2024年10月31日木曜日

今月の本棚-195(2024年10月分)

 

<今月読んだ本>

1)アメリカ大統領と大統領図書館(豊田恭子);筑摩書房

2)新幹線、国道1号線を走る(梅原淳、東良美季)交通新聞社(新書)

3)計測の科学(ジェームズ・ヴィンセント);築地書館

4)最終飛行(佐藤賢一);文藝春秋社(文庫)

5)教養としてのイギリス貴族入門(君塚直隆);新潮社(新書)

6)本の身の上話(出久根達郎);筑摩書房(文庫)

 

<愚評昧説>

1)アメリカ大統領と大統領図書館

-図書館情報学専門家が綴る、フーバー、ルーズベルトとそれに続く11人の大統領記念図書館訪問記。自画自賛あり失政の言い訳あり-

 


大谷を始め日本選手の活躍でメジャーリーグのTV観戦が俄然面白い。それは日本人プレーヤーのいないチームにもおよぶ。その一つに妙な愛称のカンザスシティ・ロイヤルズ(王族)がある。石油とITが仕事である私にとって農業地帯の中西部は無縁の土地であったが、1995年秋ナッシュビル(テネシー州)で開催された米国石油学会参加の折り、モービル石油(日本法人)からタンクローリー出荷制御システムの調査を依頼され、カンザスを訪れることになった。中心都市カンザスシティはミズリー州とカンザス州を挟んで在り、私が泊ったのはカンザス側、翌朝迎えに来てくれた営業担当者によると、会社の所在地はここからクルマで1時間ほど西とのこと。平坦な地形に果てしなく穀倉地帯が広がる景観は、それまで知る米国とは全く別物であった。訪問先の会社は州間ハイウェイの両側に商店や工場が点在する小さな町に在り、何故こんな所に制御システムの会社が?といぶかしく思うような場所。昼食時オーナー(元大手自動車部品会社技術者)から、ここが彼の出身地であることを知らされ納得、その際彼が語ってくれたもう一つの話が、カンザスを忘れ難いものにした。それは「さらに少し西へ進めばアイゼンハワーの出身地が在り、そこは地理的に米国の中心である(東西、南北等距離交差点)」」と言うことだった。クルマの運転ができない著者がアイゼンハワー記念館にたどり着く苦労話の中に「米国のヘソ」が出てきて、あの大平原の記憶がよみがえった。

著者は1960年生れ、お茶の水女子大卒業後出版社勤務を経て米国シモンズ大学(ボストン)留学、図書館情報学修士号取得、帰国後JPモルガン(日本)、NTTデータでデータベース構築・管理に携わり、現在東京農業大学学術情報課程教授。2022年父の遺産を有意義なことに使おうと7回にわたり渡米、13の大統領図書館すべてを訪ずれてまとめたのが本書である。

米国大統領の公文書を議会図書館に集約することは1903年から始まっているが、大統領図書館設立は1955年成立した「大統領図書館法」以降となる。これ以前1941F.D.ルーズベルト大統領は私費で図書館を設立(土地も一族所有地、運営は公費)、その一代前のフーバー大統領も自身の活動記録を中心に母校スタンフォード大学に研究所を作っている。しかし、法律制定後トルーマン、アイゼンハワーが図書館を建設したことを見て、1962年出身地(アイオワ州ウエストブランチ)に文書類を移し、フーバー記念館を作り上げている。法律制定前のこの二人、それ以降のトルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソン、フォード、カーター、レーガン、ブッシュ(パパ)、クリントン、ブッシュ(ジュニア)まで13人の大統領図書館を紹介するのが本書の内容である。調査開始時すでにオバマは大統領を辞して久しいにもかかわらず、取り上げていないのは従来方法での建設・運営が実状に即さなくなってきているからで、「おわりに」でその件に触れている。

各大統領図書館の説明は;①来歴:人となりから現役時代の重要政治課題対応、晩年の生活まで。ここは著者の調査中心に客観的にまとめられる。②大統領文書と図書館建設:収納されている文書類とその扱い、図書館と言うより記念館の性格が強い施設の建設・運用実態。公文書・私文書に関しては、範囲・量や管理方法の変遷と現状。建設に関する第一の問題点は財源。多くは記念施設建設・運用のための寄付で設立された財団に依るが、出資構成で性格が変わってくる。自身が最大の出資者であれば希望をかなえやすい。例えば、ジョンソンは「とにかくでかいやつを作れ」と要求、巨大な入れ物を建設している。もう一つの問題は設置場所;生誕地、居住地、出身校などが誘致合戦を繰り広げる。この過程で家族・財団と折り合いがつかず併設が生じたりする。例えば、JFKの場合ケネディ家(偉業)とハーバード大学(教育)の間でコンセプトが一致せず、記念館はマサチューセッツ州立大学に設置、ハーバード大学はケネディ公共政策大学院を発足させる。③ミュージアム訪問:展示物の内容や展示方法、訪問者像。研究者に価値があるのはアーカイブス(文書館)の方だが、訪問者は圧倒的に展示館が多く、著者もここにより訪問時間を割いている。郷土の英雄を称えたり自身の力を誇示したり(逆に失敗を巧みに糊塗したり)、かなり神格化バイアスがかかっていることを著者は冷静に分析、考察する。

ミュージアム(展示館)の展示方法には来訪者を楽しませる仕掛けがいろいろ工夫されている。例えば、現職時代大統領が決断に苦慮した問題を実体験させる“遊び”がある。トルーマン時代マッカーシー赤狩り旋風が吹き荒れる。音声の質問にYesNoのボタンで順次答えていくと、最後に大統領もこれに加担したことが、当時の社会政治環境としてはごく常識的な決断であったことが分かる仕組みだ。レーガンの記念館には退役した大統領専用機(エァーフォース・ワン)が室内展示され、これが集客の目玉となっている。

どこの記念施設もそれなりに人を集めており、2019年の実績ではフーバーの3万人からアイゼンハワー、ケネディ、ブッシュ(パパ)の20万人まで、大方は10万人を超えている。しかし、文書の幾何級数的(特にEメールによるそれ以上の対数的)増加、公文書・私文書仕分け整理の限界(百年以上かかるバックログ)、これに依る資料の散逸、公費・私費分担問題(カネは出してほしいが口は出させない)、そして元・現大統領への公開制限権付与など問題累積。時代にそぐわなくなった大統領図書館法を無視するかたち(国立公文書館管理外)で、オバマ財団は直営の記念施設建設に踏み切っている(文書類はディジタルライブラリー化しWeb経由)。

現存の大統領図書館は人気もありユニークな存在であるが、これからの大統領(トランプ以降)に関し著者の見方は懐疑的だ。その主因として“大統領の尊厳”に対する環境変化を挙げている。つまり対立を煽りスキャンダルまみれの大統領に対し、超党派で支える精神が失われ、国民も大統領を単なる利益代表として選んでいるだけだと言うのだ。まったく同感だ!

独特の読後感は疲労感だ。いずれの記念館も辺鄙な場所に在り、クルマを運転できない著者は訪問に難儀する。書き出しで触れたアイゼンハワー記念館では大きな空港(カンザスシティ空港と推察)からマンハッタン(ブラックユーモアか!)と言うローカル空港まで小型機で飛ぶが、そこからの交通手段は皆無。結局記念館の職員に送迎してもらうことになる。大都市の大学校内だからと言って油断はできない。ブッシュ(パパ)記念館はテキサス農工大学(出身校ではない。広さは港区全体に匹敵)に在るのだが、大学中心部から徒歩で30分以上かかる。片道2車線の幹線道路沿い歩道も途中で消滅、クルマの疾走する道端をトボトボ歩みを進める。

 

2)新幹線、国道1号線を走る

36m30tの新幹線車両を4時間かけて48km陸送するルポルタージュ。地図と写真で神業紹介-

 


私の鉄道最寄り駅は京浜急行の金沢文庫、次駅は金沢八景。この間の西側には旧海軍用地を転用した()総合車輌製作所が在る。以前東急車両(株)金沢工場であったが2012年以降JR東日本の傘下に入り、時折新幹線塗装の車両が垣間見える。京浜急行と新幹線は標準軌、JR在来線は狭軌、工場側線は狭軌・標準軌の3線構造。この3線は京急逗子線につながり、JR逗子駅手前で狭軌はJR方面へ分岐していく。つまり狭軌の車両はJR経由で目的地に向かうのだ。標準軌私鉄(京成、都営)はともかく、新幹線車両搬出はどうなるのだろう?

