2026年6月30日火曜日

今月の本棚-215(2026年6月分)


<今月読んだ本>

1) 台湾軍事機密文書が語る中国「抗日戦争」の真相(遠藤誉);新潮社(新書)

2)プラハの古本屋(千野栄一);中央公論新社(文庫)

3)ファイブ・アイズ(アンソニー・R・ウェルズ);作品社

4)日本終戦史(波多野澄雄);中央公論新社(新書)

5)物が全てを教えてくれる(伊多波碧);徳間書店

6)人文知は武器になる(山口周、深井龍之介);文藝春秋社(新書)

 

<愚評昧説>

1)台湾軍事機密文書が語る中国「抗日戦争」の真相

-公開された「戦場からの手書き軍事機密電文集」が、習近平喧伝の「中国共産党が抗日戦争の主力」の欺瞞性を暴く-

 


昨年の6月下旬は満洲旅行に出かけていた。19467月にこの地を去って79年ぶりのことである。大連・旅順、瀋陽(奉天)、長春(新京)、ハルビンと巡ったが、私にとってこの旅のハイライトは新京。ここで生れ育ち、小学校(国民学校)に入学、その夏休みに終戦、ソ連、国民党軍、八路軍(共産党軍)、再び国民党軍と統治者が目まぐるしく変わった戦後、計7年間の在満記憶が鮮明に残るのはここだけだ。残念ながらツアーのため自宅所在地を訪ねることは出来なかったが、他の訪問地と異なりほぼ更地に計画的に作られた都市はそのままの形で残り、当時の大和ホテルや百貨店、官庁街(関東軍司令部を含む)、自宅近くに建設途上だった宮廷府(新宮殿)など、幼い記憶の一端の今を確認することができた。しかし、我々が引揚げた1年後から、国共内戦が本格化、首都中心部を抑える国民党軍に対し、周辺を支配する八路軍が長春包囲戦で兵糧攻めにしたことを知るのは、著者が1984年刊行した「卡子(チャーズ;関所、検問所)」を読んでからである。

著者は1941年新京生れ、父は製薬会社を経営しており製剤の専門家でもある。戦後いずれの統治下でも、医師や技術者は留め置かれ、それなりの処遇を受けており、著者一家も1947年までこの地で為政者の要望に応えていた。しかし、包囲戦が始まると、口減らしのために国民党軍は日本人を追い出し、八路軍はそれを阻もうとする。脱出者は両軍それぞれが設けた鉄条網の間に閉じ込められ、飢餓地獄の中で次々と餓死していく。「卡子」はその様子をリアルに描いたノンフィクションであった。著者家族は幸い八路軍側に父を知る者があり、ここから開放されて中国本土で製薬関連事業指導に当たり、1953年に帰国している。

その後著者は都立大学で物理学を専攻(理博)、「卡子」出版時は一橋大学(物理学教室)勤務、その後横浜国大、筑波大学と移り名誉教授で退官している。少し経歴を調べると両大学とも留学生教育・政策を担当、この間中国社会学研究所の客員研究員・教授として中国本土に長期滞在、中国問題でしばしばTVなどに出演していることからも“中国専門家”が適切なところだろう。特に、最近は中国共産党に対し厳しい批判者としての立場をとっており、本書の内容は当にこの視座からのもので、「抗日戦争」の主役を強調する中国共産党の虚偽を、新資料に依って暴いていく。

本書の根幹を成すのは、最近機密解除となった、台湾国史館が保有する19386月から19446月にかけての抗日戦争における「戦場からの手書き軍事機密電文集」である。発信者は各地の国民党軍司令官、宛先は軍事委員長蒋介石。全数は432通だが、共産党軍(八路軍、新四軍)に関する、象徴的で興味深い電文をピックアップし、その内容と背景解説を行うもので、焦点は往時の毛沢東の戦略に当てられている。

当時の戦場には、日本軍、国民党軍、共産党軍が在り、日本軍と国民党軍が手を携えることはなかったが、三者の関係は複雑で、特に共産党軍は建前上国共協調で抗日を唱えながら、実態はこの機に国内における党勢拡大を目論み、時として日本軍と通じていたのだ。1937年国共合作ののち毛が発した「721方針」にも「抗日戦争は我が党にとって、拡大のための絶好の機会」とみなし「70%を党の拡大に、20%を国民党への協力に、10%を抗日戦に使う」とある。

電文から拾い出された象徴的な出来事を章立てにして;日本軍と共産党軍が弾薬と綿花を融通し合っていること、共産軍の便衣(スパイ、ゲリラ)が日本軍に協力していること、日ソ中立条約成立後、内蒙古の共産軍と日本軍か結託していることなどを取り上げ、具体的な協力関係を露わにする。ここから、習近平が最近国内外で強調する「中国共産党が抗日戦争の中流砥柱(ちゅうりゅうしちゅう;主力)であった」がいかに欺瞞性に満ちた言葉であるかを糾弾する。なお、日ソ中立条約に依る共産軍の変化についてはソ連崩壊後公開された、スターリンと毛の間で交わされた電報なども援用され、その裏付けをとっている。電文の写し、3軍入り乱れた戦場図(複数)、共産党中央部と日本軍・諜報機関関係図なども理解を助てくれる。果たして、本書の内容がどの程度現中国で知られることになるだろうか?読後感はこれに尽きる。

