2015年8月31日月曜日

今月の本棚-84(2015年8月分)


<今月読んだ本>
1) 激闘の空母機動部隊(別府明朋ほか):光人社(文庫)
2) ロックフェラー回顧録(上、下)(デイヴィッド・ロックフェラー):新潮社(文庫)
3) 関東軍とは何だったのか(小林英夫):KADOKAWA
4) クルスクの戦い1943(デニス・ショウォルター):白水社
5) 原爆を盗め!:スティーヴ・シャンキン:紀伊國屋書店
6) 技術者たちの敗戦(前間孝則):草思社
7) 帝国日本の技術者たち(沢井実):吉川弘文館

<愚評昧説>
1)激闘の空母機動部隊
航空機が兵器として登場するのは第一次世界大戦。この時はまだ揺籃期、実戦力としては補助的な役割に留まった。しかし先見性のある軍人の中に、将来の戦略兵器としてこれに注目するものが現れ、航空戦略論や空軍独立論が活発に論じられるようになっていく。代表的な先駆者として、ドーウェ(伊)、トレンチャード(英)、ミッチェル(米)、ゲーリング(独)などが挙げられる。ここで注意すべきは、彼らが総て陸軍出身であることだ。つまり(戦略・戦術)運用論にしろ組織論にしろ専ら“陸の発想”で論じられものが主流で“空母”というような考え方は全くなかった。
このような発想とは別に「海底2万里」「80日間世界一周」の作家ジュール・ヴェルヌを生んだフランスで海軍航空の将来を(空想)予見する意見がはるか以前(1895年)に開陳されている。蒸気機関でライト兄弟より早く飛んだと称するクレマン・アデがその人で「…航空母艦は必要不可欠のものとなるであろう。この艦は現存するいかなる艦とも異なった構造となるであろう。まず第1に、甲板からあらゆる障害物がとりのぞかれ、平坦でできるだけ広くして、陸上の飛行場に似た形になるだろう。この艦の速力は、最小限、巡洋艦程度、あるいはそれ以上でなければならない」と。これが実験的に実現されるのは1910年、米海軍巡洋艦バーミンガムに設けられた仮設甲板(長さ25m!幅17m)からカーチス複葉機が飛び発った時である(着艦は1911年同国巡洋艦ペンシルヴァニアの仮設甲板(長さ31m、幅10m))。その後艦上発着実験は独・仏・英などでも行われ、第1次世界大戦で英海軍は旧式巡洋艦3隻を活用した“空母”を本国周辺で実戦投入している。とは言っても発艦のみ艦上から、着艦は艦の周辺に不時着水か陸上基地へ戻るような運用方法で、本格的な海上戦力にはほど遠かった。ただこの空母先進2国が海洋国であったこととは、確実に日本海軍航空のその後に影響してくる。
先行したのは英国、先の改造空母3艦の実績も踏まえイーグル、ハーミス、アーガスなど平滑甲板を備えた本格空母を誕生させる(母体は戦艦・巡洋艦、いずれも第一次世界大戦用に転用改造されるが、就航は戦後)。米国は石炭運搬船を改造した一枚甲板のラングレーが1922年に進水、その後レキシントン、サラトガが巡洋艦から転用改造される。これらに対し日本の鳳翔は192210月完成、世界初の空母として設計された艦である。続いて赤城、加賀が巡洋戦艦を基に誕生する。この内英国は戦後の縮軍、空軍の独立、シーレーン確保優先の運用形態などが影響し、攻撃力としての“機動部隊”を生み出すに至らず、それを実現したのは日米2国のみであった。
機動部隊同士ががっぷり四つに組んだ戦いは、珊瑚海海戦、ミッドウェイ海戦、南太平洋海戦(ガダルカナルを巡るソロモン海の戦い)、マリアナ沖海戦の4回である。主力空母4艦を失ったミッドウェイ、ゼロ戦の神通力は失せ未熟な戦士で戦った最終戦マリアナ沖は惨敗であったが、残る2戦は戦略評価(日本の目的:ポートモレスビー攻略、ガダルカナル飛行場奪還はいずれも達成されず)はともかく戦闘としては日本の勝利とする見方が米国側にもある。つまり22敗と。
本書は、これら海戦に関わった、上は艦隊司令長官(小沢治三郎)・連合艦隊参謀長(福留繁)・艦長から第一線で戦った下級士官・技術士官・下士官・整備兵までの手記や対談、聴き取り調査などを一冊にまとめたものであり、艦も正式空母ばかりでなく商船からの改造空母や飛行機運搬船ともいっていい補助空母まで取り上げられる。従って内容に一貫性はないが、日米にしかなかったユニークな軍事システムの姿を、それぞれの任務から見ることで空母・機動部隊の実態を示し、その理解を深めることにつながっていく。そこから、全体として浮かび上がってきたものは、艦・艦載機でも部隊編成・運用でも、我が国機動部隊の“守りの弱さ”である。これは専ら上層部の責任である。

