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2014年3月29日土曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(38;最終回)


21.ツアー総括
昨年帰国1週間目の1012日から連載を始めたこのフランス紀行も、前回の“パリ雑感”でツアー紹介を終えた。6年ぶりの海外旅行が個人ツアーでなくグループパックツアーになった経緯は早い段階で述べているので、ここでは総括としてその評価をしてみたい。出発から添乗員付きの旅は厳密にはこれが初めてだから、一回の経験でこの種のツアーを一般化できないことは予めお断りしておきたい。
個人ツアーの最大の魅力はその自由度にある。スケジュール、訪問先とルート、移動手段、食事や宿泊先、費用を思うままに決められる。意思疎通さえ自在にでき、計画立案や予期せざる出来事への対処が億劫でなければ個人ツアーが優れている。しかし問題はこの“億劫でなければ”にある。これは言葉の問題だけではなく、年齢にも大きく影響されることを、今度の旅で認識させられた。これから何度も行ける所ではないとなれば、一回の旅であれもこれもと欲が出る。日数が増えると着るものを中心に荷物が多くなる、一方で体力の低下は間違いなく進んでおり、重くて大きいスーツケースのハンドリングをすべて自分でやることはかなり堪える。パリで延泊するまではその苦労は全くなく、最後のホテルから空港への移動も、延泊ゆえバスが無いのでハイヤーを呼んでしまった。
ヨーロッパの国々は意外と英語が通じない。言葉の通じない所を個人で動き回る苦労はビジネスで何度も体験している(その点では日本へ来る外国人も大変だ)。時には危険すら感じることもあった。添乗員付きグループツアーにその不安は皆無だ。反面すべての会話を日本語で済ませることができるので、極端に言えば日本での団体旅行と少しも変わらない。“海外”ゆえに味わうある種の緊張感を欠くので、旅の楽しみが薄くなってしまう。今回のツアーで一番印象深かったのは何と言ってもパリ、その最大因子は観るべきものが多かったこともあるが、グループから離れ“苦労”を体験し対応したことにあったと思う。
大事な課題に、おカネと時間の効率がある。ただ安いことを求めるだけなら交通機関、宿泊、食事、個人旅行には超低価格旅行が可能でガイドブックも多数出ている。しかし、これは若い人の旅行スタイルだろう。そこそこの所に泊まり、まずまずの食事をする、交通機関も席が確保できて、となるとパックツアー(グループ参加でないツアーを含む)に大きな外れはないし、コストパフォーマンスや時間効率も良く、通り一遍の観光ならこれで充分である。唯一の問題は、多くの場所を回り費用を抑えるために連泊が少ないことである。
グループ旅行は団体として動くのでそれなりの気遣いが要る。今回のメンバーは49人の少人数であるうえ皆海外旅行の経験者だったので、まとまりも良くメンバー間のコミュニケーションも容易にとれた。これがもっと大人数だったらどういうことになったか、グループツアーへの不安はその点に残る。
評価決定的因子で最も重いのは“添乗員”に尽きる。今回の添乗員OSNさんは英語・仏語の他にも使える言葉があるようで、欧州全域を担当している。経験も老眼鏡が時々必要になるところをみるとかなり積んだ人であろう。しかし、我々のために全く労を惜しむところがなく、愚痴をこぼしたり、辛そうな表情を見せたりすることもなかった。経験談を聞く機会があったが、携行品の通関などで訪問地の官憲と堂々と渡り合うこともあったようだ。何事にも信頼できる添乗員、これがグループパックツアーのすべてを決める。OSNさんのような添乗員と内容が希望に合うならば、これからはグループツアーを積極的に利用しよう、と言う考えが出かける前に比べれば強まってきている。
フランスにはもう一度出かけたい。今度はパリに拠点を置いて近郊・近隣地方(場合によって国境を接する国へ)へ出かける戦跡(マジノ線、ダンケルク、ノルマンジー、ヴィシー)巡りの旅などどうだろう。これなら今回の体験をもとに個人旅行も可能な気がする。これはフランス旅行に関する総括である。
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(完)


これで38回連載した“フランス紀行”を終わります。当初は1週間に2作くらい投稿のつもりでいましたが、そのペースが維持できず、思いのほか長くなってしまいました。長期にわたりご愛読いただいたことに深謝いたします。

2014年3月21日金曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(37)