 

2)プラハの古本屋

40年を経て復刊した、在プラハ10年のスラブ系言語研究世界的権威による、共産党支配下の東欧と古書エッセイ-

 


読む本を見つけたり選択する動機は様々だが、既読の本に影響されることも決して少なくない。文中で取り上げられていたり、参考文献リストに挙げられたりしたものが多いが、著者の生い立ちや経歴から、連想ゲームのようにたどり着く本もある。本書は、そうした経緯で購読することになった一冊である。

本年1月ロシア通の米原万里著「旅行者の朝食」を紹介した。内容はロシア語通訳として見聞したソ連・ロシアに関する食べ物と旅行を主題とするエッセイ。ゴルバチョフやエリツィンの好みや極北の地での食事あるいは調理法など、著者のグルメぶりがユーモラスに描かれ、大いに楽しんだ。その出発点として紹介されたのが、小学校から中学校に至るプラハのインターナショナルスクールでの体験談である。友人宅で食した菓子はソ連オリジナルの絶品だが、もう一度と思うが容易に得られず、散々探し後年トルコでやっと似たようなものを味わうことが出来たと終わる。この話が第一話だったにもかかわらず、このエッセイ集ではチェコスロバキアやプラハのことにはほとんど深入りせず、その点でプラハの春(1968年)のような、ソ連圏に在りながら独自な道を模索していた国情をうかがうことは出来なかった。そんな不満が残る中目にしたのが「プラハの古本屋」、題名に惹かれ、内容も確かめず食いついた。

本書はいくつかの点できわめてユニークな本である。先ず単行本の出版が19873月、文庫本初版は20258月発刊。40年近くたって文庫本化されたそれが、短い期間に10版まで増刷されている。次の特徴は一見軽い話題を連ねたエッセイだが、スラブ系言語学をメインテーマとしており、我が国でこのような分野の出版物は決して多くない。そして最も興味深いのが著者の経歴である。

著者紹介には1932年東京生れ、東京外大露語科、東京大学文学部言語学科卒とある。東大は大学院だろうか?その点を少し詳しく調べると、東外大は卒業しておらず、東大の学部を1958年に卒業していることが分かった。更に調べると1950年代東大には専門特化の転入制度があり、それを利用して転校したらしい。東外大入学が1951年、東大卒業が1958年、東大に7年間在籍しているが修士号も博士号も取得しておらず、いきなり卒業の年(1958年)チェコスロバキア国費奨学生としてカレル大学文学部スラブ語学科に留学、1967年まで約10年在籍。この間同大学の講師を務め、帰国後は東京教育大学助教授、東京外国語大学教授と変わり、退官後名誉教授、和光大学学長のポストにも就いている。夫人はカレル大学時代の同級生(チェコ人)、二人の子供(女、男)は日本語とチェコ語のマルチリンガル、夫婦間の会話は専らロシア語、と私生活面でもユニークな生き方をしている。2002年没。

本書の初出は新聞・雑誌から企業広報誌、専門誌・学会誌まで様々で27編、時間は1960年代後半から1980年代半ばまで、構成は言語学・プラハの古本屋・スラブ圏紀行の三部から成る。

この本に期待していたのは、まったく知識の無いプラハと言う風土、それに海外の古本屋であった。しかし、話は言語学の部から始まり、一向にそれらが出てこず、“羊頭狗肉”が頭にちらつく。だが読み進めていく内に「言語をここまで突き詰めて研究するのか!」と、一見軽い話題の奥深さが少し分かってくる。言葉そのものの有無;津波(Tsunami)に対応する言葉が存在する国・地域、高潮と区別が無いところ、複数の津波(地震津波、風津波)表現があるところ、地形による言語分布;半島は概して複雑な言語構成であること(バルカン半島、インドシナ半島)、多言語研究者(スラブ語の中の少数派言語)との対話、チェコ語における方言の話(著者はこれを聞き分けられる)、などがその例だ。二人の子供の成長に伴う日本語・チェコ語それに第3の言語(姉はロシア語、弟はドイツ語)習得のプロセスと習熟度の話もこの部で紹介される。

プラハの古本屋の部に入ると、著者がスラブ系言語研究者として、日本に留まらず世界的な権威であることが見えてくる。単なる研究者ではなく、稀覯本の収集家としてもその世界に知られ、古書に関するネットワークが出来上がっているのだ。古書店といえども共産主義下では国営企業、人脈づくりは容易ではない。店長(書店主)の部屋に招き入れられて、初めて価値ある古書(購入制限のある新刊書もある)を閲覧し、入手することが可能になるのだ。古書店や店主の名前、そして具体的な書名を挙げながら、書物の概要と価値を語る話は、必ずしも内容を理解出来るわけでは無いが、上から目線やスノッブな教養主義をまったく感じさせず、気持ちよく読み進めることができた。読後感は「著者没後これら収集された膨大な古書はどうなったのだろうか?」と「今この特殊な世界を扱った本書が10版を重ねるほど売れるのは何故なのだろうか?」という疑問である。前者に関しては弟子の何人かに渡り、明治大学図書館には一部が「千野コレクション」として収蔵されているようだ。後者に関しては、少々大げさだが、日本人の知的好奇心はなかなかのものだと感じ入った。

