2025年4月30日水曜日

今月の本棚-201(2025年4月分)

 

<今月読んだ本>

1)大空への夢(秋白雲);星和書店

2)いのちの記憶(沢木耕太郎);新潮社(文庫)

3)翻訳者の全技術(山形浩生);星海社(新書)

4)東京大空襲を指揮した男カーティス・ルメイ(上岡伸雄);早川書房(新書)

5)戦略文化(坂口大作);日本経済新聞出版社

6)天気でよみとく名画(長谷部愛);中央公論新社(新書)

 

<愚評昧説>

1) 大空への夢

57歳でプロペラ機操縦免許取得、62歳で自家用ジェット機免許取得・自家用機購入、2ヶ月にわたる世界一周ツアーに参加した日本人の記録-

 


1951年(昭和26年)講和条約が発効、日本に空が戻ってきた。月刊誌「航空情報」の創刊はその年の8月、今も保有する第4集は“軽飛行機特集”として521月に発刊されている。そこには数々の自家用小型機の写真が掲載されており、中でも印象に残るのがフロートを付けたセスナ170型機、ショートパンツ姿の美女がその上にたたずんでいる一枚だ。日本人にはクルマさえ夢の時代、彼我の豊かさの違いを痛感させられた。それからほぼ半世紀後19955月、当時の夢が正夢となる。米国出張の帰途連休を利用してヴァンクーヴァー所在の友人を訪ね、彼女の父親が保有する同型水上機で飛行する機会を得たのだ。父親は元ノルウェー空軍ジェット戦闘機パイロット、NATOを構成するカナダで訓練中カナダ人女性(友人の母)と親しくなり結婚、帰化後歯科医の資格を取得し成功、既に歯科医は引退、趣味として空を飛んでいるのだ。このときはフレーザー河の河原に設けられた滑走路から河に降り、ヴァンクーヴァー北方にある海浜別荘まで往復し、副操縦士席でしばらく操縦桿を握らせてもらった(直進上昇・下降のみ)。本書の著者は日本人精神科医、病院経営を息子に委ね、自家用ジェット機を自ら駆って世界一周ツアー(著者は米国で機を購入、そこから東回りで日本到着まで)に参加した記録である。

著者(ペンネーム)は、本文中に200757歳とあるから1950年頃の生まれとなる。医科大を卒業後父の経営する精神病院の経営に当っていたことも本書の中に触れられている。

200310月(53歳)仲間とゴルフのあと麻雀をした帰り、ふと虚脱感に襲われる。父から継いだ病院経営は順調、後継者の息子も育っている。すべては順調に見える日々だが、このままの人生を送り続けていいのかと。そこで思いつくのが飛行機の操縦である。取りあえず調布飛行場の訓練学校を訪ね、教官・訓練生と同乗飛行を体験。時間と費用は訓練生次第、最低5百万円を即用意でき、時間をそのためだけに割ければ短期取得も可だが、通常は数年を要することが分かってくる。訓練機がおんぼろだったこともあり、入校は断念する。3ヶ月後家族とグァムで遊んだ際、軽飛行機で遊覧飛行する。このときは副操縦士席で前回とは景観がまるで違う。さらにこの観光飛行会社は飛行学校も経営していることを知り、3ヶ月・120万円の週末訓練で免許取得可能とのこと。仕事もあり直ぐに入校はしなかったものの、20051月ロサンゼルスの本校に入学、毎月1週間滞在し訓練を受け、4月に米国での小型機操縦免許を取得する。ただ、この免許は単純な書き換えは出来ない。さらに調布で転換訓練を続け、2007年、57歳の時日本の免許を獲得する。ここまでの苦労話だけでも「凄い!」の一語だ(費用の詳細は不明だが、相当な額だろう)。

この年、国内中古機マーケットでは滅多にない良質なプロペラ機、米パイパー社製マリブ・ミラージュ(350hp、時速300kmh、航続距離1600km)を購入(価格不明)、日本ばかりでなく、韓国・台湾・東南アジア方面まで羽根を延ばす。そんなとき世界一周している同型機を含むグループと知り合い、さらなる高みを目指すことになる。自家用ジェット機を持ち、彼らのようなツアーに参加したいと。飛行機を新たに求める動機は東日本大震災、整備のため仙台空港に在った機がスクラップになってしまったことがある。

次に求めたのはセスナ社製サイテーション・ムスタング(6人乗り双発ジェット機;速度760kmh、飛行高度12mまで可、航続距離2000km)。日本で購入すると手数料が無茶苦茶高くなる。そこでセスナ社が保有する上質な中古機(1年もの)を購入、訓練も前回同様現地(フロリダ)へ何度も通って免許を取得する。そして、世界一周ツアーに現地から参加するのだ。中古機購入は20123月、ツアー開始は5月、わずか2ヶ月で副操縦士付きで有効な機長資格を取ってしまう。このハードな訓練・努力も「よくこの歳(62歳)で!」とただただ感心するばかり。

この旅の出発点はカナダのケベック、出発日は58日。集まったのはプロペラ機1機(モロッコで仏人がさらにプロペラ機で参加するので最終的には2機)、ジェット機4機、計6機。夫婦(著者も夫人と参加)、子連れ様々だが、操縦者は4000時間以上のベテランばかり、著者のみ600時間弱、「カミカゼ」と揶揄される。

当初計画と最終ルートは若干異なるものの、ケベック→グリーンランド→ノルウェー→チェコ→スペイン→モロッコ→マルタ→ギリシャ→トルコ→ヨルダン→サウジ→インド→タイ→カンボジャ→インドネシア→マレーシア→フィリピン→香港→台北→那覇→岡山(著者はここまで。712日)→北海道→カムチャッカ→シアトル(ここで解散)。本書の23は飛行・気候・風土・観光・宿泊・食事・空港での作業(出入国、給油など)に割かれ、ユニークな旅行記とて楽しめる。

この旅以後5年間機を保有したものの、2017年「日本は自家用ジェット機で移動するには狭すぎる」と手放すことを決するが1年経っても買い手は現われず、米国に回送してやっと処分することができる。

何かに付け“格差社会”は批判の対象だが、ここまでやると「お見事!」の一語に尽きる。因みに、本書には飛行機の価格やツアー参加費については一切記されていないが(これが少々不満)、同クラスの自家用ジェット機の値段を調べてみると1億円~1.5億円、高級スポーツカーなどと比べ以外と安い感じがする。

 

2) いのちの記憶

-高倉健・美空ひばり・田辺聖子・恩師長洲一二、亡き人々に送る心を揺さぶる鎮魂のエッセイ-

 


本年1月の本欄で紹介した同著者のエッセイ集「キャラバンは進む」の続巻である。本来この2冊は単行本「銀河を渡る」として2018年に発刊されたものだが、文庫本出版に際し2分冊目は「いのちの記憶」と題された。沢木といえばなんといっても若き日のバックパッカーを綴った「深夜特急」が代表作、前巻は旅や「深夜特急」に関わる話題も多く「キャラバンは進む」は適切な題付けだった(実際の意味はもっと深いが)。そして、今回の「いのちの記憶」も読んでみると、これはこれで納得出来るタイトルである。大半を“
人(ひと)”に関わる話が占め、特に故人を偲ぶ(あるいは追悼する)内容になっているからだ。高倉健、美空ひばりなど超有名人がいる一方、高校や大学時代の恩師、駆け出し時代の編集者・写真家、あるいは親族など無名の一般人も多い。執筆動機が多様だったこともあろう、テーマや長さに違いがあるものの、いずれの話も著者の優しく誠実な人柄が心地よい読後感として残る作品だ。

