2017年3月31日金曜日

今月の本棚-103(2017年3月分)


<今月読んだ本>
1) 昭和16年夏の敗戦(猪瀬直樹):中央公論新社社(文庫)
2) デジタルゴールド(ナサニエル・ポッパー):日本経済新聞出版社
3) The Hardest VictoryDenis Richard):Norton
4)スパイの忠義(上、下)(サイモン・コンウェイ):早川書房(文庫)
5)本屋はじめました(辻山良雄):苦楽堂
6)工学部ヒラノ教授の中央大学奮戦記(今野浩):青土社

<愚評昧説>
1)昭和16年夏の敗戦
-エリートたちが予測した戦争の行く末と為政者たちの判断-

戦争における数理の役割を歴史的に調べ分析して、経営とITの関係に敷衍、これからの企業経営の在り方を考える、これが私のライフワークである。ここで取り上げられる数理は決して最先端のものではないし、理論的に難解なものでもない。しかし、戦前の我が国におけるこの分野での応用事例は、特定の作戦評価に利用される兵棋演習(ウォーゲーム;サイコロを使う;これはどこの軍隊でも昔から行っている)を除けば、ほとんど見るべきものがない。そんな数少ない事例の一つが、本書の主題、内閣直轄の総力戦研究所が太平洋戦争開戦直前に行った“日米もし戦わば”のシミュレーションである。この話は、若いころ一回り年上の複数の先輩たちから何度か聞かされていたが、適用された数理手法の内容がどうも今一つはっきりしなかった。共通していたのは東條陸相が講評で「研究の功多とするも他言無用」と断じたと言うことだった。「どんな人たちが、いかなる手法を使って研究を進めたのか?」疑問は長く残ったままだった。先月本欄で紹介した橋爪大三郎「戦争の社会学」を読んでいて、本書の存在を知り、早速取り寄せて読んでみた。
この研究所のきっかけとなるのは昭和5年(1930年)より13年まで駐英陸軍武官補を務めた辰巳栄一(いったん帰国したのち昭和14年より駐英武官、終戦時中将)が英陸軍組織にPassed Royal Defence College(強いて訳せば国防大学)とあるのを見つけ英側に質すが、曖昧な答えしか得られない(因みに陸軍大学校はPassed Staff College)。辰巳の帰国後この組織調査検討は陸軍省軍事課の西浦中佐(高級課員)に引き継がれ、当時(総力戦を体験していた)欧州列強で話題になっていた三軍に官民を加えた統合的な戦略策定が浮かび上がり、その専門家を養成する機関と推定する(実際、戦後この組織は“英世界戦略研究所”と名称を変えている)。そこでこれに準拠するものの必要性を各方面に訴え、海軍も説得して、“総力戦研究所”として煮詰まるのが昭和15816日の閣議においてである。
候補者は「人格、身体、智能に卓越し将来の指導者たるべき資質を有するもの」「武官は陸海軍大学校を卒業した大尉または少佐、文官は高等官四等乃至五等で、いずれも任官5年以上を経過していること。民間からはこれら文武官に相当する職歴を有するもの」を指定した機関から推薦して、筆記試験・面接試験で選ぶようになっていたが、実質所長(飯村陸軍中将)面接だけだったようである。結局第一期生(1年教育)は軍人5名、官僚27名(内務、商工、外務などが多い)、民間6名計33名が選ばれる(開校間際に植民地から3名が加わり最終36名となる)。年齢は30代半ば、著名人ではのちに日銀総裁となる佐々木直もメンバーになっている。
機能は発足の背景もあり教育機関的な性格が強いが、教える側に準備不足が目立ち、反面研究生はそれぞれの分野ですでに第一線の実務者担当であったことから、講義(座学)には不満が多かったようである。ただ、軍事演習見学や外地研修などは日ごろ机上の数字や議論でことを処していたものに現場感覚をもたらし、さらに異なる分野の専門家がチームで課題に当たることにより、軍や省庁の縦割りを脱した考え方が醸成されたことは、本書の主題“日米決戦シミュレーション”で大いに効果を発揮する。
このシミュレーションは、研究生による内閣をつくり(佐々木はこの段階で日銀総裁)、研究所側が環境変化にともなう課題を与えて、戦局の行方を探る方式で行われる。直接的な軍事力のほか、人員動員力、資源・エネルギー、生産力、輸送力、金融・財政などの情報・データはそれぞれの出身母体(あるいは業界統括団体)にあるものを持ちより、それをベースに戦いが進められるので、兵棋演習くらべはるかに現実的になる(民間からの参加者に日本郵船の社員;のち社長がおり、商船喪失予測は海軍より精度が高かったことが戦後の分析でわかる)。何日もかかるこのシミュレーションは最後の発表までは研究所員と研究生のみで行われるが、実際の内閣のメンバーは随時見学できる。最も頻繁に顔を出していたのが東條陸相、熱心にメモをとっていた。まだ東條首相は誕生していないし、開戦も決まっていない。昭和16827日、現実の内閣(第三次近衛内閣)に対して研究生模擬内閣の検討結果が説明される(閣議報告)。我が国の完敗。“昭和16年夏の敗戦”である。
期待していた数理手法は特別のものではなかった。各組織が集め分析した集計・統計データに過ぎなかった。個々の組織が適当に作り上げたデータは整合性がとれていない。しかし、ここを真剣に突き合わせ、調和をはかったところにこの研究の数理面での貢献が認められる。とはいっても英米が作戦に使ったORとは次元が違う感は否めない。
本書は東京都知事としては醜態をさらした猪瀬直樹がノンフィクション作家として脂ののっていいた時期に書かれたものである(単行本発刊1985年)。終戦当時企画院院長で総力戦の元締めであり、健在であった鈴木貞一(91歳)に取材するなど、一級の取材先・資料を駆使した内容は、あの戦争を学ぶために大いに価値あるものと言える。