2)ロックフェラー回顧録
生地屋の店員から身を起こし巨大石油トラストを築き上げたジョン・D・ロックフェラーの孫の一人、デイヴィッド・ロックフェラーの自伝である。6人兄弟の末っ子(姉、4人の兄)、形の上では長兄が3代目だが、チェースマンハッタン銀行CEOを務めたこともあり、財界人としては抜きん出た実績を上げたので、実質的にこの人がその役割を担うことになる。1915年生れだから今年で100歳になる人が2003年に完成させ出版したものである(日本版は2007年刊)。
1章は“祖父”、冬の別荘が在ったフロリダで急逝(とはいっても97歳)、専用列車でニューヨーク郊外の大邸宅に無言の帰郷をするところから始まる。「同時代最悪の犯罪者」とまで攻撃され、テディ・ルーズヴェルト大統領に生贄(反トラスト法で34社に解体)にされた初代の家族から見た姿が語られる。ここには無論一族としてのバイアスがかかっているであろうが、石油業に従事してきた一人として共感できるところが多い。代表的なことは企業大統合と整理で原油生産は伸び、精製技術は飛躍的に進歩し、石油製品の質・量の安定と低価格化が実現しているのである。
引退後は専ら慈善事業に注力、シカゴ大学創設、ロックフェラー医学研究所(現ロックフェラー大学)創設、ロックフェラー財団設立など現代に残る数々の事業に私財をつぎ込んでいく。
父親は専らその管財人と言っていい役割に徹する。最大の業績はマンハッタンの中心地に広大なオフィス街を出現させたロックフェラーセンターの建設だが、これは大恐慌と地権者コロンビア大学に翻弄される。
著者の誕生;「両親の家はニューヨーク西54丁目10番地(つまりマンハッタンの中心部)に在り、そこはヴァンダービルト家の城の様な家ではなかったが、当時のニューヨークでは最も高い9階建てで、屋上には囲い付の遊技場、階下には、スカッシュコート、室内体操場、専属診療所があった。その診療所が私の生まれた場所である」とあり、今まで読んできた有名人の伝記とは桁違いの出自に“その後”に対する期待がいや増す。
しかし、大学(ハーバード大;シュンペーターの下で学びロンドンスクール・オブ・エコノミックスに留学、戦後シカゴ大で経済学博士号取得)を出て軍務を終えるまでの人生は、普通の豊かな家庭出身者と変わらない。むしろ父親(極めて敬虔なキリスト教徒)の育成方針は質素で厳しく(長子である姉はこれに徹底反抗)、金銭的に余裕のある生活ではない。
何と言っても面白いのは、除隊後入行しCEO(頭取はこの下)まで上りつめる、チェースマンハッタン銀行における活動である。
一つは12歳年上の生え抜き銀行マンとのトップ争い。銀行業務の本務は優良顧客への貸付、ライバルはその道のヴェテランである。しかし、戦後の世界はグローバル化が進み国際金融に積極的進むことこそ発展のカギと考える著者。熾烈な戦いが生々しく描かれる。
もう一つは問題のある国々(独裁、冷戦、アラブ・イスラエル対決、イラン政変など)とのビジネスを通じた国際政治との絡みである。ドルが唯一の基軸通貨である時代、銀行には米国の国策とは異なる行動が求められる。下世話な例では、国連入りしたばかりの中国代表にホテルで現金を詰めたスーツケースを渡し、北京訪問でのトップとの会見アレンジを依頼する話や急な予定変更でヨルダンから徒歩で(近くまでヨルダン皇太子にクルマで送ってもらう)直接イスラエルに入国するエピソード(イスラエルとアラブ間は第3国経由がルール)など、驚愕の秘話が語られる。
遺産や資産管理を巡る兄弟間の争いも当事者ならではの細部が赤裸々になる。全体としては長く順調に行っているのだが次兄のネルソンが国の政治に関与するようになって状況が一変する。ニューヨーク州知事時代から他の兄弟に比べ持ち出しの多かったネルソンは大統領を目指すことでさらに資金が必要となる。一族の管財人である長兄、リーダシップ抜群の次兄、財界人として知名度の高い著者、地方政治家や学者の三兄、四兄それに嫁いだ姉、それぞれの思い・立場が争いを複雑にしていく。
本書を読了して先ず思ったことは「才能のある作家がこの本を読んだら、幾種類の小説が書けるだろうか」ということだった。名門家族四代記(祖父から子供まで)、企業・経済小説(チェースマンハッタン銀行、ロックフェラーセンター経営)、政治裏面史(大統領を狙った次兄ネルソン、各政権とロックフェラー家・著者)、国際謀略サスペンス(国際金融と問題ある国家指導者・元首、アラブ・イスラエルの対決とそれに絡む石油利権)、親子・兄弟の愛と葛藤をテーマにした読み物(遺産相続、資産管理、兄弟対立、子の反抗、親族の結婚・離婚)、戦記(著者は第二次世界大戦中情報将校として北アフリカ、欧州を転戦)、財団や美術館運営の裏話(ロックフェラー財団;祖父が設立、ニューヨーク近代美術館;母の趣味から発足)、(ロックフェラー家を巡る)上流社会の内幕物などなど。とにかく「事実は小説より奇なり」ならぬ「事実は小説の素なり」を地でいく内容に満ち溢れている。少々長いが(上下2巻で1000頁)誰にも楽しめる一冊である。