20.パリ-13;パリ雑感
・地下鉄;
パリ観光は、ヴェルサイユ宮殿、ルーヴル美術館、ムーランルージュはマイバス社のツアーに参加、それ以外はすべて自前のプランである。この際の移動はすべて地下鉄を利用した。訪問した世界の主要都市(NY、モスクワ、ロンドン、ローマ、北京など)で地下鉄を利用してきたが、ここパリの地下鉄は東京と比べてもとても利用しやすいと感じた。
先ず料金が手ごろである。カルネと呼ばれる回数券(1013.30ユーロ;駅の有人窓口で「アン カルネ、スィル・ブ・プレ」と言えば求められる。自動販売機もあるのだが英語表示に切り替えなければならず面倒だ)を利用すると200円未満で市内ならどこへでも行ける。
次いで駅構内の案内が確りしており、乗り換えもわかりやすい。理由は、路線がすべて番号付けされていること、ホームが島形(上り・下り共通)でないこと(島形ホームが在るのかもしれないが、利用した範囲では無かった)、ホームへの入り口表示に終点駅名が書いてあること、駅の表示名が大きくて認知しやすい。また、路線数も郊外線(RER;空港やヴェルサイユへはこれを利用;料金は別)とつながるものを除き14路線もあるので先ず行けない所はない。
同じ鉄道でもTGVは万国共通の左側通行。しかし地下鉄は右側通行。郊外から乗り入れているRERはどうなっているのだろう?
要注意は、モンマルトルの項で紹介したスリと出口を間違えないことである。表示はあるのだが英語読みではないので一瞬で判別できない。起点となっていたサン・ラザール駅は東京で言えば新宿のような所(とは言っても相対的)、いつも乗り降りしている出入り口と違うところから出て居場所が分からず、右往左往したことがある。
私は旅行出発前に「パリの街を メトロでお散歩!」と言うガイドブック(ダイヤモンド社、1500円)を求めて予習をしていったが、なかなか役に立つ本だった。
・お土産;
旅の楽しみにお土産がある。コートダジュール、プロヴァンスでは石鹸やタオル、それにワインなど土地々々(フランス製)のお土産品があった。パリで何を求めるか?この歳になるとブランド品を誰かに贈る必要など無い。このような店は避けて専らデパート(プランタン、ラファイエット)で玩具や小物のアクセサリーを探した。さすがにアクセサリーは一寸洒落たものが手ごろな値段で求められるようだが、おもちゃや子供服などはほとんど外国製、中でも中国製が多い。欲しかったのはTGVかフランス車のおもちゃなのだがどちらのデパートにも全く置いていなかった。案内ではレゴ売り場に在るかもしれないと言われたがただの電車だった。もしや大人向けの模型など無いかと聞いてみたが「何故そんなものがデパートに」と言う顔で「ノン!」が返ってきただけだった。おもちゃ専門店へ出かけても状況に大差はなく中国製品オンパレード、仕方なくヨーロッパ6ヶ国語でインストラクションが書かれた骸骨の組立てセットを買ったが、これもメイド・イン・チャイであった。ブランド店やデパートのブランドコーナーに中国人が長蛇の列を成している光景と合わせて妙に中国の存在感を感じた。
もう一つ買ったのはフランスパン。プランタンのパン売り場で4種の大きなフランスパンを求めて、ホテルの荷物室でパッキング。帰宅後は冷蔵庫に保管して、しばらく本場の味を堪能した(空港で求めたフォアグラとワインに良く合う)。
・バイク;
朝の通勤風景はその土地を特徴づける。東京の満員電車、広い道路を自転車が埋めるかつての北京、マンハッタンへ向かう自動車の渋滞の列、東南アジアのバイクの波。パリの通勤は鉄道利用が主のようだが意外だったのはバイク、スクーターの多いことである。先進国の大都市ではこことイタリア(ローマ、ミラノ)が突出している。イタリアは“ローマの休日”で有名なスクーター、ヴェスパやレースで近頃は日本勢と争っているドゥカティなどがあるのでわかるが、フランスそれもパリでこれほどバイクが日常的に利用されているのは驚きだった。それもホンダやスズキも見かけたがほとんど名の知らないもの。フランス製なのだろうか?英国人もオートバイ好きだが彼らは専らツーリング、ロンドンでスクーターや原付バイクのようなものを見かけることはなかっただけに、パリ再発見・再認識の一コマであった。
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(次回;ツアー総括)

2014年3月18日火曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(36)


20.パリ-12;エッフェル塔
104日(金)晴れ、今日でこのフランス旅行も最終日だ。帰国便の出発時刻は2325分、3時間前に搭乗手続きとしてもホテルを19時過ぎに発てばいい。だからフルに一日観光時間あるのに等しい。残されたパリのランドマークはエッフェル塔のみ、ここを観たあとはお土産探しの街歩きをしよう。それが済めば、一旦部屋に戻り一休みして、遅いチェックアウトにしたかった。しかし、チェックインの際添乗員のOSNさんに時間延期の可否を確認してもらったところ、ホテルの返事は「レイトチェックアウトは認められない。もし部屋を使いたければ一日分の宿泊料をいただくし、料金は団体割引ではなく正規料金」とのつれない返事。仕方なく荷物を預けて8時半にチェックアウト。2日前長蛇の列で諦めたエッフェル塔を目指す。
サン・ラザール駅からエッフェル塔観光の最寄り駅ビル・アケム駅へ行くには、先ず3号線の西行きに乗り、次いでヴィリエ駅で2号線に乗り換え、エトワール(凱旋門)駅でさらにここが始発の6号線に乗り換える。チョッと面倒なように思えるがパリの地下鉄は構内の案内が極めて分かりやすく、難なくビル・アケム駅に着くことが出来た。駅からセーヌ沿いに歩いて9時少し過ぎには塔下の広場に到着。9時半開場ながら既に100M位の列ができていたのには些か驚いたが、今日はたっぷり時間があるし幸い天気も良く暖かい。どんどん後ろに延びる、世界から集まる観光客の列を眺めながらの30分は全く苦痛にはならなかった。
定時になると列が動き出す。先ずセキュリティチェックの小部屋に4列で入る。それが終わると入場券の購入。最上階の第3展望台(276M)まで一人14.5ユーロ。最初のエレヴェータは大型で40人位乗れ、脚部の傾斜に沿って斜めに動いていく。高さ57Mの第1展望台でドアーが開くが誰も降りない。115Mある第2展望台で次のエレヴェータに乗り換える。ここからは複数の垂直移動型エレヴェータが一気に我々を第3展望台へ運んでいく。
眼下に広がるパリの街は整然と整えられ、その先には緑が広がって、壮大な計画に基づく都市の美しさに思わず息をのむ。西真下には見事な幾何学模様のシャイヨー宮、北西遥か先には凱旋門。東に目を転ずれば廃兵院(アンヴァリッド)、ルーヴル美術館、ノートルダム寺院がセーヌに沿って認められ、北には昨日訪れたサクレ・クール寺院が遠望できる。しばし展望回廊を周回し、ヴェルサイユ宮殿を除く、訪れた観光スポットすべてを高みから俯瞰して確りそれらを瞼に焼き付けた。
下界に降りたのは11時過ぎ。見学者の行列はさらに延びている。午後のお土産ショッピングまでどう過ごすか?どこかで昼食もとらなければならない。慌ただしい街中へ戻るよりは少しのんびりしたい。セーヌ左岸の遊歩道を東に向かって歩くことにする。
河を上下する観光船、ジョギングをする人々、今日が平日であることをすっかり忘れさせるほどこの道は気分を落ち着かせてくれる。広い石造りの河岸ではオープンカフェが昼食の準備を進めており、ポツリポツリと客も入っている。アレクサンドル橋の近くでそんな店の一つに入り、ベーグル・サンドウィッチを摂ることにしたが、挟むもので“Pastrami”とあるのが分からず訊ねてみると「牛肉のハム」との答えが返ってきた。赤とそれを頼んでゆっくり食していると、我々に引き寄せられるようにどんどん席が埋まっていった。観光客ばかりでなく近隣で働く人たちもいるようだが皆食事と話に時間をかける。長く居ると「何かご注文は?」とときたまウェートレスがやってくるが、ほとんどに人は追加注文しない。我々もそれに倣い、ぼんやりと最後のパリを味わいながらしばし時間を過ごした。
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(次回;パリ;つづく)

