2019年9月30日月曜日

今月の本棚-134(2019年9月分)



<今月読んだ本>
1)パスタぎらい(ヤマザキマリ);新潮社(文庫)
2)イギリス海軍の護衛空母(瀬名尭彦);光人社(文庫)
3)警備ビジネスで読み解く日本(田中智仁);光文社(新書)
4)数学する身体(森田眞生): 新潮社(文庫)
5DARPA秘史(シャロン・ワインバーガー);光文社
6)発想の航空史(佐貫亦男);朝日新聞

<愚評昧説>
1)パスタぎらい
-在伊30年、イタリア人家族となった女性の食べ物エッセイ-

ここ10年くらい、外出時一人で食事を摂るときはだいたいイタリアンとなる。出かける機会の多い横浜駅周辺や上大岡は行く店も何軒か決めてある。和食、中華、蕎麦屋、寿司屋は誰かと一緒の時を除き先ず無縁と言っていい。例外は、小学校から高校まで通っていた上野・御徒町界隈へ出かけた時、老舗のトンカツ屋と小学校の同級生が6代目となる蕎麦屋に入るくらいである。そんな私だから本書の題名を見て「エッ!何故?」となった。
読んでみて“嫌い”の意味が分かった。かいつまんでいえば「パスタは嫌と言うほど食べた。パスタ以外にも美味しいイタリア料理が沢山ある。それ以上に素晴らしいのは日本の食べ物」ということである。その証拠に5章構成の本書にちゃんと“それでもイタリアは美味しい”と題する1章がある。
私は全く知らなかったのだが、著者(1967年生れ)は漫画家としてかなり有名な人のようだ。代表作は「テルマエ・ロマエ」、多くの賞を受賞している。しかし、ここに至る道はかなり常人ばなれしている。その常人ばなれ人生の中で体験した食に関するあれこれをエッセイとしたのが本書である。
父は札幌交響楽団の指揮者だったが著者と妹を残して早逝、ヴィオラ奏者である母との母子家庭育ち。中学生(14歳)の時母の友人を訪ね1カ月ドイツ・フランスに滞在、帰途短期間立ち寄ったイタリアに縁が出来、高校なかば(17歳)でフィレンツェの画学校に留学する。ここでの貧乏学生時代の友人たちとの自炊で作る食事は主にパスタ、大して手の込んだものではないが、その食生活が本書の中で披歴される。著者が作るのは日本で普及しているケッチャップまみれのナポリタン、同級生の反応が面白い。学生アパートで親しくなった男(詩人)との間に子供が出来、未婚の母となる(1993年)。この頃本格的な絵画から漫画に転じ、1996年イタリア生活を描いたエッセイ漫画が注目される。一旦帰国し北海道でイタリア語教師など務め、再度渡伊し14歳年下の男性(文学者)と正式に結婚。彼の両親と北イタリアで同居。この時代のイタリア庶民の食生活、食材、調理法、調味料(バルサミコ、オリーブオイル)などいろいろな視点から取り上げられる。義母は決して料理好きでもないしまして上手いわけでもないが、それなりに自分の流儀を持っている。いわゆるおふくろの味である。ときに「何故私の作ったものをしっかり食べないの?!」とやられたり、豚一頭を屠ってソーセージ作りを手伝わされたりする。
夫の研究のためにシリアを中心とした中東、ポルトガル、ドイツ、米国(シカゴ)などにも長期滞在し、ここでも多様な食生活を体験する。
結論は「日本ほどおいしい食べ物に満ちた国はない」と言うことだが、これは本格的なイタリア料理ばかりではなく、コンビニのスナック菓子(例えば、ポテトチップスの多様な味付け)やパン(仏・独は美味しいが伊はダメ。日本の菓子パンは特に優れもの)などごく身近なものも含めた総論としてである。
読んでいて感じたのは、この日本食礼賛は、本人は必ずしも自覚しているわけではないが、ややバイアスがかかっている感じがする。17歳で渡伊し極貧生活を長期に強いられ、日本食(食材を含む)への渇望が極限まで達した結果としての評価ではないか、と。いずれにしても読みながら口の中に唾が自然に満ちてくる美味しい内容であった。

