2025年3月31日月曜日

今月の本棚-200(2025年3月分)

 

<今月読んだ本>

1)かながわ鉄道廃線紀行(森川天喜);神奈川新聞社

2)『富嶽三十六景』の図像学(岡林みどり);清水書院

3)昭和問答(松岡正剛・田中優子);岩波書店(新書)

4)検証空母戦(L.サレンダー);中央公論新社

5)「俳優」の肩ごしに(山崎努);文藝春秋社(文庫)

6)移民リスク(三好範英);新潮社(新書)

 

<愚評昧説>

1) かながわ鉄道廃線紀行

-鉄道開通の一方の端だけに、知られざる路線が数々、廃線の理由も多様だ-

 


所帯を持って本年で55年。この間住まいは横浜市→横須賀市→横浜市と移動したものの神奈川県民を続けている。子・孫5人は全員浜っ子。しかし、私自身は県民・市民意識は希薄で、ふるさと意識は学童・学生時代を過ごし、勤務も長かった都心にある。それもあり鉄道ファンであるにも関わらず、この地で利用したことのある路線は限られている。通勤で利用したのは、京浜東北線・横須賀線・京浜急行の3線、私用で頻度の高いのは東横線・横浜市営地下鉄くらいである。いずれもラッシュ時以外でもかなりの乗車率で、廃線などとは無縁である。それもあり本書の出版を知人のフェースブックで知ったとき、「首都圏を構成するこの地に、一冊の本になるほど廃線路線があったのか?」と軽い衝撃をうけた。それが「あるある」なのだ。

著者の生年は不祥だが横浜市出身、大学卒業後IT企業を経てフリージャーナリストに転身、主に旅行・鉄道を対象としているようだ。本書は神奈川新聞電子版「カナコロ」に連載していたものに加筆して作成されたとある。

1872年新橋-横浜間に我が国初の鉄道利用が始まったことはよく知られている。しかし、この横浜は現在の横浜駅ではなく、京浜東北線の桜木町駅付近であった。廃線として取り上げられるいくつかは、このことと深く関わっている。一つは、東海道線の延伸、もう一つは貨物(1873年から開始)を中心とした臨港・臨海支線がそれらだ。前者は国府津から当初は御殿場経由で沼津に至る。このため国府津から先小田原、さらに遠方の箱根湯本や熱海へは小田原馬車鉄道(のちに小田原電気鉄道)と豆相人車鉄道(のちに軽便鉄道化)でつなぐことになる。箱根湯本への路線はやがて現在小田急線に転ずるが、路面電車部分は1954年まで営業している。豆相人車鉄道は小田原から文字通り人力で熱海に達する路線。早川・根府川・真鶴などを経る経路、今でも海沿いの道路は起伏が激しい。ここを数人の客を乗せて有蓋トロッコで客を運ぶのだ。1896年創業だが、人件費がまかないきれず1907年には小型蒸気機関車で牽く軽便鉄道に変わっている。芥川龍之介の短編「トロッコ」はこれがモデルなのだ。1923年の関東大震災で線路が崩落、以後廃線となった。

牛馬中心の貨物輸送を少しでも便利にしようとした路線に1906年から1937年まで営業していた湘南軌道がある。神奈川県県央の秦野と東海道線の二宮を結び、葉たばこ輸送が主務だったようだが旅客輸送も行っていた。二宮から東京方面や関西に向かうのだ。しかし、小田急線の開通により需要が急減、1937年廃線となっている。この鉄道の存在は本書で初めて知った。

多くの頁が割かれるのは横浜市電。1904年神奈川(現青木橋)と大江町(桜木町)からスタート、12路線営業キロ数52km、最盛期(1947年)には年間乗客数122百万人に達するが、バス・自家用車の普及で1972年その役目を終えている。

川崎市電があったことはかすかに覚えているが、工場の通勤とは無縁であったために利用したことはない。この路線は臨海工業地帯通勤者のために戦時の1944年開通、反時計回りで、これも廃線となった川崎の産業道路沿いに一時走っていた海岸電軌(京浜急行系)とつながり、さらに京急大師線に接続、直通電車は無かったものの、川崎環状線を構成していたのだが1969年廃線になっている。

この他、1年半しか営業しなかった大船駅とドリームランドを結んでいたモノレール(車両重量過重)、相模川や多摩川の砂利輸送から始まった現JR相模線や南部線の支線、桜木町から赤レンガ倉庫地帯を結ぶ汽車道、大桟橋付近の高架プロムナードに変じた臨海貨物支線、さらに副都心線とみなとみらい線の結合で消えた東白楽から桜木町までの東横線など、多彩な地図や写真で廃線後の今を紹介する。旅情を誘うという点では宮脇修三の廃線ものに一歩譲るが、鉄道先進県だけに過疎で廃線となる地方とは異なり、その多様な背景に考えさせられることが多かった。

 

2)『富嶽三十六景』の図像学

-北斎版画でたどる著者独自の日本史解釈、4巻目の本書で完結、江戸時代は「富嶽三十六景」で-

 


趣味というものは何でも、少し本気で取り組めば奥の深さを感じ、さらに深みに入っていく。私にとってその一つに版画がある。とは言っても年一回の年賀状作り程度、とても本格的なものからはほど遠い。多色刷りの版画を学んだのは中学生の時、その年の年賀状は親戚筋に好評だった。爾来毎年とはいかなかったものの、手製版画賀状を出すようになった。転機は1963年にやってくる。当時和歌山工場勤務だったが、郷土玩具の世界ではよく知られた先輩が、関西在住の版画家を呼んで講習会を開いてくれた。ここで初めて伝統版画の技法を学び、彫りや刷りを含む版画全体の出来映えを楽しむ知識を得た。しかし、本書における北斎の「富嶽三十六景」分析は、さらにその先にある、作品に込められた作者の意図を探るもので、単なる美術鑑賞の域を超えた内容となっている。

著者は東大で化学を修めたのち化粧品会社に入社、研究部門に長く在籍、後年同社の文化調査部門に転じ、その時代異業種交流の場を通じ友人となった。早期退職後日本語や日本史研究に注力していたが、それは独自の切り口から挑む全4巻の国史論・国土論の助走であった。その4巻は;①狂歌絵師北斎とよむ古事記・万葉集(2018)、②百人一首の図像学、③文化史よりみた東洲斎写楽、それに本書となって結実する。既刊はいずれも本欄で紹介済みだ。

4巻に共通するキーワードは“図像学”。図像学(Iconography)とは、絵画・彫刻・図像・その他の視覚的表現に込められた意味や象徴を研究する学問。モチーフやシンボルの背後にある文化的・宗教的・歴史的は背景を解読し、観るものにどのようなメッセージを伝えようとしているかを探ることにある。つまり単なる美術鑑賞の手引書ではない。著者は北斎の作品の中に、古代から中世、さらに江戸末期までの世相を北斎がどのように見ていたかを探索していくわけである。古代・中世では、記紀・万葉集・古今和歌集、少し下って百人一首、そして江戸時代では同業の写楽を援用して、著者の絵解き結果を開陳する。

