ラベル ドライブ、美濃・若狭・丹波 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ドライブ、美濃・若狭・丹波 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年9月5日木曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-25(最終回)


20.グランド・ツーリング総括
たった34日のドライブ行を3ヶ月以上かけて書き連ねてきた報告もこれで終わる。
この間訪問地では数々の出来事があり、その都度、初めて訪れた土地々々が身近なものになってきた。8月半ばには、最初に泊まった郡上八幡で名物の郡上おどりが舞われ、「ア!あれは職人町の通りだ」と声を上げてしまう。7月下旬の福井地方の集中豪雨では越前大野がTVに登場「あの品のある町が大事にならぬよう」願うばかりであった。7月半ばには二泊目をした三方五湖の一つ水月湖がNHKで紹介される。2006年この湖の湖底の土が73メータ(7万年分)にわたり採取され、日英の学者による分析結果が、歴史の年縞の「標準時」に決まったのだ。厳密には縞状に堆積した土の中の放射性炭素(炭素14)の含有量を考古学や歴史学で年代推定の原器として使うのである。文中にも書いたように、あまり知られぬ湖だけに嬉しかった。
報告を読んだ閲覧者の皆さんからの訪問地に関する想い出コメントも楽しかった。神戸での癌の大手術のあと、しばらく城崎温泉で療養した友人は、コウノトリの想い出話を寄せてくれた。旅の楽しみの過半は計画作りにあると常々書いているが、このように後の楽しみも決し少なくない。
今回の旅では越前大野と城崎が特に印象深かった。越前大野は町全体が伝統保存と時代変化をほど良くバランスさせており、観光と日常生活が密着している感じが強く、「全ての日本の地方都市がこうだったらな~」と思わせるところがあった。
三泊目をした城崎温泉も自制の効いた良い町であった。とにかく温泉地にありがちな歓楽の雰囲気がないのが嬉しかった。だからと言って鄙びていたり、辛気臭いわけでもない。チョッと自宅からは遠いが今度は寒い時に鉄道で出かけてみたい。
食べ物は季節的にあまり適当な時期ではない。鮎は解禁になっていなかったし、蟹はシーズンが終わっていた。しかし、あまご、鯉、鮑などそれに代わる美味を味わえたのでそれほど不満はない。むしろサービスの仕方で差が出るのを密かに観察するのも楽しみのうちであった。その点で城崎温泉の西村屋本館はベストの評価が出来る。
さて、私の最大の関心は道である。今回山岳道路は郡上八幡から越前大野へ抜ける国道158号線(越前街道)のみ。美濃白鳥から旧道を走った部分は全くの独走、ヒルクライムの醍醐味を堪能した、つづく九頭竜湖に沿う道筋も、新緑が芽生え始め快適なドライブを楽しめた。このほかでは、短い距離だが三方五湖レインボーラインも明るい西日の中の運転と景観が期待通りで、変化のある二日目のドライブを好感触で締めくくることが出来た。
それに反し期待はずれは丹後半島周回で、部分的にはともかく、それほど面白い道ではなかった。特に、半島先端の経ヶ岬の先に小山があり、海を一望できない失望感は計り知れないほどだ。グーグルアースなどでもっとよく地形を調べるべきだったと反省しきりである。
城崎からの帰路640kmは現役時代も含め、外国を除けは(フェニックスからグランドキャニオン往復800kmを行った)、一日の最長走行距離であるが、城崎から40km位で自動車専用道に入れたので、道そのものの心配はなく、その点では苦労の少ないルートだった。さすがに疲労感は随所に及び、数日抜けなかった。この辺りが限界と悟った次第である。
総走行距離;1500km、総燃料消費量;132L、総合燃費;11.34km/Lであった。

長い間ご愛読いただき、有難うございました。

追記;家を出た日、しばらく後方でドーンと言う音がしていた(これより以前から出ていた)。しばらく走ると出なくなり、二日目以降は収まっていたが、帰宅後再発した。再現するタイミングが微妙なので、ポルシェにしばらく預けて調べてもらうことにした。分かったことは、エンジンへの空気取り込みダクトの固定部分にあった。ゴムのブッシュを挟んで車体に固定されているが、このゴムが経年劣化して、寒い時には硬く固まり、締め付け部が緩む。暖かかくなると柔らかさが戻るので、衝撃が起きない。ゴムブッシュの交換はせず、増し締めで現在はおとなしくなっている。

(写真はクリックすると拡大します)


-完-

2013年8月27日火曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-24


19.新名神を通る
中国道に合流すると車の流れは東名・名神同様トラック街道になる。3車線とも流れてはいいものの、前後左右ともびっしりつながっている。特に吹田JCTで名神に入ると集中工事が行われており、間隔が詰まってくる。運転の楽しみは全く味わえない。それは当初からの予想通りで、事故などで渋滞がないことを願うばかりである。
名神自動車道はわが国初の都市間長距離自動車道路、西宮・小牧間全通は1965年(昭和40年)7月である。和歌山工場に勤務する同年、初めて自分のクルマを持った。日野コンテッサSの中古車である。年末年始の帰省に、出来て半年のこの道を高槻から小牧まで走った。爾来何度か利用しているが、自分で運転して通ることは和歌山を離れた1969年以来やっておらず、今回は44年ぶり。記憶に残るのは天王山トンネル前後くらい、あとは大都市を抜ける幹線自動車道と何も変わらない。
ルート検討時唯一拘ったのは新名神を利用することであった。この道は2008年草津JCT(名神)・亀山JCT(東名阪)が全通した、幹線自動車道としてはかなり新しいものである。昨年春の吉野行きでは第一案としてナビはこの道をとることを推奨してきたが、結局通いなれた東名阪にしたこともあり、今回の帰路ではここを通るよう設定した。昼食も時間が適当ならこの間のSAを利用したいと思っていた。
名神の混雑は草津まで続いたが、新名神に入ると急に空いてきた。ここまでの道路沿線は都市の連続だったが、一気に山がちになっていく。カーブや上り下りも新しい道だけに走りやすい。最大の注意点は未知の所ゆえ覆面パトカーや速度取締り機の存在であるが、他所ではよくみかける警告も無い。信楽、伊賀・甲賀ななど焼物や忍者で知られた地名が現れるのも気分が和む。
鈴鹿連峰を望む土山SA到着は丁度午後1時、三日間続いた麺類はやめ揚げたてのカレーパンと牛乳の昼食にした。このサービスエリヤは他とは少し違っており、土産・食事・トイレなどの施設は上下線共通で、駐車場だけが分けられている。城崎からここまで約350km、自宅までの半分以上を走ったことになる。たっぷり休憩をとり2時に出発した。
この先は東名阪の亀山ICまで30km足らず、あとは東名阪・伊勢湾岸道路を経て豊田JCTで東名に入り、三ケ日JCTで走り易い新東名に進まず(旧)東名を行く。これは給油地点をゼネラルのSSがある富士川SAにしているためである。あとで考えてみれば新東名を新清水JCTまで行き、そこから東名と交わる清水JCTに出ることも可能だったが、計画検討時そこまで思いが及ばなかった。むしろこのルートではいつも混雑でユックリ出来ない浜名湖SAで休む案に惹かれていたのだ。
そのSA到着は3時半、期待通り平日のこの時間帯は駐車場も施設も公園も空いており、地産の夏みかんを仕入れることも出来た。西日を背に受けながらひたすら東に進み、富士川SA到着は1720分。ここまでの走行距離は510km、給油量は38Lだったから渋滞が無ければ自宅まで無給油で走れる可能性は大だった。
夕闇の迫る道をさらに東へ走る。日中とは違い交通量は減ってきているが、暗い道は目に堪える。夕食は当初足柄SAを予定していたが、思いのほか順調に流れるので海老名SAで摂ることに変更。毎日続いた和食と麺類は避けて新装なったばかりの中華レストランを選んだ。自宅到着は8時丁度、今日の距離は640kmであった。
(写真はクリックすると拡大します)


