<今月読んだ本>
1) 日本漢字全史(沖森卓也);筑摩書房(新書)
2)古本屋の誕生(鹿島茂);草思社
3)天才作戦家マンシュタイン(大木毅);KADOKAWA(新書)
4)ガリンペイロ(国分拓);新潮社(文庫)
5)「あの戦争」は何だったのか(辻田真佐憲);講談社(新書)
6)サンセット・パーク(ポール・オースター);新潮社(文庫)
<愚評昧説>
1) 日本漢字全史
-土器に文様として残る漢字から、ディジタル時代の漢字まで、我が国漢字導入・変遷を、字形・字体・字義・字音を網羅して解説する力作-
漢字を書くことを覚えたのは、小学校入学少し前だったように記憶する。自分の名前を書くことが始まりだった。本書によれば、現在常用漢字は2136文字、その内小学校で学ぶ教育漢字は1026文字と言うことだが、はたしてどれだけの文字を使えるだろうか? ワードプロセッサーを常用する今日この頃、読むのはともかく、手書き能力は高校卒業時より確実に低下している。とは言っても、一旦漢字を覚えれば、仮名(あるいはローマ字)だけの文章など、読む気も書く気も起こらない。やはり漢字を身近に置いておきたい。
高校の国語で漢文を習った際、漢字に対して新たな意義を発見した。それは漢詩を見たとき、目から直接情景が浮かんでくることであった。仮名やアルファベットのような表音文字では、まったく味わえない詩情が伝わってきたのだ。漢字は直接心に達する。
一方で漢字の扱いに苦労したのは、1980年代始まったオフィス・オートメーション(OA)である。“計算”業務主体の電子計算機(死語か?)で日本文を扱うのは、ダントツの業界リーダーIBMでも容易ではなく、初めて国産機を導入した。現在PCやスマフォで簡単に日本文が扱えることに隔世の感だ。漢字からカタカナやひらがなが生み出されたことと合わせて、こんな漢字への関心から本書を手にした。読んでみて、この本は掛け値無しの“全史”であると認める。
漢字の日本渡来で明確に残るものは18世紀九州福岡志賀島で発見された「金印」、紀元一世紀のこととされる。これは後漢の皇帝から「倭奴」「国王」に贈られたもので、日本人が作ったものではない。国内発見の最も古い記録は、根塚遺跡(長野県)で出土した甕形土器に刻まれたもので、これは三世紀中頃と推定されている。しかし、当時の日本人はこれを文字として認知していたわけではなく、文様として刻んだようである。本書はここからディジタル時代の今日に至る、我が国における漢字導入・利用変遷史である。そこには、単なる表意文字としての漢字解説ばかりでなく、日本文化史、仏教史、日中交流史から、中国王朝史、朝鮮半島史、教育史、考古学、音声学まで動員され、漢字の意義・見つめ方を一新される内容だった。
日本には話し言葉はあったが文字は存在しない。言語構造は中国語とまったく異なるところに受容されるのは、表音文字としてである。この過程の研究材料は古墳から発掘される木簡・刀剣銘。下って漢字だけで記された万葉仮名だ。これを簡略化する過程でカタカナやひらがなが生れ、やがて漢字仮名交じりの和漢混合文が普及していく。これには禅宗を中心とする仏教(仏典)の和文化促進も預かっている。当初は音読みが基本だった、音読みでは本来の日本語とは対応せず訓が生まれてくる。また、オリジナルの中国語発音にも呉音(南方系;先に導入)、漢音(北方(長安)系、王朝所在地ゆえに正音となるが後発)など数種あり、これが日本において複数の読み方を生ずることになる。このような字音ばかりでなく、字形・字体・字義・使い方(公用/私用)についても、我が国における漢字利用の独自発展を教えてくれる。部首扱いにおける日中の違い、漢和辞典の変遷、漢字普及の担い手(中世までは僧侶、渡来人が中心、以後は藩校や寺子屋)、幕末・維新期における西洋言語の漢字化、この時期と戦後における漢字廃止論(福沢諭吉は制限論、志賀直哉はフランス語を国語化)、書道と印刷まで、漢字に関するテーマを網羅する。