本書は書店の新幹線開業60周年記念コーナーで見つけたものだが、発刊は2009年とかなり古いものの、新幹線車両製作工場から本線に乗り入れるまでの過程が写真・地図入りで解説されていたので、謎解きが可能ではと求めた。

開業前の新幹線試験線拠点は神奈川県西部の鴨宮。当時の新幹線車両メーカーは以下の5社(製作所);日本車輌製造(埼玉蕨工場)、汽車製造(東京工場)、日立製作所(山口笠戸工場)、川崎車輌(兵庫工場)、近畿車両(大阪徳庵工場)。この時の新幹線納車で輸送方式はすべて出そろっている。トレーラー牽引、船舶、在来線利用の3種である。ただし、営業用車両の搬入先は鴨宮ではなく、東は東京運転所(品川)、西は大阪運転所(摂津)となる。両所とも運転管理所ばかりでなく車両基地でもあった。その後の変化は、先ずメーカー起こる。汽車製造と川崎車輌は川崎重工の鉄道事業部門として併合され汽車製造の東京工場は閉鎖される。また東日本最大の製作拠点であった日本車輌蕨工場も、愛知県豊川市に新工場が完成するとこの地を去っている。運用側の変化は国鉄民営化。元祖新幹線はJR東海、東北(秋田・山形を含む)・上越・長野(北陸)新幹線はJR東日本、山陽新幹線はJR西日本、九州新幹線はJR九州、北海道新幹線はJR北海道、と経営主体が分かれることになる。この分割民営化と新幹線延伸は車両メーカーの経営にも影響する。日本車輌豊川製作所は元国鉄名古屋工場の分工場跡地に新設され、2008年にはJR東海の連結子会社となっている。また本書では一切触れられていないが、東急車両が新幹線車両製作に加わるようになるのも分割以降、現在はJR東日本の100%出資会社として名称も総合車輌製作所と変じた。

本書の出版は200910月、輸送実施時期はその年の4月。列車型式は現在に続くN700系(最新は700S型)。これはJR東海とJR西日本の共同開発に成るものだ。輸送経路は日本車輌豊川製作所からJR東海浜松工場まで、約48km。豊川製作所は在来線へ側線乗り入れしているものの、新幹線にはつながっていない。本書の中で他社工場から初期の新幹線車両を台車のみ狭軌用のものに履き替えて在来線で輸送する事例も紹介されるが、ここは手間と費用の点でトレーラー牽引方式が有利と判じられる。

両工場間には主管の異なる市道・県道・国道があり、道路構造(分離帯有無など)・車線数・道幅が変化、電線・歩道橋あるいは交通標識が時として障害となる。十字路・T字路での方向転換は当に神業だ。地図上のシミュレーションや現場検証を重ね綿密な輸送計画を作り上げ、いくつもの許認可事項(道路ばかりでなく車両も)をクリアーして実行可能となる。実施時刻は午前零時から4時過ぎまで。一回の輸送で2両(トレーラー2編成)、新幹線一編成全体16両を終えるのは8日を要する。台車や下部取付け物の一部は分離別送、それらを外しても130トンの重量があり長さは先頭車で36m。輸送編成は;先導車-本体トレーラー(牽引車+仮接タイヤ台車に載った新幹線車両;後部台車は無線操作で方向可変)-後導車-後方警戒車。これを日本通運の専門技能者(新幹線ばかりでなく、大型電気機械や風力発電の羽根なども扱う)10名と警備・誘導員の8人が担当する。本書はこの作業を著者2名(記事、写真各1名)がクルマで前後随走しながらルポルタージュする部分が中心となり、図面や写真をふんだんに使い、臨場感をもって難所通過が伝えられる。また、従事する人々の経歴や生活環境にもかなりの紙数を割き、血の通った仕事ぶりが、堅い技術物とは一味違った読後感を残してくれる。

ただ、同形式の車両を運用するJR西日本やJR九州の新車両輸送には触れるものの、JR東日本については、東北新幹線開業前小山新幹線車両センターへの輸送(東京第一運転所(大井)から都心を抜け、トレーラーで二日がかりで運ぶ)が紹介されるだけで、現状には全く言及していない。私の疑問、近くの総合車輌製作所で製作された車両がいかに搬出され新幹線に乗り入れるのかは不明のままである。台車に在来線用のものを仮接して輸送することの問題点は、新幹線開業前に限界測定車コヤ90を作製、これで横浜港駅~鴨宮間をチェックした話で理解できた。その結果は、支障物(プラットホームなど)21ヵ所、信号機57ヵ所、架線27ヵ所、その他の障害26件があり、プラットホーム対策は台車と車体の間に高さ調整用スペーサーを挿入してかわし、その他も線路移動など大掛かりな改修工事があったと記されている。京急逗子線は3線形式でJR逗子駅へつながっているが、そこから先はどうなるのだろうか?最寄りの国道16号線は片道一車線、どう考えてもそこをトレーラーで牽引して北区尾久付近に在る東京新幹線車両センターまで達するのは無理だろう。湾岸道路経由か?一度工場からの搬出を見たいものだ。

著者は、梅原が記事、東良(とうら)が写真、を担当。前者は1965年生れ、大学卒業後銀行勤務を経て出版業界に入り、2000年からフリーの鉄道ジャーナリストとなる。後者は1958年生れ、編集者、カメラマン、音楽PVディレクター、グラフィック・デザイナーとある。

 

3)計測の科学

-言語と同時に始まった計測。単位を巡る戦いは国家の命運を左右し、今やセンサー情報なしでは日々の生活もおぼつかない-

 


196210月半年におよぶ新入社員教育・現場研修を終え、正社員(それまでは試用者)として配属された職場は、和歌山工場工務部工事課計器係。工事課は100人を超す大所帯で課長の他に副長が居り、この人が計器係と電気係を担当していた。その副長からまず命じられたのが「来年の計量士試験に向け受験準備をするように」であった。そんな国家試験があることすら知らなかったから「いったい何のこと?」と驚いた。先輩に聞くと、取引用計測器の検定を行える国家資格だと言う。この資格者不在の場合は計量検定所や海事検定協会に計器の検査を依頼することになり、時間もカネもかかるので社内に複数人の資格者が必要なのだと。翌春二日間におよぶ筆記試験を大阪で受け合格、7月初め東京の工業試験所で面接試験がありこれも無事パス、“国家計量士”の資格を得た。制御システム技術者志願だったから思わぬ寄り道をしたような気がしていたが、その後計測→制御→情報と担当域を拡大するにつれ、計測こそ経営の原点と認識するようになる。

こんな経緯もあって計測に関する読み物を何冊も読んできているが、概ね科学史・文化史的な色彩の濃い内容だった。本書も大きな流れは歴史にあるが、国家統一・国内統治・国際関係など広義の政治史的な観点から、計測ばかりでなく通貨単位などにも触れ、その役割を再認識する結果になった。

計測の必要性は、商取引は無論、政治や宗教、治水や建築・土木、農牧畜業、地代・徴税などで早くから認められ、その後交通機関運用、軍事作戦、環境問題対応などさまざまな分野に広がり、いまやIoTInternet of Things;あらゆるものがインターネット接続される)の必須要素になっている。本書の書き出しも、古代におけるナイル川の水量測定(ナイロメーター)によって農作物の出来高予測を行い、食糧施策を行う話から始まり、現代に至る計測に関するエポックメーキングな出来事やそれと関わる人物を多々取り上げ、計測を身近なものにしてくれる。中でもメートル法の考案とその後の普及拡大は、直近の政治課題にもつながり興味深いものだ。

メートル法の考案・普及はフランス革命の結果である。フランスに限らず、歴史的に為政者の単位と庶民の単位が並存していた時代がいたるところにみられる。ひと言でいえば収奪する側とされる側の違いである。フランス革命の中から誕生したメートル法は権力者の単位を覆す意義が大きく、革命派は熱狂する。長さ1mは北極点からパリを通り赤道に至る子午線を基に定め、その長さを基に1000cm³の容器を満たす水の重さを1kgと定めたのだ。“何となく”科学的な印象を与える単位決定法だ(実は、何故極点と赤道間?歩幅の方がまだ分かり易いのでは?こんな疑問にも答えられないいい加減な単位なのだ)。欧州・地中海域制覇を進めるナポレオンも「征服者はいつか去る。だがこの偉業は永遠である」とその普及を進め、征服地に適用が広がっていく。しかし彼の失脚とともに一旦その勢いを失い、しばし多様な単位が復活する。これが再度覆るのはラプラス(数学者)やラグランジェ(化学者)が始めた度量衡委員会の発足。19世紀末期になると白金製のメートル原器・キログラム原器をフランスが作成、これが国際度量衡会議で原器として認められ、各国にそのレプリカが配布されることになる。だが時代が下ると要求測定精度はこれを上回るものを求め(例えば半導体)、長さは光速に基づくもの、重さ(質量)はプランク定数(光エネルギーと質量の関係)から求める方式に変わり、原器は役割を終える。

