2017年10月30日月曜日

今月の本棚-111(2017年10月分)


<今月読んだ本>
1) 新版ハリウッド100年史講義(北野圭介):平凡社(新書)
2)超予測力(フィリップ・E・テトロック、ダン・ガードナー):早川書房
3)トラクターの世界史(藤原辰史):中央公論新社(新書)
4)なぜ大東亜戦争は起きたのか-空の神兵と呼ばれた男たち-(奥本實、高山正之):ハート出版
5)世論調査とは何だろうか(岩本裕):岩波書店(新書)
6)かくて行動経済学は生まれり(マイケル・ルイス):文藝春秋社

<愚評昧説>
1)新版ハリウッド100年史講義
-ハリウッドが主導した映画産業発展史-
学生時代(高校を含む)何かの調査(履歴書を含む)で“趣味”の欄があると必ず「映画鑑賞」と記入したものである。このほかはその時によって「模型製作」「読書」「水泳」が加わった。しかし、就職してからは専ら後の3者で「映画」は消えてしまった。最大の理由は、封切りから時間の経った日本映画を上映する場末の映画館しかない、地方工場勤務が長かったからだ。その後家庭を持ってからはTVで洋画劇場などをよく観ていたが、映画館まで出かけることは滅多になかった。しかし、5年くらい前から近くのシネコンで「午前10時の映画祭」を楽しむようになってきた。195060年代の名画、かつて見損なったもの、強く印象に残るものなど、基本的には懐古趣味の域を出ないが、大きなスクリーンと音響効果はTVとはまるで異なる世界、終わった後の昼食で一杯やりながら、若き日々を偲ぶ愉悦の時間を知った。
ハリウッドで作られ上映された話題作を、本を通して再度楽しむ。こんな趣の本も好きなジャンルで「洋画ベストテン150(文藝春秋社編)」「アメリカ映画1950s(児玉数夫)」「戦争映画名作選(柳澤一博)」「映画を夢見て(小林信彦)」「字幕の作り方教えます(清水俊一)」などが書架に並ぶ。この種の本は、映画のあらすじ・触りどころを紹介し、製作時の社会情勢などを踏まえて、監督の作風や主演俳優の演技などを批評するのが定番である。今回も中身を確かめもせず、そう決めつけて購入した。
しかし、目論見は見事に外れた。個々の映画内容など対象外、映画産業、映画文化、映像技術をハリウッドを舞台に概説する、当にタイトル通りの“映画100年史”であった。しかも“講義”にも意味がある。著者ニューヨーク大学大学院の映画研究科で学び現在は立命館大学映像学部学部長を務める人である。つまり、本書は教科書でもあるのだ。それだけに、今まで読んできた映画本とはまるで内容・構成が異なり、教えられることの多い、興味深い本であった。珍しい出版物だからであろう、旧版(2001年)からのロングセラーで、その後の変化(特に、ディジタル技術)を踏まえ増補・改訂の“新版”が本年出たわけである。
動く映像が世に出たのは1895年、フランスのリュミエール兄弟によってである。しばらくの間は“珍奇な見世物”であり、映し出されるのも観客をびっくりさせるものが対象であった。これが“物語性”持つのには、それなりの技術の進歩や経営の工夫、社会的な背景がある。この“物語性”こそ映画発展のカギだったのだ。フィルム一巻(15分)が限度だったものが数巻つながるようになると、物語も長く複雑な構成が可能になり、文化の極みにまで高まってくる。大道芸を楽しんでいたような子供やその日暮らしの観客が中流階級に広がると、作る方(制作者)も見せる方(興行主)もそれなりの工夫をこらし設備を整えていく。集客力のある脚本家・監督・俳優をそろえ、撮影にも新規技術・新手法を駆使する。製作費は高騰し、これを回収するための経営方式にも変化が出てくる。経営の垂直統合(制作・上映)が始まり、数社による寡占が出現する。彼らは気候の良さ、恵まれた自然景観、エジソン社(東部に本拠、特許問題で他社を執拗に妨害)から遠いこと、からハリウッドに集まってくる(1908年以降)。映画を産業として捉え分析するくだりは「そうだったのか!」「なるほど!」と目からうろこの連続である。独占とその解体、倫理規定などにも踏み込んで、その変容を明らかにしてくれる。
“物語性”の変化は無論産業面ばかりではない。世相を反映するその内容(コンテンツ)にも深く踏み込む。大不況、戦争の恐怖、戦後の中産階級の広がり、冷戦下の赤狩りによって制作者、脚本家、監督、俳優たち、作品、は大きく影響される。ここでやっと既刊の映画本と同じ世界を垣間見ることができた。
作る側ではコンピュータグラフィックス、観る側ではビデオ、DVD、インターネット、とディジタル技術の導入・発展は日々ハリウッドの環境を変えていっているが、消長を繰り返した100年の歴史によって、今も映画産業における突出した地位を保っている。
新たな映画の観方・楽しみ方を学ぶに格好の一冊である。

2)超予測力
-予測力は天与の超能力にあらず!鍛えることが出来るのだ!-
