<今月読んだ本>
1)間に合わなかった兵器“新装解説版”(徳田八郎衛);光文社(文庫)
2)なぜ働いていると本が読めなくなるのか(三宅香帆);集英社(新書)
3)グッドフライト・グッドシティ(マーク・ヴァンホーナッカー);早川書房
4)アメリカ・イン・ジャパン(吉見俊哉);岩波書店(新書)
5)陸軍作戦部長田中新一(川田稔);文藝春秋社(新書)
<愚評昧説>
1) 間に合わなかった兵器“新装解説版”
-博士課程修了の陸自技術士官が専門知識を駆使しての第二次世界大戦兵器評価-
1994年7月小規模な異業種交流の勉強会に参加した。その時講演をしたのが本書の著者である。テーマは自衛隊を中心にした軍事技術の現状。そこで話題になったことの一つに、前年北朝鮮が日本海に向けて発射した初のミサイル、ノドンがあった。一時大騒ぎしていたが、著者の見解は恐るるに足らずだった。あれから30年、北朝鮮は原水爆を開発、大陸間弾道弾(ICBM)発射実験も何度か行っている。どこまで完成度が高いかは不明だが、国際交渉の切り札になってきている。つまり、彼の国にとっては“間に合った兵器”なのではかろうか?そんな折、本書の出版を知った。元となる単行本は1993年刊、その後文庫本化され、さらに今回“新装解説版”としていくつかの新情報が加えられている。実は先の勉強会のあと単行本を購入、続いて1995年に出た「間に合った兵器」も手許にあるが、“新装解説”が読みたく、本書を求めた。とは言っても付加部分だけでなく全文を読む結果になったが。
私がこの人の講演や著書に惹かれた最大の理由はその経歴にある。生年は1938年、遅生まれなので国民学校(小学校)就学は私と同じ1945年(昭和20年)、京大理学部で物理を専攻、大学院博士課程を終え、陸上自衛隊員となる。この背景は1950年代に発足した「自衛隊技術貸費学生」の第一期生として採用されたことにある。入隊後は通信を含む電子兵器とその運用に従事(実戦部隊、幕僚監部)、この間防衛大学校教授として防衛工学を講じている。1993年一等陸佐で退官。軍事技術に興味を持つ者として、これまで軍事評論家・戦史研究者・戦記作家などの作品に触れてきたが、戦前の技術士官を除けば、科学技術を基本から学んだ人の作品は皆無。それだけに客観的視点からの技術解説は他書と一線を画す内容になっている。加えて、用兵者と技術者が仕様を詰めていく過程の調査が行き届き、技術以外に時々の政治(戦略・戦術を含む)や経済事情が反映されている点も、“間に合わなかった兵器”理解を深めてくれた。
本書は6章から成り、一つを除き(後述のソ連)一種の兵器を取り上げる。しかし、それぞれの中で語られるのは特定の一機種では無く、関連する兵器にも言及する。例えば、第1章はほとんど活躍することの無かった日本軍戦車を取り上げているが、戦車開発史とともに対戦車兵器にも触れ、対戦車砲、対戦車爆雷、対戦車ロケット砲(代表的なのはバズーカ砲)の戦闘方法や有効性について詳述する。この中で我が国対戦車兵器として47mm砲の有効性を多くが認めながら、歩兵側から主力兵器は駄載(分解して馬の背に乗せて運ぶ)必須の条件が出て、非力な37mmが採用される話が紹介されている。
紙数が多く割かれているのが、著者の専門領域である電子兵器のレーダーと通信機器。レーダーの原理は八木秀次(のちの阪大総長)考案のアンテナがその一つとなるのだが、海軍は隠密行動を旨とするため、しばしば無線封鎖をするほど。電波を発して索敵するなど「闇夜に提灯」と開発・装備を忌避、むしろ陸軍の方が研究開発では遙かに先を行っていたことを明らかにする。また、第一次大戦時の一騎打ちとは異なり、編隊戦闘が主流となった空戦では無線電話による通話が桁違いの効力を発揮するのだが、雑音や重量増加、さらには故障多発で用兵者に嫌われ、マリアナでの航空戦では無線電話装備の米軍に「七面鳥撃ち」と揶揄されるほどの大敗を喫している。
