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2025年10月4日土曜日

満洲回想旅行(21)


21.旅を振り返り

お詫び;2~3日毎にと宣言しながら半月以上休止していた「満洲回想旅行」を再開します(と言っても最終回ですが)。申し訳ありませんでした。

 


満洲には1939年1月に生まれ1946年9月まで滞在した。長い人生から見ればたった6年強の短い期間である。しかし、この短い時間が私の人生に及ぼした影響は、計り知れない。この歳になり再び満洲を訪れることが出来る経済状態にあるのも、満洲滞在とそこからの引揚げがドライビングフォースとなっているような気がしている。


はっきり断片的な記憶が残るのは、1942年妹の出産で母と実家に帰京した時以降の4年間。今回の旅は、それをたどるセンチメンタルジャーニー、関心事は新京(長春)と新京-大連間の鉄道の旅(厳密には在来線と高鉄(新幹線)は路線が異なるが)。この点に関して、完全に期待通りではなかったものの(旧居付近を訪れたかった)、「出かけてきて良かった」と結論づけられる。


新京観光は実質半日強に過ぎなかったが、素晴らしいガイドに恵まれたこともあり、往時のあの場面この場面を思い起こすことが出来たし、その後を知りたいと思っていた、場所;小学校・建設途上の宮廷府・城内と呼ばれた満人街・ヤマトホテル・三中井デパートについて、立ち寄る機会や詳細情報を得ることができた。また、往時訪れたことのない官庁街を今回巡ることが出来たのは収穫。改めて首都作りの壮大さを再確認した。


鉄道は大連-ハルビン間を往復、じっくり観察出来た。母との帰京時見たハゲ山、引揚げ列車の左右に広がる赤茶けた荒地しか記憶になく、今回それが地平線まで続く緑になっており、驚かされた。記憶違いであろうか?水田はまったく見かけられなかったが、明らかに全面耕作地である。もともと地味豊かな土地であったものを、新生中国が再開拓してきたに違いない。


大連・瀋陽(奉天)・長春(新京)・ハルビンには日本統治時代の大広場が残り、周辺の建物もリノベーションされそのまま使われ、その後に建てられた高層ビルと調和して、時代の変遷を楽しむことが出来た。建物やクルマを見る限り、かつての貧しさをうかがうものは皆無だ。反面、中国に限らずアジア全般に見られる猥雑で活気のある繁華街(日本ならアメ横)は見受けられず、いささか寂しい気がしないでもなかった。


朝食はホテルのビュッフェなので代り映えしなかったが、昼食・夕食はハルビンのロシア料理(夕)と瀋陽の朝鮮料理(昼)を除きすべて中華、海鮮・餃子・お粥・串焼きなど多様、味も全般に薄味で、個人的には好みだった。ただ、量と種類の多さには圧倒され「もったいない」とさえ思えるほどだった。


観光ツアーでは景観も重要。しかし、旅順を除けばこの点では見るべき景色は皆無。要するに高い山も深い谷もなく、ただただ広大な大地が見渡す限り続く、日本との違いは決定的だった。思い返せば、満洲で美しい景色に打たれた記憶がなかっただけに、引揚げ船から見た博多港近くの白砂青松が強烈な印象として蘇る。


史跡も旅の大きな楽しみの一つ。今回書物などから想像していたものと異なっていたのは、日露戦争における旅順攻防戦、ロシア軍のトーチカの造りである。これほど頑強なものとは思っておらず、当に「百聞は一見にしかず」通りであった。一方で、最終的に太平洋戦争に至る、満州事変関連の史跡、例えば張作霖爆殺あるいは事変のきっかけとなる柳条湖事件(満鉄路線爆破)の現場(いずれも瀋陽駅周辺)を訪れることはなかった。もしかすると、意図的にそれを避けているのかも知れない。


大方の海外ツアーでは何かしらエンターテインメントが組み込まれる。民族舞踊・音楽などがそれらだが、今回はそれも全くなかった。満洲固有のその種の文化はない、と言うことだろうか?両親が満洲の芸能に関して話をすることがなかったところをみると、そうなのかも知れない。

