2025年11月30日日曜日

今月の本棚-208(2025年11月分)


 

<今月読んだ本>

1) ナイロビの蜂(上・下)(ジョン・ル・カレ);早川書房(文庫)

2)不朽の十大交響曲(中川右介);KADOKAWA(文庫)

3)現代史の起点(塩川伸明);(岩波書店

4)戦争に抵抗した野球ファン(山際康之);筑摩書房

5)日本海軍戦史(戸高一成);KADOKAWA(新書)

6)水の戦争(橋本淳司);文藝春秋社(新書)

 

<愚評昧説>

1) ナイロビの蜂(上・下)

-スパイ小説の巨匠、後進国を食いものにする製薬業界の巨悪を暴く-

 


1990年代末期急性胃潰瘍を発症し、その治癒を継続している過程で今度は高血圧の傾向が出始め、この四半世紀血圧降下剤を服用している。2010年代初めに、この薬の臨床試験結果が改竄されていると問題になった。京都大学での研究の一部を製造会社(ノバルテス)の社員が担当、効果を過大評価していたのだ。ただ血圧降下に有効であることは変わらず、厚生労働省は業務改善命令を発しただけで、製造販売は継続されている。事件が起きた際、かかりつけ医はこのことを説明した上で、処方継続を告げ、その後体調に異常は無く、現在に至っている。1990年代半ばの「薬害エイズ事件」では、非加熱血液製剤が長く使用され、多くの血友病患者が輸血によりエイズに感染し、大きな社会問題になった。薬害をテーマにした小説は多々在るものの、スパイ小説の巨匠が社会小説分野に踏み込んだ点に興味をおぼえ読んでみることにした。


舞台は1990年代末期のケニヤ。建国の父、初代大統領のケニヤッタ死去後副大統領だったダニエル・アラップ・モイがそのあとを襲い大統領となるが、権威主義的政権は汚職まみれになっている。駐ケニヤ高等弁務官事務所(英連邦内での呼称で実質は大使館)に勤務するジャスティン・クエイル一等書記官の妻で社会活動家のテッサが同僚の医師(黒人)、運転手とともに僻地で惨殺される。ケニヤ警察は、ジャスティンとは年の離れたテッサと医師の男女関係を疑い、ジャスティンにも嫌疑がかかるものの、アリバイは明白でそれは晴れ、事件は迷宮入りしてしまう。庭仕事が趣味のジャスティンが自らこの事件解明に取り組み、疑念を深めていくのは、テッサが取り組んでいた結核治療薬を巡る、ケニヤ政府上層部と製薬会社の関係である。これに、高等弁務官、事務所長(No.2)、情報局ナイロビ所長、さらに彼らの上司である本国の外務官僚あるいは情報局幹部が、それぞれの立場でジャスティンの活動に関わってくる。一言で言えば、誰もが国家間の外交問題にしたくないのだ。言い換えれば“情死”事件で収めたい。しかし、かげで庭師とあだ名され、ここが終着ポストと思われていたジャスティンが大変身。身分を変じ英国、欧州大陸、北米と舞台を移し、後進国を餌食にする医薬ビジネスの実態を一枚一枚剥いでいくのだ。

訳者あとがきには著者が現地調査を行ったことが記されているが、少し調べてみると、国はナイジェリア、病気は髄膜炎と異なるものの、ファイザー社製の未承認抗生物質薬「トロバン」を投与された200人の子供の内11人の死者が出たことから、構想を思い立ち、テッサには実在の慈善活動家がモデルになっていることが分かった。

本書にはスパイ活動は皆無だが、医療倫理と社会告発をテーマに緊迫した場面が延々と続く(上下巻で800頁強)。登場人物は40人前後、スパイサスペンス同様人物描写が細やかで見事。

 

2)不朽の十大交響曲

-交響楽史上画期となった十曲。読む音楽の楽しみを堪能-

 


小学校での音楽の授業は、先生のオルガン伴奏に併せて唱歌を歌うだけだったから、クラシック音楽など無縁だった。“交響曲”と言う言葉が記憶に残るのは、中学校の視聴覚教育の一環として浅草六区の映画館で観た、シューヴェルトの悲恋をテーマにした「未完成交響曲」が初めてだろう。一流オーケストラの生演奏を聴いたのは40歳代、取引関係のある企業がスポンサーを務める演奏会に招待されたときから始まる。ウィーン・フィルハーモニーや小澤征爾もこのご招待で初めて触れ、次第にクラシック音楽に惹かれていった。60歳代末期から東京フィルハーモニー定期演奏会の会員となり生演奏を堪能した。しかし、聴力低下で補聴器を着け出すと、音のひずみが次第に気になり退会し、音を楽しむ世界を失ってしまった。「せめて眼からでも」との思いで、友人から薦められた本書を読んでみた。

選ばれた10曲は初演順に;①モーツァルト「ジュピター」、②ベートーヴェン「英雄」、③同「運命」、④同「田園」、⑤シューヴェルト「未完成」、⑥ベルリオーズ「幻想」、⑦チャイコフスキー「悲愴」、⑧ドボルザーク「新世界より」、⑨マーラー「巨人」、⑩ショスタコーヴィチ「革命」、となる。選定基準は多くの人に愛聴されているものではなく、交響曲の歴史において著者が重要と思う曲、そして“タイトル”のある曲。この後者の条件ゆえに、ハイドンやブラームスはまったく選ばれていないし、ベートーヴェンの「第九」も外されている。読み物としての面白さを引き出すために、タイトルは格好の材料なのだろうが、本格的なオーケストラファンとしては異論があるとこだろう。

各交響曲の紹介は、作曲家の略歴と「名作誕生」の背景を描くことに重点が置かれ、楽理的な分析や解説、あるいは演奏の聴きどころを紹介するものではない。とは言っても選定条件の前者(交響曲史上画期)から、楽理的な視点を一切断っているわけでは無い。例えば、4楽章(ときに5楽章)構成が一般的な中で、2楽章で終わっている「未完成」や、最後に向けで音量を盛り上げていく作曲手法を採らず、静かに終わる「悲愴」では、伝統的楽理あるいは作曲手法との違い(画期)を詳述している。

各曲のトピックス、エピソード;①モーツァルト最後の交響曲。古典派の完成形、最高作。②当初の題名は「ボナパルト」交響曲だったが、皇帝即位に失望し「英雄」に改題。③「運命」は自ら付けた題名ではなく、欧米では「5番」が一般的。当初は理解されない革命的な曲(特に、開始の“ダダダダーン”)。④「運命」完成後直ちに作曲に着手、初演は同じ日。曲名のみならず各楽章にも名前が付き標題音楽の嚆矢。自然描写音楽への挑戦。⑤死後楽譜が発見され有名になる。第2楽章までの「未完成」の推定理由の一つに、そこまでで25分を要し(当時は全曲で2030分)、第4楽章まで仕上げると1時間近くになるので、第2楽章で終わりにしたと言うのがある。彼の死因は映画のような悲恋とは大違い、梅毒あるいは治療のための水銀中毒。⑥ベルリオーズは医師の子で初めは医学を、後に法律を学び、その後音楽院に学ぶものの楽器演奏は行わない。だからこそ革新的な曲「幻想」が誕生した。曲の発想はゲーテの詩に基づく。⑦ベルリオーズ同様、音楽家の家系ではなく、法律を学び法務省勤務の経験もある。ロシア初の職業作曲家。先にも述べたように「静かに終わる」ところが画期的であった。⑧ドボルザークはチェコ人、宿屋兼居酒屋の息子、小学校でヴァイオリンの才を認められ、親類の援助で音楽院に進む。欧州で活動実績を挙げ、ニューヨークの音楽院院長として招かれ、そこで「新世界より」を作曲。これが史上初の「アメリカで作られた交響曲」となる。⑧マーラーはチェコ生まれのユダヤ人。「巨人(GiantでなくTitan)」はドイツ長編小説を題材とする。この完成までの道のりは長く、改訂に改訂を重ねる。作曲時間ばかりでなく演奏時間も長く(1時間)、初演ではこの長さが不評で、前半が終わったところで観客の大半が帰ったと言う。指揮者のブルーノ・ワルターが評価したことで名曲となっていく。⑩ショスタコーヴィチは革命前のサンクトペテルブルク生まれ。父は技術者だが母は結婚前音楽の道を目指したことがあり、姉妹も音楽を愛した。革命後に音楽教育を受け、社会主義国の新星としてもてはやされるが、作品の一つがスターリンの不興を買い失脚する。「革命」はそこから起死回生をかけた作品である。

