2026年2月28日土曜日

今月の本棚-211(2026年2月分)


<今月読んだ本>

1) 旅行者の朝食(米原万里);文藝春秋社(文庫)

2)「おかえり」と言える、その日まで(中村富士美);新潮社(文庫)

3)「予想外」を予想する方法(キット・イェーツ);草思社

4)大谷のバットはいくら?(熊崎敬);柏書房

5)日本漁業の不都合な真実(佐野雅昭);新潮社(新書)

6)外務官僚たちの大東亜共栄圏(熊本史雄);新潮社(選書)

 

<愚評昧説>

1) 旅行者の朝食

-小・中学生時代東欧で暮らし、ペレストロイカ期からロシア語通訳として活躍した才女のロシア食事事情-

 


2003年、関係会社を含め41年にわたり携わってきた石油精製・石油化学業界の仕事を終え、計測制御システム会社で海外営業のお手伝いをすることになった。最初に取り組んだのはロシアの市場開拓、ウラル西側を中心に足かけ3年間従事した。モスクワの現地法人を拠点に各地に散在する製油所を訪問、日本での事例を紹介し、当該製油所のIT利用度合いを診断、改善提案をするのが業務概要である。モスクワからクルマで日帰りできるところもあったが、多くは空路あるいは鉄道でおもむく遠隔地、前夜遅く現地入りし、翌朝工場訪問するケースがほとんどだった。ロシアでの工場訪問は事前に先方が招待状を発行、それで訪問可となる方式なのだが、そこで驚いたことは、何度か客先が朝食を用意してくれていたことである。それも決して軽食ではなく豪華なものだった。さすがにウォッカはなかったが。

紀行文、旅のエッセイは最も気が休まる。検索で行き当たったのが本書。著者の名前はソ連崩壊後メディアでしばしば見かけていた。ロシア語の専門家であること、父親(米原昶(いたる)が日本共産党の幹部であったこと(戦前旧制一高生時代主義者と関わり放校、戦後入党し二度衆議院議員を務める)、その関係で共産圏欧州に滞在していたこと、などがそれらだ。

著者は1950年生れ、2006年死去。本書の単行本は2002年に出版されており(文庫は2004年刊)、そこに収録されたエッセイ37編はそれ以前雑誌・新聞・広報誌などに掲載されたものである。先に述べたように父親は1959年~1964年プラハに在った国際共産主義活動広報誌の編集責任者を務めており、著者も同行、日本の小学校4年生相当から5年間彼の地のインターナショナル・スクール(ロシア語)で学んでおり、帰国後日本の高校、舞踊学校を経て東京外大露語科に入学、さらに東大大学院(露文)に進み、修士号を取得している。東外大時代日本共産党に入党するが、東大大学院時代除名されている。本書執筆までの訪ソ・訪露回数は200回以上、多くの日ソ・日露高官の通訳業務に従事、1993年エリツイン大統領来日の際は随行通訳を務め、その後2003年から死去するまでロシア語通訳協会会長の座にあった。

本書の内容は豊富なロシア体験に基づく食に関する話だが、ロシア料理に限らず、日本食は無論、仏・伊などの西洋料理から中東の菓子や果実などにもおよび、それが狭義の食そのものにとどまらず、文化・歴史ときには政治にまで関連付けられ、ロシアの内外から食を通じてその社会を垣間見せてくれる。例えば、タイトルの「旅行者の朝食」。これは計画経済時代の肉や豆や野菜を煮込んだ缶詰の商品名、これに飲み物・黒パンがあれば朝食として充分との考えから発したものだ。よほどの空腹時でなければとても食べられない代物、それをテーマにしたソ連社会を揶揄する話である。ペレストロイカ期のソ連トップの好み、保守派の頭目リガチョフ政治局員は和食・魚は一切ダメ、滞日中はすべてフランス料理で通す。ゴルバチョフは刺身・鮨には拒絶反応を示したが、天ぷらや火を通した魚介類は大歓迎。エリツィンは出される料理、何から何まで興味を示し、美味しそうに平らげた。ここから著者は「未知の食べ物に対する許容度と政治的革新度が正比例する」と結論づける。堅い話ばかりではない。キャビアの密売、ウォトカ消費と世相、極寒下釣り上げると即凍結する鮮魚の食し方(専用の鉋がある)など、ロシアの食満載。

本書を読んで感心したのは、タダの食通に留まらない食に対する探究心の旺盛さである。料理に関する古今東西の書物に精通、初体験で味わった感動を再現すべく、自ら試行錯誤して調理してみたりもする。本書で教えられたこと;製油所の朝食はテーブルいっぱいに広がる方式だったが、西洋料理が順番に出てくるのはロシア発祥、18世紀までフランス料理も一度に供されるスタイルだったとのこと。

 

2)「おかえり」と言える、その日まで

-奥多摩・奥秩父・丹沢、ハイキングで出かける程度の低山で起こった山岳事故を国際山岳看護師資格を持つ女性が報告-

 


食事どきのニュース、天気予報以外ほとんどTVを視ないのだが、それでもいくつか定番の番組がある。見始めた古い順に、「ブラタモリ」「呑み鉄本線日本旅」、それに「日本百低山」がそれらだ。それぞれ主題は異なるものの、いずれも未知の地を探訪するところは同じ、一種の旅番組として楽しんでいる。この内“未知”という点で最も惹かれるのが「日本百低山」、 “酒場詩人”を自称する吉田類が女性タレントとともに、地方の比較的都市部近くにある低い山(ほとんどが1000m未満、500600m級が多い)に登る行程を辿り、下山後地元で一献傾け、最後に一句詠んで終わる構成になっている。しかし、低山といえども侮ってはならない!本書の内容は都市部から日帰り可能な山々で起こった遭難事件の詳細事例を報告、安易な登山への警告書である。

取り上げられる遭難は6件、すべて死後の発見、2週間ほどから2年以上と捜索期間は様々。遭難者は50代から60代ですべて単独行、日帰りかせいぜい一泊の行程。奥多摩・奥秩父・丹沢山系、日光足尾など首都圏近場がほとんどで、高い山でも1000mを少し超える程度、地元の小学生が遠足で出かけるような所だ。推定される遭難状況の詳細はそれぞれの章で語られるが、すべて「道迷い(結果としての滑落・転落を含む)」である。今回本欄で伝えたいことは、遭難捜索活動の内容や読後感ではなく、それに当る組織や人に関することである。

著者は1978年(昭和58年)生れ。高校卒業後看護学校を経て都内の総合病院で救命救急センター・集中治療室担当の経験が長い看護師。二児を持つ母親でもある。向上心の強い人で、それまでの間JPTECJapan Prehospital Trauma Evaluation and Care;外傷を負った患者を病院に搬送するまでの指針を出す役割)インストラクター資格や国際山岳看護師認定資格などを取得している。転機が訪れるのは2011年救急医療従事者講習会講師を務めたとき受講生の中に山岳救助に携わる男性がいたことから、2012年捜索救援を求められ、この世界と関わっていく。その知見を基に、2018年山岳遭難捜索チームLiSSLife Search and Support)を立ち上げ、本格的に遭難者捜索と家族支援を行っているのだ。勤務形態は不明だが、現在は市立青梅総合医療センターの職員でもある。

山岳遭難事故は、先ず地域管轄の警察署と地元山岳関係団体が当るのだが、活動期間は長くて3週間程度、その後を引き受けるのがLiSSのような組織となる。遭難者家族の要請に基づき開始、終了を告げられるまで続ける(冬季中断などもあり、活動期間は随時決められる。LiSS側から打ち切ることは一切無し)。費用は3万~5万円/日/人+実費(交通費など)、チームは最低でも2名なので16万円はかかるわけで、総額は相当な金額になる。ただ山岳保険をかけている場合はそれでカバーできるようだ。遺体(ほとんど遺骨)・遺留品発見の場合は動かさず警察に通報、その後は警察業務となる。LiSSの仕事は現場捜索ばかりでなく家族の相談(特に心理的な)にものる。最近の著者の役割はここに重点が置かれているようである。2024年度の山岳遭難件数は2946件、遭難者数3357名、死者300名、行方不明35名。多くの山岳事故の陰に、メディアでは報じられない、こんな活動があるのだ。

