2025年5月31日土曜日

今月の本棚-202(2025年5月分)

 

<今月読んだ本>

1)ハードウェアセキュリティ(植村泰佳);幻冬舎(新書)

2)エヌビディアの流儀(ティ・キム);ダイヤモンド社

3)果てしなきイタリア旅(二村高史);草思社

4)<ロシア>が変えた江戸時代(岩崎奈緖子);吉川弘文館

5)続・日本軍兵士(吉田裕);中央公論新社(新書)

6)野球の記録で話したい(広尾晃));新潮社(新書)

 

<愚評昧説>

1) ハードウェアセキュリティ

-スマフォから工場設備まで人手を介さずネットでつながる社会。安全確保の最前線を学ぶ-

 


毎朝メール通知を開くとインターネット接続プロバイダーが提供する迷惑フォルダーに、(なりすまし)通販やクレジットカード会社からのメールが多数取り込まれている。一日にすると3040通になるだろう。いずれもセキュリティに関するもので、これで暗証番号を含む個人情報を盗み取ろうとするものだ。また、フェースブック受信表示にある(なりすまし)友人からのメッセージを開いたところ、画面が変わるとともに警告音とアナウンスで至急連絡せよ告げられ、その状態からしばし逃れられなくなったこともある。ネットを介した身代金要求だ。デジタル社会の進化にともない、この種の犯罪も巧妙さを高めてきている。それでもソフトウェアに関するセキュリティは比較的よく知られ、ウィルス対策ソフトを始め、先のプロバイダーの対応など、防護策も充実してきているし、利用者にもそれなりの警戒・対応意識ができてきている。しかし今やIoTInternet of Things;あらゆる物(Things)がネットにつながる)の時代、家電から工場設備まで、人手を介さずネット接続された機器が犯罪者の標的になる。日々の生活はまるみえになり、工場の操業を止めることも可能になのだ。本書はこのIoT時代における、人間によるチェックのおよばない、IT機器内部(スマフォから工場自動化システムまで)のセキュリティ確保・維持に関する啓蒙・解説書である。

著者は1952年生まれ。30年ほど前に異業種交流の場で知り合った友人である。当時はサッポロビールで経営・事業企画を担当していたが、退職後の2000年電子商取引技術研究組合(その後事業会社に転換)を設立、理事長を務め、現在はその成果を実用化推進する株式会社SCUSecure Cryptographic Unit;保安暗号装置)代表取締役社長、ICシステムセキュリティ協会代表理事。

本書を読む動機は二点、第一は異業種交流会の仲間としてサッポロビール退職後の活動を知りたかったこと。交流会のOB会は続いているが、電子取引安全技術については聞く機会が無く、初めて立ち入る話題だった。第二は、本書の紹介記事に工場操業システムの安全性が取り上げられているとあったことである。ここは現役時代の世界、去って20年、今どんな問題があるのか?それに対する備えは?を知りたく読んでみることにした。従って、内容紹介は第二点を中心にする。

事例として特に興味を覚えたのは、①コロニアル・パイプライン事件;20215月、米国ガス・燃料供給ライン(東海岸の45%を担う)のコントロールシステムにウィルスが侵入、1000以上のガソリンスタンドが操業不能に陥り、440万ドルの身代金を払うことになる。②スタクスネット事件;2009年から10年にかけて発生したイラン核施設(ウラン濃縮)に対するサイバー攻撃で、遠心分離機の回転数制御を不能にした。いずれもプラント運転制御システムの機能を破壊することが目的で、それを達成している。我々の時代、プラントと本事務所、工場と本社は既に通信回線でつながっていたものの、節目に人間が介在していたので、工場外・社外と直接つながることは無かったが、今やIoTの時代、気づかぬうちに情報の侵入・抜き取りが可能になのだ(例えば、センサーや制御機器のメーカーによる遠隔保守)。

防護対策として、サーバーやPCに防御ソフトウェアを組み込むとともに、膨大な数のセンサーや制御機器一つ一つに専用ハードウェア(微小ICチップ)で防御することも必要になってきている。しかし、小型で厳しい環境条件(温度、風雨、湿度、振動など)に晒され続ける機器の中に暗号処理までできる機能を持たせるには、ひとかたならぬ苦労がともなう。本書はそれを経済産業省の政策;戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)、経済安全保障重要技術育成プログラム(Kプログラム)を中心に、試作品の開発から検証体制まで紹介する内容。デジタル時代の工場操業安全維持がいかに高度化してきているかあらためて学ぶ結果になった。危機は企業・工場ばかりではない。家電やクルマに組み込まれた情報処理や制御システムを介して、個人・家庭に迫ってきている。

おそらく、著者の一連の活動はいくつかの報告書として既報されていると推察するが、一般の出版社から新書として刊行されたことに意義がある。知られざるデジタル時代の安全・安心体制維理解のために、広く読まれることを期待する。因みに著者は文系出身者、技術的に難解なところに踏み込んでいない点も評価できる。

 

2) エヌビディアの流儀

-今や時価総額世界一のAI半導体企業、創業者とその経営スタイルの全貌を明らかにする-

 


半導体集積回路(ICIntegrated Circuit)という言葉を我が国で聞くようになったのは就職した1962年(昭和37年)前後のことだったと記憶する。そのICチップを初めて眼にしたのは1967年、和歌山工場の大規模拡張工事を控え、横河電機製のYODIC500と名付けられた我が国初の集中型デジタル制御装置(DDCDirect Digital Control)のプロトタイプを適用実験中のことである。当時既に石油精製プラントは3651年連続運転が行われており、200近い制御点を一つのコンピュータで扱うには汎用のコンピュータとは桁違いの長期連続稼働を要求された。テスト使用でその信頼性を確かめ、商用機としての改善点を洗い出すことが目的だった。そのテスト期間中、異常を生ずることが時たま起こり、原因追究に努めている過程で、疑わしいICのパッケージングを分解、配線(金線)が切断されていることを発見した。このような実験経過を踏まえ、冗長度を見直し、冷却システムの改善などを商用機に盛り込み、和歌山工場導入を決した。その時のICは米国テキサスインスツルメント社(TI)製。しばらくはこのIT社を始め、モトローラ、フェアチャイルドなど米国ICメーカーの天下が続いたあと、NECや富士通、日立など日本のメーカーの独壇場となる。しかし、IBMPCの心臓部である中央演算装置(CPU)をインテルが受注したことで、一気に米国が盛り返す。この間メモリーチップではサムソンが日本勢を凌駕。これで電子立国日本は退勢に転じてしまう。ここでもう一つのIC巨人が登場。台湾半導体製造会社(TSMCTaiwan Semiconductor Manufacturing Company)がそれである。この会社はICチップの設計開発部門は持たず、インテル、アップルなどが開発した製品の製造請負に特化することで急成長する。当に三国志的変遷をたどってきた半導体業界、現在トップの座に在るのが、AIチップでリードするエヌビディア(NVIDIA)社である。

著者の生年は不明。名前から朝鮮半島出身者と推察する。経営コンサルタントやヘッジファンドのアナリストを経て、現在は技術ジャーナリスト。1990年代からエヌビディアを追っていたと著者紹介にある。

エヌビディアの創設は1993年、1999IPO(株式公開)そして20246月時価総額3.37兆ドルとマイクロソフトを上回る、世界一の座に到達する急成長企業である。現在この社をCEOとして率いるのは創設者の一人1963年台湾生まれのジェンスン・ファン、本書はこの人物を中心に語るエヌビディア発展史である。