2014年3月11日火曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(35)


20.パリ-11;モンマルトの丘、オペラ座
シェークスピア&カンパニー書店を出た後セーヌ左岸をしばらく西に歩くと、地下鉄4号線のサン・ミッシェル駅、ここはサンジェルマン・デュ・プレに近く、道端のカフェの客もお上りさん観光客とはやや客層が違うようで、チョッとおしゃれな雰囲気である。我々も一休みしたかったが、まだまだ後のスケジュールがある。
次の予定はモンマルトルの丘に登りサクレ・クール寺院の前からパリを見渡すことになっている。4線で北に向かい東駅・北駅を経てバルベス・ロシュシュアールで2号線西行きに乗り換えアンヴェールまで行く(一駅先は悪名高いピガール)。東駅からピガール辺りまでは特に物騒な所と聞かされていたので緊張していたが、何事も無くアンヴェール駅に到着、駅は観光客でごったがえしており、その先の参道?も同じような状態。しかも小雨がぱらついてきた。登り坂の両側は土産物屋や飲食店が続き門前市を成している。とにかく参拝客・観光客の流れに身を任せてひたすら坂道を上ると白いドームの寺院が見えてくる。途中の道には黒人の行商人などが居りカバンなどを売りつけに寄ってくる。
やっと寺院前のテラスに着いて振り向くと、パリ中心部が眼下に広がる。残念ながら青空ではないが、この景観は上りの疲れを癒すだけの効果は十分ある。よく見るとテラスの下にケーブルカーの駅がある。そんな話は確かに聞いたことはあるが、地下鉄駅周辺にそれらしきものは無かった。駅舎の横に売店が在ったので清涼飲料を求め、雨も止んだのでベンチで一休みして、同じ道を下った。
アンヴェール駅から2号線で西に向かいピガールで12号線に乗り換えてサン・ラザールへ帰る経路が近そうだ。そのアンヴェール駅に着いてホームを歩いているとタイミングよく電車が到着、下車する人を待って車内に乗り込んだ。するとひとつ前のドアー辺りで何やら叫んでいる人達が居り、一人が急いで車外に飛び出し子供を捕まえ手にしていた財布のようなものを取りかえした。スリである。大人の女一人と男の子が二人。女と大きい子はホームのベンチに座っており小さい子が財布をスリ盗る方式らしい。どうみてもロマ(ジプシー)である。ドジをした小さい子を「おまえはなんて悪いことをするんだ!」と言うように大きい子が殴っている。バレタときのこの芝居はガイドブックなどに注意事項として記載されているが、眼前でそれが展開されるとは思ってもみなかった。43年前の早朝凱旋門近くを散歩中路地で小太鼓などを持ったロマの子供たちに囲まれ大声を出して追い払ったことが思い出され、ピガールでの乗り換えは警戒心を倍加させた。
サン・ラザール駅に戻ったのは4時過ぎ。まだまだ今日の観光は続く。次はオペラ座である。とは言っても観劇ではない。ナポレオン3世が命じて1875年に完成したものでミラノのスカラ座、ウィーン歌劇場などと並ぶ世界的なオペラハウス。建築家の名前から“ガルニエ宮”とも呼ばれる。パリに着いてからホテルに近いこともあり外観は毎日見ていたが、内部の見学ができることはムーランルージュで同席した人から聞かされるまで知らなかった。中に入って先ず感じたことは、観客席・舞台以外の空間の広さである。こんな広間やロビーが何故あるんだろう?と思うようなスペースが随所にある。どうやら種々の社交の場として用意された場所のようだ。そしてそれぞれの部屋の装飾が凝っている。天井まで描かれた絵画、照明用のシャンデリアや燭台、彫像、机・椅子などの家具。いずれも手をかけて描かれ、作られたことが容易に想像できる。これに正装した紳士・淑女が集うところを観てみたいものである。そこに加わりたいと思わないのは、明治期西欧人が画いた鹿鳴館のポンチ絵の滑稽な日本人の再来間違いなしだからである。
この日はフランス最後のディナー。オペラ座の正面の通り(キャプシーヌ通り)に在るレストラン“キャプシーヌ”で牛・赤ワイン・パスタで締めくくった。
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(次回;パリ;つづく)