異色の章は「間に合わせたソ連の底力」、独ソ戦初期で大敗・退却を続けたソ連軍がやがて巻き返して行く過程を、生産技術を中心に分析解説する。疎開工場の立ち上がりの早さ、量産最重視の設計・生産、驚異的な生産力の実態を本書で初めて知った。海外が主題はこれとドイツのジェット機開発、その他はすべて日本軍、中でも陸軍関連が多い。戦前の軍事技術と言えば海軍が先行していたので、これも本書から学ぶことが多かった。
用兵思想(攻撃重視、防御軽視)、広義の技術の遅れ(材料、工作機械、標準化)、経済力の限界(数か性能か)、様々な制約の中で苦闘する技術者・技術将校たちの姿を終戦80周年の今振り返るに相応しい一冊であった。
2) なぜ働いていると本が読めなくなるのか
-一見軽薄なタイトルだが、実は優れた維新以降の我が国労働・読書史-
本欄ブログを開始してから月平均6冊、年間で約70冊読んでいる。時々「速読術でも習得したんですか?」と問われることがあるが、まったくその心得は無い。今は書くことが加わったのでこの程度だが、現役時代読むだけなのでこれ以上だった。だから挑発的な題名を目にし、「そんなはずはない」と読んでみることにした。何か軽薄な自己啓発書を思い浮かべるようなタイトル。序章は予想通り若者の書籍離れから始まり、労働と読書の関係に展開していく。しかし、読み進むに連れ、これは著者の巧みな撒き餌と気づかされる。結論を言えば、本書は優れた「近代日本労働・読書史」である。今や終末までの時間つぶしに堕している、私自身の読書を再考する機会を与えてくれた。読後感は「負うた子(孫?)に教えられ」だった。
著者は1994年生まれ(若い!)、少女時代からの読書好きが嵩じ京大文学部に入学、同大学院人間・環境学博士課程まで進んだ人(専門は萬葉集)。一旦IT企業に就職し3年半勤務、そこでの体験(ネガティブにとらえていない)が著述業に転じる結果になっている。既刊書はすべて文学・文芸・文章・読書に関するもの。本書はウェブサイト「集英社新書プラス」連載記事を加筆修正したものとある。
本書で取り上げる時代は明治維新以降現代まで。時代が下るに従い時代区分が短くなる構成だ。時代背景を述べたのち、どんな読者層が何を目的に読書してきたか、どんな書物が好まれたか、読書環境は如何様だったか、をよく売れた本(ベストセラーと言う言葉は1950年以降使われるようになった)を例に挙げながら、解説していく。
近代的読書習慣が始まるのは明治から。政府は国民全体の知的水準を上げるため読書を奨励する。当時のベストセラーは福沢諭吉の「学問のすすめ」、これは政府・自治体などが公費を投入し学校などに配布した。それと並行して売れたのが「西国立志編」。欧米人成功者の立身出世物語を列記したものだった。つまり、この時代の読書人は自らの出世を願い、自己啓発を目的に読書をしていたわけである。また図書館の開設が始まり、読書の機会が増えていく。しかし、自己啓発や図書館利用をする人は学生や知識人が主体、読書史の出発点から階級格差が存在し、最近まで続いたと言うのが著者の見解である。
この階級格差は大正になるとさらに明確になる。次第に増えていくサラリーマンは、労働者階級との差別因子として“教養”を意識するようになる。自分の市場価値を高めるのは教養であり、読書をサバイバルツールとして位置付けるのだ。この知識層の教養傾斜に対し、労働者階級は実践・実利を旨とする“修養書”が主たる読書対象となっていく。
昭和に入り関東大震災後読書を取り巻く環境は激変する。サラリーマンが増加、彼らの住居は郊外に広がっていく。自宅を構え、応接間や書斎を設ける。そこに教養を具体的に示すインテリアとして全集物が飾られるようになる。代表的な例は、改造社刊行の「現代日本文学全集」(当初予定全37巻、最終62巻)。事前一括予約制だが支払いは1円/月(円本)。月給制となじみ大ヒットするが、実態は積読のはしりだったらしい。一方で教養アンチテーゼとして大衆小説も人気をはくし、週休制の普及、通勤途上の時間利用と相まって、一段と読書習慣が進んでいく。
