2014年12月31日水曜日

今月の本棚-76(2014年12月分)


<今月読んだ本>
1) イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む(宮本常一):平凡社
2) 独学でよかった-読書と私の人生-(佐藤忠男):中日映画社
3) 敗戦とハリウッド(北村洋一):名古屋大学出版会
4) 思索の源泉としての鉄道(原武史):講談社(新書)
5) 嘘と絶望の生命科学(榎木英介):文藝春秋社(新書)
6) 巴里茫々(北杜夫):新潮社(文庫)

<愚評昧説>
1)イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む
歴史は好きなジャンルだが、読む物は限られた時代に集中している。日本史なら幕末から明治中期辺りまでと、満州事変から太平洋戦争までの近現代史。特に明治維新は、列強の外圧があったとはいえ、自らの手で大変革を遂げただけにその変革の内容に興味が尽きない。それも最近では志士の活躍や政治権力を巡る事件よりは、経済、科学技術、さらには日常社会に向いてきている。今回は民俗学・社会学の視点でそれを追ってみることにした。「あれだけの大変革が起きた時、一般庶民はどの様な状態だったのか?」を知り、近い祖先を偲んでみたかったからである。郷土史のようなものを除けば意外とこの種の本は少ない。
民俗学の泰斗と言えば柳田国男だが学問的体系がキッチリ整理され過ぎているとの先入観がある(著書は引用しか目を通していないので偏見かもしれないが)。出来るだけ自然体で当時を知りたい。そんな観点で見つけたのが本書である。素ネタは外国人女性の旅行(探検)記、それを解説するのは柳田国男に高い評価を得ながら、やがてその一派と袂を分かつことになった、草の根民俗学者の宮本常一が行っていることに惹かれた。加えて前回の本欄で紹介した外国人の書いた「ニッポン景観論」に日本人にはない新鮮さを感じたことも本書を取り上げた動機の一つと言える。
イザベラ・バードは英国人女性の旅行(探検)家(清国、クルドスタン、ペルシャ、チベット、朝鮮なども訪れている)。日本にやってきたのは明治11年(1878年)5月、北米経由で横浜に着く(この時47歳)。6月から江戸(まだ東京となっていない)を出立、埼玉・栃木・福島・新潟・山形・宮城・岩手・秋田・青森・北海道と9月までかけて北日本を廻る。これが『日本奥地紀行(Unbeaten Tracks in Japan;日本の未踏の道)』第1巻。その後京都・大阪・神戸・伊勢などを巡る旅が第2巻。これらの原著は1880年英国で出版されている。邦訳の最初のものがいつ出版されたのか不明だが、その後の翻訳は大部分が1885年、原著第1巻を書き直したものがベースになっている。つまり北日本編が専ら普及しており、ここで取り上げられるのもこの北日本編である。
本書はその翻訳本の一つを昭和49年(1974年)から54年にかけて、宮本が主宰する日本観光文化研究所において、月一回開催された講読会で宮本が解説した内容を書籍化したものである。従って原著に書かれた事柄で宮本が「ここは補足説明が必要」と取り上げた話題がクローズアップされるので、紀行文としての連続性は欠くものの、当時の日本の地方の大衆(町人、農民、職人)生活を理解するためには宮本の知見が大いに役立ち、原著だけでは達せられない、深い意味や背景を学ぶことが出来る。
例えば、「日本の馬は小さく、乗ることが出来ない(原著者は鞍やあぶみなどを持参した)」と言う記述があると、明治初期までの日本馬の体格、馬の使い方(一部の武家の騎馬を除くと、荷駄を運ぶ駄馬が主流)、馬具の話(体格が小さい上にくつわなどが未発達で農耕馬が居なかった。それ以上に馬車が全く存在しなかった;これは馬や馬具ばかりではなく“車輪”の製造技術が未熟;道路の未整備へとつながる)など短い一言を元に馬と日常生活(農作業や輸送)に関わる往時を浮かび上がらせる。
それにしても「極めて貧しい」「衛生状態が酷い」が随所で語られる。特に蚤は至る所(家の中ばかりか草原まで)に居り、これに辟易されるシーンが何度も出てくる。宮本に依れば、これは戦後米軍がDDTを大量散布するようになるまで大差なかったようだ。このような状態は子供が皮膚病に罹りやすい環境を生む。これもしばしば話題として取り上げられている。また、非衛生ゆえの眼病も多くみられ、医師の妻であった原著者に「適切な薬を持ってくればよかった」と嘆かせる。衣服も粗末な生地を紺色に染めたものしかなく、それも着た切りすずめの状態が当たり前だったようだ。
一方で、人力車夫や駄馬(探検であるから、携帯用ベッドなど荷物が多い)の馬子が契約通り仕事をキッチリし、(貧しいにも関わらず)チップを決して受け取ろうとしないことに「こんな国があるとは信じられない」と感心している。また、安全に関しても、旅の過程で不安な状況に置かれなかったばかりか、家の戸締りなどもほとんど顧慮されていないことを見て「世界中でここほどの所は無い」と高い評価をしている。今につながる我が国社会の美徳が、豊かさのみでもたらされるものではないことを知ることはうれしい限りである。
日本人の好奇心も面白い。外国人の、それも女性の一人旅(日本人青年の従者兼通訳一人が同行)、初めて見る異人に老若男女の興味は尽きない。道は人で埋まり場所によっては巡査が交通整理、宿泊先は隣家の屋根まで野次馬が溢れ、部屋に篭っても障子の穴から内部を窺う眼は一つ二つではない。こんな場面で、宮本は当時の地方の宿泊施設状況や統治機構(まだ発展段階の町役場や警察)を補足しながら臨場感を与えてくれる。
同じ東北地方の町や村でありながら豊かさに大きな違いあることを、ありのままに書いた原著を、廃藩置県後の小藩の城下町の衰退や北前船の往来にまでその要因をたどり分析的に示すなど、そのまま原著を読むよりもより深くこの旅行記から当時の日本社会理解を助けてくれる。
日ごろ字面を追うだけの浅薄な読書法に猛省を促させる一冊であった。

