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2010年1月17日日曜日

決断科学ノート-26(決断の要点-3;政策決定)

 最近の新聞に、“似ているオバマと鳩山政権”と言う記事があり、その中の類似項目に“遅い決断”が挙げられていた。
 民主的な政治が行われている社会の、意思決定の要点は“合意”にある。言い換えれば「政治とは利害関係者の合意点を見つけること」と言っていい。これに関しては、案件の“利害関係者”をどの範囲までとするか、直接議論に参加できない関係者の“参加感(ある種の同意)”をどう満たすかなど、前提とする問題も解決しなければならない。予算作りで見せた“仕分けショー”はこの“参加感”醸成の一こまと言える。
 合意点を見つけると言う行為は、企業経営や軍事行動にも必要であるが、判断基準や権限・序列などが比較的明確なので、時間的に素早い対応が可能になっている(出来ない会社は倒産し、部隊は敗北する。結果も分かり易く早く出る)。
 政治・政策の場合も、意思決定・実施システムは出来上がっている。議員を選び、議会で表決し、行政府がそれを実行する。大統領・首相・首長や党首は、それぞれの組織における最高意思決定者と位置づけられているので、形式的には、一朝有事の際は、限られたスタッフの同意(場合によっては独断)で行動が起こせるようにもなっている。しかし、現実には、実行をスムーズに進めるには、形式的なやり方で、即断出来ないのが政治である。
 国の安全保障政策、空港整備、原子力発電所建設、環境対策からゴミの分別収集まで政治案件は、短時間に合意点に達するのは難しい。その最大の理由は、関係者の判断基準が、置かれた環境・立場や心情・信念によって異なるため、“最適点”を簡単に絞り込めないことにある。
 主義主張の異なる(資本主義と共産主義、民主主義と全体主義)政治的対立はともかく、経済的な対立が主体の場合は、“足して二で割る”や“三方一両損”方式が、
妥協点(合意点)に達する早道だが、経済的な制約(財源)の下で“参加感を満たす”必要もあり、一気にゴールを目指すことは得策ではない。そこに反対者・少数者の気持ちを慮るプロセス(時間)が必要になる。
 わが国の広義の政治システムに、あれこれ(だらだら)意見や考えを語らせる、“村の寄り合い”スタイルがある。不平不満や意見が出尽くしたところで、村の有力者が“落とし処”を提示して全員の合意を得る。決めた者に対する恨みはなく、責任は皆が共同で負う。
 四方が海で囲まれ、気候温暖で、長く外敵に侵略されたことのない上に、鎖国政策(外乱の無い)を採ってきたわが国に最適の意思決定方式ともいえる。小さな村社会だから出来たことだが、近代日本の政治システムにもその遺伝子が今に引き継がれ、依然としてリーダーは、“不満(恨み)ミニマム”の合意形成を目指す傾向が強い。決断に時間がかかる所以である。
 このような環境下に適応する意思決定科学としては、数理手法中心のハードサイエンスより、ゲーム理論やドラマ理論のようなソフト手法(話し合い中心)が適すると言わる。しかし、政治・経済環境変化のスピードは速く、小さな地方政治的課題もグローバルな変化が直ちに影響する時、「よく話し合えば分かってもらえる」「誠実に対応する」ことも重要だが(それにこだわりすぎると、変化に追いつかず、国を誤ることになりかねない)、真に求められているのは、“一部の恨みを買ってでも”決然と断を下し、法令でそれを断固実施する、自らにも強いリーダーシップではなかろうか?
 乱世の政治家の典型、チャーチルは当にこのような人であった。

2009年7月14日火曜日

決断科学ノート-13(政治家の決断)

 “決断科学”の由来は、このノートを始めるに際して紹介した。“Decision Science”の日本語訳である。通常“意思決定科学”と訳されることが多いが、リーダー(政治家、軍人、経営者など)の意思決定には冷徹な判断を伴い、断固実施する強さが必要なので、あえて“決断”とした。自分でも吃驚しているのだが、最近はメディアでこの字を目にしない日は無い。特に昨年の麻生政権誕生以降、異常に多い。しかし、わが国の国政を見る限りそれは“決断”ではなく、専ら“合意形成”である。結果、このための探り合いに時間をとられて、とうとう衆議院解散は当初の予定より1年近く経ってしまった。賞味期限の切れた“お待たせ解散”の結果は如何に?
 軍事や経営に比べ、政治の決断は“合意形成”の度合いが高い。これこそ政治そのものだと言っても良い。また、軍事はともかく、経営でもわが国では全般的に決断の前提としての“合意形成”が重要で“根回し”が欠かせない。“合意形成”重視の国民性の上に乗る、政治と言う“合意形成”の場のリーダーの、容易ならざる立場に同情すら感じてしまう。
 小泉政治の人気も誹謗も、このわが国伝統の合意形成ベースの意思決定に逆らい、個人としての人気に基盤を置いて、一人(無論ブレーンはいるが)で事を断じて行ったところに在ったと言っていい。小泉内閣の最盛時、ある自民党長老政治家が「日本の総理は大統領ではない」とあの独断専行ともいえる政治姿勢に苦言を呈していたが、反対者には刺客を送ってまで潰していく独特の政治スタイルは、政策の是非はともかく、リーダーとして頼もしくさえ感じた。これが大方の国民の思いだったのではなかろうか?彼にそれが出来たのは、一匹狼・奇人変人と言われながら、地方代議員を含む選挙で大勝したことによる。   ここには旧来の長老や派閥による政治力学が効かなかった。