2)イギリス海軍の護衛空母
Uボートから英国の生命線を守った裏方。貨物船改造空母の全貌-

私の書架に“The Bomber Command War Diaries(爆撃機軍団戦闘日誌)”というタイトルの800頁を超える分厚い本がある。内容は英国がドイツに宣戦布告した193993日から終戦の194558日までの爆撃機軍団の出撃記録を淡々としかし正確に記録した内容である。こんな本が一般向け出版社であるペンギン社から出ているのは、いかにも「道楽と戦争だけは真剣にやる」英国らしい。一気に読むような本ではないが、戦記や戦史の内容を確かめるためには、これほど役立つ本はない。
英国の死命を制するのはシーレーンである。従って、地上戦は19405月の西方電撃戦まで“まやかしの戦争”という状態であったが、Uボートと輸送船団の戦いは開戦と同時に始まり、中立国船を含む輸送船の損害は一時期進水数を上回るところまで達する。英国も戦前からこの事態を予想はしていたが、第一次世界大戦終結後の経済疲弊・厭戦感もあり、これから10年間大戦争は起きないとして希望的な「10年ルール」で国防予算を大幅に削減、護衛艦などの建造を絞り込んでいたので直ぐには対応できず、トロール船やキャッチャーボートを改造したり、米国から旧式駆逐艦を借りたりして、それに対応せざるを得なかった。Uボートの発見・攻撃には航空機が最も有効なのだが英国と北米間には長距離多発機でカバーできないギャップが生ずる。Uボートはここを狙って船団に襲い掛かる群狼作戦を仕掛けてくる。また、英本土とジブラルタルを結ぶ航路にはフランス南西部に基地を置くドイツのフォッケウルフFw2004発)長距離哨戒爆撃機の攻撃圏内にある。さらに、英本土とソ連北極圏のムルマンスクやアルハンゲリスク間はノルウェー北部に基地を置くドイツ空軍の制空権下にある。これには正規空母の艦載機で対応したいが、その余裕は全くない。
当初は苦肉の策と作として、商船にカタパルトを応急的に装備、そこからハリケーン戦闘機を射出して攻撃機を追い払うCAMCatapult Armed Marchant Ships)船を船団護衛に投入している。この場合着艦は出来ないので、最寄りに陸上基地が無い場合、船団の中に着水、機体は捨てて、パイロットだけ救助すると言う、特攻隊もどきの作戦を行っていた。この急場しのぎの対応の後に出てくるのが貨物船(主に米国の戦時標準貨物船;リバティ船)やタンカーを改造し全通甲板を設け、攻撃機・戦闘機を数機~十数機程度搭載した護衛空母である。英海軍は各級併せて40隻弱、米海軍は約60隻(大半は太平洋戦域で補助的な役割)を就役させて、大西洋域でUボートやドイツ空軍から船団を守ることに大いに寄与することになる。因みに日本海軍も商船改造の空母を多く誕生させているが、米英の護衛空母と異なり、スピードのある大型客船を正規空母に改造している。
本書は冒頭紹介の英爆撃機軍団戦闘日誌に近い形で、すべての英護衛空母を誕生から終末(戦後貨物船として復元され最後は解体されたものが多い)まで、着工/竣工年次・諸元・性能・搭載機・主たる戦闘記録・写真・図面(一部)などを記載した一種のデータブックで、読み物としての面白味は全くないが、資料集としては価値ある一冊。英国の同種のものの翻訳ではないかと参考文献をチェックしてみたが、そのものずばりの原本はなかった。それにしてもよく日本人がこんなものをまとめたものだ。著者は私より年長のアマチュア艦船研究者のようである。

