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2017年10月11日水曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-37


189年を振り返る(最終回)
1994年の社長就任は大波乱の下でのことだった。東燃グループの総帥でSPIN誕生のきっかけを作り、陰に陽にバックアップしてくれていたNKHさんが突然その任を解かれるところから始まった。後任社長のTMBさん始め経営陣は従来からの経営路線を本業回帰に修正するものの、SPINに対するスタンスは創業時と変わらぬ良好な関係をしばらく維持していったが、新規事業に対する大株主(ExxonMobilEM)の見方は厳しく、また石油業界の規制緩和と石油を巡る世界情勢から、一層の経営効率改善を求められ、少しずつ軌道が変わっていく。本体の人員削減・早期退職とコアービジネス(石油関連)以外は整理するとの方針が、はっきり打ち出されるのは1996年。グループ経営の全面にEMの意向が強く反映されるようになってくる。
1985年にスタートしたSPINは我が国バブル経済とIT利用の拡大によって、順調な発展をつづけ、2000年の株式公開を目指し、同業他社(ソフトブレイン;SBC)への出資やERPパッケージ取扱い(米国Ross社ルネサンス)などさらなる成長に向けて手を打っていた。しかし前述のように、社長就任前後から取り巻く経営環境に大きな変化が表れ始め、結局社長になって初の大仕事はSBC経営破たん処理、それに期待も大きいが負担の重いRoss社との総代理店契約締結だった。この新規分野(ERP)への取り組みが充分熟さぬうちに起こったのが、SPINのグループからの切り離し問題である。
IT業界のビジネス環境もダウンサイジン(PCの普及)、ネットワーク(インターネット)、オープン化・共通化(技術、製品)などで様変わりしつつあり、自社製品(ハード、ソフト)中心からソリューション(ITによる企業の課題解決)に移ってきており、巨人IBMですらその方向に舵を切ることで生き残りを図るような情勢。これはもともとユーザーから出発したSPINにとっては好ましい方向であり、計測制御システム国内最大手、世界五指に入る横河電機がソリューションビジネス(Enterprise Technology SolutionsETS)に乗り出すタイミングで、1998年東燃から横河への株式譲渡が決まる。日本的経営(終身雇用)をベースとしてきたビジネスマン人生で予期せぬ激変を体験することになる(多くの従業員には“させた”)。
横河グループ入りして見えてきたことはETSの構想と実態の違いである。はっきり言ってトップの掛け声・期待と現場の乖離である。「何を商売にするのか」が社内外で明確になっていないし、道具ややり方もそろっていない。自社製品中心から切り替えたIBM(他社買収や営業体制の大掛かりな改革)との決定的な違いはそこにあったし、SPINをグループに加えたことが上手く生かされず、足し算の段階で止まっていた。シナジー(掛け算効果)が全く出ていないのだ。否営業が重くなる(横河、SPIN、地方代理店)など、顧客から陰口が聞かれるほどだった。これでは引き算である。加えて情報システムサービス子会社が何社もあり、トータルのボリュームはあるものの必ずしも効率的な経営になっていない。そこで取り組んだのがそれらの再編成であり、2003年横河情報システムとして結実した。
ここまでを振り返ると、SPIN発足のきっかけとなる1983年の東燃テクノロジー(株)システム部創設→1985年のSPIN設立→1998年の横河電機への株式譲渡→2003年の再編成による横河情報システム(株)の誕生、と20年間にわたって情報サービス業に関わってきたことになる。これはそれまでの全ビジネスマン人生の丁度半分にあたり、しかもその変転は前半とは比べものにならぬほど激しいものであった。中でも社長としての9年は、経営環境変化への対応に追われ、辛くもあったが挑戦し甲斐のある充実した日々を過ごせた。もしSPINが誕生せず、そのまま東燃に留まっていたら定年は1999年、本社情報システム部長か小さな子会社の窓際役員くらいで引退が良いところだっただろう。この9年無くして、今の活力は維持できていなかったのではないかとさえ感じている今日この頃である。その意味でこの9年の体験は私にとってかけがえのないものであった。

