2026年9月30日水曜日

今月の本棚-218(2026年9月分)


<今月読んだ本>

1) 書物を楽しむ(林望);朝日新聞出版社(新書)

2)世界は知財でできている(稲穂健市);講談社(現代新書)

3)戦闘力(マーチン・ファン・クレフェルト);日本経済新聞出版社

4)ジョークで読み解く「ロシア近現代史」(名越健郎);PHP研究所(新書)

5)一外交官の見た明治維新(アーネスト・S・サトウ);講談社(学術文庫)

6) 私とプラモデルの半世紀(松井康真); 中央公論新社(新書)

 

<愚評昧説>

1)書物を楽しむ

-「活字は紙に限る!電子本など真っ平だ!」「本は借りて読むな!図書館は無料貸本所」 リンボウ先生の過激書籍論満載-

 


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代半ば頃から、仕事を引退したら英国に渡り、軍事における数理活用の歴史を学ぼうと考えるようになった。それまで英国を訪れる機会は皆無だったし、英国人との交流もほとんど無かった。そんなことから、英国事情を知るため、先ず日本人の著わした英国滞在記、紀行文・エッセイを読むことを始めた(古いところでは漱石「倫敦塔」、長谷川如是閑「倫敦!倫敦?」もある)。そんな折り行き当たったのが本書著者のいわばデヴュー作品である「イギリスはおいしい」(1991年日本エッセイスト・クラブ賞受賞)、研究活動のため、ケンブリッジやオックスフォードで過ごした日々を、食生活中心に描いたエッセイである。食に関する話題は何も覚えていないのだが、強く印象に残ったのは、我が国古典文学(著者の専門分野;源氏物語の翻訳もしている)の写本の多くが両大学にあり、そのための渡英だったことである。日本よりも英国?!驚きと伴に垣間見たのが書誌学の世界である。本書はその書籍に関する専門家が著わした、最新の書物・読書事情を語るエッセイである。

著者は1949年生れ、都立戸山高校から慶大文学部(国文)に進み、大学院博士課程修了後いくつかの大学で教職に就いているが、現在は在野の研究者・作家として活動している。父は未来学の先駆者(未来学会会長)林雄二郎、伯父(父の兄)は健太郎(歴史学者、東大総長)、もう一人の叔父(父の弟)四郎も筑波大学名誉教授(国文学)という、学者として名門一家の一員でもある。本書の中で、学者生活の苦労話や家族の話題もしばししば語られ、ある種の自伝とも言える内容だ。

副題は-あえて今、紙の本を読む理由-、帯に-電子書籍なんて、まっぴらだ!-、とあるように、本書は「反電子本」の性格が強く、そこが一つの読みどころである。また、まえがきに「読書論」よりは「書物論」である、とことわっているように、自身の読書法・蔵書の扱い、書誌学(古典翻訳を含む)、出版、書評、古書店、図書館など、諸々の切り口で書物を語る内容になっており、学ぶことの多い一冊であった。

第1章は「活字は紙に限る」;私とまったく同じなのは読書法、赤線を引き、余白にコメントを書き込む、紙の本へのこだわりは、ここにある。電子本も最近は多様なマーキング方式を導入しているが、紙との差は依然大きい(著者はPC利用の先駆者。文中からもその能力の高さがうかがえる)。

これを受けて第2章は「電子書籍7つの大罪」;ディジタル教科書は愚昧化政策と批判した後、個人的感覚(読んだ気がしない)から技術的問題(OS・アプリケーションソフトのアップデートなど)まで、具体的に“罪”を列記・解説する。

今回初めて知ったのは、写本・書写に関する話;我が国でも欧州でも、歴史的に原本からの書写は、文化の普及に重要な行為とされている。聖書や仏典のほとんどはこれによって現代まで、その内容が伝えられてきた(誤記や解釈の違いが重要な研究課題でもある)。しかし、中国では写本行為も写本自体も価値を認められず、残っているのは木版を復刻した限られた書籍のみ、古典研究に大きな障害となっている、ということだ。

図書館批判の話も面白い;先ず、「本は借りて読むな」と主張。これは生徒・学生時代を除けば私も同じ。現今の公立図書館を「無料貸本所」と徹底批判(英国では借り賃を払う)。東京の某区図書館(9館)で乙武洋匡著「五体不満足」が延べ2407回貸し出されたことを具体例として、著作権・原稿料問題をレンタルビデオと比較して難じる。また、一過性のベストセラー中心予算配分とその背景(貸し出し数が評価対象)に触れ、図書館行政の在り方を質す。

書評に対する考え方(自作品に対する評、自らが書評者となったときの姿勢)、稀覯本・古書の扱い(本は捨てない方針だが、終活を考え、価値のある本は(有料で)手放すようにしている)、源氏物語など我が国古典に関する書誌学的考察、も取り上げられ、多角的な書物論を展開、ユニークな書物エッセイに仕上がっている。

 

2)世界は知財でできている

-特許や商標、著作権以外にも続々と生まれている新知的財産権を概説。AIに権利はあるのか?と問う-

 


IT利用の世界で生きてきて、思い出深い出来事をさまざま体験してきた中に、「数学解法は特許取得できるか」と言う問題がある。数千・数万の変数を扱う多元一次方程式で記述された、経営計画や工場運営の数式モデルを解く手法に関することである。この解法はスタンフォード大学ジョージ・ダンチック教授が考案した、シンプレックス法が長くかつ広く使われてきたが、1980年代中頃ATTベル研究所のカーマーカー研究員が提言した内点法と呼ばれる新手法が出現、シンプレックス法の50
倍の速さと喧伝され、米国特許を獲得、日本でもこの特許が認められる。世界各地で反対運動が起こる中で、日本でも敢然とこれに立ち向かったのが、本欄で何冊も紹介した“工学部ヒラノ教授シリーズ”の著者で金融工学の泰斗、今野浩東工大教授である。ダンチック教授の下で博士号を取得した人だけに、その力の入れ方は一方ならぬものがあり、10年かけ東京高裁まで争うが、訴えは棄却される(2002年結審)。しかし、高裁は数学解法を特許として認めたわけではなく、ATT解体後の後継企業ルーセントテクノロジー社が、特許を放棄したことを理由に訴えを退けたので、事実上ヒラノ教授の勝利と言える結果になった。AIに関する話題が、科学技術分野に留まらず、社会生活や国際政治にまで及ぶ昨今、最新のIT知的財産権問題を知りたく本書を手に取った。

著者の正確な生年は不祥だが、おおよそ50歳前後。横浜国大大学院工学研究科を終え、大手電機メーカーに就職、知財関連業務に従事し弁理士資格を取得、米国駐在も経験、現在は東北大学特任教授。知財関係既刊書がいくつかある、この分野の専門家。

直ぐに思い浮かぶ知的財産権は、技術者として身近だった(発明)特許・実用新案・意匠・商標の、いわゆる特許法で保護される権利、それに広く知られた著作権くらいである。しかし、これは伝統的な旧来からの権利で、社会環境の変化に応じて、生み出された新たな様々な権利があることを導入部で解説、具体例を挙げ、網羅的に説明する内容になっている。例えば、著作隣接権では、著作権者によって作詞・作曲された曲を歌う歌手に与えられる権利や、技術進歩による(半導体)回路配置利用権、農作物に関する育成者権(種苗法)などがある。つまり、本書は一般読者の「知財」知識をアップデートすることを目的としている。

