2018年7月31日火曜日

今月の本棚-120(2018年7月分)



<今月読んだ本>
1)ペンタゴンの頭脳(アニー・ジェイコブセン);太田出版
2)最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか(ジェームズ・R・チャイルズ);草思社(文庫)
3)「激動の世界をゆく」大越健介取材ノート(大越健介);小学館
4)クラシック音楽とは何か(岡田暁生);小学館
5)英文翻訳術(安西徹雄);筑摩書房(文庫)
6)工学部ヒラノ教授の研究所わたりある記(今野浩);青土社
7)監視大国アメリカ(アンドリュー・ガスリー・ファーガソン);原書房

<愚評昧説>
1)ペンタゴンの頭脳
-先見性ある多彩な軍事技術研究、インターネットはここから生まれた-

本書で取り上げられる米国防高等研究計画局(Defense Advanced Research Project Agency; DARPA;ダーパ)の前身ARPADefenseが無いだけ)を知ったのは1972年のことであった。1969年から始まった東燃グループ川崎工場の大拡張は、精製部門では15万バーレル/日の常圧蒸留装置を始め我が国最大の重質油分解装置(FCC)を含めた石油精製一貫設備が稼働、石油化学部門はこれも30万トン/年のエチレン製造装置を建設、順調に操業が行われていた。新鋭設備はすべてコンピュータ制御され、他の競合会社とやや異なっていたのは、工場長を始め保全部門、品質管理部門、動力部門それに人事を除く事務部門が石油精製・石油化学で一体化されていた点である。これでもかなり効率化が進んだ運営体系だったが、この新鋭工場の経営責任を担う工場長はさらなる経営革新を実現すべく、新たな検討組織を立ち上げた。工場長直轄のシステム開発室がそれである。私は石油精製部門の新設拡張計画に当初(1969年)から携わっていたことから、この組織の一員に係長職として関わることになる。役割は先端IT基盤技術動向調査と徹底的な自動化推進研究であった。その過程で目にしたのが“ARPANet”である。国防総省の技術関連組織とそれにつながる大学や研究機関を結んだ複雑なコンピュータネットワーク図は、一朝有事の際、相互代替機能が即時に可能になるよう構成され、当時の我が国コンピュータ利用・通信環境からは信じられないものだった。これが今世界に不可欠な“インターネットの母体”である。後年、半世紀以上前にインターネット接続・運用方式(プロトコル)を作り上げていたことを知りARPAの先見性に驚愕させられることになる。ARPAが議会の不興を買って大改革されるのが1973年末。ここでDefenseが加わる(直接軍事に寄与しない研究に関与させないため)。以後本文では副題にもあるDARPAを使う。
米国の軍事戦略は常に“科学で先をゆく”考え方に基づき、原水爆開発から始まりスターウォーズ戦略や最近の対テロ戦略までそれに注力してきている。DARPAは、初期の原水爆開発を除けば、この科学技術戦略の要となる組織である。設立は1958年、大きな動機は1957年のソ連によるスプートニク打ち上げである。それまで米国は陸海空3軍それぞれがロケット兵器の開発を行っていたが、順調とは言えなかった。国の力を集結するために、古くから在るNACA(国家航空諮問委員会)をNASAに発展させるとともに、軍事に関しては航空宇宙に限らず研究管理を一本化する組織としてDARPAが設立される。既得権を冒される統合参謀本部は真っ向から反対するが、“軍産複合体”批判の強かったアイゼンハワー大統領が「軍が反対するからこそ創る」と断を下す。ただしこの組織は軍事技術に関心の高い科学者(特に初期段階では物理学者、数学者)が主要メンバーで、かなり長いスパンの軍事技術研究開発“テーマ”を決め、実際の研究開発は自らは行わず外注する形をとる。私が1972年に知ったARPANetは大学を含むこの外注先を結ぶネットワークだった(のちに純軍事的な機能は“MILNet”として分離される)。国防総省下の組織ゆえ予算はほとんど見えないようになっている。これが問題視されるようになるのはヴェトナム戦争時、具体的な研究内容が外に漏れ出し、兵器のみならず組織そのものに疑義が抱かれるようになり、解体に等しい大改革が行われる(それでもかなり高い機密が保たれるが)。
本書の構成は5部から成る。第1部冷戦(核兵器、ロケット兵器、コンピュータ、ゲーム理論、心理作戦など)、第2部ヴェトナム戦争(ゲリラ検知センサー、初期の電子戦(C2;Command and Control)、気象兵器、枯葉剤など)、第3部戦争以外のプロジェクト(暗視技術、ステルス技術、レーザー技術、生物・化学兵器、兵士の人体改造、戦場医療、SDI(スターウォーズ)、GPS、各種シミュレーション研究など)、第4章対テロ戦争(バイオテロ対策、情報認知(情報による人物監視や危険事態の予測)、対地雷・爆発物検知システム、戦闘地域監視システムなど)、第5部未来の戦争(最新の電子戦(CISRCommand ,Control, Communication, Computers, Intelligence, Surveillance and Reconnaissance)、ドローン、各種ロボット兵器、AI・脳科学、サイバー戦など)。
本書は決して単なる新兵器の解説書や組織変遷史ではない。それぞれの研究の動機とその背景、それを推進した人物、業務推進上の問題点(国内政治・外交などを含む)、実戦での評価、民生品への技術転移状況、と多面的にDARPAの活動を分析・考察するので、研究開発や技術経営管理の視点から、示唆に富む内容が多々ある。特に、長期展望や転用の可能性追求について学ぶところが多かった。例えは、情報技術の発展にともなう戦略から戦闘レベルまでの戦い方の変化(改革、革新)、情報認知システムが警察力強化に寄与してきている例(プライバシーの問題などあるが)、GPSの利用域拡大・普及などを挙げることが出来る。また、この種の研究は自然科学が主体になりがちだが、それが使われる場に着目し、心理学や人類学、社会学の観点から研究テーマや人材が採用されるところも、この組織が長く命脈を保ち、国家戦略に重要な位置を占め続けている要因であることが理解できた。軍事科学研究を病的に嫌悪する風潮の強い我が国は、直接的な軍事力ばかりか、この面でも対米依存で行かざるを得ないのだろうか?そんな思いで本書を読み終えた。
著者は調査報道ジャーナリスト。現時点でも機密保持がうるさい分野、多くの関係者への取材や刊行物調査で、その姿を明らかにした力作である(600頁弱)。それに比べ翻訳が今一つ。取り扱う科学技術の範囲が広範なため、物理学では協力者がいるのだが、完全な誤訳と思われるものも数カ所ある。