(次回:総括)

2013年8月17日土曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-23


18.丹波篠山路を経て
517日(金)、三日かけて走った往路を一日で帰る日だ。旅館を出てから自宅まで、距離はおよそ640km、走行時間にして約8時間半。今までのドライブ行で最長の距離と時間だ。立ち寄り地点決定の第一因子はSSである。帰路は自動車道を最大限に利用するのでE/M/GSSはきわめて限定的、結局最後の給油ポイントは東名の富士川SA上りのゼネラルになる。ここから自宅まで約100kmだからそれ以前の行程は540km、この距離を無給油で走るには自動車道に入る前に一度満タンにしておく必要がある。幸い北近畿豊岡自動車道が始まる和田ICの近くにエッソのSSが在る。城崎からは50km足らず。ここにナビのゴールを設定して850分西村屋を出発した。
城崎温泉駅までは昨日来た道を戻り、そこから円山川に沿って南下する県道3号線(リバーザイドライン)を走る。晴天の朝この地方の中心地、豊岡に向かう道はそれほど混雑もしておらず、丹後山地を東に臨みながら豊岡盆地を快走する。豊岡市内も川沿いの道は町の東端を抜けていくので、兵庫県中央部を南北に結ぶ幹線道路ながら、クルマの流れはスムーズだ。自宅出発時異常音を時々発していたのも、二日目以降治まっている(この時点で原因は依然不明だが)。
和歌山在住7年の間に山陽道・山陰道を利用して近畿・中国は随分走っている。縦断も、和歌山を出て京都経由福井へ、さらに鳥取から岡山へ、四国を巡った後山口から島根(出雲)経由広島へなど、道路事情の良くない40数年前何度か連休を利用したグランド・ツーリングを楽しんだ。また、本籍のある兵庫県西部も姫路・龍野(“赤とんぼ”の歌誕生の地)を二度訪れている。関東を中心に生活してきた者としては、比較的この地方のイメージ・土地勘はある方と自認しているが、これから走る一帯はスポッと抜け落ちているのだ。何と言っても観光の目玉が何も無いことがその理由だ。「丹波篠山、山家の猿が・・・」のデカンショ節でその名を知られるくらいではわざわざ出かけてみようと言う気にはならない。だからこそ今回は、自動車道を駆け抜けるだけとはいえ、「どんな所だろう」との興味がわく。
県道3号線はやがて国道312号線に変わり、円山川を挟んで東側には県道2号線が並走するようになるとナビはその道を選んでくる。やがて国道9号線(山陰道)と交わることを避けるためだろうか。この指示は大変良かった。山と川に挟まれて並木の植わる空いた道はまるで外国の道を走っているような気分にさせてくれる。やがて“やぶ(養父)”と言う道の駅に到着。この先土産物を入手できる所は高速のSAしかない。ここで黒豆を食材にした煎餅を求める。さらにこの地方道を進んで和田SSに到着。満タンにしてナビを“自宅”にセットする。
和田ICは加古川方面から山陽道・中国道を結んで北上する播但連絡道と北近畿豊岡自動車道(国道483号線)との連結点(JCT)でもあるが、有料区間は遠阪トンネル(300円)だけだ。道はそれほど高くない山間を東に京都府との県境に向かって適度なワインディングとアップアンドダウンが連続する、通行量も少ない楽しい道だ。周りの景観は、低い山と田んぼが混在する、本籍のある龍野付近とよく似ている。県境の付近で南へ向きを変え舞鶴若狭道路(有料)と春日JCT(丹波市・篠山市)で交わりさらに南下する。この辺りの風景は山陽新幹線の車窓と似ており、低木で覆われた小山が連続する。“山家の猿”から描く山奥のイメージは全くない。吉川JCTで中国道に入るともう神戸市内、三田、西宮、宝塚などなじみの名前が道路標識に表われてくる。あとは流れに乗って走るだけである。
(写真はクリックすると拡大します)


(次回:新名神を通る)

2013年8月13日火曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-22


17.西村屋本館-2
計画検討時は2月、3月。この辺はカニのシーズンの終わりに近づいているが、プランにあるのは当にカニ料理のオンパレード。「美味少量」の写真にもそれが写っている。「やはり日本海は寒いときに限る!」の感を強くした。4月以降は「季節の会席料理」とはあるものの、具体的な内容は分からぬまま、それなりの海の幸を期待して、このプランに決めた。
部屋へ案内してくれた若い(高校生のアルバイト?)仲居さんは、食事について、夕食時間、その際の飲み物、翌日の朝食の選択(和・洋)について丁寧に説明・確認していった。朝食は案内にあった“焼きたてアツアツの地物一夜干しカレイなど日本旅館の朝食をお部屋にてお楽しみください”に期待して和食とした。
一風呂浴びて部屋で休んでいると6時過ぎいよいよこの地のメインイベント、夕食が始まる。給仕してくれるのはこれも若い仲居さん(先ほどよりはやや年長)だが、こちらはプロの風格ができつつある。前2ヶ所(郡上八幡、虹岳島)はおばさんがパートでやっていた感じだったが、ここは若い人をキチンと育てているようだ。最近の日本旅館では珍しい。
食前酒は冷たい緑茶のワイン割り。風呂上りの喉と天橋立の抑え気味だった昼食の胃袋を元気付ける。本来はこれに続いて日本酒で料理を味わうのがピッタリなのだろうが、生憎私はビール党それも生があれば先ずそれをググーッとやりたい。蛍烏賊の味噌和え、若鮎塩焼き、小振りの鱚(キス)寿司などきれいに並んだ前菜に申し訳ないような気分で、専ら喉越しの楽しみを味わう。椀物は玉子豆腐と穴子焼きが具になるこれも淡白で上品な味わい。炊き合せは今日の朝市で調達した地の野菜。昨晩の虹岳島と違い、絶妙のタイミングで運ばれてくる。
シーズンであればこの後はカニであろう。しかし5月は鮑(あわび)であった。洋風にグリルされたそれはビールに良く合い、カニよりもこちらの方がよかったのではないかとの感を抱かせる。いつもならここら辺りでビールのお代わりになるのだが、食後の外湯巡りを考えて今夜はペースを落としている。箸休みで少量の紅ガニがあった。主役の松葉ガニとは似ても似つかないが「カニを食した」と言う安心感が去来した。休みの後も魚である。鰆(サワラ)の巻き焼き、筍と貝柱の田楽焼き、それに地魚の丸干し。全体に量が抑え目なのでまだ腹八分目と言ったところである。
最後の山場は但馬牛ロースのしゃぶしゃぶ。ご飯や香の物、赤出しと伴に味わい、シャーベットと果物で終わる。私にとっては「美味適量」 大満足であった。料理そのものも第一級だが、何と言ってもスケジューリングが素晴らしい。遅からず早からず、熱からず冷たからず。味と“適量感”はこのタイミングのよさと無関係ではない。料理を中心とした接客サービスの奥義を熟知して、それを供することが出来る経営はさすがである。
8時前に全て食事は終わり、外湯巡りを兼ねて街歩きに出る。フロントはYシャツ姿ではあるが専任の警備担当者に代わっていた。彼が翌朝まで勤務するようである。これは伝統を売り物にする旅館では初めて体験することであった。歴史を誇る老舗旅館でも経営形態は時代に合うよう変えてきているのである(だからこそ生き残れる)。因みに今回泊まった3軒で旅行Webページ(楽天、じゃらん、JTB等)からそのまま入り、予約できたのはここだけであった。
実は3軒のうち値段はここが一番高かったし、城崎温泉でも高い順のトップにあった(その一番安い部屋に泊まった)。しかし、料金を含む総合的な満足度から言って“断トツに良かった”のがここである。再びこの地方を訪れる機会があったら、是非またここに泊まりたい。6年のグランド・ツーリングを通じて、こんな感を抱かせてくれたのは志摩観光ホテルとここだけである。
(写真はクリックすると拡大します)