ジェンスンの家庭は貧しく、タイ、米国と転居、オレゴン州立大学で電気工学を修め半導体メーカーLSIロジック社に就職、ここでグラフィックシステム(画像処理)ICチップの設計を担当しているとき、取引関係にあったサンマイクロシステムズ社(高機能ワークステーションメーカー)のカーチス・プリムエ(アーキテクチャ設計担当)とクリス・マラコウスキー(製造システム担当)から声をかけられ、エヌビディアを創設に参加する。この社が目指すのは安価なグラフィック用ICチップ、それまでのシステムは業務用ワークステーションで動かす高価なものばかり。先ずゲーム機、次いでPCに組み込むことを狙い、紆余曲折はあるものの次第に実績を重ね、マイクロソフトやアップルもやがて顧客に加わってくる。次の段階はカラー動画、ここはCG映画が代表適用例、シリコングラフィックス社(SGC)のような大手が抑えている。しかし、この分野にも切り込みが成功、やがてSGCやインテルを圧する存在になる。

グラフィック用ICチップ専業メーカーが何故AIチップのトップに躍り出たのか?ここが私にとっては最大の関心事。現在グラフィック用ICチップはGPUGraphics Processing Unit)と称されるが、これはコンピュータ出現時から在る中央演算装置(Central Processing UnitCPU)を意識しての呼称である。つまりGPUも演算装置なのである。カラー動画を描き動かすには膨大な量の演算が必要になる。演算装置として両者は同じなのだが、CPUは“複雑な”演算に適しGPUは“膨大な”演算に適するという違いがある。AI研究が何度かの挫折を乗り越え実用化に達したのは“深層学習(ディープラーニング)”の手法に依るところが大きい。これはビッグ(膨大)データーをコンピュータに教え込むことで、人間と変わらぬ認知能力を持つことになるのだ。ジェンスンはこのことに早くから気づき、2006年エヌビディア・リサーチを設立、AI分野への投資を拡大してきていたのだ。

本書のタイトルは“流儀(Way)”、その第一要素は「将来性のある人材の採用」。新規採用者の三分の一は現社員の紹介、離職率は3%以下でシリコンバレーの平均値(13%)を大きく下回る。一方で各種従業員サポートや報酬と引き換えに社員に求められるのは「週60時間労働が最低ライン」、ジェンスン自身「一日25時間、週8日働く」と揶揄されるほどのハードワーカーである。こうなるのはジェンスン直轄の部下が60人にもおよび(平均的な米国トップの下は45人)、組織の階層を薄くしていることからきている。読後に感じたのは「もしジェンスンが倒れたら」である(他の創業者二人は既に引退している)。

エヌビディアが話題になり始めた頃からこの会社について知りたいと思っていたが、日本人の書いたものは断片的な孫引きや業界関連情報中心で手を出す気にもならなかった。本書は、少々ジェンスン礼賛が鼻につくものの、本人を含め100人以上の関係者にインタビューした真っ当な内容、AIが身近な存在になってきている昨今、しばらく手許から離せない一冊となるだろう。

 

3) 果てしなきイタリア旅

-気ままな旅を楽しむため定職を持たず、40年かけ全20250超の市町村を鉄道と路線バスで巡ったイタリア紀行-

 


2008年秋念願だったイタリア旅行に出かけた。ここには二人の親しい友人がおり、彼らを訪ねるのが主目的だった。三人の共通因子はITと石油、お互い米国と日本で何度か会っており、今度は私が彼の地に出かける番だった。ただイタリア人同士は面識がないので個別訪問である。二人の住まいはいずれもミラノとヴェネツィアを結ぶ幹線鉄道路線の最寄り駅(ブレーシャ、ヴィチェンツァ)から車で一時間程度、一人の家には一泊、もう一人は宿泊こそホテルにしたが家に招かれ、二カ所とも一泊二日で近郊を観光した。ツアーに組み込まれるような名所旧跡は無かったものの、北イタリアの歴史や文化に触れ、彼らとの日常生活を楽しんだ。このあとはヴェネツィア、フィレンツェ、ローマと巡り、この旅を終えた。この後半の旅程について二人が奇しくも同じコメントを発した。「ローマは素晴らしい!大いに楽しめ」そして「ローマから南はイタリアではない!行く必要は無い」と。そう言われると反って興味が沸くのが南イタリア、もうその機会は無いが、本書がそこを主体的に取り上げていると知り、読んでみることにした。

著者は1956年生まれ、東大文学部卒業が1981年。少々歳を食っていると思ったら、やはり留年していた。しかし、モラトリアムや怠惰ゆえではない。大学に入学後英語以外にもう一つ外国語をモノにしたいと思い立ち、種々調べた結果イタリア語を選び、学外でその学習に励んだようだ。また、旅行好きで鉄道ファン。思うままに旅することを人生の最優先事項と決し、就職活動は行わず、卒業後シベリア鉄道経由でイタリアに渡り、半年フィレンツェで語学研修に励んでいる。帰国後は塾講師、日本語教師、PC解説書執筆など定職を持たず、現在はフリーランスの物書きで公益財団法人日伊協会常務理事。2024年までに24回渡伊、20全州を鉄道・路線バスで巡り、訪れた町は250以上にのぼる。本書は2004年から2023年までの旅を八つのテーマでまとめたもので、一部北イタリアやサルディーニャ島を含むものの、大部分はシチリア島など南イタリアの知られざる町や村の訪問記である。

先に述べた友人がいることもあり、イタリアへの思い入れは一入だった。それゆえ日本人が著わしたイタリア紀行や滞在記を数多く読んできた。村上春樹、沢木耕太郎、須賀敦子、塩野七生、山崎マリなどがそれらだ。しかし、本書の内容は彼らとは明らかに異なっていた。根本は作家と旅行家の違い。教養臭がまったくしないのだ。だからといって中身が薄かったり、文章が拙かったりするわけでもなく、何気ない旅が身近に感じられる筆致なのだ。そして、Googleマップを始めとするネット情報による周到な事前準備。有名観光地訪問は皆無だが、イタリア個人旅行を画する者にとって優れた案内書でもある。

個人的興味の対象では先ず乗り物;鉄道・路線バスの車輌や運用形態あるいは利用方法、歴史的に外敵侵入を防ぐための丘上都市が多いことからくる、随所に現われる住民利用のケーブルカーの話など、本書で知ることばかりだ。著者のようなイタリア通でもしばしば混乱する、路線バスの切符入手(バールだったり、車内販売だったり)やバスターミナルの所在(何の変哲もないガソリンスタンドがそれだったり)がその一例である。次いで食事の話;各所で摂った昼食や夕食を、食材・調理法・量や味わいなどを写真入りで解説してくれる。そこにもギリシャや北アフリカの影響がうかがえる。多くは無名の土地ゆえ宿泊環境も様々。ある村でバール併設のB&Bに泊まるが、翌朝村人に宿泊先を問われ、くだんのB&Bと答えたところ、意味ありげな表情でバール経営者マダムの素行を聞かされる。言葉の話も面白い。古代南イタリアにはギリシャの植民都市が多かったこともあり、時代を経て転訛したギリシャ語ともイタリア語ともつかぬ言葉を話す人が残る村落があったりする(調べてわざわざそこを訪ねる)。また、これは南ではないが、第一次世界大戦で戦勝国となったイタリアは旧オーストリア領であった南チロル地方を領土に組み込んでいる。そこでは未だにドイツ語が公用語として認められており、ドイツ系が多数派なのだ。ギリシャ、ローマに発するイタリア史の深さを学ぶ結果になった。

既に300に迫る町村を探訪しているが、マルコ・ポーロの語った「旅は学校」を信条に、イタリア旅を続けたい場所は限りなく、題名に「果てしなき」を加えたとある。

八つの章で紹介される町村は57、その内40が南イタリア。「ローマから南はイタリアではない」はともかく、ローマの北を10日ほどで巡っただけの体験から、南は北とはかなり違う印象を持った。「もう少し若いときにこの本に触れていたら」が読後感。