作曲家や作品の選択に賛否はあるだろうが、名曲の略伝集として、知識を得られたし楽しめた。生演奏が聴けた時代に読んでいれば・・・、の思いが残る。

著者は1960年生まれ。出版社勤務の後起業し「クラシックジャーナル」誌ほか、音楽関係の出版事業に従事している。

 

3)現代史の起点

-ソ連解体に至る1986年から1991年までの過程を、多面的にその道の権威が詳述-

 


高校2年の時世界史を選択、その面白さに虜になり、受験参考書以外にも書物を漁るほどだった。そんな折ふと思ったことに、「自分の生きた時代、何百年後も歴史に残る出来事は何だろうか?」があり、それは今に続く。当時先ず思いついたのは第二次世界大戦だった。その後月着陸を含む宇宙開発がそれに加わる。そして近いところではソ連解体が残るのではないかと考えている。書評で本書がソ連解体を扱ったものと知り読んでみた。

ソ連解体は比較的短い時間のうちに一気呵成に生じたので、単一の出来事であるように見えるが、さまざまな違いや変化が包含されていた。「ペレストロイカ」の内実は時期によって大きな変化をこうむっており、その相互関係を解きほぐすのが本書の課題。従って、前史としてスターリン~ブレジネフ時代から「ペレストロイカ」直前のアンドロポフ・チェルネンコの共産党統治改革案までを概観したあと、1986年から1991年までを詳細に分析し、これと現代世界の関わりを述べて結ぶ。

著者は1948年生まれ。東京大学名誉教授、専門はロシア・旧ソ連諸国近現代史・比較政治学。本書は既刊の「国家の解体-ペレストロイカとソ連の最期」(全3巻)を骨子とし、一般向けに書き下ろされたものである。

体制内改革はゴルバチョフ前から始まっており、ゴルバチョフ自身「ペレストロイカ(再構築)」「グラースノスチ(公開性)」を打ち出した際は、抜本的な体制転換などではなく体制内(共産党統治)改良を目指すものであった。「長く閉塞した社会環境が、ある程度改良が始まる中で、高まりだした期待感と現実のギャップが生じ、“期待の爆発”が起こり、改良が革命に転ずる」と論じたトクヴィル(19世紀仏思想家・政治家)を援用し、ペレストロイカをその典型例と見る。また、ソ連解体過程を、経済急落→大衆反抗→ソ連解体と見る向きがあるが、実態は、小さな経済低下→ソ連解体→経済急落だったと著者は見る。

穏やかな体制内改革活動が急進化・分極化していく要因として注視するのが、15存在した共和国と連邦制の関係(国内問題)、それに東欧衛星国におけるそれぞれのペレストロイカである(国際関係)。各共和国統治は改革以前からさまざまな違いがあり、これが自由度を増すことで、連邦(中央政府)の力を削いでいく。最も強力なのはロシア共和国、連邦制下では経済的に他共和国を支える存在、平等社会では“逆差別”を受けているとの思いが強い。一方辺境の共和国は民族問題や人脈支配などが連邦政府を悩ませる。最終的にゴルバチョフ(ソ連邦大統領)が失脚しエリツィン(ロシア共和国大統領)がソ連邦大統領の座を奪うのは、中央と共和国の力関係逆転に依る。

当初の衛星国家におけるペレストロイカはソ連同様体制内改革として始まるが、複数政党を許したり、多くの亡命者を許容するなど、予期せぬ方向に進み、1989年のベルリンの壁開放がそのクライマックスとなる。また、ワルシャワ機構軍が動かないと見たウクライナやバルト三国のように独立志向さえ出てくる。これらがブーメランとなって、ソ連邦と構成民族の民主化意識に反映、それを急進化する。

事実上の冷戦終焉は1990年の東西ドイツ統一と湾岸戦争(安保理における武力行使にソ連が賛成)。この時点では東西和解であり、西側勝利という構図はなかったが、次第に勝者・敗者という見方が強くなって、ゴルバチョフの権威は低下していく。

19918月ゴルバチョフがクリミアで休暇中、国防次官や大統領府長官などが非常事態宣言署名(連邦政府権限を大幅に縮小)を求めて来訪、ゴルバチョフがこれを拒否、軟禁される。しかし、このクーデターにロシア共和国大統領エリツィンが直ちに対向革命、クーデターは失敗に終わり、ロシア共和国の権限拡大を宣言、他の共和国もこれに追随、連邦制は崩壊する。

巷間流布する「旧体制の矛盾が原因」「改革が体制崩壊を招いた」といった単純化なソ連崩壊論を正し、「現代史の起点」とするユニークな内容。例えば、その後に起こった「アラブの春」との相違を論じたり、ウクライナ戦争の根源を探るところに、その意図(現代史の起点)がうかがえる。専門的な内容ながら、深さ読みやすさが適度で、一般向けとしてまったく不満はなかった。

 

4)戦争に抵抗した野球ファン

-プロ野球創生から終戦までの職業野球史。開戦の日も、空爆のさなかも、終戦の年も、試合を楽しむ人々がいた-

 


プロ野球の存在を知ったのは、引揚げ後母の実家があった西荻窪に住んでいるときで、転校まもなく出来た友達と話す中で「君はどこのチームを応援していのるか?」と問われたことに始まる。何を問われているのかさえ理解出来ず、母にそれを話したとき“職業野球”の説明をしてくれた。当時1リーグ8球団で構成されていたが、チーム名を覚えているのは、巨人の他、阪神タイガース、阪急ブレーブス、南海ホークス、東急フライヤーズ、金星スターズの6球団で他の2球団は思い出せない(多分中日ドラゴンスはあったはずだ)。子供仲間で野球の話をしているとき年上の一人が、「戦争中は英語禁止で、アウト・セーフ、ストライク・ボールが使えず、よし・ダメと言っていた」と聞かされ、戦時野球の一端を知った。本書を見て、そんなことを思い出し、読んでみたくなった。

著者は1960年生れ。略歴を見て驚いた。ノンフィクション作家でもスポーツ関係者でもない。東大の博士号(工博)を取得、長年ソニーに勤務、ウォークマン開発にも関わったエンジニア。東京造形大学学長も務めた経験のある人なのだ。つまり、趣味としてこの分野に踏み込み、戦前の職業野球(戦後しばらくまでプロ野球と言う言葉はなかった)研究に傾注、澤村栄治物を始め何冊か既刊著書もある。本書も職業野球草創期から終戦までのプロ野球史と言える内容だ。

