2008年12月27日土曜日

篤きイタリア-3

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4.運河が巡る町;ヴェネツィア
 二人の友との楽しい時間はあっという間に過ぎ去った。ヴィチェンツァのホームでシルバーノが「もう自分は日本に出かけることはないだろう。でもいつでもこちらに来てくれることは歓迎だ」とポツリと言った。一瞬お互いの歳を考え胸が詰まった。「有難う。こちらも娘さんたちをいつでも歓迎するよ」 気休めのような答えを返すのがやっとだった。
 今回のイタリア行きを計画した段階から、二人の友と過ごす旅とその後の旅は別の旅であることを重々承知していた。後半はただの観光旅行、パックで旅するのと大きな違いはないと。それでも少しでも受身にならない旅をしたくそれぞれの訪問地に夢を託した。ヴェネツィアは学生時代(高校生だったような気もする)に見た映画「旅情」と「大運河」、フィレンツェには“ルネサンス文化”、ローマはあの“ローマ帝国”である。しかし、ヴェネツィアに関してはシルバーノと会ってから“ヴェネツィア共和国”がもう一つのテーマとしてクローズアップしてきた。一時はアドリア海、エーゲ海そして遥か黒海沿岸まで勢力を持った海洋大国の中心地に何か往時の面影は残っているのか?
 ヴィチェンツァから今回初めてのユーロスターに乗る。しかし時間はたった50分。ほぼ中間点のヴェネト州を代表するパドヴァに停車、本土側最後の停車駅メストレを過ぎると鉄路と高速道路だけが海の上を走る。水の都へのそれらしいアプローチに期待は高まる。十数分の海上走行の後ヴェネツィア唯一の鉄道駅、サンタルチア(光の女神)駅に到着。あの有名な民謡はナポリのもので夜景だが、午後の陽光に輝く海の上を走ってきてもこの名前はうれしい。


<水上バスに乗って>
 ホテルはリアルトホテル。代表的な観光名所、言わばヴェネツィアの銀座四丁目、リアルト橋の袂に在る。タクシーが全く存在しない街でどうホテルへ行くか?計画段階で調べると、水上バスが一般的だがモーターボートのタクシーがあるとなっていた。世界に冠たる観光地、水上バスで何とかなるだろう。それに「旅情」のキャサリン・ヘップバーンが演じるアメリカのOLも英語しか話さなかった。サンタルチア駅前広場の前はあのカナル・グランデ(大運河)、そこには水上バス(ヴァポレット)の船着場があり、切符売り場には各国からの観光客が並んでいる。頻繁に利用する人や長期滞在者には各種の割引切符があるが、ホテルと主要観光地を巡るだけなら徒歩で十分。切符は一回券と決めていた。暗記したとおり「コルサ・センブリーチェ!」と大声で言うと、切符を渡しながら「そちらの船着場だよ」と言うようなことを言って指を差す。航路2がリアルトへ行く船と予め調べておいたので“2”へ行くとやや込み合っている。乗船係が“1”へ行けと隣の乗船場を指示する。「リアルトへ行くんだが」「どちらもリアルトへ行きますよ」 どうやら二つの船着場を使って乗船人員の調整をしているようだ。
 ヴァポレットは真ん中が乗降と立ち席、前後が椅子席になっている。勝手が分からないので乗降口近くの立ち席の手すり寄りに位置をとる。フェローヴィア(サンタルチア駅前の船着場)はカナル・グランデの逆S字(あるいは2)の書き出し点に在りリアルトはその中間点に在る。船着場を出ると直ぐに、さまざまな石造りの建物が連なって水に浮かぶあの光景が現れる。ホテルあり、カジノあり、アパートあり。建物によって運河側が正面あり、裏口あり。一体どうやって作ったんだろう?先ず浮かんだ疑問はこれだった。あとでガイドに聞いたところでは、干潟に木材の杭を沢山打ち込んでその上に建てたと言うのだが、それにしては何世紀もの間よくもったものだ!異様な景観に目を奪われる。大運河にはヴァポレットや水上タクシーばかりではなく雑多な船が行き交い、運河が道路代わりであることがよく分かる。何箇所かの船着場に寄ってリアルト橋をくぐるとリアルトの船着場だ。長いこと大運河に架かる唯一の橋だったことでその周辺は広場になっており、カフェテラスや土産物屋が密集し、観光客が橋も含めてその一帯にわんさと居る。
 ホテルはその名の通り橋の袂で船着場から1分。至極便利は良い。しかし、外壁の色を見て驚いた!窓枠部分が白であとは全部けばけばしいピンクである。日本ではラブホテル以外こんな外装はない。これが本当に四つ星ホテル(日本のガイドブックでは三ツ星)なのか?!と一瞬不安になる。木枠に素通しガラスのドアーを開けて中に入ると雰囲気が外とは全く変わる。こじんまりしたロビーは静かでその前にこれもこじんまりしたフロントがある。外はごった返しているのにロビーで一休みと言うような観光客は全く居ない。ホッとする。チェックインも英語で問題なく済み、ボーイにスーツケースを託し部屋へ案内してもらう。ここでまた不安な気分が再度頭を持ち上げる。ホテルの前面からはそれほど広い感じがしないが、内部はアップアンドダウンのある迷路のようになっている。はたして案内無しでロビーまで辿り着けるだろうか?火事にでもなったら?と。
部屋に入ってさらにびっくり!壁紙は幅の異なる緑と白のストライプに赤い花があしらってある。家具も緑。陽の注ぐ部屋ならともかく、路地に面した窓しかないこの部屋には妙に派手派手しく落ち着かない気分だ。しかし、これはある種の文化の違いかもしれないと思ったりもする。かつてワシントン郊外に住むアメリカ人の家に泊まったことがある。この時泊まった部屋はすでに独立して家を出た娘さんの部屋であった。その内装はやはりこの部屋のようなカラフルな壁紙やパステルカラーの家具に囲まれていた。郷に入れば郷に従おう!

