2016年5月31日火曜日

今月の本棚-93(2016年5月分)


<今月読んだ本>
1) 世界最強の女帝 メルケルの謎(佐藤伸行):文藝春秋社(新書)
2) 薩摩スチューデント西へ(林望):光文社(文庫)
3) 人類を変えた素晴らしき10の材料(マーク・ミーオドヴニク):インターシフト
4)日本陸軍とモンゴル(楊海英);中央公論新社(新書)
5)情報機関を作る(吉野準);文藝春秋社(新書)

<愚評昧説>
1)世界最強の女帝 メルケルの謎
2014年のウクライナ内戦、つづくギリシャ債務危機、昨年秋からのアラブ難民欧州大量流入、いずれも欧州の政治経済に混乱が生ずると、ドイツのメルケル首相が捌いている感があり、その存在感はオバマ米大統領を上回る。米紙『タイム』は2015年の“パーソン・オブ・ザ・イヤー”に選んでいる。彼女が際立つのはドイツゆえか?はたまたメルケル個人か?そんな興味から本書を手に取ることになった。
東ドイツ出身の物理学者と言うことは早くから伝えられていたので、てっきりガチガチの共産主義家庭生まれ育ちの人物と思い込んでいたが、本書を読んで先ずその先入観を正されることになる。生まれは西ドイツ・ハンブルク、プロテスタントの牧師であった父が教会に命じられて東ドイツで布教活動をするために生後間もなく(1954年)移住、彼の地で35年余を過ごした後、冷戦終結・ドイツ統一によって政界入りしたことを知った。それにしてもドイツ統一は事実上西ドイツによる東ドイツ吸収合併である。政治家としての経験が浅く、西ドイツに強固な政治基盤を持たない彼女が短期間で頂点を極め、海千山千が揃う欧州政治家の中で断トツの力を発揮していることには、現地ジャーナリストですらうかがい知れない謎が多々ある。これを日本人向けに出来るだけ明らかにすることが本書の意図である。著者は時事通信社ボン支局、ベルリン支局、ウィーン支局に長期駐在経験のある記者、欧州人とは異なる視点(独・中・日)からの考察は、これからの日独(あるいは日欧)関係を考えるに当たり示唆に富む内容であった。
誰も(特に旧西ドイツ人)が知りたいことは東ドイツにおける彼女の経歴である。「共産党一党独裁体制と関わる暗部があるのではないか?」 これについて彼女自身は多くを語らないので秘密警察の資料など漁るが政治絡みの情報は全く見つからない、残る記録には「高校時代からロシア語に極めて優れていた。そのためモスクワ旅行の特典を与えられた」と言う程度である。このロシア語能力は際立つもので、プーチン大統領も高く評価している(二人だけで政治談議が出来る)。共産党の下部青少年組織に属してはいたもののさしたる重要な地位には着いていない。
語学の他の学業成績は理系に優れ、大学では物理を専攻、研究所に就職し同僚のメルケル氏と結婚するがやがて離婚(姓だけはそのまま残す)、冷戦崩壊後再婚して現在に至っている。その夫も彼女を語ることは少なく、全体に家庭像がはっきりしない。
政治家への転身は統一の少し前、一党独裁が壊れてから東独のキリスト教民主同盟に参加、やがて統一を実現したコール首相の目に留まり、それ以降とんとん拍子に出世していく。この過程は本書やそこに引用される他のメルケル物でかなり詳しく掘り下げられるが、結果として“取り立ててくれた人を踏み台にしてさらに上を目指す”ところがクローズアップされる。これが計算ずくなのか、あるいは偶然なのか((コールを切って捨てる場面をみると偶然とは思えない)。とにかく権力志向には並々ならぬものがある。
また、アイディア・知恵を広く求めるタイプではなく、記憶力に優れ(象のような記憶力)、一人でじっくり考え抜き断を下すタイプ。何を基準に判断するのか、どんなプロセスでそこに至るのか、なかなか外から窺がうことのできない意思決定(“出口から考える”と言う説がある)。
以上のように今ひとつ理解できないことに満ちた人物、さらに「政治の世界への中途参入者は大成しない」と言われるドイツ政界で10年以上にわたり宰相の地位にある奇跡の人物、それがメルケルなのである。つまり今日ある存在感はドイツよりはメルケルゆえなのである。
先に本書がこれからの日独関係を考えるに示唆に富むと書いた。それはメルケルの対中政策にかなりの紙数を割いて解説した上で(独中ユーラシア枢軸の衝撃)、昨今の日本における嫌独・反独風潮に、「それこそ中国(および韓国)の思うつぼ」と警告を発していることである。自身最近とみにその傾向があり、反省させられた次第である。