2)デジタルゴールド
-フィンテックとは何か?国家を超越した世界共通通貨誕生の背景とその後-

四半世紀前から“金融工学”という言葉がメディアに頻繁に現れるようになった。英語では、Financial EngineeringあるいはComputational Financeである。本欄でおなじみの“工学部ヒラノ教授”は我が国におけるその分野の先駆者である。具体的には投資運用最適化を数理手法を用いて行う技術で、金融危機に際しては「これぞ悪の根源」と非難されたりした(実際は金融工学そのものが悪いわけではないのだが・・・)。しかし、これに懲りず最近の金融IT界に“フィンテック”なるバズワード(賑々しい言葉)が登場、出版物も多く見受けるようになってきた。英語ではFinancial Technology、日本語にすればこれも“金融工学”と訳してもよさそうだが、なぜかカタカナで表記されることが多い。このフィンテックには、ビットコインやブロックチェーンと言う言葉が一緒に現れる傾向がある。一体従来の金融工学と何が違うのか?最新のヒラノ教授シリーズもこれを解説してはくれない。そこで新聞の書評で紹介された本書を読んでみることにした。
通信、報道、流通、エンターテインメントそして投資運用はIT特にインターネットの普及によって業界に大変革を促した。製造業や輸送業も新しい事業形態がIoTAIによって試行錯誤から実用段階に着実に進めつつある。それらに比べると金融業界は事務手続き機械化ではIT利用が早かったものの、ビジネスの本質はそれほど変化していない。大体中央銀行券を基準に融資や取引が行われるが、信用調査や為替が絡めば業務遂行手順は昔と変わらない。それどころか、嘗て金(あるいは銀;持ち運びに難がある)が世界共通の取引手段だった時代なら、不要な作業が諸所で発生しているし、もし取引に参加する人すべてが自分の金融資産移動経緯をいつでも瞬時に追うことができ、現時点の資産を取引先に開示可能ならば即時決済できることが、銀行やクレジット会社を介在することで、時間や手間そして手数料を要している。これだけITの進んだ社会、新しい取引方式が誕生してもいいのではないか、売買する当事者が直接“(金に代わる)仮想通貨”を介して取引をする。ITツール(例えばスマホ)は必要だが現金は不要の世界。これがフィンテック登場の背景、(投資運用に限られた)金融工学とは桁違いの広がりを我々の社会にもたらす考え方なのである。
金に代わる共通通貨がビットコイン(仮想通貨;暗号通貨ともいう;BTC)、いずれの国の保障もないがそれは金とて同様、来るべき金融・取引世界が認めるか否かが実現のカギだ。金と同様の価値を持つ新通貨ゆえに本書の題名“デジタルゴールド”つけられた。当然だが過渡的にはそれぞれの既存通貨との変換が必要となるので“取引所”が設けられる。また、金と異なりBTCが複数存在する状態もあるのでそのためにも取引所が必要だ。ただし、ここでの取引は電子的に行われるので、手数料は極めて低い。
もう一つのカギは“ブロックチェーン”これは個人の金融資産(BTC)の移動を厳密(遡及的に変更できない)に管理する仕組みで(集中ではなく分散型ネットワークの中に存在する)、取引記録が連鎖するところから“チェーン”と名付けられているのだ。他人に中をのぞかれたり、中身をかすめ取られたりしないためのセキュリティに万全を期した仕組みが必要となる。これを考え出したのはサトシ・ナカモトだがいまだに正体不明、BTCの普及があるところまで進んだところで、全く姿を消してしまう。日本人名だがどうやら日本人ではないらしい。
新通貨・取引システム創造・推進の中核は、ITの進歩を先取りしようと考えるサーバーパンク(ITオタク)や大企業や政府に対して個人の権利を取り戻そうというリバタリアン(自由至上主義者)、これに新規ビジネスに期待するヴェンチャーキャピタリストがある段階から参加、(金の価格同様)BTCの値上がりで一攫千金を夢見る個人投資家から構成され、それらが合従連衡したりM&Aされたりして現在に至っている。
当然のことだが、財務、税務、証券取引と絡むため、国による規制が加えられているものの、いずれの国も禁止はしておらず(法律が整備しきれていない)、既にBTCの存在そのものは認められる方向にある(通貨か商品かの違いはあるが)。そんな状況下、我が国はBTCによる取引が少ないゆえに「フィンテックに遅れている」と声高に主張する向きもあるが(確かに企業化挑戦に積極性を欠くが・・・)、発祥の地米国はともかく、活用度の高い国として中国それにアルゼンチンが挙げられているのにはそれなりの背景がある。最大の因子は自国民が自国通貨を信用していないことからきているのだ(資金移動禁止を潜り抜ける手段)。従って高いから良いというものでもない。
本書はBTCの起源から今日までを、人・技術・企業・社会とのかかわり(政府対個人、通貨制度、現金融システムの問題点、マネーロンダリングやその他の犯罪)など多面的に取り上げ、フィンテックの変遷と全体像を俯瞰できる。2014年起こった大手取引所マウントゴックス(東京在;経営者は仏人;登録メンバー資産4億ドル相当が忽然と消える)の倒産劇などの背景や経緯などにもかなり深く触れ、なかなか勉強になる本であった。
世界の利用者数14百万人、発行済みBTC時価約1兆円(本書発行時)。

