2025年8月17日日曜日

満洲回想旅行(12)


12.新京回想

ツアー参加最大の眼目は、生まれ育ち7年を過ごした新京(現長春)訪問にある。もう少し若ければ、ここを中心に個人旅行としたいところだが、もうそれは叶わない。満洲旅行のプランはいくつかあるが、長春泊はこのツアーだけだった。夕方着いて翌日昼食後はハルビンに向かうスケジュールで最も時間を費やすのは僞満皇宮博物館(満洲帝国皇帝溥儀の居所;仮住まい)、とても個人の関心事に割ける時間はなさそうだ。それゆえ、添乗員から事前電話をもらったとき、現地ガイドと差しで話し合える時間を作って欲しいとお願いし、現地で長春の詳しい地図を入手出来ないかと問うた。ガイドとの対話時間は快諾してもらえたが、地図については現地でそのガイドに聞いてみるとの返事だった。


7年新京に居たとは言え、子供の記憶に残ることは、自宅周辺と特に印象深かった場所に限られている。そこで、事前に質問事項を整理しておいた。それらは;①自宅周辺(当時の住所は天保街)、②自宅(社宅)の東側に在った満洲国財務大臣韓雲階の豪邸、③通っていた桜木小学校(国民学校)、④市街中心部へ出るための路面電車、⑤建設途上で工事中止となっていた宮廷府(新宮殿)、⑥“城内”と呼ばれていた中国人街、⑦動物園、⑧引揚げの際利用した南新京駅、⑨何度か母と出かけた三中井百貨店、⑩長春は共産政権誕生後から自動車産業都市として発展したが、それと父が勤務していた満洲自動車との関係、である。


625日(水)晴。この日の朝食は5時半開始と早いので、6時過ぎにレストランに出かけたところ、添乗員補助に転じている孫さんに会い「艾(アイ)さんいつも早いから、約束の時刻7時半より早めにロビーに来た方がいい」と助言され、7時過ぎに下りてみると案の定現われており、早速質疑を開始した。私の持参したものに日本統治下の新京の地図があったので「これを開いていいですか?」と問うと「問題ありません」と返ってきた。ただし、私の所望した現在の市街地図は求められない、とも言われた。


上記の質問事項に対する回答はほぼ以下のようなものだった;①自宅付近は再開発され日本統治時代のものは何も残っていない。②に対しては、人物そのものを知らないかった(私のつかんでいる情報;韓雲階は日本統治時代汚職で失脚、戦後の国共内戦を巧みに逃れ、台湾経由で米国へ亡命)。③私が質問を発する前に、質問メモを見て「桜木小学校は残っています。ただし、建物は更新、今は長春第二中学校になっています」と話しだし「桜木小学校の同窓会が何度かこの地で開催され、私がそれをアレンジしました」と続けた。終戦までのわずかな月数だけのOBだが、知っていれば参加したかった。④路面電車はごく一部残るだけ、軽軌と呼ばれる近郊電車に変わっている。⑤宮廷府はその後吉林大学自然史博物館、地質宮として完成、市内観光途上、近くでバスを止めてくれるとのこと。⑥“城内”は、昨晩夕食を摂ったレストランが在った一帯。確かに整然とした市街中心部と違っていた。⑦動物園は昔と同じ場所に在る。⑧南新京駅は在来線の長春南駅と改名して同じ所に在る。⑨三中井百貨店はリノベーションして長春百貨大楼として現存、ここから直ぐ近くだから観光に出発する前に出かけてみましょうと質問が終わるとそこまで案内してくれた。⑩長春に満洲自動車の生産工場は無く、大きな整備工場だった。長春汽車とは関係ない。確かに、記憶でも工場に生産ラインのようなものはなかった。ソ連侵攻で疎開した、少し南に在る公主嶺の工場には沢山の新車トラックが並んでいたのとは規模の違いがあり、彼の回答に納得した。


8時過ぎには回顧談は修了。艾さんは立ち上がり「三中井まで行ってみましょう」と誘う。5分ほどでそこに着き「大幅に内部はリノベーションされているが、所々に昔の面影が残っています」と言い、その一例として建物の角を指し、「中国の建物では角が円形になっているものは、ほとんど無い」と説明してくれた。入学前の幼児に近い年齢ではそんな記憶は全くないが、確かに、付近の他の建物とは、明らかにそこは違っていた。ビルのたたずまいはともかく、ここで防寒靴を買ってもらった記憶が蘇ってきた。

 

写真上から;市内中心部地図、三中井百貨店全景、角の丸味、宮廷府(地質宮)全景

(クリックすると拡大します)

 

(次回;ラストエンペラーの住まい)

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