2)薩摩スチューデント 西へ
3月下旬家内の両親の墓参をかねて子・孫を含め全員9名で鹿児島市を訪れた。私にとって鹿児島訪問は1972年以来46年ぶりのことである。半世紀近く前最も印象に残ったのは桜島を遠望する島津別邸(磯庭園)に隣接した“尚古集成館”と名付けられた小科学博物館、幕末の我が国科学技術の一端に触れられる貴重な資料がそこに保存・展示されているのだ。今回の鹿児島行に際し、皆に見せたい第一の場所がここであった。本書はその売店コーナーで求めたものである。
多くの人と違って、幕末・維新の政治史(思想や各藩あるいは志士たちの動き)にはほとんど興味がない。「どうせあとから作られた歴史」と思うからである。それに比べると科学技術史や行政・統治史は事実に基づくだけに、身近に感じるし信用できる。特に明治維新後の社会改革(近代的な政府・軍の創設、産業振興策)は世界史でもまれに見る速さで見事に進められ、当時の推進者たちに対する尊敬の念は一入である。ただいつも疑問に思うことは「長い鎖国状態にありながら、近代化推進者たちがどのように欧州の統治システムや先端科学技術に関する知識を我が物にしたのだろう?(語学習得でさえ容易でない中で)」と言うことであった。徳川幕府が僅かは留学生を送り込みその中に渋沢栄一が居たことや伊藤博文が密航に成功し英国までたどり着いていること、あるいは長崎出島における蘭学の歴史くらいは知っていたが、その程度の海外往来であの大社会改革が短期に進められるとは到底思えなかった。しかし本書を読み、幕末の薩摩藩(および長州を含む少数の藩)と海外の関係を知り「こう言う前段階があったのか!」と疑問に対する答えの一端を得ることができた。
本書は、1865年薩摩藩が禁を犯して英国に送り込んだ15人の留学生と引率密使4名の物語である。攘夷思想から1862年生麦事件で英人を殺傷した薩摩藩士の行いは翌年の薩英戦争につながり薩摩は大艦巨砲に敗れ、近代技術の威力を痛感させられる。これからは単に工業製品(主に兵器)を購入するばかりでなく、自ら作り運用する体系まで一新することが必須と考えるようになる。派遣されたのは、引率者や土佐藩脱藩者1名を除けば10代後半~20代前半の若者ばかり、13歳と15歳まで居る。皆武家の出身者だがそれほど高位の者は居らず藩校などで資質を見込まれた者が選ばれる。海外渡航は死罪の時代、薩摩藩は奄美・琉球への用務と称して彼らを送り出す。それぞれに課せられた課題は、機械・造船・築城・航海術・医学・化学・文学など多岐にわたる。裏で渡航手続きや訪問先さらには滞在・学習先を整えるのは長崎のグラバー商会。
323日(陰暦)串木野に近い羽島の浦を密かに小型の英船で発ち先ず香港へ。ここで汽船に乗換えてシンガポール、ペナン、ゴウル(セイロン島)、ボンベイ、アデンそしてスエズで上陸。スエズからカイロを経てアレキサンドリアまでは鉄道。アレキサンドリアからは5千トンの大型船でマルタ、ジブラルタルを経てサザンプトン入港は528日、約2ヶ月にわたる航海の末英国に達する。本書の過半はこの道中における、出来事やそれぞれの印象、言動に費やされるが、食事を始めすべてが初体験ばかり、面食らいながらも新知識を国づくりに生かそうとする姿が、時にはユーモラスに、時には深刻に描かれる。
本書は小説(フィクション)である。しかし、素になっているのは留学生たちが残した日記や文書、さらには現地に残る当時の新聞記事などであるから、ノンフィクションとしての価値も充分あり、明治以降の近代化につながる情報は尽きない。例えば港湾の規模と設備、鉄道の利便性、スエズ運河開削における巨大土木工事、アデンやマルタにおける守備強固な城砦、巨船を作りだす大規模な造船所など。これらに彼らがどう感じ入り、国情に合わせるべく消化していったかを知るとき、アジアで唯一植民地にならず、今日先進国の一角を占めることが出来ていることは、彼らのような草の根レベルの努力が寄与していることに、あらためて驚かされ、感謝の念すら沸いてきた(これを決した薩摩藩上層部の英断と併せて)。
著者は古書学の専門家、本書のための調査もこの点で抜かりない。例えば、英国に落ち着いた後、農機具製造会社の見学に関する記述では当時の英国地方紙の記事まで掘り起こしていることが分かる。工場見学の後、農業機械(蒸気機関で動く刈り取り機)の試運転農場に出かけると競って運転を習いたがり皆短時間でそれを体得してしまうことに、会社役員や技術者が感心する記事が残っている。(上から目線ではあるが)「日本人は他の民族とは違う」と。現代の我々にそれだけの気概が引き継がれているだろうか?

3)人類を変えた素晴らしい10の材料
工学部ではいずれの学科でも材料について学ぶ。機械工学の場合は主にその対象は金属材料である。必須科目である材料力学はともかく、私はどうもこの分野に興味が持てなかった。素材によって理論に一般性を欠き、あれはあれ、これはこれとやたら憶えなければいけないことが多かったからである。爾来材料に関して興味を持たなかったし、幸い仕事でも深くかかわることはなかった。しかし、本書を読んで「こんな先生に教えられれば、材料に対する関心も少しは違っていたかもしれない」と “偏見”を改めさせられた一冊である。
取り上げられる材料は、鉄鋼・紙・コンクリート・チョコレート(これは“材料”なのか?)・泡(泡状にした材料)・プラスチック・ガラス・グラファイト(炭素固形物)・磁器・インプラント材(身体補強材)の10種、いずれも身近に存在するものばかりである。
著者はオックスフォード大学で材料科学を専攻し現在は同分野をロンドン大学で講じている英人教授。“こんな先生に・・・”と書いたのは、工学的な細部ばかりでなく、発明・発見の動機、科学的(量子力学まで踏み込んだ)特質の依ってきたる由縁、用途に応じた変化・改善、更には社会変革への波及効果まで、“材料と社会” と言う視点から語られるからである。加えて執筆スタイルは10種について同じではなく、テーマによって変えることで、最後まで飽きさせずに読ませる。つまり“教える”ことに工夫と情熱が注がれていることが伝わる書物なのである。
それぞれのトピックスを掻いつまんで紹介すると;脆い銑鉄を強靭な胴の部分と切れ味鋭い刃の部分を作り分ける日本刀の生産技法。ステンレス鋼の出現で味のしない金属食器が出来、スプーン・ナイフ・フォークが普及;紙の種類と製法が用途によって如何に多様であるか(トイレットペーパー、紙幣、印画紙、切符);日常用品としてのコンクリートの最初の用途は植木鉢(素焼き・テラコッタ)の代用だったが気候変化に弱かった。これを針金で強化してひび割れを防いだ(コンクリートと鉄の親和性)。ここから建築材の主役が誕生した;チョコレートはカカオ豆を焙煎・粉末化し砂糖を混ぜた物とは全く違う。600種を超える分子のカクテル、極めて複雑な製造工程を経てできあがる(豆を一旦腐らせるところから始まる。著者は偉大な技術的成果の例としてこれを“材料”として取り上げている);泡製品には種々のベースがある。ゴムやウレタンなどからシリカや金属まで、靴底から断熱材、宇宙物理学実験材料まで広範に泡技術が使われている;プラスチック(セルロイドを含む)がなければ音楽も映画も楽しめない。玉突きの玉は当初は象牙製であったがセルロイドに変わる、ぶつかった時の音が微妙に違いピストルの撃鉄を起こした時と酷似、そこで惨劇が起こる。映画「明日に向かって撃て」のシーン;紙・火薬・羅針盤を発明した中国がガラスに関しては何の貢献もしていない。これが天文学(望遠鏡)や医学(顕微鏡)あるいは化学実験器具の発展を遅らせ、東アジアが西欧に近代工業で差をつけられた一つの原因とも言える;グラファイトは鉛筆から工業用ダイヤモンドまで広く利用されているが炭素繊維、カーボンナノチューブはさらに材料としての世界を広げる。同じ炭素から成るが何が違うか;素材と焼成工程による微妙な変化が芸術と技術の融合物を生む。中国の陶磁器再生を目指すところから始まる西欧の陶磁器開発;歯・骨・軟骨・気管・血管、インプラント材は不死を実現するか?
当然のことだが中心になるのは科学的解説である。しかし中学生程度の理科の知識で概ね理解できるように記述されており、“易しい科学読み物としてお薦めである。“ビルゲイツ氏も絶賛!”

