藤と併せて記されている神成大尉(指揮官)は死亡、同行した山口少佐(大隊長)は、小説では病院でピストル自殺をすることになるが、真相は大規模な凍傷手術のための麻酔によるショック死らしい。当時の遺品などは市内の記念施設にあるようだが方向が違うのでパスすることにする。
次に向かったのは八甲田山ロープウェイ、八甲田山周回路を時計に見立てると遭難の地が12時、ロープウェイは10時頃の位置になるので10分くらいで着いてしまう。大型バスが何台も収容できそうな広々した駐車場に10台に満たない乗用車やバンが止めてある程度、3時発のロープウェイはがら空きで3組(6名)しか乗客はいなかった。1300mある山頂にはいくつか散策コースがあるのだが、大部分はまだ雪が残っているので、本格的な山歩きの装備が必要だし、展望台の飲食コーナーは既に閉店でゆっくり休む場所もない。仕方なく山頂付近で20分ほど下りが来るまで過ごすしかない。
天気が良ければ青森市街からその先の日本海まで見渡せる、弘前方面に目を転ずれば岩木山が美しいと謳っている眺望も、暖か過ぎるのか靄がかかって今一つすっきりしない。320分の下りで下へ戻り、4時には弘前に向け国道394号線を西に向けラストランに入った。八甲田を離れると道は緩やかな下になり川沿いに20km近く続く。黒石市に入ると車線も交通量は増え一般の街中と変わらなり、そのまま弘前市内につながっていく。東北道の下を抜け、奥羽本線跨線橋で超えて5時に駅前のベストウェスタンホテルに到着した。本日の走行距離204km。昨日に比べれば1/3にも満たないが、山岳ドライブを堪能した一日だった。
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(次回;弘前)

2014年7月20日日曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅰ部)-12


1.新会社創設(12
1984年の秋も深まってくると、情報システム部門の分社化計画(Z計画)も細部に入っていった。前回紹介したように、情報システム部内の一般課員にも構想を説明し、皆揃って新会社に移るための希望条件などを洗い出す作業をすすめ、3重ボード(課長会・部長会・経営会議)のメンバーにも適宜説明し、フィードバック結果を検討作業に反映していった。計画は社内では広く知られるようになってきたし、年末の段階では個々の大きな懸案事項の解決策が見えてきた。新会社のスタートは何とか次年の前半に実現したい、これがZ計画検討推進メンバーの目標であったから、1985年に入ると個々に検討してきたそれぞれの課題に対する対応策を一つの会社設立案としてのまとめる段階に入っていった。オリジナル計画の概要は概ね以下の様なものであった;
・メンバー:本社情報システム部員(TSK本社SE担当部門、TTECシステム部員を含む;約60名)でスタートする。
・グル-プ向け業務;上記メンバーが担当する業務(工場のSE組織はそのまま残す)は全て新会社に移す。
・外部業務を核に業容を伸ばす(収支計画は専らこの部分を深耕した)。
・主な市場は装置工業、特に、石油精製、石油化学、一般化学を中心に据え、プロジェクト全体を一括請負う(当時はシステム・インテグレーション;SIと言う言葉が無かったが現在ならシステム・インテグレータと言うことになる)。
・従業員処遇は、プロパー社員の採用などに伴い業界に合った形態に変えていくが、当面は東燃と同じ扱いとする。
2000年までに株式を店頭公開できる経営内容を実現する。
・グループ内業務の企画・調整を図るために本社内にそれぞれの専門分野に優れた少人数(一桁)スタッフで構成する部レベルの組織を残す。
・新会社の組織は、技術システム部、ビジネスシステム部、営業部(総務・人事を含む)の3部編成でスタートする。
・オフィスは(本社の在った、大部分の資産とスタッフもある)パレスサイドビル内に置く。
・社名は広くグループ内で公募し、新会社メンバーの投票で順位付けし、3重ボードにかけて決定する。
課長会・部長会で何度も見直し検討を求められたのは、収支・財務計画と人員計画であった。特に、人員数が規模拡大の決定的因子であることから、厳しいチェックを受け「上限はどこにあるか」が大きな論点になっていった。課長会の席で私は独断で「300名」と言う数字をあげ、「ただし、あくまでも概算であり、業界の成長を考えればこの数字を目論見書に記載はしたくない」と答えた。
この答えの背景は、株式店頭公開(売上・利益)基準(公開前の前3年間の経常利益が、1億円、2億円、3億円を超えていることが一つの条件だった。一人一年間2千万円(このハードルは業界標準をかなり上回るが)を売り上げ、利益率を5%とすると、300人が必要となる;つまり売上高60億円、経常利益3億円)とグループ従業員総数(約3000名;これの1割に留める)から思いついたものである。この一人当たり売上高は装置工業にとっては極めて低い印象を与えるとともに、新規事業のための人員増が1割(既存のグループ情報サービス要員を全員新会社に移せば1割以下)と言うのは納得感があったようで、やっと経営会議にかける目論見書の作成が許され、東燃の株主総会(3月末)後、連休前に本件に関する第一回目の経営会議が開催された。
この会議では工場・関係会社の業務をどこまで移すか(副社長のNKHさんは工場の意見にも理解を示し「一気にすべて新会社に移すよりも多段ロケット方式で行こう!」と断を下す)やハードウェアに依存する売上高が問題にされる(社長のMTYさんが在庫を持つことを懸念する発言をされた。我々の考えは顧客がハードも併せて取り扱うことを希望した場合その要求に従うことで、自ら在庫を抱える考えはなかった)程度で、基本的に“GO”のサインが出た。
いよいよ設立に向けて動き出した経営会議翌週、日本経済新聞の朝刊一面トップにこの新会社設立がすっぱ抜かれた!添付資料も入れると30ページ位あった目論見書を入手していなければ絶対に書けない記事である。「情報はどこから漏れたのか?」