このフランス生まれのメートル法に馴染まなかった大国は英米の二国。英国はヤード・ポンド法の母国、米国もこれに倣ってきた歴史がある。しかし、英国は第二次世界大戦後大陸との関係が強まるにつれメートル法併用を法的に認め、EU加盟でさらに適用範囲を広げる。だが、ブレグジットでは再び英単位回帰が争点の一つになっている。事を複雑する背景に12進法や16進法がある。1ヤード=3フィート=36インチ、1ポンド=16オンス。さらに通貨も1971年までは1ポンド=20シリング=240ペンス(それ以降100ペンス)。五本の指をベースとする10進法は一見合理的な計数法と思いがちだが、本書によれば何かを等分する際、12進法は2346が可能、16進法も同様に多様な分割が出来、10進法より実用的だったことがあるとしている。なるほどの感だ。逆にフランス革命では、110カ月構成の革命暦を定めるが、短命に終わっている。

米国独立戦争ではフランスが独立派を支援する。それもあり、ジェファーソンは独立後メートル法導入を推進する。しかし慣例のヤード・ポンド法に抗しがたく、その後も何度か法制定に前向きな機運も生まれているが、現在に至るまで公的には認められていない(多くの国際企業は社内基準として採用)。著者は反メートル法にいまだ拘泥する国として、米国・リベリア・ミャンマーの三国を挙げているほど、根強い抵抗がある。

ところで米国の州境に直線が多いのは何故だろう?通常、国境や地方の境界は自然環境あるいは部族や言語境界などが一般的なのだが、先住民の存在などお構いなしに、国がグリッド(碁盤目)計測で西部開拓分譲を進めた結果なのだ。これは植民地征服に明け暮れた欧州に依るアフリカや中東の国境策定にも一部通じ、計測悪用例の証といえる。

温度(華氏と摂氏)、エネルギー単位(カロリー、ジュール、BTU(英国熱量単位))、統計に基づく計測値(死亡率など)、IQ(知能指数と誤解されているが、本来特別な支援を必要とする子供を判断する一手法に過ぎない)などにもメートル法同様の複雑な背景があることを興味深く学んだ。残念だったのは長く従事した石油業界なじみの単位、バレル(樽;原油取引・処理)やガロン(ラテン語のバケツに由来;米国における石油製品取引が最もよく知られているが、牛乳など液体取引に広く利用)が一切出てこないことである。これらもきっと面白い話があるに違いないのだが・・・。

因みに、本書では全く取り上げられていないが、我が国古来の計測単位は尺貫法。土木建築や伝統商品(例えば日本酒)、和装品の取引に、坪、間、貫、匁、升、合、尺、寸、反などが慣例上使用されているが法的根拠はない(1958年以降禁止。計量法違反には罰金刑が科せられる)。

訳に不満はないが、原著のタイトルは「Beyond Measure(計測を超えて)」。無味乾燥な邦題に比べ、はるかに含蓄があり内容に相応しい。

著者は生年、専門領域不詳、英国のジャーナリスト。どおりで英国の話が多い。

 

4)最終飛行

-「星の王子さま」を著したサン・テグジュペリ、偵察機パイロットとして地中海に消ゆ-

 


「夜間飛行」と題する文芸作品があることを知ったのは中学2年生のときだった。朝登校すると教室の黒板の片隅に「夜間飛行某日某時」と書かれていることがあり、飛行少年に目覚め始めた私にとって「いったい何のことだろう?」と好奇心をそそられる謎の一行だった。秋の学芸会でその疑問が解明する。演劇部の先輩たち(高校生)がそのための稽古をしていたのだ。演じられたそれは、ラジオが載る机を前にした一人の男のところへ何人かの男が出入りし(終盤女が一人)、緊急事態を告げている場面、夜間の飛行に難渋しているらしいことは分かったが、中学生には難解な出し物だった。後年飛行機への関心が嵩じ航空小説を漁るようになると、いずれも堀口大學訳の「夜間飛行」(「南方郵便機」併冊)「戦う操縦士」「人間の土地」を購読、天が茶色に変色した新潮文庫は今も書架にある。作者はサン・テグジュペリ、「星の王子さま」の方が広く知られているようだ。本書はサン・テグジュペリが作家としての名声を確立後、第二次世界大戦で予備役から現役に復帰、19447月連合軍大陸反攻の過程で、偵察飛行中行方不明になるまでを描いた一種の伝記小説である。

物語は19405月のドイツ西方作戦から始まる。この時サン・テグジュペリは39歳、フランス空軍33-Ⅱ大隊の大尉で偵察を任務としている。第一次世界大戦で航空兵となり戦後フランス民間航空会社パイロットに転じていたが、ナチス興隆の中で現役復帰した結果である。年齢制限によって最前線で飛行することは許されないのだが、「南方郵便機」「夜間飛行」で高い評価(仏学士院賞受賞)を得ている作家であることから、有力な伝手を利用して飛んでいるのだ。フランスは敗走、ついに休戦協定を結ぶことになる。サン・テグジュペリはこの時アルジェリアに逃れ、予備役にまわされる。軍はナチスと和睦したペダン元帥のヴィシー政権の下に置かれるが、これに恭順するヴィシー派、抗戦を続ける国内のレジスタンス(共産党が主導)、ロンドンに亡命したド・ゴール派、北アフリカ植民地軍の中の抵抗勢力(ジロー将軍)など、休戦下のフランス人の対応はさまざまだ。いずれの勢力もサン・テグジュペリの名声を勢力拡大に利用しようと狙っている。彼が心ひそかに自身を位置付けるのはジロー派、ド・ゴールをただのハッタリ屋と見てのことである。ヴィシー派に加わる気は全く無いが、パリに一人残した妻コンスエロを救出し南フランスへ脱出させること、次の策として彼自身も米国(この時点では中立)に亡命(米出版社の招聘に応ずるかたちで)する計画がある。そのためにはヴィシー政府の発行するパスポートが必要となり、いっときヴィシー政府にすり寄っていく。米英政府も彼の考えに近く(ルーズベルト、チャーチルともにド・ゴール嫌い、ジローを担ごうとする)、これが次第に彼の政治的な立場を難しくしていく。この問題に絡むのが三つの主題;第一は、妻(エル・サルバドル系フランス人)コンスエロとの関係、決して愛情が覚めたわけではないが、身近に置くことを避けるのだ。例えば、米国に呼び寄せながらアパートの自室に一緒に住まず、高級ホテルのスウィートを住まいとして用意する。こんな仕打ちに、一度は離婚を決意する妻だが、踏み切れない。第二は、米国における創作活動。米出版社が彼を招いたのは新作を書かせるため。ここで「戦う操縦士」と「星の王子さま」を書き上げて出版。いずれもベストセラーになるが、そこに至る道は決して平坦ではない。そして第三が空軍への復帰である。それも最新鋭戦闘機P-38(偵察にも利用)への搭乗、連合軍の北アフリカ上陸作戦後、総司令官アイゼンハワーまで動かして実現する。19447月、既にノルマンジー作戦は成功、北アフリカ、シシリー、南イタリアと攻め上がってきた連合軍は空軍基地をコルシカ島にも設け、鉄床作戦(南仏上陸作戦)準備の偵察行を繰り返している。サン・テグジュペリにとって南仏は勝手知ったる土地、731日も僚機と飛び立つが帰途は単独飛行になり、その途上音信が絶える。これが最終飛行、44歳、これまでにもいくつかミスを犯している。操縦ミスか?機の故障か?敵戦闘機による撃墜か?いまだ謎は残されたままだ。

著者は仏文学・文化に造詣の深い直木賞作家(受賞作品は「王妃の離婚」(中世フランスが舞台))。参考文献には一切触れていないが、広範に米仏文献調査をしていることがうかがえる内容だ。しかし、それがかえって話をくどくする。私としては小説を楽しむと言うよりは、(本旨でないことは承知したうえで)飛行士としてのサン・テグジュペリに関する知識を広げたいと期待したので、外れだった。「夜間飛行」はじめとするサン・テグジュペリの作品も主題は“人間”であり、それが高い評価の主因だが、飛行に関するストーリー、描写も比較にならぬほど優れている。作家が他の作家の得意分野(この場合は飛行)をテーマに創作することの難しさを、奇しくも知ることになった。

 

5)教養としてのイギリス貴族入門

-英階級社会の最上位、世襲貴族は大地主。だが高貴なる者の義務は重く、それを維持することは容易ではない-

 


英国事情に通じた知人から「英国は階級社会。入り込むには入口が大切」と常々教えられてきた。現役時代、仕事を通じて多くの英国人と付き合いがあった。ほとんどは石油人だ。米ビジネススクールの英国人クラスメイトとは今も手紙・Eメールをやり取りする仲だ。ビジネスマンを辞め念願の英国に渡り、地方大学教授の下でOR史を学び、私生活の一端も垣間見た。しかし、残念ながら私の友人・知人は、良くて中流の中、大部分は中流の下といったところと推察する(決して経済力が低いわけではないが)。

