<今月読んだ本>
1)大空への夢(秋白雲);星和書店
2)いのちの記憶(沢木耕太郎);新潮社(文庫)
3)翻訳者の全技術(山形浩生);星海社(新書)
4)東京大空襲を指揮した男カーティス・ルメイ(上岡伸雄);早川書房(新書)
5)戦略文化(坂口大作);日本経済新聞出版社
6)天気でよみとく名画(長谷部愛);中央公論新社(新書)
<愚評昧説>
1) 大空への夢
-57歳でプロペラ機操縦免許取得、62歳で自家用ジェット機免許取得・自家用機購入、2ヶ月にわたる世界一周ツアーに参加した日本人の記録-
1951年(昭和26年)講和条約が発効、日本に空が戻ってきた。月刊誌「航空情報」の創刊はその年の8月、今も保有する第4集は“軽飛行機特集”として52年1月に発刊されている。そこには数々の自家用小型機の写真が掲載されており、中でも印象に残るのがフロートを付けたセスナ170型機、ショートパンツ姿の美女がその上にたたずんでいる一枚だ。日本人にはクルマさえ夢の時代、彼我の豊かさの違いを痛感させられた。それからほぼ半世紀後1995年5月、当時の夢が正夢となる。米国出張の帰途連休を利用してヴァンクーヴァー所在の友人を訪ね、彼女の父親が保有する同型水上機で飛行する機会を得たのだ。父親は元ノルウェー空軍ジェット戦闘機パイロット、NATOを構成するカナダで訓練中カナダ人女性(友人の母)と親しくなり結婚、帰化後歯科医の資格を取得し成功、既に歯科医は引退、趣味として空を飛んでいるのだ。このときはフレーザー河の河原に設けられた滑走路から河に降り、ヴァンクーヴァー北方にある海浜別荘まで往復し、副操縦士席でしばらく操縦桿を握らせてもらった(直進上昇・下降のみ)。本書の著者は日本人精神科医、病院経営を息子に委ね、自家用ジェット機を自ら駆って世界一周ツアー(著者は米国で機を購入、そこから東回りで日本到着まで)に参加した記録である。
著者(ペンネーム)は、本文中に2007年57歳とあるから1950年頃の生まれとなる。医科大を卒業後父の経営する精神病院の経営に当っていたことも本書の中に触れられている。
2003年10月(53歳)仲間とゴルフのあと麻雀をした帰り、ふと虚脱感に襲われる。父から継いだ病院経営は順調、後継者の息子も育っている。すべては順調に見える日々だが、このままの人生を送り続けていいのかと。そこで思いつくのが飛行機の操縦である。取りあえず調布飛行場の訓練学校を訪ね、教官・訓練生と同乗飛行を体験。時間と費用は訓練生次第、最低5百万円を即用意でき、時間をそのためだけに割ければ短期取得も可だが、通常は数年を要することが分かってくる。訓練機がおんぼろだったこともあり、入校は断念する。3ヶ月後家族とグァムで遊んだ際、軽飛行機で遊覧飛行する。このときは副操縦士席で前回とは景観がまるで違う。さらにこの観光飛行会社は飛行学校も経営していることを知り、3ヶ月・120万円の週末訓練で免許取得可能とのこと。仕事もあり直ぐに入校はしなかったものの、2005年1月ロサンゼルスの本校に入学、毎月1週間滞在し訓練を受け、4月に米国での小型機操縦免許を取得する。ただ、この免許は単純な書き換えは出来ない。さらに調布で転換訓練を続け、2007年、57歳の時日本の免許を獲得する。ここまでの苦労話だけでも「凄い!」の一語だ(費用の詳細は不明だが、相当な額だろう)。
この年、国内中古機マーケットでは滅多にない良質なプロペラ機、米パイパー社製マリブ・ミラージュ(350hp、時速300km/h、航続距離1600km)を購入(価格不明)、日本ばかりでなく、韓国・台湾・東南アジア方面まで羽根を延ばす。そんなとき世界一周している同型機を含むグループと知り合い、さらなる高みを目指すことになる。自家用ジェット機を持ち、彼らのようなツアーに参加したいと。飛行機を新たに求める動機は東日本大震災、整備のため仙台空港に在った機がスクラップになってしまったことがある。