197310月第一次石油危機が起こった。当時私は石油精製・石油化学の工場勤務だった。予期せぬ人事異動があり、本社製造部長が工場の生産部門元締めである製油部長に赴任してきた。切れ者の噂は高い人だったが、製油所勤務の経験のない人、しかも格下の工場の部長職である。工場長以下「お手並み拝見」と言ったところである。しかし、彼は臆するところなく、自分のスタイルを貫く。数字にめっぽう強く“エコノミックエンジニア”と自称して、徹底的に数字にこだわった。年末には全管理職に“次年度末予測値”を提出させる。工場経営指標ばかりでなく、原油価格、金価格、為替レート、インフレ率、日経平均などなど。これが個人の成績評価に反映されることは無かったが、どのように予測値を決めたか(年初)、どこに違いがあったか(年末)を必ずフォローするよう命じられた。その上で“反省”を次年度に反映させるのである。種々の施策もあるが、これを繰り返すことで、工場の省エネルギー効果は目に見えて向上していった。長期工場勤務経験者も脱帽。予測し、測定し、見直す、これを体系化することの重要性を教えられた。やがて彼は本社に凱旋、役員に昇格していった。本書は専門家の予測を「ダーツを投げるチンパンジー」と揶揄する一方で、予測能力向上の可能性を科学した研究結果を紹介するものである。
著者、フィリップ・E・テトロックはカリフォルニア大学バークレー校を経て現在ペンシルベニア大経営学・心理学教授を務める。ダン・ガートナーはカナダのジャーナリストで邦訳は類似の科学物が多い。内容はテトロックがバークレー時代から手掛けてきた予測力研究、特に国家情報長官(CIANSA;国家安全保障会議、DIA;国防総省情報局など16情報組織を統括)直轄組織の一つである情報先端技術研究計画局(IARPA)がスポンサーとなって2011年~15年にかけて取り組んだ「Good Judgement Project;優れた判断力プロジェクト」を通じて得られた知見をまとめたものである。このプロジェクトは、IARPAの専門分析官(全員では2万人以上)と選ばれた5チーム(著者のチーム;ペンシルベニア大+バークレー校、他にミシガン大、MITなど)がIARPA作成の課題(毎日出題、翌日午前9時(東部時間)回答提出、年間何百問にもなる)を競うもので、1年、5年、10年のスパンがあり、いまだ答えの出ていないものもあるが、著者のチームが圧勝している。
問いには “原油価格は?”のような比較的単純(問題としては難しいが)なものもあるが、“東シナ海で船舶同士の武力衝突によって死者は出るか?”や“安倍首相は靖国神社参拝を行うか?”、“2014915日の北極海の氷の面積は、2013915日と比べて少ないか?”など相当広範な知識と深い思考を必要なものまで多種多様である。
他組織の方式や人数は全く触れられていないが、著者のチームは、毎年2千人以上がボランティアの中から選ばれ、これを細分してグループ化、予測結果が高かった者を絞り込んでスーパーチームを作っていく。結果は、参加チームのみならず、予測をビジネス・職務とする組織をはるかにしのぐ成績を収める(1530%高い)。
何が好成績をもたらしたのか?それは先天的な資質なのか、あるいは後天的に身に付けられるものなか?答えは「育てることのできる才能である」。数理に優れることか?知識を豊富に持つことか?と分析しながら、数値化や測定の重要性および事後検証の必然性を訴える(予測市場専門家の欠点;事後検証を怠るばかりか言い訳に終始する)。優れた予測能力者には、特定のものの考え方、情報の集め方・整理の仕方、自らの考えを更新していく方法があると結論付ける。基本は、予測し、測定し、見直す。これを習慣化し終わることのない“漸次的改善プロセス”を確率することにあると。確かにいずれも先天的なものではない。前述の石油危機の際製油部長の求めたことに他ならない。
ただし、こうしたからと言ってどんな問題にも正解率を高められるわけではない。それを高めるためには以下を心がける。
1.短時間に判断を求められるようなことやどうにも先を見通せない問題(著者はこれを“雲型”と名付ける)は優先度を落とし、経験や統計が援用しやすい“時計型”に重点を置いて取り組めと言う。何やら試験でいい成績をあげるコツに近い(このプロジェクトがある種の競技だからである)。
2.手に負えない問題は、負えそうなサブ問題に分解する。
3.内側(自分の立場)からだけ問題を見ず、外側(他者)の立場に立ち両者の適正なバランスを心がける。
4.人間は希望的観測に引きずられやすい。過少反応、過剰反応を避ける。
53.とも深く関係するが、どんな問題でも自らと対立する見解を考える。
6.問題に応じて不確実性は出来るだけ細かく予測する。6040よりは5545のように。
7.慎重さと決断力の適度なバランス。決断力を発揮するタイミング、自己主張を抑えるべきタイミングの切り替えを常に意識する。
