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2016年1月26日火曜日

四国山越え海越えドライブ-15

14.旅を終えて(最終回)
今のクルマを持って、2008年来始めた長距離ドライブで一日の走行距離が600kmを超えたのは3回、今回の往復と2013年の美濃・若狭・丹後ドライブで城崎から自宅への帰路だけである。城崎からの道は自動車専用道路に取りつくまでにかなり一般道を走ったが、今度は往復ともそれは長くて10km程度。この違いは大きく、運転の面白味は減ずるものの、それほど疲れは感じられなかった。残る山陰地方・九州遠征も観光地へたどり着くまで専用道を行けば(途中岡山県中央部辺りで1泊して)、「何とかこなせそうだ」そんな自信さえ生まれてきた。
四国内での走行距離は900km程度、これに3日使ったから一日平均300kmと言うことになる。距離的にはたいした長さではないし、道も半世紀前に比べれば比較にならぬほどよく整備されているので、四国カルストへの山岳ドライブを除けば、移動に難渋することはなかったが、時間的な制約で観光がミニマムに抑えられてしまったことは否めない。道後温泉と一体化した松山はともかく、高知・高松など地方の都会を知るには、最低もう一泊島内でしたかった。
今回最大の問題は天候であった。三日目(足摺岬→竜串・見残し→四国カルスト→道後)、四日目(道後→しまなみ海道→金毘羅宮)が雨に祟られ、全く期待に反した結果に終わってしまったことである。中でもアプローチに時間のかかる四国カルストは雨と霧にゴール(天狗高原)接近を阻まれ、途中で断念しなければならなくなったのは残念でならない。しまなみ海道の方は空路とレンタカーで楽しむ可能性無きにしも非ずだが、カルスト地帯に再チャレンジする機会は無いだろう。
自家用車での遠距離旅行は、自由度が大きいことの他、高速代・ガソリン代はかかるものの、二人分の航空運賃や観光バス・タクシー代と比べれば相当経済的だ。それもあって今回宿泊先は少し贅沢することにした。四万十の宿は並クラスであったが、それ以外の3ヵ所はどれも特色があり、期待以上のサービスや景観を楽しむことが出来た。
最初に泊まった鳴門の“ホテルリッジ”は付近全体を大塚グループがリゾートとして整備しているので、隣接する他の観光施設は全くない。また各室がロッジのように独立しているので朝晩とも静けさの中で過ごすことが出来た。料理は極力地場の食材を使った創作和風料理、これが凝った戦前の昭和を残す別棟の食堂で静かに供される。非日常の極みがそこにあった。三日目は道後温泉の“朧月夜”。鳴門と異なり温泉地のど真ん中に在る。建物は和洋折衷だがよくバランスがとれているのが上品だ。それに周辺の高層ホテルに囲まれているにも関わらず地形を活かして上手く隔離されたように出来ているのもよく考えられた設計だ。これは外観ばかりではなく、各客室にも言えることで、この旅館の最大の評価ポイントである。夕食は典型的な懐石料理だが、質・量ともに満足した。極めつけは部屋に備わった露天風呂、広さも充分で温泉を堪能した。チョッと残念だったのは時間的なゆとりがなく、由緒ある“道後温泉本館”で湯に浸かることが出来なかったことである。最終日は“オーベルジュ・ドゥ・オオイシ”、予約段階では若いカップルや女性が好む“小洒落た”プチホテルを予想して「場違いかな?」との不安を持たないわけではなかった。しかし、うれしいことに懸念は外れ、完全に大人の休息の場であった。ここも建物、特に部屋が良い。天井の高い広々とした空間と前に広がる海と島は、これも非日常を求める旅にピッタリである。レストラン先行で始まった歴史が示すように、ここでのディナーは雰囲気満点だったが、珍しさが先立って選んだ鹿肉のステーキはそれなりの味わいではあったものの、牛か魚の方が無難だったような気もする。
今回のドライブで宿泊先選択は大正解、3館いずれとももう一度この地を訪れる機会を持てたらまた泊まりたい所ばかりであった。ポイントは“部屋の少なさ”にある。結果として単価は高くなるが“非日常こそ旅の真髄”とすれば、対価としてリーズナブルと思えた(人によって様々な“非日常観”があるが・・・)。