 

3)ファイブ・アイズ

-戦中に発し全世界をカバーする通信傍受監視ネットワーク、その全貌が明らかになると期待したが、専門メンバーの雑駁な回顧録-

 


先月末国会において国家情報会議設置法が成立、首相を長とする国家情報会議(司令塔)とその実働組織として国家情報局(National Intelligence AgencyNIA)の設立が決まった。従来警察庁・防衛省・外務省など各省庁に分散していた国家安全保障に関する情報を内閣に上げる事務局機能は内閣情報調査室(内調)が有していたものの、司令塔機能を果たす組織は存在せず、同盟国(米国および米国を介しての同盟関係を含む)との情報共有に制約をうけていた。しかし、今回の新法により内調が発展的に改組・拡張しNIAとなって、各省庁から提供される情報を分析して国家情報会議に上げ、国策決定に寄与する形態となる。これは同盟国から見た場合、国家レベルの機密情報取り扱い責任の所在が明確になったことであり、より機密性の高い情報を共有できることを意味する。そんな制度改変もあり、昨今メディアでは世界規模で情報収集・分析に当たっている“ファイブ・アイズ”への参加さえ期待する声が聞こえる(個人的には無理筋と思うが)。

ファイブ・アイズのファイブは米・英・加・豪・ニュージーランドの5カ国を意味する。第二次世界大戦中米英間で枢軸国無線通信傍受を目的として構築した監視連絡網に、戦後英連邦を構成していた3カ国が加わり、英語国5カ国で地上波無線のみならず衛星通信や光ファイバー、サーバーなどの監視を行ってきた。一時期エシュロン(Echelon;階層関係)と呼ばれたこともあったが、通信手段がハイテク化するに連れファイブ・アイズが一般的になる(本稿の中では適宜両用)。

2013年スノーデンが暴いた米国家安全保障局(NSA)よる独メルケル首相携帯電話盗聴事件もファイブ・アイズの仕業であり、同盟国でもファイブ以外は監視対象なのだ。一方で正規メンバーではない日本が関わった事件もある。19839月樺太沖大韓航空機撃墜事件。これを最初に探知したのは稚内駐屯の航空自衛隊レーダーと陸上自衛隊幕僚監部調査部第二特別室(調別)。特に調別が録音したソ連軍パイロットと基地の暗号化されていた交信録が事件解明の決め手となり、米国は国連安保理においてこれを公開、領空侵犯を主張するソ連の偽証を覆す。極東における軍事情報はエシュロンの一端に組み込まれ、自衛隊・在日米軍間で共有されており、直ちに米国政府に伝達された結果である。これは自衛隊の通信傍受・分析力の高さを世界に知らしめことになるが、他方ソ連にその力と暗号が解読されていることを教えることにもなった。エシュロンを始めとする世界のインテリジェンス活動に関しては、30年以上あれこれ読んできているが、「五カ国諜報同盟50年史」のサブタイトルは、新法成立とNIAのこれからを展望する上で魅せられるところがあり、手に取った。

諜報関連書籍は機密性の高い内容を扱うため、特に著者のバックグラウンドが重要だ。帯に「内部関係者による初の証言」とあるように、著者は海軍兵学校で教育を受け英国海軍に入隊、情報部門を専らとしてきた軍人である。きわめて特異なことだが米海軍にも軍属として勤務、双方の情報機関で50年にわたって活動してきた人物。英海軍時代ロンドン大学キングズカレッジ(戦争学部)で博士号も取得するほど専門性も高い。正確な生年は不明だが、文中から19434年生れと推定する。

本書の構成は50年史とあるように、時間軸に従っている。その50年は第二次世界大戦における諜報活動のような前史や出版時以降の将来見通しを含むものの、著者が軍務を開始した1968年から、米海軍軍属を退職する2018年までの期間を意味する。つまりこの本は著者の現役時代回顧録なのである。そのため、自身を中心にした人間関係や体験談、専門分野の技術的な解説に終始し、ファイブ・アイズの組織的活動や国家戦略との関わりを包括的に把握・理解するにはまったく不適な内容であった。最近これほど期待外れの本は珍しく、途中から飛ばし読みし、読後本書(原著、訳書)そのものについて、次の二点を重点的に調べてみた(主としてAIGeminiと対話)。第一点は原書の海外(英・米)における評価、第二点は邦訳出版の背景である。

第一点に関するGeminiの回答(一部):読了お疲れ様でした。質問者が抱かれた「個人の体験談やオープン情報(公開情報)が雑然と記された回顧録のようで、系統立てた理解には向かない」という感想は、実は本国である米英の専門家や書評家たちの評価とも完全に一致しています。「ファイブ・アイズ」の本ではなく「海軍インテリジェンス」の本である。後半の散漫さとテーマからの逸脱は特に酷い。

第二点に関する質問;本書の日本語訳出版は2024年、訳者は公安調査庁・内閣調査室30年間勤務の我が国インテリジェンスの専門家、出版社・訳者は既に米英での評価を知っていて当然と思うが、その点はどうなのだろう?