3)警備ビジネスで読み解く日本
1964年のオリンピックで開花した警備ビジネスに忍び寄る少子高齢化、2020年はどうなるか?-

第一次石油危機(1973年)あたりまで、事業所の入退管理はオフィスでは総務課員の女性が担当、危険物・可燃物を扱う工場には消防保安課があり、そこに属する守衛がその任に当たっていた。つまり全員社員だったわけである。これは我が社に限らず、他社も概ね同様だった。我が社の場合これが変わるのは、奄美大島に新工場建設が計画され、土地買収の話がある程度具体化した際、反対運動が起こって本社にその活動家が頻繁に訪れるようになってからである。外部の警備会社社員が受付の脇に控えるようになったのである。そして石油危機の後工場新設計画が白紙に戻されても、警備会社との関係は維持されOBや工場関係者も一応彼らのチェックを受けるようになった。工場でも事情は少しずつ変化してきており、社員として自衛官や警察のOBが採用されたり、外部委託が行われるようになったりしてきている。この傾向は今や社会全体の流れで、セキュリティ・セイフティ管理全般に厳しさを増す方向にある。逆に見れば社会のリスクが増してきているということでもある。
本書はこの警備ビジネスの業務概要、歴史、行政・政治との関係、法令、経営状況、問題点を概説する内容で、全体としては警備ビジネス入門と言ったところだが、少子高齢化社会との関わりは“今そこに在る危機”としてかなり著者独自の問題意識を持ち、それに向けた調査分析を行っていて、その内容を本書の中で披歴するところに独自性がある。
先ず業務概要;法律上警備業務の種類は4種;1号警備業務は建物など施設の巡回・常駐警備、空港保安警備、機械(アラームなど)に依る警備;2号警備業務は交通誘導やイベント時の雑踏整理;3号警備業務は貴重品・現金・核物質などの輸送管理;4号警備業務は警備対象者からの緊急通報への対応や特定の人物(要人から子供まで)警護。それぞれに今では法令があり、取得資格で担当できる業務が決まる(企業も個人も複数取得可)。
歴史;これがなかなか面白い。始まりは用心棒やある種の暴力集団(スト破りや企業活動抗議者排除)。刑法・民法はあっても業界を縛る法律が無かったし、主管官庁も定かでなく、いずれの官庁も関与することに積極的では無かったので、誰でもビジネスに参入出来、何でもありだった。日本警備保障(セコム)を起業した飯田氏は父親から「幡随院長兵衛(町奴)みたいなことはやめておけ!」と勘当されたと言う。また主管官庁が国家公安委員会に落ち着くまでには政治行政上多くの紆余曲折があった。
法令;やっと業法が出来ても運用上の問題が種々生じる。特に問題なのは権利と義務。警察官に近いことからその権限の一部が移譲されてもいいはずだが、現時点では万引きの現行犯捕縛くらいしか許されていない(基本的には警察官を呼ぶ)。駐車違反取締者はそれに関しては警察官と同等の権利が与えられているのに。
経営に関しては問題山積み;在職期間の短さ、業者の多さ(総数;約1万社)と圧倒的な零細・中小の多さ(突出する2社の売上(2017年);SECOM3824億円、ALSOK2955億円、他は大手4社でも3桁)、求人難、高齢化、業者の多さがもたらす薄給、などなど。
著者が問題にするのは本来屈強な若者が担うべき仕事が急速に高齢化し、警備力が年々低下してきている点である。だからと言って零細企業の多いことから初期投資のかさむ機械化(AI、ロボット)などで代替することは難しく、このままで進めば警備業は絶滅危惧業種と警鐘を鳴らす。1964年の東京オリンピックが警備ビジネス飛躍の機会だったが来年のオリピックはまともな警備が行えるのだろうか?と。
実はこのような問題は警備ビジネスに限らずいたるところに現れている。そこからタイトルを単なる“警備ビジネス”にとどめず“読み解く日本”を加えたわけである。全く知らなかった世界だけに学ぶことの多いことと少子高齢化の新たな課題を知ることが出来、深みはないが読んだだけのことはあった。
著者は学生時代にアルバイトとでこの業界と関わり、大学院で社会学(犯罪社会学専攻)を研究した社会学博士。現在仙台大学准教授。

4)数学する身体
-数の発生から説き起こす数学発展史。画期に焦点を合わせ通史でない点が特徴-

小中学生の頃は数学が最も得意だったし、好きな科目だった。他の教科と違い爽やかな“分かった感”を体験できたからだ。この感じが崩れ始めるのは大学受験数学あたりからである。なんとかそれをクリアーした大学の教養科目の数学は受験数学と変わりはないもののあまりひねった問題は無かったので優が取れたが、専門科目へ進むと偏微分や集合論で散々苦労することになる。それらを基礎にする機械工学科の基本;熱力学・流体力学・材料力学には必須の数学だが悪戦苦闘した。「制御工学を専攻したのなら、さぞかし数学が出来たんでしょうね」などと言われると「それは大いなる誤解です」と答えたくなる。制御工学を選んだのは教授の教育方法が少し変わっていて、それに惹かれたからに過ぎない。しかし、苦労はしたものの数学に対する興味は今も持続する。ただし、理論ではなく、数学者の伝記・評伝、数学に関する歴史あるいはそれをテーマにするエッセイなどである。本書は理論・数式無縁の数学史エッセイである。読むことになった動機は本欄4月紹介の同じ著者による「数学する人生 岡潔」が面白かったからである。
何故“数”が発生したのか?当然実用上必要だったからである。どのような数え方をしたのか?指折り数えるだけでは足の指を入れても20まで。パプアニューギニアとオーストラリア北端の間に在るトレス海峡諸島の原住民は、肩やひじ、ひざ、かかとなどを含め33まで身体を使って数える。人間がものを見て直感的に正確な数を把握できるのはいくつまでか?4までである。その証拠に、楔形文字、ローマ数字、アラビア数字、漢数字、インド数字、マヤ数字も、表現法は異なるものの4までは同じ発想で誰でも直ぐそれと分かる。その中からアラビア数字が普及していくのは計算に便利だったからである。
古代文明の数字・数学は政治や宗教と深くかかわっていた。しかし、ギリシャの数学はこれとは全く離れ、幾何学のように結果として実用に利するところがあっても、“証明”をすることに主眼が置かれる(実用が目的ではない)。つまり、「定義、公理、命題の連鎖」という形をとる。これは外に向かう(実用)数学ではなく内に向かう数学(数学のための数学)である。ある意味先端現代数学につながる(現代純粋数学の主戦場は、実用とは完全に反対方向にある)。
これに対してインドの数学は実用計算を始めから目指しており、特に重要なことは“記号”を考え出したことである。ここから代数が発し、やがて西欧近代数学発展につながり、そこで数学世界全体(代数から幾何学まで)の普遍・統一性を追究するデカルトの「方法序説」が生まれ、さらにニュートンの微積分学、ライプニッツ、ベルヌーイ、オイラーらの関数論へと発展、近代数学として開花する。20世紀に入る少し前から、再び数学は実用を離れ内に向かい、ヒルベルトなどが数学そのものの概念定義を巡る議論を始めて、これが現代数学の中心的なテーマになっていく。ここら辺の話はなかなか理解し難いところだが、それに続く数学における認知や心、情緒との関係づけに必要な過程として取り上げられる。
後半は「万能チューリング機械」の研究と実用化(暗号解読など)を解説してAIと“脳”さらには“心”の関係、あるいは岡潔の数学上の発想における“情緒”の概念を著者なりに考察し、指から始まった“数学する身体”を心と脳に落とし込む。
今までも数学発展史は何冊か読んできたが、どちらかと言う連続的な通史としての印象が強かった。しかし、本書は変革に力点を置いており、その点で「そう言われて見れば確かに」と覚醒されるところが多々あった。そのあたりが小林秀雄賞受賞の理由なのであろう。ただ、相当な紙数が割かれるチューリングに関する話は、既に知るところがほとんどで、最近話題のAIとの関連付けも目新しい感じはしなかった。
著者は1985年生まれの在野の数学者。幼少時米国在住、東大文二在籍中シリコンヴァレーのヴェンチャー企業でプログラマーとして働き、帰国後理学部数学科に転科して卒業、という変わった経歴をもつ。