総走行距離;2,225km、ガソリン消費量;207.93ℓ、燃費;10.7km/ℓ。帰路東名の集中工事による渋滞を考慮すれば、愛車のエンジン性能は些かも低下していない。

たった45日の旅を2ヶ月もかけて書くことになりました。長いこと閲覧いただき感謝いたします。いまだ計画段階ですが、なかば単独行の超長距離ドライブ決行を考えています。ご期待ください。


-完-

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2016年1月20日水曜日

四国山越え海越えドライブ-14


13.オーベルジュの朝と屋島
1119日(木)6時半頃起床、寝室から浜に面するリビングへ出て、広大なガラス窓を覆うカーテンを引くと、海も島々もキラキラと輝いている。二日目の鳴門以来の晴天の朝だ。備え付けのサンダルで芝庭に出て、そこから駐車場と砂浜へつながる低い小門を通って水際まで行ってみる。さざ波が漂う穏やかな水面、夏ならば朝食前にひと泳ぎしたくなるような場所だが、晩秋の朝は気候温暖な四国と言えどもひんやりする。部屋へ戻って浴槽とは独立したシャワールームで熱い湯を浴びて身体を温め、リビングのソファーに身を委ねてぼんやり海を見ていると、犬を散歩させる人が微かに寄せては返す波打ち際を歩いていく。まるで絵のようだ。
朝の食事は、このリビングで供される。温かく焼き上げられた幾種類かの自家製のパンとジャム、サラダ、ジュース、卵料理それに魔法瓶に詰められたコーヒー。それほど豪華ではないが、前の3泊の朝食がすべて和食であったから、広く天井の高い部屋の作りや前に広がる風景ともよくマッチするヨーロッパスタイルの食事が異国に居るような気分を醸し出す。
何日かこんな所で過ごせば、命の洗濯に効果絶大だろう。
9時にチェエクアウト、玄関前の衝立に何やら張り出してあり、手前の籠にパンがならべてある。よく見るとここで作っているパンの販売広告であった。なかなかの味であったから、それをお土産にすることを考えフロントに頼むと「ここにあるのは見本、出来上がりは10時からです」との答え。残念ながら願いはかなわなかった。
例の狭い道路を抜けて瀬戸内沿いの主要道国道11号線に出て、それを東に向かい5分も走ると屋島ドライブウェイへつながる交差点に達し、緩やかな上りをしばらく行くと料金所が現れる。ここから勾配がやや急になり、途中何カ所か海を見下ろす駐車展望スペースを経て4km先の大駐車場(海抜300m弱)まで一気に上る。大駐車場の西に四国遍路88ヵ所84番札所の屋島寺があるので、この駐車場は観光用ばかりでなく巡礼の人たちを運ぶバスの利用もあってとにかく広々している。ここから遊歩道の西端にある“獅子の霊厳”展望台までは屋島寺の境内を抜ける道を採って15分位。境内には本堂の他、宝物館があり、それを抜けると源平合戦供養碑や土産物屋、休憩・食事処などが並ぶ道に出るが、比較的早朝とあって、やっと店を開けたばかり、人通りも少なく静かなのが良い。“獅子の霊厳”で12世紀末源平の海戦が行われた瀬戸内海を見下ろし、往時を偲ぶ。
約半世紀前来たときにも感じたことなのだが、“島”と言いながら、実際は四国本土と陸続き、むしろ半島と言った方が適当と思える地形である。今回もその時の思いが甦った。「優れた水軍を持たなかった源氏が、何も半島の先から攻めなくても、本土に上陸すれば南側から屋島に篭る平家軍を征伐出来たのではないか?」そんな疑念があったので、出かける前にその点を調べてみた。分かったことは、やはり当時は島であったが、比較的遠浅で江戸時代には本土と島の間を塩田として開拓、それがさらに埋め立てられて本土と一体化されたと言うことだった。確かに国道11号線からのアプローチに橋が架かっていたことがその名残なのだ。
四国最後の観光はここで終わり。盲腸線のドライブウェイを戻り、11号線を東に志度へ向かい、10時半エッソ屋島SSで給油(28.92ℓ)して高松道志度ICから自動車道に入って、あとは鳴門・明石橋を渡り自宅近くの堀口能見台ICまでひたすら自動車専用道路を東進した。途中休憩・昼食・給油・夕食さらには東名で集中工事が行われていたため、21時を少し過ぎていたが、無事自宅に帰着した。最終日の走行距離685.2km1日としては自己最長であった。