 経験(年功)は貴重な意思決定の因子である反面、変化に対する抵抗が強い。長期間政治家でいることは既得権を守る側に回る。その既得権も支援者や派閥絡みのもので、リーダーの一存では如何ともし難い。既得権で自縄自縛になっているのが今日の有力政治家の姿である。当然見せたくないものがあり、意思決定のプロセスを外から分かり難いものにしていく。数理の出番など全く期待できない(官僚の既得権保持・拡大のために審議会などでは巧みに数字が引用される。また、ゲーム理論やそれを発展させたドラマ理論などは、交渉のテクニックとして存在するが国政の場でどの程度利用されているのか不明)。
 しかし、最近の地方選挙を見ていると、驚くほど政治経験の浅い若者が首長などに選ばれている。今度の都議選でも民主党は素人だらけ、同党の落選議員は比較的ベテランである。この若者たちは、おそらく政策決定にしがらみは少なく、そのプロセスの透明度を上げても醜いものが出てくることはなかろう。合意形成に選挙民の参加感がより高まり、サイレント・マイノリティの一票が生きてくる選択と感じているのではなかろうか。
 ただ、要注意は半ばプロフェッショナル化した政治NPO・NGOが彼ら(彼女ら)を取り巻いており、新たな権益獲得を虎視眈々と狙っている。この点の監視を怠らないことが肝要である。下手をすると今の自・公連立のように“少数決(公明党の意見)”で政治が振り回されることになる。これでは新しい政治を期待した選択も旧に復してしまう。

2009年6月8日月曜日

決断科学ノート-10(リンダマン;チャーチルの科学顧問)