最も紙数が割かれるのが高倉健(約40頁)。「深い海の底に」と題する話は198010月ラスヴェガスで行われたボクシング世界ヘヴィー級選手権ラリー・ホームズ対モハメド・アリ戦から始まる。スポーツノンフィクションを主要テーマの一つとする著者は、その観戦を画するがチケットは入手困難。在米の友人を介して高倉の保有していたものを都合してもらう。このときまで両者の間に交流は全くない。その数年後ラジオ放送の企画で初めて対面、高倉の死(201411月)に至るまで二人の交友関係が続く。伝わってくるのは高倉の寡黙で礼儀正しい姿。演じる作品を求められながら、生前未完に終わった著者の悔恨。静かで良質なドラマを観るような筆致だ。

恩師長洲一二教授(横浜国大経済学部教授、のち神奈川県知事)が就職先として推薦してくれた富士銀行(現みずほ)への入行初日、式終了後退職し教授に許しを請う話は以前どこかで読んでいたが、そもそもの両者の関係は「最初の人」と題する話で初めて知った。長洲ゼミは人気が高く、応募者の絞り込みはレポートに依る。これで著者はその選にもれてしまう。納得がいかない著者は教授宅を訪問、その理由を問いただす。答えは「作文はまったく読まなかった。どれだけ本気で入ろうとしているかを試すだけだった」「それは第二志望をどこにしているかで判別する」「君の第二志望は叶う可能性が高い。だから外した」「しかし、訪ねてくるほど入ゼミ希望が高いことが分かった」と応え、「私のゼミに入ってくれますか?(入れてやるではなく)」と逆に問うのだ。「この一言が二十歳からの困難な数年の支えになった」と結ぶ。この師ありて、この弟子あり。

何か、はっとしたりほっとしたりする人間関係の描写に満ちた本書、ただの時間つぶしにはもったいない中身の濃いエッセイ集だった。

 

3) 翻訳者の全技術

-ピケティ「21世紀の資本」を始めノンフィクション翻訳第一人者がその極意を公開する-

 


活字中毒者の乱読、分野を限った専門知識習得とはほど遠い読書だが、それでも戦史・戦記・軍事技術・諜報戦は一定の割合を占め、この分野への感心は終末まで続きそうだ。その対象の多くは小説もノンフィクションも翻訳物が主流、訳の出来映えが読書の楽しみを左右する。軍事サスペンスやスパイ物の小説は早川・新潮・文春などから出ていものは先ず無難であるが、ノンフィクションについては大手出版社とて油断できない。ノンフィクション翻訳の難しさは、高い原語解読力と日本語表現法に加え専門知識を要求されるのだが、すべてに優れた翻訳者は得難い。これを補うために翻訳者と専門家が役割分担して翻訳を仕上げても、どこかに竹に木を接ぐようなアンバランスが見え隠れする。その点で著者に依る既読作品(本欄で「戦争の経済学」、「その数学が戦略を決める」を紹介している)には満足していた。どんな経歴の人なのだろう?それを知りたく読んでみることにした。

経済や科学・技術分野の翻訳、「クルーグマン教授の経済学」やピケティ「21世紀の資本」などで高い評価を受けていることに、著者の経歴が大いに与っているので、略歴を紹介しておく。1964年生まれ、小学校の一時期在米、中学・高校時代からのSFファンかつインヴェーダ・ゲームもどきをマイクロコンピュータで自作するほどの科学少年。東大に進んでもSF研究会に注力、学生時代に早川から翻訳出版するほどの力がある。学部時代翻訳を生業とすることも考えるが諸般の事情から断念、都市工学修士課程まで学ぶ。就職先は野村総研、ここで都市・地域開発をコンサルタントとして担当、さらにMITで不動産学を学び諸外国(主として発展途上国)で活動、本書執筆の段階で独立しているものの、仕事は継続している。この実務と在外経験が学者や専業者と違うところなのだ。

本書の構成は、翻訳の技術、読書と発想の技術、好奇心を広げる技術の3部から成るが、読書も好奇心も翻訳との関わりで語られる。読書に関しては、冒頭を読んで「こんな話ね」とあらましをつかんで、真ん中はいったん飛ばして結論を開き、「こういう結論に持って行くのね」と確認する(推理小説でさえ最後の“種明かし”から読む)。また、知識習得が目的で「教養として読書を意識したことはない(雑食、脈絡無し)」と自身の読書観を明かす(これは私も同様)。好奇心の部では、数多くこなしてきた海外でのコンサルティング業務を事例に、それが如何に知識・経験を広げことに役立ったかを示し、翻訳の奥の深さ教えてくれる。

翻訳家の訳に差が出るのは、意味を理解する部分ではない(誤訳など論外だが)。その意味を表現するのに、どんな言葉を選ぶかということだ、と自説を提示する。事例として“Money”を採り上げ、「貨幣」「お金」「通貨」の使い分けで説明、原著が一般読者向けに書かれた本でも、経済学者は「貨幣」「通貨」にしたがると揶揄する。翻訳スキルは、ただ外国語を翻訳する語学力だけでなく、読書の経験値や想定読者の理解などが含まれ、9割の読者が9割理解できたら大成功と見なしていい。翻訳評価の難しさは、訳ばかりでなく原文の善し悪しを含むところにある。原著がわかりにくいケースがしばしばあり、原著者と激論を交わすこともある。ここまでやる翻訳者はどれほど居るだろうか?

AIによる翻訳の現状と将来見通しでは、「ここ数年のAI翻訳の進歩には目を見はるものがあり、実務書、技術書(マニュアルを含む)はかなりAIが使える」とし「人間の出番は確実に減じる」と断じ、自らは本文翻訳にAIは使わないものの、謝辞では大量のカタカナ固有名詞が続くので手間を省くため使用していると明かす。

この他、優れた翻訳者を実名で紹介したり、高名な書評家が本文と引用文(原著者の見解ではない)を取り違えて評価した例で、読者側の問題点を指摘したり、と翻訳に関する話題を幅広く語る。

本書は著者の書き下ろしではなく、一種の口述筆記(編集者との対談)を文章化したもので、ややクセはあるものの、その点でも読みやすい。

 

4) 東京大空襲を指揮した男カーティス・ルメイ

-日本の都市を灰燼に帰し、数十万の民間人を爆殺した男は、生来の殺人者だったのだろうか?-

 


1950年(昭和25年)6年生になったとき、松戸市立北部小学校から上野広小路に近い台東区立黒門小学校に転校した。四辺田圃で木造校舎、同級生の13くらいは農家の子だった所から、コンクリート造り3階建て、狭い舗装された校庭で同級生はほとんどが商家の子への変化は、諸処で違和感を覚えた。夏になると半袖を着るが、その時S君の両腕を見て驚いた。皮膚が引きつった火傷の跡が痛々しいのだ。いっぱしのワルで田舎者の私はしばしばいじめられ、嫌な奴と避けていたが、それを見てから何故か同情するような気持ちに変じた。同級生から310日の東京大空襲で両親を失い、本人も大やけどを負い、親戚に引き取られていると聞かされたからだ。他の同級生にそんな災難を受けて者が居なかったのは、あの大空襲の西の端が昭和通りまでで。学校や同級生の住居は文京区に接する山手線の内側、焼けずに残ったのだ。しかしS君の家は昭和通りの東側、黒門に通っていたのは引き取った親戚が学区内に在ったからだった。東京大空襲のことは親たちの会話の中で知ってはいたが、身近に感じたのはS君を通じてである。