日本職業野球連盟の発足は昭和11年(1936年)2月、支那事変は翌年勃発だが、1931年には満州事変が起こっており、1933年には満洲国建国、日中間にはきな臭いにおいが漂い始めた時期だ。発足の背景には昭和6年および9年(ベーブルース来日)の全米軍来日で野球人気が高まっていたことがある。推進者は読売新聞社長正力松太郎。関西・中部財界にも働きかけ、巨人軍・タイガース・阪急軍・金鯱軍・セネタース・名古屋軍・大東京軍の7球団でスタートする。導入部は戦争とは関係なく、各球団創設経緯、専用野球場建設(州崎・上井草・西宮・後楽園など)、職業野球を支援する有名人(皇族・華族、政治家・作家、実業家など)を題材に、初期の職業野球を巡る苦労話・エピソードなどが語られる。

1937年盧溝橋事件で支那事変(日中戦争)が始まり、次第にその影響が出てくる。紙面が最も割かれるのは澤村栄治、手榴弾投げでは他を圧し83mを記録、軽機関銃手として中国戦線で戦い負傷するが、3年後除隊・現役復帰。しかし、軍務仲筋肉が野球には不要な部分に増え、体重も増して往年の力が発揮できなくなる(終盤は代打起用)。彼はこの後さらに二度応召、三度目のフィリピン行きで戦死する。

戦時色が強くなると国防費献納などのため特別な試合(例えば東西対抗戦)が組まれ、これが人気を呼ぶ。また、傷痍軍人は無料にするなど連盟は積極的に軍に協力していく。昭和15年、新体制を掲げる近衛二次内閣が発足。「ぜいたくは敵だ」の標語に代表される反米英空気の高まりの中から、英語原則禁止令が野球にもおよび、チーム名、ユニフォーム、記事用語、さらには審判の判定にも日本語化が進んでいく。用語;ストライク=正球、ボール=悪球、セーフ=安全、アウト=無為。審判判定;ストライク=ヨシ一本(二本)、ボール=一つ(二つ)、セーフ=ヨシ、アウト=引け、三振=それまで、などとなる。また、大東京軍はその後ライオン歯磨きがオーナーとなりチーム名もライオンと改まっていたが、それが使えず朝日軍と改名している。これが個人におよんだのが巨人軍の豪腕投手スタルヒン、白系ロシア人の彼は須田博と改名せざるを得なくなる。

昭和16年太平洋戦争開戦、直前までそれを知らされていなかったこともあり、この時期1129日から3日間後楽園で、126日から3日間甲子園で東西対抗戦が行われている。つまり、戦時といえども野球ファンはそれを楽しんでおり、昭和16年の入場者は87万人もあったのだ。また、昭和17年の山本五十六大将戦死(死後元帥)の報は一ヶ月後に公表されるのだが、この日の巨人軍対名古屋軍の試合には6千人の観客が集まっていたという。

戦況が厳しくなると新たに様々な変化が出てくる。例えば、戦意向上のために試合前に軍服を着た選手たちの手榴弾投げ競技が行われ、先の澤村の話はこれと結びつく。選手確保も難しくなるが(昭和19年には一チーム14人~18人)、本書でクローズアップするのは大学生の徴兵猶予制度(昭和18年廃止)である。昭和16年の対象者は14万人、この中には私大に籍を置き職業野球の選手になっていた者も居り、徴兵逃れとして摘発されたりしている。試合の障害になるのは選手不足ばかりではない。スタンドには探照灯や高射砲が設置され、グランドの一部は野菜畑に変じていく。道具入手にも影響、ボールは素材の品質低下で飛ばなくなり、再使用を含めて一試合6個までに制限される。

それでもやる方・観る方、野球に魅せられる者は依然として少なくない。敗戦の年、昭和20年年明け、阪神軍の呼びかけで始まった、阪神軍+α対阪急軍+朝日軍の正月野球大会には4日間甲子園および西宮で行われ8500名の観客があった。そして敗戦。しかしこの年の11月東西対抗戦が復活、神宮を皮切りに桐生、西宮と行われ、神宮は6千人、西宮では1万人の観客を集めたという。

“抵抗”と見るか否かはともかく、あの戦時に、恵まれぬ環境下、野球に情熱を傾けていた人々(選手、ファン、球団関係者)がおり、その姿を垣間見せてくれる、ユニークな一冊だった。

 

5)日本海軍戦史

-日清・日露・太平洋の海の戦い通史。世界初の機動部隊を発案しながら、最後まで変えられなかった邀撃艦隊決戦主義-

 


軍事マニアであることは自分でも認めるところだが、オタクというほどそれに精通しているわけでは無い。私の関心事は、第二次世界大戦に至り戦略兵器となった航空機・装甲兵器・潜水艦・電子兵器、それに軍事における数理利用。つまり狭義の軍事技術分野が第一。第二は自分の生き他時代の昭和史。後者はともかく、戦略兵器の分野において、我が国に調査を深めたくなるようなものはごく限られており、陸海の航空機と軍艦はまずまずとして、真にオリジナルと言えるのは空母を中心とした機動部隊くらいである。しかし、この機動部隊システムといえども、結果として、戦艦を中心とした“艦隊決戦思想”の先兵に過ぎなかった。一方の米海軍は、真珠湾攻撃から学び、太平洋戦域では任務部隊(空母を中心とする機動部隊、戦艦すら支援兵器化)を決戦力として大改編、太平洋を攻め上がって最終勝利を収めた。この違いはどこに発するのか?戦略兵器マニアと自任しながら我が国海軍通史に目を通していなかったことに気づき、友人から贈られた本書でその因が探れるのではないかと読んでみた。

本書は海軍史ではなく海軍“戦史”である。それゆえに思想・戦略や組織・人事に触れるものの、大半の紙数は作戦・指揮に割かれ、構成は日清戦争・日露戦争・太平洋戦争の3部作で、主要海戦が中心となっている。ただ、これが時系列でなく、日露・日清・太平洋の順になっている。著者まえがきに依れば、日本海軍のピークは日露戦争、そのピークから双方を見下ろすことで、歴史から学ぶものがあるとのことだ。つまり維新後の日本が目指した近代化事例として、日露戦争が最も象徴的な出来事だったと見るのだ。確かに、読んでみると日清戦争時の海軍は未完・中途半端の感を免れない。例えば、何と戦うための海軍だったかが見えてこないのだ(沿岸防衛主体)。それに比べ、日露から太平洋戦争には確実に連続性があり、だからこそ敗北で終わる最期に納得感があ(近海で迎え撃つ艦隊決戦主義、大鑑巨砲主義)。