本書で対象となるのは「富嶽三十六景」(46枚)。補完的に「諸国瀧廻り」(8枚)と「諸国名橋奇覧」(11枚)が図像学の観点から考察され、特に北斎の生きた幕末の政治・社会情勢を踏まえ、それぞれの作品に北斎が込めた意図を浮かび上がらせる。先ずこれら一連の作品は単なる風景画ではなく地誌図(地理図)であると判じ、そこから伊能地図、さらにはシーボルト事件(1828年)にまで言及する。また出自が御家人であったこともあり、尊皇・佐幕対立の中で苦悩する姿が、いくつかの絵の中に垣間見られると説く。三十六景をこんな観点から深読みするなど考えもおよばぬこと、それだけでも研究の斬新さに驚嘆させられた。

著者は理系出身者、本書に限らず他の3巻も含め、数理・図形を駆使して原材(詩歌、歴史、地理など)と絵の関係を追求していく。それは暦法・方角分・天文・歌番などにもおよび、今回も星図や数字根に関しそれぞれ一章が割かれ、これはこれで勉強になった。そんな一つに三十六景が36枚でなく46枚描かれていることの謎解きがある。2×23(ふじさん)=46だからとあるのはマンガチックだが、北斎ならやりかねないとの気にもしてくる。

著者は本書を完成させる過程で、美術館ばかりでなく疑問を呈されている北斎作品の現地調査も行っている。例えば、江ノ島と富士山の位置関係がおかしいとの説を検証するため房総半島(三浦半島ではない)まで出かけ、それがあり得ることを確認している。さすが!の感だ。

少々残念なのは、第3巻「写楽」では作品の多くが色つき口絵として巻頭に掲載され内容理解に大いに資するのだが、本書ではごく一部に限られ、参照すべきネットのURLが記されているものの、このアドレスにアクセスしても直ぐに目的の画面に達することが出来ず、むしろWikipediaで「富嶽三十六景」と入力する方が簡単に画面にたどり着けたことだ。

 

3) 昭和問答

-膨大な書物を読破した編集者・著述家松岡正剛が独立・自立を主題に法大総長田中優子と昭和を語る-

 


本欄も今回で200回に達した。読んだ本の備忘録としてスタートしたが“愚評昧説”と深く考えもせず題したため、感想文程度の内容を書評と誤解させてしまい恐縮している。ただ専門家の書評や読書論には目を通し、少しでもそこから学ぼうとの気持ちはあるのでご容赦願いたい。その専門家の一人に本書の対談者松岡正剛がおり、ネット掲載書評「千冊千夜」を長期続けてきていた。残念なことに本書対談の直後に急逝、連載も1850夜で絶筆となった。この書評の内容が他のものと決定的に違うのは、主題として取り上げられる書籍の評に着手前、多いときには20冊を超える関連著書を解説、それからおもむろに本論に入る手法を採っていることだ。千夜一万冊と改めてもいいほどの膨大な読書量に圧倒されてきた。絶筆(絶談)となるらしい本書で業績を偲ぶべく読んでみることにした。

同じ対談者によるこの“問答シリーズ”は2017年の「日本問答」、2021年の「江戸問答」が既に刊行されており、本書はその3巻目となる。先の2冊を読んでいないのでシリーズとしての一貫性有無は定かでないが、本書を読む限り二人による対談昭和史と言っていいだろう。自身の周辺を話題にすることが多いので、二人の略歴を簡単に紹介する。

松岡正剛;1944年生まれ。家業は京都の呉服屋で、戦後京都→東京→京都→横浜と移動。高校は都立九段高校を卒業、早大文学部仏文科で学んでいる。4年時父が多額の借金を残して死去、学資が続かず中途退学をしている。また高校3年時60年安保に直面、大学入学後特定のセクトに属してはいないが学生運動にかなりのめり込んでいる。大学中退後広告会社勤務、友人と雑誌社を立ち上げ、のち独立して編集工学研究所を主宰。広義の情報(遺伝子情報などを含む)を組み合わせることで新しい視点や発見を生み出すとの考え方を研究活動方針として、高度情報化社会に種々の提言をしていく。

田中優子;1952年生まれ。横浜のサラリーマンの家庭に育つ。女子中高一貫校を卒業後法政大学文学部日本文学科で修士課程まで進み(江戸文化専攻)、その後オックスフォード大学研究員として滞英、帰国後社会学部長などを経て2014年から2021年まで法政大学総長。学生時代には三里塚闘争などで学生運動に関わっている。

二人の共通点は文学専攻で学生運動に関わっている点だが、本書を読む限り左翼活動家の印象は感じない。松岡と田中の年齢差は8年、発言量に大差ないが、松岡がリードしていることは明らかだし、読後感は圧倒的に松岡の発言が残る。

対談を始めるにあたり、問答するための問題提起を行う。それは類似する二点の問い一つは「国にとって独立・自立とは何か」、もう一つは「人間にとって自立とはなにか」である。国にしろ個人にしろ独立・自立といいながら、そこには常に競争があった、と見るわけである。読み出して直ぐにわいてきた疑問は、「それは昭和だけなのか?日本だけなのか?」だ。この疑問は最後まで解けない。

問答を進めるに当り昭和を4区分し、それぞれの時代を論じていく;①昭和元年から昭和20年(戦争の時代)、②昭和21年~昭和30年(戦後体制構築の時代)、③昭和30年~昭和48年(高度経済成長の時代)、④昭和48年以降(見直しの時代)。いずれの昭和にも共通するのは、国策推進において、不確実性に対するコンティンジェンシー・プラン(代案)を欠いていたことをあげている。欧米キリスト教国家が全知全能神存在に早くから疑問を感じとり、次善の策を用意してきたこととの違いを指摘している。これが権力構造の曖昧さと連動し、ひとたび方向が決まると一瀉千里で走り出し、機敏なフィードバックが効かない社会を作り出していると見る。当初の設問とは直結しないものの、昭和史分析としては一考すべき考察だ。

戦前では遅れてきた帝国主義、戦後は占領政策と対米追従主義を批判的に論ずるものの、戦後の世論主導役である左翼リベラルのように体制批判を専らとするわけでなく、中庸な昭和史観との印象を持った。これは、二人の活動分野が文化・文学にあることと無縁でなく、6章構成の内2章はいわば昭和文学総覧のような様相を呈し、大佛次郎・三島由紀夫・松本清張・大江健三郎から小松左京・大藪春彦まで多彩な作家・作品が問答の中で引用される。

設定設問に対する明確な回答は得られなかったものの、巻尾近くで「ようするに、自立というのは自分の持っているものを(人間関係の中で)どう使うかという問題なのだ」と総括、「アイデンティティ(個の独立)なんて敗戦日本の知識人が武装のために導入したに過ぎない」と断ずる。松岡らしい急所をズバリと突く遺言である。

あとがきによれば、本書は脱稿までに2年半を要したとある。その過半は松岡の3回目の肺がん発症にある。そして脱稿直後緊急入院20248月急逝している。

 

4) 検証空母戦

-空母とはまるで縁のないスウェーデン人戦後派が、初歩から学びながら執筆・検証した、わかりやすい空母戦入門書-

 


