ラベル 決断科学、科学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 決断科学、科学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2009年11月26日木曜日

決断科学ノート-23(科学者と政治-6;ティザードの場合④)

 レーダーの開発・改良、それを核とする防空網、更にこの新しい兵器システムの運用体系を作り上げる仕事に邁進するティザードは、次から次へと現れる難題を、持ち前の調整・管理能力で片付けていく。その完成度は昼間侵攻に関する限り、ミュンヘン会談時(1938年9月末)ほぼその後の実戦システムと変わらぬところまで達していた。次なる大きな課題は夜間侵攻に対する備えである。小型軽量で見えない敵を打ち落とす精度持った、航空機に搭載できるレーダー開発は、いまだアイディアの状態から試行錯誤が始まったばかりだった。
 チェンバレンの宥和政策を批判するチャーチルにとって、夜間爆撃への国民の恐怖を何としても和らげたい。保守党が復権したものの閣外にいる彼は国防政策に何かと発言の機会を狙っている。そのためにホームグランドの帝国国防委員会の下部組織の一つで航空省のティザード委員会と密接に関わる、防空研究小委員会(通称スウィントン委員会;スウィントン伯爵主宰)の改組を提案、ここにリンデマンを加えることを求めてくる。だからと言ってティザードを排除するようなことはしない。チャーチルもティザードの軍事科学者としての力を知っているからだ。
 こうしてティザード委員会が進めていた防空科学の仕事は次第に再構成されたスウィントン委員会に実権が移り、専ら政治的な角度からこれが論じられるようになる。官に公式な身分を持たないティザードは微妙な立場になっていく。それでも国防、特に航空科学で国に役立ちたいとの思いは強く、また航空省・空軍もそれを切に望んでいたので、中将待遇の科学アドバイザー(実質的には空軍参謀長の)のポストを提供し、航空省の中にオフィスを設け数名のスタッフを付けることを決する。その仕事始めの日は1939年9月1日、ナチスドイツがポーランドに侵攻した日であった。この数日後チャーチルはチェンバレン内閣の海相に就任する。
 ポーランド制圧から1940年5月の西ヨーロッパ侵攻開始まで、両陣営(独、英仏)は宣戦布告はしたものの、Uボート作戦を除けば本格的な戦闘は無く、睨み合いだけの“まやかしの戦争(Phoney War)”とのちに称せられるような状態を呈している。しかし、ティザードにとってはこの期間ほど多忙な時はなかった。機載レーダー、航空無線、敵味方識別装置、潜水艦磁気探知装置、低空爆撃解析、夜間空戦実験など八面六臂の活躍である。西部戦線で電撃戦が始まり“まやかしの戦争”が終わった5月10日、ついにチャーチルは挙国一致内閣の首相に上り詰める。これで勝負は決まった。
 ティザードのチャーチルに対する反発は決して人格的なものではなく政治的なものだったし、チャーチルもティザードの科学管理者としての力量は高く評価していたが、国防政策推進の点でティザードが大きな力を発揮する事を好まなかった。予兆は省庁再編成で航空省から航空生産省が分離するところから始まり、重要情報から次第に遠ざけられていく。呼ばれる会議ではいつもリンデマンが進行役を務めるし、チャーチルの指示はリンデマンに向けられる。6月末これに耐え切れずついに辞表を提出する。2ヵ月後英独航空戦(バトル・オブ・ブリテン)が始まり、それに勝利したのはティザードが心血注いで作り上げた防空システムだった。当に天下分け目の戦い。ここから英国は反攻に転じる。
 国防政策立案の第一線からは退いたものの、辞職後も訪米軍事科学ミッションの代表を務め、米国の信頼そして同盟強化に努めるなど、軍事科学オーガナイザーとしてはその後も活躍する。チャーチルは戦時中大英帝国一等勲爵士を与えることを決めるが、ティザードの方から「戦争中だから」と断っている。やはり何か引っかかるものがあったのであろうか?
政治的動きを徹底的に嫌った彼にも有力者から忌避される責任の一端はあったが、科学的視点からの方針決定を譲らなかった彼の行動こそ、多くの科学者・技術者そして兵士たちの共感を沸き立たせ、科学戦に勝利をもたらしたと言っていいだろう。