何度か中断しながらSPIN経営を3部に分けて連載してきた。第1部は創設準備段階から取締役任用前までの3年間。これが20144月に始まり、28回を数えて201411月まで。第2部は1988年の取締役就任から1994年社長内定まで、201411月から20163月まで41回。社長時代の第3部が始まったのが201610月、今月はそれからちょうど一年になる。第1部が28回、第2部が41回、第3部が37回、3年半かけて計106回を数えた。
このブログ本体を立ち上げたとき、自分が関与してきた仕事(SPIN関連以外を含む)をできるだけ意思決定の場や背景中心に書き記し、それをベースに経営上の“決断”を整理し、他の事例(ビジネス以外も含め)と比較分析する目論見であった。今回で自分仕事史は終わったが、比較分析は全く手についていないし、構想さえできていいない。何から始めるか?それが次の課題である。

長いこと拙い連載にお付き合いいただき、時には励ましや助言をいただいたことに深謝いたします。


-完-

2017年10月7日土曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-36


17.新会社発足
横河電機美川社長が現役のまま亡くなったのは19996月、そのあとを襲ったUCD社長は、少しずつ前社長の拡大路線を整理しつつ、グループ全体経営の統一的な統治体系を図っていった。情報サービス関連会社の再編成もその一環であるが、人事管理方式の整備などは本体をも含むもので、ある程度時間をかけて一本化する方向を明確に目指していた。その代表的な例は、2001年に打ち出された社員資格の統一だろう。各社まちまちだった給与と資格の内、給与・報酬は経過処置を認められたものの、格付けは職位・職責に応じて共通のものになった。社員のトップは執行役員(これにも何ランクかある。その上は取締役)、ここまでは定年制が適用され、それは60歳である。
再編成対象会社の内、YTSの社長と私は既にこの年齢を超えていた。YTSは広島が本社、社長もその地の出身者で引退を望んでいたし、私も横河電機に経営権が譲渡された段階で「しばらくこの状態を続けさせてください」とお願いしたものの、世の常識で「いずれ本社の人が」と思っていたから、この再編成を期に退く覚悟はできていた。YDCはこの再編案から外れることになったから、社長のMYSさんは対象外。あとはYITの社長であるWTNさんが資格上残るのだが、どうみても再編成されたあとの社長に相応しい人とは思えなかった。再編成の形が見えてきた2002年夏ころから、非公式に「新社長は誰が良いですかね?」と問われることが多くなってきた。答えは情報ソリューション事業部長として、この話をまとめてきたISIさんしか考えられないから、本人も含めてその旨応えてきたし、本社役員もこれを妥当な人事と受けてくれている空気がうかがえた。