2最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか
-広範な事故を分析した世界事故辞典、参考文献・索引無しが惜しい-

サラリーマン人生45年間の内前半20年を石油精製・石油化学工場で過ごした。危険物と高圧ガスを扱うゆえ安全には人一倍気を使う職場。本社での新入社員導入訓練の一環で川崎工場を訪問、エライさんの話を拝聴した後工場見学となり、玄関前の前庭に出た時、一人が煙草に火をつけようとした。「何をしてるか!ここは禁煙だ!」先輩社員に一喝された。プラントは遥か彼方「何故?」と一瞬思ったが、「これがこれから働く環境なのだ」と教えられた。爾来、おそらく他の仕事をする人達とは異なる、安全意識が刷り込まれていった。そんな職場でも火事や事故は何度か経験し、一度は警察・消防・県(保安部門)に事情聴取されたこともある。1月と言う空気の乾いた時期に内航タンカーにガソリンを積込み中爆発事故が起き死者が出た(人的被害の有無は厳しさに大きな差がある)。出荷制御をコンピュータで行っていたため、そのメカニズム(ソフトウェア)を問い質されたのである。幸い静電気発生を避ける流速制御を組み込んでいたため、それ以上責任を問われることはなかった(原因究明には長い時間がかかったが、船側の静電気除去が充分でなかったと結論付けられたように記憶している)。
本書の書き出しは嵐の中に消えた巨大海洋石油掘削基地(1982年カナダニューファンドランド沖;建造者は三菱重工)の話から始まり、石油や化学に関わる事故も盛り沢山だが、航空機・宇宙船、船舶・潜水艦、建造物、原子力発電、送電線保守、爆発物製造、さらには医療ミス(米国では年間10万人!の死者)まで広範な事故事例(50余ケース)を取り上げ、事故の状況を解説し、原因究明と事故回避の可能性を探る内容となっている。種類が多様であるばかりではなく、時代も19世紀末から現代(2000年)まで長期にわたり、ここから事故回避策の一般化を試みようとする。最近は我が国でも“失敗学”が一時ブームになったが、本書の狙いはそんな一過性のものに留まらない、ある種の迫力がある(文庫本だが500頁を超える)。
取り上げられる事故でよく知られたものは、古いところではノーベルに依るダイナマイトの発明、タイタニック号の沈没(リベットが規格外)、最近のものではスリーマイル島とチェルノブイリの原発事故、アポロ13号やスペースシャトル・チャレンジャーの事故、インドポバールの殺虫剤工場事故、身近なものでは東海村JCOにおける放射性物質取扱い事故、などがある(本書は2001年出版のため福島原発事故は言及されていないが、ある意味で見事に予見している;後述)。
昔のことでほとんど知られていないものにも興味深い分析が行われる。例えば、193010月にロンドンを飛び発ちフランスで墜落する巨大(全長240m)飛行船R101号事故をチャレンジャーの事故と並走させる。時間を間に合わせるために、設計者による設計変更要請を無視したことが事故発生の共通因子なのだ。
大事故は誰でも知っている。しかし、寸前にそれを免れたケースが表に出ることはまれだ。本書の優れたところに、そのような事例を掘り起こし、事故回避策を探るところがあることだ。船体強度を無視した船主の過積み命令を巧みにかわした船長(最終承認者である港湾職員の出勤までの時間稼ぎ)、ボイラー規定圧を一時無視してUボート攻撃を逃れた機関長(上限値の正しい限界を知っていた)、あるいは第二次世界大戦中の米軍爆発物処理班の行動(作業ごとに大声を出す)、フットボール場の仮設スタンド(たまたま外部に設計チェックの依頼)などがそれらだ。ここから「初期の段階で事故を未然に防いだ人が存在する事例は多い」とし、事故回避に努力を傾注することを喚起する。
事故の多くは、相互に関連しない複数のトラブルが重なって“ようやく”発生するとみなし、原因は、企画・設計、製造、運用・保守あらゆるところで生ずるが、最も注意すべきは企画・設計段階と断じる。現場体験者として全く同意である。ただし、現場運用者のミス防止について、管理者の役割について述べていることも的をついている。米原子力潜水艦生みの親、リコーヴァー中将は必ず初回試験航海には自分あるいは最上位の補佐官が同乗することを原則にしたことを援用して「その場にいるみんなと同じだけの危険に自分の身をさらすことで、注意力を高め、全員を機敏な状態に保ってくれる」と。これも全く同感である。
さて、本書の結論近くで、“欠陥のある技術が、予想もしないほど大きな自然の力に出会ったとき”の事例が語られ、最悪の事態を招く四つの要因を挙げている。①きわめて多くの人がマシンのいうなりになり、そのマシンが正常に作動すると言う前提でのみ生命が保証されるような状態に立っていること。②こうした技術のかかえる問題はきわめて深刻で、良好な条件下でさえしだいに表面にあらわれ始めること。③現場担当者から提出された問題報告書に対して管理責任者が適切な処理をしていないこと。④地震や嵐といった自然の力が到来して、見せかけの安全性をぶちこわしてしまうこと。福島原発事故は当に著者が指摘する④そのものであった。
著者は法律を専攻した技術評論家。本書はヒストリーチャンネルでシリーズ放映されほどの作品。 “科学技術事故辞典”としての活用の可能性もあるのだが、大きな欠点がある。これだけの事例紹介をしながら、引用文献・参考書籍が全く記されていないばかりか、索引もない。翻訳段階で落とされたのだろうか?