とは言っても、最初に取り上げられるのは生成AIに関するテーマだ。本書の表紙には、左にオープンAI社CEOサム・アルトマンの写真があり、右にそれに基づいた似顔絵がある。この似顔絵はChatGPT4o(オムニ)を使い、ジブリ風に描かせたもの(ジブリフィケーション)。この著作権は誰にあるのか?アニメ画像ばかりでなく、動画映像、各種文章さえ実用に耐えるレベルまで達したAI生成物に、知財権は認められるのか?既に米国で起こっている訴訟案件を元に、この問題の難しさを解説する。通常申請者は人間なのだが、敢えてAIを共作者としたり、AI単独にしたりして、既存の法律に挑戦する事例さえ起こっている。AIがこのレベルに達した背景には、既存資料の(オリジナル情報提供者に対価を払わない)深層学習があり、さらに人間共同作業者によるプロンプト(誘導対話)もあって、概ね現状ではAIに権利は認められていないものの、裁判所も判断に苦慮している様が浮き彫りにされる。冒頭紹介した「数学解法」特許問題では、日米ともその判断基準をより明示する結果(数学解法そのものには特許を与えない。組み込んだ製品は新規性で判断)になり、“雨降って地固まる”となったが、果たしてAIではどうなることか、とても楽観的にはなれない。

商標トラブル(先権、疑似)、個人の人格的利益(画像・映像、声)、研究者やスタートアップ企業の権利保護、国際問題(国に依って異なる制度)など、「知財」を広く学ぶことができる点は評価するが、全体に深みはなく、入門書の位置付けとなる。

この本を読んで少し追ってみたのが、初めて知った「知的財産高等裁判所」の存在である。創設は2005年、知財関係の裁判は地裁(東京、大阪のみ)→控訴審→「知的財産高等裁判所(東京のみ)」→上告審→最高裁判所、となる。この高裁の裁判官は一般の判事であるが専門委員(専門家、学識経験者)が多数おり、ここでの審決がきわめて重い意味を持ち、「知財」が社会においてより重要案件に成ってきた証左と言うことだろう。

 

3)戦闘力

-世界的軍事学権威者による、人的要素のみに着目した、米・独陸軍の戦闘力比較。独陸軍の強さが明らかになる-

 


究極の機械力として興味を惹かれていった軍事技術(特に航空機)、自分の生きた時代史としての太平洋戦争(特に日中戦争)。私の軍事への関心はこの二点から始まっているのだが、40代後半から、それらの背景と思われる、なぜ戦争をするのか、戦争は社会をどう変えるのか、戦争そのものが時間と伴にどう変化してきたのか、と広がっていった。身近な例として、軍事作戦に始まるOR(Operations Research
;応用数学の一種;我が国導入時には“作戦研究”と訳された)の歴史研究が挙げられる。この滞英研究で広義の戦争研究における、人文科学や社会科学を深める必要性を痛感させられ、これら学問分野における(軍学校以外の)研究機関や研究者を探り始め、オックスフォード大(英)、ケンブリッジ大(英)、プリンストン大(米)、ジョン・ホプキンス大(米)、コロンビア大(米)などに、戦争研究に関する専門学部・学科・大学院専攻コースあるいは研究所が在ることを知った。そして最も広範で活発なところとして、1962年開設のロンドン大学キングズカレッジ戦争学部(Department of War Study)の存在を知った。また、(軍人でない)軍事学者として、ジョン・キーガン(英)、マイケル・ハワード(英)、エドワード・ルトワック(米)、そして本書の著者マーチン・ファン・クレフェルト(イスラエル)等が、代表的な研究者であることも分ってきた。著者の名著「補給戦」を1980年代初期に読み、感銘を受けていたこともあり、久しぶりに見る著者名に惹かれ即購入となった。

本書は第二次世界大戦における、ドイツ陸軍の戦闘力を、米陸軍と比較し、その強さの根源を解明するものである。ここでの戦闘力は機械力や生産・補給力などは考慮せず、専ら人的要素(組織人として)に着目して、それを分析する。その基盤的要素は、規律と団結力、士気と主導性、勇猛さと頑強さ、死への覚悟と戦意、などから成る。戦争の兵器と手法(戦略、作戦、戦術)は変化するが、ここで言う戦闘力はどんな戦場でも変わらないと考えられるからだ。戦闘力の定量評価は難しいとことわりながら、戦後米軍内で行われた研究から、攻守ともに米陸軍の1.5倍という数字を挙げ、3:1、5:1、ときに7:1の戦闘でも互角に戦ったケースを見つけ出し、今次大戦の独陸軍は「ほとんど称賛に値する水準まで戦闘力を発展させた歴史上の組織」と最高級の賛辞を呈する。では、その強さはどこからきているのか。これを10章(項評価目)にわたり、できる限り数字を用いて、詳細に独米比較を行い、結論づけるのが本書の流れとなっている。

その10項目は;①民族、②軍隊と社会、③戦争ドクトリン(教義)、④指揮、⑤組織、⑥人事行政、⑦戦闘効率の維持、⑧報償と懲罰、⑨下士官、⑩統率と士官団、である。

それぞれの項目について、手短にトピックスを紹介すると;①近代における実戦を分析した上で、「ドイツ民族が特に好戦的で優れていることはない」と見る。②独;ワーマール期を除き、軍・軍人は尊敬される存在であった。裕福で高学歴の若者志願者が多かった。退役後国家の先導者の地位に就いた者も多い。対して米;常に軍は問題含みの存在で、軍人の社会的地位も低かった。ここでは士官の父親の職業や国家の指導者数まで比較対象にする。③独「軍隊指揮」(1936年版)と米「野戦教範」(1941年版)の内容を比較検討、その後の実戦も踏まえ、独軍に比べ米軍のそれは、全体に管理的性格がより強いと見る(マニュアル主義)。④独軍;巷間「絶対服従」「(厳しい)プロシャ的規律」のイメージが一般化しているが、全く不適切。大モルトケの時代から「最も末端のレベルまで、個人の主導性と責任」(何をすべきか)を重視してきた。これに対し米軍は「何をすべきか」よりも「どうすべきか」を細部まで規定している。戦後の「野戦教範」はこれを改め「軍隊指揮」から学び、改訂している。⑤独の連隊は地区・民族(旧小国)ベースなので同胞意識が強い。また、野戦軍と国内予備軍のローテーションもこれに倣う。兵科の異なる任務配置を厭わない。対して米軍は母体となる師団に地方性はあるが、新兵訓練は集中して行われ、配属先は出身地と関係なく決まる。補充新兵はしばしば孤立する。野戦軍と後方支援軍の役割分担も不明確。特技兵の転用を極力避ける。管理部門の大きさ;独は最少、米は肥大。⑥独;連隊長中心の人事管理(訓練、人事考課、配置)。米;機械化(カード管理)・数値化の人事管理、血の通った人事管理からほど遠い。⑦ローテーションの基本;独は戦力維持回復が基本、米は一定期間で機械的に入れかえる。傷病兵の扱いと前線復帰の違いなどにも独が優れる。⑧給与(両軍とも階級と年齢ベース、兵種で差はない)、休暇(米は士官と兵で大差)、受勲、司法制度の違い。⑨独の下士官は厳しく選別・訓練され、真に兵士のエリート、下士官から将軍になった者11名。米は不安定な役割の中で大量生産、欧州戦線終了時には半数が下士官だった!⑩士官と統率;独は「知能・学歴」より「(指導者としての)性格」を重視、このため選抜・育成に多大の時間をかけている(昇進に対する実戦経験を含む)。ここで性格とは、誠実さ、無欲さ、献身的精神、責任感などを意味する。対する米軍は学歴・試験重視、専門性を高めるより管理者としての知識・経験を重視する傾向があった。士官の戦死率が兵より高かったのは両軍共通。

細部にわたる具体的な分析はきわめて納得感がある。では日本陸軍はこの評価方法でどのようになるのか?現在の陸上自衛隊は?最後にこんな疑問が残った(改善される方向にあるとはいえ、現在に続く国民の軍事アレルギー体質が憂慮される)。

原著出版は1982年、何故、今、この訳本が出たのか?それも日本経済新聞の子会社から。少々考えてみると、安全・環境・各種コンプライアンス(法令遵守)により、ビジネスの現場で、担当者・下級管理職レベルでの判断に制約が多くなっている(自由度が少ない)。また仕事をマニュアル化し手順通りに進める傾向が強まっている。こんな現場に主導性を持たせ、臨機応変に業務を進め、生産性を高める工夫が求められる。そのような問題対応に本書が役立つ可能性はある。こんなところが出版事情ではなかろうか。