5DARPA秘史
-インターネット、GPS、ドローンを生み出した国防総省高等研究計画局興亡史-

1957104日ソ連が打ち上げた世界初の人工衛星スプートニクが成功した。翌年大学に入学すると「もともとは文系志願だったがあれで理系に宗旨替えした」と入学動機を語った友人が数人いた。それくらい日本の若者にもインパクトのある出来事だった。新兵器開発で最先端を行っていると信じて疑わなかった米国が受けた衝撃は、国全体にヒステリー現象を生じさせ“スプートニク・ショック”という言葉が今に残るほどだった。
米国はこのとき、ドイツでV2ロケット開発に携わったフォン・ブラウンらを終戦直後に拘束、米国に連行してロケット兵器開発に当たらせていたのだが、ソ連も同様。米国が3軍(陸・海・空)個別に計画を進めたのに対し、一本化してトップダウンで政策に取り組んだソ連に先を越されたわけである。ショックを受けた米国が統一した宇宙兵器開発を狙って19582月に創設したのが本書のテーマとなる国防長官直属の高等研究計画局(Defense Advanced Research Projects AgencyDARPA;ダーパ;発足時はDefenseかなくARPA)である。この組織のポイントはProjects(計画)と言う言葉にある。つまり、自身は研究を直接行うわけではなく、大学や企業あるいは研究所、シンクタンクに仕事を外注、場合によってヴェンチャーキャピタルのような役割を果たして研究プロジェクトを遂行する機関である。従って、本書からうかがえる規模は約150人といったところである(ほとんどがプロジェクト毎の契約職員)。
本書は、ARPAとして発足した時から直近の2016年までの、目玉となる研究課題とその顛末、組織内の人間関係、議会やホワイトハウスとの関係、国防総省他部門(特に研究技術局や3軍の研究機関)との関係、戦場でのプロジェクト推進と成果物の適用状況・評価、さらに研究テーマや内容に関するメディアや世論・社会の動きを追い、その時代のDARPAの活動紹介・評価を行うものである。著者は本書出版まで10年をかけて、関係者へのインタビューや資料調査を行い、綿密な裏付けをとり完成させた労作である。
組織の存亡にかかわるような大きなテーマや話題性に富むプロジェクトを凡その時代順に例記すると、弾道ミサイル;宇宙開発と兵器の二兎を追うことになりNASA主管になってしまう。ベトナム戦争支援;戦略村構想への取り組みは社会科学へ進出の機会となるが、失敗から社会科学関連研究はその後行われなくなる。枯葉剤・除草剤の研究。いずれも反戦ムードの高まりの中でDARPAは悪役にされる。この時代既に無人機の開発に着手、現代のドローンにつながっている。インターネット;集中情報管理システムの脆弱性を克服するための分散ネットワークシステム研究がインターネット(当初はARPANET)に発展していく。SDI計画;DARPAは実現不可能とあらかじめホワイトハウスに進言していたがレーガン大統領がぶち上げてしまう。ステルス軍用機;紆余曲折するが成功。テロ対策(特に、時期や実行犯の推定);ビッグデータの活用を密かに進めるがプライヴァシー問題でとん挫。直近の問題。誰でも簡単に作れる即席爆発装置(IED)対応策;被害がアフガニスタン、イラクで多発しているが、有効な手段は見つかっていない。
珍妙な研究の数々。超能力研究;あのユリ・ゲラーの面接を行ったがインチキからくりがバレ、とりやめとなる。微弱電磁波に依るマインドコントロール研究;猿を使って実験するが失敗(担当者は成功と言うが)。シミュレーションによる麻薬戦争対策(中南米からの持ち込み);麻薬戦争に勝てないことが判明する。
日本を仮想敵国とした研究。1980年代(つまりJapan as No.1の時代)、予算獲得のために日本の“第五世代コンピュータ”開発プロジェクト対応策を打ち上げ、資金調達に成功する。
著者の総括。全体として他の研究機関にくらべ(長期的に見て)成功したものが多く、その最大要因は、典型的は官僚主義や科学的な査読と言う制約に邪魔されることなくアメリカの重大な国家保障問題に関わることが出来たと言う点にある。しかし、今日のDARPAは、その重要性を失う危機に瀕し、驚きのイノベーションを次々と生み出している一方で、軍の戦い方にも国民の生き方にもほとんど影響をおよぼしていない。それはDARPAが技術的な問題だけに特化し過ぎいるから、と結ぶ。
とにかく初代局長から現(2017年)局長まで故人を除きすべてにインタビューし、この他にも関係者多数(プロジェクトリーダーや、局外のプロジェクト参加者など)から話を聞きだし、最近機密解除になった公文書なども参照して、個々のプロジェクトを詳しく調査・検証しているので、内容の信頼性が高く感じられる。また、政治任用や個人的な関係で人事が決まるので、人が変われば仕事のやり方もドラスティックに変わるところが随所にあり、そのダイナミックな変化が「やはりアメリカは違うな~」と強く印象づけられた。こういう組織を日本の官の中に作ることは、全く不可能だろう(政治任用、個人ネットワークの負の部分もあるので、日本方式がすべて悪いと言うことではないが・・・)。
著者(女性)は国防・諜報・軍事科学を専門とするジャーナリスト。