3)「激動の世界をゆく」大越健介取材ノート
-東大剛腕エースが挑んだ世界-

毎日決まって観るTVは、基本的にNHK総合のニュース(7時、12時、19時)と天気予報、それにテレビ東京のワールドビジネスサテライトだけ。これはもう30年以上続いている生活習慣と言っていい。著者の名前と顔は多分これらニュース番組の中で知ったような気がする。ただその時はニュースキャスターの一人とだけの印象で、格別関心を持つことはなかった。しかし本書の広告でフルネームを目にしたとき「ウーン、もしや?」となった。
我々の学生時代は東京六大学野球が華やかだった。そんな若き日の思いはその後も持続、今は昔日の面影もないが、やはりシーズンになるとそちらに目がいく。その面白さの一つに東大がある。他の5大学と違いスポーツ優先入学がないことで、大きなハンディキャップを負いながら頑張っている姿が何とも言えない。母校との対戦だけは別だが、1勝でもすると我がことのようにうれしい。 “大越健介”はその東大で8勝!(27敗)し、日米大学野球選手権代表にも選ばれた名投手なのである。今回は本の内容はどうでもよかった。「あの名投手がどんな仕事をしているか?」何かミーハー的覗き趣味のような興味から本書を手に取った。
先にも書いたように私はTVをほとんど観ないので知らなかったが、本書の内容はBS1で放映された同名の番組取材ノートを素に書かれたものである。番組開始時期は20161月からだが、本書に取り上げられているのは20166月から20183月までの9編、番組内容はその時々のホットな話題を現地の人へのインタヴューを中心にまとめ、これに著者の考察を加える形式と推察できる。
ジャーナリストが取材活動の実態を記したものは、新聞に関してはいくつか既に読んでいるが、放送記者のものは始めである。どのようなテーマを選ぶか、誰に会うか、その段取り・スケジュールを如何に進めるか、何を問うか、答えをどう解釈するか、情報の裏付け(あるいは反対意見聴取)をどのように行うか、テーマに対する見解(個人、局)をどうまとめるか、映像はどのようなものにするか(ここが新聞と大きく異なる)、など放映されるものの舞台裏を語り、番組では充分出せなかった著者の思いをそこに重ねる。この“裏”・“外”が読みどころ。
番組のテーマは、グローバリズムと反グローバリズム、民主主義と一党独裁、宗教問題などの核心と考えられる“壁”を探ることにあるが、全体としては格別斬新な切り口があるわけではなく、直球勝負の嫌みのないある意味いささか期待外れ)論調に終始する。面白かったのはバルト3国の現実(ロシア系国民の扱いと親欧政策)を語る中での小国のユニークな経済政策(特にIT政策)の話である。もう少し掘り下げ、展開すれば地方創生(地理的圏外の力を利用)に活用できるアイディアがいくつか感じられた。
本書の出版は本年5月、著者は4月に「サンデースポーツ」のキャスターに転じ、番組も離任とともに終わったようだ。
読んでいて鬱陶しかったのは、番組の視聴者から寄せられた、インドネシアで遭遇した娘の死(殺人)が、まえがき、あとがき、コラムと何度も援用され、チョッと辟易させられた(本書出版動機の一つなのだが、本件に関するコラムはすべて飛ばし読みした)。この執拗な思い入れ、これが著者の本質なのだろうか?
ミーハー的観点から、政治記者から発し、ワシントン支局長、「ニュースウォッチ9」と有力番組のメインキャスターを務めながら、今は「サンデースポーツ2020」のキャスターと言うのは何か腑に落ちない。そこでネットで少し調べてみた。やっぱりあった!週刊現代201544日号「左遷!さらば、NHK『ニュースウォッチ9』大越キャスター エースはなぜ飛ばされたのか」である。この記事の信ぴょう性を資するすべはないが、それによれば5年間続けてきたこの番組(と言うよりはキャスターのコメント)は安倍首相の意向にそわぬことが度々あり、それが当時のNHK会長に伝わった忖度人事と記されている。本書購読の成果は書物の内容よりこれが大きい。