著者は1944年、オランダ生れ。ヘブライ大学で学び、その後ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス(LSE)で博士号取得、ヘブライ大学に戻り歴史学部教授。

 

4)ジョークで読み解く「ロシア近現代史」

-昨年ロシア入国禁止者となったジャーナリストによる、帝政時代から今日まで続く、体制批判ブラックジョーク300点を一気に公開-

 


アネクドートという言葉がある。冷戦期、辛辣な風刺でこの国の政治や社会体制を批判する小話のことと知った。英語でanecdote(短い逸話、秘話)が在ることから、てっきり英語が起源と思っていたが、語源を辿るとギリシャ語(アネクドトス;未公開の、公にされていない)に発するロシア語である、と本書に記されていた。この言葉は、ロマノフ王朝時代フランス宮廷文化の影響をうけ使われるようになり、当初は機知に富んだ逸話や裏話だった(つまり暗い話ではない)。しかし時代が下り、王朝が腐敗し庶民に対して過酷な社会環境になると、体制批判の性格を帯びてくる。そして共産党独裁統治下で、専ら反体制・政権批判の手段としての意味を持つように変じる。ソ連は崩壊してもロシア社会の本質は変わらず、プーチンの強権政治が続き、アネクドートも正統文化(?)として、連綿と受け継がれているのだ。本書は「近現代史」とあるように、帝政末期から今日に至る、一世紀を超えるアネクドート集である。

書き出しの一話;ロシア人とエストニア人が議論をしていた。

エストニア人が言った。「プーチン政権がこれだけ長期化すると、あんたの孫もプーチンに投票することになるだろう」

ロシア人が答えた。「あんたの孫もな」 (ウクライナの次はバルト3国)

もう一つ;問い=プーチン大統領が最も美しく奏でる楽器は何か?

答=TRUMPet(トランペット=ペットのトランプ)

著者は1953年生れ。東京外語大ロシア語学科卒、時事通信社入社、モスクワ支局長、外信部長を歴任。現在拓殖大学および国際教養大学教授。2025年11月ロシア外務省により無期限入国禁止者に指定される。

構成は時代の流れに沿い、10章から成る。半数はスターリン、フルシチョフ・ブレジネフ、ゴルバチョフ、プーチン(3章)など為政者の名前の付いた章、残りはソビエト崩壊、オリガレヒ(国有財産を私した大富豪)やウクライナなど特定テーマでまとめてある。各章の始めはテーマの時代背景説明に充てられ、そのあとに小項目に分けてアネクドートが紹介され、その数はおよそ300話。古いところは書籍・雑誌などに取り上げられた、それなりに高評価だったもののようだが、最近のものは著者がネットで探したもの。著者のアネクドートの師は、本欄でも紹介した「旅行者の朝食」作者、ロシア研究者であり高名なロシア語通訳、米倉万里(故人)。彼女が「100話に1話微笑み、200話で一つ爆笑、インターネットでのゴミ含有率は更に高く、1000に一つ笑えれば上々」と書き残していることに触れ、今回厳選し「寸鉄人を刺す」短い作品を集めたと敢えて記している。しかし、日本人には単なる体制批判に読め、「どこがおかしいのか?」と、しばし考え込むものがなかったわけではない。それでも300も一冊にまとめたものは希少価値があり、ロシア近現代史を裏から眺めるには、面白い本であった。

歴代統治者に関する話;

レーニン時代は地下鉄。周囲は暗闇だが、前方に明かりが見える。

スターリン時代はバス。半分は(監獄に)座り、残りは立って震えている。

ブレジネフ時代は飛行機。一人が操縦し、残りは退屈でうんざりしている。

ゴルバチョウフ時代は観光バス。一人がしゃべりまくり、残りは上の空。

エリツィン時代はタクシー。行けば行くほど高くなる。

プーチン時代は馬車。ニンジン(賄賂)を与えながら進む。

 

5)一外交官の見た明治維新

-幕末より通算20年に及ぶ英駐日外交官が見た、明治維新前後の激動する、定番とはひと味異なる日本社会-

 


著者アーネスト・サトウの名を知ったのは1970年代半ば、当時購入していた週刊朝日の紙上である。在野の歴史家萩原延壽(はぎはらのぶとし)のライフワークとなる「遠い崖」が連載されたことによる。この連載は1990年病のため未完のまま終わるのだが、その後も執筆活動は続き、2001年死の直前単行本(全14巻)として完結する。この本の副題は「アーネスト・サトウの日記抄」、本書はサトウ自身によるその要約編と言える性格のものである。

アーネスト・サトウは1843年英国生れ18歳の時通訳生として英外務省に入省、1862年来日、途中賜暇で一時帰国するものの、1882年まで通訳官・外交官として20年にわたり滞日、1895年再び来日、5年間駐日公使を務める。1906年駐清国公使の後退官するが、その後も枢密院顧問官、第二次ハーグ平和会議副代表など要職に就いている。妻は日本人。滞日中は佐藤愛之助と名のるほどの親日家・日本通。本書は引退後、日記や外交文書を元に幕末維新期(1862年~69年)の経験をつづるもので、1921年原著が刊行されている。原著の副題は「日本において開港がなされ、王政復古が達成されるまでの重要な時期に起こった、一連の出来事に関した一外交官による当時の内実の記述と、この時期における個人的経験の回想」と長々しいものだが、文庫本で650頁およぶ大冊(2500円!)の内容を的確に要約している。訳本は戦前・戦後に何度か出版されているが、1985年生れ、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスで博士号を取得した、日英関係史専攻の少壮歴史学者による新訳。訳者解説が興味深い。

サトウは1862年9月2日に通訳訓練生として来日。当時外国人居留地は長崎と横浜のみ(ただし公使官邸のみ江戸に置けた)、一先ず横浜の領事館に落ち着くが、14日生麦事件が発生、いきなりその渦中に身を置くことになる。これに起因する薩英戦争(1863年7月)、それに先立つ下関戦争(同年5月)、いずれも通訳として現地入りする。本書はそれ以降、禁門の変(蛤御門の変;1864年)、長州征伐(1866年)、大政奉還(1867年)、明治政府成、東京遷都と戊辰戦争(1868年)、箱館戦争(1869年)などを体験、1869年2月24日離日、一時帰英。本書はこの間の7年を回想するものである。

来日早い時期に江戸の公使館勤務となり、薩英戦争・下関戦争参加の他、長崎、鹿児島、宇和島、土佐、徳島、新潟、佐渡島、七尾を海路で訪れている。また、幕府の許可を得て、大坂(大阪)から京都を経て東海道を下り江戸までと、七尾から福井。滋賀を経て大坂まで、陸路の旅をしている。さらに開港問題を主体に兵庫(神戸)、大坂を何度も訪れている。当時の外国人としてはきわめて珍しい例だ。

事件や交渉事で付き合いのあった、後世幕末維新史に残る人物として(順不同)、伊藤俊輔(博文)、大久保一蔵(利通)、西郷隆盛、大山弥助(巌)、桂小五郎、木戸準一郎(孝允)、小松帯刀、後藤象二郎、勝海舟、岩倉具視など、錚々たるメンバーが事の場面々々で、人物像に踏み込んで語られる。この内伊藤は密航して英国に渡り、英語が堪能であったことから、特に親しくつき合っていた感がある。また、交渉事を通じて信頼できる人物として小松帯刀に何度か触れている。また若い頃から長い付き合いがあった人物として、のちに外務大臣も務めることになる東久世(ひがしくぜ)も頻繁に登場する。これらの人物と日本語で会話・歓談し、ときに書面を渡された情報が、公使さらには英外務省の意思決定に大きく与っていく。

