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2009年2月19日木曜日

篤きイタリア-6

7.イタリア見聞録(補足)
(写真はダブルクリックすると拡大できます)

 14日、今日も天気がいい。予定通り10時に黒いベンツのワゴン車が迎えに来た。横河ロシアのモスクワにあるのと同じだ。スペースがタップリで快適な車だ。市内からアウトストラーダ(高速道路)を約40分、車はローマ・フィウミチーノ空港に着いた。  英語を話せる若い運転手も最後は「アルベデルチ(さよなら)!」とイタリア語で。アリタリアの国際線チェックインカウンターの担当者は日本人。デュティーフリーのお店も英語で無論OK。お土産にミラノ産チョコレートを購入、これは大変好評だった。倒産が何度も噂されるアリタリア航空、ラウンジを利用したらトイレの便座が一箇所壊れたまま利用に供されていた。
 AZ‐784(機体B-777)は定刻の14時40分成田に向かって離陸した。「楽しい想い出を沢山ありがとう!アリベデルチ!」
 帰路のルートは往きとは違い、概ねシルクロードに沿って飛ぶ、13世紀マルコ・ポーロが4年をかけた道のりを12時間足らずで飛んだ。機内サービスは良くも悪くもイタリアン、人懐っこく親切だが、おしゃべりに夢中でサービス手順や安全チェックなどはいい加減。成田までイタリア気分を味わった。

<手作り旅行>
 今度の旅行は現地旅行社利用を除いて、全て自分で手配し行動した。このやり方はこの年の春のタイ・カンボジャ旅行からである。行動の自由度という点で、パック旅行とは比較にならぬ柔軟性がある反面、“柔軟性”がもたらす手間やリスクを自分で背負うことになる。
 また、トータルの費用で若干高めになるような気がする。これはグループ行動による一人当たり単価の低減、継続的に大規模調達が可能な大手旅行社への提供価格などの違いによるものだろう。インターネットが普及した現在、その土地に慣れていたり、言葉に不自由無い人は直に予約をすることも容易になってきており、今回のケースに比べ安く出来る可能性がある。しかし、現地旅行社から見積りを取った段階で、イタリア国鉄やホテルのホームページ(HP)にアクセスして値段をチェックしたが、見積りと大きな差は無かった。鉄道はともかく、ホテルに関してはHPでは見えない実勢価格があるようだ。後日このことを旅慣れた友人に話したところ、HPではチェックまでに留め、予約は電話で交渉するとHP提示価格より一段と安い実勢価格で利用できると聞かされた。それでも費用の面でのパック旅行との比較は、大量・継続利用との差になるので多少の割高は止むを得ないのではなかろうか?
 現地旅行社の利用に関しては、日本人特化の会社にするか現地の旅行社にするかという選択がある。今回は実質初めての欧州(英国を除く)個人旅行ということもあり、日本人特化のマックス・ハーヴェスト・インターナショナル社(MHI)を使った。この会社を知ったのはインターネット検索(始めは“イタリア旅行”)からである。いくつかの角度(会社のHP、イタリア旅行者のブログ記事など)からこの会社を調べここに決した。ここに至るまで、前出の友人Mやイタリア人の夫人を持つ以前の会社の同僚などに、今回の旅全般にわたる相談相手(企業、個人)の有無を問い合わせたが、「現地の案内・通訳のアルバイト程度なら紹介できるが…」と言うものだった。
 イタリア人の友人に頼むという案も考えなかったわけではない。しかし、地元の宿泊くらいならともかく(実際、訪伊を知らせると二人とも自宅へ泊まれ、ホテルがいいなら予約すると言ってきた)、旅行全体を丸投げするわけにはいかない。自分で計画全体の主導権を持ちつつ現地での調整役が欲しい。
 こう言う経緯で決めたMHI社だが、実は休日現地入りもあり、一度も事務の方とは直接お目にかかっていない。全てインターネット(日伊間)か携帯電話(現地)のコンタクトである。これでノートラブル。サービスには満足出来た。
 個人旅行は細々したことを自分で決めなければいけない。これが楽しみでもあり煩わしさでもある。航空券はHISのHPで予め調査し、営業所へ出向いて最終決定した。日にちとルートがぴったりのものは入手できず、一日滞在を延ばして確保した。友人を訪ねることが観光以上に重要であるこの旅では、先ず彼等の在所とスケジュールを確認し、行動計画を決めなければならない。メールで彼等と会う日を決め、次いで彼等の住所からグーグルマップとアースでそこから近い宿泊候補地を決める。その次は移動経路やおおよその出発・到着時間、列車の種類・等級・運賃をイタリア国鉄のHPなどを参考に見当をつけていく。空港とホテル間のアクセス方法、観光日時、希望観光内容、ホテルの場所・等級・種類、最寄り駅とホテルの交通手段(これもグーグルアースで見当をつける)、これらをMHI社の担当者とメールでやり取りしながら決めていく。細目が固まってくるといよいよ費用の支払いだ。支払い方法は?期日は?為替レートは?関連書類(乗車券やホテルのバウチャーなど)の受取方法は?そして最後に緊急連絡方法の確認。英語で出来ないことも無いが、やはり日本語で出来るのは有り難い。
 現地へ着いてみると、計画とは違うことが間々生じる。今回では第一回で報告した、マウロ宅訪問がその良い例だ。彼の都合が変わり、到着翌日彼の家に行き泊まるはめになった。あまりきっちり計画を作ると、こんな時対応不能になる。この時はMHI社の担当者が携帯で的確な情報を与えてくれて急場を凌ぐことが出来た。
 個人旅行で面倒なのは夕食である。昼食は観光レストランで軽くでもいいが、ディナーは一晩くらいきちんとしたものが食べたい。事前にガイドブックやインターネットでよく調査していけばある程度意に適うかも知れないが、その日の調子(体調、食欲)もあるので、“その都度コンシュルジュに相談して”と周到な準備を怠ったのが裏目に出た。ヨーロッパの個人旅行者向けホテルにはフロントはだいたい一人、結構忙しそうなのでパスしてしまい、行き当たりばったり、今ひとつこれぞと思うレストランに行き当たらなかった。その点で友人たちと一緒のディナーは地元の食堂くらいのレストランでも、それなりに楽しめた。
 今度の個人旅行で当初一番気になっていたのが、言葉の問題である。初回の報告に書いたように38年前のフランスは、観光旅行ではなかったものの、英語が通じず往生した。イタリアはどうなのか?もし英語だけである程度いける見通しが立てば、これからの欧州個人旅行の楽しみが期待できる。テストケースとしての挑戦だった。MHI社との調整でもこの点を留意して手配を頼んだ。結論から言えば、“観光に関する限り”全く問題は無かった。英語しか喋れない観光客の何と多いことか!観光が重要な産業であることEUの成立・成熟が大きく影響しているように思う。
 セキュリティも個人旅行は隙が生じやすい。親友Mの体験談(鉄道車両に乗り込む際、かなりの段差がある。スーツケースを持ち上げるのを手伝ってくれる親切な人がいた。席に着いて、首から提げた小型カバンがバンド部分を残して本体部分は鋭利な刃物で見事に切り取られ、失われていたのに始めて気がついた。グループによる犯行である)とそれへの対応策(金属製のカナビラでカバン本体をベルトに繋いでおく)などを参考に対策を講ずる(重要な書類をコピーして分散保持するなど)とともに、ガイドブックのトラブル事例紹介に何度も目を通し、頭に叩き込んだ。
 ローマの地下鉄で、乗り込んだ時つり革に摑まれなかった。テルミニ駅停車直前急なブレーキでよろけた。長髪髭もじゃの若者が腕を支えてくれた。降りるときに彼にお礼を言ったところ、怖い顔で「スリに気をつけろ!」と注意された。余ほどボンヤリした観光客に見えたに違いない。彼は善人であった。
 暑からず寒からず、天候に恵まれたこと(それ故体調も良好)もセキュリティ面で見えない効果があったように思う。紛失物は貰い物のクロスのボールペン一本である。

<乗り物あれこれ>
 旅の楽しみの一つに乗り物がある。飛行機、鉄道、自動車、船、何でも大好き。乗るも良し、見るも良しである。
 先ず飛行機。国際線の飛行機はどの航空会社も使用する機種が限られていて、あまり代わり映えがしない。違いは専らサービスと言うことになるが、これもヨーロッパ、アメリカ、日本の大手は実質大きな差は無い。空港で見かける飛行機にもハッとするようなものは無かった(ミラノ・マルペンサ空港は規模が小さく、駐機している飛行機の数が極めて少ない)。空の旅の興奮度は、ロシア国内便に使用される機種や一部の東南アジア、中東の国際線に乗ったときのサービスに敵わない。
 今回の旅で飛行機に関する話題は、アリタリア航空の倒産と空港ストである。まだ計画も具体化していなかった年初から、アリタリア航空の経営危機が伝えられ、一旦エールフランスによる救済案が固まっていた。しかし、国政選挙でベルルスコーニが勝利すると、この案を白紙に戻し、イタリア資本で再建する方向になった。その再建案ががたつき出したのは9月の半ば、アリタリアはいつ倒産してもおかしくない状態に追い込まれたのである。もうスケジュールはほぼ固まっている。運行出来なくなったらどうしよう?インターネットで情報収集をしている過程で、今度は空港を含む交通ストが10月19日頃予定されていることを知った。倒産にストが合わさったりしたら大変なことになる。HISに問い合わせると「往きは共同運行の主体がJALだから大丈夫でしょう」と言う。単独運行の帰りはどうなるんだ?!緊急連絡先はHISの横浜支店、現地の駆け込み寺は同社のローマ支店を確認して、10月4日運を天に任せて成田を飛び発った。その後この倒産騒動の話を聞かない。どうなっているのだろう?
 次は鉄道である。今回利用した鉄道は、イタリア国鉄とミラノ、ローマの地下鉄である。ミラノでは路面電車(トラム)の路線も多く、ホテルの前の通りも路面電車が走っていたが、ここで過ごす時間が短かったこともあり利用していない。チョッと残念である。
 地下鉄は便利で安く(一回券;1ユーロ)、システム(改札・プラットフォーム・乗り換え・車両の色分けなど)もほぼ日本の地下鉄と変わらず、違和感無く利用できる。チョッと戸惑うのは切符の自動販売機で、文字は当然イタリア語で表記されている。一度ローマで利用したが、前の人のやり方をよく観察して何とか購入できた。通常はキオスクで求められるのでそこを専ら利用して、ついでに路線や行き先によって異なる改札口の確認などもした。車両内部は日本の地下鉄の方が明るく、清潔で座席の造りなども上等である。
 ミラノは4路線、ローマは2路線しかないので、これも利用しやすい理由の一つかもしれない。
 国内移動は全て国鉄。利用した列車は幹線のインターシティかユーロスターなのでローカル線や近郊電車などは体験していない。インターシティ(IC)は電気機関車が客車を牽引するタイプで、二等車は中央通路の四人掛けのボックスシート、一等車は片側通路の六人掛けのコンパートメントである。二等車内部は概ねJRのボックス席と変わりない。コンパートメントは日本には無いので(一部のグリーン車や寝台車を除く)、クラシカルな雰囲気でいかにも外国旅行をしている気分になる。座席シートは布製で応接セットのソファーのようで座り心地が良く、インテリアも落ち着く。通路側がガラスなので閉塞感はないが、そこに居る乗客だけの世界になるので、組み合わせ次第で世界が変わる可能性がある。今回の体験はミラノからヴィチェンツァ間だけだったが、皆静かな人たちでイタリア人同士でも一度も会話が無かった。アジア人の我々が居たからだろうか?
 これに比べるとユーロスターは近代的・機能的ですっきりしているが、わが国新幹線同様味気ない。二等車はIC同様両側4人掛けボックスシート、一等車は通路を挟んで片側は4人掛けのボックス、もう一方は向かい合わせの二人掛けである。座席は固定で進行方向に向くようにはなっていない。内装は一等も二等もプラスティックが多用されており安っぽい感じがする。一等に関する限り、はるかに新幹線の方が重厚である。
 ユーロスターには車両の一端に荷物スペースがあるが、団体客が乗るととても収容しきれない。ヴェネツィア~フィレンツェ間では座席上の網棚を利用せざるを得なかった。
 運行の定時性には若干問題があった。ミラノからヴィチェンツァへのICは出発が大幅に遅れたし、いずれの始発駅でも数分は遅れていた。これは日本では考えられないことだが、他の国では当たり前と思うべきなのかもしれない。ドイツは日本同様正確だという人もいるが、ドイツ鉄道旅行記など読むとローカル列車は結構問題があるように書いているものもある。
 今回乗車時間の関係で食堂車を利用しなかったが、メニューを持ったサービス員が予約の注文を取って時間が来るとお客は食堂車へ出かける。古き良きヨーロッパの伝統が残っている。こう言うサービスは新幹線には無い。逆にワゴン車での車内販売は来なかった。
 車掌、食堂車サービス員は無論英語OK。車内アナウンスも英語がある。国をまたがって運行される列車のサービスはこうなくてはならない。38年前のフランスはどう変わっているのだろうか?
 最も身近な乗り物は自動車である。私の趣味はドライブ。今度の旅の目的の一つは、マウロのフェラーリを見ること、そしてそれらに乗せてもらうこと。名車揃いのイタリアの自動車史も興味深い。垣間見た現代イタリア自動車事情を紹介する。
 アウトストラーダ(高速道路)を走ったのはミラノ空港から市内のホテルまでとローマのホテルから空港まで二回しかない。プレーシア、マネルビオ近郊をマウロの車で、ヴェチェンツァとサンドリーゴ近郊をシルバーノの車でドライブ。ミラノとローマで半日観光バスに乗ったのと、フィレンツェでは駅とホテルの往復、ローマでは駅からホテルまで片道タクシーに乗っている。いずれも走ったのは一般道。これが今回の自動車利用の全てだ。あとはヴェネツィアを除く街中での観察である。
 1970年代のスーパーカー・ブーム。近所のスーパーで客寄せの催し物に展示されていたのは、赤いフェラーリ、白のランボルギーニ・カウンタック、レース仕様のポルシェ。幼い息子共々興奮状態だった。ポルシェはともかくあとは今もイタリアを代表する名車である。戦後のF-1はホンダを含む幾多のメーカーがマニュファクチャラーズ・チャンピョンシップを手にしているが、圧倒的に多いのはフェラーリだ。
 先に紹介したミッレミリア(1000マイル)レースやタルガ・フローリオ(シシリー島を舞台にしたスポーツカーレース)など歴史に残るレースの数々と名車達、フェラーリ以外にもアルファロメオ、ランチァ、マセラッティそしてフィアットがこれらのレースで活躍してきた。自動車レースに熱い血を滾らせるイタリア人の自動車生活は如何に?
 実は、上記の自動車メーカーはランボルギーニを除けば(ランボルギーニはドイツのアウディが握る)、今は全てフィアットの傘下にある(アルファロメオは一時GMが大株主となるが、現在はフィアットがそれを引き取っている)。つまりイタリアの自動車会社は実質フィアット社一社といって良い。最近のフィアットは、スーパーカーから大衆車まで、生産や技術面では合理化を図りつつ各社の個性を生かして、異なる客層のニーズに上手く応えているように見える。ただヨーロッパの大衆車(小型車)市場は競争が厳しく、新型のフィアット500(チンクエチェント;先代は500ccだったが今のものは1200cc)が好評な割には収益面で必ずしも磐石ではないようだ。
 これは街で見かける車の生産国や車種から窺がうことが出来る。この分野のフィアット車は500の他に、パンダ、プントなどがあり、無論数から言えばマジョリティである。しかし、ここにはフォルクスワーゲンのゴルフ、ポロやフランスのプジョー200系(206、207、208)や300系、それにトヨタのヴィッツ(欧州名ヤリス)、ホンダのフィット(同ジャズ)などシェアー10%に達する日本車、などの外国車の存在が目立つ。少し上のクラスになるとアルファが頑張っているが、ドイツのアウディ、BMWがそれを上回り、フランスのシトローエンを合わせた外国車のほうが多くなる。ただこのクラスは絶対数が少ない。
 高級車のフェラーリ、マセラッティ、ランチァ(小型車のイプシロンは除く)は一度も一般道や街中では見かけなかったし、時たま見るのはベンツのセダンくらいであった。そのベンツの大型車(E、Sクラス)もわが国ほど多くは無い。
 車種はハッチバックの小型車が主流なのは英国と変わらない。次いで比較的多いと感じたのはいわゆるステーションワゴン。いずれも生活との密着感が強い。日本で主流のミニバンは営業用を除けばほとんど見かけなし、四駆のSUVも多くない。ミニバンは日本独特の、SUVは日米に特化したマーケットなのだろう。
 日本で見かけるイタリア車は赤が圧倒的に多い。F1が広告だらけでなかった時代にはその国を表すナショナルカラーがあった。イタリアは赤である。太陽の光が燦燦と注ぐ国に相応しい。しかし、現実にはそれほどこの国が赤の車で埋め尽くされているわけではない。クリーム・黄色、シルバー、ベージュなどわりと地味な色が多い。意外であった。
 あの“ローマの休日”の主役、スクーターはさすがに多い(特にローマ)。一昨年滞在した英国では、ツーリングのバイクは多かったものの、スクーターはほとんど見かけなかったのに、ここイタリアではそれが逆転している。通勤時間帯は特に多く、女性の乗り手も結構いる。
 イタリアのドライバーは飛ばすので危険というような話を聞いたことがあるが、特にそれを感じなかった。確かに、短い距離だがアウトストラーダを空港送迎の車で走った時、皆飛ばしてはいたが、日本に比べトラックが我がもの顔という状況ではないので快適な走りだった。一般道ではラウンドアバウト(ロータリー)が多いが、ここでもマナーは格別問題無く、無論交通事故を目撃することも無かった。イタリア人に対する先入観(おっちょこちょい)がそんな風評を呼んでいるのだろう。
 というような訳で、意外とイタリア人の自動車生活は、英国同様質実な感じを持った。高速道路や国境を越えるグランドツーリングでは別の情景にめぐり合えるかも知れないが、これが旧い町の石畳を生活の場とする、ヨーロッパ共通の自動車文化なのだ。
 ヴェネツィアは水の都。ここでは無しの生活は考えられない。水上バスのヴァポレット、トラック代わりの運搬船、モーターボートのタクシーそしてゴンドラ。我々の乗ったゴンドラは専ら観光用だが、生活のための渡し舟、トラゲットと言うのがある。利用する機会は無かったが、運河を跨る橋に限りがあるので居住者には欠かせぬ交通手段になっている。
 住民にとって、最も身近な交通機関は路線バスに違いない。これを使いこなせれば行動範囲は倍増し、疲れは半減する。しかし、現地語を理解出来ない、短期滞在の旅行者には難物である。これはイタリアに限ったことではないが。