3The Hardest Victory
-英空軍爆撃機軍団の苦闘、非情な戦略爆撃に効果があったのか?-

2007OR(軍事作戦への数理応用)歴史研究で英国を訪れているとき、数日ロンドン観光の機会があった。その際ウェストミンスター寺院の内部を巡っていると“空軍(RAFRoyal Air Force)チャペル”なるコーナーがあるのに気づいた。ステンドグラスには飛行士が昇天する姿が描かれ、周辺にいずれも第2次世界大戦で英国の勝利に貢献した功労者の名前が記された銘板が張られていた。トレンチャード(初代空軍参謀総長;RAF最初の元帥)、ポータル(戦時の参謀総長)、ダウディング(戦闘機軍団長)、ハリス(爆撃機軍団長)などがそれらである。いずれも“英国の戦い(Battle of Britain)”に深くかかわった将官たちだ。研究指導の教授は当然ながら軍事に詳しい。「空軍だけが何故ウェストミンスター?」にと質したところ「ウェリントン(陸軍;ワ-テルローの戦い)とネルソン(海軍;トラファルガー海戦)はセントポール寺院に葬られている」との答えが返ってきた。「なるほど」二つの国運を賭した戦いと“英国の戦い”が同等の評価を受けていることに感銘を受けた。
ただチョッと違和感があったのは爆撃機軍団長のアーサー・ハリス(爆撃屋ハリス)である。“英国の戦い”はドイツ空軍の攻撃に対する英本土防衛戦で、専ら戦闘機軍団の活躍が際立っていたからである。しかも、ハリスは戦後元帥に任じられたものの、夜間無差別都市爆撃による一般市民殺戮で、戦後英国内でも評価の分かれる人物なのだ。「同列でいいのかな?」と。本書はそのハリスが率いた爆撃機軍団の戦いの記録である。
各国とも空軍創設には、長い歴史の中で育まれた陸海軍とは異なる独特の経緯がある。英国は列強の中で初めて独立空軍を発足させた国(1918年)、それを強力に推進したのはヒュー・トレンチャード、二度陸士入試に落ち兵隊から苦労して士官になり、第一次世界大戦前に飛行訓練を受けて航空兵科に転じ、戦後空軍創設に当たり参謀総長に任じられ1930年までその地位にあった。彼の空軍創設思想は、「敵の政治・経済(工業生産を含む)・軍事の拠点を直接叩くことで勝利をおさめることに独立軍種としての意義がある」というものであり、それを実現する手段として爆撃機を重視するものであった。この考え方はRAFに脈々とつながるDNAになるが、長距離を大量の爆弾を積んで飛行できる爆撃機の開発は技術的に容易でなかったばかりではなく、第一次世界大戦で疲弊した英国経済に耐えられるものでもなかったから、具体的な動きは遅々として進まなかった。実際、戦後の国防政策は“今後10年間大戦争はない”ことを前提に策定され、予算化される。この緊縮予算が改められるのは1933年のドイツナチス政権の誕生とその軍備強化、中でもゲーリングが進める空軍近代化構想が明らかになってからである。英国もこれへの対抗策に着手するものの当然開発の遅れはすぐには取り戻せない。193993日対独宣戦布告時RAFの持つ爆撃機は単発・双発のみ、とても守りの堅いドイツ中枢部に攻め込む力はなかった。
本書はこのRAF爆撃機軍団の戦いを、開戦から終戦までの主要な作戦を丁寧に調査分析し、作戦の狙いと戦闘、軍団長(ハリスの前に二人いる)や空軍省(RAFはこの下にある)および戦争会議(チャーチル首相を含む限られた閣僚と軍首脳で構成)あるいは連合軍司令部の考え方、新爆撃機開発、ドイツの防御策、爆撃戦果、機体・乗員の損害、戦闘トピックス(特に死後ビクトリア十字章受賞者をクローズアップ)などを時間軸で追いながら語るものである。
開戦時、バトル(単発)やブレニム(双発)で行うドイツ軍港ウイルヘルムスハーフェンなど軍事拠点への昼間爆撃はほとんど戦果がなく、むしろ損害の方が大きいくらいだ。ダンケルク撤退までは近くの拠点爆撃や対地上戦支援爆撃を続け、さしたる活躍の場がなかった爆撃機団だが、それでも英国の戦でロンドンが爆撃されるとベルリンへ形だけの報復を行う。やがてハリスが軍団長になり、1942年沿岸航空団や訓練部隊まで動員して1000機によるケルン夜間爆撃を敢行、彼の戦いのやり方を初めて内外に示す。都市爆撃の意義は敵国民の戦意を挫き、交通の要衝に打撃を与え前線の力を低下させ、夜間爆撃は味方の損失を抑えることにが目的であると。この考え方は終戦まで終始変わらないが、当初は航法や爆撃照準の精度の問題があり、思うような効果が上がらぬばかりか、軍事活動と無縁な地区への誤爆も多く、ドイツがレーダー搭載の夜間戦闘機を充実させ、防御策を構築してくると喪失率も二ケタに近づき(2~3%以内が成否の分かれ目)、身内からも批判の声が上がる。それでも、ハリスは信念を変えず、西部ドイツ、特にルール地方(ここの防御は極めて固い)や港湾都市を夜間爆撃、じわじわとドイツの戦争推進力にボディーブローを加えていく。やがてランカスター、ハリファックスなど新鋭4発機が戦力に加わると、その長い航続距離と爆弾搭載量(通常爆弾で6t、特殊爆弾では10t!)を利用し、これに新兵器(機載レーダーや航法支援装置)や新戦術(爆撃先導機・部隊)を組み合わせ、毎夜のように5600機の大編隊で東部都市やペーネミュンデのロケット開発基地のようなドイツ内奧まで深く攻め入る。当然味方の損害も大きくなり、喪失率は7~8%に上がり戦争会議の中からも戦略の是非が問われる。
海軍からは対Uボート作戦やUボート基地・造船所に的を絞った攻撃を求められるし、陸軍からはイタリア戦線における連合軍地上部隊への直接支援を要請される。これが頂点に達するのがD-Dayの役割、戦争会議や連合軍総司令部から輸送ライン(操車場、線路、橋梁、道路)や石油工場(特に石炭液化工場)の重点爆撃を優先すべきと命じられる。本来の戦略爆撃とは異なる課題任務が軍団と空軍省・参謀部の関係を微妙なものにする。最後はアイゼンハワーの断で地上軍直協優先が決まる。「こんなことをしているよりも、ドイツ都市を全力でたたく方が早く戦争が終わる!」ハリスは悲憤慷慨するが命令には従い、戦術空軍的な役割を甘受し、上陸作戦にそれなりの貢献をする。
一般市民に大量死者・被災者が出た、ケルンのミレニアム爆撃、ハンブルグの劫火、終戦間近のドレスデン爆撃、いずれも夜間無差別爆撃だ。これらにはそれぞれ1章が割かれ、彼我の損害(軍団側;機体喪失数・率、死傷者・行方不明者・捕虜、ドイツ側;家屋焼失数、死傷者、被災者(Homeless)、生産力低下の程度)が定量的に示されるほか、士気への影響分析も、ゲッベルスの日記なども援用しながら、意外にドイツ国民の戦意が低下していなかったことを明らかにする。しかし、一方でこの激しい爆撃でも生産力はシュペアー軍需相の下、急速な回復が図られたという巷説に対しては、その中身を精査し戦闘機のような目立つ兵器の数値は改善傾向を示すものの、戦争継続力全体の著しい低下を見落としていると指摘、戦略爆撃の効果を著者なりに評価して見せる。
さて、ハリスと夜間都市爆撃についてである。彼はそれほど無慈悲な人間だったのだろうか?確かに“主要都市爆撃によって敵の政治・軍事機能を削ぐ”と言う考え方に確信犯的なところがある。しかし、これはもともとトレンチャードに発するRAFの伝統的な空軍思想であり、加えて英国の戦いにおけるナチス空軍によるロンドン、コヴェントリー夜間爆撃に対する報復を期待する世論が高まっていたこと、昼間爆撃の損害が極めて高かったこと、などから当時ハリスに限らず(チャーチルも含め)、その推進に肯定的な空気が満ちていたと著者は分析、「ハリスは、誤解を与えやすい言動が目立ち、戦後スケープゴートにされた」と見る。また、厳しい批判の出所に米国(軍ばかりでなく民も含めて)があることに対しては「広島・長崎はどうなんだ!」と切り返している。ここでは米軍の昼間“精密”爆撃がそれほど精度の高いものでなかったこと、長距離護衛戦闘機(F-51 ムスタング)が登場するまでの喪失率がいかに大きかったかにも言及して、英爆撃機軍団戦略の必然性を支持する。しかし、結局英米とも「あれをやっていなければ、もっと戦争は長引き、敵味方とも犠牲者がさらに出ていただろう」と自らの行為を正当化(ハリスも同様のことを何度も述べている)し、勝者の論理で結ぶ。
総員数;125千人の搭乗員の内、戦死者;55千人、これに捕虜・負傷者を加えると人的損害74千人。これはRAFの他の軍団の総計を上回り、二人に一人以上の被害である。後半主力だったアヴロ・ランカスター(搭乗員7名)は7,377機生産されたが3,244機が撃墜されている。タイトル“厳しい勝利”はこれらの数字からきている。
政治と軍事のかかわり、作戦の背景、技術開発の経緯、爆撃行や帰投場面、いずれも細かいところまで引用文献を利用しての行き届いた解説と確り裏付けのある数字で描写。一級の戦史、資料としての価値ある一冊と言える。強いて問題点を探せば、英国人に依るものだけに、米軍との比較においていささかお手盛り感が否めないことくらいである。