 

4)<ロシア>が変えた江戸時代

-突然ペリーの黒船が現われて、幕府はなんも知らんと慌てふためいたように書かれてきたけど、幕府の人ってそんなアホやったんやろか?-

 


トランプ大統領就任から5ヶ月、都合の悪い経済指標が出たり国際関係政策が思い通り進まなかったりすると、前大統領バイデンに責任転嫁する発言が目立つ。長らく世界をリードしてきた大国指導者になんとも品格のない人物が就いたものである。米歴代大統領は退任後自伝を書くことを義務づけられているが、おそらくトランプのそれは自画自賛に満ち溢れたものになるだろう。こんなことが頭にちらつく昨今、フッと過ったのは高校時代中国史講義中担当教師が漏らした一言「その時代の史書は現王朝を賛美し、前時代を批判するのが常道、歴史を学ぶ際はこの点に注意するように」である。後年戦史を読んでいるとき「歴史は勝者によって作られる」とチャーチルが語ったとあり(これは諸説あるが)、さらにその感を強くした。しかしながら、日本史をなぞるとき、太平洋戦争史を除けば(旧軍にすべての責任ありとする)、不思議とこのような批判的な視点で統治体系の切り替わりを見つめることはなかった。

本書を読む動機は「ロシア」にあり、対馬占領事件やアリューシャン列島に漂着した大黒屋光太夫の件は知っていたが、いずれも時代を変えるような出来事とは思っていなかっただけに、「何を論ずるのか?」と惹かれた次第である。読んでみるとロシアの存在認知が帝国主義を進める欧州列強全体に対する脅威の嚆矢となり、本格的な「世界研究」が始まり、西洋の強みが「科学」「技術」にあることを確信し、これを積極的に取り込む動きが始まったとする内容だった。本旨を要約すれば;「徳川幕府を後進性の因とし、薩長維新政府こそ我が国近代化推進の中核」とする史観を見直し、「徳川幕府が18世紀から19世紀の変わり目に、国家意識に目覚め、近代化への布石を打ってきたからこそ、維新後の社会改革が順調に進んだ」となる。

著者は1961年生まれ、京都大学総合博物館教授(文学博士)、専攻は国史。あとがきに依ると、本書は京大文学部文学研究科における日本史講義録がベースになっているようだ。

欧米と我が国の関係は種子島に始まり、オランダそして英仏、さらにペリー来航で米と下り開国に至るわけだが、ポーランド軍に従軍しロシアの捕虜としてカムチャッカに流刑されていたハンガリー人が1771年ロシア船を奪い阿波に漂着するまで、ロシア情報はほとんど把握できていない。彼がオランダ商館長に提出した「ロシアの脅威を警告する文書」が「オランダ風説書」として江戸に送られ、北方への警戒心が芽生えていく。

先ず説かれるのは当時の日本における「世界研究」、世界地図や地理書がどのようなもので、どんなことが記載されているのかを紹介・分析する。ユーラシア世界の半分を占める大国と認識するが、地図は不明な部分が多い(特に日本に近い東部)。一方で、幕府の支配地域を明確にするため蝦夷地・樺太・千島の探索(高田屋嘉兵衛の択捉航路開拓など)や出先機関の設立などが進められる。この章ではいくつもの地図が引用され、往時の人々の世界理解を体験できる。

この世界研究(新井白石「新采覧異言」など)から「ヨーロッパは自らの繁栄のために、他の大陸を利用し、収奪している」との構図が見え、そこから巨大ロシアの存在もそのうねりの中にあると認識する。次いでヨーロッパの強さの根源は何かを追究、それが「科学」「技術」にあることを見抜き、それを西洋に学ぶ環境が醸成されていく。その成果の一例は伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」。これで西洋の「科学」「技術」が獲得可能と確信、医学、植物学、物理学(窮理)、化学(舎密)と範囲は広がり、取り組む者も増えていく。このような下地があってこその維新・文明開化だったのだ。

「突然ペリーの黒船が現われて、幕府はなんも知らんと慌てふためいたように書かれてきたけど、幕府の人ってそんなアホやったんやろか、明治政府作ったんは江戸時代生まれの人やで?」、あとがきから著者の授業風景が臨場感をもって伝わってくる。

著者は研究者、上述の論を展開するためのデータや情報の出所や数量を明示する。例えば、外国から献納された地図の種類や数、この期に老中職に在った松平定信の海外関連蔵書の内訳(ロシアが最も多い)などがそれら。これで説得力が倍加する。作り話まみれの幕末・維新史リセットのために一読の価値あり。

 

5) 続・日本軍兵士

-作戦・戦闘・兵器は一先ず置こう。兵士の衣食住を知れば、戦病死者が戦死者を上回る異常な日本軍が見えてくる-

 


軍事に関する書物が興味の対象であることは自他共に認めるところだが、日本陸軍に関しては数少ない技術分野と情報戦、それに生きた時代をたどる昭和史がらみに極端に偏っている。それでも鋭い現代社会批評に結びつく山本七平のフィリピン従軍記や失敗したインパール作戦のような代表的陸戦に関する戦記や戦史はそれなりに読んできた。そこから見えてきたのは、欧州戦線に見る、兵器対兵器、兵士対兵士の戦いではなく、極度の疲労・風土病・飢餓などによる戦病死の多さである。本書によれば、太平洋戦争230万人の戦没軍人・軍属のうち6割は戦闘ではなく戦病死によるとある。歴史上こんな異形な軍隊は他に存在しただろうか?何故こんな軍隊が出来たのだろうか?前著「日本軍兵士」は読んでいないのだが、書店で帯裏の数字を見て購読意欲を掻き立てられた。

著者は1954年生まれ、一橋大学大学院社会学研究科教授を経て、同大学名誉教授。専攻は日本近現代軍事史・日本近現代政治史。

本書の特色は、軍事に関する作品であるにも関わらず、(死傷率や損耗率を除き)作戦・戦闘・兵器にはほとんど触れず、専ら兵士の衣食住環境を分析するところにある。その観点で軍隊社会学とでも名付けたくなる内容である(とは言っても人間関係は深追いしない;階級格差は取り上げられるが、巷間知られる内務班の陰湿な新兵いじめのような話は一切ない)。

本書のタイトルには“兵士”が使われているが、これは下士官・兵の意である。敗戦時の陸軍構成比は士官2.4%、下士官・兵が97.6%、兵士が圧倒的多数派、ここを分析することで軍が見えてくる。また海軍も同様の分類だが、取り上げられるのは陸軍と比較する場面が多く、海軍に絞ったテーマは居住性くらいである。つまり、全体として陸軍兵士中心と考えていい。章立ては時間軸に沿い、徴兵制導入(1873年)から、主要な戦役で章を区切り、敗戦で終わる。また、衣食住のうちいずれの章でも食と体格・病気に最も紙数が割かれている。

先ず代表的な戦役における戦死者・戦病死の数字(動員数が異なるので、絶対数より比率に注視)を見てみると;日清戦争(戦死1401名、戦病死11763名、戦病死比率89.36%)、驚くほど戦病死比率が高いが、同時代の南北戦争やクリミア戦争でも。戦病死が戦死を大きく上回り、異常値ではないようだ。死因は、赤痢・マラリア・コレラが多いが、特異なのは凍傷である。これは軍靴として草鞋を使用せざるを得なかったことにある。日露戦争(戦死者60031名、戦病死21424名、戦病死比率26.30%)、日清戦争の教訓から衛生部を創設、軍事衛生・医学に注力したことが、大幅改善につながる。このあと第一次世界大戦(青島戦)、シベリア出兵と続き満州事変で戦病死者率は最低となり、日中戦争(太平洋戦争前)で17.35%と増勢に転じ、敗戦で帯にあった数字(戦病死60%)になるのだが、別に38.2%(6割栄養失調とある)と言うデータもあり、この違いは集計時期の違いにある(38%は1945年、60%は後年)。

