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2011年12月31日土曜日

決断科学ノート-106(大転換TCSプロジェクト-43(最終回);“大転換ダイジェスト”)


 TCS(IBMACSAdvanced Control Systemと横河電機製のDCS;分散型コンピュータ・コントロール・システム;CENTUMで構成される東燃プラント・コントロール・システム)は現在でもまだ使われており、エクソングループ内では2015年まで使うと言う(一部は既に第三世代に置き換わっているが)。東燃での検討開始が1970年代後半、最初のシステムが動いたのは1983年、ほぼ30年(今年で28年)の歴史である。コンピュータによる初代プラント制御システムが1968年スタートし、その技術発表会で「ところでこのコンピュータ制御システムの寿命は如何?」と聞かれ「10年から15年」と答え、その通り何とか15年持たせることが出来たのと比べ、この2代目の息の長さには昔日の感がある。                                   
当時のコンピュータで“移行性”に最も優れたIBM汎用機をプラットフォームにしたことと横河のCENTUMシリーズの成功がこの驚異的な長寿を実現したわけである。この28年の間に様々な変化が石油業界、IT業界に起こっており、出発点では予想だにしなかったことが企業にも個人にも次々に生じてきた。今回はそれを列記してこのテーマを終えることにする。
IBM90年代後半にACSの販売を中止した。日本では30セットを超すシステムが導入されたがその他の世界ではトータルでもそれを超すことはなかった。日本での成功モデルを世界に広めるべくIBM本社は日本IBMに学ぶこといろいろ試みたが上手くいかなかった(米国、カナダ、インドネシアなどで開催されたセールス担当者向け講習会に講師として招かれた)。これ以降IBMはプロセス制御の世界からは撤退している。一気に進んだダウンサイジングとオープン化の進展がそれをもたらし、IBMは製造業からサービス業に大変換している。
・横河のCENTUMはその後も改良発展を続け、代表的なDCSの一つになり、そのグローバルビジネスの旗艦としてハネウェル、エマーソンなど錚々たるライバルと世界で熾烈な戦いを展開している。結果、海外売上げが国内を遥かに凌ぐグローバル企業に変貌した。
・東燃の情報システム部門は実戦部隊が子会社、SPIN(システムプラザ)に移り、専ら企画業務を専門にする組織に変わり一気にスリムになった。アウトソーシングのさきがけとなり、それはあらゆるユーザー企業のトレンドとなった。
・やがてSPINは、石油・石油化学のコアービジネスで無いとの理由で、順調に業容を拡大していたにも関わらず、リストラ(事業再編成という真のリストラ)を求められ、横河電機に1998年売却される。IBMがサービス業に転じたように、横河電機もハードヴェンダーからソリューション(顧客の経営問題解決)サービス提供者の道へ舵を切り替える経営戦略採用したからである。
TCS関連ビジネスのように他社(ACSIBM製品)製品をプラットフォームを利用し、それに付加価値をつけるビジネスはソリューション提供者の役割そのものである。 SPINは、ACSのあとMIMI(生産計画・スケジューリングツール;米国のCDS社製)、 PI(リアルタイム・プラント運転データの収集・分析ツール;米国OSI software社製) 、Renaissance(経営統合情報システム;米国のRoss社製)などの総代理店となりプロセス産業界向けシステムインテグレータとして、ユニークな存在となり、海外にもその名を知られるようになった。
TCS導入では、その切っ掛けに関わっただけでプロジェクトの中心メンバーではなかった私も、SPIN設立では推進役の一人としてそのスタート時から移籍し、やがて役員、社長となって情報サービス業に専念することになる。そこでは国内の石油精製・石油化学ばかりでなく、海外を含め広くプロセス工業やIT業界に友人・知人を増やすことになる。
・この石油業と海外経験が、2003年社長職を退き、再び現役として横河本社海外営業顧問になった時生かされ、ロシア、ウクライナを初めハンガリー、イランなど東燃・エクソングループでは体験できない世界を広げてくれた。それも60歳を遥かに過ぎてからである。もし、ITと深く関わる世界に踏み込んでいなければそれも無く、ましてやブログ開設も無かったであろう。その意味でもTCSが今日の私を在らしめていてくれているのだ。

今回をもって2月から(大震災で一時別テーマとなった)続けてきた“大転換TCSプロジェクト”を終了します。長期にわたるご愛読に深謝いたします。
どうか良いお年をお迎えください。
-完-

 本シリーズに関するご意見・ご感想を下記メールIDにいただければ幸いです。
 hmadono@nifty.com

2011年12月24日土曜日

決断科学ノート-105(大転換TCSプロジェクト-42;新会社設立に向けて-3)


情報システム子会社、システムプラザ(後に東燃システムプラザ;略称SPIN)の設立準備とその後の変遷については、本ノートの別テーマとしていずれ詳しく連載していく予定である。ここではSPIN誕生とTCSTonen Control System;高度プロセス制御システム;IBMのACSと横河電機のCENTUMから成る)の関わりに留めて書いていきたい。             
 新会社設立には種々の問題があるが、先ず「どんな会社にするか?」を描かなければならない。一方に今までやってきた東燃グループ内の各種サービス(事務系システムの開発運用を含む)がある。他方にTTEC(東燃テクノロジー)で始めたTCS関連外販ビジネスがある。それぞれを従来通りにやるのならば新会社設立の意義はほとんどない(役員や管理職ポストを見かけ上増やすことくらい。わが国企業の多くにこの形態の子会社;受け皿会社が無数に在った)。こんな会社は作りたくない。新規事業として外へ伸ばしたい。経営層も情報システムのメンバーもここは同じ思いであった。モデルとなるのはやはりTCSビジネスだった。
TCSビジネスの特色をまとめると;本業に密着する適用分野で経験・知識が最大限に発揮できる;基幹システム(IBMACS)の高い競争力とそのシステムに対する深い理解;それによって他社(特に規模の大きなIT会社)に対して対等以上に戦える;従ってきわめて割りの良い収益率になる。
成長著しい分野であるにも拘らず、情報サービス業におけるシステム開発(特にプログラミング)は“汗かき仕事(英語でもSweat Shopと言う)”の圧倒的に多い業種。しかし、このTCSビジネスモデルは、それとは一味違うサービスを提供できる。つまりIBMへの販売活動支援・通信パッケージの販売・顧客へのシステム設計・開発ノウハウ提供など、より付加価値の高い仕事をすることにより、一人当たりの売上げや利益を高いレベルに維持できるのである。問題はこのモデルをTCS以外の分野(特に事務系統)に拡大できるかどうかである。市場規模が大きく量的に伸びているのは何と言っても工場外のシステムであるからだ(さらには金融・流通など製造業以外の分野)。
数多ある競争者に打ち勝ち、発注者の仕事の原点(計画検討)に近いところから受注するためには、それなりの工夫が要る。強みは何と言ってもユーザー知見。業種・業務それにプラットフォームとなるコンピュータの絞込みが鍵と読んだ。石油・石油化学がコア、次いで化学産業、その外側に広義のプロセス工業(鉄鋼・紙・セメントなど)を置き、業務は工場や生産設備を対象とし(プラント運転、生産管理、設備管理、品質管理、原価管理など)、組立て加工業さらには非製造業は余ほど条件が良くなければ取り扱わない。対象コンピュータはグループで使われているIBM・富士通の汎用機に限定、既に始まっていたダウンサイジングやネットワーキングへの取り組みも、この両社の汎用機周辺に留まるようにした。またプロセス工業の会計・税務処理は物性値(流量・温度・圧力など)を金額に変えてゆく独特の処理を伴うので、技術分野に限らず事務分野でも差別化因子となるのでここを重点的に売り込んでいくことにした。
このような新事業計画が固まったのは1985年新春。経営会議等で何度もダメ押しをし、修正しながら、やっと設立にたどり着いたのは6月。710日新会社「システムプラザ株式会社(SPIN)」が発足した。
(次回予定;“大転換”ダイジェスト)

2011年12月19日月曜日

決断科学ノート-104(大転換TCSプロジェクト-41;新会社設立に向けて-2)