10月初めになると再編成の具体的な構想が固まり、20034月にそれを発足させることが決まり、年初に全グループに向けて発表することになった。そんなときISIさんから「SPIN若手役員で、次代を託すにふさわしいのは誰ですか?」と聞かれたので、私が役員登用した3人の内、60歳まで時間のあるYMTGさん(1971年入社)とYNGKさん(1972年入社)を「ISIさんが、数年よく見たうえでさらなる上級役員への任用を決めてください」と返答した。こうして再編成後のSPIN関連役員人事は、譲渡以前から役員(子会社TSSを含む)だった、私、MYIさん、YNGMさんが退任し、FRHさん(1968年入社)、YMTGさん、YNGKさんの3人が新会社の役員になることが内定する。
10月半ば私は社長として、大事な顧客接待や提携先の大規模なユーザー会に参加すること、さらに再編成を伝えるため、最後の海外出張に出かける。帰国は111日で週末だった。週明けの5日出社すると、YMTGさんが部屋にやってきて驚くべきことを報告する。自分が新会社の社長になるようUCD社長に告げられたと言うのだ。「一体全体留守中に何が起こったのだろう?」 追っ付けISIさんから同旨の電話が入る。聞けはISIさんが横河本流中の本流、制御システム事業部長になることが決まり、代わりの候補者を推挙するようUCD社長から問われたので、私が将来を託すと告げた二人を挙げたところ、UCD社長がYMTGさんを新会社社長に、併せてYNGKさんを本社の要職部長に登用することを決したのだと言う。それぞれの人にとって、将来が期待されるこの案は、悪いことではなかったかもしれないが、時間をかけて練り上げてきた再編成案をすべてリセットするような、この人事に唖然とするほかはなかった。
2003年新会社;横河情報システムズ株式会社(YIS)が、YMTG社長の下にスタート。旧東燃ルールによって私は3年間顧問の地位に留まることが出来た。しかし、二人の前任者(いずれも東燃役員からの天下り)と同様、時々出社するだけで報酬を受けるのは心苦しいこともあり、ISIさんの上司であったMNK専務に、新年グループ内賀詞交換の際「本社で何かお手伝いできることはありませんか?海外営業などどうでしょう?」と投げかけたところ、その場でUCD社長につないでくれ、4月から海外営業本部の顧問に就任、爾後4年間ロシアを中心に海外市場開拓に当たることになる。
本社(三鷹)勤務だったこともあり、YISの情報はタイムリーに入手でき、苦闘しながらも発展していく姿を、ビジネスマン引退の2007年まで見届けることが出来た。その後本体(Industrial AutomationIA事業本部)やその関連会社(保守サービス、制御システムエンジニアリング)との再編成を経て、現在は横河ソリューションサービス(株)となり、人員数約2500名、年間売上高は1千億円の大会社に変身している。