滞英中訪れたチャーチルの生家ブレナム宮殿を始め、何ヵ所かの貴族の屋敷を見学するする機会があったが、庭園・領地をふくむその広さ・豪華さは、当に一国一城の主に相応しいものだった。しかしである、それらすべては今では財団(トラスト)の管理下にあり、貴族生活を維持し続けるのは容易でないことがうかがえる。英国貴族についてもう少し知りたい。これが購読の動機である。

英国の正式国名はUnited Kingdom of Great Britain and Northern Ireland、イングランド・スコットランド・ウェールズ・北アイルランド連合王国、略はUKである。この国名が表すように、11世紀のノルマン征服来、大陸の複数の国々を含めこの国の統治形態は複雑を極めてきた。そんな歴史的変遷の中で際立つのは、他の国と比べ王権と地方有力者の力関係が分権的であることだ。代表的なものに、王が有力者の要求に屈して交わしたマグナ・カルタがある。このような統治環境の下徐々に出来上がっていったのが現在の貴族制度、そこに王との近さや支配領域の広さ、功績などから特別な尊称が生まれる。公・侯・伯・子・男、五つの爵位がそれである。世襲貴族創設は王権であるが、首相の助言(実質的に認可)を必要とする(一代貴族授爵は首相が候補者を提案、国王がそれを認める形式)。

2023年現存する世襲貴族は;公爵24、侯爵34、伯爵189、子爵110、男爵449、計806人となっている。直近の授爵はハロルド・マクミラン元首相(在任期間;1957年~1963年)に1984年伯爵が授けられたのが最後となっている。現時点で最も資産を有するのはウエストミンスター公爵当主ヒュー・グロブナー氏(1991年~)、資産額は99億ポンド(日本円で約18千億円)、これは英長者番付で11番に位置する。北西イングランドに在る屋敷の敷地面積は11千エーカー(約43平方キロ)、江東区よりやや広い。ただし、資産の主要部分はメイフェア―(ロンドン市内の高級住宅街・商業地区)の土地である。所有する土地の広さが、かつては授爵の要件、1万エーカー(40平方キロ)が貴族とジェントリー(平民の最上階級)の境界であった。本書には千葉県よりやや広い地主貴族(サザーランド公爵家)も紹介されるが、19世紀後期で400人の貴族を含めて1700人弱で国土の41%を保有、そのトップの座にあったのがこの公爵家である。広大な土地保有のカギは“長男相続制”、他の欧州諸国が分割相続であることと顕著な違いである。ここから、次男以下は聖職者・軍人・法廷弁護士・高級官僚・大学教員・医師などに職を求めることになり、「専門職階級」が生まれ、これらがアッパー・ミドル(上層中産階級)を構成することなる。

貴族の格式を維持するのは容易ではない。農業不況、産業革命等大きな時代変革に資産活用を図れなかったものは没落していく(チャーチルの実家マールバラ公爵家もその一例。母親が米国大富豪の娘であったことで何とか体面を保っていた)。そして“ノブレス・オブリージュ(高貴な者の義務)”、慈善事業や芸術文化のパトロンと何かと出費がかさむ。さらに戦争となれば率先して最前線に身を投じなければならない。第一次世界大戦全期を通じて戦死者は8人に1人だが、世襲貴族に限れば5人に1人、相続人を欠き国土の半分の土地所有者が変わってしまうほどだった。

政治環境の変化も貴族に厳しくなっていく。労働党の誕生とその党勢躍進が大きく影響する。100万ポンド以上の土地所有者の相続税は、1919~1930年の40%から1948年には75%までに達し、この重税が「ゆりかごから墓場まで」政策の主要財源となるのだ。そして授爵はいまや政治の道具に化してきている。誕生時は世襲貴族全員(最大時は約1千人)で貴族院が構成され、庶民院(中小地主、成功した都市商工業者まら成る)に対して強い牽制力を有していたものが、年々権限を縮小され、現在世襲貴族枠は約60人まで減じている。その一方で一代男爵授爵の権限が首相にあることから、近年世襲外の貴族院議員指名や閣僚任用にこれを利用することが保守・労働両党で行われる。サッチャー首相(保守)が201名の大量叙任を行ったことを革きりに、ブレア(労働)は357名、キャメロン(保守)は243名を一代男爵に任じて議会対策を行っている。直近のスナク首相(保守)がキャメロン元首相を外相に登用する際男爵位を与えたのも同趣旨だ。

著者は1967年生れ、関東学院大学国際文化学部教授。専攻はイギリス外交史・ヨーロッパ国際政治史。エリザベス女王崩御・チャールズ国王戴冠に際ししばしばTVや新聞で見かけた人。平易で知られざる話題に満ちた本書は、貴族のみならず現代英国社会理解の一助ともなる内容だ。

 

6)本の身の上話

-古書ビジネスの知られざる裏面。この道一筋の著者がその全貌をエッセイで公開-

 


小学生の頃、本は汚すものではないと教えられて以来、線引きや書き込みは無論、折り返しをすることすらしなかった。そんな習慣は20歳代後半まで続いたものの、その頃になるとビジネス関連書が増え、あとで参照するときに分かりやすく、と線引きや書き込みをするようになる。そして今やほとんどの本は、赤線がいたるところに引かれ、メモ付き付箋があふれ、欄外は書き込みだらけになっている。終活の中で書籍処分は大きな課題だが、このように汚れた本は希書であっても古本屋が引き取らず、紙くずとして処分するほかはないようだ。数年前“知の巨人”と称せられていた立花隆が亡くなり、その書庫を整理する様子がTVで放映された。そこでは著名人の蔵書は書き込みなどで汚れているものほど価値があると語られ、凡人との差を痛感させられた。本書はこの種の“汚れ本”ばかりではなく、古書の来歴・作者あるいは業界事情を交えた、56話から成る古書エッセイである。著者は古本屋の店員からスタート、古書店経営者さらに作家(1993年「佃島ふたり書房」で直木賞受賞)へと転じた人。現在この人ほど、古書を興味深く語れる物書きはいないだろう。

本書で取り上げられる古書刊行の時代は江戸から昭和まで。明治・大正・昭和戦前期が多い。従って、私にはなじみの無いものが大部分だ。選ばれた書物の分野は、一般刊行物(小説、ノンフィクション)から故人の追悼集、雑誌の付録、新聞の切り抜き、書画骨董品目録まで多岐にわたる。また当てる焦点も、作品・作者・歴史・社会(世相)・古書ビジネスの内実・著者の関心事など一様ではない。これを一話4頁+挿絵(関連する人物;南伸坊画)でまとめている。このような形式を採っているのは、それぞれの話が20191012日から20201031日まで毎土曜日の日経新聞に連載されたことによる。従って、全容を手短に紹介することは難しいので幾つかの話題を取り上げそれに代える。

「書き込みにそそられて」;ここで登場する人物は夏目漱石と乃木希典。『「書込み本」は、普通いたずら書きと見て傷本扱いである。しかし、文豪の書込み本とあらば、話は別である。夏目漱石は蔵書をノート代わりに使った。』とあり、『ハムレット原書に、スレカラシ大将ナリ、イヤナ奴ナリ』などと書き込んでいることを例示、『漱石の書込み本が市場に出たなら、本の種類に関係なく目の玉が飛び出るような古書価だろう』とつづき、『ただし、旧蔵者が漱石と証明されての話である。これはむつかしい。』と結ぶ。乃木希典も蔵書書込みでは有名、著者と格闘しているような「つぶやき」を随所に残している。

「愛すべき漫画の思い出」;昭和46年夏、福井英一「豆らいでん」なる漫画本を伊豆の氷屋で見つける。昭和29年発刊で当時の値段は130円、これにかなりの額を加えて譲ってもらう。通信販売で2千円の売価を付したところ引合いがあった。送金を確認して郵送。ところが数日後「1頁抜けている。大幅に値引きしてくれるなら・・・」との連絡がくる。紆余曲折の末モノを引取り返金するが、後日これが業界のくわせ者の仕業と判明する。欠落を理由に値引きをさせ、あとで復元し高額転売する手口なのだ。以後著者は貴重な古書には伝票に「落丁乱丁調査済み」を付して送付することになる。

「新聞切抜きも「古書」」;古い新聞スクラップは人気が高く、物によっては引っ張り凧。昭和十年代の書籍広告のみの切り抜きが、一冊にまとめられて古書展に出ていたが、一足違いでさらわれた、とある。また美智子上皇后が妃殿下時代、佐藤春夫の連載コラム「美の世界」を毎回切り抜かれ、保存されていたことが後年著者に伝わり、恐縮した佐藤が『美の世界』特製本を献上、「許されるならお手許の切抜きをお下げ渡しいただけまいか」とお願いしたところ、妃殿下が快諾され、それを小泉信三に託すことになる。

この「新聞切抜き」にはもう一話;新聞小説の完全な切抜き(第1回~最終回)も高く取引される。単行本との違いは挿絵の有無にある。

「世にも珍奇な贋物目録」;戦前の書画骨董品売立て目録は人気がある。戦災で焼失した美術品が見られるからだ。そんな中に、当時の権威ある鑑定家が高い評価を与えた美術品を記載した目録があり、古書展に出品されて高額落札するのだが、後日そのすべてが贋作であったと判明、目録そのものの価値も一気に下落してしまう。