6)発想の航空史
-エッセイストクラブ賞受賞の航空学者が独特の口調で語る、ライト兄弟前からステルス機に至る航空100年史-

1951年(昭和26年)9月サンフランシスコ平和条約が締結され独立を回復、それまで禁じられていた空への活動が許される。「世界の航空機」「航空情報」などの雑誌が出版されるのはそんな時期であった。中学生になったばかりの私に新刊を買う小遣いは無かったが古本は20~30円で買えたからよく求め何冊かは今でも保存してある。そこで知ったのが著者の名前である。社会人になり「航空情報」を定期購読するようになるとそこに連載されていた“晴空乱流”というコラム欄に時々エッセイが掲載されておりすっかりファンになった。1969年「引力とのたたかい?とぶ」で日本エッセイストクラブ賞を受賞するほどの筆力を持つ航空学者は、飛行機は無論、山歩き、道具など様々なジャンルの題材で、平易な技術解説書、文明・文化論、紀行文、随筆をものにしており、適度に辛口ではあるが何かほのぼのとした読後感の残るその作風に惹かれ、遺作に違いない「飛行機のスタイリング」(1996年刊;1997年没)まで、ごく初期の作品と興味のないカメラを除き、20冊以上が手元にある。本書はその内の1冊(1995年刊)、原稿書きの材料を得るため書架から引き出すことになった。
取り上げられる航空機は、ライトフライヤー以前の飛べなかった飛行機から1990年代のステルス戦闘機まで(正確に数えていないが)約2百機。これをライト兄弟から第一次世界大戦、過渡期の1920年代、第二次世界大戦、第二次世界大戦後現在まで、の4部で構成。最後に全体を通して名機100機を選び再度それぞれの講評を行う。
この本のポイントは“発想”。従って設計者・開発者・製作者が機体とともに多数取り上げられ、航空機発展の画期となる技術と各人の役割・貢献度が技術ばかりでなく、言動、人柄、発注者(軍など)や製造会社の対応面からも考察される。また、成功者と失敗者の対比や彼らのその後も取り上げられ、著者の独断と偏見(やや親独・反米英)はあるものの、人間性や国民性を垣間できるところも面白い。
例えばライト兄弟。彼らの航空界への貢献で最も注目すべきは、翼端をひねって旋回する技術を発明発展させたところにある(現代の航空機の補助翼の働きと同じ)。それまでの開発者は船同様方向舵だけで向きを変えようとしたのでうまくいかなかった。船とはスピードが違うからである(船を高速で急回頭させると反対側に転覆してしまう)。この翼端をひねるのは鳥と同じなのであるが、他の開発者は鳥の羽ばたきをまねることしか観察せず、飛行に成功しない。これに対し、ライト兄弟は羽根の端や尾のひねりからアイディアを得て翼端ひねりを完成させる。しかし、鳥の飛翔技術は発明ではなく原理である。従って特許の対象にはならないのだが、当時の米特許審査官がそれに気がつかず、この翼端ひねりに特許を与えてしまう。ライト兄弟はこの特許を拡大解釈し、ライバルたちに特許訴訟で挑み、後続する米国の飛行機開発者たちの活動を妨害する。そのため、航空機開発国として先陣を切ったにもかかわらず、米国の航空機は第一次世界大戦後まで欧州の後塵を拝することになる。そして特許にしがみつき、改善努力に乏しいライト航空機会社は倒産してしまう。
著者の考察は技術面ばかりではなくスタイリングにもおよぶ。流麗なロッキード・コンステレーション旅客機や事故は起こしたものの世界初のジェット旅客機コメットの美しさを絶賛、一方で、競合審査に敗れた巨人軍用輸送機がジャンボ旅客機として復活したいきさつを語り、実用性が高く就航数は多いものの、スタイリングに関して難色を示す。
零戦は堀越二郎と言う優れた設計者によって生み出された傑作機だが、後継機烈風の開発が上手く進まず、ヘルキャットを始めとする米艦載機に太刀打ちできなくなる。これは海軍が烈風用エンジンの選択に誤ったことや三菱航空機が堀越を局地戦闘機雷電の主任技師として指名し、併せて烈風開発に当たらせる無理な人事(加えて堀越は体調を崩していた)を行ったことにあったと当時の経営層・軍を痛烈に批判する。雷電開発に当たらせず烈風に専念させるべきだったと。