4クラシック音楽とは何か
-宮廷生活のBGMが芸術に昇華するまで-

私の両親は当時(父は明治44年生。母は大正2年生)としては知的な環境の家庭に生まれ育っている。特に母方の祖父は東京育ち、大学卒業直前遺産がはいり渡米したような人で、私の記憶でもかなりモダンな雰囲気が漂う家風だった。その長女である母は、音楽好きではあったがミーちゃん(美代子)そのもので、娘時代には専ら宝塚ファンであったらしく、いい歳になっても“すみれの花咲く頃”を口ずさむほどだった。だから91歳で亡くなった葬儀の際はCDでこの曲を流した。父は田舎育ち、得意の黒田節と謡曲を唸るのみ(葬式には宝生流のそれにふさわしい曲(名前は失念)を流した)。そんなわけで子供のころクラシック音楽に触れる機会は全くなく、多分祖父や母の血なのだろうかあるいは時代の影響だろうか、中学・高校時代は欧米の軽音楽(特にジャズ)に惹かれ、音質の悪いラヂオでそれを楽しんでいた。ただ、高校入試には音楽の筆記試験があるので、有名作曲家の名前や作風・作品名あるいはオーケストラの編成などは確り記憶した。クラシック音楽に近づいたのは大学の4年時、研究室の助教授がHi-Fiに凝っており、自宅の居間に凄い装置を備えていたり、卒論同期がこれも2階に在った自室の天井に大型スピーカーを組み付けたりして、LPレコード演奏を楽しんでいるのを知ってからである。それでもHi-Fi装置は欲しいと思ったが、クラシックを聴きたいとは思わなかった。
それが激変するのは40歳代半、取引先から完成間もないサントリーホールで開かれたヘルシンキ・フィルハーモニーの演奏会のチケットをいただいてからである。初めて聞く大編成の生演奏に圧倒され、すっかり魅了されてしまった。爾来N響、ウィーンフィル、ボストンシンフォニーなど一流交響楽団の演奏会に出かけ、一昨年まで東フィル定期演奏会の会員を続けてきたが、聴力劣化はいかんともし難く、ついにライブ演奏鑑賞をあきらめることになった。
このようにさして深くもないクラシック音楽との関わりを長々と書いてきたのは本書を読みながら「こんな本に中学・高校時代出会っていたら・・・」との思いを強く持ったからである。
「クラシック音楽はなにかと敷居が高い、かなりの「通」になるには、それなりの手間と時間と、それに金がかかる」 そしてこのことは「歌舞伎やワイン それにジャズに共通することだ」と始めて、<クラシック音楽とは何か>の各論が“軽妙に”展開される。
なぜ「難しい」のか。第1に、ヨーロッパの宮廷社会にルーツを持つゆえ、いろいろしきたりがあり、一見さんには入りにくくしてある。第2、(音楽としての)構成の複雑さ;規模が大きい、ハーモニーや形式や音色が桁外れに凝っている。第3、レパートリー(食材は同じでもいろんな料理が出来る。どんな料理にするか)の問題がある;能や歌舞伎同様でこれを押さえておかないと、なかなか知識が深まらない。「そう言うことだったのか!」
「クラシック(古典)音楽とは何か」西洋の音楽史のかなり限られた時代に作られた音楽を指す;18世紀前半から20世紀初頭までに作曲されたものの一部(なぜそれ以前の古典音楽が除かれるか;1)古楽は宗教音楽主体で、これは本来人間に聴かせることを目的としていない。2)楽器がそろっていない)。「本丸中の本丸」は19世紀である。「知らなかったな~」
「クラシックは3期に分かれる」1)バロック(本格的クラシックへの導入部)期;バッハ、ヘンデル、ヴィヴァルディ。2)ウィーン古典派(クラシック確立)期;ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン。3)ロマン派(多様な個性展開)期;シューベルト、ブラームス、ワーグナー、マーラー。「なるほど」
「メインディッシュは交響曲である」 それまでの音楽は、演奏の場、聴き手、楽器が限られ、宮廷や教会活動の添え物(BGM)的性格が強かった。19世紀になると、大劇場や楽器の種類も今日に近く、作曲家が個性を発揮しフリーで活動できる機会が増えてくる。すべての環境を生かし切るのが交響曲であり、作曲者として頂点に立ったのがベートーヴェンである。「よくわかりました」
と言うように「クラッシック音楽」のイロハからの解説に“目から鱗”の連続、「もっと早くこんな本に出会いたかったな~。まあ、会えただけでも良かったとしよう」が読後感である。
本書の素となっているのは音楽誌“クラシックプレミアム(小学館)”に連載してきた音楽エッセイ。骨子となるクラシック音楽の体系的解説の他にも面白い話・役に立つ話が満載。例えは、ドイツオペラとイタリアオペラの違い、音楽の都はウィーンかベルリンか(現在のウィーンは名声と実力が乖離)、カリスマ指揮者の評判(フルトベングラー、カラヤン、バーンスタインなど)、作曲者・指揮者と演奏家の関係、厳しい聴衆の評価(特にイタリアオペラ、中でもナポリ;下手だとブーイングの嵐)、誤解されている服装(正装するのは成金趣味。ボストンシンフォニーを現地で聴いたとき、私はビジネススーツ・ネクタイで出かけたが、ほとんどの人がカジュアルな服装なのに驚いた)、交響曲の最後の終わり方(作曲家の苦労のしどころ)などなど。
著者は音楽学者(京都大学人文科学研究所教授 文学博士) 子供の時から楽器に親しみ、ドイツ(ミュンヘン)に留学経験もあって欧州音楽事情に精通、机上論でないところも本書の魅力の一つである。
私の葬儀にはジャズ(サラ・ボーン)を流してほしいと思っていたが、本書を読んでベートーヴェン(第3番英雄の葬送行進曲か第6番田園)も悪くないな~と思い始めている。