4)日本陸軍とモンゴル
満州物は随分読んできているがモンゴルとの関係は専らノモンハン(生年に発生)だった。本書のタイトルを見て、始めは「これも同じかな?」と思ったが、カバー裏の要約を見て、それとは異なりあの時代の蒙古独立運動と深く関わる内容であることを知り、さらに著者の経歴を見て、「これは知らないことが多そうだ」と購入した。著者が大野旭という日本人ペンネームも持つ1964年生れの南モンゴル人(中国内モンゴル自治区出身なので国籍としては中国人)だったからである。本書を読みながら感じたことは「著者はもう故郷(内モンゴル)に帰ることはできないのではないか?日本に帰化したのだろうか(静岡大学教授)?」との疑問である。そのくらい現代に続くモンゴル人から見た反中国活動の歴史と独立願望に満ちた内容なのである。
我々がモンゴルに関し世界史・日本史で学ぶのは、ユーラシア大陸の過半を制したジンギスカンとその子孫によるモンゴル帝国、中国を制覇したフビライの元帝国である。しかし近世以降は衰退著しく、ぼんやりした概念しか浮かんでこない。独立国家として存在するのはモンゴル国(旧モンゴル人民共和国)だけ、これに現在は中国の一地方政権である内モンゴル自治区の二つに“モンゴル”が残るに過ぎない(以下内モンゴル人もモンゴル人と記す)。しかし、両者は民族・言語・生活様式は全く同一、本来は一つの国として存在すべきものだが、大国(ロシア、中国)の都合によって2分されて久しい。バルカンあるいは中東やアフリカで起こっている紛争と同様の火種がここにもあるのだ。
ロシアはそれでも革命後モンゴル族の国家樹立を認めたし、ロジア人がその土地に大量植民することもなかったが、中国は違った。清朝衰退・崩壊で長城の北が禁断の地でなくなってからは陸続として漢族が侵入、牧草地を畑地に変えて、結果として砂漠化が進捗して、遊牧民の生活の根源を奪うことになるのだ。加えて中華思想(序列意識)は遊牧民をあからさまに見下す。ゆえに、モンゴル人の反大国意識はロシアにくらべ中国の方が圧倒的に高い。
モンゴル人の間で、東アジアで近代化を進める日本に学び、独立支援を期待する空気が高まってくるのは、特に中国が群雄割拠でまとまらない清朝崩壊以降、有力者子弟の若者が日本に留学するようになる。その中にモンゴル貴族の一人ジョンジョールジャブが居る。父のバボージャブは日露戦争では日本に組し、その後独立を目指して中華民国に弓を引くが戦死、兄のガンジョールジャブものちに弟とともにモンゴル独立軍を率いることになる、親日的な独立の志士一家の一員である。ジョンジョールジャブは1922年来日、東京府立第6中学校(現都立新宿高校)に入学、そこから陸軍士官学校に進み優秀な成績で卒業する。丁度この頃母国(内モンゴル)ではジンギスカンの末裔と言われる徳王が中国からの自決運動を開始する。
本書の内容はこのジョンジョールジャブを中心に内モンゴル独立運動と日本陸軍(特に関東軍)との関係を詳述するもので、時期的には断片的な前史のあと満州事変(1931年)から綏遠(すいえん)事件(1936年;徳王による北支綏遠省攻撃;国民党軍に撃退される)を経て終戦までを取り上げ、そのための蒙古自治邦(徳王の支配域)における軍事組織、中堅士官教育(特に副題の興安軍官学校;モンゴル版陸軍士官学校;ガンジョールジャブも一時校長)、作戦行動などについて、日本・中国・内モンゴルの資料に当たりながら実態を詳らかにする。粗筋は、当初日蒙の理想が一見一致しているように見えたが同床異夢、日本の狙いはあくまでも対中国政策の一環としてモンゴル族を利用したに過ぎず、独立国を作ることには熱心でなかった(国でなく“邦”としたのもそれゆえ)。独立の志士たちは日本不信に陥り、やがて離反していく。一方で、関東軍中央もモンゴル人の理想に共鳴し献身的に協力する日本人を“蒙古狂”と遠ざける。そのクライマックスは194589日のソ連参戦、モンゴル軍参謀長となっていたジョンジョールジャブ少将は日本に反旗を翻しソ連側寝返る。
終戦。満州・内モンゴルはソ連軍に占領されている。モンゴル人民共和国と一体となることで中国からの離反を実現できるのではないか、そんな期待感が内モンゴル人に沸き起こる。しかしヤルタ協定には“中ソ国境は変更なし”と記されており、この夢も叶わない。中共が大陸を制覇するとジョンジョールジャブはソ連から中共に引き渡され1967年、文化大革命の中で自死する。
本書の価値は何と言っても、モンゴル人から見た当時の日本そして現在に至る中国との関係。著者は1964年生れだから基本的に文献調査が主体、引用されたモンゴル・中国に残る資料は、おそらく日本側では参照される機会がない新鮮なものばかりと推察する。中国側の資料はかなり改ざんされているようだが、重要と思われる部分には著者の注もあり、モンゴル人の真意が伝わってくる。多くの場面で語られる、日本への期待と信頼関係を築けなかった忸怩たる思い、モンゴル人の強烈な反中国意識(その点で中国描写にはバイアスがかかっている可能性も否めないが)などがその例。大事にしたい親日民族である。

