2025年7月24日木曜日

満洲回想旅行(6)


6.旅順観光-2


二百三高地を出発したのは1時半ころ。本来はその前に昼食のはずだったが、スケジュール変更で2時前に、19051月乃木大将とステッセル将軍が旅順開城を話し合った場所として知られる水師営に到着、隣接するレストランで昼食となった。水師営の地名は清国北洋艦隊の駐屯地から来ているが、旅順攻略戦中、大きな農家を借り受け日本軍の野戦病院となっていたところである。現在もその建物は残り、両将軍会談の場も復元されているし、ステッセル将軍から乃木に送られた白馬をつないだナツメの木は枯れてはいるものの、そこに現存する。しかし、こんな所を訪れるのは日本人が主体、見学中中国人を見かけることはなかった。


次に訪れたのは関東庁によって開かれた旅順博物館、日本人観光客への売りは、1902年から1914年にわたり⑶次を数える大谷光瑞西域・中央アジア探検隊の収集物、なかでもミイラは必見とのことだった。しかし二百三高地の疲れがどっと出て、ひたすら涼しいところで休憩、見ずに終わった(ミイラはNYメトロポリタン美術館で嫌というほど見ている)。ただ、ここは日曜日ということもあり、中国人の見学者は溢れるほど訪れていた。


博物館見学のあと近くの広場に案内され、周辺に残る日本統治時代の建物解説があり、初代関東軍司令部がそこに含まれていた。ガイドはここが最後までその司令部と説明し、ツアーメンバーもそれに納得したようだったので、誤りを指摘した。司令部は満洲で日本が支配域を拡大するにともない、奉天(満州事変時)、新京(満洲国成立時)へと北上していったのである。


次は旅順軍港の最寄駅旅順駅。日露戦争中はここから埠頭まで引込線が引かれていたほど重要な駅だったが、現在は使用されていない。ここへ立ち寄った理由は駅見学の他にもあった。旅順港を見下ろす白玉山の山頂へ登るには大型バスから小型のものに乗り換える必要があるのだ。


白玉山は旅順港真北に在る標高130mの小高い丘。戦後乃木が日本兵慰霊のために建てさせた68mの慰霊塔がそびえ立っている(現在は中国海軍兵器館)。塔周辺は広い展望広となっており、ここから旅順港全体が見渡せる。因みに水師営から駅に至る行程で旅順港の直ぐ脇を通過するが、そこは外国人立ち入り制限地区で、ガイドはカメラを構え得ることだけでなく、「見ないように!」と注意する。しかし、艦艇を近くで見ることを除けば、この白玉山展望台の方が、全体を俯瞰でき、むしろ一朝有事の際は重要な気がした。今では衛星による偵察が可能だから、こんなことは意味のないことかも知れないが・・・。


この展望広場から旅順港を見下ろし最初に浮かんだのは「轟く砲音(つつおと) 飛び来る弾丸、荒波洗う デッキの上に、闇を貫く 中佐の叫び「杉野は何処 杉野は居ずや」 ...」と歌われた広瀬中佐(戦死後)のことである。広瀬中佐はロシア艦隊の立て籠もる旅順湾口を封鎖するため、閉塞船を率いそこに至って戦死、戦後軍神として祀られた人物である。確かに、湾口は狭く、数隻の沈船で閉塞可能なことがよく分かる。東鶏冠山同様、ここでも「百聞は一見にしかず」を改めて認識する。

大連への帰途「貝殻博物館」を見学した。貝殻細工の土産物品も扱う博物館だが、平面的な螺鈿ともひと味違う(立体感のある)、精巧な数々の美術品は一見の価値がある(値段も数十万円、数百万円する)。

ディナーは大連市内に戻り豚しゃぶレストランで摂る。隣に座った比較的若い女性と話し、彼女の参加理由を尋ねたところ母親(故人)が昭和9年新京(長春)生まれと聞き、以後親しく話をするようになった。

 

写真上から;水師営レストラン、水師営会見所、会見の部屋、博物館、関東軍司令部(黄色の建物)、白玉山慰霊塔、白玉山からの旅順湾口(クリックすると拡大します)

 

(次回;瀋陽観光)

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