次に求めたのはセスナ社製サイテーション・ムスタング(6人乗り双発ジェット機;速度760km/h、飛行高度1万2千mまで可、航続距離2000km)。日本で購入すると手数料が無茶苦茶高くなる。そこでセスナ社が保有する上質な中古機(1年もの)を購入、訓練も前回同様現地(フロリダ)へ何度も通って免許を取得する。そして、世界一周ツアーに現地から参加するのだ。中古機購入は2012年3月、ツアー開始は5月、わずか2ヶ月で副操縦士付きで有効な機長資格を取ってしまう。このハードな訓練・努力も「よくこの歳(62歳)で!」とただただ感心するばかり。
この旅の出発点はカナダのケベック、出発日は5月8日。集まったのはプロペラ機1機(モロッコで仏人がさらにプロペラ機で参加するので最終的には2機)、ジェット機4機、計6機。夫婦(著者も夫人と参加)、子連れ様々だが、操縦者は4000時間以上のベテランばかり、著者のみ600時間弱、「カミカゼ」と揶揄される。
当初計画と最終ルートは若干異なるものの、ケベック→グリーンランド→ノルウェー→チェコ→スペイン→モロッコ→マルタ→ギリシャ→トルコ→ヨルダン→サウジ→インド→タイ→カンボジャ→インドネシア→マレーシア→フィリピン→香港→台北→那覇→岡山(著者はここまで。7月12日)→北海道→カムチャッカ→シアトル(ここで解散)。本書の2/3は飛行・気候・風土・観光・宿泊・食事・空港での作業(出入国、給油など)に割かれ、ユニークな旅行記とて楽しめる。
この旅以後5年間機を保有したものの、2017年「日本は自家用ジェット機で移動するには狭すぎる」と手放すことを決するが1年経っても買い手は現われず、米国に回送してやっと処分することができる。
何かに付け“格差社会”は批判の対象だが、ここまでやると「お見事!」の一語に尽きる。因みに、本書には飛行機の価格やツアー参加費については一切記されていないが(これが少々不満)、同クラスの自家用ジェット機の値段を調べてみると1億円~1.5億円、高級スポーツカーなどと比べ以外と安い感じがする。
2) いのちの記憶
-高倉健・美空ひばり・田辺聖子・恩師長洲一二、亡き人々に送る心を揺さぶる鎮魂のエッセイ-
本年1月の本欄で紹介した同著者のエッセイ集「キャラバンは進む」の続巻である。本来この2冊は単行本「銀河を渡る」として2018年に発刊されたものだが、文庫本出版に際し2分冊目は「いのちの記憶」と題された。沢木といえばなんといっても若き日のバックパッカーを綴った「深夜特急」が代表作、前巻は旅や「深夜特急」に関わる話題も多く「キャラバンは進む」は適切な題付けだった(実際の意味はもっと深いが)。そして、今回の「いのちの記憶」も読んでみると、これはこれで納得出来るタイトルである。大半を“人(ひと)”に関わる話が占め、特に故人を偲ぶ(あるいは追悼する)内容になっているからだ。高倉健、美空ひばりなど超有名人がいる一方、高校や大学時代の恩師、駆け出し時代の編集者・写真家、あるいは親族など無名の一般人も多い。執筆動機が多様だったこともあろう、テーマや長さに違いがあるものの、いずれの話も著者の優しく誠実な人柄が心地よい読後感として残る作品だ。
最も紙数が割かれるのが高倉健(約40頁)。「深い海の底に」と題する話は1980年10月ラスヴェガスで行われたボクシング世界ヘヴィー級選手権ラリー・ホームズ対モハメド・アリ戦から始まる。スポーツノンフィクションを主要テーマの一つとする著者は、その観戦を画するがチケットは入手困難。在米の友人を介して高倉の保有していたものを都合してもらう。このときまで両者の間に交流は全くない。その数年後ラジオ放送の企画で初めて対面、高倉の死(2014年11月)に至るまで二人の交友関係が続く。伝わってくるのは高倉の寡黙で礼儀正しい姿。演じる作品を求められながら、生前未完に終わった著者の悔恨。静かで良質なドラマを観るような筆致だ。