とはいえ、最も知見を得たのは日清戦争。華々しい話がないだけに、当時の日清両海軍紹介や戦闘場面は新鮮な情報に満ちていた。近代化の進む日本に脅威を感じた清国は北洋艦隊・南洋艦隊にそれぞれ2隻の装甲艦を配する。日本と戦うことになる北洋艦隊にはドイツに発注した「定遠」「鎮遠」があり、完成後他艦も含め、示威のため長崎に来港する。排水トン数7335tは日本が保有する海防艦「扶桑」の2倍もあり、人々は驚愕する。一方、日本の海軍はこれに対抗する三景艦「松島」「厳島」「橋立」をフランスに発注するが、砲力を「定遠」型を上回るものにしたこともあり、完成が遅れに遅れ、これに懲りて後続の装甲艦「浪速」「高千穂」「筑紫」はすべて英国に発注する。搭載されたアームストロング砲は小型だが速射力は「定遠」を上回り、速度も速く、黄海海戦では北洋海軍を翻弄する。また、威海衛軍港に逃げ込んだ残存艦船を攻略するのは世界初の水雷艇集中運用。指揮官はのちに首相として終戦を決することになる鈴木貫太郎大尉であった。著者は一連の海戦勝利を、「科学技術の総合組織」としての海軍の戦闘能力の違いと評す。

日露戦争で中心となるのは当然のことだが日本海海戦。丁字戦法によるバルチック艦隊壊滅がよく知られるところだが、当初の作戦計画は駆逐艦・水雷艇で構成される奇襲隊による連鎖機雷投入であった。しかし、これが荒天のため中止となり、複数の敵艦隊情報不一致もあり、常識的には失敗と言える“東郷ターン”を敵前で行い、イの字から平航戦に移り、数ノットの優速、砲弾命中率の違いで、幸運にも完勝したのが実態らしい。「丁字戦法」神話は副官であった小笠原長生の作り上げたものと断じている。

この日本海海戦から得られた戦訓が、「迎撃艦隊決戦と指揮官先頭」。昭和海軍はこれから脱せず、開戦時から軍令部より出先機関である連合艦隊が作戦構想をリード、海軍政策が国策から乖離し、目標は「米国艦隊撃滅」に集約されていく。その観点で著者がターニングポイントと見るのは、ミッドウェー海戦ではなく、マリアナ沖海戦とレイテ沖海戦。いずれも日本近海に敵を迎え、艦隊司令官が先頭に在る。形は日本海海戦同様だが、レーダーや近接信管で防空力を高め、大艦巨砲(戦艦、巡洋艦)も空母を守る支援艦に転じ、制海権に先立ち制空権確立を図る、新しい戦法の米海軍に完敗。残るは特攻のみ。勝敗を決するような戦果は目標でなく、ただただ「日本海軍の栄光」のために献身して戦いは終わる。「海軍あって国家なし!」

通史として読み、“戦史”に反し、強く印象づけられたのは海軍思想や組織・人事、つまり軍政に関わるトップの資質だ。日清・日露でその要諦を担った山本権兵衛はマハンの「制海論」にいち早く注目、それを学ばせるため秋山真之・佐藤鉄太郎を派米、これが日本海海戦で生きる。また、適材適所に意を用い藩閥人事を大改革、日露戦争開戦直前に連合艦隊司令長官を古い猛勇タイプの日高壮之丞から英国に学んだ東郷平八郎に替えている(自身も両人も薩摩出身ではあるが)。対して山本五十六は軍令よりは軍政の人。寡黙で自身の考えを表に出さず、周辺との意思疎通に欠けており、果たして実戦の最高指揮官として相応しかったのか、と著者は疑問を投げかける(知米はと言われながら米国の友人に宛てた書簡は一通も発見されていない)。また、人事に関しても、ミッドウェー敗戦の責任者(長官、幕僚)を厳罰にせず、ここにもリーダーとしての資質が問われるところだとする(対する米太平洋艦隊司令長官のニミッツ大将はこの点で厳しかった)。

著者は1948年生れ。呉海事歴史科学館(大和ミュージアム)館長、日本海軍史研究家。

 

6)水の戦争

-水争いは古代から続き、文明の発展とともに急増。新技術と地政学から見た、現代の水戦争を概観する-

 


半世紀以上前のことになるが、「日本人とユダヤ人」と題する本が話題になった。一種の比較文化論だが当時の日本・日本人に関する社会時評とも言える内容で、かつ著者名がイザヤ・ベンダサンという外人名だったこともあり、注目を集めたのだ(後に著者は出版社主の山本七平であることが分かる)。それまでの日本人が風評や読み物で知るユダヤ人・イスラエルとは異なる内容で、この民族・国家を新たな眼で見つめる機会を与えてくれた書と言える。

私もこの本の出版後直ちに読み、覚醒されたのは「日本人は安全と水はタダと思っている」と言うくだりだ。国家安全保障はともかく、飲料水・農業用水・工業用水にコストがかかっていることは承知していても、 “タダ”感覚で日常使っていることを改めて気づかされた。あれから半世紀、世界人口は増加の一途、都市への人口集中、工業化・農業化の発展、加えて地球温暖化、水の需要は確実に増加し、供給量とのアンバランスが拡大している。いまや水問題は身近な話題、そのものズバリのタイトルを見て、久々にあの古書が蘇り、読んでみることにした。

1930年代全世界の水使用量は1000立方km、これが2000年には4000立方kmに増加、2050年の見通しはここから60%増、世界人口の40%を超える人間が深刻な水不足に直面すると予測する。また2000年から19年の間水に関する国際紛争・係争は670件、これも増加の傾向にある。この水を巡る現状を「地政学」と「テクノロジー」の視点で解説するのが、本書の骨子である。

先ず「テクノロジー」;ここは二つの面に目を向ける。一つは半導体生産、インターネット/クラウドサービス(データセンター)、AI利用、それに気候変動対策/脱炭素社会など新技術における水利用の増加である。台湾半導体メーカーTSMCの熊本進出(量だけでなく水質も要件)、バージニア州に集中するデータセンター(全米の13、冷却と水力発電)、AI学習で使われる水の量(2050の問答を2週間続けると約70万ℓ消費)、電子化・EV化で進む銅採掘・選鉱に要する大量の水(チリでは海水の淡水化、それを高地にポンプアップ、そのための水力発電)などを取り上げ、新需要に伴う問題を洗い出す。二つ目は、AIIoTInternet of Things;各種センサーの広範な適用)による水管理。従来国や地方自治体が行ってきたそれを、最適化・効率化を追求する企業に委託することの是非を論じる。

「地政学」視点は幅が広い;ヒマラヤやチベット高原に源を発するアジアの国際河川(ガンジス、インダス、メコンなど。水源を中国が抑えるが、この国も需給バランスが悪い)。ナイル河管理に新たに加わったエチオピア、水量激減のチグリス、ユーフラテス(水源を抑えるトルコとの関係)、気候変動で水位低下のライン河・ドナウ河、パレスチナを巡る水争い(ここは地下水も紛争源)。一つの国の中でも地政学的争いは起こる。コロラド川の水は水源のワイオミング州から河口のカリフォルニア州まで七つの州が利用、近年水量が低下、各州間の調整はなかなか合意に達しない。また、所々で利用セクター間の奪い合いも起こっている。都市・農村・企業のそれだ。フランスにおけるダノン社(ミネラルウォーター「ボルヴィック」の生産者)と地元民の地下水利用に関する係争、チリのアボガド生産(大量の水が必要)やスペインにおけるオリーブ生産でも農家と一般市民の間で同様の問題が生じている。

他国はともかく、世界平均2倍の降水量のある日本でどんな水問題があるのか。著者が問題視するのが、他国による水と関わる土地買収。山林地帯の不動産売買は実態が見えにくいこと(ダミーを含む)。日本の土地所有権は、一旦取得すると極めて強力なこと。これが地域統治に影響するとし、2000年以降の傾向を分析して見せる。第一期は2000年代後半の水資源林取得の波、第二期は2011年東日本大震災後の再生可能エネルギー用地買収(中国企業によるメガソーラ用地)、第三期は農地・港湾・離島などへの多様な広がり、そして現在は半導体生産やデータセンター用地へと、日本人は水を外国人に差し出していると警告する。