建軍からの食糧事情も断片的に数字が紹介され、その結果が分析される。1913年(大正2年)の陸軍給与令改正まで、兵士には一日6号の白米が給養されたとあるのには驚かされる。農村ですら白米3割程度でもいい方だったらしく、陸軍が兵士を惹きつけた最大要素はこれだった。しかし、これが脚気患者を多発、次第に麦を混交するようになる。米英比較では満洲事変まで総カロリー数に大きな差はないものの、日本軍が過度に炭水化物に依存していることも明らかだ。動物性タンパク質の摂取量(一日)は日7g、英44g、米52gと大差がついている(19341938年)。食事は摂取する内容だけでなく調理法も問題だ。欧米は野戦炊事車などが備わり、日本のように兵士各人が飯盒炊さんするようなことはなかった。飯盒炊さんには燃料確保・自炊と兵士が自ら担当、時間帯も夜間が多く、それによって睡眠時間を削らざるを得ない。ここから睡眠不足で病に至る者が出てくる。

衣服では先の軍靴の問題を日米比較して見せる。履きやすく長持ちする軍靴を欠き、中国戦線では中国人の布製靴を奪うことさえ生じている。対して米軍は4回も軍靴の改善を行っている。雨具も同様。

動員が拡大すれば本来徴兵対象でない乙・丙種さらには障害者にまでおよび、これら弱卒が食料・睡眠・装備の劣化と合わさって戦病者を増やしていくのだ。これに加えて機械化の遅れも兵士に過大な負担をかけることになる。自動車不足は歩兵装備が体重の40%超になるほどの負担をかけ、19449月中国戦線で行われた大陸打通作戦では第27師団の兵士5059名が2000km100日かけて徒歩行軍、1000名近くが食糧不足と疲労で戦病死し、戦う前に自滅している。

意外なことを教えられたのは口腔衛生。歯科医が軍医に加わるのは1940年から。敗戦までの総数は500名、対する米軍は15千名。これも戦意・戦力に大きく影響しただろう。

近代化の進んだと思われている海軍も陸軍に劣らず兵士には厳しい生活環境下にあった。欧米の軍艦では第一次世界大戦時すでにベッドで就寝するようになっていたが、我が海軍はハンモックのままで、熟睡度に大きな違いがあったし、兵士の炊事・食事環境も劣悪(不衛生)であった。正面装備重視の結果である。

「よくこれだけのデータを!」と感心するほど数字に基づく分析で書かれており、説得力のある内容だ。敗戦時多くの情報が処分されており、関連代替情報(生命保険会社資料など)を探し出し、そこから推計する場面も多々ある。その苦心と努力が伝わってくる価値ある研究成果だ。前作「日本軍兵士」も読んでみようと思う。

 

6) 野球の記録で話したい

-金田正一の400勝、王貞治の868本塁打から、大谷翔平のMLBにおける大変身まで、記録で楽しむ野球談義-

 


私がプロ野球(NPB)の存在を知ったのは、満洲から引揚げてきた1946年(昭和26年;小学2年生)の冬だった。シーズンオフだから試合は行われていなかったが、敗戦直後から戦後のプロ野球は始まっていたのだ。子供仲間の力関係から、自身の希望ではないのだが、東急フライヤーズのファンにさせられた。当時のスターは打撃の神様赤バットの川上哲治だったが、東急には彼に対抗する青バットの大下弘が居て、それなりに応援し甲斐のあるチームだった。現在の日本ハムの起源となる球団である。19502リーグ制がスタートすると、パではそのまま東急(急映→東映→日拓→日ハム)、セではこれも紆余曲折はあるが知将三原監督率いる大洋ホエールスに惹かれ、それを現在まで持続し横浜ベイスターズを応援している。この間多くの名選手が輩出しているが、戦前を含め彼らの足跡を記録(データ)で回顧し、そこから現役選手(特にMLBプレーヤー)のこれからを推し測るのが本書の内容である。

著者は1959年生まれ、スポーツライター。本書は著者運営の同名のブログをまとめたものである。

1章は「アンタッチャブルな記録たち」、今後も更新が難しい大記録が並ぶ。いずれも生涯記録だが、王貞治の本塁打868本、金田正一の400勝、張本勲の3085安打(これはMLBと合わせるとイチローに抜かれているが、NPBの記録としては最多)、福本豊の1065盗塁。シーズン記録では、稲尾和久の42勝(実は戦前スタルヒンが同数あげていることがのちに分かり、稲尾が地団駄踏む)、江夏豊の401三振奪取が並ぶ。記録達成の時代背景(例えば投手起用法の変化)、個々人の記録にまつわるエピソード(金田や江夏の記録へのこだわり)を添えて語られるので、“アンタッチャブル”が納得できる。

2章「ベストナインで遊ぼう」は記録遊びであるが、発想が面白い。日本人に多い姓名別(田中、佐藤、鈴木、山本)に時代を超えてチームを作り、そのチームのキャラクターを浮かびあがらせる。例えば「山本」、投手は山本昌(中日)、一塁に山本功児(巨人)、センターに山本浩二(広島)、DHに山本八郎(東映)など比較的戦後世代に知られた選手が居る一方、三塁には南海監督兼務の山本一人(のちの鶴岡監督)を配して、“豪傑揃いの「山本ベストナイン」”と総括する。同様のドリームチームを高校別(PL学園、横浜高校、中京高校、広陵高校)や六大学別で組んでみせる。しかし、東大だけは難しく、投手の新治伸治(大洋)、井出俊(中日)以外は野球部所属の有名人を動員する。三塁脇村春夫(日本高野連会長)、ショート広岡知男(朝日新聞社長)、DH藤井裕久(財務大臣)などがそれらだ。

この後に続く、第3章「守備記録の面白さ」、第4章「打撃記録をめぐるあんな話、こんな話」は野球を一段深く楽しむことを教えてくれる。例えば、時代を経るに従い全体として内野手のエラーは減少傾向にあるが、その大きな因に人工芝の導入があるとみる。そしてNPBの内野手が天然芝のMLBでほとんど通用しないのは、この違いにあると断ずる。また、打撃に関しては、通算打率に関する数字の算出方法(分母を打数、打席数(打数+四死球・犠打・犠飛・打撃妨害)の2種で比較)に疑問を呈する。NPBは打数をベースにしており、生涯打率ではレオン・リー(ロッテ)が首位(32分)にある。しかし打席数にするとイチローが353厘と抜群のトップになるのだ。

MLBへの関心が高まる昨今、最も面白いのは第6章「記録で実感する「日米格差」」である。投手で(防御率、H99イニング当たりの被安打数)、HR99イニング当たりの被本塁打数)あれ、打者(打率、本塁打率、OPS(出塁率+長打率))であれ、数人を除けば、移籍後NPBの記録を上回ることはないのだ。それは、移籍3年までの大谷翔平とて同様だった。しかし、大谷のOPS2020年度0.65750位)から2021年度0.9654位)と大躍進する。これは、2020年オフに最先端トレーニング施設「ドライブライン」で打球速度を上げるトレーニングを受け、それに成功した結果だと著者は見る。同様数少ない改善者は鈴木誠也(広島)、2022年の153位から2335位、2424位と順位を上げて一流選手の仲間入りをしている。投手で出色なのは黒田博樹(広島)、防御率・H9HR9ともNPBを上回る成績を残している。これはドジャース時代同僚のカーショウのアドヴァイスが有効だったようだ(抜群の制球力と決め球をフォークからシンカーに変える)。