恩師長洲一二教授(横浜国大経済学部教授、のち神奈川県知事)が就職先として推薦してくれた富士銀行(現みずほ)への入行初日、式終了後退職し教授に許しを請う話は以前どこかで読んでいたが、そもそもの両者の関係は「最初の人」と題する話で初めて知った。長洲ゼミは人気が高く、応募者の絞り込みはレポートに依る。これで著者はその選にもれてしまう。納得がいかない著者は教授宅を訪問、その理由を問いただす。答えは「作文はまったく読まなかった。どれだけ本気で入ろうとしているかを試すだけだった」「それは第二志望をどこにしているかで判別する」「君の第二志望は叶う可能性が高い。だから外した」「しかし、訪ねてくるほど入ゼミ希望が高いことが分かった」と応え、「私のゼミに入ってくれますか?(入れてやるではなく)」と逆に問うのだ。「この一言が二十歳からの困難な数年の支えになった」と結ぶ。この師ありて、この弟子あり。
何か、はっとしたりほっとしたりする人間関係の描写に満ちた本書、ただの時間つぶしにはもったいない中身の濃いエッセイ集だった。
3) 翻訳者の全技術
-ピケティ「21世紀の資本」を始めノンフィクション翻訳第一人者がその極意を公開する-
活字中毒者の乱読、分野を限った専門知識習得とはほど遠い読書だが、それでも戦史・戦記・軍事技術・諜報戦は一定の割合を占め、この分野への感心は終末まで続きそうだ。その対象の多くは小説もノンフィクションも翻訳物が主流、訳の出来映えが読書の楽しみを左右する。軍事サスペンスやスパイ物の小説は早川・新潮・文春などから出ていものは先ず無難であるが、ノンフィクションについては大手出版社とて油断できない。ノンフィクション翻訳の難しさは、高い原語解読力と日本語表現法に加え専門知識を要求されるのだが、すべてに優れた翻訳者は得難い。これを補うために翻訳者と専門家が役割分担して翻訳を仕上げても、どこかに竹に木を接ぐようなアンバランスが見え隠れする。その点で著者に依る既読作品(本欄で「戦争の経済学」、「その数学が戦略を決める」を紹介している)には満足していた。どんな経歴の人なのだろう?それを知りたく読んでみることにした。
経済や科学・技術分野の翻訳、「クルーグマン教授の経済学」やピケティ「21世紀の資本」などで高い評価を受けていることに、著者の経歴が大いに与っているので、略歴を紹介しておく。1964年生まれ、小学校の一時期在米、中学・高校時代からのSFファンかつインヴェーダ・ゲームもどきをマイクロコンピュータで自作するほどの科学少年。東大に進んでもSF研究会に注力、学生時代に早川から翻訳出版するほどの力がある。学部時代翻訳を生業とすることも考えるが諸般の事情から断念、都市工学修士課程まで学ぶ。就職先は野村総研、ここで都市・地域開発をコンサルタントとして担当、さらにMITで不動産学を学び諸外国(主として発展途上国)で活動、本書執筆の段階で独立しているものの、仕事は継続している。この実務と在外経験が学者や専業者と違うところなのだ。
本書の構成は、翻訳の技術、読書と発想の技術、好奇心を広げる技術の3部から成るが、読書も好奇心も翻訳との関わりで語られる。読書に関しては、冒頭を読んで「こんな話ね」とあらましをつかんで、真ん中はいったん飛ばして結論を開き、「こういう結論に持って行くのね」と確認する(推理小説でさえ最後の“種明かし”から読む)。また、知識習得が目的で「教養として読書を意識したことはない(雑食、脈絡無し)」と自身の読書観を明かす(これは私も同様)。好奇心の部では、数多くこなしてきた海外でのコンサルティング業務を事例に、それが如何に知識・経験を広げことに役立ったかを示し、翻訳の奥の深さ教えてくれる。
翻訳家の訳に差が出るのは、意味を理解する部分ではない(誤訳など論外だが)。その意味を表現するのに、どんな言葉を選ぶかということだ、と自説を提示する。事例として“Money”を採り上げ、「貨幣」「お金」「通貨」の使い分けで説明、原著が一般読者向けに書かれた本でも、経済学者は「貨幣」「通貨」にしたがると揶揄する。翻訳スキルは、ただ外国語を翻訳する語学力だけでなく、読書の経験値や想定読者の理解などが含まれ、9割の読者が9割理解できたら大成功と見なしていい。翻訳評価の難しさは、訳ばかりでなく原文の善し悪しを含むところにある。原著がわかりにくいケースがしばしばあり、原著者と激論を交わすこともある。ここまでやる翻訳者はどれほど居るだろうか?