3)関東軍とは何だったのか
戦後70年、あの戦争の主因であり、出生母国でもある満州国に関する書物はかなりの数読んできた。いずれにも関東軍は登場するし、そのものずばりのタイトルを持つものも多い。「もう出尽くした」と思うのだが8月になれば新しいものが書店に並ぶ。本書もその一冊、目にしたときは「またか」と思ったが、つい手に取ってしまった。カバー裏の著者紹介に“東アジア経済史、植民地経済史、特に満州研究を専門とする”とあるので「専門の研究者の著作か」とチョッと気を惹かれる。後ろから頁を繰ると折り畳みで“関東軍の師団数の推移”“関東軍の配置師団一覧”“関東軍の師団状況(どこに駐屯した師団がどこへ、いつ転戦したか)”が添付されている。さらに“あとがき”を見ようとしたが見つからず、代わりに15頁にわたる“関東軍・満州国関連人物略伝”と“関東軍歴代指導者一覧”がまとめられていた。「これは何かと便利だ」と購入することにした。
関東軍をテーマにした著書の大半は、本書の帯にある「軍隊である前に政治集団だった」を満州事変策動計画時から建国までのプロセスに焦点を当てて、“軍事謀略集団”として描いている。しかし本書はその帯にもかかわらず、そこにだけ重点を置いて記されたものではなく、発足のきっかけとなる日清・日露戦争から説き起こし、満鉄沿線の治安維持、そしていずれもが取り上げてきた満州事変・満州国建国・ノモンハン事件・支那事変、その後に来る南方・沖縄への主力の抽出・転戦、ソ連の侵攻と敗戦、シベリア抑留と復員までを淡々と記した“関東軍通史”といえる内容であった。
本書の特色の一つは、従来出版されたものに比べ関東軍の軍事力の内容と変化を、平時・戦時(ノモンハン事件など)に別なく客観的(数字中心)に調査分析しているところにある。これによって関東軍が巷間言われていたような“泣く子も黙る”精鋭部隊ではないことがよくわかる。換言すれば、だからこそ政治的言動が際立って見えた、とも言える。
ただ日露戦争で得た満州権益を守ることにその動機があり、軍務に徹する占領軍・遠征軍ではなく、外交や地域行政機能を併せ持つ機関として誕生した故に、国内の軍組織はもとより植民地駐屯軍とも異なる独自の性格をおびるようになり、やがて満州国統治とそれ関わる日本の国策に何かと口を挟む政治集団へと変遷する過程は、歴史を踏まえてしっかり分析・整理されている。
著者は私より若干若い(1943年生れ)歴史学者である。あの戦争の記憶が遠のく一方で歴史認識が問われる今、文献調査と現地(満州、ノモンハン)取材で描かれた関東軍像は、読み物として盛り上がりは欠くものの、歴史を客観的なものとしてとらえようとする姿勢は評価できる。

蛇足; 814日安倍首相の戦後70周年談話が発表された。有識者会議の提言には「・・・満州事変以降、大陸への侵略が拡大し・・・」とあったが、談話では“満州事変”は省かれた。まだ小学生だったとはいえ、特権階級の日本人としての現地体験は“侵略”以外の何物でもなかったので「有識者提言通りでよし」と思っていただけに、「オヤッ」の感があった。「やはり満州国高官だった祖父岸信介を慮ってのことか?」と浮かんだが、本書を読んで辛亥革命(清朝崩壊)時の関東都督(軍司令官)大島義昌陸軍大将の玄孫(安倍方)であったことを知り、妙に納得した。

