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2018年9月8日土曜日

ドイツ周遊3000km-29



-バス、鉄道、船、乗り物三昧の9日間-

23.旅を振り返る(最終回)
528日(月)JL408便は予定通りフランクフルト空港を発ち翌29日(火)成田に到着した。ここでツアーは流れ解散、10日間のドイツ周遊旅行は終わった。じっくり見ておきたいと思っていた国の最後、海外旅行も何か大きな山を越した感がある。しかし一方で「本当にこの国の一端を知ったのだろうか?」と自問してみると、満たされぬものが多々浮かんでくる。個人的な関心事であった、ドイツ人の日常、第2次世界大戦や冷戦の名残り、科学技術の歴史と現状に、辛うじて表面だけ触れたに過ぎないとの思いが残る。ツアーに参加すると決めた段階で分かっていたこととは言え、期待と現実のギャップは大きい。それでも思わぬ収穫もあった。北部14を除きほぼ全土を駆け巡ることに因り、その国土を、主に地理的な角度から知り、「こういう地形なら」と大陸軍国たる必然性が、強力な装甲軍誕生も含めて理解できた。以下この国土の特徴から始めて、旅を振り返ってみる。

1)緑一面の草原・丘陵
英国やフランスも同様だが、日本から訪れると地形の穏やかさと緑一面の畑地や牧場の美しい遠景に圧倒される。しかし、この景色に慣れてくるとバスの運転手がいみじくも言ったように「アウトバーン走行は退屈なので下道を行きます」となる。ラインやドナウには急峻な岩場もあるが高さや大きさは驚くほどではない。スイス国境に近い新白鳥城辺りは確かに峩々たる山が迫ってくるが、極めて例外的だ。バスや列車に乗っていてトンネルをくぐることは先ずない。深い谷に架かる橋梁も記憶にない。地形がまったく日本と違う。山陽地下新幹線などと揶揄される、我が国交通インフラ建設コストとは大違いだろう。
2)領邦国家の歴史をとどめる都市
普仏戦争後統一されるまで、ドイツは多数の小領主国家に分かれていた。支配構造上位にはフランスやオーストリアが在ったから、一つにまとまりにくかった。それもあって地方に特色のある城塞都市が多く残っている。今では城壁の外まで広がっているものの、何か規制でもあるのだろう、(我が国のように)無秩序なスプロール現象は起きていない。中心部は古いものがよく保存されているが、ローテンブルクで泊ったホテルから類推すると、当然のことだが内部は近代化されている。
3)爆撃からの復元
ドレスデンはハンブルクと並んで空爆により壊滅的な破壊を被った。ベルリン、ニュルンベルクも同様だが、そこからの復元は容易なことではなかったと推察できる。破片の一辺まで回収して戦前の姿に戻した執念とエネルギーにはただただ感心させられた。
4)ホテル
今回のツアーで大都市の中心部に泊まったのはベルリンのみ。フランクフルト、ミュンヘンは郊外、あとはノイキルヘンの古城ホテルとローテンブルクの古い小ホテル。ベルリンは完全な大都市近代ホテルだが、後は比較的質素な中小ホテル。いずれにも共通するのは、客室内部は古さを感じさせないし、セキュリティや清潔感にも不満はなかった。ただいずれも、アメニティは最小限、環境負荷軽減に努めている。
ホテルに対する不満はツアー企画にある。大都市の中心部を明らかに避けている。コストなのか安全策なのか不明だが、自由時間に街に出られれば、少しはドイツ人の日常に触れられるのだが、それがまったく不可だった。
5)食事(朝食を除く)
機中食・車中食を除きランチ8回、ディナー7回を摂っているが、魚は2回(ヒラメ、鱈)、鶏が2回、あとは豚が大部分。ソーセージ、ザワークラウト、ジャガイモが記憶に残り、塩っ辛い味が今でも思い出すと口の中に滲み出てくる。美味しかったのは、自由行動で食したローテンブルクのイタリアンとハイデルベルクの白アスパラガスとシュニッツェル。北ヨーロッパ(英国を含む)の食べ物は今一つ好みではない。ただし、白ワイン、ビールは満足。
6)建築と芸術
数多くの教会、城塞を観たがやはりケルンの大聖堂には圧倒された。これが戦禍の中から再建されたのも凄い。もう一つ印象に残ったのはヴィース教会、カソリックには珍しく質素で明るい造りや内装が好ましかった。ゆっくり建築を楽しみたかったのはベルリン。特に統一後の新しい建造物が面白そうだが、バスで通り過ぎるだけで終わってしまった。
美術館は2ヵ所(ベルリン、ドレスデン)訪れたが、いずれもあまり宗教色が強くないのが良い。ベルリンでは音楽会にも出かけた。小規模な演奏会、聴衆はほとんど地元の人でこれも彼らの日常の一端に触れると言う意味で悪くなかった。
7)乗り物
3000kmのうち23はバス、残りは鉄道と船となる。四通八達するアウトバーンは見事なものだ。運転マナーも総じて良い。この交通インフラが自動車産業の基盤を支えているに違いない。乗用車はセダンが中心、ワゴンや軽自動車の我が国とは大違い。
ICEは日本の新幹線に相当するが、在来線部分も多くスピードはそれほどでもない。車両の造りも新幹線の方が良くできている(座席固定、トイレ洗面など)。ただ3列シートはないから、これだけはICEの方が快適だ。
8)科学技術
何と言っても心残りはミュンヘンのドイツ博物館(科学技術博物館)を見ることが出来なかったことだ。前日まで一時離団するかどうか迷ったが結局新白鳥城とヴィース教会を選んだ。ミュンヘンの町中に宿泊していたら見学時間を捻出出来たのではなかろうか。
最後に些細なトラブル(一応技術上の問題ととらえ)を報告しよう。最後に日ハイデルベルクの土産物店で自分用にヘンケルの爪切りを求めた。爪を切る部分が360°回転可能で、手の位置を変えずにどんな角度でも爪を切れるようになっている。最近握力が落ちてきていることもあり、足の爪を切るにもってこいだ。価格は12€、やや高いが驚くほどではない。ヘンケルだしアイデアにも惹かれて求めた。しかし、帰国後10回も使わないうちに、プラスティックの柄の部分が、バンと言う音ともに破断してしまった。「ドイツ一流メーカの製品もこんなものか!」と技術水準の低さを体験させられた(ヘンケルジャパンのHPには、包丁などの製品紹介と関連する料理教室の案内などはあるが、顧客サービスの窓口のようなものは無かった)。