Geminiの回答(一部):鋭いご指摘です。まさにその通りで、出版社やインテリジェンス専門家である訳者が、米英での冷ややかな評価や本書の「偏り」を知らなかったはずがありません。 知った上で、なおかつ日本で「ファイブ・アイズの全貌を明かす決定版」のような見せ方で出版した背景には、日本の出版市場の特殊性と、日本のインテリジェンス界が抱える切実な事情(思惑)が絡み合っています。思惑1;海外のノンフィクションを導入する際、最も重視されるのは「著者のプロファイル(属性)」です(その点で申し分のない経歴)。思惑2;日本の「ファイブ・アイズ加入論」への一石。思惑3;日本における「インテリジェンス関連書」の選択肢の狭さ。要するに我が国インテリジェンス村は狭く、存在感も薄い。状況改善のため少しでも世界の権威にすがりたいと言うことらしい。 NIA発足がこの状況を脱し、発展することを切に願う。

 

4)日本終戦史

-終戦の実態は、原爆投下・ソ連参戦・玉音放送が決め手ではない!二つの聖断に至る過程を綿密に語る秀作-

 


私の終戦は89日ソ連軍満洲侵攻で疎開していた公主嶺(満洲国首都新京の南約60km)で迎えた。無論15日の玉音放送など知らなかったし、戦争に負けたという感じもしなかった。否「戦争が終わったのでまた新京の自宅に帰れる」と明るい気分になってさえいた。負けた、大変なことになったと子供ながらに感じたのは、秋になりソ連軍が新京に進駐、至るところで彼らの蛮行が話題になっていたからである。この辺りの感覚は、内地で爆撃の被害にさらされていた、同年配の友人たちとはまったく異なる終戦感なのだ。本稿を書き始めた623日は沖縄戦終了「慰霊の日」、来月は初の原爆実験が成功し(716日)、ポツダム会談も始まる(17日~)、終戦史上重要な月でもある。ジム仲間から贈られたものの積読状態になっていた本書を、読むなら終戦への最終段階と重なる今、と紐解いた。

本書が対象とする期間は1944年後半から終戦の詔勅が発せられるまでの約1年間。終戦決断の動機として、原爆投下とソ連参戦という外圧との関係が重視されがちだが、ここでは終戦を左右したものとして、米側の本土侵攻作戦やその前段階である空襲・封鎖(機雷、潜水艦)とこれに対峙する本土決戦構想や防衛体制を解説しながら、終戦の最終意思決定に関わった人物の言動をつぶさに考察、御前会議における二つの“聖断”が、陸軍の主張(本土決戦)を排し、大きな混乱なく、ポツダム宣言を受諾する過程を追う流れになっている。

先ずこの戦争を大東亜戦争あるいは太平洋戦争と一括りにせず、事変として始まり泥沼状態となっていた日中戦争、太平洋を戦場とする日米戦争、米国と同盟を組む英国との戦争(日英戦争)、最後に連合国として参戦するソ連との戦争(日ソ戦争)の四つの複合戦争と見做し、終戦への政府・軍の意向・意識は専ら対米戦のそれだったことを浮き彫りにする。実際、戦後の日本人も、あの戦いで敗れたのは米国との思いが強いから、この整理は真っ当なものだ。

沖縄戦の敗北(本島上陸は41日)を受け小磯内閣が鈴木貫太郎内閣に置き換わる(47日)。後継に東條等は畑俊六陸軍内閣を望むものの、重臣達が天皇の意を忖度して鈴木を推した結果である。本書の中で、鈴木は就任以降ポツダム宣言受諾まで、時には和平派に組みし、時には陸軍におもね、優柔不断の極みに見える。しかし、これが鈴木の終戦戦略であったのだ。陸軍が離反(陸相現役が内閣の条件)すれば内閣は瓦解、陸軍軍政になること必定、これを避けるための手段だったのだ。本書では触れていないが、ドイツは連合国に認められる政府(ヒトラーは潜水艦隊司令長官デーニッツを後継者に指名していたが)が最終段階で存在せず、連合国四カ国(米・英・ソ・仏)に依って分割統治されてしまう。結果として鈴木の曖昧さはこの惨状を避けることになる。

さて終戦・降伏への過程。先ず問題なのは“無条件降伏”。ローズヴェルトがチャーチルとのカサブランカ会談(19431月)で枢軸国三カ国に対して言いだした終戦条件。イタリアは19439月ムッソリーニ政権崩壊後バドリオ政府が連合国に加わり対独宣戦を発する。この過程で“無条件”はかなり緩められ、王制も残される(戦後国民投票で廃止)、他方ドイツは無政府状態で敗北、完全な無条件降伏である。19458月発せられた対日ポツダム宣言の中には「日本軍の無条件降伏」がはっきり記されている。この宣言を突きつけられ、鈴木は記者団に「黙殺する」と応え(後年鈴木は「ノーコメント」の意だったと釈明している)、それが世界に発信され、NYタイムズは「拒否」と報ずる。86日広島に原爆投下、8日ソ連参戦と長崎に原爆投下。それでも陸軍は受諾拒否、本土決戦を頑迷に主張する。負け戦は太平洋戦域だけ、膨大な派遣軍が戦い続ける中国戦線の勝敗は決していない。これが陸軍の強硬論の支えだ。

