科学者が国家戦略と絡む仕事をするようになると、高度に政治的な場に踏み込まざるを得なくなる。純然たる科学・数理・論理で決断することが出来なくなる背景は様々だが、ORの起源に関わった学者たちにもそれは例外ではなかった。これからしばらくこの問題を取り上げていく。
ORの父と称せられるブラケットは、戦後“ラディカルな左翼”とレッテルを貼られ、ノーベル物理学賞(1948)を受賞するほどの専門家だったにも拘らず、長期に国の原子力施策推進から締め出されている。また、アメリカは“共産主義者”として入国を禁止し、メキシコで開催された学会に参加した帰路、カナダ経由で英国に戻る彼の乗る飛行機がニューヨークで給油する際、搭乗機を離れた彼の身柄を拘束している。戦時中軍事戦略策定にあれほど貢献した彼が共産主義者だったのか?素朴な疑問がわいてくる。勿論ノーなのだが、そう誤解させる言動は確かに随所に見られる。
OR歴史研究のため滞英中師事したランカスター大カービー教授(経済史)は「あの時代(ロシア革命から世界大恐慌、そして第二次世界開戦に至るまで)にオックスブリッジで学んだ学生は、程度の差こそあれ社会主義こそ理想の政治理念と信じていたからね」とその時代の英国知識人について解説してくれた。
彼の出自にその芽はあるのだろうか?父方の祖父は牧師、父はロンドンの株式仲買人、母方の祖父は陸軍少佐でインドにも勤務。本人は9歳の時パブリックスクールへ進むための予備校に入学しているから階級は典型的なミドルクラスと言って良い。その後パブリックスクールへ進まず海軍兵学校(予科→本科)で学び、士官候補生として第一次世界大戦に参加している。この間家族や彼の周辺で政治思想に影響を与えるような異変は見当たらない。何度か願い出た航空兵科への転属が成らなかったのが挫折と言えば言えないことも無いがこれが政治的信条を変えたとも思えない。
19世紀末期“友愛”をモットーとし、穏やかな社会変革を目指して設立され、労働党の起源ともなるフェビアン協会のメンバーになるのは海軍退役後のケンブリッジ時代である。どうやら心境の変化は、海軍末期からケンブリッジ初期にあるらしい。1922年には労働党の候補者として立候補を乞われるがそれには応じていない。“政治そのもの”に強い関心があるわけではなかったようだ。
少し彼に関する文献・書物を追って、この時期の彼の心の内を推し量ると、いくつかの不安定要因が浮かび上がってくる。一つは軍艦内における厳しい階級差別に対する反発である。士官である彼が上級者と差別されることよりは士官と下士官・兵の間のそれである。二つ目はケンブリッジに残るヴィクトリア朝封建・権威主義でこの雰囲気になじめなかったようである。第三は師であるラザフォードの関心が研究仲間の一人、ロシア人のピーター・カピッツァに向き勝ちな点である。第三の問題は直接社会・政治思想とは無縁だが、第二の問題意識を助長したに違いない。
階級差別や権威主義への反発の基にあるものは弱き者、貧しき者への友愛である。そしてそれを解決するのが科学であると言う信念だ。彼ののちの政治的活動を見ているとこの軸はぶれることがない。
戦前・戦中時の実力政治家、為政者と激しく対立することになる“無差別爆撃反対論(当初は戦略爆撃無用論)”はその典型的な例と言える。第三の軍種として空軍が誕生する拠りどころは、爆撃機によって敵国の軍事中枢(政治、、軍事、経済・産業の)を長躯飛行して叩くことに依り勝利する考え方にあった。しかし、若い頃海軍の砲術士官を務め、科学者として空軍省航空研究委員会で爆撃照準器の開発に当たった経験から、精密爆撃はきわめて難しく、一般市民を巻き添えにする無謀で残虐な方法であると強く反対する。内務省で爆撃被害分析に当たっていたザッカーマンも各種データーからブラケットの考え方を支持する(ブラケットのこの考えの先には、実効の薄い無差別爆撃に大量の爆撃機を投ずるよりも、真に国家存亡の危機である対Uボート作戦に爆撃機を振り向けるべきと言う資源配分問題があった。この問題提起にはチャーチルも惹かれるところがあったようだが・・・)。
これに対して、英本土航空戦(バトル・オブ・ブリテン)で都市爆撃を受けた英国の大衆・ジャーナリズムは「やられたらやり返す」考えに傾いていき、チャーチルもそれで軍・民の士気を高めようとする。結局ブラケットの考えは入れられず、ドイツ大都市;ハンブルク、ドレスデン(これは主に米軍だが)、ベルリンなどへの無差別爆撃が行われ、都市の壊滅的破壊と大量の民間人死傷者を出すことになる。
戦後この民間人大量殺戮は英国内でも問題として取り上げられるが、政治家は爆撃機軍団とその長に責任を押し付けて頬かむりを決め込む。
広島・長崎に対する原爆投下は当然ブラケットの考えと相容れない。英国の原爆開発(1940年からその計画があった)、米国による核物質国際管理案に彼は激しく抵抗する。これが“親ソ主義者”“ラディカルな左翼”はては“共産主義者”と呼ばれることになる真相である。戦後政権をとった労働党、アトリー内閣すら彼を国防・原子力政策から締め出し、復活を見るのは1960年代のウィルソン政権になってからである。
2009年10月1日木曜日
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