2)独学でよかった-読書と私の人生-
高校・大学時代何かの書類に“趣味”記載の欄があると、先ず“映画鑑賞”と書き、次いで読書、水泳、模型製作と続いた。高校の進学指導で生活データが集められ、そこに映画鑑賞の回数を書きこまなければならなかった。毎週2本建ての洋画を中心に少なくとも一回は観ていたのでそれを正直に記入したところ、父兄面接でこれが開示され父にひどく叱られた。こんな生活は大学へ進んでからも変わらず、小遣いのかなりの部分を映画につぎ込んでいた。大きく変化するのは就職し和歌山工場勤務になってからである。洋画を観るには汽車で1時間近くかけて和歌山市まで出かけなければならず、それも選択肢(洋画封切館は一つ)が限られていたからだ。家庭を持ってからはTVの洋画劇場などで古い作品を観なおすばかり、封切りを観ることは数年に1回が現状(今年は先月“フュリー”を観ただけ)、最近は専ら東宝シネマズの「午前10時の映画祭」で懐かしい作品を楽しむくらいになってしまった(平均2ヶ月に1本;年初には“恐怖の報酬”がかかる。何度も見ているが必見だ)。
こんな高校生だったから、映画評論家は、なりたいとは思わなかったが、大いに興味のある存在だったので、自分でも観た後の感想文のようなものをまとめ、映画好きの友達と、それを基に青臭く生意気な議論を交わしたものである。
本書の著者、佐藤忠男は恐らく現役で活躍する映画評論家では最年長だろう(1930年生れ;先日同年生れの品田雄吉が亡くなった)。とは言っても私とは9歳しか違わない。熱を上げていた時代(高校・大学)に戻れば、まだ20代の後半から30代の初めだからそれほど名の売れている評論家ではなかった。名前を知ったのは出世作である「任侠について」が発表され、それが社会的に評判になってからだ。「やくざ映画の評論なんてあるのか?!」とその意外性に打たれ、爾後新聞や週刊誌でこの人の批評を読むようになった。その独自の評はTVで観る売れっ子評論家の軽い調子とは大いに異なり、“信用できる”気にさせるものだった。本書はその新世界を切り開いた映画評論家の、読書を中心にした自伝である。錚々たる一流大学出が揃った世界でこの人が思いもよらぬ“独学”であることを知り、読まずにはいられなかった。
著者が上級学校に進まぬことになったのは、決して経済的な理由ではない。実家は新潟で漁船具を扱う商店。父は早世したが母が切り盛りしている。勉強嫌いや知的世界が周囲に無かったわけでもない。否、知識欲(特に文藝)は人一倍強かったし、優れた資質を早くから示している。原因は“時代”である。旧制中学受験の時期は戦争のさ中、筆記試験では手ごたえを感じていたが、特異な試験の一つに校長が明治天皇の御製(和歌)を読み、その時の受験生の立居振舞を、密かに教諭たちに観察させ、礼を失した者を見つけ選り分けるものがあったのだ。この時受験生にはそれが試験であるとまったく知らされていないので、彼は一瞬ポカーンとした表情で聞いていたらしい。ここで直ちに首を垂れなかったことが合否判定の決め手になったのだ。翌年再挑戦する道はあったのだが、決して不忠者でないことを証明するために海軍少年航空兵(高野山航空隊;戦時拡大版予科練)になり、そこで終戦を迎える。戦後の混乱の中で鉄道教習所(電気科)に入所(有給)、彼にとって “本も映画も面白い”時代がやってくる。無料パスを利用して休日神田辺りまで本を求めて新潟から上京する。卒業後の配属先希望は大船電気区、松竹の大船撮影所があるからだ。「そこに行けば映画に一歩近づける」しかし国鉄大リストラで間もなく失職。次の職場は電気技術を買われて電電公社(現在のNTT)に就職、お役所ゆえに勤務時間はキッチリ5時で終えられる。この時代定時制工業高校の3年に編入し卒業、これが最終学歴となる。
しかし、本来自分がやりたいことは電気技術者ではない。映画に関係した仕事に就きたい。目指すはシナリオライターである。勤務と勉学の時間をやり繰りして関連書物を片っ端から読破するとともに、シナリオライター私塾に参加したり映画雑誌にせっせと投稿、やがてある中小雑誌の編集者に力を認められ、周囲の反対を押し切ってそこに転職する。この時代読んだ本、影響を受けた人々(映画監督、評論家、作家・脚本家)のどこに惹かれ、触発されたかを引用を含めて具体的に紹介されていく。その内容は時にハッとさせられるものがある。
例えば、映画理論の古典の一つと言われる『視覚的人間』(ベラ・バラージュ;ハンガリー人)の中で述べられている“印刷術と映像”に関する原著者の主張「印刷術によって後退させられた表情の伝達力を回復するものこそが映画だ」は「映像化は原著のダイジェストであり内容表現に限界がある。書物に書かれたことは自分のイマジネーションを作り出せる点で映像よりも奥が深い」と日頃思っていた私の考えと真逆の見方であり、この歳になって映画の新たな楽しみ方を教えてくれた(無論俳優の演じ方は注目していたが、原作表現との比較まで思い至らなかった)。
本書ではしばしば評論誌「思想の科学」との関係が語られる。丸山眞男、鶴見俊輔、都留重人などリベラル(と言うより左翼知識人)な考え方の学者・評論家が中心になって創刊された、一見著者とは住む世界が異なるような出版物である。そのきっかけは彼の斬新な映画評論に鶴見俊輔が注目、のちに著者を有名にする「任侠について」をこの雑誌に発表する機会を作ったことにある。これが縁でやがてその編集長を務めることになるが、これは映画評論の世界をはるかに超えたポジションと言える。自助の人面目躍如と言うところだ。
語られる話題は映画に留まらず、演劇、文学、歴史、国際関係にまで及ぶ。そしてそれらの裏には必ず多くの書物(およそ200冊を紹介)から得た知見とそれを咀嚼した著者の考え(読書論)がある。
「本当の教養は自ら設計しなければならない」 その実行例として面白く読めたが、個人的にはもっと映画に集中したものを期待していたのでその点不満が残った。