<観光立国>
 観光立国といえば先ずスイスが浮かぶ。統計に依れば最も海外からの観光客の多いのはフランスである。しかしこれらの国と国境を接するイタリアも負けてはいない。兎に角驚くほどの数の観光客である。特定の観光名所に大勢の観光客が集まるのは、北京郊外の万里の長城からスペースシャトル打ち上げのケープ・カナベラルまで諸所体験しているが、どの街にも外国人 観光客が溢れている所は、ここイタリアが初めてである。
 普通の観光客(冒険や特異な異文化体験を求めるものではない)が集まってくる必要条件;安全(スリ・かっぱらいはいるが)・清潔(ナポリのゴミは酷いというが)・利便さ(交通機関はややルーズなところもあるが)・民度の高さ(南北格差はあるが)・取引の公正さ(“ヴェニスの商人”はイタリア人も揶揄するが)・過ごしやすい気候(南部の夏は厳しいようだが)、が備わっている。それに加えて、ローマ帝国の遺跡、ルネサンス美術そしてカソリックの総本山ヴァチカン、世界から人を惹きつける材料に事欠かない。しかしこれら歴史を残す“点”以外に“現代のイタリア”がこれらと相俟ってその魅力を増しているのではなかろうか?女性にとってのファッション、自動車に代表される工業デザイン、美味しい食べ物、オペラを始めとする音楽、ファンを熱狂させるサッカーなどが“イタリアへ行こう!”とそれぞれの観光客の背中を押したに違いない。
 もう一つ、これは私の偏見かもしれないが、この国は中世(東ローマ帝国)まで続いた世界帝国であるとともにルネサンスは西洋文明の起源であるのに、何故かそれを外に向かって声高に主張し、過去の栄光を現代イタリアに引き戻すような言動をしないところに、気安さを感じさせるような気がする。嫌味の無い国、これはフランスや中国とはまるで違う気風ではなかろうか?ハッタリの無い、気遣いしなくて済む適度なホスピタリティがこの国の観光立国を支えているといえる。

<文化財と戦争>
 この国を旅していて不意に第二次世界大戦の世界に引き込まれた。
 最初は、ミラノ観光でダヴィンチの「最後の晩餐」で有名な、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会を訪れた時見た、第二次世界大戦における米軍によるミラノ爆撃である。「最後の晩餐」そのものは教会の本体ではなく、嘗て修道院の食堂であったところに描かれている。ナポレオンの時代には厩として使われ絵もかなり傷んだようだ。しかし、1943年の爆撃で教会本体は瓦礫の山、痛みはしたものの、絵の在る所は直撃を免れた。別の展示室にその時の写真が展示されており、危機一髪であったことがわかる。
 これで済まなかったのはパッラーディオ設計のバッサーノ・デル・グラッパのヴェッキオ橋(屋根付の橋;ポンテ・コペルト)である。これも米軍の爆撃で破壊され現存するものは、1948年に掛け直されたものである。
 橋の被害はこれに留まらない。フィレンツェでは最古の橋、ヴェッキオ橋(現存のものは1345年建造)は何とか残ったものの、アルノ川にかかる他の橋は退却するドイツ軍に皆爆破されている。
 これ以外にもローマ守備のためその南方に引かれた独軍の防衛ライン、グスタフ・ライン上にある、モンテ・カッシーノの山頂にあった旧い修道院が、ここにドイツ軍は立て籠もっていなかったのだが、米軍の激しい爆撃で破壊されている。
 三国同盟の一カ国、ファッシズム誕生の国ではあるが、イタリア自身はほとんど国内で連合軍と戦っていない。この国での本格戦闘は独・米英戦と言っていい。とんだとばっちりである。地上戦闘の激しい所では双方とも文化財を保護する配慮などしていられなかたのであろう。京都が戦災を受けなかったことを奇貨としたい。

<不法移民> 訪れたどこの町も外国人観光客で溢れかえっていた。しかし、観光客と思えない外国人も目についた。マネルビオのような長閑な田舎町にもモスレムがジワーッと浸透しているらしい。グラッパやスキオのような北イタリアの静かな町に肌の浅黒い人たちを至る所で見かけた。アフリカ系と見られる黒人は大きな都市で行商やレストランのボーイなどをしている。中国人も多いようだ(ヴェネツィアに近いパドヴァと言う町が流入拠点と後で知った)。東欧がEUに入ったことで、そこからの流民も増えているらしい。
 一昨年英国に滞在した時も、移民問題は大きなニュースにしばしばなっていた。英国の場合は、インド系、西インド諸島などの旧植民地とEUに加盟した東欧からの移民が多いようだ。フランスは北アフリカ、ドイツはトルコや旧ユーゴスラビア、オランダはインドネシア、と西欧の豊かな国はいずこも移民問題に悩んでいる。
 それぞれの国のネイティヴ(白人でキリスト教徒)の人たちと話すと「外国人が来ること自体はOKだが、その国の文化を受容せず、独自の社会を作ることは断固反対!」と言うのが大勢である。イスラムが嫌悪され、日本人が比較的抵抗無く受け入れられるのは、この原則に従っているからといえる。
 イタリアには他国からの移民問題に加えて、国内の南北問題がある。ローマを含む南部は、北アフリカやバルカンと共通する気候風土や文化が根強いのに対し、北部は緑と水が豊かでローマ帝国崩壊後はハプスブルグ家の影響下に長く在った。近世以降は工業が豊かさと同意義を持ち、南の遅れは甚だしい。それにイタリアには小国分立の長い歴史があり、地方毎の独自性をいまだに残している。北の富が南に吸い取られ、妙な使われ方(南部地方政治におけるマフィアの暗躍)をしていることに北の人々は不満を募らせる。「南なんかイタリアじゃない!」と。
 外国からの観光客で溢れかえる町々に、こんな悩み・混乱が内在しているのである。

<後日談>
 この報告は友人・知人方々の他に今回の旅でお世話になったMHI社の担当者の方(女性)にもブログアップをお知らせしている。それも含めて、今まで書いてきたことに関するコメントの一部をご紹介して、この旅行記を終えたい。
1)ヴェネツィアの目刺し ヴェネツィアで、ツアーに組み込まれていたディナーで魚料理を賞味したが、その貧相なことを縷々書き連ねたことに対して以下のようなコメントをいただいた。
・イタリアの魚料理はフランス料理とは異なりソースの類は使わず、素で焼いたものに、オリーブオイル、塩・胡椒、レモンで味付け(自分で)するだけ。従って供ぜられた魚の塩焼き料理は典型的なイタリア料理であって、日本人スペッシャルではない。
・私たちでもVENEZIAでは、知らないレストランに行くと魚の貧弱さにはがっかりします。両親が来たときも、いつものレストランに行こうとしたんですが、疲れて歩けないとのことで、適当なところに入りましたが、やはりこーんな薄い魚を見たのは初めて、という代物でした。ですが、相手はヴェニスの商人ですから、相手にしても無駄です・・・実は魚は、ミラノが一番新鮮なんですよ。魚市場がありますので・・・料金もVENEZIAよりやや安く、失敗なく召し上がれます。
2)食べ損ねたフィレンツェのTボーンステーキ
・フィレンツェのステーキにしても、ピッツァなどがあるレストランでは後回しにされ
てしまいますね。専門店にいらっしゃるべきでした・・・
 結局、ビステッカ・フィオレンティーノは、お召し上がりになれなかったのですね。
残念です・・・
 私は、あれが食べたくてフィレンツェに帰るようなものですから・・・(友達が住ん
でいますので行きやすい)
3)食は南にあり・北イタリアは歴史的にオーストリア、ドイツの影響が強い。従ってあまり料理も美味しいものではない!パスタ一つとっても、断然南ですよ!
4)素晴らしきイタリア
・イタリアは、まだ日本に紹介されていない美しい自然の宝庫が各地にございます。北は、チロル地方の山々、南はナポリ、イスキア島(温泉)、シチリア島など。ぜひ、またいらしてくださいね。

 と言うようなわけで、二人のイタリア人の友に大歓迎されたこともあり、すっかりイタリアの虜になってしまいました。これほど楽しい旅を他の国で味わうことは期待出来ないのではないかと、これからの海外旅行を按ずる今日この頃です。

 長いこと、冗長な旅行記をご愛読いただいたことに深く感謝いたします。

2009年1月25日日曜日

篤きイタリア-5

6.地中海の帝都;ローマ
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 フィレンツェにはまだまだ見たい所、訪れたい所が多々あった。一方で昨日の一日徒歩ツアーの疲労を考えれば、もう一日歩き回るのは辛い。一週間くらい滞在し、公共交通機関を使った半日観光、残りはカフェテラスや庭園でボンヤリ過ごす。夜は専門の(観光特化で無い)レストランやエンターテイメントを楽しむ。イタリア(多分他の欧州都市も同じ)ではこんな旅がしたい。特にここフィレンツェでは。しかし、現実は“多すぎる観光客”でこんなのんびりした旅は経済的にも空間的にも無理だろう。
 フィレンツェの出発時間はチョッと思案した。基本的には何処でも、宿泊地ホテルのチェックアウトタイムと次の訪問地のホテルのチェックインタイムに合わせて決めてきた。ここでもその基本は変わらないのだが、乗車時間は1時間半と短い上に、ローマの宿泊先はコロッセオの近くなので、到着日はその周辺の観光だけで済ませれば、フィレンツェ出発を遅らせても良い。見るところはいくらもある。こんな考えに至ったのは、前出の大学時代の友人Mが夫人や混声合唱団の仲間とたまたまこの時期イタリア観光中で、この日彼らは我々と逆にローマからフィレンツェへ移動することになっていたからである。海外で親しい友とひと時を過ごすのは格別の思い出になる。しかし、列車の時間やホテルと駅との往復、先方もチェックアウト・チェックインに合わせた移動計画。国内で計画を立てている段階でこれは無理、途中ですれ違いと分かった。
 結局フィレンツェの出発は10時52分、ローマ到着は12時半のユーロスターにした。今度は二人向かい合わせの席である。席は所々空いており、4人席の人は適当に移動している。今回は到着時間が昼食時ということもあり、車中食は用意しなかった。好天の車窓をボンヤリ眺めていると、並行する線がある。在来線と新幹線と言ったところであろうか?道中の景観は長閑さだけが心を休める程度の、変化の少ないものだった。イタリア最後の鉄道の旅はこうして終わった。
 正午過ぎのローマ駅(テルミニ)は明るく暖かい。暑いくらいだ。今回も荷物があるので駅からタクシーにした。宿泊先は、カポ・ドゥ・アフリカ(アフリカの首都)と言う名前のホテルで、コロッセオ(楕円形闘技場)の近くのアフリカ通りにあった。このアフリカ通り周辺は閑静な所で、ここの通りを真っ直ぐ西北に進むと5分くらいでコロッセオに達する。観光には絶好のポジションにある。最寄の地下鉄駅は“コロッセオ”、テルミニ駅まで二駅である。このホテルも個人旅行者向けで、外からは付近のアパート(どうやらそのいくつかは長期逗留者向けらしい)と見分けがつかない。クリーム色の壁にアーチ型の玄関が、いかにも“アフリカ的”な雰囲気を醸し出す。内部も黄色やクリーム色が基調で明るく落ち着いた上品な仕上げ、部屋の天井が高く広さも申し分無い。バスルームやTV・インターネット環境などの設備は最新式で、ヨーロッパとアメリカの良いところを組み合わせた、今回の旅でベストのホテルだった。

<溢れかえる観光客>
 今日は日曜日。言わば“ローマの休日”である。チェックイン後一休みして、フロントで地図をもらい、周辺観光の要領を教えてもらう。地下鉄やバスを使えば有名な観光スポットへは容易に行けそうだ。ただ念を押されたのは「スリには充分気をつけて!」である。特にヴァチカン行きのバスは危ないと言う。幸いこれは明日のツアーに組み込んであるのでこの日行く予定は無かった。
 地下鉄利用はミラノで体験済み。コロッセオを外側から見学しながら、地下鉄入口に向かいキオスクで乗車券を求める。最初の目的地はスペイン広場、駅名はそのものずばりのスパーニャ、コロッセオを通る線はB線、スパーニャ駅はA線上にあるのでテルミニ駅で乗り換えることになる。東京の地下鉄ほど路線の数が多くないので迷うことは無い。テルミニ駅から三つ目がスパーニャ、明るい所へ出るのに少し地下道を歩く。表へ出るとそこはスペイン広場、午後の強い日差しの下観光客が溢れかえっている。映画でもしばしば大事なシーンの舞台となるスペイン階段にも、大勢の人が座り込んでいる。白・黒・黄色。一人旅・二人連れ・グループ。老・若・男・女。飛び交う多様な言語。ここで連れを見失ったらとても見つかりそうにない。スタンダール、バルザック、ワグナー、リストが住み、バイロンの通ったカフェあり、ブランドショップが軒を連ねてはいるものの(これは人が集まるからこうなったわけで、これが人を惹きつけているわけではない)、特別な歴史的モニュメントがあるわけでもないここに、これほど大勢の観光客が集まるのは何故だろう?多分あの「ローマの休日」の影響なのではなかろうか?(我々も実はそうなのだが) イタリアを旅していて、映画のシーンが大きな観光資源になっているのはローマだけではない。ヴェネツィアがそうだったし、シチリアには「ゴッドファーザー」がある。映画のシーンに惹かれて溢れるほどの観光客が出かけてくる所は、この国にしかないのではないか(韓流ブームの一時期そんな所もあったようだが)?
 これだけ人が集まっていると広場も広場ではない。広場でない所の方がややスペースがある。南西の日差しの強い階段の方は、これを避けるのか日陰のないところは歩き易い。取り敢えず教会のある上まで昇ってみる。午後2時頃にホテルを出たため、この観光散策の後はこのままの装いで夕食をとる考えだったので、夕方の冷え込みも考慮して長袖シャツにセーターさえ羽織っていたが、半袖のポロシャツで充分な陽気。階段の途中でセーターを腰に巻きつけたものの、それくらいでは、この暑さはしのげない。教会まで辿り着いた時には汗びっしょり。それを待ち構えるように、インド系の清涼飲料やスナックを商う屋台が石畳の高台テラスに店を出している。スーパーで買えば1ユーロ以下のミネラルウォータが2ユーロもするが、この暑さと乾きに値段は二の次、冷えているかどうかだけが問題だ。それも彼はよく承知している。クーラーに入ったボトルを示して「値段は同じ!」とくる。眩しいテラスでぐい飲みした冷えた水は、今まで飲んだどんなビールにも勝る喉越しだった。
 “命の水”を飲んだ後は再度広場に降り、そこから南西に延びる、ブランドショップの並ぶコンドッティ通りを人混みにもまれながらオベリスクとヴィットリオ・エマニュエル2世記念堂を結ぶ、ローマの代表的な大通り、コルソ(競馬)通りに出て、この通りを記念堂方向(南東)に向かう。こんな大通りもやはり観光客で溢れている。記念堂のさらに南東は、古代ローマの政治中枢が在ったフォロ・ロマーノ、その少し東にコロッセオが在る。途中の名所を訪ねながら、徒歩でホテルまで帰るルートである。最初の見所は、肩越しコイン投げで有名な「トレヴィの泉」。三叉路を意味する“トレヴィ”だけに、大通りから入ってチョッと探すのに手間取ったが、観光客の流れでおおよその見当はつく。あの有名な噴水は宮殿前の小広場の大部分を占め、平らな所は噴水とその背後にある宮殿を装飾する大きな彫像群に見とれる人々の群れに埋め尽くされ、噴水の縁には沢山の人が隙間のなく座ってコインを投げたりしている。ここもただただ人、人、人であった。それだけにスリのメッカでもあるらしい。長居は無用である。
 コルソ通りの終点はヴェネツィア広場、ここはかなり広い広場で交通の要衝である。広場に面して聳えるのがヴィットリオ・エマニュエル2世記念堂である。正面が北西を向いているので、折からの強い西日で大理石造りの西面が輝いて見える。エマニュエル2世はイタリア統一の英雄だが、この記念堂は彼の功績を称えるものではなく、統一後の戦役で戦死した兵士を弔うものである。広場と遜色のない幅広の階段の頂部に半円形に並んだ円柱を持つ壮大な記念堂は、下から眺めるものを圧倒する。ここには無名戦士も葬られ、24時間衛兵が墓守をしている。クレムリン、アーリントンと同じである。長い道のりを歩いてきた者にとって、この広い階段は格好の休憩場所を提供してくれるように見えた。端の方で一休みと思い腰を下ろしたら、直ぐさま監視員がやって来て立つよう注意された。もっともなことで不徳を恥じた次第である。
 記念堂は小高い丘の上に築かれている。裏側もテラス状になっており、南東側に西日の中の古代ローマ遺跡が間近に見下ろせる。ここからローマの七つの丘の一つ、カピトリーノの丘は指呼の間、そこまで歩くと丘の端から夕陽を真横に受けるフォロ・ロマーノやセヴェルス帝の凱旋門(在位193~211年)が見下ろせる。遺跡巡りは明日午後のメインエヴェントだ。さらに15分ほど歩いてやっとコロッセオの周縁の緑地に辿り着き座り込んだ。3時間は歩いている。この間休んだのはトレヴィの泉と記念堂で少々だけ。飲食はスペイン階段上のあの冷たいミネラルウォータだけ(ボトルから時々補給したが)。5時を過ぎているが空腹よりも歩き疲れの回復が急務だ。幸いまだ明るく、大勢似たような観光客がそここで休んでいる。ホテルへ返って一休みという案もあるが、多分バタンキュウーでろくな夕食も食べないことになりかねない。ここはもう少し頑張ろう。この時期コロッセオ観光は6時半までなのでまだ行列が続いている。それに纏わり着くみやげ物売り、ボンヤリ辺りを眺めているだけでも結構退屈しない。やがてコロッセオの横にボンヤリした月が顔を出した頃、近くの観光客相手のレストランで夕食にした。この時間になると不思議なもので冷たいビールよりワインが欲しくなるものだ。やっとイタリアンスタイルが身についてきたのかもしれない。
 ライトアップされたコロッセオの横を抜けてホテルへ帰る時には、先ほどの月が高く明るく輝いていた。そしてこの月光のコロッセオの周りで、ウェディングドレスを着た女性が数人がはしゃいでいる!聞くと先ほど式を挙げたばかりの花嫁とのこと。月下氷人や月下美人は知っているが、月下花嫁は始めてである。このローマ史を象徴するコロッセオでこのように祝うことが出来ることを心から喜んでいる風だった。観光とは別のよきローマの慣わしを垣間見て、一日の疲れは吹き飛んだ。「お幸せに!」