5)英文翻訳術
-初歩の文法から学ぶ翻訳専門家育成指南書、大事なのは日本語-

私の読書傾向は極端にノンフィクションに偏っている。本年今月まで読んだ本45冊の内フィクションは3冊に過ぎず、残りの42冊はノンフィクション、その14は翻訳物である。フィクションはともかく、このノンフィクションの翻訳が問題なのである。かなり出版社<安心して読めるのは:全般的に;岩波・新潮・文春・講談・中公・筑摩、得意分野を絞っている;早川(科学物もなかなか良い)・草思・みすず・白水、経済・経営では;日経新聞出版(日経BPではない。ここは玉石混交)・ダイヤモンド・東洋経済>・訳者・カスタマレヴュー等を確りチェックしているつもりでも、ときどき酷い翻訳に遭遇してしまう。例えば、有名人が監訳者として記され、複数の担当者で分担したものは先ずダメだ(監訳者は名前だけで、訳を精読していなケースがほとんど。酷い時には、それで解説まで書く)。対象言語にいくら強くても不得意分野だと、専門家の力を借りても今一つ隔靴掻痒の感が拭えないし、逆に専門分野に通じていても語学力が学部専攻程度では、お金を取る読み物として満足できるものは少ない。ポイントは“日本語表現”にある。受験・教養の“英文解釈”㊝程度ではプロとは言えない!たまたま先月本欄で紹介した「物語を忘れた外国語」の中で翻訳に触れる話があり、本書が援用されていたので「一体全体この世界はどうなっているのだろう?」と紐解くことになった。
本書の基本的立ち位置は“これから翻訳者を目指す人”の教科書である。序章は心構え、終章はまとめ、第1章から21章までが各論である。この21章から成る各論は一時期慣れ親しんだ大学受験の英文法・英文解釈の参考書のように、名詞・代名詞・形容詞・副詞・動詞(助動詞や時制を含む)・(直接、間接)話法・接続詞と続くので、その時代に戻ったような気分で読み進められる。しかし、当然だが各論の内容は受験で合格すれば良いレベルではないから、それぞれの品詞・時制・話法について同義・類似の別表現なども併記され、それぞれの違いを解説し、それを如何に適切な日本語に変えていくかを講釈する。一通り解説した後は演習、これは日本翻訳家養成センターの講義で実際に使われた例題を利用。受講生の回答を数例取り上げて評価を行い、用語の意味、文意の汲み取り方、日本語としての表現法、と厳しいチェックをいれ、これらを踏まえ最後に著者の訳を示す。本来は回答・評価を見る前に、読者自身が訳文を書下ろすことになっている(これは端折ったが)。一貫して陰に陽に語られるのは、作者の意図や文意の深読み(紙背・行間を読む)、対象とするテーマや社会に対する興味と理解、それに日本語としての自然さ・分かり易さである(主語の省略や、同じ言葉の繰り返しを避ける工夫、さらには直訳でなく積極的に意訳を行うなど)。例えば、紙背を読む例;ある青年が役所への就職斡旋を叔父に頼むと、この叔父が有力者である友人にその可能性を文書で問う。するとその友人は「役所は最近試験制度を採用しthe classも対象になったのでa gentlemanには向かい」と回答してくる。このthe classa gentleman、有産階級(の子弟)、から類推し、労働者階級出身者と訳さなければ文意は通じない、と言う具合である。この段階になると、もはや用語や文法のはるか先をゆく次元である。確かにプロならこのレベルまで達する必要があるだろうと、初歩から始まる本書のゴールが見えてくる。
終章で翻訳家にとって大切なこととして以下の3点を挙げている。1)英語を知ること;上っ面だけでなく、行間を読み、紙背に徹して読みぬく。2)日本語を習う;訳者の良し悪しはどれだけゆたかな日本語の力があるかだ。3)翻訳と言う仕事を愛すること;ある意味では創作者より多面的な能力や努力を必要とする。
翻訳物の愛読者として、いつもこんな翻訳家に巡り合えたらと思う。
著者(2008年没)は上智大学名誉教授(外国語学部)、シェークスピア研究者、劇団主宰者。