古書の世界を知り尽くした、著者の軽妙な筆致に陶酔感さえおぼえた。

 

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2024年9月30日月曜日

今月の本棚-194(2024年9月分)

 

<今月読んだ本>

1SIZE(バーツラフ・シュミル);NHK出版

2)グッドフライト・グッドナイト(マーク・ヴァンホーナッカー)早川書房(文庫)

3)知っていそうで知らないノーベル賞の話(北尾利夫);平凡社(新書)

4)パナマの仕立屋(上、下)(ジョン・ル・カレ);早川書房(文庫)

5)アファーマティブ・アクション(南川文里);中央公論新社(新書)

6)ナットとボルト(ロマ・アグラワル);草思社

7Blue Impulse & the Counterparts(瀬尾央編);エアーワークス(写真集)

 

<愚評昧説>

1SIZE

-大が総じて有利な社会、本当にそうなのか?プロポーションは?効率は?人類から超高層ビルまでSIZEの意義を考える-

 


1953年(昭和28年)、伊東絹子と言うファッションモデルが米国で開かれたミス・ユニヴァース・コンテストで3位に入賞した。科学の湯川秀樹、スポーツの古橋廣之進と並び、敗戦に打ちひしがれた日本人に自信を与えくれた一人と言える。そして新しい美の評価基準を知らしめた人物でもある。八頭身、頭部が全体の18となるプロポーション、顔を中心とした我が国古来の美形と異なる視点を知ることになる。

本書のタイトルは“ SIZE”、人間の諸元にとどまらず、旅客機の座席間隔、スーパー・タンカーの限界、宇宙の広がり、半導体の密度まで、思わぬ切り口でSIZEを語っていく。

著者は1943年チェコスロバキア生れ、1969年のソ連軍進駐で米国に亡命、ペンシルベニア州立大学で地理学博士号取得、現在カナダマニトバ大学特別栄誉教授、カナダ王立協会フェロー。専門は、エネルギー、環境変化、人口変動、食糧生産、技術革新、公共政策と広範。実は既刊の「Numbers Don’t Lie(数字は嘘をつかない;原著)」を本書以前に購入し、読み進めているがいまだ読了していない。本書講読動機はこの本の帯に書かれたBill Gatesによる著者賛美の言葉にある。

邦訳の題名に原題の“SIZE”がそのまま使われている(小さく“サイズ”とカタカナ表示があるので、以降それを使用する)。英語タイトル使用は「サイズの認識に言語による違い」があり、大小・高低・長短・軽重など大きさを両極端で代替することが多く(“大きさ”もまさにその一例)、中立な用語が少ないことから来ているようだ。導入部で日本語には“寸法”があり、これは中立的用語と紹介いるが、日本人には“長さ”に近い感覚だろう。

何故このテーマを主題に研究・著作を思い至ったか。種々のサイズが有史来人間社会と深く関わってきたにもかかわらず、その重要性が認識されていないと感じてきたからとある。衣食住に関わる尺度はすべて人間から発する、長さは足裏の長手方向や歩幅、広さは就寝のためのスペース、階段の高さはひざ下の長さ。衣服は言うにおよばない。そして人間は大きい方が生存競争に勝ち残り、「大きいことは良いことだ」が大勢となっていく。一つの身近な例は“ギネス”記録、“大(重、長を含む)”が圧倒的に多く、“小”は速度や半導体に限られる。身長の高いものは昇進到達レベルが高く収入も多い傾向が確かにあるようだ。しかし、これも環境で変化する。栄養状況の改善で、最近はアジア人(特に日本人を含む東アジア人)の身長伸び率が著しい。身体の大小は大きければ良いわけではない。突出した長身者や肥満体は短命に繋がる(NBA選手の身長と寿命)。

サイズがすべて絶対的な測定値で決まるわけではない。錯覚や相対比較によってその評価・価値が変わるケースが多々ある。よく知られたものは同じ長さの直線-を<>で結ぶか><と組み合わせるかで変わって見える。料理を直径が大きい皿と小さい皿に盛り付けることによってボリューム感が変わり、レストラン経営で配慮すべき点なのだ(必ずしもボリューム感大が良いわけではない)。

伊東絹子の例に見るようにプロポーションも重要だ。同じ八頭身でも股下と身長の割合で評価は変わる。黄金比・シンメトリー(左右対称)は美醜に関係するだろうか?こんなこともギリシャ彫刻や名画を基に分析して見せる。

スケーリングの話が面白い。スイフトの「ガリバー旅行記」を取り上げ、小人国でも巨人国においても科学的に著しい矛盾があることを指摘する(例えは食事の量。だからと言って当時の科学知識から見てやむを得ぬとスイフトを援護する)。

巨大タンカーや風力タービンの限界、旅客機の(エコノミークラス)前後座席間隔、半導体開発におけるムーアの法則、パンデミック予想など直近の話題も豊富。思わぬ切り口でサイズの多様性と重要性を気付かせてくれる、ユニークな雑学百科であった。

 

2)グッドフライト・グッドナイト

-エアラインパイロットが描く詩情あふれる空と飛行機のエッセイ。2015NYタイムズ・ベストセラーに納得-

 


対象は自動車→鉄道→航空→自動車と移ったが、幼児から始まった乗り物好きはこの歳まで変わらない。エンジニアになった大きな理由もここにある。最初の自動車への関心は父が自動車会社勤務だったことによる。敗戦で身近な乗物は専ら鉄道、小学生から中学生にかけては鉄道技師を夢見ていた。航空への関心は、占領が終わり空が日本に戻ったことによる。それまで出版物も禁じられていたところへ、航空情報があふれ出し、空が本来そなえる開放感と相俟って、新しい世界が出現した。高校時代は航空技術者志願だったが、大学では自動車に戻ることになる。しかし、航空への興味は模型作りや航空関連書籍購読でその後も持続、そこから得た知識をプラント運転安全追究や新しい経営ツールIT活用に生かしてきた。そんな中で印象に残った本に、リチャード・バック著「かもめのジョナサン」がある。1970年代初期世界的ベストセラーとなったもので、邦訳は五木寛之。それまで読んできた航空関係書籍は基本的に技術物だが、これは詩情あふれる空を飛ぶことを賛美する内容、今までの航空観を一変させるものだった。そして本書はその再現の書と言える一冊である。共通するのは著者二人がパイロットであることだ(バックは米空軍戦闘機乗り、その後作家に転じた。本書著者は現役エアラインパイロット)。

著者は1974年生れ。国籍は米国だが、かなり変わった経歴を持つ。父親はベルギー人、宣教師としてアフリカ・南米を巡り、南米滞在時リトアニア系米国人の女性と結婚。著者は米国で誕生、大学までそこで過ごし、高校時代は日本に短期留学している。子供のころからの航空ファンでその話は随所にあらわれる。大学卒業後さらに勉学を続けるためケンブリッジ大学大学院(アフリカ史専攻)に進むが、空への思い断ち難く、飛行学校進学準備のため中退し、学費を稼ぐため米国の経営コンサルタント会社に就職、この間にも仕事で日本を訪れている。学費が貯まったところで英国のエアラインパイロット養成学校に入学、2003年卒業後英国航空(British AirwaysBA)に入社。本書出版時(2015年)はボーイング747(ジャンボ)の副操縦士になっている。ジャンボ以前に操縦していたのはエアバスの双発機(機種不明)、主に欧州内を担当域にしているが、ジャンボでは日本を含む東アジア、豪州、アフリカ、南北米など地球規模のフライトを担っている。本書は夢を実現したパイロットの空と飛行機を賛美する内容、NYタイムズ・ベストセラーにもなったエッセイである。

全体は九つの章からなり、各章は話題を転じながらも滑らかにつながっていく十前後の節で構成される。第一章はLift(持ち上げる、高くする)で始まる。航空エッセイゆえ先ず離陸といったところだが、そんなシーンと重ねながら、空に魅せられた少年時代の思いやエアラインパイロットへの道を語っていく。言わばパイロット人生の離陸である。最終章はReturn(帰る、戻る)。第一義は着陸だが、ここでも操縦に関するもろもろの作業を語るよりも、着陸地の文化や言語あるいはロンドン帰着後の自宅への足取りに思いをはせる。最終章の前章はNight(夜、闇)。地上で生活する人にとって夜は帰宅の時間である。最終章とのつながりを考えての設定だ。この見事な章構成、飛行・空への思いを日常生活あるいは著者の体験談に重ねながらの、叙事詩のような筆致が本書を一流のエッセイに仕上げている。