(次回;“新会社創設”つづく)

2014年7月16日水曜日

みちのく山岳ドライブ-10


-八幡平・十和田・奥入瀬・八甲田・白神山地・鳥海を駆け抜ける-

7.八甲田山
新田次郎の「八甲田山死の彷徨」を読んだのは1970年代中頃だったと記憶する。山好きの同僚に「是非」と進められたからである。それまでにも“雪中行軍遭難事件”について断片的には知っていたが、この本で初めてその全容が分かり、爾後“八甲田”と聞くとその悲惨な情景が連鎖的に蘇る。今回のドライブ行で奥入瀬から弘前に至るルートを検討する際、真っ先に浮かんだのがあの小説であった。本は借り物であったから所持していない。そこで出発前にWebであれこれ調べてみたところ、事実とはかなり異なることが分かってきた。
小説では、厳冬期青森を出発し八戸に抜けるルートを開削する(実際に八戸まで行くわけではなく、最もきつい山岳路部分を行軍)青森歩兵第5連隊と弘前から寒冷地行軍研究のため、十和田・八甲田・青森を経て弘前へ戻る弘前第31連隊が山中で行き交うストーリーになっているが、実際は全く別の目的で、たまたま実施時期が重なっただけなのである。日露戦争前、両者ともロシアとの戦争を想定した訓練ではあるが、青森隊は沿岸部をロシアの軍艦に抑えられ時の物資輸送ルートを内陸部に求めることの探索にあり、輸送用そりを多用し中隊規模(211名)であったのに対し、弘前隊は主に冬装備の評価が目的で小隊規模(38名)での行軍であった。小説では全員無事帰還した弘前隊と199名の死者を出した青森隊の対比が、ストーリーの一つのポイントになっているが(青森隊の悲劇性を高める)、それはあくまでもフィクションとして新田が作り上げた話なのである。それにしても199名の山岳遭難死は事実であり、ドライブ用地図に遭難碑の所在が記されていたので、迷わずそれのある県道40号線を採るルートを決めた。
奥入瀬の下流拠点石ヶ戸の休憩所を出たのが1時過ぎ5kmほど走ると、道は再び八戸方面に向かう102号と八甲田を経て弘前・青森へ通じる103号に分かれる。この分岐点から青森までの道は十和田ゴールドラインとも呼ばれる山岳ドライブウェイで今日の第3ステージになる(第2ステージは鹿角から十和田湖へ登り、奥入瀬に沿って下る道)。国道ではあるが幹線路ではないし、八甲田山以外は見所もないので道は空いている。冬期は通行止め、連休前に八幡平同様雪の壁が見ごろになるようだが、今は林の中や日陰に僅かに残雪が散見できる程度で、むしろ高く伸びた白樺の緑が美しい。トップをオープンにしてヒルクライム(山登り)走行の楽しさを存分に味わう。十和田を経由した弘前隊はここを通ったのだろうか?
分岐路から10kmほど山道を登ると八甲田山系(八甲田山は大岳を中心にいくつかの峰から成っている)を前に道は時計回りと反時計回りに分かれる。時計回りが国道103号、反時計回りが県道40号線、このさきに青森隊が目指した田代元湯(ここで1泊を予定;現在廃湯)が在るはずだ。狭い道だがクルマは全く走っておらず、比較的平坦な土地なので運転に緊張するほどではない。左手には明るい日差しの中に八甲田の峰々が見える他は、まるでアメリカ西部の平原地帯を走るような雰囲気に変わってくる。ここら辺は田代平平原と呼ばれるほど広々しており、一部は放牧地にもなっているようで、とても豪雪と地吹雪を思い描くことが出来ぬほど長閑な雰囲気である。“少年自然の家”と書かれた立て看板の近くに、無人の山小屋風の建物と広い駐車スペースがありSUV2台止まっているが、人影はどこにもない。登山か湿原巡りをしているのだろう。“遭難碑”を探してみたが、案内板には周辺のランドマークのみでそれは描かれていない(写真の地図は“遭難碑”近くに到着後撮影したもの)。トイレ休憩だけして先に進むことにする。
(写真はクリックすると拡大します



(次回;八甲田山;つづく)