戦後に入ると経済復興・発展に伴い教養指向層は拡大、サラリーマン小説や文庫本がそれに応えていく。他方労働時間も1960年には一人当たり年2426時間となり、戦後から現代に至る間のピークに達している(2020年は1685時間)。つまり、労働時間の長さだけで読書量を論ずるには無理があるのだ。
高度成長期からバブル期にかけては自らの努力が企業成長に直結する感を抱かせ、皆「坂の上の雲」を見つめながら研鑽に励む。司馬遼太郎作品に代表される歴史小説、ビジネス書がよく売れ、一億総中産階級化で女性も含め階級格差から解放されて、読者層が多様化・拡大していく。一世帯当たりの書籍購入費は1979年1万4206円となり、これがピークとなる(2020年7千738円)。
バブル崩壊・成長の停止は「仕事で頑張っても日本は成長しない。社会は変わらない」という風潮になる。自己実現の方策として、うまく波に乗ることに注力。読書離れの進む中で自己啓発書がそれに反比例するように売れる。例えは「片付け本」「脳内革命」「超勉強法」などがそれらだ。自己啓発書の特徴は、自己の制御可能な行動の変革を促すことにある。逆に制御不可能なことはノイズ(雑音)に過ぎない。こうして文芸書・人文書が遠ざけられていく。
2000年代に入ると、インターネットが普及、それまでの社会的ヒエラルキーが無効化され、むしろ現実の階級が低い人にとっての武器になり得る存在になる。この先にあるのが「反知性主義」。従来の人文知や教養の本と比較してノイズの無い(自己に役立つ)情報がインターネットを通じて得やすくなる。情報=「今」知りたいこと、対して知識=知りたいこと+ノイズ、と言う構図だ。「働いていると本が読めない」は時間だけの問題では無いのだ、と労働と今様読書の関係を冷徹に分析する。
続けて2010年以降のスマートフォンによる「早読み」や「読書術」「速読術」本ブームを「ファスト教養」と批判的に語り、「教養とは、本質的には自分から離れたところにあるものに触れることなのである」と著者の読書観を明示、労働と趣味・娯楽・教養を両立させる「半身で働く(手抜きでは無い)」生き方を提言して結びとする。
全編、自身の読書体験・スタイルと比較しつつ読んだ。両親・友人たちから批判され続けてきた「活字中毒」「乱読」「雑学」、読書の動機に「教養」は皆無。読書欲を突き動かしているのは「好奇心」、他人にはつまらぬことでも「新知識の習得、未知のことの理解・解明」にえもいわれぬ満足感をおぼえる。狭義の自己啓発書(ハウツー物を含む)は英語とITに関するもの以外手にしていないが、伝記類は好きなジャンルだから、そこから学ぶことはあった。現役時代、一部のビジネス書を除き、役に立つか否かを考えて本を購読することはなかった。プラント建設やシステム開発が多忙な時期に読書量は若干落ちたが、仕事に読書の楽しみを奪われたという思いは無い。この点で著者の見解「読書離れは時間では無い」にまったく同意だ。この人と読書に関して語り合えたらどんなに楽しいだろう。そんな思いで読了した。
3) グッドフライト・グッドシティ
-「グッドフライト・グッドナイト」の続編だが、重きはグッドシティにあり、40を超す都市の街案内-
2019年満80歳になったところで、家人と相談の上海外旅行を終わることにした。ツアー参加もそれなりに苦労する場面があったからだ。クルマの運転は趣味だし、国内は既に全都道府県廻ったものの、行きたいところはまだ多々残っていた。これからはもっとクルマ旅を、と旅先・手段をそちらに移すことにした。しかし、同年6月2度目の北海道ドライブを楽しんだ後、8月下旬急に下肢に異常を感じ、9月硬膜下血腫と診断され、入院手術となった。丁度高齢者研修の時期と重なり運転免許更新を断念、折からのコロナ禍あり、爾来国内旅行も出来ず、悶々とした日々が続いた。唯一の旅禁断症状治癒策は旅の本を読むことである。数々の紀行文・旅行記の中で、昨年9月本欄で紹介した「グッドフライト・グッドナイト」は現役エアーラインパイロットが著わした旅行エッセイで、空に関わる詩情溢れる内容に強く惹かれた。同じ著者による邦訳2巻目、今度はどんな世界に触れられるのだろう。そんな期待で本書を手にした。