AIによる翻訳の現状と将来見通しでは、「ここ数年のAI翻訳の進歩には目を見はるものがあり、実務書、技術書(マニュアルを含む)はかなりAIが使える」とし「人間の出番は確実に減じる」と断じ、自らは本文翻訳にAIは使わないものの、謝辞では大量のカタカナ固有名詞が続くので手間を省くため使用していると明かす。
この他、優れた翻訳者を実名で紹介したり、高名な書評家が本文と引用文(原著者の見解ではない)を取り違えて評価した例で、読者側の問題点を指摘したり、と翻訳に関する話題を幅広く語る。
本書は著者の書き下ろしではなく、一種の口述筆記(編集者との対談)を文章化したもので、ややクセはあるものの、その点でも読みやすい。
4) 東京大空襲を指揮した男カーティス・ルメイ
-日本の都市を灰燼に帰し、数十万の民間人を爆殺した男は、生来の殺人者だったのだろうか?-
1950年(昭和25年)6年生になったとき、松戸市立北部小学校から上野広小路に近い台東区立黒門小学校に転校した。四辺田圃で木造校舎、同級生の1/3くらいは農家の子だった所から、コンクリート造り3階建て、狭い舗装された校庭で同級生はほとんどが商家の子への変化は、諸処で違和感を覚えた。夏になると半袖を着るが、その時S君の両腕を見て驚いた。皮膚が引きつった火傷の跡が痛々しいのだ。いっぱしのワルで田舎者の私はしばしばいじめられ、嫌な奴と避けていたが、それを見てから何故か同情するような気持ちに変じた。同級生から3月10日の東京大空襲で両親を失い、本人も大やけどを負い、親戚に引き取られていると聞かされたからだ。他の同級生にそんな災難を受けて者が居なかったのは、あの大空襲の西の端が昭和通りまでで。学校や同級生の住居は文京区に接する山手線の内側、焼けずに残ったのだ。しかしS君の家は昭和通りの東側、黒門に通っていたのは引き取った親戚が学区内に在ったからだった。東京大空襲のことは親たちの会話の中で知ってはいたが、身近に感じたのはS君を通じてである。
飛行機ファンが嵩じて軍事技術オタクとなった私にとって、対日戦略爆撃を指揮した米陸軍航空軍第21航空集団の司令官であるカーティス・ルメイの“悪名”はよく知るところだった。しかし、この男の伝記の類いを、邦訳を含め日本語で著わしたものは寡聞にして知らず、終戦後80年も経た今、戦後生まれの日本人が本書を出版した物珍しさも手伝って読んでみることにした。
著者は1958年生まれ、学習院大学文学部英語英米文化科教授、アメリカ文学研究者、翻訳家である。文学の研究者である著者がルメイを調べる動機になったのは、米現代文学作品の中でルメイが「ヴェトナムを石器時代に戻せ」とあったところから発している。そこに日本の都市を灰燼に帰し、数十万人を殺したこととの関連性を感じ取ってのことである。それまでの翻訳実績を見ると軍事関係は皆無、本書は伝記を始めとする多数の文献や映像を素に書かれたもので、一種翻訳の趣を持った内容に仕上がっている。読みながら妙な気分が去来した。ルメイは現代なら熱烈なトランプ支持者になったのではないか?重なって見えるのはバンス副大統領、プアー・ホワイトで苦学力行の人である。
カーティス・ルメイは1906年オハイオ州生まれ、父はフランス系、母は英国系双方とも農家出身だが、父親は鉄道員を始め各種の仕事を転々、住居も諸州渡り歩いている。つまり貧しい白人労働者階級。カーティスは6人兄妹の長子だけに責任が重い一方、自主独立の気概も強い。著者の関心は、後年彼を難じる「冷酷非情の人種差別主義者」という評価が果たして正しいのか?本来的にそのような人間であったのか?を問いただすところにある。
高校時代は新聞配達・電報配達あるいはラジオの組み立てで小遣いを稼ぎ、一族初の大学進学(オハイオ州立大)では学費確保のため難関の陸軍ROTC(Reserve