外交上のトピックスとして、戦争、紛争、事件(特に殺傷)は幕末維新史定番のものが一通り取り上げられているが、本書を読んでみて知るのは、開港問題が最も大きいことである。1852年諸外国との親和条約で長崎、横浜、箱館(函館)、兵庫(神戸)、大坂、新潟が開港されることになるのだが、直ちに全部開港したわけではない。港湾・居留地の造成・建設もあり、あらかじめ時期が決められ、そのスケジュールで進めることになっていたが、兵庫(予定1863年1月)、大坂(予定1863年9月)はまったく進展がなく、これが大きな外交問題になっていたのだ。遅れを責める外交団、引き延ばしを図る幕府。進まぬ原因が少しずつ見えてくる。一つは、数多の藩(特に雄藩)や幕閣の考えが開国/攘夷に別れ、意思統一ができぬこと(幕府の力の低下)。もう一つは、帝(ミカド)の周辺が攘夷で固まっており、開国に反対であること、が開港を遅らせているのだ。一方外交団側も、国の支配権は大君(徳川家将軍)にあり、帝は宗教的皇帝に過ぎないと考えていたところに問題があることが、次第に明らかになっていく。維新への大きなうねりの中で、開国派を支持する国(英)、幕府を支えようとする国(仏)の間で、幕府対応に違いが出てくる。しかも、いずれの本国政府も、原則中立を標榜、日本の国内問題に深入りせぬよう訓令してくる。

では諸外国(特に英仏)は、日本との国交をどのように考えていたのか。「日本は世界の果ての果て」、軍事占領・植民地化など出費がかさむばかりで、それだけの価値はない。日本に渡ってきた商人も事業家というより投機家、横浜居留地は「ヨーロッパ人の掃きだめ」。艦船の寄港を許諾し、必需品購入を可能にし、一攫千金を夢見る冒険家たちが、自由に行動し、商売ができ、またキリスト教禁止令が廃されればそれでいい。こんなところである。従って本国政府は中立策を基本方針とするのだが、現地公使・外交官・軍人の中には冒険主義者がいないわけではない。自国民迫害、賠償金支払い交渉の難航、手ぬるい犯人追及・処分、艦船への砲撃、条約履行の遅延などに、強行策を主張する者も出てくる。初代駐日英公使オールコックスは下関戦争後関門海峡通過ばかりでなく瀬戸内海通過を本国に建策、これが不興を買い本国召喚される(1864年12月;この評価はその後見直され、外交官経歴が傷つくことはなかったが)。第二代仏公使ロシュも、維新後なかなか明治政府を認めず、「個人外交」と難じられ、本国召喚となっている(1868年6月)。

本書を読んでいると、英は反幕活動の支援者、仏は幕府の支援者と、対極にあるような感を持つ。文中に「薩摩も長州も(中略)怨恨を抱くことはなく、(中略)親密な同盟関係にありつづけた」とある。この英仏対極感は、幕末維新史のいわば常識となっているのだが、訳者は巻末の解説で、対日外交交渉においては、英仏同一基調を採ることが多かった、とそれに異をとなえる。その来るゆえんは、サトウの出自にあるとする。サトウの両親はソルブ(スラブ)系ドイツ人、ドイツでは少数民族で差別・迫害され続けてきたが、ナポレオン戦争時はそれが特に酷く、それもあり英国に移住し、アーネストが誕生する。宗教は新教徒のルター派。対してフランスはカトリック。民族・宗教から嫌仏感が強かった、と推察する。

引退後書いた回想録だけに、注意深く読む必要がありそうだが、幕末維新史理解に欠かせぬ一冊と評価する。

 

6)私とプラモデルの半世紀

-理系単科大学で学びながらアナウンサーとなった異色人物のプラモデル人生。ひたすら絶版キットを集めまくる-

 


私のエンジニアへの出発点は乗り物好きにあり、乗り物エンジニアリングへの取っかかりは模型づくりにある。そして模型づくりの出発点は小学校5年生頃始めた鉄道模型であった。機関車の類いは経済的に無理で、専ら電車づくり。ボディーはボール紙、屋根と床は板材の手製、モーター、台車、パンタグラフ、連結器のみ既製品を購入し、塗装をほどこして完成させる。レールや変圧器は、友人・先輩のそれを利用させてもらった。中学校ではそんな仲間もおらず、興味は航空に移るが、専ら雑誌を読むだけで、模型づくりはしていない。中学後半から高校は受験最優先、模型とは無縁の時期が続く。

大学に入学、模型づくりと実学が急接近、学外の模型飛行機製作組織、東京ソリッドモデルクラブ(TSMC)に入会した。ソリッドモデルとは、外形を本物の何分の1かに縮小し、形状を正確に再現する模型である。胴体・主翼・尾翼は木材から削り出し、風防や車輪・降着装置、エンジンは、セルロイド、消しゴム、空き缶、銅線などを利用して、全て手製で作り上げる。


TSMCは月例会を当時万世橋に在った交通博物館の会議室で開らかれ、会員の作品を持ち寄り、それを講評したり、作成内容を語ったりした。常時出席していたメンバーは20~30人だが、いわば客員メーバー格だったのが三遊亭小金馬師匠(のち金馬;写真前列中央)。ある日彼が1/48アメリカ製プラスティックモデルを持ち込んできた。当時の日本製プラモデルはおもちゃ同然だったから、その精巧な造りに皆目を見張った。そして聞かされた金額(360円/ドルの時代、10ドル前後)にさらに驚いた。これが本格的プラモデルとの出会いである。

社会人になり和歌山に赴任、職住接近で時間はたっぷり、経済的に余裕も出来たのでプラモデル作りを始めた。レーベル社、モノグラム社製(いずれも米国)のクラッシックカーを作成、友人の結婚祝いの贈り物に利用し、喜んでもらえた。そんな時模型界に衝撃が走るモデルが出現する。HONDAが初めて挑んだF1フォーミュラーカーのそれである(1/12)。精密さ、部品の多さは桁違い、私も実車を組上げるような気分に浸りながら完成させた。製作販売会社はタミヤ。本書は著者とタミヤの50年にわたる関係を語る内容。この中で、かのF1モデルは世界にタミヤを知らしめた、功労製品と位置付けている。

著者は1963年富山県生れ。東京工業大学(現東京科学大学)に進むが、小学生時代からのアナウンサー志願、1年留年しアナウンサー専門学校で学び、テレビ朝日にアナウンサーとして入社、というかなり変わった経歴を持つ。テレビ朝日では「ミュージックステーション」「ニュースステーション(スポーツ)」などを担当、報道記者に転じた後、60歳で定年退職、現在はフリーアナウンサー、著述業、そしてタミヤ「模型史研究顧問」でもある。

子供の時は既にプラモデル時代、友達や先輩と出来映えを競い合いながらこの世界に没入していく過程は、アナウンサーへの憧れと併走するところはユニークなものの、特に普通の子供と変わらない。しかし、それが次第に変化して、作るよりは集める方向に向かって行く点だ。この人は模型ファンでは少ない、“コレクター”で、本書でそのことをいたるところで説明する(大多数のプラモデル愛好者は作る人(モデラー))。生産量の少ないもの、短期間しか販売されなかったもの、金型が新品だった頃の製品、同じ機種でも異なる型式、果てはまったく同種でも箱絵が異なるもの、特定の地域でしか販売されなかったもの、などを集めているのだ。地方に居た中・高校生時代は取得できる種類・数も限りがあるが、大学生時代は在京、模型店も多く収集品は増えていく。しかし、これも経済面で制約がある。本格的収集は社会人になってから、今やその数は、明確には記されていないが、数千点におよんでいるようだ(数百点の展示会など開催しているところから推量)。店を訪ねて発見・購入するばかりでなく、海外を含めネットオークションなども利用して集めるのだ。稀覯本収集家と同類だ。

集めるのは製品キットばかりでは無い。タミヤ・ニュースや総合カタログも、バックナンバーに遡り収集する。こうなると、タミヤ自身が既に手許にない製品や情報を保有することになり、会社にとっても単なる顧客の一人ではなく、相談役のような存在になっていく。創業社長を始め経営陣との交流も深まり、「模型史研究顧問」の地位を与えられているのだ。