二つの聖断が陸軍の徹底抗戦論に断を下す。

第一次御前会議(89日深夜~10日未明);ポツダム宣言の諾否。外務省案;受諾条件は「国体護持」のみ。陸軍案(4条件);国体護持、占領軍の本土進駐拒否、武装解除は日本軍自身が行う、戦争犯罪人の処罰は日本が行う。御聖断;「朕は外務大臣の意見に賛成である」。第二次御前会議(814日正午前後);日本のポツダム宣言受諾回答(国体護持のみ条件)に対するバーンズ米国務長官の回答諾否。「天皇は占領軍司令官の制約の下にある(be subject to~)」に対し陸軍が「国体護持ではない」と反対。御聖断;「朕は国体は護持されると信ずる。よって外務大臣の意見に従う」。二つの御前会議で木戸幸一内大臣の果たした役割は大きい。原爆とソ連参戦は和平派にとって対陸軍策として「天佑」となる。

米国政府・軍トップの“無条件降伏”に対する考え方、陸海軍の敗北観の違い(陸軍は太平洋島嶼戦域のみ。それも海軍が制海・制空権を失ったため)、4月頃から始まるソ連仲介期待の動き(消去法;唯一日本と交戦していない大国)、中立国(スウェーデン、スイス)を介した和平交渉(日米双方とも公式ではない)、突然の休戦・武装解除に混乱する中国、95日降伏文書調印まで続いたソ連の北方領土侵攻など、終戦に至る様々な出来事もかっちりした構成の中で扱われ、終戦史におけるそれぞれの意義・位置付けがよく理解できる(秘話、エピソードでなく)。小冊ながら正統な歴史学に基づく良書が読後感。

著者は1947年生れ、慶應義塾大学大学院博士課程修了(法学博士)。防衛研修所戦史部勤務を経て筑波大学社会科学系教授、同副学長。現在外務省「日本外交文書」編纂委員長。専攻・日本外交史。

 

5)物が全てを教えてくれる

-男性しか機会の無かった帝国大学進学、明治末期唯一開かれた東北帝大に入学した女性第一期生の伝記小説-

 


私の学んだ高校は旧制中学(男子校)、戦後新制高校に変わってからは男女共学となり、男子250名・女子100名の定員となっていた。学区内ではトップの進学校だが、女子は同学区内に旧制府立第一高女が在ったため、成績の優れた者はそちらに回り、我が校の女子は、総じて視れば二線級と言ったところだった。ただ、少数ではあるが男子レベルで学びたいとの志で入学した生徒もおり、常にベスト30(東大合格者概数)入りする者が23人いた。彼女たちはその後国立の一流大学に進んだが、全員理系だったはずである。当時の女子就職状況は文系に比べ理系の方が専門職として扱われる可能性が高く、学んだことが生かせると考えてのことだろう。ただ一般的な傾向として、理系と言っても医(歯科を含む)・薬が圧倒的に多く、理系教職課程を除けば、理学部の物理・化学(数学、生物は少数あり)、工学部へ進む者はきわめて限られていた(工学系は皆無と言っていい)。これが1950年代後半のリケジョの実態。では戦前のリケジョは如何なる状況下にあったのか?昨年8月の本欄で、放射能分析の世界的権威猿渡勝子を主人公とする「翠雨の人」を紹介した。女性科学者に与えられる「猿渡賞」の創設者である。東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)、東京女子医学専門学校(現東京女子医大)に合格する力はあったが、最終的に設立されたばかりの帝国女子理学専門学校(現東邦大学)の物理学科で学び、気象台(現気象庁)に入所、ここで博士号も取得した才媛である。しかし、学歴は専門学校卒、それなりに苦労も味わうことになる。あの本を読んでから約1年、たまたま本書の広告を目にした。“日本初の女子帝大生、女性化学者”に惹かれた。今度のキーワードは“帝大生”である。旧帝大(創立順;東京、京都、東北、九州、北海道、大阪、名古屋)の中で、東北帝大に女性の卒業者が居たことはぼんやり記憶にあったものの、詳しいことは何も知らない。入学前提条件となる旧制高校はすべて男子校。どのような経緯で帝大入試にたどり着くのか?これが本書を読む最大の誘因だった。

本書の主人公は元佐賀藩士の娘、1884年(明治17年)生れで、1968年(昭和43年)に没した、黒田チカお茶の水大学名誉教授(理博)の自伝を素にした伝記小説である。伝記小説は数々のエピソードや作者の思い入れで読み物としての面白さを醸し出すのだが、肝はやはり生き方そのものだろう。従って内容紹介は経歴を中心に進めることとする。

4歳上の姉について毎日尋常小学校(4年)に行き校舎の窓から授業が終わるまで見学、知らず知らずのうちに自分も学習、当時の学校制度の緩さもあって、5歳で入学、高等科(4年)を卒業するときは10段階評価の10、席次は2番。成績優秀のため師範学校女子部入試を進められるが年齢が達しておらず、1年家政学校に在学したのち師範学校に入学する。卒業後義務である小学校教員を1年務めたのち周囲の薦めもあり、1902年(明治35年)女子高等師範学校(女髙師;のちの東京女子高等師範学校、現お茶の水女子大学)の理科に進学する。ここを卒業後福井の女学校教員となるが、1907年再び恩師の薦めで女高師に戻り研究科で学ぶことになる。いずれの学校でも常に成績優秀者だったことがこの経歴で分かる。研究科を修了、母校で講師兼研究者を続けている際、恩師から東北帝大理科大学受験を命じられる(1913年)。それまで女子の帝大入学事例など皆無だった時代にである。