記録とMLBの話をもう一つ。MLBは各選手の投打、守備のパフォーマンスを計測、データ化しオンラインで提供する「スタットキャスト」なるシステムがある。球の初速、終速、回転軸の角度変化、回転数、打球速度、打角などを計測するのはミサイル追尾システムを応用した「トラックマン」。また、「ホークアイ」は複数台のカメラ画像で守備成績を記録する。このシステムは選手の関節情報を取ることもでき、バイオメトリックス的な解析が可能なのだ。NPBとのパワー、スピードの違いは体力の差ばかりではないのだ。

MLBの話題を除けば昭和の話が多い。おじさん(おじいさん)のセンチメンタルプロ野球観戦の趣だが、野球の楽しみ方を増やす点で一読の価値はある。

 

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2025年4月30日水曜日

今月の本棚-201(2025年4月分)

 

<今月読んだ本>

1)大空への夢(秋白雲);星和書店

2)いのちの記憶(沢木耕太郎);新潮社(文庫)

3)翻訳者の全技術(山形浩生);星海社(新書)

4)東京大空襲を指揮した男カーティス・ルメイ(上岡伸雄);早川書房(新書)

5)戦略文化(坂口大作);日本経済新聞出版社

6)天気でよみとく名画(長谷部愛);中央公論新社(新書)

 

<愚評昧説>

1) 大空への夢

57歳でプロペラ機操縦免許取得、62歳で自家用ジェット機免許取得・自家用機購入、2ヶ月にわたる世界一周ツアーに参加した日本人の記録-

 


1951年(昭和26年)講和条約が発効、日本に空が戻ってきた。月刊誌「航空情報」の創刊はその年の8月、今も保有する第4集は“軽飛行機特集”として521月に発刊されている。そこには数々の自家用小型機の写真が掲載されており、中でも印象に残るのがフロートを付けたセスナ170型機、ショートパンツ姿の美女がその上にたたずんでいる一枚だ。日本人にはクルマさえ夢の時代、彼我の豊かさの違いを痛感させられた。それからほぼ半世紀後19955月、当時の夢が正夢となる。米国出張の帰途連休を利用してヴァンクーヴァー所在の友人を訪ね、彼女の父親が保有する同型水上機で飛行する機会を得たのだ。父親は元ノルウェー空軍ジェット戦闘機パイロット、NATOを構成するカナダで訓練中カナダ人女性(友人の母)と親しくなり結婚、帰化後歯科医の資格を取得し成功、既に歯科医は引退、趣味として空を飛んでいるのだ。このときはフレーザー河の河原に設けられた滑走路から河に降り、ヴァンクーヴァー北方にある海浜別荘まで往復し、副操縦士席でしばらく操縦桿を握らせてもらった(直進上昇・下降のみ)。本書の著者は日本人精神科医、病院経営を息子に委ね、自家用ジェット機を自ら駆って世界一周ツアー(著者は米国で機を購入、そこから東回りで日本到着まで)に参加した記録である。

著者(ペンネーム)は、本文中に200757歳とあるから1950年頃の生まれとなる。医科大を卒業後父の経営する精神病院の経営に当っていたことも本書の中に触れられている。

200310月(53歳)仲間とゴルフのあと麻雀をした帰り、ふと虚脱感に襲われる。父から継いだ病院経営は順調、後継者の息子も育っている。すべては順調に見える日々だが、このままの人生を送り続けていいのかと。そこで思いつくのが飛行機の操縦である。取りあえず調布飛行場の訓練学校を訪ね、教官・訓練生と同乗飛行を体験。時間と費用は訓練生次第、最低5百万円を即用意でき、時間をそのためだけに割ければ短期取得も可だが、通常は数年を要することが分かってくる。訓練機がおんぼろだったこともあり、入校は断念する。3ヶ月後家族とグァムで遊んだ際、軽飛行機で遊覧飛行する。このときは副操縦士席で前回とは景観がまるで違う。さらにこの観光飛行会社は飛行学校も経営していることを知り、3ヶ月・120万円の週末訓練で免許取得可能とのこと。仕事もあり直ぐに入校はしなかったものの、20051月ロサンゼルスの本校に入学、毎月1週間滞在し訓練を受け、4月に米国での小型機操縦免許を取得する。ただ、この免許は単純な書き換えは出来ない。さらに調布で転換訓練を続け、2007年、57歳の時日本の免許を獲得する。ここまでの苦労話だけでも「凄い!」の一語だ(費用の詳細は不明だが、相当な額だろう)。

この年、国内中古機マーケットでは滅多にない良質なプロペラ機、米パイパー社製マリブ・ミラージュ(350hp、時速300kmh、航続距離1600km)を購入(価格不明)、日本ばかりでなく、韓国・台湾・東南アジア方面まで羽根を延ばす。そんなとき世界一周している同型機を含むグループと知り合い、さらなる高みを目指すことになる。自家用ジェット機を持ち、彼らのようなツアーに参加したいと。飛行機を新たに求める動機は東日本大震災、整備のため仙台空港に在った機がスクラップになってしまったことがある。

次に求めたのはセスナ社製サイテーション・ムスタング(6人乗り双発ジェット機;速度760kmh、飛行高度12mまで可、航続距離2000km)。日本で購入すると手数料が無茶苦茶高くなる。そこでセスナ社が保有する上質な中古機(1年もの)を購入、訓練も前回同様現地(フロリダ)へ何度も通って免許を取得する。そして、世界一周ツアーに現地から参加するのだ。中古機購入は20123月、ツアー開始は5月、わずか2ヶ月で副操縦士付きで有効な機長資格を取ってしまう。このハードな訓練・努力も「よくこの歳(62歳)で!」とただただ感心するばかり。

この旅の出発点はカナダのケベック、出発日は58日。集まったのはプロペラ機1機(モロッコで仏人がさらにプロペラ機で参加するので最終的には2機)、ジェット機4機、計6機。夫婦(著者も夫人と参加)、子連れ様々だが、操縦者は4000時間以上のベテランばかり、著者のみ600時間弱、「カミカゼ」と揶揄される。

当初計画と最終ルートは若干異なるものの、ケベック→グリーンランド→ノルウェー→チェコ→スペイン→モロッコ→マルタ→ギリシャ→トルコ→ヨルダン→サウジ→インド→タイ→カンボジャ→インドネシア→マレーシア→フィリピン→香港→台北→那覇→岡山(著者はここまで。712日)→北海道→カムチャッカ→シアトル(ここで解散)。本書の23は飛行・気候・風土・観光・宿泊・食事・空港での作業(出入国、給油など)に割かれ、ユニークな旅行記とて楽しめる。

この旅以後5年間機を保有したものの、2017年「日本は自家用ジェット機で移動するには狭すぎる」と手放すことを決するが1年経っても買い手は現われず、米国に回送してやっと処分することができる。

何かに付け“格差社会”は批判の対象だが、ここまでやると「お見事!」の一語に尽きる。因みに、本書には飛行機の価格やツアー参加費については一切記されていないが(これが少々不満)、同クラスの自家用ジェット機の値段を調べてみると1億円~1.5億円、高級スポーツカーなどと比べ以外と安い感じがする。

 

2) いのちの記憶

-高倉健・美空ひばり・田辺聖子・恩師長洲一二、亡き人々に送る心を揺さぶる鎮魂のエッセイ-

 