最近の捜索活動は、会員制によるヘリコプター利用(会費よる一種の保険。会員山行に際して発信器貸与)、ドローンの利用、GPSの利用など改善が図られてはいるものの、低山は藪(最大の障害)が多く、発見を遅らせてしまう。道に迷ったら「下るのではなく、とにかく上れ!」「衣服・装備の色は、赤や黄(紅葉)・緑(木々の葉)・茶(土壌)を避け、明るい青を!」(いずれも、ヘリ、ドローンからの発見しやすさ)と助言する。

また、LiSS活動を必要とする意外な面も教えられた。行方不明者の法的扱いである。“失踪”には二種あり、一つは普通失踪、もう一つは危難失踪(事故、天災などによる)。普通失踪が何らの遺留物無しに認められるのは7年後。これに対し危難失踪は1年。相続や会社経営の場合、この差は大きい。

本書は近郊山行きを趣味にしている人には役立つ情報満載、是非読んで欲しい。

 

3)「予想外」を予想する方法

-古代から不可欠だった各種予測、占星術から高度数理利用の天気予報まで、予想に翻弄されない心構え伝授します-

 


総選挙のたびに感心させられるのが、大手報道機関による当落予想。開票率0%で当確が出るのは「いくらなんでも!」と思うものの、それが外れるのは12件に過ぎず、先ず“予想外”は起きない。しかし、今回の選挙は高市人気に支えたれた与党過半数超えと急づくりの中道連合苦戦は間違いではなかったものの、自民党単独で三分の二を獲得し、中道があれほど惨敗すると予想したメディアは皆無だった。その意味で、今回は“予想外”の結果だった言える。本書は無論、選挙前に購入したものだが、数理に基づく予想の新手法が講じられている内容を期待して求めた。しかし、格別の新手法は皆無、予想外れだったが、読んで得るところは多々あった。一言でまとめれば「それらしい予測や数字を過信するな」との意を込めた、各種予測利用に対する啓発書である。

著者は1985年生れの英国人。オックスフォード大学で数学を修め(博士)、現在はバース大学数理科学科講師。数学啓蒙に主眼を置いた活動をしており、前著「The Maths of Life and Death(邦訳;生と死を分ける数学)」はサンデー・タイムズ紙の科学書オブ・ザ・イアーに選ばれており、本書もその系列にある。

古来人類は国の統治から日常生活まで予測を必要としてきた。そこで利用されたのは、占星術や易経を始めとする各種占い。占星術師・巫女・司祭などがそれを行い、託宣を下した。この段階から、結果を求める人々にはある種のバイアスがかかっており、託宣を下す側はそれを承知の上で、偶然性と曖昧さを持つ予測を告げ、あたかもお告げが当ったように見せかけてきたのだ。本書はこんな書き出しから始まり、予測にはそれを受ける側に種々の心理的バイアスが内在することを教えて、数理予測の世界に入っていく。

予想を狂わす不確かさの種類は二つ;①アレトリック(aletoric;偶発的不確かさ;サイコロ賭博)と②エピステミック(epistemic;認知的不確かさ(情報不足);ポーカー(対手の手札が不明))がそれらだ。この二つの下で予想(推論)することを難しくしている数学的二大現象が①確率と②非線形性。前者では過度に一般化・単純化する傾向、後者では線形バイアス思考の刷り込みによる誤解、を生じてしまうのだ。本書の中で使われる数学は、一部ゲーム理論などを援用するものの、大部分この二つの初級程度で済ませており、論旨理解に妨げられることはない。例えは、非線形性といっても2倍・3倍(倍数)と2乗・3乗(乗数)あるいは10倍・100倍(対数)の違いを見誤ることくらいである(線形バイアス)。

確率についてはその問題点を指摘する本は汗牛充棟、本書の内容も概ね事例を除けば、それらと変わらない。ノイズの中にパターンを見いだしてしまう。仮説に合致するするデータだけを根拠に結論を出す。少々変わっているのは、受け手の問題として、完全に一致していなくても、当たりと認めてしまう「近接性原理」。この事例では数学を離れ、リンカーンとケネディ両大統領の暗殺の類似性が取り上げられる。

確率と密接に関わるサンプリングではランダム性を問題視する。人間の脳で作り出せるランダムには限界があるので、それを見抜くことが予想外を生じないカギとなる。一方で、ランダムサンプリングで得た結果でも予想通りに行かなかった例として、米下院議員選挙や2016年の米大統領選挙(ヒラリーvsトランプ)がメディア予想と大きく違った結果をもたらしたことを紹介。ここでは「権威バイアス(大手メディアへの過度の信頼)」あるいは「アンダードッグ(負け犬)効果」が効き過ぎて敗者予想側の応援票が伸び(負のフィードバック)、予想を裏切る結果になる(今回の総選挙は正のフィードバックか?)。

さて、予想(あるいは初期の言動)の先に何があるか?当否の如何にかかわらず、結果がどうなるかをきちんと考えておかなかったことで生ずるブーメラン効果(自らの行為が招く思わぬ結果)や雪だるま式増加。これこそが予想外がもたらす恐ろしさ。コロナ禍はこの事例に満ち満ちている。

自然災害の予測では、日本が関東大震災の記憶を今にとどめ、その日を記念日とするばかりでなく、地震予知は不可との前提で、対策を積み重ねていることを講じ、これが予想外対策の好例と紹介している。

予想を役立つものにする留意点として、予想可能な領域をわきまえ、遠すぎる未来に関して決定的な予想を試みるべきでなく、常に新たな情報によって、自分の考え方を変える余地を残しておくことを薦める。

面白い事例が多く、内容も平易だが単行本で500頁近いボリューム、読み通すには少々覚悟がいる。

 

4)大谷のバットはいくら?

-スポーツの進行や結果は道具に左右される。大谷のバット、北口のヤリ、羽生のスケート靴、値段教えます-

 


本欄執筆中冬季オリンピックたけなわ、日本勢のメダルラッシュはご同慶の至りだ。冬の競技でいつも気になるのが道具のこと。選手自身の力量が勝敗のカギであることは確かだが、夏に比べすべての競技で道具の影響が大きいように思う。自身所有したスポーツ用品のなかでもスキーは飛び抜けて高く、学生時代アルバイトで稼いだカネの大半をつぎ込んだ。ボブスレーなどエンジン、タイヤは無いものの、F1レーシングカーと変わらない見立てだ。本書を購入したのはかなり前だし、その時は今回のオリンピックのことなど頭になく、タイトルに惹かれただけなのだが、読後大会が始まるとTVで視るたび、道具の差はどんなものなのだろうか?金額は ?と問いかけたくなる。

著者は1971年生れのスポーツライター。専門分野はサッカーのようだが、本書の初出はスポーツ月刊誌「Number」の連載記事36編(20209月~20236月、ただし価格換算は20258月ベースで税込み)。競技種目は様々だが、野球6件、サッカー5件、相撲を除く格闘技4件、相撲4件、陸上3件、そしてウィンタースポーツ3件、卓球2件、ラグビー2件、あとはバドミントン、競泳、バスケット、クリケット、モルック(北欧発のボーリングに似た競技)各1、番外に将棋と麻雀がある。道具は、競技者が使うものが中心であるが、サッカーの選手交代の祭に使われるボード、グランドを均すトンボ、ラグビーのキックティ、線を引くラインカーなど、意外なものもある。この内個人名で語られるのは、大谷のバット、北口のヤリ、羽生のスケート靴の3点のみである。