 わが国の場合環境や原子力行政の周辺で、政治的動きをする学者は枚挙に暇が無い。政治を生業にしない者はやはりティザードのように在りたい。
 (これをもってOR関係者の“科学者と政治”はひとまず終わります。いずれリンデマンやバネバー・ブッシュ(米)を取り上げたいと思っています。ご期待ください)

2009年11月17日火曜日

決断科学ノート-22(科学者と政治-5;ティザードの場合③)

 第一次世界大戦とそれに続く大恐慌は特に敗戦国ドイツに混乱をもたらし、左右の政治対立はしばしば暴力を伴うものとなっていく。1933年軍隊組織を模したナチス党がついに政権を獲得、本格的な再軍備に着手する。たくみなナチスの宣伝は航空兵力を実力以上に誇示し、海が最強の防壁であった島国英国は、それを歴史的な危機と感じ始める。
 これへの備えを検証するために行われた、1934年夏のロンドン夜間防空演習は容易に仮想敵爆撃機の侵攻を許し、「空襲に関する限り英国は無防備」と結論付けられた。どうするか?三つの組織がそれぞれの立場でこの課題に取り組んでいく。一つは英空軍(RAF)の参謀総長をヘッドにした軍人グループ。二つ目は、リンデマンが実務担当者でチャーチルがリードするグループ。三つ目は航空省の技術者を中心としたグループである。この内第一と第三は防空に関する実戦部隊とその行政機関という密接な関係にあり(平時はRAFも航空相の管理下)、第二グループは、陸・海・空三軍全体を対象にする、内閣管轄下の国防委員会(Committee of Imperial Defense;CID)のメンバーの一部である。前者が実戦的・技術的課題を対象とするのに対して、後者は国家戦略の立場からこれに取り組もうとする。
 航空省では研究開発のトップであったウィンペリスが主にこの問題に取り組むことになり、強力な熱線(殺人光線)が最新技術として話題になっていたことから、ロンドン大学の生理科学者であるA.V.ヒル(第一次大戦では対空射撃部隊の指揮官、1922年ノーベル医学生理学賞受賞)にコンタクト、ここから少人数の科学者で防空科学検討グループを立ち上げる案が浮かび上がる。メンバーは、ティザードを委員長に、ブラケット、ヒル、それにウィンペリスと部下のロウ、問題に応じて適宜専門家を加えこととし、組織的には航空省内に設けるがCIDの防空部門とも協力しその責務を果たす、名称は防空科学委員会(The Committee for Science Survey of Air Defense;CSSAD;のちに“ティザード委員会”と呼ばれる;本ノートでは以降T委員会と略す)、と言うものであった。提案が提示され省内の内諾を得たのは11月中旬だが、初会合が開かれたのは翌年1935年1月28日、時間がかかったのはやはりCIDとの関係だった。当時の空軍力は、現代なら核兵器に匹敵する国家安全保障の最重要事項、チャーチルはこの委員会を自分の影響下に置きたかったのだ。また彼の科学顧問、物理学者のリンデマンも政界進出を狙っていた。