4)スパイの忠義
-多民族国家のスパイ戦、真の敵は誰なのか?正統派スパイ小説の緊迫感-

EU諸国、中でも英国、フランスは帝国主義の下植民地を世界中に広めたため、今そのツケを払わされている。昨今の移民・難民問題から派生する社会の混乱を見るとき、その感を強くする。多民族国家である米国、ロシア、中国も同様の地雷がいたる所にあることは論を待たない。もし、満州・朝鮮・台湾を取り込んだ大日本帝国がそのまま存在していたら、今頃テロが日本各地で吹き荒れていたのかもしれないが、サスペンス小説を書く環境ならばその方が身近な材料が多いのかもしれない、と思ったりもする。
ジョーナ:父;パレスチナ人で英大学の生物学教授、母;ガイアナ系黒人(スコットランド人の血を一部ひく;勅選弁護士→貴族院議員)、ノア:父ヨルダン人で英大学の生物学者(ジョーナの父の同僚)、母もヨルダン人、ミランダ:父;ソマリア人(反体制派で英国に亡命)、母;スリナム生まれの看護師。この3人が主役クラス、何とすべて英国籍である。しかし誰一人英国ネイティヴ(白人)ではない。こんな人種構成の作品を書いた作者は米国生まれだが、早い機会に英国に移住、教育・軍務・結婚相手・現居住地、すべて英国(人)である。日本ではほとんど考えられないプロットである。英国の軍事・スパイサスペンス小説の面白さの一つはこの他民族とのかかわりからくる。
話の舞台は、英国本土、米国は無論、アフガニスタン、パキスタン、ボスニア、コソボ、クウェート、イラク、モロッコ、シエラレオネと転々とする。
時間は1988年から2005年の長きにわたる。この間ソ連のアフガン撤退、ソ連の崩壊と冷戦終結、湾岸戦争、ユーゴースラビア紛争、911同時多発テロ、有志連合軍のアフガン紛争介入、イラク戦争が起こっており、いずれも本書の主人公たちが何らかの形でこれらにかかわっていく。
物語の中心になるのは英陸軍の秘密諜報組織“ザ・デパートメント(局)”、ジョーナもノアもここに所属(ジョーナとノアは幼馴染、ノアは年長のジョーナを慕い、そのあとを追うように同じ道に入る)し、肌の色が白人とは異なり、アラビア語も解する二人はアフガンガイドと呼ばれる現地諜報工作員として彼の地で活動する。局のレポートラインはなぜか陸軍外のMI-6(英国秘密情報部)。
局の現地工作でアフガン要人の暗殺を企てるが、それが誤情報でCIAのテロ対策責任者を殺害してしまう。同盟国諜報工作組織間で起こった事故が米国側に知れると、国家間の信頼関係を大きく損なう恐れがある。MI-6・局はこの事故をひた隠しにする。しかし、しばらくすると予算削減のあおりで局が解散され、ノアだけが行方知らずになる。どうやらアルカイダと関わりがあるらしい。戦乱の中で幼子を失ったの女性、ミランダとスコットランドの小島で静かに暮らすジョーナに、秘密漏えいの可能性のあるノア殺害命令が下る。あとは読んでのお楽しみ!
時間は前後するし、場所も頻々と変わる。イスラム派閥や部族間の合従連衡も刻々変化する。これに現実に起こった、紛争・戦争・テロが組み合わされるので、ストーリーはかなり複雑だ。しかし、読み進むうちに、誰が何のために陰謀をたくらみ、それがどんなゴールに向かっているかが少しずつ明らかになってくる。長編にもかかわらず、緊迫感が途切れない構成と流れは、本格的英国スパイサスペンス小説の伝統的だ。久し振りにそれを堪能した。2010年英国推理作家協会スティール・ダガー賞(イアン・フレミング賞)受賞作品。