<神の国;ヴァチカン> 高校2年生の時に世界史をとった。担当の先生は東洋史、西洋史別で二人。どちらも面白く、受験の世界を遥かに超えて勉強した。それでも中国については日本史や三国志などの延長線に多少の纏まった知識もあったが、西洋史関連は少年少女向けのシェークスピア程度しか無く、ギリシャ・ローマに発する西洋文明に興味津々の授業だった。そんな中でよく理解できなかったことの一つが、宗教と政治権力の関係である。カノッサの屈辱や英国国教会の成立は教皇と皇帝・王との権力争い(司教の叙任権)の結果だが、何故坊主ごときが皇帝や王を破門など出来るのか?破門など意に介さず自分の国を好きなように統治すればいいではないか(英国国教会はこうして生まれたが)!もし坊主がゴタゴタ言うのなら武力で押さえつければいい(共産国家はこうして宗教を排除したが)!と。
 これが体感できるようになったのは、共産主義国家における宗教問題が表面に出てきたごく最近のことである。過度にイデオロギーに依存した社会の為政者にとって、そのイデオロギーと異なる信念を植えつける宗教ほど恐ろしいものは無かろう。冷戦構造の崩壊は、経済システムの破綻にあることは間違いないが、その端緒がカソリック国ポーランドから発したことは宗教と国家権力を見つめる上で象徴的な出来事といえる。その二つの権力の妥協による産物(?)がヴァチカン市国である。
 ややこしい権力構造を巡る歴史は一先ず置き、れっきとした独立国(国連にも加盟しているし多くの国に大使館を持つ)ながら国籍保有者はたった800人強、しかしカソリック教徒10億人を従える奇妙奇天烈な国をこの目で見てみたい。国境はどうなっているんだろう?こんな気持ちでローマ観光の目玉としてツアーのメニューに加えた。ただしヴァチカン美術館は、それだけでさらに半日を要するのでパスすることにした。正直言ってルネサンス以前の宗教画は、文字の読めない人に対する布教を目的にするので、おどろおどろしく稚拙な感じがして好きでない。
 この日の市内ツアーは地下鉄テルミニ駅に近いホテル・レックスという所に8時半に集合することになっている。昨日の午後コロッセオ駅からテルミニ駅乗換えでスパーニャ駅まで行っているので地下鉄移動は問題なかった。しかし、テルミニ駅からの案内図はかなり簡略化されており、途中三度もその在り場所を確認する必要があった。中には英語を話せない人もいたが、手振り身振りで何とか集合場所に辿り着けた。そのホテルの地下の一部は日本人旅行者専用の受付・待合室になっており、如何に日本人観光者が多いかを窺がわせた。既にほとんどのツアー参加者が集まっており、しばらくするとこの日のガイド、日本語を話すイタリア人の小柄な中年女性、クラウディアさんと言う人が現れ、大型バスへと引率してくれる。参加者は日本人だけで12人だったと思う。いずれも二人一組、夫婦らしい組みが多いが、女性だけの組みもいる。
 最初の訪問先がヴァチカン。国境らしきものは何も無くチョッと残念。ガイドは大聖堂には入れないとのことで、サンピエトロ広場の前で全体説明と見学後の集合時間、集合場所の確認。見逃してはいけないミケランジェロの「ピエタ」像の在り場所確認などがある。時間が早いせいか入場の行列はさほどでもなく、直ぐに大聖堂に入れた。カソリック教徒にとっては聖地であり、特別な感動が沸くのかもしれないが、不信心な私にとっては建造物そのものと歴史的な興味しかない。ミラノやフィレンツェで見たドオーモに比べ遥かに規模が大きく、複雑な造りである。英国国教会の総本山、ウェストミンスター寺院と比べてもこちらの方が大きく丸屋根に“旧教”を感じた。しかし、1996年訪れた嘗ての東ローマ帝国の首都コンスタンチノープル(現イスタンブール)に在る、この大聖堂の言わばライバルであるアヤソフィヤは古さと大きさにおいてここを凌いでいるのではなかろうか?アヤソフィヤはオスマントルコによるビザンチン帝国征服後モスクに改装されたため、内部の装飾はイスラム風になり、外見もミナレット(尖塔)が付加されて単純な比較は出来ないが、往時の東の文化・経済の高さを推し量ることが出来る。
 このあと、スイス人の衛兵や教皇が広場の信徒に手を振るシーン有名な教皇庁の建物を外から眺めたりしてここの観光は終わった。残念ながら皇帝・王そして近代国家指導者(ムソリーニ、ヒトラー、スターリンそして毛沢東)と教皇の争いの跡を残すものに接することは出来なかった。
 ツアーの残りは、パラティーの丘(遠望)→コロッセオ(外部のみ)→トレヴィの泉(前日は噴水が噴き上げていたがこの日は工事中で水が涸れていた)→共和国広場(ここでバスを降りる)→三越(お土産;ここまで引っ張るのがガイドの役目、大部分の人はトイレ使用のみ)

<古代ローマ逍遥> ローマを目指す日本人観光客のかなりの人は、塩野七生の「ローマ人の物語」に魅せられ、ここを訪れることを思い立ったのではなかろうか?私もその一人である。もしあの長編を読んでいなければ、北イタリアとトスカーナ地方に時間を割いて、ローマは割愛していたかもしれない。あのシリーズがハードカバーでスタートした時には、後述するような理由で読まなかった。買ったのはただ一冊「すべての道はローマに通ずる」編である。これは技術史の視点で面白いと思ったからである。しかし、文庫本が出たとき、偶々貯め置きの本が無く買ったのが、このシリーズにのめり込む切掛けになった。
 1990年代後半、彼女の本が文庫本で出始めた頃何冊か読んだ。「イタリア遺文」「サイレント・マイノリティ」のようなエッセイ・評論は面白かった。しかし、小説3部作「レバントの海戦」「ロードス島攻防記」「コンスタンチノープル陥落」は、ノンフィクション部分は面白いのだが、小説としては盛り上がりを欠き、今ひとつ評価出来なかった。「ローマ人の物語」が出た時、出版社が長編小説的な宣伝をしていたので直ぐに飛びつくことは無かった。ただ「すべての道はローマに通ずる」編を技術史物として購入し読んだとき、これが小説ではなくノンフィクションに近いものであることを知った。しかも、筆者が哲学専攻と言うのに技術的な調査が良く行き届いているのに感心した。文庫本は何処へでも持ってゆける。最初の数巻がまとめて出たとき購入し、一気に古代ローマに引き込まれてしまった。それからは続編を待ちわびるようになった。現在34巻まで来たそれももう直終わる。そこに登場する地名、記念物、建物そして人物。それらを間近に見るチャンスが遂にやってきたのだ。
 ローマ誕生は、篭に入れられテヴェレ川に流され、雌狼に育てられたロムルスとレムスの双子兄弟に始まる。ローマの名はこのロムレスから来ていると言われる。ロムレスの勢力圏はパラティーノの丘、レムスのそれは谷を挟んで南西に在るアヴェンティーノの丘である。午後半日の時間ではとてもローマ史を辿ることは出来ない。ホテルに近く、見所が集中するパラティーノの丘から政治の中枢だったフォロ・ロマーノに至る一帯と、原型を留めるコロッセオを廻るのが精一杯だった。
 先ず初めに行ったのがパラティーノの丘、ここは皇帝たちの宮殿(ドムス)が在った所だ。南に傾斜する地形は明るく、古代でも一等地であったことが窺がえる。そこからは当時から今も流れが続くテヴェレ川が望める。そしてこの丘と川の間には平坦な長楕円形の大競技場(チルコ・マッシモ)の跡がはっきり見てとれる。あの「ベン・ハー」の戦車競技がここで行われたのだ!映画では壮大なスタジアムだが、今残るのはトラックだけである。
 丘の南端から北へ向かうと、ドムスや神殿、庭園の遺跡がいたる所にある。予め周到に道筋と時間を考えておかないと回り道になったり、見所を見落とすことになる。途中に適当な休憩所もない。個人観光はこの点で極めて効率が悪い。ヘトヘトになりながら次のポイント、フォロ・ロマーノに達する。
 フォロ(Foro)は英語のフォーラム(Forum;公開討議の場;公共広場)である。「ローマ人の物語」にも頻繁に登場する。元老院もここに在り、キケロやカエサルが議論を戦わし、「ブルータスお前もか?!」と言ってカエサルがこと切れた場所でもある。列柱の残るバジリカ(柱廊)様式の遺跡は神殿や取引所、裁判所などの跡のようだ。ここだけで凱旋門も二つある(この他にもう一つ、コロッセオの間にトライアヌスの凱旋門がある)。そして中央を貫く道は、戦利品と捕虜を連ねた凱旋行進が行われたところだ。クレオパトラもここを引き回されている。ガリアを、ゲルマンを、ペルシャを、エジプトを、そしてカルタゴを屈服させ強大な地中海帝国を構築した歴史を確かめにここまで来たと言ってもいい。しかし、「シーザーとクレオパトラ」のようなハリウッド映画で見る凱旋シーンの方が遥かにスケールが大きく感じる。誇張されたセットと瓦礫の山に近い現在の遺構の違いからくるものだろうが、それでも道路の幅や残る柱の高さなどを目の前にすると「この程度だったのか?!」とチョッと意外な感じがする。実物を見て映像のマジックを実感し、正しい姿に修正出来たことが果たしてハッピーだったのかどうか、些か複雑な思いである。
 遺跡めぐりの最後はコロッセオ。ホテルと地下鉄駅の間に在ることから、何度も外からは眺めているが内部に入るのは今回が初めてである。紀元80年に完成し、収容人員は5万、今に原型を留める楕円形の闘技場(劇場)である。他の建造物が凱旋門を除けば、基部や柱、階段などが部分的に残る遺構であるのに対して、ここは石積みの部分がほとんど残っており、2000年前の姿がそのまま見えるので強烈な存在感である。
 それまでの知識は、ここでもハリウッドである。カーク・ダグラス演じる、タスキ掛けのような鎧を纏う剣闘士スパルタカス。暴君ネロのキリスト教徒迫害をテーマにした数々の映画では、ここで教徒が猛獣に追い回されるシーンが見せ場になる。しかし、フォロ・ロマーノとは違い、ここでは映画のシーンよりも現実の方がもっと迫力があったのではないかと思わせる。それは、内部に入ることに依りその構造が委細に理解出来、当時の観客として、演じられた見世物を容易に想像出来るからである。否、私にとって現状の方が当時の観客以上に複雑な舞台仕掛けを見ることが出来るだけに面白かった。
 スタジアムの基本構造は現代の競技場と大きな変わりは無い。50メーターの高さから傾斜した観覧席が舞台に向かって設えてある。一般席・貴賓席が分けられたり、指定の席への入口・階段も分けられている。木製だった観覧席そのものは残っていないがこれらも現代のものと似たようなものであろう。大きな違いは闘技場の舞台とその下部構造である。舞台そのものが木製の板を敷き詰め、それに薄く土を撒き演じ物にふさわしい木々などもセットする。この上で剣闘士たちが人間同士あるいは猛獣たちと凄惨な戦いを行うことになる。この木製舞台の下は何層かの石造りで、複雑な迷路のような構造になっており、猛獣たちを入れておく小部屋や舞台へ追い立てる通路になっている。舞台への出口は一ヶ所ではなく、複数の出口から一斉に猛獣を放つことも可能である。木製舞台の朽ち果てた今、この複雑な下部構造が観光客の目の下に開けている。世界の富を集め、遊蕩惰眠と化したローマ市民の民心を買うためとは言え、良くここまでやったものだと感心するとともに、ポピュリズムに浸りきった、現代の為政者と大衆の今に変わらぬ関係に、2000年の空しい時間を痛感した。

 本編を持って“紀行”としての報告は終わりますが、次回この旅の総集編と垣間見たイタリア雑感をお届けします。

2009年1月12日月曜日

篤きイタリア-4

5.ルネサンス発祥の地;フィレンツェ

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 ヴェネツィアのサンタルチア駅を発してフィレンツェに向かう列車は10時43分発のユーロスターにした。フィレンツェ、ローマを経てナポリまで行く、典型的な観光列車である。
 あの「旅情」では、確か電気機関車に引かれる列車からキャサリン・ヘップバーンが窓から身を乗り出しで、ロッサノ・ブラッツィに手を振るシーンがあった。ユーロスターでは窓は開かないし、別れを惜しむ人もいない。
 先にも書いたように、国内移動は全て鉄道としユーロスターかインターシティの一等を手配した。しかし、ヴィチェンツァからヴェネツィアでは、ホームの案内板に描かれた車番順序(最終車両が1号車)と完全に反対になった編成でやって来たため、1号車を待っていた我々の前に来たのは最終番号車(確か10号車)の普通車だった。幸いガラガラに空いていたのでそのままヴェネツィアまでこの車両で行った。
 そんな訳で、ここヴェネツィアから乗る列車がユーロスター初めての一等車である。ユーロスターの一等車は、コンパートメント形式ではなく、通路を挟んで片側が4人のボックスシート、反対側は二人向かいあわせシートになっている。率直に言って、シートやインテリアは新幹線のグリーン車の方が一等車らしい。我々の席は4人掛けボックスシートの通路側だった。
サンタルチア駅を発した時には、二人席は仲間らしい二人の中年男性観光客が占めたが、4人席の窓側は空席だった。やがて内陸側の最初の駅、メストレへ着くと我々と似たような年恰好の白人カップルがやってきた。どうやら夫婦らしい。口数は少なく、それも静かな語り口。今度の乗車時間は3時間弱ある。長時間の同席者として好ましい。
 メストレそしてミラノ方面への分岐点、パドヴァで比較的長い時間停まったので、パドヴァを出た時には既に11時をまわっていた。検札の車掌が行き過ぎると直ぐに、昼食の注文取りがやってきた。食堂車でのきちんとした昼食のようだ。二人組み男性客はそれを注文したが、相席のカップルは何やら話してやめにする。どうやら食事持参のようだ。我々もフィレンツェ到着が1時半なので、予めサンタルチア駅のビュッフェで、ホットサンドウィッチと飲みものを用意しておいたのでパスする。隣が食べ始めたらこちらも始めようと思っていたが、なかなか始まらない。到着時間が気になるので一言「食事をしてもいいですか?」とことわってお先に始める。
 ヴェネツィアからフィレンツェへの路線はイタリアの背骨、アペニン山脈を横切る。ここではさすがのユーロスターもスピードが落ちる。その分周りの景色を堪能できる時間が増えることになる。食事を始める時の挨拶でこちらが英語を話せると分かったこともあり、「紅葉がきれいね」と言うようなことから隣の夫婦と会話が始まった。聞けばアイルランドのダブリンから来た引退者とのこと。「アイルランドには行ったことはありませんが、昨年は半年英国に滞在し大学で勉強していました」 これで先方はもう一歩踏み込んできた。「どんなお仕事だったんですか」「石油会社のエンジニアでした」「あら、主人は鉄道関係のエンジニアだったのよ」「そうでしたか。子供の頃は鉄道技師が夢で大学では機械工学を専攻しました」「私の専攻は電気工学です」 しばし似た者同志の穏やかな会話が続く。
 分水嶺のトンネルを抜けると列車は一気にスピードを増し、トスカーナ平原をフィレンツェへと快走する。ローマ観光のあとフィレンツェに戻ると言う彼らを残しサンタ・マリア・ノヴェッラ駅で別れる。

<ルネサンス遺産> 到着時間は午後1時半。秋の陽光だが眩しいくらい明るい。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ボッティチェッリ、彼等を支えたメジチ家。闇を光に変えた200年(14世紀~16世紀)がここに詰まっている。
 ホテルはアルノ川に架かる有名なヴェッキオ橋の袂に在るエルミタージュホテル。手ぶらなら歩けるくらいの距離だが荷物があるのでタクシーにした。イタリアに来てはじめて乗るタクシーである。車は荷物の積みやすいフィアットのバンであった。少し回り道をしたようだが、これは旧い町の通りがほとんど一方通行であるため止むを得ない。車を橋の袂のカフェテラスの前で停め、運転手が荷物を降ろしながら「そこの角を曲がった所です。看板があります」とカタコト英語と手ぶりで教えてくれる。車が入れない通りなので、言われたとおりスーツケースを引きずってそれと思しき所まで行くが見つからない。直ぐ先にまた曲がり角があるのでそこまで行ってみるが、ホテルの入口などない。もう一度始めの曲がり角へ戻り建物の銘版をチェックする。直ぐ傍の入口が開いており階段が上に続いている。入口の年代物の灰色の石版の銘版をよく見ると“Hermitage”と読める。入口には何も無くただ階段だけ。重いスーツケースをもって階段を上がると、そこにエレベーター・ホールがあった。1台きりの呼び出しボタンを押すがエレベーターは来ない。押しボタンの横に何故かテン・キーのボタンがある。階段を上った踊り場に“フロント;5F”とあったので“5”を押してみる。何も変わらない。モタモタしていると、やがて上からエレベーターが下りてきてドアマンのような男が降りてきたので「これはホテルのフロントへ行くのか?」と聞くと「そうです。5階です」と言って階段を下りていった。5階にはガラス戸(このガラス戸は受付の居る時間だけ開けられている)で隔てた部屋があり、机に置かれた電話で話をしているおばさんが一人居るだけ。電話が終わるのを待って来意を告げると、部屋と階段下玄関(玄関は10時に閉まるので)のキーをくれ、その際エレベーターの暗証番号を教えてくれた。あのエレベーター・ホールにあったテン・キーは、宿泊客がエレベーターを呼び出すためのものだったのだ。部屋は旧いヨーロッパスタイルで天井が高く家具等も質素だが、明るく清潔で、アルノ川とヴェッキオ橋もチョッと見えるところが良い。
 その日の観光は2時半頃から始めることになった。翌日の半日観光で予定されていない、ホテルから近いウッフィツィ美術館を重点的に見ることにした。美術館の外回廊は長蛇の行列。待ち時間は“1時間”とある。別にやることも無いので行列に並んでいると30分位で入ることが出来た。時間が少し遅いのが幸いしたようだ。展示物については専門の案内書に譲るが、書籍の写真などで目にした作品が多々あり、それらを見ると感動よりもついホッとしてしまう。知識だけの教養(?)を脱しきれないわが身が情けない。それでもボッティチェッリの「春」や「ヴィーナス誕生」などはそれまでの宗教色の強い絵画に比べ明るく自然で、新しい時代の到来を感じさせてくれる。言葉でそして知識として知っていたルネサンスがここでは現実のものとして理解できる。
 さて美術鑑賞はこれで終わり、ウッフィツィ美術館そのものを少し紹介したい。この美術館の名前“ウッフィッツ”はラテン語のオフィスと言うことで、この建物は16世紀半ばに建てられた、当時の行政府用オフィスである。形は長いコの字型で3階建てだが天井の高さが極めて高い。絵画の展示は3階が主体である(2階にもあるがここは最近ギャラリーになった所)。当然エレベーターはないのでこの3階まで石の階段を上るのだが、これが何ともきつい。そのため現在外付けのエレベーターを取り付けるための大掛かりな工事が行われている。コの字型の外側が区切られた展示室(昔はオフィス)内側は広くて長い廊下である。この廊下はヴェッキオ宮(旧宮殿)とアルノ川を隔てたピッティ宮(新宮殿)に至る長い回廊の一部を成しており、ヴェッキオ橋上屋を経て新宮殿に至る。この回廊をあのヒトラーも歩いている。
 この日(10日)はこのあとウッフィッツ美術館やヴェッキオ宮のあるシニョリーア広場のカフェテラスで一休みして、さらにドオーモ、メジチ家が寄進した教会;サン・ロレンツォ教会の周辺を散策、さらにヴェッキオ橋を渡って川向こうへも出かけ、再びシニョリーア広場に戻って、オープンレストランで夕食とした。とにかく何処も大変な人数の内外観光客で、レストランには日本語のメニューがあった。