さて、本書はプラモデルに関して書かれているが、もう一つは自分史の性格を持つ。従って理工系単科大学に学びながら、アナウンサーに転じていく話も詳細に語られる。その中でもプラモデルに関する知見が、“芸は身を助く”と言う形で生かされ、発展していく話が面白い。最初のきっかけは東日本大震災による福島原発事故にある。プラモ用フィギャー(縮尺人体模型)に併せて正確な原子炉断面模型を手づくりし、これを「ニュースステーション」番組に持ち込み、高い評価を得る。すると、戦争や兵器が話題になるニュース番組用に、モデル作成(単体ばかりでなく、ジオラマ(情景模型))を依頼され、“変なアナウンサー”として業界で“知る人ぞ知る”存在になる。俳優の石坂浩二は有名なプラモモデラーだが、彼が主宰する高齢者プラモデル・ファンクラブ「ろうがんず(老眼者たち)」の発起人の一人に起用されたのは、こんなことが発端だった。

模型づくりの面白さや苦心談を期待すると、いささか物足りないが、「こんな模型ファンもいるんだ」「趣味をこんな形で実務につなげているんだ」を知るという点で、興味深い一冊だった。私も半世紀以上前に求めた未着手キットが20~30ある。どんな価値があるのだろうか?急に気になってきた。

 

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2026年8月31日月曜日

今月の本棚-217(2026年8月分)


<今月読んだ本>

1) レット・イット・ビーと異邦人(有賀至誠);文芸社

2)Science Fictions(スチュアート・リッチー);ダイヤモンド社

3)高野連(広尾晃);新潮社(新書)

4)ミッドウェイ海戦(大木毅);文藝春秋社(新書)

5)途上の王国(沢木耕太郎);スイッチ・パブリッシング社

6) 陰翳礼讃・文章読本(谷崎潤一郎); 新潮社(文庫)

 

<愚評昧説>

1)レットイット・ビーと異邦人

-IT企業新社長が打ち出した社内透明化の掲示板。そこへの投稿から暗転するビジネスマン人生、体験者が書いた自伝小説-

 


我が国ITの世界では、その黎明期から英語の略号が頻繁に利用されてきた。1960年代に唱えられた米国発のMIS(Management Information System;経営情報システム)などその典型例だろう。1980年代半ばSISという略語が一時期流行語となった。Strategic Information System(戦略的情報システム)の略である。米国ではそのままIT活用の概念として使われ、略語が普及することはなかったが、日本ではSISとして一人歩きしていくのである。このブームを受けて、我が国大型汎用コンピュータのトップ企業であった富士通は、1989年そのユーザーで構成する研究会の中に、「SIS診断研究分科会」を立ち上げた。私はそのメンバーの一人であり、著者は富士通側の研究アドヴァイザーであった。この研究は月一回合宿ベースで2年間にわたり行われ、研究仲間で著書「SIS診断」(1991年日本能率協会刊)を出すほど実りあるものだった。メンバーは研究会終了後も十数年交流を続け、その時どきのITと経営を語りあってきたが、ここ数年はメールやSNSだけの付き合いになってしまった。その著者から7月に贈られたのが本書である。

著者(1951年生れ)の富士通就職に至る学生時代に言及するものの、全体としては就職後から今日に至る小説形式の半生記である。会社名・個人名は変えてあるものの、内部事情を知る者にとっては、おおよそ見当がつき、面白さの一つはそこにある。

ビジネスマンとしての転換点は、1998年のA新社長就任にある。私もこの人がシステム本部長時代から面識があり、著者も部下だった時代がある。新社長が打ち出した経営革新策は、事業構造変革、成果主義導入、社内コミュニケーション改善。世代が近いことや、かつての上司だったことから、著者は新社長に期待する。社内の風通しを良くするために設けられた掲示板に、食堂の改善策を提言したことがきっかけで、順調に部長職まで進んでいた運命が暗転する。人事担当役員は「部長がこんなことを掲示板に投稿することは不適切。取り下げて謝罪せよ」と迫ってくる。新しい経営方針では、忖度せず率直な意見交換を奨励しているのに納得できない要求だ。ここから、経営側(主として人事部門)と著者の冷戦が始まる。役職を外され、さらには座敷牢に閉じ込められるような扱いまで受け、精神的にも追い詰められていく。それは本人ばかりでなく、家族にも影響、社内結婚した夫人にもおよび、記憶障害を起こしてしまう。関係会社出向でも思うように仕事は出来ず、ついに早期希望退職の道を選ぶ。

個人コンサルタントを兼ねながら国立大大学院の博士課程に進むものの、これも順調にはいかない。母校東北大学での就職指導担当、かつての同僚が役員を務める関係会社勤務、ベンチャー企業への転職。何度も危機的状況(特に収入)に陥りながら、それを乗り越え、夫人も健常者として回復、今はかつての異邦人もあるがままに(Let it be)生き、落ち着いた時間を過ごしている。しかし、“三つ子の魂百まで”、持論である、日本型縦社会批判研究はネットを通じて終生続けるようだ。

SIS診断研究分科会当時から、ITによる組織構造変革は話題になっており、文鎮型やネットワーク組織が注目されていた。著者はそれに強い関心を示し、ときに夜の飲み会では顧客であるメンバーと激論を戦わす場面もたびたびあった。新社長の打ち出した経営変革ヴィジョンはそのチャンスと見て行動に出たが、大きな組織の中で理想を実現することは容易ではない。本書はそのごく身近な事例、読んでいて自分の生き方を問われているような気分を、しばしば味わった。なお、本文中で研究分科会活動にも触れており、変名ではあるが私も登場する。

 

2)Science Fictions

-SF小説にあらず!ノーベル賞級研究の裏にある詐欺・虚偽・不正・過誤の数々を白日の下にさらす-

 


現役時代いくつかの学会に所属しており、学会賞の審査や学会誌への論文査読の機会があった。論文の学会誌掲載は、博士号取得を目指す者だけでなく、既に取得している者でも実績評価につながり、研究者にとってその採否は重要な意味を持つ。しかし、査読者(私)にとって研究の新規性や論旨展開の構成・表現をチェックするところまでが限界で、数式やデータの信憑性を確認するまでには至らなかった。本書のタイトルScience Fictionsは、「スターウォーズ」や「日本沈没」のような、いわゆるSF小説を思い浮かべるものだが、それとはまったく異なる内容。高い評価を受けた研究が、いかに(結果として)作り物であったかを俎上にあげて批判するものである。とはいえ、決してジャーナリスティックな暴露ものではなく、その来るゆえんを辿り、それがおよぼした影響を述べ、それらの不正・過誤を避ける方策を提言する、建設的な内容となっている。

先ずこのような問題の起こる根源が、科学界における過度な成果主義にあるとし、成果評価の起点となる学術誌・学会誌の編集・出版過程を詳述する。特に重きを置くのが査読、一言で言えば、この門番機能低下が結果として杜撰な論文を多発することになっているいのだ。科学論文の肝は再現性にあるが、同じ手法で他者が試み、否定する結果(NULL;セロ、空)を得ても、同種論文は掲載しないという編集方針にも問題がある。

次いで、不正や過誤が多発する理由を掘り下げる。「ネイチャー」(英)、「サイエンス」(米)では寄稿数に対して掲載数は6~8%(査読に至らず編集段階ではじかれるものを含む)。権威ある学術誌だけに、投稿者は何とか採用されようと、ねつ造の誘惑にかられるのだ。つまり、科学といえども実験や仮説検証だけで終わるわけではなく、きわめて社会的・人間的な世界なのである。ここでは、助成金獲得や高い業績評価を得るために、研究者が置かれている環境が多角的に語られる。