3)敗戦とハリウッド
映画関連の本が続く。
米国の占領政策の中に映画に依る洗脳があったことは多くの戦後史で語られてきているが、文化政策の一端として断片的に「それが在った」ことが記されているものがほとんどである。その背景や具体策、実施の過程、効果について映画だけを取り上げて詳細に調査分析したものは目にしていない。本書は当にそれを扱った学術書である(米大学における博士論文がベース)。大学出版会の出している本だから多少硬い内容であることは予期していたが、届いた本に目を通したところ、220頁の本文の後に83頁にわたる索引・引用文献リスト・注が付加されており、「これは軽く読み流すわけには行かない」と覚悟を求められた。読後感は「日本近代映画史の名著として、その分野(映画に留まらず、戦後占領史)の研究者に必読の一冊になるであろう」と言うことである。
先ず評価するのは、アメリカ側の事情が極めて克明に調査分析されていることである。本国政府、(占領)軍、ハリウッド(映画業界)には戦前を含めて対日映画施策についてそれぞれの考え方があり、それが時間の経過(特に冷戦の進展)とともに変化していくことが分かること。占領軍の中にもリベラルと保守がありしばしば対立していること。業界も本国・現地・各社の思惑が交錯し、検閲基準や経済性だけで提供作品や流通方法が決まらぬことなど、占領洗脳策も状況に依り一様ではいかなかったことが露わになる。
特に映画に依る対外戦略(戦時戦後ばかりでなく平時を含む。他のアジア諸国やヨーロッパを含む)や業界を含む関連組織とその権限などの歴史的変遷を解説するところでは、国務省と陸軍の主導権争いが、それに関わった人材と経歴を実名付き紹介、往時の映画施策が臨場感をもって伝わってくる。
また、既存映画公開審査事例ばかりでなく、日本映画の製作に関する各種検閲も戦前を含めてその内容を詳らかにしている。占領下の検閲では、特に時代劇はシナリオ段階からダメが出ることが多く、何度も修正を繰り返しながら、結局製作できなかったものがかなりあった。必要以上に武士の世界を恐れていた姿は、今から見ると滑稽である(封建社会からの解放と言う面もあるが)。
次は、映画の内容ばかりでなく、その配給・流通方法、映画館の選別と経営、マーケティングなど占領下洋画ビジネスの実態が詳しく述べられていることである。指定席制度や入れ替え制、安全・衛生施策など廃墟の中からその形態が整えられるプロセスは、それまで本書ほど体系立てて整理されたものはないのではなかろうか。この辺りは“洗脳”というよりは日本式興業方式の近代化の歩みとも言える。資材の乏しい環境の中で、高い優先度が与えられ建設された洋画専門館スバル座(有楽町)完成とこけら落としの様子(上映作品、招待客など)から、「あの時代こんな映画館が在ったのか!」と驚かされる。
考察されるのは上からの目線ばかりではない。日本人の洋画(主に米画)に対する関心度・嗜好・行動などが分析される。
映画の黎明期、無声映画時代には我が国映画技術の未熟さもあり洋画の人気が高かったが、トーキーになり一度下火になる。これは他国と違いいきなり吹き替えに移行しなかったことが主因である。やがて字幕方式の質が上がり、ファンが戻り始めてアジア最大のマーケットになるが、国際紛争・戦争もあり次第に国策で洋画が遠ざけられていく。この渇望感が戦後一気に吹き出し、戦塵の残る中で人々が洋画に殺到する。その動向が数字をもって語られ、如何に日本人が洋画好きであったかを証明する。さらには評論家の活動、映画雑誌の役割と隆盛、そこに組織されるファンクラブ(高校生・大学生が特に熱心)の実態などを掘り下げ、アメリカ映画文化の普及が決して上からの押し付けではなく、それ以上に人々の洋画に対する関心の高さと相乗的に作用してそれが迅速に進んでいった姿を浮き彫りにする。
著者は、一部の日本人にある「映画に依る米国の洗脳策がまんまと成功、日本人を骨抜きにし、対米追従国に変えた」と言うような短絡的な結論は全く考えていない。むしろ映画を通じて日本人の米国理解の深化が進み、緊密な日米関係が築かれ、その後の反映につながって今日があるとの見解を採る。講和条約発効を挟む中学生時代、視聴覚教育でしばしばアメリカ映画(記憶に残るのは、“子鹿物語”、“わが谷は緑なりき”、米画ではないが“(シューヴェルトの悲恋を描いた)未完成交響曲”などがある)を観てそこに強烈に惹かれてきた世代として、この結論に全面的に賛成する。
冒頭にも記したように、本書は映画史、占領史、アメリカ関係史などの視点から極めて質の高い内容を持つ。それを実現できた最大の因子は膨大なアメリカ側の文献・資料にある。そしてそれを可能にしたのは、純然たる日本人でありながら、幼少時から多言語教育を受け、米国の大学に進みそこで博士号を取得、現在ウィリアム&メアリー大学(バージニア州所在のアメリカでハーバードに次ぐ古い歴史を持つ公立大学。トーマス・ジェファーソンも卒業生)准教授の地位にあることが大いに与っていることがあとがきから分かる。著者の年齢は私の息子と同じ。両親は私同様少年少女時代あの眩しいようなアメリカ映画の洗礼を受けた世代に違いない。
学術書のわりには平易に書かれており、上記の分野に関心のある読書人にはお奨めの一冊であるが価格が4800円(税抜き)もするので図書館利用が得策かもしれない。