第一次世界大戦で戦場に登場、第二次世界大戦で戦略兵器まで発展した飛行機・戦車・潜水艦・電子兵器の発達史を多角的(技術・生産、人・組織、戦略・戦術)に調べ、ITの企業適用施策に生かしてきた。電撃的早さで欧州を制圧した独装甲軍、Uボートを集散させ英国を瀬戸際まで追い詰めた独潜水艦隊、レーダー網と戦闘機を連動させ英独航空戦を勝ち抜いた英防空システム、これに比すべき空母を集中運用、攻撃兵器に転じさせた我が機動部隊。いずれも兵器個体が優れていたばかりでなく、システム思考が後世の軍事システムに生かされていく。

代表的な空母戦、真珠湾攻撃・珊瑚海海戦・ミッドウェー海戦・マリアナ沖海戦については戦記・戦史書物が汗牛充棟、平積みの本書を眼にしたとき「いまさら」の感を持ったものの、著者の経歴がユニークな点に惹かれ読むこととなった。

著者は1954年スウェーデン生まれ。物理を修士課程まで学び、システム・エンジニアとして兵役に就き、レーダーやミサイルの運用経験を積んでいる。除隊後経験を生かしIT企業でレーダーや無線通信システムの設計に従事。また、自家用機の操縦免許を持ち、ヨットレーサーでもある。兵役経験はあるものの空母などとは無縁のスウェーデン人、かつ歴史家・軍事ジャーナリストでもないアマチュアが空母戦をどう描くのか、ここに興味が沸いた。

冒頭何故本書出版に至ったかが手短に語られる。一言で言えばエンジニアとしての好奇心。従って戦記・戦史そのものには当初関心は薄く、専ら空母の技術的な細部を調べては自身のホームページにエッセイを掲載し続け、そこから戦史の世界にも踏み込み、それをまとめたものが本書になったとある。従って本書の構成も、運用を含む細部を解説する第1部“空母運用の基本”から始まり、第2部“第二次世界大戦の空母戦”と続き、第3部で細部データ・情報をベースに著者作成のモデルを使い“空母運用の再検証”を行う。この内第2部は既刊書で語り尽くされた感のある内容、多少は知っていたものの、新知識を得たのは、英空母が対独伊に対して行った作戦くらいである。例えは、ノルウェーのフィヨルドに潜む独戦艦テルピッツ撃沈、イタリア半島先端にあるタラント軍港攻撃(戦艦ローマ撃沈;真珠湾攻撃先行モデル説もある)、マルタ島攻防戦(主任務は島への補充戦闘機輸送)くらいである。第二次世界大戦実戦に空母を投入したのは日・米・英の三国。著者はその運用に関し、風変わりなイギリス、ギャンブラー・日本、巨人・アメリカ、と総括する。“風変わり”は艦種や兵装に統一性がなかったこと、“ギャンブラー”は6隻もの空母で主力部隊編成をしていたこと(ミッドウェーは翔鶴修理中・同型艦瑞鶴待機でたまたま4隻)、 “巨人”は後半戦における大量建造・投入、からきている。

勉強になったのは第1部、知っているようで知らないことばかりだった。例えば、艦載機の搭載方法、搭載戦闘機の攻撃部隊護衛と空母上空防衛の使い分け、対空銃砲の性能・効果・組合わせ、飛行甲板・格納庫・エレヴェーターの構造・配置、航法と電波兵器の関係(隠密性・即時性・安全性)、エンジン形式と着水時事故の関係(液冷エンジンは冷却空気取入口による転倒多発、日米の艦載機はすべて空冷(彗星艦爆は水冷だったが実戦運用極少))、燃料補給(特に航続距離の短い駆逐艦)、攻撃部隊編成・運用(米は空母ごと直行、日本は2艦上空編成;航続距離の違い)、着艦制動索や滑走制止装置、などがそれらだ。

3部では、先ず太平洋戦争中における日米両国の機動部隊(米国は任務部隊)の変革が語られる。ミッドウェー海戦で主力艦4隻を失い正式空母の増強に遅れる日本。かたや陸続と就役する米艦。編成や戦闘法も激変。艦載機も開戦時と大きく変わらない日本に対し米国はヘルキャット、コルセアー戦闘機、アヴェンジャー攻撃機など2千馬力級エンジン装備の新型機が登場、対空銃砲の強化、加えてレーダーの機能・種別・稼働状況は日本を圧倒、奇襲攻撃を不可能にする。米空母の役割は空母決戦より島嶼上陸支援が主体になっていく。最後の空母決戦を期したマリアナ沖海戦では“マリアナの七面鳥撃ち”と呼ばれるほどの大敗で終わる。

次いで著者は新たな戦闘モデルを登場させ、いくつかの海戦を数値検証する。戦闘モデルで有名なのはランチェスターの法則。第一法則は古代からの戦闘をベースにしたもの(1次方程式)、銃砲を主体とした第一次大戦の戦いは第2法則と呼ばれ2次方程式で記述される。しかし、ミサイルのように一斉射撃し、発射基数も限られる戦闘においては2次方程式適用がそぐわないとし、米海軍軍人が1986年に提唱したゲーム・ターン原理(両陣営が多数のミサイルを一斉射撃し、ある確率でダメージを与える)に基づく確率的サルヴォ(一斉射撃)モデルを用いてそれを行う。つまり、空母戦はミサイル戦と同じとの考えである。これによれば1942年までは日本にも勝機があったが1944年にはほとんどその可能性は無しとなる。このモデルの適否を判断する知見はないが、194410月に戦われたレイテ沖海戦における米正式空母は17隻、日本に残存していたのは瑞鶴・瑞鳳・千歳・千代田の4艦(全艦この戦いで沈没)、モデルが示す結果は合致すると見ていいだろう。

参考文献・索引がしっかりしており、空母辞典的な利用に役立ちそうだが、訳が翻訳専門家でない(陸自一等陸佐)ことから単調な翻訳に不満が残った。

 

5)「俳優」の肩ごしに

-俳優山崎努の自伝的エッセイ。うまく演ずる役者より役に完全没入する演技者を!-

 


就職用の履歴書趣味覧に映画鑑賞と書いた。それほど映画を観るのが好きだった。入社後和歌山に赴任し愕然とする。封切り映画は蒸気機関車の牽く列車に乗って小一時間、和歌山市まで出かけなければ観られぬほど田舎だった。翌春研修目的で川崎工場に長期出張する機会が与えられた。起居するのは保土ケ谷寮、通勤の帰途横浜で下車、映画を観まくった。記憶に残る作品の一つが著者のデヴュー作、横浜を舞台とした黒澤明監督「天国と地獄」である。主演は三船敏郎、助演は仲代達矢と香川京子。しかし、最後に顔を見せただけの誘拐殺人犯山崎努の凄みは彼らを圧倒した。しばらくのち高校の3年先輩と知りファンとなった。しかし、近年こちらが最新の邦画やTVドラマを観ることが滅多にないこともあり、その動向が不明だった。そんなとき眼にしたのが本書である。

本書は43話から成る著者の自伝的エッセイである。誕生から孫が独立する執筆時点までのほぼ全生涯をカバーするが、読みどころは当然のことながら演劇・俳優にある。ただの人気タレントではない演劇人の真摯な姿勢が、軽妙な筆致の中に伝わってくる深みのある一冊だった。