5)情報機関を作る
情報技術を生業としてきたこと、これと近代兵器システム発展史の関係を趣味として追ってきたこともあり、国家の命運をかけたスパイ(諜報、防諜)戦には、フィクション、ノンフィクションに限らず興味がつきない。本欄でも、CIAFBIKGBMI-56、モサドといろいろ紹介してきた。しかし我が国の諜報活動となるとあまり緊迫感の感じられない23の小説の他は畠山清行の力作ノンフィクション「秘録 陸軍中野学校」を取り上げたくらいで、戦後のものは全くない。そんな時本書の平凡な題名の最後にある“作る”に目が行き手に取った。著者紹介を見て即購入。キャリア警察官僚、警視総監まで上りつめ、その間公安・外事担当、在外大使館勤務(冷戦下のユーゴスラヴィア)まで経験している人だ。本格的な諜報戦の“今”と我が国の実情を知ることができるのではないか、そう期待して読むことになった。
題名が示すように、本書出版の主意は、国家安全保障・テロ防止のために独立・専門の情報収集分析・防諜組織を持つことの必要性を訴えるもので、佐々淳行(警察庁、内閣安全保障室長)や佐藤優(外務省、ロシア専門職)の主張などと重なり特に目新しいところはないが、情報組織作りの手順(人材養成・エージェントのリクルートから始まる)説明に、犯罪捜査や防犯活動などの経験・知識を援用したり、作家の講演録や優れたスパイ小説・犯罪小説の一コマを利用して、政策提言や“べき論”に終始するものとは異なる味わいをだしている。
例えば、この種の書き物でしばしば指摘される“日本人は古来情報活動を重視しない”ことの背景説明に、司馬遼太郎が語った「およそ情報と言うものは、水田農業に必要なものではなかったのです。それどころか時には村の平和を乱すものであり、庄屋が握りつぶすような社会が長く続いたのです」と始め、牧畜社会のおける情報の重要性に転じ、「情報という感覚を失うとき、国家は滅びるのです」と結ぶ。軽薄なジャーナリスト、堅苦しい学者、しゃくし定規な官僚よりは分かりやすく、説得力もある(農耕民族情報不要説に全面的に賛成するわけではないが・・・)。
プロの難しさを理解させる場面では、警察学校における初等刑事教育の一端、“尾行”を例に取り上げる。教官の帰宅(寄り道せず直帰)を自宅まで訓練生に追わせるが、成功する者は皆無。特に新宿駅や池袋駅(かつて警視庁の警察学校は中野にあった。旧陸軍中野学校跡)で見失ってしまう。そんなことを全く知らない外務官僚が「チョッと尾行の仕方を教えて下さい」などと言ってくる。
手の内を公開できないスパイ活動については、「多くの作品が役に立たない荒唐無稽なもの」と断じながら、ジョン・ル・カレ(MI-5、-6に一時在籍)とフレデリック・フォーサイス(空軍パイロット、通信員)の二人は別格と位置付けてその作品を引用する。フォーサイスでは「オデッサファイル」における調査と追跡が、ル・カレの「リトル・ドラマー・ガール」からは敵対組織への潜入が解説材料として取り上げられる。
この種の情報組織はプロの世界、ギルドの世界である。ある意味では敵対組織ですら仲間であり(著者をスパイとして取り込もうとした国があった)、そこで認められるか否かはプロとしての技量の高さと実績にある。専門組織がないと入口で弾かれるし、日本の官僚組織のように数年で職場を変えるようなキャリアパスでは技量も磨けない。結果として信用できる(される)人的ネットワークを構築できない。プロパー採用でこの道一筋の人間と(内閣直轄)組織を作ろう!警察庁、防衛省、外務省それぞれの役割との棲み分けまで踏み込んだ提言は納得できる内容だが、肝腎の政治家たちがこれで動き出すとは考えられない。ほとんどが国際社会とは無縁と思っている“地方農村社会”を票田とするからである。また、世論やジャーナリズムもスパイを“忌まわしいもの”と見做す傾向が他国に比べ異常に強い(朝日を始めとする大手メディアのノー天気な話がいくつか紹介される)。細部は面白い本ではあったが、実現の難しさを再認識させられる。そんな無常観が残る一冊でもあった。

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2016年5月30日月曜日

九州遠征超長距離ドライブ(20)


16.長崎-2
322日(火)朝から良い天気だ。この日の予定は終日長崎市内観光。湾と山に囲まれた、それほど広くない市街地だから計画時からクルマは使わず、公共交通機関と徒歩で廻る予定にしていた。9時前にフロントに下りて、あらかじめ用意してあった、行動予定案を示してアドヴァイスを乞う。対応してくれたのは若い女性スタッフ(とは言っても既婚者)のTGWさん。案を見て「よく調べてありますね!見所を確り抑えてあります」と先ず全体計画はOK。次いで観光の順番として、1)グラバー園周辺、2)南山手方面洋館、3)東山手方面洋館・孔子廟、このあと昼食を摂り市街北部の4)平和公園(爆心地)、帰途大波止・出島地区を巡ってホテル帰着となる原案を「理想的なコース採り」と賛成してくれる。「どんな交通機関の利用が良いだろうか?」と問うと即座に「一日券(500円)を購入して路面電車利用が一番」との返事。さらに細かい情報を教えてくれる。グラバー園には「住民用のエレベータ(斜めに動く;スカイロード)を利用して裏門(第2ゲート)から入り、園内を下る道を採る方が楽です」 南山手では「“街並み保存センター”に寄ってみてください。義父の版画作品が展示してあるんです」 オランダ坂から東山手を廻って孔子廟を観ると丁度お昼時になる「ランチはホテルモントレ―のレストランがお薦めです」 すべてこの通りに行動し、すべてに満足した。
ホテルで電車一日券を購入、最寄りの西浜町駅から5番系統で終点の石橋駅まで行き、駅近くの店でエレベータの所在を確かめる。土地の人らしい親子連れと一緒に最上階まで。周辺は普通の個人住宅、裏門はそこから歩いて数分。いよいよ期待の長崎観光が始まる。
2ゲ-トは丘の頂上に在るので10mも進むと北西から東に開けた展望が広がる。眼下に長崎港の湾、その先に三菱の造船所、右手下に市街中心部が望める、左は外海への水路。外国貿易を営む者にとって絶好のロケーションと言える。グラバー住宅、リンガー住宅、オルト住宅の3軒は元の場所に在り、いずれも国の重要文化財になっているが、他から移設した洋館などもあり、“洋館見学”には便利だが、園内全体としてオリジナルの景観をとどめるものではない。グラバー邸が際立って有名なのは最も古い(1863年)ことによるのだろうが、庭園などを含め全体に明るい感じがするここは個人的にも一番気にいった。長崎に残る洋館で最大のオルト邸は石造り、リンガー邸は木石混合作り、それに対してグラバー邸は木造(日本最古の木造洋館)、こんなところも日本人に愛される由縁かもしれない。
園内を上から下に見学・散策して正門(第1ゲート)で外に出ると直ぐ大浦天主堂に達する。周辺には多くの土産物店や飲食店があり、通りは観光客がいっぱい。時間帯にもよるのだろうが第2ゲート前とは大違いである。
大浦天主堂は1863年着工、1865年完成。つまり明治になる前に、外国人居留区があるために幕府から特別に許されて建立されたキリスト教会(カソリック)なのである。何度かの増改築が行われているが(原爆で屋根やステンドグラスが被災している)、国宝に指定されている。名前は知っていたが、このことをここへ来るまで知らなかった。しかも場所は秀吉の時代に行われた隠れキリシタン殉教の地なのである。このところフランス、スペインとカソリック国観光に出かけ大聖堂をいくつも観てきている。それらに比べようもない規模だが、内部の造り(特に天井)は同じで、「あの時代どのように施工法伝授が行われたのか」エンジニアとしては興味のあるところだが、これは解明できていない。現在通常の礼拝はここでは行わず、すぐ目の前にある赤い尖塔の大浦教会がそれに使われている。
このあと南山手地区を少しぶらついてみた。個人所有の洋館が何軒かあるが内部を公開しているところはなかった。唯一入れたのはくだんの“街並み保存センター”、TGWさん義父の版画は、私の好きな伝統木版技法で長崎の風物を描いたものだった。