蛇足;若い洋画ファンについてかなりの紙数を割いている。中でも雑誌「映画の友」の会の誕生(編集長淀川長治の下で発足)と発展の過程が面白い、と言うより驚かされた。きっかけは都立上野高校の映画部の生徒からの講演依頼にあったと言う。その後の集まりもしばしば同校で開かれる。私はそこの卒業生だが少し時代が遅かったようで、映画部は存在していなかった(あれば当然入部していただろう)。

4)思索の源泉としての鉄道
本欄に何度か登場している“鉄道ひとつばなし”の第4巻目である。著者は政治学者、特に政治と天皇制の関係の研究者としては恐らく第一人者だろう。鉄道エッセイの2大巨人、内田百閒(作家)、宮脇俊三(編集者、作家)と違い、物書きとしてはアマチュアであるが、鉄道を書かせれば先輩2者に次いで多作である。その理由はこの“ひとつばなし”が講談社の読書人向け雑誌『本』(月刊)掲載の連載エッセイを素にしたものだからだ。すでにその量は最新号(20151月)で228回を数え、4050話を一冊に“ひとつばなし”シリーズにまとめ新書として出版している。
この人の鉄道ばなしが先人2者と大きく異なるのは、両先輩が専ら旅行・紀行あるいは鉄道そのもの(車両や職員)をテーマに取り上げているのに対して、鉄道と社会や文化との関わりに重点が置かれているところである。
今回は42話が9章に分けて取り上げられているのだが、章のタイトルは;東日本大震災と鉄道、天皇・皇后と鉄道、沿線文化の起源、断たれた鉄路をゆく、鉄道をめぐる記憶と文学、乗客の横顔、鉄道復興の軌跡、海外の鉄道で考える、よみがえる「つばめ」「はと」、といずれも旅行記的な色彩は薄い。ここは鉄道ファンの評価の分かれるところで、純粋な乗り鉄や撮り鉄あるいは技術オタクには敬遠されがちだし、著者も“鉄道マニア”ではないとしばしば明言している(高校時代の話などがときどき出てくると、相当のマニアに見えるのだが)。そして著者とマニアは一般読者には見えない所で火花を散らしているらしいことを最近知った(書評などで窺える)。たかが鉄道、されど鉄道といったところか。
私と言えば、乗り物(特に鉄道)は何でも好きだから、こんな原理主義的な仕分けは全く関係なく、車両・施設、車窓風景、乗客、車内食、歴史、技術何でもありで楽しんでいる。
ただ今回引っかかったのは、今までと異なり“4”とせずに“思索の源泉としての鉄道”としたことである。書店で見た時“ひとつばなし”とは関係のない新たな鉄道ものと思って手に取り、序を読んでそれが“4”であることを知った。そしてこのタイトルがフランス文学者・哲学者・思想家森有生(有礼の孫)のエッセイ「思索の源泉としての音楽」から借用したことがそこに明記されていたのだ。つまり著者は森にとって音楽と思索が渾然一体となっていたのと同様、鉄道は単なる趣味ではなく、本業の研究と不可分であることをこのタイトルに込めたわけである。「鉄道マニアなんかではない!鉄道こそ我が学問の源泉なのだ!」と。
となると読み方も変わってくる。狭義の政治学はともかく、それぞれの話に確かに社会との関わりが大きな重みをもって取り上げられていることが見えてくるのだ。例えば、第1章東日本大震災と鉄道では、第3セクターの三陸鉄道の早期復旧とJR東日本の(成り行き廃線を疑うほど)遅々として進まない在来線の再建、対して東北新幹線への集中的な経営資源のつぎ込み方を取り上げ、災害復興の問題点を論じたりする。また第2章天皇・皇后と鉄道では御料車(天皇、皇后、皇太后用車両)をテーマに、それぞれの皇室内あるいは歴史上の序列付けを解説(例えば、車両の長さ、車室の広さ、椅子の高さ)して、往時を偲ばせる。さらに第4章の断たれた鉄路では震災(震災;常磐線)や自然災害(水害;只見線、高千穂鉄道)で不通になりいまだ元へ戻らぬ路線を代行バスやレンタカーで走り、沿線村落社会の衰亡をつぶさに報告する。当に“思索の源泉”である。
そうは言ってもやはり“鉄道ばなし”、気楽に読める本である。ただちょっと気になるのは、200を超す話を書き連ねてくると、材料の使い廻し(第3章沿線文化)や無理な話題を作り上げる(第9章の「つばめ」「はと」は空想物語)手抜き(?)も散見されるし、ローカル線乗車記などは宮脇調をなぞる感じがして新鮮味が無い。思索の材料は沢山あっても、ボツボツ同じ様式は終点に近づいているのかもしれないと思ったりもする。