タイトルに“いくら?”とあるので価格中心の内容を思い浮かべたが、なかなか奥が深い。製造では開発・加工・製作技能者、材料では特性や産地、品質では規格や性能・検定方法、市場(世界・日本、競技者用・一般用)までおよび、さらに最近の社会情勢などとの関わりまで踏み込む。この社会情勢の例で驚かされたのは、バトミントンのシャトルコック(羽根)である。16本の羽根から成るのだが、原料はアヒルや鴨を大量に食す中国に専ら依存していた。しかし、中国の食生活の変化で飼育数が著しく減少、良質な羽根の入手が難しくなってきているとあった。

さて、三選手の道具はどんなものなのか。大谷のバットは米国チャンドラー社製、このメーカーは創業2009年の後発ながら、一流選手が好んで使い出している。原材料はメイプル(楓)、硬さが特徴でときどき大谷さえ顔をしかめるシーンがあるのはそのためだという。日本にも輸入されているが主力選手さえ「硬すぎて無理」というほどのものらしい。価格は40350円。やり投げのヤリは一流選手向け世界市場をスウェーデンのノルディク社とハンガリーのネメト社2社が独占している。ノルディク社の製品は軽く細く、筒の中を通すような感じで投げる競技者に適している。それに対しネメト社のものは、やや太く握り易いが空気抵抗が大きく、一点爆発型競技者に向いている。身長179cm、パワーのある北口はネメト社を使って金メダルを獲得した。価格264660円。フィギュアスケートはジャンプ着地など過大な衝撃力が生ずるため、ごく最近まで牛皮を何枚も重ねる重い靴が使われてきた。しかし、イタリアのエディア社が、人工皮革を材料とする軽くて柔らかいにもかかわらず衝撃に耐える靴を開発、北京五輪時羽生が使用したスケート靴はこの社の「ピアノ」という製品。価格238,700円。

今冬季オリンピックでは振るわなかったカーリング。どこのリンクでもそこに常備された石を使って競技を行う。その石は、スコットランドの無人島にある花崗岩から作られたものしか認められない。しかも氷と接する部分とその上の部分は同じ島のものだが微妙に材質が異なるものが貼り合わせで使用されている。石の価格は16個がセットになり120万円(1個75000円)。

以上はすべて外国製だが、卓球のボール、砲丸投げの砲丸、体操競技の鉄棒、重量挙げのバーベルなど日本のメーカー製品も多くの一流競技者に高い評価を得ている。特に、砲丸はメダリスト続出、これを提供するニシ・スポーツ社の製造技術(重心を正確に中心に置く)は他社の追従を許さぬほど高い技術。

長年スポーツ観戦を楽しんできたが道具の値段や製法など考えたこともなかっただけに、本書から知ることが多く、観戦の仕方に変化がありそうだ。

 

5)日本漁業の不都合な真実

-激減しているのは生産量ばかりでない。消費の側も魚離れが進んでいるのだ。ユニークな経歴を持つ水産学者がその実態を明かす-

 


住まいは横浜市の南東端金沢区に在る。最寄駅の次駅は金沢八景、その八景の一つに“乙舳帰帆”があり、ここはシーパラダイスの近くで、向かい側の小柴漁港に戻る帆掛け漁船をとらえての情景である。横浜港南端からここまでの海岸はすべて埋め立てられ工場や住宅団地が占めているが、小柴漁港は残され、そこには30~40隻の漁船が舫われている。少々遠出の散歩でこの辺りまで出かけると、漁港近くの民家の庭先でドラム缶いっぱいのシャコを煮立てているのを見かけることもある。つまり小柴漁港は立派な現役なのだ。首都圏の一画にこんな所があるほど、漁業は日本人にとり身近な存在だと言える。

本書で著者が焦点を当てるのは、日本独特の魚食文化と食料安保だが、問題点として解説するのは、漁獲量・就業者数のように比較的知られているものから、養殖業の経営、環境問題、世界の食糧事情(特にタンパク源)、周辺国との関係(特に中国)、国境産業としての漁業、国の海域利用政策(例えば、観光・再生エネルギー設備との共存)まで実に幅広い。これには著者のユニークな経歴が深く関わっているので、先ず略歴を紹介する。

著者は1961年生れ、京大法学部に進み高坂正堯教授の下で国際政治を学んで、バブル前夜都市銀行に就職。「カネさえあれば何でも出来る」風潮に疑義を持ち、自然と人間が直接ぶつかり合う現代唯一の原始産業、漁業に惹かれ、東京水産大学(現東京海洋大学)大学院に入学。ここで水産生物と漁業経済を専攻、修士課程を修了し水産庁に入庁、北海道大学で博士号取得、現在は鹿児島大学水産学部教授。専門は水産物流。文/理、民/官/学すべてを経験した珍しい人材、国会における漁業関連法案審議では参考人とし招致されるほどの権威であり、本書の内容もこの経歴が存分に生かされている。

2023年度の水産物世界生産量は過去最大で22700万トン。その内日本はわずか383万トンに過ぎない。これは過去最大だった1983年から70%減の数字である。就業者数も20年前の200324万人から12万人と半減している。留意すべきは、生産量ばかりでなく輸入量も減少傾向にあることだ。つまり、消費する側にも魚離れが起きていることである。これが、かつて世界最大の漁獲量を誇り、世界一魚を食べてきた国の現状なのだ。

生産量減の因は;漁業者の減少、中国・台湾などとの国際的漁獲競争激化、気候変動・温暖化による漁場や魚種の変化、円安によるエネルギーコストの上昇など、そして何より日本人の水産物消費の縮みにある。そのいくつかの話題を取り上げてみたい。

漁業就業者減少は、少子高齢化の中で典型的な3K(危険、きつい、汚い)職場であることが大きな原因と認め、それへの対応策をいくつか提言しているが、中でも国の政策を問題視する。小漁村の消滅や定住漁民の減少は既に1980年代から始まっており、観光業との併存などが模索され、当時の三浦市長が「海(うみ)業」を提唱、三浦海業公社を設立し、現在も存続しているが経営状態は思わしくない。この「海業」が201870年ぶりの漁業法大改正でゾンビのごとく蘇る。根源にあるのは漁業そのものの振興ではなく、観光や他産業との共存である。しかし、釣り人減を含め海のレジャーそのものが衰退傾向、観光はインバウンド頼み、大きな期待は出来ない。政府のもう一つの狙いは再生エネルギー産業(風力発電)誘致。現在の漁業法では地元が握る漁業権が障害となるため、この回避策の性格が強い。投資は専ら土木工事に向かい、漁村・漁民を潤すことはないのだ(国会参考人招致では反対を表明する)。これと関連するのが農業政策における補助金の扱い。欧米では食糧安保の視点から補助金は営農者に直接交付するのだが、我が国では機械化や土木工事主眼で自治体が握り、農家への配分は間接的なものになる。沿岸漁業を「公益的産業」と位置付け、漁民に直接交付することで3Kに挑戦する就業者を確保すべき、と言うのが著者の考え方である。ここでは経済学者宇沢弘文の「社会的共通資本論」が援用される。

中国との国際競争に関しては、日本では禁じられている漁具・漁法を使い、公海は自国のものとの認識で操業していることを問題視。一方で日本の規制は自ら競争力を弱めていると難じる。また、中国を含め台湾・韓国・ロシアなど周辺国は生食の歴史が浅く、鮮度や脂ののりには無頓着、黒潮の先で小ぶりのサンマ「先取り」するのは専ら冷凍・缶詰加工用、魚食文化の違いをクローズアップする。