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(次回;長崎;つづく)

2016年5月23日月曜日

九州遠征超長距離ドライブ(19)

  
16.長崎
今回の旅の動機は家内の両親の墓参にあるわけだが、“九州へ出かける”となって「やっとチャンスが巡ってきた」と思い立ったのは長崎である。歴史好き、特に海外につながる特異な土地、訪れたことはないが長く憧れの地であるからだ。そう言うと「横浜に住んでいいて?」と返されることがあるが、残念ながら横浜の歴史は幕末以降に限られ、かつあまりに“バタ臭く短い”。これに比べ長崎には平安時代の遣唐使から鎌倉時代の倭寇、室町・江戸時代にいたるキリシタン、徳川鎖国政策に遡る出島の存在まで、長い海外往来の歴史がある。言わば海外と日本の歴史の濃縮された場所、それが私の“長崎観”として作り上げられてきたのである。現実はどうだったか。
国内外を問わず、旅先で興味のある土地をじっくり見聞するためには連泊は必須(最低まる一日観光に当てられる)。ここ長崎だけは2泊することにした。時間を夜も含めて有効に使うには、街の中心地で交通の便の良い所が望ましい。こうして見つけたのがビクトリア・イン長崎である。グレードがここより高い感のあるホテルは何カ所かあったのだが、満室だったり徒歩観光に不便だったりして適当なところが見つからず、何となく英国風の名前に惹かれて調べたところ、ほぼ希望にかなうことが分かった。“ほぼ”の部分はクルマに関することである。先ず専用駐車施設がなく(契約駐車場利用)、またどう見てもクルマで直接乗りつけられるような道は無い(実際は路地に入りこめるが、何と玄関前にクルマ用のターンテーブル、ここで方向転換するのだ!)。しかし、契約駐車場はホテルに隣接、荷物もそれほど大きくないので問題なしとした。場所は銅座町と呼ばれる、チャイナタウンも近い当地第一の繁華街、直近の路面電車駅“西浜町”は市内に四達する路線の要衝、どこへ出かけるにも便利だ。
ホテルは10階建て、繁華街のど真ん中に在るのでそれほど一フロアーの面積は広くなく、一階はこじんまりしたフロント、ロビーそれにバーしかない。入口も前述の正面は路地のような所に面し、裏口?は駐車場のある通りからはバーを通ってフロントに至る。と書くと何か貧相な印象を持つかもしれないが、どこも適度に欧風のクラシカルな雰囲気が漂う、いかにも“イン”という語が相応しい。フロントデスクはスタッフが3人並ぶといっぱい。そこに中年の女性が居りチェックイン手続きを済ます。部屋は3階の角部屋、広さは普通のホテル並み(つまりビジネスホテルより広い)、ツウィンを頼んであったが、何とダブルベッドが二つ!バス・トイレもユニットタイプではない。アメニティ(備品・消耗品)もきちんと整っているし、有線・無線LANも使える。
2泊するのでキャリーバッグに詰めたものを収納部に収め、直ぐ夕食に出かける。先ほどのフロントの女性(あとで支配人と分かる)に「ホテル周辺で中華の適当なところは?」と問うと「中華街がホテルから徒歩の距離にあります。それなのでホテルの近くでは本格的な中華は商売になりません。横浜と比べると小規模ですが、是非チャイナタウンまでお出かけ下さい」とのアドヴァイス。ここのコンシュルジュ機能はこの人に限らず、極めて的確、朝食を除く(朝食はホテルで有機農法野菜などを食す)食事はすべてフロントスタッフの案内に従ったが、すべて当たりだった。
10分ほど西へ歩くと新中華街(古くからの中華街は遥か西、東山手にあったようだが、今はこちらに移ってきている)に達し、沢山の中華レストランがあるのだが、どこに入るべきかは聞いてこなかったので、よく客の入っている“江山楼”と言う店でビールと中華三昧の夕食を摂った。経営者の比較的若い男性はどうやら中国人、しかし給仕をするおばさん達は和服で割烹着姿。何か滑稽感無きにしも非ずだが、料理の味は満足できるものだった。

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(次回;長崎;つづく)

2016年5月20日金曜日

九州遠征超長距離ドライブ(18)