ツアーの付きものでもう一つなかったのが、土産物店への案内である。これは帰国後知るのだが、このツアー(阪急交通社クリスタルハー)は、中国ばかりでなく、すべてのコースで、これを行わないことを特色の一つにあげている(この他少人数(今回15名)も)。この歳になって記念品を買おうという気もない私にとり、好ましいシステムだった。ただし、菓子など食品類に関しては、大連のガイドで全行程添乗員補助だった孫さんがカタログ販売のアルバイトをしており、選択肢は少ないが私もこれを利用、最後の大連でそれを受け取るので、荷物にならず助かった。


このコースは、5月に2回、今回参加の6月、それに9月と年4回実施。3月時点で5月は既に満杯、6月もキャンセル待ちで滑り込んだ。5月は“大連のアカシア”が売りなのだろうが、格別興味はなかった。9月は“柳条湖事件”の月(18日彼の地で記念行事が行われたことを新聞で知った)。結果として6月は好ましいと思っていたが、今年の猛暑は満洲も同じ(海が遠いだけに一段と厳しい)、暑さには参った。自由時間は日陰を探して休養ばかり、「これが最後の海外ツアー」を自ずと納得した。

 

最後は少々時間がかかりましたが、長く閲覧いただき有り難うございました。

 

-完-

写真は上から; 満洲全図、当時の新京地図、旅順東鶏冠山要塞、旅順港入口、瀋陽駅前広場、三中井デパート、宮廷府、旧官庁利用(吉林大学基礎医学部)、春巻き料理、ハルビン大聖堂

 

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2025年9月16日火曜日

満洲回想旅行(20)


20.大連へもどる


駅の表示板を見ると、乗車予定の高鉄哈大(ハルビン-大連)線列車の始発駅名に双鴨山西とある。聞いたことのない名前だ。帰国後調べてみると双鴨山市は佳木斯(チャムス)よりさらに北東、中ロ国境に近い。日本統治下では国の出先機関や軍の施設もなかったよう辺境の地だ。チャムスはソ連侵攻で惨劇が起こった三江省(当時)の省都。この列車はそこから大連北まで約1200kmを駆け抜ける。ハルビンは途中乗車駅、ここから大連北までは約930km、東京駅から東海道・山陽新幹線を乗り継ぐと広島・山口の県境に達する。13時42分ハルビン発で大連北到着は17時58分、およそ4時間、平均速度は230km/時、我が国新幹線とこれは変わらない。ただ国土の違いは大きく、勾配やカーブの緩い満洲の高鉄はもっと高速で走ることが可能だろう。もっとも冬期はマイナス40℃に達するから、別の問題があるだろうが。


こんなことが気になり高鉄と新幹線の路線敷設状況を比較してみたところ、カーブの最小半径は高鉄が通常
9000m、新幹線は4000m、東海道新幹線の米原付近は2500mとやはり我が国は厳しい。また勾配は高鉄が通常12‰(パーミル;1000mで12m)、東海道新幹線は最大20‰、北陸新幹線の高崎・軽井沢間は30‰に達していることが分かった。


大連からハルビンまで3回高鉄に乗ってきたが、今まではすべて通路側だった。しかし、今回は4F、つまり進行方向右(二席)の窓側が割り当てられた。多分これは添乗員の、満洲生まれの私に対する配慮だろ。多謝!

1000km近く車窓の景観を楽しめる、と思ったが、さにあらず。当然のことながら往路と同じ、一面ほぼ真っ平らな緑野と都市郊外の高層アパート群、高鉄の駅は在来線と別に新設された所が多く、駅周辺もかつての新横浜のような殺風景な感じだ。このどこまでも代わり映えしない景観こそが新幹線との大きな違いである。新幹線も在来線と比べ味気ないが、それでも山もあれば海や川もある。高鉄にトンネルは8本しかなく、最長は大連近くの九里荘トンネルの10km。河を渡る鉄橋は一度しか気づかなかったが、ほとんど全線高架で小さな川は鉄橋など不要。満洲の高鉄では小学唱歌「汽車」にあるような、「今は山中 今は浜、今は鉄橋渡るぞと、・・・、変わる景色のおもしろさ、見とれてそれと知らぬ間に、早くも過ぎる幾十里」とはいかず、「見飽きてそれとしらぬ間に、居眠り誘う幾十里」となってしまった。