8.失敗した時は、言い訳や、過剰な反省を避け、バイアスのかからない原因検証をする。成功も確り事後分析する。
9.仲間の最良の部分を引き出し、自分の最良の部分を引き出してもらう。
10.ミスをバランスよくかわして予測と言う自転車を乗りこなそう。本を読んでいるだけでは自転車には乗れない。実際に乗って習得する。
11.以上の“心得”を絶対視しない。「全く同じ状況は二つとないのだから、絶対的なルールを定めるのは不可能だ」(モルトケ)。
本書は先にも述べたように5年にわたる研究プロジェクトの結果をまとめたものであるが、研究報告書の無味乾燥さは全くなく、関連する認知科学、脳科学、心理学、統計学、意思決定論、哲学、歴史学などの基礎知識を紹介・駆使し、政治・経済のみならず、医療、気象、軍事などを事例に、思考→予測→決断→結果検証→思考方法の修正を繰り返すプロセスを分かりやすく解説する。これには共著者のジャーナリストの力が生かされたものと推察する。年末の“今年のベストファイヴ”候補の一冊になりそうだ。

3)トラクターの世界史
-農業を根底から変えた機械。だが使い方次第で農業破壊も-
自動車、鉄道車両、飛行機、子供の時から憧れの機械である。それらに関わる仕事に就きたく機械工学科に進んだ。中でも自動車への興味は尽きなかったが、乗用車はいまだ製造・販売の主流ではなく自動車会社は専らトラックで商売をしているような時代である。「もはや戦後ではない」宣言(1956年経済白書)にあるように、当時の日本経済はインフラ整備で活況を呈しており、トラックはそのシンボルともいえたし、国産建設機械も脚光を浴び始めていた。コマツ、日立(建機)、三菱日本重工(現三菱重工;のちに米キャタピラ社と提携)あたりへ就職出来たら、と思った時期もある。しかし、3年生のゼミ選択で一気に方向転換、制御工学を専攻して、爾後乗り物とは無縁の世界で過ごすことになる。
かなわなかった少年時代の夢、航空エンジニア志望から発したことであるが、就職後は専ら戦略兵器発展の歴史を調べることが、趣味の一部となり、飛行機、戦車、潜水艦の歩みを追っている。そこで分かったことは、戦車の発想は農業用トラクターにあることであった。本書を紐解くことになった動機はそこにある。「こんな本は今まで見たことがない!」と。
“トラクター”そのまま訳せば牽引車。従って、農業用、工業用、軍事用、林業用など多様なのだが、ここでは農業用トラクターが主役、戦車への転用・発展はほんのさわりだけである。“トラクター”を狭義にとらえれば牽引車だが、牽引される農機具に注目しないわけにはいかない。土壌の鍬起こし、畝づくり、種まき、除草、刈り取り、束ね、運搬など様々な専用機との関係も重要だ(また脱穀には、走行させずに動力源として使う)。
“世界史”は当にその通り。人力、牛馬にはじまり、動力利用は蒸気機関から説き起こす。“世界”は広い。製造者、利用者として、米国、英国、ソ連、東欧、独、伊、日本から中国・台湾、韓国、タイ、インドネシア、ヴェトナム、イラン、ガーナまで登場する。機械屋としての興味は、製造メーカと構造にあるが、その基となる利用先は、多くの国の国策・国情(農業経営、対象作物、土壌など)と関わるため、非製造国が登場するのだ。これが意外と勉強になる。少し考えれば当たり前のことなのだが、機械を作るためには、利用環境を充分理解することが必須なのだ。
目的に応じてスタイル・構造も様々だ。乗用型、歩行型、無人型があり、足は車輪型、キャタピラ型が使い分けられ、車輪型は二輪と四輪の二種ある。動力は当初は蒸気機関で始まるが、やがて取扱いの容易な内燃機関に移り、力があり燃料費の安いディーゼル機関が今は主流である。
農業用トラクターの王国は米国、ジョン・ディア、インターナショナル・ハーヴェスターなどがこの業界の大手だが、一時期フォードの別会社フォードソンが77%のシェアーを占め時代もあった。ただこのトラクターは牽引される多様な作業機器との連結構造(動力伝達を含む)が貧弱で、専業メーカに王座を奪還されてしまう。
利用面での大国は米国に加えてソ連、集団農場経営に大量の米国トラクターを導入しのちに類似品を製造するようになる。このソ連の話では、集団農場と農業機械を保有・貸与する組織間の連携が上手く働かず、メンテナンスが疎かになり、効率的な運用に大きな障害があったことが分かる。一方米国でも大恐慌後、中小の農場が集約化され、大型機械に依る効率優先の大規模農場経営が、自然破壊をもたらし、返って土質が低下して、各所でダストボール(砂山)が生じたことを紹介している(スタインベック“怒りの葡萄”で取り上げられる)。つまり、過度な機械化の弊害である。ガーナのはなしはその現代版で、不適切な運用が国土の一層の砂漠化をもたらすことになる。
