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2016年3月15日火曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-41


14.次なる役割
1988年取締役に就任してから5年余が経過した。この間、SPINは大変革し、1988年には120名弱の従業員は約230名まで倍増、売上高は約22億円から50億円を突破するまでになっていた。これに伴い、東燃本社内に間借りしたり品川に分散配置されていたオフィスも、他の子会社と共同で一棟借りした飯田橋の新設ビルに統合され親離れが加速した。また顧客も石油・石油化学では東燃グループの競合相手のほとんどが取引先となるばかりか、総合化学やセメント、ガラスさらには食品、薬物・血液検査になどにも広がり、 “プロセス特化”のシステムインテグレータとして業界での存在感を示せるまでに成長した。
ただ問題が全くなかったわけではない。会社発足の動機となり、収益性の高かったExxonIBMの共同開発製品、プラント運転制御用パッケージACSの引き合いに陰りが現れていたし、売上の過半を占める受託開発はバブル経済崩壊の下で厳しい競争を強いられ始めていた。また、グループ内向けサービスも石油業規制緩和による経営環境変化によって、株主から競争購買など一層のコストカッティング策を強く求められようになっていた。つまり、技術システムも事務システムも、売上は順調に伸びても収益がそれに伴わなくなってきていたのである。これに対応するにはシステム構築計画段階から設計・開発、さらに運用・保守に至る一貫サービスを提供できる態勢が好ましい。ITユーザーから発したSPINゆえに、このようなサービスの知見はあるものの、新規採用者が増えるとその濃度が薄まっていく。このことはユーザー知見のみならず、新規技術の点でも言えた。この時期ネ(ネットワーク)・オ(オンライン)・ダ(ダウンサイジング)・マ(マルチメディア)が一気に進のだが、これらの技術を東燃グループ内で修得する機会が著しく限定されていたことである(高度成長期のように新規プロジェクトが目白押しというわけにはいかない)。ユーザー知見はあっても、新しい技術の知識がなければ、有利な条件で受注することが出来ない。
加えて、一貫受注に成功し、確実に利益を確保するにはプロジェクトマネージメント能力、プログラム開発の生産性の高さが必須である。この辺りの問題は東燃時代から経験しており、Exxonの手法など海外まで出かけて学んでいた者も居たが、SPINが他を圧倒するようなレベルではなかった。
つまり1993年末頃の状況は、“先々に課題を抱えた、一見順風満帆の航海”と言うのが現実であった。
年末の決算をまずまずの成績で終え(経常利益約2億円)、19941月初め予て予定されていた台湾でのプロセス工業向けセミナーに講師の一人として参加、帰国すると本社社長室から「NKH社長からお話がある」と呼び出しがかかった。告げられたことは「来年度から社長をやってもらう。SMZ現社長は顧問にするので、どんな経営陣にするか考えておくように」とのことであった。今まで2代の社長はいずれも東燃役員からの天下りだったし、他の子会社も概ね同様だったから、チョッと意外な感じを持ったが、「SPINならやってける」との自信はあった。自社に戻りそれをSMZ社長に報告すると「NKH社長とは既に話をしている。MYIさん(同期入社の取締役)は常務に昇格し、TSS(東燃システムサービス;SPINの子会社で清水工場内に在る)の社長を兼務してもらう。あと一人は君が考えるように(OMR常務は1年前に別の子会社に移っていた)」とのこと。まず浮かんだのはシステム計画部長のTKWさんである。彼とはTCS(東燃コントロールシステム)外販を東燃テクノロジー(TTEC)で始めたときからの戦友、SPINの初代技術システム部長もであったから、NKH社長を含めどこからも異論はでないと読んでいた。
しかし、直後に二つの激震が走る。1月末TKWさんが脳梗塞で倒れ、2月には私に内示を出したNKH社長の退任が新聞紙上に出る。英紙(フィナンシャルタイムス)も含め、大株主(ExxonMobil)の意向であること解説していたが、それ以外に考えられない。「SPIN生みの親であるこの人が去ると、この会社はどうなるのであろうか?」そんな不安を抱えながら、3月末までを過ごすことになる。

