2015年4月30日木曜日

今月の本棚-80(2015年4月分)


<今月読んだ本>
1) 教養としての聖書(橋爪大三郎):光文社(新書)
2) 「裏国境」突破東南アジア一周大作戦(下川祐治):新潮社(文庫)
3) 数学記号の誕生(ジョセフ・メイザー):河出書房新社
4) 無人殺人機ドローンの誕生(リチャード・ウィッテル):文藝春秋社
5) 窓際のスパイ(ミック・ヘロン):早川書房(文庫)

<愚評昧説>
1)教養としての聖書
自慢できることではないが、私の本棚に宗教に関する本は皆無と言っていい。神道・仏教関係は絶無。キリスト教は宗教戦争や西欧文明史をテーマとするものが少々。イスラムに関しても歴史・文化に対する興味から数冊あるが、コーランに絞ったものはない。ユダヤ教関連も、ユダヤ人理解のためのものに限られる。無論聖書など持っていないし読んだこともない。ぼんやりとした理解は、旧約聖書・新約聖書・コーランが同根であるということくらいである。“教養”以前の状態にあるのだ。
好んで読む本の一分野は、小説であれノンフィクションであれ、欧米を舞台としたものが多い(歴史・戦史・外交から軍事サスペンス・紀行まで)。そこには章の扉や文中に欧米人なら常識と思える警句や格言それに聖書の一文が援用されることがしばしばあるのだが、どうもこれがピンとこない。日本人が書いたものに“盛者必衰”とあれば、それは4文字の漢字の意味に留まらず、源平盛衰の歴史に思いがおよぶのだが、こんな気分に浸れない。「もしかすると、このもどかしさを解消する一助になるかもしれない」。こう期待して本書を紐解くことになった。
著者が著名な社会(宗教)学者であることは承知していたが、今まで新聞記載の評論を除けば著作を読んだことはない。本書を読んで著者の研究活動の一部(宗教と現代社会)を垣間見ることになるのだが、宗教に関心の薄い私にとって、目は専ら内容そのものより文献学的なところにいってしまい、結論として「聖書っていい加減なものなんだな」「このいい加減さを取り繕い、もっともらしくまとめるのが修道院の修験僧、それを信徒に解釈・説教するのが司祭や牧師の役割なんだ」と言うことになってしまった。だからと言って本書を貶す気は全くない。むしろ“社会とともに進化する宗教”の視点で読めばなかなか面白い本である。
旧約聖書も新約聖書も30に近い書物から成る。それらは個々に時間をかけて完成され、更に一冊の“聖書”としてまとめられるのである。本書に取り上げられるのは、旧約聖書では;創世記、出エジプト記、申命記の3編、新約聖書では;マルコ福音書、ローマ人への手紙、ヨハネ黙示録の3編、計6編である。
創成記や出エジプト記はアダムとイヴ、ノアの箱舟や十戒など巷間知られた内容を含むので我々にも親しいものだ。これらはモーゼが書いたと伝えられるのだが、聖書学者の研究によれば実際はモーゼが生きた時代から700年後くらいに成立したらしい。本書ではこのような時代考証ばかりでなく、内容解釈の変遷も論じられる。つまり時代の社会環境を踏まえ、宗教権力者や統治者によって適当に改変が行われていたことも示されるので、現世に迎合する宗教と社会の関わりに何か不真面目なものに見えてくる。
無論これは著者(キリスト教徒)が意図するところではなく、思想や哲学は以前のものの解釈を新しくするとともに、それに更なる新理論を加えて変化発展するものと見ており、むしろ社会科学の本質を示す事例として、敢えて諸編諸説の不自然さ・不一致を開示しつつ聖書の持つ意義を訴えようとするものであろう(もし教典のオリジナルに忠実であろうとすれば“原理主義”に陥り、殺伐とした(特に異教徒排斥)世界になっていたと推察される)。
本書は6回の教養講座をまとめたものであり、著者・受講生間の講義、質問やコメントのやりとりで進んで行くので、テーマが硬いものだけに、一呼吸入れながら読んでいけることは評価できる。反面、聖書原典内容、聖書学者などの考え、著者のコメントの区別がつき難いところがあり、編集の仕方にもう一工夫欲しかった。なお、購読目的の「援用される聖書の一言の踏み込んだ理解の一助」は聖書を確り深読みしないことには実現できないことを痛感させられただけである。

蛇足;本書によれば、“多様な解釈”が行われるようになった背景の一つに、教典(旧約聖書の原典はヘブライ語)の翻訳を許したことがあるとしている。それに対してイスラム教はアラビア語からの翻訳が許されていないそうである。アラビア語圏以外の国・民族はどのように内容理解をするのだろうか?