(次回:丹波篠山を通る帰路)

2013年8月8日木曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-21


17.西村屋本館
宿泊先の選定基準については今までにも縷々紹介してきたが。城崎温泉と決めた時点でホテルは考えなかった。実はここにもホテルがないわけではないし、西村屋はホテルも別な所で経営している。しかし温泉街からは距離もあり街歩きも外湯も楽しむことは出来ない。
先ず観光協会のHPで全体をレビュー。現在約80軒の旅館があるのだが、大正年間の北但馬地震で町は全壊したとある。従って老舗と言っても建物はそれ以降となる。楽天やじゃらんのページに移って“おすすめ順”などで56軒に候補を絞込み、それらのHPで設備や提供プランを調べ、さらに口コミを参照してここに決めた。決め手の一つは安政年間創業、もう一つは「美味少量(量控えめ)」プランである。“食べ残すことは罪悪”と教えられてきた(そしてひもじい思いをしてきた)世代には、重要なサービスである。
冠木門と玄関の間にクルマ23台のスペースがある。しかしどう見ても玄関へのアプローチ、とても駐車場とは考えられない。門前にクルマを停めて降りかけたところへ番頭さんがやってきて「中へ入れてください」と言うので玄関前に移動させると、「今日は車庫が空いておりますのでそちらにお預かりします」とのこと。荷物を降ろすとクルマは表の通りへ消え去った。
若い仲居さんの案内で玄関を入ると、正面は広くて磨き上げられた板敷きのロビー・ラウンジ、その先の大きなガラス壁越しに見事な庭が見える、左側にフロント、右側には土産物コーナーがある。それぞれに担当者(女性)が一人づつ、この地では部屋数の多い(34室)旅館だが、人の気配はそれだけ、上品で、落ち着いて、静かな雰囲気に「どうやら選択は間違っていなかった」の感を持つ。
案内された部屋は1階で、踏み込みの間があり、あとは広縁付きの8畳。広縁は先ほど玄関から見た庭に面している。壁や柱・天井、全ての造りが伝統的な純和風(除くトイレ・洗面)、新建材など一切使われておらず、時代を経た日本家屋の趣がよく残っている。それでいて老舗にありがちなかび臭さなど全くなく、清潔感も申し分ない。周辺は木立の茂る小山。
我々の泊まった部屋は一間だが二間構成もあるし、自室に露天風呂がある部屋もいくつかある。また2階には中庭を見下ろす特別室もある。チョッと変わった部屋としては展示室があり、土地の文化的作品(焼き物など)、この旅館の歴史を語る数々の品々や写真などが展示してある。地震の前と後の本館の違いなどもここで確かめることが出来る。私が「オヤッ!」と思ったのは、ここの当主の一人がわが国民間航空の歴史と深く関わっていることを知ったことである。民間航空の黎明は、一つは速報性を求める新聞社の新兵器、もう一つは観光や定期飛行への利用である。この後者の利用、丹後半島から若狭湾方面の観光飛行・エアータクシー、それに関西と東京を結ぶ定期航空路開拓に、川西航空(現新明和工業;辛坊氏救出に活躍した海上自衛隊のUS2開発・製作者)に協力して当っていたことである(いずれも事業としては失敗しているが)。
部屋へ入ると、若い仲居さんが館内・室内設備や外湯の利用方法などを説明してくれ、夕食時間や飲み物の確認、明日の朝食の注文をとってくれる。何と言っても先ず温泉だ!
大浴場はロビーの土産物コーナーの先に二つあり、時間帯によって男女が切り替わるのはどこも同じである。早速出かけてみると誰もいない。この時間の男湯は四角い総檜の浴槽、大浴場といても45人の規模で、こじんまりしている分落ち着く。小さな中庭があり、そこに露天風呂もある。どちらも貸切りで、ここまで全て二重丸。あとの食事も楽しみだ。
(写真はクリックすると拡大します)


(次回:西村屋;つづく)