<老体鞭打つ徒歩ツアー> 翌11日の午前は市内の徒歩ツアーである。鉄道駅に隣接したバスセンターの待合室に集まった日本人は10人足らず、若いカップルがここでも多い。案内してくれるのはUさんという大柄な日本人女性ガイド。コースはメジチ家のライバル、ストロッツィ家の教会;サンタ・マリア・ノヴェッラ教会→ブランドショップが並ぶトルナプオーリ通り→共和国広場→シニョリーア広場に至りウッフィッツィ美術館、ここまでの建物は中に入らず外側から眺め、説明を聞くだけだ。この後嘗てフィレンツェ共和国の政庁であったヴェッキオ宮の中を見学する。市民会議が開かれた大広間にはミケランジェロの彫刻もある。ここは現在も市役所として使われている。13世紀の建物に国宝級の美術品が置かれているような場所が、現役として利用されるなどイタリアならではの感があった。ここを見た後はヴェッキオ橋を見学、そこから中心部に戻ってドオーモの内外を見学した。ドオーモはミラノでも内部を見学しているが、ミラノに比べるとここは装飾的でなく質素な感じがする。ドオーモの前にはフィレンツェ最古の聖堂建造物と言われる洗礼堂がある。
 ここでグループ徒歩ツアーは終わるのだが、ガイドのUさんは昼食の場所やボッタクリ注意のジェラード(アイスクリーム)屋など、それ以降の行動に役立つ情報を与えてくれた。私もお土産に関して有効な情報をもらうことが出来た(後述)。
 昼食までには少し時間があったので、ドオーモの中心クーポラ(ドーム部分)の外側にある回廊に上ることにした。なんせ15世紀の建物である。上るには階段しかない。それも500段近くある。北側の入口から長い行列が延々と続いている。行列に並ぶ時、前の黒人男性に英語で「これが行列の最後か?」と確認した。それがきっかけで彼と会話を始める。彼はカナダ人で、仕事でこの方面に来たついでに休みを利用してここに来たという。彼もイタリア語はダメらしい。そうこうしていると後ろの集まってきた若いアメリカ人と思しきグループの一人が「英語は話せますか?」「ええ少し」「ここは行列の最後ですか?どのくらいかかりますかね?」 あとはカナダ人が引き取ってくれた。やっと中に入ると今度は階段登りが堪える。途中で若い人に先を譲りたいが、なかなか十分なスペースのあるところへ出ない。難行苦行である。最後に表へ出るところは階段ではなくはしご。一方通行である。それでも苦労して上った甲斐はあった。好天の空の下、フィレンツェの町が360度見渡せる。オレンジ色一色の花畑である。
 昼食はUさんが別れ際にいくつか教えてくれた中の、ドオーモ近くのパスタ屋に出かけてみた。何と入口近くの席に、Uさん他何人かの日本人女性ガイドが食事中だった。ここで生活している人が利用する店に不味くて高い料理などあるはずが無い。ビールとピッツァで午後への鋭気を補給した。
 午後先ず出かけたのは、トスカーナに君臨し、法王まで出したメジチ家の礼拝堂とそれに接続するサン・ロレンツォ教会。色の違う各種の大理石で装飾された“君主の礼拝堂”。広々した空間に石造りの棺がいくつも置かれて、往時の権勢が偲ばれる。これに続く“新聖具室”と呼ばれる正方形の霊廟はミケランジェロの作で、部屋ばかりでなく墓碑の彫刻も彼の作品である。王家の廟所は英国のウェストミンスター寺院、クレムリンにあるロシア・ロマノフ家のものを見ているが、棺の大きさ・配置・空間のバランス・内部装飾どれをとってもここには敵わない。ルネサンス発祥の地と周辺国の文化度の違いなのであろうか?
 この後並ぶのを覚悟で、ミケランジェロのダビテ像で有名なアカデミア美術館へ出掛けたが、午後も遅かったせいか15分くらいの待ち時間で中へ入れた。見ものは唯一つ、ダビテ像である。他の見物客も概ね同じで、小さな美術館はここの周りだけ込み合っている。まるでギリシャ彫刻のようなあの若々しく清潔な力強さは、美術に特別な関心がない者にも、自然に「美しい」と感じさせるものがある。これは木彫や金属の彫像に比べ、大理石の明るさ・経年変化の少なさによるのかもしれないが、それ以上に作者の若さ(ミケランジェロ26歳の作品)がもたらしたものと見たい。伝説上のダビテは巨人ゴリアテを倒して王になるのだが、この像は当時共和制だったこの地方を王家の支配に置こうとする動き(メジチ家)に立ち向かう象徴として、共和制支持者だったミケランジェロが作りあげたものであるという。後年メジチ家の霊廟を作ることになったとき彼はどんな思いで仕事をしていたのであろうか?
 これで名所巡りはアルノ川対岸のピッティ宮を除いて終わった。まだまだ見所は多々あるのだが、お土産を求めたり残りのピッティ宮見学の時間を考えるとこれが精一杯だった。
 午前中のツアーの別れ際に、ガイドのUさんにお土産について質問をした。一つは孫のためにピノキオの操り人形を求めるのは何処がいいか?これは前日の夕方ピッティ宮広場まで行った帰りに、沢山ピノキオを揃えた店があったのだが、気に入った一品は糸が切れて結んであり、それ以外に手持ちがないと言うことであきらめた経緯があった。Uさんにそのことを話すと「ピノキオだったら私もあの店が一番と思っていましたが…」との答え。何処でも見かけるお土産なので「無ければローマでも」と思っていたところ、幸いダビテ像を見たあと、ドオーモを経てピッティ宮へ向かう途上、何の変哲も無い雑貨屋の店先に求めたいと思っていたピノキオがぶら下がっており、手に入れることが出来た。

 もう一つは自分のもので、ドライブ用の皮手袋である。イタリアへ来る前はファッションの都、ミラノで求める算段にしていたが、マネルビオ行きが入り買い物の時間が全く無かった。前日街を歩いていると、ある洋品店でそれらしきものを見かけたが、専門店があるのではないかと思い求めずにいた。Uさんに「皮手袋の専門店はないか?」と問うと、「それならいい店があります。ヴェッキオ橋を渡って少し行った左側に“マドバ”と言う製造会社の販売所があります。種類も豊富で、サイズなど丁寧にチェックしてピッタリのものを探しくれます」とのこと。早速出かけてみると、“MADOVA”と言う小さな店だが当に専門店、壁一面の棚はサイズやデザイン別に小分けされ、そこにビッシリ手袋が並べてある。カウンターの上には二本の棒が交差して角度が変えられる、何やら手のサイズを測る物差しのようなものがある。「ドライビング・グラブはありますか?」「ありますよ」指先まであるのが3種類、手先をカットしたものが2種類カウンターに並べられた。「ドライビング・グラブは大・中・小のサイズしかありません」 他のグラブはサイズがもっと小刻みになっているようだ。試着をしてみて、柔らかい子牛の皮で出来た、手の甲の側が明るい茶色・手のひら側がこげ茶の、指先をカットしたものを求めた。
 店にはもう一人英語を話すおばさんが買い物をしていた。私が試着しているのを見て「あの手袋は何なの?」「ドライブする時にはめる手袋です」と他の店員とやり取りしていた。私が自分用のものを決めて、支払いをしていると「あなたのおかげで息子に良いお土産を見つけられたわ」とお礼を言われた。
 このあと最後の観光スポット、ピッティ宮へ出かけた。もう時間は4時過ぎ。見学終了時間は5時までなので、切符売り場で「1時間しかないけれど、いいですか?」と念を押される。ヴェッキオ宮が建物だけで中庭以外庭園が無いのに対して、ここは庭園が売り物。とても全部は廻り切れないのは承知で入園する。入口のおじさんに「駆け足で廻っておいで」と送り出される。庭園の頂上部から西日に照らされた美しいオレンジ色のフィレンツェが一望できた。これだけで入園料を十分取り戻した。
 長い徒歩観光の一日はこうして終わった。老体にはキツイ一日だった。

<恨みのTボーンステーキ> 旅行の楽しみの重要な因子に食がある。決してグルメ志向ではないがその土地の名物を味わいたい。イタリアでは各種パスタは当然として、それ以外にミラノにはカツレツ、ヴェネツィアはシーフード、そしてフィレンツェには牛の胃袋の煮込みとフィレンツェ風ステーキ(Tボーンステーキ)があることを事前調査で知った。ミラノ風カツレツはミラノでゆっくりディナーを取るチャンスが無かったものの、マネルビオのディナーで味わうことが出来た。ヴェネツィアのシーフードは例の“めざし”でがっかりさせられた。
 フィレンツェには胃袋、ステーキ以外にも秋はジビエ(野鳥・野獣)料理も名物らしい。そこで離日前先ずジビエの可能性をMHI社に聞いてみたところ、確かに山が近いフィレンツェではジビエを食する所があるが、それは街中ではなく、行き帰り車をチャーターして郊外まで出かけねばならないと言う。これはチョッとそれまでの旅の様子が分からないので止めることにした。胃袋かステーキか?胃袋ではないが牛の煮込み料理はサンドリーゴの昼食で一度体験している。今夜はステーキにしよう。長い一日の市内徒歩観光のあと、一休みし夜の帳が降りる頃そう決めてホテルを出た。こんな時いつもならコンシュルジかフロントに適当な店を教えてもらうのだが、このホテルのフロントは宿泊階の上にあり、しかもガラス戸の向こうにおばちゃんが一人と言うような所なので、行き当たりばったりで探すことにした。昨晩もこの調子でまずまずの夕食を楽しめたから今夜も何とかなるだろう。これがケチの付はじめである。
 昨晩と同じシニョリーア広場は避け、今朝のツアーで出かけた共和国広場に何件か屋外にも席があるレストランが在ったので、そこへ出かけてみることにした。店の前に置かれたメニューや客の入り具合をチェックしながら適当な店を探し、ダークスーツを着たウェーターに案内を求め席に着いた。ここまでは特に問題は無かった。しかしなかなかメニューを持ってこない。案内役と注文取りは別の担当になることが多いのだが、案内してくれたウェーターが一人で動き回っている。こちらが待っているのを横目で見て「チョッと待ってください」と言うような動作をするのだがこちらの席まで来ない。それでも大分待ってやっと英語のニューを持ってきてくれる。メニューは入口で確認してはあるが、眺めるのも楽しみだ。前菜、パスタ、ステーキ、ハーフボトルの赤と決めてオーダー準備完了で待つのだが、一人増えたウェーターも席には来てくれない。客は次々入ってくるがこの対応も間に合わず、入口で帰ってしまう客もいる。
 最初に案内したウェーターはこちらがイライラしているのに気がついている。やがてさらに一人、赤い上着にエプロンをしたウェーターが加わり、彼が笑顔を浮かべながら注文をとりにやってきた。「これでやっとありつける!」 ワインは直ぐに供された。悪くない!しかし、前菜は現れない。どうもピッツァのような定番料理と飲み物は比較的早く持ってこられるが本格料理は遅いようだ。イライラしているのは我々だけではない。隣の席に着いた英語を話す中年女性の二人連れが「これ以上待てない」と言うように口をへの字に曲げて両手を広げて席を立つ。しかし、別の席に着いた、これも観光客らしい老夫婦のところへ例のステーキが運ばれてくるのを見ると如何にも美味しそうだ。「もう少し待てばあれにありつけるんだ!しばしの我慢だ!」 しかし期待は外れ相変わらず何も来ない。とっぷり日の暮れた中でイライラは我慢の限界を超す。赤い上着のウェーターは甲斐甲斐しく動き回っているが、何とか彼の目を捉えて席に呼び「ワインがきてから30分を越すのにあとは何も来ない!もう待てない!ワイン代だけ払うから精算してくれ!」「もう直来ます。待ってください」と言うような態度だが「とにかく伝票もってこい!」 渋々レジに行き伝票を持ってきたウェーターに勘定きっかりの金を渡し席を立った。恨み骨髄のフィレンツェ風ステーキ始末記である。
 この後別のレストランに入ったがここでは魚料理を薦められた。しかしヴェネツィアの魚料理に懲りて、ビールと前菜、パスタだけにした。隣席のご婦人の美味しそうな魚のムニエルを見てヴェネツィアの“めざし”の恨みが重なった。

2008年12月27日土曜日

篤きイタリア-3

注:今までの記事も含め、写真はダブルクリックすると拡大できます
4.運河が巡る町;ヴェネツィア
 二人の友との楽しい時間はあっという間に過ぎ去った。ヴィチェンツァのホームでシルバーノが「もう自分は日本に出かけることはないだろう。でもいつでもこちらに来てくれることは歓迎だ」とポツリと言った。一瞬お互いの歳を考え胸が詰まった。「有難う。こちらも娘さんたちをいつでも歓迎するよ」 気休めのような答えを返すのがやっとだった。
 今回のイタリア行きを計画した段階から、二人の友と過ごす旅とその後の旅は別の旅であることを重々承知していた。後半はただの観光旅行、パックで旅するのと大きな違いはないと。それでも少しでも受身にならない旅をしたくそれぞれの訪問地に夢を託した。ヴェネツィアは学生時代(高校生だったような気もする)に見た映画「旅情」と「大運河」、フィレンツェには“ルネサンス文化”、ローマはあの“ローマ帝国”である。しかし、ヴェネツィアに関してはシルバーノと会ってから“ヴェネツィア共和国”がもう一つのテーマとしてクローズアップしてきた。一時はアドリア海、エーゲ海そして遥か黒海沿岸まで勢力を持った海洋大国の中心地に何か往時の面影は残っているのか?
 ヴィチェンツァから今回初めてのユーロスターに乗る。しかし時間はたった50分。ほぼ中間点のヴェネト州を代表するパドヴァに停車、本土側最後の停車駅メストレを過ぎると鉄路と高速道路だけが海の上を走る。水の都へのそれらしいアプローチに期待は高まる。十数分の海上走行の後ヴェネツィア唯一の鉄道駅、サンタルチア(光の女神)駅に到着。あの有名な民謡はナポリのもので夜景だが、午後の陽光に輝く海の上を走ってきてもこの名前はうれしい。


<水上バスに乗って>
 ホテルはリアルトホテル。代表的な観光名所、言わばヴェネツィアの銀座四丁目、リアルト橋の袂に在る。タクシーが全く存在しない街でどうホテルへ行くか?計画段階で調べると、水上バスが一般的だがモーターボートのタクシーがあるとなっていた。世界に冠たる観光地、水上バスで何とかなるだろう。それに「旅情」のキャサリン・ヘップバーンが演じるアメリカのOLも英語しか話さなかった。サンタルチア駅前広場の前はあのカナル・グランデ(大運河)、そこには水上バス(ヴァポレット)の船着場があり、切符売り場には各国からの観光客が並んでいる。頻繁に利用する人や長期滞在者には各種の割引切符があるが、ホテルと主要観光地を巡るだけなら徒歩で十分。切符は一回券と決めていた。暗記したとおり「コルサ・センブリーチェ!」と大声で言うと、切符を渡しながら「そちらの船着場だよ」と言うようなことを言って指を差す。航路2がリアルトへ行く船と予め調べておいたので“2”へ行くとやや込み合っている。乗船係が“1”へ行けと隣の乗船場を指示する。「リアルトへ行くんだが」「どちらもリアルトへ行きますよ」 どうやら二つの船着場を使って乗船人員の調整をしているようだ。
 ヴァポレットは真ん中が乗降と立ち席、前後が椅子席になっている。勝手が分からないので乗降口近くの立ち席の手すり寄りに位置をとる。フェローヴィア(サンタルチア駅前の船着場)はカナル・グランデの逆S字(あるいは2)の書き出し点に在りリアルトはその中間点に在る。船着場を出ると直ぐに、さまざまな石造りの建物が連なって水に浮かぶあの光景が現れる。ホテルあり、カジノあり、アパートあり。建物によって運河側が正面あり、裏口あり。一体どうやって作ったんだろう?先ず浮かんだ疑問はこれだった。あとでガイドに聞いたところでは、干潟に木材の杭を沢山打ち込んでその上に建てたと言うのだが、それにしては何世紀もの間よくもったものだ!異様な景観に目を奪われる。大運河にはヴァポレットや水上タクシーばかりではなく雑多な船が行き交い、運河が道路代わりであることがよく分かる。何箇所かの船着場に寄ってリアルト橋をくぐるとリアルトの船着場だ。長いこと大運河に架かる唯一の橋だったことでその周辺は広場になっており、カフェテラスや土産物屋が密集し、観光客が橋も含めてその一帯にわんさと居る。
 ホテルはその名の通り橋の袂で船着場から1分。至極便利は良い。しかし、外壁の色を見て驚いた!窓枠部分が白であとは全部けばけばしいピンクである。日本ではラブホテル以外こんな外装はない。これが本当に四つ星ホテル(日本のガイドブックでは三ツ星)なのか?!と一瞬不安になる。木枠に素通しガラスのドアーを開けて中に入ると雰囲気が外とは全く変わる。こじんまりしたロビーは静かでその前にこれもこじんまりしたフロントがある。外はごった返しているのにロビーで一休みと言うような観光客は全く居ない。ホッとする。チェックインも英語で問題なく済み、ボーイにスーツケースを託し部屋へ案内してもらう。ここでまた不安な気分が再度頭を持ち上げる。ホテルの前面からはそれほど広い感じがしないが、内部はアップアンドダウンのある迷路のようになっている。はたして案内無しでロビーまで辿り着けるだろうか?火事にでもなったら?と。
部屋に入ってさらにびっくり!壁紙は幅の異なる緑と白のストライプに赤い花があしらってある。家具も緑。陽の注ぐ部屋ならともかく、路地に面した窓しかないこの部屋には妙に派手派手しく落ち着かない気分だ。しかし、これはある種の文化の違いかもしれないと思ったりもする。かつてワシントン郊外に住むアメリカ人の家に泊まったことがある。この時泊まった部屋はすでに独立して家を出た娘さんの部屋であった。その内装はやはりこの部屋のようなカラフルな壁紙やパステルカラーの家具に囲まれていた。郷に入れば郷に従おう!