-第Ⅱ部完-


これでSPIN経営第Ⅱ部(取締役時代)を終えます。長い間閲覧いただきましたことに感謝いたします。何度も中断したことを深くお詫びするとともに、第Ⅲ部(社長時代)を一休みした後立ち上げる予定ですので、そちらの方も引き続き閲覧いただけるよう、よろしくお願いいたします。

2016年3月13日日曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-40


13CIMシステムインテグレータへの歩み-2
この時代プラント操業管理については、プラント運転・制御、生産管理、保全管理、品質管理、環境管理までかなりパッケージ利用が進みつつあったが、それから先、工場の総合的な管理、さらには全社の経営管理レベルになるとまだまだ手作りシステムが大勢だった。少し大胆に整理すると、工場の中心は生産設備、どこも同じものでなければ戦えない。一方、全社運営は経営環境を踏まえた独自の考え方・やり方こそ差別化・生き残りのポイントであり、こんなところにパッケージ利用が今ひとつ進まぬ要因があったように思う。しかし、ITがいたるところにおよんでくると、技術・経営環境変化への即応やシステムの保守に人手も時間もカネもかかるようになり、自社専用システムの開発・維持が問題視されるようになってくる。
私が初めてSAP(この時はエス・エイ・ピー、のちにサップと呼ばれるようになる)と言う言葉を耳にしたのは1992年頃だったと記憶する。年2回開かれる東燃との合同役員会の席で、新任役員のSTNさんがモービルオイルの海外製油所(確かヨーロッパだった)を視察した際の見聞談があり、そこに製油所のデータが本社のSAPに取り込まれるようなシステム構成図が示され、本社諸機能に関する基盤情報システムの位置付けにあるとのことだった。彼はこの分野の専門家ではなかったから、IBM汎用機の上で動いている外販のパッケ-ジということまでしか報告はなかった。しかし、既にグループ会社の中で“総合事務管理型パッケージ”が利用されていることを知るだけでインパクトは大きかった。「何とかSAPなる製品あるいは会社について知りたい。できれば日本に知れわたる前に」とそれとなくアンテナを張りめぐらせていると、日本IBM筋から「ドイツの会社である。SAPとはSystem Application Packageの略。設立者は元独IBMのセールスマン二人、彼らは独化学企業やICI(英国の化学大企業)などを顧客にしていた。オリジナルは汎用機で動くものだったが、ダウンサイジング化に取り組んでいるようだ」との情報を得た。さらにしばらくして当時日本IBM製造業担当のKRS常務の下に在ったメンバー限定の小さなサロンに出席した際、東洋エンジニアリングの人から「代理店交渉をしたが相手にされなかった」との話が出て、これに応じてIBMのメンバーから「日本語化はプライスウォータ日本法人がやるようだ」との補足があった。これでCDS社やOSI社同様の手(日本語化に依る総代理店)は無理筋だと知らされる。
「他にこの種のソフト(現在ERPと呼ばれているもの;Enterprise Resource Planning)は無いか?」と探っていると“Baan”(オランダ)というものが網にかかってきた。しかしどうやら組立加工向けらしい。そんなある時(1993年秋)日揮・日本DECを経て中途入社したKABさんが、駐日米大使館商務部門が帝国ホテルで開いたソフトウェア中心のトレードショウに出かけRoss Systemsと言う会社のPROMISと言う製品を見つけてきて、「担当者と話をしたところ、しばらく日本に滞在するようなのでコンタクトする機会を設定しましょうか?」と報告をかねて問いかけてきた。新宿のハイヤットリージェンシーにKABさんと出かけ副社長のJSWと製品や会社の話を聞くと、元々の製品は英国製で顧客対象は食品・薬品、これをRoss社が買い取り、機能改善・強化して米国の中小・中堅向けERPパッケージとしてビジネスしていることが分かった。会社はNASDACに上場しているとも言う。「プロセス工業特化のERP」が見つかった!」 のちにSPINの経営に良くも悪くも大きく影響することになる、Ross社とのこれが最初の関わりである。PROMISはやがてRenaissanceと製品名を変え、SPINはこの製品の日本総代理店となるが、これらの詳細はこのSPIN経営-第2部の後に続くSPIN経営-第3部で報告する。