生まれは現在の松戸市(当時は松戸町。私の実家もここに在ったし小学校も3年生から5年生まで通ったから文中の地名も知るところだ)。父は当地の工場に勤める染物職人、戦争末期召集を受け、母と生まれたばかりの妹3人は母の郷里柏に疎開する。終戦後父が復員、この地で零細な染物工場を立ち上げるものまもなく死去。ここから一家の苦しい生活が始まる。新聞配達・牛乳配達・納豆売りなどを経験、上野高校の夜間部に進み、晝間はネオンサイン管工場で働くような生活がつづく。そんな折池之端に在った映画館に出入り(上野日活を始め34軒の映画館が在り私もよく出かけた)、ここで観たマーロン・ブランドの演技に触発され(多分「波止場」だろう)、演劇人を目指すことになる。演劇に精通した友人のアドヴァイスにより俳優座養成所を受験し合格。ここに3年通うがどん底生活は変わらず、見かねた同期生の河内桃子が密かに千円札を渡すシーンもでてくる。

1959年卒業後入団するのは杉村春子や芥川比呂志、岸田今日子等の所属する文学座。ここでもなかなか芽が出ず、1961年「天国と地獄」のオーディションを受け、あの役を獲得することになるのだ。1963年公開、映画は大ヒットし著者もスターに変身、演劇人環境が激変する。これをテーマにした話は数話にわたり、角度を変えて語られる。その後の黒沢作品(影武者、赤ひげ)への出演、三船敏郎との関係、TVへの出演依頼などなど。

しかし、著者の本業は舞台俳優、この思いが文学座では叶わず、芥川比呂志や仲谷昇など幹部俳優達が新劇団「雲」を立ち上げる際行動を伴にする。「雲」には11年在団しそれなりの役を演ずるが、それでも「自分のやりたい演劇ではない」と感じ、37歳でフリーとなる。

「やりたい演劇とは何か、どんな役者になりたいのか」。それは「それなりの役をうまくこなす役者」でも「観客を感動させる役者」でもなく「(原作解釈に基づく)その役になりきる役者」を演ずることが許される演劇である。新人時代音楽劇に出演、その他大勢役は口をパクパクさせるだけなのに思わず歌ってしまい音楽監督に叱責されたこと、映画出演で思わず台本にない台詞を発し、監督に褒められたことなどにその片鱗を窺える。しかし、「ここまでいくのか!」とその没入ぶりにある種の感動さえ覚えたのは、長期公演が終わり、のんびり過ごす日々が来たにも拘わらず、ある時刻になるとまるでスウィッチが切り替わったように全身がカーッとなり、動かずにはいられなくなる話だ。原因不明、医師の診断を考えるが、それが開演時刻であることが判明する。ここまで神経や身体が演劇人化すると体力の低下が舞台俳優の限界となる。19981月「リア王」をもって舞台俳優を引退、短い演技をつないで作る映画やTV作品への出演を専らとしているようだ。

舞台演劇を観たのは海外でのミュージカルを含めて十指に満たず、演劇の楽しみ方にはまったく無頓着だった。本書を読み「遅きに失した」との思いしきりである。

 

6) 移民リスク

-働き手不足を補うための労働者移民、理想主義に走る難民受け入れ、外国人不法滞在者の声ばかりを報ずるメディア。安易な我が国外国人受け入れ体制に対する警告の書-

 


1985年石油企業の情報システム部門を分社化して情報システムサービス会社を立ち上げた。石油市場の成熟とIT産業の将来性を見越してのことである。急成長する業界で経営拡大を図るにはそれに見合う人員増強策が不可欠。2年後からプロパー社員の採用を開始するものの、なかなか思うような人材を確保できなかった。そんな折り1990年代初期、中国の人材派遣を扱う専門日本商社から中国人技術者の紹介を受け、5人ほど契約社員として採用した。すべて中国の代表的な工科系大学卒で基礎的な日本語の研修も受けていた。一人で顧客対応は無理だが、専門知識は充分満足できるレベルで大いに戦力となった。シリコンバレーIT産業の隆盛がインド・中国・ロシアなどからの移民で支えられている現実からも高度技術を持つ外国人人材の受け入れには、基本的に賛成だ。しかし、短期ビザ入国の不法長期滞在者や難民と称する出稼ぎ外国人によって各所で起こっているトラブルを見るにつけ、目先の人手不足解消や軽佻な人道主義に基づく、安易な外国人受け入れは再考すべき段階に来ていると考える。その現状を知るべく本書を手に取った。

著者は1959年生まれの読売新聞社記者。特派員としてタイ・カンボジャに計3年、ドイツに計9年半、米国に1年滞在、取材でコソボ・ウクライナ・パレスチナ・アフガニスタン(いずれも難民発祥地)などに赴いた経歴を持つ。また、本書をまとめる過程でトルコのクルド人居住地域や難民問題に揺れるドイツで取材を行っている。

本書はジャーナリストが著わしたこともあり、一見不法滞在外国人に関する今日的な話題をセンセーショナルに伝える内容を予想したが、読んでみると入出国管理を基本から、広範に学べる優れた啓蒙書であった。「入出国管理は国家成立の基盤である」が貫かれる執筆方針で、批判は著者のホームグラウンドであるマスメディアとそれを信じる世論にも向けられる。報じられているのは専ら不法長期滞在者やそれを支援する組織の言い分なのだ。

1章は20235月に起こった川口市医療センター騒動(クルド人同士の傷害事件;救急センターを一時閉鎖、機動隊出動)で注目されたクルド人不法滞在者問題。川口市にはおよそ1600人のトルコ国籍人が居住するがその大部分はクルド人。彼らは政治難民を主張・申請しているが、母国調査を含め、これが出稼ぎ滞在者であることをつまびらかにする。違法な解体工事業や犯罪率の高さでその危険性が具体例や数字で示されている(これはあとの章でドイツでも同様なことがわかる)。

2章は入出国管理の現状と問題点が解説される。ここで話題として例示されるのは20233月名古屋の入管施設で病死したスリランカ女性。実質は一種のハンガーストライキであったにも拘わらず、出入国在留管理庁(入管庁)の非道な扱いのように報じられた件だ。彼女は配偶者からの暴行を理由に難民申請するが認められず、何度も申請を繰り返す。申請中は強制送還されることがないことを知ってのことだ病気を訴えたりするが、胃カメラや外部医師の診断でも異常は認められず、拒食で体力を低下させた結果死に至る(コロナ禍の最中であり、この点でも入管庁にできることに限界があった)。人権団体の一部やマスコミはこれを「入管の闇」と難じ、一方的に(違法な)収容者に与する論調を展開する。本書では入管庁の現場がどのようであるかを詳しく解説、入国警備官、難民認定制度、送還停止効(難民申請中は送還を停止する;5回の申請で20年滞在した例もある。現在は2回に改正)、強制送還の難しさなど初めて知ることばかりだった。

3章は移民規制に舵を切ったドイツの現状。3波わたる難民処理(第1波は冷戦、第2波冷戦崩壊、第3波は20152015年の欧州難民危機)で積極的な難民受け入れを続けてきたドイツが直面する移民危機(犯罪から社会混乱まで)を概説し、これを他山の石として学ぶべきと主張する(例えば、ドイツではクルド人を難民対象にしていない)。