 メンバーが最初に合意したことは、ここで取り上げる調査対象は“既存兵器の効率改善や組合せではなく、革新的な防空システムの開発”であると言うことだった。即効性を求める政治家には気に入らないアプローチである。
 音波、熱線、赤外線そして電波の、検知・破壊兵器への利用について検討が加えられ、電波の利用(Radio Detective Finder;RDF、のちのレーダー)が探知システムとして最有力との結論に達する。2月末にはこの分野の先駆者である無線研究所所長ワトソン・ワットの協力を得て初歩的な実験をRAFの技術開発主務者ダウディング(のちの戦闘機軍団長)に見せ、その後の実験へ財政的な支援確約を得るまでになる。しかし、この様な情報がCIDに断片的に伝えられるに従って、活動に横槍が入ってくる。
 チャーチルの真の狙い、防空システム構築の主導権獲得、を実現するために行われたことは極めて姑息な細々した技術的提言とそれらの優先度付けで、ほとんどはリンデマンのアイディアに基づくものであった。それらは、赤外線による探知装置、落下傘や阻塞気球に吊るした空中機雷網、高射砲による無数のワイヤー散布(プロペラに絡ませる)、探知用無線機を空中散布するなどとても“革新兵器”と言えるようなもので無く、T委員会はまともに取り上げることをしなかった(赤外線利用について調査はしているが実用化の可能性無しとしている;現代の空対空ミサイルが赤外線追尾型であることを考えるとあながち間違った提案ではなかったが)。これが二人には気に入らない。チャーチルは保守党指導者のチェンバレンやマクドナルド首相(労働党)に圧力をかけついにリンデマンをT委員会に送り込む。この時チャーチルはリンデマンをティザードに替えて委員長にしたかったようだがさすがにそこまでごり押しすることは出来なかった。
 1935年半ばからのT委員会はリンデマンと他のメンバーの対立(調査研究の優先度に関して)が恒常化する。リンデマン(そしてその後見役チャーチル)の主張は「レーダーの開発とこれを核とする防空システムの研究・開発は10年、15年のスパンなら正しいが、今求められているのは数ヶ月のオーダーなのだ!」と言う、この年の選挙で政権を奪回した保守党が短期に国民に見える成果を出すことにあった。当に政治的インパクトを狙った何ものでもない。1936年7月、建設的な議論が進まない環境に嫌気がさし、ヒルとブラケットが航空相に辞意を表明、ティザードも彼等に従う。ここに至りついに航空相が直接この混乱解決に乗り出し、結局リンデマンを外した新委員会を10月に再スタートさせる。
 それから1年半、ティザードは彼の人生最大の業績といわれる、レーダーを中心とした早期警戒・迎撃システム構築に邁進する。そしてそれは1940年のナチス空軍の英侵攻作戦を封じる決め手となったのである。
 しかし、この時の恨みをチャーチルもリンデマンも決して忘れてはいない。