2014年3月6日木曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る(34)


20.パリ-10;セーヌ左岸
ルーヴルのカフェテリアで昼食を終え外へ出たのは1時過ぎ、とにかくこの建物は大きく、東西方向は3ブロックくらいある。北側に出たつもりだが、今いる位置が直ぐにわからない。ここからノートルダム寺院に行くには地下鉄に乗る必要がある。最寄り駅は北側ならパレ・ロワイヤル・ミュゼ・リヴォリ駅(1号線)、東側ならシャトレ駅(4号線)になるが、北側の通りのどの辺にいるのか分からない。しばし地図で確認していると、同じように地図を持って何やら探している日本人らしき若い女性が近づいてきて「ルーヴルはどこでしょう?」と関西訛りの日本語で訊いてくる。真横がそうなのに分からないのだ。「ここがそうですよ」と教えところで「この近くに地下鉄の駅ありませんかね?」と質問すると「この先にあります」と東方向を指さす。彼女はそこからここまで来たらしい。確かにシャトレ駅入口がそこに在った。
たった一駅乗ってシテ島駅へ。地下鉄の出口は小公園の中に在ったので、チョッと方向感覚を失ったが、標識(Cathedrale Notre-Dame)を辿って行くと目の前にあの初期ゴシックスタイルの巨大なファサード(正面)が現れた。とにかく大きい。カメラを最大広角にしても全容は納められない。この寺院は正面から眺めるもののようで、正面広場には階段状の観覧席が設けられ観光客は三々五々そこに座って、休憩を兼ねてその姿に見入っている。我々は先ず寺院内に入りその広くて暗い内部を見学する。ステンドグラスが素晴らしい。直径13m、とても日本の鎌倉時代にこのようなものが作られたとは信じ難い。屋根に飾られた怪獣(シメール)を観るには8ユーロ払い400段近い階段を登らなければならないので諦め、外の観覧席でしばし休息をとる。
休憩後は橋を渡って南岸へ出る。次の訪問先は“シェークスピア&カンパニー書店”、パリ到着の項で紹介した英語圏(主として英米)の書籍を扱う有名書店である。米国ニュージャージ州から移住してきた女性が1919年(第一次世界大戦後)に開いた店で、文学志願でフランスにやってきた英米人の若者が寄食しながら研鑽を励んだところとしてその名が知れるようになる。店の場所やオーナーは変わったようだが、仕事と生活の場(宿泊)の提供は変わっていないという。そのようにユニークな書店ゆえ、ここはヘミングウェイの小説「移動祝祭日」に登場したり、ノンフィクションの本(今月の本棚(今月の本棚-2420108月で紹介)になったり、“ビフォア・サンセット”と言うアメリカ映画の舞台にもなっている。そのノンフィクションで知って興味を持ったことがここを訪ねた理由である。
店は神田の古書店のようで、書物が雑然と書架に並べられ、決して一流書店とは見えないが、我々同様観光ついでの客で賑わっていた。外国の書店で私が向かうのは戦史コーナー、それが直ぐに見つかった。日本ではお目にかかれない珍しいテーマの本が何冊もある。ここで本を買う予定はなかったが“Spies in the Sky”と題する第2次世界大戦時の英国空軍航空偵察の本を買い、表紙裏にシェークスピア像描いた店のスタンプを押してもらった。自分用唯一のフランス土産である(本書は次回「今月の本棚」で紹介予定)。
こんな本屋がここにあるのは、セーヌの左岸(南岸)がソルボンヌ大学のあるカルチェ・ラタンや文化人・芸術家が集うサン・ジェルマン・デ・プレなどに近いことと無縁ではないだろう。何となく北岸の繁華街とは違った洒落た雰囲気があり、この一帯はもう少し時間をかけて廻ってみたい所であった。
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(次回;パリ;つづく)

2014年3月3日月曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(33)


20.パリ-9;ルーヴル-2
1階でミロのヴィーナスを見た後2階に上がる。ここには中世から近世のイタリア、フランスの大型絵画が多く展示されている。ガイドが時間をかけて説明してくれるのは「ナポレオン1世戴冠式」の絵、これは同じ作者の同じ構図のものがヴェルサイユ宮殿にもある。両者の間にいろいろ差異があるところが着眼点であり、解説のポイントも専らそこに集中するで。その後、いよいよこの美術館の象徴ともいえるダ・ヴィンチの「モナリザ」見学である。
今回のツアーに参加することが決まった後、ルーヴルの職員がストライキを打った新聞記事が載っていた。何とその理由は、館内特にこのモナリザの周辺の“スリの多さ”にあるという。ガイドの説明も先ずそこから始まった。確かに見物客の数の多さが違う、それもあって見学方法もここだけ違い、小さなその肖像画は専用の衝立壁に収まり、円形の手すりが先ずあり、さらにその前には黒いテープが張られて、直前までは接近できないようになっている。見物客はそのテープの後ろに並び、前へ出る順番を待つ。やっと最前列に出ると絵を見て写真を撮る。この間に油断が生じ、スリにとっては格好のチャンスがやってくるのだ。ポケット、ポーチ、バッグ、ナップザックから中身を失敬する。こんな具合らしい。とにかく鞄を確り前に持って、しばしあの謎めいた微笑みの絵を眺めたら手早く写真を撮り、脇へ移動して、今度は絵を食い入るように見つめている人たちを撮影した。これで美術(彫像・絵画)の見学は概ね終わる。残るのは別棟にあるナポレオン3世の居室、そこへは館内唯一の長いエスカレータを利用して向かう。ここを観るとツアーも終わり。半地下の大ホールで解散した。丁度お昼の時間、美術館のカフェテリアで、熱いコーヒーとホットドッグのランチにした。
さて、この美術館である。確かにヴィーナスやモナリザのように超有名は美術品が多数ある。しかし、ここはどうも落ち着いてそれらを鑑賞する美術館と言う感じがしない。とにかく人が多いこと、展示品の種類(絵画、彫刻から工芸品、宝石、グラフィックアート、インテリアまで)の多いこと、それらの時間・時代が長いこと(古代から19世紀まで)、制作・収集された地方(ヨーロッパ全域、中近東、北アフリカ)が広範なこと、部屋ごとに一応整理はされているものの、雑駁な感じは拭えない。私にとっては美術館と言うより博物館に近いイメージが強かった。ガイドに依れば「とても半日で廻れるようなところではありません。全部丁寧に観て歩くには1週間くらい必要です」とのこと。確かにその通りだろう。しかし、そんな美術鑑賞をしたい人と言うのは、どういうジャンルの専門家あるいは趣味の人なんだろう?そんな疑問を残しつつ、ここを出て次の観光先、ノートルダム寺院に向かうことにした。
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(次回;パリ;つづく)