社会の多様化や人道主義の理想あるいは少子高齢化対策ばかりが強調される昨今の我が国外国人受け入れ体制、もっと現実を直視し、報道を含めて国の将来を考える施策を採るべきと結ぶ。ポイントは伝統的社会に統合(同化)できる数(ドイツは約20%が人種としては非ドイツ人)と質である。「全面的に同意!」が読後感である。

 

-写真はクリックすると拡大します-                                                                              

  

2025年2月28日金曜日

今月の本棚-199(2025年2月分)

 

<今月読んだ本>

1)間に合わなかった兵器“新装解説版”(徳田八郎衛);光文社(文庫)

2)なぜ働いていると本が読めなくなるのか(三宅香帆);集英社(新書)

3)グッドフライト・グッドシティ(マーク・ヴァンホーナッカー);早川書房

4)アメリカ・イン・ジャパン(吉見俊哉);岩波書店(新書)

5)陸軍作戦部長田中新一(川田稔);文藝春秋社(新書)

 

<愚評昧説>

1) 間に合わなかった兵器“新装解説版”

-博士課程修了の陸自技術士官が専門知識を駆使しての第二次世界大戦兵器評価-

 


19947月小規模な異業種交流の勉強会に参加した。その時講演をしたのが本書の著者である。テーマは自衛隊を中心にした軍事技術の現状。そこで話題になったことの一つに、前年北朝鮮が日本海に向けて発射した初のミサイル、ノドンがあった。一時大騒ぎしていたが、著者の見解は恐るるに足らずだった。あれから30年、北朝鮮は原水爆を開発、大陸間弾道弾(ICBM)発射実験も何度か行っている。どこまで完成度が高いかは不明だが、国際交渉の切り札になってきている。つまり、彼の国にとっては“間に合った兵器”なのではかろうか?そんな折、本書の出版を知った。元となる単行本は1993年刊、その後文庫本化され、さらに今回“新装解説版”としていくつかの新情報が加えられている。実は先の勉強会のあと単行本を購入、続いて1995年に出た「間に合った兵器」も手許にあるが、“新装解説”が読みたく、本書を求めた。とは言っても付加部分だけでなく全文を読む結果になったが。

私がこの人の講演や著書に惹かれた最大の理由はその経歴にある。生年は1938年、遅生まれなので国民学校(小学校)就学は私と同じ1945年(昭和20年)、京大理学部で物理を専攻、大学院博士課程を終え、陸上自衛隊員となる。この背景は1950年代に発足した「自衛隊技術貸費学生」の第一期生として採用されたことにある。入隊後は通信を含む電子兵器とその運用に従事(実戦部隊、幕僚監部)、この間防衛大学校教授として防衛工学を講じている。1993年一等陸佐で退官。軍事技術に興味を持つ者として、これまで軍事評論家・戦史研究者・戦記作家などの作品に触れてきたが、戦前の技術士官を除けば、科学技術を基本から学んだ人の作品は皆無。それだけに客観的視点からの技術解説は他書と一線を画す内容になっている。加えて、用兵者と技術者が仕様を詰めていく過程の調査が行き届き、技術以外に時々の政治(戦略・戦術を含む)や経済事情が反映されている点も、“間に合わなかった兵器”理解を深めてくれた。

本書は6章から成り、一つを除き(後述のソ連)一種の兵器を取り上げる。しかし、それぞれの中で語られるのは特定の一機種では無く、関連する兵器にも言及する。例えば、第1章はほとんど活躍することの無かった日本軍戦車を取り上げているが、戦車開発史とともに対戦車兵器にも触れ、対戦車砲、対戦車爆雷、対戦車ロケット砲(代表的なのはバズーカ砲)の戦闘方法や有効性について詳述する。この中で我が国対戦車兵器として47mm砲の有効性を多くが認めながら、歩兵側から主力兵器は駄載(分解して馬の背に乗せて運ぶ)必須の条件が出て、非力な37mmが採用される話が紹介されている。

紙数が多く割かれているのが、著者の専門領域である電子兵器のレーダーと通信機器。レーダーの原理は八木秀次(のちの阪大総長)考案のアンテナがその一つとなるのだが、海軍は隠密行動を旨とするため、しばしば無線封鎖をするほど。電波を発して索敵するなど「闇夜に提灯」と開発・装備を忌避、むしろ陸軍の方が研究開発では遙かに先を行っていたことを明らかにする。また、第一次大戦時の一騎打ちとは異なり、編隊戦闘が主流となった空戦では無線電話による通話が桁違いの効力を発揮するのだが、雑音や重量増加、さらには故障多発で用兵者に嫌われ、マリアナでの航空戦では無線電話装備の米軍に「七面鳥撃ち」と揶揄されるほどの大敗を喫している。

異色の章は「間に合わせたソ連の底力」、独ソ戦初期で大敗・退却を続けたソ連軍がやがて巻き返して行く過程を、生産技術を中心に分析解説する。疎開工場の立ち上がりの早さ、量産最重視の設計・生産、驚異的な生産力の実態を本書で初めて知った。海外が主題はこれとドイツのジェット機開発、その他はすべて日本軍、中でも陸軍関連が多い。戦前の軍事技術と言えば海軍が先行していたので、これも本書から学ぶことが多かった。

用兵思想(攻撃重視、防御軽視)、広義の技術の遅れ(材料、工作機械、標準化)、経済力の限界(数か性能か)、様々な制約の中で苦闘する技術者・技術将校たちの姿を終戦80周年の今振り返るに相応しい一冊であった。

 

2) なぜ働いていると本が読めなくなるのか

-一見軽薄なタイトルだが、実は優れた維新以降の我が国労働・読書史-

 


本欄ブログを開始してから月平均6冊、年間で約70冊読んでいる。時々「速読術でも習得したんですか?」と問われることがあるが、まったくその心得は無い。今は書くことが加わったのでこの程度だが、現役時代読むだけなのでこれ以上だった。だから挑発的な題名を目にし、「そんなはずはない」と読んでみることにした。何か軽薄な自己啓発書を思い浮かべるようなタイトル。序章は予想通り若者の書籍離れから始まり、労働と読書の関係に展開していく。しかし、読み進むに連れ、これは著者の巧みな撒き餌と気づかされる。結論を言えば、本書は優れた「近代日本労働・読書史」である。今や終末までの時間つぶしに堕している、私自身の読書を再考する機会を与えてくれた。読後感は「負うた子(孫?)に教えられ」だった。

著者は1994年生まれ(若い!)、少女時代からの読書好きが嵩じ京大文学部に入学、同大学院人間・環境学博士課程まで進んだ人(専門は萬葉集)。一旦IT企業に就職し3年半勤務、そこでの体験(ネガティブにとらえていない)が著述業に転じる結果になっている。既刊書はすべて文学・文芸・文章・読書に関するもの。本書はウェブサイト「集英社新書プラス」連載記事を加筆修正したものとある。

本書で取り上げる時代は明治維新以降現代まで。時代が下るに従い時代区分が短くなる構成だ。時代背景を述べたのち、どんな読者層が何を目的に読書してきたか、どんな書物が好まれたか、読書環境は如何様だったか、をよく売れた本(ベストセラーと言う言葉は1950年以降使われるようになった)を例に挙げながら、解説していく。