15.長崎へ
旅行全体を検討した際、知覧から長崎へのルートは3案あった。最も走ってみたいのが海路を中心に天草から島原・雲仙に抜ける案。次は熊本港まで陸路を行き、そこからフェリーで島原に上陸する案。第3が天候や時間の制約が少ない九州自動車道・長崎自動車道を行く案。
1案は走行距離が最短(約270km)、キリシタンにまつわる歴史と海に長い時間接する過疎の地を行くドライブにも惹かれる。一方時間の不確実性が最も高い。九州本土から二つの島(長島、天草)を経由するため2度フェリーを利用しなければならないのだが(本土と長島は橋でつながっているので、フェリーは長島・天草間と天草・島原間)、このフェリーの利用が時間を大きく狂わせる可能性があるのだ。他にも悩ましい選択がある。出来れば知覧から一般道だけ使って、鹿児島本線に沿うように長島付近まで北上するのが面白そうなのだが、時間的には自動車道で串木野ICへ出る迂回ルートの方が早いのだ。どちらを選ぶか?
2案はフェリーの不確実性を減らす案として検討したが、天草ほど見所が無いように感じたし(島原には若干あるが、先を急ぎたくなる時間帯になる)、意外と熊本ICから市街を抜けて熊本港までたどり着くまで距離があり、道取りも難しい感じがしたので、優先度は一番低かった。
3案は全く観光を犠牲にし、移動時間の確実性を維持するための案。走行距離は最も長く(約400km)かつ大幅な迂回路になる。ただ全行程ほとんど自動車道を行くので、5時間程度で長崎市内に達することが出来る。
知覧観光が順調に進み、早目の昼食を皆で済ませ、12時前に解散できれば第1案、ダメな場合は第3案と決めていたが、現実には解散は1時少し前、ひたすら自動車道を行く第3案を採る結果になった。
先ず予め調べてあったゼネラル知覧SSで給油、給油量は33ℓ、前回宮崎からの距離はほぼ300km、霧島の山岳コースと鹿児島市中走行のため10km/ℓを切っている。しかし、これからのコースは比較的平坦な自動車専用道、長崎までは充分持つ。
市内を抜けて知覧ICで指宿スカイラインに入る。これは県の公社が経営する道で片道1車線、分離帯はないので一般道と変わらない。比較的山間部の高いところを走るので見晴らしは良いが特に印象的な景観は味わえない。空いているのが取り柄だけの道だった。この終点、山田ICはそのまま九州道の鹿児島ICにつながっている。そこからしばし19日に走った道を逆走、空港ICを経てえびのJCTで、東へ向かう宮崎道と別れ北上する。人吉ICを過ぎた山江SAで一休みして3時に出発。熊本に近づくにつれ連休帰りと思しき車が増えてくるが順調に流れている。ここら辺の風景は日本のどこにでもある山と平野が交互に現れ特に印象に残るようなものではない。少々自動車道に食傷気味になってくる。八代JCTで南九州自動車道と合流、これから先は3週間後大地震で知られることになる、御船、嘉島、益城などの地名が続くが、その時は知る由もない。南関で福岡県に入ると久留米あたりから混雑が激しくなり、鳥栖JCTを抜けるのにずいぶん時間がかかった。しかしそこから長崎道に入るとそれまでが嘘のように空いている。ここで家内の携帯電話が鳴る。何と長女からの連絡。近くの川登SAに飛び込んで聞くと小型機の着陸失敗で鹿児島空港が閉鎖、息子夫婦は九州新幹線で帰阪したが、孫ふたりを連れて横浜までの鉄道の旅は無理、明日の飛行機を予約し、この日は鹿児島中央駅のホテルに泊まるとのこと。最後にとんでもないトラブルに巻き込まれていることが分かったが、我々にできることは何もない。
川登SA出発は5時半、途中で佐世保道に迷い込み戻るのに時間を要し、さらに市内中心部で路面電車用の信号に戸惑いながら、この日の宿泊先長崎ビクトリア・イン隣接の駐車場到着は640分、何とか予定時刻7時前に無事ゴールイン。運転は退屈の極みだったが、時間的には陸路選択は正解であったようだ。

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(次回;長崎)

2016年5月18日水曜日

九州遠征超長距離ドライブ(17)


14.知覧
321日(月)春分の日、三連休最終日も晴れてくれた。これで家族全員での旅は終わるが、天候に恵まれたことは何よりだった。あと半日の観光も問題なく過ごせそうだ。
この日の予定は、我々夫婦は次の宿泊地長崎に向かい、あとのメンバーはそれぞれ午後4時半頃の便で伊丹・羽田へ戻る。従って昼食までは皆一緒に行動し、知覧を訪ねることになっている。
旅行計画を考えている際、指宿に泊まり、そこから長崎・鹿児島空港に向かう途上で面白そうな土地を探したが、格別景観に優れた所や古い歴史的遺産のような名跡は見つからなかった。しかし知覧と言う地名を発見した時、太平洋戦争の記録をとどめる知名度が高いこの地を、戦史に特別な興味を持つ者として、ぜひ訪ねてみたいと考えた。また“特攻”のことを、まだ小さい孫たちはともかく、あの戦争を全く知らない3040代になった子供たちに、身近に学んでもらえる良い機会ではとも思った。この特攻をきっかけに知覧を調べてみると、武家屋敷の保存整備状態が良く、それも見所の一つになっていることを知り、ここを全員観光の最終地とした。
ホテル出発は920分。ルートは往路で走った国道266号線を原油備蓄基地の見える喜入の手前まで戻り、そこから県232号線を西へ向かうと知覧に至る。走行時間は約45分、“知覧特攻平和会館(特攻会館)”裏の駐車場に着いた。表に回ると市街地から記念館へ通じる広い直線道路が整備されており、観光バスでやってきた団体訪問客が大勢往き来している。
特攻会館はこじんまりした一階建て、かつての飛行場の一画に昭和50年代に建設されたものである(その後60年代に拡張したらしい)。大物は3機の戦闘機、隼(1式)・疾風(4式)それに海底から引き揚げられた半壊の零戦。“神風(カミカゼ)”で名高い特攻の先駆は海軍だがここは陸軍の基地、艦上戦闘機(海軍)である零戦がここに置かれているのにちょっと違和感。しかし、この会館の真の存在意義は、展示の中心となっている兵器や軍装ではなく、若くして国のために犠牲となった搭乗員たちの遺書や遺影にある。そのほとんどが10代後半から20代、泣き言めいた表現は一切なく、任務に殉ずることへの誇りさえ感じさせる筆致に胸をうたれる。死にゆく者、残された遺族双方の心情を、同道した8歳の孫を見ながら、密かに重ね合わせている私がそこにあった。
特攻会館の見学は1時間少々、館内案内の人に食事処を問うと、市内(南九州市)の中心部にソバや郷土料理の店があると言う。取り敢えず教えてもらった特攻隊員たちが利用していた往時を今に留める“冨屋旅館(食堂)”裏の駐車場を目指すが上手く見つけられず近くの市営駐車場にクルマを止める。そこは市役所や裁判所などが在る当に中心地なのだが、何故か適当な飲食店が見つからない。通り(県23号線)に面した商店で聞いたところ、東に10分ほど行くと郷土料理の店さらにその先にソバ屋があると言う。最初に目指したソバ屋はかなりの待ち行列、結局郷土料理を売り物にしている“高城庵”に落ち着いた。ここもほとんど満席、食事が出てくるまでにずいぶん時間がかかった。この段階で長崎までのルートの内天草を経由する案は時間の関係で諦めることに決する。息子・娘家族は十分時間があるので、食後は武家屋敷見学(地区全体が有料)をしてから空港に向かうことにし、我々夫婦は陸路だけで長崎に向かうことにした。

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(次回;長崎へ)

2016年5月14日土曜日

九州遠征超長距離ドライブ(16)