ここで、少し当時の帝大受験・入学状況を確認しておく。1886年(明治19年)大学令で東京帝国大学が創立される。次いで1897年京都帝大、1907年東北帝大、1911年九州帝大と順次帝大が設立されていく。この年(1911年)まで帝大入学資格は旧制高等学校卒が必須条件であり、旧制高校は全て男子校だったから、女性に帝大入学のチャンスは全くなかった。しかし、1912年(明治45年)、この大学令が改定され、高等工業学校、高等師範学校卒業者も帝大受験の資格が与えられるようになる。これを直ちに導入したのは東北帝大、ときの総長澤柳政太郞、女髙師の問いに答えてのことである。その結果1913年そこから3名が受験・合格、黒田チカがその一人となったのである。ただ澤柳が受入表明をした際文部省は反対、戦後新制に切り替わるまで他の帝大で女子が受験することは叶わなかった。3年後の1916年チカは理科大学化学科を卒業、副手として指導教官の下で研究者生活に入る。この副手時代国費留学生として1921年より2年間オックスフォード大学に留学、帰国後女髙師講師となり、戦後お茶の水女子大学と改まった1949年教授に就任。この間1929年理学博士号を取得している(女性第2号、第一号は女性同期入学で女髙師の先輩でもある保井コノ)。チカの専門は草花からの天然色素抽出、合成染料が主流になっていく中で、むしろ貴重な研究・業績で特許も取得、これが研究活動を支えていく。

教えることよりは学ぶことへの関心の高さ、それぞれの学校における恩師達との関係、化学分析の難しさ、同級生との交歓、理解のある両親、応援団長気どりの下宿のおばさん、そしてこれは完全に創作と思われるが、友人の兄が寄せる彼女への恋心、様々な話題が、上述の経歴に重ねられる。しかし、東北帝大入学前後を除けば、全体としてはさしたる盛り上がりはなく、淡々と死に至るまでの人生が語られるので、小説としての面白味は今ひとつの感。私として本書への期待は、古き時代の先駆的女性化学者とその時代の高等教育にあったから、その点では満足すべき作品だった。なお、題名の「物が全てを教えてくれる」は黒田チカの座右の銘。

 

6)人文知は武器になる

 -人文科学不要論?とんでもない!答えの解っている問いに正解を出すだけの秀才はAIに駆逐される。今こそ人文知が勝敗を分けるのだ!-

 


“人文”を初めて意識したのは大学進学に関する父兄面接である。担任教諭は父に、私の進路として人文科学分野が好ましいと語ったというのだ。子供の時から工学方面志望だったから、これは晴天の霹靂。そこで、具体的にどんな専門分野があるのか調べると、文学・哲学・歴史・地理・人類学・倫理学・思想などがそれに含まれることが分かってきた。確かに世界史と人文地理は好きだったし成績も良かったが、想像すらしたことのない世界。高校生の浅薄な知識ではどんな仕事に就けるのかまったく不明。助言を無視し、技術者への道に進んだ。後年数学史や物理学史を通じ、新しい世界を切り開いた偉人達が、哲学や歴史にその着想を得ているケースが多いことを知る。例えば、ギリシャ哲学と数学、天動説から地動説への転換、相対性特殊原理、岡潔博士の伝記などはそれらだ。しかし、経済性、効率化優先で生きてきた、典型的な昭和人間、深く人文について考えることはなかった。日本のみならず世界が明らかに変革期のあると感じられる昨今、「人文知は武器になる」は新しい眼を開かれるように感じた。

本書は、書き下ろしではなく、山口・深井による、世界、国、企業の置かれた現状認識、今に至るその変化の経緯、そしてその変化・課題に対応すべきこれからの組織知能についての対話を文書化したものである。従って二人のバックグランドが色濃く反映されているため、各人のそれを先ず略記する。

山口周:1970年生れ、慶大文学部大学院で哲学・美学を学んだ修士。電通に就職、その後ボストンコンサルティング、ATカーニーなどでコンサルタント業務に従事、現在は独立。「世界のエリートはなぜ「美意識を鍛えるのか?」」はベストセラーとなっている。

深井龍之介:1985年生れ、九州大学文学部社会学科卒。東芝(経営企画部門)に就職。早い機会にベンチャー企業に転じ経営にも関与したのち、現在はネット放送(ポッドキャスト)運営と起業したCOTEN(古典に由来;個人、企業がスポンサー)で「世界史データベース」の構築に当たっている。

現状認識として、アメリカ一極支配が終わり権力は分散、世界秩序が変わりつつある。経済性最適化追求の新自由主義は格差社会を生来、企業存続の意義見直しの機運が高まっている。国民国家が構造疲労を起こして力を失っている現代、それを補う企業の役割は増し(例えば環境問題)、求められる人材の質も明らかに異なる方向にある。

ではここでクローズアップする人文知とは何か?哲学と歴史である。山口の哲学(概念)、深井の歴史(事実)に関する知見が、縦糸と横糸になり様々な切り口で交錯・補完しつつ、あるべき企業人とそれを生かす企業文化の新しい姿を示していく。端的に言えば本書は一種のビジネス指南書である。