TTECでのTCSビジネスも順調のようだ。一度情報システム室の分社化を検討してみてくれ」こんな指示がNKH常務から室長のMTKさんにあったのは84年の創立記念日(75日)少し前だった。
実は“情報システム室分社化”はこれが初めてではない。昭和40年代後半(1970年代前半)にも話題になったことがある。当時川崎工場に勤務しており「本社は一体全体何を考えているんだ!?外に打って出る力なんか無いではないか!」と反対の意思表示をしたことがある。この話は当時の副社長(TIさん;情報システム室は副社長が主管)が何かの折に軽い気持ちで呟いたことに発していたようだ(関係者が誘導したのではないかと思っているが真相は不明)。
確かにこの時期、大企業(主として金融関係)の情報システム部門分社化がブームだった頃である(後に“第一次分社化ブーム”と呼ばれるようになる。そしてこの80年代中期が第二次)。コンピユータの技術進歩は社内に今まで存在しなかった大規模な専門家集団を抱えるようになってきており、仕事の内容も処遇も本業と同じようには出来ない環境になってきたことがその動機であった。これなら社内向けに仕事をしていても分社化をする理由がある。石油会社でも販売をやっているところはクレジットカード処理など金融業に近いシステムを抱え、それなりの分社化メリットが考えられる(実際石油関係で最も早い分社化は当時の日本鉱業(後のジャパン・エナジー)で、1972年にセントラル・コンピュータ・システムを立ち上げている)。しかし、石油精製・石油化学専業の東燃グループでは本社におけるシステム関係者の数は5060名で、外部の仕事に割ける余裕はほとんど無く、処遇を別建てにするニーズも切実な問題では無かった。
さらにもっと大きな問題は、他の情報サービス会社と如何に差別化するかと言う点(規模では勝負にならないので質で)に甘さを痛感した。分社化推進論者の考え方は“数理技術(特に線形計画法、LPによる最適化や統計処理)”を売りものにする構想だったが、これほど売り込みの難しいものはない(汗の量;システム開発・運用にかかる労働量;労賃ではなく、技法適用によって経営改善した効果を評価してもらう)。
究極の問題点は別会社化した場合の収支である。情報システム室は早い機会から(形式的な)独立採算制をとってきていた。これは自社システムを導入する前に外部の計算センターを利用していたことから来ていたのであろう。そこでは確実に計算料金の支払いが発生していたからだ。自前のコンピュータを持ってからもこの付け替え制度は生きており、利用部門は経費予算を計上して、利用料金(コンピュータ・リース料金、電力などのユーティリティ費用、人件費、スペース費用などベースに算出)を情報システム室に払うのである。基本的な料金体系は、利益を出すことが目的ではなかったが、赤字にはならないように設定される。分社化後もこのシステムを生かすことが前提で考えていた。これでは“会社ごっこ”にすぎない(ユーザー部門が利用時間を、経費節減のために落としたらたちまち赤字である)。
幸か不幸か副社長の関心は一過性のものであった。数々の分社化問題点指摘に推進論者が構想をさらに詰めることはなかった。
しかし、新事業開発に情熱を傾けるNKH常務、TCSの完成で社内大型プロジェクトが山を越し、戦力に余裕が出来て、外部サービス展開を始めたことなど、今回は当時とはあらゆる面で状況は変わっていた。84年後半、分社化スタディーは情報システム部門ののみならず全社的な経営課題として検討が始まるのである。
(次回予定;“新会社設立に向けて”つづく)

2011年12月13日火曜日

決断科学ノート-103(大転換TCSプロジェクト-40;新会社設立に向けて-1)



本事例紹介を単に“TCSプロジェクト”とせず、大仰に“大転換”としたのにはそれなりに含みがあった。それはこのプロジェクトを経験したことにより、情報システム部門も私個人もその後が大きく変わったからである。例えて言えば、それまで銃砲で戦っていたのがミサイル主体になり、やがて宇宙に飛び出すロケットに発展していったようなものである。TCSは当にミサイルへの転換に相当したのである。
TCSの第一号プロジェクトであるBTX(和歌山の石油化学プラント)が稼動したのが1982年秋、翌年からこのシステムの外販ビジネスを始めたこととはここ数回の連載で紹介した。話は前回(石川賞)、前々回(RCAミーティング)と前後するのだが、実はこの時期もう一つの大プロジェクトが走っていた。それはグループ全体の利用に供する汎用コンピュータ、IBM370の更新計画である(この更新計画については独立テーマとしていずれ本ノートに取り上げる予定)。
東燃の情報システム部門と汎用機利用の歴史を振り返るとIBMとの関係が如何に深いかが分かる。嚆矢となるのは昭和31年(1956年)に導入されたIBM420統計会計機(パンチカードシステム)であり、この時経理部にIBM課(一企業名を組織名称にするのは適当でないとの意見で改名されるのは1961年、5年間も続いた!)が発足している。その後生産計画や設備計画に使われるLP(線形計画法)、プラント設計・解析の技術プログラムが導入されるが、これらのオリジナルはERE(エクソン技術センター)の技術を基としているので、全てIBMの大型汎用機を利用する(自社にはなくEREIBMの計算センターを利用)ことになる。事務系も技術系もIBM一色である。IBMは当該分野の断突のトップランナー、導入されたシステムも420以降、14013603703031と続き、70年代まで変える理由など存在しなかった。
しかし、80年代に入るとオフィスオートメーションのニーズが高まり(特に本社で)、日本語処理機能が不可欠になってくる。次第に力をつけてきていた日本メーカーはこの点では遥かにIBMをリードするところに来ていたのだ。基幹ソフト(O/S)は既存のIBMアプリケーションが走るよう互換性も備えてくる(あまりの互換性の良さはIBM、さらには米国政府の不興を買い、有名な“おとり捜査”で三菱電機と日立がFBIに挙げられる)。極秘の国産機(日立、富士通)を含む比較検討(各種テストを含む)が1982年後半から始まり、1983年年央には次期システムはFACOMM380に決定、11月に導入され翌年3月に切換えが完了する。
この切換えプロジェクトの中核になったのは事務系システム開発と汎用機運用を担当してきた機械計算課である。営業の無い会社では裏方で自らの力を外に示す機会の少ない部門であったが、この切換えを大過なく終えた(東燃の決算期末は12月)ことで、社内外(特に富士通)の高い評価を得ることになる。
また我々自身もTCS開発・導入におけるエクソングループ・IBMを通じての国際的な力量の確信、その外販ビジネスの順調な立ち上がり、それに代表的な汎用機メーカー2社との交流による情報技術を巡る知識・情報の客観的評価によって、主導的メーカーとの協業に向けて関心が高まっていった。
IBM課発足に深くかかわり、新事業開発に情熱を傾けていたNKHさん(当時常務)が情報システム部門分社化に心動かされたのはこんな当時の状況が強く影響したに違いない。

(次回予定;“新会社設立に向けて”つづく)

2011年12月8日木曜日

決断科学ノート-102(大転換TCSプロジェクト-39;石川賞受賞)



 前回の予告では今回から「新会社設立に向けて」としていたが、その前にこれと深く関わるTCS(東燃高度プロセス制御・運転システム)の“石川賞受賞”について書いておきたい。                                      
 東燃は戦後再興にあたりスタンダードヴァキューム(後のエクソン、モービル)と提携したこともあって、技術力には高い評価を得ていた。しかし、それは全般的な世評としてであり、個々の技術が具体的に取り上げられ、話題になることは少なかった。これは技術提携上の制約もあり、競争力の根源を外に向けてPRすべきものではない、と言う企業風土からきていたように思う。学会活動なども個人ベースはともかく、全体として“お付き合い”としての姿勢が強く、とかく批判があった。そんな歴史の中で唯一の例外がこの“石川賞受賞”である(社史を辿っても、個人の褒章・叙勲を除けばこのような受賞は見当たらない)。                                   
石川賞と言うのは、戦前からの財界人で、初代日本科学技術連盟(日科技連;有名なデミング賞もここが与える賞;源流は戦前の大日本技術会につながる)会長であった石川一郎氏(自身も応用化学専攻の技術者;経団連初代会長)を顕彰するために昭和45年(1970年)に設けられた賞。その対象は「企業の近代化、製品やサービスの品質向上に寄与する新しい手法やシステムの開発」にある。第一回は当時世界最新鋭製鉄所であった新日鉄の「君津製鉄所情報処理システム」に与えられ、その後も錚々たる技術先進企業が名を連ねている。それまでの歴史の中で石油・石油化学に関する受賞者は僅かに1973年度昭和電工の「エチレンプラントの最適化制御」だけであり、石油精製業界では初の受賞だから大変名誉なことであった。受賞のタイトルは「製油所の総合運転管理システム」だが中身はTCSそのものであった。
本件の事務局機能を務めていたのだが、どうも応募に至る経緯は今ひとつはっきりしない。しかし、選考過程でしばしば委員の一人であった東工大教授のOSM先生に何人かヒアリングを受けていたから、話の出所はOSM先生と昵懇だった、プロジェクトリーダーのMTKさん辺りではなかろうか。候補の一つに選ばれると書式に則った書類の提出を求められる。当然これには技術部門のチェックが入るのだが、何故か従来のものに比べ苦労した記憶が無い。一番大きな理由は、この時期の新規事業への関心の高まりがあり、既にTTEC(東燃テクノロジー)でTCS外販ビジネスが立ち上がっていたことにあるだろう。それに加えて、記述内容がシステム寄りで、プロセス技術や運転技術に関する部分を出来るだけ一般化し、一気に効果へもっていったことが判断を容易にしたのではないかと思っている。その分、私も含めてOSM先生の質問はこの利用部分に集中していた。
どの程度競争者があり、当落の割合がどうだったか、その内容は不明だが、その年の受賞者は東京ガスの「地下埋蔵物(つまりガス配管)マッピング(地図作り)システム」と日立製作所の「生産変動即応生産管理システム」、それにTCSの三件だった。
表彰式は産経ホールで行われ、MTY社長、NKH副社長も出席された(他社は代理出席で、このことが後でチョッと問題になったが・・・)。これは50年史に写真入で残っている。
技術情報を開示する際必ず問われるのは「それは会社にどんな利益をもたらすのか?」と言うことである。もし外部ビジネスを行っていなかったなら、多分石川賞応募は無かったであろう。一方で石川賞受賞が無かったら、外部ビジネスに幾許かのマイナス影響が生じていた違いない。そのくらいこの受賞は新事業展開にはエポックメーキングな出来事であった。

蛇足:現在日科技連のHPを見ても“石川賞”は出てこない。代わりに“QC石川馨賞”が出てくる。これは先の生産システムとは異なり名前の通りQCに関する賞である。この石川馨は石川一郎の長男である。

(次回予定;新会社設立に向けて)

2011年11月27日日曜日

決断科学ノート-101(大転換TCSプロジェクト-38;エッソイースタン・コンピュータ技術会議)