2013年8月3日土曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-20


16.城崎温泉
計画立案のところでも述べたように、最終宿泊地はなかなか決まらなかった。この辺り一帯は温泉が多く、関東からは滅多に出かけられないところだけに、惹かれる観光地も多々ある。鳥取砂丘(鳥取温泉)、余部鉄橋(香住温泉)、夢千代日記の湯村温泉などがそれらである。ただ帰路(一日の行程)も考えると鳥取・余部は遠すぎる。湯村は“夢千代”以外は何も無さそうだ。歴史もあり知名度も高い、無難な城崎に泊まることにした。いくつかの候補を調べていて気がついたことに、どの旅館も比較的規模が小さい(概ね20室以下)ことで、これなら静かだろうとの読みもあった。
城崎温泉は丹波山地を発する円山川が日本海に注ぐ河口近くにある。少し南には兵庫県の北の中心地豊岡が在り、地番は豊岡市になる。山陰本線が、南から北に向かって流れる円山川に沿って走り、城崎温泉駅を過ぎると向きを西に変え直ぐにトンネルに入っていく。古くからの温泉街も、このトンネルに消えた鉄道と並行する湯の里通りと呼ばれる県道9号に沿う形で出来ている。山間ゆえに平地はわずかで、環境保全の規制でもあるのか傾斜地に聳え立つホテルもなく、緑に囲まれた閑静な場所である。
久美浜湾を過ぎた後県道9号を走って円山川を渡り、線路沿いに道なりに進めばやがて湯の里通りとなり旅館の前に辿り着いたはずであるが、どうも小さな町では最後のところでナビと相性が悪くなる(こちらが指示を間違え易い地形でもあるのだが)。細い道をショートカットする形で、外湯の代表“御所の湯”の前に出る。お蔭で温泉街の裏(大谿川(おたにがわ)と言う小渓流に小料理屋などが並ぶ)を明るい内に垣間見るチャンスがあった。
西村屋については次回詳しく報告するが、湯の里通りが西向きから北へ曲がる少し手前に在り、冠木門(屋根付き門)がある純日本風な造りで、後ろは山である。駅からは徒歩20分、チョッと遠く、鉄道利用だとタクシーになるのだろう。その分繁華街からは離れ、期待通り静かな雰囲気だった。
城崎温泉の歴史は古く、嘗ての温泉地がいずれも湯治場だったように、ここも平安時代から明治中期までは外湯が中心の湯治場であった。他の有名温泉地と違うのは、今でもここの名物は七ヶ所の外湯巡りにある。旅館に宿泊すればタダで利用できるが、一回600円、一日1000円である。夕食後通りを散策するついでに、適当な所へ寄ってみることにしたが、一番大きくて立派な“御所の湯”は木曜日が定休日とのこと。8世紀、近くの温泉寺開祖が祈願して湯が湧き出たが16世紀頃熱湯に変じる。それを鎮めるため曼荼羅供養を行ったところから名付けられた“まんだら湯”をトライしてみた。基本的には銭湯と同じ形式だが、寺院造りが特徴だ。それぞれ異なった願掛け・効用があるらしい。まんだら湯は、商売繁盛・五穀豊穣・一生一願の湯だそうである。
内湯が普及してくるのは「城崎にて」を書いた志賀直哉が滞在した頃(大正時代;1910年代)からで、彼が宿泊した三木屋もこの通りに在った。山に囲まれた静けさ・木造の街・日本海の魚・人情を愛でての逗留だったらしい。そんな平和で静かな所も、戦争中は町全体が軍人病院に転じていたそうである。
8時過ぎ湯の里通りを駅の方向へ歩いてみた。土産物屋が数軒開いていたほか、スナック、すし屋などが営業していたが、通りにほとんど人影も車の往来もなかった。歓楽色のまるでない、それでいて鄙びているわけでも無い、何か品のあるこの地を最後の宿泊地に選んだことは大成功だった。
(写真はクリックすると拡大します)


(次回:西村屋)

2013年7月26日金曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-19


15.丹後半島
半島を巡るドライブはどこも楽しい。歴史的に主要な交通路から外れているので、比較的景観や生活環境が昔のままに残されているからである。一方このことがその地に住む人にとっては不自由なことではあるのだが…。私の気分転換ドライブ・ルートで最も頻繁に走るのが住まいに近い三浦半島である。都心に近い小さな半島だが、横須賀線・京浜急行から外れた、半島南西部(剣崎・城ヶ島・荒崎など)はいつ出かけても心が洗われる。また、若い頃勤務した和歌山は日本最大の紀伊半島の一角を占め、当時もその後も、内奥部・沿海部を何度も走っているが、まだまだ面白いところは多々あり、クルマ(それしか手段がない)で旅をするには最高の場所である。
丹後半島は、和歌山勤務時代の40数年前小浜に泊まり、天橋立観光後、半島の根元を横切って久美浜湾に出てそこから鳥取まで行っているのだが、海沿いの道を一周することはしていない。今回はそこがポイントである。特に日本海に突き出た経ヶ岬からの景色に期待した。
天橋立出発は1345分。予定よりは15分遅いが、17時の旅館チェックインには問題ないだろう。半島周回路である178号線に出ると前を“経ヶ岬”と行先表示したバスが走っている。しかし半島への分岐点で本来右折すべき道を直進して行ってしまった。どうやらバス路線は海岸ルートではないようだ。


やがて天橋立の北の接続点、府中を過ぎるとあとは右に若狭湾を見ながら片道1車線の道が続く。しばらくは民家や商店が散在するが、海側の展望を遮るほどではない。空は午前よりは明るくなってきているものの依然曇り、青い海と空を愛でることは出来ない。経ヶ岬までの観光スポットは海から漁船をそのまま家の中に引き込む舟屋で有名な伊根くらいだが、出発が遅かったのと経ヶ岬観光が今ひとつ先が読めていないのでパスした。伊根から道は海岸を離れやや山側に切れ込み、アップアンドダウンがきつくなる。しばらく進むとバスの終点兼方向転換場所が現れ、そこから国道を離れて岬の駐車場へ向かう道に分け入ると直ぐ目の前に小山が現れ、その下が駐車場広場になっていて、ワゴン車を含む数台の車が駐車しているが何かうらぶれた雰囲気だ。仕事の途中に立寄ったと思しきダークスーツの数人の男がシルバーのセダンの周りにいるだけ。他の人達はどこに居るのだろう?
トイレの側の案内図を見ると前の小山の頂へ登る道とその先の灯台への道が在ることが分かる。どうやら他の人達はそこへ向かったらしい。山の頂までは300m位の距離だが、急な山道で足下も悪い。しかし、ここまで来たからにはと思い樹木に押し倒された手摺を伝って何とか頂上に辿り着く。一帯は木々に覆われてすこぶる視界が悪い。“くたびれ儲けの骨折り損”とは当にこのことだ。下にある灯台へ行くと帰りの登りがきついので諦める。期待していた“日本海に突き出た半島の先端からの雄大な眺め”は一気に失望に転じた。 観光開発者のセンスの無さに(駐車場のレベルで周回歩道を造るべき)、この地が寂れているのは当たり前だと思った。
岬の駐車場をスタートしたのは15時半。半島の西側に沿う道はしばらく南西に向けて下り網野と言うわりに大きな町を経て久美浜湾に至る。ここからナビは178号線を離れ京都府と兵庫県の県境、三原峠を越える地方道を指示してくる。薄暗くなってきた山道を走るクルマは全く無い。思わぬところで山岳ドライブをすることになるが、自分の位置がまるでつかめない。二つ目の峠、飯谷峠を下ったところでやっと人里に出て“城崎”が道路標識に表われた時にはホッとした。城崎大橋を渡り駅前を通って旅館に着いたのは1715分、予定の15分遅れであった。
(写真はクリックすると拡大します)


(次回:城崎)