2014年2月21日金曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(32)



20.パリ-8;ルーヴル
パリの話はどうしても43年前(19706月)の初めての訪問にもどる。この時はノルマンディ方面での仕事を済ませパリで二晩を過ごした。駆け足で夜も昼も名所を巡り歩き、モンマルトルの丘でサクレ・クール寺院を観た後ルーヴルに着いた。時間は4時頃だったと思う。今は地下の大ホールがメインの出入り口になっているが(今でも入り口は数か所ある)、当時ここはまだなく一階にチケット売り場やお土産物の店が在った。そのチケット・センターで「閉館までには時間があるが、今日のチケット販売は終わり」と告げられる。2時間足らずで観て廻る者などいないと言うことなのだ。
格別の絵画ファンではない。しかし、高校が上野の山に在ったこともあり比較的美術の話題には早くから触れていた。記憶に残るのが戦後初のルーヴル展である。まだ西洋美術館は出来ておらず、旧都美術館でそれが開かれ連日長蛇の列だった。ルーヴルと言う名を知ったのもその時である。だから次に訪仏の機会があったら「何としても」と思い続けていた。
103日(木)曇り。フルに観光に時間を当てられるは今日までなので、目いっぱいのスケジュールを組んである。その最初にルーヴルを持ってきたのは43年前の苦い思い出があるからだ。要領よく観るべきものを観るためには個人で入るより案内付きのツアーが良いとこれに参加することにした。845分にマイバス前集合、9時出発の早いプログラム。ガイドは美術研究をこの地で長く続ける鹿児島県出身の女性。参加者は10名程度でグループとしてのまとまりが良い。中に昨日ヴェルサイユ観光で一緒だった若い女性もいた。
マイバスのオフィスはピラミッド通りに在る。この名前は多分美術館地下ホールへの明かり採りのガラスでできたピラミッド状の構造物があるからではなかろうか?つまりマイバスからルーヴルまでは歩きで十数分しかかからないくらい近い。
この美術館はもともと宮殿として建造され、使われていたものでルイ14世がヴェルサイユへ移る(17世紀末)前まで王宮であった。その歴史は古く、要塞だった初期の時代の遺構が半地下部分に残っており、見学は先ずその部分から始まる。平日の早朝(ツアーの内部見学開始は9時半頃から)、既に人で溢れる地下ホールからここにくると嘘のように静かで人影もまばらだ。この歴史的部分を過ぎて一階に向かうとエジプト関連の展示があり、ラムゼス2世の石像などが置かれている。ここら辺りまでは空いていて、写真撮影に邪魔が入ることもない。しかし明るさが今一つで、どうしても少しぼやけてしまう。
この後に最初の主役が姿を見せる。“ミロのヴィーナス”である。シミや傷はあるものの、何とも言えぬ美しさと艶めかしさはさすがだ!ガイドの説明に依れば前姿は20代後ろ姿は40代、これが大人の女としての理想なのだと言う。サイズは必ずしも標準的な人間の体型ではなく、微妙にデフォルムされているとのこと。近くで解説を聞きながら眺めてみると「なるほど」と納得できる。ここはさすがに観覧者も多い。種々雑多な人種が、ツアーの同行者同士あるいはガイドに頼んで皆写真撮影に余念がない。
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(次回;パリ;ルーヴルつづく)

2014年2月15日土曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(31)


20.パリ-7;ムーランルージュ
ナポレオンの棺を見終ったのが4時少し前、オペラからエッフェル塔を目指したとき利用した8号線のラ・トゥール・モブール駅から来た時とは逆方向へ向かいオペラで乗り換えてサン・ラザールに戻った。ホテルで一休みとも思ったがまだ日は高いので、近くに在るデパート、プランタンに寄ることにした。私の目的は孫たちへの土産に適当なおもちゃ(出来ればフランスの新幹線TGVやフランス車の模型)探すことだったが、本格的なおもちゃ売り場は無く土産物や人形程度しか置いていなかった。びっくりしたのは店内のブランドショップ(ルイ・ヴィトン、エルメスなど)に若い中国人観光客が長蛇の列をなしていたことである。
ホテルへ戻ると、帰国前の時間を利用して、三々五々散っているツアーのメンバーを待っている添乗員のOSNさんがロビーに居り、玩具屋情報をもらうことが出来た。プランタンに隣接するギャラリー・ラファイエットとホテルの東側の通りに専門店が在ることがわかった。今日はこの後ディナー付のショウを観に出かけるが、マイバスの集合時間は615分、部屋でしばし転寝をした。