4)クルスクの戦い 1943
今次大戦の転換点として挙げられるのは、欧州戦域ではバトル・オブ・ブリテン、スターリングラード攻防戦、太平洋戦域ではミッドウェイ海戦とガダルカナルを巡る戦いである。では近代兵器ががっぷり四つに組んで戦われたのはと問われれば、航空戦では前出のバトル・オブ・ブリテン、機動部隊同士の戦ではこれも前出のミッドウェイ海戦、戦車戦では本書で取り上げられる“クルスク(独軍作戦名ツィタデレ;城砦)”となる(英国人はエル・アラメインを取り上げるかもしれないが・・・)。そして軍事専門家(チャーチルを含む)の一部にはこのクルスクの戦いこそ欧州戦域における転換点と見る者がいるくらいだ。一方で機甲力が貧弱でジャングルや島嶼での陸戦しか経験の無い日本人には関心の薄い戦いゆえに“知られざる世界”と言っていいだろう。
クルスクは現在のウクライナに近いロシア南西部の都市。この周辺で19437月前半約2週間にわたって戦われた大戦車戦である(一説には両軍合わせて6千両と言われるが、本書ではこれはソ連プロパガンダによる誇大な数字としている)。
前年の6月からこの年の2月まで続いたスターリングラード攻防戦に敗れた独軍は戦線を下げて守りの態勢に入っているが、クルスク周辺に出来たソ連の独陣内への突出部を南北から挟撃して攻勢を止め、主導権を奪還しようと目論む。その背景には北アフリカでの退勢、さらには予想される連合軍の地中海側からの上陸を迎え撃つための戦力を東部戦線の攻勢で捻出しようという戦略的な狙いがある。基本的な戦闘形態は攻める独軍、守る赤軍という構図。狭い戦域にドイツは2軍集団、ソ連は3方面軍が投入され昼夜を分かたぬ戦車を主戦力とする激戦が続くことになる(独ソ戦の場合、軍集団と方面軍は同レベルの組織;軍集団(方面軍)>軍>軍団>師団>連隊)。戦車戦としてとくに有名なのは12日にクライマックスを迎えた、クルスクの南西約120kmにあるプロホロフカで行われた戦い。(本書以前の資料よれば)ドイツ軍600両、赤軍900両の戦車が激突、双方合わせて700両が破壊・擱座、後に“史上最大の戦車戦”と名付けられるほどであった。
結果は、突出部の南北で独軍は支配域を拡大したものの、包囲分断は出来ず損耗疲弊し進出域に留まって現状維持するのが精いっぱいの状態で作戦中止となる。つまり戦略目的は全く達成されず、西へ向ける余力を逆に失ってしまう。守る側の赤軍も兵や兵器の損耗は同じようなものだったが“夏の戦い”を五分に戦え、主要拠点を守り抜いた自信は大きく(モスクワ攻防もスターリングラードも冬の戦い)、その後の反攻に厳しかった経験が生かされていく。当に転換点だったわけである。
この戦いについては、独装甲軍生みの親であり、当時装甲兵監(指揮命令権限の無い全装甲軍最高顧問・監察役)だったグーデリアン大将(この作戦に反対;戦車の質・量の不足)自伝や南方軍集団総司令官マンシュタイン元帥(この作戦を積極支持)自伝などで大略知ってはいた。ただ英国の今次大戦に関する書物などで、その数字や戦いぶりに、かなりバイアスがかかっているとの疑問が投げかけられていた。つまり、ドイツ側の資料は赤軍の力を過大評価し、あたかも物量で敗れた印象を強めているのではないか(作戦段階のトップの誤判断を糊塗)との疑義。一方ソ連側は自らの被害の大きさを戦後内外に訴えるプロパガンダとして利用するため、実態とかけ離れた大きな数字を用いているのではないかとの疑惑である。著者の狙いは当にこの疑問に答えるために、あらためてドイツ側の資料を精査するとともに、冷戦後入手可能となったソ連・東欧側の資料に当たり、既成概念を質そうとしたものである(単に数字ばかりではなく、戦争遂行思想や兵士の練度や士気をも含めて)。
先ず作戦実施までの両軍のその当時置かれていた軍事情勢を分析し、作戦策定段階での多様な考え方を披瀝、ヒトラー、スターリン、参謀総長、軍上位指揮官の言動を追う。作戦実施の段階では中隊レベルから師団・軍団レベルまでの戦闘状況が臨場感をもって描写される。この戦闘場面では戦車・自走砲の戦闘に欠かせない各種兵種(歩兵・戦闘工兵・装甲擲弾兵・対戦車砲兵・狙撃兵)の特質と実態も細部まで掘り下げられ、両軍の違いが浮き彫りにされる。
これらの調査・分析から、著者が導き出した戦況転換因子は、赤軍は科学(サイエンス;戦闘の抽象化→理性で理解できるやり方式→入れ替え可能)で戦い、独軍は技芸(アート;プロフェッショナルを越えた名人芸)で戦ったこと(兵種間協調が上手く機能している時は強いが、技能者が失われると一気に戦力低下する)と赤軍兵士の“覚悟”の違いである(独はもとより米英より固かった。ここに至るまでの過程として後方殺人部隊(退却する兵士を殺す)の存在にも触れているが、反攻フェーズに入ってからは、実戦体験から鍛え上げられた、強い復讐心に根差す覚悟に変わってきたと見る)。
単純な数字に関する例(投入された戦車数)としては、量的に大量だった故に混乱する戦場で、過大カウントが生じやすかったこと、加えて修理・再生が頻繁に行われここでも何倍にもなったことを小部隊の戦闘行動まで立ち入って詳らかにする。それによればプロホロフカ戦車戦における両軍兵力は、戦車・自走砲;ドイツ軍300両、赤軍は600両程度であったとしている(従来の1223)。
一般の日本人には何の役にも立たない本だが、近代戦略兵器の発展史と経営におけるIT利用の関連を探る者にとっては多くの示唆に富む著書であった。「振り返ってみればアートの様に精緻で“その会社の、その時期”にはぴったりだったが、成長性や展開力を欠くコンピュータ利用が多かったな~」が読後にまず浮かんだことである。
著者は米国軍事史学会会長も務めたことがあるドイツ軍事史の研究者、陸軍士官学校、空軍士官学校、海兵隊大学校などでも教鞭をとっている。