(次回;9年を振り返る;最終回)

2017年10月3日火曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-35


16.情報サービス会社再編成-3
情報ソリューション事業部の発足は2001年秋、事業部長のISIさんと4社の社長が初めて顔を合わせたのが11月。そこで決まったことは、相互理解と情報交換のため原則月例の社長会を持つと言うことであった。この席でISIさんは「事業部として拡大・発展のため事業部本体を含めて、経営資源の効率的な運営を図っていきたい」と述べたが、即再編成を社長会の議題に取り上げたわけではなかった。ISIさんとしても制御システム畑から新事業部門に転じ、その実態を把握することが先決と考えたからだろう。ただ、SPINが独自製品とETS戦略が対象とする多くの顧客を多く抱えていたこと、再編成の言い出しっぺであることを慮ってか、それに関わる話題を社長会とは別の場で投げかけてきていた。私自身各社の実情をよく理解していたわけではなかったから「春まで勉強しましょう」と言うくらいの助言しかできなかった。
11月の初会合の時顔を合わせた3社長(YDCYITYTS)の中で、何かと気になったのはYDCMYSさんである。本社(三鷹)で開催の会合に遅れてきて、その理由を「チョッとUCD社長と会っていてね・・・」と切り出す。この年4月からSPIN会長に就任したNKMさんを始め横河の役員クラスもしばしば話題にする、型破りなビジネスマンのイメージそのままだった。NKMさん曰く「自分が不在のときに俺のハンコを勝手に稟議書に押して通してしまった」との武勇談?を聞かされていたし、ほかの役員からも「こんなこと言うとMYSが怒るからな~」との発言が出たこともある。横河ブラジル時代(現地社長は美川さん)、利益を外貨に換える制限が厳しく、余剰金で牧場経営にあたっていたとの話も耳にしていた。しかし、社長会で必ずしもイニシアチブを積極的の取ろうとするわけではなく、むしろややほら話めいた自社経営に関する自慢話が多く、それはそれで一聴に値するものだった(特にERP(統合業務パッケージ)、SAPへの取り組みやデータベースソフト会社オラクルとの関係など)。
20024月、新年度の情報ソリューション事業部キックオフミーティングに際して、ISIさんが事業部全体の再編成を打ち出し、つづいて開かれた社長会で「秋までかけて、ワーキングチームを作って新会社案を固めたい」と明言、4社もその検討開始に一応同意した。しかし、MYSさんの姿勢にはどこか斜に構えたところがあり、「YDCをどうするかが問題だな~」の感を抱かせた。
ワーキングチームは社長会とは別で、各社の経営企画や総務担当役員・部長が専任構成員で、主に人とカネの問題を整理し、営業や技術についてはその都度担当役員や管理職が参加する形をとった。SPINでその任に当たったのは、取締役のYNGMさんと総務部長のMRYさんである。集まりも社長会が月例であったのに対して、作業工程に従って頻繁に持たれ、進捗状況や再編試案は案件ごとに社長会で説明・検討された。しかし、案が煮詰まってくるに従い、YDCのトーンは総論賛成・各論棄権で歩調が合わなくなっていく。やがてMYSさんがYDCの歴史や現状の経営戦略を理由に、統合参加に難を示すようになる。確かに彼の言い分に一理ある。グループとして進めようとしているETSとは顧客対象が著しく異なるのだ(核となるプロセス工業にほとんど顧客がない)。再編成具体化検討から半年くらい経った頃ISIさんはYDCをその対象から外すことを決断する。おそらく本社経営トップの意向もあったのであろう。結局新会社はYITYTSSPINの三社が合併して2003年発足を目指すことになる。
最終決定に至る過程で、ISIさんと話したことに、新会社の社長は4社から出さず本社から出すべきだと言うのがあった。年齢的なことばかりでなく、既存の会社から出すことで、社員に要らぬ気遣いをさせたくなかったからである。しかし、そんなやりとりの中で「もしMYSさんを新社長にしたらYDCも乗ってくるのでは・・・」と言うことも話題になったが、二人ともそれを本気で取り上げることはなかった。
これは後日談だが、MYSさんはその後も5年位YDCの社長に留まり、個人的には交友関係を保ち何度か飲む機会まで持った。MYSさんのあとは本社専務から天下ったMNKさんが3年ほど前(2014年)まで務めたが、ついにSAPの有力システムインテグレータDTS(東証一部)に全株式を売却し、横河グループから完全に切り離された。再編成に加わらなかったことは、結果としては良かったのかもしれない。


(次回;新会社発足)