著者はプロペラ設計の専門家として太平洋戦争前にドイツに渡り、彼の地からのプロペラ技術導入に関わる。その交渉が長引き1943年独ソ戦がドイツの退勢に転じ、米英戦略爆撃機によるベルリン空襲が激しくなってから、トルコ(中立国)経由でソ連に入りシベリア鉄道で帰国すると言う特異な体験を持つ。従って、ドイツの航空技術に精通しているばかりでなく、敵対する英国の当時の航空情報もドイツで実見・入手しているので、それらに基づく第二次世界大戦機に関する評価や日本の航空技術との対比(特に材料や生産技術、工作機械の後進性)も随所に見られ、単なるエッセイを超えた技術論にも興味を惹かれる話題満載。楽しくかつ勉強になる作品であった。

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2019年9月28日土曜日

道北ドライブ2000km-20



80yrs Memorial Run to The Northernmost

20.彌彦神社
新潟フェリー港から自宅までは約400km。直帰すれば5時間余りで着いてしまう。これでは時間がもったいないと考え、あまり来ることのない新潟なので最後の訪問先として彌彦神社を選んでおいた。ここで少し時間を潰せば、今日一日が有効に使える。フェリー港を出発したのは9時半、北陸自動車道への道は市内中心部を抜けるのだが、仕事が始まる時間帯と言うこともありかなり渋滞していた。新潟中央ICで北陸道に入り、巻潟東ICで降り、あとは一般道で彌彦神社に至る。1110分神社駐車場に到着。平日の午前と言うこともあり空いている。
実はここをお参りしようと思った動機は、1956年元旦の彌彦神社事件の記憶が鮮明に残っていたからである。越後国一の宮としての歴史があり、源義家・義経・上杉謙信らと縁があるこの神社は人気スポット、大みそかから元旦かけて三万人の参拝客が押し掛け、階段の玉垣が崩れ、将棋倒しになった人々が大勢(134人)亡くなり、大変なニュースになったのだ。毎年ゆく年くる年で紹介されるたびに、このことを思い出すので、この機会にと訪問を決めた次第である。
しかし、鬱蒼たる高い木々に囲まれたそこを鳥居から本殿まで歩いてみると、階段は数段から十数段で傾斜も決して急ではなく、過去の惨事がよみがえるような造りはどこにも感じられない。あとで分かったことだが、あの事件後参道は大改造された結果なのだ。いくつもの山門をくぐり、本殿で帰路の無事を祈る。晴天ならケーブルカーで弥彦山頂まで上がってみることも考えていたが生憎曇天、11時半そこを後にした。
神社から一般道で今度は北陸道の三条燕ICに出て北陸道を南下、長岡JCTで関越道に乗り換える。あとはひたすら都心を目指すだけとなると気持ちもゆとりが出てくるのだが、先の天候が気になる空模様になってくる。越後川口SA1210分到着、ここで昼食とする。このあとの休憩は谷川PAと考えていたが六日町辺りからパラパラきだし、降ったりやんだりが続いて谷川岳周辺は雲の中。結局赤城PAまで休まず走る。降るときは土砂降りだが直ぐ青空が顔を見せるような天気で結構神経を使う。関越道最後の一休みは高坂SA。ここで夕食用の合鴨弁当を求める。
3時に高坂SA出発。天候は完全に雨。これから先は鶴ヶ島JCTで圏央道に入り海老名JCTで東名道に出て保土ヶ谷BP→横々路で自宅に戻るつもりだった。彌彦神社を出発する時“お帰り”でナビをセットした時もそのようなルート表示だったつもりだったが鶴ヶ島JCTの手前でナビが「えびな方面直進です」と言うので「変だな~」と思ったがその指示に従った。補聴器をつけるようになってから聴き取り能力が低下、音量は充分だが正確さを欠くようになった。ナビが言ったのは「えびな」ではなく「ねりま」だったのである。結局練馬IC→環八→第3京浜→保土ヶ谷BSと走ることになり、環八の渋滞でずいぶん時間を食う結果になった。それでも515分自宅に無事着いたから、圏央道経由より距離は短かったのかもしれない。
トリップメーターの数字は710日自宅を出てから2012km、この間の給油量は181.4ℓ、燃費は11.1km/ℓとなり、極めて良好な値だ。ガソリン代総計26,844円、自動車道通行料金総額20170円。
とにかく北海道の走りは素晴らしく、このクルマの持ち味と本州・四国・九州には無い景観を堪能した。もっと日にちをかけても、もうこんな長距離ドライブは出来ないかも知れない。