5)原爆を盗め!
米国人の書いた、原子爆弾開発プロジェクト、マンハッタン計画を詳細に記したノンフィクションを半世紀前に読んだ。核分裂によるエネルギー放出の原理は分かっていてもそれを爆弾に仕上げるにはあまりにも未知のことが多く、一方で時間的制約が厳しく、また機密保持問題もあり、プロジェクト推進は難航を極めた。その道のりを、組織作り、資金手当て、プロジェクトマネージメント、人材確保、技術研究開発など多角的に扱い紹介したもので、投下結果の悲劇は一先ず置き、駆け出しのエンジニアとして感銘を受けた今に記憶に残る一冊である。
その後読んだ核兵器をテーマにするノンフィクションは専ら広島・長崎投下意思決定に関する政治的な内容や軍事作戦そのものに関するものが多く、科学・技術面から書かれたものは無かった。この本を書店で目にしたとき、先ず好きなスパイ物をうかがわせる“盗め!”に惹かれ、次いでその下に小さく書かれた“恐ろしい爆弾はこうしてつくられた”を見て、半世紀前の本が浮かんだ。あの本は転勤・転居の過程で失われていたが、もう一度読んでみたいと時々思っていたからである。
日本語タイトルには“盗め!”が強調されるが、英語の題名はBOMB: The Race to build-and Steal-the World’s Most Dangerous Weaponと“作る”のあとに“盗む”がきており、“作る”に重点が置かれる。そして“Race”とはドイツとの開発競争を意味する。
本書は原爆開発を軸に二つの話題を絡めたノンフィクションである。二つとは、ドイツの原爆開発とソ連のスパイ活動である。先ず中心となるマンハッタン計画に関してはほとんど目新しいことはないし、極めて簡略化されている。第2のドイツ原爆開発とその阻止工作もわりと知られたことで、映画「テレマークの要塞」でスリリングに描かれ映画ファンにはおなじみである。要はノルウェイに在った重水工場破壊作戦である。これはこれで映画よりは複雑で困難な工作であることが分かった。
やはり本書の核心は“盗め!”にある。 ソ連のスパイ行為は当初こそ稚拙だが、次第に巧妙になってくる。ここでは知られざる深みに至る緊迫感を楽しんだ。一つは科学技術部門の主導者、オッペンハイマー博士の周辺に関することである。彼が戦後原爆開発機密漏洩の嫌疑(若い一時米国共産党のシンパだった;これは責任者就任前に問題になったがクリアーしていた)でプリンストン高等研究所長を辞任した(追われた)ことくらいは知っていたのだが、本書でわかったことは、1920年代後半から30年代半ばに高等教育を受けた若者の中に多くに共産党員および共産主義信奉者が居たことである。彼らは研究に惹かれて原爆開発に加わり、そこから過去の弱みを突かれてスパイの世界に引き込まれていくのである。もう一つは、原爆の驚異的な威力を理解し、これが米国一国に独占されることを良しとしない者が、英国人や亡命ユダヤ人研究者の中に居て、彼らが情報をソ連に積極的に流すのである。原爆開発情報がソ連に流れ、その開発を早めたというのは一般的に流布されてきていたが、もっと見えないところで、早い時期から具体的な情報が流出していたことを本書で初めて知った。
全体として三つのテーマが上手く絡んだ面白い読み物だったが、チョッと易し過ぎて歯応えが今一つ、の感が残った。訳者あとがきと著者経歴を調べてみてそれが分かった。長いこと中高生向けの歴史書の編纂に携わってきた人だったのだ。この本(原著)の対象読者はその辺にあるのだろう。

6)技術者たちの敗戦
著者は産業もの、特に今次大戦の技術分野を得意とする戦後生まれのノンフィクション作家。自身IHIでジェットエンジン開発に従事した技術者なので技術的内容(ハードのみならずソフト面でも)記述・表現は安心できる。それもあり「マン・マシンの昭和史」「ジェットエンジンに憑りつかれた男」など何冊か既著が手元にある。本書は2004年に単行本として出版されたものだが、何故か読んでおらず今回文庫本化されたので読んでみることにした。初出は2003年度の草思社PR誌「草思」(年6回)に連載されていた、それぞれ独立したテーマで書かれたもの5話を加筆して一冊にまとめたのである。
第1章       三菱零戦設計チームの敗戦 堀越二郎、曽根嘉年
アニメ映画「風立ぬ」で一般の人にも知られるようになった名機ゼロ戦の設計主務者堀越二郎とその部下であった曽根嘉年。生真面目で孤高の人だった堀越が戦後のゼロ戦神話の中で突出した英雄に祭り上げられる一方、融通の利かない職人スペシャリストとして知名度のわりに社内では重んじられなくなっていく。そこには特定の個人が前面に出ない(ホンダの様なオーナー技術者はともかく)日本技術者社会も影響したようだ。それに比べ覚めて(ゼロ戦を革新的な新鋭機とは見ていない)バランス感覚のある曽根は三菱自動車の社長まで上りつめる。
第2章       新幹線のスタートは爆撃下の疎開から 島秀雄
親子2代にわたる国鉄(鉄道省)の技術者トップ(技師長)。戦前の弾丸列車計画は父がまとめ、それを息子が新幹線として実現する。しかし予算オーバーの責任を取って辞職した島に開業式の招待は来ない。戦前から電化方式・電車(動力分散)方式を主張するが軍部に反対される(電源切断を恐れて)が、戦後はこれが主流に転じる。国鉄退職後は宇宙開発事業団(現JAXA)理事長。既に部外者ではあったが早い段階でリニア新幹線に反対(電力消費、スピード第一への疑問)。
第3章       戦犯工場の「ドクター合理化」 真藤恒
戦時は播磨造船の技術者。上司との折り合いが悪く(生産方式革新に対する強烈な主張)呉海軍工廠に出向させられそこで終戦。戦後工廠が賠償指定工場となりアメリカ資本下で合理化(特に工期短縮;工廠時代の現場経験を最大限に活用)を徹底、オーナー(米人;海運・造船業)の信を得る。石川島と播磨が合併IHI発足。土光社長に注目され後に社長。鈴木内閣時電電公社民営化推進のため総裁に起用され、NTT誕生に功績(特にIHI時代の合理化、解雇経験を組合対策に生かす)。政界実力者(例えば後藤田正晴;電電ファミリー企業に配慮するよう圧力)にも人前で堂々と反論する硬骨漢。しかしリクルート事件に連座し有罪。
第4章       なぜ日本の「電探」開発は遅れたのか 緒方研二
緒方研二は緒方竹虎次男。戦後は電電公社研究開発本部長(総務理事)、NEC副社長などを歴任。戦時は海軍技術士官でレーダー開発に従事。そのトップは伊藤庸二技術大佐だったが、この人は学究肌でマネージメントが全く不得手だったために、レーダー開発が混乱、結局実戦で本格的実用に供するものができなかった。
第5章       翼をもぎとられた戦後 中村良夫
中村は戦時中島飛行機のエンジン技術者。6発爆撃機「富嶽」用エンジン開発(計画段階で中止)やジェットエンジン開発に従事。戦後ホンダに途中入社。1960年代初めてF1参戦(2勝)時の開発責任者。経験主義の本田宗一郎としばしば衝突(特に宗一郎の空冷エンジンへのこだわりを批判し続けた)。役員(常務)になるも宗一郎との対立は続き、英国研究所勤務の後退職。国際自動車技術連盟会長などを務めた。