<深い霧とタバコの口臭>
 9日はガイド付の観光を午前と夕方ゴンドラによる運河巡りをMHI社に頼んであった。午前のガイドと会う場所はサンマルコ広場の一角にある土産物屋の前。朝ホテルを出てびっくりしたのは大運河の対岸が霞んで見えるほどの深い霧であった。行き交う船も心なしか速度を緩めている。広場までの道は迷路のようだが昨日明るい内に確かめてあるので少々の霧くらいで道に迷う恐れはない。しかし、この調子では午前の観光の楽しみが殺がれる恐れがある。案の定広場に着くと南側の海に面した辺りは先が全く見えない。そんな霧の中で観光客のグループが少しずつ集団を作っていく。多様な人種、東アジア系もそこここに見られる。
 ガイドが付く観光はミラノ以来である。前回は英語グループに日本人がガイド付きで加わる形式だった。今回も同じ形かあるいは日本人だけのグループにイタリア人と日本人のガイドが付くのではないかと予想し、日本人らしい人達の動きを追っていたがさっぱりそれらしい人が現れない。すると薄紫色のやや厚手のコートをまといメガネをかけた、イタリア人の30代後半と思しき女性が日本語で私の名前を問いかけてきた。これが今日のガイド、シンシアさんである。この地の大学で日本語を学び日本へは数ヶ月の短期留学だったようだが、モレシャンさん風の欧米人独特のイントネーションを除けば、きちんとした会話が出来る。今日のお客は我々二人とのこと。濃い霧はこの時間毎日発生ししばらくすると晴れると言う。有り難い!
観光コースは、サンマルコ寺院→ドゥカーレ宮殿→ヴェネツィアングラスの工房である。それぞれの説明は観光案内書に譲り、個人的な関心事を略記してみたい。
 サンマルコ寺院:ミラノや後に見るフィレンツェのドーモ(中心寺院)、ヴァチカンのサンピエトロ寺院と比べ明らかに東洋風(球面・円弧の多用、装飾が細かいなど)である。イランの古都イスハファンのモスクやイスタンブールのアヤソフィア寺院等との共通性を感じさせる。つまりヴァチカンよりも東ローマ(ビザンチン)帝国側の影響が強かったということだろう。ヴェネツィア共和国の最盛期、その富も技術も東からもたらされたことを示している。
 ドゥカーレ宮殿:元首(ドージェ)の居城であり、行政府であり裁判所であった。古代ギリシャ都市国家は共和制であったがローマに飲み込まれていく。ローマは共和制から出発して帝政になった。その後このヨーロッパ・地中海域で共和制を維持したのはフランス革命以前ではここヴェネツィアしかない。7世紀から18世紀まで、1100年にわたる歴史上最長の共和国である。どんな共和制だったか?トップの元首は有力貴族から選ばれ、終身。貴族の男子は成年に達すれば国会議員になれる。国会議員の中から元老院議員が選ばれる。この元老院の中からさらに10人の委員が選ばれ、ドージェとその補佐官6名を加えた通称十人委員会が最高意思決定機関を構成する。ドージェ以外は2~3年で交代する。これをみると、ローマの元首に当る執政官は終身ではなかったが、共和政時代のローマと似たような形態とも言える。この各々の機能を果たす部屋が何度か火災に会いながらも改修・改築されて残っており、シンシアの説明も丁寧で往時の隆盛を偲ぶことが出来た。
 沢山のグループがそれぞれの言語で説明を受けるので何処も話しが聞き取り難い。その点こちらは少人数、シンシアの口元に耳を近づけて聞くことが出来る。参ったのは強烈なタバコの口臭であった。