そして最も紙数を割くのが、不正・過誤の事例紹介である。詐欺、バイアス(先入観、思い込みなど)、過失、誇張、がそれぞれ章立てになり、詳しく紹介される。例えば、詐欺の章では、STAP細胞で問題になった小保方春子(理研、再現性無し)や偽作(データねつ造)論文数世界トップである藤井善隆(麻酔学者;その副作用に関する論文;STAPに比べほとんどマスメディアに取り上げられず、私はこの本で初めて知った)など日本人も登場する。バイアスでは、為政者やイデオロギーに忖度した政治バイアス、販売促進のための販売バイアス、学界全体が一旦定着した学説を守るため異論を封じた事例なども紹介される。過失では、実験データの読み誤り、統計処理の間違い・作意、誇張では、実際より重要で画期的であるよう見せる表現を問題にする。事例は全て実名で語られ、そこには行動心理学でノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンやノーベル医学・生理学賞の選考機関であるスウェーデン・カロリンスカヤ医学研究所(医大)の関係者(画期的な気管手術論文で名を上げたイタリア人外科医を客員研究員・教授として採用するが、その論文が虚偽と判明。それをしばらく否定し続け、最終的に理事長・学長辞職)なども登場。フィクションが権威ある人物や組織にまでおよんでいることを問題視する。

最後に「科学を修正する」と題する章で、出版バイアスの防止法、統計数値の検証法、アルゴリズム(IT利用)による不正・過誤の発見法(例えば引用文献数の引用者追及のような)、あるいはNULL(再現性否定)論文発表の場、ネット上でのプレルリント掲示など具体的な改善策を示し、「実際の貢献に応じて報われる科学者評価システム」「オープンで透明性の高い論文発表の場」を提言して結ぶ。

事例では、人の生死に関係することもあり、医学・生理学・薬学分野がきわめて多い。一方同じ自然科学でも工学は皆無、これはこの分野を専攻した者としてはいささか不満。心理学が意外と多いのは著者の専門分野だからだろう。索引が無いのが残念。

著者の生年は不祥だが、40歳前後。エディンバラ大学PhD、キングズ・カレッジ・オブ・ロンドン、エディンバラ大学講師を経て現在AI企業Anthropic社研究広報担当。専門は心理学、認知科学。

 

3)高野連

-春夏の甲子園を取り仕切る高野連、守旧派・頑迷固陋と難じられる組織の実態を奥深く探る-

 


今夏の甲子園は智辯和歌山高校の優勝で終わった。私の応援順序は、先ず自宅から徒歩圏に在る横浜高校、ここが出場できないときは神奈川代表、そして二番目は常に和歌山代表である。高校野球を身近なものにしてくれたのは、1962年入社来7年強を過ごした和歌山工場時代、社員に何人か甲子園出場者が居たのだ。同じプラント勤務で寮も一緒だった4~5歳上のOさんもその一人、新宮高校時代の代表選手(捕手)である。三交代勤務は日中自由な時間が多い。彼はその間地元箕島高校の野球部を指導しており(正規の部長・監督は体育教諭だが、実質的な指導を担当)、当時は弱小チームだった選手たちの未熟さをよく嘆いていた。「わいがこうしておるのに、気いつのかんや(ユニフォームのバンドを握って上下に上げ下げする;バントのサイン)」と。しかし、1968年尾藤監督の下、春の選抜に初出場(ベスト8)、その後春夏4回優勝、東尾(西鉄・西武)、島本(南海)、吉井(現ロッテ監督)などプロ野球有名選手を何人も輩出すほどの強豪校となる。当時和歌山県には私立の男子校はなく、日本全体でも大都市を除けば、出場校の多くは公立高校、選手も地元育ちが100%、真に郷土の代表と言えた。また各都道府県から必ず一校が代表になるわけではなく(25校程度)、例えば、和歌山と奈良で紀和大会を勝ち抜いて甲子園出場がかなうシステム。ゆえに甲子園での試合数も少なく、準々決勝以降有力投手連投の名勝負がしばしば生じた。今や代表校の数は49校と倍増、そのほとんどが私立、決勝戦で対決した2校のベンチ入り(20名)地元中学出身選手割合は、智辯和歌山が40%、健大高崎は25%に過ぎない(掛川西(静岡)、大社(島根)は100%で最高、最低は青森山田の5%)。また、甲子園熱は高いものの、野球少年の数は激減、オリンピックの商業主義同様、甲子園も大きな曲がり角にある。今の高校野球を知りたく、本書を手に取った。

夏の甲子園は1915年発足、春の選抜は1924年開始。前者は大阪朝日新聞社、後者は大阪毎日新聞社主催。この時代、まだ全国中等学校野球大会を統一運営する組織は存在していない。1932年文部省は敵性スポーツである野球に対して「野球統制令」を施き、その下に「中等学校野球協会」を置く、これは戦後一旦解散させられ、学制改革もあり、1946年GHQの指導で日本高等学校野球連盟(高野連)として再スタートする。この際GHQが命じたのは、民間企業(新聞社)が学生スポーツを主催することを禁じたことである。講和後それぞれの新聞社が“共催”する形になったが、両大会の運営母体は以降高野連である。

本書は、前史として戦前の両大会に触れるものの(組織運営理念はこの時代に作られる;不易流行;伝統を踏まえつつ、一方では新しいものを取り入れること)、新制高野連について語る内容である。なお、もう一つ都道府県高等学校野球連盟が存在するが、組織としては独立しており下部組織ではなく、そこに問題があることも、本書の中で述べられる。

高校野球を端的に表現する言葉は「汗と涙と青春」。そこにあるのは科学技術や社会環境とは距離を置く精神論中心の野球観だ。ここから、高野連を「守旧派」「抵抗勢力」「頭の硬い、分からず屋」と難ずる風潮が、スポーツ・ジャーナリズムの世界に広まっている。「本当にそうだろか?」。この疑問に答えるのが本書の論旨である。

発足来現在に至るまでの高校野球を巡る問題を辿りながら、高野連の対応とそれによる関係先の動きを追っていく。早い機会から在るのがプロ野球との関係、様々な“青田買い”活動に対する嫌悪感と防止策。第3代会長佐伯達夫による「佐伯通達」はその厳しさで、後世に残るものだった。古くて新しい問題は投手にかかる過大な負荷とその軽減策。ここでは球史に残る激戦が取り上げられ、1933年の中京商業対明石中学の戦い(延長25回)や1958年徳島商業のエース板東英二が徳島予選で41回連投したケースが取り上げられ、「メディカルチェック」や「球数制限」導入に対する高野連の対応が紹介される。また、夏の大会は地方予選からトーナメント制、酷暑の中での健康問題から発した「7回制」の是非が論じられる。少年野球の7回制は米国を始め中南米、台湾で採用されており、地方高野連ではこれを支持する関係者も多い。一方反対意見の一つに、部員が100人を超す野球名門校では選手の試合出場数が減ることを理由に上げるところもある。古くて新しい別の問題に、選手間の暴力沙汰や醜聞(飲酒、喫煙、セクハラ)がある。昨夏、広島代表広陵高校は一回戦に勝利しながら、暴力問題で二回戦を辞退するにいたる(学校は隠していたがSNS投稿で炎上)。著者の調査に依れば、強豪校の多くは寮生活、ここでは学年が序列基準。しかし、実戦は実力で選ばれ、下級生が正選手になることも当たり前。ここから発するストレスが、陰湿ないじめにつながっているのだ。校外での暴力・醜聞も連帯責任とする高野連の見解が、果たして時代に合うものだろうか、と疑問を投げかける。この他、特待生処遇、通信制高校参加(事実上練習時間制約無し)など、未解決問題も掘り下げ、「汗と涙と青春」にははるかに遠い、今の高校野球を露わにする。「なるほど。そんな世界なのか!」が読後感。

著者は高野連も不易を変えつつ流行に合わせる努力をしていると総括しながら、さらなる改善を以下のように提言する。ネット社会への対応(SNS危機管理やHPでの発信(特に地方高野連))、メディアとの関係改善(朝日、毎日中心からの脱皮)、教育と商業主義のバランス(公益財団ゆえ、最少財源で運営。初めて知ったが、審判は無報酬である!放映権収入など工夫してもいいのではと)、地方高野連の充実(現状は公立高校校長が会長で、選手経験者極少→専門家の組織化)、「学ばない人(地方の口うるさいオールドファン)」を穏やかに遠ざける。

著者は1959年生れ。大学卒業後広告制作会社勤務、旅行雑誌編集長を経て、現在はスポーツライター。

 