 TCS関連ビジネスが活況を呈していた198410月末、シンガポールで開催されるエッソイースタン(EEI;地域統括会社)傘下の精製会社がメンバーのコンピュータ会議、RCARefinery Computing Activity)ミーティングに参加することになった。この会議は’80年頃から始まったもので、毎年シンガポールのマンダリンホテルに在ったトレーニング・センターで一週間(正味5日間)開かれる。参加する会社は、EREECCS(エクソン全体の情報・通信技術センター)、EEI(本社ヒューストン)が米国から、これに東燃とゼネラルの日本勢、シンガポール、タイ、マレーシア、オーストラリアなど製油所を持つ会社が出席する。プログラムは各社の最新のIT利用状況やプロジェクトの紹介とEREECCSによる特定テーマに関する解説や講義などで構成される。参加人数は事務局を務めるシンガポールはオブザーバーを含め4~5名参加していたが他は1~2名で極めてこじんまりしたものである。                                       
この年東燃からは、本社から私、川崎工場からはIJMさんが出かけた。発表テーマは当然TCSである。当時は大々的(DCSだけでなくSPC;高度プロセス制御を含む)にプラント運転にコンピュータを導入しているのは東燃とゼネラル石油だけで、シンガポールが計画中だった以外は、部分的なDCS導入やPC利用程度であった。従ってEREのプロセス制御担当課長の高度プロセス制御に関する解説、ECCSによるロータス-123の講義・演習、EEIによる高度制御の稼働率指標統一案検討を除けば、東燃とゼネラルが主役を務める結果になった。
東燃はTCSACSIBM製高度制御システム)+CENTUM(横河製DCS))、ゼネラルはハネウェルのPMX(高度制御システム)+TDC2000DCS)をそれぞれ導入・稼動させていたので、奇しくもエクソングループの二つの標準システムが対決する形になった。
ゼネラルの出席者は堺工場のIKDさんと言うプロセス技術課長一人。如何にハネウェルのシステムが使い易く効率改善に役立っているかを時にACSDCSを意識しながら、他の参加者に訴えていった。EREは本ノートの初めにも触れたようにハネウェルと一体となり新システム(PMXの改良版とTDC3000)の開発を進めてきた経緯もあり、節目節目でIKDさんをサポートする。これからコンピュータ化に取り組むところにとっては、明らかにインパクトが強い。
参加前、そしてこの発表があるまでこちらは全くハネウェルのシステムを意識することは考えていなかったのだが、これを聴いて私も用意した内容より対ハネウェル的な方向に向かわざるを得ないようになってしまった(かなり個人的な資質もあって)。ゼネラルが稼動させたシステムは世代が古くなりつつあること、PMXはプロコン専用機であり拡張性やソフトの移行性に問題のあることなど、東燃内で候補システムを選ぶ際の比較検討内容を一気にぶちまけTCS(特にACS)の優位性を強調した。当然これに対してIKDさんが反論してくる。またそれに切り返す。日本二社の激しいバトルに他の参加者はあっけにとられてしまい、何も口を挟めない。会議が終わったとき、事務局長を務めるエッソシンガポールの製油課長、Cheah It Chengが「とても僕には議事録をまとめる自信がない。MDNさん書いてくれ」と言われてしまった(英語力の問題もあるだろうが・・・)。
It Chengとはその後家族ぐるみの付き合いをしており、会うたびに「あの時の日本二社の戦いは凄かったし面白かった」と話題になるほどである。とにかく東燃が、そして日本が輝いている時代、TCSを参加者に確かに印象付けたことだけは間違いない。
後日談;IKDさんはその後ゼネラル石油の役員となり堺工場長も務められた。システムプラザ時代にお会いする機会があり、堺で一献傾けながらあの時の戦いをお互い懐かしく語り合った。
(次回予定;新会社設立に向けて) 

2011年11月24日木曜日

決断科学ノート-100(大転換TCSプロジェクト-37;TCSをビジネスに-5)


 TCSを構成するもう一つの要素は横河製の分散型ディジタル制御システム(DCS)、CENTUMである。発売当初は集中型DDCDirect Digital Control)、YODICの影を引きずり32ループ(制御点)で一つのユニットを構成していたが、分散度の進んだ(8ループ)ハネウェルのTDCに対抗すべく進化していった。それもあって、国内市場では高度成長期に建設されたプラントのアナログシステム制御システムに置き換わるものとして、横河の主力製品になってきていた。現在横河電機が世界を代表する制御システム供給者の位置を占めているは、このCENTUM開発・進化がもたらしたといっても過言ではないほど重要な製品である。                                       
東燃(そしてERE)がTCS開発に際して最も危惧したのはACSとこのCENTUMの有機的(情報交換に制約の少ない)な結合をどこまで実現できるか、と言う点であった。1979EREExxonエンジニアリングセンター)を訪問した際、彼らはハネウェルのシステムを第一候補として推しながら「東燃はプロジェクトを自分で推進できるからACS+横河も検討して良いよ」と言ったのは当にこの部分に着目したからである。
IBMACSの下に来るDCSは出来るだけ沢山の機種を想定したい(実際Exxon傘下ではハネウェル、フォックスボローそれに横河のDCSが繋がることになる)。横河もCENTUMの上に来るSPC(上位制御用コンピュータ)は一社に限定したくない。双方とも選択肢が多く選べるよう、出来るだけ一般的(特定のメーカー、機種に限定しない)な通信インターフェースにしたい。しかしそれではきめ細かな情報交換が出来ない。どうしてもユーザー知見を組み込んだACSCENTUM専用の通信方式が必要になる。この情報交換ソフトは、ACSCENTUMの中間にミニコン、シリーズ1(S/1)を介在させ、その中に収めるのが適当である(IBM汎用機やDCS専用機の仕様をカストマイズしないで済む)。そこでこのS/1搭載ソフトは東燃と横河で共同開発することにし、その知的財産権は両社に帰属することになったのである。
開発当初は「売れたら見返りを下さいね」と言う程度の口約束であったが、東燃がシスエムビジネスを開始する際、両社の法務部門が細部を詰めそれを明文化した。当時の横河の交渉相手は総務部門のMZGさん、気持ちよく対応していただいた。1998年システムプラザ(SPIN;東燃から分社化した情報サービス会社)が横河グループ入りする際は管理部門総括の専務を務めており、こちらが大変お世話になることになる。
ACSを国内で販売する場合、その時点ではDCSCENTUMとの接続しか実績が無かったので、ACSを導入するユーザーはCENTUMとこの通信ソフト(DCXと称した)を購入することになる。一生懸命ACSを売ればそこにCENTUMビジネスが起こり、付帯してS/1DCXの商談が自動的に派生する訳である。大規模プラントでは複数のS/1DCXが売れるので三社(IBM、横河、TTEC)にとって極めて効率の良いビジネスになった。
IBMの販売成功報償制度、ACSを熟知したものだけが享受できる単価の高いシステム開発それにこの通信ソフト販売が組み合わされ、TTEC(東燃テクノロジー;エンジニアリング会社)におけるシステムビジネスは、情報サービス事業として順調な立ち上がりを見せたのである。
(次回予定;エッソイースタン・コンピュータ会議)

2011年11月20日日曜日

決断科学ノート-99(大転換TCSプロジェクト-36;TCSをビジネスに-4)


 IBMACS(高度制御ソフトウェアパッケージ)セールスは1983年後半から本腰が入ってくる。二度の石油危機を克服し、製造業は世界経済牽引のエンジンと期待され、また恐れられてもくる状況下で、ユーザーの方にも積極的に新しい技術を導入する機運が高まっていた。東京を始め主要工業都市(水島、北九州など)で開催されるセミナーには多くの石油・石油化学・化学の潜在顧客が参加し、東燃と業態も近いこともあり事例紹介が引き金となって、次々と商談が具体化して行った。こんな中で異色だったのが、川崎製鉄と王子製紙である。                                  
川崎製鉄の場合は、IBMの働きかけもさることながら、千葉製鉄所計装部のIWM課長が製鉄の国際学会でACSの話を聞き強く興味を持ったことが導入具体化に繋がったようである。適用対象は比較的新しい溶鉱炉(高炉)で、ここのプロコン置換え計画として有力候補に挙がったが、この段階では鉄鋼関係への実績は無く、技術的・経済的な適用可能性について社内の説得にIWMさんは随分苦労されていた。こちらもそれに最大限に協力、製鉄所での技術検討会のほか和歌山工場への見学会まで実施して、やっとTTECシステム部としても成約にこぎつけた。つまり、IBM販売協力ばかりではなく、ACS導入技術支援をビジネスとして受注できたのである。この内容は単にACSを動くようにするばかりではなく、溶鉱炉を操業していくための各種情報処理アプリケーションをも含むもので、我々にとって初めての異業種体験となった。
ビジネスは技術提供だけで済むものではない。商流もこれだけ大きな会社だと、我々のサービスくらいでは直接取引とはならず、手続きとして直系の川鉄商事を通さなければならない(実務的には本社機材部とのやりとりになるのだが)。そこでは口銭を取られることになる。見積もりにこのようなことを考慮しなければならないことを学んだのもこの商談である。ここでの学習はいずれやってくるシステム部門分社化で大いに生きてくることになる。
王子製紙の商談は、1984年前半IBM北海道が手がけた案件である。先方はそれまで旧財閥同系の東芝製のプロコンを使用していたのだが、そのリプレース計画を耳にしてACS売り込みを目論んだのである。古い歴史を持つわが国最大の製紙会社、本社のメインフレームこそIBMだったが工場はほとんどが東芝製で占められていた。しかし苫小牧工場の計装課長がACSに興味を持ってくれ、現地説明会開催のチャンスを与えてくれた。IBM本社ACSチームによる説明と東燃の事例紹介には計装出身の製造部長も参加し、熱心な質疑が交わされた。しばらくすると話は次の段階に進み、具体的なアプリケーションの打ち合わせをしたいとの要請をうける。
この時期ACSビジネスは引き合いが活発で、私一人でやっていた営業は手が足らず和歌山工場のPSE(プロセス技術バックグラウンドのSE)だったNGIさんをメンバーに加えていた。彼の高い問題対応能力を買ってのことである。苫小牧の関心が高いアプリケーションは、蒸解釜(製紙工程の最初にある中心装置;製鉄の高炉、石油の常圧蒸留装置の位置付けと同じ)を中心とした省エネルギーとパルプブレンディング最適化だった。原料パルプには品質にいくつかのグレードがあり、高品質のものをミニマムに抑えて製品を作り出すところが要点なのだ。これは石油製品のブレンディングと同じである。NGIさんの説明に客先の担当者たちは惹きつけられ、さらに次のステップへと進むことになる。
ここで生じたのが“プロセス制御技術販売”に対するEREの見解である。我々は石油ではないから問題なしと思ったし、たまたまTTECに出張で来ていたEREのセールス責任者も同じ見解だった。しかし「EREに戻ってから正式回答する」と言い残して帰国した。結果は「No」。理由は「最適化手法そのものがグループの資産だ」と言うものであった。納得できる話ではなかったが、蒸し返しても時間がかかる問題で、客先やIBMに迷惑が及ぶことも考えられるのでこの件は見積もりから落とさざるを得なかった。
それでも競札では最終の二システムの一つに残った。この段階で前回紹介のNKH常務が大学時代のゼミの先輩で王子の役員をされていた方に電話を入れてくれた。その方にも支援をいただいたが、最終的には東芝に決まった。
失注はしたものの、この経験も異業種で戦える自信を与えてくれた出来事であった。
(次回予定;“TCSをビジネスに”つづく)