ハルビンを発ったときは止んでいた雨が瀋陽辺りで激しくなり、遼陽まで続いたことも車窓の楽しみを奪ってしまう。この乗車で期待したのは、往路でも触れた1942年妹出産準備で母と東京の実家に行くとき記憶に残る、大連近くで灌木が所々に生えるはげ山である。在来線との違いはあるものの、大連とはかなり距離のある営口付近で、そんな風景が煙霧の中に出現、あの時の時間・距離感とは違いがあるものの、多分これがそうだろうと納得することにした。大連北駅到着は定時、雨だった。


ホテルのチェックインでトラブル。指定された部屋へ入ると、散らかったままだ。フロントに降りると幸いガイドの孫さんが居たので、即対応してもらい、グレードアップの別室(7Fから15F)となったが、特に大きな違いは感じなかった。この日の夕食は事実上の解散式、ホテル内のレストランでバイキング、飲み代もツアー料金込みである。それを済ませ部屋へ戻ると果物が何種か置いてある。しかし、これが酷かった。ぶどうは皮が固いし、リンゴは酸っぱく水気がない、一口でやめにした。部屋サービスミスのお詫びなのだろうが、一度客に供され、残されたものを持ってきたような気がして、まずまずだった満洲シャングリラの評価を最後に落とす結果になった。ただ、翌朝の朝食で、いつもは空席を自分で見つけてセルフサービスだが、この日はレストランの受付にキーを示すと、丸い5人用テーブルに案内され、最後まで誰も同席することがなかった。これも罪滅ぼしだったのだろうか?

 

写真は上から; 満洲全図(双鴨山市にマーク(赤線))、ハルビン駅へ向かう同行メンバー、駅表示板(北京行きもある)、列車到着を待つメンバー、ホテル自室からの眺め(土曜日早朝)

 

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(次回;旅を振り返り;最終回)

 

2025年9月13日土曜日

満洲回想旅行(19)


19.ハルビン観光-3


6月27日(金)晴。明日朝は大連のホテルから空港へ直行だから、この日が最後の観光である。列車は13時42分発だから実質午前中のみの観光。先ず出かけたのは黒竜江省博物館、元々はロシアのデパートだったものを日本統治時代博物館に転用、共産中国になってもそれが継続された保存建造物である。何カ所かの都市で博物館を見物したものの、地方史を知る上ではそれなりの価値はあるものの、国内を含め、個人的には科学博物館や交通博物館にしか興味のない私にとっては時間の浪費に過ぎなかった。むしろ、この博物館が在る紅博広場(日本統治時代は単に大広場)周辺にかつて存在し、対ソ諜報活動の拠点であった、日本総領事館や陸軍特務機関のその後を知りたかったが、それは叶わなかった。と言うのも、このツアー参加以前に読み終え<今月の本棚-203(2025年9月12日6月)>で紹介した「消された外交官宮川舩夫」の舞台だったからである。宮川総領事は最後の総領事として日ソ停戦交渉に臨み、外交官でありながらモスクワに連行され獄死(スパイ容疑、ソ連崩壊後名誉回復)した人物。まあ、近くを訪れることが出来ただけでも良しとしよう。


次に訪れたのは中華巴洛克(バロック)街。ここは面白い歴史を残す場所。ロシア人の街を見よう見まねで中国人が作った街、一見外観は西洋風ながら、ファサードをくぐり中庭(四合院)に至れば中国そのもの、建物もよく見ると華洋折衷。中華巴洛克とはよく名付けたものだ。建物の銘板などを見ると漢字・キリル文字・ローマ字混在、ある意味ハルビンが古くから国際都市であったことの証になっている。

実は、一時期かなり荒廃した街になったようだが、2000年代半ばからハルビン市政府によって修復・保護事業が進めら

れ、「老道外中華バロック歴史文化区」として再開発が進み、観光スポットとして再興した場所、現在もリノヴェーションが進められている。


このあとは昼食。比較的駅に近い、何か街全体が安っぽい感じのする所で食した。店の名前は「老昌春餅」、意味からすると春巻き店だが、食したのは普通の中華の印象だった。この名前他所でも何回か見かけたのでチェーン店かもしれない。バスに乗ると雨がぱらついてきた。今度の旅で初めての雨だ。幸い駅前の駐車場に着いた時にはほとんどやんでいた。