と言うようなわけで、観光スポットを幅広く見学すると言う点では、天候にも恵まれ、まずまずの旅行だったが、何か隔靴掻痒の感が残る旅だった。加えて、デジカメが途中で壊れたのも痛恨事。最悪だったのが参加人数、31名は如何にも多い。これからはキャンセル料が発生する直前に人数を確認、20名を超すようだったら止めにしようと思う。

長い間本連載をご覧いただき、大変ありがとうございました。

写真は上から;ライン河下り、ケルン大聖堂、壊れた爪切り
(写真はクリックすると拡大します)

-完-

(メールIDhmadono@nifty.com

2018年9月5日水曜日

ドイツ周遊3000km-28



-バス、鉄道、船、乗り物三昧の9日間-

22.ハイデルベルク
 
40歳代半ばころ芦屋大学で開かれたOR学会の年会に参加した。懇親会には兵庫県副知事が参加、挨拶の後適度に飲んで興奮したのか、急にドイツ語で歌を唄い出した。ひと回り以上年長の人から「アルト・ハイデルベルク」と言う戯曲の一シーンで歌われるもので、旧制高校辺りでよく唄われていたと聞かされた。“古きハイデルベルク”、小領主国の王子と酒場の娘の恋物語がテーマであることもその時知った。王子はハイデルベルク大学の学生だったのだ。爾来ハイデルベルクは大学とともに私の記憶の中にある。
調べてみると凄い大学だ。正式名は“ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク”創設は1386年、ドイツ最古の大学、50人を超すノーベル賞受賞者がおり、教授陣にはヘーゲルやマックス・ウェーバーが名を連ねている。当然だが現在はドイツのエリート大学の一つ。そして“アルト・ハイデルベルク”とは大学の在った“旧市街(アルトシュタット)”を意味するのだ。
アウトバーンを下りたバスはこの町の北側から先ず新市街に入り、ネッカー川を渡って、南の丘陵地帯に上っていく。最初の訪問地はそこにあるハイデルベルク城だ。13~14世紀ころの建設と言われるが正確な記録は残っていない、1689年プファルツ継承戦争の際ルイ14世に破壊され、今は一部だけが修復されているにすぎないから城址と言うのが正しいだろう。残っているのは地下の醸造所(大樽館)と城内教会くらい。場所は見晴らしの良い所に在る。北斜面で旧市街、ネッカー川、その先にある新市街(多分建設当時は畑かなんかだっただろう)が一望に出来る。
ここの後はロープウェイで旧市街に下る。ハイデルベルクは戦前米国からの留学生や研究者が大勢来ており、空襲を受けていない。それだけに古い街がそのまま残っている。大学(今は郊外へも広がっている)は町の中心部に在るのだが、日本や米国の大学と違い、はっきりキャンパスとして識別できない。そこいら辺に在る石造りの大きな建物に分散しているのだ。有名な学生牢(校則を破った者が閉じ込められる)など、商店街のような所に入口が在った(今は観光コースの一部)。大学広場に昔からある獅子の噴水の写真など撮るが、どう撮っても我々のイメージする大学にはならない。
次いでどこの主要都市にも在るマルクト広場に出て、聖霊教会を外から見学、その南側を東西に貫通するハウプトシュトラッセ(本通り)を散策し、その一画に在る日本人経営のお土産店“ユニコーン”で解散。昼食は各人で摂り2時半再びここへ集合となる。解散直後この店の日本人店員に「白アスパラガス(シュパーゲル)を食べられる店を教えて」と問うと「通りを西へ進むと“シュバン(スワン)”と言うレストランが在り、そこで食べられます」との答え。店は直ぐ見つかり、テラス席と室内席があったので、暑い陽射しをさけて店内に入りメニューを見るとドイツ語版!