さて我が国である。黎明は1909年岩手県の小岩井(三菱)農場(蒸気トラクター)、1911年北海道斜里町の三井農場(米国ホルト社半装軌式;前輪タイヤ、後輪キャタピラ)から始まる。また第一次大戦後陸軍が同社から履帯(キャタピラ)式を輸入し、戦車開発研究に利用している。さらに歩行式が米国やスイスから輸入され、何カ所かの農事試験場で試用、国産機開発教材の役割を果たすことになる。政府に依る大型機開発は小松製作所に1930年代初期に下命される。小松はその開発成果を先ず満州で生かすが、戦争で大量生産・利用の機会はやってこず、経営の軸足を土木機械に向けていく。結局我が国における農業機械は1950年代までは後進国、そしてその後に先進国に急変していくのである。きっかけは先に触れたたスイスの歩行式トラクターである。畑地用の製品は水田には全く不適だったが、戦前これを岡山県児玉湾の大規模干拓地で改良を続けた藤井康弘なる人物が水田用耕耘機(商標;幸運機)を完成させ、戦後これが全国的に売れ始める。今のヤンマー農機(ヤンマーの子会社;本社は岡山市在)の前身である。小型農業機械では、クボタ(鋳造技術から発した新規事業;日本1位、世界第3位)、ヤンマー(小型ディーゼルエンジン開発における世界的先駆)、イセキ(1960年代ポルシェと提携;ポルシェ社がトラクター生産から撤退後提携解消)、三菱農機(最近インド資本が入り、三菱マヒンドラ農機と改名、本社松江市)が世界市場(米国を含む)で、大きな存在感を示しているのだ。
農業機械化に関する種々の問題;初期に多発した事故、騒音・振動問題(土質保全も含め、ゴムタイヤの発明は画期的な出来事であった)、運転者を含む取り扱者の変化(ソ連では早くから女性が進出、米国も戦時は働き盛りの男性が不足し未熟練者に従事する)、農業機械化に対するイデオロギー論争などにも言及する。単に機械中心に語るのではなく、取り巻く社会環境、自然環境などを踏まえてトラクターを知ると、若干経済面での掘り下げに不満は残るものの、確かに帯にある“人類の歴史を根底から変えた”がそれほど誇大広告とは思えなくなる内容の本だった。
著者は京都大学人文科学研究所准教授(農業史専攻)。本書は科研費対象研究が基になっており、滞独研究もあるようで、参考文献には英文ばかりでなくドイツ語のものも多い。さらに農家出身で農業機械運転経験もある人。これも本書が面白く読めた一因のような気がする。

4)なぜ大東亜戦争は起きたのか-空の神兵と呼ばれた男たち-
-明るい軍歌に隠されたパレンバン降下兵の苦闘-
今からちょうど30年前の1987年、情報サービス会社を立ち上げてから2年目、計測制御システムの調達先である横河電機から「インドネシア国有石油企業プルタミナ社の製油所を訪問し、日本の製油所で動いている最新のシステムを紹介するとともに、現地の利用状況を診断し、改善提案をするビジネスを共同でやらないか」との話が持ち込まれた。願ってもない話、二つ返事でOKした。プルタミナは大規模な製油所4ヶ所を選んできた。一度の出張で訪問するのは2ヵ所、これを1週間で行い、次月診断結果に基づいた改善提案を本社および製油所で行う方式になった。初回訪れたのはスマトラ島中央東部、マラッカ海峡に面したデュマイ製油所とジャワ島中央南部、珊瑚海に面したチラチャップ製油所、二回目は東カリマンタン(ボルネオ)のバリックパパン製油所とスマトラ島南東部のパレンバン・ムシ製油所である。インドネシア出張はそれまで一度だけジャカルタへ出かけているが、製油所訪問は初めて、心躍る思いであった。中でもパレンバン製油所訪問の話が出たときには雀躍した。幼児のころ大声で歌っていた(と両親が言っていた)“空の神兵”の舞台だったからである。「藍より青き、大空に大空に、たちまち開く、百千の、真白き薔薇の花模様、見よ落下傘空に降り、見よ落下傘空を征く、見よ落下傘空を征く」、ほかの軍歌には無い明るさが大好きだ。
軍事オタクの私だから、空挺作戦の本はかなり読んでいるのだが、有名なパレンバン降下隊員自らが書いたものを目にしたことは無かった。本欄の閲覧者で毎月必ずコメントをくれる知人が本書の存在を教えてくれなければ、聞いたこともない出版社から出ていたものゆえ、読むこともなかったであろう。この作戦に小隊長の一人として参加した著者(奥本實中尉(作戦当時)、2011年没)が「記憶の正確なうちに」と1961年(昭和36年)に筆を起こした手記が、長い年月を経てやっと日の目を見ることになった(脱稿1992年、出版2016年)、あの華々しく伝えられている作戦の真実を明らかにする貴重な出版物なのだ。
本書の構成は三部から成り、著者も3人。第1部は保守の論客・コラムニストとして名高い高山正之が作戦実施に至る時代背景を書いている。一言で言えば“大東亜戦争=植民地解放論”である。私自身は満州国と言う日本の“植民地”で生まれ育ったために、この考え方にいささか違和感を覚えるが(結果として植民地解放につながったのは事実)、舞台となるインドネシアのみならず、インド、フィリピン、タイ、ビルマ(ミャンマー)、仏印、マラヤなども取り上げられ、欧米に依る苛酷な植民地支配の歴史をつぶさに知ると言う点では、得るところがあった。また、欧州での降下作戦(西部電撃戦(独)、クレタ島作戦(独;14千人;空挺部隊の墓場;降下兵の25%戦死)、ノルマンディー上陸作戦(米英;3空挺師団)、マーケットガーデン作戦(英米;4万人;映画「遠すぎた橋」);いずれもグライダー侵攻や輸送機空輸を含め数万人規模)を例に、いかに空挺作戦が犠牲を伴うものかを解説しているところは、本作戦を理解するための導入部として効果的な解説だ。