6工学部ヒラノ教授の研究所わたりある記
-体験者が明かす、文理融合研究機関としての電力中央研究所-

“電力の鬼”と言われた松永安左エ門と言う人の名前を知ったのは、確か高校時代だったように記憶する。当時(1950年代)の政財界におけるご意見番のような存在で、写真で見るとご老体だし、肩書も得体の知れない“電力中央研究所理事長”とあった(妙な名前だからこそ覚えていた)ので、「何でこんな人が?」と思ったものである。その後もこの電力中研は私にとって、全く無縁の存在、何かでこの組織名を目にすると「電力会社は競合しないので、多分技術研究機関はここにまとめられているんだろう」くらいの認識しかなかった。1980年代横須賀に住まいを持った。周辺をクルマで走り回っているとその“電力中研”が在り、大きな高圧碍子を持った受変電設備が金網フェンス越しに見え、「こんな所に在るんだ」と少し身近な存在になった。この研究所が、実は我が国初のシンクタンクであり、本部は大手町に在って、産業・エネルギー政策に関わる調査・研究機関であることを知るのは、恥ずかしながら、シリーズの初めの頃に、教授が大学院修士課程を終え就職、学者に転ずるきっかけ(海外留学)を与えてくれた存在であることを断片的に読んでからである。
本シリーズは20111月に第一冊目が刊行された。その3月に夫人の死、東日本大震災、本人の大学生活終了があり、独居老人となったヒラノ教授は本シリーズ執筆に注力、7年をかけ今年113冊目の“終活大作戦”をもって完結宣言を行った。数理工学の泰斗(審査付き論文150編!)、金融工学の先駆者、反数理アルゴリズム特許の闘士、東京工大名誉教授、OR学会会長、決して“平”教授に留まらぬ学者人生を、研究・教育活動や大学行政のようなゴールラインから、秘書や家族との関わり、さらには引退後の生活というタッチライン、時にはデッドボールラインまで、縦横に駆け回り、その面白さや悲哀を独特のユーモア(ブラックも多々交えて)で見せてくれた。学者(特に工学)の世界をこれほど多様な切り口で公開(?)した本は寡聞。“終活”の昧説を「まだまだ材料はあると思う。これで終わらず次を期待したい」と結んだ。その願いが届いたかどうか、今回本書が発刊された。その中心が冒頭述べた“電力中央研究所”なのである。
これは本書に書かれていることではないが、松永と電力中研の関係を少し調べてみて、彼が戦後何故政財界の“ご意見番”になり、電力中研の理事長に納まった経緯が見えてきた。
吉田内閣の下で電気事業再編成審議委員会委員長に就任、日本発送電の解体・民営化を推進。次いで、戦災に依る電力供給不足とその解消のために料金を大幅にアップする。これが国民の反発をまねき“電力の鬼”と呼ばれるようになる。また、電力経済・電力技術の研究を“一切の外圧に影響されることなく”効率的に実施する、シンクタンク兼研究機関設立を提言、こうして1951年に発足したのが電力中研(発足時は電力技術研究所)なのである。ここで松永が打った手が凄い。運営費用は各電力会社の売上高0.2%としたことである。
ヒラノ青年(25歳)は修士課程を終え19654月、松永理事長(90歳!)の下にあった電力中研に入所する(実質上のトップは通産省から天下った副理事長)。もともと技術研究所として生まれた組織だが、1958年大手町ビルディング内に設けられ、電力事業と社会・経済の関係を扱う“大手町研究所”が勤務先である。数理工学コースの恩師や先輩の伝手で、ここに在る計算機室で数値解法を駆使する仕事に就く約束が、諸般の事情で全く専門外の原子力発電研究室配属になることから、“人間万事塞翁が馬”の例えがぴったりな、数奇な(?)研究者人生が始まる。