2017年9月29日金曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-34


16.情報サービス会社再編成-2
再編成の対象になるのは、情報ソリューション事業部の下に在った情報サービス会社4社、横河ディジタルコンピュータ(YDC)、横河情報技術(YIT)、横河テクノシステム(YTS)それにSPINである。これら各社の歴史や設立の背景、あるいは経営状況を見ておくことは、再編成の方向性・過程を理解する上で欠かせないことである。
最も長い歴史を持つのはYDC、実は設立当初(正確には不明だが、1980年代初期;社名はディジタルコンピュータ;DC)は横河とは関係なく、マイコンをベースとする宅内通信システム(LAN)製品を提供するベンチャー企業であった。情報産業業界では(ハードも扱う)“システムハウス”の範疇に属し、ソフトウェア開発はあくまでも自社製品のためだった。この会社が経営に行き詰まり、両社のメインバンクである富士銀行が横河に救済を求め、傘下に入った会社である。従ってダントツの筆頭株主で、社長以下役員陣も横河から出ていたものの、他社・他人資本も一部残っていた。オフィスもDC時代の中野に在って(のちに府中へ移動)、本社(三鷹)との縁は薄かった。SPINとの関係で見ると、1985年の創設前から既に横河グループ入りしており、特に経営を取り仕切っていた専務(のちに社長)のOYMさんは、東燃川崎工場建設時代(1970年~)、一緒に仕事をした同年代の戦友とも言ってもいい人だった。他社向けソフト開発や電子取引パッケージソフトを扱い軸足をソフト開発に移したのもOYMさんの時代になってからである。それもあってSPIN設立に際して、先輩企業として、いろいろ教えてもらうことの多かった会社である。OYMさんの後の社長は、これも東燃時代付き合いのあったKONさん、この二人は自らプログラム開発やシステム化プロジェクトを担当したことのある根っからのSE、業態をパッケージ販売・受託ソフト開発に傾斜していった。
再編成検討が始まる時期の社長はMYSさん。この人は海外営業部門が長く、SPINがグループ入りした当時は中国に滞在、それ以前は横河ブラジルに長く勤務していたと聞いており、IT業界にはそれまで無縁のバックグラウンドだった。それもあって、YDCの経営を、普及しだした業務統合パッケージ、ERP関連ビジネス(コンサルティングからプロジェクト推進、付加特注ソフト開発など)を主力にすべく、業容を変えていく考えを強く志向していた。それに向け手始めに取り組んでいたのが、オラクルとの関係強化で、オラクルDBの販売代理店として着々と実績をあげつつあった。つまり、横河の本業から離れる方向に舵を切っているように見えた。また、MYSさん個人として、既に本社の役員が社長のUCDさんを除けはほとんど後輩になってきていたこともあり、YDCを「いずれは独立して株式公開へ」との思いがあったように感じたものである。2001年末の情報ソリューション事業部下の社長会で初顔合わせをして以来、個人的には良い関係を続けたしが、再編成には最後まで距離を置く姿勢を崩さなかった。
YITYDCとは真逆、本社情報システム部が分社化した会社である。独立はSPINより遅く、発足準備に当たって当時の部長であったYMKさんが訪ねてこられ、SPIN分社化前後の知見をお話ししたこともある。横河には東燃に比べ関係会社が多く、これらへのサービスを含めグループ内業務が圧倒的にシェアーを占め、会社も三鷹の本社敷地内に在ったから、経営は極めて安定していたものの、今一つ分社化の効果が出ているようには見えなかった。再編成時の社長WNBさんは管理部門の経験はあるようだが、事務系情報システム開発・運用を長く担当してきた、情報システム部門プロパーと聞いていた。それもあってかYIT社内は完全に彼にコントロールされており、MYSさん同様本社役員よりも先輩だったことと合わせて、アンタッチャブルの雰囲気さえあった。だから、この再編成によってそれを正そうと期待する声がそこかしこから聞こえてきた。
YTSSPINはこの再編成検討が始まるまで、個人ベースを含めて全く縁がなかった。本社が広島、出先が北九州に在る、完全にローカルな会社だったからである。日本の装置工業、特に化学関係は西に重心がある。特に瀬戸内から北九州にかけてそれが顕著だ。三鷹から遥かに離れた地ゆえに代理店に日常活動を委ねるわけだが、西中国地方から九州北部にかけては広島に本社を置く新川電機の商圏、ハードだけの時代であれば技術的な問題であってもほぼ代理店と三鷹で対応できたが、ソフトが絡むとそれだけでは足りず、顧客近くに即応体制が必要になってきた。YTSはそのような背景(特に代理店からの要請)でスタートした会社である。横河製品(デジタル制御システム)の周辺から少しずつビジネスを広げ、地域限定で受託開発にも行い、プロパー社員を採用していた。社長は横河OBでここを地元とする人(名前は失念)、60歳を過ぎており、いつでも退いてもいい歳だし、本人もその心づもりに見えた。
それぞれの会社規模(従業員数、売上高)は、YDCSPINとほぼ同様(300人前後、4050億円)、YIT100人弱、十数億円位、YTS100人強、20億円位と記憶する。再編成に対してはYDCを除けば、他の三社は前向きであった。


(次回;情報サービス会社再編成;つづく)