堀越を除けば総て本人からの聞き取り調査がベースになっているので、生々しい発言が随所に引用され、各人の人柄・資質が身近に感じられる(特に島、真藤、中村)。堀越(執筆時故人)に関しては、同僚であった曽根や東條輝雄(東条英機次男;のち三菱自動車役員)などの取材からその人物像を描いている。
全体として、経営者として後年名を成した人が多いので、技術と離れた戦後の話題に費やされる割合が高い。例えば、真藤に関しては電電公社経営を巡る政治的局面やリクルート事件に多くの誌面が割かれる。また回顧談が核になるので、外から見れば功成り名を遂げた人が、本人にとっては不本意だった出来事・処遇に対する不満・批判を露わにする場面が垣間見られる。この辺りは“技術者”も“敗戦”も本質的には関係ないことであり、読み手によっては不快感を持つこともあろう。
登場人物を一括りにして戦中と戦後を一般化するようなまとめ方をしていないが、戦争というギリギリの制約の中で苦闘した技術者の体験が戦後生かされ、経済発展と技術大国への道を切り開くことに寄与したことを具体的に教えてくれるところが本書の肝である。

7)帝国日本の技術者たち
前著を読んでいる時、同じような本は無いかと探したところ見つかったものである。同様の戦前戦中の技術者を扱ったものだが、内容は全く異なる。
先ず前著が完全に個人にその対象を絞っているのに対して、本書でも個人は登場するものの、よりはその時代の技術者社会とそこに至る背景を探ることに力点が置かれている。第2は具体的対象分野が鉄道と土木に限られ、それも細部の技術には立ち入っていないことである。第3は戦後に関して、占領地・植民地における残留者や引揚後の現地社会への影響を掘り下げている点である。そして戦時の技術者需給に関しては、直接的な軍事分野ばかりではなく、全体として大幅なアンバランス(不足)が生じていたことを明らかにする。つまり、技術史的な調査分析ではなく、専ら経済史・社会史の角度からこの問題に取り組んでいる。こうなった経緯は、前著はノンフィクション作家によって一般読者向けに書かれたのに対して、本書は経済史研究者が研究成果(論文)のいくつかを一般向けに編集し一冊にまとめた、という違いからきている。
1章の書き出しにいきなり表れるのは1934年度(満州事変の3年後)の技術者(大学・高等工業卒)配置数。それが官:所属機関別、民:業種別に一桁まで示される。官(総数;15,749名)では学校関係が最多(3,529名)、次いで鉄道省(2,240名)、3位は植民地(1,251名)と続く。民(総数;25,331名)では、鉱業・石油(2,429名)がトップ、2位は繊維(2,357名)、3位電力・ガス(2,298名)。いずれも社会全体の基礎(教育・行政)・基盤(インフラ)セクターや得意の軽工業(繊維)が上位を占め、軍事に直結する分野は決して多くない。
ここでこのような数字を紹介したのは、本書の性格を例示するためである。この他にも、大学・高等工業卒業生数の変化、地域別・業種別必要数と実配員数のギャップなど総動員体制下での技術者不足を徹底的に定量化してみせる。さらにここに至った明治以降の技術者育成・教育体系の変遷と強化策(学校ばかりでなく企業内教育・キャリアパス含め)を具体的に説明し、その時々の問題点と戦時体制への影響を明らかにしていく。
数字を中心にした全体技術者像の次に来るのは、植民地における技術者ニーズとそれへの対応である。満州では満鉄とこれに関係する華北占領地の鉄道が取り上げられ、教育面では旅順工業大学と南満州鉄道専門学校の果たした役割が、数字を含めて詳述される。また朝鮮では鴨緑江流域のダム建設とこれを利用する化学工業(日本窒素)に着目、ここでの技術者養成・確保・処遇の具体例が示される。朝鮮における人材供給は各地に続々と誕生した中堅現場技術者養成を目的とした工業学校が担うことになるが、完全に日本人と対等の扱いをされず不満が内在したことを露わにし、今に続く歴史問題に敷衍する。
戦後に関しては、軍から民への転換と外地勤務技術者の引揚後を、複数の個人の経歴を克明に追って、新幹線建設やカメラ企業経営、海外のダム建設コンサルタントなど戦後復興と密接に関わった活動と結びつける(この部分は前著と近い内容になるが数字や時間表記にこだわりが感じられる)。
著者の結論は、「戦時生産の中で辛酸をなめたことが戦後に生かされた」との点で前著の読後に感じたことと同じである。しかし「植民地・占領地では帝国主義的技術観(位階的秩序)が野放図に拡延した」と指摘するとともに「戦後のアジアにおいても日本優位の考え方は揺るがず、入亜のあり方を大きく規定している」と見て、今後の我が国技術・技術者、国際貢献活動への警句としている。もって瞑すべし!
著者は大阪大学大学院経済研究科教授。産業史関連の著書が多い。