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(次回;四国ドライブ総括;最終回)

2016年1月16日土曜日

四国山越え海越えドライブ-13


12.オーベルジュ・ドゥ・オオイシ
主要官庁の四国地方統括機関は概ね高松市に在る。行政上はここが四国の元締めと言っていいだろう。また嘗ては本四の鉄道連絡船もここを拠点にしていた。つまり高松は四国を代表する大都会である。初めて高松を訪れたのは1965年、丁度半世紀前である。この時はその前年入手した中古のコンテッサSを駆って寮の仲間2人と5月の連休を利用して山陰を廻った後、岡山県の鷲羽山付近の民宿に泊まり、宇野からフェリーで高松に上陸した。観光した所で記憶に残るのは栗林公園と屋島である。この2ヵ所を昼過ぎまで費やして、徳島から和歌山に向かうフェリーで帰和した。
2度目のドライブ訪問も19695月連休、これは本連載でも“この前の四国ドライブでは”と何度も登場している。この時は松山で一旦四国を離れ、山口県・島根県・広島県・岡山県と廻り下津井から丸亀に渡って、高松で一泊する予定だった。しかし、駅前の観光案内所では「どこも満室、唯一あるのはダブルベッドの部屋ひとつ」とのこと、男二人で一つのベッドはとても耐えられぬと、徳島港で車中泊した。
以上の様な経緯もあり、今回は高松泊を四国ドライブの仕上げにしようと計画した(11泊)。ただ街中のホテルでは、他の大都市と変わらぬと思い、周辺を含め特色のありそうな所をネットで探していたところ見つけたのが、屋島の“オーベルジュ・ドゥ・オオイシ”である。室数は僅か5、ツインの洋室。一方オーベルジュ(フランス語で旅籠の意だが食事処から宿泊も兼ねるようになった歴史を持つ)を名乗るように、フランス料理を供するレストランとしての評価が高かった。部屋の前には専用ビーチもあるようでのんびりできそうなのも良い。
金比羅さん観光の後高松道の善通寺ICに戻って東へ進む。四国の他の自動車道と違い片道2車線で走り易い。道が空いていたこともあり、高松中央ICまで1時間足らずで駆け抜ける。そこから高松駅・高松港へ向かう市内中心部を南北に貫く県道43号線を北上、国道11号線との交差点を右折して東にしばらく進んで屋島方面へ左折する。「もうゴールは近い」と思ったところで、急に道は狭まり両側はチマチマした民家が不揃いに並び、路面は荒れて、生活臭ふんぷん、行き交うクルマは少ないがすれ違いにはハラハラする。民家を抜けるとやっと左にちらっと海が見え、地中海地方で見られるような白壁の建物が緩い上り傾斜の道路の左右に現れる。丁度右側(山側)の建物から白い前掛けをした男が出てきたので「オオイシはここですか?」と問うと「そうです」と答えて、海側の駐車スペースへの入口を指示してくれる。目の前に高松港方面から瀬戸内海へ続く海と島々が一望できる。
料理人が声をかけたようで、黒いスーツとズボンで正装した女性が駐車場に現れ、玄関からフロントに案内してくれる。とは言っても玄関もフロント前のスペースも、大きな個人住宅ほどだ。しかしチェックイン手続きを終えて部屋へ案内されて驚いた。何と言う広さだ!リビングの天井の高さが凄い!海に向かってその前に広がる芝庭を隔てる一枚ガラスも見事だ!ここへ運び込むだけでも大変なほどの大きさ、特注品に違いない。部屋はツインのベッドルームとこの天井の高いリビングの二部屋だが、これだけの広々した空間は海外ホテルのスウィートルームでも、先ず経験ないほどだ(唯一ウクライナ・オデッサで泊まった、ホテル・モーツァルトの特別室を除いて)。バスルームも広く、浴槽とシャワーは無論別々、両者の間にビーチや中2階形式の専用テラスにつながる出入り口が別置されている。砂まみれの身体を洗うためだろう。
部屋の家具・備品・インテリアも、シンプルで上品な建物によく調和している。TVや電話は無く、フロントとの連絡は持参の携帯で行う。何気なく置かれた書物も風景写真集や旅、あるいは建築に関するもので、完全に日常から切り離される。
夕食は7時から。先ほどの女性が、道を隔てたレストラン棟へ案内してくれる。宿泊室5室とはアンバランスなほど広い。聞けば当初からオーベルジュを計画していたものの、レストランの方が早く開業(1997年;宿泊は2005年)、それだけでしばらくやってきた(専業の)歴史がこの広さに表れているらしい。この夜のディナーは我々も含め3組だったが、シーズンや時間帯によっては満席もあるようで、家内がレストランフロントの電話のやり取りを耳にして、そんな話をしてくれた。つまりここは高松の奥座敷なのだ。その隠れ家での料理として鹿肉のステーキを選び、赤ワインで堪能した。