(次回;次なる役割;取締役時代総括)


2016年3月9日水曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-39


13CIMシステムインテグレータへの歩み
会社設立当初にはシステムインテグレータと言う言葉は無かった。情報システムの構想作りから、システム開発、プラットフォームとなるコンピュータや通信システムを調達し、そこに開発したアプリケーションソフトを載せ、実用に供するまで、一貫サービスを提供するのがその役割なのだ。SPINが目指したのはこのようなサービスを主に広義の化学プロセス顧客対象に行うことだった。IBMACS、横河電機のCENTUM、会計や購買業務の受託開発などでそれらを実現し、その後米CDS社の生産管理システムMIMIなども戦列に加え、独自のポジションを業界に確保しつつあったものの、汎用機ベースのACSは峠を越し、代わるプラント運転のリアルタイムデータ収集処理システムが求められつつあった。幸いこれはOSI社のPIを導入することで一応道筋が出来た。
しかし、これだけでは化学プロセス企業の統合的な情報システムを構築できるわけではない。プラント保全管理、品質管理、受注出荷管理などが工場管理の面で必要だし、本社サイドでもこれら工場情報システムとリンクする、多くの経営管理用情報システムが整備されなければ、ITを活用した全社ベースの新しい経営システムは完成しない。その理想の姿がCIMComputer Integrated Manufacturing)システムである。
先ずプラント保全管理システムについては、東燃グループ向けに1980年代初めから、HPのミニコン(HP-1000)をプラットフォームにしたMOSMaintenance Online System)と称するシステムが、計装・電気、回転機械(ポンプ、コンプレッサーなど)、装置(配管、塔槽類など)向けに順次開発され、実用に供されていた。これをUNIXベースのワークステーションに置き換えるプロジェクトが立ち上がっており、オリジナルに手を加えて外部販売も可能なようにして、PLAMISPLAnt Maintenance Information System)と名付けて売り出すことにした。この機能強化システム作りに寄与したビジネスに1990年代初期の韓国油公向けプラント保全システム開発支援がある。このシステムの核はMOSなのだが油公はこれをそのまま導入するのではなく、当時最新の情報技術と東燃のプラント保全方式を参考にして、新しい保全体制を作り上げようと意図するものだった。従って、このビジネスはSPINばかりでなく、東燃テクノロジー(TTEC)と共同で当たり、SPINは油公とTTECからも学ぶことが多かったのである。またMOS開発時代から化学工場のプラント保全や副資材(触媒や添加剤など)用在庫・倉庫を持っていたので、それをPLAMISの中に組み込んだりもした。お蔭で、PLAMISは石油関連会社ばかりではなく、トヨタの関係会社(スティールコイルセンター)から引き合いを受け、受注するほど顧客対象を広げることにつながった。
2の商品は、これも石油化学(TCC)が先鞭をつけグループ内の工場試験室で使われた品質管理システムである。小型プロコンをプラットフォームした既存システムもダウンサイジングの環境下でワークステーションへの置換えニーズが高まり、Lab-Aidという名のもとに石油・石油化学以外にも使える新規機能を盛り込んで、食品や薬品、環境測定などへの用途も勘案して鋭意開発されていた。
と言うような訳で、1993年末頃までには、概ね化学工場向けの情報システムに関しては、一応品ぞろえも整ってきていた。問題は、これら個別のシステムを結びつけること、さらに連動する事務関係(販売・経理・購買など)システムを、本社を含めて如何に構築していくかであった。事務系や経営管理分野にもパッケージ利用の波がひたひたと迫りつつあり、受託開発で安穏としてはいられない時代がそこまで来ていた。

(次回;CIMシステムインテグレータへの歩み;つづく)