2部は奥本中尉が戦後当時を思い起こすだけでなく、防衛庁に残された史料などにも当たり、取りまとめた作戦の細部である。ここが本書の肝であり、読みどころでもある。私の関心も専らここにあった。その意味からも副題の“空の神兵と呼ばれた男たち”を主題にしてほしかった。
3部は奥本中尉の子息、奥本康大が残された手記を出版するまでの過程と父親像を語り、それに勤務先であった出光興産の創始者出光佐三(ベストセラー“海賊と呼ばれた男”のモデル)の独特の経営理念から国家観までを、父親の生き方に重ね合わせて概説する。
奥本中尉は1920年奈良県農家の生まれ、中学4年で陸士に進み、1940年卒業(54期)。中国戦線で戦っている194110月陸軍挺進練習部に転出、国内で短期訓練を受けたのち挺進第2聯隊の小隊長(32名)に任ぜられる。開戦1か月後、1942115日門司港出港、31日カムラン湾に上陸、仏印(現カンボジャ)プノンペンに挺進基地を設けて、マレー・シンガポール作戦、蘭印作戦の進捗を待ち、2月初めマレー半島のスンゲイバタニ飛行場へ進出。ここで初めて降下作戦地がパレンバンと知らされる。著者所属中隊の任務はパレンバン飛行場制圧、後続空輸部隊の受け入れ先確保である。石油精製工場は別部隊の担当だ。
下命29日(この時点でまだシンガポールは陥ていない)、実施日は14日、マレー半島先端部のカハン前進基地からが飛び発つのだ。パレンバンまでの距離は550km、当時の陸軍輸送機は足が短く、航続距離は1200km程度、往復の行程はギリギリである。護衛の戦闘機またしかり(加藤隼戦闘隊)。出発は午前9時、聯隊長以下336名(通訳、報道員などを含む、通常の連隊と比べ極めて人数が少ない。聯隊長は少佐、隊員は士官と下士官のみ)が輸送機(定員は1013名)に分乗、護衛戦闘機や物量箱(輸送機の搭載量制限から、銃砲や手榴弾は別送方式)輸送・投下の爆撃機戦隊を含む88機の大編隊が高度2000mで南下していく。「ムシ川が見えたぞ!」降下開始は1126分、高度は300m!まで落とし、0.5秒間隔で機外へ飛び出す。開傘から着地までわずか4050秒。
ここから先は“空の神兵”や巷間伝えられる英雄譚とはまるで異なる様相を呈し、想像を絶する苦戦を強いられることになるのだ。着地地点の誤り(作戦終了後多くの関係者が左遷される;特に輸送機関係者)から生じた兵員集結の困難と物量箱発見・回収不能、これに対する敵軍の反撃(対空砲による水平射撃)。
著者はジャングルの中に降下、何とか道路にたどり着くが、所持する武器は拳銃のみ。これで敵と交戦、ふくらはぎに銃創を受け、歩行に難儀するほどだが、やっと数人の兵と合流し、若干の銃も確保して飛行場に向かう。ここでも火力の差は著しいのだが、和議交渉で敵を欺き、彼らを退去させる。これで飛行場を確保、後続部隊の受け入れが可能になる。この功により、後日著者は単独で昭和天皇に拝謁を許され賞される。中尉程度の下級将校の単独拝謁は後にも先にも例がなかったらしい。
製油所制圧部隊の方はやや状況が良く、敵の抵抗をほとんど受けずに占領でき(一部設備・タンクの炎上はあったが復旧できる程度だった)、これも結果として目的を達する。
訓練期間が信じられないくらい短く(実質4ヵ月弱)、300人程度のわずかな兵力で、計画通りの降下もならず、個人や小集団による孤軍奮闘がいくつかの幸運と結びついて、何とか作戦が成功する。奇跡の勝利だったことが、生々しく描かれる。
国民に伝えられたのは勇者たちによる奇襲作戦勝利の報だけであった。空挺部隊の存在すら全く秘密であったから、衝撃のニュースに国中が沸き上がる。明るい“空の神兵”が作り出されたわけである。
1987年訪れたパレンバンはかなりの規模の都会、市街に戦争の後をうかがわせるものは皆無。製油所の幹部が、かつてそこが日本軍に占領されていたこと当時の計器が今も一部使われていることを現場で説明してくれた。また広く我が国で流布されているパレンバン空挺作戦も専らこの製油所を中心に語られる。しかし、飛行場確保こそその主目的であり、激戦地がそこであることを知っていれば、あの町での過ごし方も少し違っていたかもしれない。「空港はあの時の飛行場か?」「町と結ぶ道路は同じか?」「ムシ川にかかるモダンな橋は当時のものではない。どこでどのように渡河したか?」「ジャングルとはどこだろう?」「オランダ軍兵営は、今はどうなっているか?」などなど。

5)世論調査とはなんだろうか?