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(次回;オーベルジュの朝と屋島)

2016年1月12日火曜日

四国山越え海越えドライブ-12


11.金比羅さん
江戸時代いたるところに宿場は在ったが、観光目的の旅は極めて限られていた。ある種の観光旅行は“XX参り”と言うような由緒ある神社仏閣訪問くらいである。江戸中期その中でナンバーワンは伊勢参り、次が金比羅参りだったようだ。不信心な私は和歌山工場時代2回もクルマで四国を巡っているが、88ヵ所を含め全くこの地の寺や神社をお参りしていない。初めての場所は先ほど訪れた大三島(愛媛県)の大山祇神社、次はこれから向かう金毘羅宮(通称金比羅さん)である。大山祇の神様には申し訳ないが、あそこはあくまでもしまなみ海道に惹かれた結果である。しかし金比羅さんは違った。
私の父方の祖父は明治期から内務省の役人であった。当時の役人は有力政治家による政治任命である。祖父は政友会に属し、郷里の兵庫県から出発、それ以外の地にもあちこち転勤している。父の出生地は宮城県、中学は徳島から途中で本籍地の兵庫県竜野に変わっている。その祖父が若い頃一時期過ごしたのが琴平で、この町の警察署長を務めている。こんな時代から門前町として栄えており、そこに寄食するその筋の人間も多かったようで、正義漢だった祖父は恨みを買い、顔面に刀傷を負ったことがあると父から聞かされていた。祖父は父が学生時代に亡くなっているから、私には何の想い出もないのだが、この話だけが私と祖父を結び付けてきた。それゆえ「金比羅参りは必須」で今回の旅程を組んだほどである。
遅い昼食を終え鴻ノ池PA2時出発、直ぐ瀬戸大橋に入る。この橋だけは本四架橋3本の内鉄道で何回か渡っているのだが、自動車道は初めてである。鉄道は下段、自動車は上段、他のルートとは違い、列車走行時にかかる荷重は大変なものだろう。橋梁工学叡智の塊に違いない。そんなことを考えている内に坂出JCTから高松道に入り、しばらく西進して、善通寺ICで今治ICから延々続いた自動車専用道を降りる。あとは割と簡単で国道319号→県道208号とつないで南下する。金刀比羅宮に近づくと一方通行など現れて迂回路を採らされるが、無事門前に近い中心部の駐車場に辿り着く。PAを発ってから僅か40分程度である。
例の階段(奥社まで1368段;本宮までは785段)への表参道をしばらく行くといよいよそれが始まる。気がかりは家内の足、普段ほとんど運動していないし、関節痛を和らげる薬を服用している。「行ける所まで行ってみよう。無理ならそこで下りよう」と上りはじめる。階段の両側には土産物屋が並び、人の往来も結構激しい。しかし、何故か下りの方が多いのだ。「時間のせいだろうか?」そんなことを思いながら休みやすみ歩を進める。鳥居が現れる。まだ113段だ。次は重要文化財の“灯明道”、168段。この辺りまでは商店が続くがそれも200段くらいまで。あとは高所に在る神社同様の静かな佇まいに変わっていく。一休みするにはこの方が落ちつけて良い。依然として人の行き来は下りが多い。中にははるかに我々よりも足腰のおぼつかない人まで居る。「上りはどうだんだろう?こんな人達まで行けるなら、我々は大丈夫だろう」
立派な門が見えてきた。大門、365段、ここからが神域である。振り返れば琴平の街が下に広がっている。大門を入ると少し広まった場所で、濡れた地べたに傘を立てて飴を売っている人たちがいる。“5人百姓”と称する特別に許された5家族とのこと。さらに進んで桜馬場、431段、ここは途中のどこよりも平坦で広々した空間だ。実際馬小屋があり何頭かの神馬が飼われている。ここで下りてきた若者のグループに「本宮までどの位上りますか?」と問うと、皆で顔を見合わせ「下ってきただけなので・・・」と答えがはっきりしない。「上らないで?」と聞くと黙って頷く。これで謎が解けた。どうやら観光バスで上まで上がれる道があるのだ!でも自家用車ではどうにもならない。
馬場広場で一休みしてさらに上る。旭社と呼ばれる立派な神殿に至る。ここで628段。登山姿の高齢者に本宮までの道を問うと「まだかなりありますよ」とのこと。小降りではあるが雨も降り出し、今夜の宿のチェックイン時刻も気になってくる、家内もかなり辛そうな雰囲気だったから、残すは150段程度だが、ここでお参りを済ますことにした。「お祖父さん、これで勘弁してください」