 

写真は上から; 中華巴洛克街入口、市歴史建造物銘板、百年老店ビル入口、四合院(中庭)、キリル文字・漢字併記のビル、華洋折衷の街並み

 

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(次回;大連へ戻る)

 

2025年9月9日火曜日

満洲回想旅行(18)


18.ハルビン観光-2


この日は太陽島から始め、大聖堂、スターリン公園、キタイスカヤ通りと、ロシアの面影を追う観光だった。日本の統治で少々変わったとはいえ、ハルビン最大の見所が“ロシア”であることは確かだ。バスで移動し、名所各所で30分から1時間程度の散策をするのだが、歩き回るのが辛い。すぐに日陰と座れる場所を求め、そこでぼんやり人の動きを眺めて集合時間までを過ごすような体たらくだった。旅順で東鶏冠山や二〇三高地を巡ったのとは大違いだ。これは体力低下が第一ではあるが、暑さがそれ以上に影響している。北上するに従い気温が高くなってきているのだ。この日は一通り市内観光が終わると、一旦ホテルに戻り、しばらく休憩ののち夕食に出かけるスケジュールになっていた。部屋へ戻ると冷蔵庫キャビネットの上の棚に、ミネラルウォーターが4本置いてあり、漢字で書かれた手書きのメモが添えてある。おおよその意味は「このところ異常な暑さが続いており、役所からも防暑対策に関し警告が出ています。そのためいつもは2本のミネラルウォーターを用意していましたが、今日は4本にしましたのでお使いください」である。ここも異常気象、へばるわけだ。


この日の夕食は今までとは一風変わった串焼きの店「那些年(ナー・シエ・ニェン;懐かしいあの頃)」で摂った。レストランというより大衆酒場の趣だ。スープは別にして、焼き鳥は無論、牛・豚・ソーセージ、淡水魚・野菜類、あらゆる料理が鉄製の長い串焼きで供される。私の席は調理場の直ぐ横、おじさんとおばさん(オーナーか?)が、若者が持ってくるオーダーを手際よくさばいていく。格別美味しい料理ではなかったが、農耕民族よりは遊牧民族の食事を連想させ、面白い体験だった。

 

写真は上から; 店の入口、看板、店内風景、調理場のおじさんとおばさん

 

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(次回;ハルビン観光 つづく)

 

2025年9月4日木曜日

満洲回想旅行(17)


17.ハルビン観光-1


6月26日(木)曇り。今日はハルビン観光一日目、10時にホテルをバスで出発し、向かうは松花江の対岸(北岸)に在る太陽島。ロシア時代に広大な川中島を整備して造られたた大公園である。平日の午前ではあるがバス駐車場の公園入口近くはすでにかなりの数の観光バスが駐車しており、中国人の観光客が大勢公園入口方面に移動している。入口にはかなり距離のある所から歩行者誘導の柵が設けられているところを見ると、休日はかなり長蛇の列となるのだろう。今日はそんなことはないものの、園内を廻るカート待ちの行列は出来ている。既に旅行社が用意したのであろう、我々は2台のカートに分乗して、園内見学に出かける。


最初の下車地は太陽を模した彫像があり、南側にハルビン市内を遠望する岸辺の小広場、ここから見るハルビンは、例によって高層アパート群の林立する、おなじみの風景だった。次は人工の大きな岩が目立つ池。まるでテーマパークのようで、感心しない。この公園か否かは不明だが、幼い頃の写真には母とボートに乗っているものがあり、ガイドの瀋さんに「ボート乗り場はあるか?」と聞いたところと「ある」との返事をもらったが、この公園では見かけることはなかった。


昼食は市内へ戻り「珍粥道」というレストランで摂った。字から想像できるようにお粥の店である。具はいろいろあり、単品で食べられるものが多く、いつもの中華のつもりで、それを食していると、やがて白米のお粥が出てくる。味はついていないし日本のお粥のように梅干しや塩昆布のような塩辛い具がないので、食塩が欲しくなる。ところが醤油や酢はあっても食卓塩は置いていない。ウェイトレスにオーダーすると、一瞬怪訝な表情をして、小皿に塩を盛ったものが供され、皆でそれを回して食した。中国人はお粥を白米のご飯と同じような食べ方をするのかも知れない。