いささか抽象的だが、その論旨を手短にまとめると;今までの優秀な人材は「答えの分かっている問題を効率よく(最短時間、高精度)解ける人だった」。しかし、この能力はAIの出現により、いまや高い評価とはなり得ない。また、長く「常識」としてきたことが短い時間で変わる現在、タイミングを失すれば旧来の正解も誤回答となってしまう。これから求められる人材は、「常識の檻から脱して思考し」「直面する事態に新たな問題を発見・設定、回答を見つけ出し」「出した解を実行する」能力を持つ者であり、これらいずれの局面でも、哲学と歴史に関する深い見識が不可欠と説く。つまり、哲学は概念構想検討の空間域を広げ、歴史はより長い時間軸から、事態を客観的に見つめる視座を与えてくれる、と。

人文知の重要性を説く過程では、各国におけるリベラルアーツ(教養)教育の実態、コンサルタント業界におけるその評価などが援用される。前者では、フランスにおける大学入試資格試験バカロレアにおいて哲学が必須であること、オックスフォード大学で政治・経済を学ぶ課程では哲学が並行すること、ハーバード大学の学部はリベラルアーツ学部一つであり、専門課程はすべて大学院で行われること(これは旧制高校・大学の制度に近い)。後者では、コンサルタント企業を含む米企業で、MBAより学部卒の方が評価が高く、昇進者も多いことが例示される。

深井の「世界史データベース」は未だ構築中の過程にあるが、そこから日本社会の特質(強み)を語るところが面白い。23紹介すると;村落共同体、島国の歴史から「嫌いなんだけど、一緒にいないといけない人と一緒にいられること」、「非言語情報に重きを置く「ハイテキスト文化(空気を読む)」が高く、これはグローバル社会に生かせること」、「ダブルスタンダード(例えば西洋と東洋)に耐性があること」などを挙げている。

読み終わり、高校時代を思い返してみた。数学や英語がその後の人生に不可欠の知識であったことは間違いないが、IT適用分野がプラント→工場全体→全社と広がるに連れ、世界史(特に戦史、技術史。経営史、外交史)の知見がウェートを増していったことは確か、「人文知は武器になった」。

 

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2026年6月25日木曜日

念願の青函旅行-8

 

8.津軽海峡春景色


高台となっている龍飛岬観光の後はその下にある特異な観光スポットへ。三厩からここまで走ってきた道路は国道339号線。この道の正規ルートは、高台の直前でUターンし、半島の東側から西海岸に出るのだが、この東から西に切り替わる部分は階段でクルマは通行できない(岬に至るクルマ用の道路は別にある。おそらくトンネル工事用)。何故こんなことになったのか?かつての丘から漁港に降りる急な坂道が、村道・県道・国道と昇格する過程で、現地調査もせず役人が地図上でそう決したとの説が、辺鄙なここを訪れてみると納得感がある。階段国道は全国唯一、今や津軽半島を代表する観光名所である(写真2葉)。


この階段入口と隣接し海峡を見下ろす突端に“津軽半島・冬景色”の碑がある(写真3葉)。阿久悠作詞・三木たかし作曲・石川さゆりのヒット曲、哀愁を帯びた演歌の名曲は、確かにこの地の冬にはぴったりだ。この記念碑には仕掛けがあり、碑の前に在る大きな半円形のボタンを押すと石川さゆりの歌が聞こえてくる。二番を刻した碑は中央で一段と大きい。「ごらんあれが龍飛岬北の外れと・・・」では一段と音量が高まる。今日は春の陽光だが、ツアー客が順次その前で歌を流しながら記念撮影をしている。

昼食は記念碑からバスで5分もかからない陸奥湾や北海道松前方面も展望できるホテル龍飛で摂る。このホテルの真下は青函トンネルで、ロビーに新幹線の通過時刻を記した表示板が置いてある。通過時はここで音が聞こえるそうだ。ただ、ホテルは閑散としており、食堂は我々と、もう一組10人くらいの団体だけ、宿泊客は居そうもない。ホテルの開業時期はトンネル工事が本格化した頃のようで、おそらく当時は盛業だったのだろうが、今は何か斜陽感がただよう(太宰治の出身地が近いからか?)(写真)。


昼食は津軽名物「じゃっぱ汁」と海鮮御膳。“じゃっぱ”は“雑把”の津軽訛り、“捨てるもの”の意である。タラの頭・骨・皮・アラと大根・人参・豆腐を煮込んだ汁。わりと淡泊な味付けで、これは美味しくいただいた。しかし、海鮮御膳は重の中を仕切り、魚介類が少量配されたもの、焼き魚を含めすべて冷えており、ご飯もまずく、まったく期待外れだった。団体旅行の弱みは昼食、人数の多さと時間の制約でなかなか「これは!」と感じさせるもの行き当たらない。


本来の予定は、ここから蟹田港に出てそこから陸奥湾口を横断、下北半島の脇野沢港に上陸する予定だったが、強風でフェリーが欠航、陸奥湾沿いを陸路青森市経由でU字状にバスで移動となる。

 

(次回:下北半島へ)

 

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2026年6月18日木曜日

念願の青函旅行-7

 