写真;彌彦神社4

(写真はクリックすると拡大します)

長いこと道北ドライブ記を閲覧いただき、有難うございました。

-完-

2019年9月26日木曜日

道北ドライブ2000km-19



80yrs Memorial Run to The Northernmost

19.フェリーらべんだあ
乗船のラインに並んでいると年代物(1960年代)のマツダコスモスポーツ(ロータリーエンジン車)が何台もやってきた。どうやらグループでツアーをしてきたようだ。北海道をクラシックスポーツカーでツーリングする。良い趣味だ。
フェリー“らべんだあ”は総トン数;14千トン、全長;約200m、速力;25ノット、トラックを主体に200台、人員600人を運ぶ堂々たる大型船だ。私はクルージングの経験はないが、宿泊を伴う大型フェリーは何度か利用している。いずれも古さを感じることは無かったが、この船は2017年就航と言うこともあり飛び切り新しい。
乗り込む前に交通整理の担当者が地上高を測り「かなり凸凹しているのでゆっくり行ってください」との注意がある。3時半頃所定の位置に停めて、フロントのある5Fでチェックインを行い、さらに1階上の船室に向かう。客室は623号室、客室配置としては最上階だ。部屋は左舷側ツィンベッドルームで、往きと違い少し狭いが専用デッキがあるのが良い。やがて別乗船だった家人もやって来る。
5時出港まで1時間くらいあるのでしばし休憩。これからしばらく運転しなくていいと思うと何となくホッとする。それくらい今回は走り回ったと言うことである。出港時間近くになったのでデッキに出てみると、雲間から夕日が差してきている。上手くすると7時頃どこかで落日が見えるはずである。
定刻小樽フェリー港を出港した船は先ず北西に進路を採り積丹半島を左舷に見ながら徐々に半島を反時計方向に迂回して行く。既に出港時からレストランがオープンしているので、少しいつもの夕食時間よりは早いが出かけてみる。
今まで乗船したフェリーの食事はすべて同一価格のバイキング方式だったが、ここは好きな料理を選んで最後に精算するビュッフェ方式。無論渇望する生ビールもある。団体客が乗船していないこともあるのだろう、席も余裕があって直ぐに西の海側に確保できた。太陽はたなびく雲に隠れているものの、切れ目から陽光が差し、夕日の沈むところをじっくり眺めることが期待できる。
食事を終えて後甲板に出てみる。左舷後方には二日目訪れた神威岬が遠望でき、西側には雲の下から、赤い太陽が顔を出し始めている。先へ延びる雲は薄くなっているので日本海に沈むそれを確実に眼とカメラに収められそうだ。まだ時間はあるがデッキの好位置でそれを待つ。誰も考えることは同じ、続々と乗船客が甲板に出てくる。カップルあり、小グループあり、独り者あり、我々のような老齢者夫婦あり。
ついに雲が切れ赤く丸い火の玉が現れる。皆の姿が西日に神々しく輝き、感動の声をあげる者さえいる。完全に太陽が没するのはそれから10分くらいだったろうか。とにかく何度もシャッターを切った。
部屋に戻るともう薄暗くなった海上に明かりがちらほら見え隠れする。漁火なのかそれとも青森沿岸の街明かりだろうか。さらに暗くなってもそんな明かりが時々現れる。
往路の船では海上は穏やかだったが、寝ていて揺れをかなり感じたが、今回はそんなことは微塵もなく、帰路と言う安堵感もあって熟睡する。
船室は東側に在る。翌朝部屋が明るくなったのでカーテンを開くと丁度日の出の時刻、遠い島影(多分粟島)の一部を浮かび上がらせながら、昨夕沈んだ太陽がこちら側から顔を出し、みるみる周辺が明るくなっていく。こんな時「船旅も良いな~」としみじみ感じる。9時丁度“らべんだあ”は新潟港に接岸した。