午後の観光はいよいよ“ロシア”。最初は聖ソフィア大聖堂、周辺もロシア時代の建物が多く、赤いクレムリン(城塞)はないものの、大聖堂のタマネギ屋根などチョットしたモスクワ赤の広場の雰囲気だ。大聖堂内は見学不可だが、結婚式のカップルが何組も順にその前で写真を撮っている。若い人に人気の場所のようだ。


広場付近にはロシア時代の由緒ある建物もあり、しばし与えられた自由時間を使って見学をと思ったが、暑さは半端ではなく、ベンチにへたり込んで、ミネラルウォーターを飲みながら、専ら広場を行き交う人々を観察することで終わった。


このあと松花江沿いに長く延びるスターリン(斯大林)公園の一画で、この河をまたぐ長大な鉄道橋、松花江特大橋の袂で小休止、古い橋(1903年建造、現在は観光用)と新しい橋(2015年)が並走しているところを観光する。


次は、100年以上前にロシアが建設・整備したキタイスカヤ(中国人の意)通り(中央大街)。全長1.5km、幅22m、道路全面敷石の見事な通りである。かつては“東方のパリ”とも称され、往時は馬車が往来したのであろうが、今は歩行者天国になっている。古い建物がリノヴェーションされ、現在は通りそのものが、市による保存地区となっている。道路を掃除するおじさん・おばさんによって、ゴミ(見ているとアイルクリームの棒が多かった)は即座に回収される。ここには日本統治時代デパートだった松浦洋行のビルも残り、観光サービスセンターとして利用されている。

大聖堂広場同様ベンチで休んでいると添乗員補助の孫さんがやってきて「どうですか、この通りを行き来する若い女性は?」と聞いてきた。彼に言わせると中国人の女性は北へ行くほど美しくなるのだという。通りでじっくり通行人を観察したのは瀋陽以来、格別それと差があるとは思えなかったが、日本でも秋田や新潟は美人の産地と言われることを思い出した。


 

写真は上から;ハルビン地図、太陽島カート、太陽島シンボル(市内遠望)、人工岩と池、レストラン珍粥道、大聖堂、大聖堂広場近景、スターリン公園から望む新旧鉄道橋、キタイスカヤ通り(旧松浦洋行付近)、おじさん掃除夫、旧万国洋行(商店街)

 

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(次回;ハルビン観光 つづく) 

2025年9月1日月曜日

満洲回想旅行(16)


16.ハルビンへ


長春駅改札で今回の旅行で初めてのトラブル発生。夫婦で参加している一組が入場チェックで止められる。大連から同行の添乗員補佐孫さん、長春ガイドの艾(アイ)さんが

改札駅員に抗議するが頑として受け付けない。どうやら「駅事務所へ行け」と言っているようで、時間が迫る中二人はどこかへ消え、しばらくして戻り、二人の入場が許される。あとで聞くと、二人の内のどちらかのパスポートに、他国に旅した際入出国スタンプに不備があったことが原因だったらしい。こんなことは珍しいが、入国時ならともかく、ここまでの過程で一切問題にならなかっただけに、孫さんや艾(アイ)さんにも納得できない突発事故だったようだ。民営化前の国鉄も、いかにも公務員然とした職員がいたものだが、下僚役人ほど小さな権力を振りかざす。そんないちシーンだった。ハルビン経由チャムス行きの高鉄は14時26分、正確に長春駅を発車した。


今回訪れた5都市(大連、旅順、瀋陽、長春、ハルビン)の内、旅順以外は戦前一度は滞在している。住んでいた長春、引揚げ途上1カ月近くとどめ置かれた瀋陽、1942年の一時帰国でかすかに風景が思い浮かぶ大連近郊、ここまでは「そこに居た記憶」が残る。しかし、ハルビンを訪ねたのは1939年夏、まだ8ヶ月の赤ん坊、母に抱かれて写した写真が数葉残るだけだ。この時は、母の末弟が旧制中学の夏休み来満、両親が彼をハルビンに案内している。叔父の最晩年「僕が訪れた時はハルピンと言っていたが、最近はハルビンと呼んでいる。どちらが正しいんだろう?」と尋ねられ、答えに窮したことを車中ぼんやり思い出す(駅の英語表現はbであった)。