 スタッフに似た感じの意思決定支援者に顧問と言うものがある。スタッフが“組織”の一員(あるいは組織そのもの)であるのに対して、顧問はより個人色が強い。素早い決断を先端・新規課題で求められる時、組織依存型の支援では組織間調整に手間取ったり、部門自身が新規課題を学習するためにタイミングを失することがある。場合によっては、機密保持のためにごく限られ関係者内で回答を得たいことも生じる。こんな時組織から離れたところに、特定分野に優れた知人(ブレーン)が居ると便利である。経営者(特に社長)の多くはこのようなブレーンを社外に個人的に持って、社内スタッフの役割・対応をチェックすることもある。最新技術に関して、このような方法は大変有効である。
 もう10年以上前になるが、他社でこんな例があった。インターネットが普及し始めている時、社長が社外で“イントラネット(社内のように限られた範囲でのインターネット技術利用)”の効用を聞いてきた。その社長にとって“インターネット”のおおよそは理解していたが“イントラネット”は初めて聞く言葉だった。そこで社内の情報システム部門に「イントラネットとはどんなものか?」と聞いたところ、“インターネット”の説明を得々としたというのである。何か違うと感じたこの社長は、社外の知人に質してこの間違えを確認した後、社内イントラネット構築検討を指示したと言う。
 第二次世界大戦は科学技術戦とも言っていい。英米の政治・軍事のトップ(大臣、司令官)の周りに、よく“科学顧問(Scientific Advisor)”と言う職位を見かける。大体高名な科学者(工学部を含む)である。“ORの父”、ブラケットも海軍省、空軍沿岸防空軍団の科学顧問を務め、その影響力は極めて大きかった。彼の場合、目にした文献・書籍で見る限り、いずれの組織でも軍人や政治家と問題を起こすようなこともなく、現場の信頼は厚かった。これは彼がその立場をよく心得、“政略・理念(大戦略)”の世界に踏み込まず、“科学・技術”に傾注して役目を果たそうとしたからだと言える(しかし立場が変われば自説を堂々と語る人であった;戦後核兵器開発に関して強硬な反対論を展開して、ノーベル物理学賞受賞者でありながら、国の原子力開発から完全に閉め出されている)。
 チャーチルにも科学顧問が居た。オックスフォードで実験物理学の教授を務めていたリンダマンである。もともとはバーデンバーデン生まれ(1886年)のユダヤ系ドイツ人であったが、父親の代に英国籍になっている。初等教育をスコットランド、次いでドイツのダルムシュダットで受けた後、ベルリン大学に進みここで博士号をとっている。第一次世界大戦勃発直後に帰国し英空軍実験航空隊に入隊、テストパイロットとして優れた技量を発揮している。
 1919年、のちに国防政策に関する科学技術政策をめぐり、激しく対立することになるティザードの斡旋でオックスフォードに職を得、休眠状態だった実験物理学研究所(Clarendon Laboratory)を再起・活性化させていく。対するケンブリッジにはラザフォードの率いるCavendish Laboratoryがあり、ブラケットは彼の下で研究員を努めている。
 チャーチルとの関係が出来たのが1921年というからかなり古い。チャーチルはいくつかの省庁の大臣職は経験しているものの、まだ保守党のリーダーにはなっていない。きっかけはチャーチル夫人とリンダマンが同じテニスクラブでダブルスのパートナーを組んだことに始まる(リンダマンは優れたテニスプレーヤーで、ウィンブルドンにも出場するほどの腕前であった)。これが切掛けで、チャーチルは戦争における科学について彼に助言を求めるようになる。特に、保守党の盟友であったバーケンヘッド伯爵が1930年なくなってからは急速にリンダマンを重用するようになっていく。しかし、30年代前半年はインドやアイルランド問題など、軍事以外にも大きな政治課題があり、リンデマンがあまり表面に出る場面はなかった。唯一目につくのはチャーチルの発した「国防強化に関する声明」(1935年)で、これは明らかにリンデマンが1934年8月タイムズ紙に寄稿した“ナチス空軍の脅威”に関する警告と軌を一にするものである。この前後からリンデマンは積極的に亡命ドイツ系ユダヤ人科学者(特にゲッチンゲン大学)を彼の研究所に受け入れ始め、その内の7人は更に米国に渡り、マンハッタン計画に参加している。
 1940年5月、チャーチルが首相となるとリンデマンは彼の個人科学アドバイザーに任じられ、やがてはPaymaster General(予算管理局長)と言う閣僚ポストに就くことになる。彼は自分直属の統計解析組織を立ち上げ、ここでの分析結果をチャートや図にしてチャーチルに直接上げて、その判断に供していった。その範囲は“大戦略から卵の生産”まで及んだと言う。チャーチルは彼を“The Prof(教授)”と呼び、「彼の頭脳は美しい機械である」と賞賛し、戦争内閣(War Cabinet;限られた閣僚のみ参加)や統合参謀会議(War Office)などの重要会議にも彼の隣に席を占めさせ、後には男爵、そして伯爵に叙している(チャ―ウェル卿)。
 しかし、彼の“科学・技術顧問”としての力量・資質には疑問を感ずる面も多々ある。先ず、自分のアイディア(例;空中機雷)やその研究所の研究課題(例;赤外線利用に依る航空機検知;これでレーダー開発が混乱に巻き込まれる)を売り込むことに熱心で、客観的な判断を欠くこと、自分の都合のよいようにデーター・情報を意図的(例;絨毯爆撃効果)あるいは間違いに気付かず(例;V-1,V-2を魚雷と誤認;この件では参謀会議の席上チャーチルにこっぴどく叩かれる)利用すること、他人の成功をあたかも自分の手柄のように振舞うこと(例;弟子のJonesが気付く、ドイツ爆撃機の電子ビーム誘導)などがある。もう一つは、そしてこれがより大きな欠陥だが、地位が上がるとともに、“チャーチルの威”を借りて傲慢・独善的になり、古い友人や弟子からも孤立してゆくその人柄である。この典型に当初は無二の親友であったティザードとの確執がある。これは英国の戦争と科学に関する書き物には必ず触れられるほど有名だが、別途報告することにしたい。
 「彼なくしてあの戦いに勝てなかった」と言う評価がある反面、「典型的な宮廷官僚」とこき下す酷評もあり、評価の難しい人である。微かに感じていることは、チャーチルは老獪な政治家、リンダマンの欠点も知り尽くし、彼を時には悪役に仕立てながら自分の意思・政策を実現して行ったのではないかと言う勘繰りである。
 トップはスタッフ・顧問の一枚上でなければならない。スタッフ・顧問はその分を弁えなければならないと言うことであろうか。

訂正;前回の-9において、ティザードがベルリン大学で研究員を終え“欧州”に滞在中とありますがこれは“豪州”の誤りです。お詫びして、訂正いたします。