2011年11月13日日曜日

決断科学ノート-98(大転換TCSプロジェクト-35;TCSをビジネスに-3)


1983年は組織的にも個人的にもいろいろ大きな変化の因となる出来事があった年である。1月のTTECにおけるACS販売を中心とするシステムビジネスの立ち上げを始め、いずれ本ノートに別テーマとして掲載予定の、メインフレームの置換え計画(IBMを継続するか国産機に置き換えるか)も詰に入ってくる。これらの仕事にキーパーソンとして欠かせないTKWさんが4月から一年間慶応ビジネススクールに派遣されることになる。加えて私自身も秋からの米国のビジネススクール行きが計画されていた。振り返ってみればこの年がビジネスマン人生の一大転換の時であったのだ。                             
ACSビジネスは専らIBMの営業について廻るのだが、IBMもユーザーも東燃の実績を話題の中心に据えている。一通りの説明が済むとほとんど技術者同士の専門的なやりとりになる。技術者としてこんなに面白いことは無い。商売を忘れてつい議論を沸騰させてしまう。帰路IBMの担当者(地方の営業担当者やACS営業専任者)から「技術的な話し合いもいいが、ゴールは売ることですからね!」と忠告・指導を受けて、武士の商法を大いに反省させられたりした。同行するうちに、市場予測、顧客分析、マーケティングなど営業活動に関するIBMの戦略・戦術を間近に学ぶことが出来、その後の新事業展開に大きな糧となった。
営業協力以外にもIBMは新規ビジネスが進むよう、ACSに関する注文を出してくれた。例えば、ACSマニュアルの翻訳や石油・石油化学向け販促のための資料作りなどがそれらである。マニュアルの翻訳は長い歴史があり、購買部門は確りした査定基準を持っている。一ページは何行何語で構成されかを大雑把に把握して、そこから見積り価格を算出するのである。問題は翻訳の単価である。こちらは「内容によって難易度が違うはずだ」と主張し何とか高い価格に持っていこうとする。さすがに購買もACS(高度制御)はまるで分からない。数少ない社内の専門家(その多くは東燃スタッフと一緒に米国でACSを学んだ)に聞くと「これはかなり専門性が高いので他社では出来ない」などと答えてくれる。実際発注部門からのクレーム・修正はほとんど無く、ACS部門以外にも評判が高まっていった。
そんなある時、当時新事業も担当していたNKH常務から呼び出しがかかった。出かけてみるとIBMからの丸秘資料というものを見せられた。そこには国内におけるACS市場分析が描かれており、石油・石油化学に限らず化学・電力・ガス・鉄鋼・セメント・ガラス・食品・薬品など広義のプロセス工業への期待販売数量が記載されていた。「IBMからこれをベースに事業展開協力の提案がある。中身を一度検証してコメントをくれ」ということであった。無論TTECACSに関する事業を始めていることを知った上でのご下問であったが、もっと大きなビジネスプランを窺わせる問いかけと感じさせるものがあった。数日後数量分析結果を付けて「きわめて楽観的な数字で、とてもこれほどの数が売れるとは思えない」と報告した。常務は「こう言う分析が欲しかった」と言って、この話は終わった。
しかし、これはその後のACSビジネス、更には新規事業展開にインパクトを与える出来事だったのではないかと思っている(以下のことがこの話から繋がったという確証は無いが)。特にIBM側はそれまでTTECのビジネスはACS導入技術サービスの提供を顧客に行うことに焦点を当てたもので、IBMビジネスの外周にある仕事をこちらに回すというものであったが、それに加えて新たにACS販売成功報酬を支払うシステム(アフィリエート・マーケティング)を作り、こちらのやる気を引き出す仕組みを提案してくれたのである。
(次回予定;“TCSをビジネスに”つづく) 

2011年11月6日日曜日

決断科学ノート-97(大転換TCSプロジェクト-34;TCSをビジネスに-2)


 1983年年初におけるTCSIBM製品ACS+横河製品CENTUM)の外販は確たるビジネスプランを作成した上で取り組んだわけではなく、日本IBMACS販売協力依頼に乗って「チョッとやってみるか」と言うような軽い気持ちでスタートした。従って当初の動きはひたすらIBMの営業から声がかかるのを待って動き出すような状態だった。東燃でのプロジェクト推進や導入後の利用状況を話しながらACSの良さを売り込むのがこちらの主な役割だが、話が一通り済むとしばしば「ところで東燃さん何を売るんですか?」などと聞かれてしまう。「ACS導入に関する技術サービスを提供します」と言うのが一応の答えなのだが、この“サービス内容”が自分たちにもはっきり定義できていないので、それから先は互いにどんなことをして欲しいか、どんなことが出来るかを探りあい“群盲象をなでる”の観を呈してくる。ソフトビジネス営業活動の難しさ・未熟さを痛感させられた。                
IBMが売る物はACSと言うソフトウェア製品とこれを走らせる汎用コンピュータシステムである。横河電機の売る物はCENTUMと言う制御システムである。我々の組織が作られた東燃テクノロジー(TTEC)が売る物は石油プロセスのライセンスである。それぞれに関連サービスがあるものの、それらの費用は商品の中に含まれているので、サービスだけが独立して販売されるわけではない。しかし、それぞれの“物”が仕様通り納められたからといって、客先の最終目的通り全体システムが作られ、動くわけではない。この隙間を埋め、稼動させるサービスを提供するのが我々のビジネスなのだが、ソフトの有料化がやっと認められるようになった時代ではサービスを有償(それも単なる人工仕事でなく、ノウハウとして)で調達することになかなか理解が得られなかった。今ならシステムインテグレーション(SI)サービスとして立派にITビジネスの大きな分野になっているのだが・・・。
この関門を突破すると次にもっとやっかいな問題が待ち構えていた。プロセス制御アプリケーション(単純な物性値を一定に保つようなものではなく、省エネルギーや収率改善など収益を向上させる高度制御)を提供できるかどうかの問題である。当時の東燃はこの分野で優れた実績を上げており、部分的にはそれらの情報が業界関係者に知られていた。それを提供してくれるならシステム更新を検討しようと言うのだ。IBMや横河電機の期待もここに大きい。我々も単なる人工仕事(一人月いくら)はしたくなかったから望むところであった。しかし、一方で他社に対する差別化因子の一つであるだけに簡単にOKできる環境ではなかった。東燃・TTEC(その先にあるERE;エクソン・エンジニアリング・センター)の了解が必要なのだ。
TTECにはシステム部設立以前から技術部にシステム技術課があり、制御システム関連ビジネスを行っていた。東亜石油知多製油所(後に日本鉱業に売却)の建設ではIBM1800YODIC600で構成される第一世代のプロコンシステムを販売している。これを前例にTCSの付加価値サービスの事業化をエクソンに問い合わせると「知多のケースはエクソンプロセスライセンス販売の一部でかつ公開された範囲の制御アプリケーション(単純制御とデータ処理)である。それを超える高度制御は基本的にはダメ。商談毎に審議する」との答えが返ってきた。IBMと一体となっての売込みに歯切れの悪い対応をせざるを得なかった。
それでもIBMのマーケティング活動強化(セミナーの開催など)によってユーザー側に力のある会社や業種の異なるプロセス工業でのACSへの関心が次第に高まり、川崎製鉄(現JFE)千葉製鉄所や日本合成ゴム(現JSR)などが導入計画を具体化し始め、このビジネスが進展しそうな予感がしてきた。
(次回予定;“TCSをビジネスに”つづく) 

2011年10月30日日曜日

決断科学ノート-96(大転換TCSプロジェクト-33;TCSをビジネスに-1)