面白い話を一つ;飛鳥時代の遣隋使のひとり、小野妹子(おのの いもこ)の中国名は蘇因髙(そ いんこう)、小はseuと発音、これはsoに近いので蘇、妹はinと発音、因となり、子(こ)はkauと発音、髙となるのだ(野に関しては解説なし)。
著者は1952年生れ、専門は日本語歴史研究。立教大学名誉教授、文学博士。「日本語全史」という著書もあり。
2)古本屋の誕生
-世界文化遺産となってもおかしくない、神保町古書店街の成立過程を、業界の変遷や現存する書店の変身で語る-
自他共に認める軍事オタクである。とは言っても興味の対象はごく限られており、第一点は、戦略兵器にまで発展した航空機・戦車を代表とする装甲兵器・潜水艦、それに電子兵器、第二点は軍事における数理の利用、第三点は生きてきた時代、昭和史と関わる戦史、に過ぎない。この内第一点・第二点は、専ら技術・数理に着目、本業のIT利用促進のヒントを得ることが目的だった。そのために1950年代から60年代に翻訳出版されたものや外国語(英語)の古本もかなり集めた。購入先は専ら古書街神保町で軍事に特化した「文華堂」と言う店、全書棚は旧日本陸軍の連隊戦闘記録からドイツ空軍エースパイロットの自伝まで、あらゆる種類の軍事書籍(第二次世界大戦が大半)で埋め尽くされていた。場所は、神保町の交差点を靖国通りに沿って、神社方面に向かい、二筋ばかり進み、左(南)に入ったところ。ここを見つけるまでは、片っ端からあの古書街を巡ったが、非効率なことおびただしかった。今でもあの店は営業しているのだろうか?本書の中に何か記されていないだろうか?これが購読動機である。
著者には同じジャンルの既刊書「神田神保町書肆考」があり、本欄2022年11月で取り上げている。本書との違いは、神保町界隈が書店街として発展した背景・経緯を語るもので、古書店に絞り込んだものではなく、特に東大を始めとする学校の生い立ちや書籍事情紹介にかなり紙数を割いており、あとがきによればそれに批判もあったようだ。その批判に応えることもあり、今回は副題に“東京古書店史”とあるように、古本屋街としての歴史に絞り込んでいる。ところで前文の中で“古書”と“古本”の二語を使用したが、著者はその定義をした上で、主として“古本”を使っている。“古書”はある程度時間を経てそれなりの価値を持つものに対し、“古本”は買って直ぐ売られた近刊書も含まれるのだが、古本屋がより一般に膾炙されているからだ。
我が国で書籍の売買あるいは移動が記録されているのは平安時代、そこから江戸時代までの書籍ビジネス史を導入部でかたる。売られていたものは①写本、②木版印刷本、③古活字本(銅活字)、④キリシタン版(宣教師密輸入の印刷機)などだ。ここで着目するのは、第一に、現在製本・出版・取次・販売と分業体系になっているビジネスモデルの時代変遷、それと新刊書・古本の扱いである。手短にまとめると、明治維新以前では、先の分業体系はほとんど存在していない(細々した職人仕事はあったが)。そして、新刊書・古本に関する限り欧米では依然として、これを厳密に分けてはいないのだ。この違いは、明治政府が古本売買を古物の商(あきない)と同等としたことによる。
江戸時代末期の書店は現在の銀座通り、京橋から新橋辺りの間に多かったようだが、そこから増上寺付近までは武家屋敷(藩邸)が多く、これが維新で空き家となり、それを活用した書店が芝方面に延び、一時は芝神明町が一大古書店街となっていく。