5)嘘と絶望の生命科学
一昨年末ノーベル生理学医学賞がiPS細胞を創り出した山中京大教授に授与され日本中が沸いた。明けて1STAP細胞の研究報告が科学誌ネイチャーに掲載され(2本同時に)、小保方理研研究員が一気にスターダムに上る。4月その論文内容に種々の疑義があることが分かってくる。捏造だ、盗用だ、いや存在しないのだ、博士論文はコピペの塊だ、と。小保方研究員は「200回成功した」と反論。共同報告者で指導的立場の笹井博士の自死。検証再現実験と続く。本書を読み終わった直後、1219日「再現は出来なかった」との報告があり、26日「あれはES細胞の混入であった」と締めくくられた。そしてその場の記者会見で「何故そんなことが起きるのか?」との質問に、理研調査委員が答えていた内容は、まるで本書のコピペとも言えた。「“異常な”競争の激しさ」である。
本書購入の動機はSTAP問題そのものではなかった。40歳頃から何かこの分野の研究に胡散臭さを感じており、たまたまそんな気持ちを見透かしたようなタイトルの本が出たので読んでみることにした。この“胡散臭さ”には個人的な理科分野の好み(子供の時から生物系に全く興味がない。従って高校では選択せず、知識は中学生以下)から会社の新規事業(新エネルギー、新素材、バイオ、情報の四分野を狙っていた。バイオだけはよく新聞に取り上げられていたが、多くの従業員にはちんぷんかんぷんだった)に至るまでいろいろな要素がない交ぜになっているのだが、一言でいうと現実の研究と喧伝される(あるいは期待される)ゴールとの間のギャップが大きく、“誇大広告”のような感じがしてならなかったからである。若くて優秀な研究者あるいは投資家が関心を持つためには夢が必要なのはわかるが、“薬九層倍”以上の話が横溢しているように思う。本書の内容はその“胡散臭さ”が間違いでなかったことを具体的に教えてくれるものだった。
バイオ(生命科学とバイオは厳密には同義ではないが、ここでは同義として用いる)研究にはカネがかかる。どこにかかるか?実験を担当する研究者の人件費である。実験量が勝負なので大量の研究補助職を雇う必要がある(期間限定、契約社員と同じ)。成果を早めるためにはさらに多くを雇う。このような研究補助職は“ピペド”と呼ばれる。ピペット(試料を移動させる実験用スポイト)奴隷あるいはピペット土方と言うわけである。大方は1990年代以降急速に増えた大学院卒業生(ポスドク;博士号取得者)がこの奴隷である(本書では日本のポスドクの惨状にかなりの紙数が費やされるが、これはバイオ分野に限らない。また日本の博士審査の甘さも取り上げられ、小保方博士の能力に疑義が投げかけられている「独りで研究を進められる人なのか?」と;私も同感である)。
先端科学ゆえに財源(国家予算)は比較的豊かである(バイオ関係で毎年約3千億円)が、それ故にバイオにかこつけてここに群がる研究者は多い。期待効果、成果が認められれば研究費獲得で優位な位置につける。だから、充分検証されないデータを用いてでも早く論文にしようとする。ここに捏造(Fabrication)・改ざん(Falsification)・盗用(Plagiarism)、つまり研究不正が起こる。
これは日本だけでなく、FFPという略号が通用するように、世界中同じような傾向にある。そして皆世界的に権威のある専門誌に論文が掲載されるよう鎬を削っている。バイオ分野では、“ネイチャー”、“サイエンス”、“セル”が3大誌でここに論文が載ると引用点数(インパクトファクター)が極めて高くなる(ロイターが提供する引用点数自動計算システムがある。研究者評価に直結するこの引用点数を高める工作をする者も少なくない)。
一方で充分検証されない論文が撤回されるケースも多く、一番多いのがサイエンス、ネイチャーが3位、セルが6位、撤回理由は捏造が43%でトップである。論文誌の権威はどうなっているのか?論文誌側の主張は「場所を貸しているだけ。内容審査はレフリーの責任」。しかし、「これこれのデータを期限までに出せば載せてやる」と投稿者に告げ(特に今回問題になったネイチャーが顕著)、FFPを誘うようなことをして責任逃れをすることはできないだろう。本書は論文雑誌の罪についても追及の手を緩めない。
この他にも専門細分化とチームによる研究の全体把握管理の難しさ、理研の組織的問題点など取り上げ、研究活動を第三者の立場で適宜監査助言できる組織(研究者だけに研究のことを決めさせない)の必要性を、バイオ研究再興(バイオ村の解体)策として提言する。
STAP問題に関しては、再現実験の結果が出る前に本書が出版されているので、「こんなことはよくあること。もっと悪質なものも多い」とし、「これにひるむな」とエールを送る。小保方研究員対しても総じて同情的である。
著者は東大で生物学(生物学科動物学)を修士課程まで学び、神戸大学医学部に転じて医師免許を取得した医博。現在病理学が専門である。
生命科学を主題にするものの、内容は社会問題であり、生物を苦手とする私にも難儀せず読み通すことができるものだった。それぞれの問題(ブラック企業状態、研究資金、研究不正、研究者評価、研究広報・ジャーナリズムなど)に対し情報・データの出所が明らかで説得力がある点を大いに評価でき、“胡散臭さ”の根源追求とSTAP問題理解の一助となる一冊であった。