気候変動・温暖化では、我が国メディアの偏向に目を向ける。漁業には期節(季節ではない)があり、増加期にある魚種を無視し減少期にある魚種を取り上げて大騒ぎすることに不快感を著わす。かつてカナダ沖ニューファンドランド海域でタラが絶滅した歴史を交えながら、種の絶滅原因は気候変動や無秩序な産業開発(埋め立て)の影響がはるかに大きいと論ずる。

乱獲・絶滅問題の解決策と思える養殖にも不都合は多々ある。養殖される魚(ブリ)とその餌となる魚(マイワシ)の総タンパク量はマイナス、直に餌を食べる方がはるかに効率が良い。内海養殖はすでに限界、沖合養殖は波浪対応生け簀や給餌システムに多額の費用を要し、現状では価格競争力を欠く、など具体例で説明される。

著者の見通しは、漁業を「経済性」のみで決めるような社会のままなら、日本は永遠に漁業を失う。魚食文化と食糧安保の観点から、これを「社会的共通資本」と考え、進んで国産水産物を消費し、それを支援する政策(沿岸漁業、定住漁民)をとるべき、と結ぶ。考えさせられる結言だ(真っ当な考えと思う反面、食生活規制のニュアンスがよぎる)。

 

6)外務官僚たちの大東亜共栄圏

-日露戦争後島嶼国家を大陸国家に転換させた日本。その後の40年、外務官僚は「満蒙権益」維持にどう対処したか。気鋭の歴史学者がその解明に挑む-

 


「戦争は政治的交渉の継続に他ならない。しかし、政治的継続におけるとは、異なる手段を交えた継続である」。これはクラウゼビッツが「戦争論」最終篇第8篇第6B「戦争は政治の道具である」に記した有名な一言である(岩波文庫昭和43年版訳)。ここで“異なる手段”は軍事、“政治”は外交を意味する。この章は膨大な著書の最終章で、そこで政治と軍事の関わりを縷々解説、結論としている。つまり外交こそ戦争を語るに欠かせない必須因子なのである。しかしながら、我が国が戦った最後で最大の戦争、大東亜戦争(日中戦争+太平洋戦争)では、軍事面(軍人政治を含む)が本筋に置かれ、外交は日米交渉の最終段階を除き、脇役に任じている感を免れない。あの戦争に至る外交の実態はいか様だったのか、この課題に正面から取り組んだのが本書である。昭和史研究を、軍事を離れ新たな視角から分析、もう一つの“大東亜共栄圏”構想を明らかにした歴史研究、複数の受賞が納得できる内容だ。

著者は1970年生れ。筑波大学大学院で博士課程まで進み博士号取得(文学)。専門は日本近代史・日本政治外交史。外務省外交史料館事務官などを経て現在駒澤大学文学部教授。本書はこの外交史料館勤務時代の活動と深く関わっていることが推察できる。つまり新発見の資料がいくつも援用されるのだ。本書の流れは、日露戦争で得た満洲における権益が拡大、やがてアウタルキー(自給自足)圏として認識され、国益確保と国際協調の狭間で、紆余曲折しながら「大東亜共栄圏」となる過程を、指導的外交官僚たち(外相、次官、局長、公使など)の言説をたどり、「失敗の本質」を析出させてゆく構成になっている。

日露戦争前の我が国外交基調は島嶼国家としてのそれであった。これが大陸国家観に転じるのは講和会議の代表でもあった小村寿太郎外相時代である。会議期間中戦時外債返還で財源に余裕ないことを見透かし、米鉄道王ハリマンが桂内閣に「門戸開放・機会均等」を唱えながら満洲の共同開発を呼びかけ、鉄道開発に限る「桂・ハリマン協定」が結ばれる。しかし、帰国した小村はこれに反対、破棄する。彼の頭には満洲がやがて、国家運営に大きな力となることを読んでのことであった。講和条約で決められたのは満洲における日露による南北勢力圏設定だったが、引き続き東西の支配域を取り決める交渉が行われ、北京の経度を基準にそれが定められ、その東側に内蒙古が含まれることで「満蒙」の概念が生れて、これが「大東亜共栄圏」の一里塚となる。小村寿太郎はこの協定成立後間もなく急逝する。

中国への進出が遅れた米国は、その後も「門戸開放・機会均等」を呼び声に満洲経営参入を目論み、英国もそれに加担する。一方日本も大規模投資をする余裕がない。ここで登場するのが小村欣一、寿太郎の長男で当時政策局第一課長兼亜細亜局参事官、著者が「満洲供出論」と名付けた、米資本受け入れ案を意見書として提言する。1918年米が「支那保全論」の名の下、満蒙鉄道整備に関する四カ国(日・米・英・仏)借款団参加である。欣一の狙いは英国の中国での影響力低下にあるが、外国の介入を嫌う幣原外相・髙橋是清蔵相の反対で挫折する。幣原は巷間国際協調派と見られがちだが、この時代は「満鉄中心主義」に固執する国益擁護強硬派であったのだ。これ以降欣一の名は本書に登場しないが、著者は「満洲供出」案が受け入れられていれば、東アジア情勢はまったく異なる道を進んだ可能性大とする。

エリート官僚たちの満蒙観は力を強めつつある軍とも呼応して、専ら経済・軍事を重視する政策に傾斜していくのだが、著者はここで傍流にも目を向ける。米国の文化外交に対向する組織として1923年に発足する外務省文化事業部がそれだ。教育・医療・文化交流の面から満蒙さらに支那本土に影響力を拡大するのがその本意、掲げる「精神的帝国主義」は「東洋文化優位論」「日本文化優位論」に転じ、やがて「大東亜共栄圏」構想の中に組み込まれていく。

1928年中国国民党による北伐(張作霖の追い出し)が成功すると中国は主権回復を目的とする「革命外交」を積極展開する。駐華公使時代これに好意的だった重光葵次官は満州事変(1931年)以降次第に対支政策を硬化させ、その指示で1934年外務省情報部長天羽英二が「日本は東亜に於ける平和及び秩序を維持すべき使命を負っている」「列強による中国への共同動作は中国の統一及び秩序回復を阻害するので日本はこれに反対する」との声明を発し、ここで「東亜」の概念を明示、欧米の関与を拒否する。著者は、ここを日本の東アジア政策回帰不能点(Point of No Return)と捉える。

19377月日中戦争勃発。19381月近衛首相は「(蒋介石を)対手とせず」を発するがこの時の外相は松岡洋右、19408月の外相談話の中で初めて公式に「大東亜共栄圏」を語り、それまでの「東亜」が「大東亜」に変じていく。この“大”には日・満・支に加えて南方(東南アジア)を含むが、これは何回か外相を務めた有田八郎の考えを加味したものである。

194311月占領地区国家を糾合した大東亜会議が開催され、そこで民族の“解放”と市場・資源の“開放”をうたった「大東亜共同宣言」が発せられる。これは重光外相が主導したものだが、既に日本は守勢に転じており、新たな秩序「大東亜共栄圏」構築は“砂上楼閣”として終わる。

日本外交の「失敗の本質」はどこにあったのか?この問いに対する著者の回答は、軍事作戦のように組織論に求めるのは適切でないとし、米国の国際政治学者ハンス・J・モーゲンソーが述べた「愼慮(Prudence);一般には慎重と訳されるがモーゲンソーの意は「あれこれの政治行動の結果を比較考量すること」」に求め、近代日本の外交が、そのような「愼慮」を欠いてきたとことが失敗因を結ぶ。この背景説明に、重光の獄中記「昭和の動乱」から第一次世界大戦後「五大国」となった日本の国家および国民の「慢心」を引用していることは興味深い。今やG2と称せられるまで成り上がった中国の“傲慢で強圧的な外交”があの当時の日本と重なってくるのだ。

 

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2026年1月31日土曜日

今月の本棚-210(2026年1月分)


<今月読んだ本>

1) 日本漢字全史(沖森卓也);筑摩書房(新書)