2「裏国境」突破東南アジア一周大作戦
訪問した外国数は約30ヶ国、渡航回数は100回に近いが、陸路で国境を超えたのは3国境9回に過ぎない。内訳は、6回が度のナイアガラ滝観光における米国とカナダ間の往復、マレーシアからシンガポールへの移動(片道)、香港からの深圳観光で往復2回である。いずれもメジャーな観光入出国地点で何もややこしいことはなかった。
しかし、かつての冷戦時代の東西国境あるいは現代の南北朝鮮国境や中東周辺の国境のように、生死をかける場面もあるような危険極まりない国境がいたる所に在るのが世界である。そして政治や軍事対立が無くなっても、外国人には簡単に往来できない国境が東南アジアにはまだまだ多くあるのだ。本書はこの地域をホームグランドとする(タイには家族とともに数年居住し言葉も使える)著者が、それらの裏国境を突破する冒険譚である。
普通の旅行記では売れないと見たのか、出版社が持ち込んだ企画は辺境の国境ばかりである。バンコクを扇の要として、270度くらいに広げて東南アジアを反時計方向に回る。計画ルートは、バンコクを出発、カンボジャ、ヴェトナム、ラオス、タイ北部、ミャンマーを北から南へ縦断し、タイ南部を経てバンコクに戻る。移動手段は主に長距離バスだが乗合マイクロバスやフェリー、小さな川下りの船もある。泊まるのは現地人が利用する旅籠のような所。これだけでもシニアバックパッカー(この時60歳)には大変な旅だが、辺鄙な場所に在る国境通過点は様々な不確定要素がある。開いているのかどうか、ビザの必要性、外国人の扱い、通過後の行動規制や交通手段などなど、そこまで行ってみなければ分からないことだらけなのだ。
それぞれの国境通過が計画通りいかないのは、島国に育った日本人ゆえのところもある。入出国と言うのは厳密には2ヵ所(出国・入国)のチェックポイントを通過することである。ある国の出先外交機関で「あそこの国境は超えられますか?」と問うと「出国は出来るが入国はこちらでは分かりません」とか、自国であっても中央では地方のことが分からなかったりする。また現地住民だけは生活圏内の移動が相互に融通が効くようになっていたりするのだ。結局少数民族との争いが絶えないミャンマー東北部は通過することが出来ず、タイからヤンゴンへ向かうメインルートでしか超えることが出来なかった。一方で南端では船で海路を一跨ぎ、難なくタイに入国する。
乗り物(バスからバイクタクシー、メコンの川船まで)、食べ物(ヴェトナム人は早食い民族、ラオスで飲まされたなんだかわからぬ動物の血、ミャンマーでの蛾の幼虫の素揚げ;えびせん風味;ビールのつまみに合う)、国境通過や国内の持ち物検査(タイは周辺国より厳しい)、辺境への中国人や韓国人の進出(ラオスでは中国元が流通))、タイの外国人労働者(130万人の内107万人がミャンマー人)、ミャンマーにおけるバス転倒事故の顛末(バンコクに戻って肋骨3本骨折が判明)。いずれの話題もこの地に詳しく、暖かい目で観察する下川節が冴えわたる。比較的若い写真家との二人旅、文庫本の白黒写真(見開きに数葉カラーもあるが)では今一つインパクトは弱いが、それでも奇態な旅の情景をビジュアルにうかがうことが出来る効果は大きい。楽しみはゆっくり味わいたいと思いつつ、2日で読んでしまった。