 指定の時間にマイバスのオフィスに行くと、同行者の日本人は我々を含め10数名。中年の夫婦、若い女性グループ、オジサンサラリーマンなどが若い男性ガイドに引率されてパリ市街北の繁華街、モンマルトルに在るムーランルージュに向かう。やがてあの“赤い風車(ムーラン(粉砕機、風車)・ルージュ(赤))”前の小公園に到着。まだ明るいが7時開場を待つ入場者が幾重にも並んでいる。やがて開場、我々の席は参加者全員でひとテーブル(長方形で向かい合わせ)、位置は800人前後入る劇場の中央より舞台に近いやや左側、観劇にまずまずの場所と言っていい。我々の隣は三重から参加の旭化成の技術者夫婦、話も合って気分も和む。
この劇場は1889年営業開始、第一次世界大戦・第二次世界大戦時も営業、あのロートレックが踊り子をモデルにした数々のポスターでも有名だが、何と言っても名物はフレアーの沢山付いたスカートをたくし上げ足を高く上げる“フレンチカンカン”だ。前座の奇術やバンド演奏(この時は観劇者も中央に張り出したステージでダンスが出来る)がしばし続きこの間、観客は食事(メインはサーモン、シャンパンが二人に一本付いた)をする。食事の片付けが終わるといよいよ本番、スマ-トな体型だがグラマラスで艶やかな踊り子たちによる絢爛豪華な踊りが繰り広げられる。最後は三色旗を彩った衣装(スカートの内側やストッキングのガ-ターまで三色)を付けて踊るカンカンで締めくくる。
表へ出ると次の部(11時から)の入場者で通りはいっぱい。この辺りは悪所(ピガール;パリ版新宿歌舞伎町)も在って明るい時間以上の賑わいだ。
“これぞパリの夜”を満喫、帰りはホテルまで送ってくれ所要時間は4時間半、食事付で170ユーロは納得!であった。
写真はクリックすると拡大します)

(次回;パリ;つづく;ルーヴル)

2014年2月11日火曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(30)



20.パリ-6;エッフェル塔から廃兵院へ
この日の午後讃岐うどんを食した後は一応エッフェル塔に上る予定にしていた。先ずオペラ駅へ戻り、ここから南東に向かう地下鉄8号線に乗り、セーヌの対岸ラ・モット・ピケ・グルネル(アメリカ独立戦争に参加した海軍提督名)で6号線に乗り換える。この間の駅名には、アンヴァリッド(廃兵院)、エコール・ミリテール(陸軍士官学校)など軍にゆかりの駅名が多い。6号線の終点は凱旋門駅(エトワール)、エッフェル塔の最寄り駅はビル・アケムなのだがぼやっとしていて一駅乗り過ごしてしまう。しかし、幸いここら辺は地下鉄が地上を走っており、次の駅(パッシー;この一帯はパリ市内有数の高級住宅街)に向かう間、セーヌを渡る際、パリのランドマークは目の前に確り見えていたので、チョッと距離はあるがパッシーで降りてそこから歩くことにした。丁度地下鉄の鉄橋と並行して橋(ピル・アケム橋)があり橋の上は写真撮影におあつらえ向き、ケガの功名であった。
一旦ビル・アケム駅に出てそこから三々五々塔に向かう観光客らしき人々に前後しながら付き従う。駅近くの商店街を過ぎると、左側(西側)はセーヌに沿う公園、右側もエッフェルまで続く大木の並木道になる。しばらく進むと塔直下の大広場に出る。そこで見たのは、広場を埋める大勢の観光客と塔に上るための長蛇の列である。43年前この塔に上ったのは休日(多分土曜日)の昼前だったが直ぐにエレヴェータに乗れたのですっかり油断していた。待ち行列の動きを観察していると遅々として進まない。この日は夕刻(7時半マイバス集合)からムーランルージュ観光がある。それにここまで来たらナポレオンの棺を納めた廃兵院(アンヴァリッド)も観ておきたい。急遽予定を変更、塔に上るのは最終日の朝一番とし、先ず徒歩で廃兵院に向かうことにする。
そこへ行くには、エッフェル塔の南東に開けるシャン・ド・マルス公園を抜け陸軍士官学校前を左に折れて直進すればよいことが地図では分かっていたし、以前来た時も同じルートで移動している。しかし、これが簡単ではなかった。例の放射状道路に何度か方向感覚を狂わされ、日差しの強くなった道で何度かフランス人に地図を見せながら、現在位置と向かうべき方角を確認する羽目になってしまった。途中のコンビニで冷たいミネラルウォータを求め、小公園の木陰で一休みして何とか目的場所に辿りつくことが出来た。
あのヴィクトル・ユーゴの小説「ああ無情」にも登場する“廃兵院”と言う言葉を子供向け世界名作全集で見たとき「これは何だ?」との疑問が先ず起こった。傷痍軍人が電車内で物乞いをしている時代だったから、そういう人達の収容施設と言うイメージで理解して物語を読み進んだ記憶がある。“アンヴァリッド”は英語のinvalid(病人)と同じだから意味としてはほぼ間違いないのだが“廃兵”がもっと暗い感じを与える。
現在のアンヴァリッドは、軍事博物館・ナポレオンの墓(棺安置所)それに“廃兵院”から続く病院で構成されている。だから軍事博物館の回廊には“静かに!”の注意書きがところどころに置かれている。
ナポレオンの墓所は敷地南面の中央に別棟のドーム教会があり、そこの半地下に安置されている。飴色の巨大な大理石で出来た棺を一階回廊から見下ろすようになっている。姿かたちが見えるわけではないが、あの英雄がここに納められていると思うとある種の感動が沸いてくる。
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(次回;パリ;つづく)