2)古本屋の誕生(鹿島茂);草思社

3)天才作戦家マンシュタイン(大木毅);KADOKAWA(新書)

4)ガリンペイロ(国分拓);新潮社(文庫)

5)「あの戦争」は何だったのか(辻田真佐憲);講談社(新書)

6)サンセット・パーク(ポール・オースター);新潮社(文庫)

 

<愚評昧説>

1) 日本漢字全史

-土器に文様として残る漢字から、ディジタル時代の漢字まで、我が国漢字導入・変遷を、字形・字体・字義・字音を網羅して解説する力作-

 


漢字を書くことを覚えたのは、小学校入学少し前だったように記憶する。自分の名前を書くことが始まりだった。本書によれば、現在常用漢字は2136文字、その内小学校で学ぶ教育漢字は1026文字と言うことだが、はたしてどれだけの文字を使えるだろうか? ワードプロセッサーを常用する今日この頃、読むのはともかく、手書き能力は高校卒業時より確実に低下している。とは言っても、一旦漢字を覚えれば、仮名(あるいはローマ字)だけの文章など、読む気も書く気も起こらない。やはり漢字を身近に置いておきたい。

高校の国語で漢文を習った際、漢字に対して新たな意義を発見した。それは漢詩を見たとき、目から直接情景が浮かんでくることであった。仮名やアルファベットのような表音文字では、まったく味わえない詩情が伝わってきたのだ。漢字は直接心に達する。

一方で漢字の扱いに苦労したのは、1980年代始まったオフィス・オートメーション(OA)である。“計算”業務主体の電子計算機(死語か?)で日本文を扱うのは、ダントツの業界リーダーIBMでも容易ではなく、初めて国産機を導入した。現在PCやスマフォで簡単に日本文が扱えることに隔世の感だ。漢字からカタカナやひらがなが生み出されたことと合わせて、こんな漢字への関心から本書を手にした。読んでみて、この本は掛け値無しの“全史”であると認める。

漢字の日本渡来で明確に残るものは18世紀九州福岡志賀島で発見された「金印」、紀元一世紀のこととされる。これは後漢の皇帝から「倭奴」「国王」に贈られたもので、日本人が作ったものではない。国内発見の最も古い記録は、根塚遺跡(長野県)で出土した甕形土器に刻まれたもので、これは三世紀中頃と推定されている。しかし、当時の日本人はこれを文字として認知していたわけではなく、文様として刻んだようである。本書はここからディジタル時代の今日に至る、我が国における漢字導入・利用変遷史である。そこには、単なる表意文字としての漢字解説ばかりでなく、日本文化史、仏教史、日中交流史から、中国王朝史、朝鮮半島史、教育史、考古学、音声学まで動員され、漢字の意義・見つめ方を一新される内容だった。

日本には話し言葉はあったが文字は存在しない。言語構造は中国語とまったく異なるところに受容されるのは、表音文字としてである。この過程の研究材料は古墳から発掘される木簡・刀剣銘。下って漢字だけで記された万葉仮名だ。これを簡略化する過程でカタカナやひらがなが生れ、やがて漢字仮名交じりの和漢混合文が普及していく。これには禅宗を中心とする仏教(仏典)の和文化促進も預かっている。当初は音読みが基本だった、音読みでは本来の日本語とは対応せず訓が生まれてくる。また、オリジナルの中国語発音にも呉音(南方系;先に導入)、漢音(北方(長安)系、王朝所在地ゆえに正音となるが後発)など数種あり、これが日本において複数の読み方を生ずることになる。このような字音ばかりでなく、字形・字体・字義・使い方(公用/私用)についても、我が国における漢字利用の独自発展を教えてくれる。部首扱いにおける日中の違い、漢和辞典の変遷、漢字普及の担い手(中世までは僧侶、渡来人が中心、以後は藩校や寺子屋)、幕末・維新期における西洋言語の漢字化、この時期と戦後における漢字廃止論(福沢諭吉は制限論、志賀直哉はフランス語を国語化)、書道と印刷まで、漢字に関するテーマを網羅する。

面白い話を一つ;飛鳥時代の遣隋使のひとり、小野妹子(おのの いもこ)の中国名は蘇因髙(そ いんこう)、小はseuと発音、これはsoに近いので蘇、妹はinと発音、因となり、子(こ)はkauと発音、髙となるのだ(野に関しては解説なし)。

著者は1952年生れ、専門は日本語歴史研究。立教大学名誉教授、文学博士。「日本語全史」という著書もあり。

 

2)古本屋の誕生

-世界文化遺産となってもおかしくない、神保町古書店街の成立過程を、業界の変遷や現存する書店の変身で語る-

 


自他共に認める軍事オタクである。とは言っても興味の対象はごく限られており、第一点は、戦略兵器にまで発展した航空機・戦車を代表とする装甲兵器・潜水艦、それに電子兵器、第二点は軍事における数理の利用、第三点は生きてきた時代、昭和史と関わる戦史、に過ぎない。この内第一点・第二点は、専ら技術・数理に着目、本業のIT利用促進のヒントを得ることが目的だった。そのために1950年代から60年代に翻訳出版されたものや外国語(英語)の古本もかなり集めた。購入先は専ら古書街神保町で軍事に特化した「文華堂」と言う店、全書棚は旧日本陸軍の連隊戦闘記録からドイツ空軍エースパイロットの自伝まで、あらゆる種類の軍事書籍(第二次世界大戦が大半)で埋め尽くされていた。場所は、神保町の交差点を靖国通りに沿って、神社方面に向かい、二筋ばかり進み、左(南)に入ったところ。ここを見つけるまでは、片っ端からあの古書街を巡ったが、非効率なことおびただしかった。今でもあの店は営業しているのだろうか?本書の中に何か記されていないだろうか?これが購読動機である。

著者には同じジャンルの既刊書「神田神保町書肆考」があり、本欄202211月で取り上げている。本書との違いは、神保町界隈が書店街として発展した背景・経緯を語るもので、古書店に絞り込んだものではなく、特に東大を始めとする学校の生い立ちや書籍事情紹介にかなり紙数を割いており、あとがきによればそれに批判もあったようだ。その批判に応えることもあり、今回は副題に“東京古書店史”とあるように、古本屋街としての歴史に絞り込んでいる。ところで前文の中で“古書”と“古本”の二語を使用したが、著者はその定義をした上で、主として“古本”を使っている。“古書”はある程度時間を経てそれなりの価値を持つものに対し、“古本”は買って直ぐ売られた近刊書も含まれるのだが、古本屋がより一般に膾炙されているからだ。

我が国で書籍の売買あるいは移動が記録されているのは平安時代、そこから江戸時代までの書籍ビジネス史を導入部でかたる。売られていたものは①写本、②木版印刷本、③古活字本(銅活字)、④キリシタン版(宣教師密輸入の印刷機)などだ。ここで着目するのは、第一に、現在製本・出版・取次・販売と分業体系になっているビジネスモデルの時代変遷、それと新刊書・古本の扱いである。手短にまとめると、明治維新以前では、先の分業体系はほとんど存在していない(細々した職人仕事はあったが)。そして、新刊書・古本に関する限り欧米では依然として、これを厳密に分けてはいないのだ。この違いは、明治政府が古本売買を古物の商(あきない)と同等としたことによる。

江戸時代末期の書店は現在の銀座通り、京橋から新橋辺りの間に多かったようだが、そこから増上寺付近までは武家屋敷(藩邸)が多く、これが維新で空き家となり、それを活用した書店が芝方面に延び、一時は芝神明町が一大古書店街となっていく。