3数学記号の誕生
文字(我々の世代はカタカナを最初に習った)を使って手紙を書けるようになったのは5歳くらいだったと思う。母の手ほどきを受けながら、日本に住む祖父に「ノラクロノホンヲオクッテクダサイ」というような手紙を出した。返事は「もう戦時下の物不足で漫画の本など入手出来ない」とのことだった。この記憶はかなりはっきり残っている。しかし、数学記号(+、-)をいつ頃覚えたのかまるで記憶が無い。小学校へ入る前に簡単な加減算は出来たから、おそらく字を覚えた直後ぐらいだろう。爾来×、÷、分数の分割線、更にはπ、∞、Σ(積算)、∫(積分)、各種関数表記などを習ったが、算数・数学に使われる記号は文字同様長い歴史があるものと、本書を読むまで思っていた。実際は大違い。何と15世紀ころからポツリポツリと数式が数字と記号で表記されるようになり17世紀以降広く使われるようになってきたのである!つまりニュートンやデカルトの時代までそれらは一般的ではなかったのだ。
それではピタゴラスやユークリッドの有名な定理や一連の幾何の命題や証明をどのように記述されていたのであろうか?「点を表す文字、直線を表す2文字、角を表す3文字以外には、数学的記号は無かった」。これ以外はすべて“言葉”によって説明するのである。例えば、(a+b)a2+b2+2abは「直線を任意に切り分けると、全体による正方形は、線分でできる二つの正方形と、線分で囲まれる長方形の2倍に等しい」となるのだ。この程度の計算ですら文字だけと数式では直観的理解に時間差が生じる(言葉と数式では脳の働く部分が違う)。代数学が17世紀以降急速に発展したことがよく分かる。
記号導入のきっかけは同じ説明を繰り返す手間を省こうとしたことにある。「abに等しい」と言うような表現は数学によく現れる。長さの等しい線分を2本並べて=(当初はもっと長い)が生まれる。こんな具合におずおずと記号が文中に用いられ、時間をかけ統一・普及されていったのだ。四則演算記号、平方根・立方根、虚数表現、数々の身近な演算記号の誕生と成長(あるいは淘汰)が語られるところは、生物の進化を連想させるような興味深い世界である。
本書の内容は数学記号だけではない。数字誕生の歴史(文字で代行する数字、アラビア数字、ローマ数字、漢数字、ゼロの発見;“無”以上に重要な“位取り”など)に始まり、これらを使った多様な計算法(10進法が当たり前ではなかったことによる複雑さなど)、数学の使い手と利用分野の広がり(取引、暦、測量、税金から賭け事まで)、代数発展史におよぶ。最終章はこの代数学の爆発的発展を踏まえて、記号論・認知科学の観点から記号による新たな思考力触発の可能性を論じる。ただこの最終章は著者が最も含蓄を傾けているのだが、それまでの話(主に歴史)に比べ難解で独り善がりの感無きにしも非ず、私は読み飛ばした。
著者は米国大学(マルボロ・カレッジ)の数学科名誉教授だが数学の歴史や哲学も講じた経歴を持ち、数学読み物を他にも出しているようである。読後感は「歴史は面白いが、哲学は?」である。

4)無人暗殺機 ドローンの誕生
本書を読み終わった直後に「首相官邸屋上にドローン!」が報じられた。“ドローン”はもともと“蜂の羽音(ブンブン)”に発し、無線操縦で飛ばす標的機(射撃演習などに使う;小型エンジンの発する音が羽音に似ていた;第2次世界大戦中米陸軍15千機購入)の呼称になったもので、 “無線操縦機”と言う意味では同じだが、本書で取り上げられるものとは、歴史(半世紀以上)、飛行技術や武器としての完成度から見て、とても同じものとは言えない。大騒ぎする一方で「デパートのおもちゃ売り場にも同種のものが置いてある」と揶揄されるのも、むべなるかなの感がある。だからと言って、あの事件を軽視していいと言うわけではない。現代の最先端ドローンも黎明期には「おもちゃ」と蔑まれていたのだから。
原題は“PREDATOR The Secret Origins of The Drone Revolution(プレディター;画期的ドローン誕生の秘話)”である。Predatorとは捕食動物の意だが、シュワルツェネッガー主演の同名の映画に登場する、人間狩りをする昆虫に似た宇宙人から来ている。つまりそのような渾名を持つ“特定(実戦投入された世界初武装無人)”ドローンの誕生から今日までを辿るノンフィクションである。
1937年バクダットに生を受けた模型好きのユダヤ少年カレムは、長じてイスラエル軍の優れた航空技術者になるが、自らの夢(無人偵察機)を実現するため、1970年代初めに米国に移住、ガレージ企業を起す。ポイントは、従来の無人機(戦後も標的機やその延長線にある戦場攪乱機が開発・生産されヴェトナム戦争にも投入されている)の欠陥である滞空時間の短さ(23時間)と信頼性欠如(特に墜落事故の多さ)克服である。長躯敵地に潜入長時間(24時間以上)そこを監視・撮影し無事基地に戻れる、本格的な無人偵察機こそ彼の理想とするものなのだ。当時のコンピュータ・通信技術、材料を考慮すれば、これが如何に難しいものであるか、想像に難くない。
原題の“Revolution”の第一はこの技術革新にある。同時多発テロ9.11前後、アルカイダの最高幹部(オサマ・ビン・ラディンを含む)殺戮を目論むドローンは40時間以上飛行可能で、作戦行動域(アフガニスタン)の飛行を地球の裏側(ワシントン郊外のCIA本部)から操縦・監視し精密攻撃できるほどになるのだ(プレディターの離着陸地点は隣国のウズベキスタン)。技術開発が進み作戦実施が近づくと純技術的課題に外交や国際法の問題が絡んでくる。例えば遠隔操縦装置をどこに置くかによって設置国が参戦国になる可能性が出てくる。問題の無い遠隔地に置けば通信遅れが操縦性に著しく影響する。衛星利用では限界があるところを光ケーブルが解決する。攻撃も一気に無人機からとはいかない。最初はレーザー照準まで無人機が行い、爆弾は有人攻撃機に搭載・発射する。無人機、操縦装置、有人機の連携が必要になる。最終的に無人機にすべてを行わせるためにはさらなる困難な技術開発が求められる。
第二のRevolutionはこれを利用する人間や組織面からの変革である。始めは「あんなオモチャみたいなもの」と見ていたのが、やがて実用性が高まってくると、主導権争いを演じるようになるのだ。最初に関心を示したのは航空兵力の弱い陸軍と隠密作戦が必要なCIA、だがやがて空軍が全権掌握に乗り出してくる。海軍は独自のものにこだわる。個人のレベルの変革もある。始めは軽視・敵視していた有人機パイロットやその志願者が無人機操縦に関心を寄せるようになってくる。本書ではその過程が個人ベースの経歴や考え方を交えて披瀝される。
三のRevolutionは使い方の変化である。隠密偵察、精密攻撃支援、戦術対象の直接攻撃など前線の戦闘・戦術レベルの利用から、大統領や国務・国防長官、統合参謀本部議長などがリアルタイムで関わる、高度な政略的・戦略的利用法への変化まで、戦いのやり方が無人機の高度化に従い変わってきている実例、将来の可能性が示される。
いずれのRevolutionも戦略兵器(飛行機、戦車、潜水艦など)発展の歴史と酷似しているのが個人的に最も興味を惹かれた点である。
カレルの企業は早すぎたこと、彼の独善的な性格が因で倒産するが、その価値を評価され、人(彼自身が残ることが条件)も機材も設備もゼネラルアトミック社(兵器会社ゼネラルダイナミック社の原子力部門だったが投資家に売却)に引き継がれる。その会社経営の側面や政治絡みの産軍複合体の権限・利権を巡る動きも面白い。
あの首相官邸ドローン事件が騒がしかった時、確か日経の外報記事に「米軍、無人機への空中給油に成功」とあった。またこの記事に合わせて「海軍は空母からの運用も実証済み」とコメントが加えられていた。世界の軍事ドローンはそこまで到達しているのである。これは本書の続編領域であろう。一方で市販の玩具もどきに大騒ぎする我が国ドローン開発の実態は如何様なものなのであろうか?今度の事件では防衛省や国土交通省の専門家の言動が目立ない。能ある鷹は爪を隠すであれば良いのだが。
著者は長くペンタゴン記者を務めた軍事ジャーナリスト。この経験が生かされた正統的なドローン史として評価できる一冊だ。ただし佐藤優の解説は完全な蛇足。彼の知名度で売上を伸ばそうと言う魂胆が見え見え。文春の様な一流出版社にこんな卑しい商売はしてもらいたくないものである。