飛行機ファンが嵩じて軍事技術オタクとなった私にとって、対日戦略爆撃を指揮した米陸軍航空軍第21航空集団の司令官であるカーティス・ルメイの“悪名”はよく知るところだった。しかし、この男の伝記の類いを、邦訳を含め日本語で著わしたものは寡聞にして知らず、終戦後80年も経た今、戦後生まれの日本人が本書を出版した物珍しさも手伝って読んでみることにした。

著者は1958年生まれ、学習院大学文学部英語英米文化科教授、アメリカ文学研究者、翻訳家である。文学の研究者である著者がルメイを調べる動機になったのは、米現代文学作品の中でルメイが「ヴェトナムを石器時代に戻せ」とあったところから発している。そこに日本の都市を灰燼に帰し、数十万人を殺したこととの関連性を感じ取ってのことである。それまでの翻訳実績を見ると軍事関係は皆無、本書は伝記を始めとする多数の文献や映像を素に書かれたもので、一種翻訳の趣を持った内容に仕上がっている。読みながら妙な気分が去来した。ルメイは現代なら熱烈なトランプ支持者になったのではないか?重なって見えるのはバンス副大統領、プアー・ホワイトで苦学力行の人である。

カーティス・ルメイは1906年オハイオ州生まれ、父はフランス系、母は英国系双方とも農家出身だが、父親は鉄道員を始め各種の仕事を転々、住居も諸州渡り歩いている。つまり貧しい白人労働者階級。カーティスは6人兄妹の長子だけに責任が重い一方、自主独立の気概も強い。著者の関心は、後年彼を難じる「冷酷非情の人種差別主義者」という評価が果たして正しいのか?本来的にそのような人間であったのか?を問いただすところにある。

高校時代は新聞配達・電報配達あるいはラジオの組み立てで小遣いを稼ぎ、一族初の大学進学(オハイオ州立大)では学費確保のため難関の陸軍ROTCReserve Officers’ Training Corps;予備役将校課程)プログラムに応募・合格。鋳鉄工場で働きながらの勉学だったため少々時間がかかったものの土木工学士号を取得、30倍(1003000人)の競争を突破して航空隊に入隊。ここでも14の合格率で操縦士資格を得、1928年正規の士官となる。大変な努力家であることを実績が示しているが、この間性格異常などまったく感じさせることはなかった。ただ、著者は、直面する課題解決(例えば進学や資格取得)に際して“実際家”であったとその資質を分析している。この日本語にはなじまない“実際家”は現実主義者(目的実現可能性、経済性や時間的効率重視)の意であろう。

操縦士としての技量も優秀、当初戦闘機部隊に配属されるが、勝敗を決する真の攻撃兵器は爆撃機と見做しそこへ転属、ここで操縦士以上に航法士としての技能を高く評価され、南米や欧州への長距離飛行をしばしば行っている。1939年の第二次世界大戦以降、昇進を続け(准将昇任以降すべて最年少)、19451月対日戦を担う第21航空集団の司令官となる。この人事は前任者が昼間精密爆撃にこだわり、成果の出ないことに業をにやした陸軍航空軍(Army Air ForceAAF)参謀総長ヘンリー・アーノルドの意向による。アーノルドは伊ドーウェ将軍、英トレンチャード元帥、米ミッチェル将軍の系譜につながる戦略爆撃論者(爆撃だけで敵の息の根をとめられるとする考え方)、AAFを独立空軍にするために華々しい戦果が欲しかったのだ。現実主義者であるルメイがその期待に応えたのが日本に対する夜間無差別爆撃、310日の東京下町爆撃はその始まり、爾後大坂・名古屋・神戸・横浜さらには中小都市や軍都にもこの爆撃法を適用、日本の都市部を焦土と化すことになる。著者のルメイ評は、この作戦がルメイ自身の考えから発するものではなく、アーノルドを始めとするAAF上部の空軍独立論者からの圧力がそうさせたと見ている。命令達成第一、やられる側(子供を含む非戦闘員)のことは想像力の埒外、作戦遂行に専念したことは確かだ。日本では広島・長崎への原爆投下も彼の指揮で行われたとされているが、これは第21航空集団の上部組織第20航空軍直轄の第509混成部隊によるもので、その司令官はカール・スパーツ大将である。

英雄として二度も週刊誌TIMEの表紙に取り上げられながら、後年空軍参謀総長時代「核戦争も辞さず」を口にするほどの強硬派、さらに退役後人種差別主義者として有名なアラバマ州知事ウォーレスと組んで1968年の大統領選に独立党副大統領候補として立候補したことが、晩節を汚す(悪評)結果につながったようだ。1964年航空自衛隊育成の功により勲一等を授与されている(当時「民間人大量虐殺犯に勲章を与えるのか!」と批判された)。

多くの原書に当り、客観的にルメイを評価すべく調査分析したことが伝わってくる内容、資料として貴重な一冊であった。

 

5) 戦略文化

-一国の生き残り戦略は何が決め手か?周辺国からの脅威か?歴史・民族性・社会思想か?日米陸軍の文化を比較しそれを探る-

 


現役時代、経営戦略・販売戦略・情報化戦略などやたらと“戦略”を身近で聞き、その策定に関わり、さらに自身1990年初め大手ITベンダーの研究会で社外メンバーと戦略情報システム(Strategic Information SystemSIS)について調査・議論を交わし、本まで出版した。しかしながら、戦略とは一体何なのかがいつも曖昧で、経営理念であったり、経営手順であったり、単なる願望であったり、逆に詳細な経営数値目標であったりと千変万化、収斂しなかった。軍事理論では、一応国家戦略(大戦略)の下に安全保障策としての軍事戦略があり、それを具合化した作戦が定められ、これを実行する戦術と階層化されているが、戦史や戦記でもその使い分けが必ずしも明確でない。おまけに「素人は戦略を語り、兵士は兵站を語る」という格言があるように、戦略の安易な使い方を揶揄する向きも在る。そこに、これも言葉として幅広い意味を持つ“文化”が結ばれた本書の題名を見たとき、「一体全体この本は何なのか?」となった。ただ著者が元陸上自衛官で現在防衛大学校教授とあることから、話題先行の戦略論とは異なるものだろうと予見して読んでみることにした。結果は日米陸軍の歴史からたどる極めてユニークな比較文化論であった。

著者の生年は不明だが1984年防大人文社会科学課程国際関係論専門課程卒業とあるから19612年生まれと推察する。この人文社会科学課程はそれまで理工系カリキュラム中心だった防大教育課程に1974年から加わったもので、教育機関として文理のバランスをとることを狙いとして発足したものだ。在任中大学院で学び国際政治学の博士号を取得、一等陸佐で退任後現職となっている。軍事関係書物でありながら、戦争・作戦・兵器にはほとんど触れず、歴史学・社会学・政治学などの角度から軍を見つめる内容はこのような経歴と深く関わっているものと思われる。