-分かりやすく丁寧に語られる世論調査・選挙速報の実態-
これを書いているのは1025日、読売新聞(電子版)は総選挙後の内閣支持率が52%でプラス11ポイントと報じている。追っ付け他のメディアもそれぞれの調査結果を報じるだろう。どれだけ各社の数字に違いがあるか?本書の読前・読後では見方が変わるのは必定の読み物である。購入したのは総選挙とは関係なく、半年近く前である。この頃朝日・毎日と読売・産経の世論調査の結果がかなり異なっており、その原因が種々取り沙汰されていた。その中に「読者層がもともと違うから」と言うのがあり「この種の調査対象はそれぞれの読者なのか?」との素朴な疑問を持った。たまたま本書を目にする機会があり、小見出しの「なぜ各社で調査結果が違うのか」に惹かれ求めた。その後しばらく積読状態だったが「選挙の前に」と読んだ次第である。「読者層が違うから」は少なくとも政治問題に関しては全く見当違いである。
序のところで本書の執筆動機が語られ、2014年の総選挙が取り上げられる。やはり選挙との関わりは、この種の調査の最大関心事なのが分かる。次いで“世論”の読み方(よろん、せろん)や“輿論(よろん)”との違いなどが解説され、両語とも戦前から在るものの、輿論(よろん)こそ現在の世論に近いものであり、世論(せろん)はもう少し俗っぽい意味をもっていた。しかし、戦後当用漢字制限から世論を“よろん”とも読めることで、専らこれが使われるようになる。
ではいつごろから“世論”調査は始まったのだろうか。歴史をたどると、占領下GHQの下部組織、民間情報教育局(CIE)の指導の下で行われた各種“科学的”調査にその起源があると、著者は当時の占領政策の一端を紹介する。
ここでの重要論点は“占領政策”ではなく“科学的”にあり、以降全編がこの“科学的”を具体的に、時代の変化に応じて詳細に説明する。そこには手法(例;コミュニケーション手段)ばかりでなく、数理(例;サンプル数、誤差)、心理学(例;質問の順序、面接・非面接)、人文科学(例;質問の表現法)、社会学(例;職業、年齢、性別)、技術(例;固定電話、携帯電話、ネット)、さらには経済性も踏まえたあらゆる学問領域が動員され、調査の客観性、正確性を期するために(場合に都合のいいように誘導する可能性も含めて)、関係者・関係機関がたゆまぬ努力・工夫をしていることが図表や事例で分かりやすく紹介される。
いくつか具体例を紹介すると;
・経済性も含めて現在最も利用される手段は電話による調査。ここでは乱数を用いてランダムにダイヤリングするシステムが(RDD法)が一般的であるが、法人は対象外の場合が多いし、Faxの場合は応答がない。また、電話に出た人が対象外(例;選挙権のない子供)のこともある。法人やFaxを自動識別するロジックや最初の質問で対象者・非対象者を識別する(これは自動では無理だが、問いかけの順番で)工夫がされている。
・出口調査における結果をそのまま使わず、経験則によるバイアス補正をする。公明バイアス(期日前投票が多い)、おばあちゃんバイアス(回答拒否者が多い)など。選挙に限らずバイアスはいたるところにある。
・サンプルの問題;古い話だが、世論調査の基本を決した事例;1936年の米国大統領選挙。結果はルーズヴェルトの大勝利に終わるが、230万人(1000万人に送付)の回答を得た雑誌リテラリー・ダイジェスト社は共和党ランドン候補当選を予測、対して3000人を対象にしたギャラップはルーズヴェルトの勝利を予測し、見事に当てる。リテラリー・ダイジェストは読者を対象(白人、男性、中産階級、都市住民)、ギャラップは投票権を持つ人の縮図(人種、年齢、性別、都市・農村、収入など)を周到に選んだ結果である。現在の我が国の世論調査対象数も概ね20003000人。
・選択問題における目と耳の違い;目の場合は最初の回答に、耳の場合は最後の回答に行きがち。
最後に、現在の世論調査が直面している種々の問題(多くは世界共通;携帯・ネット問題、回収率低下、増加する費用とのバランス、ねつ造・メーキングなど)と対応状況を紹介し、「声を出さない、声を出せない、多くの人たちの意見を国や行政に届けたり、権力を監視するための“武器”です」と訴え、世論調査への理解を求める。
著者はNHK報道部デスク、解説委員を経て、NHK放送文化研究所世論調査部副部長。報道部の2大題材は自然災害と選挙。今回TVで“8時当確”を見ていると、この人の地方記者時代の苦労が目に浮かんできた。とてもビッグデーターとAIでは代替できない世界がまだまだあるのだ。
大変読み易く、興味深い内容が多く、客観的な視点と当事者としての立場のバランスもよく書かれており、メディアと世相理解に一段と深みを増すための好教材と言える。

6)かくて行動経済学は生まれり
-行動経済学はほんの触りだが、心理学の面白さを堪能-
経済学の学派や理論に少し関心を持つようになったのは“格差社会”が話題になり出したころからである(つまりごく最近)。市場優先主義を説く新古典派経済学(シカゴ学派)こそその元凶との論調を目にするようになり、それに対するケインズ学派的意見・提言に触れる機会も多くなってからである。そんな中で知ったのが“行動経済学”という言葉だ。「一体どんな学説なんだろう?」と疑問をもったものの、それ以上追究することはなかった。しかし、今夏本書の広告を見て直ぐ手配した。誘因は題名もあるが何といっても著者名だった。貧乏弱小球団オークランド・アスレチックスを数理でワールドシリーズまで進出させる小説「マネーボール」の著者なのだ。「一体なぜ今度は経済学をテーマに?」と。