13.指宿
鹿児島行を計画したとき、最後に空港へ戻ることを考えれば霧島や桜島観光中心の選択肢もあるのだが、逆方向にもかかわらず2泊目指宿は異論なく決まった。先ずドライブの視点から、長い海岸線を走る国道226号線に惹かれたが、決め手は何と言っても“砂蒸し風呂”。別府にもあるようだが知名度は断然ここである。
想像した砂蒸し風呂は、頭を陸地側に置いて目の前に広がる太平洋を見晴るかす砂浜(こんな写真を見たことがある)。このシーンを実現するには明るいうちに宿に着き、そこで“ひと砂風呂浴び”、それを話題ににぎやかな夕食を楽しむことだった。
水族館を出発して、しばらく市中の片側23車線ある広い道路を10kmくらい南下すると、道幅は狭まり片側1車線になり、防波堤が左に設けられた道が延々と続く。海岸美を愛でながらの運転を期待していたのだが、道路の位置が低く、加えて私のクルマは車高が特に低いことと相俟って、景観は防波堤で寸断される。ここは地図だけでは読み切れないところだったが、天気は良く、道も空いているのでまずまずのドライブを楽しむことが出来た。ホテル到着は5時前、外は十分明るい。「よし予定通り夕食前に砂蒸し風呂だ」
指宿の宿泊先は“指宿いわさきホテル”。口コミ情報などではこの地のナンバーワンは“白水館”らしいのだが、先の鹿児島市内同様、3連休で希望の部屋数がとれず、JTBの薦めでここにした。駐車場も、車寄せも、ロビーも広大なもので、日本でこれほど規模の大きいホテルに泊まったことがないほどに広さだ。建物の配置はY字型、客室数約300、周辺にはテニスコート、サッカー場などが配され、米国オーランド(フロリダ)のリゾート・ホテルさながらである。
チェックイン時まず問われたのは「夕食は何時からにいたしましょうか?」ひと風呂浴びてからと考えていたから「7時からでお願いします」「申し訳ありません。時間は6時からか8時からになっております」小さな子供もいるのでやむなく6時に決める。「ところで砂蒸し風呂に入れる時間は?」「10時チェックイン終了です」ここで砂蒸し風呂の利用システムを聞くと、今の時期浴場はテント張りになっており、明るい時でも砂を被りながら外の景色を愛でることはできないことがわかる(砂を落とす露天風呂はあるが)。「それなら夕食後でいいか」と自らに言い聞かせる。
案内されたのはY字の右の棟7階東向きの続き部屋。一番端の角部屋は長女一家4人用で少し広く、正規のセミダブルベッドが三つ置かれ、前夜エキストラベッドで寝た上の孫が自分用ベッドに大喜び。嬉しい配慮である。
砂蒸し風呂はともかく、先ず食事前に通常の温泉で汗を流すことにした。浴場はサンロイヤルの5倍くらいの広さがあり、露天風呂も開放感があり、洗い場も数が多く、快適な温泉気分にたっぷり浸れた。夕食も昨日と違い、半個室形式のスぺースに家族だけが集い、順番に懐石料理が給仕されるのでゆっくり寛いだ気分で団欒を楽しめた。
8時前にそれぞれの部屋に引き上げたが、次はいよいよ“砂蒸し風呂”である。ここは幼児は使えないので、我々夫婦と上の孫(8歳男児)と出かけた。海岸へ出る一画に専用の受付が在り、ここで料金(子供も同額で1000円)を払い(実際は部屋につける)、館内用浴衣とは異なる砂風呂用着衣とタオルが渡される。これを持ってロッカーで着替え、外のテント内砂風呂に向かう。テント内にはスコップを持ち長靴を履いたおじさんが数名居て、指示された場所に横たわると上から砂がかけてくれる。じわじわと下から温かみが伝わり、やがて全身がカッカとしてくる。およそ10分、あまり長く居ると低温火傷に罹る恐れもあるらしいので、やおらむっくり起き上がり、これでおしまい。砂だらけの着衣のままテント脇に在る、明るければ海を眺められる四角い大きな露天風呂に入り砂を落とす。このあと専用のシャワールームで裸にになってさらに砂を落として、湯?上りように置かれた着衣に着替えてロッカールームに戻り、さらに館内用浴衣に着替える。ここから部屋に戻っても良いが、砂風呂受付からのエレベータでそのまま屋上まで行くと露天風呂があり、ここでゆっくり身体を洗うこともできる(我々はそうした)。以上が期待していた“砂蒸し風呂”システムの概要である。得難い経験を大いに楽しんだ。
朝食は緑の庭さらにその先に海が広がる、ガラス壁面の広々したレストランでブッフェスタイル。こうやって集まってみると相当な人数が宿泊していたことが分かる。昨晩“混雑”“喧噪”と無縁だったことが信じられないほどだ。全体設計と運営方法に工夫が凝らされていることの結果なのだろう。この地を再び訪れる機会があったら、また利用したいと印象付けるホテルだった。

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(次回;知覧)

2016年5月10日火曜日

九州遠征超長距離ドライブ(15)