先ず戦略の決定因子を「脅威」と「文化」の二つとする。「脅威」は仮想敵国・周辺国からのそれだが、客観的なもの(兵力・兵器)ではなく、自国の相手に対する敵対意識の度合い(過敏か否か)でとらえる。文化はいささか複雑で、地理的条件・民族特性・宗教・歴史・社会思想などから成る。そしてこの二つのうちいずれがより戦略策定(というよりその国の軍事施策)に影響を与えてきたかを分析する。ポイントは軍と国民の関係で、双方の異質なものへの包容力(寛容さの度合い)が軍の精強さを決めるとの仮説をたてて、著者の戦略文化論を展開する。導入部では戦略文化論を概説、ソ連・ロシア、中国などの歴史的変遷を具体的に例示し理解の一助とする。例えば、ソ連・ロシアは「脅威」重視、それも相手の政治的意図より、能力(数量、性能など)で評価してきたと見、中国は華夷秩序的世界観が根底にあり、「尚文非武」の文化の下「不戦屈敵」の積極防衛戦略を伝統としてきたというように。ただ本書の主題は米軍と旧日本軍・自衛隊のそれで、概説以降他国を論ずることは皆無である。つまり、本書はこの日米二者の比較戦略文化論である。米軍については独立戦争以降、日本軍は明治維新以降がその対象となる。両国に共通するのは島国(米にとってカナダ・メキシコは脅威ではない)であること。にもかかわらず、「文化」が主導してきた米国の戦略文化、「脅威」から始まり時代とともにそれが高まる日本。そして第二次世界大戦終戦を契機に双方がそれを逆転させ、米国は「脅威」を、日本は「文化」が自衛隊の性格を形作ってきたとし、その過程と背景を解説するのが要旨となっている。

海洋国家日本が明治以降近代化の過程で欧米や中国・ロシアを「脅威」と感じ、陸軍重点の富国強兵策を進め、日清・日露戦争勝利により支配域を拡大するにつれその力を軍・国民ともに過信し敗北したこと、戦後は憲法問題・自虐史観から反軍的風潮(つまり「文化」)が支配的となり、自衛隊の考え方・活動に大きく影響していること、は広く知られているところである。しかし、これが自他共に認める「戦わない自衛隊」文化となり、国民の自衛隊評価は高くなってきたものの、それは戦争・紛争ではなく災害出動などに対してであることが世論調査の数字などで示される。世界で「脅威」が増す昨今、見直しが迫られるとの指摘は一考すべき点だろう。

現代の米国政治を見るとき、連邦政府と各州の関係に理解しにくいところが多々あり、(大統領を除き)連邦政府の力が他国に比べ著しく制約されているように見える。州連合(United States)が国家構成の基本、国の周辺は海洋と国力に差のある友好国。強力な連邦常備軍は必要無しとの考え方が支配的だった。もし中央政府がこれを持てば力で国内支配に利用する恐れがある(建国の理念である自由・平等・博愛に害をおよぼす)。これが反軍思想の根底にあるのだ。その具体例として一章を割いて詳述されるのがUMTUniversal Military Training)と呼ばれる予備兵力増強施策である。青年を一定期間訓練し予備役として登録、一朝有事の際動員する制度である。この策は何と1790年に議会に提案され、時々の事情に応じて内容に変更を加えながら何度も繰り返すが、今日まで成立していない(戦時に限定した徴兵制度はその都度実現。現代は技術進歩により短期徴兵ではプロの兵士が育成できず実効が疑われている)。この反軍文化が反転するのは、第二次世界大戦における勝利の主役が米軍であったこと、原爆・長距離爆撃機さらには弾道ミサイルの出現による島国としての安全性が消滅、冷戦によるソ連という強大な仮想敵国の出現、が相まって「脅威」に基づく戦略文化が育まれて行くことになる。

日米両国の戦略文化の反転に見るように、戦略文化は普遍的な文化ではなく、ある時期が作り出した刹那的な文化であるとし、現代の戦争が文化主体の戦争に変じてきていることから、狭量な軍事重視の安全保障策でなく、経済や世論形成も取り込んだ総合安全保障政策が不可欠と結ぶ。

本書で言う「戦略」は、国家安全保障(国家存立)の根幹にある考え方・基本対応方針の意で、いわば最上位の国家戦略、「文化」も極めて幅広く、戦略論として学ぶところが多々あった(軍事中心のものと比べ)。ただ、「脅威」と「文化」は独立したものではなく、「文化」によって「脅威」が変わるし、「脅威」によって「文化」も変わるのが現実、この点が今ひとつすっきりしなかった。

 

6) 天気でよみとく名画

-絵画鑑賞で気候・天候に思いを至らせたことはあっただろうか?思いもよらぬ名画鑑賞法を教えてくれる-

 


自分の家を持ってから、時々絵(版画を含む)を購入するようになり、リビング・玄関・廊下などに飾って楽しんでいる。画題は圧倒的に風景画(建物を含む)が多く、人物画にお金を払って求めたものはない。ただ我が国の画廊などで展示されているもの、あるいは美術館(特に欧州)で観る名作には人物を主題にしたものの割合が高く、逆に風景だけの作品は少ない気がする。おそらく写真が無かった時代には人物画の需要が高かったこと、宗教の啓蒙活動に効果的だったこと、写真普及以後では人物が画家・モデルの個性を表現する奥行きや幅を持たせることに適していること、などがその理由ではなかろうか。従って好みがはっきり出るのも人物画、対して風景画は無難だ。これは独断と偏見だが、人物画を好む人は絵画に対する造詣が深く、風景画を好む者はアマチュアではないか、と思ったりもしている。そのアマチュア風景画ファンとして、本書は絵をよく観ていないことを自覚させられる内容だった。風景ほど天候・気候に影響されるものが無いにも関わらず、鑑賞の際その視点をまったく欠いていたからだ。

著者は1981年生まれ、大学で教育学を学びTV・ラジオ局に就職、番組制作・キャスター・リポーターを務めながら2012年気象予報士資格を取得、2018年から東京造形大学准教授として教鞭を執っている人。絵画鑑賞は趣味だが、海外を含め著名美術館を訪れ、多くの作品に接している。

低地・高緯度の「光の絵画」としてオランダ、島国の気象を題材とするイギリス、温暖な気候のフランス、そして雲と雨の多様な表現の代表として日本を取り上げ、おまけとしてマンガ・アニメに描かれた気象現象を解説する。登場する画家は約20人、作品は24(マンガは除く)。また、すべてが風景画というわけではなく、レンブラントの描いた「夜警」のように、人物画の中の光を考察し、これが夜ではなく夜明け前の薄明であることを説明するようなものもある。

多様な空の表現は無論、雲の形や色合い、木々や穀物の描写から読み取る風の強さや種類、虹の出来方から推察する太陽の輝き、影の出来方から判明する季節と時刻、版画の空のぼかしや雨の彫り方からも気象条件が予想できる。霧中を描く作品も深く観察すればその土地の特徴を推察できるし、吹雪の中を漂流する船の姿から発達した低気圧接近を感じ取り、その先に到来する恐るべきホアイトアウトを思い浮かべる。暗い夜を描いたものさえ季節感が伝わってくるし、花の開花状態や空の色から春の兆しを観る者に伝える。