6)巴里茫々
旅や乗り物の面白そうな本がなかなか出ない昨今、書店の文庫本コーナーで平積みになった本書が目に留まり、懐かしさから購入した。およそ半世紀前に出た「どくとるマンボウ航海記」が痛快なノンフィクションだったからだ。海外に出たいばっかりに水産庁の漁業調査船船医になりインド洋、紅海、地中海を経て北大西洋などを廻り、戻ってくる体験をユーモラスに描いた作品である。同じ年に芥川賞(「夜と霧の隅で」)をもらうような気配は全く感じさせない内容と作風である。これも持病の躁うつ病ゆえだろうか。
父は精神科医で歌人の斎藤茂吉、海外留学経験もある。兄も同じ医師で作家・エッセイスト(心の問題に関するものが多いが、エッセイは乗り物に関するものもかなりある)の斎藤茂太、この人の乗り物好きは知る人ぞ知る超オタク級。母(輝子)も高齢旅行家として勇ましい旅で有名(79歳で南極旅行!)。こういう血筋だから、本人も旅好きだし優れた書き手である。
本書は二つの旅に関する短編から成る。一つが本書のタイトルでもあるパリを取り上げたもの。もう一編は若いころ医師として参加した京都カラコルム登山隊の訪問地を26年後再訪する話である。
・巴里茫々;
1958年まだ一般の人にとって海外旅行は夢のまた夢の時代である。それでも国費留学生など僅かなチャンスはあった。旧制高校(松本高校)時代の文学仲間辻邦生は夫人とともにはパリに在る。著者が文学の道を志すきっかけは無論茂吉の存在もあるが、旧制高校時代トーマス・マン(「魔の山」;1929年ノーベル文学賞)に触れ彼に傾倒していったことも大きい。マンの生まれ育った地(リューベック)を訪れたい。辻に会いたい。この渇望から見つけた解決策が漁業調査船の船医である。船が独・仏の港に寄港する予定になっていたからだ。つまり「航海記」はこの目的達成の副産物なのである。
その「航海記」はノンフィクションの紀行文、「茫々」は小説である。だから書き出しはパリへの思いが夢物語から始まり、そこには少年時代、学生時代の文学や異性への関心も語られる。文科志望を茂吉に一蹴され不承不承医師になったこと、人妻との禁断の恋、妙な縁で仙台(東北大学時代)から上野まで同道することになった米兵のオンリー(一種の契約愛人)などなど。このような一見旅とは関係ない事柄が、のちのパリ滞在記に結びついてくるところはさすが物書きである。
厳寒の候、船がハンブルグに入るとマンの故郷リーベックを訪れる。この航海最初の成果をここで得たに違いない。何故なら、1960年芥川賞受賞作品「夜と霧の隅で」は第2次世界大戦中のドイツが舞台、下地はドイツで先行して出版されたのが「夜と霧」でこれはアウシュビッツ強制収容所に送られたユダヤ人医師の体験談である。そして敬愛するマンはユダヤ人、ユダヤ排斥が始まるとスイスへ逃れその地で生涯を終える。現地での見聞は当然作品に生かされただろう。
次の寄港地アントワープは幾日も深い霧に閉ざされなかなか出航できない。辻への連絡は手紙でしてあるが、後の予定を考えるとパリに立ち寄ることが出来るだろうか。
ギリギリのタイミングでル・アーブルの港に着くと、簡単な英語も通じない(フランス語は全くダメ。ドイツ語は最も得意)。不安を抱えながら一人列車でパリに向かう。憧れのパリで苦労しながら貧乏留学生の辻夫妻と再会、案内される街のそこかしこに感動する短い日々を送る。船はジェノヴァに寄り帰国の途に就く。
この後作家として成功、何度かパリを訪れ(猛母や妻と)その度に辻夫妻との思い出が甦る。ある時一人カフェでゴロワースを吸い、カンパリ―をちびりちびりやりながら辻を待つ、しかしなかなか現れない。そうだ彼はもうこの世にはいないのだ。夢から覚めてこの短編は終わる。
・カラコルムふたたび
1965年著者は38歳になっている。松本高校時代は北アルプスに何度も出かけているがさすがこの歳になると、カラコルム登山隊(7000m級未踏峰ディラン登頂を目指す)の登頂隊員は務まらない。ベースキャンプまで同行しそこで医師として隊員やシェルパの面倒を見るのが役割である。東京からカラチ経由でラワルピンディまでは定期便があるのだが、その先山に取りつくキルギットまでの飛行は天候次第、このあとは陸路となるが断崖絶壁をかすめる悪路の連続。ベースキャンプまでの行程でかなり消耗してしまう。
ベースキャンプに留まる日本人は著者一人、シェルパも常駐するのはほとんど英語も話せないコックのおじさん、メルバーンのみ。言葉は通じなくても長く一緒にいれば心は通じてくる。「白きたおやかな峰」はこの体験を素に書かれ、メルバーンは実名で登場する。
26年後TV局がカラコルム取材を計画、その相談を受ける。あの時の難行苦行と今の歳(64歳)を考えれば無論現地へ出かけるつもりはなかったのだが・・・。いろいろあって結局出かけることになる。出かけるならば何としてもメルバーンに会いたい。TV局は苦労して彼がまだ健在であることをつきとめる。
この短編は、昔の山行きを回想しながら、メルバーンとの再会を果たすまでの物語である。再会したメルバーンは70歳を過ぎている(自分では何歳か分からないのだが、推算して)が子供は全部女。著者への頼みは「ドクター、男の子が生める薬を送ってくれ!」「?」帰国後同僚の医師と相談して送ったのは“カロリーメイト”!