2009年11月3日火曜日

決断科学ノート-21(科学者と政治-4;ティザードの場合②)

 1919年春、ティザードはオックスフォードに戻り20年2月には熱力学担当の准教授(Reader;Professorの一つ前)に任ぜられる。この間、民間会社と協力して航空エンジンと燃料の関係を研究し、ノッキング状態を示す“トルエン価(のちにオクタン価)”の概念を確立、その計測用特殊エンジン開発などの成果を上げている。純然たる学問よりは実務に密着した研究に優れていた事を示す一例と言える。また、休眠状態にあったクラレンドン物理学研究所再開のためにベルリン大学、そして勤務場所は異なったが空軍の航空実験で交流の続いたリンデマンを大学幹部に紹介し、ここで働く機会を作ることになる。多彩な交友関係と適材を見抜く力も彼の特性なのだ。この時代、二人が後年政治の舞台で仇敵になることなど、まるで窺わせる気配は無い。
 オックスフォードを去る切掛けは、やはり大戦中携わった軍事科学関係者からもたらされる。戦時中(1916年)軍・官・学によって設立された、軍事科学推進母体、Department of Science and Industrial Research(D.S.I.R.);科学・工業研究機構)を再編成することが閣議決定され、その運営会議のナンバー・ツー(Assistant Secretary;AS)として声がかかってくる。
 時期は大学の准教授になったばかりの頃である。新組織、中でもASの役割権限は曖昧。不安にかられつつも“軍事科学”研究への誘惑は絶ち難い。約2ヶ月逡巡した(この間無論具体的な業務やサラリーの確認を行っている)後、1920年6月オックスフォードを退職、9月から国防省に設けられたオフィスで新しい仕事をスターとさせる。
 後年、ティザードはこの時の決断事由を、a)学者としての限界(この時35歳)、b)軍事科学の価値と発展性(未成熟分野)、c)子供たち(息子3人)の教育(サラリー)d)オックスフォードの気候(頻繁に風邪をひいていた)をあげている。
 D.S.I.R.の中で1923年にはPrincipal ASに昇進、1927年には前任者の引退で運営委員会のトップに上り詰め、「国家公務員の中で最も影響力のある科学者」と言われるまでになっていく。活躍の場は科学に留まらず、燃料開発研究で痛感する財源の問題から、ガソリン税の復活(1921年以降無税)を提言、これが当時の財務大臣(Chancellor of Exchequer)、チャーチルに伝わりその実現につながっていく。純然たる科学的問題がそれと拘わる政治問題に転じていく最初の具体例と言っていいだろう。
 こうした管理能力と名声を外の組織も見逃さない。1929年5月、インペリアル・カレッジは彼に学長(Rector)就任の可能性を打診してくる。当時のインペリアル・カレッジは幾つかのロンドンに在る国公立カレッジの寄合い所帯で、それを真に統一された大学に改編する仕事は極めて挑戦的なものであった。一方でD.S.I.R.の長に就任してまだ2年、ここでの仕事も面白い。ティザードは「今すぐならノー。しかし真剣に考える」と返事をし、主管審議官にこの事を伝える。しかし、どう誤解したのか審議官はこの報告を「本当はティザードはこの話を受けたいのだ」と取り、後任を決めてしまう!退路を絶たれた彼は7月D.S.I.R.を辞任する。
 統合カレッジ作りは、所在地と建物の整理統合・再開発、それに伴う財政問題、新しい教育カルキュラム作成や講座の新設など多岐にわたる。折りしも世界的大恐慌の中、大変困難な状況下で進めざるを得ないことになるが、ここでも彼の力は存分に発揮される。その活躍ぶりは、後年「もし30年代にインペリアル・カレッジがティザードを欠いていたら今日の地位・名声は無かったろう」と言われるほど。一方で「これから先10年、危機が迫っているときに、政府は貴重な人材を失った」とも。
 1929年保守党は総選挙に破れ、チャーチルは当選したものの財務大臣辞任、彼にとって“荒野の10年”が始まる。
 早く表舞台に復帰したい目立ちたがり屋のチャーチル、一見運命に身を委ねるように見えるティザード。台頭する軍事大国、ナチスドイツの跳梁を、二人はしばしタッチラインの外から眺めることになる。政治家と科学管理者、立場の違う両者にとってこの時期こそ雌伏の期間であると同時に、充電の時期でもあった。

 歴史は適材を適時、適所に配置する助走を始めていた。

2009年10月26日月曜日

決断科学ノート-20(科学者と政治;ティザードの場合①)