2014年2月5日水曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(29)


20.パリ-4;ヴェルサイユ宮殿-2
パリの都心部から何故こんなに離れた場所に、避暑や狩猟のための離宮ではなくい本格的な宮殿を造ったのか?これには二つの理由があるようだ。一つはルイ14世が10歳の時体験したフロンドの乱(5歳で即位したが、母后と摂政が政治を取り仕切る。これが悪政で貴族の反乱を呼ぶ;フィクションだが三銃士が活躍;平定して絶対王政確立)の再現を恐れパリから離れたこの地に宮殿を設営し、貴族に一定期間この宮殿に留まるようにした;フランス版参勤交代のためである。もう一つは、当時王侯貴族の間で宮殿建設ブームが起こっており、誰にも負けない宮殿を造りたかったことも動機の一つだと言われている。
海抜がセーヌ河よりはるかに高いので、そこから水を引くため揚水機やローマ式水道を建設、膨大な木々を植え替えて庭園を造った。その手間のかかった運用(例えば噴水)仕掛けと、手の込んだ装飾で観る者を圧倒する豪華絢爛な宮殿でひと時を過ごすとき、17世紀(完成1682年;5代将軍徳川綱吉の時代)における彼我の財力・権力の差を痛感させられる。
宮殿は敷地の隅の一部にしか過ぎないが、庭園を含めた敷地面積は約百万平米。ツアーは⒑時に入り建物の主要な部分(礼拝堂、王や王妃の居住区、鏡の間など)の一部を足早に観て回るだけだが、それだけで1時間半位かかる。庭園を回るツアーはさらに3時間ほど要するので、半日ツアーでは宮殿前の広大なテラスから、文字通り幾何学模様で形作られた周辺のフランス庭園と遥か下方に在る十文字型に掘られた運河を観るくらいの時間しかない。運河のさらに先に在るいくつかの離宮(その一つはルイ16世の妃、マリー・アントアネットのために後年造られた;案内には宮殿から徒歩40分とある!)など残念ながら垣間見ることさえできなかった。
来た道を戻り環状道路に入ると北西の方面に高層ビルが林立する地域が遠望できる。パリの中心部の建物はほとんど19世紀に整備・建設された石造りのビルで、近代的なオフィスビルは見かけない(高さ制限37m)。一寸違和感を覚えるその一帯が新開発されたオフィス街なのだ。歴史的遺産と現代の共存、この辺りは奈良・京都も学んでほしい(が既に京都は景観破壊かなり進んでいる)。
環状道路からセーヌ河に沿って東に向かう道路片道3車線あるが相変わらず大渋滞。ルーブルに近づいた辺りでトンネルに入る。ガイドが「ここがダイアナ妃が自動車事故で亡くなった所です」と説明してくれる。少々のスピードで死亡事故が起こるような場所とはとても思えない。「やはり陰謀なのだろうか?」
ノロノロ運転はマイバスのオフィスまで続く。その間ガイドが昼食場所の案内をしてくれる。昨日周辺探訪で気が付いてはいたが、やはりこの辺は日本人が集まるところらしく、ほとんどのカフェ、レストランには日本語メニューがあるし、日本料理の店も多いようだ。その中に最近パリのグルメの間で人気の高いうどん屋が在るという。今回の旅行では今まで一度も日本食を摂ることはなかったが、午後の観光のためにはあまり昼食に時間をとりたくない。早速そこへ出かけてみた。「SANUKI」と言う名前の店はその名の通り、讃岐うどん専門店、テラス席、テーブル席、カウンター席があるカジュアルな店には昼時と言うこともあり、日本人客以外にも白・黒・黄入り混じって大いに繁盛している様子だ。店員はすべて若い日本人。麺もつゆまったく本土と変わりはない。久しぶりのきつねうどんに舌鼓を打った。
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(次回;パリ;つづく)

2014年1月29日水曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(28)