5)窓際のスパイ
フィクション、ノンフィクションいろいろなスパイ物を読んできたし本欄でも紹介してきた。基本的に“スパイ”とは、競合あるいは競争する相手組織を内偵し、こちらが勝者になるよう工作する者であった。第2次世界大戦では英・独、独・ソ、日・米、日・ソに著名な組織やそれに属するスパイが暗躍し、冷戦下ではCIA(米)、KGB(ソ)、MI-6(英)などが丁々発止の戦いを繰り広げてきた。そして最近は専ら国や国際治安組織とテロ集団との関わりが主題となっている。「今度英国の保安組織とテロ集団らしい」と読んで本書を手にした。
冒頭のシーンはロンドンのキングス・クロス駅におけるテロ容疑者の捕縛作戦、実はこれは部内(英国保安部;MI-5を想定)の昇級試験である。与えられた情報は“白いTシャツの上に青いシャツ”を着た中東人風の男。それと思しき男を見つけ取り押さえるが、ターミナル駅を大混乱に陥れた末の結果は人違いであった。これで、伝説的なスパイを祖父に持つ主人公は<泥沼の家>送りとなる。そこは彼のような落ちこぼれが勤務する、将来の希望を絶たれた島流し組織である。
話しは、この組織勤務そのものが如何に本部と異なり惨めなものか、またそれを預かるリーダーと同僚が如何に胡散臭い連中であるかにかなり長く費やされ、なかなか“事件”は起こらないし対抗組織や怪しい人物が現れない。やっとそれらしき動きが出てくるのは三分の一くらい読み進んでからである。インターネット動画に若いパキスタン系英国人の誘拐が流され、国粋団体による反イスラム活動(イスラム圏に拘束されている英人解放を引き換えに求める)が背景にあることが分かってくる。本部も泥沼の家もそれを追って動き出す。しかし何か事件そのものには緊迫感を欠いた描写が続き、むしろ部内トップや落ちこぼれ組織内の人物表現に多くが割かれ、そこに面白味が出てくる。この段階で彼が犯したドジの原因が本来“青いTシャツの上に白いシャツ”と与えられるべき情報が反転していたことが疑われてくる。その課題情報を彼に伝えたのは同期の男、何故こんなことが?この辺りから事件は保安部内組織闘争主題に転じいく。つまり、本書は純然たるスパイ小説ではなく、むしろ人に力点を置いた組織社会小説範疇のものであった。
組織対抗でないスパイ物には今一つ興味が持てない。しかし、落ちこぼれたちの本性が露わになった今、本編(本邦初訳)の続編(Dead Lions)が、冒険小説・推理小説の世界で最も権威のある英国推理小説家協会ゴールド・ダガー賞受賞していることを知って、次が読んでみたくなっている。