2013年7月23日火曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-18


14.天橋立(2
天橋立を特徴付ける長く延びた砂嘴を俯瞰するのは高い所からしか適わない。文殊山でそれを楽しんだ後は、その砂嘴に踏み込んでみることにした。東側に開ける宮津湾と西側の内海、阿蘇海の間を南北に横切るそれは全長3.6km、徒歩だと往復3時間かかる。40数年前来た時には貸し自転車で廻った記憶がある。南側の観光基点である文殊地区の商店街にはずらーっと自転車を並べている店もある。我が家には息子が出ていって以来自転車は無いし、乗ってもいない。しかし、水泳と自転車は一度おぼえたら出来るとよく言われてきた。就職後工場勤務時代は通勤も場内移動も自転車だった時期もあるので私には問題ない。問題は家内である。聞けば最後に乗ったのは中学生の時と言う。どうも自信がなさそうなので、徒歩で途中まで出かけてみることにする。
内海と湾をつなぐ水路は南の端にある。そこには、船を通すための廻旋橋が設けられておりそれを渡ると松林が広がり茶店などがある。有人の建物があるのはそこまでで、あとは松林の中に未舗装の道が北へ向かって見え隠れするだけ。平日の昼時、人影はまばらだ。しばらくは砂嘴の幅が広いので間近に海辺は見えず、8千本の松の中を歩くだけだから、景観を楽しむよりは森林浴に近い感覚である。
ただこれだけの松林を退屈せずに歩けるのは、ところどころに“由緒のある?”松があるからだ。大正天皇お手植えの松、岩見重太郎仇討ちの松(傍らに竹囲いされた“試し切りの石”と言われる一里塚のようなものの割れた一片が置かれている。まさか!)や万葉に由来する松などが説明板と伴に現れる。面白いのはこんな狭い砂嘴(20170m)の中に古くから真水が出る所が一ヶ所在ったことである。磯清水と名付けられたそこは日本名水百選の一つとし今でも珍重されている。
阿蘇海側の海際は石垣などを積んで砂浜はほとんど無い。一方宮津湾側は海流による浜の侵食を防ぐために低い防潮堤が短く斜めに湾に向かっていくつも張り出しているので、砂州は鋸歯状になってつながっている。海水浴などは専らこの人口砂浜で楽しまれるようだ。
砂嘴の中ほどにある橋立神社で引き返し文殊の商店街に戻る。時間は12時半、丁度お昼時、何を食べるか?事前調査では当然各種活魚料理が名物であることが分かっていたが、それほど特色のあるものは無かった。そんな中で目を惹いたものにアサリ丼、アサリうどんがあった。今夜の泊まりは城崎温泉、そこも海が近く魚料理は売り物、それに昼食は軽いものがいい。海鮮定食は避け、アサリうどんが食せる店を探すのだが木曜日は定休日の所もあり、意外と手間取る。やっと“海渓”という食堂にそれがあることが分かり早速注文する。うどんはこの地の名物ではないが関西では先ず間違いない。そこに沢山のアサリが入ったそれは極めてシンプルはものだったが、大変美味しかった。これで三日間昼食は麺類(初日;きし麺、二日目;おろしそば)でいずれも満足した。最終日の明日の昼食もその地の代表的な麺類を楽しめたらとの思いが浮かんでくる。
昼食の後土産物屋に寄る。ここを過ぎると後は城崎温泉しかあれこれ選べそうな所は無い。城崎温泉では、料理はとも角それほど特色ある土産物は期待できない。結局丹後の名物である黒豆を材料にした、煎餅状のおこしのような菓子が試食して口に合ったので、これを求めた。
ガソリンは満タン、腹も満腹。いよいよ本ツーリング最後の山場、丹後半島に向かう。
(写真はクリックすると拡大します)


(次回:丹後半島)

2013年7月18日木曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-17


14.天橋立
516日(木)朝天気は曇り、今日は一日曇りの予報。天橋立、丹後半島と海の景色を楽しむ行程だけに気分は今ひとつ晴れない。出発は8時半。天橋立までのルートは一般道(162号線・27号線)と高速(舞鶴若狭自動車道・京都縦貫自動車道)の二つがある。前者は小浜・舞鶴・宮津と若狭湾沿いに走る道で、これらの町々や若狭湾の景観を楽しめる。一方高速は小浜西まで27号線を行きそこから始まる舞鶴若狭道に乗ると、過疎の内陸部を南西に向かい、綾部JCTで京都縦貫道に乗り換えて北西に向かう。一般道ルートに比べるとJCTを頂点に三角形の2辺を行くので距離的には遥かに長いが、時間は1時間近く短い。今日の天気を考えると海沿いのドライブにあまり期待できない。ナビのセットを“有料道路”にし、目標を天橋立駅近くのゼネラルSSにしたところ、幸いヒットした。
虹岳島から5分も走ると27号線に達し、このまま小浜西ICまで行くものと思っていたが、ナビが途中で右折を指示してくる。最近地方でよく見かける広域農道である。交通量は少ないが田植えのシーズンでもあり農機の往来に注意が必要だ。幹線道路に比べると随分迂回しているように感じたが、ICの少し手前で27号線に戻りしばらくすると現在(完成後は敦賀か?)の高速の基点への交差点が現れる。しかし27号線からそちらへ向かう車は前にはいなかった。料金や燃費を考えれば下を行く方が経済的なのであろう。お蔭で高速はマイペースで自在に走れる。これでは道路建設の経済性は全く成り立たないのではなかろうか?山中に延びる自動車道はどこも代わり映えせず、時々現れる道路標識にのみに違いを感じる程度である。ハッとさせられたのは大飯・高浜、大震災以来あまりにも有名な地名だからだ。綾部JCTで京都縦貫道に入ると自家用車・小型商用車がちらほら見かけるようになる。もう終点の宮津天橋立ICが近い。県道9号線に下りて宮津市内に向かうが道は空いており、道案内も確りしているので、迷うことなく目的のSSに着くことができた。
SSで観光に適当な駐車場を問うと、目先のPマークを指しながら「どこでも皆同じ料金です」とのこと。砂嘴への取っ掛かりに一番近い、智恩寺と言うお寺の経営する駐車場に停めることにする(一日600円)。時刻は10時半、予定より1時間早い。
先ず出かけたのは178号線そしてKTR宮津線の線路を挟んで砂嘴とは反対側にある文殊山、天橋立が一望でき、股のぞきで有名な所である。さして高い山ではないが下からモノレール(あるいはそれと並行するリフト)で登るようになっており、上は小さな遊園地になっている。モノレールは2両編成、一両に10数人乗れるから平日の今日はガラガラの筈だが運悪く(?)近隣の小学校の遠足とかち合ってしまい、賑やかなこと夥しい。若い先生まで一緒になって生徒に戻ってしまっている。
曇ってはいるが頂上から天橋立が先まで見渡せる。股のぞきをすると、龍が天に舞い上がる姿に似ていることから“飛龍観”と名付けられている。私は和歌山時代一度ここに来ている(モノレールで登った記憶は無いが)が、その日は晴天だった。海と空が青ければ当に“日本三景(宮島・松島)”の一つであることが肯ける景観である。今回初めての家内にとってはチョッと残念な天気であった。
遊園地は子供にも狭すぎる規模である。ろくな施設も無い。それでも小学生たちは遊園列車を楽しんでいた。帰りは彼らと重ならないよう、早めに下りることにした。
(写真はクリックすると拡大します)


(次回:天橋立;つづく)