明治10年(1877年)一橋地区に東京開成学校と東京医学校が合併して東京大学が誕生。東京外国語学校、私学の法律学校もこの地区に陸続として創設され、そこでの洋書需要が神保町を古書店街として発展させていく。今でも存在する有斐閣は古書店第1号だったのだ。次いで三省堂、冨山房、丸善の支店(中西屋)、いずれも洋書を扱う古本屋が前身だ。そのために、三省堂創立者亀井忠一の夫人万喜子はドイツ語を独学で学んだという。少し時代が下ると、岩波茂雄が創業した岩波書店もスタートは古書店。だが早い時期に新刊書の出版に転じている。

明治22年(1889年)の東海道本線全線開通は、それまでセドリと呼ばれる仕入れ・販売担当者に頼る業務を、個人ベースから全国規模の集配システムに一新。古書目録を発行し全国の書店に配布、神保町を古書集積点に変じる。明治36年(1903年)の靖国通り全通がさらに神保町を変えていく。駿河台下から九段下の俎橋(まないたばし)の南側に書店が並ぶ現在の書店通りはこの時形成されたのだ(それまでは現在のすずらん通り(三省堂の裏口に面する道路)がメインストリートだった)。

この後に起こる二つの大災害が、むしろ古書店街の発展につながっていく。先ず大正2年の大火(1913年)、次いで大正12年(1923年)の関東大震災。出版社、印刷所、製本所、そして店も書物もすべて灰燼に帰すわけだから大災厄である。しかし、古本の調達先は新刊書と違い、すでに全国に存在している。また学校は図書館再興のために膨大な図書を必要とする。この災厄をチャンスととらえ、攻めに転じた店は有卦に入るのである。

これと似た現象は終戦直後にも起こる。この時も戦災は広範におよび、新刊書は出版不可、加えて新円切り換えがあり、換金のために被害を免れた稀覯本を含む良質な古書が市場に流れ込む。一方で新制大学が発足、学校図書館向け需要は急増する。

古書の取引市、業者組合、価額の決め方、店員の育成と質的変化(丁稚と呼ばれていた世界に、旧制二高を経て東大法学部を卒業しながら昭和恐慌のさなか一店員となった反町茂雄という人物が残した私家本?が随所で援用される)、経営環境変化(特に戦中・戦後)と生き残り策など、様々な角度から古書店(古本屋)の変遷を解説、古本屋に対する認識を全面的に改める結果になった。こまかく書店名を付した時代ごとの絵図・地図があるが、「文華堂」はなかった。

著者は1949年生れ。明治大学名誉教授、仏文学者、作家。

 

3)天才作戦家マンシュタイン

-砂漠の狐ロンメル、戦車将軍グーディアンとならぶ独陸軍の名将、その虚実を最新情報で正す-

 


193991日、ヒトラーはポーランド侵攻の「白号」作戦開始を発令する。第二次世界大戦の始まりである。93日英仏は対独宣戦布告するが、西部戦域は北欧での戦いや独軍港爆撃はあったものの、“まやかしの戦争”と呼ばれるような平穏な状況だった。それが破られるのは1940520日、独軍は西方作戦「黄号」を開始する。この戦いは622日には停戦協定が結ばれ、一ヶ月あまりの短期間で西欧全域がナチスドイツの支配下に置かれる。世に言う西方“電撃戦”である(電撃戦(Blitzkrieg);独国防軍は使っておらず、メディアとゲッベルス宣伝相が広めた言葉)。

国防軍オリジナルの「黄号」作戦案は、第一次世界大戦の西部戦線同様、オランダ・ベルギーを反時計方向に制圧、パリ西方からフランスを落とす、「シュリーフェン・プラン」を踏襲したものだった。仏の対独東側正面は強固なマジノ線が構築されていることもあり、英仏連合軍も同じような想定で仏国境北西側重視の防御態勢を採っている。ヒトラーは前大戦でこの案が不成功だったことから、国防軍に別案を求めていた。ここで、出てきたのが装甲軍による、ベルギー、ルクセンブクにかけて横たわるアルデンヌの森林地帯を突破して仏北東端からパリに迫る案である。この案の発案者が本書の主人公、エーリッヒ・フォン・マンシュタインである。著者は既に「砂漠の狐ロンメル」「戦車将軍グーディアン」を上梓(二書とも本欄で紹介)、本書でマンシュタインを扱い、独陸軍名将3部作を完成させたことになる。

マンシュタインは1887年地方名家レヴィンスキー家の第5子として誕生、親しい関係にあったマンシュタイン家に世継ぎがいなかったことから養子となる。この一族は第一次世界大戦の英雄でワイマール体制下の大統領ヒンデンブルグと縁戚関係にあり(叔父-甥)、これがのちの人生に影響する。エーリッヒは幼年学校、士官学校と順調に軍人の道を進み、陸軍大学校へ進学(グーデリアンは同期)するが、在学中第一次世界大戦が勃発、原隊(歩兵連隊)に復帰、下級将校として転戦、やがて終戦を迎える。ヴェルサイユ条約下再編された国防軍(10万人、将校4千人)に残れたのは、縁戚関係が大いに与ったようだ。その後隊長職や参謀職を行き来しながら昇進、ナチス政権誕生時(1933年)には大佐。1935年ヴェルサイユ条約破棄で国防軍が本格的再建に入ると参謀本部第1課(作戦)課長、193610月には少将となり第1部長に昇進、これは実質的に参謀本部次長に相当する。19394月中将、南方軍集団参謀長(規模;師団→軍団→軍→軍集団)の職に就き、ポーランド戦に参戦する。この軍集団はポーランド戦役終了後A軍集団として改編、西部戦線に転用される。

西部侵攻はA軍集団とB軍集団で構成され、国防軍計画は、B軍集団がドイツ側から見て右翼を担い、シュリーフェン・プランをなぞる主力攻略部隊の役割が与えられ、A軍集団はアルデンヌ方面から侵攻するものの、歩兵中心の陽動部隊として使われることになっていた。しかし、マンシュタインはこの山岳森林地帯を装甲軍で突破する案を検討、陸大同期で装甲軍生みの親グーデリアンに諮り、実現可能であることを確信、国防軍中枢にこれを訴える。だがこれが逆に不興を買い、19401月参謀長を解任、歩兵軍団長に左遷されてしまう。この案が復活するのは西部戦役を前に開催された将官会議、ここでマンシュタインはヒトラーに自案とその可能性を伝え、最終的に装甲軍によるアルデンヌ突破案が採用されることになるのである。この作戦は後年「低位の作戦次元での成功によって、高位の戦略次元における苦境を脱することを可能にした、戦史上きわめて稀な事例」として高く評されることになる。マンシュタインはこの戦いに歩兵軍団長として加わり、その戦功を認められ歩兵大将に進級、19413月念願だった自動車軍団(装甲軍団)長に任じられる。

次の戦場はソ連。1941622日「青色」作戦、いわゆるバルバロッサ作戦発動。これは北方・中央・南方の3軍集団で戦われるが、マンシュタインは北方軍集団を構成する第56自動車軍団長として、バルト海沿岸からレニングラードに攻め上がっていく。この途上南部軍集団の軍司令官が戦死したことから、9月ウクライナ方面を担当する第11軍司令官に転じ、19423月クリミア半島制圧で上級大将、7月セヴァストポリ要塞を悪戦苦闘ののち攻め落とし元帥へと短期間で軍最高位に達する。しかし、勝運もここまで。国防軍はスターリングラードの戦況を改善すべく新たな軍集団ドン軍集団を創設、マンシュタインはその軍集団司令官に任命されるものの、スターリングラードの解囲は成らず、ソ連軍の反攻に東部戦線全体で後退を余儀なくされ、小作戦の勝利はあるものの、最後の大作戦「城塞(シタデル)」作戦(有名なクルスク戦車戦もその一部)も失敗、ついにヒトラーから「後退元帥」と呼ばれるほど信を失ってしまう。以前からのヒトラーの細部にこだわる作戦批判もあり、19444月司令官を解任され、その後一線に戻ることはなかった。