いずれの作品も外国を舞台にしたものであるが、単なる旅行記ではない。むしろ旅行後に発表された作品の材料発掘・構想作りの秘話を小説化したものと言える。作風は、深刻な話とユーモラスな語り口が交錯し、代表的な作品「夜と霧の隅で」と「どくとるマンボウ航海記」がそれぞれの短編の中に詰め込まれたような気分が味わえる、ユニークで愉快な短編集であった。時には日本人の書いた小説も悪くないな、これが読後感である。

<今年の3冊>
昨年に続き今年読んだ70冊の中からベストスリーを選んでみました。

1位;高橋是清-日本のケインズ、その生涯と思想- (7月)
 リチャード・J・スメサートス 東洋経済新報社
 ノンフィクション;政治・経済・社会
 日露戦争の戦費調達、膨張する軍事予算の抑制、国家財政健全化に命を張った男。危機的状況にある国家債務を抱える現代、“出でよ!第二の是清!”

2位;ウォール街の物理学者 (2月)
 ジェイムス・オーウェン・ウェザーオール 早川書房
 ノンフィクション;科学・数理・経済
 金融工学が諸悪の根源?社会と数理の関係を、金融の世界に例を求め歴史的視点からその手法と利用上の問題点を探っていく分かり易い解説書。リーマンショックを注意深い数理運用で見事にかわしたところもあるのだ!

3位;誰よりも狙われた男 (10月)
 ジョン・ル・カレ 早川書房(文庫)
 フィクション;スパイ
 冷戦の影を引きずる独・英・米・ソの諜報機関と過激派イスラムの戦い。これに巻き込まれる、不法入国したアルメニアのイスラム教徒と彼を支援する市井の人々。巨匠の最新作は、一行たりとも読み飛ばすことは出来ない。

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本年も<今月の本棚>をご愛覧いただきありがとうございました。来年もよろしくお願い申し上げます。
来年が皆様により良い年になるよう切に願っております。


2014年12月23日火曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-4


2. 1988年経営トピックス-1;経営方針
新経営陣として先ず手掛けたことは経営方針の確認である。社長のSMZさん、MYIさんはともに情報システム室での勤務経験は長かったが、SMZさんは東燃役員(1984年取締役)就任以前の経理部長時代から、MYIさんも1984年広報室が新設されその初代室長に任ぜられて以降情報システムとは関わりがなくなっている。つまりSPINの創立には経営会議や部長会の場で話を聞いてきたに過ぎないので、新会社の経営状況と変化の激しいIT技術・利用環境に関する認識が従業員とかなりギャップがあった。加えて創立50周年(1989年)を目指して全社の高度情報化を目指すインテリジェント・リファイナリー(IR)構想が立ち上がり、グループ外部への事業拡大と内部プロジェクトへの経営資源割り当てに難しい舵取りが予想される時期でもあった。設立から3年、やっと経営も軌道に乗り始めたところだから大きな経営方針の変更は必要ないと思ったが、経営の意思統一、従業員との一体感の醸成は大事なことである。
新経営陣で今までの経営を知るのは私だけ。その私も役員登用を告げられた時から、従業員時とは異なるこの会社に対する気持ちが芽生えてきていた。“新事業への夢”よりは“生き残り”への拘りである。表(従業員、株主)に向けては夢を語り、実際は必死で“生き残り”策を考える。そしてこの“生き残り”が2003年社長退任までの15年間の会社経営に関する私の根底理念だったと言ってもいいだろう。
ここに至った背景の一番大きなことは東燃の子会社役員登用システムにある。特別な例外を除けば、出向ではなく転出になる(後年他社ではプロパー社員を雇いながら社長まで出向者の子会社が多々あることを知って驚いた。これではまるで“会社ごっこ”である)。まだ49歳、上の子が17歳、2番目は15歳、一番下は10歳の時である。これで退職金を受け取り、就任に際してNKH社長からは「これからの君たちの評価は損益計算書次第」と告げられ、年俸(ボーナスなし)は親会社が決める。順調に経営すれば親会社役員に登用と言う事例もない。当に退路を断たれての経営参加である(分社化や新事業創出に関してここは議論のあるところだが、SPINの場合はこれで良かったと思っている)。
この時の“生き残り策(外向けには成長戦略)”は、結論から言えば創設時の経営戦略を踏襲するものだった。“(広義の)化学プロセス工業における、No1システムゼネラルコントラクター(今で言うシステムインテグレータ)を目指す”ことである。SMZさんもMYIさんも事務系(経理系)の人だが、プロセス工業への絞り込みに差別化因子があることは直ぐにわかってくれたし、プラント操業活動をお金に換える情報処理ではむしろ私よりは経験豊かだったから、市場規模の伸びが著しい事務関連(販売、経理、購買、人事など)システムでもその強みを発揮できる既存の経営戦略に全面的に賛成してくれた。
ただ方針が決まればあとは問題なしと言うわけにはいかない。成長するマーケットで生き残ると言うことは少なくともその成長に遅れをとらないこと、さらにはNo1を目指す具体策策定が必要である。火急の課題は、IRプロジェクト要員を含めた人員増強、増えた従業員の働く場所の確保、TCS(東燃コントロールシステム)に限られているプラント操業系サービスを他の業務(生産管理、プラント保守、品質管理など)エリアに拡大すること、それらすべての基盤となる市場開拓・営業力の一層の強化など経営課題は山積みしていた。人員増強や営業力強化は主にMYIさんが、プラント系ビジネスの展開には私が当たることで問題解決の道を探っていくことになる。