<深い霧とタバコの口臭>
 9日はガイド付の観光を午前と夕方ゴンドラによる運河巡りをMHI社に頼んであった。午前のガイドと会う場所はサンマルコ広場の一角にある土産物屋の前。朝ホテルを出てびっくりしたのは大運河の対岸が霞んで見えるほどの深い霧であった。行き交う船も心なしか速度を緩めている。広場までの道は迷路のようだが昨日明るい内に確かめてあるので少々の霧くらいで道に迷う恐れはない。しかし、この調子では午前の観光の楽しみが殺がれる恐れがある。案の定広場に着くと南側の海に面した辺りは先が全く見えない。そんな霧の中で観光客のグループが少しずつ集団を作っていく。多様な人種、東アジア系もそこここに見られる。
 ガイドが付く観光はミラノ以来である。前回は英語グループに日本人がガイド付きで加わる形式だった。今回も同じ形かあるいは日本人だけのグループにイタリア人と日本人のガイドが付くのではないかと予想し、日本人らしい人達の動きを追っていたがさっぱりそれらしい人が現れない。すると薄紫色のやや厚手のコートをまといメガネをかけた、イタリア人の30代後半と思しき女性が日本語で私の名前を問いかけてきた。これが今日のガイド、シンシアさんである。この地の大学で日本語を学び日本へは数ヶ月の短期留学だったようだが、モレシャンさん風の欧米人独特のイントネーションを除けば、きちんとした会話が出来る。今日のお客は我々二人とのこと。濃い霧はこの時間毎日発生ししばらくすると晴れると言う。有り難い!
観光コースは、サンマルコ寺院→ドゥカーレ宮殿→ヴェネツィアングラスの工房である。それぞれの説明は観光案内書に譲り、個人的な関心事を略記してみたい。
 サンマルコ寺院:ミラノや後に見るフィレンツェのドーモ(中心寺院)、ヴァチカンのサンピエトロ寺院と比べ明らかに東洋風(球面・円弧の多用、装飾が細かいなど)である。イランの古都イスハファンのモスクやイスタンブールのアヤソフィア寺院等との共通性を感じさせる。つまりヴァチカンよりも東ローマ(ビザンチン)帝国側の影響が強かったということだろう。ヴェネツィア共和国の最盛期、その富も技術も東からもたらされたことを示している。
 ドゥカーレ宮殿:元首(ドージェ)の居城であり、行政府であり裁判所であった。古代ギリシャ都市国家は共和制であったがローマに飲み込まれていく。ローマは共和制から出発して帝政になった。その後このヨーロッパ・地中海域で共和制を維持したのはフランス革命以前ではここヴェネツィアしかない。7世紀から18世紀まで、1100年にわたる歴史上最長の共和国である。どんな共和制だったか?トップの元首は有力貴族から選ばれ、終身。貴族の男子は成年に達すれば国会議員になれる。国会議員の中から元老院議員が選ばれる。この元老院の中からさらに10人の委員が選ばれ、ドージェとその補佐官6名を加えた通称十人委員会が最高意思決定機関を構成する。ドージェ以外は2~3年で交代する。これをみると、ローマの元首に当る執政官は終身ではなかったが、共和政時代のローマと似たような形態とも言える。この各々の機能を果たす部屋が何度か火災に会いながらも改修・改築されて残っており、シンシアの説明も丁寧で往時の隆盛を偲ぶことが出来た。
 沢山のグループがそれぞれの言語で説明を受けるので何処も話しが聞き取り難い。その点こちらは少人数、シンシアの口元に耳を近づけて聞くことが出来る。参ったのは強烈なタバコの口臭であった。

<イタリア風?焼き魚> 夕方からはヴェネツィア観光の目玉、ゴンドラでの運河めぐりである。これも予めMHI社を通じて、夕食とセットで手配しておいた。乗船場所はサンマルコ広場の南側に開けるサンマルコ運河の一隅にあった。既に二組4人の日本人が集合場所に来ている。どうやら二組とも新婚さんのようだ。日焼けした中年女性の日本人ガイドが乗船の要領など説明してくれる。一組のゴンドラは特別仕立てで新婚さん一組の他にアコーデオン奏者ともう一人小太りで髭を生やしたオジサンが同乗する。我々4人は次のゴンドラに乗る。ゴンドラ乗り場はサンマルコ運河につながる小運河にあるが、ここを出るとしばらく外海につながり大型船も通るサンマルコ運河に出る。波が高いのでゴンドラは海浜遊歩道沿いに用心しながら次の内陸小運河の一つを目指す。ドゥカーレ宮の裁判所で有罪を言い渡された罪人が牢獄へ送られるとき通る“溜息の橋”が架かる運河がその出発点となる。この“溜息の橋”周辺は現在補修工事中で、広告の絵が描かれた化粧版で覆われておりがっかりさせられる。それでもそこを過ぎるとそれなりの風景になるのだが、今度は一緒に出発した二艘のゴンドラの船頭同士がまるで喧嘩でもしているように大声で何やら怒鳴りあっている。気分を殺がれることおびただしい。ガイドは同乗しないのでさっぱり要領を得ないが終始こんな調子であった。しかし、アコーデオンが奏でられ、髭のオジサンが立ち上がって美声でイタリア民謡を歌いだすと、さすがに静かになった。新婚さんへの特別サービスのおこぼれは我々だけでなく、運河沿いの道を散策する人や橋を渡る人々にも行き渡り、しばしの野外演奏を楽しみ、彼らに感謝し祝福する。
 船着場に戻ると件の日本人ガイドが待っている。ゴンドラ観光が夕刻だったこともあり、今回の現地ツアーで唯一ここだけ食事付きにしたのでレストランまで案内してくれることになっている。これに参加したのは同じゴンドラに乗った新婚さんと我々の二組であった。レストランは船着場から5分くらいの路地にある比較的カジュアルな感じの店で、地元の人も利用しているようである。店に入ると、ガイドが「料理はシーフードの前菜、プライムはリゾット、セコンドは焼いた魚料理、最後はデザートとコーヒーかティーです。飲み物は別料金です」と説明し、ここで案内を終えて去っていった。
 ハーフボトルを頼み、前菜・リゾットと進む。悪くない。自分でアレンジするより手間がかからず良かったなと思う。イタリア風の“焼き魚料理”に期待が膨らむ。やがて供された皿を見て一瞬「これがイタリア料理?」 その皿の上には真ん中に小ぶりのいか、その外側に小さないわしのような魚、これも中サイズの車えび、やや大きな赤いサーモン。いずれも焦げ目はついているがソースの類はかけられていない。いわし風のものを試すとまるでめざしである。他もサーモンがバターかオイルを使っているほかは、塩コショウだけの味付けである。「イタリアまで来て何でこんないい加減な焼き魚を食わなきゃいけないんだ!」私はワインの勢いもあり一応全部平らげたが、家内は途中でギブアップだった。
 思うに、これは決してイタリアあるいはヴェネツィアの料理ではなく、昼夜パスタ料理で過ごした日本人の中にこんな料理を所望する者が居て、日本人向け地元観光業者が指示したものではなかろうか?多分厨房で調理しているシェフ達は「日本人はこんなものが旨いんだろうか?」と思っているに違いない。
 後日フィレンツェのレストランで一夕魚料理を薦められた。ここも日本人観光客が多い町である。「また例の焼き魚か?」と思い遠慮した。隣のテーブルにあとから来たイタリア人カップルの女性がそのお薦め料理を注文した。鯛のような魚を焼いたものにとろみのスープがかかったもので、おいしそうに食していた。

<二つの映画>
 高校生、大学生の頃は映画を観るのが最大の楽しみであった。場末の映画館で二本立ての洋画をよく観たものである。海外へ旅立つ時いつもその時代に見た映画に思いが至る。今度のイタリア行きでは、このヴェネツィアで「旅情」と「大運河」、ローマには「ローマの休日」「終着駅」「自転車泥棒」などが思い起こされた。いずれも1950年代の半ばから後半に観たもので、まだ日本が貧しく、海外へ出ることなど夢のまた夢の時代だった。半世紀経った今と昔の映画の記憶がどこまで残っているか?こんな興味で街を徘徊するのも旅の楽しみの一つである。
 「旅情」は、キャサリーン・ヘップバーン演じるアメリカ人のハイミスが念願の欧州旅行を実現する中で味わう中年の淡い恋物語であるが、アメリカ人向け(監督は英国人の名匠、デヴィット・リーンだが)観光映画という趣もあり、容易にその軌跡を追うことが出来た。ヴァポレットに乗るシーン、サンマルコ広場のオープンカフェ、広場に面する観光客相手の骨董屋、ここのオヤジを演じるのが恋の相方ロッサノ・ブラッツィ、ゴンドラに乗り立ち上がって写真を撮ろうとして運河に落ちるシーン、別れのサンタルチア駅(駅舎はまるで違うが)。映画のシーンと現物が頭の中で一致すると何かホッとする。しかし、こういう“名所を確認すること”に重きを置く観光は果たして健全なのかとも思ったりする。不思議なのは、既にあの時代ハリウッド映画はカラーで撮られているはずなのに、何故か頭に浮かんでくるシーンに色が付いていないことであった。
 「大運河」は、フランス映画だけにアメリカ映画に比べストーリーが複雑でメンタルな要素が深い。若い女性(フランソワーズ・アルヌール)を巡る3人(一人は老人)の男と昔の老人のナチの贋金作りが絡む話で、当時観た時も理解し辛かったので今では筋もよく思い出せない。ただ、複雑に張りめぐらされた運河が、犯罪の実行や捜査に重要な役割を演じていたことで妙に記憶に残っている。現在と全く異なるのは人の数である。あの映画にもサンマルコ広場が出てきたような気がするが、どのシーンも静かで寂しい風景の中を靴音だけが響くような画面だった。例の“焼き魚”の夜、レストランからホテルへの帰り道を間違えどんどん辺鄙な場所に迷い込んでしまった。明かりは見えても人影はほとんど無い。ふとあの映画の中に取り込まれるような感じがした。
 頭に浮かぶ情景は、「旅情」が太陽きらめく“陽の世界”なら、「大運河」は重い雲に覆われた“陰の世界”であった。それでも何故かこちらにはくすんだ色が付いている。映画と現実の違い、50年の歳月、そして自らの老いがこの不可思議な現象を引き起こしているのであろうか?
 この奇妙な思いを今に残してヴェネツィアの旅はおわった。

2008年12月3日水曜日

篤きイタリア-2

3.篤き北部同盟の闘士
<ヴェネツィア行きインターシティ・プラス> ミラノ観光は実質10月4日午前の半日。見たい所、探訪したい所を多々残して6日午前ホテルをチェックアウト。ラッシュアワーを過ぎていたので、地下鉄で中央駅に向かう。前回のブレーシア行きで勝手が分かっているのでスムーズに移動と思いきや、最後の地下鉄改札出口から鉄道駅へのエスカレータが点検中。さほど大きくないスーツケースでも、年寄りには結構堪える。親切を装うスリ等に注意しながら駅中央ホールへ向かう。

 30分も早く着いたので表示板にはまだ当該の列車は見当たらない。発車時間は11時5分、ヴィチェンツァ到着は13時18分。乗車券はMHI社に事前手配してすでに入手済み。昼食をどうするか?到着後の行動に自由度を残すため駅構内のバールでピツァかサンドウィッチと飲み物を購入して、車中で食することにする。初めてのバールでの買い物である。ショーケースの中を物色し欲しい商品名を手早くメモ用紙に書く。飲み物をクーラーから取ってそれとメモ用紙をレジで示す。メモを指し示しながら指を二本立てる。サンドウィッチを二つ欲しいという意味である。英語で料金を言ってくれる!領収書を持ってショーケースに居るおばさんに渡す。何やら質問される!ポカーンとしていると電子レンジを指差すので、首を横に振る。商品を取り出すとまた質問らしきものが来る。再びポカーンとしていると、レジ袋を手に取る。今度は首を縦に振る。イタリア語が全く分からなくても欲しいものがチャンと手に入った。
 やがて表示板に列車の番線が示される。構内のそこここにある改札機で改札する。乗車券には車両と座席番号が印字してある。問題は車両番号である。同じ駅を発車するものでもそれが統一されていない。1号車が先頭の場合もあれば、最後尾の場合もある。さらに行き先が複数の列車を一編成にしている場合もある(ブレーシア行きの場合は最初の停車駅だからこの恐れはなかった)。
 大勢の乗客が駅職員を取り囲んで確認している。番線が直前に変わったと言うような話も経験者から聞かされているので、私もその囲みの中に入る。駅員(後でわかるが実は当該列車の車掌だった)に切符を示すと、「この列車です。この車両です」と最後尾の車両を指差しながら英語で答えてくれる。早速乗り込む。ブレーシア行きは着替え・洗面だけの手提げかばん、今回はスーツケース。ホームとデッキの高さの差が辛い。これは最後まで付きまとう鉄道旅行の難所である(こんな所を悪人はチャンスと狙っている)。
 実は国内旅行は全て一等車とした。この理由は、第一は料金が普通車と比べそれほど高くないこと、第二にセキュリティ確保のためである。
 今度の列車も特急だがユーロスターではなくインターシティ。電気機関車で牽引するタイプである。従って客席はコンパートメント形式。6人用コンパートメントには先客が二人すでに席を占めている。進行方向の窓側に座るのは中年の女性、通路側に座っていて我々が来て中央席に移ったのは中年の男性。二人とも旅行者というよりビジネスに出かける雰囲気だ。コンパートメント形式の列車が初めての家内はチョッとびっくりした表情になる。“ボンジョルノ”男性が声をかけてくれ気分が和む。
 38年前のフランス、その後カナダとロシアで何度かこの形式の列車に乗ったことがある。それらはカーテンが有ったり、ドアー全体が木製だったりで、通路と遮断され、密室に閉じ込められる感じだった。しかし今回は、前後の仕切り壁こそ木製で見通せないものの、通路側は仕切りもドアーも透明ガラスで作られ閉塞感が無く明るい。開放車両に慣れた日本人にはこの方が落ち着く。6人部屋に4人。今日の旅は2時間少々、ユッタリした気分で過ごせそうだ。
 発車時間が来る。しかし列車は動かない。通路越しに見えるデッキではまだ人の出入りが続いている。他の客は悠然としている。「(ハハーン これがイタリアンスタイルなんだな)」 10分、15分依然動かない。25分位して「メカニカルトラブルで遅れています」と英語で車内放送がある。結局出発は約30分遅れになってしまう。シルバーノが駅で待っていることが気にかかるが、不思議とイライラ感も不快感も起こってこない。明るい風土と好天のせいだろうか?ブレーシアから先は初体験だが前回と変わらぬ長閑な車窓風景が続く。
 出発前から通路で携帯電話をかけていたサングラスを掛けた若い男が、検札の車掌と何か話している。やがて我々のコンパートメントに入ってきた。
 車掌が前のほうに移動するとしばらくして、辺りを窺がうように黒人が前のコンパートメントを開けては中の乗客に話しかけ、何かパンフレットのようなものを渡している。我々のところへ来た時ちらっと見ると封筒状のものを一緒に渡す。どうやらアフリカ人で、ユニセフもどき(インチキ)の寄付を募っているらしい。当然違法行為で車掌を気にして挙動が落ち着かない。ヴェローナのひと駅手前の湖畔駅にはこんな連中が何人もいた。遥かに望見できる美しいガルダ湖と違法移民、イタリアの明と暗を同時に見ることになった。
 ヴェネト州に入って最初の大きな駅はヴェローナ、ここで合い客は皆下車する。大学生であろう若い女性とおばさんが入れ替りで乗り込んでくる。窓際に座った女子学生が教科書のようなものを開いている。注意してみていると、かなり高等な物理学と思しき数式がやたらと出てくる。恐れ入りました。
 やがて列車はシルバーノの待つヴィチェンツァ駅に20分遅れで到着した。


<建築世界遺産の町:ヴィチェンツァ>
 ミラノのような大都市の中央駅は終端型で到着列車は頭から突っ込んで、出る時は後ろが先頭になる。ホームへのアクセス通路そして駅舎本体は列車が出入りする反対側にある。ヴィチェンツァの駅は日本の鉄道駅同様通過型である。イタリアの駅には改札機能が無い(乗車の時は自分で印字機械に打刻させる)ので、通過型駅で駅舎に直結したホームに着くと構外へ出るのに複数の出口がある。最後尾で降りると、直ぐ近くの駐車場へは駅の中央まで行く必要がないので、降りた人は三々五々散っていく。中央ホールらしき所まで歩いている人は少ない。
 シルバーノは何処だ?ホールもあまり混雑していない。出迎え人も居ない。線路を跨ぐホームとの出入り口は別の所にあるので、そこへ行ってみる。やはり居ない!駅舎の外へ出てみる。駅前の広場はブレーシアより広々している。そこにもシルバーノは居ない!お互い携帯の番号は知っている。電話を掛け始めた時、何かに憑かれたように前を横切った男が居た。雰囲気でシルバーノだと直感した。「シルバーノ!」声をかけるが気が付かない。「シルバーノ!」と更に大声で叫びながらあと追う。やっと気が付く。「オォー!何処に居たんだ?」「ホールに居たんだが・・・・」「俺はホームを探していたんだ」 これが12年ぶりの再会である。
 駅横に停めた車は古いオペルのセダン。色はベージュだが汚れが目立つ。ドアーが大きく凹んでいる。擦り傷もいたる所にある。スーツケースを積み込むために開けたトランクの中には、いろんなものが散乱している。小事にこだわらない彼の大らかさの表われなのだろう。
 「先ずホテルに行ってチェックイン。一休みしなくていいかな?昼食は?」「昼食は車内で摂った。休息は必要ない」「OK!それではチェックインしたらロビーでこれからの予定を調整しよう」
 ホテル(Hotel Boscolo de la Vill)は微妙な位置にある。歩くにはチョッと遠いがタクシーでは近すぎる。MHI社はそれでもタクシー利用を勧めてくれたが、彼の出迎えで問題は解決した。「ホテルはなかなかいいホテルだ。しかし、ホテル周辺はあまり環境がよくない。出歩く時は注意するように」 ホテルへの道すがらこんな忠告をしてくれる。
 ホテルの正面はメインストリートに面しておらずわき道を入った所にある。一見東南アジアのホテルへアプローチしていく感じである(わき道の舗装や隣接する建物などがお粗末)。車寄せも無い。しかし、造りは彼が言うように悪くは無い。ロビーも広いしエレベーターも早い。部屋もアメリカンスタイルのチェーンホテル風で広さも十分。反面ヨーロッパの味わいは希薄だ。
 ロビーで先ずしたことはプレゼントの交換。彼が用意してくれたものは、ヴィチェンツァとサンドリーゴの地図、ヴィチェンツァ周辺の観光ガイドブック(イタリア語!)それにヴェネツィア共和国の旗である。「古い共和国の象徴なんだ」この旗こそ彼の心情と日常活動を伝える象徴でもあるのだろう。
 「今日は、これからヴィチェンツァの町を案内し、次いでバッサーノ・デル・グラッパへそこから自分の住む町、サンドリーゴに戻り夕食にしよう。それからここのホテルに送るよ」「その後、この近くである政治集会に出る。州知事も来るんだが良かったら一緒に参加しないか?」「ウゥン?政治集会?皆英語を話すのかい?」「誰も英語は話さない」 これだけは勘弁してもらう。
 「明日は北の山を中心とする案と南の平野を観光する案がある。どちらがいいかな?」 これはブレーシアで平原のドライブを楽しんだこともあり、“山”を希望する。「明後日は列車の出発時間まで、ヴィチェンツァの郊外を観光し昼食を摂ってから見送るよ」 こうして彼は三日間のフルアテンドで我々のヴィチェンツァ滞在計画をまとめてくれた。
 ヴィチェンツァの町はもともと城郭都市である。町の北に小高い丘があり古くは修道院だった教会がある。ここから市街の全貌が望める。城郭内は旧市街、建物は低層で屋根瓦はオレンジ色。その外は新市街でビルなどはこの部分にある。ここから旧市街へ戻り、嘗てはヴェネツィアとも繋がっていた運河脇の今はツーリストセンターになっている城郭前の駐車場に車を停め、旧市街を徒歩で観光する。
 ルネサンス期にバッラーディオとその弟子たちによって建てられた主要な歴史的建造物は、今はアンドレア・バッラーディオ大通りと呼ばれる通りにある。華麗なファサード、洒落た窓、小奇麗な中庭を持つ16~17世紀の屋敷は、今ではオフィスやアパートに内部を変えて現在でも使われている。無論それ以前の記念碑的な建物もその中に混じっている。ガイドブックに依ればこの町の建築がやがてヨーロッパの町々の建物・佇まいに大きな影響を与えたとある。残念ながら時間の制約で十分堪能するところまでいかなかったが、ルネサンス建築の雰囲気を味わえただけでもここを訪れた甲斐があった。

<グラッパの町:バッサーノ> 3時少し前ヴィチェンツァの町を離れ、我々はいよいよシルバーノのホームタウン、サンドリーゴ方面に向かう。次の観光スポットはバッサーノ・デル・グラッパ。サンドリーゴより先である。方向は北東、遥かに山並みが見える。途中古い教会二ヵ所で車を停める。一つは現役だが、もう一つは個人の家の庭にあり納屋のような使われ方をしているらしい。片流れ様式の屋根が古さを示すのだという。
 サンドリーゴの町はバイパスする。左(西)側に山城が見え、万里の長城のように山の尾根伝いに城壁がうねっている。「あれは明日観光する」 マロスティカの町だ。
 あのアルコール度の高いリキュール、グラッパの名前のつくバッサーノ・デル・グラッパの町に着いたのは4時少し前だったろうか。今まで訪れた町々と同様ここも城壁に囲まれた町であったことを随所に残している。違うのはどの町より山が間近に迫り、町自身かなり高い所にあることだ。車を停めて案内を始めたシルバーノは直ぐ傍の建物を指差して「ここは病院で、俺はここで生まれたんだ」と言う。ヴェネズエラに渡る前彼の家族はこの辺に住んでいたらしい。
 近くの谷を見下ろす石造りの展望テラスに向かう途中、バールの前で偶然友人たちと会う。どうやら幼馴染というよりは政治活動の同志らしい。どう紹介されたのか分からないが皆握手を求めてくる。
 展望テラスの下はU字谷、谷底にも町があり小さな家々が遠望できる。その遥か先は山が幾重にも重なっている。「下に見える町の向こう側は、かつてはオーストリア領だった。普墺戦争でオーストリアが敗れた後、向こうに見える山頂までイタリア領として回復した」「第一次世界大戦でさらに勝利して、今の国境はあの山の遥か北方まで延びたんだ。ヴェネツィア共和国時代の失地を回復したわけさ」 この地の政治団体で活動する彼のエネルギーの根源はこんな歴史を経た土地に生を受けた生い立ちと無縁では無かろう。
 夕闇迫る城内の広場を案内しながら「今年春にはここの広場で違法移民たちと肉弾戦をやったよ」 こんなヨーロッパの古い田舎町にも肌の色・宗教・文化の違う民族がヒタヒタと浸透してきている。それらを阻止する城壁はない。