<イタリア風?焼き魚> 夕方からはヴェネツィア観光の目玉、ゴンドラでの運河めぐりである。これも予めMHI社を通じて、夕食とセットで手配しておいた。乗船場所はサンマルコ広場の南側に開けるサンマルコ運河の一隅にあった。既に二組4人の日本人が集合場所に来ている。どうやら二組とも新婚さんのようだ。日焼けした中年女性の日本人ガイドが乗船の要領など説明してくれる。一組のゴンドラは特別仕立てで新婚さん一組の他にアコーデオン奏者ともう一人小太りで髭を生やしたオジサンが同乗する。我々4人は次のゴンドラに乗る。ゴンドラ乗り場はサンマルコ運河につながる小運河にあるが、ここを出るとしばらく外海につながり大型船も通るサンマルコ運河に出る。波が高いのでゴンドラは海浜遊歩道沿いに用心しながら次の内陸小運河の一つを目指す。ドゥカーレ宮の裁判所で有罪を言い渡された罪人が牢獄へ送られるとき通る“溜息の橋”が架かる運河がその出発点となる。この“溜息の橋”周辺は現在補修工事中で、広告の絵が描かれた化粧版で覆われておりがっかりさせられる。それでもそこを過ぎるとそれなりの風景になるのだが、今度は一緒に出発した二艘のゴンドラの船頭同士がまるで喧嘩でもしているように大声で何やら怒鳴りあっている。気分を殺がれることおびただしい。ガイドは同乗しないのでさっぱり要領を得ないが終始こんな調子であった。しかし、アコーデオンが奏でられ、髭のオジサンが立ち上がって美声でイタリア民謡を歌いだすと、さすがに静かになった。新婚さんへの特別サービスのおこぼれは我々だけでなく、運河沿いの道を散策する人や橋を渡る人々にも行き渡り、しばしの野外演奏を楽しみ、彼らに感謝し祝福する。
 船着場に戻ると件の日本人ガイドが待っている。ゴンドラ観光が夕刻だったこともあり、今回の現地ツアーで唯一ここだけ食事付きにしたのでレストランまで案内してくれることになっている。これに参加したのは同じゴンドラに乗った新婚さんと我々の二組であった。レストランは船着場から5分くらいの路地にある比較的カジュアルな感じの店で、地元の人も利用しているようである。店に入ると、ガイドが「料理はシーフードの前菜、プライムはリゾット、セコンドは焼いた魚料理、最後はデザートとコーヒーかティーです。飲み物は別料金です」と説明し、ここで案内を終えて去っていった。
 ハーフボトルを頼み、前菜・リゾットと進む。悪くない。自分でアレンジするより手間がかからず良かったなと思う。イタリア風の“焼き魚料理”に期待が膨らむ。やがて供された皿を見て一瞬「これがイタリア料理?」 その皿の上には真ん中に小ぶりのいか、その外側に小さないわしのような魚、これも中サイズの車えび、やや大きな赤いサーモン。いずれも焦げ目はついているがソースの類はかけられていない。いわし風のものを試すとまるでめざしである。他もサーモンがバターかオイルを使っているほかは、塩コショウだけの味付けである。「イタリアまで来て何でこんないい加減な焼き魚を食わなきゃいけないんだ!」私はワインの勢いもあり一応全部平らげたが、家内は途中でギブアップだった。
 思うに、これは決してイタリアあるいはヴェネツィアの料理ではなく、昼夜パスタ料理で過ごした日本人の中にこんな料理を所望する者が居て、日本人向け地元観光業者が指示したものではなかろうか?多分厨房で調理しているシェフ達は「日本人はこんなものが旨いんだろうか?」と思っているに違いない。
 後日フィレンツェのレストランで一夕魚料理を薦められた。ここも日本人観光客が多い町である。「また例の焼き魚か?」と思い遠慮した。隣のテーブルにあとから来たイタリア人カップルの女性がそのお薦め料理を注文した。鯛のような魚を焼いたものにとろみのスープがかかったもので、おいしそうに食していた。