20.パリ-4
102日(水)薄曇り。ツアーの現地プログラムは本日の朝食で終わり、夕方まで自由行動で7時過ぎホテルから準備された専用バスで空港に向かう。我々はさらに2泊するので、朝食の場で見かけたメンバーや添乗員のOSNさんにお別れの挨拶をする。こちらはこれからがパリ観光本番である。今日は午前中のヴェルサイユ宮殿訪問と夜のキャバレー“ムーランルージュ”でのショー見物。その間午後はエッフェル塔にも上る予定にしている。
ヴェルサイユ行はマイバスのオフィスを8時半に出発となっているので、早目に朝食をとる必要がある。レストランでツアー・メンバーであることを告げたが、受け付けは怪訝な顔をして「あなたの部屋番号は登録されていない。有料になるがいいか?」言う。「(延泊がらみの行き違いと思い)OK」と答えて食事をしていると、後から来たメンバーも何やらトラブッている。「取り敢えず有料でOKと言えば食べられますよ」と助言。案の定帰り際に「サインは必要か?」と問うと「フロントの手違いでした」の返事で1件落着。
早朝のサン・ラザール地下鉄駅は通勤客が激しく動き回っている。東京と変わらぬ光景だ。車内の状況も同じで、スリに気を遣う。オペラからマイバスへの道もサラリーマン・OLが足早に歩いている。朝から遊びの身分が申し訳ない。
マイバス・オフィス前からは市内半日ツアーや遠いモン・サン・ミッシェル(砂嘴の先の古城)行など沢山のツアー・バスが出発するので行先別にまとめられる。ヴェルサイユ宮殿観光に向かう客は30人弱おり二人のガイドが付くことになっている。二人(男女)とも日本人である。
オフィスを出ると(実際の出発は9時少し前)、ヴェルサイユ宮殿はパリ西方15㎞位の所に在るので、バスはシャンゼリゼ大通りを北西方向に進む。凱旋門広場の大ロータリーは朝のラッシュで大渋滞、通り抜けるまでの運転ぶりは一興であった。しばらくそのまま西に進み環状道路に入り反時計回りに走る。右側には鬱蒼としたブローニューの森が広がるのだが、ここも大混雑だ。少し流れが良くなるのは環状線を出てA13と言う西へ向かう自動車専用道に出てからだ。セーヌの右岸に沿う道からの地形は河から南斜面になっており、高級住宅地として人気のあるところらしい。やがてバスはA13を降り南へ向かう一般道に入るともうそこは宮殿に近い市街地になり、少し進むとバスの降車場になる。ここから直接宮殿は見えないので、あの広大な宮殿が間近にあるとはとても思えない。しかし、通りを抜けて宮殿広場に達すると、黄金に輝く門扉や屋根が目の前に現れ、その大きさと煌びやかさに圧倒される。聞けばこの宮殿は2007年まで大がかりな修復工事が行われており、金ピか塗装はその一端なのだそうだ。
43年前のパリ観光ではとてもここまで出かけてくる時間はなかった。今回のパリの目玉の第一がここを訪れることであった。何を観たいのか?無論ルイ14世が50年かけて作り上げた世界最大の宮殿そのものに惹かれたことも大きいが、現代史のターニングポイントとなった第一次世界大戦終結の条約調印(この条約の不備が第二次世界大戦を惹起したと言える)が行われた“鏡の間”で往時を偲んでみたかったのである。
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(次回;パリ;ヴェルサイユ;つづく)

2014年1月25日土曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(27)


20.パリ-3
シャンゼリゼ大通りのカフェテラスでサンドウィッチとコーヒーで遅い昼食を摂りながら、目は自然と通りを走るクルマにいく。これはどこに居ても同じだ。そして「オッ!」と思わず発する。なんとプリウスのタクシーが走ってきたのだ!花のパリでトヨタのハイブリッドにお目にかかるとは思ってもいなかった。
フランスへ来てどこを走っていても、どこに居ても日本車が気になっていた。ルノーとの関係か日産車が比較的多いが、トヨタ、ホンダを合わせてもルノーやプジョー、それにドイツ車に比べるとその数は少なく、むしろ韓国車の現代や起亜の方が目立つくらいだった。無論今までプリウスは一度も見ていない。しかし、通りを眺めているとその数に驚かされる。“フランス人は合理的”とはよく言われていることだが、確かに渋滞の多いここパリの中心地では燃費の良さが商売に影響するのだろう。自分で日本式HV車(電気自動車)を持つ気はないが、ちょっとうれしい気分になる。
やっと腹を落ち着けると、再び大通りを南へ進む。ブランドショップや43年前訪れたキャバレー“リド”などを眺めながらコンコルド(和合)広場に出る。ここのランドマークはナポレオンがエジプトから持ち帰った(奪った)オベリスク、それを背景に記念撮影する種々の人種の観光客でにぎわっている。元々は18世紀にルイ15世広場として造れたがフランス革命後革命広場となり断頭台が設置され、さらにのち現在の名前になった。遥か先にはもうルーヴルの一角も見えている。凱旋門からここまで地下鉄の駅は4つある。途中で食事休憩したとはいえ一寸くたびれたので近くの公園のベンチで一休み。
コンコルドも地下鉄が3本交差する大きな駅だ。今度は8号線に乗って二駅目のオペラに向かう(本当はピラミッド駅が一番近いが、乗り換える必要がある)。マイバス社(JTB系)の営業所はピラミッド通りに在るので、駅で降りると目の前のオペラ座とは反対側にオペラ大通りを歩く。カフェ、ブティック、土産物屋、携帯電話店、パン屋・菓子屋、銀行などのオフィス、この通りはシャンゼリゼほど広くはないが、それでも賑やかさはそれに劣らない。
パリの町は凱旋門の大ロータリーを中心に放射状に道が出来ている。各道路にはまた少し小規模はロータリーが在って、そこからさらに放射状の道が分かれるので、格子状の感覚で歩いているととんでもない所に行ってしまい、自分の現在地さえ分からなくなる。それでも何とか無事マイバス営業所にたどり着けた。日本人観光客が集まるのでレストランなどは日本語の看板を掲げているところもある。
これから何度か利用する現地ツアーの集合場所を確認して、あとはオペラ座を経由して徒歩でホテルまで帰った。だいぶオペラ座とホテルを中心に土地勘が出来上がってきた(と思った)。今夜のディナーはオペラ座に近い日本語メニューもあるというカフェレストランにしよう。さすがに歩き疲れ、ホテルの自室でしばし休憩。
夕食に出たのは7時半過ぎ、オペラ座までは迷うはずはなかった。しかし、ショートカットと思った道は例の放射状道路、一旦暗い通りに入り込むと、あとはどこにいるのか分からない。焦って近くの明るい通りに出るとさらに分からなくなる。やむを得ずカフェレストランで英語の分かるギャルソンの居る所で何とか生ビールと夕食にありついた。帰りはサン・ラザール駅を目指して何度か通行人やカフェでその駅名を連呼しながら10時過ぎ帰り着いた。緊張のパリ第一夜はこうして終わった。
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(次回;パリ;つづく)