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2015年8月29日土曜日

魅惑のスペイン-12


7.セビーリャ-2

セビーリャ大聖堂に隣接する塔は“ヒラルダ(風見鶏の意)の塔”と呼ばれ、12世紀のイスラム時代はミナレット(礼拝時刻を告げるための塔)として造られ、それを活用している。高さは約100m、内部は階段ではなくらせん状のスロープになっている。塔頂まで上がるとセビーリャの旧市街が一望できる。ただ全体がイスラム時代のものではなく、上部は地震で崩壊したためゴシック様式に改められているので装飾が異なる。こんなことはスペインだからこその歴史の名残と言える。
聖堂内に入ると、思ったほどの大きさを感じない。それは中央部に聖歌隊席で囲われた巨大な祭壇があるからだ。この祭壇の南側に4人に担がれたコロンブスの棺がある。最新の電子技術を駆使した調査では確かに人骨の一部が認められたそうである。壁面や天井に描かれているのは聖書の一場面をモチーフにしたもの。カトリック美術は何か稚拙で毒々しい感じがしてどうも好きになれない。
聖堂見学を終えると近くのアル・カサル(城砦)に徒歩で向かう。ここも本来イスラムの王宮として建てられたものだが、その後キリスト教徒の後継者たちが増改築、前日訪れたアルハンブラ宮殿を模し部分もあると聞かされ、一部を城門前から観るだけで終わる。日差しはさらに強くなり、暑さも一段と高まってきた感じだ。
城壁に沿って北東へしばらく行くとサンタ・クルス街、ここは旧ユダヤ人居住区。今は小ホテル、レストラン、土産物屋、バルなどが軒を連ね、観光客で賑わっている。もしセビーリャ市街に泊まるなら夜来てみたい気がするような街だ。ここを抜けて西に向き転じると城壁と大通りに挟まれた南北に細長い公園に出る。その中ほどにはコロンブスの記念碑があり、この近くでやっとクーラーの効いたバスに戻る。
次に向かうのはここから南へ1kmほどの所に在るスペイン広場。1929年の万博会場を公園化したところである。歴史的にそれほど由緒のあるところではないが、個人的にはセビーリャで一番出かけてみたい場所である。理由はディヴィッド・リーン監督・ピーター・オトール主演の名画「アラビアのローレンス」に登場したからである。封切りで観て以来すっかり惹かれ、TV放映、名画祭と機会があれば出かけており、昨年も数々の名作を再演する「午前十時の映画祭」で堪能した。しかし、何故スペインのセビーリャが関係するのか?カイロに在る英軍司令部としてロケハンされたのである。軍服を着た将校たちが行き交う列柱の並ぶ回廊をアラビア装束のローレンスが進んで行くと周辺から好奇の目が射すようにローレンスに注がれる。極めて印象的なシーンである。この旅行を始めるまで、その建物はカイロに在るものと信じ切っていたのだが、準備中にそれを知り、必見の観光スポットに転じていた。
実際の建物は広場に向けて半円形。回廊に沿って水路が巡らされ、ボートで遊覧できるようになっている。ガイドの説明が終わるのがこの時ほど待ち遠しかったことなない。終わるや否や広場の中心点に向かい全体を眺める。今度は建物の正面に向って進み、階段を上って回廊を歩いてみる。強い西日はまるでカイロ軍司令部を再現しているような気分に浸れる。期待していた以上の雰囲気を堪能。こうしてセビーリャ観光の一日が終わった。

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(次回;カルモナ)