写真は上から;コスモ、らべんだあ、小樽出港、神威岬、夕日3葉、朝日

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(次回;弥彦神社)

2019年9月19日木曜日

道北ドライブ2000km-18



80yrs Memorial Run to The Northernmost

18.富良野経由小樽へ
715日(月)いよいよ北海道も今日一日、夕刻には小樽からフェリーで新潟に向かう。ホテルを発ったのは8時半、天候は薄日、晴れていれば南に十勝岳が見えるはずだが上の方は完全に雲の中。先ず向かったのはその麓の展望台“望岳台”、15分ほどで到着した。しかし早朝だと言うのに既に駐車場は満車、どうもこの3連休で登山をする人たちの車で占拠されてしまったようだ。仕方なく路肩駐車して展望地点を目指す。足元は赤っぽい小石や砂でいかにも火山地帯であることが一目瞭然だ。数人のグループで山へ向かう人が多く、この展望地点だけ立ち寄る観光客はほとんど見かけない。雲が目前に迫っていることもあって、写真撮影を済ませて早々に駐車場に付帯するビジターセンターに立ち寄ってみるが、まだ早いからなのか無人。カウンターに登山者名簿が置かれているだけだった。センターの屋上に上がり北西方面に広がるはずの富良野盆地に目を向けてみたが、そこもうすい靄に覆われ眺望がきかない。
次に向かったのは、ファーム富田のラベンダー・イースト。これは有名なファーム富田の遥か東側に在るラベンダーのみのお花畑で7月から期間限定で開園されている。2011年本家のファーム富田は観ているので今回はここにしてみた。出発前から分かっていたのだが、連絡先の住所や電話番号は本家の方しか記載されていない。いろいろ調べて住所だけは分かったので、ナビにそれをセットして目指した。しかし着いた所はやや大きめの農家と言った風情。どうやらファームを管理する作業場のようで、ラベンダー畑は少し離れた所であることが判明、教えられた通りに進んでいくとやっと観光用駐車場に到着することができた。時刻は10時少し前。時々太陽が顔を出すようになり、明るい空の下で丁度見ごろの広々したラベンダー畑を堪能することが出来た。
別に駐車料金や入場料を取られるわけでもなく、チョッとした土産物ショップが付帯するだけ。ラベンダーの匂い袋を数個求め、見学の謝礼とした。
富良野で給油。ここから小樽へ向かう場合、一旦国道38号線を北西に進み芦別経由滝川ICで道央道を走る方が時間は早いのだが、幹線道路であまり面白そうではない。そこで道道135号線から国道452号線(夕張国道)に入り道央道三笠ICへ出る南西へ向かうルートを採ることにした。しかし、この道は思っていたより交通量が多く、札幌方面と富良野・美瑛を結ぶメインルートの感があった。また期待していた山岳ドライブも一気にトンネルで抜けてしまい、道内ファイナルランとしては盛り上がりを欠く結果になった。
三笠ICで道央道に入り岩見沢SAに丁度12時に到着、ここで昼食。イングリッシュガーデン風の小公園が北海道ガーデン街道の締めくくりをしてくれる。
あとは日本中どことも変わらない自動車専用道、道央道→札幌自動車とつなぎ小樽ICで降り、ガソリンの余裕は充分だが、明日の新潟弥彦神社観光に備え給油を行い、小樽運河倉庫地帯の一画に駐車ししばし運河地帯の観光を行った。とにかく大変な人出、過去二度ここを訪れているが、賑わいは遥かに今の方があり、特に外国人が多いことが当時と全く異なる。
フェリーの出港時刻は5時だが1時間半前にチェックインを求められているので、運河観光の後はフェリーターミナルの直行、3時には手続きを終わり。乗船ラインに並ぶ。往きの太平洋フェリーにくらべ乗用車・トラックとも数が少ないのは連休だからなのだろうか?それとも日本海側はいつもこんなものなのだろうか?


写真上から;望岳台、ラベンダー・イースト3葉、岩見沢SA小公園、小樽運河2

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(次回;日本海フェリー;ラベンダー)