英語版を頼んで、やっと何があるかわかる。シュパーゲルのサラダとパンとカマンベールチーズ付きシュニッツェル(カツレツ)、それに生ビールを注文。あちこちで食べてきた豚肉料理だが、日本人にはトンカツと変わらないシュニッツェルは口に合う。大きな白アアスパラガスや珍しくカツレツに付いてきたドイツパンでランチを堪能した。これに食後のコーヒーを入れて二人で44€は納得できる値段だ。先に出ていく中年のドイツ人カップルの男の方が「コニチワ」と言ったので「グーテンターク」と返した。
“ユニコーン”で最後の土産物を探す。私はヘンケルの爪切りを買ったのだが・・・(総括で報告)。あとはこの町のランドマークとも言える“アルテ・ブリュッケ(Alte BruckeOld Bridge、正式名;カール・テオドール橋)で写真撮影などして、340分この地を発ってフランクフルト空港へ向かった。

写真は上から;城址から見た町、大学広場、獅子の噴水、聖霊教会、レストランから、城址遠景

(写真はクリックすると拡大します)

(次回;総括;最終回)

(メールIDhmadono@nifty.com

2018年9月2日日曜日

ドイツ周遊3000km-27



-バス、鉄道、船、乗り物三昧の9日間-

21.シュパイヤー大聖堂
 528日(月)、いよいよツアーの最終日だ。今朝も空は気持ちよく晴れ渡っている。今日の予定は、ドイツ2番目の世界遺産であるシュパイヤー大聖堂(Speyer Dom )を観たあと、学都ハイデルベルクを観光してフランクフルト空港に向かう。
8時にホテルを発ったバスは、一旦A7号線を南下、しばらくすると西へ向かうA6号線に乗り換える。今日は月曜日、日曜日走行禁止のトラックが動き出し、右車線は列車のように連なっている。交通量が多いこともあるのだろう、路面がかなり荒れており、盛んに補修工事が行われ、場所によっては完全に片側(上り、下りの一方)を通行禁止にして、もう一方の側を応急的に上下共用(仮設分離帯はあるが)にしているところもある。それもあって所々で渋滞が起こる。そんな時、工事用の建設機械を見ていると欧州メーカーやキャタピラ社に交じり、KOMATSUが健闘しているのを見かけ、チョッと嬉しくなる。景色は相変わらずなだらかに起伏する緑野、所によってそこに何基もの風力発電機が並んでいる。ライン河の上流に架かる橋を渡ると、もうそこはシュパイヤーの町、インターチェンジを降りたところに各種飛行機が展示された博物館らしきものが在り、1040分大聖堂用の駐車場に到着。
町は2000年前ローマ人によって築かれた長い歴史を持ち、聖堂は11世紀神聖ローマ帝国皇帝コンラード2世によって建立され、本人を含め一族の墓所となっている。世界遺産登録の理由は単に古いだけではなく、ロマネスク建築様式(丸天井;それまでは平天井、アーチの多用、小さい窓、特殊な柱頭)の教会として世界最大であることに因る。確かに、正面のファサードはそれほど大きさを感じないが、奥行きが深く(134m)、天井も高い。外部は赤い砂岩、内部は奥の祭壇の下にかなりの広さの地下霊廟があり、そこに皇帝・皇后などの石棺が半分埋め込まれたような状態でいくつも置かれており、寄進の花束やローソクなどが棺前に供えられている。ここだけは入場料を払って観ることになる(確か3€)。カソリックにもかかわらず、内外装とも全体に華美な感じがせず、すっきりした佇まいで、個人的には好感を持った。https://www.travel.co.jp/guide/article/32165/
1120分、ここの見学をおわり来た道を東に戻り、最後の観光スポット、大学都市ハイデルベルクに向かう。