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(次回;屋島)

2016年1月8日金曜日

四国山越え海越えドライブ-11


10.しまなみ海道
1118日(水)、前日からの予報通りこの地方は雨だった。ただ朝食前の道後温泉本館見学を兼ねた街歩きでは、傘は要ったものの小雨だったから、「もしや」を期待した。
宿を発ったのは9時過ぎ。まず向かったのは近くに在るエッソ道後SS、これから今治まで走る国道317号線へつながる道路沿いにあるので至極都合がいい。給油量は36.7ℓ。ここで満タンにしておけば今日の最終目的地、屋島まで給油の必要はない。
松山からしまなみ海道取っ掛かりの今治ICまでは二つのルートがある。一つは菊間を経る海岸ルート、国道196号線だ。ここは太陽石油の菊間製油所への往復でよく使った。天気が良ければ、美しい瀬戸内の島々や呉方面が遠望できる、高低差のほとんどない平坦な道だ。最後に来たのは2002年だからもう10年以上経っているので沿道の景観も随分変わっているに違いない。懐かしさが残る道を辿ってみたい気もしたが、今回は未知の山岳ルート、317号線を走ると出発前から決めていた。
SSを出て直ぐにそれに乗ると市内は片道2車線だったが、奥道後への緩やかな上りになるころには1車線に絞られ、交通量も極端に減って山間に分け入っていく。時々軽自動車やトラックに追いつくが、難なく追い越しが出来るので運転は楽だ。山中に入ると道は曲折を繰り返し、雨中とはいえハンドルさばきを楽しめる。さらに良いことには高所はちらほら紅葉もしてきており、天候からくる重苦しい気分を癒してくれる。今治市内南端をかすめてしまなみ海道への導入路に入り、造船所を見下ろす高台にある来島SA9時半到着。ここで地図を貰い、観光情報を得る。
外に目を転じると、目の前の来島海峡第3大橋の先は雨で煙っている。晴天の島巡りを想定していた四国ドライブ最大の山場は前途遼遠の感だ。六つある島の半分くらいは降りて一巡することを目論んでいたが、予定を変更して海道最大の島、大三島のみ観光することにする。SAから走り出して気が付いたのは、SA前後はともかく、橋の幅は片道2車線有るのに、走路は一車線になっている。明石・鳴門ではこんなことはなかったし、この後渡ることになる瀬戸大橋も片道2車線だったから、本四連絡ルートの中では計画時から交通量が少ないと予想されたのだろう。走ってみてもこれでさほどイライラさせられることもない。
大三島ICで一旦降りて向かう先は大山祇(おおやまず)神社。日本建国の神、大山積大神(おおやまづみのおおかみ)を祀る神社である。国宝や重要文化財に満ちた博物館などがあるのだが、先を急ぐ旅、お参りだけしてIC付近にあった道の駅“多々羅しまなみ公園”に立ち寄る。ここでお土産など求めしばらく過ごすが、雨の上がる気配は無く、空は重く島は煙雨の中にぼんやりと影の様に黒ずんで見えるだけ。晴天ならば屋島への到着を少し遅らせても、島々に残る瀬戸内の歴史探訪(源平や水軍)をしたいところだが、先が読めそうなところまで、寄り道をせず一気に走ることにする。
しまなみ海道(西瀬戸内自動車道)は福山西ICで山陽自動車道に接続する。ここから東に向かい倉敷JCTに至り、そこから再び四国へ向かう瀬戸中央道へ道を採り、岡山側鴻ノ池SAに着いたところで休憩、もう四国は目の前、雨も上がってきてやっと気分も余裕が出てくる。昼食を含めて1時間近くここで過ごして、瀬戸大橋に向かう。