 ヘンリー・ティザードの名前は、第二次世界大戦における科学の役割を論ずる時、必ず真っ先に出てくるほど英国では有名な科学者である。英国防空システムの生みの親としての優れたリーダーシップと、それを実現していく過程でのチャーチルとその科学顧問(最終的には科学ばかりでなく政治的同志となる)、リンデマン(のちのチャーウェル卿)との激しい主導権争いは、OR起源研究で目にしたいずれの書物にも章や項をあらためて紹介されている。
 防空システムは彼の考え通り実現し、バトル・オブ・ブリテンに勝利をもたらすが、それ以前、チャーチルが政治力を強めるに従い国防科学における中心的役割を奪われ、1940年のフランスの戦いとそれに伴うチャーチルの首相就任で、勝負は決定的になる。しかし、戦後明らかになったこの争いの論者たちの評価は圧倒的にティザードに同情的である。“科学に勝ち、政治に敗れた”と。
 ティザードはブラケットのように、特定の政党と関わりを持つことは無かった。むしろ“Politics”を意識的に避けてきたと言ってもいい。これが政治的論争に巻き込まれた最大の要因だったと見る識者もいるくらいだ。
 第二次世界大戦は科学戦であった。欧州では第一次世界大戦でその兆候は現れており、科学と国防は密接に結びついてきていた。飛行機、潜水艦、戦車、電波利用は次の戦争の主役となっていくが、とりわけ島国英国にとって敵(二つの大戦間はフランスも仮想敵国)空軍力は脅威であった。また航空は未だ工業レベルとしては未完・未知の部分が多く科学者が技術者にまして問題解決の役割を担わなければならない時代でもあった。
 ヘンリーの父方の祖父は小さな造船会社の経営者、母方の祖父は土木技師、父は海軍の測量技師(士官)、と言う英国の典型的なミドルクラス出身である。子沢山(姉二人、妹二人)の海軍士官にはパブリックスクールに進ませる経済的余裕も無かったことから、ヘンリーは海軍兵学校の予科に進むが、初年度の夏休み左目にハエが入り著しく視力を低下させ、その道を断念せざるを得なくなる。幸い数学に秀でていたのでパブリックスクールのウェストミンスター校特待生試験に合格、ここでも優れた成績を修めオックスフォードのマグダーレン・カレッジに進み化学を専攻する。1908年卒業後文部省給付学生としてベルリン大学で物理化学(熱力学)の研究に当たり、ここでのちに“Bitter Enemy(不倶戴天の敵)”となるリンデマンと親交を結んでいる。
 オックスフォードに戻った彼が飛行機に興味を持ったのは1914年5月キャンパスで行われた飛行デモだったがこれは純科学的なものだった。軍事航空との関わりは開戦後、砲兵隊で対空射撃の訓練担当士官となり、その訓練方法が上層部の注目を引いたところから始まる。これを切っ掛けに飛行実験隊に配属され、爆撃照準方法の確立に当時の科学の粋を駆使しながら創意工夫を凝らしていく。そこには危険な投下地点での連続写真撮影や未熟な無線技術の活用などもあるが、何と言っても「良い仕事をするためには自ら飛んで見なければいけない」と飛行訓練を志願し、単独飛行が出来るまで打ち込む姿勢である。これがプロの軍人たちの高い評価を勝ち取ることになる。
 爆撃照準器のみならず、速度計、高度計の厳密な測定方法の確立や高性能航空燃料(のちのハイオクタン・ガソリンにつながる)の開発など八面六臂の活躍をし、1918年4月陸軍航空隊と海軍航空隊が合体して独立空軍がスタートすると両者の研究・実験機関も一体化され、その副長に収まるまで昇進する。この少し前にはチャーチルが兵器省担当大臣となり両者の接触が始まっているが、1918年11月の停戦でその関係もしばし途絶える。
 このまま航空実験隊で実学を続けるか、再びオックスフォードで理論の世界に戻るか?いずれにしてもここまでの人生に政治のにおいまだしない。

2009年10月8日木曜日

決断科学ノート-19(科学者と政治-2;ブラケットの場合②)