明治10年(1877年)一橋地区に東京開成学校と東京医学校が合併して東京大学が誕生。東京外国語学校、私学の法律学校もこの地区に陸続として創設され、そこでの洋書需要が神保町を古書店街として発展させていく。今でも存在する有斐閣は古書店第1号だったのだ。次いで三省堂、冨山房、丸善の支店(中西屋)、いずれも洋書を扱う古本屋が前身だ。そのために、三省堂創立者亀井忠一の夫人万喜子はドイツ語を独学で学んだという。少し時代が下ると、岩波茂雄が創業した岩波書店もスタートは古書店。だが早い時期に新刊書の出版に転じている。
明治22年(1889年)の東海道本線全線開通は、それまでセドリと呼ばれる仕入れ・販売担当者に頼る業務を、個人ベースから全国規模の集配システムに一新。古書目録を発行し全国の書店に配布、神保町を古書集積点に変じる。明治36年(1903年)の靖国通り全通がさらに神保町を変えていく。駿河台下から九段下の俎橋(まないたばし)の南側に書店が並ぶ現在の書店通りはこの時形成されたのだ(それまでは現在のすずらん通り(三省堂の裏口に面する道路)がメインストリートだった)。
この後に起こる二つの大災害が、むしろ古書店街の発展につながっていく。先ず大正2年の大火(1913年)、次いで大正12年(1923年)の関東大震災。出版社、印刷所、製本所、そして店も書物もすべて灰燼に帰すわけだから大災厄である。しかし、古本の調達先は新刊書と違い、すでに全国に存在している。また学校は図書館再興のために膨大な図書を必要とする。この災厄をチャンスととらえ、攻めに転じた店は有卦に入るのである。
これと似た現象は終戦直後にも起こる。この時も戦災は広範におよび、新刊書は出版不可、加えて新円切り換えがあり、換金のために被害を免れた稀覯本を含む良質な古書が市場に流れ込む。一方で新制大学が発足、学校図書館向け需要は急増する。
古書の取引市、業者組合、価額の決め方、店員の育成と質的変化(丁稚と呼ばれていた世界に、旧制二高を経て東大法学部を卒業しながら昭和恐慌のさなか一店員となった反町茂雄という人物が残した私家本?が随所で援用される)、経営環境変化(特に戦中・戦後)と生き残り策など、様々な角度から古書店(古本屋)の変遷を解説、古本屋に対する認識を全面的に改める結果になった。こまかく書店名を付した時代ごとの絵図・地図があるが、「文華堂」はなかった。
著者は1949年生れ。明治大学名誉教授、仏文学者、作家。
3)天才作戦家マンシュタイン
-砂漠の狐ロンメル、戦車将軍グーディアンとならぶ独陸軍の名将、その虚実を最新情報で正す-
1939年9月1日、ヒトラーはポーランド侵攻の「白号」作戦開始を発令する。第二次世界大戦の始まりである。9月3日英仏は対独宣戦布告するが、西部戦域は北欧での戦いや独軍港爆撃はあったものの、“まやかしの戦争”と呼ばれるような平穏な状況だった。それが破られるのは1940年5月20日、独軍は西方作戦「黄号」を開始する。この戦いは6月22日には停戦協定が結ばれ、一ヶ月あまりの短期間で西欧全域がナチスドイツの支配下に置かれる。世に言う西方“電撃戦”である(電撃戦(Blitzkrieg);独国防軍は使っておらず、メディアとゲッベルス宣伝相が広めた言葉)。
国防軍オリジナルの「黄号」作戦案は、第一次世界大戦の西部戦線同様、オランダ・ベルギーを反時計方向に制圧、パリ西方からフランスを落とす、「シュリーフェン・プラン」を踏襲したものだった。仏の対独東側正面は強固なマジノ線が構築されていることもあり、英仏連合軍も同じような想定で仏国境北西側重視の防御態勢を採っている。ヒトラーは前大戦でこの案が不成功だったことから、国防軍に別案を求めていた。ここで、出てきたのが装甲軍による、ベルギー、ルクセンブクにかけて横たわるアルデンヌの森林地帯を突破して仏北東端からパリに迫る案である。この案の発案者が本書の主人公、エーリッヒ・フォン・マンシュタインである。著者は既に「砂漠の狐ロンメル」「戦車将軍グーディアン」を上梓(二書とも本欄で紹介)、本書でマンシュタインを扱い、独陸軍名将3部作を完成させたことになる。