 ACS(高度プロセス制御システム)はIBMの製品である。しかし、エクソンとの共同開発という経緯もあり、商品としての積極販売は始まったばかりであった。日本での営業体制も専ら東燃向けビジネスに主眼を置いて、あたかもプロジェクトチームのように運営されていた。しかし、順調に第一号システムがスタートしたらそれで終わりと言うわけにはいかない。技術部隊がBTX稼動に向けて奮闘している1982年秋、営業戦略の検討が進められ、東燃に対して販売活動への協力打診が行われる。最初のアプローチはTCSプロジェクトリーダーのMTKさんや中央開発チームのTKWさん辺りへの個人的な問いかけだった。
 BTXスタートアップに追われながら、時たま連絡・報告に本社に戻ってきたTKWさんは「次の和歌山プロジェクトは1年後なので、是非外販をやってみたい」と言う。MTKさんは「東燃テクノロジー(エンジニアリング子会社;TTEC)がシステムビジネスに興味を持っている」と告げてくる。MTKさんは上司、TKWさんは部下という関係になるが、TCSの推進に中核的な役割を果たしてきた二人とは明らかに背景が異なる。この問題に対して、今ひとつ積極的になれないのが本音であった。ただ、当時の東燃は著しく新事業開発に注力しており、少しでも人的余裕が出るとそちらへスカウトされるケースが多発していた。特にSEはつぶしが利くとみられ、既に数理や電子専攻者が、私が赴任する前からそちらの方へ異動していた。TTECは新規事業ではなかったが、外に向かうビジネスパワーとして期待されていたので、ここで何かを始めれば当面人材引き抜きの危機を回避できる。こんな事情から私も次第にTCS外販ビジネスに興味を持っていった。
 日本IBMのACSビジネス協業プランも初めはそれほど明確なものではなく、営業活動への協力(客先での事例紹介のような)が主体で、システム導入が決まればその後の顧客導入サポート業務やアプリケーション開発を東燃に任せたい、と言う程度のもだった。このような話をベースに、こちらのビジネスプラン(主に取り組み体制)を検討しているところへ舞い込んできたのが住友化学千葉工場へのACSの売込みである。
 この話はIBMのACS営業担当MTIさんが工場の製造課長と旧知だったことから起こり、商談は東燃抜きでかなりのところまで進んでいたが、全体予算がどうしてもオーバーしてしまい、それを下げる策を考える中から生じてきた。ACSを走らせる汎用中型機、IBM-4300の販売にエクソン・ディスカウントを使わせてもらえないか?と言う問いかけである。IBMとエクソンの間にはグローバルに4300販売に関して数量ディスカウント契約があり、当然東燃はこの対象だった。IBMはその値段なら住友の予算に合うので東燃経由で納める奇策を考えたわけである。TTECを通してこの可否をエクソンに問い合わせると「IBMとの契約量をこなす助けになるからOK」との返事が返ってきた。こちらの目論見とはまるで異なる妙な商売ではあったが、こうしてTCS関連ビジネスがスタートした。
 1983年1月TTECにシステム部を発足させ、部長は情報システム室次長のMTKさん兼務、私を含めメンバーも全て数理システム課兼務で外販ビジネスを本格化することになった。
(次回予定;“TCSをビジネスに”つづく)

2011年10月24日月曜日

決断科学ノート-95(大転換TCSプロジェクト-32;和歌山工場導入-6;BTX以降)

 BTXの順調な更新に続いて、OG-2(重質油脱硫装置)が翌83年、大物のOG-1(統合蒸留・改質装置)84年、稼ぎ頭のFCC(流動接触分解装置)85年と大きなトラブルも無く、92年の動力・発電プラント置換えまで10年にわたりTCSへの切換えは進んでいく。複数在ったSPCコンピューターは一台のIBM-4300で全て賄え、当然ソフトもACS一本だけでこの10年を繋いでいけた。この間、川崎工場(石油化学を含む)も動き出し、期待通りプロジェクト推進と運転環境が第一世代と比べ著しく改善された。
 その大きな理由は、何と言ってもコンソール(操作卓)だけで運転できるシステムを作り上げたところにある。このコンソールによるオペレーションの概念は、本ノート-61(TCS-4)に紹介したように、ハネウェルのダリモンティという技術者が70年代初期、Oil&Gas Journal誌に“将来の計器室”構想を示し、そこで“コックピット(飛行機の操縦席を模した)・オペレーション”と称していたものを実現したものと言っていい。プラントの運転状況を表示するディスプレー(TCS着手時は液晶やプラズマ・ディスプレーが実用化されていなかったのでCRT;電子管)を二段に重ね、手元にはキーボードや専用スウィッチがあるだけのすっきりしたデザインのもので、コンソールの機能に制約が多く計器をびっしり並べた筐体が併設される第一世代とは全く異なる運転環境を作りあげた。
 出発点となるBTX向けコンソールは横河電機の委託を受けた工業デザイナーと和歌山のプロジェクトリーダー、MEDさんの共同作品である。その対象はコンソールに留まらず、部屋の什器備品・彩色・照明などにもおよび、三交替職場と言う過酷な労働条件とは無縁な世界を具現化した。数多くのプロセス工業に製品とサービスを提供してきた横河にとってもこれだけモダンな運転センターは珍しく、それが社内で注目される。これをTVコマーシャルに使えないかと。
 東燃には機密保持などの問題があり、当初は無理と考えられていたが、コンソールは横河の製品でもありプラントやデーターが画面に現れないなら良かろうと言うことになり、広告作りプロジェクトが進められた。説明役には当時売れっ子の漫画家、はらたいら氏の起用が決まり和歌山でヴィデオ撮りが行われ、こういう場所には縁の無かったはら氏が大いに感激したと言う話も伝わってきた。東燃も横河も一般TV視聴者とは縁の無いビジネスをしていることから、それぞれの社内でも期待するところが大きかった。しかし、そのような事業環境はTV・広告業界には無理が効かず、地方局でしか流すことが出来なかったのは残念であった。
 さて、今回で現場におけるTCSの話題を終えることになるが、最後にその効用がプロセスクレジット・省力化以外のところにも広がったことを記しておきたい。それはプラント運転員の士気(意欲)の向上が経済性改善につながったことである。私が入社するはるか以前から業務改善に対する提案制度があった。確か1~6等級位までだったと思うが、なかなか1,2級は出なかった。しかしTCS導入後これが出るようになり、全体の平均等級がアップしたのである。もともと運転員は肌で覚えたプラント特性があり、運転技術に関しては経験の浅いエンジニアの及ばぬ領域があるのだが、TCSの導入によりその経験が身近に得られるデータに裏打ちされ、優れた提案を生むようになったのである。この辺りの使い方は日本ならではの効用と言えよう(実は、ACS販売は日本が突出、外国は全部合わせてもその半分もいかなかった)。TCSはシステム周辺で働く技術者だけでなく、工場運営に欠かせぬ道具へと成熟していくのであった。
(次回予定;TCSをビジネスに)

2011年10月18日火曜日

決断科学ノート-94(大転換TCSプロジェクト-31;和歌山工場導入-5)

 前回“訂正”で述べたように、ヴェンダーセレクション以降の時期・時間を勘違いしているところがあったので、TCSへの最初の更新であるBTXプラントが新システムで動き出すまでの経緯を再整理してみたい。
 ヴェンダーセレクションは1981年年初までには目途がつき、ACS(SPC;高度制御システム;IBM製品)とCENTUM(DCS;分散型デジタル制御システム;横河電機製品)を一体化システムとしてTCS(東燃コントロールシステム)の開発が1981年春から始まる。中央開発チームがERE(エクソンエンジニアリングセンター、米国ニュージャージー)に向かったのは4月である。当初の予定では、米国での開発(教育訓練を含む)作業が終わるのがその年の12月。1982年初めからは作業場所を横河(三鷹)に移し、ACS-CENTUM(工場導入実機システム)の結合テストを行い4月にはそれを終えて、和歌山に持ち込む。あとは年末のスタートアップに向けて、現地でアプリケーション開発を行うことになっていた。しかし、米国での作業は遅れ、結局TKWさんとITSさんは現地で年を越すことになり、国内開発態勢整備のためYNGさん、TJHさんが先に帰国することになった。10月末くらいから年初にかけての中央開発チームの状況は、休日は無論クリスマスも新年も無い過酷なもの、加えてトレーラーハウスという悪作業環境の中で精神的にも追い込まれ、チームは崩壊寸前だったとあとから聞かされた。
 中央チームの全メンバーが国内に揃うのは1982年2月から、それに和歌山のメンバーを加えて、更に日本IBMと横河電機のスタッフも交えて5月まで結合テストとその虫出し・修正が三鷹で続く。5月連休明け(メンバーに連休は無かったが)新システムは和歌山に向け出荷されるが、メンバーも同時に和歌山に移り、現地作業を継続する。アプリケーションエンジニアが加わるとまた新たな問題点が露わになる。結局中央チームが本籍である本社に戻るのはBTX切換えが順調に済んだ1982年末であった。実はこの前年9月私は20年にわたる長い工場勤務ののち初めて本社に異動、形式的(実質的には情報システム室次長でプロジェクトリーダー兼務のMTKさんが管理していた)にはこの中央チームメンバーの上司(情報システム室数理システム課長)になったのだが、彼らとゆっくり顔を合わせるようになったのもBTXスタート後である。
 BTX(ベンゼン・トルエン・キシレン;合成繊維原料や各種溶剤)がトップバッターに選ばれ、それが順調に進んだのにはそれなりの理由があったからだろう。過日中央チームの一員であったYNGさんとあるセミナーで会った際「何故BTXがトップだったんだろう?」と問いかけてみた。答えは「BTXが最終製品を作る仕上げのプラントであること(従って独立性が強く、もしトラブルを起しても他プラントに及ぼす影響が少ない)」それに「初代のコンピュータが導入され、付加的な設備増強や作業が少ないこと」ではないかと言うものであった。納得できる理由である。
 順調なプロジェクト推進の主因は人にあったという気がする。プロセスコンピュータ基盤技術に関して当時全社を通じてトップと言っていいTKWさん、コンピュータから計装まで幅広い知識を有し綿密な切換工事計画を作り上げ実行したMEDさんのプロジェクトエンジニアとしての能力の高さ、和歌山工場のプロセスを熟知し高度制御分野で経験豊富なアプリケーションエンジニアのTKZさん。いずれも30代後半、脂の乗り切った第一人者三人がその任に当たり、あらゆる困難を乗り越え、計画を予定通り実現したのだ。