<サンドリーゴのピッツァ屋:ヴェッキア・ナポリ>
 サンドリーゴの町に帰り着いた時には日はとっぷり暮れていた。「お腹は空いたかな?」 この日のランチは列車内で食べたサンドウィッチのみ。この誘いを待っていた。「少し早いがディナーにするかな」 確かにまだ6時少し過ぎだ。
 来る時はバイパスしたサンドリーゴのメインストリートに入る。教会と広場があり、その周辺には商店がある。その中のパスタ屋に向かいながら「ここはなかなか美味いピッツァを食べさせるんだ。しょっちゅう来ている店なんだよ」 店は“Vecchia Napoli(古いナポリ)”と言うバール兼ピッツェリアだった。確かに少し早いらしく、お客は誰もいず、オヤジが赤い火がチロチロ見える大きな窯の前で作業をしているだけだった。シルバーノが調理場に向かい何やら話をしている。我々のことを説明している雰囲気だ。その内おかみさんが出てくる。家族経営らしい。
 メニューを見ると、英語が併記してある。こんなところでも英語があるのに感心していると「この辺はローマよりもミュンヘンの方が遥かに近い。ビジネスもそちらの方が活発なんだ」と言う。EUの共通語は英語と言うことらしい。
 彼は壁に張られた当店推薦の“Baccala”と言うのを注文、我々は無難なマルガリータとサラミを頼む。そしてシルバーノが赤ワインを勧める。彼も同じものを頼んでいる。これからホテルまで小一時間ドライブをするのにである。どうもイタリアでは適量のワインは問題ないのかもしれない。昼抜きに近い状態もあろうが、ここのピッツァは味付け、焼き加減そしてサイズとも絶品であった。
 密度の濃いシルバーノゆかりの地半日観光は、言わば田舎に住む蕎麦通の友人贔屓の店で“ざる”を食するように終わった。
 翌晩のディナーも同じ店で摂った。昨日シルバーノが頼んだ“Baccala”を頼んでみた。食べると何やら魚の味がする。でも何の魚か分からない。シルバーノに聞いて分かったことはどうやら“干ダラ”らしい。これはこの辺で作るのではなくノールウェーからの輸入品で、随分昔から当地の名物料理になっているとのことであった。

<イタリア産業革命発祥の地:スキオ> 翌7日の出発は9時。ロビーに下りるとすでにシルバーノが待っている。昨晩は我々をホテルに送った後政治集会のはず。献身的なホスト振りに感謝の気持ちでいっぱいだ。
 今日の予定を話してくれる。先ず、サンドリーゴ経由でヴィチェンツァ北西の山岳地帯の町スキオに行く。次いで一旦サンドリーゴに戻りここで昼食。昼食後昨日の午後バッサーノ・デル・グラッパに行く途中垣間見た山城のあるマロスティカの町を訪れる。ここからはこの一帯の地理・歴史に詳しい彼の友人が参加し、昨日見残したグラッパの見所を含め案内してくれる。最後はサンドリーゴに戻り、シルバーノの自宅でしばし休んだ後例の“古いナポリ”でディナー。今日も盛り沢山の観光メニュー。幸い晴天つづき。楽しい一日になりそうだ。
 サンドリーゴの町へは10時頃着く。街道筋の工業団地のカフェ兼バール兼レストランで小休止。スキオへ向かう前に工業団地を案内してくれ、その中のある工場で車を止め「自宅にファックスが無いので、ここのものを使わせてもらっているんだ。チョッと中を案内しよう」と言う。イタリアで工場を見学するとは思わなかったがエンジニアの血が騒ぐ!
 そこはかなり大きい印刷・製本工場だった。どうやら彼の政治団体が発行する機関紙(彼は編集長のような役割)やパンフレットをここに頼んでいるらしい。事務所でいろいろな人を紹介され、お茶まで付き合うことになった。日本の同種の工場を見学したことがないので比較は難しいが、製本工程には日本製の機械もある整理整頓のよく行き届いた工場だった。
 スキオの町はサンドリーゴの北西1時間弱の所にある。鉄道駅近くの駐車場に車を止め町へ向かう。緑が多く清潔な感じの町だ。さらに北の方には険しい山並が遠望される。聞けばこの町はイタリア産業革命発祥の地とのこと。この山がちの地形は水力発電に適し、それを動力に繊維工業が発達したのだと言う。嘗ての工場はオフィスや展示館(シルバーノはこれを見せるつもりでいたのだが、現在改修中だった)などに転じているようだが、確かにそれらしき形状の建物が散見され、古いイタリアの中規模産業都市の佇まいを今に残している。なじまないのはスカーフを被ったアジア系の女性たちの町行く姿である(シルバーノによればインドネシア人)。
 スキオの町を徒歩で一巡した後、車でさらに北へ向かう。シルバーノは昨日の計画検討時「山岳地帯に行きたい」と言う私の願いを律儀に果たそうとしているのだ。道は高速道路では無くトレントを経てスイス、オーストリアへ繋がる旧街道、スキオの町も市街周辺部の道は旧道そのままなので信号で片側交互交通もある。やがて人家がまばらになると道の勾配も増しカーブが多くなる。しかしオンボロオペルは健気に頑張っている。この車はマニュアル車、シルバーノは車そのものには全く興味が無いようだが、運転技術はなかなかのもので、頻繁なシフトワークがエンジンの力を目いっぱい引き出しているのだ。
 「第一次世界大戦時オーストリア軍はここまで攻め込んだんだ」「この洞穴はオーストリア軍の武器弾薬庫」 器用にハンドルを操りながらシルバーノが説明してくれる。あのヘミングウェイの「武器よさらば」の世界はここだったのだろうか?この辺はオーストリア・ハンガリー帝国が版図を広げていた時代はオーストリア領、彼の曽祖父はオーストリア国籍で陸軍の士官だった。普墺戦争でイタリアは失地回復、彼の祖父は第一次世界大戦に応召、イタリア兵として戦死したとのこと。この地の複雑な民族模様が彼の政治活動につながっているのは間違いない。
 こんな会話をしていると、突然眼前に峨々たる岩山が現れる。そんな筈は無いと思いながらも「アルプスか!?」と問うと「いやいやただの岩山。アルプスはズーッと先さ」「もう少し上って引き返す。写真が撮りたかったら言ってくれ」」 もっとヒルクライムを楽しみたかったが、帰路のダウンヒルでブレーキがフェードして利かなくなるのではないか?と気になる。方向転換できるスペースのあるところでUターン。
 案の定下りは怖かった。マニュアル車ゆえ頻繁にシフトダウンしてエンジンブレーキを利かせているものの、結構フートブレーキも使っている。古い車なのでディスクブレーキかどうか分からない。ドラムブレーキだったらどうしよう!? 「チョッとこの辺で写真を撮りたい」小さな村が見えたとき口実を設けて停車してもらう。本音は少しでもブレーキを冷やしたかったからだ。手洗い、写真撮影、付近の散策にできるだけ時間をとるようにしたが気休め程度の休憩だった。出発前に前輪を覗いてみたらディスクが見えてひと安心。
 サンドリーゴ出発時に立寄ったバール兼レストランに戻ったのは1時頃。店内はいまだ昼食客で混んでおりテーブルは満席。そこここにシルバーノの知り合いが居り彼は挨拶に余念が無い。やがてテーブルが空いておばさんが注文をとりに来る。今日のお薦めは“牛のホワイトソース煮”だという。「飲み物は?」とシルバーノが聞くので、ワインを飲みたかったが車での観光、午後は彼の友人にも会うので炭酸入りのミネラルウォータを頼む。しかし彼はここでも赤ワインをオーダーしたのである。街道筋のレストラン、道に面した駐車広場や工業団地へのわき道にはたくさん車が駐車している。ほとんどここのお客に違いない。あちこちのテーブルで結構ワインをやっている。どうもイタリアでは飲酒運転の基準が日本とは異なるようだ。料理は薄味で肉は柔らかく美味しかったが、肉料理に赤ワインがあればもっと良かったのに!

<ミニ万里の長城:マロスティカ> サンドリーゴからマロスティカまではひとっ走り。ここで彼の友人と会い町を案内してもらうことになっている。平地の城壁が山へ立ち上がる西側の折曲がり部分の外側に駐車場がある。ここに車を停めて。西側の城門を通って広場を横切り、南門の外に出る。バス停広場にインフォメーションがある。ここが待ち合わせ場所だ。
 やがてブルーメタリックのミニバンがやってくる。チェコのシュコダ製だ。降り立った男は西欧人としても大柄でがっしりしている。英語は話さないのでシルバーノの通訳で会話が始まる。名前はフランチェスコ、この町の生まれ育ち。今は会計士をしながら郷土史家のような活動もしているらしい。また、ここが大切だが、シルバーノの政治活動の仲間でもある。
 この町のランドマークは二つの城である。つまり上の城(山城)と下の城(平城)である。城そのもの、広場、記念碑などが主な見所で秘宝などが展示してあるわけではない。早速南門周辺から徒歩観光を始める。
 この周辺は古くヴェローナに起こったスカーラ家の領地で、この城郭都市は14世紀から建設が始まったものである。北辺の城壁は山の尾根伝いにあり、北門は山の中腹にある。あとの東西・南門は平地にあり、東西門を結ぶ通りは自動車も通行(一方通行)する町のメインストリートになっている。下の城(カステッロ・インフォリオーレ)は城郭で囲まれたエリアの中心部にある。この城の南側、南門に至る広場は明るい茶色とベージュの大理石で千鳥模様に作られ、まるで大きなチェス盤のようだ。そうこの町を有名にしているもう一つの名物、それは隔年この盤の上で行われる人間チェス(イタリア語でスカッキ)なのである。起源は1454年、二人の騎士が一人の王女をめぐって戦ったという歴史がある。今年は開催年で9月にその催しが開かれたとか。
 平城の裏を東西に通るメインストリートの北側は古い居住区、教会があり、さらに山の中腹には元修道院だった大きな建物がある。居住区内を通る石畳の道の一部はローマ時代のもので、道路の中央部がなだらかに盛り上がって左右の排水溝に雨水が流れるようになっており、道路中央は色の違う石を用いて分離帯を示している。こんなことをフランチェスコが丁寧に説明してくれる。
 居住区を東に向かい、東門を出て城壁の外側に沿って北に向かい東壁が途切れた所で北壁に沿って西に向かう。もう舗装は無い。道は山の尾根に沿って急な上りになる。城壁も山の勾配に合わせて波打つようになる。北門があった所には門ばかりではなくオフィスのような機能を果たす建物などが残っているが今は改修されて人家になっていた。
 ここからは浅い谷を隔てて遥か北方の山々が見える。西日に明るいその谷間を指差しながら、フランチェスコが「この谷間にはローマ時代の街道が通じており、往時は軍団がここを通ってドナウ川に達していたんだ」と語る。ローマ帝国滅亡につながるゴート族の侵入は、その逆に北東方面からこの町を通過したに違いない。シルバーノ、フランチェスコ共に北部同盟シンパ・ヴェネツィア共和国回顧派である。ローマを中心とする南部イタリアへの共感はない。彼らはひょっとするとローマ人ではなく、ゴート族の末裔かも知れないと思ったりもする。
 東門近くのカフェで小休止。シルバーノはビールを飲む。車を運転するフランチェスコは紅茶、私はコーヒー。歩き回った後のビールが旨そうだ!
 南門の駐車場に戻り、今度はフランチェスコの車で山城(カステッロ・スーペリオーレ)観光だ。ミニバンは中も外もきれいで新車のようだ。急峻なつづら折れの道を小気味よく登っていく。この車は座高位置が高く助手席は最高の眺めを堪能できる。城壁の上は、嘗ては歩けたが今は崩壊箇所が多く補修工事がおこなわれている。城門は一台ぎりぎりの幅しかない。上の“城”は城というより砦と言ったほうが良い。現在ではレストランになっている。その前に車を駐車し、さらに階段を上り、仮補修した城壁の最上部に登る。真下には平城とチェス盤、城壁外につながる新市街地が展望できる。アパートやオフィスビルが見えるが高層建築は幸い4階までで止まっているという。この季節、この時間、遠方は霞んでいるがシーズンによってはヴェネツィアやヴェローナまで遠望できるそうだ。北方を見ると北門跡からの眺めがさらに遠くまで見通せる。高地を押さえることが戦いの帰趨を決めた時代、この城は当に“カステッロ・スーペリオーレ(優位の城)”であったに違いない。

<ボッサーノ・デル・グラッパ再訪>
 これでフランチェスコの案内は終わりかと思っていると、車はシルバーノが停めた駐車場に寄らずヴィチェンツァ~サンドリーゴ~グラッパを結ぶ街道に出る。シルバーノが後ろから「グラッパ周辺には、昨日自分が案内できなかった見所がまだまだ在るので、詳しいフランチェスコが案内してくれる」と言う。
 最初に訪れたのは、グラッパの手前にあるヴィラである。ヴィラと言うのは日本ではリゾートマンションの名前などによく見かけるが、本物は貴族や富豪の豪邸である。英国ではマナーと言うのがこれにあたると言っていい。そのヴィラはこの地方の水運を担ってきたブレンタ川を背にした土地にあり、デザイン・建築はバッラーディオ自身ではなく弟子たちの作品、パルテノン風の円柱が一際目立つ建物だった。敷地の中を街道が走っているので、当時の広い庭は見る影も無いが、正面の本館と左右の別館(使用人居住区各種作業場や厩などがあった)はその時のままで保存されている(建物だけで家具什器の類は無い)。裏はブレンタ川まで続き、ヴェネツィアへも行くことが出来る船着場が在ったとのこと。
 このあとグラッパ郊外の傾斜地に建つものや掘割のあるヴィラを案内してもらった。いずれも個人所有で現在も使われており、敷地内に入ることは出来ず、当に垣間見ることしか出来なかったが、その佇まいは隆盛期のヴェネツィアの富を窺がわせるものであった。
 次に訪れたのはグラッパ市内に架かるヴェッキオ橋(コベルト橋)である。この橋はバッラーディオの設計で屋根が付いているところが特色である(と言ってもこのタイプの橋はイタリアではあちこちにある。またヴェッキオという言葉は“古い”と言う意味でフィレンツェにも同じ名前の橋がある)。実はこの橋は第二次世界大戦でアメリカ軍の爆撃で破壊され、現在のものは戦後復元されたものだと言う。こんな話を聞くとき、三国同盟の仲間としてアメリカへの恨みを共有するような気分になるのは私の世代が最後かもしれない。
 この橋の袂にはこの地方のリキュール、グラッパの販売所とそれに関する小さな博物館(?)がある。博物館の方はもう閉館していたが、販売所の周りでは観光客や若者が小型のグラス(ウィスキーのシングル用グラスのような)に注がれた無色透明の液体をちびりちびりやっている。私も飲んでみたいと思ったが、二人が全くその気を示さないので我慢することにした。結局この酒を飲んだのは、帰りのアリタリア航空の機内だった。本来ブランデーに近いはずだが(厳密にはブランデーはワインを蒸留するのに対しグラッパはワインの搾りかすを蒸留する)、味はスッキリして上等なウォッカに近い感じがした。30~60度と言うアルコール純度から来る共通性だろうか?
 マロスティカの駐車場に戻り、フランチェスコに別れと感謝を告げサンドリーゴへの道をとる。直ぐにシルバーノにフランチェスコのファミリーネームを聞くと「チョッと難しい名前なんだ。スカナガッタと言うんだ」「スカナガッタ?おぼえやすい!決して忘れないよ!(“好かなかった”どころか大好きだ)」

<シルバーノ家訪問>
 本日のハイライトはシルバーノ家訪問である。家族が皆遠隔地にいて(奥さんはコロンビアへ里帰り、長女はトリエステ、次女はトレントの大学に在学)、男一人のところへお邪魔するのは本意ではなかったが、普通のイタリア人の生活の場を見てみたいと言う好奇心には勝てなかった。今朝行動計画を聞かされ、彼の自宅立ち寄りが含まれていることを知った時「ヤッタ!」と言う気分だった。
 グラッパからマロスティカを経てヴィチェンツァを結ぶ街道の中間点にあるサンドリーゴは、これら三都市とは違い、古い町ではあるが城郭都市ではない。平坦な土地はいくつもの道路と運河が入り込み、付近は農地や工業団地である。歴史的にはどうやら市場町らしい。パスタ屋のある中心部は石造りの古い建物が並んでいるが、周辺部は低層のコンクリート製個人住宅(2階建て)やアパート(2階から4階建て)が多い。建物の色が黄色っぽく塗られ屋根がオレンジ色であること敷地にゆとりがあることを除けば日本の郊外都市の景観に似ている。
 彼の自宅もこんな様式の4階建てアパートの4階の一区画であった。ガラス扉が一階階段ホールにあり、ここから入って階段を上る。エレベーターは無い。玄関を入って左側は広いリビング・ダイニング、玄関の先はキッチンだがここは玄関からは見えず、ダイニング側とつながっている。キッチンとダイニングの間に石造りの小さなカウンターがあり、少人数の食事はここで摂れる。ダイニングには伸縮自在(訪問時は4人用にセット)のダイニングテーブルがあり、ここでお茶をいただいた。一部屋になったリビング側にはソファーとテーブル、壁には化粧棚や大型TVが置かれている。バスルームと寝室はこの広いリビング・ダイニングのさらに奥になる。バスルームを使わせてもらい、夫婦の寝室を見せてもらった。大きなダブルベッドの頭の部分は壁に接しており、その壁に何枚かの大きなヨーロッパの地図が張られている。歴史的な民族と土着宗教の変遷を示しているとのことだった。これ以外に二人の娘さんたちの部屋があるはずだがそれは見ていない。もし我々が彼の申し出を受けてここに泊まることになっていれば、それらの部屋が使われたのだろう。
 キッチンからベランダに出られる。ここの広さは日本のアパートに比べやや幅があり、丸テーブルや屋外用の椅子が置かれている。陽気のいい日はここで食事も可能だ。ただ造りが華奢で地震でもあると崩落してしまいそうだ。「この辺では地震は無いのかい?」「先ず無いね。何百年か前バルカン半島で強い地震がありトリエステでモニュメントの土台がずれたくらいかな?」 ヴェスヴィオス火山の噴火によるポンペイ最後の日を印象付けられた日本人にとって、予期せぬ答えが返ってきた。
 こんなやり取りをダイニングテーブルでお茶(わざわざ緑茶を用意してくれた)を飲みながら語らっていると、彼の携帯電話に呼び出しがかかった。しばらく何やら話していると「急な用事が出来た2,30分で片付くから、二人で気楽に過ごしていてくれ。戻ったら食事に行こう」 何とも大らかな性格である。初めて訪問した外国人を置いたまま彼は出かけてしまった。
 帰って来た彼の一声は「我々の政治活動に大変うれしいニュースが得られた」だった。それが何を意味するのかはいまだに不明である。
 もし彼の家を訪ねる機会があったら、これだけはと言う願いがあった。12年前訪日の際彼が大変な読書家で2000冊を超える書籍を持っていることを聞かされた。彼の博識とマルチリンガルそして精力的な政治活動(文筆活動)はこの読書量からもたらされると推察している。その知的活動の根源である勉強部屋(書斎?)を見てみたい。これがその願いである。留守にするために戸締りを始めたシルバーノに「君の書斎は何処にあるんだ?見せてくれないか?」と頼んでみた。「OK。外へ出るとき案内するよ」意外な返事が返ってきた。このアパートには地下に収納用の小部屋やガレージのような空間があり、彼はこの二つを別に借り(?)ているのである。収納用小部屋にはPCが置かれドアー側以外の3面は書棚。廊下を挟んで反対側のガレージ側にも書棚がありこの2ヶ所のスペースに約2000冊の本と資料などがビッシリ詰め込まれていた(ガレージには自転車や何やらも置かれている)。今まで目にしたことも無いユニークな書斎。目的は達せられた。
 二晩目のディナーも同じパスタ屋である。前述のようにこの日は“Baccala”のピッツァにした。飲み物はマロスティカのカフェでシルバーノがビールを旨そうに飲むのを見て“今夜はビールだ”と決めていた。
 前日のように今日も当地の人のディナーにはやや早いのか、入った時は店内に客は居らずメニューには無いサラダなどの話をしていると、おかみさんがOKしてくれる(出てきたものはミニトマトやレタスなどの生野菜だけで、ドレッシングは無くビネガー、塩、胡椒で適当に自分で味付けをする)。
 やがて客が入りだすと、一組の熟年カップルを見てシルバーノが声をかけ席を立った。戻ってきた彼は「弟夫婦なんだ」と言いながら紹介してくれる。当地で医院を開業しているのだと言う。シルバーノが同席を勧めたが合流する仲間がいるらしく別の席に着いた。ホームタウンでの最後の晩餐はこうして終わった。