12.鹿児島市内観光-2
320日(日)。鹿児島第一夜は子供がいることもあり、9時まえに食事を終わり各自の部屋に戻った。もう一度空いた大浴場でゆっくりひと浴びと考えていたが、飲んだ後はいつ同様バタンキューで就寝。おかげで朝は夜明け前に目が覚め、桜島の向うに輝く朝日を眺めたあと、6時からの朝風呂を堪能し、昨日の忙しない入浴とレストランの混乱に依る不快感を何とか帳消しできた。
今日の予定は、先ず市内北東に在る島津家別邸あと、仙巌園(せんがんえん)に出かけ、邸宅・庭園とそれに付帯する尚古集成館と名付けられた幕末の工場を利用した小技術博物館を見て、市内へ戻りフェリー乗り場に隣接する水族館で昼食と見学、それから指宿に向かうことになっている。
3連休の中日(日曜日)ということもありどこも混雑が予想されるのでホテル出発は9時、途中チョッとナビの案内を間違え到着は9時半。幸い駐車場は充分空きがあった。仙巌園は44年前に来たとき一度訪れて、庭園から鹿児島湾とその先に見える桜島を眺めその美しさに魅せられたこと、それ以上に明治維新前から薩摩藩が技術修得に熱心に取り組んでいた歴史に感銘を受けたことから、再度の訪問となった。
庭園築造は17世紀に遡るようだが、基本コンセプトは“鹿児島湾を池、桜島を築山”とする雄大な借景を創りだすことにあった。何とも稀有壮大な構想である。篤姫・勝海舟・グラバー・ロシア皇帝など歴史に残る人物が訪問・滞在したこともここを特別な場所にしている。だが私の興味は専ら集成館の方にある。建物は往時(1800年代初期~中期)実際に工場だった所で、そこで使われあるいは製造された蒸気機関、動力伝達装置(歯車製造など)、旋盤、光学器械などが展示されているのだ。前回訪問時、維新の遥か以前にこれだけの設備を整えた先見性に驚かされ、これを鋭意進めた斉彬(なりあきら)に畏怖の念さえ覚えた(父はなかなか家督を継がせず、妾腹の弟、久光一派との間のお家騒動は斉彬の西洋かぶれ(蘭癖)を慮って起こったとも言われるが)。日本近代工業史の1ページ目を飾るここをエンジニアである息子や婿に見せるのが第一目的であったが、密かに8歳の孫にも「何か残ってくれれば」と期待した。このあと同じ敷地内にある薩摩切子製作過程を実演する工場も見学して午前の観光を終えた。
次に向かったのは鹿児島港の一角にあるかごしま水族館。孫ふたりのために用意した観光スポットである。桜島とのフェリーや海浜公園、催し物会場などが在る地区で、それらの利用者のために広大な駐車場が何カ所か設けられているが、休日の昼時、水族館やフェリー乗り場に近いところは何処も満車でかなり遠いところに止めざるを得なかった。水族館のレストランで昼食を摂ったあと、館内を巡る。最近水族館へ出かけることなど無いので他との比較はできないが、それほど特別な見どころがあるようには思えない。しかし大水槽の中で巨大なジンベイザメが遊弋しているのを眺めていると、運転のせわしさで過ごしてきたここ数日とは明らかに異なる開放感のような気分に浸れる。無論孫たちは大喜び、イルカショウでは最前列に席を占め、タッチまでさせてもらい感激一入、ここを選んだことは正解だった。
3時過ぎ、次女は明日から仕事なのでここで別れて一人鹿児島中央駅から空港に向かい、我々8人は指宿を目指して国道226号線を南東へ走り出した。この道は海岸を左(東)に見ながら延びており、途中喜入の広大な原油基地などが遠望できる。夏が来たような陽気の中を約1時間半走って5時前いわさき指宿ホテル到着。ここも大規模ホテルだが、サンロイヤルよりは敷地やロビーがはるかにゆったりしており“リゾート感”があるのが好ましい。

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(次回;指宿)

2016年5月8日日曜日

九州遠征超長距離ドライブ(14)


12.鹿児島市内観光
今回家族全員そろっての旅行は、家内両親の納骨初墓参とその後の鹿児島・指宿・知覧観光である。宿泊は鹿児島市内と指宿の2泊。この日(19日)の予定は、先ず墓参りをしてから家内が幼稚園児の時まで居住し、今も一部共有不動産(貸地)が残る一帯を訪ね、そのあと宿泊先の鹿児島サンロイヤルホテルにチェックインすることになっている。
墓が在るのは市街地の北西部分、草牟田(そうむだ)の市営墓地である。鹿児島空港は宮崎県境に近いので鹿児島北ICまでは九州自動車道を行き、そこから市街に入ることにする。旅行計画を作る際JTBに頼んで予約してあったレンタカー(7人乗り)と私のクルマに分乗して、1時半頃空港を出発した。
鹿児島市を訪れたのは後にも先にも44年前1回きり、その時唯一まともなホテルといえた城山観光ホテルしかなく、そこに前夜チェックイン、翌日一日タクシーをチャーターし(最終目的地は宮崎のホテルフェニックス)、家内の親族の家に挨拶に立ち寄り、それから墓地に出かけた。この間街の様相は一変しており、「こんな大都会だったか!?」と認識を新たにする。ナビが無ければとてもピタリと目的の場所にたどり着けたかどうか。とにかく代々家内一族の墓の面倒を見てくれている霊園前の花屋を見つけてホッとする。ただ、山間の急な傾斜地に設けられたその地形は遥か昔の記憶とそう違ってはいなかった。他の家族ともその花屋の前で落ち合い、皆で中腹にある墓に詣でた。帰り際に墓地の下に設置された説明板を読んで分かったことは、ここにはもともと薩摩藩の火薬工場があり、西南の役の時は大わらわだったとのこと。いよいよ幕末・維新が近づいてきた。
次に向かったのは、家内の祖父母の代まで家の在った加治屋町(下士の住む町)、実家は商家であったようだが、この地は西郷隆盛・大久保利通・大山巌・山本権兵衛など維新・日露戦争の英傑たちが湃出した土地である。今はだれもこの地に縁者は居らず、今回は家内のセンチメンタル・ジャーニーである。
そんな歴史にゆかりの地ゆえ、ここには“維新ふるさと館”と称する鹿児島市のこじんまりした歴史博物館がある。ここがなかなか面白い!3年生を目前にする孫にどこまで理解できたかはともかく、展示物や写真・動画などで幕末・明治維新の話をしてやる。「西郷さんくらい覚えてくれよ」と。
そこの見学を4時半に終え、今夜の宿泊先サンロイヤルホテルへ移動。本当は44年前に泊まった城山観光ホテルに泊まりたかったのだが、3月彼岸の3連休、1月に当たった時には既にフルブッキング!JTBに問い合わせてもらったが(大手旅行会社の予約分がないかと)ダメだった。
サンロイヤルは鴨池に在る。前回城山から見たときは飛行場だったが、その後鹿児島空港が内陸部に出来、再開発された所だ。クルマで10分程度。なかなか近代的なホテルだった。駐車場は近くにたっぷり。周辺も開けていてコンビニもある。従業員の躾けも良い。皆が部屋(同じ向きで並び、広さも充分)へ落ち着くまでは大満足。部屋からは桜島も真正面に見える!これなら城山観光ホテルより良いくらいだ。夕食の前に一風呂(温泉)を浴びるため上階の展望風呂に上がった。ここで印象が一変、400室に比べて狭いこと!浴槽は皆桜島方向に身体を向けいっぱい!洗い場も待つ必要があった。「何じゃ!これは!」である。夕食の食堂も酷かった。ディナーバイキングの混乱(決して食べ物が少ないわけでもない)、やはり人数に比べて狭い。しかも全員がひと部屋である。「もうごちゃこちゃでごわした」。この辺り経営課題(最適資源配分)であろう。帰宅後のJTBアンケートにその。ように答えておいたが、その後どんなものであろうか?こうして鹿児島の一日が終わった。

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(次回;鹿児島市内観光;つづく)