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(次回;ハイデルベルク)
(メールIDhmadono@nifty.com

2018年8月25日土曜日

ドイツ周遊3000km-26



-バス、鉄道、船、乗り物三昧の9日間-

20.ローテンブルク
 
昼食後ネルトリンゲンを出発したのは2時少し前。次の目的地は、これも古い城郭都市ローテンブルク(オプ・デア・タウバー;タウバー川上の)、今日はここでドイツ最後の宿泊となる。バスはアウトバーン25号線を北上、周辺は相も変らぬ緑野。強い太陽が照りつける真夏のような陽気と満腹感で睡魔が襲ってくる。家人は早々に居眠りを始め、目を覚ましたのは30分後。寝ぼけまなこを外に向け「さっきと何も変わらない」とつぶやく。これがドイツなのだ!
ローテンブルクはロマンチック街道北端にあり「生きている中世都市」とも言われ、ドイツ観光の目玉の一つである。出自は(神聖ローマ)帝国自由都市、ナポレオン戦争後その資格を奪われるが、商工業中心の自治都市としての歴史を色濃く残すところである。つまり城や王宮などは存在せず(一時期領主が居たようだが、それは廃墟となり、石材は市民に持ち去られた)、マルクト広場を囲むラートハウス(市参事会堂)や宴会場、教会などが代表的な建造物である。しかし、王や領主が居ないからと言って、守りが不要と言うことではない。町の発展に伴い、城壁を何度が拡大しそれが外敵を防ぎ、往時を偲ぶ景観を保つ役割を果たしてきたのだ。ただ第2次世界大戦末期(331日)、ここも空爆(誤爆)を受け城壁・望楼の一部や家屋が破壊されたが、比較的新しい時代のもので、記念碑的なものは残り、損傷した部分もその後忠実に復元されている。
バスは北東側に在る城門の一つをくぐって狭い石畳の道を下って行き、こじんまりしたホテル(Altes Brauhaus;古い醸造所)の前で停車。到着時刻は320分、チェックインをして350分から街歩き観光に入る。城壁(つまり街)は、長い鼻を左(西)に向けた天狗のような形。こめかみの辺りが中心部になる。最初に訪れたのは、前首の位置に当たるプレーンラインと言う中世の木骨組みの家が在る小広場。どうやらここは写真撮影必須の場所らしく、各国観光客が溢れかえっている。アジア系が多い。次いでマルクト広場、聖ヤコブ教会と廻り、そこから突き出した鼻を含むブルク公園に至る。遥か下方には鼻を包むように湾曲して流れるタウバー川が望める。町の正式名称はここから来ており、本来は川向うまで渡り城壁を見上げる景観が、その名前を示していることになる。団体行動解散後、それを試みるグループもいたが、上りを考えると、この暑さの下、とてもその気にはならなかった。
鼻の先からマルクト広場へ戻る道はヘルンガッセ(旦那通り)、大商人たちの店や住まいが両側に並んでいたことからその名が付いた。今はホテルやブランドショップなどに置き換わっている。450分頃マルクト広場で解散、あとは明日の朝チェックアウトまで自由行動となる。夕食もめいめいで摂るのだ。5時には広場北に面する市参事会宴会場の上部時計の左右から、この町の歴史的人物を模した人形が現れると言うので、しばしそれを待つ。残念ながらかなり遠く、望遠機能が低いガラ携のカメラでは撮影しても意味がない。