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2015年4月23日木曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-22


41989年経営トピックス-5LS
通称LS研はラージシステム研究会の略、富士通大型汎用機ユーザーで構成される研究会である。この他にファミリー会というのがあり、こちらは小型機も含めた親睦団体である(その後汎用機はクライアント・サーバーシステムに変わったので、ラージシステムは適当でなく、リーディングエッジシステムに変わった。研究会も今ではファミリー会の一部になっている)。LS研の研究テーマは極めて先端技術的なものから経営課題まで幅広く、常時30前後の分科会が13年の研究期間で走っている。テーマはユーザーから提案されるものが多いが、時には富士通側から起案されるものもある。
この年私が参加した“情報システム戦略度診断手法”研究は、折からブームとなっていたSISStrategic Information System)を踏まえて、富士通SEとユーザーの中でも早くからそこに問題意識の高かったカネボウ(株)情報システム部長のYSDさんが発案者と聞かされていた。今までLS研活動は自身が参加するものとは思っていなかったが、二つの理由からメンバーになることを決した。一つは前回書いたように東大の土屋教授がノースウェスタン大学マンハイム教授と進めていた日米SIS比較研究のインタビューを受けたこと、もう一つはファミリー会の理事をしていたMTKさんからYSDさんの論客ぶりを聞かされていたからである。募集対象は管理職となっていたが、経営者でも許されそうなので応募した。これは後日談になるのだが富士通内部では「なんであの人が?」と相当話題になったらしい。理由は私が東燃におけるガチガチのIBM派と位置付けられていたことによる。これが全く誤解であることは本ノート「決断科学、事例、メインフレームを取替える」に詳述しているので省略するが、本人の知らないところで騒動を起こしていたらしい。
4月のLS研新年度スタートでこの分科会に集まったのは、日石、NHK、松下電器、グローリー工業、北陸電力、日商岩井、日軽金、東洋インキ、セイコー電子など我が国を代表する大企業の部課長が十数人。YSDさんがリーダー、サブリーダーはオリンパスのHRDさん。富士通側はLS研事務局長代理のYMTさん、それに二人の現役バリバリのSE課長、ASIさんとMZNさんが分科会事務局を務めるという贅沢な布陣であった。
研究会は月一回富士通や各社の研修施設などに一泊二日(大体金・土)合宿し、夜を徹して議論をしながら年度毎に最終成果物をまとめ、総会で発表し評価をうける方式である。我々分科会の場合、初年度は診断法開発を中心に活動し次年度は診断結果に対する処方と総合的な手法ブラッシュアップに費やした。この研究のためにIT利用発展に関する内外研究者の書籍・文献を深耕するとともに、自社を始め我が国ユーザーの利用実態をアンケートや訪問調査で調べ、診断と処方の仮説を修正しながら完成させる日々は、日ごろの経営管理とは違った(人に命ずるのではなく自ら作業する)、厳しいが新鮮な刺激に満ちたものだった。
2年目はYSDさんからバトンを引き継ぎ、リーダーとしてゴールをめざし走ったが、幸い最優秀論文の評価を受け、19915月オーストラリアのアデレードで開催された富士通ユーザー国際大会で発表する機会を与えられた。さらに、この内容に興味を持った日本能率協会から出版の話が持ちかけられ、YSDさんと2年目のサブリーダーNHKTKH部長それに私の共著として12月に「SIS診断-競争優位への道しるべ-」として世に出ることになった。
振り返れば、この研究活動そのものがビジネスに直ちに直結するものではなかったが、私自身企業におけるIT利用に関する理論武装が出来、研究内容紹介を潜在顧客に求められることが多くなって、会社の知名度が高まり、やがて個々の商談に結び付いていった点で経営に寄与するものだと今でも思っている。


(次回;1989年経営トピックス;海外関連)

2015年4月22日水曜日

53年の違い(コントロール・ルーム)

 今週日曜日(19日)から翌日にかけ、1962年入社し、試用期間6カ月を経て本採用後初の職場であった計器係のOB会参加のために和歌山県有田市(最寄り駅は箕島)まで出かけた。懇親会場は有田川河口の岬を回った辺鄙だが景勝の地矢櫃(やびつ)の国民宿舎(と言っても普段は釣り客専門であろう)。27人(関東からは3名)が集まり楽しい一夜を過ごした。
 20日午前は工場見学。私にとっては約20年ぶりのことである。入社当時30を超す計器室は2カ所に統合されていた。昔日の感である。
 上の計器室と下の計器室は同じ場所に在る。オートメーション機器は前者は空気で動き、後者はデジタル・コンピュータ。