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(次回;金比羅さん)

2016年1月4日月曜日

四国山越え海越えドライブ-10


9.道後温泉
四国4県の県庁所在地で最も出かけているのは松山。徳島も数回しかないし、高松と高知は46年前のドライブで一度訪れただけ、今回高知はICから市街中心部は通らず桂浜直行、高松も屋島への通過点に過ぎない。一方で松山は菊間に製油所が在る太陽石油がお得意さんである他、新居浜が発祥の地である住友化学も大事な顧客、加えて帝人、大王製紙なども工場がありIBM主催のローカルな装置工業セミナーの講師なども務めたりしていたので、チョッと思い出せないほど来ている。そんな折市内や道後温泉を観光する機会もあったので、ある程度土地感も出来ていた。しかし、肝心の由緒ある道後温泉本館は外から見たことはあるものの、中へ入ったことはなかったから、出来ればそれも試みたいと思っていた。従って宿泊先選びも本館に近いことが必要条件である。こうして見つけたのが客室数19の純日本旅館、“朧月夜”である。
実はここを見つける前は、この地を訪れたことのある人が薦めてくれた、砥部焼を売り物(食器や花器ばかりでなく洗面や浴槽まで)にする“夢蔵浪六”と言う旅館を第一候補にしていた。その理由は本館の目の前に在ったからである。しかしよく調べると、それゆえか自館内に大浴場が無く、4階建てなのにエレベータは無いようだし、駐車場も事前予約が必要だった。また口コミによれば内部の造りが「凝り過ぎ」との批判があり、候補から外した。
朧月夜の予約には少し工夫が要った。予約検討時期は9月、予約2か月前。通常は楽天をよく使うのだが、ここを予約しようとすると10月分までしかできない(他の宿泊先はかなり先までできるのに)。そこで最近知ったreluxと言うサイトのメンバーになり、そこから当たってみたら11月の予約が可能になった。多分業者間の支払い条件が違うのだろう。部屋や食事はそれほど選択肢が無かったので1階庭付きのプランを選んだ。
道後温泉本館の北へ徒歩で23分上がった所にそれは在り、薄茶色の漆喰壁で囲われた駐車場はセキュリティが確保され、広さも充分ありとめやすい。自動車旅行ではこれも大事な評価点である。外からは2階建てに見えたが、中は3層構造、駐車場から直結する玄関・ロビーは実は2階、1階は一つ下の階になる。部屋は玄関と板の間(トイレ付き)・和室・和風ベッドの寝室・ソファーが置かれたリビング・二つの洗面台を備えたユーティリティコーナー・内湯と露天風呂、その先に庭が広がる。周辺のホテルは高層だが軒が長く出ているので、室内や露天風呂は外からは見えない。広さは充分、落ち着ける良い部屋だった。
食事は1階の個室で供される。夕食の内容は予約の際指定するようになっていたのでメインは伊予牛のしゃぶしゃぶを指定、料理は一部地場の食材が使われているようだが、典型的な懐石料理、味・量ともに満足した。予約情報にはアレルギーなどに関する問いもあったので「甲殻類の殻」と書いたところ、朝食の際これがキッチリ配慮されており、小エビの佃煮の様なものが私だけ別のものになっていいた。この辺りのきめ細かいサービスは大変ありがたい。
さて“湯”である。夕食の前に館内の大浴場で今日一日の難行苦行ドライブ行の疲れを癒し、それから夕食で生ビールを2杯も飲むと、近いとはいえ雨のそぼ降る道を温泉本館まで出かける気分にはなれず、結局その日は就寝。翌朝早く目が覚めたが依然小雨が降っている。今度は部屋備え付けの露天風呂で済ませ。朝食までの時間、宿の傘を借りて温泉本館の周辺を観光するにとどまった。旅館も気にいったしもう一度訪れ、今度は本館でゆっくり温泉に浸かりたい。こんな思いを残した道後温泉である。

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(次回;しまなみ海道)