これが最後の長い自由時間、お土産のことを考えなければならない。私の関係は早々と白ワインを手配済み。上の孫(男11歳)には昨日新白鳥城の売店で500ピースのジグソーパズルを買ってある。
あとは下の孫(女7歳)が残っている。そこで添乗員のFSMさんから聞いてあった広場の隅に在るドイツ製品のぬいぐるみを扱っている“テディズローテンブルク”に出かけてみた。大小さまざまな熊を中心に動物のぬいぐるみが2階までいっぱい。目をつぶったベージュの可愛い熊を一頭求めた。
夕食は7時頃を想定し、それまで街中の観光に当てることにした。先ず出かけたのがレーダー門、丁度天狗の後頭部にあたる。先ほど広場に来るとき通ったヘルンガッセは広場から東は細くなりハーフェンガッセ(陶器通り)と名を変える。その突き当りにレーダー門があり、そこから城壁に上れるはずだ。しばし進むと立派な門に達したのだが、壁が無い!近くにいた若い女性に尋ねたところ、ここは拡張以前城壁が在った時代のマルクス門、レーダー門はさらに先とのこと。レーダー門には確り壁と登り口があった。そこから時計方向にしばし歩く。内側には木骨組み家並が続き、外側は堀があり、壁に沿って遊歩道が設けられている。次の門で下に下り、その遊歩道をレーダー門に向かって歩いてみる。壁で西日が遮られ、木立もあって涼しい。壁際にはところどころベンチが置かれ、散歩と休憩には絶好だ。レーダー門から広場を経由して6時少し前一旦ホテルに戻る。
ツアーのプログラムを貰った時からこの日の夕食は各自で摂るよう記されていた。多分ドイツ料理の連続だろうから、この日は非ドイツ出来ればイタリアンと考えていたのでフロントのおばさんに相談したところ、地図付きのレストラン一覧をくれて“ミケランジェロ”と言う店を推奨してくれた。「カジュアルか?」と聞くと「もちろん!予約も不要よ」と返ってきた。6時半ホテルを出て地図を頼りに、そこに達すると、何とレーダー門のすぐ脇だった。城壁巡りの帰途「ここにイタリアンが在る」と家人が言っていた所だ。店内には若い女性仲間や米国人と思しき家族旅行グループも居て入りやすい雰囲気、ウェーターはイタリア人らしかった。英語のメニューはあったが、さすがに日本語は無かった。カラマリ(いか)を中心としたシーフードサラダ、マルゲリータを一つずつ注文、地元特産のフランケンワイン(白)を飲みたいと言ったところ「ボトルですよ」とのこと。やむなくイタリアワインで我慢することにした。ドイツのパスタはチョッとゆで過ぎとの評判もあったのでピッツァにしたが多分正解だっただろう。海鮮サラダも含めて久しぶりに美味しい夕食にありついた。これに食後のコーヒーを含めて33€。おばさんの適切なアドヴァイスに感謝。
外はまだ明るい。再び広場へ出て南に下ってプレーンラインを経由、ジーバーをくぐり、そこから城壁にとっつきしばらく夕暮れの中の城壁巡りをし、8時過ぎホテルに戻った。

写真は上から、ローテンブルク地図、プレーンライン、広場に面した宴会場、ブルク公園から見た町、レーダー門、木骨組みの家、ホテル、ジーバー搭

(写真はクリックすると拡大します)