マンシュタインは1887年地方名家レヴィンスキー家の第5子として誕生、親しい関係にあったマンシュタイン家に世継ぎがいなかったことから養子となる。この一族は第一次世界大戦の英雄でワイマール体制下の大統領ヒンデンブルグと縁戚関係にあり(叔父-甥)、これがのちの人生に影響する。エーリッヒは幼年学校、士官学校と順調に軍人の道を進み、陸軍大学校へ進学(グーデリアンは同期)するが、在学中第一次世界大戦が勃発、原隊(歩兵連隊)に復帰、下級将校として転戦、やがて終戦を迎える。ヴェルサイユ条約下再編された国防軍(10万人、将校4千人)に残れたのは、縁戚関係が大いに与ったようだ。その後隊長職や参謀職を行き来しながら昇進、ナチス政権誕生時(1933年)には大佐。1935年ヴェルサイユ条約破棄で国防軍が本格的再建に入ると参謀本部第1課(作戦)課長、1936年10月には少将となり第1部長に昇進、これは実質的に参謀本部次長に相当する。1939年4月中将、南方軍集団参謀長(規模;師団→軍団→軍→軍集団)の職に就き、ポーランド戦に参戦する。この軍集団はポーランド戦役終了後A軍集団として改編、西部戦線に転用される。
西部侵攻はA軍集団とB軍集団で構成され、国防軍計画は、B軍集団がドイツ側から見て右翼を担い、シュリーフェン・プランをなぞる主力攻略部隊の役割が与えられ、A軍集団はアルデンヌ方面から侵攻するものの、歩兵中心の陽動部隊として使われることになっていた。しかし、マンシュタインはこの山岳森林地帯を装甲軍で突破する案を検討、陸大同期で装甲軍生みの親グーデリアンに諮り、実現可能であることを確信、国防軍中枢にこれを訴える。だがこれが逆に不興を買い、1940年1月参謀長を解任、歩兵軍団長に左遷されてしまう。この案が復活するのは西部戦役を前に開催された将官会議、ここでマンシュタインはヒトラーに自案とその可能性を伝え、最終的に装甲軍によるアルデンヌ突破案が採用されることになるのである。この作戦は後年「低位の作戦次元での成功によって、高位の戦略次元における苦境を脱することを可能にした、戦史上きわめて稀な事例」として高く評されることになる。マンシュタインはこの戦いに歩兵軍団長として加わり、その戦功を認められ歩兵大将に進級、1941年3月念願だった自動車軍団(装甲軍団)長に任じられる。
次の戦場はソ連。1941年6月22日「青色」作戦、いわゆるバルバロッサ作戦発動。これは北方・中央・南方の3軍集団で戦われるが、マンシュタインは北方軍集団を構成する第56自動車軍団長として、バルト海沿岸からレニングラードに攻め上がっていく。この途上南部軍集団の軍司令官が戦死したことから、9月ウクライナ方面を担当する第11軍司令官に転じ、1942年3月クリミア半島制圧で上級大将、7月セヴァストポリ要塞を悪戦苦闘ののち攻め落とし元帥へと短期間で軍最高位に達する。しかし、勝運もここまで。国防軍はスターリングラードの戦況を改善すべく新たな軍集団ドン軍集団を創設、マンシュタインはその軍集団司令官に任命されるものの、スターリングラードの解囲は成らず、ソ連軍の反攻に東部戦線全体で後退を余儀なくされ、小作戦の勝利はあるものの、最後の大作戦「城塞(シタデル)」作戦(有名なクルスク戦車戦もその一部)も失敗、ついにヒトラーから「後退元帥」と呼ばれるほど信を失ってしまう。以前からのヒトラーの細部にこだわる作戦批判もあり、1944年4月司令官を解任され、その後一線に戻ることはなかった。