こう書いてくると「かもめのジョナサン」やサン・テグジュペリの「夜間飛行」のような文学性に勝る作品を思い浮かべるかもしれないが、パイロットという職業がもたらす、知られざる世界を啓く点でも収穫の多い一冊だった。例えば、国に対する捉え方。国名や国境より通過時間や管制空域名でそれを認識するとある。日本は“日本”ではなく“福岡”が全体を表す管制地域名なのである。逆に米国は九つの管制地域に分裂し、一国ではないのだ。邦訳名(原題はSkyfaring;大空暮らし)「グッド・フライト、グッドナイト」は夜間赤道通過を管制官に報告したところ、そこで次の管制域へ移る時に送られた言葉からきている。飛行計画の決定に空域制限・気象条件・航路の混み具合などが考慮されることは知っていたが、通過する国の管制料金もあることは本書で初めて知った。

高々度飛行でしか味わえぬ絶景、夜間飛行で見る都市の光や星々、極地飛行で遭遇するオーロラ、雲や霧に覆われた中での計器飛行、どんな飛行も著者の手にかかると、楽しく美しいものに変じてしまう。空を行くことの素晴らしさを十二分に堪能した。

それに貢献していることの一つに翻訳がある。翻訳者はこの時点では専業者になっているが、元航空自衛隊女性管制官、管制官として米国研修も体験しているようで、英語のみならず、戦闘機後席搭乗を含め、空の世界を熟知しているのだ。

続編「グッド・フライト、グッドシティ」も購入済み。

 

3)知っていそうで知らないノーベル賞の話

-受賞者中心のあまたノーベル賞物とは一味違う、ノーベル自身とノーベル財団を語るユニークな内容-

 


ノーベル賞候補が話題になるシーズン到来、今年も受賞できればと切に願う。私はこれまでにノーベル賞受賞者三人と少人数で話を聞く機会があった。最初に会った人は1973年物理学賞受賞者の江崎玲於奈博士;1982年当時IBMワトソン研究所フェロー、IBMユーザー研修団の一員として同研究所を訪れ、近くのレストランで博士を交えた昼食会がもたれた。二人目は1951年化学賞受賞者グレン・シーボーグ教授;米国原子力委員会委員長を務めたこともある米国科学界の大物、1983年カリフォルニア州立大学バークレー校のビジネススクールに参加した際、20名ほどのクラスメートとレクチャーを受けた(題目は「化石燃料から核エネルギーへ」)。そして三人目が2019年物理学賞受賞者の吉野彰博士;会ったのは受賞遥か以前1990年代後期、当時の役職は旭化成研究所主席研究員。私も所属する化学工学会経営システム研究部会でリチュウムイオン電池開発に関する発表をしていただいた。

こんな体験もありノーベル賞物には一方ならず惹かれ、既に数冊本欄で取り上げているが、本書を読むに至った経緯は少々変わっている。7月に紹介した「天才の光と影」(23人の受賞者が対象)を読んだジム仲間が「こんな本がありますよ」と貸してくれたのが本書、何と著者も同じジムのメンバーとのこと。実は数年前この本のことを別の水泳仲間から聞いたのだが、すっかり忘れていた。現時点で著者にご挨拶はしていないのだが、以下に著者略歴と本書執筆に至った動機を記す。

著者は1935年生れ、大阪外国語大学(現大阪大学外国語学部)を卒業後住友商事に入社、ロンドンなど勤務ののち、1986年より1991年までスウェーデン駐在、ストックホルム事務所長、在スウェーデン日本商工会会長を務めている。ここでアルフレッド・ノーベルおよびノーベル賞研究をライフワークとするようになる。この経歴を見て思い出したのが、現役時代ある異業種交流会で聞いた話だ。その人も著者同様大手商社員、苦労してロンドン金属取引所(LME)会員資格を得たが、資格だけでは重要情報は入手できず、シャーロック・ホームズ研究を深めることで、ようやく仲間にしてもらえたとのこと、それは英国人シャーロキアンも一目置くほどのものであったようだ。本書の内容も日本人は無論、スウェーデン人も「知っているようで知らない」話があるに違いない。ノーベル賞研究を深めたことで親しい友人をあまた獲得、ビジネスも順調に進んだのではなかろうか。

知らなかったことの第一は、アルフレッド・ノーベル自身のことである。1833年ストックホルムに誕生するものの4歳でロシアのサンクト・ペテルブルクに移住、以後家庭教師が付き、ドイツ、フランス、イタリア、米国などに遊学して専門技術(化学、火薬、機械工学)を習得する。つまり正規の高等教育機関では学んでいないのだ。1865年ダイナマイト発明(ここに至る苦難の道も知らないことだらけ)。ハンブルクを拠点に工場を各地に建設、販路を拡大、1873年住居をパリに移しここに長く留まり、晩年はイタリアのサン・レモで過ごし1896年そこで没する。まさにコスモポリタン、当時では珍しい国際ビジネスマンでもあったのだ。

第二の知らなかったは、死から賞発足までの過程。彼が死去した際残された資産は93ヵ所の会社・事業所、資産価値は現在評価で230~250億円と算出されるが、著者は当時の世界経済規模との比較から、実質ははるかにこれを上回ると推察している。ともかく当時としては巨額遺産。遺言状では親族・世話になった人々へは5%しか遺贈されず、残りは賞金に当てるとなっており、これを納得しない親族・企業管轄国が争うことになる。国・世論が問題にするのは単なるカネだけではなく、愛国心まで問うのだ。「国籍を問わず最も優れた研究」を対象にする“国際賞”という性格が当時の社会通念に馴染まなかったのだ。結局これらの解決に4年を要し、1900年ノーベルの遺志が実現する。この決め手となるのがノーベル財団の設立。遺言状最大の欠陥は、遺産を管理し賞を授ける機関に何も触れていないことにあった(選考機関は明記されていた)。1世紀以上におよぶ賞が現代まで続くのはこの財団無しには考えられない。財団運営形態、資金運用、国や受賞者選考機関との関係、本書はここにかなりの紙数を割く。因みに、この財団は外部からの寄付を一切受け付けない。

第三の知らなかったは、各賞の受賞対象に関するノーベルの遺志である。分かり易いのは自然科学三賞(物理学、化学、生理学・医学;選考機関は、前二者はスウェーデン科学アカデミー、後者はカロリンスカ研究所(医科大学))。しかし、文学賞に関しては遺言状に「理想主義的傾向の最も優れた作品を創作した人に・・・」とあり、選考機関となったスウェーデン・アカデミーはこれを狭義に解釈、自然主義のトルストイなどを排除してしまう(その後この制約は次第に緩められ、チャーチルの「第二次世界大戦史」にまで拡大するが、さすがに批判が多く、純然たる文学作品対象に戻っている)。また、平和賞は文言以上に問題になるのが選考機関を「ノルウェー議会が選ぶ5人の議員にゆだねる」としたこと。なぜこれだけ他国に?の疑問が当然起こるのだ。著者もそれを追究するが推察の域を出ない。本書では経済学賞にも触れるが、強調されるのは「これは厳密な意味でノーベル賞ではない」という点だ。遺言状に記載はなく、スウェーデン銀行創設300周年記念事業として1968年設けられたもので、ノーベル賞に加えて欲しいとの要請を、財団もスウェーデン・アカデミーも拒否している。ただ、授賞式を同時に行うためノーベル賞の一つと思われてしまっているのだ(同時授与だけは認めた)。

授賞式は国王臨席で手ずから授与するので、一連の国家事業と受け取られがちだが、国王臨席は現国王になってからのこと、あくまでも主催者はノーベル財団である。そして、ここに国家権力は一切およんでいない。一方で、この賞がスウェーデン国の品格を特別なものにしていることは間違いない。ノーベル自身と財団紹介に紙数の大半を割いているのも、著者がそこを知ってほしいとの思いがあるからだろう。

ビジネスマンが仕事と一線を画して取り組んだライフワーク、学ぶことが多々あった。今年の授賞を従来とは異なる視点で楽しめそうだ。それにしても、先ず「きちんとご挨拶しなければ」の今日この頃である。

 

4)パナマの仕立屋

-冷戦が終わってもスパイの種は尽きない。米国永久租借が解かれた後の運河経営権はどこが握るのか?日本?-

 


スパイ小説家としての地位を不動のものとした「寒い国から帰ってきたスパイ」(1964年)から始まり、ソ連変化の兆しが見えはじめた時に出た「ロシア ハウス」(1990年)まではほぼ全作品を読んできたが、冷戦崩壊で大国対大国のスパイ戦がテーマでなくなったこと、翻訳者が変わったことなどがあり、それ以降の作品購読を長く中断、2013年「誰よりも狙われた男」の邦訳で久々に著者作品に触れ、複雑ながら精緻な構成と人物描写の細やかさに、かつての読後感がよみがえった。そうなると中抜け作品が気になるのだが、新刊を入手するのは困難だった。それが本年7月より復刻出版されるようになったのである。本書はその第一作品(後続二作まで予告されている)、出版を待って即購入した。