(次回;シュパイヤー大聖堂)(メールIDhmadono@nifty.com
  

2018年8月20日月曜日

ドイツ周遊3000km-25



-バス、鉄道、船、乗り物三昧の9日間-

19.ネルトリンゲン
 
527日(日」晴。今回の旅行は天候に恵まれ、移動中や夜間の一時的な雨はあったものの晴天が続く。やや問題なのは現地でも“夏来たる”と報じられるような日中の暑さである。早朝霧が出ていたが出発時9時にはそれも消えて青空が顔を出す。今日の行程は、ロマンチック街道に沿う形でミュンヘンから北西に向かい、街道を少し西に外れたネルトリンゲンに寄り、そこから北上してローテンブルクまで行く。いずれも古い城郭都市である。
バスは昨日同様、一旦アウトバーンA92 をミュンヘン中心部に向かい環状道路に達してそこを反時計方向に廻る。しかし前日とは異なり、9時(90度)の位置までは行かず、10時半くらい(45度)の所でA8に入って北西に進路を変える。ここに至る途中道路標識上に“Dachau(ダッハウ)”の文字を目にする。最も古いユダヤ人強制収容所があった所だ(当初はむしろドイツ政治犯を収容)。ここを有名にしたのは無論ユダヤ人大量虐殺にあるのだが19454月末解放した米軍が、降伏したSS隊員を虐殺した事件(数十人から500人まで諸説あり)がむしろ欧米ではよく知られている。しかし、例によって緑の中に点在する集落に、そんな気配は全く感じられない。バイエルン州第三の都市アウグスブルクの町を遥か南方に望みながら、そこでバスは北上する国道17号線(これもアウトバーン)に乗り換える。ロマンチック街道の北部分である。今日は日曜日、トラック走行禁止の日だから道は空いている。左側の追い越し車線を時々乗用車が物凄い速さで我々を追い越していく。速度無制限区間か?
10時半頃“Donauworth(ドナウヴェルト)”の町でドナウ川を渡る。アウトバーン上で滅多にお目にかからぬ橋だが、極めて短くアッと言う間に通過していく。このあとこれも珍しく小高い丘に穿たれたトンネルを通り抜けるとバスは西に向かう一般道に下り、やがて前方に緩やかに盛り上がる丘陵地帯を後ろにした、城門と城壁が見えてくる。何度もの戦乱(特に30年戦争;プロテスタント対カソリック;17世紀)で戦禍に遭いながら、ローマ期からの歴史もとどめるネルトリンゲンである。第2次世界大戦末期にも一度空爆に遭い、町の象徴とも言える聖ゲオルグ教会も損傷は受けたものの、歴史的な遺構はほとんど破壊を免れ、復元でないところにこの町の価値があるようだ。もう一つ他の観光スポットと異なるのはこの一帯が1500万年前の隕石落下で出来上がった土地だと言うことである。無論現在外から分かるようなものではないが町を支える岩盤はその隕石なのだ。
城郭内にはバスは入れないので16在る城門の一つベルディンガー門の前で下車。暑い日差しの中を聖ゲオルグ教会に向けて歩き出す。通りの左右には木骨をむき出しにした中世風の建物がそこかしこに在る。教会の前はマルクト(MarktMarket;市場)広場。日曜とあって露店が沢山軒を連ね、ぼつぼつ人も集まってきている。グループ観光はこの聖ゲオルグ教会の内部見学まで。プロテスタントの教会らしく白を基調とした清楚な感じが好ましい(http://www.uchiyama.info/kaigai/tiku/ousyu/germany/nelt/georg)。高さ90mの塔(ダニエル)が付設されており、ここへ上れば城郭で囲まれウズラの卵型をした旧市街が一望できると言われたが登ってみる気力は無かった。
教会前で解散したのが11時過ぎ。これから1215分まで自由行動になる。先ず、にぎわいだした市をひやかす。帽子の嫌いな家人も連日の暑さに堪らず露店でそれを求める。20€は明らかに観光価格だが、これも旅の思い出。今度は入り組んだ道を城壁に向かい、その一端に取つく。高さは10m位、幅は人がやっと行き交うことが出来る程度。何故か矢狭間がセメントで塞がれているところが多い。外へ廻って分かったことだが、堀が埋められ、城壁の一部を利用して家が建てられているのだ。全周は3kmあるので一部しか歩けなかったが、復元でない城郭ツアーをそれなりに楽しんだ。
教会前の集合場所に集まるまでには少し余裕があったので、途中の小広場の一角にいくつもパラソルを張ったオープンカフェがあったのでしばし休憩。あとは道は分からなくてもどこからでも見えるダニエルを目指せばいいのだ。
昼食は城郭外のANA(全日空とは関係ない)と言う店で、ロールキャベツ。キャベツも固いが中に詰められたひき肉の固め方が半端じゃない。それでも何とか全部片付けたが、細やかさを欠くドイツ料理の典型だった。まあ、暑い中をほっつき歩いたあとの大ジョッキさえあれば良しとしよう。

写真上から;城内1、城内2、教会と広場、城門遠望、城壁、家並

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(次回;ローテンブルク)(メールIDhmadono@nifty.com