5)本屋、はじめました
-書店開業・経営のノウハウをお教えします-

住んでいるところは“金沢文庫”、鎌倉時代に遡る北条氏の私設図書館が由来である。本好きの私にとってこれ以上の地名はなかなか無い。首都圏ではあとは“文京”区の“本郷”くらいだろうか?しかし、人口20万人、区役所や警察署も在るこの駅周辺に新刊書個人書店は1軒もない!最寄りの本屋はイトーヨーカ堂の中に在るチェーンの熊澤書店だけである。そこそこの規模で、それなりに利用しているがスーパーの一角、落ち着き(これが最重要)がなく、中学生以来親しんできた“本屋”の雰囲気がまるでない。これは沿線にある八重洲ブックセンター(上大岡;デパート内)や有隣堂(横浜;地下街)も同じ。こういうところは何かのついでに寄るだけで、わざわざ出かける気にはならない。結果としてAmazonから購入するものが半数に近いことになってしまう。
本書を知ったのは“望星”と題する雑誌の4月号に“やっぱり本屋さんじゃなくちゃ”と題する特集が組まれていることを、物書きのフェースブック友達が投稿していたからである。彼のメッセージには「大型書店にはあるかも知れない」と書かれていたので、品川に出た機会にチェーン店で求めようとしたが「お取り寄せになります」との返事が返ってきた。結局“本屋さんじゃなくちゃ”をAmazonに発注する結果になった。何とも皮肉なことである。
この特集には、個人書店経営の苦境を解説する記事とともに、各地で試みられている新しい書店経営への取り組みがいくつか紹介されており、その中に最近新刊書個人書店を開いた著者への取材記事“街に溶け込むこだわりの本屋さん”が載っていたのである。その中で「どんな本を仕入れるか?」との問に対して「たたずまいが静かで品のいい本を多く出している出版社のものを選んでいます」との答があり、「ウォ!なんと素晴らしい選択基準だ!」と惹きこまれた。そして略歴の中に本書が載っており「まずこの本を読んで、さらに興味がわいたら、一度出かけてみよう」と、またまた対応の早いAmazonに発注してしまった。“本屋”を主題にする2冊の本を本屋ではなく通販で求めてしまう。これが現実なのだ!
著者は1997年大学卒業後大型チェーン書店リブロに入社し、大泉店をスタートに福岡・広島・名古屋と異動、仕入れ、棚のアレンジ、イヴェント企画などもろもろの書店員としての経験を積み、名古屋店長まで昇進したのち、2009年旗艦店池袋店の拡張(300坪→1000坪)に伴い、専門書を中心に半分のフロアーを担当するマネージャーに起用される。しかし、西武百貨店が大株主であったリブロ(堤清二の肝いりで誕生)は、百貨店の大株主がイトーヨーカ堂に移ったことによって、20157月テナントとしての契約延長を断られる。収益・資金繰りには全く問題なかったにも関わらず、である。百貨店側は最後まで理由を明かさないが、ヨーカ堂総帥の鈴木敏文がトーハン出身であったのに対し、リブロはそのライバルである日販が仕入れ先であったことが切られた原因らしい。当時80店舗を全国展開していたが、売上の2割は池袋店という重さは当然経営に大きなインパクトを与え、これを契機に著者は退職を決意する。ここまでの前史を読んだだけでも書店員・書店経営が奥の深いプロの世界であることがよく分かる。とても誰にでもできる仕事・商売ではない。
どこで、どんな本屋を開くか。家族構成は夫人と二人だけ。著者は神戸出身、夫人は広島出身。場所を都内と限る必要はない。鎌倉、松本など各地をロケハンした結果、“本は情報感度が命”「東京でもう少し頑張ってみるか」となり、土地勘のある西荻窪~三鷹間に狙いを定める。夫人は飲食関係の仕事をしており、店は書店+ギャラリー+カフェを初めから想定する。取りそろえる本は先に書いたような出版社の人文書や文芸書を中心に、ベストセラーや住宅地で需要がある家庭向け実用書や児童図書などに絞り込んで揃える。一方でコミックや週刊誌などは置かない。読んでいて、何となくおしゃれで品のいい本屋が頭の中に浮かび上がってくる。店名は“簡単もの”“本に縁のあるもの”から“Title”と決まる。この段階でまだ適当な店舗物件が見つかっているわけではない。
限られた開業資金で店を持つにはそれなりの工夫がいる。住居は別にあるので、賃貸物件を探すが、駅に近いものはなかなか手が出ない。不動産情報から見つけた候補は、元肉屋で廃屋に近いもの。場所は荻窪と西荻窪中間点の北、青梅街道沿い。チョッと駅からは距離がある。ただ表が緑青の吹いた銅板で覆われているところに惹かれ、大家の了解を得この銅板張りを生かして内部をリノヴェーションすることに決する。
店内レイアウト、各種本棚、内装仕様、カフェの什器やメニュー、書籍の仕入れ方法・配送方法、売上管理システム(POS端末を使わず、iPad+クラウド)、広告宣伝(ツイッターで開店までの動きを毎日伝える。ブログを作る)、ブックカバー(特殊なわら半紙)、営業時間と定休日、そして本の並べ方(これこそこの店の肝)。20161月の開店までの動きが数字(主にスケジュールとカネ)を含めて詳細に紹介され、その苦労が我が身のように感じられ、2016110日(日曜日)の開店シーンには思わず眼がしらが熱くなってしまった。
本書には準備段階で作り上げ、それを現状と突き合わせた“新しい本屋のかたち”と題する事業計画書が添付されている。イメージする本屋のコンセプト、地域・顧客分析、店舗図面、初回発注本の内容、投資計画などを記した後、最後に初年度(10月決算のため10か月)営業成績表がある。それに依れば、総売上高(千円):27,393(予算25,000)、営業利益:2,567(予算1,500)。本人たちの人件費(アルバイトを含む)は差し引いた数字だから、立派な成績である。
本書は、(私のような)書籍ファンの好奇心に応えたり、書店経営を目指す人に役立つばかりではなく、起業を考えている人、他業種で新規事業や事業拡大を目論む人、既存事業で販売促進や経営企画に携わる人にも、参考になる数々のヒントに満ちた優れた経営指南書である。
我が家から荻窪は遠いが、機会があったら寄ってみようかと思っている。