著者が本書で試みるのはマンシュタインの再評価。戦後西側でプロフェッショナルとして高い評価を得ていたそれを、最新の情報を基に見直すことである。ナチスとの関係(特にユダヤ人、捕虜の扱い)、優れた戦略家という評価、自著「失われた勝利」の内容、戦犯裁判の証言(禁固18年と決するが、8年あまりで釈放されている)などがそれらだ。ナチスとの関係では黒に近い灰色、作戦家として卓越していたが戦略次元は評価できず、内外における高い人物評価は冷戦によって増幅されていた、である。独大学院に留学し、多くの独語文献を基にしているだけに、「ロンメル」「グーデリアン」同様、納得できる結論であった。
4)ガリンペイロ
-アマゾン最深部で行われている不法金採掘をNHK記者が取材。場所を明かした者に明日はない-
金の価格が高騰している。昨年1月の値段は1オンス$2600だったが今年年明けには$4800に達した(直近では$5000超え)。1年で約80%の上昇率である。地政学的リスク、低金利、個人の安全資産指向、様々な因子が絡み合った結果だが、信じ難い伸びだ。金製品など、20年前に退職記念にと贈られた金メッキの万年筆くらいしか持たない私にとっても、気になる動きだ。
ガリンペイロがブラジルの金採掘人を意味することは知っていたし、TVの番組で垣間見たこともある。ジャングルの中で上半身裸の男たちが、水と泥にまみれて働く姿は、とても現代の鉱山労働者とは思えないものだった。一方、この金ブームを意識したのであろう。昨秋、これもTVで鹿児島県の菱刈金鉱山での生産活動が放映された。ヘルメット・制服作業着・安全靴に身を固めた作業員は、私の工場勤務時代となんら変わらず、その差は当に“雲泥”であった。どんな人間が、どんな環境の下で働き、どんな暮らしているのか?これを知りたい、が本書購読の動機である。
著者は1965年生れ、1988年NHKに入局。2015年~16年、アマゾン奥地に金採掘場を含めつごう3回、50日以上取材で滞在。その結果はNHKスペシャル「大アマゾン」シリーズとして放映され、本書はその取材活動から生まれたものである。
目次と序章の間に、ここの“掟”が記されている。内容と深く関係するものを取捨略記すると;・誰でも受け入れる、・黄金を掘っていれば何をするのも自由、・凶器を持つのも自由、・取り分は採掘場所有者70%、ガリンペイロ30%、・所有者はコメと豆を支給するが、それ以外は住む小屋を含め自分で手当てする、・この場所を誰にも明かしてはならない、・明かしたものは死を覚悟すべし。これら掟の内最後のためだろう、場所はアマゾン川の支流のまた支流域であることは分かるが、そこへの出発点となる都市名はP市とだけしか記されていないし、現地の地図はごく限定された地域の簡単な略図に過ぎない。日本へ戻っても、この掟からは逃れられないのだろう。
2015年9月、アマゾン河の船着き場からガソリンのポリタンクを満載し、数人のガリンペイロ希望者たちを載せた吃水の浅い船に同乗して上流に向かう。五日かけて到着するのはアマゾン最深部にある金採掘場の管理センターのような所。この採掘場を経営するのはガリンペイロから成り上がった「黄金の悪魔」と称されている男、近辺に5カ所の不法採掘場を持っている。本書はこの時船で知り合い、やがて「ラップ小僧」と呼ばれる若者を、いわば主人公にして進められていく。
管理センター一帯はプリマヴェーラ(春)と名付けられており、ここに高床式の食堂兼売店を中心に倉庫や保管庫が設けられている。売店には酒・タバコから砂糖・塩、長靴・ロープ・山刀まで様々な雑貨がそろっている。この売店は一定時間しかオープンせず、それを取り仕切っているのは「金庫」とあだ名される人物、彼は採掘された金の計量責任者でもあり、いわば「黄金の悪魔」の現地代理人と言ったところ。売店の取引はすべて金(重さ→価格)で行われ、その記帳を行うのも彼の仕事だ。