Officers’ Training Corps;予備役将校課程)プログラムに応募・合格。鋳鉄工場で働きながらの勉学だったため少々時間がかかったものの土木工学士号を取得、30倍(100/3000人)の競争を突破して航空隊に入隊。ここでも1/4の合格率で操縦士資格を得、1928年正規の士官となる。大変な努力家であることを実績が示しているが、この間性格異常などまったく感じさせることはなかった。ただ、著者は、直面する課題解決(例えば進学や資格取得)に際して“実際家”であったとその資質を分析している。この日本語にはなじまない“実際家”は現実主義者(目的実現可能性、経済性や時間的効率重視)の意であろう。
操縦士としての技量も優秀、当初戦闘機部隊に配属されるが、勝敗を決する真の攻撃兵器は爆撃機と見做しそこへ転属、ここで操縦士以上に航法士としての技能を高く評価され、南米や欧州への長距離飛行をしばしば行っている。1939年の第二次世界大戦以降、昇進を続け(准将昇任以降すべて最年少)、1945年1月対日戦を担う第21航空集団の司令官となる。この人事は前任者が昼間精密爆撃にこだわり、成果の出ないことに業をにやした陸軍航空軍(Army Air Force;AAF)参謀総長ヘンリー・アーノルドの意向による。アーノルドは伊ドーウェ将軍、英トレンチャード元帥、米ミッチェル将軍の系譜につながる戦略爆撃論者(爆撃だけで敵の息の根をとめられるとする考え方)、AAFを独立空軍にするために華々しい戦果が欲しかったのだ。現実主義者であるルメイがその期待に応えたのが日本に対する夜間無差別爆撃、3月10日の東京下町爆撃はその始まり、爾後大坂・名古屋・神戸・横浜さらには中小都市や軍都にもこの爆撃法を適用、日本の都市部を焦土と化すことになる。著者のルメイ評は、この作戦がルメイ自身の考えから発するものではなく、アーノルドを始めとするAAF上部の空軍独立論者からの圧力がそうさせたと見ている。命令達成第一、やられる側(子供を含む非戦闘員)のことは想像力の埒外、作戦遂行に専念したことは確かだ。日本では広島・長崎への原爆投下も彼の指揮で行われたとされているが、これは第21航空集団の上部組織第20航空軍直轄の第509混成部隊によるもので、その司令官はカール・スパーツ大将である。
英雄として二度も週刊誌TIMEの表紙に取り上げられながら、後年空軍参謀総長時代「核戦争も辞さず」を口にするほどの強硬派、さらに退役後人種差別主義者として有名なアラバマ州知事ウォーレスと組んで1968年の大統領選に独立党副大統領候補として立候補したことが、晩節を汚す(悪評)結果につながったようだ。1964年航空自衛隊育成の功により勲一等を授与されている(当時「民間人大量虐殺犯に勲章を与えるのか!」と批判された)。
多くの原書に当り、客観的にルメイを評価すべく調査分析したことが伝わってくる内容、資料として貴重な一冊であった。
5) 戦略文化
-一国の生き残り戦略は何が決め手か?周辺国からの脅威か?歴史・民族性・社会思想か?日米陸軍の文化を比較しそれを探る-
現役時代、経営戦略・販売戦略・情報化戦略などやたらと“戦略”を身近で聞き、その策定に関わり、さらに自身1990年初め大手ITベンダーの研究会で社外メンバーと戦略情報システム(Strategic Information System;SIS)について調査・議論を交わし、本まで出版した。しかしながら、戦略とは一体何なのかがいつも曖昧で、経営理念であったり、経営手順であったり、単なる願望であったり、逆に詳細な経営数値目標であったりと千変万化、収斂しなかった。軍事理論では、一応国家戦略(大戦略)の下に安全保障策としての軍事戦略があり、それを具合化した作戦が定められ、これを実行する戦術と階層化されているが、戦史や戦記でもその使い分けが必ずしも明確でない。おまけに「素人は戦略を語り、兵士は兵站を語る」という格言があるように、戦略の安易な使い方を揶揄する向きも在る。そこに、これも言葉として幅広い意味を持つ“文化”が結ばれた本書の題名を見たとき、「一体全体この本は何なのか?」となった。ただ著者が元陸上自衛官で現在防衛大学校教授とあることから、話題先行の戦略論とは異なるものだろうと予見して読んでみることにした。結果は日米陸軍の歴史からたどる極めてユニークな比較文化論であった。