 帰りの列車は12時半発の新大阪行、駅前の食堂でこの地方名物の“小鯛寿司”を握ってもらった。お土産も当地でとれる太刀魚で作ったさつま揚げ。天候は不純だったが楽しい旅だった。次回は2,3年後とのこと、それまで元気で過ごしたい。

2015年4月17日金曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-21


41989年経営トピックス-4;社外活動
大学時代研究室に入ると皆計測制御学会の学生会員になるよう指導された。会社に入ってからもそれは継続していたが、そのお蔭もあって1970年学会誌に横河電機のTMTさんと和歌山工場における潤滑油プラントのコンピュータコントロールに関する報告を掲載する機会を得た。その後係長・課長職になると社命でいくつかの学会活動に関わるようになる。学術振興会第143委員会(プロセス制御)、化学工学会プラントオペレーション研究会、同学会経営システム研究会、OR学会、経営情報システム学会などの活動に法人会員あるいは個人会員として参加した。
このような学会活動を中心とした社外活動の最大のメリットは、社外の専門家との交流を通じて、自社そして自分の力量を客観的に評価でき、取り組むべき課題が見えてくるところにある。東燃はExxonとの技術提携契約もありこのような活動にやや積極性を欠き、あまり評判は良くなかったのだが、SPINはこの契約外の会社として設立されたので、割と自由に振る舞える環境にあった。もともと学会活動は好きだったし、役員になって2年目、経営の勝手も分かってきたのでこのような仕事にも目を向けられる余裕が出来てきた。
常勤役員4人の内3人は事務系出身、業界団体(情報サービス産業協会やコンピュータユーザー関連)はそちらに任せ、技術分野は専ら私の専管事項となった。古くからメンバーだった化学工学会やOR学会の役員を務めるとともに、各種研究会での活動に力を注ぐようになっていく。
当初の目的は専門職としての研鑽を専らとしていたのだが、学会や業界を代表する人達との付き合いは、会社や製品・サービスの売込み、業界情報の収集、はたまた求人活動にまでつながり、経営にボディーブローとして効いてくることになる。更に後年これらの活動が海外のプラント関連ソフトウェア導入に大きく寄与することになる。生産管理のMIMI(米)、リアルタイムプラントデータ処理のPI(パイ;米)、最適組合せ問題を解くILOGソルバー(仏)、物質や熱量のバランス計算を数理的に調和させるΣファイン(英)、石油精製生産スケジューリングソフトORION(オライオン;米)などの国内販売独占権を得られたのは、源を辿れば化学工学会やOR学会での活動と深く関わってくるのである。これ以外にも結局当社では取り扱わなかった企業・製品とのコンタクトもこの線につながるものが多かった。
そしてもう一つ、上記学会が東燃時代からの継続であるのに対して、経営情報システムに関する興味から新しく取り組んだのが、富士通の大型機ユーザーで構成するラージシステム研究会(通称LS研)の“情報システム戦略度診断”分科会活動である。LS研は歴史のある組織で、沢山の分科会が在り、1983年東燃が富士通の汎用機を導入して以来、多くの若手・中堅メンバーが参加していた。この年も例年同様何人かが参加を希望していたが、一つのテーマに“戦略度”とあったことから、強く惹かれた。と言うのは1980年代半ばから製造業ではCIMComputer Integrated Manufacturing;コンピュータによる統合生産システム)なる言葉が流行り始め、丁度東燃が進めていたTCSもその一つの事例として紹介する機会がたびたびあり、情報技術の“戦略的利用”に関して問題意識を日頃感じていたからである。更にもう一つ、やはり同じような時期SISStrategic Information System;戦略的情報システム)なる略語が飛び交うようになり、東大経済学部の土屋守章教授(故人)などが学術面から、経営と情報システムの在り方について研究を始めており、そのインタビューを受けたこともあり、この分科会に興味を持ったのである。


(次回;1989年経営トピックス;LS研分科会)