ラップ小僧が配属されるのは「プリマヴェーラ」から10kmほど離れた「コロラド」と名付けられた採掘場の一つ、直径100m・深さ3mの巨大な穴を5人で担当する。組頭・高圧放水2人・水路整備1名・泥水ポンプ1名がその内訳だ。取り分は5人均等である。「コロラド」にはこのような採掘場が3カ所あり、ガリンペイロは15~20名、そのための食堂があり、賄い婦も居る。日没から4~5時間は発電機が稼働、食堂でTVを楽しむこともできる。住まいは食堂付近に自分で掘っ立て小屋を建てる。労働時間は朝6時~12時、12時半~18時半、計12時間、日曜は休日。この他クリスマスから年始にかけて12日間の休日がある。
「黄金の帝王になる」と大口をたたいていたラップ小僧は、キツい労働に不適、仲間から出て行けと言われ、「金庫」からも「借金はチャラにしてやるから街に戻れ」と宣告される。ラップ小僧はこの追放後、放棄された採掘場で一時過ごし、再び戻るが、今度は一人でぼた山を漁る男と合流、真面目に金発掘に取り組むものの実りは少ない。第1回目の取材では追放されるまで。第2回目ではぼた山掘りまで。そして第3回目は行方知らずとなっており、何故かガリンペイロたちは彼のことを話題にしたがらない。
泥まみれの日常、仲間との諍い(殺人、行方不明)、実現しない“一攫千金”、金をくすねた逃亡者とその末路、諦観しきった老ガリンペイロ、廃鉱区のぼた山で一人金を探す脱獄被疑者、新鉱区探査、クリスマスの乱痴気騒ぎ(街から娼婦が送り込まれる)、アマゾン奥地の異常な世界がサスペンス小説風に描かれ、ひと味違ったノンフィクションに仕上がっている。
取材班は現地で多くのガリンペイロから聴取りを行っているが、膨大なウソの中から一つの真実を見つけるのは、大量の泥の中から金を発見することと同じ、と結ぶ。
5)「あの戦争」は何だったのか
-歴史は科学ではなく物語である。この史観に基づいて著者が行き着いた結論。小さく否定、大きく肯定する「あの戦争」-
突然の衆議院議員選挙がまもなく行われる。今、何故?は一先ず置いても、誰に投票するか、迷うところだ。私のチェックポイントは経済と国家安全保障。経済の基本因子は詰まるところ国家財政にあるのだが、どの政党も減税・国債依存の大判振る舞いで大同小異。加えて自民党議員の世襲化や政治とカネの問題、野党の現実味のない単なる政府批判に過ぎない提言、いずれも選択肢にならない。ここのところ支持政党“無し”がトップにあるのもうなずける。政党が党利党略に走り、信を失っていったのは昭和恐慌の1930年代。1932年には5.15事件で犬養首相が暗殺され、以降軍人中心の内閣となる。国家・国民を考えてくれるのは軍、との世論が高まった結果だ。そして「あの戦争」に進んでいく。あの時代、もし選挙権のある成人だったら、私もその世論に付和雷同したに違いない。たまたま同期入社の友人が送ってくれた本書を、そんな思いで読んだ。
著者は1984年生れ。評論家・近現代史研究家とあるが、特定の大学・研究機関での勤務歴は一切記されていない。しかし、既刊書を見ると「『戦前』の正体」(講談社現代新書)、「ルポ 国威発揚」(中央公論新社)、「防衛省の研究」(朝日新書)、「超空気社会」(文春新書)、「大本営発表」(幻冬舎新書)など一流出版社から「あの戦争」と関係する興味深い本を出しており、本書も“10万部突破”が頷ける内容だった。