4)ミッドウェイ海戦

-第二次世界大戦定説検証第一人者による“運命の海戦”見直し。数々の組織弁護言説を見事にくつがえす-

 


終戦から81年、1945年から81年前を振り返れば幕末・維新の時期、大方の日本人にとって終戦も隔絶の感だろう。それでも8月を目指して、あの戦争を語る書物の出版はあとを絶たない。本書の刊行も6月(海戦と同月)、この時期を狙ったことに間違いはない。ミッドウェイ物など、本書のまえがきで、著者も“汗牛充棟”と記しているように、既に出尽くした観がある。私がこの海戦を知ったのは中学3年生のとき、父が淵田美津雄(真珠湾攻撃総隊長)・奥宮正武(海軍航空畑、戦後空将)共著「ミッドウェー」(原題名;本書題名はミッドウェイ)を求め、書架に置かれていたからだ。この本は数年前まで保持していたが、大量に蔵書を処分した際廃棄してしまった。本書の中で意味を持つ著書だけに、惜しいことをしたと思っている。

著者の作品は、「独ソ戦」「「砂漠の狐」ロンメル」「戦車将軍グーデリアン」「天才作戦家マンシュタイン」「太平洋の巨鷲山本五十六」などを既に本欄で紹介している。共通するのは、定説となっているものを見直し、新しい歴史観を与えてくれる点である。「独ソ戦」では、これがヒトラーの発意・独断ではなく、国防軍を含むドイツ民族によるスラブ民族絶滅戦争だったことを明らかにし、高い評価を受けている(2020年新書大賞受賞)。今度はどこに新しさが、と読んでみることにした。

ミッドウェイ海戦物の多くは、真珠湾攻撃に触れたあと、史上初の機動部隊同士の戦いであった珊瑚海海戦を考察したあと(戦術的には成功したが、戦略的(ニューギニア・ポートモレスビー攻略作戦)には失敗)、ドゥーリトル本土空襲を契機とする作戦計画を解説、次いで海戦そのものを詳述する。しかし、戦争を知らない読者を意識したのだろう、紙数の4割ほどを、海軍の基本戦略(本土近海域における艦隊決戦、大艦巨砲主義)や往時の海軍上層部(海軍省、軍令部)の言動、人物評価に充て、のちの問題点の導入部としている。この辺りは既刊の同種本とそれほど変わらず、冗長感が否めない。実は、本書は書き下ろしでは無く、口述筆記か対談を元に著わされたもののようで、それが影響していると思われる。

大木調が冴えてくるのは戦闘場面に入ってから。ただ、それは戦闘内容や経緯そのものでは無く、冒頭挙げた淵田(攻撃隊長の予定だったが虫垂炎術後、赤城艦内で伏せている)の著書「ミッドウェー」、航空参謀だった源田実の回想録、さらに戦後海軍関係者が執筆、防衛庁防衛研修所が編纂した「戦史叢書(海戦に関する部分)」など、関係者の発言や書き残した物の虚偽検証を行う部分である。具体例を挙げれば、「南雲(司令長官)愚将説」「運命の5分間」「山口多聞(第二航空戦隊司令官、飛龍座乗)神話」などがそれらだ。

「南雲愚将説」;航空戦の専門家では無かった、真珠湾攻撃で第二次攻撃を行わなかった、作戦を草鹿参謀長や源田航空参謀任せにしていた、などがその論拠となっている。しかし、南雲艦隊は真珠湾のあとセイロン沖海戦(4月)を戦い、消耗・疲弊、補修・補給・休養が必要だった。にもかかわらず帰国後直ちにミッドウェイ作戦に向けられる。しかも、ここで大幅な人事異動が行われたのである(これは本書で初めて知った)。周到な準備・訓練を重ねた真珠湾とは大違いなのだ。

「運命の5分間」;ミッドウェイ島上陸に先立ち艦隊爆撃隊は同島を空爆する。十分でないと判断した友永隊長(淵田の代理)はさらなる爆撃を司令部に要請する。米空母攻撃のため艦船用爆弾を装着中だった艦爆はそれを陸上用に積み替えなければならない。この換装中に敵機来襲、甲板上の爆弾が誘爆、赤城・加賀・蒼龍が炎上していく。「あと5分あれば攻撃隊を発艦できたのに!」、これが「運命の5分間」(初出は淵田の「ミッドウェー」)、戦後海軍関係者いずれもが語り、書き残して長く定説となっていく。しかし、これを覆したのがノンフィクション作家の澤地久枝。海戦の生存者を訪ね歩き「蒼海よ眠れ」を著わして、5分くらいではとても攻撃にかかれる状況では無かったことを明らかにする(メディアで奥宮と対決、論破する。九九式艦爆の爆弾懸架方式が陸用・艦用で異なることを本書で初めて知った)。

「山口神話」;南雲・草鹿・源田等機動部隊トップはすべて生還している。山口も艦長ではなく戦隊司令官でありながら、エンタープライズを屠った(唯一の戦果)あと、沈む飛龍と運命を伴にしたことで、数々の神話が語られることになる。しかし、これは全て戦後の作り話であった。

著者の年齢(1961年生れ)から、作品情報源の全ては文献にある。この点で今回覚醒されたのは防衛研修所編纂の「戦史叢書シリーズ」に対する批判である。多くの戦史作品で参照されてきたものだが、執筆・編集時には関係者が多く生存しており、内容に自己弁護・組織弁護の傾向が強い(特に海軍)との指摘である。

著者の敗因分析結果は;複雑な作戦(陽動作戦のアリューシャン列島攻略、ミッドウェイ島占拠、それに米機動部隊殲滅)であるにもかかわらず、軍令部も連合艦隊司令部も細部は機動部隊任せだったこと、それまでの連戦連勝で海軍全体が傲慢になっていたことにありとする(例;兵棋演習で、航空戦の彼我撃墜率は6対1で日本側有利としている)。読後、澤地久枝の「蒼海よ眠れ」を読んでみたくなっている。

 

5)途上の王国

-20代半ば1年余をかけた貧乏旅行は「深夜特急」として結実したが、思い残したモロッコへの旅を老バックパッカーとして挑戦、まさに続編だ-

 


旅の記憶は景色、食事、催し物、乗り物といろいろあるが、最も忘れ難いのは“予期せぬ出来事”だ。その点で、現地で出たとこ勝負が連続する旅の報告は面白い。保有するその種の本で最も古いのは、1962年朝日新聞刊の「ロンドン→東京5万キロ」(実施は1961年)。まだ国産乗用車が海外進出前、これをロンドンまで運び、そこから欧州→中近東→インド亜大陸→東南アジアと陸路を走り、海路で徳山に陸揚げし東京に至る、大冒険ドライブである。使用したクルマはトヨペット・クラウン、機械科の学生として国産車の遅れはつとに知るところだったから、この快挙に感激した。その14年後(1974年~5年)、バックパッカーとして逆ルートを辿り、東京から香港経由でロンドンに達したのが沢木耕太郎。乗り物の主体は路線バス、その旅を綴った「深夜特急」は1986年単行本として第1巻が刊行され、ロンドン到着の第3巻は1992年と長期間要したものの、ベストセラーとなり、文庫本化もされ、今も売れ続けている。爾来沢木ファンとなり、旅に関する著作は必ず購入している。本書はその最新作である。

「深夜特急」の高い評価がTV番組化につながり、ドキュメンタリー+フィクションの形でTV朝日「劇的紀行 深夜特急」として、3回にわたり放映される。この撮影打ち上げが1997年5月ロンドンで行われ、それに参加した著者が急遽思い立って実行するのが、今回のモロッコ紀行である。原著第3巻終盤近くで詳しく述べられるのは、ポルトガルの南西端サグレス岬滞在。ヒッピー同様だった著者が一瞬考えるのが、彼らの聖地の一つマラケシュ訪問である。この時は断念するものの、その思いが20年後蘇り、日本を発つ前には考えてもいなかった、衝動的な行動に出る。バックパッカーの装備をロンドンで整え、不要なものはスーツケースを含め制作スタッフに持ち帰りを依頼、単身ジブラルタル海峡に面するアルヘシラス(スペイン)に向かい、ここからモロッコ彷徨を始める。もう歳は50歳だ。