近代的読書習慣が始まるのは明治から。政府は国民全体の知的水準を上げるため読書を奨励する。当時のベストセラーは福沢諭吉の「学問のすすめ」、これは政府・自治体などが公費を投入し学校などに配布した。それと並行して売れたのが「西国立志編」。欧米人成功者の立身出世物語を列記したものだった。つまり、この時代の読書人は自らの出世を願い、自己啓発を目的に読書をしていたわけである。また図書館の開設が始まり、読書の機会が増えていく。しかし、自己啓発や図書館利用をする人は学生や知識人が主体、読書史の出発点から階級格差が存在し、最近まで続いたと言うのが著者の見解である。

この階級格差は大正になるとさらに明確になる。次第に増えていくサラリーマンは、労働者階級との差別因子として“教養”を意識するようになる。自分の市場価値を高めるのは教養であり、読書をサバイバルツールとして位置付けるのだ。この知識層の教養傾斜に対し、労働者階級は実践・実利を旨とする“修養書”が主たる読書対象となっていく。

昭和に入り関東大震災後読書を取り巻く環境は激変する。サラリーマンが増加、彼らの住居は郊外に広がっていく。自宅を構え、応接間や書斎を設ける。そこに教養を具体的に示すインテリアとして全集物が飾られるようになる。代表的な例は、改造社刊行の「現代日本文学全集」(当初予定全37巻、最終62巻)。事前一括予約制だが支払いは1円/月(円本)。月給制となじみ大ヒットするが、実態は積読のはしりだったらしい。一方で教養アンチテーゼとして大衆小説も人気をはくし、週休制の普及、通勤途上の時間利用と相まって、一段と読書習慣が進んでいく。

戦後に入ると経済復興・発展に伴い教養指向層は拡大、サラリーマン小説や文庫本がそれに応えていく。他方労働時間も1960年には一人当たり年2426時間となり、戦後から現代に至る間のピークに達している(2020年は1685時間)。つまり、労働時間の長さだけで読書量を論ずるには無理があるのだ。

高度成長期からバブル期にかけては自らの努力が企業成長に直結する感を抱かせ、皆「坂の上の雲」を見つめながら研鑽に励む。司馬遼太郎作品に代表される歴史小説、ビジネス書がよく売れ、一億総中産階級化で女性も含め階級格差から解放されて、読者層が多様化・拡大していく。一世帯当たりの書籍購入費は197914206円となり、これがピークとなる(20207738円)。

バブル崩壊・成長の停止は「仕事で頑張っても日本は成長しない。社会は変わらない」という風潮になる。自己実現の方策として、うまく波に乗ることに注力。読書離れの進む中で自己啓発書がそれに反比例するように売れる。例えは「片付け本」「脳内革命」「超勉強法」などがそれらだ。自己啓発書の特徴は、自己の制御可能な行動の変革を促すことにある。逆に制御不可能なことはノイズ(雑音)に過ぎない。こうして文芸書・人文書が遠ざけられていく。

2000年代に入ると、インターネットが普及、それまでの社会的ヒエラルキーが無効化され、むしろ現実の階級が低い人にとっての武器になり得る存在になる。この先にあるのが「反知性主義」。従来の人文知や教養の本と比較してノイズの無い(自己に役立つ)情報がインターネットを通じて得やすくなる。情報=「今」知りたいこと、対して知識=知りたいこと+ノイズ、と言う構図だ。「働いていると本が読めない」は時間だけの問題では無いのだ、と労働と今様読書の関係を冷徹に分析する。

続けて2010年以降のスマートフォンによる「早読み」や「読書術」「速読術」本ブームを「ファスト教養」と批判的に語り、「教養とは、本質的には自分から離れたところにあるものに触れることなのである」と著者の読書観を明示、労働と趣味・娯楽・教養を両立させる「半身で働く(手抜きでは無い)」生き方を提言して結びとする。

全編、自身の読書体験・スタイルと比較しつつ読んだ。両親・友人たちから批判され続けてきた「活字中毒」「乱読」「雑学」、読書の動機に「教養」は皆無。読書欲を突き動かしているのは「好奇心」、他人にはつまらぬことでも「新知識の習得、未知のことの理解・解明」にえもいわれぬ満足感をおぼえる。狭義の自己啓発書(ハウツー物を含む)は英語とITに関するもの以外手にしていないが、伝記類は好きなジャンルだから、そこから学ぶことはあった。現役時代、一部のビジネス書を除き、役に立つか否かを考えて本を購読することはなかった。プラント建設やシステム開発が多忙な時期に読書量は若干落ちたが、仕事に読書の楽しみを奪われたという思いは無い。この点で著者の見解「読書離れは時間では無い」にまったく同意だ。この人と読書に関して語り合えたらどんなに楽しいだろう。そんな思いで読了した。

 

3) グッドフライト・グッドシティ

-「グッドフライト・グッドナイト」の続編だが、重きはグッドシティにあり、40を超す都市の街案内-

 


2019年満80歳になったところで、家人と相談の上海外旅行を終わることにした。ツアー参加もそれなりに苦労する場面があったからだ。クルマの運転は趣味だし、国内は既に全都道府県廻ったものの、行きたいところはまだ多々残っていた。これからはもっとクルマ旅を、と旅先・手段をそちらに移すことにした。しかし、同年62度目の北海道ドライブを楽しんだ後、8月下旬急に下肢に異常を感じ、9月硬膜下血腫と診断され、入院手術となった。丁度高齢者研修の時期と重なり運転免許更新を断念、折からのコロナ禍あり、爾来国内旅行も出来ず、悶々とした日々が続いた。唯一の旅禁断症状治癒策は旅の本を読むことである。数々の紀行文・旅行記の中で、昨年9月本欄で紹介した「グッドフライト・グッドナイト」は現役エアーラインパイロットが著わした旅行エッセイで、空に関わる詩情溢れる内容に強く惹かれた。同じ著者による邦訳2巻目、今度はどんな世界に触れられるのだろう。そんな期待で本書を手にした。

邦題は似たようなものになっているが、原題は、前著が「Skyfaring(大空を駆ける)」、本書が「Imagine a City(街を思い描く)」と似ても似つかないし、内容はこれがぴったりだ。つまり前者は航空エッセイ、後者は都市や街の紹介に力点が置かれている。それもあるのだろう、前著の翻訳者は航空自衛隊で管制官を務めた経歴を持つが、今回は航空の専門知識は全くない翻訳者だった。

取り上げられる場所は44カ所、この内生まれ育ったピッツフィールド(ボストン西方180km)と現在拠点を置く(英国航空に勤務)ロンドンは複数回 登場する。NY・ローマ・香港・ヴェネツィア・ソウルなどよく知られた都市がある一方、極めてローカルで空港も無い街も出てくる。また、紹介すると言っても観光案内的な視点は皆無、著者の思いや体験を元にした印象記の色彩が強い。