 政府・国策検討の場から遠ざけられていたブラケットは、その後も講演や雑誌などに政治的発言を積極的にしている。その関心事はおよそ次の三分野に整理できる。核戦略(核軍縮)、後進国救済支援、英国の科学技術振興策がそれらである。いずれのテーマも高度に政治的な問題を含むが、彼の主張の根底には全て科学者としての考え方が貫かれている。それは“科学は、産業を振興し、貧しさからの脱却を図り、世界の平和を実現する最良の手段だ”と言う考え方である(核戦略に関しては、大量殺戮に関する人道的な視点、またアメリカの一極支配に対する警戒感もあるが)。
 この情報発信の間、物理学者としての研究活動に大きな変化が起こっている。戦前・戦時在籍し、長年勤めたマンチェスター大学(1937~53)を去りインペリアル・カレッジに移って、物理学部長としてその拡大計画(財務を含む)実現に深く関わるようになっていく。また本人の研究関心事も、宇宙線→地磁気学・古地磁気学→岩石磁気学へと移って行くのだが、これも“宇宙と地球の関係を物理学で解明する”と言うテーマの中で極めて緊密な関係にあり、機軸は一貫性を保っている。(余談だが、潜水艦磁気探知機の発明・発案は諸説ある。戦時中ブラケットもこの開発に関わっており、英国では彼を実用システムの研究開発者する説が有力;旧帝国海軍の関係者は、航空機搭載用は日本が唯一実用化に成功したと言うが…)
 この様な活動の中で、人々は彼のそれまでの言動の本質を理解するようになり、容共主義者(あるいは共産主義者)と見る誤解が少しずつ解けていく。のちに二度にわたって首相を務めることになるハロルド・ウィルソンと知り合うのは、ウィルソンがアトリー内閣の商務大臣の時で、政府研究機関の成果を民間に普及するための組織、National Research and Development Corporation(N.R.D.C.)のメンバーの一人としてブラケットを選んだ時、1949年からと言われている。このポストは戦時中あるいは学者としての名声かから見れば高い(国の大きな施策に深く関わる)ものではないが、彼の復権につながる切掛けをつくることになる。ここで戦後の先進国の貿易・産業分析(無論OR的に)を行った彼は、敗戦国のドイツにも劣る英国の実情(技術革新、生産性、貿易額など)に危機感を強く持つようになる。しかしアトリー政権は1951年下野、保守党がその後1964年まで政権を担当する。彼はその危機感を在野から訴えるしかなかった。
 1960年の労働党党首選でヒュー・ゲイッケルに敗れたウィルソンは、1963年思いがけないゲイッケルの急死で党首への道が開けてきた。その年の労働党大会でウィルソンはブラケットが提唱していた産業振興策の目玉、生産省(Ministry of Production)構想をぶち上げる。総選挙を予測された翌年、ブラケットは更にこれをN.R.D.C.を母体にした、政府のR&D予算を統括する、科学技術省(Ministry of Technology;MOT)として練り上げ、著名な左翼系週刊誌、The New Statesmanに発表し、ウィルソンもその設立を約束する。
 1964年10月の労働党の勝利とウィルソン政権の誕生でこのMOT構想は実現、初代担当大臣は科学者で作家のC.P.スノー(のちのスノー卿;代表作「The Two Cultures;科学と人間性」)が任ぜられ、ブラケットは省運営委員会の副委員長(委員長はスノー自身)として1969年秋までその地位に留まって、自ら描いた構想を実現すべくこの役職に情熱を注いでいく。特にその前半はまるで副大臣のように彼の考えは全て受け入れられ、仕事の優先度も彼によって決せられたと言う。しかし、ウィルソンが後年「彼が望めば貴族院議員にして大臣にすることも可能だったが、彼はそれを望まなかった」と述べているように、政治的野心とそれによる役得など、全く心の内に無かったようだ。それもあってか、後半はMOTと他省庁との整理統合が進められ、彼の意図とは異なる組織に変貌、居場所を失ってしまう。
 科学と人間を愛することで際立った彼に、その良きバランスをとるために必要な政治性がいま少し有ったらと言うことであろうか?

2009年10月1日木曜日

決断科学ノート-18(科学者と政治-1;ブラケットの場合①)