既に一流作家となっている著者は、数え切れないほど海外に出ている。また経済的にも20代半ばとはまるで異なる環境。それでも今回の旅のスタイルは「深夜特急」時代と同じだ。安宿に泊まり、屋台で食事を摂り、乗り物は基本的に路線バス、行きがかりの人に世話になる。現地通貨交換を抑えているので、ときには現金が底を尽き、支払いに窮することさえ生じる(カード利用や両替に制約多)。自身英語での会話とフランス語・スペイン語の片言は可能だが、アラビア語はまったく解さない。逆にモロッコ人はほとんどアラビア語しか話せない。「深夜特急」の経験が、こんな環境下で生きてくる。

旅程はあらかじめ決めておらず、フェリーの到着点であるタンジール、かつてのヒッピーの聖地マラケシュ、さらに世界一の迷宮都市と言われるフェズに適当な期間滞在することを漠然と考えている程度。カサブランカはマラケシュへの途上、映画「カサブランカ」のイメージを確認するため一泊しただけだ(映画と重なるものはどこにもない)。一方予定外は“本物の砂漠”を訪ねたこと。マラケシュ滞在中に思い立ち、ルートも宿泊地もはっきりしないまま奥地に踏み込む。「深夜特急」の中東は土漠だが、360度完全な砂漠に到達し感激、ここにしばらく腰を落ち着け、印象記だけで13章の内4章を割く。

一番の目的地であるマラケシュには4~5日滞在する。到着したバス広場で教えられた、夕刻になるとにぎわう広場に面したペンションに投宿、現地の人々の行動を観察、それに慣れ親しんでいく。案内がないと迷子になりかねないメディナ(旧市街)のスーク(市場)も一人で探索、やがて日本語を話す若者に出会い、さらに現地社会に溶け込んで

いく。これはフェズも同様だ。現地の人々との交流、宿泊先施設やそこでのサービス、料理・飲料の調理手順から味わいや値段まで、詳しく解説される。おそらく全期間で4週間くらいの滞在、まったく「深夜特急」続編、第四巻と言っていい内容と筆致だ。私自身40代後半に戻った感で読み終えた。

本書の初出はこの旅の直後、1998年講談社刊の女性月刊誌「フラウ」に連載されたもの。この単行本は珍しく、名の知れぬ出版社から出ているが、最大の理由は自ら撮ったスナップ写真(カラー)を組み込むことにあったようだ。題名にある「王国」は「旅の世界」の意、それが「途上」と言うことは、「深夜特急」はこれからも走り続ける、と解釈したい。期待してます!

 

6)陰翳礼讃・文章読本

-陰のある明るさこそ日本美の原点、建築から食器までその美しさを解説する-

-ただのハウツー物にあらず!谷崎の創作思想・姿勢が生き生きと伝わる内容だ-

 


谷崎潤一郎の作品に初めて触れたのは中学生時代である。母の実家にあった「近代日本文学全集」(改造社刊)をもらい受け、その中にあったからだ。読んだ作品の中で記憶に残るのは「痴人の愛」だけ、ナオミを挟んで男二人と寝る場面しか覚えていない。次に読んだのは高校時代、文藝春秋に掲載の「鍵」である。いずれも思春期にある者にとって、興味津々の内容だが、読み物として面白いものではなかった。以後谷崎作品を読んだことはない。それがこの歳になって手に取ることになったわけは、5月本欄で取り上げた筒井康隆の「不良老人の文学論」にある。この本は100近い作品を評するものだが、そこに取り上げられており、その評に惹かれ、即購入となった。本書は別々に発刊された2編からなる。「陰翳礼讃」は1933年経済誌に連載した随筆、「文章読本」は1934年書き下ろされた単行本、これを合本復刻文庫本化したものである。読んでみて共通するのは、まったく時代の差を感じないことと、「若いときに読んでおくべきだった」との思いである。

「陰翳礼讃」;話は建物および家具・什器から始まる。西洋のむき出しの明るさに対して、行燈、障子が醸し出す柔らかい光、つまり陰のある明るさこそが日本(東洋)文化の特色だと。ここから、ひさし・のき・縁側の効用(光が奥まで届かない)、砂壁の落ち着き、陶磁器と漆器の違いが料理の味わいにおよぼす影響(味噌汁には漆器必須)、玉(日本、中国)とダイヤモンド(西洋)への好み、和紙(純白でない)と洋紙の光沢と柔らかさの違い(著者は特注の和紙の原稿用紙に毛筆で書く)、さらには、この時代使われてはいないが、おはぐろや青い玉虫色の口紅が白人よりも白さを浮きだたせる化粧、などにおよぶ。それは単なる和洋の対比ばかりでなく、同じ日本の芸能を比較し、能にくらべ歌舞伎のケバケバしさ(特に照明)を難ずるような話もある。びっくりさせられたのは、もし東洋が独自の科学を発展させていれば、万年筆は出現せず、筒の中に墨汁を充填し筆部にそれを染み出させる筆記具が発明されていたのではなかろうか、と記されていることである。80年前今日の筆ペンを予見した先見性に驚かされた。

本書出版時はドイツの建築家ブルーノ・タウトが来日、桂離宮など日本美を賞賛した時期とも重なり、随筆の枠を超えて、建築を始めデザイン、写真、映画・演劇、工芸、料理など幅広く影響して行くことになる。戦後英訳もされており、岡倉天心の「茶の本」と並ぶ日本美を分りやすく伝える名著、と海外でも賞賛されている。

「文章読本」;この部は随筆ではなく、文章作成教本の趣き。単なるハウツーでなく、著者の文章作成の思想・姿勢が生き生きと伝わる内容だ。小説を前提にしているが、実用文・雑文でも学ぶべき事柄に満ち満ちている。

先ず、言葉とは何か、文章とは何か、から始まる。それは「思想を伝達する機関(手段)である」とし、「分りやすいこと。理解しやすいこと」を必要条件として挙げ、この条件は実用的な文章のみならず、芸術的は文章(つまり小説)も同様と説く。また小説に使う文章は生活に密着し、実際に即したものでなければならないとし、志賀直哉の「城の崎にて」の一文を例に解説する。さらに、日本文は独特の象形文字(漢字)を使うので、読書の眼に訴える工夫と、黙読が普通の時代でも、音読したときの響きに留意する必要があると加える。

次いで文章の上達法に移る。文法に囚われぬことと感覚を研ぐことについて語るが、感覚に関しては「曰く言い難し」と詳述は行わず、良い文章は「長く記憶に留まる深い印象を与える」「何度も繰り返し読むほどに滋味の出る」とし、感覚を鋭くするには「出来るだけ多くのものを繰り返し読む」「実際に作ってみる」と手短にまとめる。

最後は文章作成の留意点を六つ挙げ、おのおのについて具体的に説明する。①用語;単語の選択が根本。分りやすい語を選ぶ。②調子;音楽的要素。流麗調(源氏物語)、簡潔調(志賀直哉)、冷静調(学者肌の作者)など。③文体;文章の形態・姿。講義体、兵語体、口上体、会話体。④体裁;文章の視覚的要素一切。振り仮名・送り仮名、漢字および仮名の宛て方(例;自作の「盲目物語」(戦国時代、盲目の老婆の昔話は、文章のテンポを緩やかにし、極力漢字を使わないように配慮))、活字の形態、句読点(例;これも自作の「春琴抄」、盲目独身女性の長い語りに読点がない)。⑤品格;文章上の礼儀作法。饒舌を慎む、言葉使いを粗略にしない、敬語・尊称を疎かにしない。⑥含蓄;含意・余韻の意。あまりはっきりさせようとしない。いずれも具体的で今日でも充分そのまま適用可能。読んで最も実りある部分だった。

読後、作家はここまで文章・言葉に配慮して書いているのか、と教えられるとともに、これから何か書くとき、嫌でも内容が頭の中を駆け巡る気がしてきた。

 

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