<ラ・ロトンダ> 10月8日、今日はヴィチェンツァを発ちヴェネツィアへ移動する日だ。同じヴェネト州の中、路線も乗換え無しの直結、所要時間は50分。出発時間は14時20分なので十分ヴィチェンツァ観光の時間がある。
 この日もシルバーノは9時にホテルに来てくれた。チェックアウトを済ませ、この日の予定を聞くと「これからヴィチェンツァ周辺の見所を訪ね、お昼に駅隣接の駐車場に車を停めて旧市街でランチを摂り、発車少し前に駅へ戻る」とのこと。周辺の見所として、ロトンダというバッラーディオの造ったヴィラとチッタデーラという町の名が出た。今日のメニューもお任せコースである。
 ロトンダは16世紀バッラーディオがアルメリコ侯爵の為に作ったヴィラで、ヴィチェンツァの町の西方の小高い丘の上にある。下を走る国道からもよく見えるし、庭園から見下ろす景観も素晴らしい。建物は4面いずれにもギリシャ式円柱で構成されたファサードがあり屋根はドーム状である。円柱の縦の線、梁の三角形、屋根の円形のバランスが見事だ。ゲーテもここを訪れ、あの“イタリア紀行”の中にこの建物を絶賛した一文があるという。
 朝9時にホテルを出てここへ直行したので10時の開館には早すぎた。それまでの時間を潰すためさらに西方に進み国道を離れて北西に向かうと周辺はなだらかに起伏する農地になる。オリ-ブが沢山実をつけている。展望のきく広場に車を停めしばしこの田園風景を愛でる。「これが典型的なヴェネト州の農村風景さ」シルバーノが誇りと慈しみを込めてポツリと語った。
 10時過ぎロトンダに戻り見学をする。今日は曇りで外からの撮影にはイマイチの環境だ。一階は中央部にホール、四隅に部屋があり一部は当時の面影を残している(他は各種資料の展示・説明に使われている)。内部の作り、装飾もギリシャ風である。重苦しいあるいはおどろおどろしたそれ以前のキリスト教美術と明らかに異なる。これがルネサンスなのだろう。
 ここで11時過ぎまで過ごしてしまったのでチッタデーラ見学はパスすることにした。あとでこのチッタデーラを調べてみると、城郭都市の形態が比較的そのままの姿で保存された町らしい。特に城郭都市の防衛拠点となる塔状の砦が十数残っているのが歴史的に希少価値のようだ。英語のCitadelは城郭都市の砦を意味する。この町の名前Cittadellaはその語源に違いない。チョッと残念な気がする。
 車を駅横の駐車場に停め、旧市街のオープンレストランでパスタランチを取る。彼のこれからの運転が気になるが、ここはワイン無しでは済まされない。乾杯!そして三日間の素晴らしい時間をありがとう!
 駅のホームまで送ってくれ、スーツケースをヴェネツィア行きユーロスターに積み込むことまでやってくれた。紫外線よけのガラス窓は外から内部が見えない。顔を窓に押し付けて彼に手を振る。気が付いた彼が微笑みながら手を振り替えした。
 「君の好意を決して忘れないよ!」

2008年11月18日火曜日

篤きイタリア-1

1.イタリアへ行こう
<募る思い> シルバーノとの長年のクリスマスカード・年賀状のやり取り、3年前ひょっこり横河本社で会ったマウロとの会話「イタリアに戻った。フェラーリは5台になった」、昨年の滞英生活で知った英国人のイタリア文化と歴史に対する敬意・憧憬、それに塩野七生の「ローマ人の物語」。イタリアへの思いは募った。
 一方で、欧州大陸へほとんど出かけたことの無い不安が反力としてはたらく。38年前セーヌ河口ポート・ジェロームの石油化学工場へ出張した時の道中英語の全く通じない世界。パリの街を散歩中ジプシーの子供に突然取り囲まれた恐怖。シルバーノも手紙で「ヨーロッパを楽しみたければ、英語以外のヨーロッパ語をモノにしてくることを薦めるよ」とあったが何も出来ていない。殺人のような残虐な犯罪はアメリカに多いが、スリ・かっぱらいの被害は欧州訪問者に嫌と言うほど聞かされる。
 友人たちと会うのが第一目的だから自由な旅にしたい。しかし言葉の問題をどう克服するか?安全をどう確保するか?パック旅行は言葉と安全に関しては問題ないものの、自由な行動は殆ど不可能で今度の旅には全く向かない。欧州旅行に経験のある友人・知人(米国人を含む)に助言を求めるとともに、イタリア紀行の本などにも目を通した。一番頼りになるのは大学時代の親友Mである。彼は長いアメリカ勤務の後、引退後イタリアに入れ込んで夫婦でイタリア語会話も確り学んでいる。二人は大学の混声合唱団の仲間、イタリア行きは音楽を楽しむことにある。彼の地で痛い目にもあっている。経験豊かな彼との会話からの結論は、英語で何とかなりそうだ、そして安全はそれなりの準備・対策を、である。
 8月初旬から計画を具体的に詰め始めた。先ずイタリアの友人たちへのメール連絡とスケジュール調整。訪問候補地選択、イタリア国内移動とフライトの調整、現地旅行社(日本人向け)との接触・見積り依頼。最終的に入手可能な航空券の都合から、10月3日成田発・ミラノ行き、10月14日ローマ発・成田行き(15日到着)で全体スケジュールが決まった。宿泊地は、ミラノに3泊(この間にマウロを訪ねる)、ヴィチェンツァに2泊(この町はシルバーノの住むサンドリーゴに近い)、ヴェネツィアに2泊、フィレンツェに2泊そしてローマに2泊と割り振った。友人を訪ねるほかは定番の観光旅行。国内移動はすべて鉄道とした。
 友人達は自宅に泊まるよう勧めてくれたが、マウロはアメリカ人の前夫人と離婚し今は独り者(の筈)、シルバーノは偶々この時期コロンビア人の夫人は帰省中、二人の娘も遠隔地の大学にいる。男の一人所帯に転がり込むことは、自分がその立場にあったらとても出来ることではない。好意を傷つけぬよう丁重に断った。
 この間にも、現地旅行社や友人たちと細かい調整を行い、10月3日快晴の中アリタリア航空7787便は定刻に成田を飛び立った。この便はJALとのコード・シェアー便で運行主体はJAL、乗員も乗客も日本人がほとんどで、外国旅行の気分が無いまま12時間のフライトが続いた。
<ソンブレロの男>
 シルバーノとの最初の出会いは、1979年6月ニューヨーク郊外、ライタウンのヒルトンで3日間開催されたExxonのTCC(Technical Computing Conference;ワールドワイドな技術分野のコンピュータ利用発表年会)である。世界中のエクソンから200名を超える参加者が集まり、彼も私もこのメンバーの中に居た。私はこの時、川崎工場のシステム技術課長であると伴に工場全体の生産管理システム構築のプロジェクトリーダーであった。この会議への参加目的は、そのプロジェクトを紹介することである。最初の渡米から9年を経て、それなりに経験を積み地位も上がっていたが、これだけの国際会議で発表するだけの語学力も度胸も無かった。原稿を読み上げるような発表が終わったとき、何とかできたという安堵感と思い通りに話せなかったことに対する苛立ちで複雑な思いにかられていた。休憩時間、そんな私のところへ幅広の帽子を持ち鼻の下に立派な髭を蓄えた男がやってきて「良い発表だった。英語が上手いな」と声をかけてきた。これがシルバーノとの出会いである。実はこの男の存在はホテルにチェックインした日から気が付いていた。ロビーを徘徊する、チョッと米国人やヨーロッパ人とは雰囲気の異なる風体;幅広帽は西部劇でおなじみのテンガロンハットと異なり山の部分が丸みを帯びている。南米の牧童(ガウチョ)が被るソンブレロのようだ。靴はズボンの裾に隠れているものの乗馬用のブーツ風。髭の整え方がやや大時代的(少し左右に捻ってある)、なのである。これは後でわかることなのだが、彼はスペイン語、イタリア語、フランス語、ドイツ語、英語が出来るのだが、この中では英語に一番自信が無く、この会議でほとんど誰とも話をしていなかったらしい。英語の下手な私に声をかけることで、やっと孤独から開放されたようである。それ以来会議が終わるまで食事や休憩時間に話しかけてくるようになった。聞けば、ヴェネズエラ人で元々家族はイタリアから移民したのだと言う。今回会うまで彼がExxonヴェネズエラ(ラーゴオイル)から参加していたと長く信じていたが、実際はヴェネズエラ国営石油に所属し、Exxonの招待でこの会議に参加していたことが分かった。
 その年の暮れ、彼からクリスマスカードが届いた。こちらも版画の年賀状を送ってそれに応えた。旅先のアイスランドから絵葉書を送ってきたこともある。確か1981年の春だったと思うが、彼から結婚式への招待状が届いた。とてもヴェネズエラまで出かけることは出来ないので、お祝いの手紙を送った。結婚相手はコロンビア人のマリアと言う女性、現在の奥さんである。結婚後しばらくして、長女の誕生と石油会社を辞め奥さんの実家(コロンビアのメデジン)で牧畜業に従事しているとの便りが届いた。さらに数年後「コロンビア(この時期麻薬のメデジンカルテルが跋扈していた)は娘の教育に良くないので、南ア連邦のプレトリアに移った」との便りが届く。
 そして1992年の早春「プレトリアから父の出身地イタリアに戻り、次の仕事を始めるまでの間日本と南洋(ナウルだったと記憶する)を訪問するので、適当な宿泊先を探して欲しい。また日本に行ったら是非亀戸天神に行きたい」との知らせが届く。その年は丁度長女の大学受験、我が家も人並みにカリカリした雰囲気でとても外国人を泊められるような状態ではない。幸い会社が御殿山ラフォーレホテルの一室をキープしており、この期間は空いていたのでここを手当てした。成田に迎えに出た私の前に13年前と変わらぬ立派な髭と人懐っこい彼が現れた。それから3日間、鎌倉・江ノ島、念願の亀戸天神などを案内し、寿司やうどんすきでもてなした。
 イタリアに落ち着いた彼は森林業に関係する仕事しながら、政治活動に力が入っているようだった。特に“PADANIA”と呼ばれる北部イタリア地域の独自性を守る運動に積極的に関わっている様子をクリスマスカードに添えた手紙で伝えてきた。“民族と土着宗教”が彼の関心事であり、日本訪問時にアイヌに関する知識を披瀝したり、亀戸天神訪問を望んだりしたのもそれと深く関わっている。今回の訪伊で、複数のイタリア人から異民族流入に不安を訴える心情を聞かされたことも、彼の活動の動機付けなっているようだ。
<赤いフェラーリ> IBMのスーパープログラマー、マウロの名前を知ったのは1980年である。ERE(Exxon Research & Engineering)に次世代プロセスコンピュータシステム開発のため長期出張していた同僚・部下たちの報告書に頻繁に現れる彼は、難問を次から次へと解決していく。イタリア人であるがその才能を見込まれ米国IBMに転出しており、プログラム同様英語も達者だという。
 その天才と始めて会ったのは、入社以来19年の工場勤務の後初の本社勤務となり、このプロジェクトの主管部門の課長になったときである。1981年東京にやってきた彼との初対面はこちらが管理職と言うこともあり、極めて儀礼的なものであった。しかし、夜の懇親会で彼が無類の車好きであることを知り、同好の士として一気に親しみが増した。翌1982年秋EREに出張した私はここを拠点に仕事をしていたマウロと再会し、ディナーの招待を受けた。当時ニュージャージに在ったEREへ通うため、パシッパニーという町のホリデー・インに滞在していた私を夕刻迎えに来てくれた彼の車を見て驚いた。何と真っ赤なフェラーリではないか!「夕食までには時間がある。少しドライブしよう」とルート10をあの独特の甲高い爆音を轟かせながら30分ほど走ってくれた。聞けばこれ以外に2台のフェラーリをレストア中とのこと。天才プログラマーは、天才メカニックでもあったのだ。その夜近隣では比較的大きな町モーリスタウンで、知的で可愛い夫人のジャネット共々ご馳走になったのは鹿肉料理。今にして思えば、ヨーロッパで秋に好まれるジビエ(野鳥・野獣)料理の趣であった。
 その後も東京で、ニュージャージで何度か彼と会ったり食事をしたりした。私との会話はプログラムの話は無し、専ら車談義である。3年前三鷹で会った時、IBMを退職し自分の会社を立ち上げたこと、ジャネットとは残念ながら離婚したこと、そして母親の遺産を相続してイタリアへ生活の拠点を移したことを聞かされた。「それであの3台のフェラーリはどうなったんだい?」と聞いたところ「今は5台保有しているよ」との答えが返ってきた。「エッ!5台?(新車なら2億円くらい)」
 「君の素晴らしい5人娘に会いたい」訪伊計画を知らせるメールにそう書いた。「ミラノ空港まで車で迎えに行く。是非我が家に泊まってくれ。居たいだけ居てくれて良いんだよ」篤い返事が直ぐに届いた。事前調整ではミラノ滞在の中日、10月5日朝ホテルに迎えに来てもらい、その日一日を彼の在所、マネルビオで過ごし夕刻ミラノまで送ってもらうことになっていた。グーグルマップで彼の自宅を調べた時「チョッとミラノまで車での送迎は距離があるな」と感じていた。
<ミラノでの異変>
 ミラノへの飛行ルートは、成田から新潟に出てそこから北上しナホトカを経てシベリアに入る。ここからシベリアを横断してほぼモスクワを目指す感じである。2003年から5年にかけてロシア出張で頻繁に利用した空路である。モスクワのやや南をかすめ、ラトビア辺りでバルト海に達しここで南に進路を変え、デンマーク、ドイツの上空を通過する。スイスアルプスはさすがに高く、下界の夕闇の中にその山容が迫る。ここを過ぎると暮明の残る中、機は高度を下げロンバルディア平原の北西隅にある、ミラノ・マルペンサ空港に予定よりも20分も早く到着した。入国審査では、同時に着いたアジアからの到着便でインド系、中国系などの外国人と同じラインに並んでいたが、混雑してくると「ジャポネはこちらへ」と、イタリア人・EU市民の窓口へ案内された。空港には現地旅行会社(マックス・ハーベスト・インターナショナル;以後MHIと略す)が手配した、英語を話せる運転手が出迎えてくれた。車は黒塗りのベンツEクラス、運転手は車好き、前週のシンガポールF1グランプリ、翌週の日本グランプリで盛り上がる。上々の滑り出しだ。30分チョッとのドライブで、ミラノ中心部ドォーモ(地区司祭のいる教会)近くのスパダリという名のホテルに着いた。個人旅行者向けの目立たぬ造りが好ましい。
 カウンターだけのフロントで来意を告げると、「マウロさんご存知ですね?先ほど電話がありました。到着次第電話をいただきたいとのことでした」 こんなやり取りとチェックイン手続きのバタバタする中で、ボーイへのチップ用に10ユーロ紙幣をコインに崩してもらった。
 荷物運びをボーイに頼み、部屋に入ると直ぐに持参した携帯でマウロに電話した(ヨーロッパではホテルからかける電話は法外の値段になると聞いていたので)。「成田からの飛行はどうだった?」「まあまあだったよ」「少し疲れているようだね。ところで5日の予定なんだが、夕方6時から外せない用事が入ったんだ。予定を変更して明日4日午前の市内観光が済んだら、列車でこちらへ来てその晩は我が家に泊まり、5日午後ランチを済ませてミラノへ戻ることにして欲しい」「ウーン、明日の観光の予定はスケジュールがはっきりしてないし、いきなり最寄り駅へ辿り着けるかどうかチョッと心配だなー」「大丈夫!ブレーシアはミラノ発のユーロスターやインターシティが最初に停まる駅だし便も頻繁にある。翌日ホテルを発つ前にフロントから電話してくれ。スタッフと話をして、来られるように手筈するから」 不安を抱えつつOKする。まだ9時少し前、頑張ってライトアップされたドォーモやそれに連なるガレリアなどを散策、ホテルに戻り荷物を解き、貴重品を机の上に並べる、コインを数えると6ユーロしかない。ボーイにやったチップは2ユーロ、外で買い物はしていない。考えてみるとフロントでの両替以外ない!あの有名なつり銭・両替詐欺である。感じの良い若いスタッフだったがせこい奴だ!しかし初日に体験してあとのためには良かったかもしれぬと慰めた。