2016年3月6日日曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-38


12OSIPI3
結局前夜のパーティにPatは現れなかった。「翌日のトップバッターなのに何かあったんだろうか?」そんなことを思いながらその夜は終わった。翌朝朝食の場でも何人かに「Patは来てるかい?」と問うが、誰も見かけていないとの返事。しかし、全体セッションが始まると、そこにはちゃんとスピーカーが居る。チェアーマンがPatの紹介の中で初めに言ったことは「昨日今シーズン最後のインターハイフットボール試合があり、息子がその試合に出場していたので、それが終わってから、夜を徹してカリフォルニアからクルマを飛ばして、先ほど到着したばかりだ」とのこと。どうもその試合は全米高校地区代表による決勝戦のようなものらしく、アメリカ人たちは一斉に歓声を上げ拍手喝采。Patも嬉しそうに手を振ってそれに応える。辛気臭い学会ムードはまるでない。これがPatとの初対面である。講演内容は先に挙げた文献内容に若干それ以降の新しい技術開発結果を反映したものだったので、内容理解も充分出来た。
午前のセッションが終わると昼食時直ぐに彼のところに行き、自己紹介と学会後の訪問を確認した。私は参加前に彼がここへ来ることをプログラムで知っていたが、彼の方はそんなチェックは行っておらず、たいそうびっくりしていた。あとあと付き合ううちに分かってくるのだが、割とずぼらなところがあり、「ああ、日本から誰か来るのは覚えているが、何日だっけ?」などと問い返され、こちらが唖然としてしまう。
彼は学会にフルタイム参加はしておらず、一泊しただけでカリフォルニアへ帰ったが、私は金曜までそこに留まり、デンバー経由で二人のバークレー時代の友人が待つダラスに出た。卒業来10年ぶりの再会を喜び合い、それぞれの家族と土日を過ごした後、月曜日の朝ダラスを発ちオークランドに向かい午後到着。タクシー乗り場でOSIの住所を書いた紙を運転手に示すと、他のドライバーを何人か集めて相談を始める。「住所はおおよそ分かるが、こんな会社在ったけ?」と言う雰囲気である。「まあ、行ってみるか」と走り出すと10分もしないうちに、工場や倉庫のような建物が並ぶ一画にクルマを停めて「この辺りのはずなんだが?」と辺りを窺がうが、看板も人気もないのでいかんともし難い。するとひとつの建物から若い女性がタクシーに向かってやってくる。「Mr.Madono?」で運転手も私もホッとする。案内されたのはブロック外壁・トタン葺きの(様な)平屋、年代物の建物だ。Patが入口で待っており、直ぐ社長室に招じ入れられた。そこでまたびっくり。広い部屋ではあるが、床の上まで書類や雑誌が積まれて乱雑なことこの上ない。
そんな部屋で自己紹介もそこそこに商談を二人で始めた。OSI製品PIを日本で取り扱うことに特に問題は無かったが、“総代理店”になる話はすんなりいかない。と言うのもOSIは既にグローバル展開を始めているものの、どこにも独占的な販売権を与えることはしていなかったからだ。Patは「PIは誰がどこで売ってもいいんだ。だから日本だけ例外は認められない」とのこと。実はそれに対する対案は考えてあった。「ではPIの日本語化をSPINが行い、それに関しては国内で独占的に扱わせてほしい」とボールを投げ返した。それに対して「日本語化もここで進めているところなんだ」とさらに投げ返してきた。これは予期せぬことだったが「どんなものだか見せてもらえるか?」と言うと「見せてやろう」と倉庫様の中の一室に案内してくれ、一見日本人風のスタッフを紹介してくれ「彼が専門SEと開発しているんだ」とデモを行うよう命じる。酷い製品だった。日本人風のスタッフはTKRT(日本姓)と言う父親が日系米人、母親が白人の混血、夫人は日本人とのことだが本人は完全に米国人、日本語は片言会話程度、読み書きは出来ない。開発者は中国系だがこれも米国人。漢字の理解はある程度あるようだが、KRT[同様読み書きは出来ない。加えて漢字のフォントが稚拙で、とても日本で使えるような代物ではない。Patも含めた3人の前で率直に「これでは日本で売れないばかりか、かえってPIの評判を落とす」と言ってやった。担当者が反論するかと思ったが、意外にも二人ともこちらの言い分に納得。再び社長室に戻るとPatは日本語システム開発と総代理店をSPINに任せると認めてくれた。これがのちの主力商品の一つになるPIビジネスの始まりである。