著者が先ず取り組むのは「あの戦争」の定義である。満州事変・支那事変・大東亜戦争・太平洋戦争・十五年戦争・第二次世界大戦、ときにはペリー来航前後の外圧を起源とする百年戦争論まで取り上げて(林房雄「東亜百年戦争論」)、自説をまとめる。それは支那事変と大東亜戦争を連続したものとするものである。私自身は、満州事変→支那事変→大東亜戦争を一体として捉えているが、著者によれば満州事変と支那事変の間には日中間で和平交渉が行われており、支那事変まで6年も間が空いたところから、連続性は無いとするのだ。また、ポツダム宣言が発せられた会談場展示説明に「日中戦争がアジアにおける第二次世界大戦のはじまり」とあることも論拠にしている。さらに満州事変を起点とする15年戦争説が主として左派系の研究者による加害者視点が強いことも排除した理由のようだ(一方で東亜百年戦争観は右派的と退ける)。
次いで、「あの戦争」に突入するまでの背景・経緯を分析する。根底にあるのは「日本はけっして進んで開戦を望んだわけではない」ことである。日露戦争前の日英同盟(1902年)、満洲共同経営に関する桂・ハリマン協定(1905年)では英米との協調路線が外交の基本方針だったが、次第に英米(特に米国)が、アジアにおける日本の影響力拡大を警戒するようになる。日本もこれに対応すべく軍事力・経済力を強めようとするが、英米に依存しながら(石油、技術)、それを進めざるを得ないという悲しむべき構造にあった。では「涙を飲んで引く(英米の主張を飲む)」ことが出来ただろうか。ここでは石橋湛山の「満洲撤退・貿易立国論」など、様々な戦争回避策が検証されるが、どれも当時の世論・国情には合致しない(戦後の貿易立国は冷戦ゆえに成功した)。ここから近衛の「英米本位の偽善的平和主義を排す」が生まれ、広く支持されるようになっていく。
戦争回避が難しかったのは英米の対日政策だけが原因ではない。明治憲法では首相の権限はきわめて限られており、元勲・元老不在となった時代、国論を調整する機能が失われ「司令塔不在」が現実だった。東条首相さえ弱腰を非難されており、ヒトラーやムッソリーニのような独裁者とは比べようもなかった。細部の説明はないが、明治憲法下では天皇ですら単独で非戦を貫くことは不可能だったのだ。いわば「護憲」が開戦の一因と考える。
では、「あの戦争」に“正義”はあったのか。ここでは“大東亜共栄圏”に焦点を当てて植民地解放戦争としての「あの戦争」を検証する。第一次世界大戦後のパリ講和会議において、日本は“人種差別撤廃”を提案するが、白人国家の反対で実現しない。一方で維新以来“脱亜入欧”でアジア人蔑視をしてきたのも事実。東条首相は戦時の占領地を中心に「大東亜会議」を開催するものの、タテ前はともかく日本の盟主意識は見え見え、フィリピンのラウレル大統領は敢えて“対等・平等”を念押しする。また、英米に対する宣戦詔書の戦争目的には「自存自衛」しか記されておらず、植民地解放・共栄圏創出は後付け感を免れないのだ。この大東亜共栄圏検証では、著者自ら東条首相の外国訪問地すべて訪れ、現地で事情聴取して、画餅に帰したそれを報告する
それでは著者にとって「あの戦争」は何だったのか。先ず歴史観として、イデオロギーや時代の雰囲気によって影響を受ける「歴史は科学ではなく物語である」とみなす。そして歴史を振り返る意義は、過去を美化することでも、糾弾することでもなく(正邪、白黒ではない)、重要なのは、何故当時の日本がそのような選択をしたかを深く理解し、“わがこととして”捉え直し、現在につなげることにあると説く。ここから「あの戦争」を、明治維新を起点とする第二(第一は神代)の建国の総決算であったとし、現代日本がその延長線上に存在している以上、「あの戦争」は不可避的に特別な意味を持ち続けるだろうと位置づけ、「戦中日本の行動を小さく否定することで、日本という国自体を大きく肯定する」と結ぶ。
昭和も残り少ない時期に生れ、左翼主導の昭和自虐史観をすり込まれなかった世代による、すっきりした新史観はなかなか説得力があった。
6)サンセット・パーク