ルーベンスの「虹のある風景」、ターナーの「吹雪 港から流される汽船」、コンスタブルの「デタムの谷」、モネの数種ある「ルーアン大聖堂」、ゴッホの「星月夜」、広重の「東海道五十三次;庄野白雨」、北斎「富嶽三十六景;凱風快晴」のようなよく知られた名画を始め、全作品をカラー口絵や白黒写真で解説、これに30頁におよぶ気象用語解説が加わり、気象や季節を読み解く眼を養ってくれ、これから風景画を観るとき、今までとは異なる視点を学ぶことができた。絵画評としてはさほど斬新さ・深みのあるものではないが、風景画ファンには一読をお薦めする。

 

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2025年3月31日月曜日

今月の本棚-200(2025年3月分)

 

<今月読んだ本>

1)かながわ鉄道廃線紀行(森川天喜);神奈川新聞社

2)『富嶽三十六景』の図像学(岡林みどり);清水書院

3)昭和問答(松岡正剛・田中優子);岩波書店(新書)

4)検証空母戦(L.サレンダー);中央公論新社

5)「俳優」の肩ごしに(山崎努);文藝春秋社(文庫)

6)移民リスク(三好範英);新潮社(新書)

 

<愚評昧説>

1) かながわ鉄道廃線紀行

-鉄道開通の一方の端だけに、知られざる路線が数々、廃線の理由も多様だ-

 


所帯を持って本年で55年。この間住まいは横浜市→横須賀市→横浜市と移動したものの神奈川県民を続けている。子・孫5人は全員浜っ子。しかし、私自身は県民・市民意識は希薄で、ふるさと意識は学童・学生時代を過ごし、勤務も長かった都心にある。それもあり鉄道ファンであるにも関わらず、この地で利用したことのある路線は限られている。通勤で利用したのは、京浜東北線・横須賀線・京浜急行の3線、私用で頻度の高いのは東横線・横浜市営地下鉄くらいである。いずれもラッシュ時以外でもかなりの乗車率で、廃線などとは無縁である。それもあり本書の出版を知人のフェースブックで知ったとき、「首都圏を構成するこの地に、一冊の本になるほど廃線路線があったのか?」と軽い衝撃をうけた。それが「あるある」なのだ。

著者の生年は不祥だが横浜市出身、大学卒業後IT企業を経てフリージャーナリストに転身、主に旅行・鉄道を対象としているようだ。本書は神奈川新聞電子版「カナコロ」に連載していたものに加筆して作成されたとある。

1872年新橋-横浜間に我が国初の鉄道利用が始まったことはよく知られている。しかし、この横浜は現在の横浜駅ではなく、京浜東北線の桜木町駅付近であった。廃線として取り上げられるいくつかは、このことと深く関わっている。一つは、東海道線の延伸、もう一つは貨物(1873年から開始)を中心とした臨港・臨海支線がそれらだ。前者は国府津から当初は御殿場経由で沼津に至る。このため国府津から先小田原、さらに遠方の箱根湯本や熱海へは小田原馬車鉄道(のちに小田原電気鉄道)と豆相人車鉄道(のちに軽便鉄道化)でつなぐことになる。箱根湯本への路線はやがて現在小田急線に転ずるが、路面電車部分は1954年まで営業している。豆相人車鉄道は小田原から文字通り人力で熱海に達する路線。早川・根府川・真鶴などを経る経路、今でも海沿いの道路は起伏が激しい。ここを数人の客を乗せて有蓋トロッコで客を運ぶのだ。1896年創業だが、人件費がまかないきれず1907年には小型蒸気機関車で牽く軽便鉄道に変わっている。芥川龍之介の短編「トロッコ」はこれがモデルなのだ。1923年の関東大震災で線路が崩落、以後廃線となった。

牛馬中心の貨物輸送を少しでも便利にしようとした路線に1906年から1937年まで営業していた湘南軌道がある。神奈川県県央の秦野と東海道線の二宮を結び、葉たばこ輸送が主務だったようだが旅客輸送も行っていた。二宮から東京方面や関西に向かうのだ。しかし、小田急線の開通により需要が急減、1937年廃線となっている。この鉄道の存在は本書で初めて知った。

多くの頁が割かれるのは横浜市電。1904年神奈川(現青木橋)と大江町(桜木町)からスタート、12路線営業キロ数52km、最盛期(1947年)には年間乗客数122百万人に達するが、バス・自家用車の普及で1972年その役目を終えている。

川崎市電があったことはかすかに覚えているが、工場の通勤とは無縁であったために利用したことはない。この路線は臨海工業地帯通勤者のために戦時の1944年開通、反時計回りで、これも廃線となった川崎の産業道路沿いに一時走っていた海岸電軌(京浜急行系)とつながり、さらに京急大師線に接続、直通電車は無かったものの、川崎環状線を構成していたのだが1969年廃線になっている。

この他、1年半しか営業しなかった大船駅とドリームランドを結んでいたモノレール(車両重量過重)、相模川や多摩川の砂利輸送から始まった現JR相模線や南部線の支線、桜木町から赤レンガ倉庫地帯を結ぶ汽車道、大桟橋付近の高架プロムナードに変じた臨海貨物支線、さらに副都心線とみなとみらい線の結合で消えた東白楽から桜木町までの東横線など、多彩な地図や写真で廃線後の今を紹介する。旅情を誘うという点では宮脇修三の廃線ものに一歩譲るが、鉄道先進県だけに過疎で廃線となる地方とは異なり、その多様な背景に考えさせられることが多かった。

 

2)『富嶽三十六景』の図像学

-北斎版画でたどる著者独自の日本史解釈、4巻目の本書で完結、江戸時代は「富嶽三十六景」で-

 


趣味というものは何でも、少し本気で取り組めば奥の深さを感じ、さらに深みに入っていく。私にとってその一つに版画がある。とは言っても年一回の年賀状作り程度、とても本格的なものからはほど遠い。多色刷りの版画を学んだのは中学生の時、その年の年賀状は親戚筋に好評だった。爾来毎年とはいかなかったものの、手製版画賀状を出すようになった。転機は1963年にやってくる。当時和歌山工場勤務だったが、郷土玩具の世界ではよく知られた先輩が、関西在住の版画家を呼んで講習会を開いてくれた。ここで初めて伝統版画の技法を学び、彫りや刷りを含む版画全体の出来映えを楽しむ知識を得た。しかし、本書における北斎の「富嶽三十六景」分析は、さらにその先にある、作品に込められた作者の意図を探るもので、単なる美術鑑賞の域を超えた内容となっている。

著者は東大で化学を修めたのち化粧品会社に入社、研究部門に長く在籍、後年同社の文化調査部門に転じ、その時代異業種交流の場を通じ友人となった。早期退職後日本語や日本史研究に注力していたが、それは独自の切り口から挑む全4巻の国史論・国土論の助走であった。その4巻は;①狂歌絵師北斎とよむ古事記・万葉集(2018)、②百人一首の図像学、③文化史よりみた東洲斎写楽、それに本書となって結実する。既刊はいずれも本欄で紹介済みだ。

4巻に共通するキーワードは“図像学”。図像学(Iconography)とは、絵画・彫刻・図像・その他の視覚的表現に込められた意味や象徴を研究する学問。モチーフやシンボルの背後にある文化的・宗教的・歴史的は背景を解読し、観るものにどのようなメッセージを伝えようとしているかを探ることにある。つまり単なる美術鑑賞の手引書ではない。著者は北斎の作品の中に、古代から中世、さらに江戸末期までの世相を北斎がどのように見ていたかを探索していくわけである。古代・中世では、記紀・万葉集・古今和歌集、少し下って百人一首、そして江戸時代では同業の写楽を援用して、著者の絵解き結果を開陳する。