パナマと聞けば日本人の多くは“運河”を連想するだろう。私も全く同じで、運河以外パナマについて何も知らないし国としても関心はない。本書のタイトルを見て「こんなところで英国のスパイが活躍するような場があるのだろうか?」といぶかった。本書の原著出版は1996年、邦訳は1999年。おそらくこのタイトル(パナマ)で当時パスしたに違いない。しかし、読み進めながら史実を調べてみて、うまいところに題材を見つけたものだ、と改めてスパイ小説巨匠を再認識させられた。

パナマ運河計画はスエズ運河を開削したフランス人レセップスによって1880年開始されるが風土病・難工事・資金難で1889年中止され、しばらく放置される。しかし、この開通を切望していた米国によって1905年再開され、1914年完成する。この過程で米国はコロンビア(運河建設反対)国の一部だったこの地域をパナマ共和国として1903年分離独立させるほど強行、開通後日をおかず“パナマ運河条約”を結ぶ。そこには運河地帯を永久に米国が租借するという条文が記されていたのだ。しかし1960年代入り民族運動が活発化、返還運動の動きが高まり、1977年カーター政権時代1999年返還が決まる。上院の23以上の賛成票が必要であったが、わずか1票上回るだけのきわどい決定であった。そのような背景もあり、米国内にはことあればこの決定を覆そうとする勢力が暗躍し続けている。1989年独裁者で麻薬組織と深く関わっていたノリエガ将軍を逮捕した米軍のパナマ侵攻も、直接的に運河返還運動に結びついていないものの、民族主義的外交を牽制する結果になる。

本書の時代設定は数字で明示されてはいないものの、返還の2000年直前であることは確かだ。大統領は軍出身者、ノリエガのような独裁者ではないがしたたかな男、返還後の運河運営をすんなり米国にゆだねる考えはない。英国は前面に出る気はないが米国主導での運営継続を期待している。天秤の反対側には日本そして中国がいる。大統領の本心はどこにあるのか。これを探り、あわよくば反体制派を動かし、ひと騒動起こしたい。ここまでが英スパイに課せられた任務。そうなれば米軍が出動し親米政権が取って代わる可能性が高いと見ているのだ。


史実に戻れば、運河管轄権は200011日パナマに返還され、2006年運河拡張計画が国民投票で決定、単独財務アドバイザーをみずほコーポレート銀行が担い2016年完成する(計画予算6000億円)。既にバブル経済は崩壊していたものの、著者が作品を完成させるのに通常3年程度要していることを考慮すると、着想は1990年代初期。うわべの日本経済はまだ活力に満ちているように見えただろう。また中国も改革開放経済の歩みが着実に進みつつあり、それを加えることで米英対抗勢力としての重みが増してくると想定したことも小説を面白くしている(日中が世界戦略で協調する可能性があると本気で思っていたのであろうか?)。

さて、仕立屋である。ロンドンの老舗で修業しこの地に早く進出していた英国人の仕立屋。腕は確かでパナマの要人を多数顧客として抱えている。そこには大統領、運河委員会委員長、米軍司令官、銀行家、麻薬組織のボスなどが含まれる。生地の選択・採寸・仮縫い・納品と有力者本人と二人だけになる機会も多い。加えて妻はこの地で育った米人運河技術者の娘、現在は運河委員会委員長の秘書でもある。英諜報部員の最初の仕事はこの仕立屋をエージェントとして取り込み、そこから妻や友人を利用したネットワークを作り上げることにある。若い諜報部員(初の海外勤務)が仕立屋経由で入手した情報は諜報機関のトップにも評価される内容、企みは着々と結実していくのだが・・・。

本作の主役は諜報員ではなく仕立屋。誰にも知られていない暗い過去、銀行家に握られている弱み、プラトニック関係の愛人(黒人;パナマ侵攻の際、爆撃で顔に傷をうけて以降反米派となっている)、旧知の反体制派リーダーとの友情、妻の運河委員長に対する絶対的信頼、子供二人を含む家族関係。それらが彼のスパイ活動に影響を与える。人間描写に傾注するのは他著作と同様、明らかにただのサスペンス物ではない。

ところで影の悪役とも言える日本、個人名も組織名も出てこない。代わりに“ジャップ”が会話の中に何度か出現する。我々の知らないところで英米人は日常的にこれを使っているのではなかろうか。その申し訳でもあろうか、本書の見開きに“日本のみなさんへ”の一文が記されており、そこには戦時中のパナマ運河遮断攻撃計画に触れたあと「私は、国家の流儀と人間のはかなさに関するこのささやかで悲しい喜劇を、日本のみなさんが英知をもって愉快に読まれんことを確信するものである。ジョン・ル・カレ」とある。愉快には読んだが、小説とはいえ“ジャップ”呼ばわりの不快感は拭えなかった。

 

5)アファーマティブ・アクション

-人種差別から発した積極的差別是正法、大学入試を中心に逆差別問題の法廷闘争とその変遷をたどる-

 


1988年以降、情報サービス会社の経営に参画するようになると米国出張の機会が増えた。特に(San FranciscoBay Areaに有力な提携先が在ったため、往復のいずれかでサンフランシスコに滞在、時間が許すと短期間学んだカリフォルニア州立大学バークレー校(UCB)に立ち寄り、当時の教職員と歓談する機会をもった。そんな折、教授の一人が昼食に招いてくれ、UCBの近況に話がおよんだ際「最近はAffirmative Action(積極的(差別是正)処置;人種・民族・ジェンダー・階級・障害などで不利な扱いを受けている人々を支援する法律;以下 AAと略す)でアジア系の優秀な学生が入学しにくくなった」と聞かされ、初めてこの法律の大学への適用実態を知った。サンフランシスコと言えば米国人でも先ずチャイナタウンを思い浮かべるくらい中国系が多いところだが、日系も多く、私の在校時(1983年)には韓国系もかなり増え、米国の他大学と比べ東アジア人の存在が目立つところだった。一世・二世が頑張り、子・孫に高等教育を受けさせ中産階級(特に専門職)入りする。米国における東アジア人とユダヤ人に共通する生き方である。Bay Areaには西の雄スタンフォード大学(私立)もあるがUCBは歴史のある名門州立校、学費も安いことから移民子弟の秀才が集まってくるのだ。一方で州立ゆえに州政府の干渉を受けやすいことから教授の話のような状況も生ずる。

有史以来奴隷はどこにも居たし、人種差別は現在も世界各地に見られる。しかし、米国の黒人差別問題はハリエット・ストウの「アンクルトムの小屋」に代表されるように、世界中老若男女の知るところだ。それもあり20世紀に入り米国ではAAに相当する法律がいくつも制定されている。例えば、大恐慌対策として打ち出されたニューディール政策の中にもそれがあり、公共事業で黒人の働く場が増加している。しかし、実態は黒人以上に白人失業者救済の色が濃かったようだ。また、大学入学者問題では1920年代前半ハーバード大学のユダヤ人新入生が25%を超え、1926年以降15%以下に抑えることが決している。本書はこのようなAA前史から始まり、その難しさに関する諸事を導入部で学ぶことになる。

本書で対象となるAAは、1960年代から活発化した公民権運動、そこから発した公民権法(1964年)とそれを具体化したAA法(1965年)である。これは人種・民族・ジェンダー・階級・障害者に対する差別を禁じ、改善を図ることを目的としている。従って、入試以外にも雇用・昇進、女性問題などに触れるが、全体としては大学進学問題が主題となっている。

公民権法で制度としての差別はなくなっても現実の差別は残る。高等教育こそ人種・階級差別解消のカギ、実績が見えるよう数値でそれを改善しようとするクォータ(割当)制導入の動きが徐々に高まっていく。しかし、高校段階で既に差がある者を無理に救い上げる策は“逆差別”につながる、と白人の側からいくつもの訴訟が提起され、違法との判決も出てくる。これに対し、一旦AA法を受け入れた大学は、クォータ実現が本意ではなく、これからの教育には“多様性”が重要、一定数のマイノリティ入学者は必須と論を張る。混乱に輪を加えるのはマイノリティ内の異なる主張だ。カリフォルニア大学システム(UCBUCLAなど多数の州立大学から成る統合体の呼称)の有力黒人理事がAAに反対したり、東部アイビーリーグに属する大学(ハーバード、プリンストンなど)への入学者割合が不公平(対白人ではなく黒人・ヒスパニック系)だとアジア系(主に中国系)が訴えたりする。ついに20236月連邦最高裁(トランプ政権下で保守系が多数派になっている)は「大学入試におけるAAは違憲」との判断を下し、長きにわたる戦いに終止符が打たれる。

読み応えのある本だったが、疑問が残らなかったわけではない。優遇処置で入学したマイノリティ学生のその後が、入学に比べ詳しく語られていないのだ。例えば、在学中の成績は如何様だったか?学校当局や教官との関係は?卒業後就職状況はどうなのか?AA法は大学入学だけに適用されるわけではなく、就職、昇進なども対象であることから、バランスを欠くと感じた。