2013年7月14日日曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-16


13.虹岳島(こがしま)荘
ドライブ旅行で宿泊先を決める時の標準的な手順は、都市か観光地かで若干異なる。都市の場合はホテル(主にビジネス・ホテル;食事別)が対象となり、観光地では旅館が中心、いずれも情報収集はウェブ(インターネット)に依る。手順はこの連載の-3で記したので略すが、候補を数ヶ所に絞り込んで、さらに詳細チェックして(したつもりで)決定する。今回の虹岳島荘は“日本秘湯を守る会”メンバーであることが重要な決め手だった(口コミにやや気になる記事もあったが)。松之山(新潟)、湯の峯(和歌山)、乳頭(秋田)、龍神(和歌山)、白布(山形)などでこの会の旅館に泊まったが、温泉に関する限りどこも満足したからである(湯の質・量と浴場の鄙びた雰囲気)。
虹岳島は水月湖に飛び出した丸い小さな半島で、虹岳島荘はその先端にあり、道はここで終わる。茅葺き門を入ると直ぐ先に玄関が見えてくる。門と玄関の間は未舗装不整地で、山側にやや傾斜して67台のクルマが駐車できるスペースがある。クルマ止めも無いので、バックでの駐車は要注意だ。玄関からもんぺ(死語?足首部を縛る和装ズボン)を履いたおばさんが出てきて誘導してくれる。どうも女将さんらしい。
事前情報では近隣の古民家を移築改修したとあるが、玄関側から入ると、柱・梁・壁にはその趣があるものの、ロビーから左右に長い廊下が延びているので、とても民家とは思えない。部屋も確かに造作は民家風であるものの、普通の日本旅館とたいして変わらない。もっと違和感があるのは大きさである。こんな大きな民家が在る筈は無い。しかし、あとで湖水側から写した写真を見てこの疑問が解けた。何棟もの民家が横に並んでいるのである。おそらく解体・接続し大改築したのであろう。玄関・ロビー・食堂・客室(25室)は湖側の2階部分に、浴室・宴会場・遊戯施設などは1階に配置されているのだ。この特異な外形は泊り客には全く分からない。
自室での夕食は6時半に頼んだ。部屋の前には湖面が広がり、その先にはクルマとリフトで登った梅丈岳が見えるものの、夕闇が迫ってきている。景観を楽しむ時間帯ではない。昨晩は風呂が順番制だったが、ここは大浴場があるのでいつでも入れる。晩飯前にひと風呂浴びることにした。
風呂場は広さも充分、設備も整い、しかも湖が見渡せる。問題は湯であった。予約をした後で口コミをさらに調べている時、ここが温泉ではなく鉱泉でしかも水量が少ないため循環させていることを知った。一言で言えば唯の風呂である。誰も居ない大浴場で湯船に浸かっているのは快適ではあるが、“秘湯”に惹かれてここに決めたことが詐欺に遭ったような気分とない交ぜになり、今ひとつ楽しめなかった。
食事は湖水を見渡す広縁に設えられる。敦賀や小浜など比較的大きな都市に近いこともあるのだろう、やっと生ビールにありつける。料理は予想通り魚が中心。ただ特色のあるものはオコゼの唐揚げくらいで特に印象に残るものは無い。問題は配膳のタイミングである。幸い一気に並べられるわけではなく、前菜から生もの・焼き物等々順番に出てくるのだが、人手不足(調理・配膳)なのか間隔が長い。仲居さんがしきりに「すみません」を繰り返す。中には明らかに冷めて適温でないものもある。一人ひとりは誠実にやっているのはわかるが、それだけで不満足度を補えるものではない。翌朝の朝食は洋式の広い食堂だった。客が一ヶ所に集まっているので、給仕の効率もよく不満は無かった。夕食もこの方式のほうが良いような気がした。
チェックアウト前、部屋でぼんやり外を眺めていると、小さな遊覧船がやってきて、旅館の前でUターンしていく。「何故?」と思ったが、あとでこの旅館のユニークな造りにあることを知った。
(写真はクリックすると拡大します)


(次回:天橋立)

2013年7月10日水曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-15


12.三方五湖
永平寺から三方五湖までは約90km。ほとんど高速利用で行けるので1時間半くらいで着ける筈だ。出発する時ナビにセットしたのは宿泊先の虹岳島(こがしま)荘だが、三方五湖を見下ろせる展望台につながる三方五湖レインボーラインを経由する心積もりだ。
北陸道の福井北ICから敦賀ICの間は、福井平野東側を通る起伏も曲がりも少ない、単調な道が続く。途中には鯖江、武生など古くから栄えた町が在るのだが、今回は全てパス。チョッと残念だ。敦賀ICで降りるとそのまま国道8号線の敦賀バイパスにつながり、さらにそれと分かれて国道27号線(金山バイパス)に出るので、敦賀を抜けるまで自動車道の感覚のまま走っていける。注意はスピードだけだ。しばらくそのまま走っていると“美浜原発”と言う標識が現れてギョッとする。いよいよ原発銀座の始まりである。
“三方五湖レインボーライン”の案内を見て27号線(丹後街道)を離れ、案内標識に従ってそちらに向かう。ナビは旅館を目指し盛んに進路を正そうとするので喧しい。有料道路(福井県公社)の日向ゲートで閉鎖時間を聞くと「展望台のケーブルカーは5時です」との答え。西日の射すワインディング・ロードを駆け上がる。数台の自家用車が停まる広い展望台駐車場に着いたのは4時半だった。直ぐにケーブル・カーの改札に行くと、ケーブル・カーとリフトが平行して設置してある。「どちらでもお好きな方に乗ってください」とのこと。涼しい方がいいのでリフトで上がることにする。山頂展望台は梅丈岳(ばいじょうがたけ)という海抜400m程度の小山だが、その付近では一番高いので、北は日本海、東には敦賀半島、西は若狭湾に張り出した小半島(内外海半島)、南直下には五湖がありその先は滋賀県との県境を成す山々があり、360度展望が開けている。頂上にはこの地の出身有名人である五木ひろしの碑があり、展望広場の外柵には夥しい数の鍵がぶら下げられている。二人で鍵を掛けると愛が一生続くと言うことらしい。
この地に寄ることにしたのは永平寺と天橋立を結ぶルート上で適当な宿泊地を探す内に決まった。小浜も有力候補だったが、和歌山時代クルマで一度来たことがあるので、こちらにしたのだ。
若狭湾国定公園に指定されているここは、名前の通り小さな湖五つから成る。海に接しているので淡水湖(三方湖)、海水湖(日向湖;ひるが;淡水湖説もある)がそれぞれ一つ、あとは淡水と海水が交じり合った汽水湖(水月湖、菅湖、久々子湖;くぐし)があり、これが多様な生物の生息を可能にしているので、ラムサール条約指定の湿地として登録されている。また水種が違うことから、湖水の色はそれぞれ異なるともいわれている。しかし、当日は気温が一気に上がったこともあり、晴天ではあったが大気はやや靄っており、色の違いは分からなかった。
駐車場に戻ったのは455分、売店も閉め始めている。来た道を料金所の先まで戻り、若狭梅街道と名付けられた地方道をしばらく走ると、ナビが水月湖の方へ右折するよう指示してくる。道はあるが家は見かけない。先の方に湖水が見えてくる。湖に沿ったカーブを曲がった所で突然野猿の群が道を塞いでいる!ユックリ前進すると道を開けてはくれるが去る気配無い。それを何とかかわして先に進むと、忽然と茅葺きの大きな門が現れた。今夜泊まる虹岳島荘の入口である。到着時刻515分、本日の走行距離は220kmであった。

(写真はクリックすると拡大します)


(次回:虹岳島荘)