本年1月の本欄で紹介した同著者のエッセイ集「キャラバンは進む」の続巻である。本来この2冊は単行本「銀河を渡る」として2018年に発刊されたものだが、文庫本出版に際し2分冊目は「いのちの記憶」と題された。沢木といえばなんといっても若き日のバックパッカーを綴った「深夜特急」が代表作、前巻は旅や「深夜特急」に関わる話題も多く「キャラバンは進む」は適切な題付けだった(実際の意味はもっと深いが)。そして、今回の「いのちの記憶」も読んでみると、これはこれで納得出来るタイトルである。大半を“
人(ひと)”に関わる話が占め、特に故人を偲ぶ(あるいは追悼する)内容になっているからだ。高倉健、美空ひばりなど超有名人がいる一方、高校や大学時代の恩師、駆け出し時代の編集者・写真家、あるいは親族など無名の一般人も多い。執筆動機が多様だったこともあろう、テーマや長さに違いがあるものの、いずれの話も著者の優しく誠実な人柄が心地よい読後感として残る作品だ。

最も紙数が割かれるのが高倉健(約40頁)。「深い海の底に」と題する話は198010月ラスヴェガスで行われたボクシング世界ヘヴィー級選手権ラリー・ホームズ対モハメド・アリ戦から始まる。スポーツノンフィクションを主要テーマの一つとする著者は、その観戦を画するがチケットは入手困難。在米の友人を介して高倉の保有していたものを都合してもらう。このときまで両者の間に交流は全くない。その数年後ラジオ放送の企画で初めて対面、高倉の死(201411月)に至るまで二人の交友関係が続く。伝わってくるのは高倉の寡黙で礼儀正しい姿。演じる作品を求められながら、生前未完に終わった著者の悔恨。静かで良質なドラマを観るような筆致だ。

恩師長洲一二教授(横浜国大経済学部教授、のち神奈川県知事)が就職先として推薦してくれた富士銀行(現みずほ)への入行初日、式終了後退職し教授に許しを請う話は以前どこかで読んでいたが、そもそもの両者の関係は「最初の人」と題する話で初めて知った。長洲ゼミは人気が高く、応募者の絞り込みはレポートに依る。これで著者はその選にもれてしまう。納得がいかない著者は教授宅を訪問、その理由を問いただす。答えは「作文はまったく読まなかった。どれだけ本気で入ろうとしているかを試すだけだった」「それは第二志望をどこにしているかで判別する」「君の第二志望は叶う可能性が高い。だから外した」「しかし、訪ねてくるほど入ゼミ希望が高いことが分かった」と応え、「私のゼミに入ってくれますか?(入れてやるではなく)」と逆に問うのだ。「この一言が二十歳からの困難な数年の支えになった」と結ぶ。この師ありて、この弟子あり。

何か、はっとしたりほっとしたりする人間関係の描写に満ちた本書、ただの時間つぶしにはもったいない中身の濃いエッセイ集だった。

 

3) 翻訳者の全技術

-ピケティ「21世紀の資本」を始めノンフィクション翻訳第一人者がその極意を公開する-

 


活字中毒者の乱読、分野を限った専門知識習得とはほど遠い読書だが、それでも戦史・戦記・軍事技術・諜報戦は一定の割合を占め、この分野への感心は終末まで続きそうだ。その対象の多くは小説もノンフィクションも翻訳物が主流、訳の出来映えが読書の楽しみを左右する。軍事サスペンスやスパイ物の小説は早川・新潮・文春などから出ていものは先ず無難であるが、ノンフィクションについては大手出版社とて油断できない。ノンフィクション翻訳の難しさは、高い原語解読力と日本語表現法に加え専門知識を要求されるのだが、すべてに優れた翻訳者は得難い。これを補うために翻訳者と専門家が役割分担して翻訳を仕上げても、どこかに竹に木を接ぐようなアンバランスが見え隠れする。その点で著者に依る既読作品(本欄で「戦争の経済学」、「その数学が戦略を決める」を紹介している)には満足していた。どんな経歴の人なのだろう?それを知りたく読んでみることにした。

経済や科学・技術分野の翻訳、「クルーグマン教授の経済学」やピケティ「21世紀の資本」などで高い評価を受けていることに、著者の経歴が大いに与っているので、略歴を紹介しておく。1964年生まれ、小学校の一時期在米、中学・高校時代からのSFファンかつインヴェーダ・ゲームもどきをマイクロコンピュータで自作するほどの科学少年。東大に進んでもSF研究会に注力、学生時代に早川から翻訳出版するほどの力がある。学部時代翻訳を生業とすることも考えるが諸般の事情から断念、都市工学修士課程まで学ぶ。就職先は野村総研、ここで都市・地域開発をコンサルタントとして担当、さらにMITで不動産学を学び諸外国(主として発展途上国)で活動、本書執筆の段階で独立しているものの、仕事は継続している。この実務と在外経験が学者や専業者と違うところなのだ。

本書の構成は、翻訳の技術、読書と発想の技術、好奇心を広げる技術の3部から成るが、読書も好奇心も翻訳との関わりで語られる。読書に関しては、冒頭を読んで「こんな話ね」とあらましをつかんで、真ん中はいったん飛ばして結論を開き、「こういう結論に持って行くのね」と確認する(推理小説でさえ最後の“種明かし”から読む)。また、知識習得が目的で「教養として読書を意識したことはない(雑食、脈絡無し)」と自身の読書観を明かす(これは私も同様)。好奇心の部では、数多くこなしてきた海外でのコンサルティング業務を事例に、それが如何に知識・経験を広げことに役立ったかを示し、翻訳の奥の深さ教えてくれる。

翻訳家の訳に差が出るのは、意味を理解する部分ではない(誤訳など論外だが)。その意味を表現するのに、どんな言葉を選ぶかということだ、と自説を提示する。事例として“Money”を採り上げ、「貨幣」「お金」「通貨」の使い分けで説明、原著が一般読者向けに書かれた本でも、経済学者は「貨幣」「通貨」にしたがると揶揄する。翻訳スキルは、ただ外国語を翻訳する語学力だけでなく、読書の経験値や想定読者の理解などが含まれ、9割の読者が9割理解できたら大成功と見なしていい。翻訳評価の難しさは、訳ばかりでなく原文の善し悪しを含むところにある。原著がわかりにくいケースがしばしばあり、原著者と激論を交わすこともある。ここまでやる翻訳者はどれほど居るだろうか?

AIによる翻訳の現状と将来見通しでは、「ここ数年のAI翻訳の進歩には目を見はるものがあり、実務書、技術書(マニュアルを含む)はかなりAIが使える」とし「人間の出番は確実に減じる」と断じ、自らは本文翻訳にAIは使わないものの、謝辞では大量のカタカナ固有名詞が続くので手間を省くため使用していると明かす。

この他、優れた翻訳者を実名で紹介したり、高名な書評家が本文と引用文(原著者の見解ではない)を取り違えて評価した例で、読者側の問題点を指摘したり、と翻訳に関する話題を幅広く語る。

本書は著者の書き下ろしではなく、一種の口述筆記(編集者との対談)を文章化したもので、ややクセはあるものの、その点でも読みやすい。

 

4) 東京大空襲を指揮した男カーティス・ルメイ

-日本の都市を灰燼に帰し、数十万の民間人を爆殺した男は、生来の殺人者だったのだろうか?-

 


1950年(昭和25年)6年生になったとき、松戸市立北部小学校から上野広小路に近い台東区立黒門小学校に転校した。四辺田圃で木造校舎、同級生の13くらいは農家の子だった所から、コンクリート造り3階建て、狭い舗装された校庭で同級生はほとんどが商家の子への変化は、諸処で違和感を覚えた。夏になると半袖を着るが、その時S君の両腕を見て驚いた。皮膚が引きつった火傷の跡が痛々しいのだ。いっぱしのワルで田舎者の私はしばしばいじめられ、嫌な奴と避けていたが、それを見てから何故か同情するような気持ちに変じた。同級生から310日の東京大空襲で両親を失い、本人も大やけどを負い、親戚に引き取られていると聞かされたからだ。他の同級生にそんな災難を受けて者が居なかったのは、あの大空襲の西の端が昭和通りまでで。学校や同級生の住居は文京区に接する山手線の内側、焼けずに残ったのだ。しかしS君の家は昭和通りの東側、黒門に通っていたのは引き取った親戚が学区内に在ったからだった。東京大空襲のことは親たちの会話の中で知ってはいたが、身近に感じたのはS君を通じてである。