訂正.:ヴェンダーセレクションを1980年としているのは誤りで、1981年でした。それ以降の派米チームの苦悩も1年近くずれ、和歌山工場への持ち込みは1982年秋、最初のプラント、BTXの切換えは同年12月になります。訂正し、お詫びいたします。

(次回予定;“和歌山工場導入”つづく;BTX運転開始以降)

2011年10月13日木曜日

決断科学ノート-93(大転換TCSプロジェクト-30;和歌山工場導入-4)

 歴史のある和歌山工場のもう一つの弱点は計器室の多さだった(結果として人も多い)。昔はプラントを作るたびにその近くに計器室(兼運転員の待機室)を建ててきた。1960年代半ば以降建設のプラントでは、プラント自身が統合されるので、従来なら複数の計器室になるものが一つになり、係や課も少なくなっていたが、それ以前のものは一直(チーム)数人のオペレータのプラントでも計器室が在ったくらいである。
 TCSプロジェクトが始まった頃には計器室の数は18もあり、工場中に散在していた。グラスルート(更地)で建設するならば、二つ(オンサイト、オフサイト各一)で充分だろう。和歌山工場ではプロジェクト開始時、真剣に18を一つにする案の可否・是非から検討を始めている(工場の中心部あるいは本事務所に全ての運転室を統合する)。さすがにこれは無理で(中心部に充分な用地を確保できない。本事務所の位置は主要プラントから遠すぎる)、四ヶ所に運転センターを設ける案に落ち着いた。名称上(実際には石油化学、動力などのプラントも含む)は、燃料油第1・燃料油第2・潤滑油・オフサイトである。ただ、工事上は一気に四ヶ所に集約することは得策ではなく、一旦既存計器室にTCS用オペレータズ・コンソール(運転操作卓)を設置し、数年後にこれを移設統合する二段階方式が必要なプラントもあって、最終形態になるまでには10年(1982年から92年まで)を要している。
 このような段階方式が可能になるのは、TCSによるプラント運転がコンソールのみで行えるようになったからである。従来のパネルや筐体方式ではその移設が難工事で、経済的にもプロジェクト的(特に時間)にも実質不可能であったろう。コンソールの場合はそれだけを移設すればいいので(ケーブル延長工事はあったが)、容易にどこへでも移動させることが出来るメリットをフルに活用できた。
 この計器室統合に併せて運転・管理方式変更、そして組織改編が当然行われる。小プラントの運転は兼務にし、異常時の応急対応方針を少人数で出来るよう変えるなどして要員減を図るのだ。組織では特に係が大幅に減る。ただ係の日勤者は係長と日勤スタッフ数人で構成されるのでそれほど大掛かりな減員はない。大きく効くのは交替職場の要員を減らせたときである。交替職場は複数のチームで構成される。今は労働時間が短縮されチームの構成が複雑になっているが、昔は4チーム方式だった。Aチームは朝8時から夜8時まで、Bチームは夜8時から朝8時まで、Cチームは翌日の勤務に備えて休養中、Dチームは公休を取っている、と言う具合である。
 もし1チームの仕事を一人分減らすことが出来れば4人の減員が可能になる。ただそれには何人かの仕事量をそれぞれコンマ以下減じ(0.X人分)、それ加算して一人分にしても実現は出来ない。人間は分割・合成できないからだ。仕事の内容を整理し、確実に一人減らせる運転方式を作り出す必要がある。ここが運転要員合理化のポイントなのだ。
 和歌山TCSプロジェクトでは始めてから更新だけで10年かかることになるが、600名強の要員(配員は教育などもあり若干多い)を400人強まで約200名減らしている。“What’s New?”はこうして確実に見えるものになったのである。

訂正.:ヴェンダーセレクションを1980年としているのは誤りで、1981年でした。それ以降の派米チームの苦悩も1年近くずれ、和歌山工場への持ち込みは1982年秋、最初のプラント、BTXの切換えは同年12月になります。訂正し、お詫びいたします。

(次回予定;“和歌山工場導入”つづく;BTX運転開始とそれ以降)

2011年10月9日日曜日

決断科学ノート-92(大転換TCSプロジェクト-29;和歌山工場導入-3)

 この次世代プロコン導入の機会にプラント運転管理体系の近代化を進めたい。和歌山工場の願いを実現するためには、新設や最新工場の更新とは異なる付加的投資に費用がかかる。これをどう回収するかが最大の課題である。プラント操業(顧客サービス向上のような周辺関連業務を除く)に限定すれば、それはプロセスクレジットと省力化(人員削減)の二点に絞られる。省力化についてはのちの“計器室統合”で説明するので、ここではプロセスクレジット(Process Credit)について、和歌山工場を主体に解説を試みたい。
 後年石油精製・石油化学業界の人たちとビジネスで付き合うようになり、この言葉を使うと意外と通じないことが分かった。どうやらExxon技術用語のようなのだ。プロセスは一般的には過程・工程、工場では生産工程と言うことになるだろう。これを実現するための装置がプラントである。クレジットは評判や信用(クレジット・カードのように)が訳としてはよく使われるが、会計用語として“貸し方に記入する”“払い戻す”というのがあり、この辺が出典ではないかと考える。つまり投資に対するリターンと言うことになる。“生産工程から得られる経済的リターン”がプロセスクレジットの意味と言っていい。
 同じ原料(原油)・プラントで生産活動を行っているのに使用エネルギーが少なくて済む。あるいはより付加価値の高い製品を多く生産できる。運転の仕方によって、プラントの稼働率向上や触媒の活性度低下が延長出来るのもこの範疇に入る。
 石油精製や石油化学では蒸留や分解が主な生産工程を構成する。そこに使われる熱は膨大な量に上がるが、一方で処理されたものを保存するためには常温まで温度を下げる必要がある。加熱と冷却を繰り返す間に熱が無駄に消費される。このようなことを避けるためには、複数の装置を一つにまとめ熱の有効利用を図ることが望ましいが、比較的小さな装置を、時間をかけて建設してきた和歌山では、この面でも川崎の大規模統合プラント群とは差がついてしまう。一つの装置に留まらない前後の装置を含めた運転・制御体系の改善が必要になるのだ。
 このようにプロセスクレジットの材料はプラントを構成する一つ一つの機器制御から複数のプラントに跨る複雑な運転システムまでいたるところに存在する。次世代プロコン導入を契機に計測・制御システムを増強して、それまで手がつけられなかったプラント運転制御方式を開発運用して、工場全体の生産性を改善する。これが利用面からの“What’s New?”に対する回答であり、これこそ新システムが生み出す直接的・具体的利益なのである。
 これだけは他社から出来合いのものを買ってくるわけにはいかない(現在ではこのようなサービスをビジネスにする企業もあるが、それでも自社での開発運用体制は不可欠である)。長い時間をかけデーターを収集分析し、プロセスの特性を数理モデル化し、それに適した制御方式を開発する。次世代システムが決まる前から、限られた環境下(プラントによっては手で集めたデータ)で経済性推算のための努力が重ねられ、システム更新後直ちに実用に入れるようアプリケーションを開発していく。そのまま実用に供することの出来るものは少なく、運転環境に合わせてモデル改定やチューニングが必要になる。
 この仕事を担当するのはアプリケーションエンジニア(AE)と呼ばれる人たちで、化学工学と制御工学、二つの領域のバックグラウンドが必要である。しかし、なかなかこの二つを備えた人材を新人で採用するのは難しく、どちらか一つを専攻した者の中から育てていくしかないのが当時の状況であった。和歌山プロジェクトでは、入社以来和歌山工場勤務で、FCC(重質油分解装置)の複雑な最適化制御システム実用化などに実績のある制御専攻のTKZさん、第一世代SPC実績(これが更新のための投資リターンとしてカウントされる)作りを加速するために川崎から異動した、化工で制御を学んだMURさん(二つを学んだ数少ない専門家)の二人が活躍することになる。彼らは当時この分野のエース級であり、この更新プロジェクトにかける全社的な期待を担っての登用であった。

訂正:ヴェンダーセレクションを1980年としているのは誤りで、1981年でした。それ以降の派米チームの苦悩も1年近くずれ、和歌山工場への持ち込みは1982年秋、最初のプラント、BTXの切換えは同年12月になります。訂正し、お詫びいたします。
(次回予定;“和歌山工場導入”つづく)

2011年10月6日木曜日

決断科学ノート-91(大転換TCSプロジェクト-28;和歌山工場導入-2)