<二つの映画>
 高校生、大学生の頃は映画を観るのが最大の楽しみであった。場末の映画館で二本立ての洋画をよく観たものである。海外へ旅立つ時いつもその時代に見た映画に思いが至る。今度のイタリア行きでは、このヴェネツィアで「旅情」と「大運河」、ローマには「ローマの休日」「終着駅」「自転車泥棒」などが思い起こされた。いずれも1950年代の半ばから後半に観たもので、まだ日本が貧しく、海外へ出ることなど夢のまた夢の時代だった。半世紀経った今と昔の映画の記憶がどこまで残っているか?こんな興味で街を徘徊するのも旅の楽しみの一つである。
 「旅情」は、キャサリーン・ヘップバーン演じるアメリカ人のハイミスが念願の欧州旅行を実現する中で味わう中年の淡い恋物語であるが、アメリカ人向け(監督は英国人の名匠、デヴィット・リーンだが)観光映画という趣もあり、容易にその軌跡を追うことが出来た。ヴァポレットに乗るシーン、サンマルコ広場のオープンカフェ、広場に面する観光客相手の骨董屋、ここのオヤジを演じるのが恋の相方ロッサノ・ブラッツィ、ゴンドラに乗り立ち上がって写真を撮ろうとして運河に落ちるシーン、別れのサンタルチア駅(駅舎はまるで違うが)。映画のシーンと現物が頭の中で一致すると何かホッとする。しかし、こういう“名所を確認すること”に重きを置く観光は果たして健全なのかとも思ったりする。不思議なのは、既にあの時代ハリウッド映画はカラーで撮られているはずなのに、何故か頭に浮かんでくるシーンに色が付いていないことであった。
 「大運河」は、フランス映画だけにアメリカ映画に比べストーリーが複雑でメンタルな要素が深い。若い女性(フランソワーズ・アルヌール)を巡る3人(一人は老人)の男と昔の老人のナチの贋金作りが絡む話で、当時観た時も理解し辛かったので今では筋もよく思い出せない。ただ、複雑に張りめぐらされた運河が、犯罪の実行や捜査に重要な役割を演じていたことで妙に記憶に残っている。現在と全く異なるのは人の数である。あの映画にもサンマルコ広場が出てきたような気がするが、どのシーンも静かで寂しい風景の中を靴音だけが響くような画面だった。例の“焼き魚”の夜、レストランからホテルへの帰り道を間違えどんどん辺鄙な場所に迷い込んでしまった。明かりは見えても人影はほとんど無い。ふとあの映画の中に取り込まれるような感じがした。
 頭に浮かぶ情景は、「旅情」が太陽きらめく“陽の世界”なら、「大運河」は重い雲に覆われた“陰の世界”であった。それでも何故かこちらにはくすんだ色が付いている。映画と現実の違い、50年の歳月、そして自らの老いがこの不可思議な現象を引き起こしているのであろうか?
 この奇妙な思いを今に残してヴェネツィアの旅はおわった。

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