2015年4月13日月曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-20


41989年経営トピックス-3;事務システム関連ジョブ
情報サービス、特にソフト開発の市場は昔も今も事務系のアプリケーション(経理、販売、購買、給与など)が圧倒的に大きい。同じ石油会社でも販売を行っているところはそのカードによる売上処理だけで専用の大型汎用機を持ち、金融機関と同じような大規模で複雑な情報処理を行っている。この業界で成長していくためには、この事務システム・マーケットで確り顧客をつかんでいかなければならない。一方で市場が大きいだけにプレーヤー(競合相手)も多く、どう会社を売り込んでいくか一工夫要るところでもある。特に、IBMや富士通には優れたパートナーが目白押しで新参者が簡単に良い仕事をとれるような環境ではない。そこで考え出したのが業種特化である。先ず製造業、その中でもプロセス工業に絞り込んで勝負することにした。この経営戦略は見事に当たり、川鉄鋼板や電気化学工業の大掛かりなシステム更新の受注につながった。いずれも富士通経由の仕事である。
会社の特色を認知してもらうのはプロセス技術分野の強み、利益率も良いのだが、実際売上が大幅に伸びてゆくのは事務分野、これが経営の実態だった。IBMは自身でアプリケーション開発プロジェクトは行わず紹介にとどまるが、富士通は一括受注をIBMとの大きな差別化因子としていたから、当社への期待も高かった。そこで次の提案が出てくることになる。沼津に在るソフトウェア工場に複数の社員を長期派遣して、そこで徹底的に富士通のやり方を学び、併せてスタッフとの信頼関係を醸成して欲しいとの要請である。これは結構SPIN社内で問題になった。
ソフトウェア開発には様々なサービス形態がある。ピンがアプリケーション業務の分析・設計から稼働・運用までの一括受注だとすると、キリは業務内容に応じた人員派遣である。日常の業務管理も人事管理も発注側に委ねるこの方式は薄利多売の典型、従業員の士気低下につながる可能性大なので、SPINでは行わないことにしていた。また採用に際してその旨明言してきていたので、富士通からの提案はこの従業員との約束に触れるのである。とは言ってもさらに良い仕事を回してもらうには、一歩踏み込む必要もある。
結局従業員・経営の親睦組織スピン懇談会(一種の労使会議)で話し合い23年間数人期限を限って技術修得も兼ねて沼津勤務をしてもらうことを了解してもらった。選ばれたのは全て独身のプロパー男子社員(東燃から出向の社員は本籍の組合問題があるため難しい)、御殿場や沼津に住居を移して工場従業員と同じ労働条件で働くことになる。そして、この関係は清水に新設した東燃システムサービス(TSS)へと引き継がれていくのである。
この派遣は短期的には収支上各種オーバーヘッドを含めてこちらの大幅持ち出しだったが、富士通の最新技術を学べること、人間関係を確かなものにすること、そしてその後の受注ジョブにつながることで長期的に見れば充分ペイするものであった。例えば、小野田セメント(現太平洋セメント)の経理システム再構築がその代表例である。


(次回;1989年経営トピックス;社外活動)

2015年4月8日水曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-19


41989年経営トピックス-2;協力会社
これは1988年半ばに始まった話だが、SPINの経営上は重要な出来事であり、この案件が本格化するのは1989年になってからなので、ここでそのいきさつを書いておきたい。
ソフト開発を主務とする情報サービス業の売上は、動員できる人員数に大きく依存する。また利益はその稼働率の関数と言っても良い。しかし、仕事はこちらが望むようなタイミングで受注できるわけではない。つまりタイムリーに人を集散できる柔軟性が事業のカギを握る。それを実現するビジネスモデルの典型はゼネコンと呼ばれる建設会社の経営形態である。つまり多様な雇用階層化と機能協業化を、適宜組み合わせていかなければならない。既にシステムゼネコン(その後システムインテグレータ;SIと称す)としての体制を確立していたIBMや富士通に代表されるコンピュータメーカ、電電公社民営化から生まれたNTTデータ通信あるいは金融機関で早くから外部システムの一括受注を手掛けていた野村総研などは、多くの協力会社を抱え、人件費を固定費化しない効率的な仕組みを作り上げていた。小なりといえども、順調な成長を続け、さらに飛躍するためには、我が社もそれなりの体制を整えなければならない。こんな時(1988年中頃)、野村證券が本社社長室に持ち込んできたのが、株式会社システムブレイン(以下SBCと略す)と言う店頭公開を目指す同業会社の増資案件だった。
SBC1970年代に日商岩井の情報システム部門にいた人達(主に岩井産業系)が独立して出来た会社で、社長は京都大学で宇宙物理を学んだHSMさんが努める、教育・学校分野に強みを持つほか、LPG販売などにも有力顧客がある、財務内容も良好な会社だった。話は株式公開に向けて安定株主を募る増資をしたいとのことだった。同業者としては先輩格、HSMさんは情報サービス産業協会の役員なども経験しているので、業界での顔も広く、資本提携はSPINにとってソフト開発要員の融通を超えてさまざまな経営上のメリットが期待できると判断した。
オフィス統合・移転や人員強化で投資はしてきたものの、4年間の経営で4億円を超える内部留保があり、次の投資先として体制強化につながる良い話である。上手くゆけばSBC株公開後売却益も期待できることなどから、SMZ社長は出来るだけ多く購入することを希望したが、HSM社長は一社に過度に傾斜することを好まず、既存の大株主や持ち株会への配分も考え、結局SPINのシェアーは増資後20%弱と言うことになった。
SBCは新規に集めた資本金をHSM社長の出身地富山県滑川市の黒部側の丘陵地に電算機センターと研修センターを建設、我が社の清水電算機センター(TSS)とは比べ物にならない、免振構造の立派な建物に他社の電算機も預かり運用するビジネスを立ち上げた。極めて健全な経営施策である。
本業の協力関係も順調に進んだ。東京では一括や派遣でいくつものプロジェクトで協業したし、SBC大阪支店は関西方面のジョブに人を出してくれた。とは言ってもプロセス工業特化の当社が教育関係ジョブを行うことはなく、大会社バックはやはり信用力が違い、大きな仕事を取れるのはこちらの方、中小企業として苦労してきたSBCに発注するケースが多かった。
資本、業務提携の次に行ったことは役員の派遣である。システム関係はこちらより歴史もあるので、先方の要請もあり経理・財務関係の担当役員を東燃グループから送り込む。この関係はSMZ社長時代を通じて双方にプラスし、自力では限界のある経営に新たな視点を与えてくれた。(しかし、バブル崩壊後、SBCが公開に備えて取得していた不動産価値に大きな減耗を生じ、経営破たんすることになる。これについては第Ⅲ部で再度取り上げる予定である)