6)工学部ヒラノ教授の中央大学奮戦記
-ヒラ教授いよいよ大学人人生の終わり。私学にもそれなりの良さがある-

2011年、日ごろ知られる機会の少ないエンジニアの世界を、“工学部の語り部”たらんと発意して紹介し始めた“工学部ヒラノ教授シリーズ”も、ハードカバーだけで12巻を重ねた。本務の研究・教育だけでなく、大学行政や海外事情から私生活や学食まで、多様な切り口で工学部の内実を開明してきた。まだ材料は残っているのだろうか、いささか案じていたところで出版されたのが本書である。今回のテーマは“私学”それに“大学教員としての最後(二度の定年)”である。
ヒラノ教授は、新設の筑波大学助教授から大学人人生をスタート、東京工業大学に転じ停年退官(60歳)まで務め(2001年)、このあと中央大学理工学部に移り、ここで10年を過ごし70歳で退職する。既刊にも中大理工学部に触れることはあったが、舞台になるのは出身校である東大の工学部を加えて、専ら官学3大学、中でも脂の乗り切った時期に過ごした東工大での体験に基づく話が中心だった。既刊書読者の中には、「エリートの世界ですね」と評する声もなかったわけではない。しかし、60歳過ぎて初めて未知の世界(私学)に飛び込んだヒラノ教授にとって、外に向かって何かを発するには、状況を咀嚼し消化しきるまでの時間が必要だったともいえる。退職後7年、やっとその時がやってきたと考えたい。
書き出しは東工大停年(官は“定年”ではない)数年前から始まる。今や一流大学で実績を上げ、それなりの評価と知名度を持つ教授でも、第2の働き場所を見つけるのは容易ではないことを、自らとその周辺の事例で語る。「中大に職を得られたことは極めて幸運だった」と。率直に言って、本書を読むまでその厳しい状況を全く想像していなかった。
次いで初めて体験する私学の現状をひとあたりする。経営上の理由で学生数が多く、それ故に資質にバラツキの幅が広いこと、結果として教育により負荷がかかり研究活動に制約の多いこと、特に研究に対する人的支援体制が大きく異なること(博士課程の学生や助手制度など)、部屋や設備も総じて国立伝統校に比べ劣ることなどを述べるが、決して官尊民卑的な目ではない。諸般の事情でそれはやむを得ないことと割り切り深追いしない。むしろ与えられた環境下で、経営方針(私学の多くがそうであるように実務家養成)に沿った、自分なりの新たな教育・研究方法を作り上げることに傾注する(加えて妻の病状は重度を増しており、これとの折り合いも図らねばならない)。ここは本書の読みどころの一つであり、中大独特の技術員制度や修士課程の学生を研究活動に活用するところなど、国公立を含む他大学でも検討の余地多とする。一言でいえば一流国立大学でも問題を抱える、オーバードクター処遇の根本的な見直しにつながる可能性があるからである。
技術員制度はヒラノ教授の創意ではなく、それ以前から中大に存在していたものである。一流国立大学でも博士の就職先は限られる。私大はそれ以上に厳しいが、研究活動には欠かせぬ存在。一方で社会人の中にもう少し専門性を高め、出来れば努力の成果として博士号が欲しい人がかなりいる。こんな両者の希望を叶える目的でできたのがこの制度である。ヒラノ教授これを利用して国際A級研究者のゴール(レフリー付き英文論文数150)目指す。
官学との比較で私学がすべてで劣るわけではない。ガチガチの官僚機構よりは、社会常識とマッチした、いい意味での管理の緩さもある。それが研究や教育に反映されやる気を高める。また、事務職員の大半が母校の卒業生なので、単なる働き先にすぎない末端文部官僚とは異なり、母校愛に満ちた言動にも居心地の良さを感じる。定年に際しての記念品は、東工大では役にも立たない銀杯ひとつだったのに対し、中大では50インチの液晶TV(同額相当の物から選択できる)を入手する。これらの描写は「私学の方が、熱い血が通っているな~」との感さえ抱かせる。
本書の内容は、中大理工学部内のことに限られたわけではなく、中大時代にかかわった、学外・学部外を含む出来事にもおよぶ。金融工学におけるリスク分析研究(中大において最後の仕上げに取り組む)に関して持ち込まれた、ある公的年金運用方針策定委員会委員長職やODA関連の政府外郭団体からの投資回収(あるいはデフォルト)分析依頼(これは断る)を通じて、数千億~数兆に達する資金管理がいかに杜撰に行われているかをかなり具体的に暴露し問題視する。また、数学解法特許そのものの無効を訴え特許庁と争った実績を買われ就任する中大知財管理戦略本部長(これは全学)として、文科省が重視する大学における特許奨励策を批判し、そのみじめな現状を明らかにする。例えば、特許申請(取得ではない)数と論文発表数を同視する考え方→研究活動の軽視、申請数の増加→申請費用の増加→これに伴わない特許収入;一番特許収入の多い東大でも赤字ではないか?と。
本書の中で個人的に一番興味を引いたのは、この行政(その裏には当然政治がある)と大学(人)の関係で、これを題材にシリーズを書けば、ひょっとして大化け(ベストセラー)するのではないかと思ったりする。次作に、文科省・経産省(ついでに財務省や裁判所)徹底批判などどうだろう?既刊と同じような調子(実名が多い。略名も大体想像がつく)で生々しく(これがシリーズの最大の魅力)書くとやばいことになるかも知れないが・・・。
ひとつ気になることがある。シリーズ初の大学名入りのタイトル。中央大学関係者は手に取るかも知れないが他はどうだろう?逆に文系も含め多くの在校生・OBがいることを考えると、この方が売上増につながるかもしれない。良い結果を期待したい。