邦題は似たようなものになっているが、原題は、前著が「Skyfaring(大空を駆ける)」、本書が「Imagine
a City(街を思い描く)」と似ても似つかないし、内容はこれがぴったりだ。つまり前者は航空エッセイ、後者は都市や街の紹介に力点が置かれている。それもあるのだろう、前著の翻訳者は航空自衛隊で管制官を務めた経歴を持つが、今回は航空の専門知識は全くない翻訳者だった。
取り上げられる場所は44カ所、この内生まれ育ったピッツフィールド(ボストン西方180km)と現在拠点を置く(英国航空に勤務)ロンドンは複数回 登場する。NY・ローマ・香港・ヴェネツィア・ソウルなどよく知られた都市がある一方、極めてローカルで空港も無い街も出てくる。また、紹介すると言っても観光案内的な視点は皆無、著者の思いや体験を元にした印象記の色彩が強い。
章立ては12、記憶の都市、始まりの都市から始まり、夢の都市・眺望の都市・門の都市などと続き、雪の都市・円の都市で終わる。ただ、この区分は物理的なものではなく、あくまでも著者が感じ取ったものである。そのいい例は東京、山手線を一周して見せる(全駅の駅名の由来・意味を短く紹介)。日本の都市は、東京以外では京都(始まりの都市)と札幌(雪の都市)。京都に関してはまったく歴史や観光スポットに触れず、高校時代金沢に短期ホームステイした後帰国前過ごした旅館での友人とのひとときを語るだけである。これに対して札幌は雪に関する長い話が綴られる。雪の博士中谷宇吉郎の研究やアイヌの熊祭、さらには市街中心部からかなり離れたところにあるイサム・ノグチ美術館雪中訪問などがそれらで、私も初めて知ることばかりだった。また、ここでは千歳空港にも触れ、地上係員の冬期における運航維持スキルは世界のトップクラスにあると賞賛する。日本の三都市紹介を相撲番付すれば、札幌が役力士、東京は平幕下位、京都は十両にも達せず幕下、といったところか。
各章とも、書き出しはピッツフィールドでの思い出話から始まり、絞り込んだテーマを元にいくつかの都市・街に展開していく。この導入部を通じて著者の生い立ちや家族・友人関係などが、前著以上に詳しくわかってくる。そこではっきりしたことは、著者がゲイであることだ。前著でロンドンに“パートナー”が居ることは承知していたが女性とばかり思っていた。今回は、至るところにパートナーのマーク(著者と同名)が登場、手をつないで散歩するシーンまである。前著(原著)の出版は2015年、本書は2022年刊、この7年間におけるLGBTQ(ジェンダー)環境は急激に変化しているものの、超保守的な私には、内容の楽しさを味わいながらも、何か不快感を引きずりながら読む結果になった。
前著ではエアバス320(比較的小型)から始まりB-747(ジャンボ)の副操縦士だった。本書ではB-747副操縦士からB-787の副操縦士に転じている。どの段階でも機長昇格はうかがえない。ゲスの勘ぐりだが、LGBTQと関係があるのではなかろうか。
4) アメリカ・イン・ジャパン
-黒船来航は西部開拓史の延長線。太平洋の島々を制圧した先にあったのが日本。米国先住民と同じ位置付けになる日本人。これで良いのか!?-
私の“America in My Life”の出発点は1946年9月末、引揚げ船のタラップ降りた先に設けられた持ち物検査場、米兵と日本人が組になり担当していた。満洲出国に際し写真は持ち出し禁止品。父はそれを隠し持ち持っており、検査で見つかった。しかし、米兵は封筒に記された英文説明(多分Family Photographとでも書かれていたのだろう)を一瞥するとそのまま中も改めず、返してくれた。次いで博多から東京に向かう引揚げ列車が山陽地方で米軍専用車と並走した。まだ残暑の頃窓は開け放し、そこへ米兵がキャンディを投げ込んでくれた。爾来自他共に認める親米派である。しかし、Japan as NO.1の辺り(1980年代半ば)から、鷹揚さが一段と減じていくように感じるようになってきた。トランプ第一期、バイデン、そしてトランプ第二期、普通の国否それ以下と思われてならない。そんなとき目にしたのが本書、帯の”コペルニクス的転回!“が自身のアメリカ感と重なった。副題に“ハーバード講義録”とあるように、米国人の学生に対して米国を講じた内容、要旨は、黒船来航以降現代に至る地政学的日米関係史だが、全時代を通じて、それが対称的なものではないことを、訴えるものである。