飛行機ファンが嵩じて軍事技術オタクとなった私にとって、対日戦略爆撃を指揮した米陸軍航空軍第21航空集団の司令官であるカーティス・ルメイの“悪名”はよく知るところだった。しかし、この男の伝記の類いを、邦訳を含め日本語で著わしたものは寡聞にして知らず、終戦後80年も経た今、戦後生まれの日本人が本書を出版した物珍しさも手伝って読んでみることにした。

著者は1958年生まれ、学習院大学文学部英語英米文化科教授、アメリカ文学研究者、翻訳家である。文学の研究者である著者がルメイを調べる動機になったのは、米現代文学作品の中でルメイが「ヴェトナムを石器時代に戻せ」とあったところから発している。そこに日本の都市を灰燼に帰し、数十万人を殺したこととの関連性を感じ取ってのことである。それまでの翻訳実績を見ると軍事関係は皆無、本書は伝記を始めとする多数の文献や映像を素に書かれたもので、一種翻訳の趣を持った内容に仕上がっている。読みながら妙な気分が去来した。ルメイは現代なら熱烈なトランプ支持者になったのではないか?重なって見えるのはバンス副大統領、プアー・ホワイトで苦学力行の人である。

カーティス・ルメイは1906年オハイオ州生まれ、父はフランス系、母は英国系双方とも農家出身だが、父親は鉄道員を始め各種の仕事を転々、住居も諸州渡り歩いている。つまり貧しい白人労働者階級。カーティスは6人兄妹の長子だけに責任が重い一方、自主独立の気概も強い。著者の関心は、後年彼を難じる「冷酷非情の人種差別主義者」という評価が果たして正しいのか?本来的にそのような人間であったのか?を問いただすところにある。

高校時代は新聞配達・電報配達あるいはラジオの組み立てで小遣いを稼ぎ、一族初の大学進学(オハイオ州立大)では学費確保のため難関の陸軍ROTCReserve Officers’ Training Corps;予備役将校課程)プログラムに応募・合格。鋳鉄工場で働きながらの勉学だったため少々時間がかかったものの土木工学士号を取得、30倍(1003000人)の競争を突破して航空隊に入隊。ここでも14の合格率で操縦士資格を得、1928年正規の士官となる。大変な努力家であることを実績が示しているが、この間性格異常などまったく感じさせることはなかった。ただ、著者は、直面する課題解決(例えば進学や資格取得)に際して“実際家”であったとその資質を分析している。この日本語にはなじまない“実際家”は現実主義者(目的実現可能性、経済性や時間的効率重視)の意であろう。

操縦士としての技量も優秀、当初戦闘機部隊に配属されるが、勝敗を決する真の攻撃兵器は爆撃機と見做しそこへ転属、ここで操縦士以上に航法士としての技能を高く評価され、南米や欧州への長距離飛行をしばしば行っている。1939年の第二次世界大戦以降、昇進を続け(准将昇任以降すべて最年少)、19451月対日戦を担う第21航空集団の司令官となる。この人事は前任者が昼間精密爆撃にこだわり、成果の出ないことに業をにやした陸軍航空軍(Army Air ForceAAF)参謀総長ヘンリー・アーノルドの意向による。アーノルドは伊ドーウェ将軍、英トレンチャード元帥、米ミッチェル将軍の系譜につながる戦略爆撃論者(爆撃だけで敵の息の根をとめられるとする考え方)、AAFを独立空軍にするために華々しい戦果が欲しかったのだ。現実主義者であるルメイがその期待に応えたのが日本に対する夜間無差別爆撃、310日の東京下町爆撃はその始まり、爾後大坂・名古屋・神戸・横浜さらには中小都市や軍都にもこの爆撃法を適用、日本の都市部を焦土と化すことになる。著者のルメイ評は、この作戦がルメイ自身の考えから発するものではなく、アーノルドを始めとするAAF上部の空軍独立論者からの圧力がそうさせたと見ている。命令達成第一、やられる側(子供を含む非戦闘員)のことは想像力の埒外、作戦遂行に専念したことは確かだ。日本では広島・長崎への原爆投下も彼の指揮で行われたとされているが、これは第21航空集団の上部組織第20航空軍直轄の第509混成部隊によるもので、その司令官はカール・スパーツ大将である。

英雄として二度も週刊誌TIMEの表紙に取り上げられながら、後年空軍参謀総長時代「核戦争も辞さず」を口にするほどの強硬派、さらに退役後人種差別主義者として有名なアラバマ州知事ウォーレスと組んで1968年の大統領選に独立党副大統領候補として立候補したことが、晩節を汚す(悪評)結果につながったようだ。1964年航空自衛隊育成の功により勲一等を授与されている(当時「民間人大量虐殺犯に勲章を与えるのか!」と批判された)。

多くの原書に当り、客観的にルメイを評価すべく調査分析したことが伝わってくる内容、資料として貴重な一冊であった。

 

5) 戦略文化

-一国の生き残り戦略は何が決め手か?周辺国からの脅威か?歴史・民族性・社会思想か?日米陸軍の文化を比較しそれを探る-

 


現役時代、経営戦略・販売戦略・情報化戦略などやたらと“戦略”を身近で聞き、その策定に関わり、さらに自身1990年初め大手ITベンダーの研究会で社外メンバーと戦略情報システム(Strategic Information SystemSIS)について調査・議論を交わし、本まで出版した。しかしながら、戦略とは一体何なのかがいつも曖昧で、経営理念であったり、経営手順であったり、単なる願望であったり、逆に詳細な経営数値目標であったりと千変万化、収斂しなかった。軍事理論では、一応国家戦略(大戦略)の下に安全保障策としての軍事戦略があり、それを具合化した作戦が定められ、これを実行する戦術と階層化されているが、戦史や戦記でもその使い分けが必ずしも明確でない。おまけに「素人は戦略を語り、兵士は兵站を語る」という格言があるように、戦略の安易な使い方を揶揄する向きも在る。そこに、これも言葉として幅広い意味を持つ“文化”が結ばれた本書の題名を見たとき、「一体全体この本は何なのか?」となった。ただ著者が元陸上自衛官で現在防衛大学校教授とあることから、話題先行の戦略論とは異なるものだろうと予見して読んでみることにした。結果は日米陸軍の歴史からたどる極めてユニークな比較文化論であった。

著者の生年は不明だが1984年防大人文社会科学課程国際関係論専門課程卒業とあるから19612年生まれと推察する。この人文社会科学課程はそれまで理工系カリキュラム中心だった防大教育課程に1974年から加わったもので、教育機関として文理のバランスをとることを狙いとして発足したものだ。在任中大学院で学び国際政治学の博士号を取得、一等陸佐で退任後現職となっている。軍事関係書物でありながら、戦争・作戦・兵器にはほとんど触れず、歴史学・社会学・政治学などの角度から軍を見つめる内容はこのような経歴と深く関わっているものと思われる。