著者が本書で試みるのはマンシュタインの再評価。戦後西側でプロフェッショナルとして高い評価を得ていたそれを、最新の情報を基に見直すことである。ナチスとの関係(特にユダヤ人、捕虜の扱い)、優れた戦略家という評価、自著「失われた勝利」の内容、戦犯裁判の証言(禁固18年と決するが、8年あまりで釈放されている)などがそれらだ。ナチスとの関係では黒に近い灰色、作戦家として卓越していたが戦略次元は評価できず、内外における高い人物評価は冷戦によって増幅されていた、である。独大学院に留学し、多くの独語文献を基にしているだけに、「ロンメル」「グーデリアン」同様、納得できる結論であった。

 

4)ガリンペイロ

-アマゾン最深部で行われている不法金採掘をNHK記者が取材。場所を明かした者に明日はない-

 


金の価格が高騰している。昨年1月の値段は1オンス$2600だったが今年年明けには$4800に達した(直近では$5000超え)。1年で約80%の上昇率である。地政学的リスク、低金利、個人の安全資産指向、様々な因子が絡み合った結果だが、信じ難い伸びだ。金製品など、20年前に退職記念にと贈られた金メッキの万年筆くらいしか持たない私にとっても、気になる動きだ。

ガリンペイロがブラジルの金採掘人を意味することは知っていたし、TVの番組で垣間見たこともある。ジャングルの中で上半身裸の男たちが、水と泥にまみれて働く姿は、とても現代の鉱山労働者とは思えないものだった。一方、この金ブームを意識したのであろう。昨秋、これもTVで鹿児島県の菱刈金鉱山での生産活動が放映された。ヘルメット・制服作業着・安全靴に身を固めた作業員は、私の工場勤務時代となんら変わらず、その差は当に“雲泥”であった。どんな人間が、どんな環境の下で働き、どんな暮らしているのか?これを知りたい、が本書購読の動機である。

著者は1965年生れ、1988NHKに入局。2015年~16年、アマゾン奥地に金採掘場を含めつごう3回、50日以上取材で滞在。その結果はNHKスペシャル「大アマゾン」シリーズとして放映され、本書はその取材活動から生まれたものである。

目次と序章の間に、ここの“掟”が記されている。内容と深く関係するものを取捨略記すると;・誰でも受け入れる、・黄金を掘っていれば何をするのも自由、・凶器を持つのも自由、・取り分は採掘場所有者70%、ガリンペイロ30%、・所有者はコメと豆を支給するが、それ以外は住む小屋を含め自分で手当てする、・この場所を誰にも明かしてはならない、・明かしたものは死を覚悟すべし。これら掟の内最後のためだろう、場所はアマゾン川の支流のまた支流域であることは分かるが、そこへの出発点となる都市名はP市とだけしか記されていないし、現地の地図はごく限定された地域の簡単な略図に過ぎない。日本へ戻っても、この掟からは逃れられないのだろう。

20159月、アマゾン河の船着き場からガソリンのポリタンクを満載し、数人のガリンペイロ希望者たちを載せた吃水の浅い船に同乗して上流に向かう。五日かけて到着するのはアマゾン最深部にある金採掘場の管理センターのような所。この採掘場を経営するのはガリンペイロから成り上がった「黄金の悪魔」と称されている男、近辺に5カ所の不法採掘場を持っている。本書はこの時船で知り合い、やがて「ラップ小僧」と呼ばれる若者を、いわば主人公にして進められていく。

管理センター一帯はプリマヴェーラ(春)と名付けられており、ここに高床式の食堂兼売店を中心に倉庫や保管庫が設けられている。売店には酒・タバコから砂糖・塩、長靴・ロープ・山刀まで様々な雑貨がそろっている。この売店は一定時間しかオープンせず、それを取り仕切っているのは「金庫」とあだ名される人物、彼は採掘された金の計量責任者でもあり、いわば「黄金の悪魔」の現地代理人と言ったところ。売店の取引はすべて金(重さ→価格)で行われ、その記帳を行うのも彼の仕事だ。

ラップ小僧が配属されるのは「プリマヴェーラ」から10kmほど離れた「コロラド」と名付けられた採掘場の一つ、直径100m・深さ3mの巨大な穴を5人で担当する。組頭・高圧放水2人・水路整備1名・泥水ポンプ1名がその内訳だ。取り分は5人均等である。「コロラド」にはこのような採掘場が3カ所あり、ガリンペイロは1520名、そのための食堂があり、賄い婦も居る。日没から45時間は発電機が稼働、食堂でTVを楽しむこともできる。住まいは食堂付近に自分で掘っ立て小屋を建てる。労働時間は朝6時~12時、12時半~18時半、計12時間、日曜は休日。この他クリスマスから年始にかけて12日間の休日がある。

「黄金の帝王になる」と大口をたたいていたラップ小僧は、キツい労働に不適、仲間から出て行けと言われ、「金庫」からも「借金はチャラにしてやるから街に戻れ」と宣告される。ラップ小僧はこの追放後、放棄された採掘場で一時過ごし、再び戻るが、今度は一人でぼた山を漁る男と合流、真面目に金発掘に取り組むものの実りは少ない。第1回目の取材では追放されるまで。第2回目ではぼた山掘りまで。そして第3回目は行方知らずとなっており、何故かガリンペイロたちは彼のことを話題にしたがらない。

泥まみれの日常、仲間との諍い(殺人、行方不明)、実現しない“一攫千金”、金をくすねた逃亡者とその末路、諦観しきった老ガリンペイロ、廃鉱区のぼた山で一人金を探す脱獄被疑者、新鉱区探査、クリスマスの乱痴気騒ぎ(街から娼婦が送り込まれる)、アマゾン奥地の異常な世界がサスペンス小説風に描かれ、ひと味違ったノンフィクションに仕上がっている。

取材班は現地で多くのガリンペイロから聴取りを行っているが、膨大なウソの中から一つの真実を見つけるのは、大量の泥の中から金を発見することと同じ、と結ぶ。

 

5「あの戦争」は何だったのか

-歴史は科学ではなく物語である。この史観に基づいて著者が行き着いた結論。小さく否定、大きく肯定する「あの戦争」-

 


突然の衆議院議員選挙がまもなく行われる。今、何故?は一先ず置いても、誰に投票するか、迷うところだ。私のチェックポイントは経済と国家安全保障。経済の基本因子は詰まるところ国家財政にあるのだが、どの政党も減税・国債依存の大判振る舞いで大同小異。加えて自民党議員の世襲化や政治とカネの問題、野党の現実味のない単なる政府批判に過ぎない提言、いずれも選択肢にならない。ここのところ支持政党“無し”がトップにあるのもうなずける。政党が党利党略に走り、信を失っていったのは昭和恐慌の1930年代。1932年には5.15事件で犬養首相が暗殺され、以降軍人中心の内閣となる。国家・国民を考えてくれるのは軍、との世論が高まった結果だ。そして「あの戦争」に進んでいく。あの時代、もし選挙権のある成人だったら、私もその世論に付和雷同したに違いない。たまたま同期入社の友人が送ってくれた本書を、そんな思いで読んだ。

著者は1984年生れ。評論家・近現代史研究家とあるが、特定の大学・研究機関での勤務歴は一切記されていない。しかし、既刊書を見ると「『戦前』の正体」(講談社現代新書)、「ルポ 国威発揚」(中央公論新社)、「防衛省の研究」(朝日新書)、「超空気社会」(文春新書)、「大本営発表」(幻冬舎新書)など一流出版社から「あの戦争」と関係する興味深い本を出しており、本書も“10万部突破”が頷ける内容だった。