本書執筆の動機がその「マネーボール」に対する、経済学者からの批判にあったところから話は始まる。何とその評者は今年度ノーベル経済学賞受賞者、シカゴ大学教授リチャード・セイラーだったのである。「著者は、野球選手の市場がなぜ非効率的なのか、もっと深い理由があることを知らないようだ」とした上で、二人の心理学者の名前が挙げられていた。「マネ-ボール」は“勘と経験”に頼るそれまでの選手選びや作戦を“より論理的に”と数理をクローズアップした球団経営の話である。しかし、セイラーは人間の予測・判断・選択にはそれ以上に心理的要素が大きいことを指摘したわけである。本書はこの面から社会活動(経済に限らず)との関わりに切り込んだ二人のイスラエル人心理学者の伝記である。
結論から先に述べると“行動経済学”に関する話はほんの触りだけで、これをきちんと学ぶには適当ではない。原題(Undoing Project)にも副題(A Friendship That Changed Our Minds)にも一切この言葉は出てこない。しかし、日常の我々はしばしば非合理的な判断を下す。これは伝統的な経済学が合理性を前提に説かれること矛盾する。これをついたと言う点において、二人の研究は画期的なこと(異端)なのである。だからこそ本書の主人公の一人、ダニエル・カーネマンは2002年ノーベル経済学賞を受賞する。もう一人はエイモス・トヴェルスキー、19966月に亡くなっているため栄誉に浴していないが、もし生きていれば間違いなく共同受賞したと広く信じられている。
ダニエルは1934年テル・アヴェヴ生まれ、エイモスは1937年ハイファ生まれ、いずれもイスラエル建国前で、ダニエルは父親の仕事の関係でパリに滞在中第2次世界大戦に遭遇、ユダヤ人狩りを逃れてフランスを転々、戦後1947年イスラエルへ戻る。二人とも新国家で兵役に就いた後、ヘブライ大学に進学、ここで心理学を学ぶ。エイモスの方が少し後輩になるが、ここで二人は親密な関係になり、以後の研究は、発想はダニエル、理論化はエイムスと言うパターンで、当に一心同体で進められる。本書の大部分はこの共同研究での二人の関係を詳述し、それがいかに不可分なものかを語る(最初の論文の筆頭著者名はコイントスで決めた)。
二人の性格は対象的、ダニエルは内向的・沈思塾考型、エイムスは外向型・才気煥発型。どうしてもエイムスが目立ち、米大学からの引きが強くスタンフォード大に移る。対してダニエルも米国での活動を望むが直ぐには叶わず、カナダのブリティッシュコロンビア大→バークレー→プリンストン大(ノーベル賞受賞時)と時間がかかる。この米国移住前後から二人の関係が崩れ始め、双方が競い合うようになっていく。この時代の話は、学者の功名争いの様相を呈し、あれほど親密・不可分の二人の離反は、チョッとした小説もどきである。
本書に依ると心理学は歴史も浅く、体系的な完成度の低い学問分野と見られていたのだが、この二人の研究が注目され、他の学問分野に影響を及ぼしたところに、心理学への関心が高まったとする。
ここで取り上げられる心理学の対象は広義の意思決定(予測、判断、選択などを含む;経済ばかりでなく政治、医療、歴史などの応用分野を含む)。本来なら、経済計算や確率で“合理的”に決まっていいものが、チョッと状況が複雑になると、非合理的な選択をしてしまうことを、数々の仮説を立てながら、実証(あるいは失敗も)して、慣行・数理・論理基盤の定説に欠陥があること、その原因に心理的要素が大きく影響していることを明らかにする。従って、事例も広範におよび、それ故に“行動経済学”の概要だけでも学べたら、との期待は肩透かしをくっていしまったわけである。だが、一方で“決断科学”と言う点からは心理学の重要性・実用性を興味深く知ることのできた、内容の濃い一冊だった。
著者もある意味それは同様とみえ、今回はプロバスケットボール選手採否を事例に「マネーボール」で扱った、数理重視の先にある課題(数理は役に立ったが、それだけでは十分でなかった)として、面接結果とその後の経緯を導入部の題材として利用している。
なお、2)で紹介した“超予測力”にバークレー時代のカーネマンが頻繁に登場する(2種類の予測力;直観(システム1)と熟慮(システム2)の解説)。その時は単にバークレーの学者ととらえるだけだったが、このカーネマンであることを本書で知る。それだけ“予測(思考)”の世界でも重視されていた人物だったわけである。また、本書を読みながら5)の“世論調査”における質問の内容や順序との関係に思いがおよぶことしきりだった。
売れっ子の作家が書いた、話題の先端をくい学問の話、取っ掛かりには持ってこいの本である。ここまできたら“行動経済学”にもう少し取り組んでみたい気になった。次はセイラーの「行動経済学の逆襲」(“直訳に難点”の評あり)?それともカーネマンの「ファスト&スロー」(上下2巻!)?