著者の生年は不明だが1984年防大人文社会科学課程国際関係論専門課程卒業とあるから1961~2年生まれと推察する。この人文社会科学課程はそれまで理工系カリキュラム中心だった防大教育課程に1974年から加わったもので、教育機関として文理のバランスをとることを狙いとして発足したものだ。在任中大学院で学び国際政治学の博士号を取得、一等陸佐で退任後現職となっている。軍事関係書物でありながら、戦争・作戦・兵器にはほとんど触れず、歴史学・社会学・政治学などの角度から軍を見つめる内容はこのような経歴と深く関わっているものと思われる。
先ず戦略の決定因子を「脅威」と「文化」の二つとする。「脅威」は仮想敵国・周辺国からのそれだが、客観的なもの(兵力・兵器)ではなく、自国の相手に対する敵対意識の度合い(過敏か否か)でとらえる。文化はいささか複雑で、地理的条件・民族特性・宗教・歴史・社会思想などから成る。そしてこの二つのうちいずれがより戦略策定(というよりその国の軍事施策)に影響を与えてきたかを分析する。ポイントは軍と国民の関係で、双方の異質なものへの包容力(寛容さの度合い)が軍の精強さを決めるとの仮説をたてて、著者の戦略文化論を展開する。導入部では戦略文化論を概説、ソ連・ロシア、中国などの歴史的変遷を具体的に例示し理解の一助とする。例えば、ソ連・ロシアは「脅威」重視、それも相手の政治的意図より、能力(数量、性能など)で評価してきたと見、中国は華夷秩序的世界観が根底にあり、「尚文非武」の文化の下「不戦屈敵」の積極防衛戦略を伝統としてきたというように。ただ本書の主題は米軍と旧日本軍・自衛隊のそれで、概説以降他国を論ずることは皆無である。つまり、本書はこの日米二者の比較戦略文化論である。米軍については独立戦争以降、日本軍は明治維新以降がその対象となる。両国に共通するのは島国(米にとってカナダ・メキシコは脅威ではない)であること。にもかかわらず、「文化」が主導してきた米国の戦略文化、「脅威」から始まり時代とともにそれが高まる日本。そして第二次世界大戦終戦を契機に双方がそれを逆転させ、米国は「脅威」を、日本は「文化」が自衛隊の性格を形作ってきたとし、その過程と背景を解説するのが要旨となっている。
海洋国家日本が明治以降近代化の過程で欧米や中国・ロシアを「脅威」と感じ、陸軍重点の富国強兵策を進め、日清・日露戦争勝利により支配域を拡大するにつれその力を軍・国民ともに過信し敗北したこと、戦後は憲法問題・自虐史観から反軍的風潮(つまり「文化」)が支配的となり、自衛隊の考え方・活動に大きく影響していること、は広く知られているところである。しかし、これが自他共に認める「戦わない自衛隊」文化となり、国民の自衛隊評価は高くなってきたものの、それは戦争・紛争ではなく災害出動などに対してであることが世論調査の数字などで示される。世界で「脅威」が増す昨今、見直しが迫られるとの指摘は一考すべき点だろう。
現代の米国政治を見るとき、連邦政府と各州の関係に理解しにくいところが多々あり、(大統領を除き)連邦政府の力が他国に比べ著しく制約されているように見える。州連合(United States)が国家構成の基本、国の周辺は海洋と国力に差のある友好国。強力な連邦常備軍は必要無しとの考え方が支配的だった。もし中央政府がこれを持てば力で国内支配に利用する恐れがある(建国の理念である自由・平等・博愛に害をおよぼす)。これが反軍思想の根底にあるのだ。その具体例として一章を割いて詳述されるのがUMT(Universal
Military Training)と呼ばれる予備兵力増強施策である。青年を一定期間訓練し予備役として登録、一朝有事の際動員する制度である。この策は何と1790年に議会に提案され、時々の事情に応じて内容に変更を加えながら何度も繰り返すが、今日まで成立していない(戦時に限定した徴兵制度はその都度実現。現代は技術進歩により短期徴兵ではプロの兵士が育成できず実効が疑われている)。この反軍文化が反転するのは、第二次世界大戦における勝利の主役が米軍であったこと、原爆・長距離爆撃機さらには弾道ミサイルの出現による島国としての安全性が消滅、冷戦によるソ連という強大な仮想敵国の出現、が相まって「脅威」に基づく戦略文化が育まれて行くことになる。