著者が先ず取り組むのは「あの戦争」の定義である。満州事変・支那事変・大東亜戦争・太平洋戦争・十五年戦争・第二次世界大戦、ときにはペリー来航前後の外圧を起源とする百年戦争論まで取り上げて(林房雄「東亜百年戦争論」)、自説をまとめる。それは支那事変と大東亜戦争を連続したものとするものである。私自身は、満州事変→支那事変→大東亜戦争を一体として捉えているが、著者によれば満州事変と支那事変の間には日中間で和平交渉が行われており、支那事変まで6年も間が空いたところから、連続性は無いとするのだ。また、ポツダム宣言が発せられた会談場展示説明に「日中戦争がアジアにおける第二次世界大戦のはじまり」とあることも論拠にしている。さらに満州事変を起点とする15年戦争説が主として左派系の研究者による加害者視点が強いことも排除した理由のようだ(一方で東亜百年戦争観は右派的と退ける)。

次いで、「あの戦争」に突入するまでの背景・経緯を分析する。根底にあるのは「日本はけっして進んで開戦を望んだわけではない」ことである。日露戦争前の日英同盟(1902年)、満洲共同経営に関する桂・ハリマン協定(1905年)では英米との協調路線が外交の基本方針だったが、次第に英米(特に米国)が、アジアにおける日本の影響力拡大を警戒するようになる。日本もこれに対応すべく軍事力・経済力を強めようとするが、英米に依存しながら(石油、技術)、それを進めざるを得ないという悲しむべき構造にあった。では「涙を飲んで引く(英米の主張を飲む)」ことが出来ただろうか。ここでは石橋湛山の「満洲撤退・貿易立国論」など、様々な戦争回避策が検証されるが、どれも当時の世論・国情には合致しない(戦後の貿易立国は冷戦ゆえに成功した)。ここから近衛の「英米本位の偽善的平和主義を排す」が生まれ、広く支持されるようになっていく。

戦争回避が難しかったのは英米の対日政策だけが原因ではない。明治憲法では首相の権限はきわめて限られており、元勲・元老不在となった時代、国論を調整する機能が失われ「司令塔不在」が現実だった。東条首相さえ弱腰を非難されており、ヒトラーやムッソリーニのような独裁者とは比べようもなかった。細部の説明はないが、明治憲法下では天皇ですら単独で非戦を貫くことは不可能だったのだ。いわば「護憲」が開戦の一因と考える。

では、「あの戦争」に“正義”はあったのか。ここでは“大東亜共栄圏”に焦点を当てて植民地解放戦争としての「あの戦争」を検証する。第一次世界大戦後のパリ講和会議において、日本は“人種差別撤廃”を提案するが、白人国家の反対で実現しない。一方で維新以来“脱亜入欧”でアジア人蔑視をしてきたのも事実。東条首相は戦時の占領地を中心に「大東亜会議」を開催するものの、タテ前はともかく日本の盟主意識は見え見え、フィリピンのラウレル大統領は敢えて“対等・平等”を念押しする。また、英米に対する宣戦詔書の戦争目的には「自存自衛」しか記されておらず、植民地解放・共栄圏創出は後付け感を免れないのだ。この大東亜共栄圏検証では、著者自ら東条首相の外国訪問地すべて訪れ、現地で事情聴取して、画餅に帰したそれを報告する

それでは著者にとって「あの戦争」は何だったのか。先ず歴史観として、イデオロギーや時代の雰囲気によって影響を受ける「歴史は科学ではなく物語である」とみなす。そして歴史を振り返る意義は、過去を美化することでも、糾弾することでもなく(正邪、白黒ではない)、重要なのは、何故当時の日本がそのような選択をしたかを深く理解し、“わがこととして”捉え直し、現在につなげることにあると説く。ここから「あの戦争」を、明治維新を起点とする第二(第一は神代)の建国の総決算であったとし、現代日本がその延長線上に存在している以上、「あの戦争」は不可避的に特別な意味を持ち続けるだろうと位置づけ、「戦中日本の行動を小さく否定することで、日本という国自体を大きく肯定する」と結ぶ。

昭和も残り少ない時期に生れ、左翼主導の昭和自虐史観をすり込まれなかった世代による、すっきりした新史観はなかなか説得力があった。

 

6)サンセット・パーク

-米ベストセラー作家が描く、リーマンショック直後のアメリカ社会と若者たち。その喪失・罪・孤独・悩み-

 


芥川賞作品など辛気くさくてまったく興味がない。記憶に残るのは、高校時代同世代を描いた石原慎太郎の「太陽の季節」くらいである。日本の純文学さえ読まない私が、米国現代文学を代表する作家の作品を読む気になったのは、翻訳者柴田元幸(東大名誉教授)にある。翻訳に関する小論やエッセイは好みのジャンル、英米文学翻訳者として著名な柴田が2018年自伝的エッセイ「ケンブリッジ・サーカス」を著わし、購読した(本欄で紹介)。この時訳者と原作者の交友関係を知り、そこからポール・オースターに興味を持ち「ブルックリン・フォーリーズ」を読んでみた(これも本欄で紹介)。癌を患った孤独な老人を主人公とする作品だが、暗さをまったく感じさせないストーリー展開に惹かれるところがあった。その原作者が2024年他界したことが報じられた際、新たな翻訳作品(文庫)が出たら読もうと思っていた。これがその最新作品である(単行本は2019年に発刊されているので本作品が遺作ではない)。

時代は2008年末から2009年半ばにかけて、リーマンショックで不況下にある。舞台はブルックリン(マンハッタン島の南部対岸)サンセット・パーク、港湾地区に近く、多くの有名人が眠るグリーンウッド霊園(ここの墓石とマンハッタンの摩天楼群を重ねた写真が有名)と接する一画。ここに在る廃屋(固定資産税が払われず市が管理)に住む4人(男2、女2;いずれも28歳位)の物語である。主人公はマイルズ・ヘラー、父は出版社経営、母(継母)は大学教授、ブラウン大学3年在学時帰宅した際、ふと耳にした父母の会話にショックを受け、忽然と両親の前から姿を消して7年、フロリダの不動産屋で立退き家屋の残存物撤去を担当している。彼にはヒスパニック系の17歳になる恋人がいるのだが州法でこれは違法、密告を恐れ彼女が18歳になる来年5月までこの地を去らざるを得なくなる。たまたま、唯一連絡を取っていた高校時代の友人で、既に廃屋利用していたビングに共同生活を持ちかけられており、11月末NYに向かう。

同居者3名の現状;ビング・ネイサンは高校卒業後<壊れ物の病院>を営みながらバンド活動している。エレン・ブライスは大学をドロップアウト(堕胎→自殺未遂)した画家志願の女性、不動産屋勤務でこの廃屋をビングに紹介、自分もここに移り住む。アリス・バーグストロムはコロンビア大学大学院生で博士論文執筆中、PEN(作家)協会のパートタイマー。いずれも薄給、家賃高騰が理由でここに転がり込んだのだ。

小説の構成はこの4人について、それぞれが成人してから現在までの出来事・問題事を章立てあるいは項立てで述べ、次第に4人の相互の変化やマイルズの両親(父、生母、継母)との関係を絡ませながら進んでいく。同居する4人の男女の間には軽い恋慕の情などあるものの、男と女の関係はない。この過程で、時代背景、アメリカ社会の一端、各人の内面が見えてくる。ここが読みどころだ。喪失・罪・孤独、悩みを抱え陰のある日常生活描写の中に、回顧シーンでは古いメジャーリーグやハリウッド映画を巡る長い会話などを交えことで、不安・暗さの中に一瞬希望の光を垣間見せてくれる。全体のトーンは静かだが、じわーっと余韻が残る作品だった。

当然ながら訳はどこにも翻訳調の残滓を感ずるようなところはない。漢字の横に記されたふりがなに「ここまで配慮しているのか」と感心させられた。例えば、リーズン(reason)を、あるところでは“理由”、別のところでは“理性”と使い分けているのがそれだ。もう少し柴田元幸訳のオースター物を読んでみようか。今、そんな気になっている。

 

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