メンバーの多くは立派な大学を優秀な成績卒業した人が多いのだが、職場の雰囲気は「松永翁が亡くなれば、早晩この研究所は店じまい」、次の仕事のために各自、それに備えた活動に専念している。まるで梁山泊だ。上司の室長(恩師のクラスメイト)は年一回提出の活動報告書をもって「私の原稿料(つまり年収を報告書の枚数で割る)は(当時売れっ子の)谷崎純一郎の7倍」と自嘲気味に語るような人。ヒラノ青年の下心も、ここの計算機室で数々の数値解析問題に取り組み、それを論文にして博士学位を獲得、念願である大学教授への道をつけることにある。しかし、目論見は見事に外れ、原子力発電に関する学習や関連雑務(高速増殖炉専門委員会書記)に追われたりして、悶々とした日々を過ごすことになる。この時の不本意な努力がやがてトップクラスの国際研究所勤務で大きな実りをもたらすことは知る由もない。大きな転換期がやって来るのは1968年に発足した海外留学生制度、第一候補が家庭の事情で辞退したことからヒラノ青年に回ってくる。これ以降は既刊のシリーズで詳しく語られる場面が多いので省略するが、家族の呼び寄せ、博士号取得のための期間延長、帰国後の大学転職などにおける上司・同僚の言動は、誕生の経緯や寄り合い所帯という組織の特殊な性格から、思わぬ事態が次々と生ずる。そんな場面を人事中心に語るところは初公開。留学中の苦境を救ってくれた太っ腹な経済研究所長。「二度と研究所の敷居はまたぐな!」の罵声を背に向ける後任所長、いつもの暴露調が冴えわたる。
この電力中研、松永翁亡き後電力会社の発言力が強まったものの、0.2%ルールは維持され、予算はヒラノ青年の入所した19658億円から2010年には339億円と40倍を超し、2011年の原発事故で大幅にダウンするものの、2017年度296億円まで回復。研究員は200人から700人に増え、その内300人以上が博士号保持者と言う、理化学研究所(2014年度予算834億円、研究員約3000人(ただし23年任期付き))と並ぶ、センター・オブ・エクサレンスになっていく。因みに一人当たりの研究費では理研の2倍。大学へ転じる者は多いが、ヒラノ教授の若き日とは様相は全く異なり、ここを一時の腰掛と考える者はなく、大学が研究活動のピークを越したシニア研究者の第二の職場の位置付けである。
ヒラノ教授が在籍した研究所はこの他にウィスコンシン大学数学研究センター、ウィーンに在った国際応用システム分析研究所(ここで高速増殖炉関連の数値解析でその分野の第一人者に力量を認められる)があり、タイトルの“わたりある記”の踏み石として紹介される。しかし、これらは閉鎖されり、スポンサーや役割が変わって、もはや往時の面影はない。
教授の業績として伝統的な工学研究者がまず踏み込まない領域が二つある。一つは金融工学、もう一つは数理アルゴリズム特許問題。いずれもITによって出現した、先端グローバル挑戦域である。これに取り組むことになる下地は文理融合研究所といてもいい大手町研究所で培われたのではなかろうか。そして今の時代このような場が理系文系双方に求められている。軽妙な文体の紙背にそんな気配を感じたのは勘繰り過ぎだろうか。
国策研究所の内実を盗み見るような面白さを随所で楽しめること請け合いの、暴露セミフィクションである(存命者は仮名、物故者は実名)。