本書で対象となるのは「富嶽三十六景」(46枚)。補完的に「諸国瀧廻り」(8枚)と「諸国名橋奇覧」(11枚)が図像学の観点から考察され、特に北斎の生きた幕末の政治・社会情勢を踏まえ、それぞれの作品に北斎が込めた意図を浮かび上がらせる。先ずこれら一連の作品は単なる風景画ではなく地誌図(地理図)であると判じ、そこから伊能地図、さらにはシーボルト事件(1828年)にまで言及する。また出自が御家人であったこともあり、尊皇・佐幕対立の中で苦悩する姿が、いくつかの絵の中に垣間見られると説く。三十六景をこんな観点から深読みするなど考えもおよばぬこと、それだけでも研究の斬新さに驚嘆させられた。

著者は理系出身者、本書に限らず他の3巻も含め、数理・図形を駆使して原材(詩歌、歴史、地理など)と絵の関係を追求していく。それは暦法・方角分・天文・歌番などにもおよび、今回も星図や数字根に関しそれぞれ一章が割かれ、これはこれで勉強になった。そんな一つに三十六景が36枚でなく46枚描かれていることの謎解きがある。2×23(ふじさん)=46だからとあるのはマンガチックだが、北斎ならやりかねないとの気にもしてくる。

著者は本書を完成させる過程で、美術館ばかりでなく疑問を呈されている北斎作品の現地調査も行っている。例えば、江ノ島と富士山の位置関係がおかしいとの説を検証するため房総半島(三浦半島ではない)まで出かけ、それがあり得ることを確認している。さすが!の感だ。

少々残念なのは、第3巻「写楽」では作品の多くが色つき口絵として巻頭に掲載され内容理解に大いに資するのだが、本書ではごく一部に限られ、参照すべきネットのURLが記されているものの、このアドレスにアクセスしても直ぐに目的の画面に達することが出来ず、むしろWikipediaで「富嶽三十六景」と入力する方が簡単に画面にたどり着けたことだ。

 

3) 昭和問答

-膨大な書物を読破した編集者・著述家松岡正剛が独立・自立を主題に法大総長田中優子と昭和を語る-

 


本欄も今回で200回に達した。読んだ本の備忘録としてスタートしたが“愚評昧説”と深く考えもせず題したため、感想文程度の内容を書評と誤解させてしまい恐縮している。ただ専門家の書評や読書論には目を通し、少しでもそこから学ぼうとの気持ちはあるのでご容赦願いたい。その専門家の一人に本書の対談者松岡正剛がおり、ネット掲載書評「千冊千夜」を長期続けてきていた。残念なことに本書対談の直後に急逝、連載も1850夜で絶筆となった。この書評の内容が他のものと決定的に違うのは、主題として取り上げられる書籍の評に着手前、多いときには20冊を超える関連著書を解説、それからおもむろに本論に入る手法を採っていることだ。千夜一万冊と改めてもいいほどの膨大な読書量に圧倒されてきた。絶筆(絶談)となるらしい本書で業績を偲ぶべく読んでみることにした。

同じ対談者によるこの“問答シリーズ”は2017年の「日本問答」、2021年の「江戸問答」が既に刊行されており、本書はその3巻目となる。先の2冊を読んでいないのでシリーズとしての一貫性有無は定かでないが、本書を読む限り二人による対談昭和史と言っていいだろう。自身の周辺を話題にすることが多いので、二人の略歴を簡単に紹介する。

松岡正剛;1944年生まれ。家業は京都の呉服屋で、戦後京都→東京→京都→横浜と移動。高校は都立九段高校を卒業、早大文学部仏文科で学んでいる。4年時父が多額の借金を残して死去、学資が続かず中途退学をしている。また高校3年時60年安保に直面、大学入学後特定のセクトに属してはいないが学生運動にかなりのめり込んでいる。大学中退後広告会社勤務、友人と雑誌社を立ち上げ、のち独立して編集工学研究所を主宰。広義の情報(遺伝子情報などを含む)を組み合わせることで新しい視点や発見を生み出すとの考え方を研究活動方針として、高度情報化社会に種々の提言をしていく。

田中優子;1952年生まれ。横浜のサラリーマンの家庭に育つ。女子中高一貫校を卒業後法政大学文学部日本文学科で修士課程まで進み(江戸文化専攻)、その後オックスフォード大学研究員として滞英、帰国後社会学部長などを経て2014年から2021年まで法政大学総長。学生時代には三里塚闘争などで学生運動に関わっている。

二人の共通点は文学専攻で学生運動に関わっている点だが、本書を読む限り左翼活動家の印象は感じない。松岡と田中の年齢差は8年、発言量に大差ないが、松岡がリードしていることは明らかだし、読後感は圧倒的に松岡の発言が残る。

対談を始めるにあたり、問答するための問題提起を行う。それは類似する二点の問い一つは「国にとって独立・自立とは何か」、もう一つは「人間にとって自立とはなにか」である。国にしろ個人にしろ独立・自立といいながら、そこには常に競争があった、と見るわけである。読み出して直ぐにわいてきた疑問は、「それは昭和だけなのか?日本だけなのか?」だ。この疑問は最後まで解けない。

問答を進めるに当り昭和を4区分し、それぞれの時代を論じていく;①昭和元年から昭和20年(戦争の時代)、②昭和21年~昭和30年(戦後体制構築の時代)、③昭和30年~昭和48年(高度経済成長の時代)、④昭和48年以降(見直しの時代)。いずれの昭和にも共通するのは、国策推進において、不確実性に対するコンティンジェンシー・プラン(代案)を欠いていたことをあげている。欧米キリスト教国家が全知全能神存在に早くから疑問を感じとり、次善の策を用意してきたこととの違いを指摘している。これが権力構造の曖昧さと連動し、ひとたび方向が決まると一瀉千里で走り出し、機敏なフィードバックが効かない社会を作り出していると見る。当初の設問とは直結しないものの、昭和史分析としては一考すべき考察だ。

戦前では遅れてきた帝国主義、戦後は占領政策と対米追従主義を批判的に論ずるものの、戦後の世論主導役である左翼リベラルのように体制批判を専らとするわけでなく、中庸な昭和史観との印象を持った。これは、二人の活動分野が文化・文学にあることと無縁でなく、6章構成の内2章はいわば昭和文学総覧のような様相を呈し、大佛次郎・三島由紀夫・松本清張・大江健三郎から小松左京・大藪春彦まで多彩な作家・作品が問答の中で引用される。

設定設問に対する明確な回答は得られなかったものの、巻尾近くで「ようするに、自立というのは自分の持っているものを(人間関係の中で)どう使うかという問題なのだ」と総括、「アイデンティティ(個の独立)なんて敗戦日本の知識人が武装のために導入したに過ぎない」と断ずる。松岡らしい急所をズバリと突く遺言である。

あとがきによれば、本書は脱稿までに2年半を要したとある。その過半は松岡の3回目の肺がん発症にある。そして脱稿直後緊急入院20248月急逝している。

 

4) 検証空母戦

-空母とはまるで縁のないスウェーデン人戦後派が、初歩から学びながら執筆・検証した、わかりやすい空母戦入門書-

 