(次回;総合CIMインテグレータへの歩み)


2016年2月20日土曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-37


12OSIPI2
OSIとの接触が始まったのは、この年の4月ソウルで開かれた韓国化学工学会で「我が国プロセスCIMの現状と課題」を発表する前後だったと記憶する。と言うのもOSI訪問が米国で開かれる予定のPSEProcess Systems Engineering)関連国際学会の後だったからである。この国際学会はFOCAPOFoundations of Computer Aided Process Operations)と略され、2年毎にプラント設計、プラント運転、プラント保守におけるコンピュータ利用をテーマにコロラド州の避暑地で夏休み中に開催され、化学工学会の関連研究会が毎回メンバーを送っていたものである。過去の組織委員やプログラム委員には日本の大学の先生方も名を連ねており、その関係で声を掛けられ、企業からも何人か毎回参加していたようである。この年私が参加することになったのも、PSEの世界でよく知られ、経営システム研究会でご一緒していた筑波大学経営大学院教授の梅田先生から「調査結果を是非発表して欲しい」と誘われたことによる。韓国の発表は前年末に決まっていたし、同じ資料で話をすればいいので二つ返事でお受けした。
OSIPatとのやり取りが始まった時、この会議の後に訪問スケジュールを組んだ(そのことを特に明記しなかったが)。先方から「それでOK」の返事をもらったのは連休前後。しばらくするとFOCAPO事務局から開催案内が送られてきた。日本からの発表は私(“Outlook for CIM in the Japanese Process Industries”)の他に出光興産の名原さんが“Total Productive Management in the Refinery of the 21st Century”と題するテーマでプレゼンテーションを行うことが記させており、このセッションのチェアマンには、これもプラント事故解析で著名な東工大の大島先生が当たることがわかった。さらに驚いたことに旧知でMIMI(生産管理ソフトウェア)販売提携関係にあるCDS社創設者のTom Bakerの名前が発表者(“An Integrated Approach to Planning and Scheduling”)として載っているではないか!「これだけ知り合いが居れば気が楽だ」そんな気持ちで、再度プログラムを見直してびっくり!月曜日のトップに“Data Treatment and Applications” P. Kennedy, Oil Systems Inc.,とあるではないか!同じ会議の発表者同士であったわけである。
会議開催前日717日シアトルからデンバー経由で開催地クレステッド・ビューに向かった。デンバーからは小型プロペラ双発機、同乗者の中に同じ会議に参加するATTの女性エンジニアが居り、その人が借りた四駆(雪が残っているかもしれないのでこれを予約したらしい。確かにホテルから先にまだ閉鎖されている道があった)でホテルまで同道、ここで日本からのメンバーと顔を合わせた。大島先生、梅田先生ともご夫人とご一緒、すっかり避暑気分である。こんな学会は初めてであるが、学年度が変わるこのシーズン、欧米ではこんな方式が一般的であるらしいことを後で知った。
18日は日曜日、午後からキーノートセッションが始まり、夜はパーティ。Patを探したがどうやら来ていないようだ。ここでTomにも会い、よもやま話をしているうちに会議後の予定になった。「先ずテキサスの友人を訪ね、次にオークランドに移ってOSIPat Kennedyを訪れることにしている」と話すと「ウーン?」と言う表情をして何やら意味ありげにニヤッとする。口したのは「彼はクレイジーだぞ!」「エッ?どう言うことだい?」「(WindowsNTに入れ込んでいるんだ!信じられるか?Windowsだぞ!あんなものがプラントで使えると思うか?」 NTNew Technologyの略、次期PCOSとしてマイクロソフトが鋭意開発しているものの、ベースは(しょっちゅう止る)個人用・オフィス用と本質は変わらない。誰も工業用(特に生産現場)で使えるとは思っていない時期である。「確かにクレイジーだ!」