2013年7月7日日曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-14


11.永平寺
永平寺は今回のツーリングの目玉の一つ。私は約半世紀前、和歌山工場時代に課のレクリエーションで一度来たことがあるが、家内にとっては初めての場所である。「毎年大晦日の“ゆく年くる年”で放映される有名な所だから一度見ておきたい」これが動機である。私の場合も前回は大阪から北陸本線の特急に乗り福井で京福電鉄(現えちぜん鉄道)・永平寺線に乗り換えたことくらいしか記憶に無いので、あらためて訪問し、当時を思い起こしてみたいと言う気持ちは充分あった。その点では全く宗教心を欠く参拝者である。ただ、LP(線形計画法)利用の先駆者で、エッソ石油の役員を務めた後、ここに篭もり得度されたMさんのことが思い浮かんだことは「あの怜悧な数理の使い手が何故?」との疑念があったからで、多少精神的な誘引が無かったわけではない。
中部縦貫道の上志比で降りてからの道は、IC周辺でやや注意が要るものの、SSでの助言と道路案内板に従えば、難なくその方向へ向かえた。当初の予想通り、道の両側にはポツリポツリと広い駐車場を備えた蕎麦屋が現れる。家屋の密集する所が無いのは新道なのであろう。門前に至る旧道に入ると土産物屋や飲食店が続き、駐車場への誘導員が盛んに勧誘するが、平日の午後なので思い切って参道前まで行ってみた。他より100円高かったが駐車することが出来た。到着時刻は150分、ここで1時間強使っても、三方五湖観光は日の高いうちに出来そうだ。
永平寺は道元禅師が13世紀に開いた曹洞宗の大本山であり、坐禅修行で有名な所である。元々は京都に在ったものを支援者の要請でこの地に移したと案内書にある。当時を想像すると遥か都を離れた深山幽谷の中にあり、厳しい自然環境が僧侶の育成には向いていたのであろう。現在境内には大小70余の建物がある。
鬱蒼と杉巨木が林立する参道をしばらく行くと通用門がある。ここで参観料を払い吉祥閣という、ここで一番大きな建物に向かう。寺務所と参拝者ホールが一つになったもので、1015分毎に若い僧侶による永平寺の歴史、境内全体、参拝順路、見所、注意事項の説明があり、あとはそれに従って、各人適宜見て歩く。回廊でつながる、僧堂(修行道場、食事、就寝)、大庫院(台所)、山門(最古の建物)、仏殿(ご本尊)、法堂(ほっとう;説法、法要;ここが一番奥)などを巡るのだが、傾斜地を上に向かって見ていくので、磨き込まれた階段の登りがきつい。一巡するには小一時間かかる。
チョッとユニークだったのは比較的新しい(とは言っても昭和5年建設;平成6年改築)、傘松閣(さんしょうかく)という152畳の大広間である。そこの天井には建設時の日本を代表する著名画家144人による230枚の花鳥風月の絵がある。この絵の中から、りす・唐獅子(2)・鯉(2)の5枚を見つけることが出来れば幸福になれるというのだが・・・。
昨春訪れた高野山とは異なり、寺はここ一ヶ所、他に見所は無い。門前の土産物屋を少し冷やかしてみたが、これといったものは無かった。冷たいお茶のボトルを買って駐車場に戻る。出発は3時丁度。とにかく暑い!クーラーを効かせてきた道をしばらく戻ると、断続的に開通している中部縦貫道が、永平寺口から北陸道の福井北ICにつながっている。あとはこれを一気に敦賀ICまで走るだけだ。
(写真はクリックすると拡大します)


(次回:三方五湖)

2013年7月3日水曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-13


10.越前大野から永平寺へ
越前大野は他にも、大野城や一乗谷の戦いで信長に敗れた朝倉義景墓所など見所はあるのだが、予想外に時間を使ってしまった。当初の予定では永平寺を見学する前にその近くで昼食を摂るつもりだったが、寺町から結いステーションに戻った時は既に12時、ここで昼食をすることに計画を変更した。ステーションの周辺は前回書いたようにこの町の観光の中心で、土産物屋や観光案内所などがある。その一角で地元のお米を売っているおじさんに適当な食事処を尋ねたところ、近くの蕎麦屋を薦めてくれた。ガイドブックなどで調べていた時も大野、永平寺とも名物は“おろし蕎麦”だったから、こちらの思惑通りだった。
蕎麦屋のある通りは七間通り。この通りは町の中心部を東西に通る道で昔からのメイン・ストリートらしい(クルマの往来は一つ南を通る六間通りだが)。寺町から武家屋敷があるここら辺まで通りの両側に商店が並ぶし、寺町に近い辺りは春分の日から大晦日まで朝市(七間朝市)が立つ。
蕎麦屋はその七間通りの西詰めにあり、「七間本陣そば」と言う店である。おじさんには「今丁度昼時だから少し待つかもしれませんよ」と言われたが、幸い奥の方に二人用のテーブルが空いたところだった。頼んだのは無論おろしそばだが、つゆがいろいろあり2種類選べるようになっているので、醤油のほかにゴマだれ入りを選んでみた。そばは確り腰があり、たっぷり削り節と大根おろしの入ったつゆで食べるそれは絶品だった。
スケジュールは少し遅れているが土産物を冷やかしてみた。ここの名物に“けんけら”と言う大豆を原料にした甘いひねり煎餅のようなものがある。300年の歴史があり、昭和天皇にも献上された福井名物と宣伝しているが、試食してみて、今ひとつ好みの味ではないので買わなかった。
商工会議所や時計櫓と城の写真を撮りクルマへ戻ったのは1245分頃。町全体が歴史を偲ばせる風情を残しながら、新しく変わっていく品の良い地方都市に別れを告げることにした(高山、角館、馬篭宿なども良い所だが、観光臭がやや強く、日常生活感が弱い。ここはそのバランスが良い)。
先ずしなければいけないのはガソリン給油だ。SSリストで一ヶ所だけ、町の中心部や主要道路沿いで無い、まだ試していない所が残っていた。ここがダメならE/M/G以外のSSで入れよう。そんな思いで電話番号をナビに入力した。ピンポーン!オートヴィオSSと言う名前が出てきた。とにかくここへ向かおう。ナビ任せで着いた所は、大きなショッピングセンターだけが目立つ、市外の田畑の中にあるEsso Express(セルフ)のSSだった。ここでも生活はクルマに合わせたライフ・スタイルに変わってきているのだ。自宅からここまでの走行距離は505km、給油量は43L12km/Lになる。昨日の高速が効いて、いい数字だ。
次の目的地は永平寺。しかし、ナビのセットが、タッチパネルが敏感で上手くいかない(何度か同じ失敗をすると案内しなくなってしまった)。仕方が無いのでSSのオフィスに行って教えてもらった。それは考えてもいない道だった。計画では今朝走ってきた158号線をさらに西に向かい越前高田で北へ向かう364号線に入るルートだった(ブルー)。しかし、中部縦貫道が部分開通しているので、それを利用する方がはるかに早いのだと言う(ピンク)。今自分がどこに居るのか分からない。ナビも機能しない。スタンドの人に極めてラフな地図を描いてもらい、それを頼りにとにかく大野ICに向かい、そこから中部縦貫道に乗って指示された上志比(かみしひ)ICで下りて、再び目印だけの地図を辿ってやっと永平寺に着くことができた。時刻は1時半。計画だと1時間弱かかる予定だったから、随分時間を稼ぐことが出来た。
(写真はクリックすると拡大します)


(次回:永平寺)