(次回;1989年経営トピックス;事務システムジョブ)


2015年4月4日土曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-18


41989年経営トピックス-1;役員体制
役員初年度1988年、営業利益こそオフィス統合・移転、計算センターの新設(清水)など先行投資が大幅に増え、前年を下回ったものの、売上は計画通り伸び、業界平均伸び率を上回ることが出来た。順調な経営結果を考慮すれば、東燃グループの役員人事は前年大掛かりにやっているので(SPINも社長を含め全員新任)今年は何もないはずだった。確かに最大の功労者であるMTKさんが常任監査役を退任したことは、たった4人しか役員の居ない会社にしては大きな変化だが、本来常任監査役が無かったことから考えても、3人で問題なく経営は進められるつもりであった。しかし2月下旬社長のSMZさんが予想もしなかったことをMYIさんと私に告げた。本社社長室長のOMRさんが来期から常務として加わると言うのである。
OMRさんは1955年の入社、前年大幅に役員・本社部課長が若返り、部長は1964年年以降入社が中心になっていたから、際立って古参部長ではあった。しかし、経理畑バックで一時期情報システム室の機械計算課に籍を置いたとはいえ、それほどコンピュータの専門家として存在感のある人ではなかったから率直に言って意外な感が強かった。また130人程度の会社に4人の常勤取締役は重過ぎる。加えて、前経営陣でMKN社長がMTKさんの常務昇格を懇願したにも関わらず実現できなかったポストである。しかし資本の論理には抗すべくもない。SMZさんにお願いして直接管掌部門を持たないことにしてもらった。つまり二人(MYIさんと私)の取締役を大所高所から見ていく役割に徹してもらうことだった。救いは、OMRさんが気持ちよくこの注文を請け、会社を去るまで6年間、我々の期待通りの動きをしてくれたことである。
この人事を少し深く考えてみると、社長室創設の背景と経理人脈の扱いが垣間見えてくる。社長室は1988年まで役員・役員会サービスのための秘書室として長く存在してきたが、NKHさんが副社長になってから(1984年)次第に新事業企画的な機能を取り込むようになってきていた。OMRさんがこの組織の長になったのはその秘書室時代、新規事業関係とNKHさんの官房長的役割は課長のYMOさん中心に回っており、彼の昇格は時間の問題と見られていた。一方で従来の秘書室長(株式の50%は外資だから、定例の取締役会には外国人が出席するので、皆英語の練達者)の退任後のポストはグループ内に適職が無く、前任者のKKBさんは女子大へ転職していった。しかしOMRさんは前記のようにコンピュータと多少の関わりがあったことから、自らの出身母体である経理人脈には人一倍気を遣うNKHさんがSPINでの活用を思いついたようである。
結果的に見ればOMRさんの常務就任が経営上問題になることはなかったが、個人的には将来を考える上で、かなり影響する出来事であった。一言でいえば後継者育成に関して、あまり早くから絞り込むようなことをしない方が良いとの思いである。SPIN設立検討中「受け皿会社になりたくない」と部課長で語り合ったが、実際には多くの日本企業のグループ人事同様、ある程度の天下りは避け難いことであることがはっきりしてきたので、後進に期待を持たせ過ぎると、失望させる恐れがあるからである。密かに後継者を考えておき、もし問われればそれを候補者の一人として推薦するが、少なくとも東燃が100%の株式を持っている限り、こちらからは口にしない。これが役員人事に関する私の基本方針となっていくのである。しかし、これが社長としての後半にいろいろ問題を生じることになる。これについては恐らくSPIN経営第3部(社長時代)に書くことになるだろう。

(次回;1989年経営トピックス;協力会社)