著者は1957年生まれ、東京大学名誉教授、専攻は社会学・文化研究・メディア研究。本書は2018年(トランプ政権第一期)ハーバード大学教養学部に客員教授として招かれた際の講義(正規の単位修得科目)内容がベースとあり、構成もそれぞれが一回の講義に相当するのであろう、第1講の「ペリーの遠征と黒船の来航」から始まり第9講「アメリカに包まれる日常」で終わる九講から成る。
講義開始に先立ち、著者のアメリカ歴史観が以下のように示される。「アメリカの「自由」の歴史とは、先住民の徹底した排除と殺戮、所有権の絶対化と金融万能主義、根本的な人種差別と暴力主義と市場主義を「明白な運命」として東部諸州から西部へ、さらには太平洋から全世界へと拡張してきた歴史である」と。そして読者に向けて「近現代の日本人はそのようなアメリカに全力で一体化しようとしてきたことである」と警告する。各講義はいずれもこの歴史観に基づいており、“反米”と取られかねない内容だが、学生がこれに対してどう反応したかは一切触れていない(期待に反して受講生の内白人は少数派だった書かれているが)。
独立以後に発した「西漸(せいぜん)運動(Westward Movement)」は「西部開拓(Western Development)」で描かれる「無主の地」を開拓するようなものではなく、先住民(ネイティブ・アメリカン、メキシカン)などから土地を奪い、太平洋に達すると、さらにハワイ王国を滅亡させ、米西戦争でフィリピンを入手すると圧政を敷いてきた。日本もこの文脈の中にあったのだ。一方の日本は、長いこと西側大陸(特に中国)の文明に影響を受けており、江戸時代アメリカの存在は知っていても、関心を持つことはほとんどなかった。こうして「遠征」と「来航」と言う非対称性で両国の関係がスタートする。
先ず、ペリーの「遠征」が周到に準備されたものであることを種々の角度から解説する。ペリーが選ばれた背景(58歳、引退目前だが国運を託せる老練海軍士官)、英・仏などの中国侵略への対抗(太平洋に航路安定の拠点を確保;貯炭・食料・水・難船対応)、グローバルネットワークとしての位置、日本の統治体系や日本人の特質調査分析がそれらだ。木工・陶磁器・製紙など高い技術を持ち、新技術への好奇心が強いことを見越して「テクノロジーを見せつける外交」策を前面に出すことを決する。黒船自体がその代表だが、贈り物・展示品には電信装置や(遊園地にあるような)小型蒸気機関車などを用意、デモンストレーションは大成功をおさめる。当時の日本人はその冷徹な策に気がつかず、ひたすら「脱亜入欧」に邁進するが、実態は「脱亜入米」、遣米使節団派遣はその代表例だ。
明治期における宣教師による教育活動、大正昭和初期から始まるファッションや映画を通じたアメリカニズムの席巻、太平洋戦争における対日本人観(動物に近い野蛮人)、それに基づく空爆思想(徹底的な分析と計画実施)。「西漸主義」は連綿と続いていく。
極めつけは占領統治。自己顕示欲の強いマッカーサーだが、めったに日本人の前に現われることは無く、反面天皇の巡幸はほとんど全国にわたり、巧妙な仕組みでアメリカニズムの徹底的な注入が行われる。そこには「天皇」としての「元帥」を願望する日本人が続出、故国のマッカーサー記念館にはそんな手紙が多く残されている。
独立回復後も基地から滲み出るアメリカ文化やアメリカ発の流行に自ら積極的になじみ、ディズニーランド入園者に至っては、先住民を虐殺し、南太平洋を支配下に治めた白人を演じ、気づかずにアメリカ化に包摂されていっている。これで良いのか!?