 次世代導入に対する問い、「次は何が新しいんだ!?」 その第一の着眼点はプロセスクレジット(省エネルギーや収率アップなど)の更なる追求にあった。大型プラントの新規制御適用を一層進めると伴に、コンピュータ制御の対象を中小プラントにも広げ、かつ相互につながるプラントの総合的な運転効率を上げていくことにある。加えて次世代プロコンの上位に在る工場生産管理用コンピュータへの情報を増やし、経営指標(原単位や品質ロス;過剰品質によるロスなど)向上にも活用できる環境を整えることが期待された。この根本をなすのが計装(計器や信号の伝送系)システムの更新・増強である。
 古い工場・プラントの全面的コンピュータ化には、超えなければならないいくつかのハードルがある。先ず、計測点を増やすこと;古いプラントでは温度計、圧力計、流量計など基本的な計測のためのセンサーが最新のものに比べて著しく少ない。きめ細かい管理・制御を行うためにはこれらを増強しなければならない。次いで、それらの測定結果を計器室で把握できるよう遠隔化を図ること;古いプラントでは運転員が巡回時現場でデータをチェックしそこでアクションを行う現場型計器が多いが、これではタイムリーに情報処理が出来ない。そのために信号を遠隔伝送する仕組みを整える必要がある。三番目はその伝送方式を電子化すること;古いプラントでは、遠隔化はされていても、電子部品や機器の信頼性、価格、安全上の問題から長く空気式計器・配管による計測・信号伝送が採用されてきたが、このままではコンピュータに繋がらない。電子式機器に置き換えたり、変換器を付けたり、電線ケーブルを用いた伝送方式に全面的に置き換えたりすることになる。第四に古い工場は現場工事に制約が多い;段階的新増設で入り組んだプラント配置、輻輳する地中・空中を走る配管や配線、工事には余計な費用・時間がかかる。当然それだけ投資額が増える。R&R(修理・置換え)予算で済まない理由はこのような点にある。プロジェクト推進のためにはそれに合った創意工夫が必要だ。
 先ず予算面では、比較的更新費用がかからず、利益の出しやすいプラントが改善効果の劣るプラントをカバーするよう資材の調達や工事の仕方を考える。のちに取り上げる計器室統合の組み合わせや、それによる運転方式の改革で、小規模プラントの運転を大規模プラント運転要員で行える体制を作り出す、などがその代表例である。
 予算の次は更新工事である。次世代システムへの置換えの節目になるのは定期点検修理(NSD;Normal Shut Down)の時期である。1970年代中頃までは主要プラントの高圧ガス保安法に基づく連続運転期間は1年であったが、その後2年に延長された。それだけ大掛かりな工事を行うタイミングは減り、反対に工事量は増える。生産性を考えれば工事期間を無闇に延長できない。場合によっては一回前(2年前)のNSDで事前工事をしておく必要さえ生じる。従って、工事のスケジューリング、段取りには綿密な計画と実行が要求される。
 長期にわたる工場全体の更新計画は、このNSDを何度か経ながら実行されるので、それに関わる、予算・要員・時間・資材調達・工事のマネージメントは新設プラント建設に比べ倍する知恵と汗が求められるのだ。和歌山でこの役割を担ったのはMED(A)さんと言う優れたプロジェクトエンジニアである。計器室やオペレーターズ・コンソール(プラント運転操作卓)の設計に優れた美的センスを発揮する傍ら、この複雑な更新プロジェクトを計画通り完成させたことは「お見事!」と言うほかない。
(次回予定;“和歌山工場導入”つづく)

2011年9月29日木曜日

決断科学ノート-90(大転換TCSプロジェクト-27;和歌山工場導入-1)

 次世代プロセス制御システム、TCS(Tonen Control System)について、システムそのもの(道具)の話が長く続いた。ここからは話題をその利用面に転じていきたい。
 1962年に入社して7年少々和歌山工場に勤務した。当時の東燃にあっては川崎工場が最新鋭であったが石油精製に関しては石油化学への原料供給部門の色彩が強く、精製の主力は依然として和歌山にあった。人材も豊富で錚々たるメンバーが揃っていた。プロジェクト計画が立ち上がると、大小に関わらず「こんどはどんな新しい技術があるんだ?」と部課長に問われたものである。しかしこう問いかけるからと言って、新しい技術ならばすんなり受け入れられるわけではなく、その効用を厳しくチェックされるのが常だった。焼き入れ焼鈍しを繰り返し、何度も叩かれてプロジェクトも人も鍛えられる。そうして実現した一つが初代のSPC(Supervisory Process Control;主に高度なプラント制御で利益を生む)/DDC(Direct Digital Control;比較的単純な制御を専用コンピュータだけで行う)システムである。
 この初代システム導入でプロジェクトエンジニアを務めた者として、外野(川崎工場)に在っても、もう一度チャンスがあればあれもこれもとの思いは多々あった。進歩の早い情報技術 に携わっていればいくらでも“新しい”夢は膨らむものなのだ。しかし、現実は二度の石油危機を経て和歌山工場の歴史の長さと相俟って予想以上に厳しい状態に置かれていた。「今度は何が新しいんだ?!」は道具そのものではなく、専らその使い方を徹底追究する視点に変わってきていたのである。それも工場の若手を鍛えるのではなく、経営者・管理者が自らに問いかける課題としてである。
 どこの製造業でも同じ目的・形態の工場が複数あるとその比較が行われる。工場経営者・管理者の成績表とも言える。Exxonはそれをグロ-バルに行っている。エネルギー利用効率、人員数、保全費、連続運転時間、事故発生件数など比較項目は多岐にわたる。和歌山工場は安全では抜群の成績を長期に続けるなど優れた指標もあったが、省エネルギーや人員数では見劣りがしていた。古い工場ゆえのハンディキャップであることは本社やExxonも理解はしていたが、工場としては少しでもこれを改善したいと願うのは当然である。石油需要が飽和し、全面的な設備更新など考えられない環境下で、この次世代プロコンシステム導入を機に工場経営の改革・改善を期待する空気が一気に高まった。
 ポイントは二つ、プロセスクレジット(省エネルギーや収率アップなど)の更なる追求、人員合理化の徹底である。前者では、第一世代では大型で比較的容易に効率改善につながるプラントのみ行ってきたコンピュータ制御の対象を中小プラントにも広げ、かつ相互につながるプラントの総合的な効率を上げていくこと。後者では、多数散在する計器室を集約し、併せて運転体系を見直して合理化を図ることがその中心的なテーマとなった。しかもこれらを連携させ、さらなる相乗効果をも目論む。目指すのは“古い設備を使っての新しい工場経営”である。
 本来設備償却期限に達した設備の取替え予算は、新設と違いR&R(Repair and Replacement;修繕・取替え)の区分になり経済性はそれほど厳しく問われない。しかし、この和歌山工場の挑戦は単純なR&Rの範疇では片付かず、これを実現するには幾多の困難があったのである。

(次回予定;“和歌山工場導入”つづく)

2011年9月22日木曜日

決断科学ノート-89(大転換TCSプロジェクト-26;派米チームの苦闘-4)

 国内初導入のACSを確り理解してくる。派米チームのSE全員に課せられた使命である。何か不都合があったときには、自社で診断・処置(少なくとも応急的な)を出来ることが求められるレベルである。なにしろ日本IBMですらOSKさん一人しかSEは居らず、彼も東燃メンバーと一緒に教育訓練を受けている状態なのだから、しばらくの間は自前の対応能力が不可欠なのだ。
 ACSはそれまでのプロセス・コンピュータ(プロコン)とは違い、世界の大型汎用コンピュータの事実上の標準機、IBM370系(360→370(当時)→3090、中型機;4300)の上で動くシステムだ。汎用機の歴史は長く、応用範囲も広い。プロコンとは全く違う、バッチ処理(個々のアプリケーションを一づつ順番に処理する)で大量・複雑な計算処理を行う。それに対してプロコンは、実時間で起こる状況に即した情報処理を行えなくてはいけない(順不同のリアルタイム処理)。基本的な性格が違うのだ。何故そんなものを使うのか?詳しい説明は省くが、汎用機はマーケットが桁違いに大きいので技術開発の進歩が早く、かつ継続性に優れている(古いソフトがいつまでも使える)。また利用状況に応じたサイズの選択や拡張性の幅が広い。
 この利点をリアルタイムの世界で享受しようと最初に考えたのはNASAである。そのためにはバッチ処理をベースとする汎用機基本ソフト(O/S;VM、MVSなど数種類あり、目的・容量によって使い分ける)とリアルタイムで動く適用業務をつなぐソフト、リアルタイムO/S(いずれの汎用機O/Sとも連動する)が必要になる。ここで開発されたのがSRTOS(Special Real Time O/Sの略か?)と呼ばれる特殊なO/Sである。つまりアプリケーションは、ACS・SRTOS・汎用機O/Sと三階層の基盤の上で動くのだ。派米チームメンバーは第一世代の専用機のリアルタイムO/Sには通じていても、汎用機のO/Sを扱った経験は無い。技術者としての苦労がそこにも在った。
 IBMのACS専門部隊はNASAとの関係もあってかヒーストンに活動拠点があった。石油業との関係でも最適の場所だ。ACSがIBMとExxonの共同開発となったのも、この地の利も関係しているかもしれない。派米チームとACS部隊との交流が始まり、現地からのレポートに専門家同志の信頼関係醸成の雰囲気が伝わってくる。しかし、ニュージャージとヒューストンでは距離がある。“何かあったら、いつでも”と言うわけには行かない。そこに現れた助っ人がIBM NJオフィス(EREも顧客の一つ)のMauro Castelpietra(マウロ)である。
 マウロはイタリア人、イタリアIBMに入社後その高いプログラミング能力を認められ米国に派遣、いつからACSに関わるようになったかは不明だが、この時は既にACSのスーパープログラマーとしてExxonの関連業務に深く関わっていた。TKWさん、YNGさん、ITSさんから聞かされたところでは、「ACSのみならず、三階層のソフトが完全に頭に入っている」と言うことであった。当にACSのレオナルド・ダ・ヴィンチである。和歌山にACSが導入されると来日の機会も増え、多くの日本人SEが彼の高い能力に魅入られるようになる。
 このIBM専門家との交流を裏で支えてくれたのがMichael Bareau(マイク)というERE担当営業である。彼は英国人、これも母国から米国に移り何とマンハッタンに居を構え、NJに毎日出勤していた。東燃にACSが導入され、それが国内他社にも採用されるようになると、日本での成功例を世界にPRする仕掛けを考えてくれたのも彼である。
 このような交流は一方的に東燃が学ぶばかりではなく、彼らにこちらの技術力・プロジェクト実行力の高さを認識させる機会にもなった。のちにTCSを外部ビジネスに出来たのも、この時の派米チームの努力のお陰である。