7)監視大国アメリカ
-警察活動におけるビッグデータ・AI利用。内容一流、訳三流-

2007ORの歴史を学ぶためにイングランド北西部、湖水地帯の直ぐ南に接するランカスターと言う小都市に半年滞在した。繁華街はアパートから徒歩で20分程度、広場を囲んで小さな商店やレストラン、生鮮食品中心の小売店が入る2階建てのマーケット、小規模なマークス&スペンスのデパート、周辺地域を結ぶバスセンターなども在った。ここへ出かけ始めて気が付いたことに監視カメラの多いことがある。1949年英国人作家ジョージ・オーウェルが出したSF1984年」を直ぐ連想した。全体主義国家オセアニアの国民はどんなところに居ても四六時中“ビッグブラザー”に見張られているのだ。監視装置は鏡構造のTVカメラのようなものだったと記憶する。
最近犯罪が起こると監視カメラに写った映像や携帯・スマフォの交信録が活躍するケースがかなりある。どんな風体か、どこにいるか、どう動いたか、誰と会話したか、何を買ったか、などなど。これらがマイナンバーやクレジットカード、免許証情報と結びつけば、個人はほとんど丸裸。一方企業に限らず各種組織(行政を含む)はIoT環境下で集まってくるデータと蓄積された文書情報を組み合わせAI分析して、販売促進や行政サービスに活用する仕組みを構築している。思わぬ売り込みがPCやスマフォに表示されるのはその一例である。高度な利便さの裏にはそれを悪用する動きも活発化する。防止策は、各種セキュリティシステムと言うことになるが、そのためには暗証番号に留まらず、生体認証機能(指紋、声紋、虹彩、DNAなど)をどこかに登録する必要がある。もしこれらすべてが特定機関に握られたらどうなるか?ビッグブラザーの現実化ではないか?そこが警察だったら?本書の原題はThe Rise of Big data Policing:ビッグデータを利用した(新しい)警察活動の勃興。最新ITを駆使した米国における警察活動(データ駆動型警察活動)の今を明らかにし、その問題点を具体的に示し、真に市民の安寧に役立つようにするための仕組みを提言するものである(量的には“問題点”を語る部分が過半を占めるものの、邦題や帯のキャッチコピーから連想される、新技術適用を全面的に否定するような内容ではない)。IoT・ビッグデータ・AI3点セットが社会におよぼす影響事例として極めてユニーク、我が国において同種の活動を幅広く解説し、一般向けに出版されたものは皆無でなかろうか。その点で本書の訳出の意義は大きい(問題は翻訳の拙さ)。
本の内容をかいつまんで紹介すると;:①技術的な視点;入力データ(顔認証や自動車ナンバープレ-ト確認から文書情報まで)、アルゴリズム(警戒地域や人物特定の判定プロセス)、出力データ(目的・用途と運用)、②警察活動の視点;伝統的なやり方(先入観、偏見もある)との修正・整合、警察業務を超えた領域(例えば社会福祉)との関わり、警察署・警官の評価(警官個人の特質分析、点数に基づく過度な成果主義の回避)、米国警察が抱える現状の問題点、③社会的な視点;プライバシー維持と憲法問題(新しい技術についていけないのが現状)、データやアルゴリズムの検証、透明性維持と説明責任、新しい運営体制(第3者機関の必要性)。どれをとっても対応を誤れば“ビッグブラザー”社会到来の恐れがある。
全章に共通して取り上げられるのは人種差別問題。有色人種(特に黒人・ヒスパニック)は人口比率に比べ、職務質問や所持品検査を受ける頻度が高く、それだけデータの絶対量が多くなる。しかし、受けた者が違法である比率はむしろ白人の方が高い。基礎データのひずみがアルゴリズム(ここにもそのファクターが潜む)を介して、警官をさらに有色人種(あるいは居住地区)に注意を向けさせ、最後は暴動まで起こってしまう。移民・難民の溢れる世界、米国だけに限られる事象ではない。
3点セット狂信者の中には「すべてはデータが語る。もう因果関係を考えることは不要!」と叫んでいる者もいるが、因果関係こそシステムの胆と主張する著者の爪の垢でも飲ませたい。
本書は、切り口は変わるものの同じような話が繰り返し出てきてくどい感じが拭えないが、内容は3点セットとこれからの社会の在り方について、警察活動に留まらず、極めて示唆に富むものである。また引用文献リストもしっかりしており、本分野に関心のある警察・司法関係者にとっては相当価値の高い著書ではないかと推察する。
問題は翻訳の拙さである。たまたま5)で紹介した“英文翻訳術”と併読していたため、ことさらそれが目についた。例えば、“公衆衛生”なる言葉が頻繁に出てくる。普通の日本人の感覚では、保健所・伝染病などを連想させる言葉だが、ここでは“犯罪の根源を断つ活動”を意味する。適当な訳語が無ければ注を書くなり、“社会福祉活動”“防犯施策”などとした方がましである。もっと一般的な用語では“弁護する”が頻繁に出てくる。原著は一つなのだろうが、機械翻訳のように繰り返されては読みづらい。これも前後を考え“主張する”“支持する”“受け入れる”などと使い分けることで真っ当な日本文になる。意味不明でしばし考えさせられたのが“データ点”、これは“(成績評価などの)得点”のことだと何度か遭遇してやっと解った(解読である)。5)の著者安西教授を5点、偏差値が高い英文科入試合格レベルを1点とすると、本書は2点といったところである。あまりイライラさせられたので、訳者の既訳実績を調べてみたらすべて原書房のものだった(初期の2冊は監訳者付き)。「やっぱり!」。ここは翻訳書(特に軍事;私にとり、オリジナルは興味深いものが多い)中心だが、翻訳のレベルが低く何度も苦い思いをしている。「またやってしまった」「Amazonで買わず、書店で目を通して買うべきだった(そうは言っても取扱い書店が限られる)」が読後感である。
著者は、記された略歴からITに詳しい法律の専門家のようである(有色か白か、チョッと気になるところである)。

(写真はクリックすると拡大します)