記憶に全くない地方に踏み込むので、景観の違いに注視したが、見渡すがぎり続く広大な平地はそれ以前の沿線風景とまったく変わりなく、あらためて満洲という土地の特質を印象づけられる。

列車の外観はそれまでと大差ないものの、車輌内装は丸味を持った部分が多くソフトな感じを与える。16時06分列車は定刻にハルビン駅に到着した。迎えてくれたのは日本留学も経験している女性ガイドの瀋さん。ホテルは駅北西の松花江沿いに在るのでバスで移動、チェックインし夕食まで休憩となる。部屋は9階で見晴らしは良いが、残念ながらリバーサイドではなく街や駅を見下ろす位置にあった。それまでのシャングリラとの違いは初のツウィンベッド・ルームだったくらい。


夕食にはバスで「龍門貴賓楼酒店」なる所で摂った。実は駅の南側に在るハルビン・ヤマトホテルのレストランである。赤絨毯が敷き詰められたそこは当にクラシックホテルそのもの、部屋は我々貸し切り、ロシア料理のフルコースが供された。今回の旅は朝食を除けば、種類は多々あったものの、すべて中華料理。初めての洋食である。しかし、料理も味も今ひとつ、ロシアの雰囲気さえ感じない内容、ただの三流洋食フルコースだった。赤ワインの小瓶が100元(2000円相当)だったのも、評価を落とした。

ハルビンは大連同様連泊。ホテルへ帰ると洗濯に励むことになる。

写真は上から;長春駅改札、ハルビン駅、生後8ヶ月のハルビン、ヤマトホテルの食事会場

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(次回;ハルビン観光)

2025年8月27日水曜日

満洲回想旅行(15)


15.長春観光-2


官庁街車窓見学のあとは長春駅の西に位置する青浦路(この辺りは来たことが無い)に在る「峰記小油餅老菜館」(小油餅;揚げパンを意味するがクレープのこと推察。老菜館;昔ながらの料理を出す食堂の意)という春巻きレストランで昼食となった。春巻きというので中華でよく出てくる、油で揚げたパリッとしたものを想像していたが、その予想はまったく違っていた。基本的にベトナム料理の生春巻きと同じ。違うのはベトナムはクレープ(薄い巻き材)に米粉を使い、ここは小麦粉であることだ。さらに、この店のクレープは薄手と厚手の二種類あり、具材との組合わせを楽しむのが、美味しく食べる秘訣とのこと。率直に言って、私にはその差は分からなかったが、昼食としては軽くて、今までで最も好ましいものだった。


食事が終わったあとしばらく時間があったので、ガイドの艾(アイ)さんと話す機会があった。その際「昔の記憶を思い起こすにはもう少し時間が欲しかった」と語ったところ、「次回は是非個人旅行で」と名刺を渡してくれ、このメールアドレスに日本語で連絡してもらえば万事整える、との返事が返ってきた。大いに惹かれる提案だが、「もう無理だろうな~」が率直なところである。


長春最後の訪問場所は新京駅前に在る旧ヤマトホテル(春誼賓館)、ここは瀋陽同様現役として営業している。バスから下車し、ロビーを中心にしばらく見学の時間があった。子供の時分(就学前)何度か訪れているが、宿泊や会食では無く、動物園や公園(多分大同公園)で過ごした帰路、一休みするためロビーに隣接した喫茶室で飲食した程度である。何故か緑色のクリームソーダがショーケースの中にあったことを覚えている(飲みたいと思ったが注文してもらえなかった)。しかし、ロビーと喫茶室の位置関係が記憶と異なっており、単なる勘違いかとも思ったが、艾(アイ)さんにそれを確かめてみたところ、ロビー周辺は改築されており、それ以前は私の記憶した配置とほぼ同じだったことが分かった。食事にまつわることは、他のことより強く印象づけられる気がする。


ヤマトホテル見学で長春観光はすべて終わり、バスは昨日高鉄を降りた長春西駅ではなく、間近の長春駅に向かい、ここからハルビンに向かうことになる。

長春の滞在時間は24時間に満たず、ゆっくり見学したのは皇宮博物館のみ、あとはほとんど車窓観光。しかし、艾(アイ)さんのおかげで、新京時代の子供の記憶は確認でき、今回のツアー参加目的は充分達成され、長春が都市計画やその成果を残したまま、さらにきれいに発展していることに満足した。