ところで、比較的水に恵まれた我が国だが、「大量の輸入国である」と言われると意外な感がある。ミネラルウォーターではなく、農産物である。結果的にこれは生産国の水を輸入していることになるのだ。こんな考えが、国際機関で論じ始められており、他国の渇水を対岸の出来事視せず、“同岸の水涸れ”と見るべきことを教えられた。

著者は1967年生れ。出版社勤務の後“水ジャーナリスト”として独立、「水道民営化で水はどうなるのか」(岩波書店)など水をテーマにした既刊書がある。

 

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2025年10月31日金曜日

今月の本棚-207(2025年10月分)

 

<今月読んだ本>

1) 内務省(内務省研究会);講談社(新書)

2)軽自動車を作った男(永井隆);プレジデント社

3)高倉健の図書係(谷充代);KADOKAWA(新書)

4)入門講座三島由紀夫(佐藤秀明);平凡社(新書)

5)世界秩序が変わるとき(齋藤ジン);集英社文藝春秋社(新書)

6)国境と人類(ジェームズ・クロフォード);河出書房新社

 

<愚評昧説>

1)内務省

-高等文官試験合格者の3割が在籍した、今はなき巨大・強力官庁内務省を25人の研究者がまとめた内務省事典-

 


住んだことはないのだが、本籍は兵庫県龍野市としている。たどれる限り、一族が先祖代々そこで農業を営み続けてきたからだ。しかし、祖父は向学心に燃え上京、政治家の書生をスタートに内務官僚となって、家督を弟一家に譲り、任地は転々とする。従って、父は宮城県で生まれ、中学は先ず徳島中学に入学、次いで郷里の龍野中学に転校している。この間祖父は警察署長や郡長を歴任、政治任用の時代、支持政党が野に下り、次は知事の可能性を期しながら、一時閑職にあったとき急逝している。戦前の内務省が広範な行政分野に大きな力を持っていたことは、断片的に知ってはいたものの、全体像を体系的に学ぶことはなく、今回祖父の生きた時代をうかがうことと併せて、巨大官庁の実態を知るべく、本書を読んでみることとした。

書店で目にし、先ず引っかかったのは著者が個人名でなく「内務省研究会」となっていること、次いでその厚さ(新書で550頁)にもちょっと躊躇させるものがあった。そこで“はじめに”と“あとがき”をチェックすると、カバーする領域の広さと政治や社会情勢との関わりが複雑で、一人の研究者では到底担えるものではなく、2001年研究会を結成、20年を超す研究会活動の成果をまとめたものが本書であることが分かった。研究会メンバーはすべて大学人、著者一覧には25名の名前が並び、おそらく一般向けの内務省解説本としては、これ以上のものは無いと言える充実した出来映えである。

内務省の巨大さを理解するために、平成の省庁統合や本省・外局の関係を無視して、よく知られる行政組織名で列挙すると;自治省・警察庁・消防庁・建設省・国土庁・厚生省・労働省・都道府県知事、などとなり、税制や農政では大蔵省や農林水産省あるいは文部科学省(宗教関係)の担当領域と重なる部分も担い、内務大臣は副総理格、閣内No.2の位置にあった。また、1888年に発足した高等文官(高文)試験の1931年まで44年間の合格者4430名の内、約3割の1282名が入省するほど人材豊富な官庁でもある。

とは言っても創設時から「省庁の中の省庁」ではない。明治政府は藩閥でスタートするが、やはりカネを扱う大蔵省がNo.1、当時は農業が主要税収源であり、大蔵省は地方行政を取り込んで大大蔵省を画策する。明治の元勲たちの綱引きの結果、なんとか独立するが、それは大蔵省の一画であった。1890年総選挙が行われ政党が発足、帝国議会が開設されるが、依然藩閥は隠然たる影響力を持つ。ここから内務省の主要ポスト(大臣、次官、警保局長)争いが始まる。選挙制度を設計し、地方行政(選挙活動)と警察行政(選挙違反取締活動)を握れば、有利な選挙活動・政権運営が行えるからだ。最初の対立軸は藩閥対政党。やがてこれに行政の専門家である高文試験合格者が絡み、複雑な様相を呈する。藩閥のリーダーであった山縣有朋内相は全官庁の高位職を高文合格者に限定、政党色排除を図ったり、技官の昇進に制限を加えたりする。しかし、この策の適用実態は、ときどきの政治情勢により二転三転。祖父の現役時代はこんな状況下にあったことが見えてきた。この間、専門職(医官)の役割が重い衛生行政は厚生省として分離するし、同様に専門性の高い土木行政に次官職に相当する技監職が設けられるなど、既に巨大過ぎる弊害を自身の中でも改革する動きが出てくる。敗戦による内務省解体はGHQの命令に依るとされているが、少なくとも機能再編の必然性は戦前から省内外にあったと研究会は見ている。

本書の構成は「通史編」と「テーマ編」に分かれ、前者は四章で明治前期から終戦後解体までの省全体の変遷を述べ、後者は十章を費やして、地方行政・警察行政・衛生行政・土木行政・社会政策(労働、救民など)・防災行政・議会運営・軍部との関係、などを各論として詳述、合わせて内務省の全容を解説する方式になっている。我が国近現代史を紐解くとき、内務省事典として、大いに役立つ一冊と言える。

 

2)軽自動車を作った男

-浜松の織機会社を5兆円のクローバル企業に育て上げた、四代目スズキ自動車社長鈴木修の伝記-

 


幼時父が自動車会社勤務だったところから発し、途中鉄道や飛行機に興味が傾いた時期があったものの、卒論はガソリンエンジンの回転数制御を選んだ、根っからの自動車ファンである。所有したクルマは決して多くないが、それなりに特色のあるものを乗り継ぎ、国産車ではトヨタ、日産、ホンダ、日野製を持ったし、スバル(水平対向エンジン、前輪駆動)やマツダ(ロータリーエンジン、ロードスター)にも大いに惹かれた。しかし、スズキの4輪に興味を持ったことは無かった(これは三菱やダイハツも同じ)。このスズキへの関心が突然起こったのは、2005年ハンガリーへ出張したときである。ブダペストの街中を小気味良く走り回っている小型車がスズキのスウィフトであることを知り、それがハンガリーで生産されていることを、現地のスタッフに教えられたからである。その後何度か欧州へ出かけ、多くの日本車を目にしてきたが、スウィフトほど欧州の古い街並みに似合うクルマはない、と勝手に思い込んでいる。本書はそのスズキをユニークな国際企業に育て上げ、昨年亡くなった鈴木修の伝記である。

スズキの創業者は鈴木道雄、元々は大工だが1920年鈴木式織機株式会社を立ち上げ成功、豊田織機同様、戦前自動車への進出を試みるが、戦争で中止。戦後織機会社として再スタートする。この道雄には三人の娘がおり、すべて養子を迎え、彼らは三人とも旧制浜松高専(現静岡大学工学部)機械科卒、長女の婿鈴木俊三が二代目社長となり、オートバイ生産を経て本格的に自動車製造業に進出する。次女の婿鈴木三郎は我が国初の軽自動車スズライトの開発主務者、三女の婿鈴木實治郎が三代目社長を務めている。そして鈴木修は鈴木俊三の娘婿となり1978年から四代目社長を務めることになる。