後日談;
 マウロはIBM退職後イタリアにもどったが、ACSユーザーのために今でも自宅をベースにコンサルタントを続けている。2008年10月彼の家を訪ね一宿二飯の恩義に預かった(本ブログ、篤きイタリア-1(カテゴリー;海外、イタリア)参照)。
 マイクはIBM退職後OSI Software社(日本の総代理店は数年前までSPIN)の営業などを行っていたが、本年5月28日大腸がんで亡くなった(74歳)

P.S.;派米チームの活動については直接関係する立場にはなかった。従って同チームに関わる話題は、派米メンバーが送ってくれた公私信(手紙)や中間で訪米し現地での課題整理・慰労に当たったMTKさんらの話しに基づいています。年月も経ち、記憶が定かでないこともあって、不正確な点(特に、時期・人名・所属・役職)が多々生ずる恐れがあります。本ブログの読者でこれに気付いた方は下記メールアドレスに修正情報をいただければ幸いです。逐次記事の中でそれを正して行きたいと考えていますので、よろしくご協力をお願いいたします。

メール送付先;hmadono@nifty.com
(次回予定;和歌山工場導入)

2011年9月15日木曜日

決断科学ノート-88(大転換TCSプロジェクト-25;派米チームの苦闘-3)

 日本初のACSの導入、それとCENTUMとの結合を5月中に完成させると言うミッションの他にも派米チームを煩わせる仕事があった。最初のシステムの適用先は和歌山の石油化学プラント、BTX(ベンゼン・トルエン・キシレン)製造装置になるが、ここへの設置とその後の運用・メンテナンスは、中央サポートチーム(派米チームとメンバーと重なる)の他に、これらプラントや既存(第一世代)システムをよく知るメンバーが日常的に当たることになっていた。その保守要員の教育訓練を、スケジュールの関係で、EREで行うことになった。派米チームは自ら新技術を学びながら一体化システムを開発し、さらに彼らのサポートもしなければならないのだ。
 この計画がいつどのように決まったのか記憶が定かではない。しかし、5月帰国後実機の結合テストを横河(三鷹)で行い、それを和歌山に移して現場設置・繋ぎこみとテスト。それが済むとアプリケーション・エンジニアによる個々のアプリケーションの新規システム組み込み・既存システムの移設(ロジックは同じでも書き換えが必要)、プラント運転員の操作訓練を終え、9月には新システムでスタートアップしなければならない。また日本IBMすらACS専門家養成のため、要員を派米していたくらいだから、国内での教育コースなど開ける状況に無かった。トレーニングはこの時期に米国で行うしかなかったと言える。
 メンバーとして選ばれたのは、当時SPCの面倒を見ていたMYHさん、計装でDDC保守を担当していたKTAさん、工場生産管理システム開発に従事してIBM汎用機に詳しいYSKさんの三人である。これらの人たちは、もともとプラントの運転員や計器の保守員として採用され、適性を認められコンピュータ関係の職種に転じた経緯を持つ。従って、コンピュータ言語については詳しいものの、日常的に英語に触れる機会はほとんど無い環境で過ごしてきた。突然長期(確か二ヶ月くらい)米国出張を命じられ大いに戸惑ったに違いない。
 教育はIBMのACS専門家によって行われる。言葉は当然英語である。内容によっては先発の派米チームや日本IBMの担当者も同じクラスに参加して講義を受ける。つまり中身もきわめて高度なものである。少々の英語に関する知識・経験があったとしても容易に理解できるものではなく、その苦しみは想像に難くない。多分それは教える方にもあったのではなかろうか?やがてこの和歌山チームは“Wait(Stopだったかもしれない)”と言う看板を用意し、分からなくなるとこれを掲げて講義を止めて、先発メンバーの力を借りながら、その不明を質したという。
 こうした場面での負担は主に、TKWさんとYNGさんの二人にかかってくる。この時期の滞米メンバーの中で、英語力が抜きん出ていたからである(無論専門分野でも優れているが)。TKWさんは高校時代一時AFS(アメリカン・フィールド・サービス;高校生版フルブライト留学)に応募することも考えたほどだし、YNGさんはこれに先立ちプロセス・エンジニアとしてEREに長期派遣(確か2年)されている。
 この苦労はトレーニングに限らず、当然日常生活にも及んでいる。買い物、食事、偶の息抜き。送られてくる手紙の端々に、精神的に張り詰めている状態が伝わってきた。現地ではもっとピリピリしていたに違いない。
 これは後日談になるが、TCSを主力製品・サービスとする新規事業を立ち上げ、展開する中で、先発派米チーム、和歌山チームの面々が大活躍することになる。この時の苦しい局面を耐え、突破できた体験がそれに生かされていると確信させられた。

P.S.;派米チームの活動については直接関係する立場にはなかった。従って同チームに関わる話題は、派米メンバーが送ってくれた公私信(手紙)や中間で訪米し現地での課題整理・慰労に当たったMTKさんらの話しに基づいています。年月も経ち、記憶が定かでないこともあって、不正確な点(特に、時期・人名・所属・役職)が多々生ずる恐れがあります。本ブログの読者でこれに気付いた方は下記メールアドレスに修正情報をいただければ幸いです。逐次記事の中でそれを正して行きたいと考えていますので、よろしくご協力をお願いいたします。

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(次回予定;“派米チームの苦闘”つづく)

2011年9月8日木曜日

決断科学ノート-87(大転換TCSプロジェクト-24;派米チームの苦闘-2)

 派米チームの仕事は、次世代プロセス・コントロール・システムを構成する二つのシステム、ACS(IBM製品のSPCシステム;Supervisory Process Control)とCENTUM(横河製品のプラントに直結するDCSシステム;Distributed Control System)を統合したシステムとして動くようにすること、新システムのアプリケーション基盤を細部まで理解し、場合によって第一世代で使われてきた各種の約束事を次世代でも動くようにACSの標準ソフトに手を加えることなどであった。
 SPCとDDCを一体化することは第一世代でも行われていたが、その一体化機能はかなり制約が多く、日進月歩するより高度なコンピュータ利用のためには多くの改良が必要だった(第一世代ではDCS(分散型)ではなく、DDCと呼ばれる集中型のディジタル制御システムを使用)。その要は二つのシステム間の通信機能である。
 これは、SPCとDCSと言う言語の違う二人の人間の間のコミュニケーションを取り持つようなものだが、第一世代が辞書を用いる初級通訳なら、第二世代は人の顔色まで読みながら行う同時通訳ほどの違いがある(速さ、情報の種類・量、状況変化への対応など)。それ故に二つのコンピュータの内部の仕組み・動きを完全に理解していなければならない(通訳なら単語(とその使い分け)・文法・発音など)。これだけでも大変な学習を要するのに、さらにアプリケーションの内容を確り理解していないと実用にならない(専門用語の分からない通訳では困る)。
 この機能はどちらかのコンピュータ(SPCまたはDCS)に全て任すことも理論的には可能だが、こうするとその機能を引き受ける方は、本来の標準機能処理に影響を受けるので望ましいやり方ではない(第一世代ではそうせざるを得なかったが)。幸い、IBMは当時の世の流れ(ミニコンピュータの普及)に合わせて、シリ-ズ1(S/1)と言うミニコンを発売していた。これを二つのシステムの間に挟み、同時通訳の役割を負わせることにした。これで二つのコンピュータは標準機能で動き、通信のための特殊な機能はS/1が受け持ち、全体が効率よく動けるようになる。
 S/1上の通信ソフトはACS(汎用機の上で動く)の手足となる部分はIBMが、CENTUMとのインタフェース部分は横河がプログラム開発を行ったが、一体化システムとしての全体開発責任は東燃にあった。またこの時期、同じようにS/1を介在してACSとDCSを繋ぐ二つのプロジェクト;カナダのサーニア製油所向け(ハネウェル製DCS)、ヴェネズエラのラゴベン製油所向け(フォックスボロー製DCS)がEREで進められていたので、三つグループの設備利用の調整も仕事に加わることになる(それぞれが競い合い、派米チームから“ACSオリンピック”と伝えてきた)。従って海外での自社向け環境整備とプロジェクト・マネージメントを併せて行わなければならない担当者、特にチーム・リーダー、TKWさんの苦労は並大抵のものではなかったようだ。
 3月頃だったと思うが、滅多に弱音をはかないTKWさんから「なかなか思うようにことが進みません。まるで孤軍奮闘の駆逐艦長のようです」と言う私信をもらった時、「随分追い詰められているな!」と痛感し、プロジェクトリーダーのMTKさんに報告したくらいである(因みに、TKWさんの父上は駆逐艦電(いなづま)艦長、1944年5月セレベス海で米潜水艦ボーン・フィッシュの雷撃で沈没、戦死されている)。
(次回予定;“派米チームの苦闘”つづく)

P.S.;派米チームの活動については直接関係する立場にはなかった。従って同チームに関わる話題は、派米メンバーが送ってくれた公私信(手紙)や中間で訪米し現地での課題整理・慰労に当たったMTKさんらの話しに基づいています。年月も経ち、記憶が定かでないこともあって、不正確な点(特に、時期・人名・所属・役職)が多々生ずる恐れがあります。本ブログの読者でこれに気付いた方は下記メールアドレスに修正情報をいただければ幸いです。逐次記事の中でそれを正して行きたいと考えていますので、よろしくご協力をお願いいたします。
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