第一次世界大戦で戦場に登場、第二次世界大戦で戦略兵器まで発展した飛行機・戦車・潜水艦・電子兵器の発達史を多角的(技術・生産、人・組織、戦略・戦術)に調べ、ITの企業適用施策に生かしてきた。電撃的早さで欧州を制圧した独装甲軍、Uボートを集散させ英国を瀬戸際まで追い詰めた独潜水艦隊、レーダー網と戦闘機を連動させ英独航空戦を勝ち抜いた英防空システム、これに比すべき空母を集中運用、攻撃兵器に転じさせた我が機動部隊。いずれも兵器個体が優れていたばかりでなく、システム思考が後世の軍事システムに生かされていく。

代表的な空母戦、真珠湾攻撃・珊瑚海海戦・ミッドウェー海戦・マリアナ沖海戦については戦記・戦史書物が汗牛充棟、平積みの本書を眼にしたとき「いまさら」の感を持ったものの、著者の経歴がユニークな点に惹かれ読むこととなった。

著者は1954年スウェーデン生まれ。物理を修士課程まで学び、システム・エンジニアとして兵役に就き、レーダーやミサイルの運用経験を積んでいる。除隊後経験を生かしIT企業でレーダーや無線通信システムの設計に従事。また、自家用機の操縦免許を持ち、ヨットレーサーでもある。兵役経験はあるものの空母などとは無縁のスウェーデン人、かつ歴史家・軍事ジャーナリストでもないアマチュアが空母戦をどう描くのか、ここに興味が沸いた。

冒頭何故本書出版に至ったかが手短に語られる。一言で言えばエンジニアとしての好奇心。従って戦記・戦史そのものには当初関心は薄く、専ら空母の技術的な細部を調べては自身のホームページにエッセイを掲載し続け、そこから戦史の世界にも踏み込み、それをまとめたものが本書になったとある。従って本書の構成も、運用を含む細部を解説する第1部“空母運用の基本”から始まり、第2部“第二次世界大戦の空母戦”と続き、第3部で細部データ・情報をベースに著者作成のモデルを使い“空母運用の再検証”を行う。この内第2部は既刊書で語り尽くされた感のある内容、多少は知っていたものの、新知識を得たのは、英空母が対独伊に対して行った作戦くらいである。例えは、ノルウェーのフィヨルドに潜む独戦艦テルピッツ撃沈、イタリア半島先端にあるタラント軍港攻撃(戦艦ローマ撃沈;真珠湾攻撃先行モデル説もある)、マルタ島攻防戦(主任務は島への補充戦闘機輸送)くらいである。第二次世界大戦実戦に空母を投入したのは日・米・英の三国。著者はその運用に関し、風変わりなイギリス、ギャンブラー・日本、巨人・アメリカ、と総括する。“風変わり”は艦種や兵装に統一性がなかったこと、“ギャンブラー”は6隻もの空母で主力部隊編成をしていたこと(ミッドウェーは翔鶴修理中・同型艦瑞鶴待機でたまたま4隻)、 “巨人”は後半戦における大量建造・投入、からきている。

勉強になったのは第1部、知っているようで知らないことばかりだった。例えば、艦載機の搭載方法、搭載戦闘機の攻撃部隊護衛と空母上空防衛の使い分け、対空銃砲の性能・効果・組合わせ、飛行甲板・格納庫・エレヴェーターの構造・配置、航法と電波兵器の関係(隠密性・即時性・安全性)、エンジン形式と着水時事故の関係(液冷エンジンは冷却空気取入口による転倒多発、日米の艦載機はすべて空冷(彗星艦爆は水冷だったが実戦運用極少))、燃料補給(特に航続距離の短い駆逐艦)、攻撃部隊編成・運用(米は空母ごと直行、日本は2艦上空編成;航続距離の違い)、着艦制動索や滑走制止装置、などがそれらだ。

3部では、先ず太平洋戦争中における日米両国の機動部隊(米国は任務部隊)の変革が語られる。ミッドウェー海戦で主力艦4隻を失い正式空母の増強に遅れる日本。かたや陸続と就役する米艦。編成や戦闘法も激変。艦載機も開戦時と大きく変わらない日本に対し米国はヘルキャット、コルセアー戦闘機、アヴェンジャー攻撃機など2千馬力級エンジン装備の新型機が登場、対空銃砲の強化、加えてレーダーの機能・種別・稼働状況は日本を圧倒、奇襲攻撃を不可能にする。米空母の役割は空母決戦より島嶼上陸支援が主体になっていく。最後の空母決戦を期したマリアナ沖海戦では“マリアナの七面鳥撃ち”と呼ばれるほどの大敗で終わる。

次いで著者は新たな戦闘モデルを登場させ、いくつかの海戦を数値検証する。戦闘モデルで有名なのはランチェスターの法則。第一法則は古代からの戦闘をベースにしたもの(1次方程式)、銃砲を主体とした第一次大戦の戦いは第2法則と呼ばれ2次方程式で記述される。しかし、ミサイルのように一斉射撃し、発射基数も限られる戦闘においては2次方程式適用がそぐわないとし、米海軍軍人が1986年に提唱したゲーム・ターン原理(両陣営が多数のミサイルを一斉射撃し、ある確率でダメージを与える)に基づく確率的サルヴォ(一斉射撃)モデルを用いてそれを行う。つまり、空母戦はミサイル戦と同じとの考えである。これによれば1942年までは日本にも勝機があったが1944年にはほとんどその可能性は無しとなる。このモデルの適否を判断する知見はないが、194410月に戦われたレイテ沖海戦における米正式空母は17隻、日本に残存していたのは瑞鶴・瑞鳳・千歳・千代田の4艦(全艦この戦いで沈没)、モデルが示す結果は合致すると見ていいだろう。

参考文献・索引がしっかりしており、空母辞典的な利用に役立ちそうだが、訳が翻訳専門家でない(陸自一等陸佐)ことから単調な翻訳に不満が残った。

 

5)「俳優」の肩ごしに

-俳優山崎努の自伝的エッセイ。うまく演ずる役者より役に完全没入する演技者を!-

 


就職用の履歴書趣味覧に映画鑑賞と書いた。それほど映画を観るのが好きだった。入社後和歌山に赴任し愕然とする。封切り映画は蒸気機関車の牽く列車に乗って小一時間、和歌山市まで出かけなければ観られぬほど田舎だった。翌春研修目的で川崎工場に長期出張する機会が与えられた。起居するのは保土ケ谷寮、通勤の帰途横浜で下車、映画を観まくった。記憶に残る作品の一つが著者のデヴュー作、横浜を舞台とした黒澤明監督「天国と地獄」である。主演は三船敏郎、助演は仲代達矢と香川京子。しかし、最後に顔を見せただけの誘拐殺人犯山崎努の凄みは彼らを圧倒した。しばらくのち高校の3年先輩と知りファンとなった。しかし、近年こちらが最新の邦画やTVドラマを観ることが滅多にないこともあり、その動向が不明だった。そんなとき眼にしたのが本書である。

本書は43話から成る著者の自伝的エッセイである。誕生から孫が独立する執筆時点までのほぼ全生涯をカバーするが、読みどころは当然のことながら演劇・俳優にある。ただの人気タレントではない演劇人の真摯な姿勢が、軽妙な筆致の中に伝わってくる深みのある一冊だった。