本書の基となる講義は第一期トランプ政権下で行われている。そして本書の導入部執筆時には2回目の大統領当選が決まった直後。著者はこれを「アメリカ社会の内部崩壊」と見ている。同感だ。周辺国家の動向から安全保障策では米国依存はやむを得ないが、おもねてまで頼る姿勢を質す必要性を痛感させられた(少々、左翼リベラル臭無きにしもあらずだが)。
5) 陸軍作戦部長田中新一
-知られざる太平洋戦争開戦時の作戦部長。その思考過程を丹念に追った、新たな視点からの戦争史-
今年は第二次世界大戦終結80年、5月のロシア対独勝利記念式典に習近平主席参加の可能性が報じられていた。そこには、返礼として8月の中国における対日勝利式典へのプーチン大統領参加があるのではないかとも記されていた。ロシアのウクライナ侵攻から3年、当事者の一方であるプーチン大統領と和平交渉を画策する、先の読めないトランプ大統領の言動から、この式典に米・中・ロ首脳そろい踏みの悪夢さえ起こりかねない、と考えるのは愚者の邪推であろうか?時期によって違いはあるものの、同時にこの三大軍事大国と戦った国は日本だけだ。出発点は満洲問題(中国)、次いで南進論(間接的に米)・北進論(ソ連;国境紛争)、そして太平洋戦争(米)、最後は日ソ戦争(ソ連)。これらの戦争経緯については研究し尽くされた感があるものの、当時の国家指導層個々人の考え方・言動については必ずしも十分とは言えない。その一人が大東亜戦争開戦時の陸軍参謀本部作戦部長田中新一(中将)である。
著者は1947年生まれ、名古屋大学名誉教授。専門は政治外交史・政治思想史。本欄で「武藤章 昭和陸軍最後の戦略家」をすでに紹介している。
旧日本軍は二つの組織から成る。軍政と軍令がそれらだ。軍政は行政機関、カネ(予算)・人(召集・動員)・物(兵器調達)を扱う。軍令は実働部隊の運用を担う。軍政は政府の一機関だから、陸軍の場合陸軍大臣は首相の下に位置するが、軍令のトップ参謀総長は天皇のみが保持する統帥権の下にあるので、ある意味首相と同格なのだ。参謀本部で参謀総長に次ぐのが次長、その下にいくつかの部が存在するが作戦部(一部)はその中核、部長は実質No.3である。田中はこのポストに1940年10月に就任、1942年11月、東條首相兼陸相への暴言事件で更迭されるまでその任にあった。つまり太平洋戦争(大東亜戦争)開戦を挟んで前後1年軍令を実質差配してきた人物なのだ(参謀総長職は皇族や軍官僚の上がりポスト)。開戦を決定するのは首相・外相・陸相・海相それに陸軍参謀総長・海軍軍令部総長で、公式の場に作戦部長が同席することは無い。しかし、陸軍軍令系統の考え方が全体をリードしてきたことは確かなようで、本書は田中の言動を中心にそれを明らかにする試みである。著者がそのために精査したのは、戦後田中が書き残した「太平洋戦争への道程」と戦前つけていた「参謀本部第一部長田中新一中将業務日誌」の二つ。この二つを読み比べたところ大きな差は無く、両資料の信憑性は高いものと評価する。無論これ以外にも当時の会議議事録や関係者の日誌・回顧録なども参考しており、おそらく田中に関する客観的な研究報告としてはこれ以上のものは無いのではなかろうか。