2015年8月23日日曜日

魅惑のスペイン-11


7.セビーリャ
丁寧に歴史を追うなら十分一日の見所はあると思われるコルドバだが、ランチが終わると1時には西南西140kmに在るセビーリャに向けて出発だ。外は真夏の陽気だが、幸いバス内はクーラーが効いて涼しい。周囲の景色は午前同様アメリカ西部に似た、乾いて荒れた土地が続く。昼の酒と見飽きた風景に皆うつらうつらの状態。添乗員も説明を中止して、単調で静かなドライブが続く。1時間も過ぎたころ道の脇に大きな牛の形をした看板が現れる。宣伝文句はなく、色も黒一色、それが一つではなくポツ・ポツと出現するのだ。どうやらここらは牛の放牧地で、ドライバーへの警告らしい。地形を見ると今までよりは平坦で広々している。道も若干混みあってくる。やがてバスはICを降りてセビーリャの町中に向けてヤシの並木道を進んで行く。ランドマークの一つ黄金の塔の近くの駐車スペースに停車、到着時刻は2時半だった。これから市中観光、先ず運転手がバイトで商う冷たいミネラルウォータを購入。一本1ユーロはリーズナブルな値段だ。
セビーリャは、日本ではセビリヤ、セビージャなどいろいろな表現がある。これは最後の3文字-llaが本来日本語の発音にし難いことから来ている。我が国で最も知られているのはロッシーニの「セビリヤの理髪師」のセビリヤだがどうもこれが現地語とは最も遠いらしいので以下セビーリャでいくことにする。大都会(アンダルシア州の州都、人口70万人はスペイン第4位;マドリッド、バルセロナ、バレンシアに次ぐ)で古都(フェニキア、カルタゴ、ローマ、イスラム、カソリックと長い歴史が刻まれている)。スペインを代表する闘牛やフラメンコもここが本場だ。コルドバを流れていたガダルキビール川は少し先で大西洋に注ぐので、ここまで大型船が遡上し港町として栄えてきた場所でもある(一時は新大陸への独占港であり、それだけ富の蓄積があった)。文化的にも先の「理髪師」ばかりでなくモーツアルト「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ(ドン・ファン)」、ビゼー「カルメン」などの舞台になる背景を持つ(カルメンが働いていたタバコ工場のモデルもある)。
本来なら数日滞在して、市中観光ばかりでなく、各種エンターテイメントを楽しみ、近隣のカディス、ジブラルタル、へレス(シェリー酒発祥の地)などへ足を延ばすべき場所に違いないが、今回は3時間程度の駆け足で限られた観光スポットを観て廻る。ここのガイドはスペイン人の中年女性、本来は英語が専門なので添乗員のSSKさんが通訳を務める。
バスが着いたのは“黄金の塔”。これは川を行き来する船の検問・防塞建造物、かつては(13世紀建設)川向うにも同じ塔が在ってその間に鎖を張って不審船を見張った所である。“黄金”はその外壁に貼られた金色のタイルからきている(同じような仕掛けはイスタンブールのボスポラス海峡にも在った)。
次はここから徒歩で10分程度、本日のメインエベント、大聖堂見学。前を洒落たスタイルの市電が走る。その道端で幾組もの観光グループがガイドの説明に耳を傾けている。
ここはカソリックの大聖堂としてはバチカンのサン・ピエトロ寺院に次ぐ大きさ、ヨーロッパの教会としてはこの間にロンドンのセントポール寺院(英国国教)が入るだけである。つまり規模を誇る所なのだが、歴史もユニークだ。本来ここにはイスラム教の大モスクが在って、これを壊して15世紀初頭から16世紀にかけて建設され、その際一部にイスラムの施設(鐘楼)やプロット(中庭;キリスト教の教会にはまず中庭はない)が残っているのである。

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(次回;セビーリャ;つづく)

2015年8月19日水曜日

魅惑のスペイン-10


6.コルドバ-2
コルドバの見所の代表は何と言ってもメスキータ、スペイン語でイスラム寺院を意味する。レコンキスタの後はカソリックの聖堂になったのだからカテドラルと称されてもおかしくないのだが、ここは依然として“モスク”なのである。これだけでもその歴史的重みが分かる。これで思い起こしたのが、1996年イスタンブールを観光した時に訪れたアヤソフィア、もともとは東ローマ帝国時代の大聖堂を15世紀オスマントルコがその地を征服した後、モスクに改造したものである。どちらが良いかと問われれば、無論メスキータである。ヨーロッパの周辺地域にはこのような文化文明の交錯した、歴史的遺産が各所に現存するところが観光の楽しさである。
このメスキータの建立されたのは紀元8世紀、800年後の16世紀にカソリック教会に改築されたのだ。美術や建築の専門家はそれを“改悪”と決めつける傾向が強い。イスラムの伝統を守る、明るく、開放的で清潔感にあふれる大規模モスクを見たことのある者にはその評価がよく理解できる。とにかく現在のメスキータは暗いし、巨大な祭壇などが中に収められ、折角の広い空間がせせこましく感じられる。実は市民の反対を押し切り、オーストリア人の司祭にそそのかされて、この改築に勅許を与えたカルロス1世は現場を見たわけではなく、後にポルトガル女王イザベルとセビーリャで結婚式を挙げたあと新婚旅行にここを訪れ、“改悪”を理解した時「世界に一つしかない建物を壊してしまった」と猛省するのだが“時すでに遅し”だったと伝えられている。
中に入るとまず目に入るのは多数の円柱である。本来の数は1012本、改築後は約850本に減じているのだがそれでも“石柱の森”である。年輪を重ねた柱は加工の仕方や材質、礎石や柱頭もよく見ると異なっている。既存の建造物の石や柱を転用しているのだ。そのアーチ部分は一色ではなくいかにもイスラム風の赤と白の縞模様になっている。構造は一気に天井に至るのではなく、何段かのアーチを重ねて天井に達している。この辺り、当時の建築技術の限界もあっただろう。説明を聞いて残念に思われたのは、イスラム時代には外壁部分は限られており、中庭と一体になり、そこにも礼拝者が参列し、祈りを捧げていたとのこと。明るい光と乾いた空気が室内にも満ち満ちてわけである。いまその中庭にあった石は引きはがされオレンジの木が植えられている。しかし、これだけ“改悪”されても感動させられるものが残っているのはさすがである。
次に出かけたのはユダヤ人居住区。スペインの歴史的な街にはどこにもこう名付けられた一画がある。宗教が違うので、イスラムともキリスト教徒とも完全に共棲することはないものの金融業など彼らの役割はそれなりにあったことがこのことから分かる。いまではユダヤ人が住んでいるわけではなく単なる地名だが、街のつくりが異なり狭く入り組んだ路地が特徴で、そんな中に花で飾られた小さなパテオ(中庭)を発見するのも楽しい。丁度年度替わりの休みを利用した遠足で小学生たちも見学に訪れていた。
昼食は、白壁の美しいAlmudaina(意味不明)と言うレストランで、生ハムとビーフシチュー、それにシェリー酒。生ハムは(どこでも)個人的にやや塩辛い感じがしたが、ビーフシチューとシェリー、それにパンには十分満足した。

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(次回;セビーリャ)