2017年9月25日月曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-33


16.情報サービス会社再編成
9年の社長在任中、私自身が中心になり手掛けた大仕事は、東燃から横河電機への株式譲渡とこれから述べる横河グル-プにおける情報サービス会社再編成の二つと言っていい。第一の株式譲渡については、東燃の大株主であるExxonMobilEM)の本業回帰による子会社リストラと横河電機のソリューションビジネス戦略(ETSEngineering Technology Solution)にあったことは既に述べた。ユーザーノウハウを取り込むことはソリューション提供に不可欠であったからである。しかし、横河グル-プ入りして分かってきたことは、トップの掛け声に比べ、ETSの実態があまりにもお粗末だったことである。一言で例示すれは「計測制御システムで何かお困りのことやお手伝いできることはないでしょうか?」と問い、出来ることをやるに過ぎなかった。これも問題解決(ソリューション提供)に違いないが、あまりにも受け身なのだ。加えて、ソリューション提供のカギを握る情報サービス会社の効率的運営に関しても、甘さが目立った。要はほとんどの会社(YDCだけは異なったが)が横河製品周辺のソフトウェア技術を提供して、経営を成り立たせていただけだったからである。これでは単なる直系の下請け・受け皿会社である。
全社戦略であるETSの問題点と改善案については、何度か今まで本欄で指摘しきたし、子会社だけで解決するには問題も大きいので、ここでは情報サービス業効率化の視点から再編成を語ることにする。
情報サービス業の根幹は人である。IT基本技術の専門家、適用業務用パッケージに精通したSE、業種・業務に合った業務分析・設計を行うSE、それを動かすプログラム開発を担当するプログラマー、全体プロジェクトをまとめるプロジェクトエンジニア、それを支えるセキュリティや原価計算・収益管理を行う専門家、実用化されたシステムの運用・保守サービスを担う者など様々な職種が必要である。そして情報サービス業は受注産業である。つまり、これら専門家の需給バランスは変動するのが当たり前。だからこそ早くから、複数の業務提携会社を持ち、派遣会社との関係を密にして、その変動に応じてきた。同じような会社がグループ内にいくつもあれば、先ずその合理化から始めるのが経営効率改善への第一歩である。こんなことを、1999年グループ内社長研修の場で発言したことは直後にトップに伝わっており、特に旧知でこの当時総務・人事を担当していたMZG専務から「MDNさんの話聞きましたよ。本気で検討してくださいよ」と告げられていた。ただこれはパーティのような場であったから、話はそこで止まっていた。
1999年美川英二社長が現役で急逝、後継のUCD社長は2000年いっぱいをかけて、自らの経営を進めていった。美川さんの拡大策の全面的見直しとそれに伴う組織改訂やそれに関する役員・上級管理職人事である。そこで誕生したのがシステム事業本部を解体してできた情報システム事業部である。横河の旗艦製品は分散型ディジタル制御システムCENTUM。この販売・構築・運用には当然ソフト技術提供が必要だ。この機能は制御システムを扱う事業部の専管業務となり(本体の事業部とYSE;横河システムエンジニアリング)、それ以外(生産管理、保全管理、品質管理、技術管理などに関連するシステム)を情報ソリューション事業部(以後情ソと略す)が担当することになる。事業部長はISIさん。彼の傘下に入った情報サービス子会社は、横河電機本体の情報システム部が独立したYIT(横河情報技術)、広島に本社を置き中国・九州を営業域として活動するYTS(横河技術サービス;前回YESと略したが誤り)、それに1980年代に買収し、一部他の資本も入るTDC(横河ディジタルコンピュータ)とSPIN4社である。ISIさんはしばらくそれぞれの会社を従来通りの経営に任せたが、2001年が押し迫ると、事業部本体も含めて見直すことを始める。狙いが全体のリストラクチャリング(首切りではなく、真の意味での再構築)である。


(次回;情報サービス会社再編成;つづく)