 

写真は上から、老菜館、料理(左下がクレープ、炒飯には誰も手を出さず)、艾(アイ)さんと、ヤマトホテル全景、ホテル看板

 

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(次回;ハルビンへ)

2025年8月24日日曜日

満洲回想旅行(14)


14.長春観光-1


皇宮博物館見学を12時少し前に終わり次に向かったのは、私が最も訪ねたかった宮廷府、自宅に近い建設途上にあった新宮殿である。この日のスケジュールは、皇宮博物館見学後は、車窓観光で昼食場所へ向かうことになっていた。見所は、関東軍司令部→宮廷府(吉林大学地質宮)→満洲国官庁街の順で、宮廷府の外縁を時計回りに一巡する道程になる。ガイドの艾(アイ)さんは、出発前の私と交わした会話の中で、「宮廷府の一画でバスを止めますから」と言ってくれていた。


関東軍司令部を訪れたことは無かったが、敷地内で火事があり、夜空に火炎が上るのを自宅から眺めた記憶がある。現在そこは吉林省共産党委員会となっており、帝冠様式(和風屋根を載せた洋風建築。九段会館・神奈川県庁・愛知県庁などが我が国にも残る)の建物がそのまま使われている(内部は改装していると思われるが)。次いで宮廷府に向かう。


宮廷府は長春駅から南に延びる人民大街(大同大街)の西を通る東民主大街と更に西にある西民主大街との間にあり、北を半円にした長方形の土地の中に在る(地図参照)。その土地の中央部に新宮殿が建設中だった。しかし、大東亜戦争開戦で資材不足となり、コンクリート打ちっ放しのまま工事は中断、一帯は無人の荒野の感があった。自宅からは小学校へ行くより近かったから、親から禁じられていたものの、ときどき社宅の仲間と一緒に出かけ、冒険ごっこに興じた所である。「バスを止める」の意は、「私のための写真でもとる時間」くらいに考えていたが、地質宮の近くが小公園になっており、トイレもあることから、下車してしばらく散策することが出来た。艾(アイ)さんが同行してくれ、ここから自宅方面の現状を語ってくれた。それによると、戦後しばらくは日本人街がそのまま残っていたが、今は再開発され、跡形も無いとのことだった(写真で黄色いクレーンがある先の方に自宅が在った)。ただ、新宮殿は地質宮として計画通り完成しているものの、それ以外は建物は無く、荒野はそのまま残り、さらにバスで進んでいくと、一部で何かの建設工事が始まっている程度の変化しか無かった。


地質宮の観光では、母が新京出身である、福島から参加のIBAさんと一緒に写真を撮った。お母さんは昭和9年産まれ、丁度小学校卒業時くらいで終戦となっていたはずである。母親が新京出身者はもう一人、栃木から参加のUEKさんという男性がおり、彼のお母さんは、見習い看護師の時代に終戦となったのだが、ソ連進駐前に無事日本に帰国していたとのことだった。UEKさんは「ヤンチョウ(人力車)」「マーチョウ(馬車)」「シューバー(毛皮のオーバー」など懐かしい言葉を知っていた。こんな言葉を聞いたのは引揚げ以来である。しかし、二人とも宮廷府については知らなかった。住んでいたところが違うからだろう。


宮廷府のあとは、その南に整然と並ぶ満洲国時代の官庁街を車窓見学(一部で下車写真撮影)。父は満洲自動車に移る前には経済部(満洲は中国同様日本の省は部と称する)に勤務していたが、そのトップは岸信介次長だった(部長は満人、次長は日本人)。その経済部を始め、文教部、交通部、司法部、外交部そして議会と内閣の機能を併せ持つ国務院などを巡っていった。いずれも建物は帝冠様式、今では吉林大学や地方政府が使用している。実はこの官庁街は私にとって初体験、あらためて新京市都市計画の素晴らしさを実見することになった。

 


写真は上から、新京地図、関東軍司令部、宮廷府全景、IBAさんと、宮廷府工事中の部分、官庁街の一部、国務院

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(次回;長春観光-2)