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2017年3月20日月曜日

台湾一周鉄道旅行-21


18 .旅の総括(最終回)
海外個人旅行の最後は2008年秋のイタリア旅行だった。この時は、航空券はHISで求めたほかは現地(ミラノ)にある日本人を対象とする小規模な旅行社を利用した。この年春のタイ・カンボジャも同様のやり方だったから、今回の台湾も初めはそんな会社とコンタクトした。しかしここはもっぱら現地ホテルや交通機関の手配のみで、旅を情報をやり取りしながら固めていくサービスが無く、やむなくJTBの個人旅行を利用することにした。嘗て、マイレージを使って同社のLOOKと組み合わせすることを数回利用し、たまたまかもしれないが、ほとんど個人旅行の趣で楽しめたからである。結論から言えば「JTBもこの程度か」と言うサービス内容であった。つまり、こちらで細部まで詰めないと、先に進まないのである。チョッと考えてみればごく当たり前で、横浜支店辺りで世界の旅に対応できるわけはないのである。しかしながら、成熟社会では、あらゆる分野に個人の好みを反映したビジネスが良い商売になる傾向にある。今回は台湾だから何とかなったが、ヨーロッパの鉄道旅行など考えると、都心まで出かけ、有料でもいいから、好みの旅を作り上げるサービスがあったらと思う。
台湾鉄道一周に関しては十分満足した。先ず滞りなく、新幹線・在来線を利用して、正確・安全かつ気分よく一周出来たこと。在来線ではディーゼル、電気で走る特急・急行に乗れ、現地の鉄道事情が良く分かったこと。目玉だった阿里山森林鉄道を楽しめたこと。加えて台北・高雄ではMRT(地下鉄)も気軽に利用出来たこと。何といっても鉄道は現地の人との接触機会が多く、これほど“外国”を身近に感じるものはない。期待はずれはあまりにも日本と同じシステム・環境であることくらいである。だから少しでも違いがあると嬉しくなる。新幹線・在来線は左側通行だがMRTは右側通行なのだ(道路と同じ)!残る疑問は一体全体車両の調達はどうなっているのか?と言う点である。新幹線は日本製だが他の車両につては分からなかった。
乗り物の旅と対になるのは車窓風景。沿線の田や畑、はるかに見える山々、これも日本とほとんど変わりがない。東海岸はでは急峻に海に落ち込む断崖をかすめることもあったが、これとて親不知辺りの旧道とさほど違わない。海に流れ込む川が大きな石ころだらけなのも同じだ。この点でも“外国”を感じさせるところは少ない。
台湾式旅館があることは今回参考にした下川裕治の本などで知っていたが、これも急速にビジネスホテルに変わってきているようである。今回泊まったホテルはすべて洋式、設備もサービスも基本的に欧米や日本と同じであった。その点では日本の方が伝統的旅館が残っているのかもしれない(欧米人のみならずアジアの観光客も最近はこれを好む傾向にあるらしい)。
最も違ったのは食事。2回だけだった朝食ビュッフェでは典型的な日本食も用意されていたし、洋食は当たり前。しかし、昼・夜はローカルな食べ物とスタイルを楽しんだ。中でも海鮮料理は日本は無論中華とも違い、個人的には極めて好みに合っていた。奮起湖で食べた釜飯駅弁、高雄のイタリアン、花蓮の肉麺、いずれも美味しかったし安かった。朝食の油條や豆乳も悪くない。
私の旅の楽しみの重要要素、歴史に関しては残念ながら中華文明をここに移した故宮博物院くらいしか見所はない。歴史を訪ねる旅だけは不適なところである(最初から故宮博物院以外は期待していなかったから問題にはならない)。
一番評価できるのは“人”である。とにかく皆さん親切で、現地語を全く解さないにもかかわらず(専ら筆談と日本語)、一度も不愉快・不安な思いをすることはなかった。これこそ今回の旅の最も強く残る印象である。
インバウンドで台湾からの観光客も増加していると聞く、日本人も大いに台湾を訪ねてほしい。大事にしたい国と国民である。

(完)