鈴木修の旧姓は松田、岐阜県下呂の農家の四男、1945年春旧制中学から予科練に進むが終戦で復学、師範学校を卒業し、世田谷で正規の小学校教師を経験(この時の教え子に俳優から参議院議員となり議長も務めた山東昭子がいる)、そのあと中央大学法学部で学び、中央相互銀行(現あいち銀行)に勤務中俊三と懇意になり娘婿として迎えられ、1958年スズキに入社する。かなり曲折した経歴だが、これが管理職・役員・社長と昇進するにつれ生かされていく。根っからの営業マン精神(特に業販店(資本関係のあるディ-ラーではない個人企業)を家族ごと虜にする。OEM車の売り込み(日産、マツダ、三菱))、即断即決(GMとの合弁および解消、中国撤退、原付バイクの一時生産停止)、戦うときには徹底的戦う(インド政府、フォルクスワーゲン)、面子より実益重視の危機管理(トヨタへの救援依頼(ライバルであるダイハツ製エンジン採用))などがそれらだ。冷徹な経営者であるとともに“情の人”であることもよく伝わる筆致。これは著者と鈴木修がお互い仕事を超えた友人であることから来ているのであろう。そんな場面も随所で語られる(時には写真付きで)。

鈴木修が技術者でないこと、著者もあまり技術に精通していないのであろう。技術面からの話に乏しいのはいささか不満だが、ヒットしたアルト、ワゴンR、それに軽の四輪駆動ジムニーにまつわる命名や開発秘話は本書で初めて知った。アルトは音楽用語であるが、これだけでは弱いと「あるときは××に、あるときは○○に」とキャッチコピーを作る。ワゴンRも同様「セダンもあるが、ワゴンもある(R)」と。また、ジムニーはホープスター社(遊園地向け車輌が主力)から製造権を買い取り発展させたもの。

鈴木修の伝記としてだけでなく、軽自動車史としても興味深い話が満載。例えば、鈴木修の政治活動、経団連会長も務めた奥田トヨタ社長による軽自動車優遇税制潰し、環境対策に苦闘する軽自動車業界、あるいはダイハツやホンダに居た鈴木修礼賛者の存在などがその例だ。軽自動車は今や国民に不可欠な存在(生産者、利用者ともに)、鈴木修なくしてそれはなかった。これが読後感である。

著者は1958年生まれ。新聞記者を経て独立。企業をテーマとするノンフィクションを主体とするジャーナリスト。ビール業界に関する作品が特に目立つ。

 

3)高倉健の図書係

-「活字を読む読まないは顔に出る」、デビュー時の監督助言で読書人となった名優、その書籍探し担当者による愛読書と誠実な人柄-

 


中学生時代からの映画ファン。しかし洋画かぶれ、ハリウッドかぶれで、ほとんど邦画を観ていない。観たのは黒澤作品や内外の映画祭などで受賞した作品くらいだ。文化勲章まで受章した高倉健出演の映画を劇場で観たのは「八甲田山」のみ、あとはTVで「鉄道員(ポッポヤ)」と「黄色いハンカチ」などごく限られる。ただ、これら数少ない鑑賞作品から、役を通じて伝わってくるのが、極めて誠実そうな人柄だった。好きな沢木耕太郎のエッセイなどでもそれがうかがえ、興味ある人物の一人となっていた。その人が読書家であり、その手の内が明かになるタイトルと帯に惹かれ読むこととなった。

著者は1953年生まれ。出版社で編集を担当の後フリーライターとして独立。ルポルタージュ、エッセイなどを雑誌等に寄稿している過程で、1980年代高倉健を取材。これが縁で“図書係”となるが、付き人のような専属ではなく、ライターとしての仕事は並行して行っている。出版界に詳しいことから、高倉健にしばしば書籍探しを依頼され、それが彼の死までつづく。この関係から死後「高倉健という生き方」(新潮社)、「高倉健の身終い」(角川新書)なども出版しており、本書もその一つと言っていい。

副題に「名優をつくった12冊」とあり、山本周五郎「樅の木は残った」「ちゃん」、檀一雄「火宅の人」、山口瞳「なんじゃもんじゃ」、三浦綾子「塩狩峠」「母」、五木寛之「青春の門」、森繁久弥「あの日あの夜 森繁交遊録」、池波正太郎「男のリズム」、白洲正子「夕顔」「かくれ里」、長尾三郎「生き仏になった落ちこぼれ酒井雄哉大阿闍梨の二千日回峰行」が主題となるものの、他の多くの書物にも触れ、高倉健・作品と筆者・これと関わる映画作品・それに著者の関係を、あれこれ異なる角度から語っていく。例えば、三浦綾子作品では高倉が「網走番外地シリーズ」撮影中層雲峡に滞在、たまたま読んだ「塩狩峠」を著者に薦め、それに惹かれた著者が難病に冒されている三浦のルポルタージュをまとめる仕事を開始する。また、山本周五郎に関する章では、周五郎作品に興味を持った高倉が木村久邇典「男としての人生 山本周五郎のヒーローたち」を読み、これからヒントを得て映画作りを発想、関係者にも読んでもらうため、著者に古書探しを依頼する。しかし、既に絶版、出版社に増刷の可能性を問うと、200冊増刷で100冊引き取ってくれるなら受けるとの回答。なんと高倉はそれを受入れ100冊を購入し、あちこちに配る。「火宅の人」への興味は高倉が檀一雄の足跡を追うTV番組「むかし男ありけり」のキャスターを務め、ポルトガルへ出かけた話や、「昭和残侠伝破れ傘」で壇の娘ふみと共演した話におよんだりする。高倉が白洲正子の「夕顔」に惹かれるのは、著者の単独企画として「アサヒグラフ」に売り込んだ白洲正子の行動を追う連載記事「白洲正子 清々しき遊び」を高倉が目にしたことに発する。

高倉の本探しは、新刊書は自分で買い求め、簡単に入手出来ない古書を著者に依頼するやり方だが、先の例からも高倉から著者に「この本を探してくれ」と一方的に命じられるような図書係ではなかったことが分かる。

読書の動機は必ずしも映画の仕事と直結するものではないが、映画企画の際は2050冊を購入、それを関係者に配り、意見を求め、これはと思う本は自身ボロボロになるまで読み返し、慎重に映画化可否を決する。

高倉が読書に傾注するきっかけの一つは、俳優としての駆け出し時代、巨匠内田吐夢監督にしごかれ、その際「時間があったら活字(本)を読め。活字を読まないと成長しない。顔を見ればそいつが活字を読んでいるかどうかわかる」と諭されたことがあるようだ。それを終生実行したとこは本書を読んでよく分かり、高倉の生真面目な性格の一端を垣間見たような気にさせてくれた。

 

4)入門講座三島由紀夫

-壮絶な最期を遂げた三島由紀夫、その文学は生と死の葛藤であった。三島研究者が31作品から、それを読み解く-

 