7.龍飛崎へ


1035分日中だが閑散とした奥津軽今別駅前広場から(写真)、バスはほぼ北への進路をとる。県道と思われる道の沿線は、それなりに町工場や個人住宅が現れるものの、人の気配は少なく、廃屋らしき建物が目立つ。やがて道はT字路に出ると、そこは津軽半島外周を巡る国道399号線、しばらく進むと津軽線三厩駅方面の案内表示が出てきた。さらに進むと防波堤で隔てられた海沿いの道となり、前方にはっきり見える陸地は始め下北半島かと思ったが、北海道の渡島半島松前方面と判明する(写真)。遠方を見ると穏やかな海だが、近くで幾重にも重なる白い波頭を見ていると、総トン数400t、全長50m、大型バス4台または乗用車7台の小型フェリーで陸奥湾を横断するのは無理だと納得できる。


11時龍飛崎灯台下の駐車場に到着、1125分まで自由行動となる。灯台(写真)まではかなりの上り坂、灯台周辺は観光用の広場となっており、岬の先端は更にその先、とても時間内で戻ってくるのは無理な距離、広場周辺の景観を楽しむ(写真2葉)。


先ず目立つのは風力発電、龍飛の由来は「龍も風で飛ぶ」から来ているとの説もあり、その力を利用しているのだ。実際強風で帽子は常時手で押さえておかないと吹き飛ばされてしまう。


新幹線の本州最北端駅は奥津軽今別駅だが在来線が旅客輸送を行ってきたときはここに龍飛海底駅があり、現在別ルートではあるがトンネル工事用ケーブルカーがこの駅(立ち入り不可)と地上の青函トンネル記念館を結んでいる(写真)。個人旅行だった最優先訪問先だが、今回それは叶わない。

 

(次回:津軽海峡春景色)

 

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2026年6月15日月曜日

念願の青函旅行-6

 

6.本州最北端新幹線駅奥津軽今別へ


523日(土)普段家に居るとき同様5時半過ぎ起床、天気は快晴だ。先ず温泉大浴場で一風呂浴びる。ビジネスホテルだけあって朝食は6時からOKだが、出発は8時半だから急ぐ必要はない。昨日夕方は閉まっていた朝市に出かけてみたが、そこへ行く前に港に係留され、今は博物館になっている青函連絡船摩周丸を外から巡ってみる。船尾の貨物列車を引き込む部分は雑草が茂り、あまり保全状態が良好とは思えない。しかし、全容はなかなか立派な船で、往時の雄姿が偲ばれる。運航中に一度乗船してみたかった(写真2葉)。

朝市の一画は、食事エリアと市場が同じ建物内に在るものの、分離されており、開いているのは市場の方、既に観光客が三々五々集まってきている。イクラやタラコなどの比較的小さなものから、大きなタラバガニ(この大きさは予想以上。バラして足23本だけをまとめて販売)や鮭まで。また生ものから乾物まで様々な海産物が並んでいる。我が家は老人二人、毛ガニ一匹で十分だが、それではクール宅急便の送料の重みがバカにならない。だいたい商品の価格が適正かどうかも判定しかねるので、購入はあきらめる。


ホテルへ戻り、7時頃ビュッフェスタイルの朝食を摂る。国内ツアー最大の難点は洋食メニューがお粗末なことである。本物のオレンジジュース、大きめの食パン、サラダ、ベーコン、ジャガイモ料理、目玉焼き、コーヒーが定番だが、どれも満足がいくものではなかった。果物もポンチのみ。これはこのホテルに限ったことではなく、参加した全てのツアーがそうだった。欧米からの旅行客にはむしろ和朝食が受けるのだろうか?


8時半ロビーに集合した際、陸奥湾フェリーが強風で欠航、津軽半島から下北半島まで青森市経由陸路になると告げられる。函館は穏やかな天気なだけに、予想外の感だ。ホテルを出て徒歩でJR函館駅へ。丁度新函館北斗行き函館ライナーが入線してくる。名称が付いているほどだからボックスシートを予想していたが、通勤電車同様のベンチシート、代り映えのしない車輌だった。少々違うのは寒冷地によくある半自動式のドアー。停車中でもボタンを押せばドアーが閉まり、降車時も同様ボタンで開ける。


850分発車した電車は途中駅をいくつか停車せず通過、920分には新函館北斗駅に到着、936分発はやぶさ16号に乗り換える。座席は2号車6Cの三人掛け通廊側だがA,Bには誰も来ず、おそらく新青森以降で乗ってくるのだろう。少し前の席は中国系とおぼしき団体だが、身につけている物(Tシャツ、帽子など)には英語ばかり記されている。955分車内放送が青函トンネルに入ったことをアナウンス。明かりが差したのは1018分、通過に要した時間は往きとほとんど同じ23分と言うことになれる。本州最北端新幹線駅奥津軽今別駅到着は1023分、定刻通りである(写真)。


この駅の平均乗降客は6人/日(全新幹線最少)、こんな少人数をあらかじ予測したのか、プラットホームの巾はきわめて狭く、設置されている椅子は折りたたみ式であった(写真)。こんな駅に23人も降りたので何やら駅員もうれしそうにしていた。


駅周辺には鉄道関係以外何も無く、駅前広場に停まっていたのはこれから我々が乗る観光バス1台のみだった(写真3葉)。

 

(次回:奥津軽今別駅から龍飛岬へ)

 

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