(次回;OSIPI;つづく)


2016年2月14日日曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-36


12OSIPI
文献の著者名の下にはOil System Inc.(以下OSIと略す)とあり、論文最後の著者紹介には、カンザス大学で化学工学の学位(BSPhD)をとった後、Shell DevelopmentShellの米国研究機関)やTaylor Instrumentなどでキャリアーを積み、今の会社を設立としたと記されていた。ShellTaylorはよく知っていたが、OSIはいかにも石油に関係が深そうな名前だが、全く知らなかった。また、論文中に登場したPI(あとで知るが、Process Informationの略、彼らは“パイ”と呼んでいた)言うソフトウェアも直ぐには何も思いつかなかった。手掛かりになるのはどうやらこのソフトがDEC社製PDPミニコンの上で動いていることらしいとの情報だけだった。
 1992年度の売上・営業利益も一見順調に推移し(売上高;約46億円、営業利益;約13千万円)、親会社もそれなりの評価をしてくれていたが、気になることは売上高に対する利益率が低下傾向にあることだった。主因は最も利益率の高いIBM製品ACS関連サービス需要に陰りが見え始めたことにある(いたるところで「いまどき汎用機ベースはないでしょう」と揶揄された)。年を越すと「プラント操業管理用基幹ソフトの新しいものを探さなくては!」が経営企画・技術システム担当役員として焦眉の急になってきた。
1992年末以降しばらく関わることはなかったPI、他のプラントリアルタイム処理ソフトにも特に目を惹くものは見当たらなかったことから、取り敢えずこれへのアプローチを探ることにした。
先ず調べたのはOSIと言う会社だが、あとで分かることだが従業員数十名の零細個人企業、まるで取っ掛かりが見つからない(今ならGoogle検索もあるが)。日本IBMや日本DECに調査を依頼しても、直ぐには何の情報も返ってこなかった。実はこの年初、前年化学工学会経営システム研究会で広範な調査を実施した「我が国プロセスCIM実態調査」の結果を夏に米国で開かれる関連学会で発表するよう依頼されていたので、その時にでも現地でこの会社の手がかりを求めることも考えていた。そんな矢先、日本DECの営業マンからOSIの電話番号・FAX番号が分かったとの連絡がきた。いきなり電話で話すには背景もあり、短い時間では無理と考え、一先ずFAXで「文献を読み貴社とPIに興味を持った。夏に渡米する機会があるので、立ち寄らせ、話をさせてくれないか」との問い合わせメッセージを送った。しかし無しのつぶて。DECから提供された情報には何故か(米国企業にもかかわらず)ドイツの電話番号とFAX番号も付されていた。仕方なく今度は此処へ同じ趣旨のFAXを送ってみた。やはり返事は来なかった。だがそれから2週間くらい経ったころ、論文の著者名を記したFAXが米国からやっと届く。内容は「そちらは何の会社か?当社へのコンタクトは一体何が目的なのか?」単刀直入である。これもあとで分かることだが、ドイツのOSIPatrick Kennedy(以下Patと略す)の大学時代、さらにShell Development時代の友人でドイツ人、OSIヨーロッパ法人を経営していたのである。彼から「変なFAXが来たけれど・・・」と連絡が入ってのことだったらしい。
こちらの返事には「ExxonMobilの関係会社東燃の子会社でプロセス工業を主たる顧客に持つ情報サービス会社であること、調査の上で出来ればPIを日本で販売したい」旨記し「既に日本で取り扱っている会社はあるか?」と付記した。折り返し直ぐに「主旨は分かった。いつでも来社を歓迎する」「日本とのコンタクトは、海外で千代田化工とあるが日本国内に販売代理店は無い」と言うものだった。「上手くするとMIMI同様国内総代理店になれるかもしれない」これが次期主力商品具体化への直接コンタクトの萌芽であった。

(次回;OSIPI;つづく)