中学生時代母の実家にあった日本近代文学全集をもらい受け、夏目漱石・森鴎外・志賀直哉・泉鏡花などの名作は一応読んだものの、漱石の一部を除けば面白いと感じたものは皆無。戦後の純文学作家による作品は、主人公と世代が重なる石原慎太郎「太陽の季節」と三島由紀夫「潮騒」以外まったく読んでいない。「潮騒」を読む動機は、国語の現代文に登場した三島が唱える「芸術至上主義」にある。日本復興の鍵は「技術至上主義」にありと信奉するエンジニア志願者にとって、聞き捨てならぬ言葉に思えたからだ。どんな作品を書いているのか?丁度文庫本が出たばかりの「潮騒」を手にすることにした。内容は、小さな島の若者の純愛物語、「こんな恋ができたら」との思いは強く持ったものの、「芸術至上主義」をそこに感じることはなかった。三島作品を読んでみようという気はないのだが、壮絶な最期を遂げた三島本人の生き方には大いに興味があり、作品論より作家論を期待して購入した。

著者は1955年生まれ。近畿大学名誉教授(文博)、三島由紀夫文学館館長。「三島由紀夫の文学」「三島由紀夫 悲劇への欲動」「三島由紀夫全集」など三島に関する編著書が多数あり、三島由紀夫研究が専門と推察する。

作家論は作品を掘り下げ、作者の内面を探るものであり、本書も幼児体験や小学校・中学校の作文などから始まり、割腹自殺した日付(昭和451125日)が記された「豊𩜙の海 第四巻「天人五衰」」までの代表作品31を時代順に論じ、三島の内奥とその変化を考察してゆく内容になっている。

ここで著者が通奏低音のようにそれぞれの作品分析に用いる「前意味論的欲動」なる視点、私なりに解釈したのは「無意識のうちに持つ思考や言動の根源」であり、三島のそれは“死の欲動と生きようとする意欲の闘い”だとする。そして、その死は単純な死ではなく、何か大きな意義のあるもののために、自分の命を投げ出したいという、ある意味献身の欲動なのだと。三島の最期を知る者にとって、これは確かにうなずけるところだが、何か牽強付会の感無きにしも非ずの安直な論理に見えてしまう。

しかし、著者はこの批判を予測したように、31すべての作品でこの“生と死の葛藤”を掘り下げ、どちらにバランスが傾くかの違いはあるものの、これが三島文学の真髄であることを主張する。率直に言って、著者の言わんとするところは一応理解したが、これが正統・本流の三島論とは判じられなかった(元々純文学にほとんど触れていないこともあり)。

よく知られた一部作品を紹介すると;「仮面の告白」(これで職業作家として認められたとする)、「潮騒」、「金閣寺」、「鏡子の家」(悪評だった)、「憂国」、「鹿鳴館」、「サド侯爵夫人」、「豊𩜙の海四巻;「春の雪」・「奔馬」・「暁の寺」・「天人五衰」」などがあり、それぞれの作品の文学上の特質・批評を概観した後、作品内容をまとめ、結びとして分析・考察を行う。この形式は確かに「入門講座」の名に相応しく、読んだ気にさせてくれる。

面白いのは、それぞれの作品に対する発表時の文芸評論家の批評、礼賛するものから不評ものまで振幅が大きいことだ。そして同じ批評家が時間経過とともに評価を変えていくところも紹介される。この背景には、初期の作品ほど自己を投入せず(自分をさらけ出す太宰治を嫌悪)、次第にそれが変わり、三島自身をモデルとするような作品が多くなって来たこととにあるとしている。作品を読んだこともない者でも、彼の死に様から、確かにそんな作風の変化があったとする見方にうなずけるところがある。

文学論、作家論など興味の対象外であったが、三島由紀夫に惹かれ読んでみた。他の作家のこの種の本を読むことは無いだろうし、これで三島作品を読んでみたくなることも起こらなかった。しかし、異才三島由紀夫の一面を知ったという点において、読んで良かったと思っている。

 

5)世界秩序が変わるとき

-在米ヘッジファンド・コンサルタントが描く新自由主義後の世界。再び「大きな政府」の時代が到来し、米国の標的はこの時代を謳歌した中国に向かう。乗り遅れた日本に復活のチャンスあり-

 


1983年秋、カリフォルニア大学バークレー校(UCB)ビジネススクールの短期上級管理職コースに参加した。エズラ・ボーゲル著「Japan as Number One  Lesson for America」の時代である(参考書の一つ)。この年のコースは例年(50名程度)になく参加者が少なく、総勢20名で米国人が13名、外国人が7名、この内日本人は私一人だった。コース名は「Revitalize America」、言い換えれば、「いかに日本に打ち勝つか」であり、日本株式会社について様々な角度から講義するカリキュラムだった。のちにクリントン政権下でリヴィジョニスト(日本異質論)の論客として知られるチャーマーズ・ジョンソン教授(日本語を解し、「通産省と日本の奇跡」なる著書もある)の授業もあり、当時政官学民共同で進められていた「第5世代コンピュータ」について、皆の前で説明させられたりもした。振り返れば、この頃から米国の日本潰しが始まっていたのだ。三菱電機や日立がFBIのおとり捜査にひっかかり、日米経済摩擦が熱をおびてくる。

個々のジャパン・バッシングの背景にあったのが、レーガン政権の経済政策基本理念である“新自由主義”、政治介入を最小限にとどめ、金利・為替・貿易・所有権などの縛りを自由化(規制緩和)する考えである。これにより、冷戦の勝利からITによる世界支配まで、米国一極主義が実現するものの、今やそれが崩壊しつつある。タイトルの「世界秩序が変わるとき」はこれを意味する。

では、著者の言う世界秩序とは何か。世襲王侯貴族による統治→19世紀に始まるレッセフェール(自由放任主義)→第一次世界大戦後から始まる「大きな政府」による統治→1980年代からの新自由主義、がそれらだ。レッセフェール下では弱肉強食の植民地主義が限界に達し、「大きな政府」では①共産国家、②ファッシズム国家、③ニューディール政策に代表される規制された自由主義を標榜する米国が覇を競い、③が勝利するものの、やがて「大きな政府」による弊害が目立つようになり、新自由主義の時代が到来する。しかし、これも格差社会を生み、ブレグジットやトランプ現象の例に見るように、今や崩壊の過程に入りつつある。これと絡むのが米国の覇権国へのこだわりだ。日本は1930年代(軍事)と1980年代(経済;GDPは米国の70%に達する)、二度この覇権国に脅威を与え敗れた。米国の経済戦略核になったのは新自由主義。日本はこの流れに乗らず「失われた30年」を経験することになる。

WTO加盟を始め、新自由主義の恩恵を最も受けた国は中国。米国は対日経済戦略に、始めはアジアの四昇竜(韓国・台湾・香港・シンガポール)を利用、次いで中国を支援することで目的を達する。この時代民主党のクリントン政権ですら「大きな政府は終わった」と宣言、ブッシュ(父)と争った大統領選挙戦では「ばか!問題は経済だ(安全保障ではない)」をキャッチフレーズにするほどだった。しかし、新自由主義に基づく経済政策は勝者・敗者の格差を広げ、国の中に分断が生じてくる。トランプ現象出現はその結果であり、一見混乱状態に見えるが、アメリカが自己変革する際の柔軟性と取るべきで、地政学視点は決してぶれていない、と言うのが著者の見解である。そしてその標的は明確に中国(対米GDP50%)に据えられ、中国離れ・中国潰しに関する種々の言動が本書の中で詳述される。