2013年6月27日木曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-12


9.越前大野
馬返しトンネルを出てしばらく下ると、前に広い平野が広がる(実は盆地だが)。これなら米がとれそうだからかつては豊かだった違いない。町の入口辺りから道路は片道2車線、分離帯まである直線道路だ。前を行く宅配便は何故かゆっくりと左車線を走っている。一気に追い抜きたくなったが、ここは慎重に行こう。スピード取締りは無かったが、右側に警察署が在った。
エッソのSSを探すが市街地に入る前にJAが一軒在っただけで、他のブランドも見かけない。その内街の中心部に達してしまい、なかなか適当な駐車場所も見つからない。幸い町は平坦で道路は碁盤の目のようになっている。二度左折を繰り返して少し街の外縁に出ようとしたら、Pマークが現われ黒くて大きな木造家屋の先に広い駐車場があった。どうやら大型バス用のスペースのようだが端のほうには小型車も停まっているので、そのクルマに並べて駐車した。傍に立て看板があり、この先に“御清水(おしょうず)”や歴史博物館があると書かれている。目指すのは武家屋敷や寺町だったが、とりあえず御清水に向かうことにする。
説明によれば、御清水はこの辺りの武家屋敷や城の用水でかつては「殿様清水」とも呼ばれた由緒ある湧水、1985年に名水百選に選ばれたとある。この後歴史博物館は少し距離がありそうだし、あまりユックリする時間も無いので、駐車場へ戻っていくと、先の方に時計櫓が見え、どうも周辺は観光施設の雰囲気である。通りすがりの人に「武家屋敷はどこでしょうか?」と問うと道路を隔て駐車場の反対側を指差しながら「内山家はあそこです」と教えてくれた。大型バスの駐車場、道路を隔てた普通車の駐車場、時計櫓、何棟かの大きくて黒い板張りの家屋、ここら辺一帯は“越前大野結いステーション”と名付けられた、大野観光の基点・中心だったのだ。
最初に訪れた内山家は大野藩家老の屋敷で、城山の下に在る。木造2階建て離れや衣装倉もある、庭のきれいな大邸宅であった。室内はどこも見学可能で、往時の暮らしぶりをつぶさに見ることができた。西側正面の門を出ると、道路を隔てて平屋で横長の大きな建物が延びている。その先の山の上に大野城が見える。一体この建物は何だろう?近づいてみると、それは城や武家屋敷との景観を配慮して造られた小学校だった。
それでは結いステーションの周辺にある黒っぽい建物は何だろう?中心にあるのは土産物屋などが入る観光センターだが、他は商工会議所や体育館などで、街づくり全体が統一されたデザイン・コンセプトで進められたことが分かってきた。こう言う町は嬉しい。
次に向かったのは寺町。地図を見ると少し距離がありそうだ。クルマで移動することも考えたが、丁度学校の下校時間(今日は昼まで?)で、交通安全のおじさんがいたので道を聞いてみた。徒歩10分程度で行けることが分かったので、暑さの中を歩いてそこに辿りついた。一つの通り(寺町通り)の両側にお寺がつながっている。一つ一つの寺はそれほど大きくは無いのだが、これだけ数が集まると壮観である。気になったのは「こんな沢山の寺があって、皆経営が成り立つのだろうか?」と言う至って生臭い疑問だった。
(写真はクリックすると拡大します)


(次回:越前大野から永平寺へ)

2013年6月23日日曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-11


8.美濃街道を行く(2
新道と旧道が交わったあとはやや交通量が増えたものの、前後に時々見え隠れする程度で、マイペースで走れることに変わりはない。行き交う車は主にトラックやライトバン、それに地元の軽くらいだ。皆生活・仕事のために動いているところへ、一台だけ遊びグルマが入るのは何か申し訳ないような気もする。九頭竜ダムに向けて整備されたのであろう、雪囲いやトンネルは多いものの、曲がりも少なく道幅も充分で走りやすい。時々止まるのは、例の笹子トンネルの天井崩落事故の影響で、トンネル・チェックが集中的に行われている所だけだ。片側通行の整理をしているおじさんが、申し訳ないという表情で挨拶してくれる。
九頭竜川にはダムが二つある。上流側が規模の大きい九頭竜ダム、下流が鷲ダムである。九頭竜ダムは高さが128mあり、岩を積み上げるロックフィル・ダムである。この方式は美濃から日本海側へ流れる庄川を堰き止めている御母衣ダムと同じ方式で、どうもこの辺りの地盤はコンクリートでは支えきれないので採用されたらしい。コンクリートののっぺりした仕上がり比べ、表面が棘々した感じで、それが年月を経て濃い褐色(ほとんど黒)に変わり、木で葺いた巨大な寺院の屋根のような景観を作り出している。下の鷲ダムは近くの集落の水没を避けるために作られた揚水発電所用の比較的低いダムである。
どこの巨大土木工事でも政治絡みで巨額の金が動くのは通例だが、1962年に着工されたこのダムも池田総理への政治献金が国会で問題になり、秘書官や証言をしたジャーナリストが不可解な死をとげ、後に石川達三がそれを材料に「金環食」を書いている。走りながら断片的な記憶が蘇る。
ダムの下からは道路沿いに建物が少しずつ増えていき道の駅の周辺は平地もかなり広く、学校や農協などがあり、久し振りに町らしい雰囲気になってくる。しかし、広い駐車場にはほとんどクルマは無く、最近は土地の人達のショッピング・センター兼集会場所として活気のある道の駅の趣はない。
手洗いを探していると、案内板があり「トイレは駅の方にあります」と出ている。よく見ると鉄道の駅と一体になっているのだ。越美北線の終点、九頭竜湖駅がそこにあった。半世紀以上前にはこの線と長良川沿いを走る越美南線が越美線としてつながることになっていたようだが、ダム建設が終わってからはそれら既存の鉄道すら存続が難しいほど利用価値は減じている。いまや道の駅のほうが主役になってきているのだ。
駅前に面白いものがあった。恐竜親子の像である。それも動く仕掛けになっている。子供が母親に体を寄せると、母親は体をねじり、口を大きく開け、まるで我々外敵を威嚇するような仕草をする。何故こんな所にこんなものがあるのだろう?ガイドブックをみると、これから向かう越前大野のさらに北西、勝山と言う町で1980年代からかなりの量の恐竜の化石が出土して、そこに恐竜博物館があることが分った。しかし、ここからはかなり距離もあり、いまだに「何故ここに?」の疑問は消えていない。
次の目的地は越前大野。計画準備段階で大野の駐車場を調べると市営のものが何ヶ所かあった。ただ電話番号はみな同じ。多分市役所の所轄部門で、場所に直結した番号ではなさそうだった。嬉しいことに小さな市のわりにエッソ・モービルのSSが多い(6ヶ所;ちょっと多すぎる感じがしが…)。そこで駅に一番近いSSの電話番号をナビにセットすると「ピンポイントで見つからないので付近に案内します」ときた。今朝のゼネラル同様転廃業している可能性がある。次をやってみたが同じ、その次もダメ!4軒目もダメ!!道筋は単純なので、ナビの案内無しで、とりあえず駅を目指すことにする。
(写真はクリックすると拡大します)


(次回:越前大野)