-米ベストセラー作家が描く、リーマンショック直後のアメリカ社会と若者たち。その喪失・罪・孤独・悩み-
芥川賞作品など辛気くさくてまったく興味がない。記憶に残るのは、高校時代同世代を描いた石原慎太郎の「太陽の季節」くらいである。日本の純文学さえ読まない私が、米国現代文学を代表する作家の作品を読む気になったのは、翻訳者柴田元幸(東大名誉教授)にある。翻訳に関する小論やエッセイは好みのジャンル、英米文学翻訳者として著名な柴田が2018年自伝的エッセイ「ケンブリッジ・サーカス」を著わし、購読した(本欄で紹介)。この時訳者と原作者の交友関係を知り、そこからポール・オースターに興味を持ち「ブルックリン・フォーリーズ」を読んでみた(これも本欄で紹介)。癌を患った孤独な老人を主人公とする作品だが、暗さをまったく感じさせないストーリー展開に惹かれるところがあった。その原作者が2024年他界したことが報じられた際、新たな翻訳作品(文庫)が出たら読もうと思っていた。これがその最新作品である(単行本は2019年に発刊されているので本作品が遺作ではない)。
時代は2008年末から2009年半ばにかけて、リーマンショックで不況下にある。舞台はブルックリン(マンハッタン島の南部対岸)サンセット・パーク、港湾地区に近く、多くの有名人が眠るグリーンウッド霊園(ここの墓石とマンハッタンの摩天楼群を重ねた写真が有名)と接する一画。ここに在る廃屋(固定資産税が払われず市が管理)に住む4人(男2、女2;いずれも28歳位)の物語である。主人公はマイルズ・ヘラー、父は出版社経営、母(継母)は大学教授、ブラウン大学3年在学時帰宅した際、ふと耳にした父母の会話にショックを受け、忽然と両親の前から姿を消して7年、フロリダの不動産屋で立退き家屋の残存物撤去を担当している。彼にはヒスパニック系の17歳になる恋人がいるのだが州法でこれは違法、密告を恐れ彼女が18歳になる来年5月までこの地を去らざるを得なくなる。たまたま、唯一連絡を取っていた高校時代の友人で、既に廃屋利用していたビングに共同生活を持ちかけられており、11月末NYに向かう。
同居者3名の現状;ビング・ネイサンは高校卒業後<壊れ物の病院>を営みながらバンド活動している。エレン・ブライスは大学をドロップアウト(堕胎→自殺未遂)した画家志願の女性、不動産屋勤務でこの廃屋をビングに紹介、自分もここに移り住む。アリス・バーグストロムはコロンビア大学大学院生で博士論文執筆中、PEN(作家)協会のパートタイマー。いずれも薄給、家賃高騰が理由でここに転がり込んだのだ。
小説の構成はこの4人について、それぞれが成人してから現在までの出来事・問題事を章立てあるいは項立てで述べ、次第に4人の相互の変化やマイルズの両親(父、生母、継母)との関係を絡ませながら進んでいく。同居する4人の男女の間には軽い恋慕の情などあるものの、男と女の関係はない。この過程で、時代背景、アメリカ社会の一端、各人の内面が見えてくる。ここが読みどころだ。喪失・罪・孤独、悩みを抱え陰のある日常生活描写の中に、回顧シーンでは古いメジャーリーグやハリウッド映画を巡る長い会話などを交えことで、不安・暗さの中に一瞬希望の光を垣間見せてくれる。全体のトーンは静かだが、じわーっと余韻が残る作品だった。
当然ながら訳はどこにも翻訳調の残滓を感ずるようなところはない。漢字の横に記されたふりがなに「ここまで配慮しているのか」と感心させられた。例えば、リーズン(reason)を、あるところでは“理由”、別のところでは“理性”と使い分けているのがそれだ。もう少し柴田元幸訳のオースター物を読んでみようか。今、そんな気になっている。
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