章立ては12、記憶の都市、始まりの都市から始まり、夢の都市・眺望の都市・門の都市などと続き、雪の都市・円の都市で終わる。ただ、この区分は物理的なものではなく、あくまでも著者が感じ取ったものである。そのいい例は東京、山手線を一周して見せる(全駅の駅名の由来・意味を短く紹介)。日本の都市は、東京以外では京都(始まりの都市)と札幌(雪の都市)。京都に関してはまったく歴史や観光スポットに触れず、高校時代金沢に短期ホームステイした後帰国前過ごした旅館での友人とのひとときを語るだけである。これに対して札幌は雪に関する長い話が綴られる。雪の博士中谷宇吉郎の研究やアイヌの熊祭、さらには市街中心部からかなり離れたところにあるイサム・ノグチ美術館雪中訪問などがそれらで、私も初めて知ることばかりだった。また、ここでは千歳空港にも触れ、地上係員の冬期における運航維持スキルは世界のトップクラスにあると賞賛する。日本の三都市紹介を相撲番付すれば、札幌が役力士、東京は平幕下位、京都は十両にも達せず幕下、といったところか。

各章とも、書き出しはピッツフィールドでの思い出話から始まり、絞り込んだテーマを元にいくつかの都市・街に展開していく。この導入部を通じて著者の生い立ちや家族・友人関係などが、前著以上に詳しくわかってくる。そこではっきりしたことは、著者がゲイであることだ。前著でロンドンに“パートナー”が居ることは承知していたが女性とばかり思っていた。今回は、至るところにパートナーのマーク(著者と同名)が登場、手をつないで散歩するシーンまである。前著(原著)の出版は2015年、本書は2022年刊、この7年間におけるLGBTQ(ジェンダー)環境は急激に変化しているものの、超保守的な私には、内容の楽しさを味わいながらも、何か不快感を引きずりながら読む結果になった。

前著ではエアバス320(比較的小型)から始まりB-747(ジャンボ)の副操縦士だった。本書ではB-747副操縦士からB-787の副操縦士に転じている。どの段階でも機長昇格はうかがえない。ゲスの勘ぐりだが、LGBTQと関係があるのではなかろうか。

 

4) アメリカ・イン・ジャパン

-黒船来航は西部開拓史の延長線。太平洋の島々を制圧した先にあったのが日本。米国先住民と同じ位置付けになる日本人。これで良いのか!?-

 


私の“America in My Life”の出発点は19469月末、引揚げ船のタラップ降りた先に設けられた持ち物検査場、米兵と日本人が組になり担当していた。満洲出国に際し写真は持ち出し禁止品。父はそれを隠し持ち持っており、検査で見つかった。しかし、米兵は封筒に記された英文説明(多分Family Photographとでも書かれていたのだろう)を一瞥するとそのまま中も改めず、返してくれた。次いで博多から東京に向かう引揚げ列車が山陽地方で米軍専用車と並走した。まだ残暑の頃窓は開け放し、そこへ米兵がキャンディを投げ込んでくれた。爾来自他共に認める親米派である。しかし、Japan as NO.1の辺り(1980年代半ば)から、鷹揚さが一段と減じていくように感じるようになってきた。トランプ第一期、バイデン、そしてトランプ第二期、普通の国否それ以下と思われてならない。そんなとき目にしたのが本書、帯のコペルニクス的転回!“が自身のアメリカ感と重なった。副題に“ハーバード講義録”とあるように、米国人の学生に対して米国を講じた内容、要旨は、黒船来航以降現代に至る地政学的日米関係史だが、全時代を通じて、それが対称的なものではないことを、訴えるものである。

著者は1957年生まれ、東京大学名誉教授、専攻は社会学・文化研究・メディア研究。本書は2018年(トランプ政権第一期)ハーバード大学教養学部に客員教授として招かれた際の講義(正規の単位修得科目)内容がベースとあり、構成もそれぞれが一回の講義に相当するのであろう、第1講の「ペリーの遠征と黒船の来航」から始まり第9講「アメリカに包まれる日常」で終わる九講から成る。

講義開始に先立ち、著者のアメリカ歴史観が以下のように示される。「アメリカの「自由」の歴史とは、先住民の徹底した排除と殺戮、所有権の絶対化と金融万能主義、根本的な人種差別と暴力主義と市場主義を「明白な運命」として東部諸州から西部へ、さらには太平洋から全世界へと拡張してきた歴史である」と。そして読者に向けて「近現代の日本人はそのようなアメリカに全力で一体化しようとしてきたことである」と警告する。各講義はいずれもこの歴史観に基づいており、“反米”と取られかねない内容だが、学生がこれに対してどう反応したかは一切触れていない(期待に反して受講生の内白人は少数派だった書かれているが)。

独立以後に発した「西漸(せいぜん)運動(Westward Movement)」は「西部開拓(Western Development)」で描かれる「無主の地」を開拓するようなものではなく、先住民(ネイティブ・アメリカン、メキシカン)などから土地を奪い、太平洋に達すると、さらにハワイ王国を滅亡させ、米西戦争でフィリピンを入手すると圧政を敷いてきた。日本もこの文脈の中にあったのだ。一方の日本は、長いこと西側大陸(特に中国)の文明に影響を受けており、江戸時代アメリカの存在は知っていても、関心を持つことはほとんどなかった。こうして「遠征」と「来航」と言う非対称性で両国の関係がスタートする。

先ず、ペリーの「遠征」が周到に準備されたものであることを種々の角度から解説する。ペリーが選ばれた背景(58歳、引退目前だが国運を託せる老練海軍士官)、英・仏などの中国侵略への対抗(太平洋に航路安定の拠点を確保;貯炭・食料・水・難船対応)、グローバルネットワークとしての位置、日本の統治体系や日本人の特質調査分析がそれらだ。木工・陶磁器・製紙など高い技術を持ち、新技術への好奇心が強いことを見越して「テクノロジーを見せつける外交」策を前面に出すことを決する。黒船自体がその代表だが、贈り物・展示品には電信装置や(遊園地にあるような)小型蒸気機関車などを用意、デモンストレーションは大成功をおさめる。当時の日本人はその冷徹な策に気がつかず、ひたすら「脱亜入欧」に邁進するが、実態は「脱亜入米」、遣米使節団派遣はその代表例だ。

明治期における宣教師による教育活動、大正昭和初期から始まるファッションや映画を通じたアメリカニズムの席巻、太平洋戦争における対日本人観(動物に近い野蛮人)、それに基づく空爆思想(徹底的な分析と計画実施)。「西漸主義」は連綿と続いていく。

極めつけは占領統治。自己顕示欲の強いマッカーサーだが、めったに日本人の前に現われることは無く、反面天皇の巡幸はほとんど全国にわたり、巧妙な仕組みでアメリカニズムの徹底的な注入が行われる。そこには「天皇」としての「元帥」を願望する日本人が続出、故国のマッカーサー記念館にはそんな手紙が多く残されている。

独立回復後も基地から滲み出るアメリカ文化やアメリカ発の流行に自ら積極的になじみ、ディズニーランド入園者に至っては、先住民を虐殺し、南太平洋を支配下に治めた白人を演じ、気づかずにアメリカ化に包摂されていっている。これで良いのか!?