(写真はクリックすると拡大します)


2017年10月11日水曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-37


189年を振り返る(最終回)
1994年の社長就任は大波乱の下でのことだった。東燃グループの総帥でSPIN誕生のきっかけを作り、陰に陽にバックアップしてくれていたNKHさんが突然その任を解かれるところから始まった。後任社長のTMBさん始め経営陣は従来からの経営路線を本業回帰に修正するものの、SPINに対するスタンスは創業時と変わらぬ良好な関係をしばらく維持していったが、新規事業に対する大株主(ExxonMobilEM)の見方は厳しく、また石油業界の規制緩和と石油を巡る世界情勢から、一層の経営効率改善を求められ、少しずつ軌道が変わっていく。本体の人員削減・早期退職とコアービジネス(石油関連)以外は整理するとの方針が、はっきり打ち出されるのは1996年。グループ経営の全面にEMの意向が強く反映されるようになってくる。
1985年にスタートしたSPINは我が国バブル経済とIT利用の拡大によって、順調な発展をつづけ、2000年の株式公開を目指し、同業他社(ソフトブレイン;SBC)への出資やERPパッケージ取扱い(米国Ross社ルネサンス)などさらなる成長に向けて手を打っていた。しかし前述のように、社長就任前後から取り巻く経営環境に大きな変化が表れ始め、結局社長になって初の大仕事はSBC経営破たん処理、それに期待も大きいが負担の重いRoss社との総代理店契約締結だった。この新規分野(ERP)への取り組みが充分熟さぬうちに起こったのが、SPINのグループからの切り離し問題である。
IT業界のビジネス環境もダウンサイジン(PCの普及)、ネットワーク(インターネット)、オープン化・共通化(技術、製品)などで様変わりしつつあり、自社製品(ハード、ソフト)中心からソリューション(ITによる企業の課題解決)に移ってきており、巨人IBMですらその方向に舵を切ることで生き残りを図るような情勢。これはもともとユーザーから出発したSPINにとっては好ましい方向であり、計測制御システム国内最大手、世界五指に入る横河電機がソリューションビジネス(Enterprise Technology SolutionsETS)に乗り出すタイミングで、1998年東燃から横河への株式譲渡が決まる。日本的経営(終身雇用)をベースとしてきたビジネスマン人生で予期せぬ激変を体験することになる(多くの従業員には“させた”)。
横河グループ入りして見えてきたことはETSの構想と実態の違いである。はっきり言ってトップの掛け声・期待と現場の乖離である。「何を商売にするのか」が社内外で明確になっていないし、道具ややり方もそろっていない。自社製品中心から切り替えたIBM(他社買収や営業体制の大掛かりな改革)との決定的な違いはそこにあったし、SPINをグループに加えたことが上手く生かされず、足し算の段階で止まっていた。シナジー(掛け算効果)が全く出ていないのだ。否営業が重くなる(横河、SPIN、地方代理店)など、顧客から陰口が聞かれるほどだった。これでは引き算である。加えて情報システムサービス子会社が何社もあり、トータルのボリュームはあるものの必ずしも効率的な経営になっていない。そこで取り組んだのがそれらの再編成であり、2003年横河情報システムとして結実した。
ここまでを振り返ると、SPIN発足のきっかけとなる1983年の東燃テクノロジー(株)システム部創設→1985年のSPIN設立→1998年の横河電機への株式譲渡→2003年の再編成による横河情報システム(株)の誕生、と20年間にわたって情報サービス業に関わってきたことになる。これはそれまでの全ビジネスマン人生の丁度半分にあたり、しかもその変転は前半とは比べものにならぬほど激しいものであった。中でも社長としての9年は、経営環境変化への対応に追われ、辛くもあったが挑戦し甲斐のある充実した日々を過ごせた。もしSPINが誕生せず、そのまま東燃に留まっていたら定年は1999年、本社情報システム部長か小さな子会社の窓際役員くらいで引退が良いところだっただろう。この9年無くして、今の活力は維持できていなかったのではないかとさえ感じている今日この頃である。その意味でこの9年の体験は私にとってかけがえのないものであった。

何度か中断しながらSPIN経営を3部に分けて連載してきた。第1部は創設準備段階から取締役任用前までの3年間。これが20144月に始まり、28回を数えて201411月まで。第2部は1988年の取締役就任から1994年社長内定まで、201411月から20163月まで41回。社長時代の第3部が始まったのが201610月、今月はそれからちょうど一年になる。第1部が28回、第2部が41回、第3部が37回、3年半かけて計106回を数えた。
このブログ本体を立ち上げたとき、自分が関与してきた仕事(SPIN関連以外を含む)をできるだけ意思決定の場や背景中心に書き記し、それをベースに経営上の“決断”を整理し、他の事例(ビジネス以外も含め)と比較分析する目論見であった。今回で自分仕事史は終わったが、比較分析は全く手についていないし、構想さえできていいない。何から始めるか?それが次の課題である。

長いこと拙い連載にお付き合いいただき、時には励ましや助言をいただいたことに深謝いたします。


-完-