2.マネルビオの二日間 4日の市内観光は、英語理解者グループ主体に日本人7名が加わる構成で、在伊14年のKさんと言うベテラン日本人ガイドが同行してくれた。スフォルツァ城→最後の晩餐→スカラ座→ガレリア(天井の高いアーケード商店街;プラダの本店もここにある)→ドォーモと定番コースを巡ってここで解散となった。この道中MHIのスタッフTさん(女性)からKさん経由で電話が入ったので、急なブレーシア行きのことを話したところ該当時間帯の列車ダイヤ連絡があった。ツアー解散後Kさんにホテルのロビーまで同行してもらい、ミラノ中央駅までの行き方(地下鉄の乗り方)、列車の切符の買い方などを丁寧に教授してもらった(イタリア語で、所望の切符を頼む文章を書いてもらう)。
 部屋へ戻り一泊旅行の準備をしてマウロに電話する。「駅までの行き方、列車の切符の買い方、乗れる可能性のある2本の列車の発車時間がわかった。駅で切符を買ったらもう一度電話する」と伝え、フロントで地下鉄ルートを確認して中央駅に向かう。ドォーモ駅は2本の地下鉄が交差するので要注意だが、切符を買ったキオスク(イタリアでは地下鉄の切符はキオスクか自動販売機で買う)で確認し無事中央駅に着く。中央駅は現在改築中で日本のガイドブックとは異なる所にチケットカウンターがあるが、これはKさんが事前に知らせてくれていた。多くの人は自動販売機で切符を買っているがとても自信が無いのでカウンターに並んで求めることにした。Kさんが書いてくれたメモ(これに2本の当該列車の出発時間を書き足した)を見せると、英語で「今日のですね?クラスは?」ときたので「セコンド(普通車)」と答えると、早い方の列車を発券し番線を教えてくれた(これ全て英語)。ホームから最終連絡をマウロにする。列車はユーロスター(新幹線のような電車型)ではなくインターシティ、電気機関車が牽引するタイプである。座席指定だったのでそこへ行くと4人掛けボックスシートにチャンと空席があり、窓側は二人の外国人だった(あとで分かったことは、彼らはブラジルの航空会社乗組員でヴェネツィアへ出かけるところだった)。イタリアで始めて乗る列車は定刻に中央駅を発車し、明るい午後の日差しの中、平原を東に向けて疾走する。検札に来た車掌に次の停車駅がブレーシアであることを英語で確認する。38年前のフランスとは大違いだ。
<黒いフェラーリ> ミラノ中央駅からのマウロとの電話では「駅前は駐車が難しいので大通りを真っ直ぐ100メーターほど歩いて欲しい」とのことだった。駅舎の前で大通りを確認していると直ぐ傍に彼が居た。「How are you?ようこそイタリアへ!」 駅舎に並行する通りの向こうに黒いフェラーリが停めてある。どうやら駐車スペースを確保できたらしい。「あれだよ!」と私の旅行かばんを取り上げてそちらに向かっていく。今回は当方に連れがいるので、後ろに補助席のある456GTである。
 ブレーシアはロンバルディア州ではミラノに次ぐ第二の都会だが規模は比較にならず、南に進路をとると直に商業施設、中小規模の工場と住居らしきものが混在する郊外そして収穫の終わった田園風景に変わってゆく。彼の住む町、マネルビオはここから南へ約20Km、バイオリン製作で有名なクレモナは、更に南へ20Km下った先になるので時々道路標識に“Cremona”が現れる。アウトストラーダ(高速道路)を使わず、一般道を走ってくれるのが嬉しい。やがて車はマネルビオの街中に達し狭い街路をゆっくり走る。5時少し前、教会ではこれから結婚式が始まるようで、正装の男女がファサードの階段や隣接する小公園の緑陰に集まって談笑している。「今通っているのが町のメインストリート。公園の向こうに見えるのがタウンホール(市役所)、この教会はタウンホールよりはるかに歴史があるんだ。特にこの鐘楼はね」「ほら!こんな町にも中華レストランがあるんだぞ」と二車線ぎりぎり、やや屈曲した石畳の街道を徐行しながら説明してくれる。両側の建物はほとんど石造りの二階建て商家。中心部を出ると周辺部は居住区や町工場や倉庫のような建物があり、4階建てのアパートなどもある。更に外縁部に出ると墓地や個人住宅のある一帯がありこの一隅に彼の住まいが在った。敷地は500坪ほどあろうか、背丈ほどの石の塀で囲まれ、裏側に2箇所その一部が切り取られ、自動車で出入りする時の電動式ゲートが設置されている。手前は母屋と一体となった2台収容のガレージ、奥のゲートは8台収容できる独立した専用ガレージの出入り口である。奥のゲートが重々しく横に動いていく。道は専用ガレージの前を通り、半地下式の1階裏口につながっている。「ようこそ我が家へ!」 黒い猫が裏口横の小屋から出てきた。
<城石家> 彼の家族名はCastelpietra、Castelは英語のCastle(城)であり、Pietraはイタリア語で石のことだという。つまり城石さんである。先祖は南ドイツに発し、何代か前にこの地に移住したとのこと。戦前は繊維工業の盛んな地で、彼の父親はここで最大の繊維会社(往時は2000人規模)の経営者(技術者、オーナーではない)を務め、特に福祉政策(社宅や託児施設など)に力を入れ評価が高く、町の名士だったようである。今の家はその父親が建て、母が90過ぎまで住んだ家だという。彼はこの地で育ち、教育を受け高校はクレモナまでバスで通っていたとのこと。両親の墓も当然この町にある。兄弟・姉妹がいるのかどうか、高等教育を何処で受けたのかは定かでない(このブログを読んだ友人から、ミラノ工科大学電子工学科卒との連絡あり)。家族は母が飼っていた黒猫ともう一匹灰色の猫がいた。そしてこれはあとで詳しく紹介するが一人住まいと思っていた彼に、実はこれからの人生を伴に過ごす、アグスタという伴侶がいたのである。
 「もう直アグスタが戻って来ることになっている。その前に家の中を案内しよう」 半地下の裏口から入った所は広いユーティリティルーム、と言うより彼の作業場である。キッチンやバスルームもあるが各種工具、工作台、ラリー用品、模型(ほとんどがフェラーリ)、ワインやら暖炉用の薪など雑多なものが棚や床に散在している。当に男の隠れ家だ。次の部屋は彼らが日常使っているリビング・ダイニングルーム、広さは30畳位あろうか、一部リビング部分に外部から明かりが入るようになっている。ダイニング部分には4人用のテーブルと椅子があり、我々も朝食や午後のお茶はここでいただいた。リビングは正面に暖炉がありこの前にソファーが置かれ、コンピュータ駆動のオーディオユニットが備わっている。そして暖炉の上には何とフェラーリのF1マシーンのクランクシャフトが鎮座している。壁のいたるところに鹿の角が取り付けられている。これは祖父の友人、オーストリア貴族のハンティング成果だという。
 アグスタとの挨拶が済み、ダイニングでお茶を飲んでいるとどうも彼が落ち着かない。「僕のラボを見て欲しいんだ」「ン?(こっちは早くガレージの中が見たいんだが)」  この部屋も30畳位、ほぼ正方形。2面はL字型に机の高さ・幅で棚がある。その上に多数のディスプレーが並び、棚の下にはPCやワークステーションのCPUや周辺装置、電源などが置かれている。今はほとんど目にすることの出来ない、汎用機用の記憶装置なども稼動可能状態にある。世界に散らばる彼の顧客、石油精製・石油化学会社、計測・制御システム会社、コンピュータ会社、は当初はIBMの標準品を導入したが、長い利用期間のうちにダウンサイジングとオープンシステムの普及で種々雑多のコンピュータを使うようになった。この異なる利用環境に適ったサービスを提供するのが彼の仕事である。この仕事をここマネルビオから提供するために、彼が作り上げた仕事場がこのラボ。恐らく世界でここほどACS(IBMとExxonが開発したプロセス制御システム;Advanced Control System)のシステム環境が充実した所は現在存在しない。このACSは、あのアポロを打ち上げたシステムと深く関わっている。そしてマウロはこのシステムソフトの第一人者であることを現在まで続けている。石の城は、凄まじい男の城でもあった。
 半地下の上の1階(と言うか2階というか)部分は通常の居住区である。玄関ホールを挟んで一方の側は3つの寝室(この一室に泊めてもらった)と共通のかなり広いバスルーム。ホールの他方はダイニング・キッチン、更に奥に客間を兼ねた広いリビングが在る。このダイニング・キッチンとリビングルームは普段使っておらず、我々が滞在した日、ディナーから帰った後ここでお茶を飲んだのが久し振りだったようである。レースのDVDを見せてくれたが、時差ボケ二晩目とても長くは留まれなかった。
 庭は相当広い。何せ全部で10台の車を納めるガレージがあっても、りんごの木を含め緑に事欠かない。目下庭の一隅にはプールを建設中である。大型の浄化装置を持つそれは12M×6M位で本格的な水泳には物足りないが、個人の息抜き用としては十分な広さである。どうやらマウロも泳ぐ気は無いらしく、「プールサイドでデッキチェアーに横になりながら過ごすんだ」と言っていた。このプールや専用ガレージはいずれも最近建てたものだが、そこには広すぎる庭の維持に苦労した母親の晩年が自らの老い先に重なってくるらしい。「昔はきれいな庭だったが、すっかり荒れてしまってね。実は隣の家のあるところも昔は我が家の庭だったんだが母が処分してしまった」
<8人娘とミッレミリア> 独立ガレージをじっくり見る機会はディナーに出かける前にやってきた。これこそここへ出かけてきた第一目的である。所有するフェラーリの大部分が中古車であることはアメリカにおける彼の言動から想像していた。ブレーシアの駅まで迎えに出たのも1995年型である。くの字形のガレージに入って予想外だったのは、クラシックな車が目につくこと、そして2台分のスペースは空きになっていることだった。ガレージの中で更に赤いカバーを被った赤いテスタロッサ(1985年型)、黄色の355F1(1998年型)それに先ほど駅まで出迎えてくれた黒の456GT(1995年型)がいわゆる中古車である他は、嘗て最も美しい車の一つと言われたランチャア・アウレリアB20(1953年型)、2+2(補助席)のフェラーリ330GT(1967年型)は中古車と言うより遥かに価値の高いクラシックカー(正しくはヒストリックカー)の範疇に属するものである。聞けば空いたスペースは目下外部のガレージでレストア中のランチャア・フラミニア・ツーリングGT(1961年型)とフェラーリ・ディーノGT(1972年)が収まる場所だと言う。更に母屋に直結したガレージにはフィアット・アバルト695SS(1966年型)が停めてある。これはとんでもない車で、40年代後半に開発され確か70年頃まで生産されたイタリアの国民車、フィアット500(チンクエチンタ;最近この印象復刻版ともいえる車が発売され人気を博している)をアバルトと言うスポーツ・チューンナップ会社がエンジン排気量を695CCにアップして飛ばし屋やレーサーに提供していたものである。彼の娘たちはお転婆な4人の熟女と4人の老女だったのである。
 マウロのもう一つの顔は、マネルビオに隣接するクウィンツァーノという町に本部を置く、ヒストリックカークラブ(Club Auto Moto Storiche)の会長を務めると伴にヒストリックカーで争うレーシングドライバーでもあるのだ。これらのレースはスピードを競うよりは、お祭り的な要素が強く、チャリティを目的に催されることが多いらしい。それでも中には私でも知っている大変由緒あるレースもある。それがミッレミリア、1000マイルレースである。このレースは1927年に始まった公道レースで、ブレーシアをスタート/ゴールにローマを折り返し地点とする1000マイル(1600Km)でスピードと耐久力を競うものであった。戦争中は中断したものの、1947年に復活し1957年まで続いたが、この年フェラーリの運転者が観客を巻き込む大事故を起こし中止となった。その後1967年大幅にルールを変えてヒストリックカーレースとして甦った。現在は公道では最高速度が50Km/hに制限され、スペッシャルステージも細密な時間コントロールを求められる形に変わっているが、出場資格が年代物の車に限られるため上位入賞は無論1600Km完走は至難の技と言われている。マウロもランチャアB20では完走できず、フェラーリ330GTで何とか完走、成績は百何十位だったとか、参加記念のショパールの腕時計を自慢げに示しながら苦労話をしてくれた。また、これらのヒストリックカーレースを通じて日本人とも交流するようになり、神戸で貿易商(香辛原料や毛皮の輸入)を営むKさんから贈られたカレンダーがリビングに掛けられていた。
<アグスタのこと> 「マウロはイタリアに戻り新しい恋人がいるようなんですよね。それも人妻だとか」こんな話を元日本IBMのセールスだったMさんから聞いていた。しかし訪伊を告げるメールのやり取りにその気配は全く感じられなかった。家に着き半地下のリビングで一休みしている時「実はアグスタと言う女性がここに同居している。国語教師をやってたんだ。まもなく戻ってくる」「彼女は残念ながら英語は喋れない」「血圧が高かったりチョッと健康に問題があるが、ディナーに同席するよ」と始めてその存在を打ち明けてくれた。カップルで迎えてもらえることに何かホッとした気分になった。
 やがてアグスタが戻ると四人でまたお茶になった。「僕が17歳、アグスタが14歳お互い初恋だった。この間いろいろ有ったが一緒に暮らすことになったんだよ。近く正式に結婚する。そしたら新婚旅行に日本に行こうかな?」 幸福そうな幼馴染の熟年(多分63歳と60歳)カップル。アグスタの恥らう姿はまるで少女のようだ。
 ディナーに出かける時、「奥さんはアグスタと一緒に向こうの車に乗ってくれ」と言う。確かに補助席付フェラーリに4人は無理だ。見ると黒い最新のベンツSLK(2座で金属製の屋根はオープンに出来る)が母屋と一体となったガレージにある。「僕が買った車でオートマティック車はあれしかないよ」 9台目の車である。これはアグスタの専用車、ヒストリックカーのラリーではナヴィゲータも務める車好きの彼女にとって、お気に入りの車らしい。
 この日は土曜日、マウロがiPhoneを駆使して問い合わせた第一候補のレストランは満席。第二候補の“SCIA’ BAS”と言うレストラン兼バールに出かける。「ここへは週3回は来ているかな」 料理やワインの選択は専らアグスタが主導権を持つ。料理具合にもチェックが厳しい(一皿やり直させた)。勧められるままにフルコース(前菜、パスタ、メイン)を頼んでしまう。前菜の揚げラビオリ(?)が美味しく食べ過ぎてしまう。次はリゾット。最後のミラノ風カツレツは半分も食べられなかった。「構わない!うちの猫たちに持って帰ろう」飲んだ赤ワインは二本だったろうか?「オイオイ運転するのにそんなに飲んで良いのかい?」「公道走るわけじゃない(?)チョッと街中走るだけだ」 仕上げはもちろんジェラートとエスプレッソ。英語を話さないアグスタともすっかり打ち解けた気分になり飲酒運転で帰宅。彼らは来客用リビング(?)でしばし歓談とワインを考えていたらしいが、ソファーに座るなりコックリし始め、早々に寝室に失礼した。
<イタリアン・ブレックファスト?>
 寝つきは良かったが、時差ボケは一晩では調整出来ない。何度か手洗いに起きながら朝を迎えた。隣の部屋の動きを聞き耳立ててモニターしつつ、頃合を見て半地下のリビング・ダイニングに出かけると、丁度朝食の準備が始まったところだった。食卓に着くと、ビスケットとロールパンを透明の袋に詰めたものが用意されている。あとは飲みものをどうするか(コーヒーか紅茶)である。当にコンチネンタル・スタイルの朝食である。家庭での朝食はこれ一回きりしか経験していないのでなんとも言えないが、フィレンツェのホテルで朝食に卵料理を頼むと、その分追加料金を請求されたとことと併せて、これがイタリアン・ブレックファストの典型なのかもしれない。ランチやディナー(この場合は時間の遅さもも要考慮)の重さを考えるとこの朝食は健康管理の面からも合理的と言える。のちのランチでの会話から推察すると彼らは外食の頻度が高そうだ。あまり家では手間を掛ける料理をしないことにしている特異な家庭なのかもしれない。外国で個人の家に泊まる面白さはこんなところにもある。
<日曜日の平原> 朝食時にこの日のスケジュールを告げられる。ランチまでの時間ヒストリックカーで近隣ドライブ、一度家に戻り荷物を持ってレストランに向かい、アグスタも交えゆっくり食事をしてブレーシア3時5分発の列車でミラノへ戻る。天気は快晴。ヒストリックカーに乗れる!異存は無い。
 引き出された車は黄色のフェラーリ330GT(1967年型)。この車は前出のミッレミリアを完走した車。クーペタイプで後ろの座席が昨日乗った456GTに比べやや広い。これなら3人乗車も問題なさそうだ。エンジンに火を入れると年代物のエンジンに有り勝ちな不規則な回転や振動が無い。さすがにスーパーエンジニアの手入れが行き届いている。ただスピードは抑え気味で50~60Km/h位で走る。日曜日の朝、道を行く車は少ない。マネルビオの街中は彼の父親の遺産とも言える嘗ての工場や従業員用のアパートなどを見て廻り、やがて車はロンバルディア平原を西に向かう一般道に出る。遥か北には山並みが見え「あれはアルプスそのものではないがXX(意味不明)アルプスと言うんだ」 今度は南側を一瞥しながら「南にも山並みが見える」「南北両方の山並みが見えることは極めて稀だ。今日は特別天気が良い」 道の両側は刈り取りの済んだ畑が続く。ここら辺はとうもろこしがメインのようだ。青い空、黄色い畑地、高い並木の緑、絶好のドライブ日和。のんびり走る我々をはるかに排気量の小さい車たちが追い抜いていく。近隣の町には半ば朽ち果てた小さな城砦などもある。このような城砦は非常時の逃げ込み用だったらしい。わき道へ入ると退避場所でしか車が行き交うことは出来ない。珍しいヒストリックカーに、皆こちらを見てオヤッというような顔をしている。
 「しばらく乗っていなかったんでガソリンを入れよう」 イタリア最大手のAGIPのスタンドは完全に無人だ。「このスタンドはヒストリックカークラブの友人のものなんだ」 勝手を知った行きつけのスタンドで給油していると、他のお客が車に寄ってくる。どこでもこの車は人気者だ。
 穏やかな秋の日差しの中、最初は西進ついで南に向かいクレモナの近くまで行きそこからマネルビオに戻ったのは11時頃。一旦例の半地下のリビングに落ち着きお茶、いやカンパリー、を飲む。寛ぐ中で彼がふと漏らした言葉「仕事で世界中飛びまわった。500万マイルは確実に超えた。もう遠くへ行きたいとは思わない。ここが一番落ち着く」 憧れのイタリアを駆け足で走り出したばかりの私にも、彼のこの気持ちは納得できる。こんなイタリア人を心底羨ましく思った。
 例によってiPhoneでチェックしたレストランはまたも第一候補は満席。第二候補の“Alle Rose”は町を出てブレーシアに向かう街道沿いにあった。ここも彼らがよく利用する所らしく(週に3階は来る)、オーナーの女性と親しそうに話している。最初は三々五々集まってくるお客に庭でワインとカナッペや例の揚げラビオリなどの前菜がふるまわれる。これが美味しい!食べ過ぎ注意だ。
 やがて中に移り、アンティパスト、パスタ、セコンドと例によってフルコース。メニューはほとんどオーナーのお勧めに従った。かなり広い室内がどんどん埋まってゆく。少し離れた席には正装した地元の人のグループも見えるし、子供連れもいる。小さな町にいくつもレストランがあり、何処も混んでいる。料理は美味いし、値段も手ごろなのだろう。イタリア人が慎ましく暮らしながら、生まれ育った土地を愛するのはこんなライフスタイルが可能だからだ。このことをこのマネルビオ、そして次のサンドリーゴで確信した。
 赤ワインを飲みながらのランチが終わる頃マウロが「帰りの列車を1時間遅らせて、一旦我が家へ戻り、一休みしよう」と言い出す。アグスタも賛成のようだ。昼の酒は利くし、これから向かう大都会ブレーシアでは飲酒運転取締りも田舎とは違うのかもしれない。眠気を催す昼下がり黒いフェラーリはもと来た道を戻る。お茶を飲んだり、記念写真を撮ったりして小一時間過ごし、4時5分発の列車でミラノに戻った。
 素晴らしいマネルビオでの二日間だった。