2015年12月29日火曜日

四国山越え海越えドライブ-9


8.四国カルスト顛末記
この日のドライブ、否今回のドライブで最も運転環境が厳しく、それ故にチャレンジし甲斐のあるルートと想定したのが、四万十から道後へ至る四国山地縦断の道筋である。1000mを越す高原地帯を走る道はほとんどが三桁の国道・県道か林道、晴天でも難儀な行程である。
足摺岬観光を終えたのは9時半、先ほど一瞬陽の光を見たが発つときには空は重く暗くなり、土佐清水に下りて国道321号線に戻ると雨になってきた。あとから考えればそこからカルストを直接目指すべきだったが「ここまで来たんだから」と反対(西)方向に在る竜串・見残しに寄ることにした。海岸に沿う道は交通量が少なく10時には竜串観光用の広い駐車場を備えた足摺海洋館に着く。46年前の記憶ではここから徒歩でそれほどの距離ではなかったので傘をさして海岸へ出たがどうも景色が違う。昔は無かった大きなロボットのような建造物が遥か先の海中から立ち上がっている。近くの土産物屋で問うと「あれは海中展望塔、竜串は少し戻って市の観光案内所の駐車場からが近い」と教えてくれる。戻ってみると案内所は月曜日でクローズ。仕方なく案内板に従ってそれらしき方面に行き海岸までたどり着くが、記憶にある洗濯板状の岩場が広がっていない。しばし海岸を右往左往して分かってきたことは、大潮の関係で水面下に隠れてしまっていたのだ。
結局1時間近く無駄骨を折り、ここを出発したのは11時少し前。本来の予定では昼をカルストの大野ヶ原で摂ることにしていたから、ナビのセットをそこに定めルート探索させそれに従って走り出す。足摺の小半島はバイパスするものの四万十からの道を市内まで戻り、川を東側に渡り今度は川沿いの国道441号線を北上、江川崎からは予土線に並行する国道381号線に入る。降雨の上に狭隘で路面も荒れているので運転には細心の注意が必要だ。特に高知県と愛媛県の県境前後は厳しく、松野と言う町に入った時はホッとした。
この町がどう言う町なのか今でも定かではないのだが、わりと整ったつくりで“虹の公園”と名付けられた道の駅が見つかったので昼食を摂ることにする。時刻は1時前、手早くうどんで済ませ、出発は115分。出発前に大野ヶ原までの所要時間を聞くと「今日は天気が悪いから1時間半位見ておいた方がいいでしょう」とのこと。道後温泉のチェックイン時刻5時半は無理な感じがしてくる。
ここからは国道320号線(檮原街道)、さらにこれに続く国道197号線を北東に向かう。再び愛媛・高知の県境を越すとナビは狭い道へ左折を指示する。前に中型トラックが走っているが車幅と道幅がほとんど同じだ。このトラックも途中の小集落で止りあとは林道を単独行、道には枯れ葉が積りほとんど使われていないことを示している。対向車の恐れは少ないものの「こんな所でトラブったらどうしよう?」不安は募る。三度目の高知・愛媛県境を韮ヶ峠で越えやっと対向できるまともな道路、県道36号線に辿り着くことが出来た。
この道は県境に沿って東西に延びる高原道路、ここを東に向かって進むと数軒の人家が現れ土産物屋や公衆トイレなどが在る。一寸洒落た雰囲気のペンション“もみの木”に立ち寄り(3時少し前だったから、道の駅のアドヴァイスはかなり正確だった)道を確認すると「大野ヶ原はカルスト高原の西の端です。石灰岩が露出しているのは東の端の天狗高原ですが、この天気では高原を見渡すことは無理かもしれません」とのコメント。確かに雨雲が地表を這い、道はともかく視界はさらに悪くなってきている。それでももらった案内図を頼りに天狗高原を目指して走り出したのだが4度目の高知・愛媛県境、地芳峠(1080m)に達した時、道は狭まり、ヘッドライトを点灯しても先へ進むのが危険な状況になってきた。
ここで念願の四国カルストを諦め、国道440号線から33号線(土佐街道)に下り、久間高原の美川を経由して、(この日は不在の)友人宅が在る砥部の陶街道を抜けて道後温泉に向かった。この日の宿“朧月夜”到着は5時半、予定通りだがカルスト観光していたら大幅に遅れてしまっただろう。この日の走行距離;303km

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(次回;道後温泉)