では新自由主義周回遅れの日本はこの状況下でいかなる位置にあるのか。新自由主義対応では「口減らしが必要な村で、姥捨てを行わず、皆で痩せ細る」対応で耐え忍び、活力のない社会になってしまった。しかし、少子高齢化進行で労働力が不足、生産人口に対する就業率が高まっており、並行して賃金も上昇、製造業の生産性はOECD加盟ライバル国と遜色ない(問題はサービス業にある)。また女性の社会進出もプラス要因。加えて技術力は依然トップレベルにある。さらに、ポスト新自由主義では政治が経済に関与する度合いが高まり、政財官の親和性(政治介入をより円滑に行える)がキーファクターとなるが、かつての復興期・高度成長期、そのノウハウを蓄積、依然保持している。加えて、米国が対中戦略を進める上で、地政学的に日本を重要視しているおり、世界秩序体系の激変というパラダイムシフトの中で、日本は勝者に転じる可能性が高いとする。“Revitalize Japan”には疑問を残すものの、勇気づけられる主張だ。懸案事項は、政権与党が脆弱なこと(本書出版は202412月、既にトランプ当選は決しており、日本は石橋首相の下、衆議院選挙で議席を減じている)。

本書を超要約すれば、「米国は覇権国家を維持し続け、日本は再び「勝てる席」に座らされる」。にこのような考えに至る過程は著者の経歴と深く関係する。正確な生年は不明だが、1970年頃と推察できる。バブル末期大手都市銀行に入行、1993年に退職しジョン・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院に入学。1995年に卒業し、ヘッジファンド(ソロスのファンドやそれと並ぶタイガー・ファンドなど)向けコンサルタント企業G7に日本担当として就職、その後独立しオブザバトリー・グループの共同経営者として今日に至る。仕事を一言でまとめると「政策・政治と金融の架け橋」。日米の著名な財政・金融専門家、ヘッジファンド経営者と太いパイプを持つことが本文から窺える。新自由主義に関しては反対者ではなく、信認を失ったのは確かだが、進め方に問題があったとする立場。現下のトランプ現象も、拙速や言動に配慮を欠くとしながらも、「トランプは天才的な嗅覚の持ち主」と一定の評価を与える。この辺りの考え方は我が国知識人や政府筋あるいはジャーナリストと異なり、賛否はともかく、米国政治・経済・世論の深奥部を知る点で、読んだ価値は十分あった。少々驚いたのは著者がトランスジェンダーであることだ。男性として都市銀行に入行、米国大学院時代にカミングアウト(公表)し、女性に転じたことが本文の中で語られ、異質な人間だからこそ、業界でそれなりに注目される効用もあると語っている。

 

6)国境と人類

-民族国家誕生と歩を一にする国境策定、それ以前の世界まで遡り、現代の国境にまつわる諸問題を、穏やかな筆致ながら本質に迫る、ユニークな国境エッセイ-

 


北方四島、尖閣諸島、竹島など我が国にも領土問題は在るものの、地上に引かれた国境線はなく、国境を意識する機会は極めて少ない。自身の経験で言えば、ナイヤガラ瀑布見学(米加国境)、香港観光における中国本土深圳訪問、マレーシアからシンガポールへの入国、それに板門店における韓国・北朝鮮休戦ライン見学(越境なし)の四カ所、いずれも観光目的で、越境という緊張感をほとんど覚えなかった。しかし、直近の世界を見れば、ウクライナ戦争、ガザ紛争、また欧米における難民・違法移民など、国境を巡る問題はいたるところで発生している。多くの国境関連書籍は戦争・紛争を含む地政学的視点から書かれており、本欄でも昨年4月「新しい国境 新しい地政学」を紹介している。しかし、原著のタイトルは「The Edge of The Plain(平原の最果て)」であり、狭義の国境とは異なる印象を受け、読んでみることにした。結果は、民族国家の領土を中心にした国境論と比べ、様々な角度から国境を語る国境話(ばなし)といった構成・内容で、新たな国境観を得ることができた。

主題構成は;(国境を)つくる・動く・越える・崩す、の4部から成り、それぞれの部で特定地域23例を章として10例を紹介する形式になっている。最終的にそれぞれの国境における現在の問題点を論ずるものの、話の展開は、歴史であったり、旅であったり、取材記であったり、と変化に富み、ある種の旅行エッセイを読んでいるような気分を味わうことができる。

例えば、“つくる”の部で取り上げられるサーミ人(ラップランド人)。トナカイの放牧を主とする彼らは2万年前ヨーロッパ中部で暮らしていたところから、現在はノルウェー、スウェーデン、フィンランドの極北部に移動、そこに生活圏を築いたものの、3国により作られた国境で分断され、少数民族同化策で、伝統的な生き方に制約を受けている話。どこの国も自由な放牧を認めず、頭数制限の間引きさえ強要されているのだ。そのひとつの目的は、再生エネルギーに要する広大な用地確保のためである。

“動く”では、いまだ完全停戦が実現していないイスラエル・パレスチナ問題を取り上げる。特にエルサレム市内の境界線が、イスラエル建国時国連が定めた所から動かされている経緯を語り、パレスチナ人家屋の中までおよぶ話やイスラエルがオスマントルコ時代の土地収用法を適用し(3年間耕作されず放置された土地は国有とする)、荒れ地に井戸を掘削(パレスチナ人にはカネも技術もない)、地下水を汲み上げ、集団農場(キブツ)を設営、パレスチナ人の土地を事実上イスラエル領に組み込んでいる。

“越える”では、第一期トランプ政権で築かれたメキシコとの国境壁。自然環境の厳しいところほど不法入国者が集まるが、そこに強固な防壁を設けるには、しっかりしたコンクリート土台が必要となる。しかし、これに要する水の確保が難しい。そこで地下水を汲み上げるのだが枯渇してしまい、さらなる砂漠化が進む。そんな砂漠に難民たち(死者を含む)が残した持ち物を集め分析している研究者が居る。その分析結果の一つが飲料水用のペットボトル。以前は無色透明の物が多かったが、最近は黒に変わっている。太陽の反射で発見される確率を下げるためだ。

“崩す”では、コロナ禍から始まる伝染病の“越境”が取り上げられ、欧州・近東(オスマントルコ)の国境線はもともと防疫・検疫(ペスト、コレラ流入防止)の性格が強い検問所設営から始まったことを歴史的に解説、現代に至るも既存の国境管理方式ではパンデミック防止が容易でないことあらためて認識させる。

ここで語られるもう一つの話題はサイバー空間における、国境越え(侵攻)とその防止策。中国・ロシアが力を注いでいることを例に、新しい国境問題を提起する。

この他にも興味深い話がいくつも。“最果ての地”の英語は“フロンティア”、スペイン語では“フロンテーラ”。前者では“限界のない所”が原意であるのに対し、後者では“限界”が本意、ここからアメリカ・メキシコ国境の変遷を論じ、アメリカ(人)には「国境は移動する(させる)もの」とのDNAがあるのではないかと述べたりしている。

人類生存・発展6千年の歴史をつぶさに観察・分析すると、「人間気候ニッチ」という概念が浮かびあがる。“人類生存適性条件”とでも解釈すればいいのだろう。それによれば「土壌の肥沃度よりも、年間平均温度がはるかに重要」、11℃~15℃の地域がそれに相当する。地球温暖化が問題視される昨今、未来の国境と民族はどうなっていくのか?問題提起で本書は終わる。

著者の年齢は不詳、スコットランドの歴史家。題材として取り上げられる国境地域すべてを現地調査しており、それが深刻な国際問題にも関わらず、旅行記風の作品に仕上がった一因と推察する。 

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