本書の基となる講義は第一期トランプ政権下で行われている。そして本書の導入部執筆時には2回目の大統領当選が決まった直後。著者はこれを「アメリカ社会の内部崩壊」と見ている。同感だ。周辺国家の動向から安全保障策では米国依存はやむを得ないが、おもねてまで頼る姿勢を質す必要性を痛感させられた(少々、左翼リベラル臭無きにしもあらずだが)。

 

5) 陸軍作戦部長田中新一

-知られざる太平洋戦争開戦時の作戦部長。その思考過程を丹念に追った、新たな視点からの戦争史-

 


今年は第二次世界大戦終結80年、5月のロシア対独勝利記念式典に習近平主席参加の可能性が報じられていた。そこには、返礼として8月の中国における対日勝利式典へのプーチン大統領参加があるのではないかとも記されていた。ロシアのウクライナ侵攻から3年、当事者の一方であるプーチン大統領と和平交渉を画策する、先の読めないトランプ大統領の言動から、この式典に米・中・ロ首脳そろい踏みの悪夢さえ起こりかねない、と考えるのは愚者の邪推であろうか?時期によって違いはあるものの、同時にこの三大軍事大国と戦った国は日本だけだ。出発点は満洲問題(中国)、次いで南進論(間接的に米)・北進論(ソ連;国境紛争)、そして太平洋戦争(米)、最後は日ソ戦争(ソ連)。これらの戦争経緯については研究し尽くされた感があるものの、当時の国家指導層個々人の考え方・言動については必ずしも十分とは言えない。その一人が大東亜戦争開戦時の陸軍参謀本部作戦部長田中新一(中将)である。

著者は1947年生まれ、名古屋大学名誉教授。専門は政治外交史・政治思想史。本欄で「武藤章 昭和陸軍最後の戦略家」をすでに紹介している。

旧日本軍は二つの組織から成る。軍政と軍令がそれらだ。軍政は行政機関、カネ(予算)・人(召集・動員)・物(兵器調達)を扱う。軍令は実働部隊の運用を担う。軍政は政府の一機関だから、陸軍の場合陸軍大臣は首相の下に位置するが、軍令のトップ参謀総長は天皇のみが保持する統帥権の下にあるので、ある意味首相と同格なのだ。参謀本部で参謀総長に次ぐのが次長、その下にいくつかの部が存在するが作戦部(一部)はその中核、部長は実質No.3である。田中はこのポストに194010月に就任、194211月、東條首相兼陸相への暴言事件で更迭されるまでその任にあった。つまり太平洋戦争(大東亜戦争)開戦を挟んで前後1年軍令を実質差配してきた人物なのだ(参謀総長職は皇族や軍官僚の上がりポスト)。開戦を決定するのは首相・外相・陸相・海相それに陸軍参謀総長・海軍軍令部総長で、公式の場に作戦部長が同席することは無い。しかし、陸軍軍令系統の考え方が全体をリードしてきたことは確かなようで、本書は田中の言動を中心にそれを明らかにする試みである。著者がそのために精査したのは、戦後田中が書き残した「太平洋戦争への道程」と戦前つけていた「参謀本部第一部長田中新一中将業務日誌」の二つ。この二つを読み比べたところ大きな差は無く、両資料の信憑性は高いものと評価する。無論これ以外にも当時の会議議事録や関係者の日誌・回顧録なども参考しており、おそらく田中に関する客観的な研究報告としてはこれ以上のものは無いのではなかろうか。

開戦前の経歴にその後を予見させる出来事を取り上げると、1931年の満州事変当時は関東軍参謀として石原莞爾の下にあり、強くその影響を受けている。1937年の盧溝橋事件(日中戦争の発起点)当時は陸軍省軍事課長として、参謀本部作戦課長武藤章(二人は陸士同期)と図り、不拡大策を唱える作戦部長石原の意に反して、拡大策を強行する。その後進駐した内蒙古の駐蒙古軍参謀長となり、次いで19408月参謀本部長付として独伊視察団副団長としてポーランド戦・西方戦におけるドイツの戦果を見聞、そこから「ドイツ軍強し」の感を持って帰国、10月作戦部長に就任する。

泥沼化する中国戦線、三国同盟とソ連との関係(松岡外相はこれを四国同盟にすべく謀るが、田中は懐疑的)、中国を支援する米英への対応、複雑な国際環境の中での国家戦略策定に苦悶する田中の姿が生々しく語られる。独伊枢軸か米英との親善か、田中なりに国家の命運を比較検討する。独ソ戦以前の要旨は「三国同盟を脱し米英と親善関係を結べば、おそらく日中和平は成立し、その後独伊が屈服するか、そうでなければ世界大戦争となる可能性がある」「いずれにせよ事態が決着すれば、日本はあらためて米英ソ中による挟撃に遭う危険性がある」「また、不介入の立場を置く中立政策も、空想といわざるをえない。それゆえ、現時点では枢軸陣営において国策を実行するほかない」。これが太平洋戦争に至る彼の論理である。これは石原の「最終戦争論」と重なる。しかし、これで一瀉千里と突進する訳ではない。

衝撃的事件は19416月の独ソ戦開戦。ドイツの快進撃で田中も一時は北進論を考えるが、極東ソ連軍の移動がわずかなことから、開戦までには至らない(ただ関東軍特種演習の名の下大動員はかけている)。転じて南進論へ。欧州本国がすでに独支配下にある仏印へ触手を伸ばす。ここでの読み違いは仏印南部進駐に対する、米国の石油全面禁輸、オランダもこれに同調する。石油以外の資源確保を含め、英領のマレー、ビルマ、蘭領のインドネシアへの進出を目論む。この際田中が模索するのは英米分断の可能性。本国が危機的状態にある英国植民地、同様に本国から孤立した蘭印を狙い、米国と直接対決しない構想を練る。結局、英米分割策は不可の結論に達し、それならば米国の準備が整わないうちに短期決戦で南方を抑え、その上で対米決戦に臨む案である(対米戦は長期戦になると予測)。この観点から近衛第三次内閣が進める日米諒解案(和平交渉)は米に軍事力増強の時間を与えるだけと反対する。独ソ戦、石油禁輸に次ぐ誤算は、開戦後に起こる。真珠湾攻撃に成功した海軍は、それまで陸軍に引きずられていた戦略を転換、積極攻勢を主張し米豪分断策を進める。そこで起こったのがガダルカナル戦。田中はこれに消極的だったが大勢は覆せない。この戦線の実行部隊は南方総軍麾下の第17軍、情報収集・分析が「不完全、デタラメ」のため、逐次投入の愚を犯す。これはならじと田中は大軍投入を図ろうとするが船舶割り当てが意のままにならない。そこで東條首相・陸相に「馬鹿野郎」とやってしまい更迭、南方総軍ビルマ方面軍参謀長を務め、1945年本土防衛のため呼び戻される途上飛行機事故で重傷、シンガポールで療養中終戦となる。終戦後極東裁判に参考人として呼ばれているものの戦犯指定はされていない。

作戦部長を務めるほどの人物、日米の総戦力格差は十分承知している。それでも死中に活を求める思いで苦渋の決断をする、その思考過程がよく理解できた。戦後、国際関係では米国のポチで良かった国家指導者達、第二期トランプ政権下、激動し始めたこれからの時代、不幸な結果に終わったとは言え、田中に比す考え抜く知力を持つ人物がいるのだろうか、そんな不安が去来した内容であった。

 

-写真はクリックすると拡大し-