先ず戦略の決定因子を「脅威」と「文化」の二つとする。「脅威」は仮想敵国・周辺国からのそれだが、客観的なもの(兵力・兵器)ではなく、自国の相手に対する敵対意識の度合い(過敏か否か)でとらえる。文化はいささか複雑で、地理的条件・民族特性・宗教・歴史・社会思想などから成る。そしてこの二つのうちいずれがより戦略策定(というよりその国の軍事施策)に影響を与えてきたかを分析する。ポイントは軍と国民の関係で、双方の異質なものへの包容力(寛容さの度合い)が軍の精強さを決めるとの仮説をたてて、著者の戦略文化論を展開する。導入部では戦略文化論を概説、ソ連・ロシア、中国などの歴史的変遷を具体的に例示し理解の一助とする。例えば、ソ連・ロシアは「脅威」重視、それも相手の政治的意図より、能力(数量、性能など)で評価してきたと見、中国は華夷秩序的世界観が根底にあり、「尚文非武」の文化の下「不戦屈敵」の積極防衛戦略を伝統としてきたというように。ただ本書の主題は米軍と旧日本軍・自衛隊のそれで、概説以降他国を論ずることは皆無である。つまり、本書はこの日米二者の比較戦略文化論である。米軍については独立戦争以降、日本軍は明治維新以降がその対象となる。両国に共通するのは島国(米にとってカナダ・メキシコは脅威ではない)であること。にもかかわらず、「文化」が主導してきた米国の戦略文化、「脅威」から始まり時代とともにそれが高まる日本。そして第二次世界大戦終戦を契機に双方がそれを逆転させ、米国は「脅威」を、日本は「文化」が自衛隊の性格を形作ってきたとし、その過程と背景を解説するのが要旨となっている。

海洋国家日本が明治以降近代化の過程で欧米や中国・ロシアを「脅威」と感じ、陸軍重点の富国強兵策を進め、日清・日露戦争勝利により支配域を拡大するにつれその力を軍・国民ともに過信し敗北したこと、戦後は憲法問題・自虐史観から反軍的風潮(つまり「文化」)が支配的となり、自衛隊の考え方・活動に大きく影響していること、は広く知られているところである。しかし、これが自他共に認める「戦わない自衛隊」文化となり、国民の自衛隊評価は高くなってきたものの、それは戦争・紛争ではなく災害出動などに対してであることが世論調査の数字などで示される。世界で「脅威」が増す昨今、見直しが迫られるとの指摘は一考すべき点だろう。

現代の米国政治を見るとき、連邦政府と各州の関係に理解しにくいところが多々あり、(大統領を除き)連邦政府の力が他国に比べ著しく制約されているように見える。州連合(United States)が国家構成の基本、国の周辺は海洋と国力に差のある友好国。強力な連邦常備軍は必要無しとの考え方が支配的だった。もし中央政府がこれを持てば力で国内支配に利用する恐れがある(建国の理念である自由・平等・博愛に害をおよぼす)。これが反軍思想の根底にあるのだ。その具体例として一章を割いて詳述されるのがUMTUniversal Military Training)と呼ばれる予備兵力増強施策である。青年を一定期間訓練し予備役として登録、一朝有事の際動員する制度である。この策は何と1790年に議会に提案され、時々の事情に応じて内容に変更を加えながら何度も繰り返すが、今日まで成立していない(戦時に限定した徴兵制度はその都度実現。現代は技術進歩により短期徴兵ではプロの兵士が育成できず実効が疑われている)。この反軍文化が反転するのは、第二次世界大戦における勝利の主役が米軍であったこと、原爆・長距離爆撃機さらには弾道ミサイルの出現による島国としての安全性が消滅、冷戦によるソ連という強大な仮想敵国の出現、が相まって「脅威」に基づく戦略文化が育まれて行くことになる。

日米両国の戦略文化の反転に見るように、戦略文化は普遍的な文化ではなく、ある時期が作り出した刹那的な文化であるとし、現代の戦争が文化主体の戦争に変じてきていることから、狭量な軍事重視の安全保障策でなく、経済や世論形成も取り込んだ総合安全保障政策が不可欠と結ぶ。

本書で言う「戦略」は、国家安全保障(国家存立)の根幹にある考え方・基本対応方針の意で、いわば最上位の国家戦略、「文化」も極めて幅広く、戦略論として学ぶところが多々あった(軍事中心のものと比べ)。ただ、「脅威」と「文化」は独立したものではなく、「文化」によって「脅威」が変わるし、「脅威」によって「文化」も変わるのが現実、この点が今ひとつすっきりしなかった。

 

6) 天気でよみとく名画

-絵画鑑賞で気候・天候に思いを至らせたことはあっただろうか?思いもよらぬ名画鑑賞法を教えてくれる-

 


自分の家を持ってから、時々絵(版画を含む)を購入するようになり、リビング・玄関・廊下などに飾って楽しんでいる。画題は圧倒的に風景画(建物を含む)が多く、人物画にお金を払って求めたものはない。ただ我が国の画廊などで展示されているもの、あるいは美術館(特に欧州)で観る名作には人物を主題にしたものの割合が高く、逆に風景だけの作品は少ない気がする。おそらく写真が無かった時代には人物画の需要が高かったこと、宗教の啓蒙活動に効果的だったこと、写真普及以後では人物が画家・モデルの個性を表現する奥行きや幅を持たせることに適していること、などがその理由ではなかろうか。従って好みがはっきり出るのも人物画、対して風景画は無難だ。これは独断と偏見だが、人物画を好む人は絵画に対する造詣が深く、風景画を好む者はアマチュアではないか、と思ったりもしている。そのアマチュア風景画ファンとして、本書は絵をよく観ていないことを自覚させられる内容だった。風景ほど天候・気候に影響されるものが無いにも関わらず、鑑賞の際その視点をまったく欠いていたからだ。

著者は1981年生まれ、大学で教育学を学びTV・ラジオ局に就職、番組制作・キャスター・リポーターを務めながら2012年気象予報士資格を取得、2018年から東京造形大学准教授として教鞭を執っている人。絵画鑑賞は趣味だが、海外を含め著名美術館を訪れ、多くの作品に接している。

低地・高緯度の「光の絵画」としてオランダ、島国の気象を題材とするイギリス、温暖な気候のフランス、そして雲と雨の多様な表現の代表として日本を取り上げ、おまけとしてマンガ・アニメに描かれた気象現象を解説する。登場する画家は約20人、作品は24(マンガは除く)。また、すべてが風景画というわけではなく、レンブラントの描いた「夜警」のように、人物画の中の光を考察し、これが夜ではなく夜明け前の薄明であることを説明するようなものもある。

多様な空の表現は無論、雲の形や色合い、木々や穀物の描写から読み取る風の強さや種類、虹の出来方から推察する太陽の輝き、影の出来方から判明する季節と時刻、版画の空のぼかしや雨の彫り方からも気象条件が予想できる。霧中を描く作品も深く観察すればその土地の特徴を推察できるし、吹雪の中を漂流する船の姿から発達した低気圧接近を感じ取り、その先に到来する恐るべきホアイトアウトを思い浮かべる。暗い夜を描いたものさえ季節感が伝わってくるし、花の開花状態や空の色から春の兆しを観る者に伝える。

ルーベンスの「虹のある風景」、ターナーの「吹雪 港から流される汽船」、コンスタブルの「デタムの谷」、モネの数種ある「ルーアン大聖堂」、ゴッホの「星月夜」、広重の「東海道五十三次;庄野白雨」、北斎「富嶽三十六景;凱風快晴」のようなよく知られた名画を始め、全作品をカラー口絵や白黒写真で解説、これに30頁におよぶ気象用語解説が加わり、気象や季節を読み解く眼を養ってくれ、これから風景画を観るとき、今までとは異なる視点を学ぶことができた。絵画評としてはさほど斬新さ・深みのあるものではないが、風景画ファンには一読をお薦めする。

 

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