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-長らくの閲覧、ありがとうございました-


2017年3月17日金曜日

台湾一周鉄道旅行-20


17 .台湾最終日
韓国に初めて行ったのはソウルオリンピック直前の19889月だった。以来20回近く出かけており、回数から言うと最も多く訪れた外国である。90年代初めまでは日本統治下に建てられた朝鮮総督府(博物館)や京城駅(ソウル駅)も残っていたが、今はいずれも跡形もない。ニューデリーでは英国が建てた多くの石造建造物がそのまま使われているし、マレーシアやインドネシアにも宗主国時代の役所などが観光スポットとしてそれなりの価値を持って活用されている。そして反日を是とする中国ですら、私の誕生に地である新京(現長春)に在り、かすかに記憶に残る、彼らにとって最も忌むべき存在であった、関東軍司令部を吉林省政府機関として利用していると聞く。韓国と言うのはそんな点でも、稀にみる特殊な精神構造の国だと思う。
こんな国と対極にあるのが台湾だ。機能的に用を果たせなくなった駅などの建て替え・増改築は進んでいるが、古いものをよく残し有効に使っている。
1125日(木)いよいよ台湾を去る日である。天気は曇りだが雨になるような重苦しさはない。ホテルロビーで送迎役の黄さんと会うのは1320分。午前中の観光と昼食の時間はたっぷりある。当初からこの日の観光は日本統治時代の名残りと決めていた。久し振りに弁当でない朝食をビュッフェスタイルで摂り(嘉義に次いで2度目)、チェックアウトはせず8時過ぎに外出、ホテル東側の大通り、公園路を南に10分ほど歩く。そこはもう“二・二八公園、1899年に造られた台北公園である。二・二八は1947228日に起きた反国民党暴動を意味するが、公園の歴史は明治につながるのだ。この公園内には、二・二八記念館のほか、1915年にオープンした台湾初の博物館、国立台湾博物館も在る。通勤の人々がMRT台北醫院駅から園内を横切って職場に向かう。日比谷公園を通って霞が関に向かうお役人と何ら変わらない。公園の南端は凱達格蘭大道と名付けられた幅の広い(50m?)大通りが東西に走る。西側を見るとレンガ模様のチョッと東京駅を連想するビルが望まれる。何故か道路沿いには警察官や関係車両が多い。近づいていいものやらどうかわからないので“総統府”と書いた紙片を示すと、件の赤レンガを指さす。人通りは少ないが通行禁止ではなさそうなので建物の前まで行ってカメラを構えるが、特に注意されることもない。しばらくすると大通りを黒塗りの車が何台かかなりのスピードで、例の建物に吸い込まれて行く。どうやら蔡総統のご出勤だったようである。旧総督府は現在総統府となり、今も台湾政治・行政の中心であるのだ。
総統府から同じ大通りを東方向に戻り、ホテルから下ってきた公園路を横切るとこじんまりした洋館が現れる。1901年にできた迎賓館が現在は名を変えて台北賓館となっている。ここをさらに東へ進むと中山南路と言う大通りに直交する。この交差点に東門(景福門)が在って、北に向かって大きな区画が台湾大学附属病院で占められている。元の台湾帝大医学部で、本館は巨大な新しいビルだが、周辺には明らかに戦前のものと思われる建物がいくつも散在している。
今では日本でも見ることの少なくなった明治・大正の西洋建築を2時間弱の散策で楽しむことが出来たのもこの地を訪れた収穫であった。
一旦ホテルに戻り、11時にチェックアウト。荷物だけ預け、近くの新光三越と言うデパートへ出かけ土産物を探すが、これと思うものが見つからない。最後の空港に賭けることにして11階の中華レストランで昼食を摂る。日本のデパートの食堂と同様丁寧なサービスと上品な雰囲気が良い。チーフウエートレスのようなおばさんは日本語を解し適切なアドヴァイスをしてくれる。味も分量も値段も満足。13時にホテルに戻って荷物を引き取り、黄さんに空港まで送ってもらう。空港で求めたお土産は結局お茶であった。
終わりよければすべて良し!そんな台湾の最終日であった。

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(次回:旅の総括)

2017年3月13日月曜日

台湾一周鉄道旅行-19



16 .九份

台湾は長く中華帝国の域外だったから、古い建造物や宗教的モニュメントは無と言っていい。今回観て廻ったものの中で最も年代物と言えるのは19世紀に建てられた高雄の英国領事館であった。しかし、いくつかの漢書にも記録が残るように、古来人はここに原住しており、民俗学的には面白いところもあるようだ。そんなところを一カ所くらい訪ねたい。初めは東海岸でどこか適当な所をと探したが、スケジュール的に決め切れずいたところ、台北からのバスツアーにこの九份(きゅうふん)と言う老街を巡るコースがあることを見つけた。午後と夕方台北を発つ往復・滞在4時間ほどのプログラムである。ここからの夕日が美しいとあったから、夕食を摂ることも考慮して夕方の便を選んだ(料金に食事代は一切含まれていないが、時間的には配慮されていた)。

予約は全体計画の中でJTBに頼んだ。現地の実施企業は、世界中あちこちでこのようなサービスを提供している“マイバス”。ロンドン、ミラノ、フィレンツェ、ローマ、パリでも利用したことがあるので、要領が分かっていたこともここにした理由の一つである。集合場所は宿泊しているホテルから10分ほど歩いたところに在るシェラトンのロビー。指定の16時半前にそこに着くと、既に現地人のガイド(中年男性)が待っており、直ぐにバスに乗り込み、何カ所かのホテルを廻って客をピックアップしていく。最後に寄ったのが(まともな)マッサージ店。乗客はすべて日本人、若い女性やカップルが多く、およそ20名。ここを出るとバスはラッシュで混雑する自動車専用道に入り、北東方面に向かう。やがて雨がポツリポツリと降り出し、郊外へ出ると本降りになる。南は暮れるのが早く夕闇が迫り、自動車ヘッドライトやテールランプ以外の明かりはほとんどなくなり、とても夕日を愛でるような天候ではない。

1740分頃狭い九份へのとっかかり道路を抜けて大型バス駐車場に到着。1920分が集合時間である。ここの観光スポットは長い階段の両側に並ぶ各種商店だ。駐車場からは上りである。そこをマイバス以外も含め大勢の観光客が傘をさしながら上り下りするから大混雑、前後の人の傘から雨が容赦なく降りかかる。ガイドは階段途中の広場まで同行し、「この先の“阿妹(あめ)茶楼”がJTB指定の休憩所です」と言ってあとは自由行動となる。この雨でどこの飲食店も茶館も土産物屋も避難する人でいっぱい、指定の茶館も同様、何とか席が確保できただけでも良しとするしかない。

その茶館では「お薦めはお茶とお菓子のセット」とのこと。誰も食事を摂っている客はおらず、皆それで済ませている。このセットが驚くような値段、一人300元(1000円強)である。最初の台北の夜を除けば、これだけ払えば充分まともな夕食を楽しめるほどの価格である。雨の中を別の休み処を探す気力もなく、仕方なく我々も周囲に合わせる。確かに茶葉は良いものなのだろう、入れ方を教えてくれ、葉が尽きるまで何杯もお代わりするが、朝の残りで済ませた昼食しか摂っていない身には、空腹を満たせるようなものではなかった。早々に茶館を引き払い、少し付近を観光したが雨と傘以外は何も印象に残らぬ九份であった。

帰りのバスは来る時とは反対の順でホテルを廻る。しかし、ガイドは盛んにマッサージ店利用を薦める。歩合があるのは見え見え、今まで乗ったマイバスでは見られぬ光景であった(他の都市で土産物屋にはよく連れ込まれたが)。

シェラトン帰着は20時過ぎ。皮肉なことに雨は止んでいたが、これから夜の食事に出る気分でもなく、宿泊先ホテルまでの道筋に在ったコンビニで弁当やビールを求めて、何とも情けない台湾最後の晩餐を摂った。
 
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(次回:台湾最終日)