(次回;1988年経営トピックス;つづく)


2014年12月16日火曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部;取締役の一人として)-3


1.   経営陣一新-3
東燃本社社長のNKHさんに次期役員任命を言われてから1週間くらいたった2月下旬、次期SPIN社長と告げられたSMZさん(当時東燃経理・財務担当取締役)に呼ばれ、本人から直に次期社長になることを伝えられ、4月までの間に適宜SPINの経営状況についてレクチャーして欲しいと依頼された。「同期のMTKさんも居るのに何故?」とは思ったが「10歳近く年下の私の方が聞きやすいこともあるだろう」とお声がかかると部屋へお邪魔していた。そんな日々が続く3月上旬のある日、気安く話が出来るようになったこともあり、「新経営体制はどうなるんですか?」と聞いてみた。「ウン?まだ知らないのか?僕と君とMYI君だよ」との返事。「!?(エッ!MTKさんはどうなるのだろう?やっぱりMYIさんはSPINに来ることになったんだ!)」「MTKさんはどうなるんですか?」と問うと「常任監査役だ(それまで監査役は本社システム計画部長が非常勤で務めていた)。MKNさんは顧問、KKTさんはTSK(東燃石油化学)に戻ることになった」との信じ難い答えが返ってきた。そして「MYI君との役割分担は君が決めてくれ」と初めての仕事を命じられた。
そう言えば2月下旬からSPIN役員室(社長を含む3役員共通)に出入りしていて、何か雰囲気がそれ以前と違っていた。諸経営案件に対する詰めが簡単なのだ。一言でいえばこちらの提案や報告がそのまま通ってしまうことが多かった。この時点では次期経営陣につながるのは私だけだったから、そういう結果になったのだろう。現職経営陣一掃。順調に経営されている会社では一般にはあり得ない役員人事である。
3月下旬すべてが明らかになった時MTKさんと二人で話す機会があった。人事に関して決して泣き言を言ったり、人を悪く言うことのなかった人だが、ポツリと「社外の人に、何か大きな不祥事を起こしたと思われても仕方がないよな」と漏らしたことは今でも鮮明に記憶に残っている。そしてNKHさんから「監査役でも残りたいか?」と問われ「まだ60歳前なので、しばらく置いていただきたい」と答えたことも打ち明けてくれた。
大分あとになって分かることだが、NKHさんはMTKさんをSPIN経営の第1線から外すことに随分迷っていたようだ。私に対するご下問は「SMZさんとMTKさんは一緒に上手くやっていけるか?」だったが、「MTKさん無しで経営がやれるか?」と言う質問を、東燃役員や上級管理職あるいはSPIN管理職にも個別にしていたことを、問われた当人から聞かされたことがある。これが変じて私が「MTKさん無しでやっていけます」と断言したように一部に伝わっていることは大変不本意なことである。
このMTKさん外しは、グループ内部より外にジワーッと影響が出ていく。決して“不祥事”などではなく「あれだけの実力者、功労者の処遇としておかしいのではないか?」との声である。MTKさんをよく知る同業他社、コンピュータ会社、計測制御機器メーカーばかりでなく、石油・石油化学工場の事故調査では絶大な力を持つ学会の先生方からもそんな声が挙がっていた。
3月末の株主総会で東燃本社・関係会社の株主総会(SPINの場合は東燃のSPIN担当役員1名)ですべてが決まり、各社の役員は大幅に若返った。MKNさんとMTKさんは前年秋に開いた品川オフィスに部屋を設け、KKTさんはTSKに戻っていかれた。新経営陣はSMZさん、MYIさん、私の3名。MYIさんに営業部・総務部・ビジネスシステム部を担当してもらい、私は技術システム部と経営企画機能(各部よりメンバーをピックアップ、事務局は総務部)・海外関連業務(営業を含む)を担当することでスタートした。

(次回;1988年の経営トピックス)