本書を読んでいて頭に浮かんだのは、最近の我が国大学入試に関する二つの話題。東京医科大学が女子合格者数に制約を設けていたことが違法とされ、賠償を命じられたこと。東京工業大学(本年10月東京医科歯科大学と合併し東京科学大学となる)が女子合格者枠を設けると発表したことである。あまり知られていないがアイビーリーグ所属大学は1950年代初期まで女性の入学許していなかった。 AA導入で最も恩恵(入学のみならず、雇用・昇進を含め)を受けたのは白人女性との説もある。果たして我が国ではどうなるか?興味津々である。

著者は1973年生れ、一橋大学大学院博士課程単位取得(社会学博士)、現同志社大学大学院教授。「未完の多文化主義-アメリカにおける人種、国家、多様性」で第3回アメリカ学会中原伸之賞を受賞している。中原氏は私が長く勤務した東燃社長(故人)。

 

6)ナットとボルト

-機械や建造物の構成要素7種;釘・車輪・バネ・磁石・レンズ・ひも・ポンプ、の来歴・効用を語り、リサイクルによる環境問題解決の道を探る-

 


現役最終時期から、同期入社有志が最寄り駅近くの居酒屋に集まる飲み会がある。会の名は「ネジの会」。妙な名前の由縁は、機械屋の一人がネジの研究に傾注していており、その蘊蓄を聞き「たかがネジ、されどネジ」の感を強くした結果である。本書の広告を見たとき、先ず思い浮かんだのがそのこと、ナットとボルトはネジそのもの、会の話題にでもと読んでみることにした。しかし、ナット・ボルトは出てくるものの章立てには現れず、“NAIL(釘)”の章の一部でしかなかった。原題が「NUTS AND BOLTS」であるにもかかわらず、である。貧弱な英語力ゆえの誤解だった。これはCats & Dogsが「土砂降り」を意味するように、「基本的な仕組み」を意味する熟語だったのだ。つまり原題を日本語訳すれば「機械の基本的仕組み」が本来の意味となる。と言うようなわけで、本書の内容は広義の機械や建造物の構成要素・部品をテーマにしたものである。

構造物の構成要素として取り上げられたのは、釘・車輪・バネ・磁石・レンズ・ひも・ポンプの七つ。最後のポンプは要素ではなく構造物そのもの、違和感を覚えた。しかし、その章を読んでみれば、著者のポンプに関する思い入れがひとしおで、なるほどと納得した。

各章は、タイトル通りの要素・部品から入り、類似のものを並べ、それを使った製品とその効用を述べていく。それを歴史や人物(特に発明者)、画期的な出来事を交えて書き進める構成になっている。ここに読み物としての面白さがある。

1NAIL(釘)では接合と言う機能をロープや革までさかのぼり、釘の段では木釘が金属釘に置き換わるプロセスを鍛造技術や防錆技術にまで言及して解説する。そこには日本刀の特質・製法も引用される。また効用の点では、英国における木造家屋普及段階で、釘製造者であることは貴族に近い尊称であったとある。類似製品としてあげられるものは、ネジ釘が当然出てくる他、リベット、そして原題の“ナットとボルト”もカーバーされる。2WHEEL(車輪)の発明はいきなり狭義の車輪に取りかからず、発想は陶器を製作するロクロにあったとし、車輪・スポーク・車軸・リムを備えた現代の車輪に至る歴史をたどる。同種のものとして機械部品の基礎とも言える歯車から航空機やロケット・宇宙船の制御に欠かせないジャイロスコープ(3次元コマ)まで、多様な車輪と利用分野を紹介する。3SPRING(バネ)も応用範囲は弓から洗濯バサミ、音楽ホールの防振構造まで幅広い。4MAGNET(磁石)は方位磁石に軽く触れ、あとは動力から通信に至る電気機械を網羅する。5LENS(レンズ)の書き出しは他の章と異なり、いきなり具体的な要素解説から入らず、「親愛なるザリア」で始まる長い導入部が存在する。後述するが著者は女性、苦労・苦痛の人口受精で授かった娘の名がザリアなのだ。顕微鏡や内視鏡あっての愛児誕生。この章には望遠鏡やカメラ、レーザー技術も取り上げらえるが、専ら医療中心となる。6STRING(ひも)は糸から布、弦楽器(動物の腱)、医療手術用の糸、橋梁用鋼製ケーブル、ケプラー製防弾チョッキまで幅広い。そして違和感のある7PUMP(ポンプ)。水をくみ上げる必要性は有史以来のこと。その歴史を語ったあとに紙数を割くのは人体との関係だ。代表は心臓、人工心臓開発(手術用から組込型まで)の現在に至る進展を、具体例を上げて丁寧に説明していく。機械構造物ではないが人間必須の構成要素に違いない。この章ではレンズに加えもう一つ著者の体験談が語られる。苦労して得た我が子だが著者が専業主婦でないために、授乳タイミングがむつかしい。母乳をため置きするためには母乳搾乳器が欲しいが、牛乳搾乳器の原理応用では上手くいなないのだ。ポンプを取り上げたのはこんな背景からきていたのだ。

著者は1983年生まれのインド系英国系アメリカ人女性技術者(ムンバイ生れ)。オックスフォード大学物理学学士、インペリアル・カレッジ・オブ・ロンドン構造工学修士。現在ロンドンを拠点に建造物の構造設計を主務としている。邦訳に「世界を変えた建築構造の物語」がある。

あとがきに本書執筆の動機が記されている。環境問題解決のために、設計段階から分解する方法を検討し、修理やアップグレードによって製品を長もちさせ、最終的にリサイクルできるようにすることが肝要との考えがあった、とある。環境原理主義者と一線を画する、真っ当で現実的な考え方に共感を覚えた。

 

7Blue Impulse & the Counterparts

-航空自衛隊曲技飛行チームの全演技と海外22チームを見事な写真で解説する-

 


学生時代から断続的ではあるが、「航空情報」「航空ファン」「航空ジャーナル」などの航空月刊誌を購読してきた。この内「航空ジャーナル」は創刊の19741月号から休刊の19887月号まで全冊いまだに保有している。この雑誌は元航空自衛官で前「航空情報」編集長だった人が創刊したもので、それまで模型から最新鋭機までてんこ盛りだった航空誌の内容を一新、専門性の高い最新情報を主体とした本格的な航空月刊誌だった。ここで惹かれたのが本書編集人瀬尾央氏撮影の米空海軍機写真である。中でも戦闘機搭乗の空撮など「一体どうやったらこんな写真が撮れるんだ?!」と、写真ばかりでなくその機会作りにまで興味がおよんだ。そんなある時同じ工場に勤務する後輩から「彼は高校の同級生ですよ」と告げられ、急に近しい存在になった。数年前その後輩を介して瀬尾氏のフェースブック友達に加えてもらい、毎年9月に開催される日本航空写真家協会の写真展に出かけるようになった。本書はそこで入手したものである。

ブルーインパルスは航空自衛隊の曲技飛行チーム、コロナ対応医療関係者感謝飛行、東京オリンピックでの五輪マーク描写など首都圏上空飛行でニュースにもなるが、多彩な演技が披露されるのは航空基地祭。本書ではチーム発足時(1960年)からの機体(F-86T-2)や演目も簡単に紹介されているものの、大部分は現用機T-4(練習機)による最新展示飛行。この展示飛行には何種かのメニューがあるようだが、ここで披歴されるのは第一区分と称されるフルコース。パイロットが機に乗り込む前の整列・行進(ウォーク・ダウン)から始まり、30を超える演目、着陸後の解散(タクシー・バック)までを約60頁わたる写真と解説で紹介する。この解説は一演目ごとに二段構えで、最初に演目に関する説明があり、続いて撮影技術(機材は無論、撮影場所や光の具合など)の留意点が語られる。つまり、美しい写真を眺めながら、演目の見所・勘所が理解できる仕組みになっているのだ。

本書を楽しくユニークなものにしているはブルーインパルスのCounterparts。この部は、米空軍サンダーバード、同海軍ブルーエンジェルス、英空軍レッドアロー、仏空軍パトルイユ・ド・フランス、イタリア空軍フィレッチェ・トリコロールから、ロシア、カナダ、ポーランド、クロアチア、フィンランド、スペイン、スイス、中国、インド、パキスタン、韓国、インドネシア、ブラジル、チリ、カタール、UAE、サウジまで21ヵ国22チームの曲技飛行隊写真と解説からなる。これはおそらく我が国初の曲技飛行隊全集ともいえるのではなかろうか。

編者が記す「「あとがき」にかえて」に米海軍チームブルーエンジェルス同乗に至る苦心談が書かれており、積年の疑問が解明した。特別な伝手があったわけではなく、熱意と長い時間をかけての努力の結果であり、決め手は当然のことながら写真にあったのだ。

 

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