生まれは現在の松戸市(当時は松戸町。私の実家もここに在ったし小学校も3年生から5年生まで通ったから文中の地名も知るところだ)。父は当地の工場に勤める染物職人、戦争末期召集を受け、母と生まれたばかりの妹3人は母の郷里柏に疎開する。終戦後父が復員、この地で零細な染物工場を立ち上げるものまもなく死去。ここから一家の苦しい生活が始まる。新聞配達・牛乳配達・納豆売りなどを経験、上野高校の夜間部に進み、晝間はネオンサイン管工場で働くような生活がつづく。そんな折池之端に在った映画館に出入り(上野日活を始め34軒の映画館が在り私もよく出かけた)、ここで観たマーロン・ブランドの演技に触発され(多分「波止場」だろう)、演劇人を目指すことになる。演劇に精通した友人のアドヴァイスにより俳優座養成所を受験し合格。ここに3年通うがどん底生活は変わらず、見かねた同期生の河内桃子が密かに千円札を渡すシーンもでてくる。

1959年卒業後入団するのは杉村春子や芥川比呂志、岸田今日子等の所属する文学座。ここでもなかなか芽が出ず、1961年「天国と地獄」のオーディションを受け、あの役を獲得することになるのだ。1963年公開、映画は大ヒットし著者もスターに変身、演劇人環境が激変する。これをテーマにした話は数話にわたり、角度を変えて語られる。その後の黒沢作品(影武者、赤ひげ)への出演、三船敏郎との関係、TVへの出演依頼などなど。

しかし、著者の本業は舞台俳優、この思いが文学座では叶わず、芥川比呂志や仲谷昇など幹部俳優達が新劇団「雲」を立ち上げる際行動を伴にする。「雲」には11年在団しそれなりの役を演ずるが、それでも「自分のやりたい演劇ではない」と感じ、37歳でフリーとなる。

「やりたい演劇とは何か、どんな役者になりたいのか」。それは「それなりの役をうまくこなす役者」でも「観客を感動させる役者」でもなく「(原作解釈に基づく)その役になりきる役者」を演ずることが許される演劇である。新人時代音楽劇に出演、その他大勢役は口をパクパクさせるだけなのに思わず歌ってしまい音楽監督に叱責されたこと、映画出演で思わず台本にない台詞を発し、監督に褒められたことなどにその片鱗を窺える。しかし、「ここまでいくのか!」とその没入ぶりにある種の感動さえ覚えたのは、長期公演が終わり、のんびり過ごす日々が来たにも拘わらず、ある時刻になるとまるでスウィッチが切り替わったように全身がカーッとなり、動かずにはいられなくなる話だ。原因不明、医師の診断を考えるが、それが開演時刻であることが判明する。ここまで神経や身体が演劇人化すると体力の低下が舞台俳優の限界となる。19981月「リア王」をもって舞台俳優を引退、短い演技をつないで作る映画やTV作品への出演を専らとしているようだ。

舞台演劇を観たのは海外でのミュージカルを含めて十指に満たず、演劇の楽しみ方にはまったく無頓着だった。本書を読み「遅きに失した」との思いしきりである。

 

6) 移民リスク

-働き手不足を補うための労働者移民、理想主義に走る難民受け入れ、外国人不法滞在者の声ばかりを報ずるメディア。安易な我が国外国人受け入れ体制に対する警告の書-

 


1985年石油企業の情報システム部門を分社化して情報システムサービス会社を立ち上げた。石油市場の成熟とIT産業の将来性を見越してのことである。急成長する業界で経営拡大を図るにはそれに見合う人員増強策が不可欠。2年後からプロパー社員の採用を開始するものの、なかなか思うような人材を確保できなかった。そんな折り1990年代初期、中国の人材派遣を扱う専門日本商社から中国人技術者の紹介を受け、5人ほど契約社員として採用した。すべて中国の代表的な工科系大学卒で基礎的な日本語の研修も受けていた。一人で顧客対応は無理だが、専門知識は充分満足できるレベルで大いに戦力となった。シリコンバレーIT産業の隆盛がインド・中国・ロシアなどからの移民で支えられている現実からも高度技術を持つ外国人人材の受け入れには、基本的に賛成だ。しかし、短期ビザ入国の不法長期滞在者や難民と称する出稼ぎ外国人によって各所で起こっているトラブルを見るにつけ、目先の人手不足解消や軽佻な人道主義に基づく、安易な外国人受け入れは再考すべき段階に来ていると考える。その現状を知るべく本書を手に取った。

著者は1959年生まれの読売新聞社記者。特派員としてタイ・カンボジャに計3年、ドイツに計9年半、米国に1年滞在、取材でコソボ・ウクライナ・パレスチナ・アフガニスタン(いずれも難民発祥地)などに赴いた経歴を持つ。また、本書をまとめる過程でトルコのクルド人居住地域や難民問題に揺れるドイツで取材を行っている。

本書はジャーナリストが著わしたこともあり、一見不法滞在外国人に関する今日的な話題をセンセーショナルに伝える内容を予想したが、読んでみると入出国管理を基本から、広範に学べる優れた啓蒙書であった。「入出国管理は国家成立の基盤である」が貫かれる執筆方針で、批判は著者のホームグラウンドであるマスメディアとそれを信じる世論にも向けられる。報じられているのは専ら不法長期滞在者やそれを支援する組織の言い分なのだ。

1章は20235月に起こった川口市医療センター騒動(クルド人同士の傷害事件;救急センターを一時閉鎖、機動隊出動)で注目されたクルド人不法滞在者問題。川口市にはおよそ1600人のトルコ国籍人が居住するがその大部分はクルド人。彼らは政治難民を主張・申請しているが、母国調査を含め、これが出稼ぎ滞在者であることをつまびらかにする。違法な解体工事業や犯罪率の高さでその危険性が具体例や数字で示されている(これはあとの章でドイツでも同様なことがわかる)。

2章は入出国管理の現状と問題点が解説される。ここで話題として例示されるのは20233月名古屋の入管施設で病死したスリランカ女性。実質は一種のハンガーストライキであったにも拘わらず、出入国在留管理庁(入管庁)の非道な扱いのように報じられた件だ。彼女は配偶者からの暴行を理由に難民申請するが認められず、何度も申請を繰り返す。申請中は強制送還されることがないことを知ってのことだ病気を訴えたりするが、胃カメラや外部医師の診断でも異常は認められず、拒食で体力を低下させた結果死に至る(コロナ禍の最中であり、この点でも入管庁にできることに限界があった)。人権団体の一部やマスコミはこれを「入管の闇」と難じ、一方的に(違法な)収容者に与する論調を展開する。本書では入管庁の現場がどのようであるかを詳しく解説、入国警備官、難民認定制度、送還停止効(難民申請中は送還を停止する;5回の申請で20年滞在した例もある。現在は2回に改正)、強制送還の難しさなど初めて知ることばかりだった。

3章は移民規制に舵を切ったドイツの現状。3波わたる難民処理(第1波は冷戦、第2波冷戦崩壊、第3波は20152015年の欧州難民危機)で積極的な難民受け入れを続けてきたドイツが直面する移民危機(犯罪から社会混乱まで)を概説し、これを他山の石として学ぶべきと主張する(例えば、ドイツではクルド人を難民対象にしていない)。

社会の多様化や人道主義の理想あるいは少子高齢化対策ばかりが強調される昨今の我が国外国人受け入れ体制、もっと現実を直視し、報道を含めて国の将来を考える施策を採るべきと結ぶ。ポイントは伝統的社会に統合(同化)できる数(ドイツは約20%が人種としては非ドイツ人)と質である。「全面的に同意!」が読後感である。

 

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