 科学者が国家戦略と絡む仕事をするようになると、高度に政治的な場に踏み込まざるを得なくなる。純然たる科学・数理・論理で決断することが出来なくなる背景は様々だが、ORの起源に関わった学者たちにもそれは例外ではなかった。これからしばらくこの問題を取り上げていく。
 ORの父と称せられるブラケットは、戦後“ラディカルな左翼”とレッテルを貼られ、ノーベル物理学賞(1948)を受賞するほどの専門家だったにも拘らず、長期に国の原子力施策推進から締め出されている。また、アメリカは“共産主義者”として入国を禁止し、メキシコで開催された学会に参加した帰路、カナダ経由で英国に戻る彼の乗る飛行機がニューヨークで給油する際、搭乗機を離れた彼の身柄を拘束している。戦時中軍事戦略策定にあれほど貢献した彼が共産主義者だったのか?素朴な疑問がわいてくる。勿論ノーなのだが、そう誤解させる言動は確かに随所に見られる。
 OR歴史研究のため滞英中師事したランカスター大カービー教授(経済史)は「あの時代(ロシア革命から世界大恐慌、そして第二次世界開戦に至るまで)にオックスブリッジで学んだ学生は、程度の差こそあれ社会主義こそ理想の政治理念と信じていたからね」とその時代の英国知識人について解説してくれた。
 彼の出自にその芽はあるのだろうか?父方の祖父は牧師、父はロンドンの株式仲買人、母方の祖父は陸軍少佐でインドにも勤務。本人は9歳の時パブリックスクールへ進むための予備校に入学しているから階級は典型的なミドルクラスと言って良い。その後パブリックスクールへ進まず海軍兵学校(予科→本科)で学び、士官候補生として第一次世界大戦に参加している。この間家族や彼の周辺で政治思想に影響を与えるような異変は見当たらない。何度か願い出た航空兵科への転属が成らなかったのが挫折と言えば言えないことも無いがこれが政治的信条を変えたとも思えない。
 19世紀末期“友愛”をモットーとし、穏やかな社会変革を目指して設立され、労働党の起源ともなるフェビアン協会のメンバーになるのは海軍退役後のケンブリッジ時代である。どうやら心境の変化は、海軍末期からケンブリッジ初期にあるらしい。1922年には労働党の候補者として立候補を乞われるがそれには応じていない。“政治そのもの”に強い関心があるわけではなかったようだ。
 少し彼に関する文献・書物を追って、この時期の彼の心の内を推し量ると、いくつかの不安定要因が浮かび上がってくる。一つは軍艦内における厳しい階級差別に対する反発である。士官である彼が上級者と差別されることよりは士官と下士官・兵の間のそれである。二つ目はケンブリッジに残るヴィクトリア朝封建・権威主義でこの雰囲気になじめなかったようである。第三は師であるラザフォードの関心が研究仲間の一人、ロシア人のピーター・カピッツァに向き勝ちな点である。第三の問題は直接社会・政治思想とは無縁だが、第二の問題意識を助長したに違いない。
 階級差別や権威主義への反発の基にあるものは弱き者、貧しき者への友愛である。そしてそれを解決するのが科学であると言う信念だ。彼ののちの政治的活動を見ているとこの軸はぶれることがない。
 戦前・戦中時の実力政治家、為政者と激しく対立することになる“無差別爆撃反対論(当初は戦略爆撃無用論)”はその典型的な例と言える。第三の軍種として空軍が誕生する拠りどころは、爆撃機によって敵国の軍事中枢(政治、、軍事、経済・産業の)を長躯飛行して叩くことに依り勝利する考え方にあった。しかし、若い頃海軍の砲術士官を務め、科学者として空軍省航空研究委員会で爆撃照準器の開発に当たった経験から、精密爆撃はきわめて難しく、一般市民を巻き添えにする無謀で残虐な方法であると強く反対する。内務省で爆撃被害分析に当たっていたザッカーマンも各種データーからブラケットの考え方を支持する(ブラケットのこの考えの先には、実効の薄い無差別爆撃に大量の爆撃機を投ずるよりも、真に国家存亡の危機である対Uボート作戦に爆撃機を振り向けるべきと言う資源配分問題があった。この問題提起にはチャーチルも惹かれるところがあったようだが・・・)。
 これに対して、英本土航空戦(バトル・オブ・ブリテン)で都市爆撃を受けた英国の大衆・ジャーナリズムは「やられたらやり返す」考えに傾いていき、チャーチルもそれで軍・民の士気を高めようとする。結局ブラケットの考えは入れられず、ドイツ大都市;ハンブルク、ドレスデン(これは主に米軍だが)、ベルリンなどへの無差別爆撃が行われ、都市の壊滅的破壊と大量の民間人死傷者を出すことになる。
 戦後この民間人大量殺戮は英国内でも問題として取り上げられるが、政治家は爆撃機軍団とその長に責任を押し付けて頬かむりを決め込む。
 広島・長崎に対する原爆投下は当然ブラケットの考えと相容れない。英国の原爆開発(1940年からその計画があった)、米国による核物質国際管理案に彼は激しく抵抗する。これが“親ソ主義者”“ラディカルな左翼”はては“共産主義者”と呼ばれることになる真相である。戦後政権をとった労働党、アトリー内閣すら彼を国防・原子力政策から締め出し、復活を見るのは1960年代のウィルソン政権になってからである。