日米両国の戦略文化の反転に見るように、戦略文化は普遍的な文化ではなく、ある時期が作り出した刹那的な文化であるとし、現代の戦争が文化主体の戦争に変じてきていることから、狭量な軍事重視の安全保障策でなく、経済や世論形成も取り込んだ総合安全保障政策が不可欠と結ぶ。
本書で言う「戦略」は、国家安全保障(国家存立)の根幹にある考え方・基本対応方針の意で、いわば最上位の国家戦略、「文化」も極めて幅広く、戦略論として学ぶところが多々あった(軍事中心のものと比べ)。ただ、「脅威」と「文化」は独立したものではなく、「文化」によって「脅威」が変わるし、「脅威」によって「文化」も変わるのが現実、この点が今ひとつすっきりしなかった。
6) 天気でよみとく名画
-絵画鑑賞で気候・天候に思いを至らせたことはあっただろうか?思いもよらぬ名画鑑賞法を教えてくれる-
自分の家を持ってから、時々絵(版画を含む)を購入するようになり、リビング・玄関・廊下などに飾って楽しんでいる。画題は圧倒的に風景画(建物を含む)が多く、人物画にお金を払って求めたものはない。ただ我が国の画廊などで展示されているもの、あるいは美術館(特に欧州)で観る名作には人物を主題にしたものの割合が高く、逆に風景だけの作品は少ない気がする。おそらく写真が無かった時代には人物画の需要が高かったこと、宗教の啓蒙活動に効果的だったこと、写真普及以後では人物が画家・モデルの個性を表現する奥行きや幅を持たせることに適していること、などがその理由ではなかろうか。従って好みがはっきり出るのも人物画、対して風景画は無難だ。これは独断と偏見だが、人物画を好む人は絵画に対する造詣が深く、風景画を好む者はアマチュアではないか、と思ったりもしている。そのアマチュア風景画ファンとして、本書は絵をよく観ていないことを自覚させられる内容だった。風景ほど天候・気候に影響されるものが無いにも関わらず、鑑賞の際その視点をまったく欠いていたからだ。
著者は1981年生まれ、大学で教育学を学びTV・ラジオ局に就職、番組制作・キャスター・リポーターを務めながら2012年気象予報士資格を取得、2018年から東京造形大学准教授として教鞭を執っている人。絵画鑑賞は趣味だが、海外を含め著名美術館を訪れ、多くの作品に接している。
低地・高緯度の「光の絵画」としてオランダ、島国の気象を題材とするイギリス、温暖な気候のフランス、そして雲と雨の多様な表現の代表として日本を取り上げ、おまけとしてマンガ・アニメに描かれた気象現象を解説する。登場する画家は約20人、作品は24(マンガは除く)。また、すべてが風景画というわけではなく、レンブラントの描いた「夜警」のように、人物画の中の光を考察し、これが夜ではなく夜明け前の薄明であることを説明するようなものもある。
多様な空の表現は無論、雲の形や色合い、木々や穀物の描写から読み取る風の強さや種類、虹の出来方から推察する太陽の輝き、影の出来方から判明する季節と時刻、版画の空のぼかしや雨の彫り方からも気象条件が予想できる。霧中を描く作品も深く観察すればその土地の特徴を推察できるし、吹雪の中を漂流する船の姿から発達した低気圧接近を感じ取り、その先に到来する恐るべきホアイトアウトを思い浮かべる。暗い夜を描いたものさえ季節感が伝わってくるし、花の開花状態や空の色から春の兆しを観る者に伝える。
ルーベンスの「虹のある風景」、ターナーの「吹雪 港から流される汽船」、コンスタブルの「デタムの谷」、モネの数種ある「ルーアン大聖堂」、ゴッホの「星月夜」、広重の「東海道五十三次;庄野白雨」、北斎「富嶽三十六景;凱風快晴」のようなよく知られた名画を始め、全作品をカラー口絵や白黒写真で解説、これに30頁におよぶ気象用語解説が加わり、気象や季節を読み解く眼を養ってくれ、これから風景画を観るとき、今までとは異なる視点を学ぶことができた。絵画評としてはさほど斬新さ・深みのあるものではないが、風景画ファンには一読をお薦めする。
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