開戦前の経歴にその後を予見させる出来事を取り上げると、1931年の満州事変当時は関東軍参謀として石原莞爾の下にあり、強くその影響を受けている。1937年の盧溝橋事件(日中戦争の発起点)当時は陸軍省軍事課長として、参謀本部作戦課長武藤章(二人は陸士同期)と図り、不拡大策を唱える作戦部長石原の意に反して、拡大策を強行する。その後進駐した内蒙古の駐蒙古軍参謀長となり、次いで1940年8月参謀本部長付として独伊視察団副団長としてポーランド戦・西方戦におけるドイツの戦果を見聞、そこから「ドイツ軍強し」の感を持って帰国、10月作戦部長に就任する。
泥沼化する中国戦線、三国同盟とソ連との関係(松岡外相はこれを四国同盟にすべく謀るが、田中は懐疑的)、中国を支援する米英への対応、複雑な国際環境の中での国家戦略策定に苦悶する田中の姿が生々しく語られる。独伊枢軸か米英との親善か、田中なりに国家の命運を比較検討する。独ソ戦以前の要旨は「三国同盟を脱し米英と親善関係を結べば、おそらく日中和平は成立し、その後独伊が屈服するか、そうでなければ世界大戦争となる可能性がある」「いずれにせよ事態が決着すれば、日本はあらためて米英ソ中による挟撃に遭う危険性がある」「また、不介入の立場を置く中立政策も、空想といわざるをえない。それゆえ、現時点では枢軸陣営において国策を実行するほかない」。これが太平洋戦争に至る彼の論理である。これは石原の「最終戦争論」と重なる。しかし、これで一瀉千里と突進する訳ではない。
衝撃的事件は1941年6月の独ソ戦開戦。ドイツの快進撃で田中も一時は北進論を考えるが、極東ソ連軍の移動がわずかなことから、開戦までには至らない(ただ関東軍特種演習の名の下大動員はかけている)。転じて南進論へ。欧州本国がすでに独支配下にある仏印へ触手を伸ばす。ここでの読み違いは仏印南部進駐に対する、米国の石油全面禁輸、オランダもこれに同調する。石油以外の資源確保を含め、英領のマレー、ビルマ、蘭領のインドネシアへの進出を目論む。この際田中が模索するのは英米分断の可能性。本国が危機的状態にある英国植民地、同様に本国から孤立した蘭印を狙い、米国と直接対決しない構想を練る。結局、英米分割策は不可の結論に達し、それならば米国の準備が整わないうちに短期決戦で南方を抑え、その上で対米決戦に臨む案である(対米戦は長期戦になると予測)。この観点から近衛第三次内閣が進める日米諒解案(和平交渉)は米に軍事力増強の時間を与えるだけと反対する。独ソ戦、石油禁輸に次ぐ誤算は、開戦後に起こる。真珠湾攻撃に成功した海軍は、それまで陸軍に引きずられていた戦略を転換、積極攻勢を主張し米豪分断策を進める。そこで起こったのがガダルカナル戦。田中はこれに消極的だったが大勢は覆せない。この戦線の実行部隊は南方総軍麾下の第17軍、情報収集・分析が「不完全、デタラメ」のため、逐次投入の愚を犯す。これはならじと田中は大軍投入を図ろうとするが船舶割り当てが意のままにならない。そこで東條首相・陸相に「馬鹿野郎」とやってしまい更迭、南方総軍ビルマ方面軍参謀長を務め、1945年本土防衛のため呼び戻される途上飛行機事故で重傷、シンガポールで療養中終戦となる。終戦後極東裁判に参考人として呼ばれているものの戦犯指定はされていない。
作戦部長を務めるほどの人物、日米の総戦力格差は十分承知している。それでも死中に活を求める思いで苦渋の決断をする、その思考過程がよく理解できた。戦後、国際関係では米国のポチで良かった国家指導者達、第二期トランプ政権下、激動し始めたこれからの時代、不幸な結果に終わったとは言え、田中に比す考え抜く知力を持つ人物がいるのだろうか、そんな不安が去来した内容であった。
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